まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2022.09.16
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NHKの完全保存版 「絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」

一週おくれになりましたが、
第5回のテーマは「旅と自然」でした。



今回は短歌のセレクトがなく、
俳句のみの紹介だったのですが、

まずは、これ!


松尾芭蕉。
古池や 蛙飛こむ水のをと
(江戸時代)


言わずと知れてます!


この句こそが、
俳句文化の出発点でもあるのだから、
これにケチをつけちゃったら、俳句文化の前提が崩れかねないし、
俳句のことを何も知らなければ、
四の五のいわず「名句だから名句なんでしょ!」で済むのだけど、


なまじっか俳句のことをかじりだしてしまうと、
これが本当に名句というべきかどうかが疑わしくなる。

問題点は、おもに3つ。
・カット割りが不適切なのでは?
・無駄な言葉が多いのでは?
・季語が主役になっていないのでは?

ってことです。



まあ、

芭蕉の時代には、
現在のような「俳句のセオリー」なんてものは確立してなくて、
もっと自由におおらかに作ってたのだ、
…という見方もできるかもしれません。

その一方、


たんに自由に作ってたわけでもなくて、
吟味に吟味を重ねた上で、この最終形に辿り着いたのよ!
…という見方もできます。


1.不適切なカット割りについて

まず、
わたしが気になるのは、カット割りのこと。


形式的には、2カットの取り合わせのはずなのに、
内容的には、どう見てもワンカットの場面なのです。

ならば、上五で切らずに、
古池に蛙飛びこむ水の音

としたほうがよかったのでは?


2.不要な語句について

つぎに気になるのは、下五の「水の音」です。

これについては前にも書きましたけど、

池に蛙が飛び込んだら「水の音」がするのは当たり前なんだから、
わざわざ書かなくてもいいでしょ!ってこと。

いうたら、
「水の音のしない池の飛び込みがあったら持って来い!!」
って話です。



こうした疑念に対する回答として、
前段は《視覚》の描写であり、後段は《聴覚》の描写なのだ

という説明がありえるでしょう。

つまり、
目に見えていた光景と、耳に聞こえてきた音が、
分離していて、一致しないことへの驚き。

いわば《視覚》と《聴覚》の二物衝撃。
そして《持続的な時間》と《静寂を打ち破った瞬間》との二物衝撃。
じつのところ、わたしもそう思っていましたよ!(笑)

今回の番組でも、
選者の復本一郎が、
芭蕉は音だけ聞いて蛙の姿を見ていない
音を聞けば「あれは蛙だなあ」と分かる

と話していました。

かりに散文に訳すならば、
「静かな古池が見えてるよ。あ、あの水の音はきっと蛙だなあ。」
という取り合わせの句なのだ、と。


3.季語の扱いについて

しかしながら、
季語の「蛙」が作者の目に見えていない。
ゆえに、映像化もされていない。
じつのところ、ほんとに蛙かどうかも定かではない。

そんなものを俳句の主役にできるのでしょうか?
これが3つめの問題です。

そもそも、
上五の切れ字「や」で強調してるのは、
季語の「蛙」じゃなくて「古池」なわけだし。

いや、
見えないことによってこそ「蛙」が主役たりえている!
…ってか??



4.「古池や」の句を添削してみる

この芭蕉の句を、
かりにプレバトにでも提出したならば、
「凡人」の査定や「才能ナシ」の査定を喰らう可能性がある。
ためしに添削を試みてみましょう。

まず、百歩譲って、
蛙の「姿」ではなく「音」こそが主役なのだとしても、
さすがに「水の」なんて説明は不要でしょうよ!
笛や鐘の音がするわけないんだから。

むしろ、
この余計な3音ぶんを使って、
音についての描写を深めればよかったのでは?

たとえば、
「音ひとつ」 とか 「音ふたつ」 とか、
「音とおし」 とか 「音ちかし」 とか、
いろいろとやりようはあるわけで。



さて、ここでちょっとネタバラシ。
というか裏話。

じつは、この句には、
上五を 「山吹や」 にする案もあったそうです。
▶Wikipedia参照

すなわち、
散文に訳すならば、
「山吹だなあ。蛙が飛び込んで水の音がしているよ。」
という取り合わせの句だった可能性があるのです。

たしかに、これならば、
カットを分ける必然性があります。

ところが、芭蕉はこの案を蹴りました。
そして、あえて「古池や」を上五に置いた。

このことから、長谷川櫂などは、
芭蕉は実際には「古池」など見ていないのだ
それは芭蕉の心の中にある幻の池なのだ

との説を唱えています。

いわば、
幻想と現実との取り合わせ、
フィクションとリアルの二物衝撃、
…というわけ。

現実の「水の音」を聞いたあとで、
幻想のなかの「古池」を思い浮かべたのだから、
結果的に重複になるのだとしても、
下五の「水の音」は省略できなかったのかもしれません。



かたや、
夏井先生のYoutubeチャンネルでは、
まったく別の視点も提示されています。

いわく、

これは春の句なのだし、
その季語の本意から考えるならば、
「古池の静寂を破って一匹の蛙が飛び込んだ」
みたいな寂しげな場面ではなく、

むしろ、
冬眠からかえった無数の蛙たちが、
あちこちでビョンビョンと飛び跳ねているような、
生命力にあふれた句と解釈しなければならない


…とのことです。

つまり、
そのときにこそ「蛙」は主役たりえるのであり、
そう考えれば、この句は、
「古池=ワビサビ」と「蛙=生命力」の二物衝撃とも読める、
ってなわけですね。



しかし、
それでも、わたしはまだ完全に納得しきれていません。

もし本当に「蛙」の姿が見えていないのなら、
そして「水の音」だけがあちこちで聞こえていたのなら、

古池に蛙飛ぶらむ音あまた

とでも書けばいいのでは?と思ってしまうのです。



なお、冒頭に述べた通り、
今回は紹介された俳句の数が多かったので、
残りの作品については(その2)で書くことにします。








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最終更新日  2022.09.17 13:20:16


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