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「光の霊的な教え」 2019年9月1日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年4月3日放映「信仰に成長する秘訣(3)」 「光の霊的な教え」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙第一、1章1~10節 聖書は、光のすばらしさについて次のようなことを教えています。 「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(伝道者11章7節、文語訳、新共同訳)。 「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4章18節)。 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません」(第一テサロニケ5章5節)。 私たちは、光というものが、どんなに大切なものであるかをよく知っています。もし光がなかったならば、この世は死の世界になってしまうでしょう。このことは、自然界の光だけでなく、精神的または道徳的な光に関しても同様のことを言うことができます。 そこで光ということについて聖書から学んでみましょう。 一、光の意味について 光とは、何を意味しているのでしょうか。それは、文字通りの光である自然界の光や物理的な光のほかに、聖書は私たちに次のような光について教えています。 1.光は、絶望に対して希望、また苦難に対して栄光、さらに死に対して生命というように、実際的に価値のあるすばらしいものに対する総称です(エステル8章16節)。 2.光は、無知に対して知識、迷いに対して悟り、さらに不正や虚偽や罪に対して正義や真理や救いというように、知的、道徳的、そして霊的に価値のあるすばらしいものに対する総称です(使徒26章18節)。 3.光は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物……光を造られた」神を現しています(5節、ヤコブ1章17節)。これは、「偽りの父」であり、「暗やみの世界の支配者」である悪魔に対立するものです(ヨハネ8章44節、エペソ6章12節)。 二、光の働きについて 光は、どのような働きをするのでしょうか。様々な働きがありますが、特に大切な三つのものを挙げてみましょう。 1.「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます」(エペソ5章13節)。 光の働きの第一は、すべてのものを照らして明らかにすることです。私たちは、聖書と聖霊の光によってのみ、神と自らの罪深い姿と十字架の救いを知ることができるのです。 2.「光の中を歩んでいるなら……すべての罪から私たちをきよめます」(7節)。 光の働きの第二は、日光消毒のように罪をきよめることです。聖霊は、私たちに罪を示すだけでなく、イエスの血のゆえに、その罪を焼き尽くすのです。 3.「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(エペソ5章9節)。 光の働きの第三は、植物の生長を助けるように、キリスト者の結実と成長を助けることです。 三、光の霊的な教え それでは私たちは、光に対して、どのようにすればよいのでしょうか。 1.光のほうに来る(ヨハネ3章21節)。 私たちは、聖書と聖霊の光によって自らの罪深い姿を示されたならば、罪を悔い改めてキリストの十字架による贖いを信じなければなりません。これが光のほうに来ることであり、私たちは、光のほうに来なければ、暗黒と罪の中に止まるのです。 2.光の中を歩む(7節、エペソ5章8節)。 光のほうに来て光の子どもとなったキリスト者は、聖書と聖霊の光によって教えられたり、示されたりしたことを信仰によって実践しなければなりません。これが光の中を歩むということです。 3.光を輝かす(マタイ5章16節)。 しかし私たちが光の中を歩んで、奉仕や善行に励むのは、単に自分のためではなく、ほかの人たちが神を信じて救いを受け、神の栄光が現れるためです。これが光を輝かすということです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2019.08.31
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「支配の霊的な教え」 2019年8月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年3月19日放映「信仰に成長する秘訣(2)」「支配の霊的な教え」 甲斐慎一郎コロサイ人への手紙、1章13~22節 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」(使徒26章18節)。 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(13節)。 一、支配の意味と四つの支配 「支配」とは、「上に立って人・組織・国などを自分の意のままに動かすこと」と国語辞典に記されています。支配には、様々なものがありますが、基本的には、次のような四つがあります。 1.自然の法則の支配――人のからだは、自然の法則の支配下にあり、それから逃れることはできません。 2.道徳の律法の支配――人の心は、道徳の律法の支配下にあり、それから逃れることはできません。 3.国家の主権の支配――人は、国家の主権の支配下にあり、それから逃れることはできません。 4.神の主権の支配――人の霊と心とからだは、神の主権の支配下にあり、それから逃れることはできません。 聖書は、神は「すべての支配、権威、権力、主権(すなわち天使たち)」、また「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち(すなわちサタンともろもろの悪霊)」、そして「今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に」あって支配しておられると教えています(16節、エペソ1章21節、3章10節、六章12節)。 二、サタンの支配下にある罪人 「世全体(すなわちすべての人間)は悪い者(すなわちサタン)の支配下にあ」ります(第一ヨハネ5章19節)。言い換えれば、すべての人は、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(すなわちサタン)に従って歩み……自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い……生まれながら御怒り(すなわち神の怒り)を受けるべき子らで」す(エペソ2章2、3節)。このように神の怒りを受けるべき人間は、「御子のご支配の中に移」されないかぎり(13節)、このサタンの支配から逃れることはできないのです。 これが「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」る人間のありのままの姿です(21節)。それでパウロは、「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返」ることの必要性を述べているのです(使徒26章18節)。 三、御子の支配下にあるキリスト者 サタンの支配下にある人は、どんなに修行や苦行を積んでも、悪を行うことを止めることもできなければ、神のみこころにかなう良いことを行うこともできません(ローマ3章10~18節)。サタンの支配は、「暗やみの圧制」(13節)とあるように、権力で無理やりに従わせる強力なもので、抵抗することができる人は、ひとりもいません。ただ神の支配の中に移される以外に、サタンの圧制から救い出されることはできないのです。 それで、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」(エペソ2章4節)、「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださ」り(20節)、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」(エペソ2章5節)、「私たちを暗やみの圧制(すなわちサタンの支配)から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(13節)。 私たちは、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった」者ですが(21節)、「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返」り(使徒26章18節)、イエス・キリストの十字架による贖いを信じるなら、「御子のご支配の中に移」され(13節)、「罪の赦しを得……聖なるものとされ……御国を受け継」ぐ者とされるのです(使徒26章18節)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2019.08.17
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「神の教育と人の教育」 2019年8月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年3月4日放映「信仰に成長する秘訣(1)」「神の教育と人の教育」 甲斐慎一郎 申命記8章1~10節 「モーセが死んだときは120歳で」したが(申命記34章7節)、彼の生涯は、40年ずつ3つの期間に分けることができます。 一、モーセの生涯の3つの期間 1.人の教育を受けた40年間――モーセは、王女の子として「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」(使徒7章22節)。 2.神の教育を受けた40年間――モーセは、ミデヤンの荒野において神の教育を受けました(使徒7章29、30節)。その間に彼の中に燃えていた自らの野心や情熱という火は消え、柴の燃える炎に象徴される神の聖なる愛の火によって燃やされる人になりました。 3.神に奉仕した40年間――モーセは、神の召命に従い、神によって遣わされてイスラエル人をエジプトから連れ出しました。 二、人の教育と神の教育 第一の期間は、人の教育を受けた期間、第二の期間は、神の教育を受けた期間です。 「教育する」という言葉は、日本語においては「教え、育てる」と書きますが、英語においては「引き出す」という意味であると言われます。どちらも教育とは何かということを非常によく表しています。 1.人の教育――3つの特徴があります。 a.良いことを教え、良いものを引き出す 良いことを教えるだけでは、詰め込み教育であり、真の教育ではありません。良いことを教えるだけでなく、良いものを引き出して育てるところに真の教育があります。 b.性善説に立脚しています 人の教育は、人間の本性は善であるという性善説に立脚しています。良いことを教えるなら、必ず良いものを引き出して育てることができると信じています。しかし現実は、そのような生易しいものではありません。 c.道徳に関しては無力です 人の教育は、道徳的な善悪とは関係のない知能や能力に関しては極めて有効であり、文明の発達や文化の向上に貢献していますが、最も大切な人格や品性を形造る道徳に関しては無力です。 2.神の教育――3つの特徴があります。 a.悪いものを引き出して取り除き、良いことを教えて育てる 神が私たちを苦しめ、私たちを試みるのは、私たちの「心のうちにあるものを知るため」です(2節)。その心のうちにあるものとは、神を喜ばせるものではなく、神を怒らせるもの、すなわち神への不信仰と反逆という罪です(9章7、8、23、24節)。神の教育は、私たちに良いことを教えて育てる前に、まず私たちの心のうちにある悪いものを引き出して取り除くことから始まるのです。 b.性悪説に立脚しています 神が私たちに対してこのような教育をされるのは、人間の本性は悪であるという性悪説に立脚しているからです。神が私たちに毒を吐き出させるように罪を吐き出させるのは、私たちが罪という毒のために死なないためです。ですから苦難や試練に会っても、それによって吐き気を催し、罪という毒を吐き出すなら、幸いなことであり、反対に幸福そうな境遇でも、罪という毒を飲んでいることに気がつかず、そのままにしているなら、恐ろしいことなのです。 c.道徳に関して最も有効です 神の教育は、単なる知能や能力に関するものではなく、私たちの人格と品性を形造る道徳に関するものです。それは言い換えれば、罪からの救いにほかなりません。 三、私たちの生涯の三つの期間 ヨセフは17歳まで人の教育を受け、30歳まで神の教育を受け、その後、エジプト全土の統治者として奉仕し、ダビデは、10代の半ばまで人の教育を受け、30歳頃まで神の教育を受け、その後、王として奉仕し、パウロは、33歳頃まで人の教育を受け、アラビヤで3年間、神の教育を受け、その後、伝道の働きをしています。 私たちの生涯は、どうでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2019.08.17
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「神の平和と人の平和」 2019年8月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年1月20日放映「信仰の妨げ(3)世への愛着」「神の平和と人の平和」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章34~39節 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」(34節)。 これは、表面的にみるならば、「平和の君」(イザヤ9章6節)であるキリストに誠にふさわしくない言葉です。しかしこのキリストの言葉は、「平安がないのに『平安だ、平安だ』と言っている」(エレミヤ6章14節、8章11節)人々への頂門の一針です。神がもたらす真の平和がどのようなものであるかを教えるのに、これほど鋭い言葉はないでしょう。それは余りにも多くの人々が偽りの平和のなかで眠りこけているからです。 一、四種類の平和について 平和には、次のような四種類の平和があるのではないでしょうか。 1.環境的な平和(肉体の安全)――災害や病気など人の尊い生命や健康な肉体を脅かすものから守られることです。パウロは「私たちの身には少しの安らぎもなく」と正直に告白しています(第二コリント7章5節)。 2.対人的な平和(人との平和)――国際間の戦争から家庭内の紛争に至るまで、あらゆる人との争いがないことです。聖書は「すべての人との平和を追い求め……なさい」と教えています(ヘブル12章14節)。 3.精神的な平和(心の平安)――精神的な動揺や心の不安がないことです。イザヤは「悪者どもには平安がない」(イザヤ57章21節)と記して、人々に警告しています。 4.霊的な平和(神との平和)――神の敵となっていた罪人がキリストの十字架のゆえに神と和解することです。パウロは「義と認められた私たちは……神との平和を持っています」と述べています(ローマ5章1節)。 これらの四種類の平和は、互いに密接な関係にありますが、それぞれ別個のものであることを決して忘れてはなりません。 二、人の平和について 人が求める平和は、4番目を除いた前の3つです。この中で環境的な平和と対人的な平和は、それ自体を求めるなら、ある程度は得られますが、精神的な平和は、これ自体を求めても得られるものではありません。それは、霊的な平和をも含めたほかの三つの平和の結果だからです。ですから、私たちは、平和で豊かな社会になるなら、不完全ながら、環境的な平和と対人的な平和を得ることはできますが、神との平和を持たなければ、心の平安を得ることはできません。 しかし神との平和を持たずに心の平安を得ようとする人は、真の平和の代わりに、次のような偽りの平和をつくり出すのです。 1.妥協による平和――罪に敗北して、罪と戦わないことによる偽りの平和です。 2.弁解による平和――罪を正当化して、罪と戦わないことによる偽りの平和です。 3.逃避による平和――罪を隠して、罪と戦わないことによる偽りの平和です。 三、神の平和について それでは神が与える真の平和は、どのようなものでしょうか。 1.姑息な平和の眠りから目覚める。 妥協と弁解と逃避による偽りの平和の中で眠りこけている人は、神の言葉や厳しい苦難という剣によって目覚めなければ、どうして真の平和を求めることができるでしょうか。 2.神と争わず、神との平和を持つ。 真の平和は、罪と争わないことではなく、神と争わないことです。そのためには、神に敵対していた私たちが、キリストの贖いを信じることによって罪を赦され、神と和解することです(コロサイ1章20~22節)。 3.罪と戦って、罪に打ち勝つ。 神と争わず、神の味方になった者は、神に逆らう罪と世と悪魔と戦って勝たなければ、真の平和を得ることは不可能です。なぜなら、 私たちは、罪と戦わずに敗北するなら、必然的に神と争うことになるからです。 私たちにとって、「どうしても必要なことは」(ルカ10章42節)、神との平和です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2019.08.16
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「神の目と人の目」 2019年8月4日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年1月13日放映「信仰の妨げ(2)物への執着」 「神の目と人の目」 甲斐慎一郎 サムエル記第一、16章6~8節 「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節)。 これは預言者サムエルが、イスラエルの二代目の王となる人に油をそそぐためにエッサイの家を訪れ、長子エリアブを見て、彼こそ王に選ばれる者だと思った時、主がサムエルに語られた言葉です。 この言葉は、神の見るところと人の見るところが違っていることを私たちに教えています。それで神の目と人の目は、どのように違っているのかということを考えてみましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る」というのは、その違いの典型的な一例です。 一、人は外面を見るが、神は内面を見る 人がどんなに外面しか見ていないかということは、この偉大な預言者サムエルでさえ、エリアブの容貌や背の高さといううわべに気をとられたことによって分かります。しかし私たちが人の外面しか見ていないなら、次のような三つの間違いを犯すようになります。 1.正しい評価ができない――うわべに気をとられて、間違って人を見てしまいます。 2.正しい対応ができない――間違った見方のために接し方も間違ってしまいます。 3.正しい解決ができない――間違った接し方は、事態を悪化させてしまいます。 人のうわべしか見ていないなら、人間関係に問題が絶えないのは当然のことでしょう。しかし神は私たちの心をご覧になる方です。 1.神は正しい評価をされる――神は人の心を見て、その本当の姿を知っておられます。 2.神は正しい扱いをされる――神は人の姿に応じて、慰めと懲らしめを与えられます。 3.神は正しい解決をされる――神は人の罪のために真の救いを備えておられます。 二、人は部分を見るが、神は全体を見る 私たちの人生は、人格という建物を生涯を費やして建築するようなものであり、その建物は一生を終えなければ全体が見えないほど大きなものです。しかし聖書は人の心について、「悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている」(伝道者8章11節)と記しているように、何と人の視野は狭く、一部分しか見ていないことでしょうか。 これに対して神の視野は広く、いつも全体を見ておられます。私たちが数週間、良いことをしたからといって、すぐに全体が完成するものでもなければ、数週間、悪いことをしたからといって、すぐに全体が崩壊するものでもありません。しかしその結果は必ず刈り取ることになります(ガラテヤ6章7節)。 ですから私たちは、すぐに良い結果が出なくても、常に良いわざに励み、天に宝をたくわえていくことが必要なです。 三、人は過去から現在を見るが、神は将来から現在を見る 私たちが人を見る時、その人の現在の姿しか見えません。しかもその人の現在の姿というのは、その人の過去の経歴の積み重ねであり、結果です。ですから人は、その人の過去の経歴を通して現在の姿を見ているということができます。 これに対して神も私たちの現在の姿を見ておられるということに変わりはありません。しかし全知全能の神は、私たちが現在の姿のままで生きていくなら、これから先どうなるのかという私たちの将来を知っておられ、その将来の運命から現在の私たちを見ておられるということができます。 神は、私たちが永遠の滅びに至る呪われた将来ではなく、永遠のいのちに至る祝福された将来を迎えることができるように、今この時、心から罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて救われ、恵みに成長しているかどうかを見ておられるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.08.03
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