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「やまんばのにしき」 文/松谷 みよ子、絵/瀬川 康男○あらすじ「ちょうふくやまのやまんばがこどもうんだで、もちついてこう。」ある夜、村の空に大きな声が響きわたった。そこで村じゅう集まって、大さわぎで餅をついたが、届ける者がいない。相談のすえ、力自慢の若者ふたりと、ばあさまひとりがいくことになった。ところが、若者ふたりは途中でこわくなって逃げてしまい、残ったのはばあさまひとりきり。ようようのことで、やまんばのうちにたどりついたが・・・。ばあさまの知恵と勇気が、村に幸せを運んできます。秋田県に伝わる伝説をもとに描く絵本。「山姥(やまんば)」が出てくる昔話は沢山あると思うが、この山姥は一味違う。この絵本を読みながら私が最初に思ったのは、ここに出てくる「ばあさま」は私の理想のおばあさんだということ。知恵と勇気と度胸と優しさ。これが老人に備わっていたら、きっと世の中はもっと温かく住みやすいものになるだろう。そんな老人の姿に接したら、時には人を食うかもしれない山姥だって、里人の守り神にだってなるのだ。今の日本の山々からは、山姥はいなくなってしまったのかもしれない。色々と考えさせられる絵本です。
2021年04月26日
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先程、msk222 さんのコメントへのお返事を書きながら思い出したことを書いておこう。数日前に、近所の自転車店で同世代の店主と世間話をした時のことである。私より少し若い彼は、今年古希になるという。「なんだか年寄りになっちゃうような気がして、70代になるのに抵抗がある」と言う。そして私に、「みらいさんは、そんな気持ちにならなかった?」と聞く。私は昨年古希を迎えた。息子や孫たちがささやかなお祝いをしてくれたせいか、古希を迎えたことをありがたいとこそ思っても、嫌だとは全く思わなかった。だから、「うーん、私は古希だから老人になったなんてガッカリはしなかったな。それよりも、40代に入る時の方が焦った気持ちになったかな。まだ、自分がやりたいことができないままに年老いていくような気がしてね」と答えた。それは本当にそうだったのだ。仕事はやりがいはあったけれど釈然としないことが増えてくるし、自分の能力と実力のバランスは悪いし、吐き出すだけで充電できないような枯渇感というか息苦しさがあった。その後、仕事を辞め、通信課程で大学で学ぶようになり、同時に地域活動・ボランティア活動を求められるままにやるようになり、意図はしなかったけれど第二の人生のような日々となった。その時その時、なすべきことを一つ一つこなしながら、いつの間にかこの年になったという感じだ。その間に、祖母と父を見送り、多くの親戚たちを見送り、何人かの友も見送った。だから、次第に順番が近づいてくるという実感がある。だから、老いることも逝くことも自然の流れだし、それに抗ってもどうしようもないという気持ちが常にある。老人になるのは当たり前だし、必要以上の苦痛だけはイヤだけど、人間として味わえるものは味わってしまおうという気もある。老いることへの負け惜しみなのかもしれないが、このようなことには多少のミエも負け惜しみも許されるだろう。自転車店の店主は、高校時代に下級生で当時からの顔見知りだった。今でいえばイケメンの部類だったと思う。今でも、白髪にはなってきたが見た目は悪くない高齢者だ。「貴方は何も心配いらないでしょ。いくつになっても自分の判断で仕事はできるし、見た目も悪くないし、カッコいいおじいちゃんになれるよ」実は彼は、数年前に奥さんを亡くしている。それだけは気の毒だとは思うが、それもよくある話で残念で悲しいだろうが仕方のないことだ。「年寄りになるのに抵抗があるなんて、若い証拠だねえ。私はもう年寄りになっちゃったせいか、後は何年元気に自転車乗れるかなと思うだけだよ」と笑った。彼もつられて笑いながら、「まだまだ自転車なら乗れるよ。自転車の面倒だけはみてやるよ」。自転車が少し軽くなったような気がした。
2021年04月26日
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4月18日(日)夫の姪の家に、息子たちのワインを届けがてら久しぶりに話をしてくる。それぞれの家には、それぞれの事情も悩みもある。兄弟姉妹だからこその気づかいや、そのすれ違いも多いこともよくある。また、嫁姑関係もそれなりにあるものだ。私は昔から、親戚同士や姉妹関係、夫婦も親子関係ももちろん嫁姑関係も、基本は他人同士なのだから適当な距離は必要だと考えていた。見方によれば「冷淡」に見えるだろうし、実際にそう言われたことも自分でもそう思うこともあった。「私は元来、冷たい人間なのかもしれない」とずっと思っていたし、今でもそう思うことはある。それでも、そんな基本的な性格とスタンスは、人にあまり期待しないということにつながり、これまでさほど深刻な人間関係でドロドロしたという記憶はない(忘れたのかもしれないが)。とにかく、心の平安を守るためには、深入りしすぎず拒否もせず、誰に対しても親切と思える言動が一番のように思う。4月19日(月)関わっている団体の会報の印刷と発送作業のために、市内のNPOが運営する「たまり場」のような場所に行く。ここの会員になっていたら、印刷代が安いのだ。私は印刷のためだけにこの場所を利用しているが、そこは今では中高年の常連さんによるたまり場である。そこに行くと、いつでも知っている人が必ず数名はいるので、懐かしいこともあれば、「ああー、会っちゃった」と感じる人もいる。今回は、近況が気になる別のボランティア団体のメンバーと会えた。彼女は、私より年上なのだが、現在放送中の「おちょやん」のような幼少期を育った人だ。詳しいことはわからないが、子ども時代から苦労して、結婚してからも色々と心配事は続いていたらしい。やっと落ち着いた高齢期に入ってから、子供達への絵本の読み聞かせグループに入り、自分なりに色々と勉強したりしながら楽しそうに活動をしている人だ。このまま穏やかな老後になればいいけどと願っていたが、人生はままならないものだ。コロナのせいで生きがいの活動もできなくなり、それでも自分なりに頑張らねばと、結構な距離をリハビリを兼ねて歩いてきたという。(年末に軽い脳梗塞になったという)どうして神様は、苦労する人にばかり苦労を背負わせるのだ。そう思うと、平穏に暮らしている自分が申し訳ない気さえする。いやいや、自分に悩みのない平穏無事な人間だからできることだってある。そう思いながら帰路についた。4月21日(水)息子の畑の手伝い。この日は、次男と三人での作業。4月22日(木)札幌のTさんと友人の三人でランチをする予定だった。Tさんはうつ病を患っていて、コロナになる前は月に一度はランチや映画などでおしゃべりをすることがここ何年かのサイクルだった。しかし、コロナのせいでそれも出来なくなり、少し気がかりのこともあって彼女の調子が悪いと聞いていたので、この日に共通の友人の家で会うことにしていたのだ。ところが、その友人が急に体調が悪くなり、結局Tさん夫婦と近くのレストランでランチとおしゃべり。それでも、顔を見て話せたことで、私も少し安心したし、彼女も楽しそうだった。具合の悪くなった友人は、腎臓結石だったそうだ。彼女も石持ち体質だったか。4月23日(金)息子の畑の手伝い。この日は、長男と次男だけではなく、ボランティアの人や研修生も来てくれて、畑の杭や隅柱の補修作業。私は前回同様、剪定した枝の誘引作業を黙々と続ける。今週は、人の悩みや心配事を聞く機会が多かったので、作業をしながら自分の状況が本当にありがたいのだと痛感していた。息子たちが元気に働く様子を同じ場所で見れること、その息子たちを応援してくれる人が何人もいることを実感できること。そして私たち夫婦も、このように農作業が出来る体力があって元気なこと。遠くの山にはまだ残雪が白く輝いているが、周囲の殺風景な山々の木々も、新芽で少しずつ若草色になりかけているし、そんな木々の間に白いぼんぼりの灯りのようなコブシが見える。今年もまだ働けそうだ。
2021年04月24日
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「そらへのぼったおばあさん」サイモン・パトック、徳間書店【内容情報】(「BOOK」データベースより)ななつのたんじょうびのことです。女の子は、空にかがやく星にねがいました。「きらきらかわいいおほしさま。おそばへおどりにいきたいわ」それから100年、今度は星が、すっかりおばあさんになった女の子にいっしょうけんめいまたたきかけ…。ふしぎな雰囲気の絵で描かれた神秘的な物語。5さい~。【著者情報】(「BOOK」データベースより)パトック,サイモン(Puttock,Simon)ニュージーランド生まれ。子どものころ、両親とともに世界じゅうを旅してまわる。映写技師、音響技師、歌手、シンガーソングライター、クラブのディスクジョッキーなど、さまざまな職業を経て、書店で9年間勤務後、子どもの本の仕事を始める。日本でも『コーラルの海』(小峰書店)が紹介されているジェイ,アリソン(Jay,Alison)イギリスのイラストレーター。印刷関係のことを学ぶ大学でイラストを専攻し、首席で卒業する。子どもの本の仕事に『エマのお人形(未訳)』、『これ描いて(未訳)』などがある。美しい色彩で描かれた暖かみのある絵が人気を集めている矢川澄子(ヤガワスミコ)1930年東京生まれ。作家、詩人。主な著書に、詩集『ことばの国のアリス』(現代思潮社)、小説『兎とよばれた女』(筑摩書房)『失われた庭』(青土社)、評論集『〈父の娘〉たち』(新潮社)など。子どもの本の翻訳に『しまうまのしゃっくり』(徳間書店)『むぎばたけ』(福音館書店)『トンデモネズミ大活躍』(岩波書店)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの7歳の女の子の夢が、100年経ってかなうなんて…。その願いをかなえてくれたのは、お星さまやお月様、そとてお日様など空の仲間達だったなんて…。最近は、色々と心が重くなる出来事が多かったのだけど、この絵本を読んでいたらふっと空を見上げてみたくなりました。そして空を見上げたら、空の仲間たちには雲も雨も雪も霰も色々あることにも気付きました。さらに、空を飛び回っている鳥たちもですね。私は7歳の頃、どんな願いを持っていたのだろうと考えてみたけれど、全く思い浮かばないのが悲しい…。いやいや、7歳の頃の願いは思い出せないけれど、最近の願いは色々あります。願わくば、100歳になった頃にその願いがかないますように。
2021年04月19日
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4月15日、16日と、息子たちの畑の手伝いに行く。この冬の大雪で、ブドウ畑の杭や隅柱の破損が激しい。それでも、番線張りが可能な列の番線を張り、息子が剪定済みの枝を誘引して結びつけるのが私の仕事だった。一日目は、天気が変わりやすく、晴れたと思えばパラパラと霰が降ったりして、その分だけ暑かったり寒かったりと上着の着脱を繰り返すことになった。二日目は晴天で、時折強い風が吹いたけれど作業は順調に進む。しかし、この畑がちゃんときれいになるのはいつになるんだろうとついため息をついてしまう。昼食の時に、フランスではブドウ畑が霜で被害に遭ったと聞いた。今調べたら、下記のニュース。主要生産地で30年ぶりの霜被害、フランスのワイン産業に打撃「あんなことになったら、俺も心が折れるだろうなあ」と、息子は呟く。霜の被害は、他の農作物にとっても大変な影響を与えているだろう。この北海道でもそのようなことが起きる可能性は高い。このところの暖かさで、結構芽吹きが早いようなので、その後の霜は怖い。「豊作でなくてもいいから、例年並みになってくれたらいいんだけど」とは、私も同感である。
2021年04月17日
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「女たちのシベリア抑留」小柳ちひろ著、文芸春秋 終戦直後、満洲や樺太などにいた軍人や民間人など60万人近い日本人がソ連によって連行された「シベリア 抑留」。その中に数百人から千人近い女性捕虜が存在したことは、長く歴史の影に埋もれていた。関東軍の陸軍病院で勤務していた従軍看護婦や軍属として働いていたタイピスト、電話交換手、開拓団の民間女性、そして受刑者たちが、極北の地シベリアに送られていたのである。その中には「女囚」として10年を超える抑留生活を送った女性や、日本に帰る場所もなく異国の地で人生を全うした者もいる。帰国を果たした女性たちにとっても、故国の人々のまなざしは決して温かいものではなかった。戦後70年以上、長く沈黙を守ってきた女性たちをインタビューすることに成功し、2014年にNHK・BS1スペシャルで放送されたドキュメンタリー「女たちのシベリア抑留」は、文化庁芸術祭賞優秀賞、放送文化基金賞奨励賞、ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ギャラクシー賞奨励賞、NHK放送総局長特賞など、その年のドキュメンタリー部門の賞を総なめにした。その番組を担当した女性ディレクターが綴る本格ノンフィクション。ロシア側から初めて提出された女性抑留者の記録「登録簿」の内容も明らかになる。私は、この本のもとになった「NHK・BS1スペシャルで放送されたドキュメンタリー「女たちのシベリア抑留」は見ていなかった。図書館の新着図書コーナーで見つけて借りたのであるが、今まであまり知られていない様々なことが証言や記録であきらかになり、目から鱗のような気持ちで読み進んだ。亡父も二年間のシベリア抑留体験者だったが、その話の中では女性の抑留者のことについては聞いたことはなかったので、父の収容所にはいなかったのだろう。それにしても、戦争は女子供とくくられる立場の弱い者たちに対しては残酷な現実をつきつける。しかし、そんな中でも女性は強いと思う。生命力も状況に対処する柔軟さも、多分生き残るために必要な能力を備えて生まれるのかもしれない。何と言っても、人間の中でも一番弱い胎児を体内で育み、出産後はその命を守るために乳を出し育てなくてはならないのだから。ここに登場する女性たちの多くは、従軍看護婦や軍属として働く女性たちだ。しかし、看護婦の中にも日赤から派遣された人や、現地の女生徒が看護助手のように働いていた子もいる。その人たちが抑留生活を息抜き帰国した後のことについては、またまた理不尽さを感じたし、戦後のソ連における裁判で女囚となるはめに陥った人たちは、もっと悲惨だった。色々と描きたい思いは湧いてくるが、戦中戦後の女性をめぐる理不尽さを強化したのは、男性中心主義のこの国のシステムと、男尊女卑の世間と、女性を利用してはばからない男性が多くいたということだ。戦後75年も経ったというのに、この国はどれほど男女平等の感覚が育っているのだろうか。ちょっと良くなったような気がするが、近年後退しているような気がしてならない。
2021年04月14日
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日常生活の記録をほとんど書いてないので、覚えていることだけメモ。3月30日(火) 孫が4月から札幌の短大進学と同時に一人暮らしを始めるので、激励会を兼ねて息、子一家と私たち夫婦で北広島の「くるるの杜」で昼食。バイキングなのだが、今は全部小鉢に入れてあるものを取る方式。ホクレンが運営する農村レストランなので、野菜料理がメインで気に入っている。孫もお嫁さんも小食なのだが、小鉢形式で野菜メインなので結構食べていた。彼らは初めてだったが、孫は「また来たい!」と喜んでくれたので、私も嬉しかった。4月3日(土)市内の酒屋さんで息子たちのワインの試飲会があり、次男が宿泊。コロナなので、時間を区切って3回に分け、参加者も一回5~6人程度だそう。どこも色々と工夫して頑張っているようだ。4月7日(水)友人宅でおしゃべりとヨガの自主レッスン。実は、3月までは週に一度のヨガ教室に通っていたのだが、少し事情があって退会したので、これからは週に一度自主レッスンをすることにしたのだ。その後、軽いランチとおしゃべりを楽しんでいたら、お隣さんがやってきた。実はこのお隣さんは、私の小学校時代の同級生でもある。それで、その後は3人でおしゃべり。同級生だったTさんは、私の記憶ではおとなしい目立たない子。しかし、話してみると本当に沢山の思い出話をしてくれて、私の知らないことを沢山教えてくれた。そして、当時の私の彼女から見た印象は、私の「自己像」とは随分ギャップがある。しかしそれも当然で、私自身がクラスメイトにバリアーを張っていたから。それでも、彼女が見ていた私を含む友人たちや先生たちに対する記憶と印象は、ビックリするほど的を射ているものだった。私の目は節穴で、人を見る目や賢さは間違いなく私以上だと痛感。人間の賢さは、学生時代の成績とは無関係であることを、今回も再確認した。4月8日(木)実家にある和服類を買い取ってくれる業者が来るというので、その場に立ち会う。実家の古い家には祖母や母の和服類が箪笥何棹も眠り続けている。もう絶対に着ないものなのだが、ゴミに出すのも抵抗があるし、市内のリサイクル店に持ってゆくには大量で妹は頭を痛めていた。この業者の人は、手つきや着物を見て選んでゆく様子を見ると、もともと呉服を扱う人だと私達でもわかり、それだけでも安心できた。結局、書いとれるものだけ持って行ってくれたのだが、全部で10000円ちょっと。それでも、少しでもお金になったので、次はどうしようかな…。4月11日(日)天気が良いので、実家のハウス建てとブドウ棚の整備。ブログ確認したら、去年は4月12日に建てていた。今年もこの作業ができることを感謝する。4月12日(月)夫は今季初ゴルフ。私は数日前から、少しずつ納戸や押し入れの不要物をゴミ出しするために整理。三時頃に夫が帰宅してから、一緒に市内の温泉施設に行く。三月以来久しぶりに岩盤浴をしたが、前回より汗が出やすくなっているような気がする。
2021年04月13日
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松山が快挙 マスターズ日本人33人、のべ132度目挑戦で初優勝4/12(月) 8:16配信きっとすごいことなんだろう。池江さん、大谷さん、松山さん、日本の若者大したものだ。英エリザベス女王の夫フィリップ殿下の葬儀、ヘンリー王子参列へ4/12(月) 9:35配信99歳、大往生といえますね。エリザベス女王の一目ぼれだったそうだが、女王の目は確かだったようだ。たぶん、運命の人と巡り合って生涯を共にできた幸せなご夫婦だったのだろう。女王のお母さまは101歳で亡くなられたとか。あの時代にものすごい長寿だったことを知り、ビックリ。小室圭さんが『28枚文書』で証明してしまった、日本国民との「問題認識のズレ」4/9(金) 16:06配信先週のこの方の文書には本当に驚いた。眞子様と相談しながらの文書のように報道されているが、眞子様は誰にも相談しなかったのだろうか。あとは秘密日記につぶやいておく。菅首相、ワクチン早期接種に意欲 国民全体の完了時期は明言せず4/12(月変異株のせいなのか気のゆるみなのかわからないが、感染者が減る兆候なし。ワクチンに期待はしているけれど、次々にウィルスが変異して効かなくなったりして…。来年の今頃、どうなっているのだろう。オリンピックは本当に開催できるのか?ふと、戦時中のスローガンが脳裏をよぎる。(実際には知りませんよ、念のため)「挙国一致」で「堅忍持久」。そういえば、最近はスローガンとしての四文字熟語見ていないような気がする。
2021年04月12日
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「ああ、ゆとり!」(46歳) 私はおしゃれな方ではない。自分の容姿にコンプレックスを抱いて成長したせいか、おしゃれを避けてきた傾向がある。私の洋服選びの基準は、ステキかどうかではなく、いかに目立たないかであった。 だから、流行など無関係で、過度に派手でも地味でもなく、バーゲンの安物でもない。しかしこうなると、洋服選びが結構難しくなるので、デパートなどで洋服を買うのが苦手なのだ。 店員さんに色々と勧められ、試着なとで鏡を見ながらの会話がイヤなのだ。流行の色や形を勧められても、「目立たぬこと」がモットーの私とはなかなか意見が一致しない。 そんなわけで、私が洋服を買うのはどうしても必要な時だけだった。 幸いなことに私の体重は、若い時から退職する四十代前半までほとんど変化がなかった。おかげで、十数年前の服も着ることができた。仕事を辞めたら、スーツなどはほとんど着る機会もなく、苦手のデパートにはいよいよ行かなくてすむようになり、ホッとしていた。 ところがである。仕事を辞めたのと中年期突入時期が一致したせいか、ずっと変化のなかった体重が徐々に増加してきた。「のびのびジーパンとトレーナー」式の楽ちんスタイルが、それに拍車をかけた。 ある日、久しぶりにスーツを着た時、スカートのウエストのゆとりは完全になくなっていた。さらに、腹部まわりもピチピチで、やっとはくことはできたが座ると危ないことになりそうだった。 体形の変化には薄々気付いてはいたが、想像以上の事態に焦りまくり、他の洋服を次々に引っ張り出してみたが、当然ながらどれも同じ結果であった。 心のゆとりとウエストのゆとりは反比例するという発見に愕然としながら、食べたいものを食べずにダイエットの努力をすべきか、財布のゆとりを心配しながら、苦手なデパートでゆとりのあるサイズの洋服を買うべきか、私は究極の決断を迫られている。結局、食べたいものを我慢するなんて私には無理で、その後は必要に応じて洋服を買った。その頃から、地元でもそれなりの洋服が買える状況になり、徐々に着ることが出来るものをそろえてきた。このエッセイを書いてからすでに24年。ありがたいことに、その頃からさほど体重は変わっていない。つまり、当時買ったものが今でも着ることが出来たりする。40代から60歳の頃まで、4年ごとに同期会orクラス会があったので、外出着だけは4年ごとに季節に合わせて購入した。おしゃれにさほど拘らない私でも、クラス会のたびに同じ洋服ではちょっと気が引けたのである。先日、その頃に購入したスーツを何着か処分した。まず、最近はスカートをほとんど着用しないし、40代頃は地味な色合いのものが多かったので、今その洋服を着ると何とも年寄りくさくなってしまうことに気付いたからだ。年を取ったら明るい色がいいということを、実感する年頃になってきたということだ。
2021年04月12日
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「合縁奇縁」という言葉がある。自分なりの解釈は持っていたけれど、間違っていたら困ると思いネット検索したら、下記が出てきた。「合縁奇縁」の使い方や意味、例文や類義語を徹底解説!私はずっと、人との出会いは縁によるもので、縁がなければお互いに一目ぼれしても結ばれないし、それが「悪縁」や「腐れ縁」みたいな縁ならば、どれほど離れたくても縁を切れずに苦しむこともある、と思ってきた。そんなことを思いだしたのは、昨日の私のブログへのコメントだった。私だって、若い頃には惹かれた人だっていたし、プロポーズされたことだってある。でも、そのような人とは縁がなかったようで、ある日突然現れたような現在の夫と、なんだかよくわからないのに、あっという間に結婚を決めた。慎重で臆病な私の行動としては、今でも不思議な決断だった。それから約半世紀、やはり縁があったのだろうと思うしかない。私は、子供の頃からあまり友達は多くなかった。他の人から見たらどうなのかはわからないが、ずっと「自分には親友がいない」と思っていた。だから、親友はいなくても必要な時に話したり、協力し合える知り合いがいればいいのだと思うようになった。それが友人というものだと割り切って40代半ばまで生きていた。それなのに、地域活動を通して知り合った人が、今では生きている間は友達でいるだろうと確信している。一般的に、「この人は私を理解してくれる。裏切らないしいつも味方でいてくれる」と思える人が親友というものだろう。彼女に出会った時も、なんだかわからないが「この人と友達になりたい」と強く思った。実際には、個人的に親しくなったのは共通の活動メンバーから離れた時であった。私は慎重なので、公的なつながりのある人とは適度な距離をとることにしていたからだ。知り合いの中には、どうも「悪縁ループにはまっているのではないか」と思える人がいる。勿論、本人の対処の仕方がまずかったということもあるだろうが、それにしてもどうして次から次へと…、と、気の毒としか思えない人がいる。あるいは、「生まれた時や場所が、そして親が悪かった」というように、本人には全く責任のないマイナス状態で生を受ける人もいる。私は理不尽なそんな状況に対して、「運が悪かった」「運命だ」と思うことが多い。そして、運命はどうしようもないので、そこでどのように生きるかが大切とも言うことがある。人生はプラスとマイナスセットだから、必ずプラスの面もあるはずだから、それを見落とさないでいようとも言うことがある。この年になると、人を励ましたり応援する場面が多くなるので、無い知恵を絞りながらであるが。悩み多く、辛い毎日を送らざるを得ない人と向き合うと、この世の理不尽さを考えずにいられない。先日も、そんな青年とのメールのやりとりで、ふと夏目漱石の草枕の冒頭が脳裏に浮かんだ。「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」しかし、住みにくい人の世を少しでも心地よく生きようと工夫できるのは人間だ。決して運命や悪縁だけでなりたっているのではないはずだ。ピンチはチャンスと場面転換できるのも人間だ。運命を受け入れて、今可能なことを考えられるのも人間だ。でも、必死に考えて努力しても、どうもチグハグな人もいる。それもご愛敬だ。そのチグハグさも、誠実さとセットなら、きっと認めてくれる人もいる。私は今まで、悪縁に付きまとわれた体験はない。悲惨な運命に翻弄されたこともない。でも、その幸運を年を取るまで気付かなかった。それを反省するばかりである。
2021年04月09日
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「ある夫婦」(46歳) 私の母方の祖父母は、仲が悪い夫婦だった。八人の娘達も、沢山の孫達もそう思っていた。もちろん私もそう信じていた。 祖父は頑固で気が短く、祖母はいつも怒鳴られていた。開拓者として苦労を共にした夫婦であるはずなのに、仲良くにこやかにしている姿は見たことがない。 私はすぐに怒鳴る祖父が怖くて、母の実家に行くのがイヤだった。しかし、盆と正月にみんなが顔を見せないと、いよいよ祖父の機嫌が悪くなるというので仕方なく母についていくのだった。 祖母は女腹というのか、女の子ばかりを八人も産んだが、とうとう男の子は授からなかった。それを祖母は引け目に感じているようで、そのせいなのか祖父の言うことには絶対服従しているように見えた。 そのくせ、祖父のいないところではよく愚痴を言った。つきあいの少ない私でさえ、そんな愚痴を何度も耳にし、少女の私にはそれがとても嫌だった。 しかし、そんな祖母がこんなことを言うのを聞いたことがある。「おじいさんは、あげな人やけど、たった一つ有難かったと思うとる。 私が女ばっかり産みよっても、それだけは怒らんやった…」。 それを聞いた時、女の一人である私は、その言葉にすらかすかな苛立ちを感じた。 祖母は87歳で老衰で静かに死んだ。90歳でまだ元気だった祖父は、祖母の枕元で黙って手を合わせていたという。 それからしばらくして祖父を訪ねた母は、帰宅するなり「おじいさんがボケてきた」と言った。 囲碁が趣味の祖父が、碁盤の前で一人で石を並べてブツブツ言っていたらしい。何をしているのかと聞くと、「ばあさんと碁並べをしているんじゃ」と答えたそうだ。「生きていた頃には、そんなことしたことなんてないのにね」と、母は苦笑した。 祖母が亡くなって一年後、怒鳴る相手がいなくなってすっかりおとなしくなった祖父は、やはり老衰で静かに死んだ。91歳だった。祖父母が亡くなってから、すでに50年近く経つ。これを書いた時には知らなかった祖父母のエピソードを、その後法事の時などで聞く機会があった。何と、祖父は少女の祖母に一目ぼれして結婚を申し込んだらしい。確かに祖母は、晩年でもきれいな人だった。少女の頃の写真はないが、さぞかし可愛い美人だっただろう。二人とも開拓期の北海道に親と一緒に移住してきたので、学校にも行けず(学校がそもそもなかった)文字の読み書きすらできない少年少女の夫婦だったようだ。祖父は必死で開拓に取り組み、土地を次々と広げ、家族を養うことに必死だったようだ。祖母は16歳で結婚してから、次々と生まれる娘たちの子育てや家事、そして農家の仕事を細い体でこなし続けた。私の知っている祖母は、長年の労働のせいか、腰が九の字に折れ曲がっていたが、それでもその体で最後まで自分のできる農作業の手伝いを続けていた。出産のときも、全員ではないだろうが祖父が取り上げてお産扱いもしたらしい。思えば私の知っている祖父はとても耳が遠かったので、私には怒鳴り声にしか聞こえなかったが、けっして怒っているわけではなかったのかもしれない。それに、いたずらなどをした時には確かに怒られてはいたが、祖父が手を上げる姿は見たことがない。祖父母が仲が悪かったとは私の母も言っていたのだが、ひょっとすると誰もいないところでは祖母に優しい祖父だったのかも。字数制限で祖母の亡くなった時のことを詳しく書けなかったが、亡くなった祖母の枕辺で「ご苦労さんじゃった。ご苦労さんじゃった」と何度も繰り返していたとも聞いた。夫婦の関係性というものは、本当のところは本人たち以外にはわからないものなのだろう。
2021年04月08日
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「ケガの功名」(46歳) ガツッ!というような強い衝撃が額に走った。目の前が真っ白になった。次の瞬間、自分のおでこに当てた手のひらの妙な感触にドキッとした。続いて顔面に、ヌラーッと生温かいものがしたたった。 大雪山系黒岳の頂上で、石に足を取られて転倒し、岩に頭をぶつけて額をパックリと切った瞬間である。 私の転んだ気配に振り向いた夫は、「何やってんだ。どうした?」とかがみこんで私を覗き込み、「どら、見せてみろ」と言う。 押さえた手を離すのには、かなりの勇気が必要だった。おでこはグニャッと陥没しているようで、(離したらヤバイかな? いや、そんなはずはない。意識はあるから大丈夫)と自問自答して自分を励まし、思い切って手を離す。 さあ、それからが大変だ。傷口を見た夫はいまだかつてないほどうろたえながらも、必死で傷口をテーピングし、タオルでしっかりと縛り、私に「上から手できつく押さえろ」と指示した。 縫合が必要だが、なにしろ山のてっぺんである。幸い意識ははっきりしているし、今のところ貧血にもなっていない。その時には私も、頭が陥没していないとわかって勇気凛々。「大丈夫、歩けるから」と夫に支えられながらの下山が始まった。 下り始めてから数分後、私はハッと気づいた。結婚以来初めて、夫と手をつないで歩いていることに。 シャイな夫は、人前で手をつなぐなど考えられないのだが、今は私を無事に下山させることに必死のようだ。夫の手はその思いを表すように、きつくきつく私の手を握っている。額の傷よりも、そっちの方が痛いほどに…。その手は、(頑張れ、頑張れ、俺がついてる)と私を励まし労わっていた。 子供も巣立ち二人の生活になって半年、何となく淡々・ひんやりとしていた私達に、神様は何と味なショック療法をしてくれたことか。 これがホントの「ケガの功名」である。補足説明をすると、この時は、妹と三人で登山をしていた。私は気圧の変化で頭痛がすることがよくある。この時も、途中から頭がガンガンする中をやっとのことで山頂に上ったのだが、体調が悪かったせいもあり自分で思うほどに足が上がらなくなっていて、ちょっとした石に躓いて転び、さらに反射神経も低下していたようで、咄嗟に手をしっかりつくことが出来ず、目の前の岩に頭をぶつけたのだった。私のケガに気付いたパトロール隊員が、その後下山から救急車の手配をしてくれた。黒岳は、7合目からはロープーウェイで下山できるのだが、この日は紅葉の季節でロープーウェイに乗るための人が長蛇の列になっていた。しかし私は怪我人であることで優先的に乗せてもらうことが出来、降りたら救急車が待っていた。私の救急車初乗り体験日である。救急車には妹が同乗し、夫はその後を自動車で追いかけた。どこの病院に行ったのか忘れてしまったが、すぐに縫合処置をしてくれた当番医は外科医だった。(妹があとで「当番医が外科の先生とわかって安心したよ。内科医だったら不安だもの」と言っていた)先生は私をリラックスさせるように話しかけながらチクチク縫ってくれたが、途中で麻酔がキレてきたのか、一針ごとに痛みが走る。でも、自分の感覚では随分縫ったような気がするし、このくらいの痛みなら耐えられると我慢していた。しかし、痛みが走り始めてからは「これで終わりますように」と祈りながらだったのは言うまでもない。先生からは、「帰ってから地元の病院で診察を受けてくださいね」と言われていたので、次の日には受診した。すると先生は私の傷口を見て言った。「あー、きれいに縫ってくれてますね。完璧です」。その傷跡は今でも私の額に残っているが、きれいに縫ってくれたおかげだろう、言わなければ誰も気付かない程度だ。あの時に縫ってくれた先生に、心から感謝するばかりだ。
2021年04月06日
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専門医「退院後1年余で回復、極めて異例」…池江の寛解までの早さは「高い身体能力とは無関係」4/4(日) 20:03 読売 池江璃花子選手は急性リンパ性白血病と診断され、抗がん剤投与などを続ける化学療法を始めた。合併症による体調悪化で断念し、19年夏、「造血幹細胞移植」を行ったところ、翌年3月にプールに入れるまでになった。 造血幹細胞移植は、血液細胞のもととなる造血幹細胞を健康なドナー(提供者)から採取し、点滴で投与する。合併症の恐れもあり、一般的に移植後も検査や治療を長く続ける必要がある。 国立がん研究センター中央病院の福田隆浩・造血幹細胞移植科長(56)は「退院後、1年余でトップアスリートの域まで回復するのは極めて異例だ」と驚く。症状が出なくなる「寛解」状態に至る早さは、高い身体能力とは関係がないといい、「競技レベルをここまで戻したのは、治療の順調さに加え、本人の努力とチームの支援があるからだろう。患者を含む多くの人に勇気をくれた池江選手を心から応援したい」と話す。彼女の姿に、日本中が感動したことと思う。特に、同じ病で苦しい思いをしている人たちにとっては、どれほどの勇気と励ましになったことだろう。ただ一つの心配は、頑張りすぎてまた体調が悪化すること。気を抜かないで、くれぐれも注意してくださいね。田中邦衛さん逝く 9年前、体調が悪くても地井武男さんの告別式に参列した優しさ4/4(日) 11:02配信 デイリー報知 俳優の田中邦衛さんが3月24日に老衰のため亡くなっていた。88歳だった。東映映画「仁義なき戦い」(1973年)では卑怯なヤクザ・槙原政吉を演じ、一方でフジテレビのドラマ「北の国から」(1981年)では我が子を愛してやまない実直な男・黒板五郎に扮した。役の幅が広い名優だった。「また昭和の名優が逝ってしまいました…」 中島貞夫監督(86)は声を落とした。 田中さんとは60年以上の付き合い。映画版「木枯し紋次郎 関わりござんせん」(1972年)「暴動島根刑務所」(1975年)「暴力金融」(同)などに出てもらった。「出会ったころの邦さんは俳優座にいたんですけど、一番ユニークな役者さんでした。なにしろ演技で口を尖らせたりするのですから」(中島監督) 田中さんなりの顔芸だった。ご記憶だろう。役作りに心血を注ぐ人だったという。 だから悪党も善人も出来たのかと思いきや、中島監督はそれを否定する。「邦さんが演じていたのは本当のワルじゃない」と振り返る。「邦さんは性格が素直で、とても良い人。彼を悪く言う人はいません。映画で観たまま。あんな人に本当のワルは出来ません」(中島監督) 確かにそう。故・松方弘樹さんが服役囚役で主演した「暴動島根刑務所」で演じたのも豚の飼育を生きがいにしている心優しき無期懲役囚だった。 中島監督と共に東映ヤクザ映画を支えた故・深作欣二監督による「仁義なき戦い」で演じた槙原政吉は狡猾そのものなのだったが、それでいて人間くさく、憎めなかった。故・菅原文太さんが演じた主人公・広能昌三から怒鳴られると、たちまち縮み上がってしまい、観客を笑わせた。「こういった役は邦さんにしか出来ませんでした。真面目な人がヤクザを演じるから面白いのです」(中島監督) 名コメディリリーフだった。東宝「若大将シリーズ」(1961年)でもそう。誰の目にも格好良い若大将役の加山雄三(83)に対抗し、プレイボーイを気取ったが、まったくサマにならず、侮蔑の意味を込めて青大将と呼ばれてしまう始末。格好を付ければ付けるほど笑われた。 だが、青大将は嫌われなかった。田中さんの人柄が透けていたからだろう。「北の国から」の黒板五郎役はシリアスだったが、これも中島監督は「邦さんだから出来たのです」と解説する。 五郎は東京を捨てて2人の子供と北海道で暮らし始めた。電気やガスも捨てた。あのころはバブル期前夜。文明と決別した五郎はある種、変人である。それを違和感なく視聴者に見せられたのは田中さんの力だろう。真面目な人柄と俳優座で体得した高い演技力だ。 このドラマは2002年の最終作「遺言」まで続いた。人気があったからだ。評価も高く、菊池寛賞や向田邦子賞など20以上の賞を受賞した。「ほかにも五郎の候補がいた」などと報じられたこともあるものの、信憑性は疑わしい。また、田中さん以外でこれほどの成功は得られなかったのは間違いない。 脚本を書いた倉本聰さん(86)のドラマには悪人が登場しないことで知られる。「悪人が書けない。悪人の一部の利を書こうとしちゃうと膨れ上がって善人になってしまう。性善説が強い。“越後屋”でもいいことを書いてしまう」(倉本さん*1) 誰もが良い人と評する田中さんだからこそ倉本作品と同化し、21年も続いたのだ。地井武男さんの告別式に参列 田中さんは晩年、長く体調がすぐれず、2009年の時点で認知症の症状が出ていた。田中さんと親しい過去の映画共演者から聞いた。もちろん書かなかったが、ほかの共演者たちも知っていたはずだ。 にもかかわらず、「北の国から」など数々のドラマで共演した地井武男さんが2012年に亡くなると、田中さんは葬儀委員の1人となり、東京・青山葬儀所で営まれた告別式に参列する。「北の国から」で息子の純を演じた吉岡秀隆(50)に体を支えられてのことだった。 誰の目にも田中さんの健康状態が悪いのは明らかだった。それでも、たどたどしい口調で弔辞を読んだ。「昨年秋に我が家に来てくれたけど…あれは別れを言いにきたのか…4月には電話や手紙もくれた…ちぃ兄、会いたいよぉ~」 田中さんは泣いていたが、田中さんの病を知る人たちからも嗚咽が漏れた。 死因は老衰。葬儀は家族で営まれた。ちなみに長女の田中淳子さん(56)はNHK広報局長である。報道局出身のエリートが就くポストだ。お別れの会などの予定はない。コロナ禍のせいもあるだろう。 田中さんの家族は次の文章をマスコミ各社に送った。「俳優・田中邦衛は、2021年3月24日午前11時24分、老衰のため、息を引き取りました。家族に見守られながら、安らかな旅立ちでした。88歳でした。 長年、応援してくださったファンの皆様をはじめ、多くの方々に支えられ、心に残る数々の作品に出会い、幸せな役者人生を歩むことが出来ました。ここに、生前の御厚誼を心より感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます(以下略)」 田中さんが世に広く知られた「若大将シリーズ」の第1作「大学の若大将」の公開から、ちょうど60年での旅立ちとなった。*1西日本新聞2020年1月10日付夕刊高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。デイリー新潮取材班編集2021年4月4日 掲載私が田中邦衛さんを知ったのは、「北の国から」の黒板五郎からだったと思う。私の息子たちは、純君と蛍ちゃんと同世代であったし、舞台は富良野のさらに僻地。私の子ども時代の記憶と重なることも多かったので、ドラマを見ながらそんな話を家族で話したこともあったと思う。あのドラマ、少なくても二回は見ているはずだ。たまたま土曜日に来ていた次男と一緒に『北の国から’87初恋』を見たのだが、彼は「三回は見ている」と言っていた。息子たちが北海道に戻って農業をすることになったのにも、「北の国から」の記憶も多少影響したんじゃないかとさえ思う。田中邦衛さん、あちらの世界からも北の国を見守ってくださいね。
2021年04月05日
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最近は、図書館でこの人の本を見つけたらすぐ借りてしまう。この二冊、エッセイ集と短編集で、寝る前とか隙間時間にピッタリ。「好きだけと嫌い」新潮社もう随分前(2003年)の著作なので、多少事象が変化してはいるが彼女が問題として書いていること自体はほとんど変わりがないだろう。彼女の人柄がよくわかるし、私の感じ方と似ている部分も多いので、痛快と共に苦笑もしながら読んでいた。付け加えておくが、彼女と私の性格は全く違うと思うが、マイペースなところと関心を持つポイントが似ていると思うのだ。もしも機会があったら、直接彼女の話を聞いてみたいし、万が一お喋りできることがあったら、結構盛り上がるかも。「すずの爪あと―乃南アサ短編傑作選―」それにしても、作家は社会の出来事をよくぞこのような作品にできるものだと感心するばかり。ハッキリ言って、これらの話は怖い。人間にはこのようなことも起きるだろうとは理解できるのだが、直視したり自分の周囲に起きているかと思うと、やっぱり怖い。彼女はひょっとしてホラー作家だったか?
2021年04月04日
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「挫折」(46歳) 悲しみ、怒り、切なさ、悔しさ、自己嫌悪…。どんな言葉も、その時私の心に充満し爆発した思いを表現することはできない。 瞼から噴き出す涙や、しゃっくりのようにこみ上げてくる嗚咽を止めようとすることも忘れ、私は田舎道を歩いていた。二十五年前の、秋の夕暮れ時だった。 わずか一か月半の研修だけで、肢体不自由児や知恵遅れ、自閉症などの障害を持つ子ども達の中に、ただ一人の指導員として放り込まれた私には、知識も技術も経験も何もなかった。私にあるのはただ一つ、「何かの力になれたら」という、未熟な情熱だけだった。 ひろ子ちゃんは三歳で、筋弛緩性の重度の脳性まひだった。体のどこに触れても、手ごたえがなくクタクタしていて、お腹がすいた時だけ力なく泣くだけだった。 大抵の子は、しつこくアプローチをしていれば心身の発達に多少の変化がみられるのだが、ひろ子ちゃんにはそれもまだ見られなかった。 私は悩みつつ、医師や当時は道内にも少なかった理学療法士に電話などで相談しながら、試行錯誤を重ねていた。 ところが、最初は真面目に通っていたお母さんが、ぱったりと顔を見せなくなった。噂によると、ある新興宗教に入ったという。 障害児を抱えた家庭には、必ず宗教が入り込む。それも、「お金を出せば治る」など、藁にもすがりたい親心に付け込んで…。心配になった私は、家庭訪問に向かった。 玄関先でお母さんは言った。「先生、ごめんね。先生は一所懸命してくれたけど、ひろ子はちっとも良くならない。でも、今の神様に祈れば絶対に良くなるって。私、せめてひろ子には笑ってほしいんだ」。 何も言えなかった。必死にすがろうとしている母親に、そんな神様嘘っぱちだとは言えなかった。ましてや、「私が笑わせて見せる」なんて言えるはずもなかった。 語りかけるたった一つの言葉も持たない自分の無力さが、ただただ情けなかった。 胸の奥に突き上げる思いをやっと耐え、玄関を背にした瞬間悲しみが爆発した。心が木っ端みじんになった瞬間だった。この時のことも鮮明に覚えている。あれほどの爆発するような感情は、多分その後は経験していないような気がする。「挫折」というテーマで書いたもので、題名と内容があっているかどうかわからないが、自分の無力さを痛感するという意味では挫折だったのだろう。季節についてはまったく覚えていないので、ひょっとするとこのエッセイに書いた「秋の夕暮れ」も、イメージ的なものだったかもしれない。ひろ子ちゃんは、確かその数年後に亡くなっている。新聞のお悔やみ欄でその名を見つけた時、何とも言えない気持ちになった。(お母さんは、ひろ子ちゃんの笑い顔を見れただろうか)と思った。どんなに障害が重くても、その子なりの成長をすることはわかっているので、あの宗教のおかげで笑ったとは思えないが、決して裕福ではなさそうだったお母さんがせめてたった一つの願いだけでも叶えられていたらいいと心底思った。あちらの世界で、ひろ子ちゃんが笑いながら駆け回っていたらいいなと、今でも思う。前にも、このブログで彼女のことを書いたような気がして見てみると、左のフリーページに載せていた。「あの子の笑った顔を見たいんです」字数制限のあるエッセイとは違い、もう少し詳しく書いていた。
2021年04月02日
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先月、友人との会話の中で「ヤマギシ村」のことが話題に上り、あの会は現在どうなっているのだろうとネットで調べてみた。ウィキペディアでは、幸福会ヤマギシ会で見ることが出来るが、【現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。】となっている。そのうち、削除されるのかもしれない。しかし、ヤマギシズム実顕地公式サイトがあり、全国各地のみならず、世界でもヤマギシズムによる生き方を、主に農業を通して広めようとしているようだ。ヤマギシ会を初めて知ったのは、多分30代後半だったと思う。職場で上司と福祉活動について意見交換をしていた時だったと思う。その頃、私は「ノーマライゼーションの啓発事業」にやりがいを感じていて、老若男女、障害の有無にかかわらず、それぞれの可能性を大切にして、個性による差別や偏見をなくしていきたいと考えていた。今以上に、障害を持つ人達は不利な状況にあったし、福祉は施しのカテゴリーに入るような社会観・人間観が強かった。多分、そんな話をしていた時に、当時の上司に「あんたはヤマギシ会に行ったらいいんじゃないか?」と言われたのだ。「ヤマギシ会」なんて初耳だったし、それって何?という感じだったし、私の主張は間違っているとまでは言われないけれど、「現実には無理だよ」というような揶揄された感じだった。カルトとまでは思わなかったが、理想社会を目指す多少おめでたい人たちの組織のような感じで話していたと思う。その時は、なんだかバカにされたような気がしただけだったが、その後オウム真理教事件などもあり、ヤマギシ村もカルトの一種のような言われ方をしていたような気もする。今回ヤマギシ会のことが話題に上ったのは、若い頃に統一教会に所属していた知人がいて、彼女は随分前に統一教会から離れたにも関わらず、今でも時折その時の教えに縛られているのではないかと感じることがあったからだ。それで、「そういえばヤマギシ会ってあったよね。あそこも、かつてのソ連のコルホーズみたいに、親たちは農業、子供達は集団教育みたいな気がしていたから、その頃の子供達ってどうなったんだろう」というような話になったのだ。そこで、そのことについて書かれている本はないかと探したら、下記の二冊を見つけたのだ。ここでは「カルト村」と書かれていてヤマギシ会という表現はないのだが、多分その会で育った高田かやさんが、当時のことをコミック形式で書いているものだ。だから、とても読みやすいし、親子が離されて生活することや、その集団の価値観の中で時には戸惑い、時には納得しながら適応し、成長していく様子がよく理解できる。「カルト村で生まれました」高田かや「さよなら、カルト村」高田かや確かに、一般的にカルトと言われている組織に多い宗教団体ではなさそうだ。しかし、現代の日本人にとっては少数派に属する価値観によって生きていることは確かだろう。だが、同じような価値観で生きているということを考えたら、ロシアや中国の共産主義のみならず、民主主義でも資本主義でも同じようなものだ。では、「カルト」と「主義主張」との違いは何なのか。「カルト」の歴史などはウィキペディアで書かれているが、カルトとセットで指摘されるのは「洗脳」だろう。たが、洗脳だって私達も一種の洗脳状態で暮らしていることは多々ある。一番問題なのは、その洗脳によって反社会的な行為を正当化したり、カルトの指導者を崇拝しすぎて自分の頭で考えることをやめてしまったり、時には本音とカルト的考え方の葛藤で心を病んでしまったりすることのように思う。さて、このヤマギシ会、現代のエコロジー運動とリンクすることが多く、ひょっとすると支持者も入会者も増えているのだろうか。それはもっと調べなくてはわからないが、大人になって自分の価値観や生き方とマッチしていると考えて自ら入会するならまだしも、生まれた時から他の社会とのつながりを遮断して、一つの価値観の中で子どもを育てる姿勢は、私は共感はできない。もしも自分の息子たちがヤマギシ会で生きることを選ぶのは、賛同はできずとも容認するだろうが、孫たちも一緒に連れて行くと言ったら、断固として反対するだろう。色々な価値観に触れ、自分で自分の生き方の選択ができるまでは、老骨に鞭打って「私の家で育てる!」と主張する。第一、親子が離されて家族として育たないなんて、私の価値観では納得できない。その主張を息子たちに納得させるのだけの言葉がなければ、今まで迷いながらも生きてきた甲斐がないと思う。まあ、わが息子たちはヤマギシ会が考えている自然農法には共感するだろうが、集団の価値観に自分を合わせようとする体質ではないし、だからこそ自分で農業をやるようになったのだから心配はないけれど。ただ、孫たちはまた別だ。ひょっとするとひょっとして、ヤマギシ会に共感するようになることだって考えられる。だって、孫たちはとても素直だし、どうも明確な反抗期もないような気がする。親に反抗する時期って、私は大切だと思ってます。
2021年04月01日
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