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情報、諜報にとどまらず、 謀略活動を期待された明石の任務は、 日露戦争勝利のため、 ツァーリを継いだばかりのニコライ二世の帝政を弱体化、 さらには打倒し、極東ロシア軍を混乱させることだった。 そのためには、 ロシア国内で台頭してきた自由主義者、社会主義者や、 ポーランド、フィンランドなど ロシアの被支配民族の民族主義者らによる 反帝政活動を側面から支援することが、 最も有効な手段と考えられた。 活動の一端は、日露戦争後、 「戦時特別任務」を解かれた明石が ヨーロッパからの帰路、 船中で書いた参謀本部への報告書である遺稿『落花流水』 (国会図書館憲政資料室所蔵)などに記されている。 それによると、明石にとって天佑(てんゆう)は、 ストックホルム着任直後に、 亡命中のフィンランドの革命家で 元判事、弁護士のシリアクスの知己を得たこと。 翌年十一月ヨーロッパを離れるまで、 ロシア官憲(露探)の目をくぐり抜けながら、 陰になり日なたになり、二人の地下活動は続いた。 「明石工作」はシベリア鉄道爆破計画や 地下活動家の組織化など多岐にわたったが、 最初の結実は、 参謀本部から送金されてきた資金を投じて 一九〇四年九月、不平党による第一回連合会議を、 シリアクス議長の下、パリで開催できたことだった。 会議では、ストライキ、テロを繰り広げて行くことを確認したが、 ヨーロッパ各地の革命分子の大同団結の意義は、 計り知れないものがあった。「20世紀 大日本帝国」 読売新聞20世紀取材班 中公文庫
2019年06月28日
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太閤秀吉が耳にする。 利休の庭に朝顔の花がみごとに咲いていると。 秀吉、「されば、見に行こう」と、朝の茶の湯に出向いた。 ところが、満開のはずの朝顔はすべて摘みとられ、 どこにも花など咲いていない。 秀吉は不快感を露(あら)わにするが、 利休に招かれ茶室へと赴(おもむ)く。 すると、そこにはたった一輪の朝顔が生けてあった。 利休は最も美しい一輪だけを残し、 庭に咲くすべての朝顔を「切り捨て」たのである。 「もの」においては、機能であれ装飾であれ、 足していくのは簡単だ。 しかし何を切り捨て、 何を省いていくのかを決めることは一般に難しい。 これは仕事全般にもいえることだし、 人生でも同じかもしれないが、 デザインワークの中で、付け加えるのではなく、 何を省いていくかという課題は、 普遍性を帯びてデザイナーに突きつけられる。 このとき、外国人はなかなかわからない。 しかし、「利休と朝顔」の例を出すまでもなく、 日本人なら感覚として瞬時にわかる。 このことは、 日本人が誇るべき文化なのではないかと思っている。「伝統の逆襲」 奥山 清行 祥伝社
2019年06月27日
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カラオケは雰囲気がいい。 バイプレーションがいい。 周りも自分もとてもいい気持ちになる。 その雰囲気で歌っている。一種の自己陶酔です。 歌+ムード+自己陶酔なんだね。 だからコンピュータでカラオケを採点してみると、 自他ともうけたと思われるものほどダメだ。 コンピュータは雰囲気は採点しない。 つくり出された自己陶酔もはかれない。 そこにカラオケ・ブームの秘密がある。 あれは自分で自分を酔わせる機械だ。 それによって日ごろの欲求不満をなしくずしに解消させて行く。 これを発明した日本人は偉い。 アメリカは、ミー・ゼネルーーションの時代だという。 それは別な見方をすれば「オレが、オレが……」という 自己顕示の集中的表現である。 裏をかえせば欲求不満である。 それが集団化すると、ウーマン・リブになり、 ブラック・パワー、プエルトリコ・パワーになる。 その欲求不満を日本人は 上手にカラオケを使って社会的に解消している。「きょうの、この24時間」 扇谷正造 草柳大蔵 経済往来社
2019年06月26日
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一九四一年に太平洋戦争が始まり 翌年の二月のスラバヤ沖海戦とバタビヤ沖海戦で 日本の重巡部隊が米・英・蘭連合艦隊を破って、 たった一日でオランダ領インドネシアを解放し、 同じ時期にフィリピン、マレー、シンガポール、ビルマの 米・英軍を次々に降伏させたとき、 現地の人々は 「こんな弱い連中に三百年も支配されていたのか」と驚愕したというが、 一八世紀に東アジアに出現したヨーロッパの軍隊とアジアの現地軍とでは、 火器の威力において絶対的な差があり、 以後日本軍の進駐まで彼らが抵抗の意思を失っていたのがよくわかる。「敗者の戦後」 入江 隆則 中央公論社
2019年06月25日
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じつは、日本の景気の復興ぶりは 欧米に比べると際立(きわだ)って早い。 生産(せいさん)、国民所得(しよとく)は 早くも昭和七年から回復(かいふく)しだし、 昭和八、九年には恐慌(きようこう)前の水準に戻り、 その後も成長(せいちょう)を続けている。 はかばかしい回復もないまま、 一九三七年に再度(さいど)の恐慌を迎える アメリカとは大きな違いである。 これを実現(じっげん)したのは高橋財政(ざいせい)といってよい。 高橋是清(これきよ)は金(きん)の輸出(ゆしゆつ)を再禁止(さいきんし)して 為替(かわせ)を低落(ていらく)させ、 赤字公債(あかじこうさい)によって財政を拡大(かくだい)させた。 これは不況(ふきよう)対策として ケインズ理論(りろん)の正攻(せいこう)法である。 ケインズの「一般理論」の発表は一九三六年であるから、 高橋はケインズにまさる先覚者としての評価(ひようか)を受けている。「重光・東郷とその時代」 岡崎久彦 PHP
2019年06月24日
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私は、日本人の感情に溺れやすい氣質、 熱狂的な氣質を誇りに思ふ。 決して自己に満足しないたえざる焦躁と、 その焦躁に負けない樂天性とを誇りに思ふ。 日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。 どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蠻人)の 面影を残してゐることを誇りに思ふ。 そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏な その自意識を誇りに思ふ。 そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、 そんなことは一向構はないのである。「荒野より」 三島由紀夫 中央公論社
2019年06月21日
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針式の時計は、アナログ時計と言うのだそうだ。 おかげで大学の講議でも、 デジタル・アナログの概念を説明するのが楽になった。 デジタルは数字式、 アナログは角度や長さの量で数を表示する、 という説明がすんなり受け入れられる。 二十年ほど前に私たちが生物物理学会を結成したころは、 デジタル・アナログの術語がまだ定着しておらず、 討論に苦労した。 まさに隔世の感がある。 右脳をアナログ脳、 左脳をデジタル脳という呼び方もすっかり定着して、 週刊誌でもよく見かける。 以前は英語の直訳で、 劣位脳、優位脳と言ったものである。 場川秀樹博士が「右脳の機能が大切ですよ」と言われ、 脳に優劣があるのはおかしいと思った。 博士の主宰されていた創造性研究会でのことである。 右脳の機能は、音楽、絵画、直観像などで まさにアナログ脳と呼ぶにふさわしい。 このようにして、アナログ脳という名称が使われるようになった。 昭和四十八年ごろのことだったと思う。「頭脳の未来」 品川嘉也 雷鳥社
2019年06月20日
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近代の所謂リアリスト小説家達が、 人生から文学のうちに、 どれだけの人間を、 本当に救助し得たであろうか。 彼らの自負する人間観察技術が、 果して人間の着物を脱がせる事に成功したか。 この技術は、寧ろそれに似合わしい新しい衣裳を、 人間の為に、案出してやる事に終らなかったか。 彼等の道は、遂に、 「われわれは、お互いに誤解し合う程度に理解し合えば沢山だ」 というヴァレリーの嘆きに行き着かなかったであろうか。 奇怪な悪夢である。 いずれ、夢から醒める機は到来するであろう。 併し、夢は夢の力によっては覚めまい。「モオツァルト」 小林秀雄全集⒓巻 新潮社
2019年06月19日
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極東に手を伸ばそうとする西欧の二回にわたる試みで、 一度は失敗し、その次のときには成功したということは、 どういう状況の変化によるものだろうか。 一つの、すぐに目につく相違は、技術的なものである。 十六世紀、および十七世紀には、 西欧の船や武器は極東のと比較してそう優れてはいなくて、 それだけで勝を制するわけにはゆかなかった。 それでこの二つの文明が最初に接触したときは、 極東側の方が相手を抑えて、 彼らが西欧と関係を絶つことに決めたとき、 西欧側はそれにたいして何もすることができなかった。 しかし西欧人が十九世紀に 再び支那や日本の海岸に現れた際には、 彼らの方が優勢になっていた。 なぜなら、支那や日本の武器が まだ二百年前と同じ種類のものだったのにたいして、 西欧にはその間に工業革命が起り、 西欧人は極東の国々にはない 新式の武器を持って戻ってきたからだった。 そしてそういう情勢の下では、 極東は二つのうちのどれか一つの形で 西欧の影響を受け入れるほかなかった。 この新しい技術による西欧の挑戦を無視することにすれは、 西欧人にたいして閉ざされた戸は 砲撃によって開かれるのに決っていた。 そしてその他に残された唯一の道は、 十九世紀の技術を習得することによって西欧の侵入を防ぐことで、 それには、西欧人が征服者として入ってくる前に、 自発的に西欧の技術にたいして門戸を開放しなけれはならなかった。 この、西欧が持っている最新式の武器の使いかたや製造法を学んで、 西欧にたいして自分の地位を強化する方の政策を採用し、 これを実行に移すことにかけては、日本人の方が支那よりも早かった。 しかし支那人もしまいにはその決心をして、 インドのように西欧に征服される運命を危く免れた。「世界と西欧」 A・J・トインビー 現代教養文庫 社会思想社
2019年06月18日
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『呂氏春秋』の中の呂不葺、 これは秦の始皇帝のお父さんですが、 春秋戦国時代の宰相で、『八観六験』というのを書いている。 長くなるから「六験」だけ簡単にいいますと、 「これを喜ばしめてその守りを験す、 これを楽しめてその僻を験す、これを怒らしめてその節を験す」。 僕は、最後の三つが大変だと思うんだけれども、 「これを苦しましめてその志を験す、 これを悲しましめてその人を験す、 これを恐れしめてその独を験す」というのがある。 「恐れしめて」というのは、おまえはこれはどうなんだ、 これはどうなんだとどんどん追い詰めていって、 なおかつだれにも頼らないで自分の意見をいえる、 こういう人は一番信頼ができるということなんですね。「きょうの、この24時間」 扇谷正造 草柳大蔵 経済往来社
2019年06月17日
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九八年九月。 日清戦争(九四~九五年)に勝利したものの、 露仏独三国が遼東半島を清に返還するよう要求(三国干渉)、 軍事力に劣るわが国は泣く泣くこの要求を受け入れた。 ところが今度はロシアが半島を占有して旅順港を拡張し、 そこを根拠地とする太平洋艦隊(旅順艦隊)を増強し始めた。 わが国には国家存亡の脅威となった。 この非常事態に対処するため、 わが国は戦艦四隻、装甲巡洋艦四隻を中心にした 大規模な建艦計画に着手した。 三笠が約八百八十万円の予算で、 「第四号甲鉄艦」として発注されたのはそんな時期だった。 約三年で完成した当時の世界でも最大、最新鋭の戦艦三笠は、 一九〇二年五月横須賀に入港後、 本籍と決められた舞鶴鎮守府に向かい、 「常備艦隊」(後の「連合艦隊」)に編入された。 ここで鎮守府司令長官だった東郷平八郎中将の臨時検閲を受ける。「20世紀 大日本帝国」 読売新聞20世紀取材班 中公文庫
2019年06月14日
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電話は右の耳で聞いたほうがミスやトラブルが減る、 という人がある。 故湯川秀樹博士も、 意識して右耳で聞くようにしているとおっしゃっていた。 これは生理学的にも根拠のあることで、 言語中枢は大抵の人が大脳の左半球にある。 人間の脳の外から見る球形の部分は、大部分が大脳であるが、 この大脳は左右に二つに分かれていて、 二つの半球がくっついて球状になっていることが判る。 このうちの左半球に言語中枢があって、 言葉を聞いて判断したり、しやべったりする機能を司っている。 右の耳からは、聴神経が左半球につながっているので、 言葉は右耳で聞くのが合理的ということになる。 左利きの人でも、大半は言語中枢が左半球にある。 もっとも、まれに右半球に言語中枢のある人がいて、 脳外科手術のとき大事な問題になる。 脳の左半球に外科医がメスを入れるときに言語中枢が傷つくと、 言葉だけでなく、意識にも障害が起こるのである。 どうやら、言語と意織は密接に関係しているらしい。 人が左右、二つの脳(大脳半球)を持っていることは 意外と知られていない。 いや知られていなかったと言うべきかもしれない。 一昨年から大変な〝右脳ブーム〟で、 毎週のようにどこかの新聞や週刊誌で、 右脳・左脳の問題が取り上げられている。「頭脳の未来」 品川嘉也 雷鳥社
2019年06月13日
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個人であれ個人の集団としての国家であれ、 成長と発展のためには、 克服しうる適度な困難が必要である。 適度な敗北も同じで、 外敵が来襲する度に難なく撃退した国民は それ以上防備を固めないし、 逆に外敵から限度を越えて回復不能な打撃を受けた国民は 抵抗への意志を失う。 前者が近代初頭における朝鮮の場合であり、 後者は大多数の東南アジア諸国の場合である。 一八六六年の朝鮮の事件はあまり知られていないが、 要するにフランス宣教師が殺害された報復に フランス極東艦隊司令長官のローズが 七隻の軍艦を率いて漢江河口に釆て、 江華島を攻撃して陸戦隊を上陸させたのである。 しかし朝鮮側は城壁の背後から 弓矢、旋回銃、火縄銃などの一斉射撃で 激しく抵抗したので、 フランス軍は市内の一角を焼き払っただけで退却してしまった。 このとき別の方向に遠征した一六○人のフランス兵士は、 朝鮮軍の奇襲で壊滅的な打撃を受けた。 また同年の八月にアメリカの海賊船ゼネラル・シャーマン号が 平壌の王陵略奪をめざして大同江深く進入したときは、 船長プレストンが朝鮮半島の黄海側の沿岸の湖の 干満の差が大きいのを知らず、 シャーマン号が洲に乗り上げて 身動きできなくなるのを待っていた朝鮮軍は、 三隻の平底船を結び合わせて柴を山と積み 硫黄と硝石をふりかけて火を放ってシャーマン号に流し送った。 シャーマン号は二度目までそれを防いだが 三度目の火攻めで炎上した。 乗組員たちは水中に飛び込んで逃げたが 朝鮮軍によって一人残らず惨殺された。 この攻撃法を発案した朴珪寿は朝鮮の英雄となった。 また一八六七年の四月にもアメリカ人ジュンキンズの率いる 別の海賊船がソウルに近い九万浦に接岸して上陸したが やはり撃退されている。 一八六七年といえば明治維新の前年で、 日本では朝野をあげて兵制の改革に取り組んでいたが、 朝鮮では一連の対外勝利によって改革の必要を認めず 長く眠り続けて三〇年後に目覚めたときは、 もはや取返しのつかない遅れをとっていたのである。「敗者の戦後」 入江 隆則 中央公論社
2019年06月12日
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《一八五三年(嘉永六年)のペリー提督訪日以来、 国際政治は日本の法制度と政治制度の発展に 決定的な役割を果して来た。 明治時代(一八六九―-一九一二)の法制上、 憲法上の改革は、大部分 欧米列強が日本に押しつけた〝不平等条約″に、 早く結着をつけることを目的としていた。 二十世紀中葉にいたり、マッカーサーと冷戦のために、 外交上の配慮が再び日本における憲法上の展開を支配した。 日本の新憲法は冷戦の落し子である。 それはおそらく冷戦の犠牲者ともなり得るはずである》 そして、昭和三十七年(一九六二)九月にいたって、 マクネリー教授は三度警告した。 《もし戦争放棄が、単に日本政府による政策の宣言か、 あるいは単に憲法前文に繰入れられた 政治的理想の表明であったとすれば、 おそらくこれほどの法律的論議を呼ぶことはなかったであろう。 しかし、それは憲法本文の条項に挿入され、 日本政府と国民を拘束する誓約と看倣されている。 この条項が現在憲法解釈上 きわめて困難で議論の多い問題となっているのは、 驚くにあたらないのである》「一九四五年憲法―その拘束」 江藤淳 文藝春秋
2019年06月11日
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悪條件とは何か。 文学は翻譯で讀み、音楽はレコードで聞き、繪は複製で見る。 誰も彼もが、さうして来たのだ、 少くとも、凡そ近代藝術に関する僕等の最初の開眼は、 さういふ経験に頼つてなされたのである。 翻譯文化といふ軽蔑的な言葉が屡々人の口に上る。 尤もな言ひ分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。 近代の日本文化が翻譯文化であるといふ事と、 僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかつたし、 現在も未だないといふ事とは違ふのである。 どの様な事態であれ、文化の現實の事態といふものは、 僕等にとつて問題であり課題であるより先きに、 僕等が生きる爲に、 あれこれの退つ引きならぬ形で興へられた食糧である。 誰も、或る一種名状し難いものを糧として生きて来たのであつて、 翻譯文化といふ様な一觀念を食つて生きて来たわけではない。 當り前な事だが、 この方は當り前過ぎて嘘になる様な事は決してないのである。 この當り前な事を當り前に考へれば考へる程、 翻譯文化などといふ脆弱な言葉は、 凡庸な文明批評家の脆弱な精神のなかに、 うまく納つてゐればそれでよいとさへ思はれて来る。 愛情のない批判者ほど間違ふ者はない。 現に食べてゐる食物を何故ひたすらまづいと考へるのか。 まづいと思へば消化不良になるだらう。「ゴッホ」 小林秀雄全集10巻 新潮社
2019年06月10日
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L・ポーリングという、 たしかカリフォルニア理工科大学の生化学教授で、 ノーベル平和賞と化学賞と二つ賞をもらった学者なんですが、 私がアメリカに行ったとき、 たまたまある人が講演を聞きに行かないかとさそってくれた。 会場の教室には学生がいっぱい入っている。 そこで教授が講演した。 一緒に行った人が、いちいち通訳してくれた。 その最後の方で、二十一世紀の道徳は、 正直、勇気に関連して 確認という新しい徳目をつけ加えなければならない。 いま仮に、原爆を積んだアメリカのn2(黒い翼といわれた偵察機)が ヨーロッパ上空を飛行しているとする。 機内があまり暑いので、 操縦士がコカコーラを飲もうと思ってボタンを押したら、 間違えて原爆の方のボタンを押してしまった。 原爆はたまたま東西ドイツの国境に落ちた。 それが引き金になって、 第三次大戦が始まらないと何人に予言できようか。 彼は決して第三次大戦を起こそうと思って ボタンを押したのではない。 ただ、コカコーラを飲もうと思って、 ボタンを押したのだが確認を怠ったため大戦となった。「きょうの、この24時間」 扇谷正造 草柳大蔵 経済往来社
2019年06月07日
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後年、昭和天皇は、 パリ儲和会議での人種平等実の不成立と、 カリフォルニア州の日本移民拒否のこの二つの事件を、 大東亜戦争の遠因に挙げておられた。 日本民族が掲(かか)げた 人種差別撤廃の八紘一宇(はつこういちう)の精神は、 大東亜戦争を契機として、完全に実現することになった。 インドをはじめとしてアジア、アフリカの植民国は 続々と独立を果たし、 二十世紀の半ばにおいて、地球の地図は一変したのである。 この戦争は世界史上の革命であった。 日本は白人のために生まれた国際法の罠に掛かり、 幾多の辛酸を嘗めながらも、 ついに人種差別なき世界を実現したのである。 これはおおいに誇るべき民族のプライドでなくてなんであろう。「破約の世界史」 清水 馨八郎 祥伝社
2019年06月06日
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日本人のアイデンティティについて、 あるいは日本人は何なのかと考えていくと、 私は次の二つがあると思っている。 まずひとつは「想像力」である。 「思いやり」と言い換えてもよい。 それが今、 実際にできているかどうかは別にしても、 日本人にとって他人への思いやりは 大切な礼節として重要視されている。 これを突き詰めていくと、 日本人というのは 想像力(イマジネーション)に長(た)けた民族だと言えるのだ。 「思いやり」は、アメリカ人にもイタリア人にもない特性で、 日本人は相手の考えを読みとったり、 相手の境遇を想像したり、 あるいは未来のお客の姿を想像する といったことが非常に得意である。 それに「想像力」は「創造力(クリエイション)」につながる。 語呂(ごろ)合わせではない。 想像すること、すなわちまだ見ぬ顧客を想定し、 いろいろな解決策を出していく中で、 クリエイティブにもなっていくというプロセスを経る。 それが日本人固有のDNAなのである。「伝統の逆襲」 奥山 清行 祥伝社
2019年06月05日
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ヨーロッパ的な国際秩序は、 対等な諸国によって構成されるヨーロッパ地域と それが支配する広大な植民地地域という二重構造を有しており、 こうした植民地の側に自ら落ち込む危険性を実感していた日本は、 近代ヨーロッパ国際秩序に適応する努力を行いながらも、そ れについて釈然たらざる感情を抱いていた。 明治以降の日本人の心の底を一貫して流れていた アジア主義的感情はそのあらわれである。 先の戦争における「大東亜共栄圏」は、 こうした感情が具体的な形をとったものであり、 この時点で、日本は、 それまで、欧米の主導する秩序への適応という道を離れて、 ヨーロッパ的国際秩序そのものを アジアから排除するという方向に乗りだした。 日本のこうした試みは成功しなかったが、 その過程で日本が行ったアジアの植民地体制の破壊は、 この地域に、新たな独立国家の誕生を促し、 ヨーロッパ国際秩序の二重構造はここに終焉して、 世界は、かつてのヨーロッパ内部におけるように、 対等な主権国家のみで構成される法的に平等な秩序となった。 いわば日本は、 西欧諸国のシステムへの アンヴイヴアレントな感覚を抱きながら行動することで、 それまでのヨーロッパ的な国際秩序の「民主化」に 一定の役割を果たしたのである。「市場と国家」 坂本多加雄 藤原書店
2019年06月04日
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十五、十六世紀の貧窮(ひんきゆう)と疫病(えきびょう)と 信仰による救済とにあえいだ魂の深い闇に、 あれほど元来小さく閉ざされた地帯に押しこめられ、 天然資源にもめぐまれなかった西洋が、 突如としてパワーを備え始めた秘密が宿っている。 絶望そのものが西洋を衝(つ)き動かしたのである。 領主と農民との取り分争いにも限界があり、 貧しいどん底の世界で生きていくために、 西洋では分けあうもとのパイを大きくする以外に 生き延びるすべはなかった。 それにはイスラム世界を打ち破って東へ出ていく以外にはない。 西洋人は、西洋の内部で問題を解決することができなくなつた。 たびかさなる戦乱の原因でもあり、また結果でもあった。 以上は社会学的説明である。 それだけではおそらく十分ではない。 決定的原因は西洋人の自我の強さであり、 それを支える絶対超越神への信仰による 自我の解放と抑制の調節を司(つかさど)る、 他文明には例のない心の働きである。 彼らは相互の戦いに飢(う)え、 かつ戦いをよく抑止する意志も持っていた。 そして、そのあげく、 繁栄しているアジアへ向かって進出を開始せざるをえなかった。「「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社
2019年06月03日
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