まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2025.06.19
XML
カテゴリ: 日本史・世界史
NHK「歴史探偵」後醍醐天皇と南朝を見ました。

わたし的には、後醍醐天皇も、
平将門やら源義経やら西郷隆盛みたいに、
逆賊の系譜という点で興味をひかれてしまう。



彼は、まず鎌倉幕府に敵対しましたが、
たんに《朝廷vs幕府》という図式じゃありません。
もともと朝廷の内部にも、
2つの皇統の対立《持明院統vs大覚寺統》があった。


両統迭立に不満をもった後醍醐天皇。


幕府も朝廷も敵に回して流罪になり…

隠岐を脱出して鎌倉幕府を倒したあと、
建武の新政をはじめたものの、
やはり室町幕府&北朝に敵対しまうのですね。






幕府も朝廷も敵に回してるのに、
いったい誰が彼の味方をしたのでしょう?
…わたしの興味はそこにある。

後醍醐天皇の倒幕構想は、
ひたすら「皇統を独占したい」という、
ごく私的な動機によるものですが、


もともと中央政権にまつろわぬ勢力、
いわば「裏日本」みたいな勢力だったと思う。

そこらへんが、
平将門や源義経や西郷隆盛に似てるのよね。





出雲 /島根 とか、吉野 /奈良 とか、住吉 /大阪 とか、
陸奥 /宮城 とか、越前 /福井 とか、遠江 /静岡 ・信濃 /長野 とか、
肥後 /熊本 とか、伊予 /愛媛 の海賊とかですが、


それは、つまり、
かつて大和朝廷に征服された人々や、
源氏に敗れた平氏の残党だったのでは??

平家と出雲
壇ノ浦の戦いからさかのぼること約80年前、出雲国で起こった「源平合戦」をご存じでしょうか。それは“源義親の乱”です。彼は現地の住人を殺害して税物を奪い、さらに朝廷から遣わされた使者をも殺害する暴挙にでます。これにより1103年、隠岐国へ配流となりました。ところが4年後の1107年、義親はあろうことか出雲国へ脱出し、さらに国司の代官である目代を殺害して現在の松江市美保関町の雲津浦に立てこもってしまいます。
こうした状況をみかねた朝廷が派遣した追討使こそ、平清盛の祖父であり当時、因幡国司だった平正盛でした。勅命を受けた正盛は出雲国へ向かい、またたく間に乱を鎮めることに成功します。その後、正盛は義親の首をささげて入京し、京内の道路は見物人であふれかえったといいます。源氏の悪人を平氏の棟梁が成敗したことを、強く印象づける出来事となりました。
https://shimane-kodaibunka.jp/history/history-1179/
平家の落人と吉野
現在の吉野郡にも平家の落人の伝承が残っている。野迫川村平は、平維盛がその生涯を終えた場所とされ、また十津川村五百瀬には維盛の墓と伝えられる祠がある。また上北山村の始祖は、平氏の末族だったと言い伝えられ、村内には平氏と縁のある寺院が多数あり、一門が遺した仏像や古文書が所蔵されている。この他に隣接する下北山村や和歌山県の北山村などにも平家伝説が伝わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E
平家の落人と陸奥
平貞能公と定義:平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、重盛公の遺言にしたがい、貞能公は宝軸をまもり、ひそかにこの地に隠れました。貞能公はなおも世をはばかり、名を「定義」と改めました。
https://jogi.jp/about/nyorai/
平家の落人と越前
福井県には数多くの平家の落ち武者伝説が残ります。これは平清盛の父・平忠盛が保安元年(1120年)に越前守に任じられ務めていたことに関係します。そこから木曽義仲が北陸の平氏勢力を倒す寿永2年(1183年)までの60年以上、越前国は平氏の勢力下におかれていました。そのような状況の中、加賀市の篠原の戦いで散った平氏の残兵は越前の各地に逃げ隠れました。
https://www.echizen-history.com/post/清水平町
平家の落人と信濃
長谷の浦には壇ノ浦の合戦で敗れ逃れてきた平気落人の伝説がありここの住民はその末裔といわれています。小松氏の先祖が平重盛か維盛かは明らかではありませんが、平家の流れの者であることは確かだとされています。
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=33015
平家の落人と肥後
平清盛はみずから肥後国司となり、ついには直轄地としました。肥後に落人伝承が多いのはこうした背景があったからと思われます。
https://kumamoto.guide/look/terakoya/123.html

南朝が彼らを利用した面もあったろうし、
逆に彼らが南朝を担ぎ出した面もあったと思う。

義良親王(のちの後村上天皇)
建武元年(1334年)、陸奥国府兼鎮守府の多賀城(宮城県多賀城市)に入城し、後醍醐天皇が多賀城に創設した奥羽将軍府のトップとして、北朝を擁する室町幕府軍と南北朝の内乱を戦った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/後村上天皇
尊良親王
延元元年/建武3年(1336年)、異母弟である皇太子恒良親王とともに新田義貞に奉戴されて北陸に逃れ、越前国の金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/尊良親王
宗良親王
延元3年/暦応元年(1338年)、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊行直のもとに身を寄せる。興国5年/康永3年(1344年)に信濃国伊那郡の豪族香坂高宗に招かれ、大河原(長野県大鹿村)に入った。この地を文中2年/応安6年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし「信濃宮」と呼ばれるようになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗良親王
懐良親王
貞和4年/正平3年(1348年)南朝の征西大将軍・征夷大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/懐良親王

そんなウィンウィンの関係のなかで、
南朝の勢力が応仁の乱まで維持されたのではないかしら?


まあ…

もとはといえば鎌倉幕府も、
伊勢平氏に圧倒されて没落した河内源氏が、
東国武士とウィンウィンの関係で築いた政権なので、
似たようなことの繰り返しともいえる。




なお、
平将門も、源義経も、西郷隆盛も、
NHK大河の主人公になったことがありますが、

後醍醐天皇は、まだ大河の主人公になってませんよね。


烏は主を選ばない?
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

後醍醐天皇 (岩波新書 新赤版 1715) [ 兵藤 裕己 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2025/6/19時点)



うたコンにゴダイゴも登場!



にほんブログ村 テレビブログへ ジャンル関係無しなんでもレビュー 映画ブログ・テーマ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2025.10.04 12:17:24


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: