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「真理と力(2)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、13章8節 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(8節)。 一、真理と力の相違 動物の世界に代表される自然の世界は、弱い物が強い物の餌食となる弱肉強食の世界であり、私たちが住んでいる世俗社会も、数の力、金の力、名誉や地位の力、年齢や経験の力、そして体力や能力等の強い者が弱い者を征服するという弱肉強食の力の世界です。 これに対して信仰の世界、すなわち超自然の世界は、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知る」(ローマ12章2節)という真理の世界(ヨハネ18章37節)であり、弱肉強食の力の世界ではありません(イザヤ11章6~9節)。 二、真理と力の接点 上の図は、上から下の縦軸は、目に見えない教会である天の御国とこの世という二つの世界と、この二つの世界の橋渡しをしている目に見える教会(地上の教会)を表しています。 この目に見える地上の教会は、この世から天の御国に行くための橋の役目をしています。人々は、目に見える教会を通って天の御国にはいるのです。ところが、その教会が上の図の左側の教会のように世に働きかけず、教会の中だけに閉じこもるなら、世と遊離した教会となり、反対に右側の教会のように、世に迎合し、教会の中が弱肉強食の世界になるなら、世俗的な教会となり、どちらもこの世から天の御国に行くための橋の役目を果たさなくなるのです。 これに対して、上の図の中央の教会のように、世と遊離せず、しかも世に迎合せず、教会の中が天の御国のひな型としての真理の世界なら、健全な教会となり、人々は教会を通って天の御国に行くことができるのです。 三、真理と力の関係 それでは、真理の世界に力は不必要なのでしょうか。そうではありません。私たちは、真理を見分ける力や真理を行う力は必要であり、神は、真理のためなら、何でもできる力を与えてくださるのです。 しかし、この力は、世の力ではなく、霊的な力、すなわち超自然的な神の力です。これは、数の力、金の力、名誉や地位の力、年齢や経験の力、そして体力や能力等の世の力がないのに、どうしてあのような力があるのだろうかと、人々が不思議に思う真理のための力です(第二コリント4章8、9節、6章9、10節)。「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるため」なのです(第二コリント4章7節)。
2008.08.29
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「真理と力(1)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、13章8節 「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(ヨハネ18章37節)。 これは、逮捕されたキリストがピラトの前で語られた言葉であり、真理であるキリストに誠にふさわしいものです。この真理について、使徒パウロは次のように述べています。 「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(8節)。 なぜ私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできるのでしょうか。このことを次のような3つの観点から考えてみましょう。 一、自分に対する在り方 この真理に逆らうとか真理のためということを、自分に対する在り方について考えてみるなら、それは、良心の光に従うかどうかということです。 「律法」は何が正しく、何が不正であるかを教える「規準」ですが、「良心」は、その人が信じている「律法」を守ったかどうかの「採決を下すもの」で、神の声でもなければ、絶対的なものでもありません。しかし良心の光に背いた心のやましさや、後ろめたさほど、私たちの力を失わせるものはなく、良心の光に逆らっている心の葛藤や分裂ほど、力が相殺されて無力になることはありません。 なぜなら私たちが良心の光に背いて悪いことをする時は、言い訳や弁解をすることによって正当化しなければならず、そのために心の力を奪われてしまうからです。しかし良心の光に従うなら、余計な言い訳や弁解に力を奪われることなく、大胆さと確信をもって、力を十分に発揮することができるのです。 二、他の人に対する在り方 この真理に逆らうとか真理のためということを、他の人に対する在り方について考えてみるなら、それは、道徳の光に従うかどうかということです。 法律は、「個人の権利と利益」、また「公共の福祉と安全」、そして「国家の秩序と平和」を守るために制定されたものです。これに対して道徳は、法律の目指している3つのことを個人として行うべき道や行為のことであり、法律のように明文化されていない不文律が多いものです。しかしこれは社会生活をよくするために守らなければならない非常に大切な事柄です。 もし私たちが法律に触れないからといって、道徳の光に背いて、悪いことをするなら、人からの非難をかわすために、やはり余計な言い訳や弁解をすることに力を奪われてしまうでしょう。また人の非難の目を逃れるために、偽装工作をしたり、取り繕ったりすることは、自らの罪を追求されないために他の人の罪を黙認することと同様に、私たちを全く無力にしてしまうのです。 三、神に対する在り方 この真理に逆らうとか真理のためということを、神に対する在り方について考えてみるなら、それは、聖書や聖霊の光に従うかどうかということです。 聖書は、神の前における人間のほんとうの「あるべき姿」と「なすべきこと」を教えている神の言葉です。しかし人間は、その神の前にあるべき姿にはなく、なすべきこともせずに、逸脱しており、聖書はこれを罪と呼んでいます。 ですからもし私たちが聖書の光に従い、罪を認めて悔い改め、キリストの贖いを信じるという神と真理に従う心があるなら、神は、私たちを罪から救ってくださるだけでなく、私たちに力を与えてくださいます。 しかしもし私たちが、聖書の光に背いて、罪を認めず、悔い改めることも信じることもしないで、神と真理に従う心がなければ、私たちは、罪から救われることができないだけでなく、力も与えられないのです。 私たちは、聖書の光に従う時、良心の光にも道徳の光にも従うことができるのです。
2008.08.26
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「いつまでも残るもの」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、1章3節 「私たちは……あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」(2、3節)。 パウロは、愛の章において「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と記していますが(第一コリント13章13節)、ここでは、信仰には「働き」を、愛には「労苦」を、望みには「忍耐」を付け加えていることは誠に興味深いことです。 一、信仰の働きについて この「信仰の働き」という言葉の中には、次に記すような3つのことが含まれているのではないでしょうか。 1.まず働きの原因や行為の動機は、信仰でなければならないということです。聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11章6節)と教えています。私たちは、何ができるか、できないかということよりも、神に対する信仰を持つことが最も大切なことなのです。 2.次に働きの方法や行為の手段も信仰でなければならないということです。パウロは「信仰から出ていないことは、みな罪です」と言って(ローマ14章23節)、何事に関しても神の御前でこれでよいのだという信仰と確信を持たずに、疑いつつしてはならないことを教えています(同14章23節)。 3.最後に信仰には必ず行為が伴い、信仰の結果は働きに表れるということです。ヤコブは、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます」(2章18節)と言って、「行いのない信仰がむなしいことを」私たちに教えています(同2章20節)。 二、愛の労苦について この「愛の労苦」という言葉の中には、次に記すような3つのことが含まれているのではないでしょうか。 1.まず労苦の原因や行為の動機は愛でなければならないということです。主イエスは、律法の中で最も大切な戒めは、神と隣人を愛することであると教えられ(マタイ22章36~40節)、またパウロも「愛は律法を全うします」と記しています(ローマ13章10節)。 2.次に労苦の方法や行為の手段も愛でなければならないということです。パウロは、「愛がないなら」、どんなにすばらしいことも、「何の値打ちも」なく、「何の役にも立ちません」と教え(第一コリント13章1~3節)、また「いっさいのことを愛をもって行いなさい」と勧めています(第一コリント16章14節)。 3.最後に愛には必ず行為が伴い、愛の結果は労苦に表れるということです。この「労苦」という言葉の原語は、煩いとか面倒また疲れ果てるまで労し、苦しむという意味があります。ですから愛は、煩わしいことや面倒なことを疲れ果てるまで労し、苦しんですることなのです。 三、望みの忍耐について この「望みの忍耐」という言葉の中にも、次に記すような3つのことが含まれているのではないでしょうか。 1.まず望みは私たちの生きがいであるということです。ペテロは、新しく生まれ変わったキリスト者には、生ける望みがあるということを教えています(第一ペテロ1章3節、3章15節)。 2.次に望みによって私たちは苦難から救われるということです。パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです」と言って、栄化の希望に輝いていました。 3.最後に望みは私たちに忍耐を与えるということです。この忍耐という言葉の原語は、自分の場に固く踏みとどまって動かないという意味があります。ですから私たちは、キリストの再臨とそれに伴う栄化の望みがある時、苦難の中にも神と自分の居るべきところに固く踏みとどまっていることができるのです。 この3つのことはすべて主が「私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになり……それによって私たちに愛がわかった」からこそできることなのです(第一ヨハネ3章16節)。
2008.08.24
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「私たちのうちにある希望」 甲斐慎一郎 ペテロの手紙、第一、3章13~17節 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」(15節後半、16節前半)。 この個所には信仰生活における大切な3つの要素が記されています。それは心の中に希望を持つという体験と、それを説明し弁明できるという知性(教理)と、優しさと恐れと正しい良心をもって行うという実践です。 キリスト者は、体験と教理(聖書の教え)と実践の3つに均衡が取れていなければなりません。これは三脚のようなものであり、一つでも欠けると立つことができないだけでなく、どれかが不十分であっても、それは三本足のうち一本が短いことと同じことになり、傾いたり、倒れたりしてしまうのです。 「もし体験のみを重んじ教理と実践を軽視する者があれば、その人は熱狂主義者となる。もし教理のみを重んじ体験と実践を軽視する者があれば、その人は形式主義者となる。もし実践のみを重んじ教理と体験を軽視する者があれば、その人は律法主義者となる」 (フォアマン・リンシカム牧師) 一、キリスト者の体験について 私たちのうちにある希望とは何でしょうか。新約聖書には3つの希望が記されています。 ◇生ける望みです。これは父なる神が私たちを新しく生まれさせることによって持つことができる希望です(第一ペテロ1章3節)。 ◇栄光の望みです。これはキリストが私たちの中におられることによって持つことができる希望です(コロサイ1章27節)。 ◇栄化の望みです。これは御霊が私たちのうちに働き、私たちのからだが贖われることを待ち望ませることによって持つことができる希望です(ローマ8章23、24節)。 生ける望みは、罪の行為から救われる(赦される)新生の時に始まり、栄光の望みは、罪の性質から救われる(きよめられる)聖化の時に始まり、栄化の望みは、罪の結果から救われる(からだが贖われる)栄化の時に成就します。キリスト者は、今の世において新生と聖化の体験をし、次に来る世における栄化の体験を期待しながら、この3つの希望に満ち溢れている者なのです。 二、キリスト者の教理について 私たちは、だれにでもいつでも次のことができるように備えていなければなりません。 ◇説明。 これはキリスト者の救いの体験というものが確かな事実に基づき、根拠のあるものであることを自ら納得していることです。 ◇弁明。 これはキリスト教に反対したり、それを攻撃したりする人に対して納得のいく証拠と根拠を示して弁護することです。 ◇あかし(証し)。 弁明が受動的なものであるのに対して、これは能動的なものであり、私たちの方から積極的に救いの体験を語ることです。 私たちは、先の3つの希望に満ち溢れているだけでなく、それを説明し、弁明し、証しすることができるように聖書の真実性を知るとともに、自らの体験が何であるかを聖書の中から学び続けなければなりません。 三、キリスト者の実践について ここには優しさと畏敬と正しい良心をもって行うべきことが勧められています。しかしこの勧告は、人から害を加えられたり、脅かされたり、ののしられたりした時に、そうするように教えているのです。これは決して容易なことではありません。もし私たちの信仰が半信半疑で、確信がなかったならば、このようにふるまうことは不可能です。 私たちは、まず自分の信仰の体験を明確にし、次にその体験が確かな事実に基づいている根拠のある聖書の教えであることを日々学び続けることによって確信を深めていかなければなりません。これこそ真に実行の伴ったキリスト者になるための秘訣です。
2008.08.21
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「希望について十分な確信を持ちなさい」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、6章9~20節 「すべての人に信仰が必要である」と言うなら、多くの人々は首を横に振るかもしれません。しかし「すべての人に希望が必要である」と言えば、だれでもうなずくでしょう。 過去において、どんなに祝福を受け、現在もどんなに恵まれていたとしても、将来に対して何の希望もない人は不幸です。しかし過去においては、不運な境遇にあり、現在も様々な苦しみを受けていたとしても、将来に対して希望に輝いている人は幸福です。 このようなことから「将来と希望」(エレミヤ29章11節)に向かって生きるところに人間の人間たるゆえんがあるのではないでしょうか。「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言った人がいますが、まさに至言です。 この箇所には、希望または望みということばが3回記されています(11、18、19節)。 一、希望と気力(9~12節) ヘブル人への手紙の著者は、「最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちにならう者となるためです」と記しています(11、12節)。 このようなことから、希望は私たちに次のような二つのものを与えてくれることがわかるでしょう。一つは、私たちに苦しみや困難を耐え忍ばせる忍耐であり、もう一つは、私たちの心を奮い立たせ、物事を成し遂げようとする気力です。 私たちが苦しみと困難の絶えない人生を生き抜き、様々な物事を成し遂げていくために最も必要なのは、忍耐と気力です。「この世の中に、失望し、落胆した人の頭ほど重いものはない」と言った人がいますが、私たちは、この忍耐と気力が希望によって与えられるものであることを知っているでしょうか。 二、希望と保証(13~18節) ヘブル人への手紙の著者は、「神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは……前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです」と記しています(17、18節)。 希望には、二種類あります。一つは、何の根拠も保証もなく、非現実的な偽りの希望であり、もう一つは、根拠と神の保証があって必ず実現する真の希望です。もし私たちが偽りの希望によって生きるなら、裏切られた時の失望が大きいだけでなく、真の希望を示されても、懐疑的になり、容易に信じなくなることでしょう。 このように希望というものは、ただ持てばよいというものではありません。根拠と保証があって必ず実現する真の希望でなければ意味がないだけでなく、非常に有害です。実に神が「誓いをもって保証された」約束こそ、私たちに「力強い励まし」を与えてくれる真の希望です(18節)。 三、希望と救い(19、20節) このように人間には、根拠のある真の希望が必要ですが、その中で最も大切なのは、私たちの救いの希望です。すなわち、すべての罪が赦され、「滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3章16節)という「罪からの救い」を受けているかどうかです。 多くの人々は、自らの罪に悩んでも、罪などいつかは時効になるかのように考え、何も起きないと思っています。しかしこれは何の根拠もない偽りの希望であり、気休めに過ぎません。なぜなら偽ることのできない神は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と明白に教えているからです(ヘブル9章27節)。 しかしここに真の救いの希望があります。それは、キリストの贖いを信じることによって与えられる「罪からの救い」です。「この望みは、私たちのたましいのために」、神の保証された根拠のある「安全で確かな」罪からの救いです(19節)。
2008.08.17
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「信仰の決断」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、5章25~34節 「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」(27~29節)。 これは12年間、長血をわずらっていた女がキリストに対する信仰によって、その病気が直った記事です。冒頭の聖句の中には、注目すべき言葉が3つ記されています。それは、「着物にさわった」と「考えていた」と「感じた」という言葉です。この3つの言葉から私たちが神を信じて救いを得ようとする時、心しなければならない非常に大切なことを学んでみましょう。 一、考えること(思考)について この12年間も長血をわずらっていた女は、自らの不運を嘆き、様々なことを考えたでしょう。「どうして私は、このような病気になったのだろうか。どうして私の病気は直らないのだろうか。どうして私は、医者からこのようなひどい目に会わされなければならないのだろうか」と。 このように人というのは、様々な苦しみに会い、不幸な境遇に置かれると、「どうしてだろうか。どうして私だけが」と考え始めるものです。そのような時、悲観的に考え、あきらめたり、逃避したりする人もいれば、ひねくれたり、恨んだりする人もおり、果ては絶望したり、自殺したりする人もいます。しかし反対に楽観的に考えて、その苦難を踏み台にして成長する人もいます。 私たちは、様々な苦しみに会い、不幸な境遇に置かれた時、それをどのように考えるでしょうか。 二、感じること(感情)について しかし、この長血をわずらっていた女は、発病とその後の不幸な出来事の中で、様々なことを考えただけでなく、色々なことを感じたでしょう。「世の中には、なんとひどい人がいるのだろうか。いざとなると、人というのは、なんと身勝手で冷たいのだろうか。私のことを真剣に考えてくれる人など、ひとりもいない」と。 人というものは、多くの場合、良い環境の中や順境の時は、ほかの人の苦しみに気づかず、その感情は鈍感になりやすいのに対して、悪い環境の中や逆境の時は、その感情は異常なほど敏感になっているものです。それは、人間は、あまりにも身勝手なために、自分を中心にしか物事を感じることができないからです。 私たちは、良い環境や順境の時に感じること、また悪い環境や逆境の時に感じることを、どのように受け止めているでしょうか。 三、決断すること(意志)について 長血をわずらっていた女は、この12年間、様々なことを考え、また色々なことを感じたことでしょう。しかしイエスのことを耳にした時(27節)、思い切って、イエスの着物にさわるまで(27節)、何の救いも解決もありませんでした。直ったことを感じたのは(29節)、その直後でした。 私たちの場合、思い切って「イエスの着物にさわる」ことは、信仰の決断を表しています。私たちに頭脳がある以上、特に苦しみに会うなら、なおさら様々なことを考えるでしょう。また私たちに感情がある以上、特に苦しみに会うなら、様々な悪い感じを持つことでしょう。 しかし私たち自身の罪からの救いと様々な問題の解決は、キリストに対する信仰の決断によってのみ与えられます。救われたことを感じるのは、信仰の決断の後であり、決してその前ではないことを忘れてはなりません。 私たちにとって最も大切で必要なことは、信仰の決断なのです。
2008.08.14
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「万物の改まる時を待ち望みなさい」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章19~26節 ペテロは、無知のためとはいえイエスを引き渡し、拒み、殺したイスラエル人に対して人知をはるかに越えた神の救いのご計画を心を込めて語りました(13~18節)。 一、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさいとイスラエル人たちに勧めたペテロ(19節) ペテロは、「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」と勧めました(19節)。これを聞いた人々は、無知のためとはいえ人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君であるイエスを殺した大罪さえも、ぬぐい去られることを知って、神の愛の深さに感動したのではないでしょうか。 二、万物の更新はイエスの再臨の時まで待たなければならず、このことは預言者たちが預言していたと語ったペテロ(20~24節) ペテロは、イスラエル人が神に立ち返ることは、彼らひとりひとりの罪がぬぐい去られるという個人的な救いを受けるだけでなく、「回復の時」(20節)、そして「万物の改まる時」(21節)という遠大な神の救いのご計画が完成することでもあると述べています。 ペテロは、この箇所において三段階の救いを述べています。第一段階は、イスラエル人が悔い改めて、神に立ち返るなら、彼らの罪がぬぐい去られることです。第二段階は、「主の御前から回復の時が来」ること(20節)、すなわちイスラエルの家が回復することです。第三段階は、「万物の改まる時」が来ること(21節)、すなわち罪に支配されている全世界が更新されることです。それは、キリストが再びこの世においでになる再臨の時です。 ペテロは、さらにことばを続けて、このことは昔からモーセやサムエルをはじめ聖なる預言者たちの口をとおしてたびたび語られたことであると主張しました(21~24節)。 「特にイスラエルの家にむかってなされたこのペテロの説教は、わたしたちに何を教えているのでしょうか。第一にまず、昔、立てられた神の目的が変ったのではないということを、はっきりと理解することができます。第二に、万物が更新されるためには、イエスの来臨を待たなければならないということもわかります。第三には、このイエスの再臨が、イスラエルの復興の時(1章6節)であろうということも知っています」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』34頁)。 三、イエスがあなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださると語ったペテロ(25、26節) ペテロは、神は万物の更新というご自身の計画の実現のために、預言者たちの子孫であり、契約の子孫であるあなたがたイスラエル人が悔い改めて神に立ち返らなければならないこと、いやイエスがあなたがたを祝福して、一人一人をその邪悪な生活から立ち返らせてくださるために神がイエスをお遣わしになったことを彼らに告げました(25、26節)。 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのはヤブ医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」(1996年6月6日、朝日新聞の夕刊、経済気象台より抜粋)。 この3章には、まず生まれながら足の不自由な男が歩いたという「病のいやし」が記されています(1~10節)。しかしペテロは、その後の説教において(11~26節)、病のいやしを強調したのではなく、注意深く人々の目をイエスとその十字架の救いに向けさせ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という「人のいやし」について語っています。そして「万物の改まる時」(21節)という「国(全世界)のいやし」について述べているのです。
2008.08.11
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「ラオデキヤにある教会の疾病」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、3章14~22節 「ラオデキヤにある教会」は終末の教会の姿ですが、その教会の疾病は何でしょうか。 一、その症状と診断(15~17節) 第一は、「なまぬるさ(不徹底)」です。 「ラオデキヤ(その意味は人民の支配)」にある教会は、その名前の通りに、キリストをかしらとするのではなく、人間が支配していました。この教会は「冷たくもなく」(15節)とあるように、決して公然と神に逆らう不道徳や偶像礼拝や背教の罪のために非難されているのではありません。人間的には、善良で、親切な人々であったのでしょう。 世の悪に徹底的に従うことはしませんでしたが、神とその真理に徹底的に従うこともせず、「熱くもない」状態でした。道徳的な善悪や信仰の世界に、冷たくもなく、熱くもないという「なまぬるさ」は許されないのです(ヨハネ3章20、21節、マタイ12章30節)。 第二は、「自己満足」です。 彼らは、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って」いました(17節)。確かに彼らは、物質的に富み、豊かで、乏しいものは何もなかったのでしょうが、そのために霊的、信仰的にも、そうであるかのような錯覚に陥ってしまったのでしょう。自己満足は、自分で自分をよしとする「自己承認」や「自己免許」以外の何ものでもありません。 二、その原因(17、18節) 第一は、不徹底な認罪です。 彼らは、「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知」りませんでした(17節)。私たちは、「外には戦い、うちには恐れがあり」ます(第二コリント7章5節)。内側の過ちと外側の誘惑の両方の危険にさらされています。私たちは、神の前に静まって自分を顧みなければ、間違っていても気がつかないでしょう。 人は、真にあるべき姿にある時にのみ、真のなすべきことがわかるのです。しかし真のあるべき姿から逸脱しているなら、真になすべきことを行うことができないだけでなく、ただ焦りと思い煩いに満ちてしまうでしょう。私たちは、神の懲らしめや苦難を受ける時、徹底的に自分の姿が分かるのです。 第二は、不徹底な悔い改めです。 「人の心にあるはかりごとは深い水」とあるように(箴言20章5節)、人の心は計り知れないほど深いものですから、浅薄な、心の上澄みだけの不徹底な悔い改めは、心の底にまだ罪が潜んでいるので、同じことを繰り返してしまいます。人は、何事もない時は、浅薄な、上澄みの悔い改めしかできませんが、神は、「愛する者をしかったり、懲らしめたり」します(19節)。私たちは、神の懲らしめと苦難を受ける時、熱心になって、徹底的に悔い改めることができるのです。 三、その治療(18、20節) 「火で精錬された金」(18節)は「信仰の試練」であり(第一ペテロ1章7節)、「白い衣」(18節)は「聖徒たちの正しい行い」であり(黙示録19章8節)、「目薬」は「心の目がはっきりと見えるように」してくださる「神を知るための知恵と啓示の御霊」です(エペソ1章17、18節)。 彼らは、認罪と悔い改めが不徹底であったので、キリストを外に追い出してしまいました(20節)。私たちは、認罪と悔い改めを徹底させるなら、救い主の必要性がわかり、心の戸を開けて、キリストを迎えることができます。キリストを心の中に迎えることが信仰であり、「義と平和と聖霊による喜び」が与えられる秘訣です(ローマ14章17節)。 キリストとともに食事をする(20節)とは、キリストとの霊的な交わりを教えています。初めは、キリストを客として迎えます。これが「救い」です。しかし自分は、相変わらず主人ですが、その交わりのすばらしさが分かるにつれ、今度は、キリストを私の主人としてお迎えし、キリストに一切の指導権を譲り渡して、私たちがキリストのしもべとなります。これが「きよめ」です。
2008.08.09
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「ダビデの感謝の歌」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、22章 「この歌はごくわずかの相違を除いて、詩篇18篇と同じである。これはダビデが新たにイスラエルの王位についた時に書かれた」のでしょう(A・M・レンウィック)。 一、ダビデの最初の感謝と賛美(1~4節) ダビデは、主がすべての敵の手、特にサウルの手から自分を救い出された日に、この歌のことばを主に歌いました。彼は、主を「わが巌、わがとりで、わが救い主」と呼んでいます(2節)。この「わが……」ということばは、ダビデがどんなに深く主を知り、自分の神としてとらえ、その神を自分の心と生活の中で体験していたかを教えています。 二、サウルの迫害から救い出してくださった主に対するダビデの感謝(5-20節) ダビデがサムエルに油をそそがれてから30歳で王となるまでの半生は、その名の意味(愛される者)のとおりに多くの人々に愛されましたが、同時に嫉妬深いサウル王に憎まれただけでなく、いのちをねらわれ、危うく殺されそうになったことが何回もありました。 「この時の彼の気持ちは、物すごい洪水のうずにまき込まれて溺れかかった人の気持ち、あるいは網にかかった野獣の気持ちにたとえられている(5、6節)」(レスリ・S・マカウ)。ダビデは、このような苦しみの中から主を呼び求め、神に叫んだのです(7節)。 すると主は天からダビデを助けに来られ、彼は強い敵から救い出されました(8~20節)。「神の来臨は、煙と暗やみと語る声とを伴っているように見え、律法がシナイ山で与えられた時のようである。……20節は、敵が今にも打ち滅ぼそうとしていた危機から救い出されたみどりごモーセとの類似を思わせるものがある」(レスリ・S・マカウ)。 三、サウルの迫害からダビデを救い出してくださった主のお取り扱い(21~28節) ダビデがサウルの迫害から救い出されたのは、その名の意味のとおりに主に愛されたからです。そして彼も主の愛に応えて、主の前に正しく、きよく歩み、罪から身を守りました(22、24節)。その一例としてダビデはサウルを殺す絶好の機会が2回ありましたが、主を恐れて二回とも手を下しませんでした(第一サムエル24章6節、26章11節)。しかしサウルは、このような機会を与えられながら、悔い改めようとはしなかったので、ついに滅ぼされてしまいました。主はダビデの正しさときよさに報いてくださったのです(21、25節)。 26節と27節の「背後にある原理は、人間が自ら進んで得ようと思う性格を神がさらに強められる、すなわち人間が神に対してふるまうように、神は人間にふるまわれるという原理である(第一サムエル2章30節、ローマ1章28節)」(レスリ・S・マカウ)。 四、サウルの迫害からダビデを救い出してくださった主の選びと召命(29~46節) しかしダビデがサウルの迫害から救い出された最も大きな理由は、彼が主のわざのために選び分けられ、イスラエルの王として召されたからです。ダビデは王となるためのあらゆる訓練を受けました。すなわち彼は、神を敬う敬虔な人格を備えた指導者として(29、1~33節)、また主によって敵に打ち勝つ勇士として(30、34、35節)、そして主を恐れて民を正しく治める為政者として(36、37節)の訓練を受けました。その結果、彼は周囲の敵をことごとく滅ぼし(38~43節)、国々のかしらとなることができたのです(44~46節)。 五、ダビデの最後の感謝と賛美(47~51節) このようなすばらしい主を体験したダビデは、「主は生きておられる」(47節)と言って、からだ全体からほとばしり出る精一杯の感謝にあふれて主を賛美しています。 そしてこのダビデの賛美を受けられる主は、地域を越えて諸々の国の中でほめたたえられ、時代を越えて代々にわたってとこしえにあがめられる方なのです(50、51節)。
2008.08.06
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「私のささえである主(2)」 甲斐慎一郎 詩篇119篇113~117節 「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで、私をはずかしめないようにしてください。私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう」(116~117節)。 この詩篇119篇には、「真実」という言葉が5回も記されていますが(30、75、86、90、138節)、私たちが神をささえとするということは、とりもなおさず神の真実さをささえとすることです。そこでこの神の真実さと私たちのささえとは、どのような関係にあるのかということを考えてみましょう。 一、どこまでも真実なことばを語られる神 詩篇の著者は、「あなたの仰せはことごとく真実です」と述べています(86節)。聖書は、よく心の鏡であると言われますが、聖書ほど人間の赤裸々な姿を教えてくれるものはありません。まさに、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判断することができます」とある通りです(ヘブル4章12節)。 もしこの世の中に「うそ発見器」なるものがあるとすれば、聖書こそ最も正確な「うそ発見器」でしょう。神は、何のお世辞も遠慮もなく、私たちのほんとうの姿を告げられます。この神の語られることばの真実さは、罪深い人間には非常に痛くて辛いことですが、真理を求める人にとっては、絶対的なささえとして真の拠り所となるのです。 二、どこまでも真実なことをされる神 詩篇の著者は、「あなたが真実をもって私を悩まされたことを知っています」と述べています(75節)。神は、真実をもって私たちの姿を告げられますが、その時、私たちがそれを認めなかったり、また言い逆らったりするなら、今度はことばだけでなく、実際の行動に出られます。すなわち神は、私たちに試練や苦難を送って私たちを苦しめたり、悩ませたりして働かれるのです。しかしこれは、私たちを悔い改めさせ、懲らしめて、私たちを正しい神の道に引き戻そうとする神の真実な行為の現れです。 神は、よほどのことがない限り、私たちのわがままな願いが通るようにはされません。なぜなら神は、人間が考える最善のことではなく、神が計画される最善のことを行われるからです。この神の行われる行為の真実さは、罪深い人間にとっては非常に恐ろしいことですが、真理を求める人間にとっては、絶対的なささえとして、真の拠り所となるのです。 三、とごまでも真実な心を持たれる神 詩篇の著者は、「あなたの真実は代々に至ります」と述べています(90節)。私たちが偽りやすい人間を信じる場合、外側のことばや行動だけでなく、ほんとうの腹の底や心の奥の真実さまで信用できなければ、不安が残ります。これに対して偽ることができない神に対しては、真実なことばや行動があれば、それで十分なはずです。しかし実際には、人間の弱さや罪深さのゆえに、真実な神のみこころをも知る必要があります。なぜなら、人間の小さな頭脳には限界があり、様々な試練や苦難に会った場合、私たちは、神のなさることを必ずしも全部理解することができるとは限らないからです。 それでは神の真実なみここを知るためには、どうすればよいのでしょうか。それは、キリストとその十字架によって現された神の真実な愛のことばと犠牲的な行為を知ることです。神のことばであるキリストが人となられて、十字架の上で死なれた行為以上に、神の真実な愛のみこころを教えるものがあるでしょうか。これこそ私たちのささえであり、どのような中でも神のみこころに憩うことができるものなのです。
2008.08.03
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