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天地万物が永遠に流転(るてん)を繰り返すと考えるか、 天地には始まりがあり終わりがあると考えるか、 人間の論理ではどちらかしかない。 前者は仏教(神道)の世界観であり、 後者はキリスト教の世界観である。 仏教や神道を生んだのが森林であり、 キリスト教を生んだのが砂漠であった。 宗教の誕生には風土がきわめて大きな影響を与えている。 仏教は森の中で、キリスト教は砂漠で誕生した。 森と砂漠という相反する風土が、 その風土に育(はぐく)まれた少数の天才に語りかけ、 仏教とキリスト教という巨大な宗教を誕生させた。 しかし、いつしか人間は倣慢(ごうまん)となり、 その宗教の誕生には風土など全く関係なく、 仏教は釈迦(しやか)が、キリスト教はイエスという 偉大な創立者が作り上げた点のみが強調されるようになった。 森と砂漠、湿潤と乾燥という 正反対の環境から生まれた人間の思想体系が、 全く異(こと)なるのは当然である。 真理は釈迦でもイエスでもなく、 森であり砂漠だったのである(安田喜憲『東西文明の風土』朝倉書店)。「破約の世界史」 清水 馨八郎 祥伝社
2019年02月28日
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まず真珠湾についてラッセルはこう語り出した ――「日米戦争は真珠湾で始まったのではなかった。 米海軍の脅迫行為が先だった。 日本をおさえこもうとしていた米国が、 米海軍の砲艦パネ一号を 日本近海に遊弋(ゆうよく)させて脅迫行為に出た。 日本はそれに攻撃をかけた。 それは日本の決意を表明するためだった。 米国は、艦隊を日本近海から東南アジアにかけて 長期にわたって遊弋させていたが、 それは日本を圧迫して、 中国および東南アジアの利権を独占するためだった。 アメリカは多年の間、 日本に対して不平等関係を強制していた。 ワシントンの海軍軍縮会議も、 公然と日本にたいして軍事的劣勢をおしつけるためのものだった。 日本が、これ以上アメリカに追従できないと確信し、 決裂するにいたったのはまったく偶然ではなかった。 一九四一年十二月八日の真珠湾の爆撃は、 最後の一撃にすぎなかった」と。「人間バートランド・ラッセル」 日高一輝 講談社
2019年02月27日
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もしも世界の全人口が二〇〇〇年までに、 人口増加が生じないような家族構成に達したとしても、 年齢構成によって生ずるズレがあるため、 最終的に安定化する人口規模は八三億に達しよう。 これらの問題を解決するために、 何の行動もとらないということは、 強烈な行動をとることに等しい。 幾何級数的成長の日々が続けば、 それだけ世界システムはその成長の究極の限界に近づく。 何もしないという決定は、 破局の危険を増大させるという決定である。 われわれは、人類がその機会を失ってしまわないうちに、 成長の計画的抑制を開始する時間的余裕が、 どの程度あるかについて、確信することはできない。 われわれは地球という天体のもつ 物理的制約に関する現在の知識に基づき、 成長の局面が今後一〇〇年続くことはできまいと考えている。「ローマ・クラブ報告『成長の限界』」 大来佐武郎監訳 ダイヤモンド社
2019年02月25日
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モンタギューの改革とガンジーの運動は、 予想どおり「政治的国民」だけでなく すべての人びとに権利を要求するようあおりたてた。 インドには人間が多くいる一方で、権利はわずかしかない。 イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、 そしてシーク教原理主義者がこぞって運動に参加した。 その結果の一つが 一九一九年四月九日から十日にかけて発生した アムリッツァル事件である。 パンジャブ州のアムリッツァルには 一〇〇名の非武装巡査と七五名の武装予備隊が配置されており、 それで治安維持には十分のはずだった。 ところが――それが時勢というものか―― 警察力の使い方が及び腰で、 ときには見て見ぬふり。 そのため暴動は手に負えなくなってしまった。 銀行が二つ襲われて支配人ふたりと事務員ひとりが撲殺、 イギリス人電気技師ひとりと鉄道警備員ひとりが殺害、 修道女の教師ひとりが瀕死のまま遺棄された。 至近地の旅団司令官ダイヤー将軍が出動命令を受け、 三日後ジャリアンワラ・バーグの構内で 暴徒に向かって一斉射撃を浴びせた。「現代史」 上 ポール・ジョンソン 共同通信社
2019年02月22日
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国家の相対化の願望が止むことがないことには、 何よりも戦後日本に特有の思想状況が関わっているのであろう。 それは、具体的には、日本国憲法の前文や第九条に体現された 国際政治観とその前提となっている、 日本が行った戦争への特定の歴史解釈である。 まず、憲法前文には、 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」とあって、 世界が本来的に平和で「無事」な場であるとされており、 それと密接に結びついて 一切の武力の保持を禁じたと解釈される第九条の規定があり、 その背景には、平和な世界のなかで、 日本だけが戦争という時代遅れの悪に身を染めてきた との歴史観がある。 そして、こうした見方をもとに、 日本は偏狭な国家の立場に発するそれまでの行動を反省し、 世界でも国際連合が結成されて、 人類は国家の対立を越えて新しい平和な時代を迎えたという 戦後に特有の国際社会のイメージが形作られてきたのである。「市場と国家」 坂本多加雄 藤原書店
2019年02月21日
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いかにもアジアは、 時を稼(かせ)ぐ交通機関によるはげしいよろこびは何も知らないが、 しかし今なお巡礼や雲水という、 はるかに深い意義をもつ旅の文化をもっている。 けだし、村の主婦たちから食を乞い、あるいはたそがれ時に、 何かの木かげに腰をおろし、 土地の百姓と談笑喫煙するインドの行者こそはまことの旅人である。 彼にとっては、 ある一つの田舎はたんに白然の地形だけから成っているのではない。 それは習俗と社会との、人間的要素と伝統との、むすびつきであり、 たとえつかの問にせよ、 そこに住む人の身の上におこったできごとについて、 よろこびや悲しみをともにしたもの同士の親切と友情に あふれているものなのである。 わが国の地方の旅人もまた、 漂泊の身ながら、名所を去るときにはかならず発句(ほつく)、 すなわちどんな無学なものにも可能な 芸術形式である短詩を残してゆくのである。「東洋の理想」 岡倉天心 日本の名著39巻 中央公論社
2019年02月20日
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ルーズヴェルトはまずドイツそのものを挑発しょうとした。 〝武器貸与法〟によって、 アメリカはその駆逐艦五十隻をイギリスに与えたが、 それを輸送する際、アメリカ海軍が護送した。 それは中立国がなすべきことではなく、 ドイツがその艦隊を攻撃しても当然だった。 その挑発にヒトラーがのらなかったあたりから、 ルーズヴェルトはいわゆる 〝戦争裏口説″と呼ばれる政策を考えるようになった、と思われる。 すなわち、日本を挑発し、 それをきっかけに日本と三国同盟を結んでいるドイツと戦う というシナリオである。 随分曲がりくねったシナリオだが、 孤立主義を原則とするアメリカにはそれが必要であった。 もっと早く、アメリカはドイツに対して、 ある程度以上の膨脹主義をドイツがとれば参戦すると言うべきだったし、 そうすれば長い目で見てアメリカにとっても不利であった 第二次世界大戦は避けられたかも知れない。 だが、至高の原則にしばられていたアメリカにはそれができなかった。 過度の、したがって現実離れした理想主義は かえって悲劇を生むものなのである。「世界史の中から考える」 高坂正堯 新潮選書
2019年02月19日
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「日本が飛躍的に発展しているのに、 アメリカ合衆国は政党間の権力闘争に明け暮れている。 国家の繁栄より個人のほうが大切で、 戦争など無意味で悲惨なだけだと戦いを軽蔑する。 こんなことだと不幸な結果は目に見えている」(ホーマー・リー) ハドソン・マキシムの『丸裸のアメリカ』(一九一五年)は もっと露骨で具体的だ。 「現在迫りつつある危機を認識させるために、 アメリカ国民を鞭打たねばならない」と。 本書刊行の前年に 第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)しているから 表現がきつくなるのだろう。 もしこのままの軍備で日米が衝突すれば、 「日本軍は一カ月以内に二十五万の兵を アメリカ西海岸に上陸させるだろう」と。 そしてもう一つ聞き捨てならないことをいっている。 この大戦が終わったら、 世界の重要問題を話し合うために 米英独仏露からなる国際会議を開催するべきだが、 「この集まりは親戚同士のものだから、 日本は除外すべきである」と。「新地球日本史」2 西尾幹二 産経新聞社
2019年02月18日
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アメリカの反日政策は、 主として国内の少数派である日本人に対する 危惧と動揺から生まれたもので、 アメリカ社会の性格と目的について 国全体がくり広げていた大論争のほんの一面にすぎなかった。 アメリカ人とはだれのことか。 アメリカはなにをめざしているのか。 多くのアメリカ人、おそらく大半のアメリカ人が、 アメリカを最後の理想郷(アルカディア)、 海のかなたの愚行と邪悪をかさねる 堕落した世界から逃れた者の清らかな擬似ユートピアだと、 ほとんど憧れにも似た気持ちで考えていた。 しかし、どうすればこの理想郷を守っていけるのか。 そのこと自体、世界規模の外交政策を必要とする。 さらに、 真に理想郷にふさわしい人間をつくるにはどうすればいいのか。 それには人種政策が必要である。 このふたつの政策は切り離せないほど深く結びついていた。「現代史」 上 ポール・ジョンソン 共同通信社
2019年02月15日
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われわれヨーロッパ人がギリシャに負うものこそは、 恐らくわれわれを最も深く他の人類から区別したものである。 われわれは、「精神」の規律、 あらゆる秩序における完成の異常な模範をギリシャに負っている。 われわれはあらゆる事物を、人間に、 十全な人間に結び附けようとする思考方法をギリシャに負っている。 人間は、自分自身にとって、 あらゆる事物が結局それにあてはめられるような、 一個の座標体系ともいうべきものになる。 従って彼は、その存在のあらゆる部分を発達させ、 能う限り明瞭な、また顕著な調和の中に それらを維持しなければならない。 彼はその肉体と精神とを発達させなければならなくなる。 精神それ自身も、その諸判断の綿密な批判と分析とにより、 その機能の合理的な区分により、語形式の調整によって、 己の過度や、己の夢想や、己のとりとめもない そして純然たる空想的な所産から、わが身を護るであろう。 この規律から科学が生れ出ることになった。 われわれの科学、 すなわちわれわれの精神の最も独特な産物であり、 最も確実な最も個人的な光栄であるわれわれの科学が。 ヨーロッパは何よりもまず科学の創造者だ。 諸芸術はあらゆる国々に在ったが、 真の諸科学はヨーロッパにしかなかったのである。「ヨーロッパ人」 ヴァレリー全集11 ポール・ヴァレリー 筑摩書房
2019年02月14日
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歴史では真実のことは到底判るものではなく、 したがって常識がより重要になる。 まず、謀略説だが、どこまでが謀略だったかを判断するのが難しい。 ルーズヴェルト大統領が日本の戦争準備を知っていたことは確実である。 しかし、日本が真珠湾を攻撃することまで知っていたかは疑問である。 ひとつには情報というものの性質がある。 情報活動はさまざまな細かい情報を拾うことから始まる。 当然、その量は膨大なものとなる。 真珠湾が日本の攻撃の目標であることを示唆する情報もあったが、 その他の目標――真実の目標と偽物の目標――を示す情報もあった。 そうした大量の情報のなかに、 真珠湾攻撃の情報は埋もれてしまったと考えるのが常識的である。 しかも、人間には先入観念がある。 種々の史料から明らかなことだが、 アメリカの当局者たちは日本には真珠湾という遠いところにまで、 有効な攻撃をかける能力がないと考えていた。 だから、彼らは真珠湾攻撃を示唆する情報については、 アメリカを撹乱するために日本が流している偽情報と判断したように思われる。 彼らは、 日本の攻撃目標としてフィリピンやウェーキ島を考えていたのであろう。 それを示すのがアメリカの艦艇の動きで、 一九四一年の晩秋――真珠湾攻撃の少し前ワシントンの海軍省は 航空母艦三隻をウェーキ島に、一隻をミッドウェイに、 そしてもう一隻を国内海域に戻すように 真珠湾の司令部に命令しているのである。 アメリカ政府の責任者が真珠湾への攻撃を ほとんど想定していなかったことは間違いない。 少なくとも、彼らがそこで大損害を蒙るとは 考えていなかったことはまず間違いない。 読みを狂わせられたルーズヴェルト大統領は怒った。 それだからこそ、彼は対日宣戦のために招集した議会で、 ”卑劣な不意打ち”という言葉を心から吐けたのではないだろうか。「世界史の中から考える」 高坂正堯 新潮選書
2019年02月13日
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戦って敗れることと、 戦わずして屈服することの問には、 天と地ほどの差がある。 「和平」を選んで服従した場合、 その悔恨と怨みはほぼ永遠に晴れない。 近隣諸国の戦後史を見れば察しがつくだろう。 逆に国家の尊厳を守って決然として「戦争」に赴けば、 たとえ敗れたといえども、国家再興のときは必ず訪れる。 世界史を見れば、その差は歴然としている。 米国が日本に突き付けた「ハル・ノート」を頂点とする さまざまな対日政策は、 そういう種類の決断を日本人に迫るものだった。「新地球日本史」2 西尾幹二 産経新聞社
2019年02月12日
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どの国もその面はあるが 「とくにアメリカ上院は相手国に有利な案など通さない」。 しかし、アメリカにはそのわがままを通すだけの力があるから、 つき合い方が難しいのである。 実際、ワシントン体制が作られ協調外交の時代に入った直後の一九二四年に、 連邦議会が日本からの移民を完全に不可能にする 移民法を成立させて日本人の気持ちを傷つけたことなど、 アメリカの議会には「他国のことや、世界のことを考えない」面がある。 しかも、それがすべてではなく、 きわめて寛大になったり、先見性を発揮したりもする。 山梨によれば、アメリカは「要するに矛盾が多い大国であり ……非常にきれいな品のよいところがあるかと思うと、 ごろつきみたいなところが同時にある」。 だからつき合い方が難しい。 そうなる理由を山梨はアメリカの歴史から説明しているが、 ここで扱うスペースはない。 ただ、彼がこのアメリカの 二重性とつき合いの困難性に頭を悩ましていたことは、 アメリカの全盛期の一九六四年夏、 二重性故に「今後アメリカは決して楽にはいかないだろうと思います」 と述べると共に、 チャーチルの偉大さの重要な理由としてチャーチルが アメリカを動かすことに成功した点をあげていることからも 明らかである。「世界史の中から考える」 高坂正堯 新潮選書
2019年02月08日
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河合も南原も、満州事変以降の日本の国策を批判し続けた。 にもかかわらず、河合は、昭和十六(一九四一)年二月、 その出版違反容疑の控訴審を前に、 「国民に愬(うった)う」(発行差し止めとなる)を記し、 ここまで欧米との関係が悪化した以上、 ここから退くことは徹底した敗北を意味する、 今や進んで戦うのみである、自分のようにこれまで平和を主張した者も、 「一旦緩急あらば我々は財を捨てて命を抛(なげう)たねばならない」 と説くに至る。 むろん、河合は日本が勝利するとは考えていなかった。 が、「男らしく勇敢に起ったもののみが、 たとえ恐ろしい運命の下に什(たお)れようとも、 再び起ち上がる気力を持つことが出来る」と述べ、 敗戦後の再建まで視野に置いて、 国家が遭遇した運命に立ち向かおうとしたのである。 おなじく、南原は、真珠湾奇襲の報に接し、 それが「人間の常識を超え学識を超えておこ」ったことを嘆きつつ、 「民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾(うべな)はむか」 との歌を残している。 「身にしみてわれら諾はむか」という表現にもまた、 河合と同様、悲劇的予感のなかで 国家の運命を自らのものとして担おうとする ひそやかな決意がうかがわれる。 南原は、学徒出陣に際して、 「国家がいま存亡の関頭に立っているとき、 個々人の意志がどうであろうとも、 われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。 われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである」 との考えのもと学生たちを送ったという。「市場と国家」 坂本多加雄 藤原書店
2019年02月07日
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「幕末におけるABDF(米英蘭仏)ラインが 日本に加えた圧力はたしかに強力なものであった。 が、日本は『敗北』したが『屈服』しなかった。 不平等条約はおしつけられたが、 いかなる土地の占領もゆるさなかった。 東漸する『西力』はその意志に反して極東のはてに 日本という『非占領地帯』をのこさざるを得なかった。 もしこの時のABDFラインが日本をおしつぶしていたら、 日清戦争も日露戦争もなく、 『西洋列強』はそれから約一世紀後の『太平洋戦争』の直前に、 再びABCD (米英支蘭)ラインなるものを結成して日本を包囲し、 強制し挑発する必要はなかったであろう」 林房雄はその列強との戦いを「百年戦争」と名づけ、 その最終局面が「大東亜戦争」だったというのである。 小林秀雄のいう「歴史の必然性」の恐ろしさにほかならない。「新地球日本史」2 西尾幹二 産経新聞社
2019年02月06日
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昭和九年十二月、当時貴族院議長であった近衛文麿は 『月刊維新』という雑誌に発表した 「国家主義の再現」という論文の中で次のように書いている。 「日本も亦(また)、 欧洲大戦後に世界を風靡(ふうび)した国際主義、協調主義に没頭して、 パリ会議以来、彼等〔欧米諸国〕の云ふところに従ひ、 領土の現状維持は承認して来たのであるが、 併しそれは、人間の移住、貨物の輸出入に関しては 自由な世界の来ることを条件としてゞあつた。 然るに事実に於ては、彼等は本国に於ても、 また有色人種の世界たるべき東洋の領土に於ても、 日本人は固より、有色人種は総て排斥し、 貿易の如きもまた、彼等の門戸は儘(ことごと)く閉して、 極東に対してのみ、機会均等、門戸開放を 仕切(しき)りに要求してゐるのである。 これは彼等に取つて、その防衛上、 当然と云へば当然なことであるが、 併し、今や非常な勢ひを以て勃興(ぼつこう)しっゝある日本に取つては、 洵(まこと)に迷惑なことであり、困つたことなのである」「新地球日本史」2 西尾幹二 産経新聞社
2019年02月05日
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「日本の取り組んだ軍縮は、 相手がアメリカであり、 軍人にとってこの軍縮は弾丸をうたない戦争であった」 ――この言葉は海軍大将山梨勝之進のものである。 ロンドン軍縮条約はワシントン体制と呼ばれる 英米との協調路線の最後の成功例であった、 とされているし、それは概ね正しい。 しかし、そのころ日本には アメリカの株式大暴落に端を発する世界大不況が波及していた。 間もなく日本社会は失業や 農村地域の女子の身売りなど深刻な事態に突入することになった。 それもあって、満州事変は日本国民の大多数に歓迎され、 その後日本では軍部が支配を強めていく。 そうした風潮は海軍部内にも及び、ロンドン軍縮条約に賛成し、 その成立のために努力した山梨などの人々、 すなわち〝条約派″は、それに反対した〝艦隊派″によって 軍内の主流派の地位を崩されて行った。 こうした歴史の表面的解釈から言えば、 山梨勝之進は米国との不戦の立場を取る人々の代表、 単純に言えば〝親米派″と言うことになる。 しかし、上記の言葉は山梨が 単純にアメリカを信頼していたわけでも、 軍縮を賛美していたわけでもないことを示している。「世界史の中から考える」 高坂正堯 新潮選書
2019年02月04日
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日本軍が応戦したのは翌日の朝なのに、 夜十時と特定されていること、 しかも日中両軍の司令部すら事態の真相をつかんでいない時点で 早手回しにこうした電報を打ったことは、 最初の一発から共産党のシナリオができていたことを 推測させるに十分な証拠である。 事件そのものはささいな摩擦にすぎず、 直ちに停戦協定が結ばれ、局地解決がはかられた。 ところが、コミンテルンは、次のような秘密指令を発していた。「(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かねばならない、 (2)右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、 局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は 抹殺してもよい、 (3)下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、 国民政府として戦争開始のやむなきにたち至らしめねばならない、 (4)党は対日ボイコットを全支那に拡大し、 日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威嚇せよ、 (5)党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、 国民党を凌駕(りようが)する党勢に達しなければならない」 この資料は一九三九年十月に興亜院政務部が発行した 『コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料』 という文献に収録されているものである。「新地球日本史」2 西尾幹二 産経新聞社
2019年02月01日
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