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「これ以上、単純化できない複雑さ(1)」 2019年10月27日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年9月21日放映「摂理と運命」 「これ以上、単純化できない複雑さ(1)」 甲斐慎一郎 詩篇139篇13~18節 一、ネズミとりが教える「これ以上、単純化できない複雑さ」について 「『単純化できない複雑さ』という言葉は、単純化できない複雑なシステムをどうやって認識するかを問わねばならない。ある生物システムが単純化できない複雑なものだということをいつ確信できるだろうか。 1.単純化できない複雑さを決定する第一段階について 単純化できない複雑さを決定する第一段階は、そのシステムの機能とシステムのすべての構成要素の両方を特定することである。単純化できない複雑なものは、いくつかの部分からなり、すべての部分がその機能に寄与している。極度に複雑なもの(たとえば目、ゴミムシ、その他の多細胞の生物システム)の場合に出会う問題を避けるため、簡単な機械の例から始めよう。何の変哲もないネズミとりである。 ネズミとりの機能は、ネズミを動けないようにして、小麦粉の袋や電気コードをかじったり、自分の存在を知らしめるちょっとした落し物を掃き掃除が行き届かない隅の方に残したり、という非友好的な行動をネズミがとれないようにすることだ。わが家で使っているネズミとりは、いくつもの部品からできている。 (1)土台となる平らな木製の台、 (2)ネズミをはさむ仕事を実際に行う金属のハンマー、 (3)罠を仕掛けたとき、台とハンマーに力がかかるようになってい る、両端に枝の出たバネ、 (4)わずかな圧力が加わっても、はずれる感度の高い引き金、 (5)引き金につながっていて、罠を仕掛けたときにハンマーを押し 戻しておく金属棒(この他にもシステムを一つにまとめている 留め具がある)。 2.あるシステムが単純化できない複雑なものかどうかを決定する第二段階について あるシステムが単純化できない複雑なものかどうかを決定する第二段階は、すべての構成要素がその機能に必要かどうかを問うことである。この例で言うと、答えは明らかにィエスである。ある晩、読書をしていると、食糧貯蔵室でパタパタという軽い足音がするのを聞きつけ、小道具の入った引出しにネズミとりを取りに行く。不幸にして不良品で、前に挙げた部品のどれかーつが欠けていたとする。その部品が欠けていても、まだネズミを仕留めることのできるものがあるとしたら、どれだろうか。木製の土台がなければ、他の構成要素を取り付ける台がないことになる。ハンマーがなければ、ネズミは木製の台の上に押さえつけられることなく、一晩中ダンスができるだろう。バネがなければ、ハンマーと台はゆるんだ音をたてるだけで、やはりネズミは捕まらない。引き金か、金属の留め棒がなかったら、使おうと思う間もなく、バネがバチっとハンマーを閉めてしまう。罠を使うためには、罠を開いておいてネズミを捕まえなければならない。(マイケル・J・ベーエ著『ダーウィンのブラックボックス』68~72頁)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2019.10.26
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「聖書の中の科学(3)」 2019年10月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年9月9日放映「初めに情報ありきか物理法則ありきか」「聖書の中の科学(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録11章3~9節 五、イエーメンのユダヤ人の物語 江戸時代に薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1,500キロメートルの道のりを50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。現在、東京―鹿児島間は、新幹線で6時間30分で結ばれ、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。もし西郷隆盛が、羽田空港で鹿児島空港行きの飛行機を見て、1時間50分で、鹿児島に着くと聞いたなら、腰を抜かすほど驚き、そんなことはあり得ないと言い、飛行機に乗るように言われても、恐ろしくて乗れなかったでしょう。 ところが今から70年ほど前に飛行機があることさえ知らず、また見たこともない人たちが、聖書の言葉を信じて、少しも驚かずに飛行機に乗った出来事が起こりました。 「イエーメンのユダヤ人の物語がある。彼らは、その地に移って2,000年近くたち、その間、外部の文明世界からは隔絶された状態にあった。ある日のこと、文字通り風の便りに、神はその約束を果たされ、パレスチナの地に白分たちの祖国が建てられたと聞いた。――1948年のことである。――その瞬間、43,000人のユダヤ人が(特別の事情のある1,000人を除いて)、すべてを捨てて歩き出した。どこへ。もちろん祖国へである。彼らは全員、女も子供も、岩山を越え、砂漠を過ぎ、まずアデン目がけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルヘと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは、飛行場まで来た時、大きな輸送機を見て、少しも驚かなかった。当然のようにそれに乗り込んだのには、迎えに来た者の方が驚いた。それをただすと彼らは、平然として答えた。『聖書に記されているでしょう。風の翼に乗って約束の地へ帰る、と』」(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」山本書店、44頁、1970年)。 聖書には「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た」(出エジプト19章4節)、また「彼はケルプに乗って飛び、風の翼に乗ってあらわれた」(第二サムエル22章11節)と記されています。 六、エルサレムで殺された二人の証人を全世界の人々が見たという聖書の記事 聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」には、次のようなことが記されています。 「わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て、1,260日の間、預言する。……彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は……彼らの主も十字架につけられたところ(エルサレム)にさらされる。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、3日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない」(黙示録11章3~9節)。 今から1,900年も前に書かれた聖書の時代に、エルサレムに横たわっている二人の死体を全世界の人たちが現地に行って、3日半の間、ながめることなど、その必要性もなく、あり得ないことです。それなのに、なぜこのようなことを記しているのでしょうか。 「さて、反キリストが葬ることを拒んだこの死体を3日半の間に、どのようにして、すべての民族、国語、国民から出た人々が見ることができるのかと、あなたは尋ねるかもしれない。テレビジョンが発明されるまでは、このことは人々にとって、非常に理解するのに困難な場所であった。たったひとことの命令で、全世界のテレビ放送局が彼らの死体を写し出すことかできるのである」(テモテ・ザオ著「幕開ける預言」155頁、霊糧出版社、1961年)。 今から1,900年も前に書かれた聖書に「飛行機」と「テレビジョン」があることを預言している記事があることは、聖書は、人間が決して記すことができないもので、全知全能の神が聖書記者たちに書かせたものであることを証明しているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2019.10.19
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「聖書の中の科学(2)」 2019年10月13日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年7月29日放映「被造物が証明している神の存在」 「聖書の中の科学(2)」 甲斐慎一郎 レビ記17章11節 水の循環とそれに伴う地球規模の大気の循環は、近代になってようやく科学的に解明されたわけですが、このことは昔から聖書の多くの箇所で言及されていました。それは今から三千年前に「伝道者の書」の1章6、7節で、「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」とあります。これは、地球における水と風の循環の、簡潔で包括的な説明です。 水の循環については、ヨブ記36章27~29節には、「この方は水のしたたりを細かくし、その蒸気を雨として注ぐ。それは雲から降り、人の上に豊かに注がれる。いったい、だれが雲の広がりと、その天幕のとどろきとを悟りえよう」(欽定訳私訳)。 水の循環について未だ分かっていないことは多くあります。水の循環のそれぞれの状態は、地球に生命が存在するために必要不可欠なものです。このことは、生命の起源が、いつくしみと愛に満ちた賢明な創造主の、創造のみわざによることの大いなる証拠です。 四、生物学 生物のしくみで血液が特に大切だという事実が、レビ記など聖書の多くの箇所に記されています。しかもそれらは、1616年にウィリアム・ハーヴェイが血液循環を発見する数千年前に書かれているのです。レビ記17章11節は、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである」と告げています。 生命の維持は、体細胞に酸素と水と栄養がたえず供給されることで成り立っていることが、今では知られています。この欠かすことのできない機能は、体内を血液が絶えず循環するという驚くべき方法で達成されています。病原菌と戦ったり、傷ついた組織を治したりする血液の役割は、医学で最も重要な発見の一つで、手術や治療などの有益な処置の一つとして輸血がなされることも、肉体をもつ生命にとっての血液の重要性を示しています。 「1799年、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンは当時の名医たちの努力もむなしく、出血多量のため帰らぬ人となりました。その当時は、一部の人々だけが血液についての知識を持っていたにすぎず、ワシントンの治療をしていた医者は、病気の治療のために何回も何回も『捨血(血を抜いて捨てる)』をしていたのです」(ムーディ科学映画より)。 神によって与えられた聖書の言葉は、このすばらしい生物学的事実に関しても、科学者がそれを発見して大成させるよりずっと前から科学的に正確でした。しかもこれは『罪の罰は死で、罪が赦されるためには贖いの血が流されなければならない』という神のゆるがない霊的な真実を教えるために与えられた言葉でもあります。いのちの液体である血液は、組織内で病気や感染症が優勢なときには、それらの病原体(細菌など)をからだ中に運んでしまいます。聖書の中では、肉体の生と死は、霊の生と死の象徴として用いられます。そしてしばしば、肉体の病気と径我という描写を用いて、霊の病気である罪について語られるのです。 罪の病に冒されている霊が生きるためには、罪をもたず、罪の病に対して戦う力をもっている霊のいのちが必要です。すなわち死ぬべき運命にある罪に病んだ霊を治癒するためには、きれいで抵抗力のある血液をふさわしい提供者から受けて輸血することが必要です。 聖書は、罪なきキリストこそ、そのふさわしい提供者で、十字架にかかって血を流し、すべての人の罪のために死なれたことを教えています。(ヘンリー・M・モリス著『科学は聖書を否定するか』15~26頁抜粋)甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2019.10.12
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「聖書の中の科学(1)」 2019年10月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2015年7月17日放映「創造論と進化論」 「聖書の中の科学(1)」 甲斐慎一郎 創世記22章17節 聖書は科学的に正確ですが、それは聖書が神の意思(神学的には霊感という)を受けて特別に書かれた書物であることの証拠のひとつであって、非常に驚かされることです。 何千年もの間、聖書に記されていながら、近年、初めて正しく評価されるようになった科学的事実がたくさんあります。それらの記述は、もちろん現代科学の専門用語で表現されてはいませんが、それにもかかわらず、的確ですばらしい描写がなされています。 一、天文学 多くの天文学者たちが星の数を数えました。プトレマイオスは、千五十六個を数え、ティコ・ブラーエは、七百七十七個の星を一覧表に表し、ヨハネス・ケプラーは千五個を数えました。地球上のあらゆる地点から肉眼で見える星の総数は、四千個程度でしょう。 それにもかかわらず聖書は「天の万象(天体の数)が数えきれず」(エレミヤ33章22節)と記しています。また「海辺の砂」の数が「空の星」の数に匹敵する(創世記22章17節)ことも伝えています。望遠鏡が発明されるまでは、これが聖書における重大な科学的誤りと見なされてきたことでしょう。しかし今では、それは超自然的な科学的洞察であったと認めないわけにはいきません。今日、天文学者は少なくとも十の二十六乗(百×一億×一億×一億)個の星があると推定しますが、これは地球上の砂粒の数に匹敵します。 また、聖書には「個々の星によって栄光が違います」(第一コリント15章41節)とあります。この記述も、かつては誤りと思われていたことでしょう。それは望遠鏡を通してでさえ、太陽を除くすべての星はまるでただの光の点にしか見えなかったからです。今ではもちろん、さまざまな種類の星があり、全く同じ星など存在しないことがわかっています。 二、地球物理学 科学者や教師たちがみな、地球は平坦であると信じていた時代から、まだ数世紀しか経っていません。聖書は、地球は球形だと述べているので、当時の知識人にしてみれば聖書がまるで非科学的に見えたでしょう。 イザヤは神について「主は地の円(the circle of the earth)の上に住まわれる」(40章22節)と述べています。ここで「円」と訳された言葉はヘブル語の「khug(フッグ)」で、より厳密な意味は「丸」です。この言葉は箴言8章27節では「深淵の面に円を描かれ」とも訳されており、神が海を創造されたとき、海洋の表面(平均海面)を球面にされたことに言及しています。 またヨブ記26章7節には、「神は……地を何もない上に掛けられる」とあります。これは聖書と20世紀科学の成果が一致した、もう一つの例です。地球が太陽と結ばれていることは、重力(引力)とよばれる力で説明されていますが、誰も重力が何であって、なぜ働くのかを知らないので、この結びつきを説明できたとはいえません。このような不可思議な「遠隔作用」が、どのようにして一億五千万キロメートルも離れた地球と太陽を結びつけ続けられるのか、その原因は全く未知のことなのです。そして「神は……地を何もない上に掛けられる」という聖書の説明以上によい説明はないのです。 三、水文学 水は人の生活に欠かせないので、水文学(水の科学)は、聖書の言葉と多くの関わりがあります。水文学で最も大切な基本原理は、驚くべき水の循環です。水蒸気は、凝結して雨や雪となって降ります。次いで地下水や川となって海へ流れ込みます。そこで水は蒸発して空に昇り、大気圏の大いなる風の循環によって、再び陸地へ運びもどされるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2019.10.05
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