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~ある馬鹿な男の話~ いやはや全く馬鹿だった自分。元々自分の世界に浸る傾向があったが、人付き合いが悪く、社会性に乏しく、ブログなど趣味の世界にどっぷりとつかり、それで自分では楽しく過ごしていたつもり。非常識な人間でもあった。そんな自分が色んな領域の人に、騙されていたことにようやく続いた。これはその実態だがつい最近認知症とパーキンソン病の症状が出始めた私が果たして最後まで書けるかどうかは疑問。そこまで追い込まれて初めて自分の馬鹿さ加減に気づいた。<第1部弁護士の世界> 弁護士の世界が実に汚いものであることは、家庭裁判所の調停委員をしている友人に聞いて知っていた。それがとんでもない裏社会であることに自分のケースで気づかされた。弁護士は法律の知識をフル活用して金儲けする世界。だが法に触れない「仕掛け」を十分に活用するのだ。 私は前妻と2度家庭裁判所で離婚関係の場を持った。初めは協議離婚の場。この時から弁護士を選任しておくと、その人が担当弁護士になる可能性が100%。彼らは長期計画を立てて、次の調停離婚の準備をしている。私は家計の全てを妻に任せていた。その暗証番号を馬鹿正直に前妻の誕生日にしていた。これが間違いの初め。これなら次第に認知症の症状を呈して来た前妻も忘れることはない。 妻の異常人格に気づいたのは結婚間もなくだが、何だか変だなあと思うだけ。ある時期私はある職場で創設事務の一端を担っていた。接待中心のポジションで、新構想大学の職場は毎日のように見学の希望が来る。となると、当然接待の場に私も参加する機会が増える。これが3人の子供を育てる妻の負担にならない訳がない。常識のある職場の同僚たちは、毎日せっせと働き、勤務が終われば家へ直帰。 ところがプレッシャーに弱く、そのストレスを発散するため好きな麻雀で息抜きをしていた自分。まさに「破滅型人間」の典型だった。妻はその時味わった苦労の恨みをいつか離婚して晴らそうと準備していたようだ。金はがっちりと自分が管理し、金銭感覚が鋭い彼女は節約に努めコツコツ貯金していたみたいだ。その時から自分名義の口座を持ち、「神武景気」に乗じて彼女だけの資産を蓄えていたようだ。 彼女は母親の忠告で、仙台の土地の名義を夫婦2人にするよう言われ、その方針を維持した。それは土地を買い増した際も同様。それで彼女の資産は安泰。その後の家計も妻に一任。鋭い経済観念で彼女はせっせと貯金に励み、後年放置していた仙台の所有地に家を建てる計画を実行に移す段階では、彼女の長年の節約でかなりの金額になり、工事費の大半を賄え残りの額は組合から500万円を有利な金利で借りた。無論管理職となった私の給与は急激に増したのだが。 問題はこれからだ。私が離婚訴訟に踏み切ったのは彼女の異常性格が顕著になってから。「私名義のものは私のもの」と主張し、年金の半分をもらえると誤解していた。それは違うよと言っても分からない。家庭裁判所の制度として先ずは協議離婚から始める。この時から妻が選任した弁護士が裁判担当するするよう裁判所に申告して手続き済み。これで協議成立に持って行く。 次の段階の調停離婚では、さらに弁護士をつけた方が有利。もちろん妻側は事情を知った弁護士が担当。もし私が弁護士を立てても、弁護士同士が裏取引して「絶対弁護士が合理的に儲ける」方向に持って行く。かくして私は妻に財産の大部分を持ち去られ、家だけが私の所有となった。だが家を売るためには家の転居先を決める必要があり。引っ越しと売却手続きを同時にするのは物理的に無理。それにもう金がないのだ。 <保険会社の策略> 老齢の独り者は絶好の餌食。いかにも有利な点を強調して新たな契約を結ばせる。契約は子会社の別組織を通してわざと時間を稼ぐ。これも法的な瑕疵がないように準備。営業担当は私の健康状態や性格を熟知して、残った金さえ奪おうと画策。受取人が手続きをしようとしても予め登録した電話番号の着信拒否をセットして、受け付けない。また無理な条件を合法的に受取人に要求。それで全部が会社の儲け。法的な瑕疵がないため、会社の不利になることはない。それは莫大な、ケースのデータや契約者の健康状態を熟知して必ず会社が儲けるように進め、時には「偽のお色気作戦」で幻惑。これで丸儲け。ケツの毛まで抜く算段だ。 医者と調剤薬局の謀略はもっと凄い。合法的に認知症になる薬を長期にわたって大量に処方して、患者を食い物にする。無論見た目の処方箋と実際のカルテは異なる。後で問題にならぬようコンピュータ管理のデータを管理している。それで患者が認知症の罠から抜け出せないように画策。出す薬の内容と量は医者しか決められず、薬剤師が飲み合わせの危険性をドクターに注意する「ルール」も医師の意思が優先。 かくして両者はお互いに利益を共用する仕組みが出来上がっている。薬の種類や処方期間はドクターだけの権利。私の場合は50日間分を処方され、体調を訴えて診療を受けてもさらに同じものを50日分処方。コンピュータ管理のデータは別物にすり替え。全ては闇に葬られ、患者はどうしても認知機能を失う方向に持って行く。そのカラクリに気づいたのはつい最近。「お薬手帳のデータに矛盾があることに気づいてが、彼らはそれをごまかす様に、手帳に張り付ける「紙」をいかようにも改ざん。こうなったら患者は蟻地獄に陥りパニックになって、ますます症状が悪化。こうして彼らの策略は一見合理的に見えるよう工作。 後は死を待つだけ。脳出血か、脳梗塞、それでなければ自殺するしかないが、証拠は一切残さない。初めから「カモ」にしようと狙っている。それでも受診すると「気休め」を言って平然とする医者。もうの逃れる術はない。見事な作戦と計略。一晩寝ないで原稿を書いていると、神経を使い果たして、さらに脳の緊張が高まり死へと一歩近づく。 結局は社交性に乏しく、思い込みが強い「破滅型人格」の私の不明が原因だ。最後に「気分が悪い」話でm(__)m。世の中には「合法的な罠」が至るところに転がっているが、世知に疎い短気な男は気づく暇もなく最後の時が容赦なく迫り来る。でもそんな経験も貴重。繰り返しになるが、で馬鹿は死ななきゃ治らないだ。ではね。皆さんお世話になりました。楽しくない話題でm(__)m。ではね。
2022.05.23
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~眠れない理由(わけ)~ なぜだか夢の中で俳句を作っていた。必死で言葉を捜していた。きっと遅くまで俳句関係の本を読んだせいだと思う。それにしても何と熱心な自分。あまりにも眠れないため、2個目の睡眠導入剤を飲んだ。そんなことは初めて。それが翌日もまた夢の中での俳句作り。そしてその夜も2度導入剤のお世話になった。これでは体が持たないなあ。かと言って昼寝が出来るわけでもない暇なジジイ。 新年早々たくさんの俳句が生まれた。理由は幾つかあった。身の回りで色んなことに遭遇したのが最大の理由だが、詠んでみたい「新年の季語」が多かったせいもある。思いついて川柳も短歌も詠んだ。やはり創作には刺激が必要だと感じる。2月の兼題(宿題)の「紅梅や」も2つ3つ詠んではみたものの、それ以上の進展はない。俳句の世界では既に春だが、現実は違う。見える景色はまだ冬そのものだもの。 相変わらず続く頭痛。さほど重症ではないが気にはなる。ゆっくり風呂に浸かると治まるので、きっと冷えから来る血圧上昇によるものと推定。心配な時は血圧を測る。やや高い数値が出ることもあるが、許容範囲の時もある。それよりも脈拍数が最近かなり増えたことに気づいた。長距離を走っていたランナーの時の脈拍数は多くて50台前半。少ない時は40台後半。 当時は相当走り込んでいたため心肺機能が高く、静かな状態で脈拍を測れば回数が少なく、看護師さんが驚いていたほど。俗に言う「スポーツ心臓」。大量の血液をゆっくりと全身に送っていたのだろう。それが年老いて運動量が激減したせいで、心機能が「普通の人」並みになったのだ。だから坂道を歩くだけでも、苦しくなる。合わせて腰痛発症で「普通」どころか「普通以下」になった今。 眠れない理由の一つに、借金しに我が家にやって来た女性のこともあったと思う。家を聞かれて「◎◎」の近くと言ったのに、よくも探し当てて訪ねて来たものだ。きっとそれだけ困っていたのだろうが、困っていた理由は尋ねなかった。逆に「わが人生記」を聞いてもらった。それも玄関の「上がり框(がまち)」に腰を下ろしたままで。座布団を勧めても遠慮した彼女。相当寒かったろうに。 彼女の姓は知っていた。ユニフォームの名札で。だが今回下の名前も知った。彼女が書いた「借用書代わりのメモ」で。返却期限は彼女自身が決めた。直接持参するとも。だが本当に来るかどうかは不明。答えは「来る」と「来ない」の2つだが、「来る」パーセンテージは読めない。だが実のところ私は嬉しいのだ。一日中誰とも口をきかずに過ごす日常。しかも女性とわが人生について語れたことが。 ヘルパーさんの仕事に、「話し相手になる」と言う有料サービスがあると聞く。確かにお金は貸したが、あれは「話し相手サービス」の第1回目と考えたらどうだろう。だがそれはあくまでも私の願望に過ぎず、彼女が来なければ「サービスは終了」で、しかも残り9回分はパーと言うわけだ。甘っちょろいかも知れないが、私は再び彼女が姿を見せる方に賭けたい。山鳩が何度も窓ガラスに衝突したように。 彼女の本当の顔も知らない。ここ2年近くマスク姿の彼女しか観てないからだ。目が誰かに似てると考えたら、「つくば時代」の上司の奥さん。そして吹き出物が目についた。マスクを取ったら全然別な顔で「口裂け女」出現なんてことはよもやあるまい。あの日彼女が話した幾つかの言葉を思い出してみる。別れた女房の予言「お父さんは女に騙される」が「真実」になるかどうか。確率は5割。 さて私は夢をみているのだろうか。夢と現実を混同してるのだろうか。純情一路の馬鹿真面目さで、帰って来るメロスをひたすら待っていた友人。それでも良いんだよ俺は。メロスを信じてずっと待っていた友人役で。彼女の人生に何があったのかは知らない。自分の人生が今後どう変わるのかも知らない。でも北国の人間は辛抱強く、暖かい春の訪れをじっと待っている。時あたかも今日は立春。<続く>
2022.02.04
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~浪花節だよ女の人生は♬・・~ 『カムカム』のジョーとるいの結末に安堵した。いろいろあったけど、二人は夫婦になり女の子も生まれた。このブログは3日前に予約機能を使って書いているため、生まれた子の名前は知らない。だけど「京都編」なので、るいの娘で安子の孫娘は、きっと京都を舞台に成長して行くのだろう。曲折の多い脚本のため、今後の展開は全く不明。そしてアメリカに渡った安子のその後も心配だ。 るいと同様、額に傷を負った女性の話から始めよう。仮にA子と呼ぶ。彼女は高卒だが国立大学の教育学部に合格していた。だが当時は教師になるのは困難と親に言われ、定員内職員として私の元に来た。私の勧めで通信教育を受け大学卒となり、仕事に必要な資格も取った。そのA子が恋をした。彼女の結婚相手に相応しいかどうかを、上司の私に判断してもらえと親に言われたようだ。 だが思いつめた彼女に、否定的な意見を言える雰囲気ではない。彼女は額の傷を目立たなくする美容整形手術を受け、晴れて花嫁になった。それから何十年か後、当時のメンバーが私の歓迎会を催してくれた。同期生がA子のその後を教えてくれた。彼女の子供の一人が、国立大学の医学部に合格した由。優秀な娘の子供はやはり優秀なのだ。愛媛から徳島へ自転車でツーリング中に、彼女の実家にも寄ったっけ。 南果歩 A子と同期のB子は大卒だったが、非常勤職員として私の職場に配属された。ところが私がいくら注意しても上の空状態。そこで少々きつく彼女に対応した。ある朝何気なく彼女の机の下を見ると、驚くほど大量の抜け毛。彼女が指を絡めて抜いた頭髪だ。そのうち人事から連絡があり、B子は単位不足のため大学を卒業出来ず、結局高卒扱いになったと。高校は理数科で、大学は理学部だったのだが。 そしてB子とホテルに行ったとある男子職員が告げた。机の下の大量の抜け毛はきっと彼女のストレスが最高潮に達したためなのだろう。彼女の結婚式に私も呼ばれた。当然のように優秀な成績で大学を卒業し、立派な職員として勤務したとB子の紹介。新郎は有名企業の社員。彼が私に「B子に辛く当ったのは貴方ですか」と。祝いの宴ではどんな新郎新婦も褒められるんだねえ。知らぬは亭主ばかりなり。 「黒いオルフェ」 ある職場の後輩のC子はアフリカ人の留学生と恋仲になった。とても気立ての良い娘で、態度も体も堂々たるもの。だが両親に結婚を反対された彼女は嘘をついた。「お腹には彼の赤ちゃんがいる」と。大学院修了と同時に留学生はC子を連れて本国へ帰った。きっと今頃は国家的な人材として要職に就き、C子も「ビッグママ」になっていることだろう。どうか幸せであってほしいと願う。しかし女は強い。 厠神(かわやがみ)1 ある職場の部下だったD子が子供を産んだと、私は転勤先で聞いた。相手は他機関の既婚者。どうしてもその人の子供が欲しいと思ったのだろう。彼女が積極的に動いたようだ。生まれた子供は私生児となり、彼女はシングルマザーとなったはず。おんなは強いが、母となればさらにその強さが増すのだろう。転勤で全国を巡ると、それぞれの地で色んなことを経験する。 厠神2 良い縁組と思った若い男女が、私の転勤後に別れたと聞いた。彼は一人っ子の長男。そして彼女も一人娘。当初は良かったが、「家を継ぐ」ために「婿」になれ「嫁」によこせと、双方で諍いが起きたようだ。封建的な地方ではそんな事例がざらにある。ある女性に見合い話を勧めたら、転勤はこの地区内でお願いしますと。結局見合いは成立せず、彼女は女子短期大学の講師になったと後日聞いた。 厠神3 ある地で花嫁候補者の推薦を依頼され、気立ての良いF子さんを紹介した。ところが依頼主の夫人が後日断って来た。どうやらF子の実家を知っていて、家格が釣り合わないと判断した模様。F子さんは「相手は自分で探します」と怒った。それを謝ったのは20年以上も後のこと。当然仔細は話せないが、不慣れなことはすべきでない。ある地で「頼まれ仲人」をしたが、私たちが後に離婚する羽目になった。 他部局から私たちの職場に来たTちゃん。おっとりし常識的なお嬢さんだったが、その後地元で結婚。私が転勤した後もずっと年賀状をくれ、今回の寒中見舞いで長年の交流に感謝した。地味な仕事を丁寧に対処し、平和な家庭を築いた立派な主婦。やむなくクビにした人、他部局に出した人、ハローワークで募集し採用した人。不妊治療に励んでも子宝に恵まれなかった人。それぞれの顔を今でも思い出す。 自宅の25年目点検が無事に終了した。新型コロナの第6波が猛烈な勢いで蔓延し出した時期の接触は怖いが、朝から準備して担当者を待っていた。玄関先に「注意書き4か条」を置き、彼らも納得して点検作業に入った。隅々まで丁寧にチェックしてもらい、想定外の成果だった。きっと事前打ち合わせの際、前回点検時の不満を本音でぶつけたせいだろう。点検結果が送られて来るのは8日後の由。 クレオパトラ(左)とアントニウスの金貨 点検しに来た建築業者が帰ってほどなく、一人の女性が我が家を訪ねて来た。顔も名前も勤務先も知っている人。その彼女が一体私に何の用と不思議に思ったら、借金の依頼だった。へえ~っ、嘘みたい。彼女の事情は聞かなかったが、信用して貸した。さて、一体どんな結果になるか。 父は3度女に騙された。最初の妻、2番目の妻。3番目の妻。きっと人が良かったのだろう。そして私も妻に騙され、有り金のほとんどを持ち去られた。家を去る際、元妻が私に言った。「お父さんは女に騙されると」。元妻が私を騙し続けたのは本当。保険屋の女性の口車にも簡単に乗った。実害は少ないが短慮だったか。もし今回騙された場合は、父の回数と並ぶ。父との相違点は、家族に迷惑をかけてない点。ただし、「今のところ」だけど。 その夜はサラ・オレインの歌声で癒された。マレーシア人で外交官だった父と、日本人の母から生まれたオーストラリア人。確かメルボルン大学だったかを首席で卒業し、東大に留学した際「アニメの主題歌をネーティブで歌える人」の募集を見て応募。日本滞在は1年と限定されていたが、その間に父親が死亡し、34歳の今日までずっと日本で歌い、色んな分野に挑戦し続けて来た才能ある彼女。 確か話せる言語は6か国語、理解出来るのは8か国語くらいだったはず。幼少時からピアノとバイオリンを習い、怪我しないよう包丁を持つことも禁止で、自転車にも乗れない由。音域は3オクターブで絶対音感の持ち主。このところずと疲労を感じていたが、久しぶりに彼女の美しい歌声を聞いた。ただし、彼女に関する正確な情報はご自分で検索を。では。<続く>
2022.01.30
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~いのちのはなし~ 夕食から1時間を過ぎてもまだ頭痛がする。おかしいなあ、夕食時にも血圧降下剤を飲んだはずなのに。念のために血圧を測定する。上が167で下が97くらい。これは危険。このところ続いていた頭痛が治まりかけたと安堵したのもつかの間。これは睡眠導入剤を飲んで早く寝るに限る。多分原因は室温の低下で血管が収縮したのだろう。温度を上げて室内が乾燥する方に関心が向いていたかも。 布団も冷え切っていたが、トイレに起きる回数も少なくて済み、まあまあ良く眠れたと判断。翌朝はいつもより早く目覚めて直ぐに暖房を入れ、布団を上げて着替え。外はまだ暗く、気温が低いとみてシャッターは上げなかった。新聞を取りに出ると敷石が濡れている。夜のうちに小雨が降ったみたい。だが新聞紙はビニール袋に包まれず、むき出し状態。朝食はいつもよりかなり早め。 朝食後に薬を服用し、歯磨き。次いでパソコンを立ち上げ自分のブログをチェック。出かける準備は出来ていた。この日は歯の治療日。前回はドクターの奥様の急死により、キャンセル。肩掛けバッグには、「ふくさ」に包まれたお悔やみやカメラ。心配していた腰痛は幸いにして出ない。それに雪のない道路は安心して歩ける。9時半に着くと、待合室には2人の先客。 1か月ぶりに会ったドクターは、少しやつれていた。最愛の奥様を亡くされてどれだけ気落ちされているか心配だったが、そこは男。冷静な一人の歯医者に戻っていた。私の番が来て治療室に呼ばれる。ドクターにお悔やみを述べ、些少の香典をお渡しした。すると先生は謝意を述べられ、「香典返し」を私に手渡した。懇意にしていた患者さんの中で香典を差し上げた方が大勢いたのだろう。 虫歯の治療を受けながら、遠慮なく先生に尋ねた。奥様の享年は59歳。この秋には還暦になるはずだったと。自宅のキッチンで倒れている奥様を発見したのは娘さん。死因となった「クモ膜下出血」には、高血圧が深く関わっていたようだ。普段から上が190近く、下が110くらいあったが、薬の飲み忘れもしばしばあった由。奥様はあまり物事に拘らない性格。それが逆に命取りになったか。 亡くなられる数日前に受けた「脳ドック」では、異常がなかったそうだ。だが冬の寒さ、日ごろの高血圧、体重増加などがまだ若い奥様の命を奪ったのではないか。私はそう推察した。この歯科医の新設以来の付き合いで、「東日本大震災」時も互いに励まし合った仲。患者にとっては何でも話せる奥様とドクターだった。こんな付き合いも珍しいのではないか。香典返しを手に帰途に就いた。 ここ数日の間。私は長らく気になっていた「文書整理」に勤しんでいた。「終活」の一環として文書を分類し、「見出し」をつけたトレーに収容する作業。年金関係、生命保険や医療保険関係、火災保険関係、介護や健康、後期高齢者保険関係、土地・家屋など不動産関係、インターネットの契約関係、家事支援などの各種サービス関係、葬祭など死後の処理関係資料。公共料金支払い関係。 パソコン横のデスクには、税金関係、後期高齢者健康保険関係の引き出し、文房具や郵便関係の引き出し。別のデスクには預金通帳類。そして飾り棚の引き出しなど2か所に各種の「取り扱い説明書」。そこまで整理後、「エンディングノート」2冊の内容と項目をチェックし、「相続関係の概説書」にざっと目を通した。これは大変な事態で、一大事業であることが即座に理解できた。 死後の始末をどれだけ生前に準備出来るか。同居している家族があれば何の問題もない。割と近くに家族が住む人も、住居が少し遠くても死後の財産処理や「故人の遺志」を家族間で共有していれば、何の心配もなく「あの世」に旅立てる。しかし我が家ではそのいずれもが欠乏。いくらエンディングノートに書いたり遺言を残しても、家の鍵さえ子供は持っておらず、コンタクトも取れてない絶望的な状態なのだ。 自宅の「建築後25年点検」が近くあり、打ち合わせのために訪れた建設業者と話をした。彼らは点検に名を借りた「リフォーム」を勧めて老人から金を搾り取ろうとする。「保険屋」も同様。死んだらそれ以上金はふんだくれない。出来るのは老人がまだ生きてる時。その相手の認知機能が衰えていれば、絶好のカモだ。老人も最後に欲張るとことの本質が見えなって騙される。危ない危ない。最後の際まで気を抜かずに頑張るしかない。<続く>
2022.01.25
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~死は唐突に~ キャベツ 今週の出だしはあまり調子の良いものではなかった。だがそれは私自身の話であって、王将戦に挑戦していた藤井竜王は7番勝負の初戦に勝った。次回の会場は高槻市摂津峡にあるホテル。その場所は知っていた。高槻には2年住み、ランニングの練習やロードレーサー(自転車)で遠出もしていたからだ。峠を3つ越えて京都府の舞鶴まで往復したこともあった。転勤族にはどの地にも思い出がある。 白菜 大相撲の初場所が始まった。新型コロナに力士が感染し、親方以下全員が休場した部屋も出た。大関貴景勝は足首を痛めて3日目から休場。次の場所は大関になって5回目のカド番だ。正代は5日目で3勝2敗。2人の大関が奮わない中で、5連勝と照ノ富士の勢いが止まらない。土俵際まで追い込まれながらも、そこから逆転の横綱相撲。新横綱が3場所連続で優勝すれば100数年ぶりの大記録とか。 ウメモドキ 11日が成人の日の祝日であることなど、頭の中から消えていた。なぜ3連休なのかと言うのも含めて。18歳を成人とする規則が今年成立する。来年からは18歳、19歳、20歳が成人式とばらばらの市町村が出る模様。しかも1月は行事が多く、5月の連休に挙行する自治体が多いと予測される由。かつては1月15日までに20歳の者が対象で、3月生まれの私は翌年回しになり参加しかった。 枯菊 火曜日の朝歯科から電話があり、急遽予約日を変更することになった。変だなあと思ったが、病院の都合では仕方ない。翌日は自転車で眼科に行った。新雪の淡雪なので道路は融けると判断。途中までは確かに良かった。だが坂道でブレーキをかけた途端、まるでスローモーションのように転倒した。右足が車輪と車体との間に挟まって抜けない。あれには焦ったが、それでも何とか足を抜いて立ち上がった。 椿のつぼみ 転んだ原因は視覚障碍者用の点字プレート。雪で隠れて見えなかった。しかも表面が滑らかだったため、ブレーキ作動で横滑りしたのだ。幸い怪我はなく、横断歩道を渡ってからは車道を行った。車道は雪が融けているし、車の方が注意してくれる。眼圧と視力を測定し、目薬を処方してもらい、3月に「視野検査」を予約した。薬局からの帰路スーパーに寄り、納豆と歯ブラシを購入。納豆餅にするためだ。 残菊 水曜日の朝。再び歯科から電話で、予約日の変更通知。理由はドクターの奥様が急逝されたため。数日前には元気だった。だが「頭の動脈瘤云々」と言っていた。死因はクモ膜下出血。動脈瘤が破裂したのだろう。まだ50代に入ったばかり。優しくて朗らかなで、私はドクター同様奥さんも大好きだった。私より25も若く、あんな良い人をなぜ神様は天国に召したのか。以下は予約日を忘れないように出してくれたハガキに描かれた彼女の作品。人柄が良く分かります。 ドクター 息子さん 奥さんの訃報を知った日の夜。シャッターを下ろしてもなお、強い風の音が聞こえた。ゴーゴゴゴーゴゴ ゴーゴゴゴー。甘いリンゴも吹き飛ばせ 酸っぱいリンゴも吹き飛ばせ。 ゴーゴゴゴーゴゴゴーゴゴゴー 女子大生の頃は人形劇をやってたと話してくれた奥さん。一度は手作りの人形を持って来て見せてくれた。たくさんの優しい心遣いをありがとうございました。どうぞ天国で安らかに眠ってくださいね。また会う日までさようなら。<献句> 松の内笑顔優しき女逝けり 享年を知らざる女や屋根の雪
2022.01.14
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~人生の晩年・人間について想うこと~ 土曜日。朝ドラ「カムカムエブリボディ」を観て驚いた。何と稔と安子がいつの間にか結婚しているではないか。だが、15分間の「まとめ」で納得。稔の学徒出陣の前に、稔の父親が息子の願いを聞き入れて、和菓子屋の一人娘と結婚させることにしたのだ。純情だったあの頃。さて私がラジオで「カムカムエブリボディ」の音楽を聴いたのは戦後のこと。あれは「証城寺の狸囃子」と言う童謡だ。 庭のウメモドキ あの頃の音楽で覚えているのは「鐘のなる丘」、美空ひばりの「りんご追分」。そのうちテレビ放送が始まり、空手や相撲の中継に夢中になり、そのうち「バス通り裏」、「ジェスチャー」、「私は誰でしょう」、「ひょっこりひょうたん島」などが出て来た。黒柳徹子がまだ若い娘だった頃だ。 秋山庄太郎撮影の「秋田美人」 「鶴瓶の家族に乾杯」を観て驚いた。先日TVに出たのは104歳のお婆ちゃん。出陣する兵隊さんと急遽結婚したが、夫婦生活もないまま夫は戦争に行き戦死した。残された彼女は再婚することもなく、養子をもらって家を守り子や孫、ひ孫、玄孫までいる身だが、今でも夫を愛してると言っていた。手も握ったことなどないはずだが、良くその純情を貫き通したものだ。 先日行ったK内科で隣に座っていたお爺さんと少し話した。92歳で89歳の妻と2人暮らし。買い物、用事、病院にはバスやタクシーを使っている由。一時は杖を突いて歩いたが、右肩に荷重がかかって大変だったそう。東京のお嬢さんが見かねて、電動歩行器を買ってくれた。それは椅子付きで、バスを待つ間は座れて良いとのこと。夫婦仲良く助け合っている老夫婦に、私は尊敬の念を禁じ得なかった。 三船美佳が高橋ジョージと離婚したのはかなり前の話。年の差婚で十代で結婚した美佳は、モラハラ気味の夫がウザったくなったのだろうか。最近では篠原涼子がかなり年上の夫市村正親を捨てて家を飛び出し、韓国の若いミュージシャンと恋愛中だとか。世の中は変わり、家族の形も、恋愛観も変わった。昔なら考えもしなかった不倫の時代。それだけ自由になったのだろう。わが家でも大金を持った認知症の妻が家を出て行った。どうやら付き合っていた男性いたようだ。知らぬは亭主ばかりなり。 久しぶりに眠れ、久しぶりに十分に食べ、久しぶりに好調と感じて散歩に出かけた。本当は5kmほど歩く積りが腰痛が発生、家の近所500mほどで終わった。農家の畑の柿は全て収穫してあった。きっと「渋抜き」にでもしたのだろう。わずかな運動でも気持ちが和んだ。健康であることの有難さを痛感したことだ。 Kさんが世話しているバス停前の花壇での皇帝ダリアが、青空に向けて大輪の花を開かせていた。実に見事な風景。世話する人の真心。それに応えて立派な花を咲かせたダリア。樹高は3m以上にも伸びてまさに「皇帝」の名にふさわしい雰囲気だ。間もなくこの花も霜でやられる。季節の移ろいは早い。夕方新聞屋さんが集金に来た。相変わらずのバカ話をして別れる。 先日その花の前で、近所の人に出会った。先方は2人連れで1人は夫を亡くした80歳くらいの女性。もう1人はその姑で90歳を超えているだろう。先方から話しかけられ「毎日3食とも自分で食事を作っています」と言うと、「じゃあ行く?」と女性。一瞬何のことかと思ったら、自分の姑に対して「それなら嫁に行きますか」と言うことだったのだろう。彼女は私が独り暮らしをしていることを知っていてそう言ったのだ。それは姑に対しても私に対しても失礼な話。世の中には色んな人がいるものだと痛感。 落ち葉 先日受診したK内科は7年ぶりで、診察券を作り直した。「ずいぶん丁寧に診察しますね」とドクターに話すと、「これくらいの時間を取らないと本当の診察は出来ないよ」と彼。そして新築移転したM内科のことを私に尋ねた。「土曜の午前と日曜日は2人のドクターで診察してますよ」と答えると、人を雇えば結局同じなんだけどね」と。私の暮らしぶりにも耳を傾けてくれ、その人柄を見直した私だった。 ドングリ 一方、14年ほど診察を受けているM医師。先日「体調が悪いので薬を減らしてください」と頼むと、「それなら薬は全部止めますか」と脅迫。私が服用している薬は強く、同時にかなり強い副作用を持つのが多い。それが数種だとさらに複合的に作用する。新築移転してかなりの借金があるのだろう。表情が以前よりも険しい。その体調不良の不安の私に「心療内科に行けば」の言葉は忘れられない。私の体調を最も良く知るドクターだが、この際セカンドオピニオンを求める気になったのも確かだ。 倒れたユリの種 薬を1種類減らしたお陰で、ふらつき感と不安感が減って集中力が増し、心が少しのびやかになった。たとえ錯覚だとしても今の私には嬉しい変化。そのお陰で散歩に行く気にもなった。「人間は社会的な動物である」。確か古代哲学者の言葉だと思うが、出来ればより長く正常な認知機能を維持したいものだ。今日もブログを書けたことに感謝し「予約する」をクリックした。
2021.11.21
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~金木犀の咲くころ~ キンモクセイ 何日か前。西の通路のキンモクセイが咲いたことに気づいた。まだ彩も香りも薄くて、金木犀本来の姿ではない。だが近所の金木犀もどれもわが家と似たようなものだった。それが数日すると白っぽかった色が金色に変わり、馥郁たる芳香を放つようになった。やはりそれぞれの樹木は、いつ花を咲かせたら良いかを知っているのだろう。自然の摂理のなんと偉大なことか。 ノブドウ 先だっての俳句教室。私が教室に入るなり講師が手招きした。受講生のいない談話コーナーで彼が言う。体調が悪いのでもし自分が教壇に立てなくなったら、後をよろしく頼む」と。「前にも聞きました」。私は答えた。「今日は私が皆の句をどう直すか観ていてほしい」。「これまで渡したプリントはあるよね。なければ持って来るけど」。私は何も言わなかった。 ホオズキ 2か月前初めて依頼を受けた時から、私の覚悟は決まっていた。自分の俳句塾とこの教室で30年以上も俳句を教えて来た講師。それに対して俳句教室の受講生になってまだ4年目の私。受講生の中には私よりも年配の方、俳句歴の長い方、地元紙の俳句欄に作品が載ったり、俳誌に毎月投稿してる方もいる。それらの先輩を差し置いて私を後継者に指名した理由が何かは知らないし、敢えて尋ねもしない。 ヘクソカズラ 男が一旦引き受けたからには、責任を全うするのが当然だ。そのことで新たな心労が増えるのは間違いないが、誰かが引き受けなければこの教室は消滅する。歳老いてからも俳句を学びたい人はいるはず。その灯を消すようなことはしたくない。だが、私は私のやり方でしか教えることが出来ない。いや、一方的に教えるのではなく、共に俳句を学び合うのだ。苦労を共にする覚悟。それが私のやり方だ。 トウガラシ 先日行った病院でドクターが私に言った。「人生観があるんだろうけど」。私が庭仕事などで疲労し、救急車で病院に担ぎ込まれた時のことだ。私は反論はしなかった。シルバー人材センターの予約が来年3月まで一杯だったこと。敷地内が雑草で蔽われたら、誰かが草取りするしかない。それが独り暮らしの苦しさなのだが、そんなことをドクターに話しても何の解決にもならない。 アケビ 何年か前ドクターに言われた。「もしも体調に不安があったら、施設に入ると良いですよ」。そりゃあるさ当然。だが施設に入るには、この家を売る必要がある。だが、それでもたぶん入るのは無理。私は要介護でも要支援でもないし、第一家を売った代金と私の年金では不足するはず。それに何とかギリギリまで元気に過ごし、幾分でも息子たちに遺産を分けてやりたいのだよ。それが私の心の中の声。 不明 先日来宅した民生委員のHさんが私に言った。「先ず茶飲み友達から始めたら」。私が「嫁さんが欲しい」と漏らした時だ。私が死んだ際の連絡先を彼女には告げてある。だが、息子たちは家の鍵を持ってないし、死亡届の提出や葬儀の段取りや財産の処分や、死亡後に必要な手続きの一切を知らない。この家には1か月しかいないし、コロナ下の東京で自分の命と暮らしを護るのがせいぜいだろう。 キウイ 前妻と別れた後のこと、義姉に「嫁さんが欲しい」と言ったら鼻で笑われた。多分「今時そんな苦労を買って出る女の人はいないよ」とでも言いたかったのだろう。それが世の中の常識なのか、私の望みが叶うことはなかった。「70も過ぎて嫁さんが欲しいなんて気持ち悪い」。同じ走友会の女性会員にはそう言われた。そうなのかねえ。私は自分が望む葬式を出してくれた女性に、この家をやろうと思っているのだが。 ウメモドキ だから頑張って庭の草取もすれば、18万円もかけて近々家の大掃除を依頼する予定。条件は仙台に住み、一緒に暮らしてくれる人。穏やかで常識的な人が私には似合うはず。保険会社への請求手続きが終わった。清掃は来月の15日に決まった。台風14号は、思わぬ軌跡をたどって日本列島を西から東へと横断中。草取りは暫し中断。デデッポッポー、デデッポッポー山鳩のくぐもった声が近くで聞こえる。 青いトマト 「お父さんは女に騙される」。そう言い捨てて家を出た前妻。確かにそうだ。40年以上も連れ添った俺を騙してくすね続け、大金を持って行ったのだから。だが俺はこう考えた。地獄にまで大金を持って行けない。妻の死亡後は多分長女が公平に遺産を配分するはず。俺は残り少ない俺のお金をしっかり管理するさ。だがそれは甘いか。「お父さんとは親子の縁を切った」と言った娘。この母にしてこの娘あり
2021.09.19
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~「シネマの神様」を観て想う~ 9月上旬のある日。私は映画を観に行った。おそらく映画を観たのは2年ぶりくらい。映画館の「ポイント」はとっくに無くなっていたし、映画館に通じるショッピングモールも、内装が変わって初めて見る店ばかりだった。そして閑散としたホール。同じ映画を観たのは全部で7人。それもかなり離れた席で、コロナに感染する心配はほとんどないはず。ガラガラのシアターで、私はそんなことを感じた。 映画は松竹映画創立100周年を記念した作品。かつて人生の全てを映画にかけた人がいた。今では遥かに遠い昔々の話。そんな悲しくかつ笑える懐かしの昔話を、今年88歳になる老監督が撮った。恐らくは執念なのだろう。自分以外に撮る人はいないとの。主演の俳優は前から決まっていた。だが彼が映画に出ることはなかった。撮影前に新型コロナに感染し、亡くなったためだ。 そのこと自体がドラマと言えよう。人生2度目の映画出演に、きっと大きな夢を抱いていたはず。松竹映画創立100年の記念作品で、喜劇を撮らせたら右に出る者がいない山田洋次監督だったからだ。主演男優自身が根っからの喜劇役者。恐らく胸に期すものがあったはず。だがクランクイン前に主役があっけなく死んだ。新型コロナで突然に。これは悲劇だろうか、それとも喜劇なのだろうか。嗚呼。 山田洋次監督と言えば「寅さんシリーズ」が代表作だ。だが60作以上ものそのシリーズを私は観たことがなかった。観たのはたった1回、説明に窮した添乗員が観光バスの中で点けた「寅さん」。それも時間が来て、中途半端なシーンで終わった。まさに不完全燃焼そのもの。 山田作品で私が観たのは「東京家族」(左上)と「家族はつらいよ」(右上)のシリーズ。どちらも小津安二郎監督の名作「東京物語」を下敷きにしているが、味わいは似て非なるもの。山田作品は全てが喜劇に変わると言っても良い。悲劇と喜劇が背中合わせになっているのだ。テーマがたとえ家族であっても。恐らく「寅さんシリーズ」も同様なのだろう。笑いの底に潜むペーソスは、人生そのものだ。 かつて映画監督を志すも夢破れ、今やギャンブルに明け暮れる借金まみれのゴウ。妻や娘にもすっかり見放されている。 右は代役の沢田研二 そんな中、幻となったゴウの初監督作品の脚本を読んだ孫の勇太はその内容に感銘を受け、脚本賞に挑戦することを提案。 小林稔侍(映画館主) ゴウは自身の作品と向き合いながら、映画への愛を確認して行く。 娘が成長し・・ 若き日に愛した食堂の娘は、やがて妻となってゴウの傍らにいた。 <あの人を愛したからその神様に出会えました> 予期せぬ代役で主人公を演じた沢田研二は何を得、何を考えたのだろう。妻であった「ザ・ピーナツ」の長女伊藤エミと離婚した時、彼は時価数億と言われた豪邸を彼女に渡した由。若き日の志村けんは付き合っていた女性を妊娠させ、200万円を持参して彼女の両親に侘び関係解消を依頼した由。もしそれがなければ、志村もパパやジジイになっていた。だが人生に「もし」はない。人生はたった1回だけだ。 さてゴウの妻役を演じた宮本信子の夫伊丹十三は、映画監督だった。だが、やくざ映画を撮影中にトラブルに巻き込まれ、やくざに殺害された。もし、やくざ映画さえ撮らなければ死ぬことはなかったはず。だが人生にも映画にも「もし」はない。たった1回だけの勝負なのだ。 若い食堂の娘を演じた永野芽郁が、「半分、青い」の鈴愛(すずめ)だったことに、帰宅後気づいた。役者は成長し変貌する。若き日、ゴウと共に映画界で頑張っていた友が夢破れ、故郷に帰り映画館主になった。ゴウは「脚本賞」を受賞したニュースを、旧友が経営する場末の映画館で知る。人生の末路を知るのは神様だけ。ゴウの魂はキネマの神様に招かれて昇天する。<一部「ネタバレ」より借用> 人生に「たら」も「れば」もないが、出来たら志村けん主役の作品を観たかった。もしも彼が主役の映画なら、観客はもっと泣きかつ笑い転げていたはず。だからこそ山田監督も最初に志村けんを選んだのだろう。あの世で「シネマの神様」を観た志村けんが言ったはず。「もしも俺が主役だったら、もっと笑わせていたのになあ。ああ残念。」と。合掌
2021.09.17
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~わが人生論~ メジャー・アナハイムエンジェルスの大谷がオールスター後の試合で第24号ホームランを打った。オールスター後は4連続三振の出だしだったと言う。だが、その後はストライクからボールになる球を掬い上げるように振り抜くと、スタンドに一直線に飛び込んだ由。ホームランボールを拾ったのは相手チームのファンだったが、彼はそのボールをエンゼルスファンの少年にプレゼントした由。 心温まる話だ。大谷には周りの人を惹き付ける「何か」があるようだ。オールスターの前夜のホームラン競争で大谷がなかなかホームランを打てずにいたところ、花巻東の先輩であるシアトルマリナーズの菊池雄星が近づいて来て、大谷に何かをささやいた。大谷がリラックスしてホームランを量産したのは、その直後だった。まさか緊迫する場面で、高校の先輩が力づけてくれたとはねえ。大谷は「持ってる男」だ。 誰にでも愛される大谷に対して、この男はどうだろう。6連続休場の後、45回目の優勝を果たした白鵬。全勝同士で対戦した千秋楽。勝った後で取ったのがこのガッツポーズ。私はこの男が嫌いだ。優勝後の「勝手な万歳三唱」や「勝手な三本締め」を土俵上から観客に求めた馬鹿な力士。実は照ノ富士が序二段まで落ちるきっかけを作ったのもこの男だ。 14日目に変則仕切り 引退した日馬富士が貴ノ岩をリモコンで殴打し、裂傷を負わせた事件。あの時に日馬富士ををけしかけたのも白鵬だし、膝を傷めている照ノ富士を無理やり正座させたのも白鵬。「モンゴルの結束」を乱す奴を「可愛がった」訳だが、彼らはその重さを知らない。相撲は神に捧げる儀式として始まったが、モンゴル勢とっては、仲間で「勝ち」を分け合う「儀式」だったのだろう。 白鵬の肘打ち 過日開催された「横綱審議会」では、白鵬が14日目に正代に対して取った「変則仕切り」も、千秋楽に照ノ富士に対して取った「肘打ち」と数発の「パンチ」は極めて評判が悪かった由。「あれは相撲じゃない」との意見。「注意」は解除されたが、横綱の品格に疑問を投げかけた白鵬の「無法」だった。 しかし、照ノ富士は立派だった。ここ数場所の「横綱不在」を補って余りある活躍を果たしたし、序二段から復活して3度の幕内優勝と、1度の準優勝を果たした。それも千秋楽まで全勝同士での。あれだけの大けがと内臓疾患(糖尿病と腎臓病)に良くぞ耐え、良くぞ再起したものだ。その努力は力士の見本であり、卑怯な相撲を取らない気高さは、相撲道の神髄だ。彼ならきっと立派な横綱になるはずだ。 その大相撲で不祥事があった。十両の貴源治が大麻に手を出したと言うのだ。彼は双子の兄貴公俊(後に貴ノ富士=廃業)と共に貴乃花親方が育てた弟子。兄は相次ぐ暴力事件で角界を去り、総合格闘技に移った後もレフェリーの注意を無視して相手選手を攻撃し続けたと聞く。残った双子の片割れが今回は麻薬に手を出したと聞いて、元貴乃花親方はどんな気持ちだろう。人一倍相撲道を愛した男だったが。 草なぎ演ずる徳川慶喜 大河ドラマ「青天を衝く」を、毎回興味を持って観ている。幕末の維新期。人はどんな選択をし、どう生きたのか。今でこそ勝った「官軍」が「正義」とされているが、事実はそんな単純なものではない。岩倉具視は「錦の御旗」を偽造していたし、長州藩は皇居に対して発砲もした。薩摩の西郷や大久保の策謀は並大抵ではなく、明治新政府成立後も藩閥政治で大混乱を来し、下野する者が続出した。 孝明天皇 孝明天皇が長州の横暴に手を焼き、会津藩主で「京都守護職」となった松平容保に宸筆(しんぴつ=天皇の直筆)の感謝状を贈ったことは有名な史実。その事実を知った薩長は、そのことを隠し通す。天皇が感謝状を渡していた相手を攻めるのだから、一大決心を要する。孝明天皇は1867年満35歳の若さで崩御する。死因は天然痘。諡号(しごう=送り名)を贈られた最後の天皇となった。その第二皇子が睦仁親王で後の明治天皇。彼は幼時に牛痘(種痘)を受けていたため、り患しなかった。西洋医学の恩恵を体験した天皇第一号と言えようか。 ドラマの主人公 しかし、日本と言う国の奥深さを感じてならない。「士農工商」とは言え、百姓は一番下の身分だ。だが日本には実質上「奴隷」は存在せず、百姓でも志があれば、「読み書きそろばん」が習えたし、幕末には武士にもなれた。一橋侯となった水戸家の九男が有能な男を配下にする。その武士が目を付けたのが「血洗い島」の百姓。それを士分として召し抱え、パリ万博に送る慶喜の度量に圧倒される。 老齢期の渋沢栄一 将軍職を辞した慶喜は、以後水戸、静岡。東京と移転し、一市民として生きる。王政復古と明治新政府樹立の源となった元勲らはそれぞれ立身出世し、早くから貴族に列せられた。だが、慶喜がようやく公爵となって貴族院議員に列せられたのは明治後期で彼は50代になっていた。どうやら勝海舟が足を引っ張っていたと言うのが実態らしい。だが、慶喜はそんなことには頓着せず、カメラや近代的な趣味に明け暮れていた由。 パリに派遣された篤太夫 そして慶喜の経済を救ったのは、かつての部下渋沢栄一だった。慶喜は栄一が勧める株式を購入して莫大な富を得ていたようだ。そして二人に共通するのは艶福家であること。どちらも正妻以外の女性との間に20人もの子をもうけている。世の中何が正義で、何が悪かは分からない。人生もまた然り。一体何が美であり、なにが醜であるのか。コロナのパンデミックで、世の価値観は一変した。さて、東京オリンピックは一体どう運営されるのだろうね。
2021.07.21
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~万人に共通する感じ方はあるのか~ 大リーグLAエンジェルスの大谷翔平選手の活躍が凄い。週間MVP2回、月間MVP1回。打ったホームランは今季早くも32号に達し、かつてNYヤンキースで活躍したゴジラ松井選手を抜いた。投げる方では5勝目を挙げて、日米通算50勝に達した。間もなく始まるオールスターでは、ファン投票で指名打者部門、選手間投票で投手部門に選ばれ、投打での出場が決まった。それに開催前日のホームラン競争にも指名され、今やアメリカの超人気者だ。 ところがである。この活躍を評価しない御仁がおられる。「サンモニ」のご意見番ことH本さんである。彼は日本人選手がメジャーに行くことに反対。まして大谷の二刀流には大反対。現在の活躍を目の当たりにしても、「メジャーの力は落ちたな」と平然と言う。彼は日本を代表する大打者ではあったが、監督やコーチの経験もなく、ましてメジャーなどなんの曰くもない。二刀流の夢を追って渡米し、見事にそれを実現した大谷。エンジェルスよりも多くのペイを約束したヤンキースに行かず、夢を貫いたのだ。 この度棋聖戦を初防衛して通算タイトル3期を果たして最年少で9段に昇段した将棋の藤井聡太。彼が中学生で日本棋院のプロ四段になり、連勝記録を重ねていた頃、私はブログで彼のことを取り上げた。そしてら「負けたら良いんだ」とコメントした御仁がおられた。多分将棋に詳しい人なのだろう。だが私はそれ以来その人のブログを訪れなくなった。 藤井4段の昇段は凄まじかった。あっという間に勝利を重ね、五段、六段、七段と実績を積み、将棋に専念するため卒業間際の高校を中退。彼の頭脳ならきっと国立大学も合格しただろうがその道を選ばず、プロの勝負師を目指した。その後タイトルを2つ取り、1つを防衛して九段となり師匠の杉本九段に追いついた。これもまた最年少記録で、彼の勢いは留まることを知らない。まさに不世出の天才なのだろう。 東京都議会選挙が終わった。そして東京オリンピックが近づいた。この期に及んで「オリンピックを返上すべき」との声がかなりあるようだ。だがそれは無理だと思う。あれだけの活動をして東京に招致した大会。コロナが心配なのは確か。最善の対応で「安心・安全」を図るしかない。自国もさることながら、世界の情勢を憂える。ワクチン接種を受けられなかった地域、予選が開催出来なかった種目。 それらの「不公平」の上に今回の「東京オリンピック」はある。アフリカの強いランナーのいないマラソンなど「気の抜けたビール」かも知れない。だが、この大会を目指して頑張って来たたくさんの選手たちを気持ち良く応援しようではないか。人間は自分の都合で考えを変える。まさに矛盾であり、不正義とも言える。政府もJOCも関係委員会も最善を尽くした。出来ればそう信じたいものだ。 月曜と火曜の2日間で摂取したカロリーは恐らく300キロカロリーにも満たなったと思う。そんなわずかな量でさえ、自分では何とか頑張って食べたのだ。水曜日の朝はいつもの量の半分を食べ、残りは捨てた。それから居間でごろ寝。昼は冷やし中華を完食。それからトイレ。実に3日ぶりの開通。午後から再びごろ寝。起きてからキャンデーを食べ、アイスコーヒーを飲み、新聞も読めた。 当たり前のことが当たり前に出来ることの有難さ。よくもあの状態に耐えて生き永らえた自分の生命に感謝。体力は落ちたものの、考える力はまだ残っているようだ。木曜日は出来たら「赤シソ」の葉を買いに行きたい。無論「梅干し」を漬けるための素材。赤く色づくだけでなく、殺菌力を増す効果もある。昔ながらの日本人の知恵だ。今年も何とか自家製梅干しが出来そうだ。体調を心配してくださった読者の皆様、どうもありがとうございました。きっと明日もブログを書けると思いますよ。
2021.07.08
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~脳の一部が破壊した荒行~ 先日テレビである番組を観た。一人の僧侶が記者の質問に応えているが、それだけではなさそうだ。話が進むうち、意外な展開を見せ始めた。「あれっ、この人のことは聞いたことあるぞ」。しかもわが家と同じ区にお寺があり、かつてない偉業を成し遂げた人。その当人が成就した「行」の実態を知るのだが、全く予測不可能な凄まじいものだった。 多くの信者に囲まれた塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)大阿闍梨。(だいあじゃり)。住職を務める慈眼寺(仙台市太白区秋保)にて。師は1968年(昭和43年)仙台市生まれで東北高校卒。比叡山延暦寺の酒井雄哉師が、史上初めて「千日回峰行」を2度達成したことをTVで知って、自分も千日回峰に挑戦したいと願ったそうだ。偶然にも、そのニュースは私も聞き、世の中には凄い人がいるものだと衝撃を受けたものだ。 奈良県吉野山金峯山寺 塩沼青年は早速行動を起こす。1987年。19歳で吉野の金峯山(きんぷさん)寺にて出家得度(金峰山修験本宗)。1991年23歳で大峰山千日回峰行入行。1999年31歳で千日回峰行満行。翌年四無行満行32歳。番組作成のため記者と修行地の吉野に赴き、塩沼氏は現地の人たちと親しく挨拶をしていた。小僧時代の塩沼氏を良く知っている地元の方々は、久しぶりの再会に感激していた。 若き日の師は千日回峰行に向けて毎朝早朝に起き、トレーニングのために山道をランニングする姿を目撃されていたのだ。私は大阪勤務時代に吉野の桜を見に行き、この金峰山寺の姿を良く覚えている。 蔵王権現 この寺は真言宗の僧侶(満堂方)、天台宗の僧侶(寺像方)、神社の仏事を行う(社僧)らによって運営されている由。神仏混交のうえ、吉野から大峰山、熊野にかけては、修験道の祖と伝わる役行者(えんのぎょうじゃ)が開拓した山伏の修行の場でもある。その守護神が蔵王権現なのだろう。 役行者(えんのぎょうじゃ)木像 さて、わが宮城県にも「蔵王連峰」があり、東北地方には役行者の修行地と伝わる場所も多い。役行者は吉野から東北まで、空を飛んで移動したと言われる。私が初めて役行者の木像に接したのは、熊野那智大社の神護寺である青渡岸寺の本堂だった。旅を重ねていると色んな事象や事実に遭遇し、わが国の歴史認識や、日本人の優れた感性について示唆を受けることが多い。 千日回峰のコース 「千日回峰行」を再現(普段「回峰行」の撮影は許可されない)するために53歳の師が錫杖(しゃくじょう)を片手に、鎖も使わずに急な崖を登って行く。若いプロデューサーは必死で後を追うが、危険な場所は避けた。大峰山千日回峰行は高低差1300m以上の厳しい山道を、往復48km、1日16時間以上、千日間歩き続ける荒行。 大峰山山上ケ岳(コース) 修行期間は年間4か月。それを足掛け9年行い、その翌年に「飲まず」、「食わず」、「眠らず」、「横たわらず」の「四無行」を9日間行う。それで満行となるが、これまで達成したのは1300年間でわずか2人だけとのこと。達成者は「大阿闍梨」(だいあじゃり)の尊号を授かる。上の写真の右奥に見える大峰山が千日回峰行の中間地点で、ここからまたスタート地点に戻って1日が終わる。それは雨の日、雪の日、嵐の日も同様。照明器具があるようには見えなかったが。 行を終えた塩沼師は仙台へ帰省する途中、東京で人間ドックを受けたそうだ。その時に脳の撮影をしたら、後頭部の3分の1ほどが真っ黒になっていた由。その写真がTV画面に映ったが、ドクターの診断によれば、不眠不休の厳しい修行を長期間続けたために脳が大きなダメージを受けて、「破壊」されたのだろうとのこと。1300年間に2人しか達成出来なかった荒行の凄さが理解出来よう。師の体は白血球が少ない特異体質のようだが、今もランニングを楽しんでおられるとのこと。 慈眼寺 塩沼大阿闍梨は故郷の仙台に帰って、秋保温泉の奥に建立した慈眼寺で住職を勤める傍ら、世界中を飛び回り、仏教の精神と平和の尊さを説くなど、活発な講演活動を行っているそうだ。3分の1が破壊された「脳」はどうなったのだろう。徐々に再生されるのか、それとも今後重大な障害が発生するのか。塩沼師はそんなことに拘ることなく、今日も穏やかな笑みを浮かべつつ信者に接している。 護摩供養する塩沼師 「比叡山の千日回峰行」成就に感銘を受けた少年が、自らも厳しい修行の道を目指し、見事2人目の「大峰山千日回峰行」満行を叶え大阿闍梨となった。塩沼師の慈眼寺では節分の際、「福は内、鬼も内」と唱えるそうだ。それは悪行を重ねる鬼を仏の力で改心させ、再び世に送り出すためとか。何と尊い話ではないか。不信心で不遜な爺の心にも、一瞬灯が灯った(気になった)のであった。 合掌。
2021.05.25
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~罪のない者がまず石を投げよ~ さて生と性などをテーマにしたこのシリーズを、苦しみながらも書いて来た。さて、それをどうまとめようか迷っている。今日を最終回にする積りなのだ。先ずは煩悩に苦しんだ先人のことを書こうか。 これはある夫婦。男の名は岡本一平。漫画家である。女の名は岡本かの子。その妻で女優。だが不思議なことに、彼らの家にはもう二人男が同居していた。一人は京大生で、かの子の恋人。もう一人は夫婦の息子の太郎。後に「芸術は爆発だ」で有名な芸術家となる。一平はかの子の恋人の同居を許した。天衣無縫と言うか、破廉恥と言うか。そんな自由な家で育ったことが、彼の芸術に影響したのかも知れない。 島崎藤村は詩人であり、小説家だった。ある状況下で、彼は姪と関係して子を生す。それを描いた小説が「新生」。部落問題を描いた「破戒」も有名だが、彼は長野から逃れるように東北に来、わが母校の東北学院に勤務した。他に小説「夜明け前」や詩集「落梅集」がある。小説には麻薬の要素があるが、特に私小説ともなればその色は濃く、作家の苦悩もさらに深まる。 夫との間に子がありながら、家族を捨て恋人と出奔した女がいる。その名は瀬戸内晴美。やがて著名な小説家となり、源氏物語の現代語訳を出すなど活躍。後に小説家であり天台宗の僧侶でもあった今東光の得度で尼僧となる。卒寿を過ぎた今も尼僧と小説家の二足の草鞋を履いている。 聖書の話である。パリサイ派の長老たちが一人の女をイエスの前に連れて来てイエスに問うた。女は姦通した罪人。「さて、この女をどう罰しますか」と。そこでイエスは答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に先ず石を投げなさいと」。パリサイ派の長老たちは皆口をつぐんだ。(ヨハネによる福音書第8章3~11節) 不思議な男がいる。500もの会社を興し、経営が軌道に乗ったらそれを他人に任せた明治の経済人渋沢栄一。大河ドラマ「青天を衝け」の主人公だが、彼には妻以外の女性との間に出来た20人もの子供がいたようだ。いわゆる妾(めかけ)だが、当時の日本では社会的通念の範囲として許されていた。妻を4人まで持てたイスラムどころの騒ぎでないが、平等に愛し養うのはむしろ「男の甲斐性」だったのだ。 国宝「合掌土偶」 さてもう一つの命題である死についても記さねばなるまい。神の怒りに触れてエデンから追放された人間は、同時に「死」を受容する存在となる。縄文時代の平均寿命は40に満たなかった。原因は出産による母子の死亡率が高かったこと。このため縄文人は家族の長寿と繁栄を願って土偶を作り、人の代わりに破壊し、住居の直ぐ傍に墓を立てて死者の冥福を祈った。深い宗教性の存在が縄文文化の特徴でもある。 「人間(じんかん)五十年 外天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」。信長が本能寺の変で死を覚悟する際に舞ったとされた幸若舞「敦盛」の一節だ。たかだか50年の人生は夢や幻のようだとの意味か。この時信長は満48歳。まさに謡曲通りの死となった。戦国時代が終わり、江戸幕府の泰平の世となっても、平均寿命はさほど変わらなかったみたいだ。 「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん 年は取ってもお舟をこぐときは元気いっぱい櫓がしなる」。これは昭和16年に発表された童謡「船頭さん」の歌詞の一節。60歳でお爺さんだが、第二次世界大戦で多くの兵や国民が死に、平均寿命は下がった。かつて15歳で元服した時代があった。娘は15で嫁に行き、30代で祖母になるケースも珍しくはなかった。つい何十年か前まで、インド人の平均寿命は30代だった。 それが今や日本人の平均寿命は男女そろって80歳を超えた。当然だがその年齢までの生存を約束された訳ではない。かつその年度生まれの「新生児」が生きると予想される「平均」に過ぎない。怖いコロナもあればがんもある。だが、がんの遺伝子がヒトの細胞分裂に作用していると聞く。ヒトは生まれながらにしてがん細胞と共存し、ウイルスと共存する運命にあるのだ。 81歳になるスーパーボランティアの尾畠春夫さんが、「後何年ボランティア活動が出来ますか」と問われて言う。「歳ですからせいぜい50年くらいでしょうか」。何と言うユーモアだろう。彼は今でも毎日家の周囲を8km走り、野草をおかずにして一人で生きている。乏しい年金を節約し、ボランティア活動の資金にしてると言う清貧さ。人間の値打ちは年収でも地位でも年齢でもなく、その志にあることを彼の言動から学ぶことが出来る。<続く>
2021.05.06
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~宗教と性・聖と俗~ 楽園追放(1) 神は自分に似せて人を作ったと言う。男はそれで良かったが、女は男の肋骨から作った由。神は男女に言った。「これからお前たちを楽園に送るが、決してリンゴの実だけは食べていけない。食べたら死ぬよ」と。だが、イブはヘビにそそのかされてリンゴを口にし、アダムにも食べることを勧めた。だが、食べ終わった二人は恥部をイチジクの葉で隠した。リンゴを食べ、善悪の分別を知ったのだ。神は怒って二人を楽園から追放した。そして人間は神の予告通り死ぬ運命となる。 楽園追放(2) 神は全きものとして人間を作ったとし、キリスト教の中にはダーウィンの「進化論」を否定する宗派や、「輸血」を拒否する宗派や、今でも都会から離れた農村で昔ながらの暮らしを守っている宗派があると聞く。また堕胎を禁じ、避妊を禁じる宗派もある。 受胎告知 フラ・アンジェリコの「受胎告知」は、マリアが天使から神の子を宿したことを告げられる場面を描いている。つまり処女懐胎で、マリアは夫ヨゼフと交わらぬまま妊娠したとされる。聖母マリアたる所以で、生まれたのが神の子であるイエスキリスト。例えは悪いが日本にも日輪の夢を見て「日吉丸」を産んだ農婦がいた。後に太閤豊臣秀吉となる人物の生い立ちの話だ。 中世の古城 中世のヨーロッパの領主には「初夜権」と言うものがあったと、大学時代の講義で知った。つまり領主は自分の領地に住む家の娘を自由にすることが許されていたと言う。つまり権力で処女を奪った訳だ。その一方夫婦が離婚する際は、二人を決闘させた由。ただし男には目隠しをし、片足は鎖で杭につないだ。生き残った方が正義。神前で神に誓ったのだから、夫婦のどちらかに不正義があったとの考えだ。 中世のキリスト教寺院 当時の宗教の主流だったカトリックの神父は結婚を禁じられていた。だが神父と言えども人間。性欲はある。それで尼僧を犯したり、少年を相手にすることもあった由。戦国時代の日本の武将も同じで、戦場に女性を伴うことが出来ず、小姓と呼ばれる美少年を傍に侍らせていた。最後まで織田信長の側に仕えた森蘭丸の話は有名だ。夜も武将の伽(とぎ)の相手をすることから「御伽衆」とも呼ばれていた由。さて現代でも。神父が信徒の女性をレイプした話を稀に耳にする。 親鸞聖人 その点、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は異例中の異例かも知れない。鎌倉時代の僧侶で浄土真宗の宗祖。異例と言うのは僧侶の彼が妻帯していたことだ。恵信尼の存在と7人の子女がいたことが知られている。聖人は越後に流されたことがあり、当時身分の高い流人(彼は皇族でもあった)には身の回りを世話する女性を拝する習わしがあった由。「悪人正機説」や「歎異抄」で有名な聖人の人間らしい一面が偲ばれて微笑ましいと私は思うのだが。<続く>
2021.04.28
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~生物としての人間と社会性~ 何度か使ったこの図だが、今日もまた使わせてもらったぞ。サルの仲間だったころから、徐々に人間らしくなって行く様子がとても良く分かるね。サルだったころは四足歩行で、背中が曲がっているね。それがだんだん腰が伸び、着物を身に着け、道具を発明し二本の足でしっかり歩くようになる。背が伸びてより遠くまで見えるようになり、頭が大きくなる。つまり頭蓋骨内の脳が巨大化して行くんだねえ。 ミロのヴィーナス サルだった頃のメスには「繁殖期」があった。そして「四足歩行」だと当然外性器は露わになる。それでオスを惹き付けた。もちろん繁殖のためだ。それが二足歩行になり、背骨が真っ直ぐして脳が大きくなったヒトに「繁殖期」はなくなった。だが種の保存のためにオスを惹き付ける必要があるが、露わにならない外性器に代わって、乳房が大きく目立つようになった。 骨盤の男女差 四足歩行となったヒトが変化したのは脊椎や脳だけではない。骨盤も大きく変化する。四足歩行の動物は安産。馬や鹿の子などは生まれたと同時に立って歩ける。ところが人間の胎児は弱く、長期間子宮内に留まり成長を続ける。骨盤の形状に男女差が現われるのは思春期以降。男性は変わらないが、女性は出産に備えて開き横長となる。産道が広がることへの対応だ。男性は竪型の空洞のまま。 乳幼児の頭蓋骨 さらに、胎児の頭が産道を潜りやすくするため、胎児の頭蓋骨には隙間があり、産道の出口では頭の形を変形させて出産する。生まれたばかりの乳幼児の頭は「ペコペコ」して柔らかいが、やがて次第に隙間が埋まる。ヒトの出産は大ごとで、縄文人の平均寿命が短い原因は、出産で母子の生命が失われることが多かったため。二足歩行でヒトとなったばかりに、女性の負担が格段に増大した訳だ。 ロダン「接吻」 繁殖期がなくなると危険も増える。そこで衣類をまとい、住居をしつらえ、用心のために「火」を焚く。やがて石器や土器を発明し、食べ物を煮炊きすることを覚える。栄養を摂ることで体格が向上し、生命が延び、頭脳が発達する。そして互いに意志や情報を伝達する手段を発見する。 <ボッティチェリ 「春」> 動物のオスが複数のメスと交尾するのは、自らの子孫を残そうとする本能と、さる脳科学者は言う。人間の男の浮気も動物であったころの名残と言うのだが、さていかがなものか。現代における「性」や結婚は変容し、家族の概念も国や時代や宗教によって異なるようにも思う。次回はそんなことを考えてみたい。ただし、焦らずにぼちぼちとね。<続く>
2021.04.27
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~万物は流転する~ 横山大観作 <「生々流転」の一部> 横山大観 横山大観は慶応4年/明治元年(1868年)現在の茨城県水戸市生まれの日本画家。昭和33年(1958年)没。ほぼ自己流で絵筆を握り、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を受験し合格。後に助教授を勤めるも校長の岡倉天心が追放後はフェノロサなどの同志と共に、日本近代美術の在り方を目指して奔走。日本近代美術の父と呼ばれる。第1回文化勲章受章。 <横山大観作 「生々流転」の一部> 「生々流転」彼の代表作で1923年に制作。長さは40mを超える日本一長い絵巻物で、重要文化財指定。国立近代美術館所蔵。確か「国立京都博物館」で作品を観、色彩があったはずなのに、ネット検索したら墨絵みたいだ。人生は悠久で、人は絶えず変化すると言う壮大な作品名を、今回のシリーズ名に使わせてもらった。私なりの人生論と雑感を書こうと思う。 未明、テレビを点けたら「おしん特集」をしていた。それもかなりの長時間。一体これは何事と奇異に感じつつ、古い画像に見入っていた。NHKで実際に放送された昭和58年ごろ。私は最も多忙な時期で、ある新設大学の創設に腐心していた。だからこの有名なドラマを、ほとんど観たことはなかったのだ。 石井(左)と橋田(右) この二人脚本家の橋田壽賀子とディレクター石井ふく子の二人が出て来て納得がいった。これは先日97歳で逝去した橋田壽賀子の追悼番組だったのだと。それにしてもまだ当時の日本社会で女性の登用が困難だった時代に、この二人は「出る杭は打たれる」とばかりに叩かれ続けながらも、決して妥協せずに自らの意志と主張を曲げなかった。世界的な評判となった「おしん」は、いわばその象徴となったのだ。 おしんが筏に乗って酒田に奉公に行く場面、母親役の泉ピン子が堕胎のため冬の川に入る場面は、「吹き替え」なしだった由。そしてこの名作は世界中90か国以上で放送され、当時おしんを観たイラン人女性が日本に憧れて日本人男性と結ばれ、現在日本で母となった実話など、この作品が世界の人々に与えた感銘の大きさが分かろう。それにしても戦前の貧しい東北の農家の話が、これほどの感動を呼ぶとは。 朝ドラ「おちょやん」は「松竹新喜劇」の実話を下敷きにしていることは知られている。渋谷天外(ドラマでは一平)と妻浪花千栄子(右=ドラマではおちょやん)の平和な日常に、一平の浮気で女性劇団員が妊娠し、やがて子供が生まれる。そのことを知り、おちょやんは静かに身を引く。それが昔の日本女性の普通の身の処し方だったのだろうか。「オロナイン軟膏」の広告の笑顔が悲しい。 愛ちゃん夫妻 これに対して現代の日本女性は実にたくましい。週刊誌にダブル不倫をすっぱ抜かれた福原愛ちゃんは、「一緒の家には入ったが、一緒の部屋に入ってはいない」と弁明。その後台湾から実母は日本に帰国。今後介護が必要の由。一方の夫君は地元の裁判所に離婚を申請し、弁護士を準備。今後2人のお子さんの親権を争うことになると思われる。もうかつての「大和ナデシコ」の面影はない。<続く> 今後このテーマの合間に、適宜他の話題を挿入することがあり得ます。予めご了承願います。
2021.04.26
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~凄い男がいたもんだ♬~ 故植村直巳氏 世の中にはまったく凄い男たちがいたもんだ。トップバッターは、冒険家で登山家の植村直巳氏(1941-1984)。身長162cm、体重60kgの小柄な男が凄いことをやってのけたのだ。彼は兵庫県出身で明治大学農学部卒。明大に農学部なんてあったんだねえ。昭和45年(1970)。彼は日本人として初めて世界最高峰のエベレスト登頂に成功。それは同時に世界初の五大陸最高峰制覇達成でもあった。 北極点に立つ 1978年。彼は犬ぞりでの北極点単独到達に成功する。これも単独行では世界で最初の偉業だった。それらのことから彼は「国民栄誉賞」を受賞し、「バラ―ン・スポーツ賞」をも受賞した。しかし彼の挑戦はそれでは終わらなかった最も困難と言われた冬季のマッキンレーへの単独登頂に挑んだのだ。周囲からは危険だから止めたらと忠告されていた。この山は天候が変わりやすく、冬季は特に危険だ。 デナリ 植村氏の雄姿 登頂には成功したようだ。だが下山途中に彼は行方不明となり、確か今も遺体は見つかってないはず。彼が命を懸けたマッキンレーはその後現地語の「デナリ」と呼ばれている。婚約者がいたと記憶してるが、どうやら結婚はしなかったようだ。恐らくは危険に挑戦し続ける冒険者として、家族に迷惑を掛けたくなったのだと思う。 植村直巳の記念切手 彼の偉業を讃えて、デンマーク政府が自国領であるグリーンランドで発行した記念切手。小柄な東洋人が、誰もなし得なかったことに挑戦し、見事に実現した。だが、その代償はあまりにも大きかった。 関野吉晴氏 関野吉晴氏(1949-)は東京都生まれの冒険家、医師(外科医)、文化人類学者(武蔵野美術大学教授)。この人の経歴はまさに異端。一橋大学法学部に入学し、直ぐに探検部を創設。7年間かかって卒業する間に、早稲田大学探検部にも所属し、探検のために必要な文化人類学を学び、現地人の治療に役立ちたいと横浜市大医学部に入学・卒業し医師免許を取得。 アマゾン川 1981年アマゾン川源流のペルーで、インカ文明の遺跡を発見。きっかけは確か人工衛星から撮ったアマゾンの写真にインカの遺跡が微かに写っていたことだったはず。その後、アマゾンの源流から河口までを舟で下る一大冒険を決行。それに触発されて、さらにスケールの大きな冒険に挑戦する。 それは人類が辿った道を実際に辿る壮大な計画で、南米大陸最先端のパタゴニア地方から「反時計回り」に人類発祥の地であるアフリカを目指すもの。1993年から約10年間を要する「グレートジャーニー」で、フジテレビで撮影、編集、放送されたビッグプロジェクトだった。私が特に印象深く感じたのは、シベリア原野での蚊やブヨなどの大襲撃。人類の旅の困難さを思った。 関野氏の縄文号 歩けない地域の第一はベーリング海峡。ここは船を使った。と言っても写真のようにとても始末な造りだ。バイカル湖やビクトリア湖ではカヌーを使ったかも知れない。冒険家で、かつ外科医の関野氏の10年にわたる旅は、文化人類学者の彼にとっては貴重なフィールド調査だったことだろう。彼は今、武蔵野美術大学の名誉教授を務めている。 3人目は寛平ちゃん。「アヘアヘ」や「血い吸うたろか」のギャグで有名なお笑い芸人。吉本新喜劇の大スターがランナーであることを知ってる人は多いと思う。だが、その実力を知る人は少ないだろう。「フルマラソン完走したら給料倍にする」。社長のそんな冗談で始まったマラソン挑戦が、彼の闘志に火をつけた。高知県出身で高卒、生家はとても貧乏だったようだ。若くして大阪に出てからも苦労の連続。 走る寛平ちゃん それに心臓もさほど強くはなかった由。だが実家の祖母ちゃんが長命で、それなら自分もと練習を積み、直ぐに市民ランナーのレベルを超えた。ベストタイムは1998年、49歳の時に出した3時間8分42秒。2008年水と食料14kgを背負って走る「サハラマラソン」245kmを51時間で完走。「24時間TV」では神戸ー東京間600kmを7日間で完走した。 スパルタスロン ギリシャの「スパルタスロン」を3回完走。距離は246kmだが途中に標高1700m余りのサンガス山があり、夜は盗賊も出る場所。そして日中は30度を超える猛暑で、参加資格も厳しい。私が寛平ちゃんと一緒に走ったのは、大阪の「泉州国際マラソン」(フル)で制限は4時間。直前に膝を傷めていた私は苦戦したが、彼は例のギャグを飛ばしながら、あっと言う間に追い抜いて行った。良い思い出だ。 そして圧巻だったのが2008年12月17日にスタートした「アースマラソン」。陸地は全て自分の足で走り、海はヨットで渡る。寛平ちゃんヨットは素人で同乗者はいるが、交代で彼も操縦し、見張りもして頑張った。その様子は連日ネットで中継され、私も興奮しながら応援したものだ。その寛平ちゃん。無理が祟ったのか、膀胱がんを発症し、確かアメリカ西海岸で入院手術したはずだ。 応援に応える寛平ちゃん(左)と、彼が辿ったルート(右) 人も船も長い旅路でガタガタになり、船はアメリカ大陸横断中に一旦日本に運んで修繕し、アメリカ東海岸からの大西洋横断の際は再びこれで渡った。2年ちょっとを要したが、寛平ちゃんはこの間の仕事を全てキャンセルして臨んだ大事業だった。とも角走って地球一周は人類初の快挙。右は「大阪杯贈呈式」で表彰された寛平ちゃん。さすがにいつもとは様子が違いますね。アヘアヘ。 さて、最後の登場者が辛坊治郎さん。アナウンサーやニュースキャスターとして著名な辛坊さん。前回は全盲のヨットマンと組んで(左)太平洋横断に挑戦したのですが、三陸沖300kmほどでクジラと衝突して艇が破損し、緊急信号を発信して救助を求め、自衛隊の救難艇に救助されたことがありましたね。あれから何年経ったでしょうか。 今回は艇を新たに建造して再挑戦するみたいですよ。60代半ば(65歳)のオッサンが、ヨットで太平洋を横断しようするとは良い度胸してますね。しかも今回も同乗者は全盲のヨットマン。2人3脚で協力し、今回は見事成功して欲しいですね。その果敢なチャレンジ精神に大きな拍手を送ります。左上の写真のテロップにだと、先週の金曜日に既に出航した模様。旅の無事と成功を祈ってますよ~!!
2021.04.13
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~冒険は人間だけの特権~ 幸せな二人 お笑い芸人の有吉弘行とフリーアナウンサーの夏目三久さんが結婚したと言う。4月1日に籍を入れた勇気ある行動。この二人がつき合ってから10年。5年前に一旦関係は解消したかと思われたのが、どうやら二人は密かに付き合っていたようだ。三久さんは良家の子女で、東京外国語大学卒の才媛。そして素直な笑顔の素敵なお嬢様だこと。今日の話題はそれではなく・・。 この有吉君。20年も前のまだ売れない芸人のころ「猿岩石」と言うコンビ名で色んなことに挑戦していた由。その一つがとあるテレビ局の企画番組「行け電波少年」。ある日何も知らずにテレビ局に顔を出した猿岩石の二人。ディレクターは二人に向かって、これから旅に出ろとのご命令が下ったとさ。まあ、こうなったら賛成も反対もない。とも角どんな仕事でも引き受けないと食えないからねえ。 砂漠の中をえっちらおっちら。 彼らに下ったミッションとは、アジアからヨーロッパ大陸までヒッチハイクで到達することだったんだって。スタート地点は香港で、ゴールは確かパリだったはず。二人の苦労は一つ右上のボロボロの姿を見れば理解出来よう。ヒッチハイクと言っても、頻繁に車が通るような場所ばかりではない。とも角若い二人はがむしゃらに前に進んだみたいだよ。その結果は何とか成功してパリにたどり付けたみたい。 ゴール後、旅の途中の経験談を二人で書いた。左側は「猿岩石裏日記」で、右側が「猿岩石日記」ヨーロッパ編。どちらも大好評で売れに売れた。こうして若い彼らは一躍大金持ちになったと言う訳さ。中には「やらせ」を疑う声もあったようだが、確かめることは不可能。「この道を本当に2人の日本人青年が通りましたか」なんて聞ける人がいるとは限らない。有吉はこの成功後も不遇が続いたようだ。 さてテレビの冒険番組と言えば、それは何と言っても「世界の果てまでイッテQでしょ」あんた。特にこの爺さんがぶったまげたのは、男の子じゃなくて女の子。 それも眉毛が異常に太いこの人。そうそう。イモトアヤコ嬢だよ。だが彼女。並みの女性と甘く見ちゃいけないよ。その根性たるや男優りなんてもんじゃない。女の中の女。女は愛嬌、そして女も度胸。この人の挑戦心と言うか冒険心と言うか、芸人としてのプロ魂は超一流だよ、お立ち会い。 ほんで、南米大陸最高峰アコンカグア(6962m=上)の登頂にも成功しましたぞ、マジで。これも偏に登頂を目指して、地道に鍛錬を重ねた成果ですのう。女性には幾つものハンデがありながら、彼女は一切泣き言を言わずにやり遂げましたわい。誰にでも出来るこっちゃない。アヤコはん、あんたはんは偉い。ほんま芸人の鑑じゃのう。<続く>
2021.04.12
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~4日遅れのエイプリルフール~ 3日遅れの便りを乗せて♬~ 都はるみの「アンコ椿は恋の花」じゃないけど。4日遅れのエイプリルフールとジョークをお届けしよう。 1つ目は冗談が通じなかった話。上は本物のドイツ・フォルクスワーゲン社のロゴと社章。 ジョークの社名 で、こちらがエイプリルフール用に準備したロゴ。今後は電気自動車主体にシフトするとの社の方針を表すかのように、「ボルツワーゲン」とロゴを変更。ボルツは電圧(ボルト)のドイツ語表記。笑いを誘うために同社が内密に準備したエイプリルフールネタだったのだが、どうしたわけか事前に漏れ、大きなニュースになってしまったのだとか。とんだ勇み足だった。 婚約発表する叶姉妹 2つ目はこのゴージャス姉妹のお騒がせ。毎年4月1日になると二人そろって記者会見し、「私たちこの度婚約しました」とのたまうのが恒例行事とか。もちろん願望はあるのだろうが、事実とは異なり世の注目を浴びると言うか、ファンサービスと言うか話題を提供してくれる。ひょっといて2人の豊かなバストも「盛ってる」のだろうか。 琴電の踏切 3つ目はジョークではなく本物。「無理な横断はおやめください」のフレーズと共に、6パターンの絵が描かれている。もちろんこんな姿で踏切を通る人はいないが、アッと驚く「警報」。これは香川県の琴平電鉄(愛称コトデン)の踏切に実際にある由。因みにこの6つのポーズは絵心のあるコトデンの車掌さんが考えて描いたと言うからビックリだ。 ここからはジョーク。もしも関係者がおられても、どうぞ笑ってお許しくださいませ。 何を隠そう。実は私たちは4月1日の日に結婚式を挙げたのです。これは本当なのですが、出席者の中には冗談だと思った方もおられたようでした。元来この日は年度替わりの大事な日で、1年で一番忙しい日とも言えるでしょう。でもそれから46年後、私たちは離婚しました。妻が大金を持って家を出て行きました。これは笑えない事実ですが、彼女は認知機能を失ったようでした。 先日保険会社の小母さんがやって来ました。香水がプンプンして良い匂い。おまけに暑いと言って上着を脱ぎ、上体を揺さぶると胸がぶるんぶるん。そして彼女のアンヨが私のアンヨに触るのよねえ。それが彼女の作戦だったのか、女っ気に飢えていた私は、新しい契約に即サインしたのでありました。 以下、著名人からコメントをいただきましたが、あくまでも洒落です。剣道にもあるでしょ「上段(冗談)の構え」と。 私。これまで出しゃばり過ぎました。反省して政界から引退し、オリンピックも返上いたします。 どうしてオレばかり批判されるのかねえ。自分で言うのも何だが、オレは正直者なんだがなあ。 WHO視察団の皆さん、新型コロナ発生の原因が不明のままでの帰国ゴメンなさいね。次の凶悪ウイルス発生の際は、隠さずに全部調べていただきます。これホントあるよ。シェイシェイ。 しかし政治の世界なんて実にチョロイねえ。認知機能が落ちた私でも十分務まるよ。次の大統領選にも立候補しようかな。 やあ、しばらく元気かい。チャイナウイルスが治まったら、またフロリダでゴルフを楽しもうね。だけどジョー爺さん、ボロを出さずに案外頑張ってるなあ。しかし引退するとこんなに体が楽だったとはねえ。健康と世界平和を祈って乾杯!! (文責マックス爺)
2021.04.04
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~病院へ行った日~ 早朝に目覚めたその日は病院に行くと決め、前日から用意していた。ポシェット、リュック、手袋、ウインドブレーカー。重装備なのは最初自転車で行こうとしたため。この朝は最低が5度の予報。9時のオープンなので30分前に家を出れば間に合う。だが急遽歩いて行くことにした。少し遠いがウインドブレーカーと手袋は不要。そしてリュックは大きめのに交換。帰路も歩き、ついでに買い物もしようかと。 数か月前いつも行く眼科の傍に皮膚科があることに気づいた。前回はネットで探し下見もしたのだが祝日で閉院日。その翌日は病院の都合でお休み。そんなことがあっため新たな病院に行こうとしたのだが、前の病院の診察券が財布の中に。じゃあそこにするか。こうして1時間前に家を出、写真を撮りながら歩いたのだった。まあ良い運動だ。それにブログ用の写真も結構撮れたしね。 ドクターの診断は心配していた「口唇ヘルペス」ではなく、唇を擦った際に小さな傷が出来、そこから雑菌が侵入して化膿したと。だからヘルペス用の薬では治らないと断言。5日分の抗生物質と胃腸薬、そして塗り薬を処方してくれた。あれ嬉し。体調が悪化してのものではなく、単なる不注意だったようだ。嬉しくなって中庭の小さな薬局に向かった。いつもながら不思議の国の薬局のように感じる。 あれまあ何という幸運。カウンターにこけしちゃんがいた。ただ前髪とマスクで表情が隠れ、目しか見えない。患者さんに対応してる彼女に近づき、そっと胸の名札に目を凝らした。少しねじれた名札に、姓だけ見えた。多分彼女に間違いないはず。今年の2月に初めて会って以来、今回で3度目。てっきりその後の転勤で、この店舗にはもういないだろうと思っていた。私を見る黒くて丸い目。 別の係の方が私の名を呼んだ。私はこけしちゃんの前で待っていた。お互いに挨拶。私が「良く名前を憶えていたね」と言うと、今呼ばれたからと彼女。いやそうじゃないのだ。たとえ名前を聞いても、その人が誰かを知ってなければそれきりだ。だが彼女は呼ばれた名前が私のことと認識していた。私の名前が呼ばれた。呼んだのは別の窓口の男の薬剤師。ああ残念。彼から処方された薬の説明を受けた。 再びこけしちゃんの所に戻って、12月にgotoで沖縄に行くことを話した。「何日に?」と彼女。「8日」と私。そしてお互いに「元気でね」と言い手を振って別れた。たったそれだけだが、私は十分幸せだった。偶然だった最初の出会。2度目は私が無理に用事を作って会いに行った。今回は処方箋を持つ患者として。だが二度と会えないと思っていた彼女と再会出来たのは、私には奇跡とも運命とも思えた。 1回目も2回目もその時の会話。何を話したのかも、それに対する彼女の反応も、今でも鮮明に覚えている。人間として、女性として職業人として、どれもみな素晴らしい態度だった。それでいて茶目っ気やユーモアもある人。もっと何か話すべきだったか、そうは思ったが患者とたまたま担当になった薬剤師としてだけの関係。職場に迷惑をかけたり、ストーカーにならないよう注意する必要がある。 帰路も被写体を探しながら歩いた。途中で国道を横切り最初の店へ。そこで買ったのはキッチン用の漂白剤と歯ブラシ。2番目のスーパーでは、不足している野菜や食料品を買った。リュックの中の漂白剤がやけに重い。帰宅後確認したら1.5リットル用。重い訳だ。この日も往復5kmほど歩いた計算。薬や買った食料品を所定の場所へ格納。そして手帳に当日の支出と歩いた距離をメモ。 午後、料理を作りながら決意。無事沖縄から戻ったら、彼女にお土産を届けに行こう。邪魔にならないよう、ストーカーにならないよう気を付けながら。今までは「高嶺の花」と諦めていた彼女だが、このまま別れたら、きっと一生(と言ってもそう長くはないが)後悔するはず。「美味しいから食べてね」と言ったら受け取ってくれるかな。神様、お願い。<写真について> 1)皇帝ダリアは向かいのKさんがバス停前の花壇で育てたもの。今年は大成功でした。 2)菊の花の💛型アーチから見える桜島の写真は、鹿児島のブログ友クマタツさんが撮影された傑作をコピーし、使わせていただいたものです。クマタツさんどうもありがとうございました。
2020.11.29
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~かげがえのないいのちを大切に~ 今日は9月30日。明日からは10月だが、これはいつも通り何日か前に予約機能を使って書いている。台風一過、素晴らしい天気になったので、貯めていた洗濯物を洗濯して干した。玄関とガレージを掃き掃除し、布団と枕をベランダに干した。台風や台風から変化した3つの低気圧。それに寒気団の南下まで加わって何日か気温が低い日が続き、悲鳴を上げていたわが身。それでもラジオ体操を試みた。 このところ悲しいニュースが続いた。芸能人の自殺。一人一人名前は上げないが、一体彼らの身に何があったのか。どうしても解決不能のために死を選んだのだろうが、まだまだ若く将来ある年代。出来れば何とか他の方法を見つけて欲しかったと願う。コロナの影響、仲間からの排斥、家族の裏切り、身分の不安定さ、子供の心配。理由が何かは分からないが、生きて違った風景を見て欲しかった。 芸能人の不祥事が続いている。大麻の常習。酒酔い運転などの交通違反。不倫などなど。目に余る性犯罪もあった。レイプされた若いジャーナリストが、ベテランのジャーナリストを告訴して勝訴した。どれだけ苦しかったことか。どれだけ悲しく、恥ずかしかったことか。それにも負けず彼女は戦う道を選んだ。言い逃れする男。あろうことか訴えた女性を中傷した女性国会議員。その気持が理解不能だ。 若い母親が何度も家を留守にして子供が死んだ事件があった。二度も遠い九州の彼氏を訪ね、その間に2人の幼子が死んだ事件。2人の子供を車に閉じ込め、深夜から朝まで飲んでいた母親。夫もいたと言うのに男の家に朝までいたとか。妻の連れ子を虐待して死なせた男。女子中生をラインで呼び出し、自宅に監禁した男子大学生。一体何なんだろうねえ。これらの現象は。 小遣い稼ぎのために、「補助金請求」の片棒を担ぐ大学生。殺人を犯してアフリカまで逃げ、コロナで金を使い果たし、自ら大使館に飛び込んで殺人を告白した男。オンライン決済でお年寄りを騙すグループ。コロナと不景気が重なって、真っ暗闇の日本。倒産は増え、精神が不安定になる人が増え、自殺者が増え、就職活動もままならず。悲しいねえ。苦しいねえ。今は望みが持てない世の中だよね、 大相撲の9月場所が終わった。優勝は関脇の正代。14勝1敗の見事な相撲だった。2人の横綱が不在の場所だったが、連日の見事な相撲内容に、協会も大関昇進を決めざるを得なかったね。29歳の遅咲き。これまでは茫洋とした印象が強かったが、最近は見違えるように大化けしたね。これからは大関3人で綱取りを競って欲しいな。 SNSによる誹謗中傷や、先生による児童や生徒へのわいせつ行為。声を上げたくとも上げられない多くの人々。相談し、救済の手を伸べられる制度が早急に整備されることを切望する。こんな不安定で苦しい時代だけど、俺はこれからも出来るだけ頑張って生きるよ。遠く離れて暮らしている子供たちに迷惑や心配を掛けないように。 東京オリンピックのロゴと聖火 とてもメカに弱い俺だが、いざと言う時のために「ガラケー」を契約し、充電器を買う予定。無知なジジイは焦らずにやるさ。だから今色んなことで困っているみんなも、決して命を粗末にしないでね。そして来年みんなで一緒に東京オリンピックを観ような。頼んだよ。
2020.09.30
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<最近観たテレビドラマを通じて> 文学新人賞を取った三女の梅が、五郎を連れて故郷の豊橋に帰った。朝ドラ「エール」の話だが、久しぶりに撮影を再開し、新たな物語のスタートがこれだった。作曲した軍歌「露営の歌」が爆発的に流行したことで、裕一は一躍時の人となる。音は買ってもらったオルガンで、子供たちを相手に音楽教室を開く。暫しの平安を破るかのように、長女の夫の職業軍人が訪ねて来る。太平洋戦争への突入で一変する国民の暮らし。あの暗く重苦しい時代を、朝ドラは今後どう描くのだろう。 大河ドラマ「麒麟がくる」も再スタートした。いきなり足利将軍の暗殺だ。次の将軍を巡って、暗躍を始める武士と公家。細川、三好、斯波、松永、朝倉、六角そして織田。いよいよ武士による天下統一を巡って戦国時代が動き出す。しかし三好氏があれほどまでの実力があったことを初めて知った。元々は甲斐源氏につながる一党らしい。しかし将軍に担がれる足利の末路が哀れだ。 私は徳島県で勤務したことがあるが、当時の土成町に「御所」と言う地名があるのを不思議に思っていた。なぜそんな辺鄙な場所に「御所」がと。今回の放送でその謎がようやく解けた、三好氏の一派が担いだ将軍家の血筋(公方様)を一時匿っていたようだ。町はその後阿波市と名前が変わった。歴史と時代の変化を興味深く眺めて居る。明智光秀の今後に注目したい。結局光秀は何をしたかったのだろう。 日曜日の夜に再放送の韓国歴史ドラマ「太陽を抱く月」最終回を見た。王と王妃の数奇な運命と純愛物語を楽しませてもらったこの半年間。お決まりの宮中の権力闘争と妃らの悪だくみに嫌気がさすが、今回は絵に描いたような結論で最後に救われた思いだ。しかしなぜ朝鮮民族は「絵空事」の歴史を好むのだろう。同時並行で観た「百日間の郎君様」も似たような粗筋。あれが朝鮮民族の理想な歴史館なのだろう。 ドラマだからあれで済むが、現実の歴史は真逆。つまり歴史を正視しない民族の本質が現れている。いつの場合も自分たちの民族の歴史はこうあって欲しいとの立場から、平気で歴史を捏造する。だから韓国国民の8割が祖先は両班(やんぱん=貴族)だったと主張。実際は1割もおらず、8割の人が平民または奴婢(どれい)だったことを恥とする。きっと「反日」にもつながる精神構造、病理なのだろう。 「敬老の日」に因むTVを観た。ドキュメンタリー番組の方は、97歳の夫が95歳の認知症の妻を介護する実話。夫は不自由な体の妻を労わり、筋力をつけるための筋トレすら辞さない。物凄い情熱と夫婦愛。それを実の娘(映画監督)が撮影する。しかも決して手出しをしない。実に勇気ある行動だ。あの年齢まで生きることすら困難だと思うのに、何という人間の底力だろう。 ドラマの方は一部だけ観て眠ってしまった。ドラマだからの話だが、夫の隠し子の相談に乗り、夫の愛人を自宅に招いて話す老婦人。この世にそんな出来た女はいないだろうが、ドラマとは言え、人生のあり方を考え直すに十分だった。人は何に生き甲斐を感じ、何を思いながら人生を閉じるのだろう。状況こそ違え、私も今似たような心境にある。最後は愛する者の腕に抱かれて死ねたら本望と。 現実そのもののドキュメント番組もそれを撮る監督も凄いが、ドラマを描く作家や脚本家も凄いと思う。時は絶え間なく移ろい、人生は過去へと遠ざかる。生きてこの世に在ることの意義。その間に観たさまざまな事象。暑く苦しかった夏は終わり、虫の音がすだく秋へと向かう季節。女は高い天に向かって祈る。そして男は豊穣の地に臥して祈る。与えられた命にひたすら感謝して。
2020.09.24
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~ブログのことなど~ ヘチマの花 9月だって言うのに、今日の仙台は35度の猛暑日になるとテレビの天気予報。何かが狂っている。どこかがおかしい。私たちが子供の頃の仙台は夏でも30度を越える日はごくわずかだった。そして海水浴が出来るのも梅雨明けからお盆前の1週間程度くらいなものだった。それに海風があって、仙台は案外涼しい土地でもあった。だが、どうだろう。今では四国や九州と変わらない暑さ。仕方なく空調を入れる。 コムラサキ 最近はブログにコメントしてくれる人がめっきり減った。ただしアクセス数が激減したのではない。それで良いし、当然の帰結なのだと思う。ヒステリックな人のブログは訪ねなくなった。更新する度にコメントしてたブログも、その相手が1か月も訪ねなくなると行くのを止めた。プライドが高い人は敷居が高いし、議論の相手にはならないと判断した人のブログへも行かなくなった。それもまた人生の一コマだ。 今年の梅干し 掲示板、日記、ブログ。ネットに日記を書くようになって20年ほどになる。その中で、ネット仲間の脅迫や嫌がらせもあった。またブログ仲間の死や、病気、認知症による閉鎖なども。去った者、去ったブログも多数。それもまた人生。物事には必ず終わりがある。それをいつ、どう見極めるか。毎日の更新をモットーにするわがブログも、いつか文章が書けなくなる日も来ることだろう。 玉造の宿の絵 先日パソコンの待ち受け画面を自分の写真から、ある人のものに変えた。これまでのは神戸マラソンのゴール間近の橋の上で撮ったもの。今度のは展覧会の会場で微笑む女性のもの。パソコンを開くたびにその人が私を見つめるようでドキッとする。ふ~む。これはボケ防止にはちょうど良いかも。男は女に見つめられるうちが花か。まあそれは多分女も同じだと思うのだが。 島根の焼物 台風10号の脅威がそれほどでもなかったのは、直前にほぼ同じコースを辿った9号が海水を攪拌したことで、水温が下がったのが原因とか。それで膨大な量の水蒸気の補給が絶たれたのかも知れない。物事には因果関係がある。それは人間の世界も自然界も同様なのだろう。ともかく今は厳しい残暑に耐えるだけだ。涼しい秋になれば少しは体の疲労も抜けるだろうし。 宍道湖の夜明け 猛暑が続いたせいか、ふだんは飲まないビールを良く飲んだし、美味いとも感じた。兄の葬儀のお返しに義姉がくれたお中元のミニサイズ。あれがきっと心の渇きを癒してくれたに違いない。そしてその一方で体重増加の一因になったのも確かだ。先日蒔いた大根、白菜、聖護院大根が発芽した。そしてキャベツの苗には蝶々がやって来た。卵を産み付ける機会を狙っているのだ。季節は音もなく移ろいで行く。 ある日の朝食 自民党総裁選の告示がなされる。そして、国民民主と立憲民主の統合議員総会が開かれる。夏休み中だった国会に間もなく活気が戻るだろう。そして解散総選挙へと一挙に政局が動くかも知れない。コロナが今後どう収拾しようとも、来年の東京オリンピックとパラリンピックは、予定通り実施するとIOCの幹部が宣言した。秋が深まって、猛暑が幾分でも治まってくれると助かるのだが。<続く>
2020.09.10
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~世論とは~ 辞意を表明した途端に内閣の支持率が急上昇した由。先だってまでA社の世論調査による内閣支持率は確か38%ほどだったはず。それが一転60%にまで跳ね上がり、他社の調査でも58%に及んだ由。ふ~ん、そんなものか。それを知っても私は特段の感慨も浮かばなかった。なぜそうも白けているかと言えば、世論調査を端から信じてなかったからだ。 どういうことかと言うと、設問の仕方一つで数字は変わると言うこと。先ず結論があって、世論をその方に向けようとすれば、それに相応しい設問を用意すれば良いだけ。私は長い間そのことに気づいていた。それだけ日本の国民は「利益誘導」されやすいと言うか、ジャーナリズムによる潜在意識操作が蔓延してると言うか。つまり自己確立が出来てないため、一見正義ぶった意見に囚われてしまうのだろう。 やれ「モリカケ」。やれ「さくらを観る会」。そして昭恵夫人が「公的存在」か「私的存在」かなどなど。TVのワイドショウや週刊誌のどぎつい目次につい騙され、いかにも自分が正義の味方であるごとく錯覚し、挙句の果ては一国の総理を「あべ」呼ばわりにする愚かしさ。そんなブログを幾つみただろうか。私はそれを見て鼻で笑っていた。他人の意見に惑わされる日本人がいかに多いことか。 ところが総理が辞任を表明後、盟友トランプ氏のみならず欧米の指導者が一斉に、安倍総理に対する称賛と惜別を露わにした。国連事務総長の賛辞などはその典型だろう。そうなって初めて国内のマスコミが後追いする。安倍総理がこれまでの任期中に果たした外交実績にようやく気付く。それも世界が認めなければいつまでも嘲笑し、責任追及に血眼だったであろうに。馬鹿は死ななきゃ治らないのだ。 「安倍はトランプの金魚のウンチ」。私のブログにそう書き込んだ御仁がおられた。私は以後その人のブログには行かなかった。意見は自由だが、他人のブログに書く言葉ではない。そしてもしたとえ金魚のウンチだとしても、それでどんな国益を損なう事例が発生したと言うのだろう。8年もの就任期間で国政は安定し、G7での日本の国際的な立場も強固なものとなった。そんな総理がこれまでいたかどうか。 ミャンマーのアウンサンスーチーさんや、アメリカのオバマ氏はノーベル平和賞を受賞した。だがそれは絶対ではない。アウンサンスーチーさんはその後軍事政権と妥協したし、何よりも少数民族ロヒンギャを蔑視することで、彼らは難民となって隣国のバングラデシュで未だにテント生活を強いられている。そして貧しいバングラディシュでも迫害されている。 一方のオバマ氏はどうか。彼がノーベル賞をもらっているうちに北朝鮮は軍事大国となって原爆を保有し、中国は南シナ海に軍事基地を建設してしまった。どちらもアメリカが停止させる機会がなかったとは言えない。それに強硬姿勢を見せたのは素人政治家で破天荒なトランプ氏。あのお騒がせ大統領が、世界覇権を目指す中国に待ったをかけ、危うい北朝鮮と必死に駆け引きを続けている。 ジャーナリズムなんてそのまま信用してはいけない。彼らは「売れる記事」を書き、そのために人の樹を引く「見出し」をつけ、多くの広告収入で自社が潤えば良いだけの話。それは野党も同じ。与党を攻め、総理を攻め、いかにも自分たちが正義漢面して国会議事堂を闊歩してるだけの話。人間は誰でも自分が正義だと信じたい存在。その弱みに付けこまれるのもまた人間の弱さなのだろう。 弛まぬ信念を持つことは難しい。人間は他人の意見に左右されやすい生き物だ。そしてそれを持ち続けることはさらに難しい。人間はいつか年老い、変容して行く生き物だ。「無私」や「無欲」はさらになる高み。神ならぬ人間は誤謬を保有する生き物だ。たかがブログされどブログ。たかが人生、されどわが唯一無二の人生。かくてジジイは今日も迷いつつ生き、何が物事の本質かを見極めるつもり。<続く>
2020.09.08
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~怪我もしたけど~ 前夜からそれを玄関に置いて用意していた。そして当日の朝は、十分間に合うように起きた。天気も悪くない。雨が降れば延期になる町内会の草刈。だが「生憎」雨は降ってない。いつものように朝一の血圧を測定し朝食。そして食後の服薬と歯磨き。全てはルーチンで、順番が狂うことはない。行き付けの内科医では毎回50日分の薬を処方されるのだが、間違うのはせいぜい1回。 第1日曜日の朝7時半、バス停前の花壇に集合するのがわが班の約束事。その草取りをするのだが私が一番乗りだった。先月は雨がパラパラ降ってたので、これは中止だろう。そう思って行かなかったのだが、皆は小雨の中作業をしたみたい。それで今回は新しい鎌を買い、忘れないようにわざわざ玄関に置いていたのだ。新しい鎌はさずがに良く切れた。これは助かる。気分良くドンドン雑草を刈る。 だが好事魔多しとはこのこと。刈た草を手に持ってバス停に行こうとした途端に転んだ。花壇は斜面になっていて、前日の雨で滑ったのだ。幸い鋭利な鎌で切ることはなかったが、コンクリートブロックで肘をこすり血が出た。まあ軽傷軽傷。ほんのかすり傷。そう言い聞かせてそのまま終了時間まで働き続けた。わずか30分でお開きになり。雑草が詰まったビニール袋をゴミ収集所まで運んだ。 私の場合、本番はそれからだ。続いて庭と畑の草取りをする。この日は覚悟をしていた。雨は降っておらず比較的涼しい。それに蚊も少ないみたいだ。先ずキュウリとゴーヤのネット並びに支柱を外す。ついでトマトとモロッコインゲンの支柱を外し、苗を抜く。最後にカボチャの蔓を抜き、ナスの苗を抜いた。残った苗は万願寺唐辛子だけだからもうサッパリしたもの。これで草取りも楽だろう。 これが最後の収穫。なんともう1本ゴーヤが獲れた。都合4本。昨年の種を蒔いての収穫なので、まあまあか。この後、モッコウバラの蔓と長く伸びた梅の枝を剪定する。そして通行の邪魔になっていたシュウメイギクの茎も少々。それらの残骸は全て裏庭の片隅に積み上げた。いずれ腐れば立派な堆肥になるはず。そのためにも種がある雑草は別途より分けて燃えるゴミ用の袋に詰める。 これが今年最後のトマトが15こほど。そのまま放置すればやがて色づいて食べられるようになるが、ゴーヤやさつま揚げなどと煮込んで、佃煮を作ることに決めていた。その方が無駄なく効率的に食べられるし、調理後も長持ちすると考えたからだ。 これが作りかけの佃煮。青トマトがまるでカレーの中のジャガイモか玉ネギのように見えるのが愉快。何だかミスマッチみたいだけど、トマトの佃煮、さっぱりしてとても美味しいですよ。きっと栄養のバランスも良いはず。 そしてこれがわが家の「ただ」のカボチャ。「ただ」と言うのは、去年食べたカボチャの種を取って置き、それを蒔いたのが発芽したから。右の小さい方が先日梅の木に巻き付いていたもの。買えば300円くらいかな。そして左が今回の収穫。蔓のへたがまだ若いけど、完熟するまで待てば500円くらいかな。それにしても上出来でしたね。 そして最後に植木鉢のゴムの木の枝を2本切りました。4月中旬に外へ出していたらドンドン成長して、枝が伸びたんですね。それがカーブするようになったので、少し負担を減らしてやろうとおもったのさ。自分が生きるだけでなく、庭の植木の生育や、畑の野菜の生育にも出来るだけ心を配らないとね。常に求められる何らかの判断も、ジジイにとっては訓練の良い機会なんだよ。<続く>
2020.09.07
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~老後を生きる~ 作家の内館牧子さんがTV番組で話してるのを聞いた。テーマは老後の話。端的に言えば自分が死んだ後の始末についてだった。未婚の彼女は女性作家としての苦労を重ねたはず。サバサバした性格なのか、自分は余生を楽しめればそれで良く、死後は不要だと思った品は捨ててもらって構わないと。もし遺産を相続する家族もいないのなら、そしてそれで済むのなら楽で良いとも思う。 このところ良く目にするのが曽野綾子と石原慎太郎の対談集のコマーシャル。かなり高齢な二人が死を目前にした今、何を考えているかという内容のようだ。カトリック信者の曽野と法華経を信じる石原。先ずはそれぞれの確固たる宗教心を羨む。曽野は88歳で夫の三浦朱門を見送ってからは、それまでの信念がさらに深まったように感じる。一方の石原も都知事時代は散々批判されたが、超然としていた。 私が二人を羨む2番目の理由は、死後の心配をしないで済むことだ。葬式のことや財産の始末だ。曽野の遺族の存在は知らないが、石原には立派な息子が3人もいる。だから何の心配もなく死ねるはずだ。だが私はどうだろう。まだ生きているうちから財産の処理と葬式の心配もしている。それは2人の息子が遠くで暮らしているからであり、父親の死後の始末を出来るとも思えないためだ。 最近はポスティングで売家を求めるチラシが良く入る。それはわが家が高齢者の独り暮らしであることを住宅販売会社が知ってるからであり、チラシはその「出汁」なのだ。今ならどれくらいの値段で売れますよとのゼスチャーだが、私はそんな手には乗らない。家を売った途端に住む家がなくなるし、第一大型の家具を始末する必要があるが私にはまだそんな気はないし、体力もない。 わが家を建てた大手の住宅メーカーからも、家の「サムストック評価」なるものを受けないかとの誘いが良く来る。これも来るたびに無視。彼らは家を建てるだけでなく、点検とリフォームでも家主に金を遣わせ、挙句の果ては家を買ってリフォームし、高く売り付けるのも商売の内。またわが家くらいの敷地があれば更地にして2棟建てられるかも知れない。とも角今は先方の都合に合わせる気持ちはない。 本音を言えばこれからのわが人生の最後の10年を付き合ってくれる伴侶を探しているのだが、見通しは暗い。先日思い余って「結婚相談所」をネットで探して連絡した。全国に名が通った会社は安心が出来ると考えて資料請求。それで申し込みをし、仙台支社へ行って相談した。だが結婚相談は若い人が中心で、大半が30代から40代の男女。東北地区の60代以上の女性会員はわずかだかった。 次に「性格心理学」と「色彩心理学」の設問に答える。私と相性が良い女性会員は大阪に2人いる由。だが実際に会うことは無理と考えて諦めた。次の電話は「仲人業」の女性。だが、電話はもう使われてなかった。次は「安心・無料」の相談所。こちらも電話は通じなかった。そんな訳で、もうすっかり疲れ果て家に引き籠っている。 そんなこんなで意気消沈の日々だが、あらためて別の会社で結構相談をするか。それともエンディングノートに少しずつ「後始末」をメモし、息子たちがまごつかないように準備するか。コロナ自粛が当分続くこの機会に、人生最後の断捨離を考えておこうと思っている。<続く>
2020.09.06
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~悲しみを乗り越えて~ その人を知ったのは9年前。東日本大震災の年なので良く覚えている。その未曽有の災害に関し、非常識なコメントを書いた2人のブロ友と別れた。その寂しさがあったのだろう。あるブログを通じて知ったその人のブログを訪ねたのだった。平和に暮らしている平凡な主婦。花が好きで家庭菜園が好きな、ごく当たり前の感覚のその人。この人は何の心配もなく付き合える人。私は出会った時からそう感じていた。 ただ、気掛かりなことがあった。私のブログにお子さんのことを書かれたコメント。それがその人の一番の心配事だったのだろう。私も3人の子の父親として、子供に対する心配は尽きない。結婚もせずに東京で働く2人の息子がいたからだ。もし彼らが普通に暮らし、家庭を築いていたのならどれだけ安心して老後を迎えられたか。だが人生は無情。それほど甘くは出来ていない。 その人のブロ友さんも徐々に分かった。いずれの方も温和で平和な家庭の主ばかり。どんなブロ友を選ぶかで、選んだ人の人柄も分かる。私もそのうちの何人かといつしか交流するようになった。もちろん何の違和感もない。穏やかで平安な暮らしは、私の実生活には欠けたもの。私は妻と心が通い合わず、長い間家庭内別居状態にあった。子供のころから家庭的に恵まれず、結婚後の家庭も心安らげるものではなかった。 その人のブログが突然更新されなくなった。1年半ほど何の音沙汰もない。これは一体どうしたのだろう。私は心配になった。喧嘩別れしたブロ友、病気で亡くなられたブロ友さん、認知症になってブログを閉じた方もいたが、さて、一体その人の身に何が起きたのか。病気で入院していたことを知ったのは1年半ほど後だったろうか。そしてその後はリハビリを続けられていることを知った。 一方私は長年連れ添った妻と家庭裁判所の調停により離婚した。どうしようもない自分の気持ちをブログに赤裸々に記した。ほとんどのブロ友が当たり障りのないコメントをくれた中で、「洗いざらいぶちまけたら良い」と本音で書いてくれたのはその人だけだった。それが私には救いにも慰めにもなった。老後の男の独り暮らしは苦しいが、ブログと家庭菜園などの趣味が、私の慰めになった。 しかし悪いことは重なるもので、その人のご主人が亡くなったことを知った。何と言うことだろう。きっとまだ若いご主人だったのだろう。事情は良く知らないがご夫婦で海外に旅されたことなどをブログで書かれていて、仲睦まじいご夫婦だと感じていた。それが2人のお嬢様を残して先立たれたご主人と、目下リハビリ中のその人。どれだけ辛い思いをされて来たのだろう。 その人が先日ブログで悲しみを漏らしていた。妻に去られた私とは異なる苦しみと悲しみ。私は諦めることが出来るが、その人はどうか。明るくて、穏やか。何事にも拘らず大らかなその人。きっとその人なら悲しみを乗り越えると思うけど、自分に手伝えることはないか。もう少しその人が落ち着いたら、わが家に迎えることは無理だろうか。互いに助け合って残された老後を心穏やかに過ごせたら嬉しいのだが。 幸い私は何でも自分で出来るし、その人が大好きな庭も畑もある。そしてトイレ、洗面所、浴室、2階への階段には「手すり」が取り付けてある。だから体一つで来てくれたら嬉しい。でもそれは私の勝手な想い。だが海外旅行は無理でも、六甲山に青いケシを見に行くことなら喜んで付き合うよ。リハビリ出来る病院も近くにあるし、家事や買い物も今まで通り私が出来るしね。腕だって肩だって喜んで貸すさ。 その人の悲しみが早く癒され、少しでも早く元気が戻ることを祈っている。そして今、その人が好きな青と白のあるものを準備中。それは決して腐らないもの。その人にそれを手渡せる日が来るかどうかは分からないが、いつか私の気持ちがその人に伝わることを願っている。その人と巡り合わせてくれた楽天ブログに感謝している。いつもありがとう。遥かなるわたしの友よ。これからもずっと健やかでありますよう、今日も祈っています。
2020.07.08
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~通夜と葬儀を終えて~ ナツシラギク 6月8日も兄の死に関する俳句を載せたが、あれはまだ通夜や葬儀を行う前に兄の訃報を聞いて詠んだ想像上の句だった。俳句、短歌、詩など文学に関心を寄せている者にとっては、常にイメージを言葉に置き換える訓練を積んでいると言っても良く、想像でもそれなりに作品を生み出すことは出来るものだ。今回は実際に式典に参列しての思いを句にしたもの。さてどれだけの違いが出るか。 夏の礼服を出した。冬物に比べて生地が薄い分、幾らかは涼しく感じる。ワイシャツを着るのも、ネクタイを締めるのも、革靴を履くのも久しぶりのことだ。通夜の会場に着いてビックリ。兄の遺影があまりにも頬がこけたものだったからだ。そして棺に安置された兄と対面。最後は食べ物を摂れなかったせいか、やはり病気の老人の顔になっていた。口を結び無言の兄に合掌し、冥福を祈った。 頬こけし兄の遺影や百合の花 百合は夏の季語 眼閉じ百合手向けらる兄の黙 *まなこ *たむけ *もだ=沈黙 遺影胸に揺るる車内や不如帰 *ほととぎす=夏の季語 火葬場に向かう霊柩車に兄の遺影を抱いて乗った。遺影を持つのも、霊柩車に乗ったのも初めての経験だった。鬱蒼とした森を過ぎて火葬場に到着。 兄の遺体が焼き上がるまでの間、控室で待っていた。コロナ対策上廊下の窓も部屋の扉も開かれ、通気を良くしてあった。待合室から帰って来た姪が、ツバメが窓から入って来て館内を飛んでいたと言う。先日は飛ぶツバメと兄の死を句を詠んだが、あれが本当のことになった。アナウンスで呼ばれ焼き場に向かった。まだかなり熱い兄の遺骨を竹の箸で拾い集めた。 焼き了へし骨の熱さや燕飛ぶ *おえ *つばめ=夏の季語 厳かや月に輝く釈迦の骨 高野山の塔頭でみた仏舎利を思い出して 病気のために姪(兄の長女)は通夜にも葬儀にも参列出来ず、代わりにその婿が出た。その彼も仕事のために現場に行くとかで、火葬場には向かわずに新潟のダムへ行った。大学院で地学を専攻した由。 通夜の膳姪来ざるまま百合の花 走り梅雨姪の一人は病にて 火葬場から葬祭会館に向かう帰路は、焼き終えたばかりの遺骨を私が持った。骨自体は軽いのだが、骨壺が案外重たくて、女性は無理と喪主の兄嫁から委託されたのだ。 白骨となりし兄なりえごの花 エゴの花が夏の季語 ホトトギス 葬祭会館から最寄りの地下鉄の駅まで歩き、そこから終点まで地下鉄に乗った。前日もこの日の朝もタクシーだったが、まさか地下鉄の駅に近かったとは。敬老パスも使えるため安上がり。終点から自宅まで歩いて帰る山道でホトトギスの鳴き声が聞こえた。漢字だと不如帰、時鳥、杜鵑などと書くこの鳥は渡り鳥。深い森に棲み、夜中などにも独特の鳴き声が聞こえて来る。 鳴いて血を吐くホトトギスと言われるが、さほど鳴き声が煩いと感じたことはない。むしろ「てっぺんかけたか」とも聞こえる、キェッキェッキェキェキェキェが懐かしい。岩手県の100kmレース中に、お暗い森の中で何度か鳴き声を聞いたことがあり、自宅付近でも夜中に聞いた。 手に重き兄の遺骨や不如帰 時鳥弔ひ終へし杜の道 *とむらい 自宅付近まで坂を下ると、あるお宅の庭にホタルブクロ(蛍袋)の花が咲いていた。これも夏の季語。これを用いてどう詠もうか。 逝く兄や蛍袋の涙雨 革靴で坂道を下ったせいか、翌朝は足が奇妙に痛んだ。まだ疲れが残ってはいたが、このところの高温で茂った庭の雑草が気になって、草取りをした。そして午前中にスーパー2か所で食料品の買い出し。これでまた新たな一週間が始まる。礼服をハンガーに吊してクローゼットに収納した。
2020.06.10
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~45年間の闘病を終えて~ 虫歯予防デーの6月4日、5歳違いの兄が逝った。36歳で初めて倒れて以来、その後も2度倒れて障碍者となった兄。だが義姉(兄嫁)の手厚い看護と介護に守られて45年も生き永らえた。心臓が強いらしく、幾つもの危機を乗り切りこのたび81歳で永眠した。今回のコロナ騒動のため、義姉は入院中の兄に面会出来ず、私も訪れることが出来なかった。長い闘病を終えた兄は、天国へと旅立って行った。 戦後の混乱で苦労した父は40歳で死に、残された私たち兄弟は長い貧困生活を送った。兄は定時制高校に通いながら勤め、私もアルバイトをしながら高校を卒業し大学は夜間の二部だった。姉も弟も苦学して資格を取り社会人となった。私と弟はやがて転勤族となり、私たち兄弟が一緒に暮らせた期間は短かった。それは私たち兄弟に与えられた運命で、それぞれ必死に頑張って今日を迎えた。 山神の石碑 6日に通夜、翌7日にささやかな家族葬で兄を送った。今日は兄の冥福を祈り、最近私が撮った白い花の特集とした。 コテマリ サンザシ(山査子) サンズンアヤメ ツツジ ベニカナメモチ ヤマボウシ(山法師) シャクナゲ(石楠花) マーガレット ミヤコワスレ(都忘れ) アネモネ イチハツ シラン(紫蘭の白花) エゴ カシワバアジサイ(柏葉紫陽花) ヤマボウシ(山法師) ノイバラ(野茨) ホオズキ(鬼灯) 散ったエゴの花 桐の花兄は鬼籍に入り給ふ *きせき *たまう 燕天に還りし兄送る *つばくらめ=ツバメ *かえる 生と死に別れし夕や桐の花 燕鬼籍に入りし兄の貌 *かお 野茨や通夜で逢ひたる姪二人 *のいばら 散るえごや鬼籍に入りし兄の貌
2020.06.08
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<コロナ禍に生きる> 何せ雨が降り続いて寒く、おまけに閉塞感が半端ないもんだから、その日はYoutubeを聴いていたんだ。合唱曲、クラシックの名曲、ギターやチェロ、映画の主題歌、テレビドラマの主題歌などをね。その中には「三人の王の行進」、や「オーゼの死」もあった。それが小学校5年の時に初めて聞いた西洋音楽でね。それが印象的だったのか、今でもちゃんと曲名を覚えていたと言う訳さ。 その夜はなかなか寝付けなかった。大金を持って家を出た前妻のことを思い出してね。彼女が20歳の時から50年も付き合ったのに、ついぞ心が通じたと感じたことがなかったなあ。3人の子供が生まれたと言うのに、あの日々は一体なんだったのだろう。20代の俺には、まだ女の本性や、人生にとって一番大事なものが何かが見えて無かったんだろうな。まあそれも良い人生勉強にはなったが。 だがその夜も睡眠薬は飲まなかった。飲もうと思えば飲める。何せテーブルの上には30錠も残っているのだから。ある時薬剤師に聞いた。これを全部飲んだらどうなりますかと。そしたら彼曰く。「ずっとそのまま寝てますよ」だって。だがそれだけはしない。残された子供が迷惑なだけだ。15の時親父が死んだ。あの死臭は忘れられない。そして今の子供たちには、俺の葬式を出すのはまだ無理のはず。 翌朝起きて洗濯物を干し、朝食を食べた後庭に出て雑草を取り、インゲンの支柱を補強し、10本のトマトに本格的な支柱を施した。そしてお日様が出てから布団を干した。多分6日ぶりの晴天。気温がどんどん上がるのが分かった。それで半袖になり冷やし中華を作った。当然と言えば当然だが、冷やし中華はやっぱり暑い日に食わないと旨くない。洗濯物と布団を取り込んだ後、俺は自転車で出かけた。 向かったのは5km先の園芸店。そこは野菜と苗と花の専門店。何か目ぼしい苗があったら買おうと思ったのさ。それに安い野菜も仕入れて置こうかと。結局そこで買った苗は万願寺唐辛子が3本と、長ナスが3本。小松菜1把、キュウリ3本、ナス5本。誕生月の値引きカードを使って100円引き。おまけのタマネギ1個をもらって804円は安いよな。2回目は200円引き、3回目は300円引きだよ。 帰宅後さっそく長ナスと万願寺唐辛子を植え、支柱を施して水やり。植えたのは十分肥料が効いてない場所なので、根付いたら石灰、鶏糞、化学肥料などを施す予定。雲南百薬の葉が出だした。三つ葉を15本ほど切ってお浸しにしたが、茎が堅くなって来た。そろそろ今年も終わりか。今日は3匹の犬と遊んだ。雑種のヘバ、名無しのトイプードル、そしてビーグル犬のモモ。モモの飼い主とも少しだけ話した。 新型コロナの収警戒解除言が出そうだが、果たして本当に大丈夫なのか心配だ。安倍総理にかつての切れ味はなく、野党の追及にしどろもどろの昨今だ。口先ばかりで真実味がない。バレバレの逃げ口上ばかりで、総裁任期を1年残して、早くもレームダックになった感がある。昔のコマーシャルじゃないが、「男は黙ってサッポロビール」。かと言って野党はだらしないし、与党も人材不足の感多大。 乏しい食品と調味料ながら、今週も工夫をして何とかしのいだ。酢豚味の野菜炒め、フキ、ニンジン、うるい、油揚げ、ベーコンの煮物、カレーライス、ポテトサラダ、タマネギの葉っぱのぬた、焼き魚、焼肉、餃子に焼売などなど。そして最後の手段は残り物を総動員した雑炊。これが腹にも懐にも優しく、冷蔵庫の在庫一掃にも役立つ超優れもの。かくして今週もまた生き延びた、これで俺も案外しぶといのかも知れないなあ。ワハハ。
2020.05.28
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<死にゆく兄を悼む> 走り梅雨のような雨が続く3日目の朝、義姉から電話があった。電話が鳴るとハッとしてディスプレーの電話番号を確認する。義姉だと分かっていよいよかと覚悟。兄が入院して2か月、医者も出来るだけの手は尽くして、後はもう死を待つだけになり私は「不祝儀」を準備した。新型コロナ騒動の真っただ中にある今は、義姉でさえも面会出来る状態になく、兄も機械で生かされているだけだった。 葬儀に関する義姉の意思は分かった。それで不祝儀の袋に名前を書き、お金を包んだ。きっと宮崎の弟も来るはず。彼の後添えの連れ子が先日亡くなったことを義姉を通じて知ったが、そのお悔やみもしてないまま。そちらの分の袋に名前と金額を書き、お金を包んだ。きっと弟はわが家に泊まるはず、その時に手渡そうと思う。36歳で倒れて以来45年近く、兄の面倒を観続けて来た義姉。 私たち兄弟は幼少時から家庭的に恵まれず、姉も家庭不在のままに死んだ。高卒後私と弟は独立し、ともに転勤族となって全国を回った。だから兄弟としての付き合いもほとんどないまま今日を迎えた。だが兄は良い義姉がずっと介護してくれた。弟も良い前妻が亡くなった後、素敵な後妻と出会った。それに比べ50年近く付き合った前妻が大金を持って家を出た私は、独り暮らし。人生の厳しさを感じる身だ。 気の赴くままに幾つかの句を詠んだ。間もなくあの世に旅立つ兄への挽歌になれと。 雨の日や薔薇咲き早も薔薇散りぬ 走り梅雨兄発ちたるか死出の旅 *たち 六月の雨や死にゆく兄の貌 *かお 小満や兄の死に顔見ざるまま *しょうまん 生も死も美しきかな薔薇ぞ散る 父逝きて姉兄続く卯月かな *うづき 生も死も八十年の卯月かな 青梅や会はざるままに兄逝きぬ 六月や死にゆく兄の涙雨 梅雨寒やチェロ聴き歳時記繙く日 *ひもとく ともかくも酢味噌に和へむ葱坊主 走り梅雨五つ違ひの兄逝けり のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて 足垂乳の母は死にたまふなり 母の死に際して斎藤茂吉(歌人・精神科医=斎藤茂太、北杜夫兄弟の父)はそう歌った。玄鳥(つばくらめ)はツバメのこと足垂乳(たらちね)は「母」にかかる枕詞。母が息を引き取ろうとするまさにその時、喉が赤いツバメが二羽家の屋梁(はり)に止まっていた。 精神科医としての冷静な観察だけでなく、生母に対する深い愛を感じる。それはやはり幼児期から母に愛された記憶が濃厚に残る証だろう。だが父母の愛を知らないままに育った私たち兄弟は、愛だけでなく哀しみの感情すら乏しいのかも知れない。 雨降りて十薬伸びる寓居かな *じゅうやく=ドクダミ *ぐうきょ=仮住まい 十薬に庭奪はれし寓居かな 義姉から兄が危篤に瀕していることを聞いたその日から、心に浮かんだ俳句を書き留めている。このブログは予約機能を使って書いており、実際は24日の日曜日。まだ兄の訃報には接していないが、45年以上の間病と闘って来た兄だけに、覚悟が必要だ。瀕死の肉親をすら俳句にする私だが、どんな非難にも耐えよう。死も生も生きとし生くるものの定め。誰しも逃れることは出来ない。
2020.05.27
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<58年ぶりに思い出して> nobody know the trouble I' ve scene nobody know but Jesus nobody know the trouble I've scene glory halelija! sometime I'm up sometime I' m down oh yes laud sometime I'm almost to the ground oh yes laud この歌を始めて聞いたのはまだ高校生の時 今から58年も前の頃だ 聞いたのは仙台の中心街にあった小さな教会 歌ったのは、高校生の指導者であったバーヤ その教会では、教会の信者をニックネームで呼び合うのがルールだった バーヤは当時20歳ほど 東北大学法学部の2年生だった なぜバーヤは私たちの前で突然そんな歌を歌ったのだろう 思うにバーヤは失恋したのだ 相手はこれも高校生の指導者だったサユ ある洋服屋さんのお嬢さんで当時短大の2年生 優しくて美しい人だった 指導者になるほどだから2人とも熱心なクリスチャン バーヤはサユに愛を告白し サユはそれを受け入れなかった だがそれで2人の信仰心には何ら変わることはなかった バーヤの声は哀愁に満ちていた 心が張り裂けそうな悲痛な声 その歌を今もこうして覚えているのは きっと感銘を受けたためだろう 高校生当時は英語の意味すら分からなかった この歌は讃美歌ではない ゴスペルかソウルなのかも知らない ~ 歌詞の和訳 ~ 私が味わった苦しみを誰も知らない 私が味わった苦しみを誰も知らない ただ一人イエスを除いては 神に栄光あれ ハレルヤ 時に私は立ち上がり 時に私は倒れた ああわが主よ 時に私はほとんど地に臥した ああわが主よ <マックス爺 訳> 今回の断捨離作業中の深夜に、私は突然この歌を思い出して歌った。 曲はたった1回聞いただけで歌詞もあやふやだったがそれにも拘わらず 最後までちゃんと歌えた。そして、英語の歌詞も何とか思い出せた 58年前にたった1回だけ聞いた歌を思い出して歌う。 こんな奇跡があるだろうか だがその奇跡が本当に起きた 高校3年のクリスマスの日 私は洗礼を受けた まだ17歳9か月の多感な少年だった その歌を深夜に泣きながら歌った75歳になる俺 だが声は出なかった。長い独り暮らしで声帯の筋肉が衰え 喉が引きつり息が詰まった それでも俺は何とか喉をを振り絞り 声の限りに歌った この歌の通り俺は連日の厳しい断捨離で ほとんど地に臥すほど疲れていた それでも翌朝は立ち上がって再び断捨離に立ち向かった ほとんど眠ってなかったのに 状況はまさしく 歌詞の通りだったのだ あれはきっと俺1人が働いたのではなく 神様が背後で守ってくれていたのだろう もしそうでなければ、俺はとっくに倒れて死んでいたはずだ それほどの激務だった 40日間もの長い長い戦いの日々 俺はほとんど死にかけていたが こうして未だに生き 奇跡の話を詩に書いている 死の代わりに詩 かつて沖縄で起きた奇跡がまたもや俺の身に起きた 洗礼を受けたあと俺は就職し 職場を変わり 夜学に通い 妻と知り合って結婚し 転勤し 3人の子供に恵まれ 故郷に家を建て 認知症になった妻にお金を持ち逃げされた そして 今では独り暮らしの身となった 離婚後3年間 全く手を付けられなかった断捨離を今回 俺はたった1人で始めた 痛む腰 痛む肩 痛む肘 痛む膝 そして痛む手で そして不要品を全て捨て 次は庭の改造に取り掛かろうと決めたその夜 俺はかつてバーヤが歌ったこの歌を58年ぶりに思い出し 歌ってみたんだよ そしたらシワガレタ声でもなんとか歌えた 歌いながら泣いた 歌いながらなんでこの俺が今 こんな夜中に1人で苦しんでいるのかと思った時に そうではない あの歌の男も同じだと気づいた 起きては倒れ 倒れては起きして 神の偉大さにおののく男 男は倒れながらも神の栄光を讃えたじゃないか 思い出せ 今の俺があの男そのものだということを 栄光あれ ハレルヤ <高校3年以来変わらない私の聖書(右)と讃美歌(左)> 成人になって、俺は煙草を覚え、酒を覚え、麻雀に溺れるようになり、教会からも遠ざかり聖書を読まなくなった。それでも神社や寺院を巡った時、俺は必ず「アーメン」と心の中で唱えていた。それだけがかつての信仰の薄汚い残骸だった。 この俺にお墓も戒名も不要。ただ普通の人間として、出来たら心だけもキリスト教徒としての死を望む。体調が戻り次第、また庭を改造する予定。どうか最後まで持ってくれ俺の腰よ。俺の肩よ。俺の肘よ。俺の膝よ。俺の手よ。そしてわずかに残った俺の信仰よ。<完>
2020.03.19
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<ある推理> 早朝のため、どの家にどんな新聞が配られるのか分かる。配達人の顔も見知って間違いないが、それを誰かに漏らすことはない。注意して見ると、物陰から見ていたのはあの新聞の家。それが朝から晩まで私の家をじっと見ている。こ何で私のことを見張る必要があるのだろう。私個人への関心か、財産か。それとも宗教的な理由か。 老婆とその娘が交代で見ている。全く気味が悪い。独り暮らしになって3年近いが、母娘は私が離婚したことを知っている。妻の友人にも彼女らの仲間がいた。知らず知らずのうちに、私は「淋しいな信号」を発信していたのだろうか。母娘の見張りは半月続き、今でも時々こっちを見ている。それ以上の行動は当然出来ないが。 ある時某宗教団体の人が新聞の集金に来て、ハッと気づいた。ひょっとしてKちゃんは別団体か。そしてシェアハウスの人やあの母娘もその仲間だとすれば符合が一致し、全ての疑問が解ける。さてKちゃんが来る2月の集金日は俳句教室でとても忙しい。家を出るギリギリになって来たKちゃんの顔を見て、私はギョッとした。 美人か不美人かは問題外。私が驚いたのは彼女の眼。まるで弱った魚のような濁った眼だった。1月の強風の中で根気よく私の話を聞いてくれた彼女が、まさかこんな眼をしていたとは。あの時私が聞いた声のトーンとはまるきり異なる印象。とても若い人の眼とは思えない、生気のない眸。 私が俳句教室に行くと言うと、「俳句を楽しんで来てください」と彼女。その時初めて私が長期間断捨離していたことを話した。それ以前には知らないし、ブログのことは初めから知らない。もし彼女、母娘、シェアハウスの人が同じ団体に所属しているとしたら、彼女が私に急接近したと感じた理由が分かる。あくまでも推定に過ぎないが、あの組織の情報収集と仲間意識は大変なもの。用心に越したことはない。<完>
2020.03.17
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<妻の狂気> やがて妻が所属する写生会や職場の仲間とトラブルを起こしたことが聞こえて来た。その方は近所で私も良く知っており、妻と旅行した際、「私が妻の金を盗んだ」とバスの車中で、一日繰り返していたと言う。もちろん事実無根だし、「私の彼女が沖縄にいて、毎年私が沖縄に行くのはその彼女に会いに行くため」と言う事実もない。それを子供たちや友人に話したようだ。妄想の世界の住人だった。 彼女は40過ぎから家計をごまかし、自分名義で預金していたようだ。そして離婚すれば「私の年金の半分をもらえる」ことや、「彼女名義のお金は自分のもの」と勘違いしていた。私が「市の税務相談」で聞いたことを教えても信じず、急速にお金と「食べ物の亡者」に変身して行った。 3人の子供はお金で手なづけ、自分の味方にした。子供は全員親元から離れて暮らしているため両親の暮らしの「実像」が見えず、お金をくれる妻の言い分を信じ、私は家の金を盗み、他に彼女を作る「悪者」となった。家計は結婚以来彼女が管理していたため彼女の「取り放題」状態。彼女の嘘は巧妙化し、「彼女のお金」が雪だるまのように増えて、ますます楽しくなったのだろう。 そして通帳の隠し場所を変えたのを忘れる度、私が盗んだと疑う繰り返し。彼女は私名義のお金がどれくらいあるかを知ってるが、逆に私は彼女名義のお金の額を知らない。私の退職金も妻が差配した。一部は2人の息子の年金型保険や私の「個人年金」にも割かれたが、満期に達した私の生命保険を勝手に解約して、自分名義の通帳に入れたようだ。 家裁の離婚調停では弁護士をつけた彼女が全面的に有利となり、私は「手切れ金」まで渡して貧乏に。彼女が去った後、家電の相次ぐ故障。自宅のリフォームもお金を使った。それでも暮らして行けるのは、「節約暮らし」のお陰。彼女名義のお金は、彼女の死後、3人の子供に均等に行き渡るはず。私は私名義の残金をしっかり管理して、生き抜こう。 断捨離に励んでいたある時、何となく人の視線を感じて外の様子を伺った。すると、ある家の物陰から、じっと見ている姿に気付いた。これは変。何か様子がおかしい。なぜそんなことをするのが解せない。山形勤務の頃は朝4時に起きて愛犬との散歩後に長距離通勤していた。その時気づいたことがある。<続く>
2020.03.16
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<デジャブー・既視感> 2月のある日、新聞の集金人が訪ねて来た。いつの間にか宗教の話になった。真面目なのは分かったが、私の信条には合わない。ネットで調べると、どうやら同じ区内に、彼らの団体の施設があるようだ。そうか、それで分かった。これまでに何度も訪ねて来たことがあった。パンフレットを置いて行ったが、読まずに捨てた。ハッとするような美人だったが、その団体に関心はなかった。 しかし、待てよ。この既視感(デジャブー)は、以前にも感じたことがあるぞ。さて、何だったか。記憶を探っているうちに「アッ」と思った。毎月集金に来る人は他にもいる。Kちゃんだ。その彼女がわが家担当になって1年近くなるのに、話し込んだのは雪が降った1月下旬。雪は止んだが、強い風が吹いた日だった。その寒空の下で、彼女は私の話を2時間近く聞いてくれ、そのことに感激した私だった。 だが、どうも腑に落ちない。会話中に彼女が大きく動揺してると感じたことが2度あったからだ。1回目は私が別れた妻に、「お父さんは女に騙される」と言われたと話した時。そして2番目は、「次男が時々帰省する」と言った時。なぜ無関係の彼女がそんなことに大きく反応したのかが不思議。 彼女はある団地で、誰かとホームシェアリングしてると言っていた。昨年初めて仙台に来て、ようやく暮らしに慣れたとも。前に住んでいた市では、何か大変な目に遭ったようだ。それが何なのかは不明だが、私は大体想像がついた。9年前の大震災の話になった時、「実家は大丈夫だったんですが」と彼女が言った。実家は被害に遭わなかったが、じゃあ「婚家」か。私はそう受け取った。 私は彼女が気の毒で、何とか助けられないかと考えた。それが断捨離を始めるきっかけになったのは確か。そしてそれが自分の命を削る大作業になることを、全く予想してなかった。自分の年齢と体力を思えば、今回が断捨離を行う最後のチャンスであろうことは認識していた。前妻との離婚後3年近く経つが、子供たちの古い写真などの処分は手つかずのままだった。 断捨離を決心した日から、連日15時間ほど作業に熱中。あんまり頑張り過ぎて夜も眠れないほど。そこまで私は没頭していた。私にとって断捨離イコール「終活」。この機会を逃してはいけない。その一念で、辛い作業にも耐えることが出来た。だが、いざ子供たちの幼かったころの写真を捨てる段になると、心が怯んだ。何を捨て、彼らのために何を残すべきか、その判断に苦しんだ。 しかし、不幸の典型とも言うべきわが家にも、幸福感に包まれていた時があった。若い時の妻はそれなりにきれいだったし、3人の子供たちも無邪気な笑顔を見せていた。その何十年か後に、まさかこんな事態が待ち受けていたとは。3人の子供達それぞれに相応しい思い出の品と、是非とも送ってやりたいアルバム類。それを必死でより分けた。結婚式の写真を捨てるのは逡巡したが、二度と見たくなくて捨てた。 幸い、松山勤務時代に写真館で撮った家族の記念写真が人数分あり、私の分も別に残した。妻の顔が齢を取るにつれて変貌して行くのが良く分かった。当然の現象だが、60歳近くから彼女の容貌にある特徴が表れ出した。驚いたのは「大人の休日倶楽部」の証明用。 それは認知症特有の顔。なぜ彼女が平気でそんな写真を証明書用に使ったのかが疑問だった。今にして思えば、その当時の彼女が、それすら気づかないほど症状が進んでいたのだろう。実父の死、実兄の死、実姉の認知症発症。それらが、彼女の症状を加速したのかも知れない。 彼女の職場の責任者や、当時彼女が通っていた精神内科のドクターにも相談したが、職場のケアマネはその心配はないと断言し、ドクターは本人を診ないと診断は難しいと言った。だが、彼女は自分は正常で、何とか実姉を精神病院から退院させようとし、「聞く耳」はなかった。夫婦喧嘩の際に包丁を持ち出し、実父が亡くなった当夜は私の首を締めようと、階段を上って来たのが分かった。それでも私はそれをかわす「自信」があった。<続く>
2020.03.15
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<氷雨のち晴れ その2> 翌3月3日(火)は、朝から抜けるような青空。前日あれほど降り続いた氷雨が、まるで嘘のように空はからりと晴れ上がっていた。もう春の空そのもの。また生命溢れる春が今年も近づきつつあることを、意識させる暖かい光に溢れていた。 そして3月3日と言えば、ひな祭り。桃の節句でもある。長女が生まれた年、妻の母がはるばる仙台から送ってくれた8段飾りの雛人形セット。あの重たいセットは、娘が弾いていたピアノと共に、筑波、鳴門、沖縄、松山、大阪と転勤に伴って私たちと共に移動し、仙台に自宅を建ててようやく落ち着いたかに見えた。だが妻が家を出たことで、あの大量の飾りもピアノも処分した苦い記憶が蘇る。 ベランダの手すりに布団を干したのも、実に久しぶりの出来事。2階まで布団を運ぶ、階段の途中で腰が悲鳴を上げた。まだ断捨離時の疲労が体の奥底に潜み、こんな時にひょっこり顔を出すのだ。この日は出来るだけ体を休めよう、そう決意し早速2日分の新聞に目を通す。新聞すら読めなかった日々。そして全国版の「俳句欄」は3週間分溜まって、手つかずのままだ。 庭に出て、作業後の様子を観察。確かに今年は春の到来が早そうだ。先日整備したばかりと言うのに、もう雑草が生えて来ている。生物は実に正直で、季節の変化に敏感に反応する。裏庭に回ってアオキの下に何やら青い葉の苗。おお、これは紛れもなく「鳥の落とし物」。鳥の糞に混じっていた種が発芽した、何かの植物だった。これだから面白い。アオキの実を食べに来た野鳥が、枝に止まって糞をしたのだ。 左がその正体不明の子。明らかにアオキの葉とは異なり、裏がエンジ色。そして右はフキノトウ。近所の畑にもまだ生えてなく、近所ではうちの子が、どうやら今年の一番乗りみたい。午後から窓辺に横たわり、丹前を被って昼寝。わずか15分ほどだが、本当に久しぶりの午睡。心が少しずつ「休養モード」に入ってくれたようで嬉しい。目覚めて直ぐ、干していた布団を入れ、夕方から台所に立つ。 立て続けにヒジキの煮物(上)、野菜炒め(中)、玉子焼き(下)を作り、大根おろしとサバの水煮を和えた。これで4品完成。「断捨離行」の最後は食材が乏しくなり、何でも入れて煮込んだ「闇汁」ならぬ「おじや」で凌いだ。あの頃に比べたら立派なご馳走。そしてさらに思い付き、ヒジキをさらに濃い味で煮直し、炊き立てのご飯と混ぜて、「ヒジキの炊き込みご飯」にした。 ひょっとして俺は料理の天才かも知れない。そのうち、本でも出して印税を稼ぐか。それは冗談だが、別途「男の家政学シリーズ」を書こうとも思う。実はある時、俳句も、掃除も料理も、全く一緒だと気づいた。それは最初に「本質に迫ること」。それが見極められたら、後はその応用に過ぎない。本質の理解こそが、全ての物事の始まりだ。それも今回の「断捨離行」で悟った。 その夜の就寝は1時過ぎ。それでも4時間半ほどの睡眠時間が取れた。この分では徐々に体力を回復出来るだろう。夕刻には自己流のストレッチ体操もやった。整骨院での治療に頼ってばかりではいけない。先ず自らケアする気持ちがないと、体は治らないと気づいたのだ。地味でも良いからコツコツと。そしていつかまた、ゆっくりと走れる日が来るのを待とう。壮大な夢を土産にして、眠りに就いた。<続く>
2020.03.06
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<氷雨のち晴れ その1> 3月2日(月)は氷雨が降る寒い朝。天気予報だと雨は午後からのはずだったのに、ガッカリ。この日は幾つかの用件をこなす必要があった。自転車が唯一の足である私の場合、雨は禁物。だがそうも言ってはいられない。覚悟を決めてジャンパーの上から青いウインドブレーカーを羽織って、雨空へペダルを踏み出した。たちまち眼鏡のレンズが曇る。これは危険。立ち止まってレンズを拭く。 最初の行き先は最寄りのJA。火災保険の更新なのだが、建物が閉まっていた。どうやら工事中みたい。張り紙を読もうとすると、自動扉が閉まって字が読めない。そのうち近所の人がお金を下ろしに来た。その人に聞くと開店は9時30分とのこと。手は寒さでかじかみ、氷雨に濡れたせいでトイレに行きたくなった。おお大丈夫か自分。時間が来てようやく扉が開き、中に飛び込む。 担当者に用件を伝え、トイレに飛び込む。辛うじてセーフ。良かった間に合った。カウンターで書類に記入し、保険料を支払い関係資料を受理。いずれ保険証は郵送されるはず。1件目終了。次は来年度の「俳句教室」の申し込み。JAから東に向かう途中、ある建物を窺う。「おおやってるみたい」。「帰りに寄ってみようか。勇気をもって」。 いつもの建物に入ろうとして異常に気付く。どうも閉館みたい。あらら、困った。どうしようか。するとたまたま内側にいた人が扉を開けてくれた。「月曜日は閉館日なんですよ。で用件は」。私が来年度の俳句教室の申し込みだと言うと、申請用紙をくれた。抽選後の許可のための「返送用ハガキを渡す。彼は館運営のための「民間人」で、過去の受講者と講師の諍いについて話してくれた。そうだったのか。 私がこの地区と郡山官衙(かんが)の関係や、古墳発掘調査の結果、ここが古代東北では当時最先端の文化地帯だったことを教えると、いつか受講者に話してくれないかと真剣に言う。あらまあ。私は単なる考古学ファンですからと断ったが、案外本気みたい。ともあれ2つ目の用件も偶然に助けられて無事完了し帰途に就く。さて、気を良くしたところで寄ってみようと決心。覚悟は決まった。 とある建物の中庭にある薬局へ。薬剤師さんが「処方箋は?」と聞くが、ないんです。こけしちゃんに用があってと言うと、奥の部屋にいるこけしちゃんを呼んでくれた。ビックリした表情の彼女に、「2月はお世話になりました。あの時お話を聞いていただきありがとうございました」と言うと、「「何の話でしたっけ」と彼女「断捨離です」。「ああ、あの時のねえ」で、教えてもらったブログを見たら。 ある方の名前を出した。確かに走友。ただし私が入会したのはその人の退会後、再び入会した時は私はほぼ活動を停止した頃で、その人は私のブログを知らない。一緒に走ったのは唯一「A内陸」。その90km地点であっさり抜かれた。私はランナーとしてはもう晩年期で、その人は現役バリバリ。年齢は13ほど下か。明るく美しいこけしちゃんは、相変わらず素晴らしい笑顔。来て良かった。「また出直します」と退散し。再び雨の中でペダルを踏み出した私だった。 うわ~っ、大感激。再びこけしちゃんに会えるとは。帰宅後、郵便局でお金を下ろした後、急いで昼食。そして覚悟を決めてあるものを書いた。それは私が2月に断捨離の話をした時、彼女が「改装なったわが家を見たい」と申し出てくれたことへの返事。あの時はよもやの展開に、頭が付いて行けず、とっさに返事が出来なかった。まだ彼女がそのことを覚えている保証はないが、ここは勝負時。 そこで手作りの「招待状」を作成。氷雨はますます強くなり、自転車で行くのは無理。ここは公共交通機関の乗り継ぐしかない。バスの時刻を確認し、服装を整えた。シャツ、ズボン、コート、マフラー、そして傘と帽子、革靴。全部茶系統でコーディネート。よれよれの親父が、一見紳士に見えなくもない。そして案内状をポシェットに詰め、バスに飛び乗った。後は彼女の勤務時間に間に合うかどうか。 朝とはすっかり違った姿の私を薬局の方もこけしちゃんも私と気づかなかったみたい。「いつもは行き倒れの爺さんもお洒落をすればこうなります」。するとこけしちゃん。「女も口紅一つで変わるのよ」。私が「招待状」をおずおず手渡すと、「あらラブレター」と無邪気。おお、アン王女。あなたはやっぱりノーブルな女性。「頑張って~」と手を振ると、「マックスさんもね」と手を振る彼女。 帰りは雨の中を濡れながら歩いて帰った。もうズボンはびしょ濡れ。それでも私は嬉しかった。まさか再びこけしちゃんの笑顔に会えたとは。それも1日に午前と午後の2回も。もうこれは奇跡そのもの。やはりこけしちゃんは「ローマの休日」のアン王女そのもの。私は「雨に歩けば」を歌っていた。just walking in the rain。ジニー・レイの歌を歌った日本人歌手は確か小坂一也。もう遥かなる懐メロだ。 家に着いてヒーターを点け、ズボンなど一式を脱いで、普段着に着替え。またヨボヨボの爺に戻った。これが紛れのない俺。床の間のこけしに挨拶。会えて嬉しかったです。勇気を出せて良かった。だが、その後電話が鳴ることも、Eメールが届くこともなかった。元々私に勝算はない。賢明な彼女が私に合わせて演技してくれただけだろう。それでも勇気を奮った価値はあった。ありがとうこけしちゃん。その夜は久しぶりに穏やかに眠れた男だった。<続く>
2020.03.05
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<総括編その2> 私が断捨離を始めたことを知った徳島のブログ友じゅんじゅん姉が、次のようなコメントを寄せてくれた。「断捨離をすると、心が清められるよ」と。多分1月下旬の頃だ。断捨離は緒に就いたばかりでその実感はなかったが、私は本当に純粋な気持ちで断捨離に取り組んでいた。独り暮らしの私がやるとすればまだ体力がある今しかない。妻は去り、子供は帰らない。だから責任者は、私以外にないのだ。 <ぼやけて撮れたわが家のクリスマスローズ> 「だが」とじゅんじゅん姉。それがなかなか思うようには行かないの。ちょっと片付けたくらいじゃ、すっきりしないの」と。そんなものか。ともかく私は捨てに捨てた。前妻はほとんど捨てられないまま去り、3人の子は大量の不要品を置いたまま。特に長男の遺留品に絶望。無限の「ゴミ」に向かう私は、風車に向かって突進する「ドン・キホーテ。しかも家来のサンチョ・パンザもおらず、槍もない。 じゅんじゅん姉がご自分のブログに書かれていた。「今度は本気になって断捨離に取り組む」と。そのため当分ブログを休む由。その志や良し。「頑張ってねじゅんじゅん姉さん。でも優しいご主人様がおられるので大丈夫。いつもご夫妻で社会奉仕や社会活動に取り組まれて来たお二人ならきっと立派に目的を達成されるはず。そしていつも優しいメッセージをありがとう。 彼女はブログを休まれるが、私はあの大作業中も、1日も欠かさずにブログを更新した。だからこそ二重の苦しみだった。でもそれを選んだのは自分。断捨離もブログも止めようと思えば止められ、休もうと思えばいつでも休むことが出来た。だが私はその道を選ばなかった。それが私に与えられた「試練」。その試練に耐えられずして何のための人生か。今でも「男は黙ってサッポロビール」なのじゃ。 しかし、あれだけの重労働を睡眠不足の中で続けて来て、良くも死ななかったものと。ただ限りある時間を有効利用するため私は考えた。今の私に不要と思われるブログを削除し、心から信じ合える友のブログだけにした。たとえ訪問出来なくとも、気持ちはつながっているはず、そう信じて。ブログの断捨離は心の断捨離そのもの。生半可な整理では済まない。後は開き直って生きるだけだ。 数日前から大事を取って、庭仕事を一旦休止した。それと同時に潜んでいた疲れが、どこからともなく湧き出した。安心したせいか目が落ち窪み、冴えない表情の自分が鏡に写っている。睡眠時間が少しだけ長く、体重がほんの少しだけ戻り、人間らしい気持ちが戻った。だが油断は禁物。 藪椿の芯 このシリーズも後30回は続くはず、だが、たまに休憩を取ろうと思う。また時々は異なるタイトルでも書く。時々ドキッとさせるのは、読者が飽きないための工夫。時系列の無視や、一見無関係のテーマの混入もある。何せ私のブログは実験的な要素が大。まるで私の人生そのものだ。では、今日はこれにてバイチャ。<不定期に続く>
2020.03.04
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<総括編その1> 1月20日の夜から初めた断捨離をこのたびひとまず終えた。その長い行程の細部と、その過程において私が考え、悩んだこと、今後の展望などを記すのがこのシリーズの狙いだ。第1回目の今日は、私が断捨離をどう捉え、どう実践して行ったかについて述べたい。 日程の概略は以下のようなものだろうか。 1月20日~2月18日 断捨離実行 家の中、及び物置小屋の物品の9割、約4.5トン分を廃棄。 2月19日~2月24日 家の中の清掃作業。ほとんどの部分を私自身が清掃した。 2月25日 3人の子供へ、彼らの関係品として選別した物品を宅急便で発送。 2月25日~2月26日 家中の模様替え実行。 2月26日夜~2月27日午前 家の中の美化作戦。美術品や工芸品、写真、陶器類などを配置。 2月27日午前 住宅メーカーによる「24年点検」を受ける。 2月27日午後~2月29日 庭の改造計画実行。2月29日で一時休止中。 この間、作業を休んだことはなかった。作業時間は平均1日15時間前後。 睡眠時間は長くて4時間程度か。腰、肩、肘、膝、手などの痛みが半端じゃなく、この間早朝整骨院で10回程度施術を受けた。 激しい疲労の影響で、曜日の感覚はなく、新聞を読めない日も多かった。そんな中でも苦戦しながらブログの更新を続けていた。今にして思えば奇跡以外の何物でもない。そのことによって、少ない睡眠時間がさらに減った。また脳内の酸素不足、エネルギー不足による影響か、物忘れが激しく「部分入れ歯」を忘失した。このため頻繁に「メモ」を記し、良く目につく場所に置いて、自分への喚起を促した。 食欲と便通はあったが、カロリーの摂取量が不足の上に連日激しい作業を続けたため、体重がかなり減った。かつてウルトラマラソンランナーの減益だった頃は、良く食べても66.6kg。体脂肪率は17%が通常だった。今回は常に体重は63kg台で体脂肪率は13~14%台。運動を止めた数年前に比べたら、体重は5kg減。体脂肪率も4%ほど減った。私にとっては「行」そのものだった。 体重、体脂肪率計測のほか、毎日定期的に血圧を測定した。おおよそ午前中に2回、午後に2回測定し、その結果を「血圧手帳」に転記。また頭痛などがある場合は特記し、健康に留意した積り。ただ疲労が蓄積すると、風呂の中で眠り、お湯が冷めて気づくようなことが後半増えた。整骨院にジャンパーを忘れ、俳句教室へ眼鏡をかけずに行ったこともあった。 限りなく体力の限界が近づいているのが分かった。断捨離を始めてから1週間ほどで口の周辺に異変が生じ、5年か7年ぶりに「口唇ヘルペス」が発症したことを知った。慌ててネットで区内の皮膚科を調べ、苦労の末に診察と内服薬の処方を受けた。こうしてこけしちゃんとの奇跡的な遭遇が生まれた。だが、天真爛漫なこけしちゃんの真心に直ぐ応えられなかったのが悔しい。そのうち必ずリベンジしたいと思っているのだが、果たしてこけしちゃんが許してくれるかどうか。でも勇気を奮いたい。<続く>
2020.03.03
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<迷彩服ドクターと「こけし語録」> 宇宙病院で迷彩服ドクターの話を聞き、さらに帰宅後ネットで病気のことを調べてガックリ、これじゃあたとえパートナーが見つかったとしても、一体どんな愛の営みが出来ると言うのだろう、「じゃあオヤスミ」と手をつないで寝るだけなの。あんなに長い期間、家庭内別居に耐えて来たのになあ。 でもその鬱屈した気持ちが「中庭薬局」でこけしちゃんに出会ってから救われたね。私が空前絶後の断捨離を決行したことを話すと、彼女も最近同じような体験をしたと教えてくれた。誰だか分からない初対面の人にだよ。「めんこいね」と言うと「おばあさん」と一言。とんでもないこけしちゃん。 あんたほどの器量なら今すぐにでもお嫁に行けるさ。それに気持ちもとってもめんこくてね。私が名札を覗き込むと、見易いように持ち上げてくれたの。その可愛い仕草に爺さんはすっかりハートを奪われたのさ。そして、断捨離後の家が、美術館や博物館のような感じになったと言うと、見に行きたいと仰る。他のスタッフもおられる中でだよ。爺さんはたまげた。そしてまたもや感激。 そして、それだけの重労働をした後は、太り過ぎに要注意だって。へえあの小保方さんは割烹着だったけど、こけしちゃんは本物の白衣。そして「リケジョ」らしい客観的で適切な意見。これにも感心。私も学術畑の仕事が長かったから、論理的で客観的な考え方は、とても居心地が良い。そしてなんと言う、無邪気さ。遠い昔に観た「ローマの休日」のアン王女を思い出したのさ。あの可憐なオードリー・ヘプバーンをねえ。 この娘はきっと深窓のご令嬢で、上品に育ったのだろう。そのご家庭が偲ばれる。父上は教育者だったのかもなあ。そして私がブログをしてると言うと、自分もしたいと言う。そこでブログ名を殴り書きしたメモを渡すと、「きっとコメントするね」と彼女。本当なら嬉しいんだけど。 その夜、爺はブログを確かめた。だが待てど暮らせど、こけしちゃんからのコメントはない。何日か経ってから爺は考えた。ひょっとして、コメントし難い内容だったかもなあ。そこでランニングの話を書いた。それはたまたまそんな巡り合わせだったんだけど。そしてらありましたよ。本当に書いてくれたんだねこけしちゃん。そして「私も前に進みます」って。彼女の身の上に一体何があっのだろう。 天が三物も四物も与えたこけしちゃん。きっと彼女に相応しいジェントルマンが直ぐに現れるはず。もしもそうでなくても、彼女なら独り立ちできるだろう。さて本日14日は庭と畑の整理。明日15日は障子の張替え。19日は市民税、県民税の申告で、20日は俳句教室。月末は住宅メーカーの「24年時点検と。今月は猛烈に忙しく、重要事項が目白押しだ。 ようやく体調が回復して来た。でも「中庭薬局」に寄るのは、遠慮しよう。ふと薬の袋をみたら、彼女の丸い印。ああ懐かしき名前よ。こけしちゃん、ひと時の夢をありがとうね。そして限りなき前進をされますよう。ではお元気で。たった1日だけのわたしのアン王女さま。 <完>
2020.02.19
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<3度目の正直> ついに「宇宙病院」に行く日が来た。ところが生憎の氷雨。合羽を着てフル装備。何分わが家からは直接的な交通手段がない。それでどうしても自転車になるのだ。場所は知ってる。病院の前に一番乗り。まだスタッフは誰も来ていない。それから2人3人とスタッフが来、最後に「迷彩服」を着た若い男。するとあれが院長か。どうやら雨中をバイクで来た感じ。9時少し前、ついに皮膚科の扉が開いた。 ふ~む。やはり宇宙ではなく、ここは普通の病院みたい。受付へ保険証、お薬手帳を提出し、初診なので「問診表」に記入。「質問があればどうぞ」とあったので、そこにも口唇ヘルペスなどに関しての幾つかの疑問を記した。予めトイレに行き、診察に備えた。 院長と直接面談しながらの診察。今の症状を全治するには5日分の内服薬を飲めば済む由。次いで「質問OK」とのことだったので、口唇ヘルペス、性器ヘルペス、帯状疱疹の特徴と治療法、今後の注意及びパートナーと接する際の注意などを聞いた。そのものズバリなので若い院長は驚いたようだが、大学病院に3年、国立大学の医学図書館2か所に勤務した私にとっては、別に驚くほどでもない常識程度のことだ。 次に向かったのが例の喫茶店みたいな薬局。普通なら行かないが、ここが皮膚科に一番近いので良いと咄嗟の判断。そこが「ワンダーランド」の入口だった。処方箋を渡しながら私は症状が出るに至った経過を必死に話した。驚くべきここ3週間の激務。そして「新生」への強い願望。それを初対面の女性に向かって必死に訴えていた。それを嫌がりもせずに聞いてくれたのが「こけしちゃん」だった。<続く>
2020.02.18
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<融通の利かない院長> 受付へ診察券と保険証を提出。「その後お変わりありませんか」と微笑む係の人。ああ大変なことがありましてね、目の前が真っ白になって見えないんです」。それから待たされること2時間あまり。持参した新聞も本の字も見えないため、頭の中で何かを想像するしかない。そして時々はトイレに。ようやく名前が呼ばれて検査室へ。いつもの眼圧測定と、念のための視力検査。案外見えたのが意外だった。 マイPC またかなり待たされてから診察室へ。ドクターに症状を訴えても「でも視力は出てますから」の一点張り。ずっと前から私の訴えは聞かず、眼科医としての診察結果だけを言う。これまでも緑内障のことを尋ね眩暈を訴えても、それは「耳鼻科の領分」とだけ。私は両目の焦点距離が違うため、物が二重に見える。それが眩暈の原因になるかと尋ねたのだが、相変わらずの石部金吉。最後に「眼精疲労」を取る目薬の処方を頼んだらそれは聞いてくれた。 PC脇のお菓子など 受付へ戻って「眼科専門医検定状」を見る。副院長の奥様も同じ眼科医で3歳年下。こちらの方が柔軟な印象。東北大学の眼科教室はまだ木造建築だった頃から知っていた。主任教授は確か「桐谷」だったかなあ。場所は1階の東端に行く最初の曲がり角。私はかつてそこの医事課に勤務していた。もう55年も前の話だ。次回の「視野検査」を予約し、診療費を支払い、処方箋を受け取る。 幼き日の孫たち 隣の薬局で緑内障用の目薬2本と赤い眼精疲労用の目薬1本を受領。こちらは1日4回点眼して良しとのこと。これで何とか助かった。途中HCで灯油の給油ポンプ、種ジャガイモ「インカの春」2kgを、スーパーでコロッケ、お茶、和菓子などを購入して帰宅。いやはやこの日は予想以上の大遠征となった。そしてその夜から雪が降り、翌日の新年会会場へのランの準備を始めた私だった。<続く>
2020.02.17
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<ネットで探した病院はいずこ?> 3週間以上ぶっ通しで続いた断捨離作業はほぼ目途がついたが、まだやり残していたことが幾つかあった。それに気がかりなこともあった。それは5年ぶりに発症した「口唇ヘルペス」のこと。ネットで調べたら案外しつこくてヤバイ感じ。それで是非とも皮膚科を見つけて受診し、症状を全快させようとする試みだった。それは自分自身のためだけでなく、まだ見ぬパートナーのためにも絶対に。 先週土曜日の夜、区内の皮膚科をネットで検索した。ヒットした中で住所が分かる医院を、今度は地図情報で検索。地下鉄の駅前と言う大きな目標はある。だが今一場所が特定出来ない。これは前もって日曜日に確認しておく必要があるな。そう判断して自転車で出かけた。想定通り実に分かり難い構造のマンション。どうやら2階に歯科と皮膚科があるようだが、階段が幾つもあって何とも不可解。そして中庭にはまるで喫茶店みたいな薬局があるのを知った。ああこれじゃ「不思議の国のアリス」だよなあ。 待望の月曜日になった。早速喜び勇んで皮膚科へ。なんと「宇宙」めいた名前の医院。この日も迷いに迷って探し当て、皮膚科の前に行くと「本日院長の体調不良のため休診します」の張り紙。何なのこの皮膚科は。本当にやる気があるんだろうか。やっぱりここは宇宙だったか。ガッカリした私はキッパリ諦めて眼科へ向かった。緑内障用の目薬がほとんどない。それに連日の重労働で目が見え難い。どうしても目薬をもらう必要があった。<続く>
2020.02.16
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<模様替え> 拡大鏡 突然じゃが、デザインを変えた。今回の「断捨離」で腰と肩を傷め、5年ぶりに「口唇ヘルペス」を発症するほど体調が悪化。疲労のせいか、目が霞んであまり見えない。そんな中でブログを続けるため、少しでも字が黒く見える方が助かる。指の動きが悪く、変換ミスも増えた。そんな訳なので、どうぞヨロシク。 工具箱 そんな私に対して、しつこく「ポチ」(応援)を迫る人がいる。そんなのは友じゃない。最初から命令口調で「ポチ」を迫る人だった。それは人に物を頼む言葉じゃないだろう。そう言ってやりたかった。恐らく「名古屋のなんとか爺」を真似たのだろうが、トンデモナ。それならポチと結婚したら良いのだ。ずっとポチと一緒にいられるからの。 辞書用書架 日曜日は、午後から浴槽、洗面所、1Fトイレの床を拭き掃除。夜は辞書用書架を釘で打ち付け、、工具箱2個を総点検し、不用品を捨てた。その夜は早めの睡眠剤。それをすっかり忘れ、夜中にもう1錠飲んでしまった。忘れっぽくなったなあ。。それが大騒動の引き金だったとはなあ。 深夜異常を感じて起きた。トイレだ。そこでトイレへ行ことしたが方向が分からない。室内は真っ暗で、鉢物置き場所を変えたばかり。この日は物干竿まで使って、大量の洗濯物を干していた。それが「寝ぼけた爺」にはジャングルに思えたのだから不思議。洗濯物。カーテン、植木類などが森で、自分は迷い込んだ小人。そのうち下腹部から暖かい液体が。何なのコレは一体 切手アルバム 不覚にも夢の中でお漏らしした爺がやっとトイレを探し当てた時、残量は半分ほどに減っていた。それでも、パジャマ、下着など一式を洗濯機に入れ、風呂の湯で体を拭き、寝ぼけながらも洗濯していたんだと。翌朝爺が見たのは。開いたままのガラス戸。だがシャッターが下りていた。だから外へ出られなかったんだねえ。やれやれ。 籐籠(とうかご) 翌朝、勇んで爺は皮膚科へ出かけた。この日も実に寒い朝での。手袋などしてないも同然じゃった。それに訪れたビルが複雑で肝心の医院が見つからん。ようやく探し当てた時、病院の玄関に「本日ドクターが体調不良につき、休診します」だってさ。まさに第二の悲劇じゃった。 それでも爺はへこたれない。帰宅するなり、ベランダの汚れ落としじゃ・寒空の下で軍歌を歌いながら床をこすっておったら、裏を通る人が一体何ごとじゃと振り返っておったぞ。そんなに俺の声が良かったかのう。続いて爺は玄関周りの汚れ落としじゃ。畑や植木鉢の土が付着し、黒ずんだりカビが生えて厄介。最後にバケツの水を流して、思わず快哉を叫んだ爺じゃった。 この日の昼食はパンじゃった。と言っても食い忘れた古い食パンじゃ・先ずトースターで2枚焼き、そに野菜サラダとアジフライを挟めば完成。ブドウパンも同様に焼き、爺特製のユズジャムとピーナツクリームを塗ったんじゃ。「人はパンのみにて生くるものに非ず」。聖書にそうあるが、爺はレモンティーも飲んだぞ。 <第11回「立山登山マラニック」の参加賞の手ぬぐい> ここからは11日(火=祭日)の話。今日は所属走友会の新年会&総会が近郊の温泉であるんじゃ。爺は送迎バスには乗らず、自力で行くと既に連絡済。ところが前夜の11時現在で8cmほどの積雪。今朝は今年一番の大雪じゃろう。「立山登山マラニック」か「八甲田山死の彷徨」の二の舞じゃ。ふぉっふぉっふぉ。 では皆の衆サラバじゃ。達者での。もし生きて帰ったらブログを書くし、雪に埋もれたら春までお別れじゃ。これは久しぶりに凄い体験が出来る。「コロナ新型ウイルス」どころの騒ぎじゃないぞ。吾輩はもう英雄じゃ。まあ足が凍傷で腐ってしまわねば良いが。ではサイナラ、サイナラ、サイナラ。さあ今夜はオシッコ漏らさないよう、もう寝よ。<さてこのシリーズが今後も続くかどうか。じゃあね。
2020.02.11
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~月と雪と氷~ 昨夜遅く、風呂に入るため脱衣所に行ってビックリ。何と床がきたない。裸でも構わず、濡らした雑巾でごしごしと床を拭いた。汚れが落ちたのか、かなり雑巾が汚い。どうしたことだろうと思って、風呂から上がった後も裸でゴシゴシを続けた。しかし不思議なことがあるものだ。きっと雑巾が汚れ過ぎて逆に汚くなったのかも知れない。翌朝の洗顔時にも男は気になって、もう一度床を拭いたんだと。 目が覚めたのは日曜日の朝4時。まだ4時間も眠ってない。それなのになぜそんな時間に起きたのか。実はこの日は月に1度だけの「資源ゴミ回収日」なのだ。それでガレージに積んだ資源ごみを一気に片付けたいと思ったのだ。そして車で往復して運んでくれると言ったKさんとの約束の時間は8時。それにしてもあまりにも早過ぎるこの日の起床だった。早速男は着替えし、布団を上げた。和室の障子を開くと、真冬の空に煌々と輝く月が出ていた。これはブログネタにちょうど良い。男はそう呟いた。 4時55分、1回目の血圧を測定。147の89、脈拍62。連日の疲労と寝不足の割には悪くない数値だった。このずっと後、全ての作業を終えた後8時15分の測定時は、130の86で脈拍63だった。寒い早朝の激務にも関わらず、依然として好調な様子に、男は一人笑みを浮かべた。 これが昨日の朝食。1)刻んだキュウリとシソの実の漬物、シナチクが乗っかったご飯。2)具沢山スープ。3)アジフライの小片、野菜と豚肉のケチャップ炒め。4)納豆。6)大根おろし。7)さつま揚小2個。8)トマト、キュウリ、ピクルス。9)果物はリンゴの小片2とミカン1個。男は途中一度だけ咽たが、それでも最後まで食べた。一片アジフライだけは残したが、大作業を前に良くぞ食べたものだ。 朝食を食べ終えた男が口内の掃除をしてた時、ふと気づいた。あれま、前歯の隙間に何かの骨が挟まってるぞ。そこでやおら小さめのピンセットとフロスを手に持ち、懸命に除去作業に励む男。だがあざ笑うように依然として骨は退こうともしない。最後にフロスで何とか取れた、出て来たのはアジの中骨。ほほうこんな物が。忌々し気に男は続けて朝食後の薬を飲んだんだと。6時ちょうど、いよいよ外へ。 一口水を飲み、男は先ずトイレへ。ズボンは二本ともひも付き。立ったり座ったりの作業でズボンが落ちないよう、紐は硬く縛ってある。こんな寒い朝は直ぐにトイレに行きたくなるんだが、ズボンを脱ぐ時が危険帯ってわけ。それで用心のためにまず済ませた訳さ。もう外は明るくて、懐中電灯は不要だった。それに男の自転車は周囲が暗いと勝手に点灯する仕掛けなんじゃよ。オッホン。 コラマテ慌てるな。こんな時は先ず準備だ。大きめの大きな本を手前に集める。そしておおまかに分類してしておくだよ。男は元大学図書館員らしく、「分類」と言う言葉を使った。これが後後ジワジワ効いて来て、作業効率がぐっと良くなったんだと。そして男は自転車の荷台には分厚くて丈夫な「チューブ」のロープでしっかり固定した。 そして前の籠には軽めの物を丁寧に入れる。それで前後左右の安定を図るんだよ。そして重心が真っ直ぐだと、雪道でも大丈夫。それにこの程度の新雪ならほとんど滑らないことを、男は体験的に知っていた。そして資源ごみの数隻所でも、男は運んだ物を最初からきちんと場所を分けて、丁寧に積んで行ったのさ。自分のが入るだけじゃなく、町内の方のスペースもちゃんと空けて置いたんだねえ。ここでもまた男は「分類」と自慢そうに頷いたのさ。 7時。一旦家に帰ってトイレに入った男が何かの音に気付いた。こりゃまずい。これは水道が凍るぞ。そして慌ててトイレの中にある「弁」を締めた。それは屋内水道の凍結予防のための装置。それが一瞬の機転で間に合ったらしく、「キンキン」言う金属音がやがて聞こええなくなって来た。次に男は「外水道」へ。だが既に遅く、バケツの水も外水道の蛇口も、完全に凍ってピクリともしない。零下5度以下に下がる日、外水道は予め「水抜き」する必要があるんだが、忙しさに紛れて男はうっかりしていたのだ。 7時30分、全作業終了。もうガレージに「資源ゴミ」の山はない。夜はすっかり明け、実に清々しい朝だ。町内会の人も何度か私を不審げな目で見ていたが、ちゃんと自分たちの「スペース」が確保されているので、文句のつけようがないのだ。ワハハ、ワハハ、ワハハ。やった、やった、ついにやったぞ~。 7時35分。屋内水道の凍結が解除され始め、やがて音を立てて水が流れ出した。こんな時は一気に噴出するため、やはり「弁」は絞る。あちこちで水が「暴れる」のを防ぐのだ。その時トイレの床も汚いことに気づいた。洞のお湯に手を突っ込んだ時、浴槽の汚れに気づいた。「これはひょっとして、原因は白髪染めか」と。 私の推理はこうだ。ある夜、私がした白髪染め薬が何かの理由(恐らくは汗か」に混じって浴槽に入り、そのお湯を使って拭き掃除をした結果、きれいにするんじゃんくて、逆に床を汚したと考えるのはどうだろう。それほど「白髪染め」は落ちにくい証拠だが、逆に困る場合もある。似たような例がベランダ。真っ黒になった水でいくら雑巾で拭いても、逆に汚したケースはなかったか。 しゅうりょうご 作業終了後、Kさん宅へ作業を終えたことを報告しに行った。「あんな重たい本をどうして」と訝る彼に私は言った。「俺は大学図書館で長く働いて来たので、本の扱い方は良く知ってるの」と。彼は一瞬呆気に取られたようだ。手伝うとは言ったものの、あれだけの作業をしたら体を怪我する恐れもあった。その山が消えてないのだ。「私は今朝4時起きだったので」そう言うと、彼はさらに驚いたようだ。 「皮膚科」を探しに自転車で家を出た時、集積所の前では軽トラの荷台で親父が張り切って働いていた。良くもこんな立派な本を出したなあ。これは相当儲けたぞ。きっとそうほくそ笑んでいたことだろう。私が念願の皮膚科をついに見つけ、ついでに買い物まで済ませて帰宅した際に見たら、集積所にはもう一切の資源ゴミの姿はなかった。ハハハ大成功。そして今朝は早くから皮膚科へ行って来ますね。では。 <注>挿絵は今年のカレンダーから借用したmものです。<不定期に続く>
2020.02.10
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~最後の力を振り絞って~ < 洋間1 花器 > 土曜日も整骨院で眠ってしまった。帰路はゆっくりと走って帰る。距離は1kmもないが、こうして走れるのが良い。整骨院の先生は「筋トレとストレッチだね」と言う。まさにその通りなのだが、今は必死で断捨離を続けてる。帰宅後は2階の全ての窓のレールの拭き掃除。レールの溝に、土や汚れが溜まってて汚い。 < 洋間3 ブドウの陶額 > 次にベランダの床の清掃。2回目だが今回は硬化プラスチックのマットを全部外し、芝生に投げ落とす。軽い掃き掃除後、洗剤に浸した雑巾で拭くのだが、たちまち真っ黒に。それを何度か繰り返し、最後にはブラシを使ったが、あまりにも水が汚れていて効果が乏しい。比較的きれいな布地で拭くと、こちらもたちまち真っ黒け。やらないよりはマシだが、やはり水を取り替えるべきだったと反省。 急に思いついて、物置小屋の掃除を開始。色んなガラクタを全て外へ出して清掃。必要なものだけを残して、清掃後の小屋に収納したら、何と気持ちの良いことか。長男が捨てて行った衛星放送用のアンテナなども分解。最後にベランダのマットも分解してゴミ袋へ。これでゴミを一掃だ。 これがこの日出たごみの山。左側が巨大ゴミ袋の燃えるゴミ6袋分。右がこの日出た金属類2袋分。 夕方近くなってからHCへ自転車で。途中皮膚科の看板を見かけたので、HCに到着後病院名をメモ。この日買ったのは、掃除道具各種。新しい箒も角型ハンガーも新しい物に。古くなると劣化して洗濯ばさみ部分が壊れやすくなるためだ。帰宅後皮先刻の膚科をネットで調べたが、その病院はあったものの、そこに皮膚科はないようだ。あの看板は一体何だったのだろう。それとも疲労がなせる業か。 夕食後、前日買ったキャスター付きワゴンに簡便な「取っ手」を取り付けた。これもこの日HCで買ったものの1つ。これで楽に運べるし、両手で持ち上げることが出来便利になった。セメダインで、表面のめくれた部分を接着。まあ現品限りの半額品だが、手を加えれば結構楽しいではないか。夕食後区内の皮膚科をネット検索すると、比較的近くにあり月曜日受診の予定。今朝は「資源ゴミの搬出作業。お向かいのKさんの車で往復していただく。収容所がわが家だけで満杯にならねば良いのだが。<続く>
2020.02.09
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~体調は回復傾向へ ~ 木曜夜放送の「プレバト」俳句編は見逃せない。さて、その夜は思いついて「鍋」にした。出汁は豪快に「鶏ガラ丸ごと1羽分」。肉がほとんどないため、茹でて脂抜きした「白モツ」を。これに葉物野菜、キノコ、長ネギ、豆腐などを放り込んで具沢山。これがなかなかの味で「締め」にうどんを入れていただくと、これまたグー。久しぶりに「平らげた」感じがした。 金曜日も整骨院で眠ってしまった。まあ眠れるのは良いこと。帰宅後、和室、居間、2Fクローゼットを掃除機で。1F2Fのフローリング部分をモップ掛け。お日様が出てから、ベランダの手すり一杯ににずらりと4枚の布団、枕2個を干す。半分はピンクなので、近所の人は「何事か」と驚いたはず。実に壮観な眺めだったはず。物干ざおに毛布敷布」を2枚干す。これでフカフカ感が増すはずだ。 植木鉢を通して見た前庭 居間の窓辺の植木鉢を一旦全部移動して、これまでのテーブルの台を外へ。代わりに銀色の敷物。改めてその上に植木鉢を移動。こんな作業をしたのは、前妻が買ったこれまでの大理石製が、重過ぎて運べないため。「見え」で高価なものを買っても人は老い、必ず体が弱る時が来る。体に負担がかかるようでは論外だ。 これが「高級テーブル」の末路。大理石は庭の「雑草除け」になった。表面を下にし、ザラザラ部分を上にすると踏んでも滑らない。これも用心のためだ。4本の脚はカンガルーのではなく、テーブルを分解したもの。この後はゴミ袋に入れられ「燃えるゴミ」の日にお別れ。これでスッキリし、安全になった。 棟方志巧の渋~い版画 1Fの窓のレール部分と裏側の窓枠を拭き掃除。「住まいの洗剤」を浸した雑巾を長い柄にひもで縛り、網戸を拭いた。次に前日の作業で汚れたガレージの樋の泥をブラシで落とし、踏み台を使ってガレージの「梁」の汚れも拭いた。たちまちバケツの水が真っ黒に。次は布団などの取り込み。かなりフカフカになっていて嬉しいな。 午後思いついてHCへ。大型スーパーに寄るか迷ったが、先日来通っているHCを優先。探したのはキャスター付き小型テーブル。ソファーでお茶を飲む時、こんなテーブルがあったら便利。それが「現品限りで半額」の掘り出し物が(右)があった。値段は捨てたテーブルの約50分の1。良い物が見つかって最高。これでKちゃんとお茶出来たら楽しいね。 窓辺の小物 朝「毛布敷布」の上の小さな異物を派遣。形と大きさから、ひょっとして唇の瘡蓋(かさぶた)かと一瞬狂喜。唇を触れると、確かに以前よりつるつるだが、完治ではない。完治のためには皮膚科で治療を受け、内服薬をもらう必要があるとネットで判明。完治させないと、パートナーに伝染させる危険性がある由、来週早々必ず皮膚科へ行こう。自分のためだけじゃなく、Kちゃんに迷惑をかけないためにも。 シュガー容器 残った作業は、ベランダの掃除と花瓶の再配置くらいか。体も楽になるはず。来週の火曜日は所属走友会の新年会兼総会。会場までは自力で行くとメールしてある。で、9kmを走って行く予定。それまでに何とか体調を戻したい。この夜も「鍋うどん」となった。さて今日の日曜も有意義に過ごそうね。<続く>
2020.02.08
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~ついに病魔現る~ 下駄箱の上 (1) 前夜の整理作業はその後も続き、下駄箱の上が埃だらけなのに気付いた。そこで元「ピアノ掛用の敷物」の陶磁器類を全部移動させ、掃除した。これは下駄箱の上の左半分。一見和紙の箱らしいものには、小荷物受領用の認印と朱肉、花切り鋏、自転車の鍵などが入っている。花器台は屋久島杉の根っこで、白い壺は山形の高清水焼。山形勤務を終えた時の記念品だ。 下駄箱の上(右半分) 右半分はほとんどが沖縄の焼き物が中心。シーサー3種。抱き瓶(だちびん)など。一番右のシーサーは沖縄勤務時の職場の走友からいただいた特注品で、職場の走ろう会の名入り。 玄関のマチスはこれに入れ替え。人物のシルエットが鋭角的なところが良いと感じて。他のマチスの絵は全部棟方志功の版画に取り換えた。残り物を確認したら、やはり志功の版画の芸術性の高さは別格と感じたため。4点を選んで、サイドボード横、1Fトイレ、キッチン、デスク周辺に。これで一段と家の中が美術兼博物館の様相を呈して来た。本当に楽しい作業だ。家の中はこうありたいね。 木曜日は、仙台も久しぶりに雪の朝になった。整骨院へ歩いて向かう際に、愛犬「ヘバ」を連れて散歩中のT杉夫人に遭遇。私に良く声を掛けてくれる人。私もこの犬が好きで良く頭を撫で、夏は野菜を届けている。帰りにはS藤夫人と遭遇。退院後はずっと家におられ、話したのは4年ぶりくらいか。お互いに健康に気を付けて頑張りましょうと「エール交換」独り身の私にはとても嬉しい隣組の気づかいだ。 サイドボード側面の棟方作品 朝食後、自転車で近所の薬屋へ。ネットで「口唇ヘルペス」の市販品があると聞いたため。この病気はとても厄介で、普段は身を潜めているのに、過労などで抵抗力、免疫力が落ちた時に突然現れて牙を剥く。断捨離作業中は睡眠不足がちで、体重が2.5kgほどの減。また、血圧上昇、軽い不整脈、胃もたれなども起きて、数日前から唇にピリピリ感があった。 薬剤師が常駐していると言う薬局は私が行く眼科の付近。薬剤師と話して右側の塗り薬を買った。本当は皮膚科で治療を受けた人のみの販売とか。私は帯状疱疹で診察を受けたことがあるので、適当に話を合わせてゲット。使える期間は最大1Wだけとのこと。う~む厳しい。左はその前に寄った薬屋で勧められた総合ビタミン薬。結構高いが、こちらも効いてくれたら嬉しいね。 今回出た資源ゴミ 午後は予定を変更して、和室及び物置小屋に集めていた資源ごみを、全部運んでガレージに積んだ。それを見ていた向かいのKさんが、「こんなに量があったら大変だから、収集日には彼の車で何度か往復すると言ってくれた。朝の2人のご夫人と言い、夕方のKさんの声かけと言い、実に有難い話。同じ班にこんな善意の方が何人もおらる嬉しさよ。早くKちゃんも来て、同じ班に入って欲しいな。 志功の小品と職場の記念絵葉書(手前) その後、ガレージの樋に詰まった泥の撤去作業。気温がどんどん下がり、樋の泥は半ば凍っていた。その冷たい塊を必死で手で掻い出す。たちまち軍手が真っ黒け。手が冷たい。風が冷たい。その寒さに耐えながら最後まで頑張り、ついでにバラの伸びた枝も剪定。予定外の作業だったが、これでまた一歩前進。後は2Fクローゼットの掃除のみか。今夜こそグッスリ眠りたいねえ。<続く>
2020.02.07
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<夢か現実か> 藪椿のツボミ 昨日は朝から氷雨だった。恐らくは日本海側の雪雲が強い西風に乗って仙台上空へ達し、太平洋側で雨に変わったのだろう。その雨の中、歩いて整骨院へ。今日は施術中に眠ることはなかったが、さすがにもう先生も私の断捨離の話は聞かなかった。何せ行く度に毎回毎回断捨離話では、いくら大切な患者とは言え、彼の耳にもきっと「たこ」が出来たに相違ない。 <庭の山茶花1> 帰宅後、早速居間に掃除機をかける。大事な作業前に床の汚れを少なくしようと思ったのだ。何せ家の中は半月続いた断捨離作業のせいで、汚れに汚れていた。その汚れが付いたスリッパで方々歩き回るため、居間のカーペットにも色んな付着物が。それで徹底的に「はたき」をかけ、掃除機をかけ、フローリング部分はモップをかけ、木製品は洗剤がついた雑巾で拭いた。 <庭のミニバラ> 掃除後に最初にやったのは、冬用の「毛布敷布「の四隅についている「ゴム部分」の修繕。最初は針に糸を通して縫おうとしたのだが、糸が針の穴を通らない。それだけ視力が悪いのだ。それならと輪ゴム8本を用意。それを伸びたゴム1隅を2か所ずつ輪ゴムで止めた。これはグッドアイデアで、たちまち作業は終了。これなら気持ち良く「毛布敷布」がきちんと治まるはず。 次に和室から順番に布団を居間に運び、布団カバーをかける作業。これは私用の敷き布団。捨てようとした古い布団に洗ったばかりの布団カバーをかけた。まあ良い良い。私はこれで十分だ。天気の良い日に何度か干せば、少しは「フカフカ感」が戻って来ると思うのだが。 これはKちゃん用の冬用布団。新しい客用布団に、先日大型スーパーで買った布団カバーをかけた。どちらも全く同じ柄で色は薄いピンク。敷布団は普通サイズだが、掛布団は少し大きめのサイズ。写真を撮ったもののどちらが「掛け」か分からなくなったので、そのまま載せた。 これはKちゃん用の枕に、新しく買った枕カバーを付けたもの。ピンク系統の女物ばかり買った爺を不審がらるかと思い、わざとレジで「後は母ちゃんが選ぶだろう」とつぶやいて支払い。別に悪いことをしてる訳でもないので「演技」は不要だが、そんな芝居を楽しんだ次第。やっぱり新しい物は良い。そして家の中に女性用寝具があるだけで、心が安らぐのも確か。 <庭の山茶花2> ずいぶん前のこと、ブログに20首ほどの相聞歌(そうもんか=恋の歌)を載せた時、「これは夢ですか、それとも現実ですか」とコメントされたブロ友がおられた。あのシリーズへのコメントには一切返事を書かないと言う態度を貫いたが、今回の壮大なる断捨離作業も、実は夢とも現実とも言えるのだ。なぜなら、「夢」をエネルギー源にして行った「現実」の行動だったからだ。恋は人に夢を与え、愛は人に偉大なパワーを与える。それが今回の実感だ。 今回入れ替えた絵はほとんどがマチスの作品。と言ってもこれは新聞社のサービス品。ちゃちではあるが気分転換にはなるはず。これは玄関用に。 この斬新な2点(上下で)の作品は台所の壁の片隅に。 このいかにもマチスらしい絵は、居間のPC用デスクの壁に飾られ、いつも私を見尾ろしている。 今回の断捨離作業中に引っ張り出したレース中の写真、これはフルマラソンの自己新記録(3時間36分03秒)を出した1994年の「NAHAマラソン」(沖縄)か。胸のゼッケンの数字が若いので、かなり前方からスタート出来たはず。NAHAには珍しく気温18度と好条件に恵まれ、松山勤務当時の走友とタイムを競えたのも自己ベストの原因だと思う。他の数枚も各部屋に飾った。やはりプロのカメラマンの写真はアングルが良く、迫力が全く違う。良い記念品になった。さて、後始末はまだ少々続く。<続く>
2020.02.06
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<断捨離と模様替え> 午前3時の外は静か。どうやら嵐は去ったようだ。まだ未明だが起きて和室2の作業場へ。暖房が無くて寒い。気を紛らわすためにラジオを点ける。もうあまりにも疲れ過ぎて、何曜日かも分からない。だが、何とか断捨離を進めようとする自分。段ボール箱を開けて、中の本を取り出す。ケースがないのはサイズごとに紐で縛って、部屋の隅っこへ積み始める。 長男の「コレクション」は実に厄介だった。硬く立派なケースの中から、大量のレーザーディスクを抜き出して「燃えるゴミ」用のビニール袋に。そのままだと重くて破損するため、保護のための「細工」も。美術全集のケースもまとめて和室2に積んだ。これも資源ゴミとしてリサイクルへ出す予定。 ゴミはまとめて、ガレージの一角へ。1個で30kgほどの重さになる。自転車で2袋ずつゴミ集積所に運ぶのは容易ではない。離婚後もう100個以上のゴミ袋を捨てた。さらに断捨離するため、さらに増える。仙台市指定のゴミ袋は燃えるゴミ用が特大、中、小、特小の4種類があり勿論有料でスーパーで買う。プラゴミ用も、大。中、小とあって、それぞれ値段が異なる。ゴミ処理も有料なんだよ。 これは和室2に置いて古蒲団。粗大ごみはその内容ごとの「チケット」をスーパーで購入し、各自が業者に連絡するのがわが仙台市のルール。まだ2階の布団袋にも入っているため、今後も増えそう。汚れが酷いのも、臭いのもあるだろう、だから新しい布団カバーをかけても、無駄のはず。 わが家は、1階に和室が2部屋と居間があり、2階には3つの洋間と書斎コーナーがある。また各階にウォークインクローゼット。物置が1階に1か所。トイレが各階に1か所。1階には浴室、洗面所兼脱衣所、キッチン。別途物置小屋が家の北にあり、農作業用の道具などを格納している。断捨離と同時に清掃も行ったが、まだ今後も作業は続く。配置換えを終えた各部屋の状況は以下の写真でね。 <洋間1> <洋間2> 右側は壁を利用し、大型の美術全集コーナーに。 <洋間3> <2F書斎コーナー> 私の趣味の日本古代史、考古学関係資料。一部は1階PCコーナーへも移動。 また、デスクは1F居間へ。本箱は2階の洋間各室に異動。 将来泊りや遊びに来るであろうKちゃんのお嬢さんたちのために、2階の洋間各部屋には、本を並べ、楽しい置物を飾った。2階のトイレもウォシュレットに取り換える。女の子は清潔が大事だもんね 浴室(左)と脱衣所・洗面所(右) <キッチン> IH調理台 電子レンジとトースター 特注品の食器戸棚 1階(左)、2階(右)のウォークインクローゼット。2Fも近く片付けが終わる予定 この広いわが家全体の断捨離、掃除、物の移動と模様替えを1人でやって草臥れた。春になれば、畑作業と草取りも始まる。俺は頑張るぞ、健康第一でね。<不定期に続く>
2020.01.31
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<哀しみの氷雨> 朝からの氷雨。それもかなり強いもので、宮城県内には大雨注意報と暴風警報が発令された由。私は歩いて整骨院へ。そして彼女はこの大雨の中でも集金をしているのだろう。K元気か~っ。気をつけて風邪など引くんjないぞ~っ。でもその声は届かないはず。だって私の心の叫びだもの。 昨日もそしてたくさんのコメントをいただいたが、返事は書かない。そして書かない積り。これは実話ではあるが、そんな軽い話ではないのだ。むしろどうしようもなく暗い話だ。だがそこから抜け出そうとしてもがき苦しんでいる男の話。今日も腰が痛むまま、断捨離を続けた。かなり作業が進み、残り3割と言えるところまで来たのではないか。 どうか幸せになってくださいなどと書いてくれた方には申し訳ないが、あれから彼女とは会っていない。もちろん電話番号も聞いてない。最も早く会える可能性があるのは3週間先。それまでは私の頭の中で繰り広げられる空想話に過ぎない。 思い切って彼女を家の中に入れたらなどと書かれた方がいるが、とんでもない話。勤務中の彼女がもしそんなことをし、会社に知れたらたちまち懲戒免職のはずだ。彼女は会社の名前が入った車に乗って仕事をしている。変な噂など立とうものなら、すぐさま会社に通報されるはず。私が彼女が首になるようなことをするわけがないのだ。 今日、着物タンスを整理中、桐の箱に入った「臍の緒」を見つけた。長女、長男、そして次男。3人の子を産んだ前妻がタンスの奥にしまっていたのだろうが、思い切って捨てた。そして「引きこもり状態時代」の長男が収集した大量のレーザーディスク。ロリコンの山を見るたびにうんざりしていたが、これですっきり馬鹿な長男が100万円近くはたいて集めたコレクションも。霧と消えた。よしよし。 家族の思い出は大切にと書いてくれた人がいたが、トンデモナイ話。結婚後50年近く私を騙してへそくりを重ね、大金を持って家を出た妻。その妻の援助で自宅を建てた長女からは、「お父さんとは縁を切った」と告げられた。もう2人の孫にも会えない。長男はいくら電話をかけても着信拒否。老いた父が今どんな暮らしをしてるのかさえ知らないまま。 年末に帰省する次男が、今年は仕事で帰らなかった。その彼が仙台で暮らすつもりはないと明言。ひょっとして私の心中を一番よく察しているのは、ひょっとしてKちゃんかも知れない。全くの他人の彼女が、唯一の私の心の灯だ、その彼女にまだ聞けてないことがある。 それはご主人様の死因。彼女は決して言わないが、私は密かにあの「東日本大震災の津波」だと思っている。その哀しみを忘れようと、彼女はこの仙台に来て全く新しい暮らしを始めた。多分それが真相なのだろうが、あえて聞かないし、まだ聞く勇気がない。初めて彼女に会った時に感じた強い慟哭は、それが原因なのではないか。 お互いに家庭を失った者同士だからこそ、相手に何かを感じ理解出来るのだろう。「どうかKちゃん俺を信じ、思い切って胸に飛び込んで来い」。俺なんかで良かったらしっかり抱き止めてやるから。心の中でそんな自問自答をしながら、俺は今日も片付けに励んだ。Kちゃんの笑顔がみたい。まだ見ぬ4人のお嬢ちゃんたちと会えるのが楽しみ。もう本当の孫には会えない仙台のじいじも笑顔になりたいしね。 他の写真は全部捨てても、お前のだけは捨てないよ。だってお前だけは俺を裏切らなかったもんなあマックス。そのうちまた一緒に遊ぼうな。だからもう少しそっちの世界で待っててね。俺もそのうち必ず行って、真っ先にお前を見つけるからな。じゃあそれまで元気で。俺もこっちの世界でもう少し頑張ろうと思うんだ。とっても可愛い人が出来たんでな。でもやきもちを焼くんじゃないぞ。マックス。<続く>
2020.01.30
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