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北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、 日の丸の鮮かさは無類であつて、 日本人の素朴な明るい心情が、 そこから光りを放つてゐるやうだつた。 それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、 はなはだ疑はしい。 私はひねくれ者のへソ曲りであるし、 私の心情は時折明るさから程遠い。 それは私が好んでひねくれてゐるのであり、 好んで心情を暗くしてゐるのである。 これにもいろいろ複雑な事情があるが、 小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、 そんなにいつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。 しかし、異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、 「ああ、おれもいざとなればあそこへ歸れるのだな」 といふ安心感を持つことができる。 いくらインテリぶつたつて、 いくら藝術家ぶつたつて、 いくら世界苦(ベルト・シュメルツ)に さいなまれてゐるふりをしたつて、 結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、 素朴と清明へ歸ることができるんだな、と考へる。 いざとなればそこへ歸れるといふ安心感は、 私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。 しかしそんなことはどうでもよいことだ。 私は巢を持たない鳥であるより、 巢を持つた鳥であるはうがよい。 第一、どうあがいたところで、 小説家として私の使つてゐる言葉は、 日本語といふ歴然たる「巢鳥の言葉」である。 「いざとなればそこへ歸れる」といふことは、 同時に、歸らない自由をも意味する。 ここが大切なところだ。 歸る時期は各人の自由なのであつて、 「いざとなれば歸れる」といふ安心感があればこそ、 一生歸らない日本人がゐるのもふしぎはない。 私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、 歸る時期、歸る意志の自由とを大切にする。「荒野より」 三島由紀夫 中央公論社
2019年05月31日
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「(機密)成田安輝 西蔵(チベット)探検の為渡航せしむるに付ては 先以て重慶において十ニケ月間留学の上 満五ケ年(出発の日より帰朝の日まで)を期し 目的地へ赴かしむへく之に要する 一切の費用は機密金より支出を要す」 文書に署名した当時の外務大臣は西徳二郎。 一八八〇年(明治十三)、 単身、ロシア領中央アジアを旅した冒険家であり、 ロシア情勢に精通する外交官であった。 次官として署名に名を連ねたのは小村寿太郎。 ポーツマス講和会議での日本側全権大便となる人物だ。 重慶での修学に一年、チベットに入ったら四年、 という期間の設定にこの任務への意気込みが感じられる。 外務省はなぜ成田安輝をチベットに派遣したか。 それは、実は日本の対ロシア政策と深くかかわることだった。 十九世紀初頭以降、 中央アジアを舞台としたロシアの南下政策は、 各国の脅威となっていた。 とりわけインドを植民地経営していた英国にとって この問題は深刻で、 コーカサス、アフガニスタンなど広大な舞台で繰り広げられた 英露両大国の政治・軍事上の情報合戦は 「グレート・ゲーム」と呼ばれた。 そしてチベットが、 そのゲームの最終ステージに選ばれたのである。 日清戦争に勝利した日本にとっても、 ロシアのチベット進出は人ごとではなかった。「20世紀 大日本帝国」 読売新聞20世紀取材班 中公文庫
2019年05月30日
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昭和二十六年九月八日、 サンフランシスコで対日平和条約が締結されたとき、 日本が連合国によって、 「主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる 個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること 及び日本国が集団安全保障取極を自発的に締結することができること」 を承認されたのは、 パリ不戦条約以来一貫した米国の 「自衛権」に関する考え方を反映するものと解釈することもできる。 この平和条約によって、 日本は、国際法上少くとも 「自衛権」を保有する主権国家であることを確認された。 換言すれば、対日平和条約の締結によって、 《日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、 国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する》 という現行憲法第九条一項は、 かならずしも国家主権を制限または拘束する条項ではなくなり、 パリ不戦条約と同等の拘束力を持つにすぎない条項となったことが、 国際的に確認されたのである。「一九四五年憲法―その拘束」 江藤淳 文藝春秋
2019年05月29日
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イギリスは、 ロシアが日本の北辺に迫(せま)ったことがいかにも面白くない。 どこの国であってもとにかくよその国が 極東で支配的地位を占めることには耐(た)えがたい。 それが七つの海を支配した当時最大の帝国イギリスの受けとめ方である。 しかしながら、当時の日本はいまだ無力なる半植民地国家であった。 だからいかなるゲームにも参加できない。 そうかといってイギリスはロシアと争って日本を分割するには、 日本は地下資源などの魅力に乏(と)ぼしく、 戦えば手ごわい抵抗(ていこう)相手にもみえた。 それくらいなら日本を助け、育てて、 ロシアに対抗する防波堤(ぼうはてい)とするほうがよい。 日本は 自分の自由意志で国際情勢を乗り切っていく国家になりたがっていた。 そのためになんとしても不平等条約(ふびょうどうじょうやく)を 撤廃(てっぱい)してもらわなくてはならない。 列強と対等な関係を一日も早く築くことを強く希望していた。 そのことにむしろ利益を見出(みいだ)したのはイギリスである。 日本は急速に近代的な国家体制を整え始めていた。 イギリスはそれをみて、 ロシアとの極東における取引ゲームに日本が参画することを むしろ期待し、その方向に誘導(ゆうどう)した。「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社
2019年05月28日
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第一は西欧が世界で重要な部分の全部だったことは かつて一度もなくて、 西欧がその隆盛の絶頂にあったときでも (そしてその時代はあるいは すでにすぎ去ったかも知れないのであるが) 西欧だけが近代史の舞台で何かの役割を演じた などということは決してないということなのである。 第二の点は、こういうことに他ならない。 つまり今日までに四、五百年間続けられてきた 世界と西欧の交渉では、 それによって何かの価値がある体験をしたのは 西欧ではなくて、 世界の方だということなのである。 西欧が世界のために衝撃を受けたのではなくて、 世界の方が西欧のために、それもひどい衝撃を受けたのだった。「世界と西欧」 A・J・トインビー 現代教養文庫 社会思想社
2019年05月27日
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日本は四面、海に囲まれた、平和な海洋国家で、 国境もなく、大陸民族のような 喰うか喰われるかの民族間の対立抗争も経験したことがない。 国内も気候温暖で生活は豊かであり、 他部族を襲って、殺人強盗をする必要がなかった。 支配者同士の権力闘争はあっても、 資源物資を奪う経済戦争、略奪戦争を知らない。 四〇〇年も平和が続く平安時代や 三〇〇年も平和を維持した江戸時代があったほどだ。 長い縄文時代の間に、人々は武器も戦争も知らなかった。 他者から奪って暮らすという概念が育つ環境ではなかったからだ。 日本民族は、古代から平和で素直(すなお)で勤勉な民族で、 その生まれたままの性格が歴史につながり今日にいたっている 世界でも珍しい国家なのである。 つまり「神(かん)ながらの国」なのである。 人間関係は、和を以(もつ)て貴(とうと)しとなす「大和」の民族で、 相手を思いやる互譲の精神で争いを避けてきた。 また西洋人のような鍵をかけるという生活も知らず、 他人を疑わない「性善説」が行き渡っていた。 これは「人を見たら泥棒と思え、敵と疑え」式の ヨーロッパ白人の「性悪説」的人間観とは、正反対である。「破約の世界史」 清水 馨八郎 祥伝社
2019年05月24日
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戦争のルールを定め、 国際平和のあり方を最初に考えた この偉大な名前が成したことは、 三十年戦争の戦乱のリアリティそのものから出発していた ということを言いたいにすぎない。 利益のためには、 自国の欲望を抑え相手国と協定や条約を結ぶ、 あのきわめて多元的な西洋各国の「国際社会」のルールは、 東アジアにはまったく存在しないものであった。 東アジア人からみると、 これは正しくしく正義の仮面を被った悪魔の顔でもある。 しかし表からみれば、 強権の衣の下に甘い文明の香りを漂わせている 万国に通じる「道徳的公法」でもある。 そういう二重性によって特徴づけられるのも、 このリアリティに発するゆえである。 われわれには、とかくにこの二重性がよくみえない。 西洋のありとあらゆる試みが、文明の輝きにだけみえたり、 またはうかうかして 戦略と暴力をともに備えた強権の前にたじろぐのみで、 相手がよくみえないままに ついには屈伏することになったりするのも、 西洋文化が基本的にこの二面性を抱えていることに 気がつかないせいである。 加えて、これがアジアに広がったときに 歴史的にまったく用意ができていなかったことが問題なのだ。 すなわち「近代世界システム」という名の多元的構造、 言い換えれば人間観のうちに まず烈しい競争と闘争の直視があって、 それが生々しく是認され、 しかるのちに よりよく競争し、争闘しあうためのルールが形づくられ、 これをもって平和の基礎とみなす相互協約の、 きわめて冷徹で現実的な知性の働きが、 われわれ東洋人にはとかく欠けていることに、 大きな問題があるのである。「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社
2019年05月23日
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一言でいえばアメリカは 中米やハワイやフィリピンでは門戸を閉して 自国に有利な関税障壁を設けながら、 満州と中国についてのみ門戸の開放を 一般原則としてふりかざしたのであって、 カントロウィチがはっきり述べている通り きわめて戦略的な「政治原則」にすぎなかった。 しかもこの「政治原則」は列強にくらべて 中国問題で後れをとっていたアメリカにもっとも有利な政策で、 中国に対しては利他的で、 中国に近付いて利益を得ようとする列強には 一見公正無比な平和的衣装をまとってあらわれたため、 日露戦争以前には帝政ロシアを、 以後には日本を牽制する上で絶大な効果があった。 日本はこの"一般原則″に対しては、 たとえばパナマやキューバの門戸開放を迫ることで 対抗すればよかったのだが、 そういう発想は浮はず、 有効な言葉で反論できないまま実力による満州の支配を進め、 後には中国に軍隊を入れてますますアメリカの権益をおびやかした。 日本は実力はあるが言葉に弱いのが 今にはじまったことでないのがこれでわかる。「敗者の戦後」 入江 隆則 中央公論社
2019年05月22日
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シンプルな「もの」をつくるのは簡単ではない。 単に機能や要素の少ないものをつくれば、 プリミティブで幼稚なものになってしまいかねない。 それが怖いから(つまり市場に受け入れられない、 売れないだろうという恐怖に駆られて)、あれもこれもと 言い訳のように付け加えて複雑になる。 携帯電話など典型的だ。 切り捨てるためは、 自分のビジョンが明確になっていることが絶対の条件である。 そうでなければ、ぎりぎりまで何を削ぎ取っていいのか、 何が本質なのかがわからない。 自分のコアとなる価値が見えていないと、 見当違いのものを犠牲にして切り捨ててしまう場合すらある。 日本でシンプルな携帯電話が売れないのは、 残すべき強いコアがないからだと思う。 したがって、今まである機能だけを残し、 他の部分を切り捨てても、おもしろいものになるわけがない。 シンプルで使いやすい「もの」をつくるには、 強力なコアになる部分があって初めて、 他を「切り捨てる」価値が出てくるのだ。「伝統の逆襲」 奥山 清行 祥伝社
2019年05月21日
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英米を「日露共同の敵」よばわりする、 極端な反英米で親露一辺倒の後藤新平は、 外務省による対露交渉の足を引っ張るために、 スローガン「国民外交」をキャンペーンした。 外務省(政府)以外の民間ルートでの 対露交渉を正当化するための理屈である。 のち、日独防共協定のように 日本の陸軍は後藤新平のやり方を模倣していき、 外務省の関知しないあるいは外務省では統括できない、 すなわち国家の外交が空中分解する、その悪例的な第一号であった。 「大アジア主義」者の後藤新平がなした国益に反する行動は、 永久に糾弾されねばならない。 日本がロシアに無条件降伏をするかのような 日ソ基本条約に日本政府を追い込んでいったのは、 後藤新平だけではない。 朝日新聞とこれに煽動された経済界、 それに北樺太の石油欲しさに国益などどこ吹く風と 何でも対露妥協をする帝国海軍である。 朝日新聞、経済界、海軍の三者の罪は量(はか)り知れないほど大きい。 経済界はシベリアとの貿易や開発で一もうけできると幻想し、 海軍は北樺太石油で対米依存が減ると妄想したのである。 外交とは、長期的に国家の国益を考える。 一方、経済界とは短視眼的に私人の経済利益の追求をする人々である。 国益を考慮できない(しない)経済界が、 国家の外交に口をさしはさむことは慎まなければならない。「大東亜戦争と『開戦責任』」 中川 八洋 弓立社
2019年05月20日
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一九二五年ごろまでアメリカでもっとも影響力のあった 革新的な著述家ソースタイン・ヴェブレンは、 その著『有閑階級の理論』(一八九九年)、 『技術者と価格体系』(一九一二年)のなかで、 エンジニアこそ実業家にとって代わり、 経済を動かすべきだと提唱している。 エンジニアは公平無私、かつ博愛心に富んでいるから、 有閑階級の価値観や利益第一主義を排除して、 消費者のための経済を実現するにちがいないというわけである。 ソ連は他の社会よりも包括的に、かつ長期間にわたり 社会改造を奉じて、ヴェブレンの主張は大なり小なり実現され、 エンジニアが支配階級の主流となっていた。 とはいえ、それで消費者が大いに幸福になったとはいえない。「現代史」 上 ポール・ジョンソン 共同通信社
2019年05月17日
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クリミア戦争に敗れたロシアは、海への出口を失って、 太平洋の不凍港(ふとうこう)を求めて、 東北アジアへの進出を企(くわだ)て始めた。 まず、ロシアは朝鮮(ちょうせん)に隣接(りんせつ)する 沿海州(えんかいしゆう)のウラジオストックに座を占(し)めた。 日本の北辺はにわかに風雲急(ふううんきゆう)を告げた。 ロシアはいち早く日本列島とひとつづきである 千島列島(ちしまれっとう)と樺太(からふと)に人を入れた。 日本は一歩遅(おそ)かったのである。 なにしろ幕末から明治への動乱期(どうらんき)で、外を考える余裕がない。 一八六九年、ロシアは樺太の領有(りょうゆう)を認めるよう日本に求め、 日本はこれを拒否(きょひ)。 明治の新政府ができてから、両国間にようやく取引が成立し、 日本はもはや樺太は間にあわないと悟(さと)ってこれをあきらめ、 かわりに千島列島全部の領有権を得た(千島・樺太交換条約、一八七五年)。 ロシアも一八六一年に農奴解放令(のうとかいほうれい)を発するなど、 国内に困難をかかえていた時代である。 イギリスは一八五七年、 インドでセポイの大叛乱 (だいはんらん:セポイは東インド会社のインド人ようへい:傭兵)を処理し、 アヘン戦争を終結したあとの中国で アロー戦争(一八五六-一八六〇年)を起こして、 再び清(しん)を屈服(くつぷく)させ、 九竜半島(きゆうりゆうはんとう)の一部を割譲(かつじょう)せしめた。「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社
2019年05月16日
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明治の日本が誇れるものは何か、 と問われるなら、私は「急速な発展そのもの」と答えたい。 とくに日露戦争に勝利してポーツマス講和条約を締結した 明治三十八(一九〇五)年あたりまで、 つまり二十世紀初頭までの日本の軌跡は、 ひとたびそれを世界から眺めるなら、 やはり驚くべき急速な発展と映るだろう。 そのころまでの西洋人は「白色人種イコール文明」と考えていた。 白色人種が文明を支配し、 それゆえに黄色人種や黒色人種を支配できるという思考のなかで生きていた。 そこに黄色人種国家・日本が急速に文明化してきたのだ。 彼ら西洋人が抱いていた世界秩序のイメージに一筋の亀裂が走る。 当然、白色人種ならざる西洋文明国家・日本の扱いをめぐって さまざまな議論が沸き起こり、 黄禍論のような極端な脅威論まで飛び出してくる……。 要するに、日本が明治国家の建設から 国際社会の一隅を占めていくまでの過程そのものが、 世界にとっては称賛すべき発展にも映ったし、 逆に脅威にも映ったのである。 最も象徴的なのは、やはり日露戦争だろう。 ぎりぎり精一杯ではあったけれども、とにかく日本はロシアに勝った。 西洋人からすれば脅威を含めた驚きと映ったし、 アジア人からすれば希望を含めた驚きと映ったわけである。「市場と国家」 坂本多加雄 藤原書店
2019年05月15日
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CCDの検閲は、 合衆国、ソ連、英国、朝鮮人、中国その他の連合国の批判を禁じ、 第三次大戦の可能性や冷戦の進展を論評することを禁じて、 日本人の心の中に すべての連合国が「公正と信義」にもとづいて平和共存し、 日本だけが戦前戦中の非行のために孤立させられているという、 虚の世界像をつくり出すことに全力を傾注した。 一九四六年憲法の前文に描き出されている世界像は、 CCD当局がつくり出したこの虚構の世界像と完全に一致している。 換言すれば、CCDの検閲指針の意図した虚像は、 憲法前文に採り入れられることによって、 占領が終了し、CCDの検閲制度が廃止されたあとになっても、 憲法そのものが改廃されぬ限り、 日本人をいつまでも拘束しつづけることになったのである。「一九四五年憲法―その拘束」 江藤淳 文藝春秋
2019年05月14日
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西洋の物質科学文明は限界に来ていることに、 内外の識者が気が付きはじめた。 文明そのものに、疑問を抱くようになった。 従来、文明の進歩とは、人間が幸せになることで、 反対に人間以外の自然界の生物や動物が不幸になる 過程でもあった。 しかし、地球は人類だけの所有物ではない。 西欧型の物質万能の科学技術は、 自然を人間の下に見て、 自然を略奪、征服の対象と見る思想から成り立っている。 これでは自然環境は破壊され、 エントロピーは増大し、人類の未来はない。 今や文明は死の行進を始めたのである。 そこでこれからは自然を畏敬(いけい)し、 生命への畏敬の念を醸(かも)し出し、 エントロピーをエコロジーに変え、 自然と共存、共栄、共生の 「蘇生回帰の科学」に一大転換せねばならない。「破約の世界史」 清水 馨八郎 祥伝
2019年05月13日
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世界大戦の結果、国家の規模は大幅に高まり、 したがってまたその破壊能力と弾圧的傾向も強化された。 一九一四年以前は、国の諸部門は総じて拡大傾向にあり、 とくに一部は急速な成長をみせていたとはいえ、 まだ小規模だった。 実際の国家活動の比重は、 平均して国民総生産の五パーセントから一〇パーセントである。 しかし国家が産業活動のあらゆる部門に参入することにより、 国民生活のなかでまったく新しい役割を果たすようになっていたのは、 日本であり、そしてとくに帝政ロシアであった。 ロシアの産業は、民間保有であっても、 関税障壁や国家補助助成金の貸し付けに大きく依存しているか、 あるいは公営部門と相互依存関係にあった。 大蔵省と大銀行は密接に結びつき、 官僚が銀行の重役会に参加した。 そのうえ、大蔵省の一部局である国立銀行が、 貯蓄銀行や信用組合を統制し、鉄道融資を取り仕切り、 また外交政策上の資金需要をまかなうなど、 経済全体の統制をはかり、 たえず権限の強化と活動の拡大に努めていた。 貿易省は民間の貿易商組合を監督し、 価格、利潤、資源利用そして貨物運賃を統制するとともに、 すべての株式会社の取締役会に代表を送りこんでいた。 大戦直前の帝政ロシアは、 国家的集団資本主義の大規模な実験を行ない、 一応大きな成功を収めていた。 それがドイツの注目と警戒心を引きつけることになる。 このロシアの経済力(そして軍事力)の 急速な発展に対する恐怖感こそ、 ドイツを一九一四年の戦争に駆りたてた最大の要因だった。「現代史」 上 ポール・ジョンソン 共同通信社
2019年05月10日
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「オレンジ計画」(一九〇六年)などにみるごとく、 日露戦争後に米国は日本を「脅威国」とみなすようになった。 また、排日移民法(一九二四年五月)などにみるごとく 「人種的」な反日感情が昂揚していった。 このため、一九三〇年代以降の日米対立には米国にこそ責任がある、 ……とするのが通説である。 だが、このような視点は小さな事実に拘泥して真実を枉(ま)げている。 米国は日本を侵略(攻撃)するための戦争計画など一度も練っていない。 北西太平洋の強国・日本こそが 米国(フィリッピン/グアム)を侵略するのではないかと「恐日」する、 日本脅威観に基づく日本に対する 純粋な自衛(防御)の戦争計画を立案したのである。 オレンジ計画をもってこれを日本への侵攻(攻撃)的なものと誤認した、 わが帝国海軍の罪は量(はか)り知れない。 真の脅威国を脅威と認識できないことと同じレベルの 重大なミステークなのであって、 脅威でない国を逆に脅威国と誤認することも、 国家の存立と安全を倒壊せしめる。「大東亜戦争と『開戦責任』」 中川 八洋 弓立社
2019年05月09日
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全部で三十項目から成っているこの検閲指針には、 「戦争擁護」「神国日本の宣伝」「軍主義宣伝」「国家主義宣伝」 「大東亜共栄圏宣伝」「戦犯の正当化と擁護」などの 当然予想される項目と並んで、 「満州における日本人の取扱に対する批判」 「第三次世界大戦に関する論評」 「ソ連対西側諸国(冷戦)に関する論評」等々が含まれており、 いずれもまことに興味深い。 しかし、私がそのなかで特に深い衝撃を受けたのは、 引用中に傍点を付したその第三項と第四項についてであった。 その理由はいうまでもない。 ここにこそ現行憲法、特にその第九条が 「一切の批判」を拒絶する‟タブー″として規定され、 今日にいたるまで一種不可侵の‟タブー″として取扱われつづけている 国民心理操作の原点があることを、 前記二項目は余りにも明白に示していたからである。「一九四五年憲法―その拘束」 江藤淳 文藝春秋
2019年05月08日
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ユーラシア大陸を南北に二分翻する英露対立は、 かつてのスペインとポルトガルの東西分割のように、 十九世紀から二十世紀へかけての世界史の一大ドラマだった。 陸地を回って中央アジアからシベリアの端まで広がったロシアと、 海を回って西太平洋にまで艦隊(かんたい)を派遣(はけん)したイギリスとが、 どこで出会い、どこでぶつかるかというと、ひとつは日本列島なのである。 もうひとつは北アメリカ大陸である。 イギリスは自分の勢力圏(せいりょくけん)とみなす地域に ロシアが入ってくるのを防ぐために、 同盟相手をいろいろに変え、 ありとあらゆる策を弄(ろう)するのを常としていた。 一八五三年、アメリカがイギリスやフランスに先がけて、 ペリー来航というかたちで日本に接近することができたのは、 ちょうどその頃(ころ)イギリスとフランスはトルコを援助して ロシアに宣戦(せんせん)していたからである。 クリミア戦争(一八五三-一八五六年)である。 イギリスとフランスはなんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。 対日接近に両国が一歩遅(おく)れ、アメリカに乗じられたのはそのせいである。 しかしやがて幕末の日本にともに影響(えいきょう)を与え、 イギリスは薩長連合(さっちょうれんごう)を援助し、 フランスは落日の暮府(ばくふ)を支えつづけることになる。 その後アメリカは日米修好通商条約 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく:一八五八年)を最後に、 対日接近を少し手びかえるかたちになるのは、 ヨーロッパの二強国に遠慮(えんりょ)したからではなく、 アメリカが最大の内乱である南北戦争 (なんぼくせんそう:一人六一-一八六五年)に突入し、 外交上の余裕(よゆう)を失ったためである。 これは日本に幸運だった。「国民の歴史」 西尾 幹二 産経新聞社
2019年05月07日
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