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「三つの創造」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章17~21節 聖書は、開巻第一ページにおいて神は万物の創造者であると記しています。この万物の創造者である神のわざについて、次のような「三つの創造」を教えています。 1.今の天と地の創造--「初めに、神が天と地を創造した」(創世記一章1節)。 2.人間の新しい創造--「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。 3.新しい天と地の創造--「私は、新しい天と新しい地とを見た」(黙示録21章1節、第二ペテロ3章13節)。 第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざです。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるなら、第二と第三の創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、あとの二つも信じることができないでしょう。 一、私たちが新しく造られるという「人間の新しい創造」こそ最も大切なことです 人間が直面している最大の問題は何でしょうか。無知や無力でしょうか。短所や弱さでしょうか。病気や怪我でしょうか。苦しみや悩みでしょうか。老いや死でしょうか。確かにこれらのことも問題ですが、人間の最大の問題は罪であると、聖書は教えています。 それではこの罪を解決するためには、どうすればよいのでしょうか。学びや勉強をして高い教育を受けることでしょうか。運動や体操をしてからだと心を鍛えることでしょうか。倫理や道徳を守ることでしょうか。努力して苦行や修行に励むことでしょうか。しかしこのようなことでは決して罪を解決することができないことを聖書は教えています。 聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と記し(第二コリント5章17節)、キリストによる「人間の新しい創造」こそ罪を解決する唯一の秘訣であることを教えています。 二、そのためには「今の天と地の創造」者である神の救いを信じることが必要です 聖書は、生まれながらの人は「罪過と罪との中に死んで......肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」う罪深い者であると記しています(エペソ二章1、3節)。このような罪人が新しく造られるということなどあり得るでしょうか。そのような人に造り変えられるということなど信じられるでしょうか。 進化論者は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じる者です。もし私たちが進化論者のように「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」(使徒17章24節)全知全能の創造者である神を信じなかったなら、罪深い人間が新しく創造されるということなど決して信じることができないでしょう。 罪深い人間が新しく造り変えられるという「人間の新しい創造」は、ただ「今の天と地の創造」者である神のみがおできになることで、この方以外には絶対に不可能なのです。 三、すると「新しい天と地の創造」者である神とともに永遠に生きることができます 現在の地球は、公害や環境破壊によって汚染され、それがもたらす異常気象や天変地異によって狂いが生じ、もし核戦争が起きるなら破滅してしまうでしょう。罪深い人間が新しく創造されなければ、だれも地球の破滅を食い止めることはできないでしょう。 聖書は、「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記し(第二ペテロ3章12、13節)、新しく創造された人間は、今の天と地が破滅しても、新しい天と新しい地に永遠に住むことができると教えています。 私たちが神とともに永遠に住むことができる「新しい天と地の創造」を信じることができるのは、神が「今の天と地の創造」者であることを信じているからであり、そうでなければ決して信じることはできないでしょう。拙著「聖書の中心的な教え」3 「三つの創造」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.04.24
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「神の啓示と人の探求」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章24~28節 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。 私たちは、神と宇宙、また人間と人生等々について自問自答し、真理を探り求めているのではないでしょうか。1.神は、ほんとうに存在するのか?2.天地は、どのようにして造られたのか?3.人間は、どのようにして生まれたのか?4.人は、どのように生きるべきなのか?5.人間は、死後どうなるのか? これらの質問を一つにまとめるなら、「真理とは何か」ということになるでしょう。この真理を知る方法については、全く正反対の二つの考え方があります。 一、人が真理を探究することについて 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、もし人が衣食住のためだけに生きているならば、他の動物と少しも変わりません。人の人たるゆえんは、「真理とは何か」、「人は、どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営みが、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向かって限りなく近づく赤い矢印として表すことができます。 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なものですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「相対的な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるものであることを決して忘れてはならないのです。 二、神が真理を啓示されることについて これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から現実の世界に向かっている青い矢印として表すことができます。 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、究極の真理に到達するまでの相対的な真理を教える「人の探求」では間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに示されたものです。 ですから、天地の創造を初め、永遠の生命や復活また奇蹟等、人間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に記されているのも当然ではないでしょうか。なぜなら「人が真理を探究する」という科学の発明でさえも、それが発明される前の人々には、全く不思議で信じられないものだからです。 たとえば、電話やテレビを全く知らない大昔の人々に対して私たちが、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができるもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く絵として見ることができるものであると説明しても、彼らは全く信じられないでしょう。 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるならば、それが信じられないようなことであるのも当然ではないでしょうか。聖書は、創世記の1章から、この「神の啓示」が記されているのです。拙著「聖書の中心的な教え」2「天地の創造(2)」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.04.16
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「人類の新旧の代表2」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12~21節 「死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです」(第一コリント15章21節)。 一、アダムの堕罪と死の支配 上の図の赤線の三角形は、人類の古い代表であるアダム(第一の人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。このように聖書は、アダムが罪を犯した時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。 ヒトゲノム計画は、ヒトのDNA(デオキシリボ核酸、すなわち遺伝情報)の全塩基配列を解読するもので、全世界の人々のDNAを調べ、ヒトゲノムのすべての配列を完成させました。ベンター博士と国立衛生研究所の科学者たちは、満場一致で、「人種は、ただ一つしかない」と宣言しました。換言すれば、すべての人はアダムの「腰の中にいた」、すなわち彼の傘下にはいっていたことが21世紀の科学で証明されたのです。 下の「一家に一枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)」を参照。 二、キリストの贖罪といのちの支配 上の図の青線の三角形は、人類の新しい代表であるキリスト(第二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型であるアダム(14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(15、17節)。 DNA(デオキシリボ核酸、すなわち遺伝情報)は、いのちの設計図(情報)であり、生きているいのちであり、新しいいのちを形造り(複製し)ます。パウロは、「私のうちに啓示(すなわち神の情報)」されるキリスト(ガラテヤ1章12、16節)と、「私のうちに生きておられる」キリスト(同2章20節)と、私の「うちに......形造られる」キリスト(同4章19節)について述べています。 聖書は、「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(キリスト)は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」(第一コリント15章44~49節)と教えています。 この聖書の言葉をDNA(デオキシリボ核酸、すなわち遺伝情報)という言葉を用いて言い表すなら次のように言うことができます。 アダムには肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAがあり、全人類は死の支配下にありますが、キリストには霊(御霊)のDNAがあり、キリストの贖いを信じるすべての人は、いのちの支配下にあるのです。「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型」(ローマ5章14節)であるように、「アダムの肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAは、キリストの霊(御霊)のDNAのひな型」です。 三、死の支配からいのちの支配への移行 すべての人はアダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配からのがれることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるなら(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。説教要約 737 の「創造論か進化論か」を参照。一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.04.09
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「十字架の意味するもの」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、6章11~16節 パウロは、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と述べています(14節)。 一、十字架を仰ぐということ 聖書にはイスラエル人が主に罪を犯して蛇にかまれた時、彼らが「旗ざおの上につけた......青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」ということが記されています(民数記21章9節)。 キリストは、この出来事を引用し、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われました(ヨハネ3章14節)。あの、旗ざおの上につけられた青銅の蛇は、「私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださ」ったキリストを表しています(同3章13節)。 十字架を仰ぐとは、私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったキリストを信じることであり、そうする時、私たちのすべての罪の行為が赦され、罪責と刑罰が取り除かれます。ですから十字架を仰ぐことは、まだ罪を赦されていない罪人のためです。 二、十字架につけられるということ パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました」(2章20節)、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」(ローマ6章6節)と述べています。 罪のからだとは、「死の、からだ」(ローマ7章24節)とも言われ、「私のうちに住みついている罪」(同7章17、20節)、すなわち原罪や罪性と呼ばれている罪そのものです。罪人が十字架を仰ぐなら、罪の行為は赦されて罪責と刑罰が取り除かれますが、原罪や罪性は残っています。これは聖霊によってきよめられ、取り除かれなければならないのです。 十字架につけられて罪のからだが滅びるとは、自我(エゴー)を神に明け渡して、聖霊によって罪が取り除かれたと信じる「きよめ」のことです。ですから十字架につけられることは、罪を赦されたキリスト者のためです。 私たちは「自我(エゴー)」が死ぬ時、ほんとうの「自分(セルフ)」が生きるのです。 三、十字架を負うということ キリストは「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)と言われました。 罪性を取り除かれて罪をきよめられたキリスト者にも自分(セルフ)というものがあります。この罪のない自分には人間として自然な願望や欲求や傾向性というものがあり、それ自体は決して罪でも悪でもありません。しかし実際の日常生活や奉仕の生活において、このそれ自体は罪でも悪でもない人間として自然な願望や欲求や傾向性をも犠牲にして神に従わなければならないことがあります。これが十字架を負うということであり、最も高尚な自己否定です。ですから十字架を負うことは、きよめられたキリスト者のためです。 この十字架は、「日々」とあるようにその都度負わなければならないものであり、「自分の」とあるように他の人とは全く関係がなく個人的なものです(ヨハネ21章22節)。この自分を捨て、日々自分の十字架を負うことこそ、きよめられ続けていく秘訣です。拙著「聖書の中心的な教え」49 「十字架の意味するもの」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.04.02
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