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「天の御国のたとえ(5)」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、4章26~29節 イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」すと言われました(26節)。これが「人手によらずに育つ種のたとえ」です(27~29節)。これは、最初の「種蒔きのたとえ」と対になっていると思われます。 そしてイエスは、「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」と弟子たちに言われました。彼らが、「はい」と言うと、イエスは、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す「一家の主人のたとえ」を話されました(マタイ13章51、52節)。 一、人手によらずに育つ種のたとえ イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので……す」と言われました(26~28節)。 ここで言う「神の国」とは、ペンテコステからキリストの再臨までの教会(教会時代)のことを指しています。「人」は、第一義的には、「かまを入れ」るという刈り入れのことを考えると(29節)、キリストのことです。しかし伝道するキリスト者にも当てはめることができるでしょう。「地」は人の心を、「種」は神の言葉を表しています。 キリストとその弟子たちによって蒔かれた神の言葉という種は、「朽ちない種」(第一ペテロ1章23節)であり、それ自体に、神の生命を持っています。ですから、それは「人手によらず」に「芽を出して育ち」、「実をならせる」のであり、人知をはるかに越えた神秘的なものです(27、28節)。 「生命」というものは、それが肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、そしてこのような救いをもたらす霊的な生命であれ、神に属するものであり、人の力の及ばないものです。 人が子どもとして生まれ、肉体的には大きくなり、精神的には知恵がついて成長していくことができるのは、その子ども自身に生命があるからであり、その子が与えられている生命の力によって自ら成長しない限り、ほかの人は、どうすることもできません。 そのように、人が福音を信じて新しく生まれ、キリスト者として成長していくことができるのは、その人自身に霊的な生命があるからであり、その人が与えられている霊的な生命の力によって自ら成長しない限り、ほかの人は、どうすることもできないのです。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによ」って生きる者です(マタイ4章4節)。ですから神の言葉を信じて、神から霊的な生命を与えられることほど大切なことはありません。 二、一家の主人のたとえ イエスは、「天の御国のたとえ」の締めくくりとして、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」と言われました(マタイ13章52節)。 「学者」は、神の言葉を学んで、それを説き明かす者です。ですから、「倉」は聖書、「新しい物」は新約の教え、「古い物」は旧約の教えを指しているのでしょう。 旧約聖書 新約聖書◇準備 ◇完成◇萌芽 ◇開花・結実◇模型・ひな型・影 ◇実体・実物◇具体的な実物教訓 ◇抽象的な霊的真理 キリストの弟子は、天の御国の奥義を教えている神の言葉を学んで、それを説き明かす学者として、旧新約聖書の教えをとらえて、それを語ることが求められているのです。拙著「キリストの生涯の学び」63「天の御国のたとえ(5)」より転載
2008.06.30
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「天の御国のたとえ(4)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章44~46節 イエスは、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」と言われ、「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです」とも言われました(44、45節)。 「弟子たちは、種蒔きのたとえにおいて、蒔かれた種の中で四分の三は実を結ばず、ただ四分の一だけが実を結んだことを学び、毒麦のたとえにおいては、実を結んだと見える麦の中に毒麦が混じっていることを学びました。それでイエスは、弟子たちが失望しないように、からし種とパン種のたとえを語り、確かにその始めは小さくても、その終わりは、大樹のようにその枝を全世界に広げ、パン種のようにその感化は全世界に及ぶことを教えられたのです」(クリュソストムス)。 しかし人は、この大樹の陰に来ても、このパン種の感化を受けても、それだけでは天の御国にはいることはできません。 主は、「畑に隠された宝」と「良い真珠を捜している商人」のたとえを通して、天の御国という最も値うちのある宝や真珠を見つけた者は、持ち物を全部売り払ってそれを買うように、あらゆる犠牲を払っても「それを個人的に自分のものとしなければならない」と教えられたのです(R・C・トレンチ)。 一、畑に隠された宝――偶然に見つけた天の御国 このたとえは、「この世にあって望みもなく、神もない人」、すなわち「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」が(エペソ2章12、1節)、ふとしたことから神とその救いを見いだし、大喜びで信じ、何もかも捨てて神に従った人の姿を教えています。 このたとえの典型的な人は、サマリヤの女性です。彼女は、この世をすべてとして永遠のことなど考えず、神への渇きもなく、信仰には無関心でした。乱れた生活をしていたので、人目を避けて井戸に来ました。 ところが彼女は、そこでイエスと出会い、イエスがメシヤであることを知って、自分の水がめを置いて町へ行き、人々にあかしをしました。これは、「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした」と教えている聖書の言葉の良い例です(ローマ10章20節)。 二、良い真珠を捜している商人――天の御国を捜し求めている人 このたとえは、「真理とは何か」、「永遠のいのちを得るためには、どうすればよいのか」と言って、救いを求め、ついに神とその救いを見いだして信じ、すべてを捨てて神に従った人の姿を教えています。 このたとえの典型的な人は、パウロです。彼は、「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者で」した(ピリピ3章6節)。 ところがパウロは、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、自分「にとって得であったこのようなものをみな……損と思うようになり」、「キリストのためにすべてのものを捨て」ました(同3章8、7節)。これは、「神を求め……るなら、神を見いだす」と教えている聖書の言葉の良い例です(使徒17章27節)。 私たちが神とその救いを見いだしたのは、畑に隠された宝を偶然に見つけた人のようでしょうか。それとも良い真珠を捜し求めて、ついに見つけた商人のようでしょうか。前者は偶然に見え、後者は努力の賜物に見えますが、すべては神の摂理による導きです。 どちらにしても私たちは、あらゆる犠牲を払って最も値うちのある宝や真珠を買うように、天の御国を自分のものとしなければならないのです。拙著「キリストの生涯の学び」62「天の御国のたとえ(4)」より転載
2008.06.27
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「天の御国のたとえ(3)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章31~33節 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われ」ました(31節)。これが「からし種のたとえ」です。 この「からし種のたとえ」(31、32節)と「パン種のたとえ」(33節)は、対になっており、両者とも教会は、「始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる」という真理を教えています(ヨブ8章7節)。しかし両者には次のような相違点があります。 「からし種のたとえは、神の国(教会)は、公然と現れて、隠れることができないということを教え、パン種のたとえは、神の国(教会)は、人の目に隠れて、現れて来るものではないということを教えています(ルカ17章20節)。前者は、真理が内から外におのずから成長する力を示し、後者は、真理がこの世を感化する力と働きを示しています」(R・C・トレンチ)。 一、からし種――教会の現れた成長力 キリスト教会は、五旬節の日にエルサレムに集まった百二十人ほどの弟子たちに聖霊が臨まれた時に誕生しました。弟子たちは、聖霊によって力を受け、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」キリストの証人となって出て行きました(使徒1章8節)。その結果、全世界に福音が宣べ伝えられ、至る所に教会が建てられていったのです。 キリストの福音は、個人を罪から救う力がありますが、それは、さらに聖書に基づいた教育や芸術また倫理というキリスト教文化を築き、そしてキリスト教を背景にした医療や福祉また社会運動にまで広がり、ついにキリスト教国家を形成するほど発展する力を持っています。 これは、まさにキリストと弟子たちという小さなからし種が生長して、全世界的な宗教という大樹になることを教えているのです。 二、パン種――教会の隠れた影響力 しかしこのような教会の外側に現れた成長や発展は、教会の内側に隠れた感化や影響を及ぼす聖霊の働きがなければ、できるものではありません。なぜならキリスト教会の歴史は、外側からの迫害と内側からの腐敗との絶えざる戦いの連続だからです。 教会(キリスト者)は、「神のうちに隠されてある」いのち(コロサイ3章3節)というパン種を失って、内と外に良い感化や影響を与えることができなくなれば、外側からの迫害か内側からの腐敗(または両者)によって、存在することさえ危うくなるでしょう。 教会は、外側からの迫害と内側からの腐敗によって衰退と堕落の憂き目を見ましたが、そのたびに改革と復興がなされ、著しく発展していきました。これはパン種のように、教会の中に隠れた感化や影響を及ぼす聖霊の働きによってなされたことなのです。 三、からし種とパン種――教会の二面性 教会を構成している者が人間である以上、それが個人であれ、民族であれ、好き嫌いや得手不得手、また長所短所があります。そのために、ある人やある民族は、からし種のような外側に現れたものを重んじ、ほかの人やほかの民族は、パン種のような内側に隠れたものを重んじて、ともに反対のものを軽んじています。 しかし真の教会は、からし種のような外側に現れたものだけでもなければ、パン種のような内側に隠れたものだけでもありません。教会の現れた成長力(からし種)は、教会の隠れた影響力(パン種)があってこそ可能なのであり、教会の隠れた影響力は、必ず教会の現れた成長力になることを忘れてはなりません。拙著「キリストの生涯の学び」61「天の御国のたとえ(3)」より転載
2008.06.24
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「天の御国のたとえ(2)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章24~50節 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われ」ました(24節)。これが「毒麦のたとえ」です。 この「毒麦のたとえ」(24~30節)と「地引き網のたとえ」(47~50節)は、対になっており、多くの共通点があります。しかし、次のような相違点があることを見逃してはなりません。 「毒麦のたとえは、この世において正しい者と悪い者とが混在している事実を強調し、地引き網のたとえは、次に来る世において正しい者と悪い者とが分離される真理を強調しています。前者は、人は正しい者と悪い者とをえり分けてはならないことを、後者は、神は必ず正しい者と悪い者とをえり分けられることを教えています」(R・C・トレンチ)。 一、天の御国について天の御国のたとえ話に、なぜ毒麦や悪い者また悪魔が出てくるのでしょうか。天の御国または神の国とは、神が支配される所で、これには、次のような二つの面があります。 ◇現された天の御国――これはキリストの再臨後に実現する有形の神の国のことです。 ◇隠された天の御国――これはペンテコステからキリストの再臨までの教会のことです。 ここで言う天の御国とは、隠された天の御国、すなわち教会のことを指しています。しかし教会には、さらに次のような二つの面があります。 ◇目に見えない教会――全時代の全世界における真に罪から救われたキリスト者の集まりのことで、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」です(エペソ5章27節)。 ◇目に見える教会――各時代における地域的な有形のキリスト教会のことで、正しい者と悪い者が混在している不完全なものです。 二、毒麦のたとえ(24~30、36~43節) イエスは、「この世界」に「良い種」、すなわち「御国の子どもたち」を蒔いて教会を建てられますが、この目に見える教会には、「悪魔」が「毒麦」、すなわち「悪い者の子どもたち」を蒔いていきます(37~39節)。 私たちは、なぜ毒麦を抜き集めてはならず、「収穫まで、両方とも育つままにしてお」かなければならないのでしょうか(30節)。三つほどの理由が考えられます。 1.初めは麦と毒麦を区別することは難しく、毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれないからです(29節)。 2.両方とも育つままにしておけば、「不正を行なう者はますます不正を行ない……正しい者はいよいよ正しいことを行な」って、麦と毒麦の違いがはっきりとわかるようになるからです(黙示録22章11節)。 3.植物の麦や毒麦の場合は不可能ですが、人間の場合は、毒麦が悔い改めて麦になることも可能であり、反対に麦が堕落して毒麦になることもあるからです。 けれども、麦(御国の子どもたち)と毒麦(悪い者の子どもたち)が混在しているのはこの世のことであり、この世の終わりには、御使いたちが麦と毒麦をえり分け、毒麦を火の燃える炉(地獄)に投げ込み、麦を倉(天の御国)に納めるのです(30、39~43節)。 三、地引き網のたとえ(47~50節) この地引き網のたとえにおいても、目に見える教会には「あらゆる種類の魚」、すなわち「良いもの」と「悪いもの」が混在していることを教えています(47、48節)。 網がいっぱいになると岸に引き上げ、魚を選別するように、この世の終わりには、御使いたちが来て、人をえり分け、正しい者を器(天の御国)に入れ、悪い者を火の燃える炉(地獄)に投げ込むのです(48~50節)。拙著「キリストの生涯の学び」60「天の御国のたとえ(2)」より転載
2008.06.21
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「天の御国のたとえ(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章1~23節 「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられ」ました(1節)。すると大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは、舟に移って腰をおろし、多くのことを彼らにたとえで話して聞かされました(2、3節)。これが「天の御国のたとえ」です。 イエスは、まず「種蒔きのたとえ」を話されました。 一、種蒔きのたとえ(1~9節) 「種」は、動植物が発生するもとであり、生命の最小単位です。すべての動植物は、種から生まれるということができます。植物の種は、良い地に蒔かれるならば、「芽を出して育ち」、「実をならせるもので」す(マルコ4章27、28節)。すなわち種には、生命の力と発育する力と結実する力があります。 イエスは、このたとえを通して、このような力を持っている同じ種を蒔いても、その蒔かれた土地の状態によって、実の結び方が全く違うことを教えられたのです。 1.道ばたに落ちた種――「人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった」(ルカ8章5節)。 2.土の薄い岩地に落ちた種――「土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」(5、6節)。 3.いばらの真中に落ちた種――「いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった」(ルカ8章7節)。 4.良い地に落ちた種――「芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」(マルコ4章8節)。 二、たとえで話された理由(10~17節) イエスは、「なぜ、彼らにたとえでお話しになったので」しょうか(10節)。 「たとえ」というものは、抽象的でわかりにくい真理を、具体的でわかりやすい事物をもって示すので非常に効果的です。しかし、聞く耳のない者、すなわち故意に真理に目を閉じて、罪を悔い改めようとしない人には、「たとえ」は、かえってわからず、悟ることができません(13~15節)。 なぜなら宗教的な真理(神と神の啓示に関する真理)は、科学的な真理と異なり、神の聖い性質のゆえに道徳性が含まれているので、悪い心や生活を悔い改めようとしなければ、知ることができないものだからです。それは、おそらく聞く耳のない者が神の真理をけがして、これ以上、大きな罪を犯さないようにするためなのでしょう(7章6節)。 三、たとえの説明(18~23節) イエスは「たとえ」の説明をされました。「種は神のことば」であり(ルカ8章11節)、「土」は人の心を表しています。 1.道ばたの土――これは、自らを守らず、この世の罪悪の影響を受けて踏み固められた心です。しかしこれでは種は育たず、しかも、悪魔という鳥に食べられてしまいます。 2.土の薄い岩地――これは、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」感情的な信仰心、また「根がない」根拠を持たない信仰心、そして「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま」うという御利益信仰を表しています(20、21節)。 3.いばらのある土――これは「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」という「いばら」を取り除かないで、信じようとする心です(マルコ4章19節)。 4.良い地――これは、思慮深く、いばらを取り除いて、よく耕された砕かれた心です。 生命の力と発育する力と結実する力を持った神の言葉が蒔かれても、心の状態の相違によって、実の結び方も違ってくるのです。拙著「キリストの生涯の学び」59「天の御国のたとえ(1)」より転載
2008.06.18
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「父親の資格」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、2章27~30節 今日は、6月の第3日曜日、父の日です。それで、父の日に因んで大祭司エリの姿から「父親の資格」について学んでみましょう。 一、真の(霊的な)知識を持つこと 大祭司エリは、ハンナが「心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声が聞こえ」ませんでした。それでハンナが酔っているのではないかと思い、彼女を厳しくとがめました(1章12~14節)。 当時の習慣や風潮として、祈祷と言えば音祷であり、黙祷などはほとんどなかったのかも知れません。それにしても熱心に祈っている姿を酒に酔っていると勘違いしたエリの霊的な眼識のなさ、霊的な洞察力のなさは、祭司であるだけに責められるべきことです。 人間というものは、他の人の欠点はよく見えても、自分の子どもの悪いところは、親の欲目で案外気がつかないものです。他人であるハンナの霊的な状態を正しく見抜くことができなかったエリが自分の子どもたちの信仰の状態を正しく判断することができなかったのは、当然かも知れません。 エリは、人々のうわさや風聞によって子どもたちを叱っていますが(2章23、24節)、人々の風聞を聞くまでもなく、もっと早く手を打つべきでした。人間の表面や外側ではなく、本質と内側を見極める霊的な識別力がなかったならば、人々を正しく信仰に導くことはできません。 信仰者の父としてまず要求されることは、広い霊的な知識と深い洞察力です。それは、物事を正しく見分け、非聖書的、不信仰なものを取り除き、聖書的、信仰的なものを受け入れるためです。そのためには聖書をよく学んで黙想し、感情に左右されない冷静な心が必要です。人は、感情的になり、頭に血が上ると、物事の見境がつかなくなり、正しい判断をすることができなくなるからです。 二、真の(霊的な)愛を持つこと 主は、エリに「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて」と仰せられました(2章29節)。エリは、子どもたちを溺愛しました。ここにエリの霊的な眼識のなさ、霊的な洞察力のなさの原因がありました。なぜなら子どもを溺愛することは、神をさげすみ、ささげ物を軽くあしらい、自分を肥やすことだからです(2章30、29節)。 親は子どもを愛さなければならないことは言うまでもありません。しかしそれは、エリのような肉的、感情的な愛であってはならず、霊的な愛でなければなりません。霊的な愛とは、子どもは親の所有物ではなく、神から授かり、神のみこころを行う神に愛される子どもに育てるために神から委託された者として、神の愛によって愛するということです。 子どもは、私たちがほんとうに神を愛しているかどうかを問われる試金石です。主は、「わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われました(マタイ10章37節)。また「家族の者がその人の敵となります」とも言われました(同10章36節)。これは、私たちの信仰を最も妨げ、私たちを躓かせて、私たちを神から離れさせるものは、遠くの敵ではなく、最も近い家族であるという意味であり、信仰と愛の本質を突いた言葉です。 三、真の(霊的な)権威を持つこと 主は、エリに「自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ」と仰せられました(3章13節)。子どもを溺愛した結果は、父としての権威の失墜です。 エリは、肉的、感情的な愛に溺れたために霊的な識別力を失い、優柔不断で、意志薄弱な父になり、悪い子どもたちを厳重に戒めることもできないような権威のない、無力な、不甲斐ない父親になってしまいました。 権威と強い意志は、何もせずにただ与えられるのではなく、神を恐れ敬い、何よりも神を愛することを小さなできることから学び、訓練を受けることによってのみ身に着けることができるものなのです。
2008.06.15
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「渇きをいやす水」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、4章1~26節 聖書は、人間を「霊」と「心」と「からだ」という三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23節)。そしてそれぞれに「渇き」というものがあるだけでなく、神は、その渇きをいやす「水」を私たちのために備えてくださるのです。 一、からだの渇きをいやす水――自然の水 人間のからだは、無数の細胞からできており、その細胞は、原形質という生命のもとになる物質によって形造られています。原形質は、半流動性、無色透明のゼリー状の物質で、水分は全体の70パーセントを占めています。 また「肉のいのち」(レビ17章14節)である血は、血液と呼ばれるように様々なものを含んでいる不思議な液体です。 そしてからだの中に取り入れられた食物は、多くの臓器から分泌される様々な液によって消化、吸収されて、生命を支えています。 これに対して内分泌器は、ホルモンを分泌し、からだに一定の形態的または生理的な変化を与えています。もしこのホルモンの分泌が異常になるなら、健康に支障をきたすだけでなく、生命さえも危険にさらされます。 「からだ」にとって水(および様々なものを含んだ液体)ほど必要なものはないことがわかるでしょう。それは生命を支える最も大切なものなのです。 二、心の渇きをいやす水――心の潤い 「心の渇き」を知るために、まず心について知らなければなりません。英語には「心」を意味する言葉が三つあります。◇マインド(mind)――知性の面での「心」◇ハート(heart)――感情の面での「心」◇ウィル(will)――意志の面での「心」 「心の渇き」とその渇きをいやす水である心の潤いには、次のようなものがあります。 ◇知性的な満足を求めること――これは広くて豊かな知識や教養を身に着けることです。 ◇感情的な満足を求めること――これは喜びを求め、情緒や情操を豊かにすることです。 ◇意志的な満足を求めること――これは意欲的に行動し、様々な欲望を満たすことです。 この心の潤いを失うなら、人は冷静に考えられなくなったり、情緒が不安定になったり、欲求不満になったりします。多くの人々が心の渇きをいやすため、躍起になって心の潤いを求めている理由がここにあります。しかし心の潤いには、罪のない清い水と、罪を含んだ毒水の二種類があり、そのどちらを選ぶかは、次の霊の渇きと密接な関係があります。 三、霊の渇きをいやす水――生ける水 心の渇きは、誰にでもあります。しかしこれは私たちの知性や感情や意志の要求が満たされればよく、私たちのほんとうのあるべき姿やなすべき事、また歩むべき道や目指すべきところなど、人間として最も大切な根本的なものを求める渇きではありません。 この人間として最も大切な根本的なものを求める渇きこそ「霊の渇き」です。それは、自らの罪が分かり、神を求めて、救いを得ようとする願望のことです。この霊の渇きをいやすものが「生ける水」です。 主は、サマリヤの女性に「この水(すなわち物質の水)を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水(すなわち生ける水)を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言われました(13、14節)。 またイエスは「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」と言われました(ヨハネ7章38、39節)。 このようなイエスの言葉から、霊の渇きをいやす「生ける水」とは、「永遠のいのち」であり、「神御自身」であり、イエスを信じる者が受ける「御霊」のことであることが分かるでしょう。そして人間は、この「生ける水」を飲まなければ、罪を含んだ毒水を飲んでしまうことになるのです。
2008.06.12
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「神の国を建設するために創造された人」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、1章15節 一 神のかたち(像)に創造された人 聖書は「神は……人をご自身のかたちに創造された」、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と教えています(創世記1章27節、2章7節)。「いのちの息」とは「霊」のことです。 ジョン・ウェスレーは、アダムにおける神の像(かたち)を自然的な像(不死、人格、自由意志)と、政治的な像(支配する能力)と、道徳的な像(義と真と聖潔と愛)という三重のものとして考えていました。 人間は単なる物質でもなければ、動物でもなく、神のかたち(像)に似せて造られた不滅の霊を持つ者です。人間の人間たるゆえんは、この霊の存在にあり、人間が他の動物と根本的に異なるところです。 二、聖霊によって新しく創造された人 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」(創世記2章7節)となりましたが、この人の霊は、神の霊(聖霊)がともにおられることによってのみ生き続けることができます(同6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました。 人が堕落したということは、人の霊から神の霊(聖霊)が離れて、その人の霊が死んでしまったということです(同2章17節)。 そこで神は、人に聖霊(神の霊)を与えて、人の霊を再び生き返らせるように計画し、そのことを実行されました。これがイエスの十字架による罪の贖いとその結果である聖霊の降臨です(使徒2章33節)。 実にキリストが降誕されたクリスマスは、罪の贖いを成し遂げるイースターのためであり、そのイースターは、私たちに聖霊を注がれるペンテコステのためなのです。 三、神の国を建設するために創造された人 神の国、一般的には「天国」と呼ばれていますが、これは神の支配される国のことで、聖書は、神の国には三つの段階があることを教えています。 1.地上の王国としての神の国 第一の段階は、イスラエルの初代の王サウルから最後の王ゼデキヤまでの王国時代のことです。これは神が民を統治(支配)された「地上の王国としての神の国」です。これは第二の段階の神の国と第三の段階の神の国のひな型(模型)です。 2.信仰者の心にある神の国 第二の段階は、イエスを信じる者のただ中にあるという「信仰者の心にある神の国」です。神がキリストを信じる者の心を支配されるならば、そこは神の国です。キリストは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べ伝えられただけでなく(マルコ1章15節)、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われました(ルカ17章21節)。この「信仰者の心にある神の国」は、教会のことです。 3.新しい天と新しい地という神の国 第三の段階は、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」とあるように(黙示録一一章15節)、世の終わりにつくられる「新しい天と新しい地という神の国」です(黙示録21章1節)。 キリスト者は、この世において健全な国家を建設するために働くことが必要ですが、最も大切なことは、キリスト教会という「信仰者の心にある神の国」の民になることです。そうするなら、「新しい天と新しい地という神の国」にはいることができます。 「今神にむかって生きている者以外、後にだれも神とともに生きないであろう。地において神の像をもつ者以外、だれも天において神の栄光を楽しまないであろう。現在罪から救われていない者は、だれも将来地獄から救われ得ない。この世で自分の中に神の国をもたなければ、だれも天において神の国を見ることはできない。天においてキリストとともに支配しようとする者は、だれでも地において自分を支配されるキリストをもたなければならない」(ジョン・ウェスレー)。
2008.06.09
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「霊的で道にかなった礼拝」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章1節 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な(道にかなった)礼拝です」(1節) 私たちは、新しい年を迎えると、だれでも昨年より少しでも成長し、神に喜ばれる人になりたいと思うのではないでしょうか。このみことばは、その秘訣を教えています。 一、ローマ人への手紙の内容の分類 大きく二つに分けることができます。 1.教理的な部分(1~11章) (1)神にそむいて罪を犯した人間(1章18節~3章20節)(2)信仰によって罪が赦された人間(3章21節~5章21節)(3)信仰によって罪がきよめられた人間(6~8章)(4)イスラエル人の奥義(9~11章) 2.実践的な部分(12~16章)(1)献身と神に対する義務(12章1、2節)(2)献身と自分に対する義務(12章3~21節)(3)献身と世の人に対する義務(13章)(4)献身と信仰者に対する義務(14章1節~15章13節)(実践的な部分はパゼット・ウィルクスによる分類です)。 二、実践的なことについて 実践的なことの中で(1)は、第三番目の実践的なことを行う秘訣のところで述べ、(2)から(4)は、次のようなことを教えています。 (2)の自分に対する義務は、思うべき限度を越えて思い上がらない謙虚さと心から互いに愛し合う偽りのない愛と自分で復讐せず、神の怒りに任せる信頼の三つにまとめることができます。 (3)の世の人に対する義務は、上に立つ権威に従い、国民としての義務を果たすことであり、その根底になければならない最も大切なものは隣人を愛する愛です。 (4)の信仰者に対する義務は、信仰の弱い人を受け入れ、力のある者は力のない人たちの弱さをにない、人をさばかず、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めることです。 三、実践的なことを行う秘訣 この12章3節から15章13節まで教えている実践的なことは、私たちにとって最も必要で、大切なことであるだけでなく、神が私たちに求めておられることでもあります。 しかし私たちは、どうすれば、このようなことを行うことができるでしょうか。その秘訣を教えているのが冒頭に記したみことばです。私たちのからだ、すなわち、その目と耳と口を、そして手と足を、いやすべてのものを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげること(献身)です。 しかしこのような献身は、生まれながらの人間には到底不可能なことです。なぜなら私たちは、「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったので」(コロサイ1章21節)、神に受け入れられず、聖い者ではなく汚れており、生きた者ではなく死んでいるからです(エペソ2章1節)。 それではどうすれば、このような献身をすることができるのでしょうか。その秘訣こそ、この手紙の1章から8章までの教理的な部分で教えている「罪の自覚と悔い改め」と「罪の赦し」と「罪のきよめ」です。 私たちは、神の前で罪人であることを認めて心から悔い改め、その罪のために死んでくださったキリストの十字架を信じて罪が赦されるとともに、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ」て(6章6節)、罪がきよめられる時、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として自分のからだを神にささげることができます。それこそ、霊的で道にかなった礼拝なのです。
2008.06.07
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「神の怒りと人の怒り」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、1章18~25節 人間は、感情の動物であり、人生に喜怒哀楽が絶えることはないでしょう。この喜怒哀楽の中で最も気をつけなければならないのが怒りです。 一、三種類の怒り 新約聖書の中で「怒り」と訳されている原語には、いろいろありますが、似通ったものを一つにまとめて整理するなら、次のような三つに分類することができます。 1.オルゲー(分別のある怒り、冷静な怒り)――これは、感情に支配されず、判断力の伴った怒りです。 2.プロソクティゾー(陰険な怒り、陰湿な怒り)――これは不愉快に感じたり、嫌悪を覚えたりする怒りです。 3.テュモス(感情的な怒り、爆発的な怒り)――これは感情に支配され、それが爆発した激しい怒りです。 一口に怒りと言っても、このような三種類の怒りがあるのです。 二、神の怒り 聖書は、次のような三種類の神の怒りについて教えています。 1.罪に対する怒り これは、罪に対する神の聖と義の現れとしての怒りです。人類の堕落以後、神は、すべての人に対してこの怒りを抱いておられ(エペソ2章3節)、これが人間が生まれながらの罪人であるということの意味です。しかしこれは分別のある怒り(オルゲー)です。 2.不信仰に対する怒り これは、「神の慈愛……を軽んじ」(ローマ2章4節)、「すばらしい救いをないがしろに」する(ヘブル2章3節)ことに対する怒りです(プロソクティゾー)。エジプトを脱出しながら、不信仰のために「しかばねを荒野にさらした」(同3章17節)イスラエルの民に対する怒りは、これです。 3.やがて来る怒り これは、世の終わりに、神がすべての罪をさばき、正しい報いを与えるための怒りです(第二テサロニケ1章5~9節)。この怒りは、一般には分別のある怒り(オルゲー)ですが、特にヨハネの黙示録においては、激しい怒り(テュモス)として記されています(15章1節)。 パウロが「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われる」(ローマ5章9節)と述べているように、キリストが与えてくださる救いは、この神の怒りからの救いです。 三、人の怒り 1.あってはならない怒り――罪から発する怒り わがままや自己中心、また憎しみや妬み、さらに恨みや軽蔑、そして復讐心など、どのようなものであれ、罪から発する怒りは、決してあってはならないものです。 2.忍ばねばならない怒り――罪の傷痕に対する怒り 人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる弱点や欠点や短所に関しては、怒るべではなく、愛をもって互いに耐え忍ぶことが必要です。 3.なくてはならない怒り――罪自体に対する怒り (1)自分の罪に対する怒り これは、私たちを神とその救いに導くだけでなく、私たちに闘志と気力を与えるものです(第二コリント7章11節、13章8節)。これを持たなければ、罪と妥協して、あってはならない怒りを発するだけでなく、闘志も気力も失い、無気力になってしまうでしょう。 (2)ほかの人の罪に対する怒り これは、時と場所を選び、相手の立場や状態をよく考え、知恵を用いた分別のある怒り(オルゲー)でなければならず、しかも長時間は禁物です(エペソ4章26節)。この怒りは、世の堕落を防ぎ、人々に良い影響や感化を与えていくことが目的で、神に代わって天罰を下すようなものではないことを決して忘れてはなりません(ヤコブ1章20節)。 私たちの怒りは、どうでしょうか。
2008.06.03
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