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「大人の知恵」 2019年5月12日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年7月31日放映「知恵の霊的な教え」「大人の知恵」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、14章20節 私たちは、幼子のような「単純な心」、すなわち「純粋で、素朴で、素直な心」が必要です。しかし「単純な心」だけでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜い大人の世界では生きていくことができません。 パウロは、「物の考え方(新共同訳は物の判断、文語訳は知恵)において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」と勧めています(20節)。 それで「大人の知恵」について聖書から学んでみましょう。 一、知恵の必要性について イエスは、十二使徒に対して「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と教えられました(マタイ一〇章16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、「賢明さ」だけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に「純粋さ」だけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言九章10節)。ヤコブは、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか」と私たちに問いかけ(ヤコブ三章13節)、二種類の知恵について教えています。すなわち、ねたみや敵対心があり、その結果、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いに至らせる「地に属する知恵」と、純真で、平和、寛容、温順で、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのない「上からの知恵」です(同三章15~17節)。 二、地に属する知恵 地に属する知恵(いわゆる世の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 ▽その源泉――これは失敗したり、転んだりした多くの人々の体験の中から身につけた人の教えであり、それは人間の努力の賜物であるということができます。 ▽その用途――これは、どのようにしたら世間で暮らしていくことができるかという世渡りのためです。 ▽その目的――これは競争に勝って人よりも優り、自分が得をすることです。 このように世の中において賢くて知恵があるというのは、世渡りが上手で、人に優り、得をすることであり、愚かで知恵がないとは、世渡りが下手で、人に劣り、損をすることです。この世の知恵は、「地に属する知恵」で、それは競争心をあおり、「ねたみと敵対心」を生じさせ、その結果、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い」に満ちた社会になることを避けることはできないのです。 三、上からの知恵 これに対して上からの知恵(すなわち神の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 ▽その源泉――これは、律法を定め、すべてのものを支配し、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために、あらかじめ備えてくださった神の教えであり、それは神からの賜物であるということができます。 ▽その用途――これは、どのようにしたら神の前に正しい姿になることができるかという罪からの救いのためです。 ▽その目的――これは、悔い改めの実をはじめ、御霊の実や奉仕の実など、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つことです。 このように神の前に、賢くて知恵があるというのは、キリストに対する信仰によって罪から救われて、良い実を結ぶことであり、愚かで知恵がないというのは、神を離れて罪を犯すことです。 私たちは、「悔い改めて子どもたちのようにな」る時(マタイ一八章3節)、「上からの知恵」すなわち神の知恵が与えられ、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つ人になることができるのです。6月4日までパソコンを使用ることができないので、それまでブログを休みます。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.05.12
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「幼子のような心」 2019年5月5日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年7月23日放映「神が与えてくださる知恵」「幼子のような心」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~6節 「真に偉大な人とは、おとなの経験と、子どものような単純で甘美な心をもった人である」と言った人がいます。これは醜いおとなの世界の中で、いつのまにか幼子の心を失ってしまった私たちにとって、何と考えさせることばではないでしょうか。 主イエス・キリストは、幼子たちを呼び寄せて、「天の御国はこのような者たちの国なのです」(マタイ19章14節)と言われただけでなく、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(3節)と語られましたが、これは何と驚くべきことでしょうか。 そこで「幼子のような心」とは、どのような心であるかについて、聖書の中から学んでみましょう。 一、幼子の心の特徴について 幼子は、どんなに無邪気であっても、神でもなければ天使でもないことは、言うまでもありません。まして人類の堕落以後は、幼子といえども罪を持って生まれるので、様々な悪い心があることは衆知の事実です。 しかしここで「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と言われているのは、幼子の心に代表される「単純な心」を教えようとしています。神が私たちに求められ、また私たちが神に対して持たなければならない最も大切な心は、この単純さなのです。 二、単純さについて それでは「単純さ」とは、どのようなことでしょうか。これはマタイの福音書6章22節に記されている「健全」(原語は単純)ということばから、三つの意味があります。 第一は、純粋で、二心ではないことです。 透明で、澄んでおり、曇りのない心を持つことで、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと識別し、判断することです。 第二は、素朴で、飾り気がないことです。 ありのままで、少しも繕わない心を持つことで、良く見せかけること(偽善)も、悪く見せかけること(偽悪)もないことです。 第三は、素直で、頑なではないことです。 意地や強情を張らず、教えられやすい心を持つことで、良いものは受け入れて信頼し、悪いものは拒絶することです。 これが「単純さ」に代表される幼子の心の特徴です。 三、おとなの心の特徴について これに対しておとなの心は、どのようなものでしょうか。それは幼子の心とは全く正反対の単純さを失ってしまった心です。 ◇第一は、純粋さがなく、二心です。 ◇第二は、素朴さがなく、繕う心です。 ◇第三は、素直さがなく、頑固な心です。 これが「単純さ」に代表される幼子の心を失ったおとなの心の特徴です。 四、幼子の心を失った理由について しかし私たちは、子どもからおとなになるにつれて、幼子の心に代表される単純さを失ってしまうのは、なぜでしょうか。それは幼子のような単純さでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜いおとなの世界では到底生きていくことはできず、初めは不本意ながらも、ついには承知で世の汚れに染まってしまうからです。 それではこのようになってしまった根本的な原因は何でしょうか。それは私たちを決して裏切ることのない真実と愛に満ちた神とその世界を信じないで、ただ私たちを欺いて懐疑的にさせる罪深い人間とその世界しか知らないからです。 五、幼子の心を取り戻す秘訣について 聖書は、「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマ3章4節)と教えていますが、限りなく正しく、きよく、そして真実と愛に満ちた神を信じることこそ、猜疑心が取り除かれて、幼子のような単純な心を持つことができる秘訣なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.05.04
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