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失敗者たちは、代償を支払うことをしない。何かを得たければ、何かを犠牲にしなければならず、その犠牲を、結局他に求めてしまう。要求が通らないのは、要求の仕方や強さが足りないことが原因だと考え、決して自分ががんばろう(つまりは自分が何かを我慢する)とはしないのである。そして失敗者の多くは、訓練や練習や我慢が、人間を強くし、かつては辛かったことでも、やがては容易くできるようになるということを信じようとしない。我慢やがんばりの替わりに、何か別の平易な道があると思っているのだ。私がこういうテーマについて何度も書くのは、彼らから少なからず迷惑をかけられているからだ。すなわち、あれこれと要求をされるということだ。「お前にとって、これくらいのことは容易くできるはずだ。従ってこれこれのことをしてくれ。」という、類のことである。こんなやつらは相手にするだけあほらしい。「私はこれこれのことがしたくて、こういうことをやったのですが、残念ながら、ここのところがこれだけ足りません。ついては、いくらかでも援助してもらえませんか。」という話なら、聞かぬこともないし、助言もしよう。しかしまあ、そういう話は、来ませんね。
2007年03月31日
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効率主義、または「自分と他人との区別が無い」または、「お答え症候群」等の犠牲者とも言うべきか、努力せずして結果を欲しがる人たちが、少なからずいる。そういう人たちの言い分は、誰かが悪いということなのだが、当の自分はというと、いかにその誰かを責めるかに集中している。それもそのはずで、彼らの手段とは、それしかないのだ。一つの手段がだめだと、分かるのが怖いので、量的な不足だと結論付ける。かくして、責めて責めて責め抜いて、ついには本質的なものまで失ってしまう。その時点でもまだ、何がいけなかったのか分かる努力を始めようとしない。たいていは傷をなめてくれる仲間を探し始める。こういうやからに共通する症状というのは、一 手段を一つしか持たない(別の道を探そうとしない)一 努力を始めるのが遅い一 後になってがんばるのは、より苦しいということを知らない一 物事を安易に見てしまう一 他人の気持ちを推し量れない一 自分の問題を他人に押し付ける一 工夫しない(別の道を探そうとしない)一 質的変化の必要を量的増強で補おうとする
2007年03月29日
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どうしても勝ちたいやつらがいる。こういう手合いというのは、とにかく自分が勝ったといいたいので、それを聞いてくれるやつの所に言って話をするか、自分より立場の弱いやつをいじめて強くなったように振舞っている。そういうやつらの正体は、弱者、消費者、一般大衆と言われるやつらだ。偉そうにものを言ったかと思うと、その割には自分ではたいしたことはしない。毎日金を払った分だけ、偉そうにものが言えているだけだ。金の切れ目が何とやらで、借金してまで金を欲しがり、仕舞いに自分の金と誰かの金の区別もつかなくなる。自分の状況が誰のせいなのかを把握できないので、敵とか攻撃対象を見つけては喜んでいる。それで「生き抜いてやる」だの「負けません」だの言っているんだから、お笑いだ。大体、苦言を呈してくれる、本当に心配してくれている人を排斥して、「そうそうあなたの言う通り」耳に優しい言葉の方へ寄っていく。知恵が無いんだろう。そのくせつまらないことでは、人の為になろうとしている。そして、肝心な所では、やりきってしえず、ほどほどで、感謝をされたい。つまりは偽善だ。まずは自分のことを、ちゃんとやりなさい。
2007年03月28日
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自分は官製の祝日・祭日などは、さして気に留めていないものがほとんどなのだが、自分で記念日めいたものを決めている。今日、三月二十六日は、サリバン先生がヘレン・ケラーに発音訓練を始めた日である。 暗黒の海にこぎ出でし小船 一筋の航跡は 人の 知と 力と 勇気
2007年03月26日
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何をしたいとか、何がいいとか、何が正義とか、本当に自分の頭で考えているやつというのは極めて少数であると確信している。かく言うところの自分もその一人(つまり、自分で考えていない方)なんだろう、きっと。それがいやで自分は道家になったようなものだが、道家が成立するには儒家・墨家の成立が前提である。したがって自ずとそこに限界はある。どうせ限りある命の中でやることに、限りがあるのは当たり前だ。もっともっとと、思って努力していたはずのものが、逆に大きく失って、こんなことなら、じっとしていた方が良かったと気づいたり、過去を振り返って、あのころが贅沢だったのかと思い知ることになる。結局、テレビとか、世間の口とか、マスコミとかの影響下にいてそれに気づかず、あくせくしているうちに大事な時間は過ぎてしまった。
2007年03月25日
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あれば邪魔だが、捨てるとなると躊躇する。いざという時に改めて手に入れるとなると手間も金もかかるというわけだ。で、なかなかものを捨てるというのは難しい。「捨てる技術」なんていうのもはやったが、私は読んでいない。捨てられないというのは、捨てた後の「無い」という恩恵を評価できないからで、それが分からないのは、たとえば、普段空気とか、水のありがたみが分からないことに似ている。無ければ、無いということの恩恵を我々は受ける。それは事実である。それを理解する代わりに、捨てたものがたまたま必要になった時に、やっぱり捨てるなんて間違っていたと、あたかも正しいことを眼前にさらされた如く言うのは容易い。容易いが、その安直を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれというものであろう。よつしゃーっ、捨てるで。
2007年03月24日
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とにかく勝つことがいいと思っている人たちがいる。彼らはとにかく勝つので、マリファナを処方してもらったように一時的には、良くなる。それが病みつきになると、ますますその手で行くようになる。自分にとって本当に必要なものをもたらしてくれる人の意見にまで、勝って勝って続けると、仕舞いにどうにも立ち行かなくなり、弱者になって「私はこんなに困っているのよ、どうしてくれる」という最終兵器を繰り出すことになる。自分の好き勝手でやるだけやって、「なぜ言ってくれなかったんだ」「言われたらやっていたのに」ぐらいの捨て台詞が関の山だ。耳に優しい、目に心地よい言葉と態度で待遇してくれるやつだけ回りに集めて、人生の勝利だと思いたいのは分かるが、それが金に絡んでの一時しのぎだということは、当の本人がうすうすは気づいている。気づいているだけに内心不安なものだから、「なっ、そうだろう」「・・というものだ」「それが常識だ」てなフレーズがやたらと多くなる。自分がだめになった原因がどこに、どの時点で分岐になったのかすら分かるはずもなく、ただ、落ちぶれている。誠に、自業自得あるのみ。
2007年03月23日
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明石の歩道橋事故について、今も腹の虫が治まらないので、書くことにする。あれは典型的な「将棋倒し」である。で、それは「ぐしゃっとつぶれる」ような形となったのだから、将棋倒しという表現はおかしいとか、あるいは「日本将棋連盟」のごときは、将棋のイメージが悪くなる等のクレームを申し立てた。それを受けた日本放送協会は、愚かにも、以後ニュースでの表現を改めた。その少し前、イスラエルのディスコでの事故について報道していたときは、「将棋倒し」と言っていた。もし、ぐしゃっとつぶれるという状態を所謂将棋倒しというのがおかしいのなら、「子供を折檻する」などとは絶対に言えない筈だ。元の意味とは違って使用されるという言葉は、それこそ数えだしたらきりがない。いちゃもんもええかげんにせえ。日本将棋連盟は恥を知れ。NHKも以下同文。
2007年03月14日
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とにかく、掃除とゴミ出しである。増田商店は、文具屋をやめて、たばこ専門店にすることにした。おそらく日本最大級の面積を持つことになる・・・タバコ屋としては。それを決めたのは最近のことだが、店内の商品はできるだけ寄付したいので、福祉作業所とか学校に連絡をしている。初めはアフリカに送る予定だったが、上手く行かず、昨年末に方針を変えた。ゴミ出しの方も大変で、先日ついに、出したゴミのほとんどをそのままに置いていかれた。環境事業局の方で、これは産業廃棄物だと認定してしまったのかも知れない。そうなったら、計画は挫折してしまう。ここは一つ、以前のように、まちまち、ねちねち、じわじわと出す以外ない。おそらく、総てのゴミを出し終わるには十年はかかる。それで済めばよいが・・・
2007年03月12日
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昔、アリバイ日記というものがはやったことがあった。はやったといっても、みんな日記を付け出したというわけではなく、そういう言葉としての「アリバイ日記」ができたということだ。で、今日は私もそれをやってみようというわけだ。私は、人に提案するとか、ましてものを教えるということは、まず、しない。しかし、教えてくれとか、言ってみろとか、「なっ、そうやろぅ」とか、言われた場合は反論することもある。意見してやるとはっきり言うこともある。他人の主義主張など、何が正しいかなんてあんまり重要なこととは思わないし、そんなことを言っているやつというのは、普段の生活は自分の言葉とは全く関係なく、好きなことをやって、指摘を受けるといい訳が実に巧みで賢い。自分の方から話を向けておいて、逆に「何でそうなんだ」とか質問してくる。こっちが言ってもいないことを言ったように表現し、こちらがまいるのを待っているのか。教えてやるのは、教えてくれと言うからだろ。ああ、もう俺もこの年になって、ちっとは利口にならないとね。人間を差別することを、学ぶべきだ。べきだった。この、話題には、以後、二度と触れません。
2007年03月11日
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私の家の近所に、ずーとテレビにへばりついている年寄りがいる。夜中でもお構いなしで大音量のため、苦情も出たが、十数年やむことは無い。それがようやくアナログ放送が終わろうというのに、お上の方ではチューナーを無償供与しようということらしい。その理由が、「情報格差をなくす」というあほらしい理由だ。本当はテレビ業界とか、家電業界のためなんだろう。このくそばばあ、いったいどれほどの情報をテレビから仕込んでいて、どう役立てているのか。いったいテレビの情報の質とは何か、本当は分かっているくせに、それを今更言うのははやらないので、肝心の話はすっ飛ばしてとにかくやっちまおうという事か。
2007年03月09日
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ホームページを見て、お電話いただいている方、ありがとうございます。現在、06-6709-9207 は、母が取ることが多く、私が留守のときはとんちんかんなことしか言えません。(母は要介護状態です。)携帯電話 090-8191-5909 にお電話ください。取れないときは留守電になります。また、お名前、お電話番号をお知らせいただければこちらからご連絡します。よろしくお願いします。
2007年03月06日
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自分の方から会いたいと言ってきて、で、いつの間にやら、言いたいことがあるなら言えということになっている。こっちから言いたいことなんか、なあぁんにもないわ。あるわけないやろ、「あっそーか、がっかり」の人たちに何をいうひつよーがあるのやら、まあぁ、ほんまにあっほらしいぃいわ。ああぁぁあほらしいわなぁ、池田はん。
2007年03月01日
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