全28件 (28件中 1-28件目)
1

<救急車来たる> 入院前に届いていた郵便物があったことに気づいた。東京のK村氏から筑波勤務時代の同窓会の日程確認。早速都合の良い日時と都合の悪い日時をチェックして返送。走友からのメールも届いていた。1つは「東北みやぎ復興マラソン」のエイド支援出発時間の変更の件。もう1つは11月の「伊達なマラニック」の出欠確認だった。前者には了解の、後者には参加希望を伝えた。マラニックと言っても軽度のハイキング。年老いた走友への配慮だ。だがそのお陰で「湯めぐり遠足」の運営が円滑に運ぶのだろう。 日曜日のお昼頃、救急車のけたたましい音が聞こえて来た。それもごく近くで。何だろうと思ったが出て行かなかった。この日は町内会の老人会の催しで老化を予防するストレッチ体操の催しがあった。後で知ったのだが、その際に役員の1人が倒れたのだと言う。82歳で実質的な副会長。奥様はとうの昔亡くなられ、妹さんとの2人暮らしとか。体調を崩していたにも関わらず、責任感から会場へ出向いたようだ。 高齢化が進むわが町内会では、役員のなり手がなくて困っている。毎年総会で紛糾する様子を、私は冷ややかに見ていた。答えは簡単なのだ。会則を改正して役員を強制的に各班に振り分けたら良いだけの話。ただし任期は会長以外は1年で交代。転勤族だった私はそう考えるのだが、40年以上も同じ町で暮らした地元の方は、きっとしがらみから逃れられないのだろう。もし来年も同様なら、そう提案して見ようか。 先日TVで聖路加国際病院の名誉院長だった日野原重明先生のインタビューを観た。約1か月間に亘る取材だった由。100歳を超えてもなお講演で世界中を飛び回り、自らミュージカルの舞台に立った元気者。死の恐怖を克服し生と死の意義を伝えるべき自らの使命を、覚束ない言葉で一語ずつ確認しながら語っていた。キリスト者としての生き方を貫いた105歳の姿だった。 大相撲秋場所が閉幕した。優勝は横綱の日馬富士。カド番大関豪栄道との差が3つと開いて一時は絶望視された優勝だが、終盤になってから豪栄道が自ら転落した。きっと強いプレッシャーがあったのだろう。個人的には幕尻の遠藤が10勝を挙げたことが嬉しい。後半の何日かは入院のため観られなかったが、3人の横綱を含めて7人の力士が休場した大荒れの場所が、最後は何とか治まったような気がする。<続く>
2017.09.30
コメント(8)

<あれから> 退院した日、帰宅して整理が一段落すると私は冷蔵庫の中の食品を調べた。延べ5日、実質4日間の留守中に、おかずが悪くなってないか心配していた。それを義姉に話すと、馬鹿にしたような笑いを浮かべた。「そんなことは小さいよ」。勿論分かっているが、自分にとっては大きいのだ。生きるためには先ず食べなければいけない。おかずが無ければまた作り直す必要がある。結局どれも傷んではおらず、まる2日分古いおかずで凌いだのだった。 翌日私は街へ行った。広瀬通の脳神経外科へ預けていた自転車を取りに行くためだ。執刀医からは「当分自転車には乗らないよう」厳命されていた。それにも関わらず私はそれを無視したのだ。ビルの地下に自転車は無かった。管理人に尋ねると、病院から言われて別の場所に移動した由。ヤレヤレだ。病院の受付に礼を言い、自転車に乗って帰った。その途中に買い物をした。こうして再び通常の暮しが始まった。 自転車は私の暮しに不可欠だ。だがドクターの勧告を無視して早速引き取りに行ったのは、街中の病院に迷惑を掛けたくなかったこともある。それよりも今回の手術で以前あった頭痛やふらつきの症状が消えていたことが大きい。転倒すれば再びあの二の舞になり兼ねない。だから全ては自己責任。人生とは危険との隣り合わせ。私はそう開き直って生きている。 農作業も始めた。庭の雑草が伸び、畑のモロッコインゲンが枯れ出していた。それに台風の影響でシュウメイギクや雲南百薬の支柱が倒れかかり、ゴムの木の鉢が倒れていた。インゲンは苗を抜き、収穫物は後で仕分けした。まだ若くて食べられる莢、莢は駄目だが中の熟した豆はいけるもの。50本ほどの枯れた莢から豆を取り出し、別な日に煮た。幼い頃飢えた経験のある私は、食物を粗末にしたくないのだ。 ついでに2本の万願寺唐辛子も抜いた。しまったと思ったが後の祭り。そこはまだ放置していても良い畝だったのだ。モロッコインゲンの畝を耕して発酵鶏糞と石灰を撒き、後日大根と春菊の種を追加で蒔き、白菜の苗を追加で植えた。秋口に入って3度目の天日干しを終えた梅干しを食べ始めた。落ちたのと枝に残っていた熟した実。不細工ではあるが梅干しの味はする。3日ほどかけて畑と庭の草を抜いた。 退院の2日後、自転車で兄宅へ行った。兄嫁はビックリ仰天。手術を終えたばかりの人間が自転車に乗っても良いのかと言った表情。症状が改善したことを簡単に説明した。ベッドに臥せていた兄を姉が起こして車椅子に乗せた。2度の脳出血と5度の脳梗塞で1級障害者、介護認定5の重病人。その兄を子宮筋腫や不整脈の手術をした兄嫁が介護しているのが実態だ。 話は自然と「終活」に向かう。墓終いの件、私の体調と遠隔地にいる子供の件、老後の健康と生き方の件など。前妻との離婚に悔いはないかと問われて、「全くない」と私。離婚の事情は兄弟はもとより、自分の子供達ですら良く知らないはず。核家族化、少子高齢化社会の弊害は今後ますます深まるに違いない。死に向かいつつある兄に別れを告げ、慎重に自転車を運転して帰宅。途中で買い物を済ませる。<続く>
2017.09.29
コメント(10)

<退院は唐突に> 10時45分。左腕の点滴受け口を変更。血管が腫れたためみたい。11時抗生物質投与。11時40分終了。12時昼食。野菜が多くて食べ易いのが助かる。食後70代後半の老婦人が同室へ。酸素ボンベが必要な患者。救急病棟は男女同居の原則。男女の比率が緊急事態によって変化し、別室にする余裕がないのだ。15時、一般病棟の8階へ移動。眺望極めて良好。 病院があるのはここ数年間で開発された新しい町。隣にはアリーナや大型ショップ、外国の家具店などがあり、少し離れて高層マンションが林立している。昔は国鉄の貨物駅や操車場があり、金属精錬の工場や女子の矯正施設などがあった。それらが全て撤去され、新未来都市が出来つつある。病院はその地区の最も北に位置し、市の中心部から移転して来たのだ。遥か遠くに奥羽山脈の姿。そして足元には東北新幹線。 同室の先輩患者の案内で、8階を散策。ついでに1階の売店まで案内してもらった。16時義姉来院。飲み物とヨーグルトの差し入れ。16時40分からラジオで大相撲を聴く。18時夕食。メニューは敬老の日で赤飯など。夜外泊中の若い患者が妻子を伴って帰院。神戸出身で、仙台へ転勤した由。21時30分抗生物質の点滴開始、。22時就寝。 9月19日火曜日。入院5日目。5時に起床し、洗顔と歯磨き、トイレ。8階病棟の一番東端まで歩いて行くと、朝日に光る広瀬川が見えた。荘厳な朝。生命の重さを感じる一瞬だった。病院の近辺には、最初の陸奥国府だった郡山遺跡がある。あの広瀬川を遡り、飛鳥の都から官人たちが舟で渡来した往時を偲ぶ。ここは古代東北では最先端の文化を誇り、蝦夷(えみし)を抑える拠点でもあった。 休憩室でニュースと朝の連続ドラマ「ひよっこ」を観る。5日ぶりのテレビだ。ついでに血圧測定もここで受けた。114/71と安定。病室で朝食中、東北新幹線が通った。服薬と点眼。同室の若者はPCで仕事。どうやら溜まったメールを確認していたようだ。やはりサラリーマンは会社や仕事から逃れられない運命のようだ。 9時15分執刀医のMドクター来室。術後の経過が良いため午後からの退院が許可された。陰気なドクターから「自転車事故」の話は聞いたそうだが、特段の反応はなかった。抜糸は1週間後外来で。脳のCTスキャン撮影後に実施の由。ただし既に準備中の昼食は食べてからとのこと。義姉には急遽退院することになった旨連絡。車で来てくれることになった。 何という急転直下の退院だろう。入院も急だったが、退院も急。お陰で請求書が間に合わず、支払いもせずに退院と相成った。後日郵送すると聞かされていたが、結局は届かず1週間後の再診と抜糸の日に支払った。足掛けで5日。だが厳密に言えばまる4日間にもならない短期入院だった。その短期間に私の命は救急病棟の最新医療によって救われたのだ。はたして偶然と言うべきか、それとも奇跡と言うべきか。 まる4日にも満たない短期入院。その間に多くのことを見聞きした。様々な患者の様々な症状。そして思いがけない病気にり患しての複雑な反応。多くの方は一日も早く社会に復帰しようとして必死だった。だが中には今後長期療養を余儀なくされる方もいたことだろう。 色んな看護師と接して種々の話を聞き、私も身辺に生じたことを正直に話した。ベッドから起きられるようになると本を読んだ。五木寛之の『孤独のすすめ』。作者の真摯な言葉が深く胸に響いた。恐らく老いや死についての実感。真実であるからこそ人の心を打つ。今回の入院は自分にとっては極めて有意義で、良い経験だったと思っている。秋空が実に爽やかな日だ。<完>
2017.09.28
コメント(10)

<閑話休題> このシリーズを連載し出した頃、今回の入院を「頑固だから」と書かれた方がいた。お口あんぐりである。また頭蓋骨内に200ccの血が溜まっていたと書いたら、「ずいぶん大きな頭ですね」と書かれた方がいた。絶句である。その一方で慈母のように心配して下さった方も何人かおられた。感謝である。 退院後、気になっていたあるブロ友を訪ねたら、7月末に亡くなったと息子さんが書かれていた。一昨年は盛岡市内の遺跡を案内してくれ、今年の秋にはブロ友さんが集まって一緒に登山したいと書かれていたNさん。残念ながらその望みは絶たれた。心からのご冥福を祈りたい。 お付き合いしていたブロ友さんが亡くなったのは、今回で2例目のこと。最初のK君は、絶命の前夜までブログを書いていた。さぞかし無念だったことだろう。いつも心の中で合掌している。お二人とも最後まで見事な闘病だった。 今回奇跡的な展開になったのは、最も新しいブロ友あみさんの助言だった。「独り暮らしなんだから、調子が悪い時は早めに病院へ行くこと」の一言が、病院行きを決断させた。彼女自身の病気の経験と、闘病中の息子さんの存在からの助言だったのかも知れない。病院に行くのにも勇気と体力が要るが、あの日はなぜか素直な気持ちになれたのだ。 さて病気との因果関係を探るため、ここ半年間の出来事を振り返ってみたい。〇 3月29日調停離婚が成立。4月20日前妻が家を出、一人暮らしの開始。〇 4月29日所属走友会のお花見に参加。帰宅後庭で転倒し、右肩を強打。恐らく骨にはひびが入り、何本かの靱帯が断裂したはずだ。今も右腕が十分に上がらず、痛みがある。以前2か所の整形外科で誤診されたことがあり、近所の整骨院へ8回通ったが根本的な解決にはならなかった感じ。 〇 5月12日電動アシスト付き自転車購入。その日の試運転中に前から来た車を避けようとして転倒し、コンクリートに左の側頭部を打った。ごく軽いショックだったが、それが原因で頭蓋骨内で内出血を起こしたのだと思う。私は血栓防止のための薬を服用中で、その作用で出血が止まり難いのも大きい。〇 5月21日。右肩に痛みがある中で、5時間走レースに参加。頭部の痛みはなく、ゆっくり24km走った結果、同夜は右肩と左足の痛みに苦しんだ。 〇 6月17日~18日 尾瀬ハイキングツアー参加。2日間で21km歩く。左足底に痛み発生。〇 7月8日 チャリティーマラソン参加。5時間で21km歩く。疲労感あり。〇 8月19日 電動自転車で往復110kmを参加予定の「薬莱山とお足」をキャンセル。理由は天候不順と、自転車のバッテリー不足。この頃には5月12日の「事故」以来、かなりの血が頭内に溜まっていたはずで、もし転倒していたら死んでいただろう。キャンセルは正解で、あれが岐路だったのかも。 〇 9月2日 「みやぎ湯めぐり遠足」のスタッフとして参加。睡眠は30分程度で、われながら良く奮戦したと思う。〇 9月15日 思いついて急遽病院へ。紹介先の2番目の病院で頭部MRI写真撮影。「慢性硬膜下血腫」と診断。その写真を持って3番目の病院へ。直ちに入院と手術の勧告。帰宅して入院の準備をし、翌朝9時手術。〇 9月19日退院。 〇9月26日外来でCTスキャン撮影と抜糸。2か月後に最終診断あり。 長い間ウルトラマラソンのランナーだった私は、我慢することに慣れている。80kmの練習走でさえ楽しいほど。今回の転倒事故が、まさかこんな大事に繋がるとは考えもしなかった。血腫のために頭痛、めまい、失語、思考遅滞、不安があった1か月間も、記録的な天候不順と老化の為せる業だとばかり考え、ただひたすら耐えていた。それを頑固だと私は思っていないのだが。<続く>
2017.09.27
コメント(14)

<猫じゃらしと無法者> ベッドに横たわっているとエノコログサが見えた。通称猫じゃらし。秋になったせいか黄色く色づき、まるで麦の穂のようだ。それが風になびいている。隣の小児病棟の屋上に生えているのだが、除草しなかったのだろう。草が揺れるのは台風18号の影響か。テレビも見ず、新聞も読んでないため、外からの情報が全く入らない。救急病棟から出ることは出来ず、見舞いも家族や親戚だけに限定されてるのだ。 ようやく一人でトイレに行った。3日ぶりの排便なのに、出た量はわずか。連日ベッドに寝ているため運動不足なのだろう。おまけに腰まで痛み出した。毎日10時間ほどベッドで寝ている。14時30分。看護師さんが洗面台でシャンプーをしてくれた。これは傷口を清潔に保つためでもあるらしい。ついでに髭を剃ったら、さっぱりした。こちらも3日ぶりの出来事だった。 17時血圧測定。手術後も上は180近くあったのが、ようやく140台までに下がる。手術と血圧降下剤の効果が出始めたようだ。18時夕食。メニューはチキンカツ、モヤシと青梗菜のお浸し、刻みキャベツ、油麩とネギの味噌汁。20時。この日2度目の排便も細々としたもの。21時30分消灯。 9月18日月曜日。入院4日目。朝の6時に看護師の声で目覚める。体温と血圧を測定し、ライトを瞳に当てて反応を確認。いずれも正常みたい。看護師さんの話によれば台風は日本海側に抜けた由。それでも昨夜は風雨が強かったそうだ。屋上の猫じゃらしが風に揺れている。台風は抜けたが、まだ風があるようだ。ドクターから歩行の許可が下り、救急病棟の廊下を往復する。ああ愉快なり。 7時45分朝食。メニューは可愛らしいワカサギの佃煮2匹、五目豆腐含み煮、オクラと大根おろし、玉ネギと豆腐の味噌汁、牛乳小パック。いつもながらの低カロリー食。8時50分陰気なドクターが来室し、午後から一般病棟への移転を宣告される。退院は抜糸後とのこと。執刀医の最初の話と違っていたため少々戸惑う。では退院は何時になるんだろうね。 9時20分。「ため口」の看護師来室。その割には何だか要領を得ない話しぶり。「結局私1人でシャワーせよと言う意味ですか」と聞くと、そうだと言う。左腕の点滴の「受け口」をビニールで覆ってもらい、シャワー室へ。不自由ながらもちゃんと洗髪し、体を洗った。もちろん手術痕の傷口を清潔に保つための入浴だ。 それを観た同室の男が自分もシャワーしたいと言い出した。やれ病院食は味が薄いので、濃い味噌汁を飲みたい。やれテレビカードが切れるので何とかせよ。やれ友人の見舞いは無理か。やれ仕事が溜まっているので早く退院したい。常に要求し続けている非常識な男。自分が脳出血で救急病棟へ運び込まれたことなどまるで認識してないのだ。ついには友人を親戚に仕立て上げて、面会を実現させてしまった。この無法者めが!!<続く>
2017.09.26
コメント(10)

<ブラックジャック> 病室の天井を見て、あまりにクリヤーなのに驚いた。これは手術のせいだろうか。血が頭部から抜け、脳が圧迫から解放され症状が消えたのだと思った。だが、やがていつものように視野はぼんやり霞むようになった。そうだろうなあ。これは「事故」の前からあったこと。両目の焦点距離の違いから来るものと眼科では言われていたのだ。ちょっとがっかりだが、そうは問屋が卸さない。 7時30分。頭部のCTスキャン撮影のためベッドで移動。10分もかからずに終了。個室に戻り8時に朝食。メニューは焼き魚、菜の花の辛子和え、煮豆、白菜と芋の味噌汁、そして牛乳。ご飯はいつも通り220g。9時30分。兄嫁が来院し飲み物の差し入れ。洗濯物を持って直ぐに帰宅。日曜日なのにありがとうね義姉上。 10時過ぎ、陰気なドクターが来室。執刀医とは異なる脳神経外科の先生。貯血バッグに溜まった量を確認後、左の額からドレンを抜いた。どうやら200ccの血液が抜け切ったのだろう。管を抜いた後の穴を縫ったのだろうか。チクリと痛みが走った。そのドクターに5月に自転車で転倒したことを話した。だが反応が鈍い。そんな古い時期の怪我ではないと言いたげだ。だが病院の資料には3か月後に症状が出ることもあると書かれていたはず。 看護師さんが2人来て、温かいタオルで体を清拭してくれた。その後、鏡で手術の痕を見せてくれた。左の額を5cm切った個所には、金属的なホチキスの針がまるでジッパーのように刺さっている。「これはブラックジャックだね」。私は心の中でつぶやいた。一方ドレンを抜いた穴は、黒い木綿糸のようなもので縫われていた。手術痕との「面会」はあっと言う間に終わった。 注)ブラックジャック:手塚治虫の人気漫画の主人公で、天才的な謎の外科医。頬の大きな傷跡が特徴。大金持ちや悪人からは高額の治療費をふんだくる一方、貧乏人は無料で助ける義人でもある。専門は脳外科だったはず。 12時に昼食。メインはかば焼き風のサワラ、卵豆腐、春雨とワカメのサラダ。果物にバナナとネーブル。ご飯を除き、いずれも少量だ。こんな風に書けるのは、食事の内容を書いたメモが付いているため。因みに私のは「常食1」となっている。きっとほとんど制限のない患者用の食事なのだろう。 13時45分。看護師が来て胸の「心電図計」と指に装着していた「体内酸素計」を取り外した。これらの装置はナースステーションと直結し、刻々と情報を伝えていたのだ。残るのは左腕の「点滴剤注入口」のみ。終了後、男3人の病室へ移動。入院後3度目の部屋替え。それだけこの救急病棟は人の移動が激しく、症状が軽快した患者はナースステーションから次第に離れて行くのだ。<続く>
2017.09.25
コメント(10)

<「事故」の顛末> 入院2日目の昼、初めての食事が出た。メニューは忘れたが薄味の病院食で、とても美味しかった。到底自分では出し得ない味。そしてご飯が220gもあったのには驚いた。私が通常食べているほぼ倍の量。夕食は6時。これも美味しくいただく。自分で食事を作らないなんて久しぶりのこと。それだけでも贅沢な気分。手術が成功裏に終わった時から、私は目には見えない神様に感謝の言葉をつぶやいていた。 夕方から担当の看護師さんが若い女性に交代した。高校時代の部活の話やなぜ看護師を目指したかなど、とても気さくに話してくれた。その彼女に下半身を曝すことが出来ず、小用は起きて備え付けの尿瓶(しびん)で行った。 それが禁止されていることを教えてもらったのは、翌日の担当のベテラン看護師さんから。このブログでもいかにも知った風に書いているが、実際はほとんど何も知らず、その後の知識を加味して書いているだけなのだ。電車が通過する音が微かに聞こえる。こうして入院2日目の夜は静かに更けていった。 9月17日。日曜日。入院3日目の朝は3時半ごろに目が覚めた。気分は悪くない。まだ暗い病室で色んなことを考えた。急患としてこの病院を訪れた際、執刀医となったMドクターが言った「助かりますよ」の言葉を思い浮かべていた。助かるなんて当り前じゃないか。第一自分が病気だなんて思ってなかったのだから。だが、MRI写真の脳の写真は全くの想定外。あれには正直驚いた。 街中の脳神経外科とこの病院のMドクターには転んだことはないと答えたが、待てよ1回だが転んだことがあったなあ。突然ある「事故」を思い出した。それは今の自転車を買った日のこと。初めての電動アシスト付き自転車はハンドルがやけに重く、操作性が悪いことに気づいた。それでも慣れる必要があるため、安全な裏道を通って買い物に行ったのだ。 登り坂に差し掛かる手前、前方から急に車が現れた。車がやっと通過できるかどうかの細い道。すれ違うことなど出来はしない。私は咄嗟にハンドルを左に切った。そしたら倒れて私はコンクリートに頭の左側を打った。「大丈夫ですか?」。運転手が尋ねた。「大丈夫ですよ」。私は答えた。打ったのはコツンと軽いもので、痛くもなんともなかったからだ。そして起き上がってそのまま買い物に行ったのだった。 自覚症状が全くないため、あの時に軽く頭を打ったことなどは忘れていた。それが数か月後になってから、重篤な病気だったことに初めて気づくなんて。15年間乗っていたマウンテンバイクなら、ハンドルの操作性やグリップ力の強い太いタイヤで急ハンドルでも倒れなかったはず。 だが新しい自転車のタイヤは細く、おまけに以前は無かったコンクリートの駐車場の床に5cmほどの段差があった。悪い条件がたまたま5つほど重なった「事故」。しかも私は「血液サラサラの薬」を服用していたため、血が止まり難かったのだろう。得てしてこんな時には「泣きっ面に蜂」になりがちだ。<続く>
2017.09.24
コメント(8)

<手術室から個室へ> そうそう。書き忘れていたが、この朝8時に心電図と胸部のレントゲン写真を撮っていた。さて手術室内には現代的な音楽が流れていた。手術の体制は3人。執刀医がMドクター。それに付き添いの女性看護師が2名と言う小規模なもの。ベッドから手術台の上に移動し、麻酔薬を服用した気がする。 左腕の点滴口からは睡眠剤が投与されたようだ。ドクターが看護師を叱っている。患者の頭のどちら側を手術するか、彼女らが確認してなかったためだ。「もし僕が間違ったらどうするの」。優しいドクターの厳しい指導。私はますますドクターが好きになった。 ドクターがバリカンで頭髪を切った。後で見たら左の額に「剃り込み」を入れた感じ。胸が圧迫されて来た。ドクターにそれを訴えると、麻酔が効いた証拠らしい。暫くして「剃り込み」を入れた部分をメスで切られた。痛みは軽かったが、その後のことは覚えていない。睡眠剤による作用だ。頭蓋骨に直径1.5cmの穴を開け、ドレン(管)を差し込んで終了。準備30分、手術30分。合計1時間の手術室滞在だった。 手術前の4人部屋から、ナースステーション前の個室に寝ながら移動。頭にはビニールの管が差し込まれている。ベッドでは枕は使わず、そのままの状態。横の装置には透明な袋がぶら下がっている。頭の中から流れ出る血液を収容するためのもの。毛細管現象と落差を利用した方法だ。頭蓋内の出血は200ccと計算されており、それが全て除去されたら終了。何と単純明快な処置なのだろう。 ただし排尿などはすべてベッドに寝たまま。起き上がればそれだけ落差が大きくなり、急激に出血量が増える危険性が高まるためだ。担当は男性の看護師になった。彼なら下半身を曝しても平気だ。意識は完全に戻って、彼とは色んなことを話した。担当の看護師以外にも通りかかった看護師は、ことあるごとに私のベッドにやって来た。多分救急病棟で手術後の患者への手厚い看護方針なのだろう。 さて「慢性硬膜下血腫」についておさらいしよう。軽微な頭部外傷後2週間から1~3か月経って頭蓋骨の内側にある「硬膜」と「くも膜」との間に血液が貯留する病気で、男性高齢者に比較的多い。外傷以外の要因としてはアルコール多飲、脳圧の低下、動脈硬化などがある。血腫は吸収されず、ゆっくり増大する傾向にある。この結果、意識障害、知能障害、頭痛、吐き気、失語などの症状が出現し、放置すると死に至ることもある由。(病院がくれた資料から) 私の場合は、頭痛、失語、激しい意欲減退、それらから来る不安などがあった。当時の私はてっきり1か月以上続いた不安定な気候のせいだとばかり思っていたのだ。そんな体調でも家事とブログは毎日こなした。何とか別な言葉を探して文章を書き、ふらつきながらも買い物へ行った。同時にやたらとSOSを発し続けた。その信号すら結局誰にも受け止めてはもらえなかったのだが。<続く>
2017.09.23
コメント(10)

<緊急入院の夜と朝> 病院がくれた案内に従って、入院に必要な物品を準備。タオル3枚。結果的には2枚あれば十分だった。バスタオル3枚。これは1枚で十分。上靴の持参も求められたが、結果的には普段履きのランニングシューズ1足で間に合った。必要物品はバッグに入り切らず、簡便なザックなども利用。郵便受けには新聞屋さん宛に、当分不在のため配達をせぬようメモを張った。 入院と手術の電話連絡は、市内にいる兄嫁だけに止めた。3人の子供はいずれも遠い地に在り、来ることは出来ない。前妻がいた時ですら、入院の準備は全て一人でやり、一人で手術を受け、一人で退院して来たのだ。夕食を終えると、お向かいのKさんが車を準備してくれていた。病院まで送ってくれると言う。ありがたい隣人だ。7時30分発車。7時50分病院到着。 日中同様に救急外来の非常口から院内へ入り、4階の救急病棟へ案内される。看護師から入院後の説明があり病室へ。ところが泣きわめく子供の声が煩く、急遽別な病室へ移動することになった。手術前夜に眠れないと困るだろうとの配慮だ。持参した睡眠薬が使えないことも理由の一つだった。手術に影響するとの判断だろう。入院着に着替え、体温、血圧などを測定。 その途中で警報が鳴った。脈が遅いのが原因だ。65歳まで100kmや200kmのレースに出ていた私の心臓は大量の血液を全身に送るため、一般人に比べて大きいのだ。看護師は機器を再調整した。その後翌日の手術に備えて、点滴を実施。この朝北朝鮮のミサイル発射で国内は大騒動だった。私自身は3つの病院の梯子で、実に慌ただしい一日だった。9時30分消灯。体調チェックのため看護師が何度か夜間に来室。 9月16日土曜日。5時前に起床。洗顔、歯磨き、トイレを済ませる。朝食は抜き。もちろん手術があるためだ。8時30分兄嫁来院。昨夜のうちに看護師が連絡し、手術に立ち会うよう依頼した由。何せここは救急病棟。最悪の場合の対応なのだろう。8時45分。ベッドに横たわったまま手術室へ移動。いよいよ運命の時。だが心は意外と冷静だった。<続く>
2017.09.22
コメント(6)

<病院の梯子 その2> 2時30分。名前が呼ばれて頭部のMRI 撮影に入った。装置の中に体が入り切ると、やがて金属的な音が鳴り出す。カンカンカン。ジージージー。ゴンゴンゴン。キーンキーンなど様々な機械音。きっと閉所恐怖症の人なら耐えられないはずだ。でも私は3度目なので平気。20分ほど耐えて無事終了。暫くして再び診察室へ呼ばれた。果たしてどんな裁定が下るのか。 ドクターはシャウカステンに挟んだ写真を私にも見せた。左右、上下は反対になっている。脳の左側(実際は右脳)は正常なのに、右側(実際は左脳)の方にはあるべき「ひだ」がなく、どんよりとした感じ。そして頭蓋骨との間に、液体が満ち溢れていた。それが血液などだと言う。私は2つの医学図書館で勤務したことがあり、脳内の写真なども見慣れていたため驚くことはない。 「転んだことはありませんか」。午前中にもあった質問をまた受けた。4月のお花見の帰りに転倒して右肩を打ちましたが、頭部は大丈夫でした」。私は答えた。指を1本立て、「何本に見えますか」。ドクターは聞いた。「1本、いや2本です」。私の眼は左右で焦点距離が違うため、物が二重に見えるのだ。「目を瞑って片足で立ってください」。だが数秒も立ってられない。これも昔から苦手だったのだが。 ドクターはそれを見て、どこかへ電話をかけた。そして緊急入院と手術を依頼したようだ。「これからS病院の救急外来へ行ってください。自転車は絶対ダメ。タクシーで行くように」。私の病名は「慢性硬膜下血腫」で、直ちに手術をする必要がある由。予想外の展開に私は動転した。自転車がないと困るんだけどなあ。でもドクターの厳命なら仕方ない。私は受付に自転車の保管を頼んで外へ出た。付き添った看護師さんがタクシーを停めてくれた。 運転手さんに行き先を告げると思いがけないコースを通った。なるほどこれが一番近いのか。名前は知ってても、一度も行ったことのない病院だ。それにしてもなぜこんな事態になったのか、私の頭は混乱していた。病院に着き、救急外来の入り口でブザーを鳴らした。名前を告げると直ぐ職員の人が迎えに来てくれ、受付にドクターから預かった紹介状とMRIの写真を渡した。そして必要書類を記入。完全なパニック状態だった。 いよいよ診察が始まった。ドクターは紹介状と写真を観て、直ぐに合点したようだ。そして名前、生年月日、今日の日付、自分の病名を聞いた。私がよどみなく答えると、「良いですね。助かりますよ。ところで転んだことはありませんか?」。ないと答えると、「原因が分からない場合もありますからね」どドクター。あくまでも優しい人だ。最短で3日、最長で5日の入院。抜糸は外来でも可能とのこと。 私はドクターに尋ねた。「一旦家に帰って来て良いですか。何も入院の準備をしてないもので」。OKが出た。事務の人が入院の手続き等の書類を持って来た。「9時ごろでも良いですか」。「それはちょっと」職員は口ごもった。これは大変。入院の準備に夕食。そしてブログにも緊急入院のことを書かないとねえ。私は焦った。何せ手術は翌朝の9時からなのだ。 家に帰ると朝干したままの布団がベランダの手すりにあった。お向かいのKさんに事情を話し、入院することを告げた。彼も布団がそのままだったので心配していたのだ。<続く>
2017.09.21
コメント(12)

<病院の梯子 その1> 9月15日金曜日のお昼頃、私は仙台駅前のベンチに座りカツカレーを食べていた。目の前をスタイルの良い若い女性が歩き過ぎるのを観ながら食べる昼食は最高だ。かつて仙台は不美人が多いとの専らの評判だったが、今はそんなことはない。女優になるため奥茨城村から東京へ出て来た時子よりも洗練されたピチピチギャルがわんさかといる感じ。それにしてもコンビニの暖かいカツカレーは何とも美味。自分では作り得ない風味なのである。 さて、自転車は大丈夫だろうか。植え込みのヤブランを横目にしながら、私の頭はそのことを心配していた。広瀬通の脳神経外科の前に路上駐輪したままなのだ。不法駐輪の取り締まりは大抵木曜日なのだが、稀に金曜日のことがある。撤去されると3kmほど離れた場所に移動され、確か手数料として3千円徴収されるはず。そんな訳で美女もカツカレーもゆっくりと楽しむことは出来なかった。 頃合いを見計らって広瀬通りへ戻った。若草色をした私の自転車は、撤去されず元の場所にあった。受付の女性に駐輪場があるかどうか尋ねるとビルの地下にある由。そこで地下駐輪場まで愛車を移動し、ようやく一安心した私だった。だが、この電動アシスト付き自転車が、まさか病気の原因だったとは、この時まだ知る由もなかった。私は14時30分予約のMRIまで、待合室で静かに待っていた。 その日の朝、私は予感めいたものを感じ、掛かり付けの循環器内科へ行った。普通なら歩いて行くのだが、この日は電動自転車で行こうと決めていた。ドクターに最近起きた頭痛と血圧上昇の話をすると、軽い診察後、ある脳神経外科の紹介状を書いてくれた。今から急げば午前中の診察に間に合うし、脳のMRI(核磁気共鳴撮影)も間に合うかも知れないとのこと。私が不整脈の手術を受けた病院には脳の専門科がないことも教えてくれた。 循環器内科は山の上にある。そこから吊り橋を渡り、青葉城の急な坂を下り、最短距離で脳神経外科へと向かった。直ぐ傍を車がすり抜けて行く。もしバランスを崩して転倒したら、取り返しのつかない事故になる。私は細心の注意を払いながら、坂を下った。これをドクターが知ったらなんと言うか。今は無我夢中。ともかく一刻も早く頭部のMRI を撮り、頭痛の原因が何なのか知る必要があった。<続く>
2017.09.20
コメント(4)
皆さん今日は。病院暮らしから無事シャバへ戻りました。留守中の暖かいメッセージ、ありがとうございます。それぞれの気持ちに感謝感激です。1人ごとのお返事は書けませんが、まとめての御礼をお許し下さいね。 病名は慢性硬膜下血腫と言うもので、脳の出血ではなく頭蓋骨の直下にある「硬膜」と脳の間の出血でした。原因は5月に自転車で転んだ際の頭部打撲。(だと私は推察しています)血栓予防のために血液サラサラの薬を服用しているため、血が止まり難かったのでしょう。200ccほど溜まっていたようです。お金なら幾ら溜まっても良いのですがねえ。 手術の準備に30分。手術が30分と言う簡便さ。頭蓋骨に直径1.5cmの穴を開け、そこに管を差し込んで溜まった血を排出すると言うごく簡単な仕組みです。幸いにして後遺症もなく(今の所)、頭部のCTスキャン及び抜糸は1週間後に外来で行います。 帰宅後は処方された薬の整理、入院関係の書類の整理、衣類の整理などを行い、ようやく一段落したところです。でも留守中に冷蔵庫の中の食べ物がどうなったのかの確認はこれからです。とりあえずは無事帰還のご報告と、いただいたメッセージへのお礼とさせていただきます。本当にありがとうございました。そしてこれからもどうぞよろしくお付き合いくださいね。なお、皆様へのご訪問は、体調が落ち着いてからにさせていただきますね。重ね重ねの非礼をお許しいただけたら幸いです。では。マックス爺 頓首
2017.09.19
コメント(21)
今晩は。本日病院を3か所梯子した結果、脳内に出血があることが分かりました。これが頭痛の原因でした。今から支度して今夜入院します。手術は明日です。最短で3日、長くて5日の入院。暫くブログはお休みします。私は案外元気でおります。ではでは。
2017.09.15
コメント(9)

<ラスコー洞窟とクロマニョン人の芸術(1)> 今日は。クロマニョン人ってご存知ですか。現代ヨーロッパ人の直接の先祖に当たる人種で、先史時代の人たちです。5月中旬のある日、私は東北歴史博物館(宮城県多賀城市)で『特別展世界遺産ラスコー展』を観て来ました。サブタイトルに「クロマニョン人が残した洞窟壁画」とあるように、テーマは世界的に有名な壁画なんです。既にブログで紹介済みですが、今回は残った写真を掲載したいと思います。 これがラスコー洞窟がある村の風景です。洞窟は右手の渓谷沿いにあります。 これがラスコー洞窟の入り口です。1940年のある日、穴に落ちた愛犬を救おうとした村の少年が偶然洞窟を発見したのです。その後洞窟を探検した人たちが、おびただしい数の壁画を発見。学術的な調査の結果、今から約2万年前、先史時代のクロマニョン人によるオーニャリック文化であることが判明しました。1979年に世界遺産に登録され、立ち入り禁止となる代わりに、精巧なレプリカが展示されています。 <ネコ科の部屋> 洞窟内はとても広大で、壁と言う壁は彼らが描いた絵画で溢れています。展示された作品は全てレプリカであり、そのほとんどは撮影が許可されています。洞窟ごとに「テーマ」があるようです。クロマニョン人たちが住まいとして使用したのは、洞窟の入り口付近だけ。洞窟内は真っ暗で、彼らはランプの灯りだけを頼りに、次々と壁面を動物の絵で満たして行きました。 鹿の仲間でしょうか。しかとは分かりませんが。 物凄い絵心で、動物の特徴を良く捉えています。とても2万年前の作品とは思えませんね。 頭に突起のようなものが見えています。ウシ科の動物かな? *) 野牛に倒された人間のように見えますが・・。 * 説明板には「井戸状の洞窟」とありました。場所の名前です。 オオツノシカでしょうか。絵具も使って描かれています。 これは「現代の第3の洞窟」で、真っ暗な中でも分かるよう蛍光塗料で描かれています。 絵の具の色は何種類かあります。絵に対する執念が半端じゃないですね。 牡牛たちの躍動感が凄いです。エネルギーの塊ですね。 *)の絵を広範囲に見た図です。呪術性を感じる絵ですね。 輪郭を切り取った馬。デザインとしても秀逸です。 「牡牛の広間」と呼ばれる空間。人物と比べると洞窟の巨大さが分かります。 野生の馬でしょうか。家畜ではなく狩猟の対象だったのかも。 太った牛の群れは、きっとクロマニョン人たちの生命を繋いだのでしょう。 猟場は洞窟からかなり離れていたはずです。それでもこれだけ正確に動物たちの姿を描けたのは、クロマニョン人たちが素晴らしい観察力と芸術性を保有していた何よりの証でしょうね。<続く>
2017.09.15
コメント(6)

<ある宿> 去る9月2日(土)に開催された「第1回みやぎ湯めぐりウルトラ遠足」で泊まった宿を紹介します。 宮城県仙台市近郊の作並温泉にあるI旅館です。開湯は室町時代と言う古さ。この老舗旅館の先祖が発見して個人的に楽しんでいたのを、江戸時代になって仙台藩の殿様が気に入って愛用した歴史があります。作並街道はその後国道48号線となり、JR仙山線が並行して走っています。宿泊を予約すれば作並駅まで宿のバスが迎えに来ます。 ロビーです。旅館は広瀬川の上流のすぐ傍にあり、静寂な環境と良質な温泉を楽しむことが出来ます。 作並温泉は作並系こけしの生産地でもあります。素朴で端正な顔立ちが特徴です。 照明その1 照明その2 川沿いにある天然岩風呂へ下りる階段の上に、古い柱時計が掛けられています。 岩風呂への階段が延々と続きます。途中に休憩所があるほどです。<ネットから借用> 岩風呂は撮影禁止のため、旅館のHPから借用しました。崖下が広瀬川の上流です。 岩風呂は全部で4つあり、これは一番奥の岩風呂です。昔は男女混浴でしたが、今では時間を区切って男女別々の入浴となっています。<ネットから借用> 岩風呂から見た広瀬川。この清流を利用して、ウイスキーの工場が付近に建てられています。 激しい流れです。冬は辺り一面に雪が積もり、さらなる旅情を誘います。 澱みは透明で、良く見ると大きなイワナが群れながら泳ぐ姿が見られます。 以下、館内に飾られていた美術品を掲載します。これは江戸時代の仙台の城下町で、「芭蕉の辻」と呼ばれる場所です。 この日のレースではコース途中の青根温泉(川崎町)と遠刈田温泉(蔵王町)でも入浴出来、ゴールの秋保温泉(仙台市)でも温泉に入れると言う、文字通り「湯めぐりウルトラ遠足」(距離100km)となったのでした。ともあれ進路が心配された台風15号が逸れて、助かりましたね。
2017.09.14
コメント(12)

<くう・ねる・あるく> ゆず 朝起きると、きれいさっぱり頭痛は消えていた。前日頭痛がした際に血圧を測ると、いつもよりかなり高めの数値。そして頭痛が治まった頃に測定すると、平常値に戻っていた。頭痛の原因が血圧の上昇と関係していたことは確かだが、血圧の上昇がなぜ起きたのかは不明。目の使い過ぎも考えられるが、最近は疲労感と不安感が募っていたのは確か。老化とは不思議な世界。自分ではコントロールが不可能なのだ。 うんなんひゃくやく 体調が良くなくても、食欲と便通はあった。今季2度目のゴーヤチャンプルーは全て平らげた。我ながら上手に出来たと思う。サバの味噌煮も、サンマの佃煮も実に美味かった。豚肉のカツレツにも挑戦し、まあまあバランスの良い食事を心がけている。ナス、玉ネギ、ニンジン、そしてさつま揚げの煮物を作り、昆布、もやし、油揚げ入りの味噌汁を作った。毎朝の味噌汁は、私には欠かせない一品だ。 れたす 体調が良い。昨夜来の雨が上がって、気温も高くない感じ。そうだ、今日は思い切って散歩に行こう。体調が悪かった頃は体を動かすのが億劫だったが、今日は大丈夫みたい。そう思って半ズボンに穿き替えた。向かうのは9kmのコース。後で調べたら3か月半ぶりだった。カメラを持参すれば良かったと思ったが後の祭り。手ぶらで歩くのもまあ良いか。 しゅんぎく 土手のノブドウが色づき始めた。ヤマグリが小さな実をつけていた。だが、捜してもクルミの実は全く見えないのが不思議。青いギンナンの実が落ちていた。コスモスの花が咲いていた。季節はもう秋なんだねえ。農業用水池の前で老婦人に呼び止められた。クルミが不作でリスが可哀想との話。クルミの不作の原因は長雨の影響だろうか。だが、少し離れた場所にドングリが落ちていた。これでリスも安心のはず。 こまつな 家の近所まで戻ると若い女性が「散歩ですか」と私に尋ねた。「いや、徘徊です」と答えると彼女が笑った。赤いバイクにまたがった郵便屋さんだ。近くの塀際に真っ赤な彼岸花を見つけた。季節は確かに経巡っている。小川の土手を探したら、2か所で彼岸花を見つけた。今度はデジカメを持って散歩に行こう。私の場合は「食う・寝る・遊ぶ」ではなく、「食う・寝る・歩く」。金がかからなくて良いんだよなあ。 だいこん 昼食は冷やしうどんにした。暫く使わないでいたせいか冷蔵庫の中で凍り、茹でたら少し形が崩れた。暑かった7月。長雨の8月。そして9月中旬の今は秋の入り口。小さな畑の野菜が、少しずつ成長して来た。苗は立派に根付き、発芽した野菜の形もそれらしくなって来た。ナスと万願寺唐辛子がまだ獲れている。雲南百薬に花が咲きそうだ。実りの秋に感謝を込めて、一つまみずつ化学肥料を追肥した。
2017.09.13
コメント(12)

<映画『関ケ原』を観て> 映画はいきなり戦闘の場面から始まったような気がする。「気がする」と書いたのは、頭痛がしていたからだ。緑内障の私は物が見え難い。左右の目の焦点距離が異なるため、二重に物が見える。映画館のあんな大きなスクリーンでさえ、よくよく目を凝らさないとはっきりしない。きっとそんな微細な作業が血圧を上げ、頭痛を惹起したのだろう。 関ケ原。日本人ならその名を知らないものはいないだろう。古代からの交通の要衝で、早くから関所が置かれた。北陸道の愛発の関(福井)、東海道の鈴鹿の関(三重)とならぶ三関の1つである東山道の不破の関が置かれ、壬申の乱でも大海人皇子(後の天武天皇)がこの関を通った。新幹線ならあっと言う間に通過する狭い地峡の盆地が、天下分け目の戦いの舞台になったのも頷けよう。 ここで東軍の徳川家康と西軍の石田三成が戦ったことを誰もが知っている。そしてどっちが勝って天下を取ったのか歴史が定まっている。だが、その戦いの実態を知る者はさほど多くないのではないか。豊臣家に対する忠義。次の天下人への貢献。勝てば大名にも取り立てられ、負ければ御家断絶と浪人生活が待つ。正義と野望の戦い。積年の恨みを果たす場が関ケ原でもあった。だが天下分け目の戦いは、わずか6時間で終わった。 裏切りもあった。傍観もあった。戦わずして逃亡した武将もいた。皆生き残り、「家」を存続するために必死だったのだ。映画は淡々と戦いを描く。へえ~っ、こんな歴史の描き方もあるんだなあと感心しながら観ていた。しかし歴史をこんな風に描ける小説家は一体誰なのだろう。しかも殺伐とした殺し合いの中に、密やかな恋まで散りばめているとは。 岡田准一演じる一途な石田三成が良かった。役所広司演じる老獪な徳川家康も良かった。平岳大演じる三成の側近島左近がさらに秀逸だった。この戦いによって戦国時代は幕を閉じ、日本は近世へと変わって行く。しかし原作者は何を言いたかったのだろう。時には空から戦う武将達を俯瞰し、時には心の中に忍び込んで、人間の弱さや醜さを暴いた。 映画が終わり、最後にクレジットが流れていた。そこでようやく原作者が分かった。何と司馬遼太郎の同名の小説を、丹念に再現した映画のようだ。それで腑に落ちた。彼なら歴史を描け、人間の本質をも描けるはず。監督兼脚本は原田眞人。彼の作品『日本のいちばん長い日』を観た記憶がまざまざと脳裏に蘇った。なるほど彼なら歴史の真実を描けよう。そんな風に感じた私だった。今もまだ頭痛がしている。
2017.09.12
コメント(8)

<苦難の果てに> 大相撲秋場所が始まった。ところがビックリ。4横綱のうち3人が揃いも揃って初日から休場だそうだ。先場所優勝の白鵬は足の甲の負傷だったか。稀勢の里は大胸筋と肩の負傷がまだ癒えないようだ。そして鶴竜は何と今年4回目の休場になるらしい。幕内下位に落ちた遠藤は負けた。関脇の御嶽海も良いところなく敗れた。平幕に落ちた元大関の琴奨菊は大関豪栄道を下した。プライドはまだ残っているようだ。 女子プロテニスの伊達公子さんが引退表明をした。これで2度目。3度目はないはずだ。最初の引退表明は確か26歳の時。心と体がついて行けなくなったと言ってたはずだが、世界ランク4位の選手に一体何があったのか。だが38歳で現役復帰しツアーで優勝もした。元のご主人はドイツ人で、彼女も「クリム」と名がついている。爽やかな引退表明だった。最後の最後まで笑顔が美しかった。 女子プロゴルフの宮里藍ちゃん。アメリカのツアーで先日5位に入賞した。残りはフランスのツアー1試合のみ。それが引退試合になるとか。まだ33歳の若さ。これからもまだまだ活躍できるだろうに、引退の理由は何なのか。これは私の憶測だが。ご両親のどちらかがひょっとして弱っているのではないか。それで親孝行をしたいのではないか。純朴な藍ちゃんならやりかねない行動だ。 メジャーの田中マー君は目下11勝11敗。これで5年連続2桁勝利らしい。そして通算50勝目は、日本人選手の最速記録とか。ダルビッシュは通算奪三振が千個に達した由。昨年は怪我で長期リタイヤを余儀なくされたが、今季はまあまあのようだ。イチローも相変わらず新記録を更新している。先日の記録は累計の塁打だった。43歳にしてまだ成長中。上原は最近調子が上がらないみたい。メジャーも厳しいからなあ。 東洋大学の桐生選手がついに10秒の壁を破った。先日福井県で開催された大学陸上で、日本人初の9秒98を記録。これまでの記録は10秒00だったか。彼自身のベストタイムは10秒01。それを高校3年で出してから、実に4年の歳月が流れた。先だってのロンドンでは100m代表にも漏れ、4×100mリレー選手として渡英し、見事銀メダルに輝いた。3年後の東京オリンピックに向けてさらなる精進を期待したい。 片付け中に長男と次男が書いた履歴書が出て来た。彼らが我が家に住んだのはわずか1か月間だけ。失業して帰省し、いずれも前妻に追い出された形。当時の仙台では就職先が見つからなかったのだ。それで止む無く2人とも東京へ出て行った。私が生きているうちにこの家に戻ることはないだろう。おまけに前妻まで私を見限って家を出た。息子たちは今、両親の離婚をどんな風に見てるのだろうね。
2017.09.11
コメント(10)

<写真はわが家のタカサゴユリなど> 100kmレースの数日後、地域包括支援センターへ行って来た。かなり多額の介護保険を払っている割に、何の恩恵も受けていない。担当者に自分の現状と目下の心配点を率直に話し、どんなサービスが受けられるのか聞いて来た。担当の民生委員へも連絡してくれるとのこと。その日の夕刻には民生委員の自宅を訪ねたが留守。郵便受けにメモを入れて帰って来た。 翌日民生委員が訪ねて来た。私のことも前妻のことも知っていた。予め記入していた「緊急連絡先」のメモを渡し、現状と心配点などを話す。「まだ私などは元気で動ける方」と彼女。体が動くならもっと社会的な繋がりを持ったらいかがと勧められた。当面必要な資料などをもらう。職務の範囲が広過ぎて、わが町内会は担当から外して欲しい希望のようだ。独居老人が増えて大変なのだとか。 翌日、民生委員が置いて行った「あんしんカード」に必要事項を書いた。これでいざと言う時の連作先は分かるはず。お向かいさんにも民生委員の訪問を受け、緊急連絡先を伝えてある旨お話しした。それらはいざと言う時のためのもの。一人暮らしだと何があるか分からない。連絡だって自分が死んだら出来ないではないか。後はどんな優先順位で、誰に何を処理して欲しいか整理する必要がある。それと自身による断捨離も。 長女が卒業した大学の同窓会から案内が来た。長女が家を出てから18年間も放置したまま。そこで住所を知らせ、改めて連絡してもらうことにした。これからは全て自己責任だ。高校のOB会の知らせが届いた。同学年会の通知だが、欠席と書いて出した。クラス担任だったH先生の来年の米寿祝いを企画中らしいが、それには出席したい。お世話役のクラスメイトには、この度熟年離婚したことを知らせた。 眼科へ歩いて行った。何だかとても遠く感じた。この日は視野検査の予約日。ここ1か月ほど前から目やにが出て、視力が落ちた観があった。ドクターの診断では特に視力の低下はなく、眼圧と視野の狭まりもない由。目やにはアレルギー性結膜炎が原因とのことで、緑内障とは別に目薬を処方された。薬局に寄って2種の目薬を受け取る。帰宅後早速点眼したが、見え方は好転したみたい。1日4回の点眼。 牛乳の販売促進の人が来た。ありがたく「見本」だけいただく。電力会社の検針員が来た。いつもの小母ちゃんから若い人に変わっていた。日照不足の影響で、今月もソーラーの売電額が少ない。自然現象なのでどうしようもないが、稲の実りが心配だ。資源ゴミのまとめと断捨離をボツボツ行う。夜、頭痛と脈の乱れあり。風呂に入って早めに就寝。この日もわが東北楽天は敗れた。 土曜日は朝からの好天。早速布団を干す。夏日に近い気温の蒸し暑い一日。冷蔵庫の中身を確かめながら料理に打ち込む。キャベツ、キュウリの浅漬け。キュウリのQちゃん漬け。鮭の焼き魚。カボチャの煮物。ゴーヤチャンプルー。サンマの佃煮を手順を考えながら作る。料理の「残り汁」も上手に使えた。頭痛と微細な脈の乱れが治まった。疲れが取れて来たようだ。健康に感謝だ。
2017.09.10
コメント(8)

<7 戦い済んで> 実行委員会から交通費を受け取る。封筒には金千円也と委員長からの丁寧な感謝のメッセージが入っていた。車を提供した人は3千円。ボランティアなので何も受け取る理由はないのだが、「気持ち」を有難くいただいた。A沼さんとレンタカーのバンをホテルまで返しに行き、フロントにキーを預けた。ここからはM仙人の車で作並温泉に戻る。A沼さんの車はスタート地点に置いたままなのだ。 大変お世話になったM仙人からは、往復の車中で色んなお話を聞いた。喜寿ランナーで今も100kmを完走出来る実力者。9月も4つのレースに出場予定とのこと。家庭の話、走友会の話も伺った。名前だけの会員でほとんど行事に参加してない私には、貴重な情報だった。相棒のA沼さんも素晴らしかった。2人1組で良いサポートが出来たと思う。私はウルトラ初心者の彼に、色んな経験を話した。 帰路ゴール地点を通ったが、灯りはすっかり消えて誰もいなかった。第1回の今大会、参加した選手たちはどんな感想を持ったのだろう。宮城県で初めて開催された100kmレース。主催者の深い想いが、レース運営に反映されていたと思う。変化に富んだコース。温泉に入れると言う意外性。エイドの美味しい食べ物。そして県の内外から集まったサポーターが、選手たちの力走を支えたと信じたい。 中にはコースミスをした選手もいた由。詳細なコース図は受付時に手渡され、それで初めてコースを知った選手も多かったと思う。暗く細い道では、矢印も見え難かったかも知れない。そんな体験も、来年への反省点になれば良い。何せコースの壮大さは国内でも屈指のはず。第1回にしてこれだけの充実ぶりは、運営に携わった者がウルトラマラソンの経験者揃いだったことが大きい。 若手スタッフの実力が素晴らしかった。彼らは豊富な知識と最新の技術を駆使して、企画力を発揮した。だが、実務においてはベテランのスタッフがカバーした部分も大きかった。全体の指揮を執る者からトイレ掃除に当たった者まで、様々な形でレースを支え、全国から集まった選手たちを宮城の風土とフードが歓迎した。それにしても台風が直撃しなくて良かった。まさに奇跡だったと思う。 車中から見えた走友たちには、正直言って衰えを感じた。それぞれ歳を取り、かつての勢いは影を潜めていた。私は既にランニングを止め、生命の限界すら感じることもある。走友たちもいずれ走れなくなる時が来るだろう。その時どんな気持ちで立ち向かうのか。何人かの選手に名前を呼ばれた。私がマックス爺であることを知っていたのだ。次回もサポートを依頼されたが、果たして体が着いて行けるかどうか。 帰宅後、疲労困憊のため何も片づけず、リンゴとオレンジを食べて寝た。前夜眠ったのはわずか30分程度。そして極度の緊張のせいか、レース当日は血圧降下剤など4種類の薬を飲むことも忘れていた。疲労は暫く取れず、サポートの過酷さを身に沁みて味わった。良くあんな体調で倒れなかったものだ。運営に支障を来すので、絶対倒れないと言う気合いで臨んでいた私だったが。 翌日、参加賞としてもらったTシャツを着て買い物に行った。1人の女性ランナーが私のシャツに気づいて手を上げた。なんと彼女も昨日サポートした仲間だったそうだ。今日は18km走ると言う。サポーターからランナーへと変身した彼女。私は普通の爺さんに戻った。愉快なりランニング。素晴らしきかなウルトラマラソン。走れなくなった私だが、心だけはまだランナーのままだ。<完>
2017.09.09
コメント(10)

<6 リタイヤランナーの収拾とゴール> 神の湯 遠刈田温泉の神の湯。ここは蔵王町が経営する公共の湯で、確か料金は300円だったはず。今回参加したランナー達は無料で入れる。私達は関門ギリギリで到着したが、入浴したランナーは多かったはず。それにここで力尽き、リタイヤしたランナーはなおさらだ。予めここまで自分の荷物を送れていたので、着替えも出来るだろう。至れり尽くせりの関門とASだ。 すずらん峠 さて、私達の使命はここで変わる。リタイヤしたランナーを順次ゴールまで送るのだ。レースのコースとは直ぐに別れて、すずらん峠を通る。蔵王町から川崎町に抜ける峠道は、高低差300mはあろうか。私も自宅から山形の蔵王温泉まで走った時に通ったことがある。距離は77kmだった。車中は賑やかだ。「今日のコースはクレージーね」と関東のランナー達。「奥武蔵の方が楽」とも。 釜房湖 朝の事故現場に出る。どうやら酒酔い運転での自滅らしい。ランナーが無事で良かった。釜房ダム湖横の道路に出る。ここも私は初めて通った。湖畔公園入口を過ぎて県道160号線に入る。分岐点に誘導係がいないことが気になった。暫く行くと最後の登り坂を何人かのランナーが走っていた。女子のトップもいた。白髪のお婆さんの足は軽く、リズムが全く乱れていない。 みちのく杜の湖畔公園 ゴールの「秋保ワイナリー」にリタイヤした選手を送る。ここにはゴール用の荷物が届いている。トイレを済ませ、次の指令を待った。指令は90.3km地点の最終(第3)関門、みちのく杜の公園入口でリタイヤ選手を拾うこと。ランナーは遠刈田温泉から大回りに迂回し、村田町を経由し川崎町支倉の山中を通ってここに至る。関門は17時ジャスト。もし通過出来ればゴールまで残り10km。2時間はある。 湖畔公園風景 関門に着いた。何やら論議してる様子。制限時間と同時にASを畳むとのこと。私は担当ではないが意見を言った。ランナーはここまで必死に走って来る。それが関門に引っかかるだけでなく、食べ物や飲み物が一切無かったら困るだろう。それで皆は黙った。ゴミなど不要なものを車に積み、公園から借用したデスクや椅子などを返却。その間も何人かが関門を通過して行った。ギリギリのランナーを声を嗄らして応援。 関門閉鎖後30分だけ待って、再び車でゴールへと向かう。リタイヤランナーは3名とスタッフ3名だ。途中にランナーの姿はなく、見えたのは県道160号線に入ってから。残り5km足らず。登りではすべてのランナーが歩いていた。時間はまだある。余力を残しているのだ。黙々と歩くランナーも、下り坂に入ると再び走り出す。最後の最後まで坂に苦しめられる難コース。多分完走率は50%程度ではないか。 ゴール<秋保ワイナリー> ゴール手前も最後の坂道。時刻は18時を回り、闇が迫っている。選手を下ろし、私達は積んでいた荷物を運んだ。膨大な備品類とゴミ。そして余った大量の飲み物など。草臥れ果て喉を嗄らして声も出ない。それでも黙々と働く。 選手たちが帰って来る。最後の力走だ。拍手、拍手、また拍手。正確には100.5kmの難コース。そして累積の高低差は1500mは楽に超えたはず。名誉ある第1回の完走者。記念撮影を済ませ、仲間と握手やハグする姿がそちこちで観られた。 夕闇が迫っている。朝の4時にスタートして、既に14時間近くは走った。あの連続する激坂をよくも最後まで走り抜いたものだ。苦しみは走ったランナーにしか分からない。そして喜びもまた然りだ。共に苦しんだ仲間だからこそ、今手を取り合ってこの地にある。ウルトラマラソン万歳だ。<続く>
2017.09.08
コメント(12)

<5山道~温泉~山道> ASにて 国道286号線に出る。ここは通称笹谷街道。江戸時代は山形から伊達領を経て福島に抜ける街道。県境の峠には六地蔵が立っている。川崎にはかつて伊達の一族が住まい、今も見事な松並木が見られる。私も一度峠を越えて山形市まで走ったことがあった。ランナーが見えて来る。速いランナー達が集団で走っている。彼らは楽に完走出来るペースだ。 走友T氏 国道を左折し、青根温泉への山道に入る。私は初めて通る道。O川さんが道端で立っていた。距離520kmの「川の道」を2度完走し、1520kmの「本州縦断フットレース」を完走した勇者が、きっと走友の応援のために待っていたのだろう。坂道が次第にきつくなり、ランナーの姿が疎らになる。小雨が降って来た。これは台風の余波か。 44.8km地点青根温泉「じゃっぽの湯」。ここが第1関門でスタート後7時間が制限時間。標高は500mほどもあろうか。温泉までの坂は急傾斜で、よほど力のあるランナーじゃないと走って登れないだろう。私達が着いた時はまだ数名のランナーしか通過してなかった。車で追い抜いたランナーもトップグループだったのだろう。ここにASがあり、チェックの装置がある。 じゃっぽの湯 青根温泉はあの古賀政男が戦後籠って作曲を手掛けた地。「じゃっぽの湯」は公共の温泉で、ランナーも入れるようタオルを用意してある。女子のトップは入らずに行った。遊び心のあるランナーが温泉へ行った。よほどの余裕がある人だ。道路でM仙人がチェックポイントへの立ち寄りを誘導し、K宝さん達がASを担当していた。彼は日本人初のトランスアメリカフットレース完走者だ。 <コース図 スタートもゴールも温泉。レースの途中でも2か所の温泉に入れる> これまで国内で幾つものウルトラレースを主催されて来た第一人者。その彼が自分の車で移動し、ASで黙々と選手のお世話をしている。本当に偉い人とはこう言うもの。頭が下がる行為だ。いつの間にかM仙人は姿を消した。これでは選手たちがチェックポイント(CP)を探せない。急遽雨の中ビニール合羽を着て誘導。1時間以上声を嗄らして選手たちにCPを教え、関門に間に合うよう励ます。 コース高低図 11時の制限時間のチェックを見届けて、第2関門の遠刈田温泉に向かう。ここで弁当を受け取り、近道を通って青根温泉に戻り昼食。制限に間に合わなかった選手が「じゃっぽの湯」に入る。それもまた楽しみのうち。結局ここのトイレは町の施設で、委託された方がトイレットペーパーを補充していた。ここで待機せよとの使命を無視し、A沼さんと本来のコースに向かう。 <青根温泉から峩々温泉へ向かう山道> 青根温泉から峩々温泉へと向かう山道は表現出来ないほどの急坂。トップランナーは走れるだろうが、普通の人間は歩くのがやっと。一旦登って今度は急な下り。渓谷沿いに峩々温泉はあった。昔は秘湯だが、今は高級温泉なのだとか。ランナーは疎ら。最終ランナーの後に、スイーパーが張り付く。最高地点通過。標高は904m。第10ASで最終ランナーを確認し、蔵王エコーラインをゆっくり下る。 第2関門にて 車中から「いつでも乗って良いよ」と選手たちに声掛け。だが誰1人乗ろうと言うランナーはいない。ギリギリの時間しか残っていないが、必死で遠刈田温泉を目指す。途中でコースを間違ったグループもあった。61.4km地点第2関門の遠刈田温泉神の湯。ここでレースを諦める人。さらに次の第3関門を目指す人。ここは自らの実力と疲労度と相談しての決断だ。13時30分関門を閉じる。<続く>
2017.09.07
コメント(12)

<4スタート > 2時20分。前日の受付会場へ行くと、AS行きの物品はすべて空になっていた。各担当者の車に積み込まれたようだ。相棒のA沼氏と遭遇。彼は当日参加組。8月6日の最初の会合でお会いしたランナーで、私より5歳ほど若い。ゴール地点行きの荷物はM仙人の車に載せてもらい、レース中移動しながら使う荷物はA沼さんの車に積んだ。朝食のお握り弁当はいずれ車中でゆっくりと食べる予定。 3時半には選手たちがスタート地点に集まって来る。頭にはヘッドライト。背中やシューズには反射材が光る。どれも緊張した面持ちだが、中には仮装ランナーも数人混じっていた。「バドワイザー娘」、「サメ男」、「一反木綿男」などだ。皆完走の自信があるランナーなのだろう。県内の走友、他県の走友に声を掛ける。記念撮影に続いてレースの注意、来賓の挨拶があり、いよいよカウントダウンが始まる。 チェック装置の関係で、10人くらいずつのウエーブスタートとなった。走力のあるランナーは前に集まっている。装置に腕のベルトをかざし、勢いよく飛び出して行った。中には一番後からゆっくりスタートするランナーも。制限の15時間をどう使うかはランナーの判断。全部で141名の選手がいた。欠場者が少しいたようだ。台風15号の接近中だもの。無理もない。 中には速いランナーがいると聞いた。100kmを7時間台で走ると言う。そしてコースの研究もしていたと聞く。全てのランナーが走り出した後、A沼さんのバンで追いかける。暗い夜道を前進するランナーの群れ。4.6km地点ニッカウィスキー工場入口への分岐点にM仙人が立っていた。そこからランナー達は山道に入るのだが、私達はそこからさらに直進。細い山道はランナー専用なのだ。 <マッサンとエリー 実物> 車中でむせながら早めの朝食を摂った。時々お茶を飲んで喉の奥に流す。興奮していたのか、毎朝服用している4種類の薬を飲むのを忘れてしまった。私達が最初に向かうのは13.1km地点にある秋保神社。ここのトイレをお借りしており、使用後に掃除をするのが第一の仕事。5時過ぎ、空が白んで来た。トップランナーがようやく見え出した。予想と異なり中年のランナー。それも必死の形相で走り抜けて行った。 遠くから次々にランナーが見えて来る。女性のトップは白髪の方だった。ひょっとして70代だろうか。練習十分で鍛えられた筋肉。表情にも余裕があった。結局彼女はそのまま女子の1位でゴールした。仮装ランナーも来た。走友も走り抜けた。その1人1人に声援。トイレの在処を叫ぶ。次のトイレまで4km以上あるからだ。全てのランナーが走り過ぎたのは1時間以上も経ってから。トップとはかなりの差だった。 便器の汚れはさほどでもないが、床がドロドロ状態。あの狭くて厳しい山道で、シューズが汚れたのだろう。掃除道具で便器の汚れを取り、雑巾で床の汚れを拭いた。女子便所に残された未使用の生理用品でも汚れを拭いた。手袋はあったがそのままバケツで雑巾を濯ぐ。定年後私はビル管理会社で清掃員や警備員をしたことがある。こんなものなど汚れの中に入らない。それにこれは私に与えられた任務なのだ。 17.4km地点ゆめの森カフェASは仮設トイレを借用したもの。男女兼用のトイレは、ここも泥だらけになっていた。例の方式で汚れを落とす。ここも雑巾は素手で濯いだ。ここで急遽連絡が入った。第1関門青根温泉じゃっぽの湯のトイレに、ペーパー補充の要請だ。最終に近いランナー達を激励しながら、コースを進む。途中20.1km地点の本砂金小学校のトイレを確認。管理人さんにお礼を言って立ち去る。 新潟のTさんやFさんが苦しんでいた。かつて一緒に走った「佐渡島一周」(206km)の仲間たちだ。太めの若い女性も頑張っている。後で知ったのだが、彼女は古川のT田さんたちの知り合いのようだ。今では一歩も走れなくなった私だが、頑張るランナーの姿はとても刺激になる。川崎町国道286号線手前で、車の事故発生。どうやらランナーに見とれて脱輪した模様。危ない、危ない。<続く>
2017.09.06
コメント(10)

<3 懇親会の夜> 懇親会が始まった。先ずは若い実行委員会委員長の挨拶。会場の旅館の役員の挨拶、県会議員の挨拶もあった。地方公共団体主催のレースだと議員の挨拶が延々と続くのだが、ここは格式張らない上に短めで良かった。乾杯の音頭に続いてさっそく懇親会へと移った。 料理の内容は悪くない。悪くないどころか、100kmマラソン懇親会の料理としては、最高級だろう。会場が老舗旅館であることも含め、この大会を2年前から企画準備して来た実行委員会の首脳陣が、それだけ頑張った証とも言えよう。全国各地から集まったランナー達は機嫌よく酔い、翌日のレース完走に向けて、密かに闘志を燃やしていたに違いない。 余興の部ではランナーによる三線(さんしん)やハーモニカの演奏もあった。また地元ウイスキー工場の肝いりで、クイズが出され豪華景品が多数の参加者に提供された。例の「マッサンとエリー」が関係したウイスキー会社が、スタート地点の直ぐ傍にあるのだ。和やかで良い内容の懇親会だったと思う。 久しぶりに会った走友たち。久しぶりのレース前夜。きっとそんなことが私を酔わせたのだと思う。普段は滅多に口にしない「仙台牛タン」にも舌鼓を打った。私にとっては、年に1度の豪華メニューになった。名残惜しいけど懇親会は8時まで。レースは4時スタートで、深夜1時半から朝食のお握り弁当が配られる。早く寝ないとレースに差し支えることになる。それにしても台風15号の行方が気になる。 懇親会会場 私は9時過ぎから再び川沿いにある岩風呂へ入りに行った。もうここへは何度も来れないだろうと思ったのだ。部屋に戻って眠ろうとすると、もう大きないびきが聞こえていた。これはやられた。先制攻撃だ。結局その轟音が気になって眠れたのはわずか30分程度。まんじりともしないまま、2時過ぎには起床した。雨の音はしない。台風は逸れたのだろうか。<続く>
2017.09.05
コメント(12)

<あるレースを支えて2> M仙人と待ち合わせの場所に急ぐ途中、民生委員の家の前を通った。目下独り暮らしの私だが、子供が家に帰って来る予定もないため、いずれは家を処分して施設に入ることになるだろう。その「将来計画」を相談をしたいと考え、自宅の場所を聞いていた。ただ、直接伺うことがルール違反になりかねないので、確かめたいと思う。 参加賞Tシャツ スーパーの前でM仙人は待っていてくれた。早速彼の車でスタート地点の作並温泉に向かう。仙台郊外秋保温泉の先から山道に入る。ここは明日の100kmのコースらしい。道の細さに驚く。すれ違いが出来にくい山道。所々舗装がなく、長い雨で道路には小さな流れや水溜りが出来ていた。そして何の目印もない曲がり角の連続。誘導の人がいなければ間違いそうな箇所が幾つかあった。 スタッフ着用(表) スタート地点は作並温泉で、選手やスタッフが泊まるのはI松旅館。室町時代からの古湯がある老舗だ。受付を済ませて、参加賞と上着を受け取る。これで心は「第1回みやぎ湯めぐりウルトラ遠足」のスタッフだ。 各担当ごとに打ち合わせが始まる。8月のミーティングで仕事の内容は聞いていたが、その他にもレース前日としての仕事があった。地元のスタッフは限られているので、重要な準備要員なのだ。 早速15か所ほどのエイドステーション(AS)に配置する食料品、飲み物、必要備品などの仕分けを開始。150名の参加者数に比べて量が多いが、少ないよりは良いと考えた由。これが仕訳けられた物品。中には早めのASと遅めのAS2か所を担当するスタッフもいるので、大変な量になる。各AS毎に内容を点検して昼食。 スタッフ着用(裏) 午後になると県外から応援のスタッフが到着し始めた。2時過ぎからAS担当者の車に必要物品を積み込み開始。果物や生ものなどは別途当日の搬入。これがなかなかの重労働で、台車を何度も押しての往復。独り暮らしで草臥れた老人にとっては、正直言ってきつい仕事だ。 その間に三々五々集まって来た選手の受付が始まる。名前をチェックし、参加賞、大会要項などを手渡す。選手は鹿児島県から北海道まで150名余。そして台湾からも1名参加。第1回大会に惹かれたり、「みやぎ湯めぐり」のネーミングに惹かれたりと様々だろうが、この日初めてコースの詳細図を見たランナーがほとんどだったはず。宮城県内でもこんなコースを知ってる人はほとんどいないはず。 夕方の4時過ぎにようやく手が空いたため露天風呂へ。ここは広瀬川最上流部の渓谷沿いにある温泉で、本来は混浴の岩風呂として有名だったところ。だが今は男女を交代制で入浴時間を決めている。川岸へ下る階段がやけに長い。途中に休憩所や、女性専用の岩風呂もある。広瀬川は清冽で、大きなイワナが何匹も泳ぐ姿。コースの分岐点などに案内表示をしていた班が戻ったのは、5時過ぎだった。<続く>
2017.09.04
コメント(12)

<あるレースを支えて1> 鏡を見たら酷い顔だ。まるでしわくちゃのET。それもそのはず。レースの前夜は30分しか眠れなかった。日中の重労働に加えて夜はいびきの音に悩まされフラフラの状態で大会当日に臨んだ。自分が与えられた仕事をこなし、100kmの難コースに挑むランナーの声援に喉を嗄らし、早朝から夜中まで体力と精神力の限りを尽くした。 帰宅後は片づけ方もせず、久しぶりに風呂を沸かして体を洗った。ゴール地点で余った小さなパンを3個ほど食べたが、夕食を作る気が起きずリンゴとオレンジを食べて寝た。7時間ほど眠れたろうか。今日は町内会の草刈りの日だが、果たして参加出来る健康状態かどうか。班の回覧板を回し、郵便受けから新聞を取る。そう言えば昨日の新聞も読まないまま。 もちろん大会関係の写真も全く整理などしていないし、考えも纏まってはいない。それでもブロガーの本能として、何かを書こうとしている。留守中にいただいたコメントは拝見したが、返事は書けていない。そのうちゆっくり返事を書きたい気持ちはある。相応しい写真もない状態でこんな話を書くことが、果たしてどんな意味があるのか分からないが、これがきっと私の仕事なのだろうと思う。 一番心配だった台風15号の影響はさほどなかったと思うが、ランナー達にとっては厳しいコース設定だったのではないか。ランナーもレベルは様々だし、このレースにどんな気持ちで臨んだのか、様々だったと思う。記録を狙った人、完走を目指した人、物珍しさに惹かれた人、仲間に誘われて何となく参加した人。しかし、コースは予想外の厳しさでランナー達を待ち受けていた。 第1回大会だけに、色んな不手際もあったと思う。主催者の思惑がどこにあり、サポーターは何をどうすべきかはっきりと分からなかった面も多い。しかし150名ほどの参加者に対して、第1回の手作りのウルトラマラソンとしては、考えられる限りの対応は出来たのではないかと思う。それでも多くの不備があり、参加したランナーの不満もあっただろう。きっと鮮烈な記憶としてそれぞれの胸に刻まれるだろうと思う。 台風は去り、青空が戻り、1つのレースは終わった。私は草臥れた顔をしてまた通常の暮しに戻った。一日も早く体力を取り戻し、写真を整理し、私の見たものと感じたことを、この拙いブログに書くことが出来たら嬉しい。先ずは布団を干そう。そして朝食の準備をしよう。多くのランナー達よ、お疲れ様。企画した方々とスタッフの方々、お疲れ様。そして私自身も。<続く>
2017.09.03
コメント(14)

<夏の花をあなたに> 今日は9月2日土曜日。私は2日前の8月31日に、この日記を予約システムで書いています。仙台は薄曇りで、少しヒンヤリした風が吹いています。でも現実はどうなのでしょうね。気がかりなのが台風15号の影響。実は今日は早朝4時にスタートする100kmのお手伝いに行っています。前日から仙台市近郊の温泉に泊まり込み、各種の準備をしていたのです。 恐らくレースは開催されるでしょう。どれくらいの雨と風があるか全く不明ですが、選手もスタッフも苦しむことは必至。選手たちはコースが分からない上に、悪天候ですからねえ。スタッフも大雨の中でコースの矢印を設置する予定ですが、雨で消され、風で飛ばされてしまうのが心配です。何せアップダウンのある100kmは地獄でしょう。私は風速30mの暴風雨で66km走ったことがあります。(八丈島) 前置きが長くなりましたが、そんな訳で今日は不在で、夜遅く帰宅予定です。そのため前もってブログを更新しています。7月の末に花屋さんで撮らせていただいた夏の花を、楽しんでいただけたら幸いです。 紅花です 実はこれでまだ半分なんですよ。もちろん花屋さんの了解を得ての撮影でしたが、良く快く許可してくれたものと感謝しています。皆さまもどうぞ素敵な一日でありますように。ではでは~!!
2017.09.02
コメント(5)

<進路はどっちへ?> ミサイルが発射された場所は平壌国際空港の滑走路だった由。まさに異常としか言えない。北朝鮮の国民は飢えている。今年もトウモロコシが不作と聞く。そんな中で湯水のように大金を使って世界をけん制する若き指導者。9月9日には核実験強行との噂もある。戦争突入になれば大変な犠牲者と難民を生み、日本へも大きな影響を及ぼす。せめて「斬首計画」が遂行出来ないかと密かに願っているのだが。 折角3点を先取していたのに、いつの間にか逆転され4-8のビハインドになっていた。2位楽天と3位西武の差は0.5ゲーム。最近の成績は1勝12敗。一頃の勢いはなく、選手にも覇気が感じられない。時間は10時過ぎ。雨でゲームがストップしていたが、グラウンドに鳥の大群が押し寄せていたようだ。鳥ねえ。これも今の楽天を象徴する悪い予兆だろう。そんな風に思ってテレビとラジオのスイッチを切った。 睡眠薬を飲んで眠ろうとした。日中の畑仕事の疲れがありながら何故か眠れなかったのだ。これで何もかも忘れて眠れるはず。そう思って布団を被ったのだが、途端に大雨の音。これは大変。慌てて2階に上り、窓を閉める。雨はないだろうと、開けたままにしていたのだ。そのまま翌朝の7時半まで一度も起きず爆睡。いつもなら夜中にトイレに2,3度起きるのだが。多分9時間ほど眠ったはずだ。 明るいカーテンにビックリ。曇りでも雨でもない。急遽洗濯の準備をし、布団を2階に運ぶ。それから朝食の準備。前日植えた野菜の苗に、雨が降って良かった。そしてお天気の今日は洗濯と布団干しが出来て良かった。「ひょっこ」を観ながら、充実した朝食をいただく。肉、魚、カボチャや野菜の煮物、具だくさんの味噌汁、漬物、果物、全てが美味しい。 洗濯物を干し、ブロ友にコメントを書き、新聞もほぼ読み終えた。その後映画を観に行く積りでいたのだがM仙人に電話。翌朝は彼の車で郊外の温泉に向かう。その確認のためだ。「土曜日は大雨だね」と彼。長靴までは要らないだろうとも。大会が中止になることはないか意見を聞いてみたが、「関東などからわざわざ来るんだから、雨でもやるんじゃないの」と仙人。それで映画を観るのは止めた。 洗濯物を取り込み、布団を入れる。そして旅行バックなどを準備。40年近いランナー生活だったため、何を準備すべきかは分かっている。雨具、着替え、カメラ、筆記用具、洗面具等々。雨は強そうだ。風も出るかも知れない。そして気温が下がる。走っている選手はそれぞれの経験で行けるが、山の中でじっと選手を待っているスタッフは、きっと体が冷え切ってしまうだろう。 何気なく新聞を見ていて驚いた。昨夜の試合だが4対8で負けていた西武戦。それが8回裏に4点取って同点で終わっていた。雨によるゲーム中断と「鳥騒動」。試合再開後、良く気持ちを切らさず4点取ったものだ。大負けが引き分けとは出来過ぎ。これからもきっと苦戦の連続だろうが、何とか踏ん張って欲しいものだ。それにしてもこの先、一体何処へ向かうのだろう。俺も台風も、そして東北楽天も。 さて、これから仙台市郊外にある温泉地に向かいます。明日の100kmマラソンのスタッフとして準備するためです。台風15号の影響で猛烈な風雨が予想されますが、レースは行われると言う前提で行って来ます。帰宅は明日(9月2日)の深夜になり、明日のブログも予約していますのでお楽しみに。今日はブロ友さんの所へはお邪魔出来ませんが、どうぞよろしくお願いしますね~!!
2017.09.01
コメント(8)
全28件 (28件中 1-28件目)
1