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「神の熱心と人の熱心」 2019年6月30日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年11月7日放映「神を信じなさい」 「神の熱心と人の熱心」 甲斐慎一郎 黙示録3章14~22節 「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい」(第二列王10章16節)。 「万軍の主の熱心がこれをする」(第二列王19章31節、イザヤ37章32節)。 この前半の「列王記、第二」の10章にはエフーの熱心さ、すなわち人の熱心について、後半の19章には万軍の主の熱心さ、すなわち神の熱心について記されています。 熱心さとは、どのようなことでしょうか。それは文字通り「心が熱いこと」です。心は「知性」と「感情」と「意志」から成り立っているので、熱心さを分析するなら、次のようになります。▽知性的な熱心さ――識別する熱心さ▽感情的な熱心さ――燃える熱心さ▽意志的な熱心さ――成し遂げる熱心さ 一、人の熱心について これには、それぞれ次のような特徴があり、これらの三つのものに均衡がとれていることが何よりも大切です。 1.知性的な熱心さとは、評論家のように物事の善し悪しを識別する熱心さのことです。もしこの熱心さだけならば、ただ冷たく批評して実行しない者になりますが、一方これがなければ、分別を失って非常識になってしまうことでしょう。 2.感情的な熱心さとは、心が燃える熱心さのことです。もしこの熱心さだけなら、熱しやすいが冷めやすいために長続きせず、また分別を失って非常識になりますが、一方これがなければ、心の熱を失って冷たくなってしまうことでしょう。 3.意志的な熱心さとは、どんなことがあっても物事を成し遂げる熱心さのことです。もしこの熱心さだけならば、冷たくて厳しく、また非常識になりますが、一方これがなければ、最後まで成し遂げることができなくなってしまうことでしょう。 二、神の熱心について これに対して神の熱心とは、どのようなものでしょうか。 1.燃える熱心さ――聖書は、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2章17節)という罪を罰する熱心さと、「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11章8節)という罪人を愛する熱心さを教えています。そしてこの罪を罰せずにはおかない燃える怒りと、罪人を愛してやまない燃える愛とが一つになったものこそ、キリストの十字架にほかならないのです。 2.成し遂げる熱心さ――聖書は、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9章7節)と、神の成し遂げる熱心さを教えています。 3.識別する熱心さ――このように神は、私たちが罪を犯し続けるなら、どんなに恐ろしいことになるのか、しかし罪から救われるなら、どんなに幸いであるのかということをよく知り抜いておられるので、「熱心になって、悔い改めなさい」(19節)と命じられるのです。 三、真の熱心について キリストは、「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われました(16節)。キリストは、私たちが熱心であることを求めておられますが、私たちの姿は、どうでしょうか。 1.私たちは、善悪を識別して悔い改めることにおいて、なまぬるくないでしょうか。 2.私たちは、神と人を心から愛する情熱において、なまぬるくないでしょうか。 3.私たちは、神のわざを成し遂げることにおいて、なまぬるくないでしょうか。 私たちが神の前に熱心な者となるための秘訣は、この熱心な神を信じることです。もし私たちが、私たちを愛する余りいのちまで捨てて私たちの救いを成し遂げてくださるだけでなく、私たちの真の幸いが何であるのかを知って悔い改めを命じられる熱心な神を心から信じるなら、どうして不熱心であることができるでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.06.29
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「成長する愛」 2019年6月23日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年10月2日放映「思いの霊的な教え」 「成長する愛」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~21節 ヨハネの手紙の著者ヨハネは、「イエスが愛された弟子」であり(ヨハネ21章20節)、「愛の使徒」と呼ばれ、折りあるごとに、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」と語ったと言われています(7節)。そこで、「愛の成長段階」または「成長する愛」について学んでみましょう。 一、愛されること――受動的な愛 私たちがこの世に生を受けてから最初に体験する愛は、母の愛です。この愛は、一方的に受ける愛、また愛される愛ですが、人が育ち、また成長していくためには、まずこの愛されるという「受動的な愛」が必要です。 「愛されること」は、肉体の生育のみならず、人格の形成および心の成長にとっても大切な基礎です。なぜなら人は、愛されることによってのみ、肉体的にも精神的にも健全に成長していくことができるからです。このことは、幼少の時だけでなく、人の一生においても全く同じであるということができます。 けれども、私たちを取り囲んでいる周囲の人たちの愛は、決して正しくて聖い愛ではなく、過保護や溺愛をはじめ、利己的な愛や押し付けの愛、またその反対の放任や冷酷、果ては汚れた愛など、間違った愛に満ちているのではないでしょうか。 しかし、ここに正しくて聖い真の愛があります。それは、私たちを愛するあまり、そのひとり子イエス・キリストを人間の罪を贖って死に渡された神の愛です。もし私たちがこの神の愛を知らなかったならば、この罪に汚れた世にあって、どうして正しく聖く生きていくことができるでしょうか。 二、愛すること――能動的な愛 次に私たちが経験する愛は、私たちのほうから相手を愛する「能動的な愛」です。これには、両親への愛、友人への愛、異性への愛などがあります。 この「愛すること」は、本能として、また「愛されること」に対する応答として、人間が成長していくために不可欠なものです。もし私たちが「愛されること」ばかりを考えて、「愛すること」を知らなかったならば、人間として最も大切なものを失っていることになります。 けれども人間が抱く愛は、何と利己的で、不純なものでしょうか。相手のことよりも、結局は、自分のことしか考えない間違った愛を持つことが多いものです。 しかし、ここに真の愛があります。それは、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(19節)という神の愛に応答した愛です。この神の愛に応答して、神から与えられる愛こそ、私たちから利己心と不純な心を取り除き、純粋で、汚れのない、聖い心をもって人を愛するようにさせるものです。 三、互いに愛し合うこと――相互的な愛 最後に私たちが求めなければならない愛があります。それは、互いに愛し合う「相互的な愛」です。愛とは、本来、互いに愛し合うものであり、いわゆる「片思い」では成り立たないだけでなく、決して満足することはできないでしょう。「互いに愛し合うこと」は、愛の本質です。 しかし人間同志の愛は、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(第二コリント12章15節)というように、裏切られたり、または反対に人を傷つけたりしているうちに、互いの愛を見失ってしまいやすいものです。 互いに愛し合うためには、どうすればよいのでしょうか。それは、私たちの「愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな」ることです(ピリピ1章9節)。私たちの愛は、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようにな」る(エペソ3章18節)ことによって、いよいよ豊かになり、こうして神と私たちとの間の「相互的な愛」が深くなる時、私たちは、愛を見失うことなく、互いに愛することができるようになるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.06.22
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「聖霊に満たされる秘訣」 2019年6月16日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年9月24日放映「御霊による思いと肉の思い」 「聖霊に満たされる秘訣」 甲斐慎一郎 使徒の働き1章3~14節 キリスト教の教会暦における行事の中で最も大切で代表的なものは次の三つです。1.クリスマス(キリスト降誕節)2.イースター(キリスト復活節)3.ペンテコステ(聖霊降臨節) 聖書は、キリストが降誕されたクリスマスは罪の贖いを成し遂げるイースターのためにあり、イースターは私たちに聖霊が臨まれるペンテコステのためにあると教えています。 一、聖霊に満たされる第一の秘訣――神の約束を知って待ち望むこと(3~8節) イエスは、弟子たちに「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました(4節)。弟子たちに聖霊が与えられることは父の約束です。しかしここに至るまでのイエスの生涯を見るなら、イエスの生涯そのものが私たちに聖霊を与えるという約束です。イエスは、私たちに聖霊を与えるために、ご自身の尊い血を流されたからです(ヨハネ7章39節、12章23、24節)。 イエスの十字架の死と復活と昇天は、私たちに聖霊をお注ぎになるため「御父から約束された聖霊を受け」る準備であり、条件でした(使徒2章33節)。イエスは、この箇所において3回も聖霊を与えるという約束をしておられます(4、5、8節)。 しかし弟子たちは、地上の王国を夢みて、イスラエルの国の再興のことを質問しました(6節)。その時、イエスは、今すぐ知らなくてもよいことと、緊急に知らなければならないことを教えられました。後者は、聖霊が与えられることです。 しかし人は、ともするとすぐ知る必要のないことや目新しいものを求めようとします。けれども信仰の世界においては、66巻の聖書が与えられている現在、新しい真理など存在しません。古い神の約束をなおざりにして新しい知識を求めても、人は決して変わりません。かえって古い神の約束を再認識し、再発見する時、新しい光(知識)が与えられ、新しい体験をすることができるのです。 二、聖霊に満たされる第二の秘訣――聖霊の必要性を深く自覚すること(9~11節) イエスは、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天に上って、「すぐれて高い所の大能者(神)の右の座に着かれ」たと聖書は教えています(ヘブル1章3節)。言い換えれば、イエスの昇天は、贖いのわざの完成です。そして聖霊の降臨は、その結果です。イエスが昇天されなかったならば、聖霊が臨まれることはなかったのです(ヨハネ一六章7節)。 しかし弟子たちは、相変わらずイエスが復活された後も、地上の王国を夢見ていましたが、昇天によってイエスが彼らの視界から消えた時、彼らが見ていた地上の王国の夢も消えてしまいました。その代わり地上の王国が建設される前に、人々の心の中にキリストによる霊的な王国を建設する大任が彼らに託されました(8節)。 弟子たちは、目に見える頼みの綱であったイエスが取り去られたので、約束の聖霊を待ち望む以外になすすべがなかったのですが、これは私たちにとっても同じです。 三、聖霊に満たされる第三の秘訣――神にすべてをささげて信じること(12~14節) だれが一番偉いのかと争っていた弟子たちが、なぜ心を一つにして祈りに専念することができたのでしょうか(14節)。聖霊が必要であると深く自覚していたので、体裁や体面など気にしている時ではなかったからです。 神にすべてをささげる献身は、神の前に正しい者として立つために、人の前における体裁や体面に死ぬことです。「人はなにと言うともよし、光に従い、言い表わさなん」(聖歌265番2節)とある通りです。人の前における体裁や体面とは、人からの誉れのことで、私たちは、「互いの栄誉は受けても(すなわち人からの誉れを求めても)、唯一の神からの誉れを求めな」ければ、真の信仰を持つことはできません(ヨハネ5章44節)。神にすべてをささげて信じる時、私たちは聖霊に満たされることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2019.06.15
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「聖霊降臨の必要」 2019年6月9日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2014年9月10日放映「神に近づく道」 「聖霊降臨の必要」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章32~36節 聖霊降臨節(ペンテコステ)は、人々に聖霊が注がれた記念すべき日ですが、なぜ聖霊が注がれる必要があったのでしょうか。 一、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」る人間 聖書は、人は、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者で……この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」る者であると教えています(エペソ二章1、2節)。 人は、罪を犯したことによって、罪過と罪との中に死にましたが、それは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪魔)に従って、歩んでい」るということなのです(同二章2節)。 二、「この世の神」である「悪い者(悪魔)の支配下にある」世全体(全世界) パウロは、サタンのことを「この世の神」と呼び(第二コリント4章4節)、ヨハネは、「世全体(全世界)は悪い者の支配下にある」と述べています(第一ヨハネ5章19節)。 第三の天は、「雲のように私たちを取り巻いている」「多くの証人たち(信仰偉人列伝の人たち)」のいる所、「生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会……天に登録されている長子たちの教会」のある所ですが(ヘブル12章1、22、23節)、「天にいるもろもろの悪霊」(エペソ6章12節)とあるように、悪霊も、天(第三の天)にいるだけでなく、悪霊のかしらである悪魔は、「空中の権威を持つ支配者として」君臨しています(参照、黙示録12章7~9節)。 三、御父から約束された聖霊を受けて全世界の人々に聖霊をお注ぎになった――神の右すなわち第三の天に上げられた――イエス 罪を犯した人間が罪から救われるためには罪を赦され、きよめられることが必要ですが、そのためには、悪魔の支配から救い出され、聖霊の支配の中に移ることが必要です。 悪魔は、第三の天にいて「空中の権威を持つ支配者として」、第二の天と第一の天をも支配していますが、神は、その上にあってサタンさえも支配しておられる方です。 ですから罪を犯した人間がサタンの支配から救い出されるためには、第三の天におられ、第二の天と第一の天をも支配しておられる神の支配の中に移ることが必要です。そのためにキリストは、真の神でありながら真の人として、この世にお生まれになり、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座(第三の天)に着かれ」(ヘブル1章3節)、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(33節)。 私たちは、聖霊を受け、聖霊に満たされて、聖霊の支配の中に移ることによってのみ、サタンの支配から救い出されて、罪を赦され、きよめられることができるのです。 下の図は、三つの天と、それぞれの中に住んでいる神と人間と天使と悪魔を現しています。甲斐慎一郎の著書→説教集甲斐慎一郎書籍販売はこちらからどうぞ↓↓↓東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎書籍販売
2019.06.08
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