まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2025.06.22
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カテゴリ: NHK朝ドラ
RADWIMPSのファンの人たちは、
過去に「HINOMARU」が物議を醸したトラウマもあり、
歌詞の解釈に臆病になってるかもしれませんが、

おそらく野田洋次郎自身は、
臆病になっているどころか、
ますます挑発的になってるように思えます。
あるいは、この機会をとらえて、
何らかのリベンジを試みたのかもしれません。

だとすれば、

彼の才能への敬意を示すことではなく、
むしろ正面から受け止めるべきなのだと思う。



なお、わたしは彼のことを、
現代日本の屈指のソングライターと評価しますが、

しかしながら、
その才能を評価することと、
その思想を容認することとはまったく別の話です。



彼が過去の楽曲で、
天皇の意味で 「君」
わたしは正確なところを知りません。

たとえば新海誠のアニメソングなどは、
《ボクとキミが世界の運命を変える》というような、
いわゆる「セカイ系」のニュアンスを帯びてるし、
そのように解釈されることが多いと思います。


すくなくとも戦前の日本において、
「君」や「神」とは天皇のことだったのであり、
野田洋次郎は当然そのことを承知のうえで、
確信犯的に今回の主題歌を書いてるはずです。



だとすれば、
以下の部分はどんな解釈になるか。

いつか来たる命の終わりへと
近づいてくはずの明日が
輝いてさえ見えるこの摩訶不思議で
愛しき魔法の鍵を
君が握っててなぜにどうして? 
馬鹿げてるとか思ったりもするけど
君に託した神様とやらの采配 万歳

戦前なら次のような意味になります。

戦死へと近づいていくはずの明日が、
輝いてさえ見えてしまう不思議で愛しい魔法の鍵を、
なぜか天皇陛下が握っている。
どうして?馬鹿げてる!…と思ったりもするけれど、
天皇陛下に託した天照大神の采配に万歳を叫ぼう!

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なお、
エンタメNEXTに掲載された、
制作統括/チーフ・プロデューサー倉崎憲のインタビューには、
次のように書かれてます。

タイトルバックとRADWIMPSによる主題歌『賜物』も、従来の朝ドラのイメージとは一線を画すものとなった。
「すぐに分かりやすいものが全てにおいていいわけじゃないと思っています。朝ドラは半年間、毎朝放送されるものですから、第1週で見た時と、例えば第5週、第10週で見た時、最終週の26週で見た時の、その時々の描いている時代によって、あるいは受け取り手のいろんな環境によって感じ方が変わっていただければいいなと思っています」
主題歌制作にあたっては、作詞作曲を担当するRADWIMPS・野田洋次郎にやなせ氏に関する膨大な資料を提供し、と何度もディスカッションを重ねたという。 
「世の中の皆さんが知っているやなせ夫妻を描くにあたって、表面上の薄っぺらいものではダメだなというのは共通認識であって、詞としても曲としても深いとこまで行きたいという思いはありました。とくに一番最初の打ち合わせでお話ししたのが、『生命力』というのは一つの要素として大事ですよねということ。それから『挑戦』ということ。“これまでの朝ドラの主題歌”というイメージにとらわれずにチャレンジしてほしいし、彼らもチャレンジしたいという話の中で、最終的に生まれたのがこの『賜物』という曲なんです」
『賜物』とは何を指しているのか。
「人によっていろんな解釈があって良いと思いますが、一つは命そのもの。『あんぱん』は、一度きりの人生で全員に平等に与えられた命をどう生きていくかという普遍的な物語でもあると思っています。そこに対してRADWIMPSさんが1年近くとことん向き合って『賜物』を生み出してくださった」
戦後80年という節目に、戦争という重いテーマに正面から向き合い、“逆転しない正義”と“生きる喜び”という普遍的なメッセージを届ける『あんぱん』。

まさに第10週では、
出征のシーンが描かれたわけですが、

そこでの歌詞解釈のあり方と、
最終26週での解釈のあり方はおのずと変わる、
…ということが示唆されてるわけです。

つまり、
戦前と戦後では「君」の意味が変わるし、
それにともなって「賜物」の意味合いも変わる。




ところで、
第12週のサブタイトルは「逆転しない正義」でした。

そこでは、中国人の女性が、
飢えた日本兵に卵を分け与えるシーンが描かれました。

以下は、NHK「おはよう日本」の記事の抜粋。

逆転しない正義があるとすれば、それはいったいどういうものなのか。考え抜いた末、やなせさんはひとつの考えにたどりつきます。
「飢えている人がいればですね、その人にひと切れのパンをあげるっていうことは、A国へ行こうが、B国へ行こうが正しいんですよ。もしも正義の味方だったならば、最初いちばんにやらなくちゃいけないのは、飢える人を助けることじゃないかと思ったんです」

先のエンタメNEXTの記事では、
「逆転しない正義」「生きる喜び」

…という2つのメッセージを伝えることが、
今回の朝ドラの目的だと述べられてます。

そのうちの「逆転しない正義」が、
《飢えている人に一切れのパンをあげること》
であるのはすでに確定してるわけで、
このメッセージは最終26週まで変わらないはず。




その一方、
野田洋次郎の主題歌では、
そのような「逆転しない正義」には触れられません。

むしろ、
相対的な「正義」より重要なことが示唆されてます。
それは以下の部分。

正しさなんかにできはしないこと
この心は知っているんだ
There's no time to surrender
(降伏してる暇なんてない)

結論を先にいうと、
野田洋次郎のつくった主題歌は、
「逆転しない正義」の普遍性ではなく、
「生きる喜び」の普遍性をこそ歌ってるのであり、
相対的な正義よりも、そちらを重視する歌詞です。

それは、すなわち、
賜物である「命そのもの」の絶対的肯定です。
それが誰の賜物であり、何の賜物であるかは問わない。

そして、
最後の「命を生きよう/君と生きよう」という歌詞を、
戦前も戦後も、右も左も変わらないような、
最終的かつ普遍的なメッセージとして提示しています。
※ちなみにドラマ第10週のサブタイトルは「生きろ」でした。


これは、
彼がかつて「HINOMARU」に込めた思想とも、
基本的には何も変わってないと思います。

世界の中で、日本は自分達の国のことを声を大にして歌ったりすることが少ない国に感じます。歴史的、政治的な背景もあるのかもしれません。色んな人がいて、色んな考え方があります。誰の意思や考え方も排除したくありません。僕はだからこそ純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました。自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える国であってほしいと思っています。


おそらく野田洋次郎の思想とは、
どんな時代であれ「生きること」の絶対的肯定であり、

そのためならば、
「戦前の生き方も戦後の生き方も否定しない」
…ということなのでしょうね。



しかし、わたしはやはり、
このような思想は危険をはらむと思う。

なぜなら、
たんに生きることを肯定するだけでは、
戦争を食い止めることはできないからです。
生きるために戦争をする人間もいるし、
生きるために戦争に協力する芸術家もいる。

野田洋次郎の思想は、
そのためのエクスキューズとして機能しかねない、
…と言わざるをえません。

今回のRADWIMPSの主題歌は、
ドラマの内容と補完しあうことで、
かろうじて容認しうるメッセージではあるものの、
単独の楽曲としては、むしろ危険をはらむ内容です。

それどころか、
ドラマを隠れ蓑にすることで、
その危険なメッセージを正当化しているとも言える。




もうひとつ、
わたしが気になってるのは、
NHKのポップス部門のスタッフのなかに、
ミュージシャンへの入れ知恵をする人物がいるのでは?
…ということです。

これは、たとえば、
小山田圭吾とオリンピックの問題にも関係するけれど、

NHKのポップス部門には、
ミュージシャンの無邪気なエモーションに寄り添うあまり、
その思想の甘さを安易に容認したり、
場合によっては愛国的なエモーションさえ引き出すような、
危うい傾向があるように見てとれる。



これは、たとえば、
渋谷陽一をはじめとするロッキングオンの人脈が、
長年にわたってNHKと関わりをもったこととも、
わたしは無関係ではないと感じてます。

そもそも、
小山田圭吾をオリンピックに結びつけたのも、
ロッキングオンの人脈ではないかと噂されてますが、
そうだとすればNHKとロッキングオンの関係ゆえでしょう。

そして、
ロッキングオンやらミュージックマガジンやらが、
ミュージシャンの政治的問題を批評するどころか、
ろくに議論することさえ出来ずにいるのは、
それらがすぐれて「身内の問題」だからです。

小山田圭吾の問題だけでなく、
たとえば山下達郎や星野源などが、
性加害者に「義理立て」するような振る舞いをしても、
ロッキングオンやミュージックマガジンなどの音楽誌は、
ジャーナリズムの機能をまったく果たせずにいます。

それは、これらの雑誌が、
批評誌というよりも、
いわば一蓮托生の宣伝媒体だからであり、
うわべのリベラルを装ってるに過ぎないからです。
そういう傾向を強めたのは中村とうようや渋谷陽一ではなく、その「後継者」たちですが。




山下達郎や星野源などが、
性加害者に「義理立て」をするのと同じように、

戦時になれば、
国家権力に「義理立て」をする芸術家がかならず現れ、
その協力のもとで戦争は推進されていきます。

いくら純粋であっても、
ミュージシャンの無謬性を信じることなどできないし、
純粋であることが免罪の根拠になるわけでもない。

野田洋次郎の今回の歌詞のように、
生きることのエモーションだけを、
ひたすら無邪気に信じるような純粋さには、
むしろ警戒が必要であり、
それを容認する動きにも注意を払うべきです。

そして、
ろくな批評が機能しない現状があるかぎり、
J−POPミュージシャンの「政治的問題」は、
今後も繰り返し出てくるはずです。


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最終更新日  2025.08.10 15:37:47


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