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~震災から10年。新しいスタートに向けて~ 八戸市種差海岸 あれほど激しかった「東日本大震災」なのに、東北でもほとんど被害を受けなかった県がある。青森県、山形県での死者は各2名で、秋田県では全く犠牲者がなかった。それだけ太平洋側での津波や、東京電力福島原発事故による被害が甚大だった証だろう。 東北六魂祭 福島県では原発があった大熊町や双葉町の帰還困難地域、及び近隣の市町村の住民が県内外での避難生活を余儀なくされ、大変な不便さや困難に直面している。それにも関わらず、翌2012年から東北六県は持ち回りで「六魂祭」を開催して来た。それは東北六県が一致協力して乗り越えて行こうとする決意の表れだった。青森の「ねぶた」。盛岡の「さんさ踊り」。仙台の「七夕」。秋田の「竿灯祭り」。山形の「花笠まつり」。そして福島の「わらじ祭り」と壮観だ、私は福島市と小岩井牧場内で開催されたミニ版と2回観た。 政府主催追悼式 「東日本大震災」からまる10年を経過した今年の3月11日。政府主催の追悼式が東京で開催され、天皇陛下、皇后陛下などが列席された。今回は特に新型コロナ感染症のパンデミック中の開催のため列席者を制限し、政府主催としては今回が最後の追悼式とのこと。 それにしても大きな地震と津波。そして10年経った今でも、まだ余震が起きると言う凄まじさ。顧みれば私はこれまで「新潟県沖地震」、「阪神淡路大震災」、「宮城県北部地震」、「東日本大震災」、「宮城県沖地震」などを体験した。小松左京の「日本沈没」ならずとも日本列島自体が災害列島なので、今後も災害に遭遇する可能性は高いが、極力冷静に臨みたいものだ。 福島原事故で故郷を失った方を2人知っている。その避難先で「福島で放射能汚染した」と差別された子供の話も聞いた。津波に巻き込まれて、油臭い海水を飲んだ人の話。津波の犠牲者の指を切って指輪を盗み、避難所のトイレ付近に潜んで女性を襲うために他県から来た犯罪者の実話も聞いた。除染工事現場で働き、がんで死んだ後輩。可燃物にコンクリート片が1個混じっていただけで、搬送した瓦礫全体を送り返して来た九州のとある自治体。 避難先の仮設住宅で身を寄せ合った同じ集落の人や、孤独死した人。買い物難民の住民のため、苦労して被災地にスーパーを開いた人。温泉の洗い場で隣り合った男の人は、体をブルブル振るわせていた。津波で何度も海中に沈んだ恐怖が消えないと言う。私は彼の手を強く握ったが、いかついオジサンの手はそれでもまだ震えていた。あのオジサン、あれから一体どう暮らしているか。 あの大震災を契機に何人かのブログ友と別れた。経験が異なれば恐怖や不安の実感がないのは当然だ。それでも被災者たちの哀しみや苦しみに少しは思いを致してほしいと願う。あれから復興は進んで、被災地からほとんどの残骸が姿を消した。だが未だに帰還困難地ではイノシシなどの野生動物が横行し、除染してない地区では農業が出来ず、農産物や海産物には放射能汚染の風評被害があるのが現実だ。 あれから10年。自宅の敷地跡で手を合わせる父子や、砂浜に書いた「魂」の字を丸く囲んだ青年の姿。震災直後から今日まで、果たして彼らはどんな生活を送って来たのだろう。妻を失った夫。夫を失った妻。親を失った子や、子を失った親。家族を全て失って一人で生きている人。彼らの大切な思い出の品や、家族の写真は見つかったのだろうか。昨夜もトレンディ風な震災物語「ペペロンチーニ」を観た。話の舞台は女川町だと風景で分かった。草なぎ剛と吉田羊主演で。とても良いドラマに仕上がっていた。 「東日本大震災」の津波が到達した最奥部には、「津波到達地」の石碑が建設された。また海岸部の建造物には、津波が届いた高さの表示箇所が多い。平野内陸部の津波到達地点には、桜の苗木を植樹した箇所が複数あり、それを繋ぐと「津波到達範囲」が分かる。大地震と大津波の記憶が風化しないよう次代に受け継がれて行く古い時代からの「記念物」が東北には多く、子孫に対する強い警告となっている。 <雪の蔵王連峰と白石川河畔の「一目千本桜」> 私は奥羽山脈を越えて山形県まで練習で走ったことが何度かあった。仙台の自宅から関山トンネル経由天童市まで(56km)、二口峠経由山形市山寺まで(53km)3回、笹谷峠経由JR山形駅まで(55km)、JR白石駅~金山峠経由山形県上山市(55km)、蔵王エコーライン経由山形市蔵王温泉まで(77km=累積高低差は3千m以上)。自宅~国見峠経由JR福島駅(80km)は最長だった。 唐桑半島折石の奇岩 宮城県内のレースで出場したのは蔵王高原(20km)、仙台国際ハーフ、あぶくまリバーサイドマラソン(ハーフ)2回。東北ブロック新春マラソン(ハーフ)。少ない理由は私がウルトラマラソン志向で練習でも20~30kmは走れためレース代金がもったいため。また転勤と異動で故郷にいなかったためでもあった。老化でもう長く走るのは無理だが、全都道府県を走破したのが良い思い出だ。 東日本大震災の翌年、わが家は都市ガスを廃止してソーラー発電と「オール電化」に変更した。震災で都市ガスが35日間もストップしたための防衛策だ。ただし売電価格は来年から一気に下落するが、十分「元」は取ったはず。また女房が家を出て独り暮らしになったのが、大いなる変化。去る者は追わず。これからも老体を騙し騙ししながら、出来るだけ元気で長生きしたいものだ。 震災と言う重たいテーマに最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。心からの御礼と読者諸氏のご健勝を祈念して結びとします。<完>
2021.03.20
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~わが故郷・宮城県その2~ 宮城県は好漁場三陸海岸に近く、全国でも屈指の水産県。また牡鹿半島には捕鯨基地があり、新鮮な鯨肉が流通している。福島県を水源とする阿武隈川が南から、岩手県を水源とする北上川が北から流れて仙台平野を形成し、古くから開墾が進んで有数の米作地帯となっている。西は山形県と接し、松島、蔵王の観光地のほか、鳴子、鬼首、川渡、作並、秋保、遠刈田、小原、鎌先などの温泉地がある。 「東日本大震災」の際は津波によって大きな被害が出たことは既に記したが、牡鹿半島とその沖にある金華山(山と名はついているが島)との間の海峡は、津波の際は潮が引いて海底が見えたほど凄まじいものだったと言う。マグニチュード9.0、震度7強は世界最大クラスだが、三陸沖では平安時代の貞観地震など、大規模の災害が繰り返し起きている。 丘陵の新住宅地 女川町は津波による大きな被害を出したが東北電力女川原発は無事で、その後かさ上げ工事などを完了し再稼働の許可が出た。町は町民と共に復興計画を建て、丘陵を削って住宅地とし、その残土で駅と商業地を造成した。海が深いため行方不明者の大部分が未発見だが、今でも定期的に潜水して遺族たちが捜索し続けてている。ひっくり返った旧女川交番(下左)が震災遺構となっている。 かつての南三陸町 震災後の南三陸町 上の写真の海は志津川湾で、家並みは震災前の南三陸町。私はこの湾の周囲を走って一周したことがあった。朝、石巻市を出発してあの大川小学校の前や、神割崎を通って湾の向こう岸に出、右手奥のホテル(白い建物)の前から手前の海辺へ出、その日は町内袖ヶ浜の民宿に1泊。食べ切れないほどの海鮮料理に舌鼓を打った。翌朝は民宿をスタートしてゴールの気仙沼まで海沿いを走った。2日間で約90kmの走り旅。その時に走ったコースのほとんどが津波で大きな被害を受けた地。実に悲しく辛い思い出だ。 上は東日本大震災で生じた気仙沼湾の津波火災。漂流した漁船同士が衝突して発生した火災が、やがて家屋などの膨大な瓦礫に延焼して大火災となった。同じことは仙台港の石油基地でも生じ、火力発電所が機能せずに長期間停電の原因となった。また仙台市ではガス管やガスの貯蔵タンクが被害を受けて、1か月以上のガス供給停止となり、後日、東京、中京地区、関西地区のガス会社から復旧援助を受けた。 震災後、震災で大きな被害を受けた気仙沼大島と唐桑半島を結ぶ連絡橋が架橋された。最初の計画から50年目に実現した夢で、島と気仙沼港を結んだ連絡船は廃止された。また気仙沼湾を跨ぐ横断橋が「三陸道」ルートの一部として架橋され、共に震災復興のシンボルとなった。今後は三陸地方の産業振興に大いなる力となるはずだ。<続く>
2021.03.19
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~わが故郷・宮城県その1~ これが宮城県の地図だが。県北の海岸は岩手の三陸地方同様にリアス式地形で、津波によりたくさんの犠牲者が出た。中央部の松島湾もやや複雑な海岸線だが、それ以南は仙台湾にそって遠浅の砂浜が続いている。しかし、ここでも多くの犠牲者が出た。震源に近かったせいもあるが、平野部のため海岸部にも集落が集まっていたためだ。仙台港付近では工業団地で大きな津波被害と火災が発生している。 東日本大震災における死者数は15899人だが、そのうち宮城県内の死者数は9543人と最大で、全体の60%を超えている。自治体別の内訳は多い順に、石巻市3277名、気仙沼市1109名、東松島市1066名、名取市912名、山元町681名、仙台市658名、南三陸町600名、女川町593名、亘理町265名、多賀城市188名、岩沼市180名と、いずれも海岸部で津波による死者だ。 石巻市大川小学校 中でも悲劇だったのが石巻市立大川小学校。海から3.6kmほど離れ、津波到達までに50分も時間があったのに、校庭に集合したままで何もせず74名の児童が犠牲になった。すぐ裏には小高い山があるのに、どうして逃げなかったのかが不思議だ。さすがに事故後遺族の父兄から不満が出て裁判になり、宮城県と石巻市の避難誘導マニュアルに不備があったとして、裁判には勝ったが死んだ子は帰らない。 <深沼小学校と「東日本大震災観音像」> それと対照的なのが仙台市立深沼小学校。ここは海から400mほどしか離れておらず、地区の住民は津波で多くの住民が犠牲になり集落は壊滅した。津波は校舎の2階まで達したが、児童たちは3階以上に避難して全員無事。後日ヘリコプターで救出された。集落は危険地域として居住地域から外され、観音像が建立された。双方の小学校とも、現在は「震災遺構」として保存されている。 写真は名取市閖上(ゆりあげ)地区にある集合災害復興住宅。ここは海から数百メートルと近く、東日本大震災の津波で大きな被害があり、たくさんの死者が出、ほとんどの住宅が破壊され流出した。震災後は瓦礫の山で、たくさんの自衛隊員と全国から救援に来た警察官が、連日死者や行方不明者の捜索をしていた姿が今でも目に焼き付いている。 閖上は危険との判断から一旦は内陸部に移転先を決定したが、やはり元の位置に住みたいとの住民の願いで土地をかさ上げ工事した。既に新たな団地が完成して希望者が移転済み。港近くには水産業地区も整備されてかなり賑わいが戻っている。震災後は長らく大量の瓦礫処理のための、施設が稼働していた。それらの瓦礫は防潮堤などの素材として再利用されたようだ。今は慰霊の塔が静かに海に向かっている。<続く>
2021.03.18
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~わたしと岩手県~ これが岩手県の形。北海道の次に面積が広く、多分信じられないだろうが、九州と四国を合わせたほどのようだ。県の真ん中を北上川が流れ、そこに県庁所在地である盛岡市を始めとする、たくさんの市が北上川沿いに点在する。東は太平洋に面した三陸海岸でその南半分はリアス式海岸だ。中央の北上川との間に北上高地があり、姫神山や早池峰山が聳えている。県の西側は秋田県と接しておりその間は奥羽山脈が連なって、秋田駒ケ岳などの秀峰がある。そして山麓には温泉地が多いことでも有名だ。 岩手山(南部富士) 岩手県で参加したレースは、「金ヶ崎ハーフマラソン」、「夏油(げとう)マラソン」(30km)、「北上マラソン」(フル)で、後は「いわて銀河ウルトラマラソン」で100kmの部に5回、50kmの部に1回出場したはず。100kmの部は北上市がスタート地点で、花巻温泉郷やダム湖、急峻な峠越えと冷風が吹く4つのトンネルを抜けて50kmの部と合流し、銀河高原や厳しい山道を通って雫石町のゴールへ。最後は前方に岩手山や姫神山が見えて大感激のコースが今でも懐かしく脳裏に浮かぶ。 リアス式海岸 三陸海岸の南半分はこんな地形が続く。いわゆるリアス式海岸で、のこぎりの歯のようにギザギザしている。ここの沖では昔から地震が多く、この地形のため津波が発生すると大きな被害が出る宿命だ。狭い岬に囲まれた集落は周囲が高地ばかりで、そのために津波は陸に向かって増幅し人は急いで山に逃げるしかない。 陸前高田市1557名、釜石市888名、大槌町804名、宮古市420名、大船渡市340名などと、東日本大震災で亡くなった岩手県民4675人の半分以上が津波で亡くなった海岸部の人たちだ。この地方には「津波てんでんこ」と言う言い伝えがある。大地震による津波襲来の際は、たとえ家族であっても集合を待たず、いち早くそれぞれで逃げろとの意味だ。 巨大な防潮堤 観光旅行で三陸海岸へ行った際に観たのは、復興工事で建造中の巨大な防潮堤だった。宮古市ではかなり巨大で堅牢な防潮堤を二重に建造していたが、それでも「東日本大震災」の大津波は易々とそれを乗り越えて市街地に大きな災害をもたらした。居住地区をかさ上げするなどして、港湾部とは機能区分をしたのだ。 三陸鉄道リアス線 三陸道 朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道リアス線(上)が大震災から復興して全面運転が再開している。また仙台ー青森県八戸間の「三陸道」(下)がこのほど全面開通した。今後の災害に備えるだけでなく、この地方の産業振興のためにも強力な助人となろう。三陸道はやや内部を走っているが、岩手県内の海岸部では、ほぼ並行して走っていて、なかなか壮観な眺めだ。 浄土ヶ浜 青の洞窟 宮古市の浄土ヶ浜では、震災時の話も聞いた。現在は新型コロナ騒動ですっかり客足が遠のき、観光船による巡航も廃止されたようだが、幸いにも私は美しい海岸を船で訪れることが出来た。十和田八幡平国立公園や安比高原スキー場などがある岩手県。小岩井牧場や盛岡市の不来方城や志波城歴史公園などを訪れ、姫神山にも登った。「民話の里」の遠野市も良かったね。<続く>
2021.03.17
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~わたしと福島~ これは福島県の地図だが、福島は大きく3つに分かれている。オレンジ色の地方が「会津」で最大の都市が会津若松市。猪苗代湖や磐梯山などの観光地がある。グリーンの地方が「中通り」で、ここには県庁所在地である福島市、郡山市、白河市など人口が密集し、東北新幹線が通り阿武隈川が流れている。海岸部の「浜通り」は東日本大震災で大きな被害が発生し、津波や福島原発の放射能事故で、たくさんの人が故郷を失い、今も全国各地での避難暮らしを続けている。福島県の死者は1614名に上った。 いわき市 浜通りの最南端にあるのがいわき市。勿来などの市町村が合併して、高山市が日本一広い市になる前はいわき市が最大の市域を誇っていた。常磐線で東京方面から来ると、真っ先に勿来周辺で「いわき明星大学」の看板が目についた。今は「医療創生大学」と名称も学部構成も変更したようだ。さて上の写真で見える範囲がほぼ「いわきサンシャインマラソン」のコースだと思って差し支えない。山あり海ありの変化に富んだ結構ハードなコースで、私は3回参加したはずだ。 磐梯山と猪苗代湖 磐梯山と猪苗代湖が見えるコースを走るウルトラマラソンがあった。名称やコースは毎年のように変わったが、私は5回ほど参加したはず。アップダウンの厳しい磐梯山を一周した後に、結構アップダウンのある猪苗代湖を一周するのはきつかった。右に見えている国道もコースの一部で、とても懐かしい。ほとんどが100kmだったが、60kmの時もあった。また「東山マラソン」では20kmを走った。 中通りのマラソンは「飯坂もにわっこマラソン」(フルマラソン)のみだが、自宅からJR福島駅までを練習で80km走った。浜通りでは「相馬野馬追いマラソン」(ハーフ)も走った。 事故前の福島原発 常磐線沿線の風景で懐かしいのは、原町の通信基地や東京電力の福島原発。あの美しかった建物が、大震災で大きな被害を出した。元々標高20mあった敷地をわざわざ10mまで掘り下げたと聞く。もし20mのままだったら津波の被害も小さく、全電源喪失もせずに済んだかも知れない。スリーマイル島事故の教訓を生かせなかったのは東京電力の重大な怠慢で、批判されて然るべきだ。 相馬市松川浦大橋 浜通りの相馬市までは、自宅からマウンテンバイクで2回行ったことがある。往復で100kmほどだが、海岸沿いで平坦なので割と楽だった。その松川浦が東日本大震災が大きな被害をを受け439名の死者を出している。宮城県南部の海岸部でも大きな被害が出たが、先日の福島県沖地震でも東日本大震災を上回る大きな被害を出したのが気の毒だ。<続く>
2021.03.16
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~私と茨城県~ 茨城県の地図 茨城県の旧国名は常陸国。これで「ひたちのくに」と読む。現在では電機メーカーの日立が有名だが、それもこの国名に由来する。私は研究学園都市のあるつくば市(当初は桜村など6か町村)と県庁所在地の水戸市に合わせて11年間住んだ。故郷の宮城県に次いで長く住んだ県なので、想い入れは強い。今では「つくばエキスプレス」が走り、高層ビルが建ち並ぶつくば市も元々は貧相な松が生い茂る原野だった。 筑波山と霞ケ浦 私が茨城県で思い出すのが筑波山と霞ケ浦だ。筑波山は関東平野に聳える秀麗な独立峰で、筑波山神社があり万葉集の和歌にも謳われた古代から神聖な山だった。霞ケ浦は利根川の下流域にある淡水湖で、私たちが筑波に移住した昭和40年頃は土浦から潮来(いたこ)まで観光船が巡航していたし、土浦市から筑波山方面には「筑波鉄道」が走っていた。 つくば市は3人の子供たちにとっては故郷みたいなもので、彼らはそこで生まれ、そこで育った。私がランニングを始めたのもつくば勤務当時で、当初は3km走るのがやっとだった。それから43年目になり、走った距離は10万kmを超えて地球3周目に入りその後全都道府県走破も達成した。茨城県のレースは、つくばマラソン2回、勝田マラソン4回、かすみがうらマラソン2回でいずれもフルマラソン。 特急ひたち つくばマラソンの前身である「筑波研究学園都市マラソン」を3度走ったが、当時は30kmのロードレースだった。練習では主に筑波研究都市内を走り、水戸では千波湖が練習コースだったが、水戸から石岡市までの約30kmを練習で走ったのが良い思い出だ。茨城県で思い出すのが常磐線。東京へ行く時も、仙台へ帰る時も良く利用したので今でも駅の名前は良く覚えている。 大洗港 3.11における茨城県内の最大深度は6強で、死者は24名だったようだ。恐らくは大洗港や高萩港、北茨城港など海岸部における津波による犠牲者だったのではと推測している。そして県北の海岸部では福島原発の事故による放射能汚染の風評被害もあったのではないだろうか。北部の港では冬場のアンコウ漁が有名で、市場に吊るされていたグロテスクな姿を思い出す。 五浦海岸六角堂 明治期に岡倉天心、フェノロサ、横山大観らが関係したと言う県北五浦(いずら)海岸の六角堂が、最後の職場が管理していると聞いて驚いた。直ぐ海の傍なので津波の被害がなかったが心配だ。農学部が阿見町に、工学部が日立市にあり何度か訪ねたのも良い思い出。観光では焼き物の町笠間や、鹿島神宮のある鹿嶋市、袋田の滝などへ行った。茨城県は道路が四方八方に延び、きっと古代から交通の要衝だったのだろう。そんな印象が強い。<続く>
2021.03.15
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~ランニングの思い出と共に~ 私は47都道府県の全てを訪れ、かつそこで走っている。このシリーズでは「東日本大震災」の思い出を記しているが、それだけでは持たない。それで被害が出た県をランニングの思い出を交えて紹介しようと思う。最初は千葉県。震度6弱で31名の死者が出たようで驚いている。私は千葉市の幕張に住んだことがある。今では立派なビル街になっているが、50年前はピーナッツとサツマイモ畑で、海は立ち入り禁止の汚れた浜辺が続いていた 夕日の印旛沼 レースで千葉を走ったのは「佐倉朝日健康マラソン」(フル)で、当日は大雨が降った。印旛沼(上)の周辺のコースを、雨や水溜りに悩まされながら散々な思いで走ったのが、強く記憶に残っている。 もう一つのレースが「飛翔千葉ウルトラ」で距離は60km。不思議な縁だが、印旛沼を水源とする花見川の下流の1周10kmのコースを6周するもので、風景に変化がなくてとても詰まらない大会だった。まあ周回コースと言うのは、得てしてそんなもので、当たり外れがあるのが普通だ。 <新浦安> <浦安> 「寅さん詣り」と言う大会にも出たが、こちらはスタートとゴール地点が東京都の葛西臨海公園傍。それなのに千葉に入れたのには訳がある。それはコースの最初に新浦安橋を渡って浦安市のディズニーランドの周辺を回るためだ。浦安は山本周五郎の「青べか物語」の舞台になった古い運河の情緒ある町。だが海岸の新浦安は新たに造成した土地で、東日本大震災では液状化現象で大変な災害が起きた。 <京成柴又駅と寅さん像> 因みに東京都でのレースは、「八丈島一周」(66km)と「伊豆大島一周ウルトラマラソン」(100km)といずれも島しょ部のウルトラマラソンだが、荒川沿いを走る「喜多マラソン」はフルマラソだった。「寅さん詣り」の方は江戸川沿いを柴又の帝釈天で折り返すが変化に富んだ景色で、途中で迷子になり42kmが44kmになった。手作り大会ではたまにそんなことが生じるのだ。<続く>
2021.03.14
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~わがこころの風景~ 2011年3月11日金曜日午後2時46分過ぎ。突然家がグラグラと揺れた。相当に強い揺れでとても立ってはいられない。思わずしゃがみ込み、揺れが治まるのを待った。その時間の長いこと。これだけ揺れたのは人生で初めてのこと。自分では6分ほど揺れていたと思ったのに、実際は3分少々だった由。多分家は潰れる。でも建築したのが軽量鉄骨住宅であることが、最後の支えだった。 揺れが治まったため、外へ出た。電線がブランコのように揺れている。地面から水が噴き出している。その日は夕方から勤務だったが、自分の判断で行くのは止めた。それで正解だったと思う。潰れてペシャンコになったビル。大量の窓ガラスが割れたビル。陥没した道路。そしてそれから数十分後、海岸では恐るべきことが起きていた。大津波だ。それも繰り返し襲い、多い所では第7波まであったと言う。 南三陸町防災庁舎 マグニチュード9.0。最大震度7強。名称は何度か変わったが、最終的には「東日本大震災」に落ち着いた。最初の震源地は宮城県沖。この後は散発的に余震が起きて、10年を過ぎた今でも宮城県内では震度4程度はざらに起きる。太平洋プレートが、北米プレートとユーラシアプレートの下に潜り込む摩擦が原因で起きた大地震。これまでも数百年間隔で大地震が発生しているらしい。 フィリピンも交えた4つのプレートが日本列島の真下で交わり合い、沈降と隆起を繰り返している。今回は震源地が徐々に南下し、日本海溝付近で東西200km幅、南北500kmに渡ってプレートが引き裂かれた由。そのために多くの活断層が影響を受けたようだ。わが家ではその日から5日間停電し、6日間給水が止まり、ガスは35日間供給停止となった。当日は雪が降る寒い日だが、当然暖房はない。風呂に入ったのは35日間で3回。近所の温泉の入浴券を1時間半も並んで買った。 仙台市深沼海岸 停電のためニュースが聞けず、震災の度合いが不明。この間に海岸部では大変な事態が発生していたようで、後日停電が解消してからニュースを観て愕然とした。海辺の街は壊滅状態で死者や行方不明の人が大勢出たようだ。仙台空港の飛行機が流されて行く様子に呆然。燃える気仙沼の港。仙台市内でも800名近い死者が出たようだ。思っても見なかった大災害。ところがわが家ではほとんど被害はなかった。棚などを道具で固定していたのだ。その防護策が効いて、本が少々落下した程度で済んだ。 事故後の福島原発 恐ろしかったのがその翌週だ。福島原発がメルトダウンしたと言うニュースが飛び込んで来た。原発がある大熊町と双葉町の町民は放射能汚染の恐れがあるため、緊急避難した模様。ところが事故当日の風向きで、放射能汚染した市町村がほかにあったとか。宮城県最南端の町も一部汚染。私は「放射能汚染」を怖れつつ雨に濡れながら自転車で職場へ向かった。食べ物も燃料もなかった。そして冷たいままの布団。それでも命があったのだから良い方。 この後、大勢の方が寒い避難所暮らしを強いられた。スーパーにも物がなく、ガスボンベ1本を買うのに2時間も並ぶ始末。まさに地獄の日々だった。<続く>
2021.03.13
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~暮らしの中のあの日~ 目が覚めると既に8時。急いで着替え、バス停へ行く。市役所県庁方面へのバスは8時31分。それだけ確認し、それまでに何が出来るかを考える。先ず布団を干す。次に朝食の準備。必要な書類をリュックに。ついでにお茶とお菓子もリュックに入れた。それから朝食。朝ドラを観てる暇はない。準備したご飯も3分の1ほどを食べて終了。急いで歯を磨き、薬を飲んだ。それからトイレとゴムの木を外に。 仙台駅前 急いでバス停に行くと7,8名が並んでいた。少し遅れ来たバスの前方座席に座って新聞を読む。まあかなり読めた。仙台駅前で降りて前方の高いビルへ。エレベーターで5階へ。そこが区から今年指定された申告の場所。県民税市民税の、申告の期限が迫っていた。必要な書類を整えていた。後は係の人に聞きながら書けば良いと判断。私がもらった札は6番。と言っても実質は1番だった。5人は既に済んでいた。 仙台市地下鉄東西線 係の女性が書類を確認しながら画面に入力してくれたため、私はただ座っていただけ。折角計算した「医療費控除」は少額のため対象外とのこと。昨年以降に規則が変わったようだ。残念だが仕方がない。最後に提出した帳票を返してくれたが、申請書はもらって来なかった。後で確認するためもらった方が良かったかと後悔。帰路は地下鉄に乗った。終点の駅から歩いて坂道を下る。 郊外風景 地下鉄の駅から歩くのは久しぶり。30分ほど坂道を下る。暖かい春の日が心地よい。新しい団地での新築工事が進んでいる。裏道を通ってわが家へ。そして裏の塀の脇から畑へ下りて玄関へ。書類を整理後、食べ残した朝食を平らげ、申告会場へ持参した「くるみゆべし」も食べた。これで重荷が一つ降りた感じ。街へ出るのは正直怖かった。連日コロナ感染者が出ていたからだ。家にいたら安心なのだが。 この日はあの「東日本大震災」発生からまる10年目。そんな日に出かけなくても良さそうなものだが、申告の締め切りが迫っていたため、私はこの日を選ばざるを得なかった。無事申告出来て良かった。それもほとんど待たず、何の障害もなく帰宅出来て良かった。2万人以上の死者と行方不明者を出した、あの未曽有の大災害。被災地に住む私たちはこのところ連日のようにテレビであの映像を見せられた。 災害当時(右)と復興後の街並み(左) 見なければ見ないでも済んだが、私はその特集のほとんどを観た。わが家は大した被害を受けなかったが、それでも地震保険は下りた。極力適用するよう政府から保険会社への働きかけがあったようだ。わが宮城県内は一番多くの死者が出、私の従兄弟も津波で死んだ。だから番組を観るのは県民として当然の勤めとも思う。どれだけ大変な思いをした被災者と遺族がいたことだろう。その筆舌に尽くせない苦難の日々を思う。<続く>
2021.03.12
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あれから あれから9年の月日が経ちました そちらはいかがですか 私はまだ生きいます でも色んなことがありました 不整脈の手術を3度受け 最後の手術は6時間かかりました 執刀医によれば不整脈の震源地が5か所もあり それをレーザー光線で一個ずつ焼き切るため 手こずったと笑っていました そうそう 硬膜下血腫の手術も受けました 頭蓋骨に穴を開け 管を入れて溜まった血を吸い出したのです 毛細管現象の応用と言ったら分かるでしょうか 硬膜下に溜まっていた血液は約200cc そのせいで その夏はなんだかとても気分が悪かったのですよ その年の3月末 妻と別れました 家庭裁判所で1年間にわたる調停を受けた結果でした 4月末に妻が長女の元に去った その直後に 初めて乗った電動アシスト付き自転車 細い道の前方から突然現れた宅急便の軽トラ それを割けようと左にハンドルを切ったら そこに段差があったのです わずか3cmほどでしたが そこは以前平らな三和土(たたき) あれからその土地に家が建ち駐車場が出来ていました そのコンクリートの段差が3cm 偶然が幾つか重なったのです いえね電動アシスト付き自転車に乗ったのはその日が初めて それまでのマウンテンバイクとは 重さもタイヤの厚さも全然違っていました そしてハンドルの操作性がまるきり違うのです。 マウンテンバイクは軽くて咄嗟に切り替えられますが 買ったばかりの電動の方はいかにも鈍重でした いえね 転んでも全く痛くなかったのですよ 頭をコツンと打ったくらいでね ただしついてなかったのは そのころちょうど血液サラサラの 薬を飲んでいたのです 不整脈のため血栓が出来るのを避けるために その意味でも6つぐらいの偶然が重なっていましたね かかりつけのドクターは後になって それも「運」だと言ってました 行きつけの循環器内科のドクターに話したらこれから至急脳神経外科へ行き 頭部のCTスキャンを撮れと言うので 山越えで街の病院へ行きました もちろん自転車で その結果硬膜下血腫が判明し その日のうちに総合病院への入院と 翌日の手術が決まりました 今でも嘘みたいです 保証人は義姉 今わたしが頼れるのは彼女だけ 何せ兄貴はもう45年も寝たきりなので そうそう昨年の春先 夜間に救急車を呼びました 風呂に入ってる途中 手が痺れる感覚がし 次第に後頭部までが痺れて来たように感じたので 119番に電話したんですよ そしたらね姉貴 救急車が迎えに行くまで布団で寝てろと言われたんですが わたしは着替えや洗面用具をリュックに詰め ポシェットに「お薬手帳」や「健康保険証」も入れました そして向かいのKさんだけには事情を話し 救急車に乗り込んだのです 結局入院したのは1晩だけで翌日にはバスに乗って帰って来ましたよ そうそう昨年の夏ごろは耳鳴りとめまいが酷くなり 耳鼻科で検査した結果 脳内の血液循環が良くないらしく 半年近く通って薬を飲んだら症状は治まりました それで先だって40日間ほど断捨離作業をしたばかりです 「断捨離」はね姉貴 最近の流行語で不用品の始末のことですよ 終活って言葉もあります いえトンカツとは違います 50年近い結婚生活で溜まりに溜まった不要品をこの際 思い切って捨てました全部で4.5トンほど お陰で家の中がスッキリ すっからかんになりました その代わり体はクタクタ 4kg以上痩せてこちらもスッキリ 今は静養中の身の上 いつも元気が取り柄のわたしがですよ姉上 長くなりましたので今日はこの辺で止めます ああ、そちらにおられるお父さんやお母さんにもよろしく それから黒犬のマックスを見かけたら 頭の1つも 撫ででやってくださいな 少々臭い黒犬ですがね あれから今日で9年 わたしもいろいろありましたが まあまあ元気で時々は恋もしています ただし 目下19連敗中と言うザマ お恥ずかしい限りです そしてあれから丸9年目になる今日ですが 今年は政府主催の慰霊式も挙行されません 例の新型コロナウイルスによる肺炎の大流行で 今はどこも連日「お通夜」のように静まり返っています ただ安倍総理がテレビで挨拶はされると聞きました。 相変わらず政府の対応を非難する政党と新聞ばかりですが 原因は密かに中国軍が行っていた「生物兵器」の実験材料の 実験動物の死体を密かに外部に持ち出した者がいたみたい そしてウイルスの形を分析すると人工的に手を加えた痕跡があると アメリカで研究中の台湾の医学者が言っています だから中国政府は武漢を閉鎖し、医者ではなく生物兵器 担当の部隊を派遣して厳しく情報と住民を封じ込めたとも では姉上もお元気で それからしばらくの間地球には近づかないように 何せ中国で発生した新型のコロナウイルスがずいぶん 暴れ回っていましてね そちらの世界にもたくさんの人が 逝きました ですから姉上もそちらで感染しないようご注意を 元看護婦の姉上も油断は禁物です なにせ伝染のスピードが速いんです そしてこんな大騒動にも関わら相変わらず船や飛行機で 世界を動き回る連中がいますのでね 姉上 あれから今日でちょうど9年 毎年この日には泣きながら祈っています 嘘じゃありません その証拠に目が腫れぼたいでしょ 墓前に花を供えました 姉上が好きだった白百合です どうぞ安らかにお休みくださいね わたしもそろそろ風呂に入って寝ますから わたしのブログは3人の子が見ない代わり 宮崎の弟が毎日見てくれています 兄弟のありがたさをつくづく感じます 妻に逃げられ子供に見放された父としては 最後はいつもの愚痴になってしまいました では本当にこれでペンを置きます 姉上もお元気で わたしもそのうちきっとそちらに行きますよ 少しは粘って地球にいるつもりですが 最近地球も住みにくくなりましてね せ北極や南極の氷が猛烈なスピードで 解け始めたので あの小説みたいになるかもね ああ「日本沈没」ですよ あれは傑作でした では失礼 いつもの乱筆乱文をお許しを 仙台の可愛い次男より 天国lの姉上さま玉案下
2020.03.11
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~復興に向けて~ 2011年3月11日(金)の午後2時46分。大地は激動し、家も電線も揺れに揺れた。噴き出す地下水。道路には亀裂が入り、ビルは倒壊した。それから何分か後に、どす黒い津波が東北の太平洋側を襲った。特にリアス式の三陸海岸では未曽有の大被害が生じ、福島原発の数基が最終的にメルトダウンした。逃げ惑う人々。津波に飲まれた人々。そして故郷を失った多くの人々。 あれから今日でまる8年。今再び宮城県沖での大地震が予測されている。今後30年以内に、M7の地震が発生する確率は90%以上だそうだ。福島原発に近い大熊町は、全員が強制的に避難させられた。走友Yさんの故郷だ。彼の家族は会津若松に避難し、その間に父親が亡くなった由。今は同じ福島県の郡山に家を建て、やがては彼もその家に帰ると話していた。 震災後JR常磐線は内陸寄りに軌道を変え、駅も新しい場所に出来た。何せ常磐線は原発の直ぐ傍を通るのだ。さらに安全が確認されるまでは全線開通とは行かないだろう。先日大熊町にも帰宅可能地域を設定する由。そのため町役場をかなり山の方へ移動した。それでも果たして帰郷する住民はどれくらいいるのだろう。果たして働く場があるのか。店や病院はあるのだろうか。 大地震当日に起きた黒い津波の実態が分かり始めた。猛烈な津波が狭い湾内の海底を削り、底に溜まったヘドロや油や重金属を巻き込んで黒い凶器になった由。重さが20%ほど増して破壊力が加速され、浮力も強まった。そして強い「引き波」も加わって家やビルが簡単に浮き上がって流されたそうだ。その汚れた海水を飲んで、窒息した犠牲者も多いと考えられるそうだ。泥水が肺に入ったら助からないと聞く。 「三陸道」が9割方完成した。「釜石道」はようやく貫通。だが防潮堤が未だに工事中の市町村も多く、高台に避難した住宅地の造成も全てが完成した訳ではない。40年来の念願だった気仙沼湾の大島への架橋が間もなく完成する。こんな大きな被害が起き、ようやく政府も重い腰を上げたのだ。沖縄の離島のほとんどに、あっという間に橋が架かったのとはえらい違いだ。 宮城県内では、「災害科」を設置した高校もある。海岸沿いの県道では「かさ上げ工事」が進み。海沿いには公園を兼ねた「避難所」が整備された。その一方で住むことを許されない地区もあり、小中学校の幾つかが廃校になった。まさに故郷の消滅だ。「震災」のシンボルとして残された建物は10以上に上るはずだ。だが、浜辺の松原はいつになったら元通り蘇るのだろう。 停電が4日間。給水停止が1週間。そしてガスの供給停止が35日間。それがあの時の我が家。その間の入浴はたったの3回。その時入れた近所の温泉で、隣り合った人がガタガタ震えていた。石巻市で津波に飲まれ、辛うじて助かって避難所を転々とした由。その恐怖が忘れられないと話していた。浮いていたペットボトルを飲んだら油の味がしたとも。あの彼はその後元気になったのだろうか。 あの大震災で家を失った人。家族を失った人。故郷を失った人。借金をし、生きる希望を失った人。思い出を失った人。記憶を失い、病気になった人。運命は過酷で、様々な試練を神は与えた。私はその数年後に家庭を失った。前妻が大金を持って家を出て行ったのだ。それでも生きている分、まだ良い。今も太平洋の海底には、たくさんの瓦礫と身元不明の白骨が累々と横たわっているのだ。 あれから8年。今もなお苦しむ多くの人がいる。仮設住宅住まいの人。被災した自宅で暮らす人。見知らぬ街へ転居した人。入院中の人や施設に入った人。それでも少しずつ漁獲量は戻り、作物の収穫も増え始めた。中には震災を知らない幼子もいる。そして間もなく平成の御代にも幕が下りる。くよくよばかりはしていられない。災害列島日本に住むなら、覚悟がなくちゃね。犠牲者のご冥福を祈り合掌。
2019.03.11
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<風と戦う そして自転車の旅を終えて・・> 荒浜から再び県道10号線に出て、そのまま道なりに北上すると、やがて七北田(ななきた)川へぶつかる。そこから川の右岸を左折しようとしたのだが、何と通行止め。仕方なく高砂橋を渡り、右岸を西に向かった。 <七北田川と高砂橋> しかしその先の自転車道は、次の高砂大橋の下を潜るようだ。何の迷いもなく自転車道を行った。これがこの先混乱する元になる。私は高砂大橋が仙台東部道路だと気づいてなかったのだ。そのまま直行して次の橋を左折し、「東部道路」へ行こうとした。やがて東部道路への進入路の表示があったが、それも無視して直行。これで二重に間違ってしまった。 <全面ガラス張りのビル> 広い道だからと安心して私はペダルを漕いだ。しかし「六丁の目」付近でおかしいと気づき、歩いていた人に「国道4号線バイパスがここで良いか」確認した。似たような広い道と風景に騙されていたようだ。結果的に私が選んだルートは、さほど遠回りにもならずに済んだようだ。 だが、少し前から私はもう一つのことで苦しんでいた。それは猛烈な南風の逆風。風に逆らう自転車ほど辛いものはない。ついに膝周辺の筋肉が痙攣して来た。最も弱い部分が激しい運動に耐え切れなくなったのだ。さて、困った。どうしようか。 ここは「遠見塚古墳」。東北で第5位の大きさを誇る前方後円墳だ。迷うことなく休憩することにした。公園にはソメイヨシノが咲き、グループでお花見している人たちもいた。墳丘上では子供達や家族連れが遊んでいる。実に長閑な風景。津波の被災地の悲惨な光景とは好対照だ。 古墳前の陸橋に登り、少し上から前方後円墳を観察してみた。ここは高校生だった頃、一時叔父の家に居候した辺り。当時は一面の畑が広がり、人家は疎らだった。そして耕した畑の土の表面で、土器の破片が簡単に見つかった。赤い土を焼いた土器だったが、私はここできれいに磨いた滑石製の「紡錘車」を見つけたこともある。布を織る際に糸が撚(よ)れないようにするためのシンプルな道具だ。 厳しい戦いはその後も続いた。強風もさることながら、徐々に登り坂になるからだ。風と登りのダブルパンチ。これが結構膝に来るし、前傾姿勢を保つため手に体重が掛かって痛みが出るようになる。帰宅したのは3時ごろ。結局この日は45kmをマウンテンバイクで走り、6時間かかっての鎮魂の旅になった。 紹介しなかったが、これは最初に休憩した、太白区四郎丸で見たソメイヨシノの桜並木。急いでいたため、この並木が作られた謂れは知らないままだ。 <慰霊の塔> 次に訪れた名取市閖上地区では復興が徐々に進み、嵩上げした地盤の上に高層住宅が建設されているのを確認した。また朝市がかなり盛況だったことを知った。その一方で慰霊の塔が建てられ、日和山山頂の慰霊碑にお参りする人を見た。 <閖上大橋の上から名取川河口を望む> 閖上大橋を渡った仙台市藤塚地区の貞山堀近くに標高15mの「避難の丘」が築かれ、津波の際の逃げ場所として整備されていた。またサイクリングロードが半分だけ出来、広くて平らな防災用の道路に生まれ変わっていた。 <荒浜慈聖観音像> 若林区荒浜(深沼)地区では、仙台市の「震災遺構」第1号に指定された荒浜小学校校舎を観た。同校は今年の春に廃校となった。かつての集落があった付近には「慈聖観音像」や「慰霊の鐘」や若いアーティストが制作した「偽バス停」を観た。いずれも津波で亡くなられた方への鎮魂と、永遠に故郷を失った人たちの心を癒す作品だった。 また新たに出来た防波堤にも登って、その大きさや頑丈さを自分の目で確かめた。さらにこの自転車での旅を通じて、復興工事の現状を確認することが出来た。体調が心配だったが、何とか実行出来て良かったし、それなりの成果はあったと思う。 出来ればこの後もまた被災地を訪れ、自分の目で被害の状況や復興の度合いを確認したい。そして今度は短かい距離でも自分の足で周囲を走ってみたい。果たしてその夢が実現出来るかどうかは、今後の精進次第。何とか頑張りたいね。さて読者の皆さん、応援どうもありがとうございました!!<完>
2017.04.25
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<荒浜(深沼)の復興と海> これが「北貞山運河(貞山堀)」の災害復旧工事の概要図。工期は今年の10月末くらいまでだと記憶している。東日本大震災の津波で貞山堀に近接する集落は全て壊滅した。その教訓から次の災害に向けて、内陸側の護岸をかなり高めに築くようだ。 むろん工事現場には、関係者以外は立ち入り禁止。私が訪れたのは日曜日だったせいか、周囲には工事の人も全く見当たらなかった。 そしてこれが復興工事の現状。まだ工事の途中なので、実に殺伐としたもの。右手が内陸部だが、まだ護岸は最大値にまでは達してないようだ。それにしても防風林の疎らなことには驚く。それにも増して、一軒の家も見当たらないことにもっと驚かされる。 これが橋にはめ込まれていた銘板。左は貞山堀で、「運河」となっているのは新しい表記だ。右は橋の銘板で「深沼橋」とある。「荒浜」と「深沼」の二通りの呼び方があるが、どちらが古くてどちらが新しいかまでは分からない。 左は新しく築かれた防波堤。高さが何mあるかは不明だが、最低でも8mはあるはずだ。右は注意書きを記した看板。ここは元々海水浴場があった。仙台市内で唯一の海水浴場だった。だがここもご多分に漏れず、海水浴場としての機能は回復されていない。浜辺の直ぐ傍が津波にさらわれて急に深くなっている可能性があるのかも知れない。ただ男女別のトイレだけは設置してあった。 新防波堤を乗り越えると、目の前にこんな風景が展開する。広い砂浜に流木が見える。その向こうが太平洋。直接荒波が打ち寄せるため、少し沖合に波消しブロックが積んである。かつての海水浴場は、波消しブロックの内側だ。 目をやると、波打ち際で遊ぶ親子の姿。あれだけ大きな災害があったのに、そして巨大な津波に襲われて集落全体が壊滅したと言うのに、わずか6年が過ぎただけでこんな平和な光景が目の前に展開する。まるで何事も無かったように、静かな波が押し寄せているではないか。 砂浜に誰かが描いた「荒浜💛リメンバー」の文字が見えた。 恐らくは元の住民が描いたのではないだろうか。永遠に住むことが出来なくなった荒浜集落。だが、海岸は昔のように穏やかだ。そのギャップがとてつもなく虚しく、そして哀しい。 空はその哀しみを知っている。海もその哀しみを知っている。そして浜辺もそうなのだ。 まさかとは思うけど、あの流木って津波が運んで来た瓦礫じゃないだろうね。いや、それは違うと思うよ。瓦礫はほとんど取り除いたはずだからね。新しい防波堤の上では、ムール貝が1個太陽に照らされて干からびていた。 これが新しい防波堤の上。まるで広い道路ではないか。思わずマウンテンバイクをここまで運んで、防波堤の上を走ってみたくなったのさ。だが私は思い直したんだよね。何故って、「防波堤はバイクなどの車両の通行禁止」と書かれた注意書きがあったことを思い出したのさ。道路交通法では自転車だって「車両」にはいるんだよね。 「さ~て、そろそろ帰るとするか」。私は浜辺に別れを告げた。良かったね。気になっていた被災地を訪ねることが出来て。それは本当のことだ。この日は名取市閖上地区を先ず訪れ、それから北上して仙台市若林区へ入り、新しくなったサイクリングロードを約半分だけマウンテンバイクで走り、さらに七北田川にぶつかるまで北行し、そこから自宅へと戻って来た。だが、そこから新たな苦しみが私を待っていた。<続く>
2017.04.24
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<荒浜(深沼)の壊滅と鎮魂> 朝9時家を出発し、東日本大震災の津波によって被害を受けた集落をマウンテンバイクで訪ねている。名取市閖上(ゆりあげ)から北上し、仙台市若林区の藤塚、井土浜を通過し、荒浜(深沼)までやって来た。これらの地区では助かった人もいるが、居住地はことごとく津波で破壊され、流されてしまった。かつての集落を知る身には、到底信じられない想いがする。その理由は簡単。人の姿が全く見えないからだ。 荒浜小学校はあの時の津波で大きな被害を受け、仙台市によって「震災遺構第1号」に指定された。校舎内に侵入した瓦礫はその後除去され、今はその面影がない。しかし校舎内は破壊されたままだ。海に近くて極めて危険なことと、大きな震災被害で人口が急減したため、学校を維持するのが困難になった。校舎の壁には生徒たちが書いた「ありがとう荒浜小学校」の文字。もうここで学ぶことは不可能になってしまった。 津波で流された屋敷跡。残った基礎部分も大きく破壊され、津波のエネルギーの大きさを思い知らされる。 サイクリングロードの両側の防風林が、あの津波でこんなに疎らになってしまった。かつては鬱蒼とした松林が連なっていたのだ。それが新しい防波堤が見えるほどなぎ倒され、流されてしまったのだ。あの美しい景観が戻るまでに、一体後どれくらいの歳月を要するのだろう。 これが防風林の残骸。津波に流されなかった松も、長い間海水に浸かったことで枯死し、根元から伐採されてしまったのだ。浜辺との境界に立つ、新防波堤の高さが実感出来よう。 遠くからでも目に付く石像と塔がある。近寄って見ると「東日本大震災慰霊之塔」の文字。そしてその背後には新しくて立派な観音像が立っていた。 荒浜(深沼)は、江戸時代から続く半農半漁の集落。仙台市内に勤務するサラリーマンなどは助かったが、地元で起居する住民の大半が津波の犠牲となった。目の前の浜辺から押し寄せた津波は、「貞山堀」で一段とパワーアップし、内陸へ3km近くも侵入した。ここは全くの沖積平野で、逃げるにも逃げる場所がないのだ。あの荒浜小学校の3階以上に逃げた人だけが助かったようだ。 立像の銘を見たら「荒浜慈聖観音」と刻まれていた。「あらはまじしょうかんのん」とでも読むのだろうか。 隣同士、仲良く暮らしていた荒浜の住民たち。荒浜小学校の運動会では集落を4つに分け、対抗させる競技種目があったそうだ。そんな行事を通じて、地区の親睦と連帯が強まって行ったのだろう。 だが、かつての賑わいも笑い声も今は全く聞こえず、風の音が通り過ぎるだけ。慈聖観音は集落があった辺りを静かに見下ろしていた。 撮影している私が主役になってしまったが、これは震災の犠牲者の碑銘。石がまだ新しく、その表面がピカピカしているために反射してしまったのだ。罰当たりで申し訳ありませんね。合掌。 これはゴルゴタの丘に立つ十字架ではなく、深沼海水浴場の前に立つ慰霊の鐘。いや、裏面に廻って名前を確認したのだが、どこにも名前は刻まれてなかった。 だから「慰霊の鐘」は便宜上私がつけた名前だ。まるで翼を広げた羽のようではないか。亡くなった集落の方々は、きっとあの青い空の彼方、天国に向かって旅立って行ったのだろう。 名取市閖上地区の「日和山」も、今ではすっかり慰霊の丘になった感があったが、ここ荒浜(深沼)も、亡くなられた集落の方々に対する想いが強いのだろう。 名前のないモニュメント。そしてシンプルな形と素材。その単純さこそが、尊い命を落とした死者に対する深い悼みの気持ちのように感じられた。 綱を引っ張って鐘を鳴らした。「カ~ン」と言う高く澄み切った音だった。それが青い空に吸い込まれて行った。多くの魂よ、無事天国に届け。私の鳴らした鐘の音よ、無事天国に届け。爽やかな風が私の頬を叩いて行った。うんうん。どうやら鐘の音は届いたようだ。 さて、かつての荒浜集落の中に、こんなバス停が幾つか置かれてある。全く無人と化した集落になぜこのようなバス停がと、大抵の人が不思議に思うだろう。 種明かしがこれ。このバス停は、仙台市に住む若い女性アーティストが作ったもの。「本物」でない証拠として、時刻表の下部にはこんな言葉が書かれている。これは芸術作品。かつての集落が懐かしくてたまらない住民のことを伝え聞いたアーティストが、何かお手伝いしたくてこのようなものを作り、かつてのバス停に置いたのだ。 話には続きがあり、「偽バス停」の噂を聞いた仙台市交通局が今年の春にたった1便だけ、臨時のバスを出した。それを知った地元の方が大勢バスに乗って、故郷を訪れたのだそうだ。私はそれを夕方のニュースで知った。「美談は新たな美談を生む」。お堅い役所の人も、たまには粋な計らいをすることがあると言う見本みたいな「本当の話」だ。<続く>
2017.04.23
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<サイクリングロードを走る ~名取市閖上地区から仙台市へ~> 再び名取川まで戻る。これが川の中でシジミ漁をしてる人たちだ。奥が疎らな防風林。震災前は鬱蒼とした松林が連なっていたのだが。 県道10号線。「閖上大橋」の上から名取川の河口を観る。右手は先ほど訪れた名取市閖上地区。この橋を渡り切ると仙台市若林区藤塚地区だ。 藤塚地区には一軒の家も見えない。東日本大震災の津波で、全てが押し流されてしまったのだ。県道10号線を横切ってサイクリングロード方面に向かう。問題はこのサイクリングロードが全て開通しているかどうかだ。 こんな人工の丘が出来ていた。「避難の丘」と呼び、海抜は15mあるらしい。まだ芝生がしっかり根付いていない。東日本大震災の津波の高さはこの周辺では9m近かったから、15mあれば助かると思うのだが、「引き波」で土が流されないかが心配だ。 「避難の丘」からサイクリングロード方面を観る。これなら自転車で走っても大丈夫と思ったのだが、良く見ると道路と橋の間に段差がある。これでは危険で無理だと諦めた。 こちらは名取川河口を通して閖上地区が見える。一番手前の広い道が、新しいサイクリングロード。その向こうの川みたいなのが、貞山堀。その向こうが干潟でその先に砂浜と海が見える。ほとんど平らな地形が津波での被害を大きなものにしたのだ。のんびり景色を眺めている前を、自転車族が1人通って行った。自信に満ちた行動だ。これは全線通じているのかな?よ~し、じゃあ俺も行って見ようか。 震災前のサイクリングロードは貞山堀に沿った静かな道で、道幅も狭くて表面は凸凹、そして松の木陰の涼しい道だった。それが津波でまるきり風景が変わり、海側の干潟がすっかり見えるようになっていた。 これが新しく作られたサイクリングロード。自転車道と言うよりも、車が通れる広く平らな立派な道路に変わっていた。しかしどこまで工事が進んでいるかは分からない。さっきの自転車族は引き返して来ない。ふ~む。どこまで行ったのだろう? 手前は貞山堀。その向こうが干潟。そして海岸沿いの白い構築物が新しく建造された防波堤だ。高さは8mはあるだろう。そして海岸とほぼ平行に走る県道10号線も8mほど嵩上げ工事をするし、その内陸側の「仙台東部道路」も高さが6mほどあり、この3つの防波堤、道路2本の法面で津波から人命を守ろうと計画され、目下復興工事が進んでいる。 防風林が津波で流されたため、仙台市内が遠望出来る。震災前はとても考えられなかったことだ。春霞の中にうっすらと見えるのが標高1172mの泉ヶ岳だ。間もなくサイクリングロードが切れるのか、地元の小父さんが自転車に乗ってやって来た。小父さんに10号線に抜ける道があるか尋ねた。あると聞いて安心し、さらに前進。先ほどのサイクリストが戻って来た。やはりすぐ先で行き止まりだ。 地元の人に聞いて、県道10号線への砂利道を走る。こんな時はロードレーサーではなく、マウンテンバイクの強さが有難い。県道10号線沿いでも、至る所で嵩上げ工事が進んでいる。海から近いこの地区では、藤塚、井土浜、荒浜(深沼)の3つの集落が津波で全滅している。 ここでは橋が架かり、立体交差になっている。現在の10号線はいずれ土に埋まり、新しい県道10号線が嵩上げされて完成するはずだ。この道を七北田川にぶつかるまで北上する。通行する車が多く、歩道も凸凹だが、さほど危険ではない。背中から吹く風に押されて、ペダルは快調だ。 右手前方に大きな建物が見えて来た。あれは荒浜小学校だ。あそこにもぜひ寄って見よう。遠目には立派に見えるのだが、実は仙台市によって東日本大震災の「震災遺構」に指定されている建物なのだ。 小学校の前まで行くと、標識と看板が立っていた。あの津波で2階部分まで浸水し、学校に逃げ込んだ住民は、屋上からヘリコプターで救出されたと聞いた。この荒浜小学校は結局使用出来なくなり、最寄りの「東七郷小学校」を間借りして開校したのだがそれにも限界があり、今年の3月末でついに廃校となった経緯がある。 これが荒浜小学校の全景。小学校も無くなったが、集落の荒浜(深沼)も全ての家が流され、住民はここからかなり離れた仮設住宅へと止む無く移動した。子供も大人も全てが故郷を失ったのが、ここ荒浜(深沼)なのだ。<続く>
2017.04.22
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<「閖上朝市」そして復興に向けて・・・> 日和山から朝市の会場へと向かう。本当は順番が逆なのだが、その方がストーリーの展開から好ましいと思って入れ替えたのだ。たくさんの車が次々に私を追い抜いて行く。へえ~っ。今日は日曜日なので朝市があることは分かっていたが、まさかこれほどの賑わいとはねえ。 大震災の前、ここ名取市閖上地区は日曜日の朝市が名物だった。お客の目当ては、この新鮮な魚介類。まあ全部がここで獲れる訳ではないが、直接自分の目で確かめながら買うのが楽しみなのだろう。駐車場には溢れるほどの車が停まっていた。へえ。これじゃあ震災前よりも賑わってるねえ。それが私の正直な感想だった。 商品は魚介類だけとは限らない。近隣の農家が持参した産地直送の野菜や花きも名物のうち。値段も安く、大量に仕入れて行く客。手には大きな袋が幾つもぶら下がっている。 店舗も買い物客もかつてに比べて大幅に増えている。買い物を楽しむだけでなく、きっと閖上地区の復興を応援する気持ちも強いのだろう。 魚屋さんの店頭では、買った魚介類を早速焼いて食べる人も。へい、いらっしゃい。焼き立ては美味しいよ。お客さん!! ここからは閖上地区の復興の様子を紹介しよう。正面に見える防風林は、津波でほとんど流された。その向こうに新しく築かれた防波堤が見える。高さは8mはあるだろう。これは震災時に出た大量の瓦礫を再利用するなどして構築された。震災後は海岸に瓦礫を処理する臨時の工場がずらりと並んでいた。 松が生えている辺りに、かつて「名取市サイクルスポーツセンター」があった。1月にはここを会場に、フルマラソンが開催されたのだが、施設は全て津波がさらって行った。大型クレーンがあるのは復興工事中の港湾部だろう。今は対岸へ向かう橋の手すりも壊れたままだ。 貞山堀では、新しい橋の架橋工事が進んでいた。道路も付け替えて、これまでよりもかなり広げるようだ。 居住地区の安全性を確保するため、かなりの高さまで盛り土工事が進められている。 土盛りの上に建設された高層の住宅。これで「東日本大震災」クラスの津波からは守れるとの計算だ。 遅まきながら着々と復興工事が進む、名取市閖上地区 既に生産を開始した、海岸部の水産加工工場群。居住区は少し離れた高台にある。 無人の街に掲げられた「エール」。閖上頑張れ~っ!! 日和山神社の仮宮前には、こんな絵馬も。 閖上地区の復興を願って発行されている『閖上復興だより』。避難した住民たちが再びこの地に戻れるのは、果たしていつになるのだろう。 日和山山頂から閖上の復興を見守る「閖上桜」の白い花。<続く>
2017.04.21
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<名取市閖上(ゆりあげ)地区の津波被害と鎮魂> マウンテンバイクに乗って名取市の閖上(ゆりあげ)地区へ来ている。ここは「東日本大震災」の津波で、大きな被害が出た港町。江戸時代から城下町仙台へ新鮮な魚介類を提供する重要な役割を持ち、震災前まで海岸にはズラリと水産物加工の工場が並んでいた地。その街が津波に飲み込まれ、壊滅状態となっていた。ようやく復興計画が立てられ、街は今再建に向けて必死だ。 <震災前の閖上地区> 写真左の河口が名取川。正面の海は太平洋。小さな漁港の下に見える運河が、藩祖伊達政宗が掘削した「貞山堀」で、北は北上川河口(石巻市)から南は阿武隈川河口(亘理町)まで繋がる内堀で、太平洋の荒波を避けて藩内の余剰米を港に集め、三十五反船で江戸まで運び巨利を得た。またこの港町は、仙台市のベッドタウンでもあり、高校の同級生5名ほどがこの町からバスで通学していた。 <震災直後の閖上地区> 東日本大震災の津波により、壊滅した街。海岸の工場は鉄筋コンクリート造りのため残ったが、民家は建物の基礎部分しか残っていない。死者は600名以上。 <海まで続く瓦礫の山> <瓦礫が残る日和山の石段> 日和山は標高6.2mで、海と天候状況を確認するため築かれた人工の山。津波はこの山のさらに2.6m上に達し、頂上の神社は流されて土台しか残っていない。左側の松は海水に浸かりながら、奇跡的に生き延び、今もこの場所にある。 <震災直後の日和山山頂から内陸部方面を見た図> 津波で破壊された神社の基礎部分(左)や、海水の塩分で枯れた樹(右)。左手の松が生き残ったもの。閖上の市街地はほとんどが津波に流されて基礎部分しか残っておらず、奥羽山脈の方まで丸見え状態だ。 <津波に破壊されながら残った建物> これは今回私がデジカメで撮影した建物で、周囲には荒れ地が広がる。鉄骨造りの建物は辛うじて残ったが、1階部分の入り口と左側の壁が津波で破壊された。いずれは取り壊され、再建されるのだろう。 <東日本大震災受難碑(手前)と日和山(奥)> 多くの人命が失われたこの地に、亡くなられた方々の鎮魂を願って建てられた受難碑。あの日から6年と1か月の月日が流れた。 鎮魂の祈念碑。形は閖上(ゆりあげ)の「Y」と、再生する若芽を表したのだろうか。真っ白い像が、悲しみを増幅する。青い空にぽっかり浮かんだ白い雲。どうぞ安らかにお眠りください。 <日和山への石段とスイセン> 石段の現状。災害当時に流れ着いた瓦礫は全て取り除かれ、石段の両脇には慰霊のための花が植えられている。今はスイセンが咲いていた。 <山頂の慰霊碑上部(左)と下部(右)> <日和山山頂の閖上桜と荒れ果てた市街地> 標高6.2mの山頂に鎮魂のため植えられた「閖上桜」が白い花を咲かせていた。その若木が、今はすっかり荒れ果てた閖上の市街地を見下ろしている。 <閖上桜>震災後、私がここを訪れたのは今度で3度目。「閖上桜」が頂上に植えられていることは知っていたが、花を観たのは初めてだった。真っ白い花は亡くなられた方の魂を慰めるには相応しい色だ。2本のうち北側の樹は幹が枯死していた。だが根元から生え出た2本の「ひこばえ」が立派に成長し、花を咲かせている。まさに「死と再生」に相応しい光景だった。 <仮設の祠に手を合わせる参拝客> 私が頂上の石碑前で軽い食事を摂っている時に、下から宮司が上がって来た。そして黙って仮宮を掃除し始めた。私があんまり長い間頂上にいたため、怪しい人物だと警戒してやって来たのだろう。中国の女性2人が沖縄、大阪、京都、奈良などで寺社に油を撒いた事件があったばかり。でも私のように目立つ服装で犯罪を犯す人間は、普通いないと思うのだがねえ。思わず苦笑した私だった。<続く> <日和山石段脇のスイセン>
2017.04.20
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決行するなら明日だ。そう思って準備をした。天気は良い。体調もまあまあ。疲れも体の痛みもあるが、50kmのサイクリングなら、何とかなるはず。そう信じて眠りに就いた。眠ったのは5時間半くらい。朝食はしっかり食べ、菓子パン、バナナ、飴3個、デジカメ、飲み物などを確認。 上下ともバイク用の服装にしたが、その下にロングタイツと長袖Tシャツを着た。これは風対策。手袋はメッシュのバイク用。念のためにヘルメットも被った。今日はこれから海へ向かう。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県下の街の復興具合を確かめる旅。それは今年の自分の課題であり、今日はその第一歩なのだ。距離は50kmと計算したが、帰宅後に測定したら45kmちょっとだった。 途中コンビニで3個のお握りを買いリュックへ。たどたどしい日本語を話す中国人のお嫁さん。その一生懸命さが可愛い。ザル川に沿って下り、名取川へ出る。これはザル川の土手。9時過ぎと言うのに、早くも花見客が集まっていた。きっと付近の町内の方だろう。いかにも長閑な風景だ。 名取川に架かる太白大橋の上から川上を観る。春霞の中にぼんやりと見える白い山が大東岳(1366m)だ。私は二口峠を越えて、山形の山寺まで走ったことが3回あった。距離は53km。あの麓を通る楽しいコースだ。 これが橋の上から見た名取川の下流方面。この右手の堤防沿いに海まで行く。今年川の水が多いのは、雪解けが早いせいだろう。何せ2月頃から水嵩が増えていたのだ。土手の道は車が少なくてスムーズ。旧4号線を越え、4号線のバイパスも越え、海へとまっしぐら。 太白区四郎丸の「落合観音堂」で休憩したのは、ちらっと桜が見えたから。トイレを済ませ、水を飲み、境内を散策。堂宇は江戸時代に伊達家の家臣である佐々某が建立した由。地元の人が、もっときれいな桜並木があると言うので、歩いて見に行く。確かに15,6本ほどのソメイヨシノが満開だった。寺の境内と桜並木についてはまたの機会に紹介し、今日は先を急ごう。 行燈松 風は右手、つまり南側から吹いて来る。緩い下りの上東に向かうため全く気にならない。河口が近づくと、川の中に何人かの人が見えた。きっとシジミ漁をしているのだろう。前方に20本ほど背の高い松が見える。藩政時代、浜名湖周辺から取り寄せた種を植えて育てた行燈(あんどん)松。松の右手に仙台から閖上(ゆりあげ)に向かう街道が通っており、この松は防風のために植えられたもの。樹高は30mほどか。 行燈松の南側で、新しい道路と宅地が造成されていた。この辺りは東日本大震災の津波で大きな被害があり、大勢の方が亡くなった。仙台市の隣の名取市閖上地区。この港町で入院中だった私の従兄も、津波に飲まれて死んだ。重機がある辺りにはたくさんの流された車が重なり、泥田状態。そんな中で大勢の自衛隊員と警察官が捜索活動をして姿が、今も鮮明に蘇る。 閖上は仙台藩の魚場(いさば)つまり重要な漁港で、毎朝取れた新鮮な魚介が仙台城下へと運ばれていた。またここには政宗公が開いた運河が通り、米の集散地でもあった。そんな重要な機能を持つ古い街も、海辺のために津波で壊滅した。その恐怖を忘れられない旧住民が、市の復興計画に長年賛成出来ずにいたのだ。 それがようやくまとまり、海岸には海産物を扱う工場と、6m以上嵩上げをした地盤の上に高層の住宅を建てることで安全を図ることになったようだ。人々の恐怖の残像はなかなかぬぐい切れないのだろう。<続く>
2017.04.19
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<ご注意>このブログには「東日本大震災」当時の生々しい画像が多数含まれています。体調が心配な方は、無理にご覧にならないでください。なお本日の画像は、全てネットから借用したものです。 鎮魂の祈りは死者に届くのか三・一一また巡り来し 6度目の3・11がやって来た。世界第4位と言うM9の大地震が引き起こした恐るべき大津波。多くの人命が奪われ、多くのビルや家屋が破壊され、津波によって海底の藻屑と消えた。今なお行方不明の人は2562名。未曽有の大災害だった。私は生きている限りあの災害を忘れることはない。記憶を風化させないためにもブログに記し、拙い短歌を添えた。 <当時の新聞と震源地の地図> あの日から六年の日々迎へたり地獄の映像蘇る時 防波堤越ゆる津波の巨大さに言葉失ひ顔面蒼白 荒れ狂ふ津波は家を押し流し人も瓦礫の一部となりぬ 集落は壊滅したり海岸の防風林も次々仆る ああ無残海と陸との区別なく流れる家に燃へ盛る家 気仙沼家も漁船も燃へ上がり紅蓮の炎流るる煙 やうやくに津波は引けど残るのは全てが瓦礫家も車も 泥沼と化した家より救はれし一人の男今生還す 甚大な被害を受けしこの町で奇蹟に近き赤子の寝顔 破壊せるビルより高き観光船無残な姿これが現実 <宮城県南三陸町防災庁舎> 「早く逃げて!」必死で避難を呼びかけた放送の声今も忘れじ 助かったものは自分の命だけ瓦礫の山にただ茫然と 流されたみんな壊れた失った涙も枯れて座り込む人 手を合はせただひたすらに祈るのみ自宅の跡に残されし者 思い出も夢も希望も消へ果てぬ丘に立つ人言葉無きまま <津波に襲われた仙台空港と流されて行くセスナ機など> セスナ機が流されて行く飛行場信じられない映像を見る <メルトダウンした福島第一原発> 人は時に過ち犯す動物よ福島原発メルトダウンす 新聞を読めど心は曇るのみ今日の暮しもままならぬ身は <震災で亡くなられた方と話すために作られた「風の電話」> もしもしと風の電話で問ひかける聞こへしものは風の音のみ あの日我が家はさしたる被害も受けなかった。だが、電気が4日間、水道が1週間、そして都市ガスが35日間停止した。一日に震度5以上の余震が繰り返し襲う日々に、夜もおちおち眠れない日の連続。驚くような映像を見たのは電気が回復してから。それでようやく被害の大きさが分かった。店から品物が消え、カセット用のガスボンベ1本を買うにも大勢の人が並んだ。 ようやくブログが再開出来、私は地震のことを書いた。だが「あの地震は関東で起きたと認識している」と京都の人。大阪の人は「ホヤが食べたい」と書いていた。ホヤは三陸の海で養殖してるのだが、津波で養殖用の筏が全てが流され、海底には多くの遺体が沈んだままなのだ。それを知ってか知らずかの発言に私は怒った。 奈良の人はリアス式海岸と遠浅の海岸では津波の高さが全く違うことを認識してなかった。大学院を2つも出てるらしいが、その無知ぶりに私は呆れ果てた。「阪神淡路大震災」の被災地に近い人達がそんな認識なのに怒った私は、彼らに決別を宣告した。 津波で死んだ従兄をはじめ、亡くなられた多くの犠牲者の霊に合掌し、心の傷が癒えない被災者の方々の平安を心からお祈りしたい。しかし、福島原発付近の住民が故郷へ戻れるのは、果たして何年先になるのだろう。道は果てしなく遠い。だが、希望は持ち続けたい。6年経った今も、あの日の地獄をまざまざと思い出す私だ。
2017.03.11
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<ご注意>このブログには東日本大震災関係の映像があります。気になる方はご覧にならないでくださいね。 今日は3月11日。あの日からちょうど5年が経った。先日ニュースで知った「せんだい3.11メモリアル交流館」へ行って見た。地下鉄東西線の東端荒井駅の構内にある交流館は、直ぐに見つかった。だが私が思っていた展示や内容とは違っていた。 荒浜地区ジオラマ 確かに東日本大震災関係の映像資料などがたくさん収集されていた。だが交流館の機能は、津波に襲われた宮城野区と若林区の海岸部の思い出を残そうとしているように思えた。真新しい施設内には大勢のボランティアがおり、何かメッセージを書くように求められた。だが私はどうしてもピンと来なかったのだ。 一体誰にメッセージを書くのだろう。亡くなった犠牲者に対してだろうか。それなら心の中で祈れば良い。大勢の被害者だろうか。だが被害者がわざわざここまでメッセージを見に来るだろうか。彼らは今、必死で生活と戦っているはずだ。 私は屋上へ上がって見た。東を見るとビルが建ち始めている。ここは元々水田が連なっていた地。水平線の辺りに黒く見えるのが仙台東部道路の植林だ。津波はその向こうからやって来た。あの高さ6mの道路が堤防代わりになって、津波の侵入を食い止めている。道路の法面をよじ登って助かった人も多い。今その道路には避難所や非常階段が設けられており、もっと海に近い道路ではかさ上げ工事が進んでいる。 仙台市の海岸部を襲った津波 あの日も今日と同じ金曜日だった。時刻は午後の2時46分。観測史上世界第4位、マグニチュード9.0の超巨大地震が発生した。大きな揺れが6分間も続いたように感じた。太平洋の海底が300kmほどに亘って崩れたことにより、大きな津波が各地を襲った。仙台市内はリアス式海岸と違って比較的遠浅の海が続く。このため津波の高さは9mほどに止まった。 この津波で石油基地では火災が発生し、仙台空港では飛行機が流されている。多くの方が亡くり、今でも行方不明の方が宮城県内で1236名おられる。私が震災関係の映像を見たのは、地震の何日か後だった。我が家の場合電気が復帰したのは4日後、水道の復帰は1週間後、そしてガスの復帰は35日後。津波で私の従兄弟と妻の親戚が亡くなっている。 荒浜小学校の校舎と救出用のヘリコプター。若林区にあるこの小学校は海から数百mほどしか離れておらず、4階建ての校舎に逃げた住民の多くが助かっている。だが震災後校舎は使用不能になり、現在も他の小学校に間借りして授業を続けている。 ヘリコプターで救出された人。荒浜小学校は震災遺構として仙台市が保存することが決まった。 海に向かう道路。津波でほとんどの物が流され、鬱蒼とした防風林も根こそぎ消えてしまった。 海岸部の住宅はほとんど流され、土台だけが残されている。 気仙沼市の油火災(河北新報社「巨大津波が襲った」から転載) 被災後の救出と捜索活動。(交流館所蔵資料から転載) 左:荒浜地区の映像より 右:仙台市民のメッセージ(あの日は・・) 瓦礫の山 津波で亡くなった方々の遺族が起こした訴訟の結審が最近あった。某地方銀行や某幼稚園の裁判では、「津波被害の予測は困難」との理由で、原告側が敗訴した。70名以上の犠牲者が出た石巻市立大川小学校など、震災遺構の保存が難航している事例もある。あれから5年の歳月が経過し、仮設住宅集約化のために仮設から仮設へと移転せざるを得ない被害者の方も多い由。そして海岸部での街造りはこれからの市町村が大半だ。 津波で流された車 そもそも東京電力福島原発が、敷地を10mも掘り下げなかったら被害には遭わずに済んだはず。全電源喪失時の対応がきちんと行われていたら、被害に遭わずに済んだはず。今頃になって「メルトダウン時のマニュアルが見つかった」との公表は、犯罪行為としか思えない。恐らく隠ぺいしていたのだろう。何故被害初期の極めて重要な時期に、当時の菅総理(民主党)がわざわざ原発に乗り込んだのか。あれも被害を大きくした原因だったと思う。 除染作業で出た大量の汚染ゴミ処理場建設が少しも進展しない。待つ間に汚染度がぐっと減少したようだ。仙台市では汚染度が低いゴミは一般のゴミと一緒に焼却処理し、何の問題も起きていない。ただ福島原発付近は厄介だろう。全町民が避難して無人の街を、イノシシなどの野獣が横行している姿をテレビで観た。 津波で倒れた桜に花が咲いた映像。 震災関係工事で談合があったとして、最近告発された舗装工事企業がある。確かに談合は良くないが、震災後の資材不足や人手不足で建設工事が進展しなかったことは事実。特に舗装関係は工事現場近くに工場がないと無理なのだとか。 幾つかのJR路線が今でも不通のままだ。バスが代行運転している区間が三陸海岸付近には多い。最も長い距離が不通の常磐線が全面開通するには、まだ5年以上かかるようだ。 明るい話題が乏しい中で、海岸部の植林計画が少しずつ進んでいる。ただ防風林や防砂林が元のように復活するには、今後50年は必要だろう。 浪分桜 かつて津波が襲来した場所に「浪分神社」を建てた先人がいた。そこまで津波が到達したことを後世に伝えるためだ。今仙台市内では、今回津波が押し寄せた先端部分の各所に「浪分桜」を植えている。大きな被害があったことへの警鐘だ。その桜の写真が荒井駅の駅前に張られていた。海はここから5kmも先にあって、直接海岸を見ることは出来ない。だが桜の写真は、きっと災害の記憶を呼び覚ましてくれるはずだ。 交流館から出る際、1枚の絵葉書を受け取った。風船の写真の裏側を見たら、3月11日に開催される慰霊祭の案内状だった。つまり今日がその日。あれから5年経った。あの日以降、私の心と体は大きく傷ついた。そして一気に老化が進んだ。 その私に一体何が出来るのだろう。せめてブログに自分の小さな体験を記し、今日一日静かに過ごそうと思う。そして体調を見ながらいつの日か被災地を訪れて自分の目で現状を確かめ、出来れば自分の脚で走ってみたい。心の中のメッセージが天に届くことを、密かに願っている私だ。亡くなられた大勢の犠牲者の冥福を祈り、慎んで合掌したい。
2016.03.11
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宮城県石巻市 長老の従兄は波に飲まれたる 入院中の浜辺の町で 三陸のリアス海岸 堤防を越えたる波に 親戚飲まる ほとんどの商品棚から消え失せて 大根一本七百円余 違法とは知りつつ開く小包は ガスボンベなり弟からの 大震災その名は三度変わりたり 世界三位のマグニチュード9 宮城県南三陸町 パトカーは他県ナンバーばかりなり ガス点検は名古屋の会社 浜の街瓦礫流木ゴミの山 自衛隊員遺体を捜す 心病む人急増す震災後 精神科医も眠れぬと聞く 三十五日後ガス復旧す 新潟のパイプラインと繋ぎ合わせて 「ホヤ食べたい」ブログに書きし男あり 三陸の海全滅せしに 宮城県名取市 「震災は関東」またもコメントに 怒り込み上げ絶交を告ぐ かつて我走りたる道 人々の命を飲みし海沿いの道 波の音すれども見えぬ太平洋 再生瓦礫の堤防高く 安かれと妻と祈りて丘に立つ 従兄を飲みし海に向かいて 「復興!!」と叫ぶマスコミ声高に 心はあの日潰えたるまま 岩手県山田町 忘れないあの苦しみも映像も 大震災の四年後今も この俺に一体何が出来るだろう あの日以来の心臓不調 たとえ人が嫌がろうとも伝えねば 3.11悲惨なる様 技巧など不要震災詠うのに 三十一文字に祈りを籠める 山崩し谷埋め立てて 新しき街創るなり 三陸の海 岩手県大槌町 震災の賠償訴訟続きたり 鎮魂の海汚染の山野 故郷を失いし人数多し それでも歩む未来に向けて 今日もまた走れぬままに日が暮れぬ 3.11近づきしころ もしもしと「風の電話」で問いかける 霊魂は今どこを彷徨う はや四年3.11迎えたり まだ癒されぬ深き傷痕 これらの拙い歌を「東日本大震災」で亡くなられた大勢の犠牲者の霊前に捧げます。なお、写真は全て『特別報道写真集3.11大震災』河北新報社 2011年刊から借用させていただきました。謹んで合掌。
2015.03.12
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宮城県気仙沼市 今日は3月11日。4年前の「東日本大震災」からまる4年を迎えます。あの日遭遇した未曾有の大災害は、決して忘れることが出来ない強烈な思い出です。あの日、地震と津波で愛する家族を失った多くの被災者たちは、なかなか思うように実現しない復興に、希望を失いかけています。今の私に出来ることは、生きている間はあの日を決して忘れないことくらいです。そこであの日を思い起こしながら、幾つかの短歌を作りました。稚拙な作品ですが、お読みいただけたら嬉しいです。なお、写真はすべて『特別報道写真集3.11大震災』河北新報社2011年刊から借用しました。 宮城県気仙沼市 激震は六分余りも続きたり 家が潰れる恐怖に耐える もう駄目か何度も諦めかけていた 妻の携帯まだ繋がらず 飛び出せば電線まるで波のよう 地下水噴きぬ路地三か所で 二度三度電話は依然繋がらず バスも来ずして欠勤決める 雪空のエンジン音は救難機 海と陸との裂けたるその日 宮城県石巻市 灯なく温もりもなく音もなく 服着たままで布団に入る 大地震人を恐怖に突き落とし 余震止まらず眠られぬ夜 グラグラと大地揺れたる六分余 3.11忘れられぬ日 放射能汚染の恐れある雨か 顔濡らしつつ自転車飛ばす ガラス割れ壁に大きなひび入る ビルを横目に通勤急ぐ 仙台空港:宮城県名取市 弁当は作れず職場の給湯室 ラーメンすすり命を繋ぐ 黙認でペットボトルに水を詰め リュックを背負う勤務後の我 飛行機が流されて行く映像を 観たのは震災一週間後 水わずか電気は点かずガスは出ず 三十五日で三回の風呂 「地震酔い」そんな言葉があったのか 震度5ほどの余震が続く 岩手県宮古市 何と言うことか一体このざまは 建設会社のビル倒壊す 長町の道路大きく陥没す 活断層の歴然として ぶるぶると洗い場で震える男あり 津波の恐怖語りたる後 海水に混じりし油幾たびか 飲んだと男震えて言えり 我はただ黙して男の手を握る 津波の恐怖で冷えたるその手 短歌はまだあります。じっくりと読んでいただきたいため、明日も続きます。<続く>
2015.03.11
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≪ 復興に向かって ≫ 日和山の前に椅子が見えた。そうだ、あそこに座って休もう。妻と2人プレハブの前へと歩く。窓に何か張ってある。「震災復興支援受付」。どうやらこれは仮設の社務所のようだ。それも他県の方から寄贈されたプレハブみたい。全滅した閖上(ゆりあげ)の悲劇をニュースで知って、ここを訪れた方も多いのだろう。目前に広がる廃墟を眺めながら、私達はゆっくりお握りを食べた。 何かぶら下がっているものがある。近づくと絵馬だった。鎮魂のためにわざわざここまで訪れた他県の方が、閖上の復興を願って書いてくれた激励の言葉が胸に迫る。中には埼玉県や静岡県から来られた方も。ありがとうございます、皆さん。遠くからこの地を訪ねて下さって。そして暖かい言葉を寄せて下さって。私達は再び走り出した。朝市が開かれる海の傍へと向かって。 「がんばろう名取」。「東北復興支援販売店」。「復興へ頑張ろう みやぎ」。力強いメッセージが無人の街の所々に見られる。荒廃したこの土地にもいつか街並みが戻り、人々の笑顔が溢れる日が来るのだろうか。 海沿いを走る。この辺りにはかつて魚の市場や水産加工業の建物が並んでいたのだが、全て津波で流されてしまったようだ。仮住まいの「日曜朝市」を眺めつつ、左折して橋を渡る。ふと橋の欄干を見ると、途中から折れて倒れている。津波の痕跡がここにもあった。その時、妻が大声を上げた。橋の上でキョロキョロしながら走っていて、転んだようだ。顔には擦り傷。眼鏡のフレームが歪んでしまったようだ。 右手前方にまばらな松並木。かつてそこには「名取市サイクルスポーツセンター」の建物とサイクリングコースがあった。マラソン大会も開催され、私も3回参加した。その建物が消え、白い土手が見える。ここ閖上の海岸部には、震災後瓦礫を処理する施設が何箇所もあった。燃えるものは燃やし、処理し切れない瓦礫は他県に運ばれたはず。コンクリートは細かく砕かれ、海岸部を守る堤防として再利用されると聞いた。きっとあの白い土手がそうなのだろう。 ここまで9kmを走った計算。今来た道を引き返す。岸壁に巨大なクレーンが見える。広い閖上(ゆりあげ)の海岸に人影はまったく見えず、何台かのクレーンが手持ち無沙汰のように突っ立っている。 県道10号線に向かう途中、荒野に「黄色い土手」が見えた。どうやら「土のう」を積んであるようだ。何のためなのかは分からない。まさか津波に備えたわけではないと思うのだが。 破壊されたままの階段。かつては嬉々として登り、玄関に入ったのだろう。その我が家は跡形もなく、壊れた階段だけが朝日を浴びている。 これは「前方後円墳」ではなく、名取市が閖上(ゆりあげ)の住民のために提示した「再建モデル」。つまり、新居住区はこの高さにまで土を盛るので、安心して住んで欲しいと促した訳だ。だが、家族と財産を全て失った旧住民の恐怖感は拭えない。 震災時に防災放送が全く機能せず多数の犠牲者が出たことも、住民の不信感を煽ったのだろう。もう少し内陸部への移動を願った旧住民に対して、水産業の復活を重視した市は、これまでの居住区に近い地域に移動先を設定した。それらが復興を遅らせた要因だと思う。 閖上大橋を渡って対岸の仙台市内へと入る。震災前は閖上行きのバスが数多く運行されていたのだが、今は誰も住む人のいない地区へバスは走っていない。妻はそろそろ限界なのだが、仙台市内のバス停へ向かうしかない。 藤塚地区には全く家が見当たらない。全て津波で流されてしまったのだろう。県道10号線を北上して井土浜地区へ向かおうとしたが、この道は大型のダンプカーが唸りを上げて走っていて危険。名取川の堤防を西へと向かった。 対岸に「あんどん松」が見える。遠くの蔵王連峰や泉ヶ岳は春霞のために見えない。時々キジやウグイスの声が聞こえる。疲れたら歩き、そしてまたゆっくり走り出す。妻は女子高生にバス停の場所を尋ねた。前方に今泉の清掃工場。だが、停留所はどこにも見当たらない。堤防から適当な道へ降り、集落へと向かった。10分ほど走った住宅地でバス停は見つかった。 ここは初めて来た集落。50年前までは見渡す限りの田圃だった所が、今は立派な住宅地に変身している。10分ほど待つとバスが来た。リュックは妻に渡し、私はポシェットだけの身軽な姿になった。車中から手を振る妻の姿を見届け、ゆっくりと走り出す。再び名取川の堤防へ出、そこから広瀬川に沿って帰る。 遥か彼方には春霞の中の太白山。我家はあの麓に近い。結局この日走った距離は、妻は13kmほどで、私は24kmほど。家に着いたら妻の姿はなかった。彼女は途中で買い物をして来たようだ。私と一緒に走った被災地探訪ランは、彼女にとっても良い記念になったみたい。次は東日本大震災で最大の死者を出した石巻市を訪れる予定でいる。私達夫婦のささやかな慰問が、出来れば復興につながることを祈りつつ。<完>
2014.05.02
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≪ 鎮魂の象徴 ≫ 日和山の頂上に、潮風に焼けた神社の名を記した御幣形の標識がある。 その横の説明板。ここに閖上(ゆりあげ)の名の興りと湊神社の関係が記してある。「閖」の字を分解すると、「水」と「門」になる。「水門」と書いて「みなと」。これは日本の古い言葉で、川の河口のこと。これがやがて港に転じる。つまり古い時代、河口は天然の良港だった訳だ。ここから名取川を遡ると、奈良時代の政庁である「郡山官衙」(こおりやまかんが)があった。古代は陸路と共に水路が利用された。陸奥の蝦夷も北上川を遡って討伐されたのだ。 日和山への石段。この手すりは、大震災後に他県の方々の寄進で増設されたもの。 かつての社殿は津波で流され、影も形もない。見晴らしが良い丘の上に、多くの犠牲者を悼む千羽鶴と卒塔婆があった。背景には茫漠たる閖上(ゆりあげ)の市街が広がる。今は動くものが何も見えない死の街だ。 そしてたくさんの花が供えられている。これは地元の方だけでなく、ニュースで閖上(ゆりあげ)の悲劇を知った全国の方々がわざわざここを訪れ、犠牲者の冥福を祈って供えて下さったものも多いようだ。 これは「ゆりあげ桜」。鎮魂のための記念植樹だ。白っぽい花が風に揺れている。華やかさはないが、犠牲者を悼むのに相応しい色あいだ。 これが生き残った神社の松。2011年3月11日。あの日の惨状を見届けた生き証人だ。 見渡す限り荒れ地が広がる閖上の市街地。かつてここは賑やかな港町で、海岸には水産業の工場が建っていた。またベッドタウンとして、ここから仙台へ通勤する人も多かった。だがあの日以来、ここには何も無くなった。家並みや人々の暮らし。笑顔とざわめきなど一切が、わずか1日で失われてしまったのだ。ただずっと遠くに大破した消防署、子供の姿が全く見えない小学校や中学校、荒れ放題のお寺などが微かに見える。妻はただただ驚くばかりで声もない。 生き残った松をバックにして記念撮影し、階段を降りる。 階段下に、街の名が入った花壇があった。全滅した街閖上。復興には程遠い現状だが、このままいつまでも放置してはおけない。きっとこの花は希望につながり、閖上の未来につながると信じたい。決して復興への願いを捨ててはいけないのだ。<続く>≪ 4月のラン&ウォーク ≫ラン回数:6回 ラン距離81km ウォーク距離:97km 月間合計:178日 運動しなかった日:5日 年間合計:756km うちラン:503km これまでの累計:84437km 4月は体調が悪く、ほとんど思うように走れない日が続いた。だからこの「被災地探訪ラン」が出来たのは執念の結果で、私にとってはまさに奇跡的なことだった。
2014.05.01
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≪ 壊滅した街 ≫ 前方に「あんどん松」が見える。あれは閖上(ゆりあげ)のシンボルで、江戸時代に遠州(現在の静岡県浜松付近)から種を取り寄せて植えた防風林。私は昨年「浜名湖一周ウルトラ」(100km)に出たが、スタート地点に近い旧東海道舞阪宿にも立派な松並木が残されていた。遠州も空っ風で有名だが、あれよりもずっと高く、しかも強風のため幹や枝が大きく曲がっている。 名取川の堤防を下って閖上(ゆりあげ)の市街地に入る。土手の松越しに見える朝日。だが、この右手一帯は、あの東日本大震災の時に、大きな被害が出たところなのだ。私が自転車でここを訪れたのは、震災の1カ月後くらいだったが、車が泥田状態の土地に突き刺さっていたり、瓦礫が地面を覆っていた。その間を縫うようにして、自衛隊員が必死に捜索活動を行っていた。彼らは行方不明の方々を探していたのだ。 閖上大橋の脇から海岸へ向かう。この橋のたもとには、当時警視庁のパトカーが停止していて、車の通行は禁止されていた。橋には震災によるひびが入っていたためだ。橋の向こう側、つまり海寄りの土地が閖上の市街地だが、ここは壊滅的な被害が起きたところ。残された家は地震と津波で破壊されており、大部分は土台しか残されていないのだ。 破壊され、住む人のいなくなった家が朝日を受けて突っ立っている。 破壊された家に張られた転居通知(上)と、無断侵入を禁止する張り紙(下)。震災後、無人となった家には泥棒が入ることが多かったようだ。それは他県から来たのだろうし、あるいは外国人だったのかも知れない。中には死骸の指を切って、指輪を奪った極悪人もいたようだ。犯罪を取り締まり、平和を守るために全国のパトカーが被災地に派遣された。私が当時見た警視庁のパトカーも、橋の通行を取り締まるだけでなく、犯罪者の横行を警戒していたのだ。 平屋が津波によって破壊されたのは当然だが、2階まで津波の爪痕が残されている。この付近は名取川の堤防を越えてではなく、前方の太平洋から津波が襲って来たのだ。 土台しか残されていない敷地の角に、チューリップが植えられたバケツがあった。 荒れ果てた被災地の所々に、鎮魂の姿が見える。これは仮設の線香台だろう。 瓦礫の傍らに立っている枯れた供花が哀れだ。 こちらはまだ生気のある供花。きっとつい最近、かつての住人が自宅の跡を訪れたのだろう。妻もこれらの様子に、いたく感じ入ったのか、静かに手を合わせていた。 廃墟跡に集められた缶類も、今では錆ついたまま。 朝日の中に横たわる瓦礫。今でこそ少なくなった瓦礫だが、震災直後はきっと足の踏み場もない状態だったのだろう。 草ぼうぼうの更地の向こうにお寺が見える。あのお寺の壁も、ベニヤ板が釘で打ちつけられている。以前訪れた時は、墓石が全てなぎ倒されたままだった。地下の祖先も津波を被り、彼らを祀るべき寺も破壊されて無人のままだ。ここ太平洋に面した名取市閖上(ゆりあげ)地区は、今や死の街。あの大震災で753名の尊い命が失われた。私の従兄もその中の1人だ。亨年80歳だった。 無人のお寺と無限に広がる荒れ地を背景に、2体の地蔵が海に向かっている。きっとこの地蔵は海で死んだ漁民を供養するために建てられたのだろう。だがその海が、あの日は閖上の街並みとたくさんの住人達を襲ったのだ。ここ閖上の浜は、江戸時代から仙台の街へ新鮮な魚を補給して来た「いさば」(漁場)だった。海で栄えたこの街が、荒れ狂う海のために滅んでしまった。 前方に日和山が見え出す。標高は10mにも満たない人工の丘だ。昔はあの頂上から海と空を眺め、翌日の天候を予想した。漁で生きる民の必要不可欠な丘。その頂上にあった湊神社の建て物も津波に流された。その潮水に浸かりながら奇跡的に生き延びた松が、丘の上に見える。きっとあの松は、あの日大津波に飲み込まれて行く街の様子と住人の苦しみとを、じっと見続けていたのだと思う。<続く>
2014.04.30
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3年前の今日、「東日本大震災」が起きた。あの日のことを忘れることは、決してないだろう。私が死ぬその日まで。あの日のことを、どう書けば良いのだろうか。思い出したくもなく、書きたくもないあの日のことを。そして未だに苦しみ続けている人々がたくさんいることを。 震度7強。マグニチュード9.0。これまで観測した地震の中で、世界で4番目に強い地震。あの強い揺れで、家が壊れると思った恐怖の時間はとても長かった。5分間は続いたと自分は感じたのだが、実際はどうか分からない。日本海溝地下の岩盤が、幅200km、長さ500kmの範囲で、3回連続で破壊された大地震。道理で長く感じたはずだ。電線が波のように揺れ、地下から水が噴き出し、妻とは連絡が取れなくなり、私も夕方からの仕事へ行ける状態ではなかった。 それから停電が4日、断水が1週間、ガスの供給停止が35日間続き、その間は風呂にも入れなかった。近所の温泉で3時間立ってチケットを入手し2回温泉に入ったが、洗い場で隣の人がガタガタと震えていた。宮城県内で最大の死者を出した石巻で津波に遭い、命からがら逃げて来たその人は、当時のことを思うと今でも怖いと声を震わせていた。50を過ぎた大の男が、仙台へ避難した後もまだ津波の恐怖と戦っていたのだ。 この未曽有の地震で起きた津波は、最高40.1m(大船渡湾)に達したようだ。死者と行方不明者の合計は18520人。うち行方不明者は2655人。宮城県内でまだ見つかっていない人は1800人以上もいる。死者と行方不明者の9割が、津波による被害者だ。現在まだ避難生活を続けている方は26万人以上。死体がありながら、誰かが分からない方も多い。なぜなら死体は遠くの県まで流れ、そこで発見されるケースもあるためだ。 あれだけの大被害が起きながら整然と行動した日本人を、世界は驚きの目で見つめた。だが、被災地でも多くの犯罪は起きた。死体の指を切って指輪を強奪したり、照明が乏しい避難所の闇に隠れて、屋外トイレに出た女性をレイプする事件。それは被災地の犯罪者ではないと思う。なぜなら誰もそんな余裕はなかったはず。他県や恐らくは外国人の犯罪者だと思う。空には救助ヘリコプターが飛び、地上では連日パトカーが走った。それらはほとんどが他県から派遣されたものだった。 東京電力福島第二原発の被害が酷い。メルトダウン(炉心溶解)で、多くの人々が故郷を失った。なぜ海岸にありながら、建設時に10mも土を削ってわざわざ掘り下げたのか。なぜスリーマイル島の全電源喪失による事故の教訓を知りながら、対応しなかったのか。なぜアメリカなどの原発事故経験者による国際調査団の受け入れを拒んだのか。そう考えると、あの事故は利益追求を最大の目標とする企業の奢りが出た人災でしかないことに気づく。 大震災後の復興が進んでいない。資材や人材の不足、法の未整備、自治体の対応の遅れ、再建に関する住民との合意形成の遅れなど理由は色々あるだろう。長引く仮設住宅暮らしで意欲を失った避難民。職を失い生活資金が尽きた避難民。荒んだ気持ちが起こす家庭内暴力。精神科医が鬱病に罹るほど、被災地の人々の心も病んだ。そして我が子や家族を津波で失った遺族が法的な賠償を求めて訴訟を起こすケースが、既に起きている。私の不整脈もあの大震災をきっかけにして生じた。 あの大地震をきっかけにして、私は3人のブログ友と決別した。1人は「あの大地震は関東周辺のことと認識している」と私のブログに書いて来た京都の人。結局は何も分かってないのだ。話にもならない。「生のホヤが食べたい」と書き続けていた大阪の人。ホヤは99%以上が三陸海岸でしか獲れない海産物。養殖がほとんどだが食べられるまでには3年かかる。だが養殖棚はほとんど流され、海中には遺体があることに全く気づいていないのだ。 「津波は40m以上に達したのだから、それ以上高い避難ビルを数多く建てる必要がある」と書き込んだ奈良の人。40m以上の津波が襲ったのはリアス式海岸の部分で、平野部は違うといくら言っても分からなかった。自分では学会賞を幾つももらった科学者だと言っていたが、基礎的な知識のない科学者が本当にいるのだろうか。平野部では海岸から5km離れた標高6mの土手に登って助かった人も多いのだ。3人とも関西の人なのは、きっと偶然なのだろうが。 予想される「南海トラフ大地震」の推定最大死者数は32万3千人に達するらしい。これは人ごとではない。普段から避難路を確保しておくことが大切だ。仙台平野には「波分神社」と言う小さな神社があるようだ。ここはかつての大津波が押し寄せた場所。「末の松山 波越さじとは」と万葉集で詠われた歌枕、多賀城市の「末の松山」もかつて大津波が押し寄せた場所らしい。遠い祖先達が遺した教訓を、もう一度見直してみるのも大切なことだと思う。 『天災は忘れた頃にやって来る』。最後に科学者であり文筆家でもあった寺田寅彦の有名な言葉を記しておこう。あの大震災後、潜水夫の資格を取った人がいる。あの日以来行方不明の妻の遺骸を、何とか海中から探し出そうと言うのが動機らしい。私も妻もそれぞれ1人ずつ、大津波で親戚を亡くした。 私は来週病院へ行く予定。不整脈の出術後まる2年になるが、その定期検診のためだ。今も時々胸苦しい日があるが、あの大震災以降未だ心の傷が癒えない数多くの人がいるのが現実だ。
2014.03.11
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雪が舞った寒いあの日大地は壊れるかと思うほど揺れに揺れたわずか6分ほどの時の流れがあの日はどれだけ長く感じたことか一通り揺れが治まって外へ出ると電線はまるで縄跳びのロープのようにぐるぐる回り地中から何箇所も水が噴き出していた5日間の停電の末に見たのは飛行機が流れて行く空港や浜辺の松よりも高い津波そして燃える海や流されて行く家々だった停電の間は暖房もなく調理の方法も限られた断水は1週間その間は職場からペットボトルで水を運んだガスの復旧まで35日その間風呂に入ったのはわずか2回東京や名古屋や大阪のガス会社から支援の人が来新潟からのガス管を繋いでようやくガスが通った亡くなった方と行方不明になった方は合わせて2万人以上中には一家全員が亡くなったりそっくり消えた集落もある妻の親戚私の親戚も1人ずつ津波の犠牲になった福島原発が悲惨な事故を起こしたのを知ったのはずっと後あの頃は詳しい情報もなく汚れた雨の中を自転車で通勤した何せガソリン不足でバスが走ってなかったのだ米屋の前でも行列スーパーの前でも行列わずか1本のガスボンベを買うため500人もの人が群がり大根は700円にも跳ね上がったそれでも生きていれば良いどれだけの人が寒空で震えたことだろうだがどこにも悪人は居て死者の指を切って指輪を奪い仮設住宅の闇に潜んで屋外トイレに来る女性をレイプしたそうだそんな物騒な話を何度か聞いたあれからずっと大きな余震が続き多くの人が怯えて過ごした心を病んだ人が何人も出て精神科医までうつ病になったそうだ妻や妻の姉もあの時は狂乱しそのせいで私の心臓は不整脈を起こした他県からたくさんのパトカーが来街中では他県のパトカーが走り廻っていたあの頃サイレンが聞こえない日はなく人々はまるで希望を失ったかに見えた倒壊したビル裂けたり陥没した道路そんなものが日常的だったが陸に乗り上げた巨大な船はやはり異常な風景だあの日から2年親を失い子を失い家や全財産を失った人の心はまだ悲しみの真ん中だ30年も故郷へ帰れない原発付近の人々親戚や走友にもそんな人がいる避難所で未だに不便な暮らしをしている人々はまだ32万人以上もいるのだとか仙石線や石巻線はそのうち繋がるだろうが常磐線に乗って水戸へ行ける日が本当に来るのだろうかいや 私が生きているうちはもう無理だろう福島原発付近に取り残された犬や猫ブタや牛も食べる物に困りブタは野犬になった犬に襲われ飢えた牛は牛舎の柱を齧ったそうだそのやせ細った柱曲がった柱は牛たちの苦しみの証そして彼らの体内には大量のセシウムが蓄積された海も汚れた瓦礫で埋まった海にはまだ行方不明の人がたくさん沈み漁師は放射能で汚染された魚を獲るそれは売れない魚売ってはいけない魚なのだ山も汚れ里も汚れた木々の葉は放射能にまみれ米も他の農作物も全て汚染風評被害もどれだけあったことかそれらはすべて浅はかな人間のせい地震や津波は確かに自然がもたらす災害だがもし日本人がもう少し賢ければあんな場所に原発を簡単に建てるはずがないわざわざ20mの高さを海抜10mまで掘り下げる工事をするはずがないメルトダウンその聞き慣れない言葉を私達は大震災によって初めて知った多くの人々の暮らしを奪い多くの人々を不安のどん底へ落としたその呪いの言葉を岩手の陸前高田では7万本の松が津波にさらわれ美しい海岸をそっくり失ったたった1本残った奇跡の松も塩害でとうとう枯れてしまっただが市民はその松を科学の力で生き返らそうとしている子孫に伝える地震や津波の怖さの教訓として以上に美しい故郷再生のシンボルとしてこれからも強く生き抜く希望の目印として私は決して忘れないだろう大揺れに揺れた6分ほどのあの時間と家が壊れ地球が壊れると感じたあの恐怖を2年前の3.11をまるで呪文でも唱えるようにだがいつか穏やかな日が多くの避難民の方にも訪れることを信じたいそして暖かい気持ちが人々の心に再び蘇ることを「冬来たりなば春遠からじ」イギリスの詩人シェリーが詠ったその遅い春が今も苦しむ被災地の人々にいつかは訪れることを心から信じ辛抱強く待っている私達東北人だ
2013.03.12
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「友達と絵を観に行って来るね」。そう言って妻は出かけて行った。宮城県美術館で特別展「東山魁夷展」が開催されているようだ。「平山郁夫なら俺も行きたいけどなあ」。そう思ったものの、さて自分は何をするか。そうだ先日頼んでおいた本を受け取るついでに、近くの博物館に寄ろう。本は村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』。これはそのうちにじっくり読むつもり。 「地底の森ミュージアム」は旧石器時代の森林跡をそのまま保存した、世界でも珍しい博物館。今日は企画展の『それでも生きる!考古学からみる災害のあと』を観るのが目的だ。企画展が開かれているのは小さな部屋なので、展示物は80点以下だった。内容は平安時代の「貞観地震」(869年)の災害関係、十和田湖の噴火物と姶良火山(鹿児島)の噴火物の飛来など。 貞観地震の津波では、約千人が溺死したと記録にある由。地震で壊れた当時の政庁多賀城や、陸奥国分寺の瓦を焼くために百済の技術者を派遣し、「陸奥国地震使」に紀春枝を任命したことが記録に残されている。津波で打ち寄せられた当時の海砂は、小粒でサラサラしていた。『新平家物語』を読むと、時々「ない」という言葉が出て来る。これがその頃の地震の呼び名。元々は土地を意味するようだ。 さて、東日本大震災復興予算の出鱈目ぶりが批判を浴びている。本来の復興事業とは全然異なる事業に予算を廻すやり方は、官僚のずるさで、いつものこと。実際の被災地では、復興予算の少なさ、手続きの面倒さに手を焼いているのが現状だ。復興が遅れている原因は予算の問題だけではない。資材の高騰、工事業者の不足、津波で流され境界が不明なことなどから、住民が住める場所がなかなか決まらない。 被災地の瓦礫受け入れを巡って、北九州市では市民が訴訟を起こした。放射能汚染物質の最終処分場建設では、栃木や茨城県内で反対運動が起きている。宮城県内では目下幾つかの裁判が進行中。それは震災時にもっと適切な避難行動を取っていれば、死なずに済んだと訴える幼稚園児、自動車学校の生徒、銀行職員の遺族からのものだ。 仮設住宅ではDV(家庭内暴力)の悲惨な事例も生じている。長引く避難生活に、イライラが募っているのだろう。生活資金が乏しくなり、将来の生活が見えないのだから気持ちが荒むのは当然。一頃は余りにも患者が増え過ぎてノイローゼになった精神科医が多かったと聞く。そんな中でも復興の兆しが少し見え出した。宮城県亘理町のイチゴ農家が、震災後初めて出荷出来そうとの話。 宮城県内でいち早く被災住民の新居住区を決定したのが岩沼市。安全を第一に考えつつ、産業とのバランスを取るのは大変な作業だったと思う。仙台市は海岸部を通る県道を6m「かさ上げ」することを決めた。これは「仙台東部道路」が堤防代わりになって津波を食い止めたのがヒントで、今後完工までには10年を要する工事とか。 このプランを震災の数カ月後にブログで紹介したことがあった。だが「最大40mの津波には耐えられない」とのコメント。学会から毎年のように賞をもらう理系の研究者のようだ。それはリアス式海岸の場合で、平野部の海岸はそんな高さにはならない。信じられない話だが、地形と津波の高さの関係についての基礎知識がないのだろう。 また、生の「ホヤ」をどうしても食べたいとブログに書いた人がいた。津波の被害が大きかった三陸海岸では、ワカメやカキやホヤの養殖いかだはほとんど海に流された。2万人近い死者を出し、まだ2千人ほどの行方不明者がいる未曽有の大災害。行方不明者の大部分は海の底に沈んだままのはず。そんなことに思いが至らない人も世の中にはいるのだ。 我が家は壁にヒビが入ったくらい。そして電気の復旧まで4日間、水道の復旧まで1週間、ガスの復旧まで35日間で済んだ。津波で亡くなった親戚は2人。だが福島原発に近い市町村では、帰るべき故郷を失った人も多いのだ。あれから1年7カ月。宮城県産のカキがようやく出荷出来る状態になった由。それらはかつて救援した広島県やフランスから贈られた種ガキが成長したものだ。これからも明るいニュースがたくさん届くことを祈りたい。
2012.10.14
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≪ 失われた風景-2 ≫ 右手に松林が見える。貞山堀に沿って植えられた防風林。津波でかなり流されたのだが、生き残っているのもあった。堀の何箇所かの水門も津波で破壊されたはず。間もなく井土の集落。ここにも人家は見えない。海寄りの地域の井土浜は妻の母の実家がある所。親戚の家は全部流されたものの、命だけは助かった。 さらに県道を荒浜へと向かう。右手にあった乗馬クラブは更地になっていた。荒浜地区は千名近い死者が出た集落で、残っているのは小学校の建物だけ。だが被害の大きさと児童数が少ないため、授業は他の学校で受けているはず。交差点のガソリンスタンドが破壊されている。津波の凄まじさを改めて感じる。 荒浜は漁業と海水浴の町だが、名取市のゆり上同様集落が壊滅し、目下集団移転計画が練られている。だが住民の中には、ここに残りたいと言う人もいるようだ。交差点から左折し、仙台市内へ向かう。自転車に乗った人がやって来た。「ここが荒浜ですね」と確認すると、「この先にたくさん住んでたんです」と海の方を示した。 勿論それは知っていたが黙って聞いた。ここでは生き残った人は僅かのはず。誰もいない廃墟で人に遭うのは、何だか不思議な気持ち。泥田から潮の匂いがする。海水に浸かった田圃が本来の役割を果たせないまま広がっている風景。ここからの道は知らない。小さな集落跡を過ぎて仙台東部道路の下を潜る。その向こうには、青々と風になびく小さな苗。高さ10mほどの高速道路の堤が、津波を阻止したのだ。まさに天国と地獄だ。 「トンネル」には流木が詰まり、内側に入った海水は僅かで済んだようだ。土手の効果は高く、そこに登って助かった人も多いと聞く。荒井の集落に入ると建物が壊れてないことに安心する。ここは新しい地下鉄路線の終点で、どんどん住宅やアパートが建てられていた。七郷集落でHCを発見。ここは震災当時自転車に乗ってガスボンベを買いに来た所。3本入り2セット買えた貴重品も、10日もせずに使い切った。 そこから先で道に迷った。南小泉方面から来れば間違えないのだが、逆の道が枝分かれして分かり難い。迷いながらも霞ノ目に出た。記憶を辿りながらある個所を訪ねようとした。江戸時代の名横綱2代目谷風の墓だ。だが、人に聞いても知らないと言う。自衛隊の基地に沿って何度か曲がると、墓は見つかった。前にここを訪れたのは高校時代のこと。あれから50年以上経過している。 風景がすっかり変わっている。昔は原っぱだったのが、今では人家が立て込み、墓の横にも大きなアパートが建っていた。当時の霞ノ目基地はグライダーの練習などのんびりしていたのが、今では大型ヘリコプターがブンブン飛んでいる。私は昔ここで「赤い円盤」を観た。てっきり宇宙人が攻めて来たものと驚いたのだが、それは地表から登る大きな月だった。それほど地上には何も無かったのだ。 小道から梅林の集落へ出る。高校時代の一時期弟と一緒に、叔父の家に厄介になった。父が夜逃げ先の四国で急死し、故郷の仙台に帰って来た時だ。あのボロ家は既にない。叔父は死に、従妹は40過ぎてから嫁に行った。木造平屋だった刑務官宿舎は立派なアパートに、そして線路沿いのゴム会社は高層マンションに変わっていた。あの貧しかった時代が何故か懐かしい。こうして38kmの自転車の旅を無事終えた。
2012.06.06
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≪ 失われた風景-1 ≫ その日も朝から軽いめまい。でもゆっくりとなら大丈夫なはず。そう思って飲みものと食べ物を用意する。自転車に乗って津波に襲われた地区のその後を確認する旅だ。地図を見てルートは決めていたが、地図は持たない。体調も含めて、多分何とかなるはず。旅には多少の不安が付きまとうのが普通。ニュースで観ていた地区が、あれからどう変わったのか。 名取川の堤防沿いに名取市ゆり上(ゆりあげ=ゆりは門の中に水)へ向かう。海からの弱い風があるが、下りのため苦しくはない。また気温も寒くは感じない。江戸時代以来の松並木、「あんどん松」付近から一般道へ。昨年来た時は自衛隊の人が泥田を探していた。そこは元々宅地だったのだが、津波で家々が流され、瓦礫が所々に集積していた。そして乗用車が直角に突き刺さっていた。 自衛隊の人達が捜索していたのは遺体。泥田に入って丹念にゴミを片づけながらの作業は大変だったはず。前回は街並みへ入っても壊れた家しかなかった。それが今はかなり片付き、土台しか残っていない無人の町。そして一面見通せる異様な風景。消防署は壊れたまま。遠くに見えるお寺も屋根が壊れ、壁面にベニヤ板が打ちつけられている。 人の気配がしない中学校。かつての繁華街はまるで茫漠たる砂漠。所々に盛り上げられた土は、津波が襲来した際の避難箇所だろうか。日和山だけがポツンと見える。標高10m以下の小高い丘が、まるでゆり上のランドマークのよう。橋を渡ってサイクルセンターに行こうとしたが、ガードマンに止められた。そこから先は工事関係車両しか入れない由。 破壊された貞山堀の岸辺に立ってサイクルセンターを見ると建物はなく、区分された瓦礫が小山のように積み上げられていた。あそこは年の初めに走るマラソン会場だった所。その面影は全くない。左手の海岸で煙を上げている工場は、臨時の焼却場だろうか。最近日曜市が再開されたようだが、かつての面影はない。笹かまぼこの工場跡がある。再建するまでの間モニュメントとして残すらしい。 日和山の頂上に木柱の慰霊碑が2本。その前に花が捧げられている。地元の人が2人いた。震災前、この頂には社があった由。それが流されて無くなっている。「大東亜戦争慰霊碑」が残っているのは、土台がしっかりしているのと石碑が重すぎたせいか。青々とした1本の松。どうやらこれも津波と塩害に耐えたようだ。 ゆり上大橋へ向かう。お寺の墓石がなぎ倒されている。土台だけの異様な街並み。700人近い住民が犠牲になった港町。私の従兄もここで死んだ。橋を渡る。前回は橋の手前で警視庁のパトカーが制止していた。地震で橋に段差が出来たためだ。そして警戒してたのは泥棒が横行していたためでもあった。無人の家から金目のものを盗み、遺体の指を切断して指輪を奪うとんでもない奴らが出没していたのだ。 橋を渡ると仙台市の藤塚地区。ここから貞山堀沿いにサイクリングロードが続いていたのだが、あの津波で破壊され、通行止めのはず。県道10号線を北に向かう。右手の海岸の所々に瓦礫の山。これは津波の防御用かも。左手の水田には濁った水。入り込んだ海水が引かず、泥田と変わっている。濃い塩分の影響で、数年間は田植えが不可能のようだ。大型のダンプが多いのは災害復旧工事のためか。ガードマンに右手の歩道を行くよう指示された。左手の歩道が壊れているのだ。<続く>
2012.06.05
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昨日は強風の中を走って帰った。普通の人なら決してしないことでも、少し変わった人種のランナーは平っちゃら。おまけにその恰好で博物館に入る。市立博物館のギャラリーでは、目下震災関係の報道写真展「生きる」が開催中で、所属走友会の仲間Eちゃんのご主人も写真を出品している。会期が間もなく終わるため、今日は帰宅ランの途中に寄ったわけ。 受付に座っている人がいる。確かEちゃんのご主人だ。そこで挨拶をしてから展示スペースへ向かった。アマチュアカメラマンと言っても長年写真を撮り続けて来た方が多いだけに、さすがは狙った対象が明確で、大震災の怖さ、被害の凄さがそのまま観る者に伝わって来る。大震災以前の平和な風景もあれば、震災当日の凄惨な映像や震災後の変わり果てた姿も、ありのままに写し出されている。 今回の震災で印象的だったのは、宮城県南三陸町の防災庁舎からの放送で、必死に避難を呼びかける娘さんの声だった。最近になって、その娘さんの声に混じって「未希ちゃん上がっぺ!」の音声を聞いた。声の主は必死に放送を続ける彼女に、危険だからもう止めて屋上に逃げることを促す、彼女の上司だった。 屋上に逃げたものの。柵を掴んでいた多くの職員が屋上まで押し寄せて来た津波に流され、最後までマイクを放さなかった未希さんも助からなかった。展示された写真にはその屋上の鉄塔にしがみつく一人の男性が写っている。結局助かったのはその人を含め僅かだったはず。 また宮城県女川町にある銀行の支店の遭難の模様が最近の新聞に載った。海の直ぐ傍にある支店の職員も、全員屋上に避難したものの助かったのは1人だけだった由。他の建物が邪魔になって津波が見えにくかったようだが、そこから僅か3分の高台にある建物は、津波の被害を受けなかった。もし早めに逃げていれば助かった命だが、人様の大切なお金を預かる銀行としては逃げ出すわけには行かなかったのだろう。 実は命を落とされた支店の職員は、走友T田さんの元同僚だった。震災後に味わったであろうT田さんの悲しみや苦しみを思い起こす。展示された多くの写真を観ながら、私は様々な感慨に耽っていた。観終わって受付に戻り、Eちゃんのご主人と話す。彼の作品も観させていただいたが、話しているうちに彼と私は同じ高校の同学年と言うことが分かった。これも不思議な縁と言えよう。 最近の報道によれば、今後「南海トラフ」沿いで大地震が発生した際には、これまで考えていたよりさらに巨大な津波が各地を襲う恐れがある由。幾つかのプレートが集合する日本列島だけに、地震や津波から逃れられない運命にあるのだろうが、極力被害を最小に抑える技術の確立が望まれる。博物館を出ると外は雪。大震災の当日も雪が降り、停電で寒さに震えたことを思い出した。
2012.04.05
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死者19131名、行方不明者1694名、避難生活者34万人余、うち仮設住宅住まいの人11万人余、被災者中家族が離れ離れになっている人3割、被災者中仕事を失ったままの人4割=6万5千人、岩手宮城福島3県の被災商工業者のうち休業中か廃業を決めたのは22%、宮城県内の全壊家屋8万4千戸、同じく半壊家屋13万9千戸、宮城県内の瓦礫処理率6.8%、瓦礫処理残量18年分。 「東日本大震災」から1年。テレビでは各社が特別番組を放送している。だが、あれから一体何がどのように変わったのか。復興の足取りは相変わらず遅く、被災者の心の傷は癒されていない。いや、災害救助や捜索に当たった自衛隊隊員の中にも、被災地で遭遇した生々しい場面によってPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ隊員が20%近く存在すると言う。 先日我が家を訪れた生命保険の小母ちゃんも、あの震災でパニック障害に罹ったそうだ。妻も一時精神状態が正常とは言いかねたし、妻の姉はさらに重い症状を呈した。私の不整脈発症もその影響を多分に受けている。幸いにして我が家ではさしたる被害もなかったが、被災者の多くは今でも今後の生活をどう切り開くか、見通しが立たないのではないか。 大津波による福島原発事故発生時、アメリカ政府はいち早く日本政府から情報を提供してもらい、自国民を原発の圏内80kmから退避させた。もちろん4基の原発のうち3基がメルトダウンを起こしたことも把握していたようだ。それだけ危機管理が徹底していたのに、わが国では事故処理もお粗末だったし、危機管理も全く出来てなかった。 あれから1年。各地では様々な動きがあった。岩手県の陸前高田市では、流木のカエデでバイオリンを作ったそうだ。東京のある市では、宮城県石巻市の工場から流失した泥だらけの缶詰の汚れを洗い、「希望の缶詰」として市民に販売してチャリティーに協力した。美談のある一方、福島から「疎開」した児童が転校先でいじめに遭ったり、汚染度の低い瓦礫の受け入れを拒む傾向も強い。 日本で大震災が起きたことを知ったコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン氏は、直ちに日本への移住を決意した。長年の日本文化研究が認められ、2008年に文化勲章を受章した同氏は急遽来日し、3.11を前にこのたび日本国籍を取得した。氏の「日本を深く愛する」気持ちがそうさせた由。「鬼怒鳴門」(きん・どなるど)それが自ら選んだ「新しい名前」とか。 私が所属する走友会の仲間Eちゃんの夫君が、今月末から来月上旬にかけて写真展を開催する。場所は仙台市博物館のギャラリー。テーマはこの1年撮り貯めた被災地の風景だ。生々しい映像を観るのは辛いが、これは亡くなった方々や未だに行方不明のままの方々への鎮魂でもある。そして「あの日」をいつまでも忘れず、心に刻みたいと思う。
2012.03.11
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昨年は「東日本大震災」という未曽有の出来ごとがあった。幸いにして我が家ではさしたる被害も無かったが、未だに震災の影響に苦しんでいる人が多い。一方私は不整脈に襲われ、陰鬱な一年だった。その中で長年の夢だった「沖縄本島単独一周走破」を達成することが出来た。今年の年賀状には、震災の影響や健康を気遣う暖かいメッセージがとても多かった。 徳島勤務時代の上司Mさんは80歳近いはず。定年後もユネスコ関係の仕事に携わった方で、彼からはご丁寧に2度年賀状をもらった。きっと私が4年がかりで沖縄本島を走破したことを知り、もう一度賀状をくれたのだろう。3年前の東海岸縦断の際は、彼の故郷である北部の宜野座村も通った。沖縄出身の彼だからこそ、あの島を単独で一周する大変さが分かるのだと思う。 沖縄勤務時代のボスSさんも80歳になる。絵は東京芸大の大学院を修了した奥様に手ほどきしたほどの腕前だが、現職時代その地位を偉ぶるそぶりが全くなかった紳士。地震の影響と私の健康を気遣う言葉が優しい。几帳面な字で「貴兄のマラソンには驚いております」とある。どうも沖縄赴任当時から私が走っていることを知らなかったようだ。 筑波時代の先輩だったSさんも今年80歳。数年前から認知症を患っておられるようだが、たどたどしい字ながら私の健康を気遣ってくれ、最後は「いつもあちこちで頑張っておられる様子ですが、どうぞ良い旅が出来ますよう」と文章を結んでいる。字が震え、所々に脱字があるが、彼の気持ちが十分に伝わる有難いものだ。 山形勤務時代の部下だったHさんからは、「震災は大丈夫でしたか? 私は白髪が増え、少しスリムになりました」とある。パソコンに明るく退職後は大学院に入り直した彼女だが、数年前に大病を患っている。少しスリムになったくらいでちょうど良い。もしかして本名も「ヒラガ」から「シラガ」に変わったのかも。 徳島勤務時代の仲間だったSさんからは、「人間ドックに引っ掛かり健康の大切さを再認識した」とある。今は毎日1時間歩いているとのこと。同じくHさんからは「大変な1年だったと思います。年齢に合わせて走って下さい」と。2人とも創設期の忙しい時に一緒に酒を飲み、麻雀をした仲間。そのうち昔の勤務地を訪れたいものだ。 徳島勤務時代の部下だったMさんからは、「無事でなによりです。不自由なことがありましたら何でもお知らせください」とある。出来れば徳島の地図の最新版が欲しいね。あの懐かしい海辺や吉野川の上流へ向かって、いつか再び走る日のために。 大学時代の後輩であるSさんからは、自宅が震災で半壊したとの書き込み。同じ仙台市内でも津波の被害を受けた海岸部や、地震で土砂崩れが発生した団地など様々。彼女の住所からみて土砂崩れを心配していたのだが、やはり現実に被害を受けたようだ。 高校時代の同級生Sからは年賀状も来ない。山手にある自宅は大丈夫だったようだが、海岸にあった彼の会社は津波で流されたとも聞いた。彼らにとってこの一年が、少しでも心休まる年になることを願うばかりだ。
2012.01.09
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< 東日本大震災(2)> 電気の回復で暖房が復活し、電子レンジが使えるため調理の幅が広がった。水道の回復では洗濯が可能になりトイレの使用が楽になった。ガスの回復は24日後ではなく34日後の間違い。これで風呂に入れ、調理が出来、普通の日常生活に戻ることが出来た。ネットの回復も震災の4日後だが、その前日に勤務先のパソコンを借用し、ようやくブログに無事であることを記せた。 テレビが点くと、今回の被害の映像を初めて確認出来た。流される飛行機や家屋やタンク、橋桁にぶつかる船、松林や堤防を越える大津波、高台に逃げまどう人々。ラジオでは想像も出来なかった物凄いシーンが次々に展開し、ただただ呆然とするだけだった。 一方福島原発の被害状況も徐々に分かって来た。初めは、何故マスコミがそんなに大騒ぎするのか分からなかった。まさか水素爆発が起きて放射能が漏れていたとは。メルトダウン、シーベルトなどの言葉を初めて知った。震災後間もなく、アメリカから原発問題の専門家集団が来日して、防災に協力する旨申し出たのに対し、政府と東京電力は自前で処理出来ると宣言し、早々に引き取ってもらった。 あの判断が間違いだったことは、後日明白になった。政府要人も東電幹部も、当時は原発内で何が起きているかを正確に把握出来ておらず、ただメンツに拘り、原発を何とか継続させることに腐心していたのではないか。強い季節風に乗って、福島原発から放射性物質が各地に飛散した。また汚染水はドボドボ太平洋に流れ込んだ。高度の放射能汚染で多くの住民が強制的に退去させられたことは、国民の誰もが知る事実。最悪のシナリオが現実のものとなった。 津波による家屋等の被害も凄まじかった。リアス式の三陸海岸では、地形の特性で津波が40mにも達した地区があったし、金華山との間の海峡は、引き波で海底がまる見えになったそうだ。1万5千人以上もの死者、4千人を超える行方不明者を出したM9の巨大地震と大津波。海岸部にありながら1人の死者も出さなかった小学校がある一方、児童の7割以上が亡くなった小学校もあった。日頃の危機意識の有無が関係してたようだ。 風呂に入れない期間、私は3時間並んで近所の温泉の入浴券を入手したが、洗い場の隣りの人がガタガタ震えているのに気づいた。危うく津波から逃れて避難所暮らしをしていた人で、その時の恐怖心がなかなか抜けないようだった。あの津波で私の親戚も2人が命を落としている。一度津波が襲った地区を訪れたが、ほとんどが廃墟と残骸で、復興までは相当の日数を要すると感じた。 自治体の中には既に復興計画を公表した所もあるが、これには個人の事情や利害もからむため、今後の道のりは容易ではないはず。また厄介なのは放射性物質の除染で、原発に近い住民の帰宅までには、さらに数十年を要するのではないか。また今後常磐線をどう開通させるのか。「心の傷」の手当も含め、まだまだ解決すべき問題が多い。だが、それを乗り越えないと日本の将来はないと思うのだ。
2011.12.20
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< 東日本大震災(1)> 2011年のことを書くとなれば、やはり最初は「東日本大震災」のことだろう。あれは3月11日(金)午後2時46分のこと。突然グラグラっと猛烈な揺れが襲った。今までに経験したことのない強い縦揺れ。自室の書架から色んなものが落ちた。だが余りにも揺れが強烈で立ち上がることも出来ない。何とか頑張ってやっとパソコンを正常に終了させた。 揺れは6分ほど続いた。もう駄目かも知れない。そうも感じた。ようやく大きな揺れが治まったため、家の外へ出た。近所の人も道路へ出ていた。大きく波打つ電線。地中から勢いよく吹き出す水。屋根瓦や石垣が崩れた家もあったようだ。その日は同僚が研修のため、遅番の代務を引きうけていたが、先ず仕事で外へ出ている妻と連絡がつかない。勤務先への電話も全くつながらなかった。 結局その日は遅番へ行けなかった。もし行ったとしても、街中にあるビルは停電で真っ暗で、交通は遮断され、信号も点かなかったようだ。道路は至る所で陥没し、中には倒壊したビルやガラスが破損したビルもあったようだ。もし自転車で出かけたら大変な目に遭っていたと思う。妻は無事に帰宅して一安心。だが電気がつかない。長い停電の始まりだった。 石油はあるが、ファンヒーターが点かない。ガスは当初出ていたが、やがて爆発の恐れがあるため使用禁止に。まだ出ていた水を風呂に貯めようとしたら妻に反対された。結局その日から4日間は電気が使えず、水道は6日間断水した。そしてもっとも厳しかったのが都市ガスで、24日間使用することが出来なった。 わずかに使えたのがカセットボンベ。これも2本しかなく、入手するには並んで買うしかなかったが、わずか1本買うのに1時間も待つ始末。大地震の夜は風呂へも入れず、ロウソク暮らし。着のみ着のままで布団に潜り込むしかなかった。ラジオのニュースで仙台空港が津波に遭ったと聞いた。市内の荒浜では浜辺の松よりも高い津波が襲ったようだ。だが停電のために映像を観たのは、ずいぶん後になってからだ。 ロウソクは3本あって、とても重宝した。携帯ラジオが2台。懐中電灯が2本。カセットのボンベが買えたのは3日後。水はペットボトルに入れて毎日職場からリュックで運んだ。通勤手段は自転車。バスが来ないためだ。電車はほとんどが不通。それもそのはず津波で橋やレールが流されていたのだ。スーパーやコンビニが閉店しているため、食料が入って来ないので大変だったが、我が家は冷蔵庫の中に1か月分もの食料が蓄えられていた。 我が家での被害はほとんどなく、軽微な瀬戸物が2個壊れただけで済んだ。戸棚や本箱などには倒壊防止用の「つっかえ棒」を施しており、食器にはタオルを掛けていたのが被害を受けなかった原因だと思う。当初は「東北大震災」と呼ばれたのが、「東北・関東大震災」そして最終的には「東日本大震災」と呼び名が変わった。ありがたいことにテレビなどで被害の大きさを知った全国の知人から、多くのお見舞いをいただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。 都市ガスが復活するまでの24日間に風呂に入ったのは3回。それ以外は濡れタオルで体を拭いただけだった。洗濯が出来ない期間は、ほとんど着替えせず。庭にはトイレ用の穴を掘った。ただし使用したのは私だけ。最後の手段として庭に「かまど」を作ろうとしたが、これも妻の反対にあった。この震災で「危機管理」に関する妻との認識のずれの大きさを痛感した私だった。<続く>
2011.12.19
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3月の大震災から9カ月が経ちました。だが1万5千人以上の死者と4千人以上の行方不明者が出た今回の大震災の影響は、決して少なくありませんね。あれから復刻計画を発表した自治体が幾つかあります。住民の居住区を高台に移転させる案が目立ちました。路線をより安全な内陸部へ移動させた、鉄道の再建計画も一部出されました。さらに宮城県では、被害を受けた142の漁港のうち、60港を優先的に再建する案を公表しました。 いずれの案もいざ実行するとなると、なかなか困難だと思われます。それは個人の財産や生活と密接に関わりがあるためです。全ての財産を失った人が新しい地区へ移転し、自宅を再建するには最低3千万円の負担が必要みたいです。また、鉄道の路線移動の経費はだれが負担し、再建が遅れる漁港の補償は、一体誰がするのでしょう。 東京電力の補償金請求手続きはかなり簡素化されたようですが、風評被害などへの補償は今後も拡大すると思います。また大量の放射能汚染水の蓄積はほぼ限界で、海洋投棄が現実味を帯びて来ました。こうなると海の汚染がさらに深刻なものになりかねないし、休業中の福島の漁師達がいつまで漁を待つのか見通しが全く立たなくなります。 今回の震災で孤児になった子供は700人以上にのぼるようです。きっと心の傷の回復は容易ではないと思われます。そして宮城県の教師の30%は、震災後に「うつ状態」にあるとの調査結果も出ています。強制的に避難させられている福島原発付近の住民が、自分の家に帰宅出来る日はいつなのでしょう。30年後は遠いですよ。きっと生きては帰れない人もいるでしょうね。 今回の「東日本大震災」は千年に1度の規模との意見もありましたが、その後600年に1度と訂正した研究者もいます。政府の地震調査研究推進本部によれば、今後三陸沖北部から房総半島沖の日本海溝寄りでM9クラスの地震が起きる確率は30年以内で30%もあるようだし、宮城県沖でM7.3クラスの地震が起きる確率は、30年間で60%もあるようです。 この他にM7以上の規模の南関東地震、東海地震、東南海地震、南海地震が起きる確率も60%以上あるみたいなので、当分警戒が必要ですね。昨日と今日はあまり楽しくない話題になりましたが、どうか元気でお過ごしくださいね~。
2011.12.13
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昨日、「東日本大震災」から7ケ月目を迎えた。石巻市では昨日をもって、全ての避難所を閉鎖したそうだ。今後は仮設住宅で暮らす方が大部分のようだが、年寄りには不便な住宅が多いとか。先ず買い物に不便だし、病院に行くにも不便。仮設住宅はそんな場所にしか建てられないのだ。 子供達の通学にも遠いようだし、第一2年後にはこの仮設住宅を出なければならない。「生活の自立」が建前のためだ。会社が津波で無くなったり、職を失った人も多い。そして町ぐるみの再建計画がなかなか決まらないこともある。安全な場所に住宅地を作るにしても、これまで住んでいた土地を誰がどんな価格で買い取るのか、それすらまだ何の見通しもないのだ。 それでも幾つかの市町村からは、復興計画が発表された。また仙石線や常磐線の不通区間では、新たにう回路を造ることもJRと関係市町村との間で合意に達した。津波の被害を恐れて、内陸部へ移動する案だが、これも今後土地の買収が円滑に進むかどうか。 厳しい話だが、被災した岩手、宮城、福島の3県に災害救助の手を差し伸べた22都県から、3県に対して救助に要した経費44億円を請求する動きがある由。これは「災害救助法」に基づく請求だが、金額はさらに増える可能性があるみたいだ。最終的には国が負担することになるが、国家予算が苦しい中で国民の負担も増えそうな感じ。 明るい話題も幾つかあった。被災地の児童が阪神地区からの呼びかけで修学旅行をした話や、逆に阪神地区の生徒が修学旅行で三陸の被災地を訪れた話を聞いた。前に石巻市で泥だらけのピアノを修理してリサイタルの伴奏に用いた話を書いたが、今度は宮城県七ヶ浜町で被災に遭ったピアノを修復した話。 津波に遭ったピアノを修復したのは横浜の調律師である松木さん。だが1個の鍵盤だけは今回の被害を忘れぬために、剥げたままに残した由。このピアノを伴奏に使ってリサイタルを開いたのはレゲエ歌手のMetisさん。聴衆は持ち主の鈴木さん以下7名のみ。バックコーラスで歌ったのは被災地の小学生。演奏後、ピアノは七ヶ浜町に寄付されたそうだ。 71名の児童が津波で亡くなった石巻市立大川小学校のこと。1人のお母さんが行方不明のお嬢さん何とか見つけようと、わざわざ重機の資格を取った由。そして根気良く重機で瓦礫を掘り続け、ついに遺体の一部を発見したとのニュースを聞いた。瓦礫に埋まったままで数カ月。見つかった遺体も一部だけとは、津波がいかに激しかったかを物語ると思う。だがその津波より、我が子を思う母の執念が勝ったということだろう。合掌。
2011.10.12
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「海に行きたいんです」。突然玄関ホールに入って来た女性が私に言った。美人が目の前を横切ったのを見たばかり。まさかその人が戻ってビルへ飛び込んで来るとは。「ええっ、海ですか?」。何のことやらさっぱり分からず、私はただただ驚いた。女性の目からみるみる溢れる涙。それを必死に堪えながら、「亘理(わたり)へ行きたいのですが」と彼女は言った。 ビルの外へ出て駅の方向を示しながら、私は亘理は仙台駅から常磐線に乗って行けること。海は亘理駅からは少し遠いことを教えた。彼女が何故亘理の海を観たかったのかは分からないが、あそこも町の半分は津波にやられている。親しい友人が亡くなったのか。それとも同町出身の恋人でもいたのだろうか。これは今朝あった話。 9月11日(日)の午後2時46分。街中のミュージシャンが一斉に演奏を中断し、それぞれの楽器で「ラ♪」の音を出した。この日はジャズフェスティバルの2日目で、東日本大震災が起きてからちょうど半年の時間だった。死者、行方不明者併せて1万人以上の大災害が起きたあの日から数えて6か月。鎮魂の調べは天国まで届いただろうか。 同じ日、石巻市ではクミコさんの小さなリサイタルがあった。会場はさる小学校で、集まった聴衆は300人と聞いた。3月11日金曜日。クミコさんはやはり石巻市に居た。お母さん方の招きでリサイタルを開いたようだ。だが午後2時46分、物凄い地震が東北を襲い、その数十分後には巨大な津波が各地の海岸を襲った。 リサイタル中だったクミコさんも必死に山へ逃げた。あの辺で山と言えば、標高60mほどの日和山しかない。彼女は雪の降る中、ほとんど眠れずに山上で一夜を過ごしたそうだ。気になったものの、彼女は何とか東京へ帰った。だが石巻のことがどうしても気がかりだったと言う。 あの日の津波で、同市内の楽器店「さるこや」も大きな被害を受けた。色んな種類の楽器が破損し、30台のピアノも流された由。中には車の下敷きになっていたのもあるそうだ。店主の井上さんはそのうちの1台を必死で修復した。ピアノには大量の泥が詰まり、金属は海水で錆びついていたそうだ。それを丁寧に洗い、錆びを落とし、部品を交換してようやくピアノらしい姿に戻した。 その事を知ったクミコさんは、「復活ピアノ」を伴奏に使ってもう一度石巻市でリサイタルを開こうと決意したそうだ。昨年の暮れ、彼女は初めて「紅白歌合戦」に出場したみたい。私もその顔と声に覚えがある。56歳の歌姫の美声は大被害を受けた町に再び響き渡り、聴衆の心を癒したはず。 震災後半年のあの日。県内の各地で慰霊の催しが開かれた。ある海辺の町では花火大会をやったそうだ。ある町では7色のハンカチ18436枚で、子供達が「虹の架け橋」を作ったそうだ。また大勢の児童が亡くなったある小学校では、校門前の祭壇に花とお菓子を供えたそうだ。文部科学省によれば、今回被害を受けた公立学校については、今後高台への移転を予算化する計画があるそうだ。 福島第一原発の被害で住民に大きな迷惑をかけた東京電力は、衆議院科学技術イノベーション推進特別委員会の求めに対し、50行中48行を黒く塗りつぶした「操作手順書」を提出して委員から顰蹙を買った。東電の言い分が奮っている。「あれは社内資料のため、国会に報告する義務はない」のだそうだ。レ・ミゼラブル。
2011.09.14
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福島県では天然物のキノコから高濃度の放射能が検出されたそうだ。養殖物ならそんな心配は無いのだが、土壌にそのまま生える天然物にはどうしても汚染物質が蓄積され易いのだと思う。また猪の肉からもかなりの放射性物質が検出された由。猪の主食の一つがキノコのため、体内でさらに濃度が上がるのだろう。これはチェルノブイリの原発事故でも全く同様の事態が生じたそうだ。 その福島県に視察に行った某大臣が、「あそこは死の街だった」と言ったとか。それをマスコミが問題視して大騒ぎになった。きっとその大臣は自分が感じたままを話したのだと思う。「またマスコミの「言葉狩り」が始まったな」と言うのが私の率直な感想だった。確かに大臣の発言としては配慮に欠けてはいるが、どうも最近は何かと騒ぎ過ぎるのではないか。 事態はその後急変した。某大臣がある記者に対して、放射能をなすりつけるようなしぐさをしたのだとか。多分悪ふざけの積りだったのだろう。だが、それは単なるジョークでは治まらず、常識の無さを露見させたに過ぎなかった。それも大臣としてではなく、一個の人間としてだ。 民主党は結党後まだ日も浅く、当選回数が5、6回でも立派な大臣候補となる。初めて大臣に就任した彼も、きっと有頂天だったのだろう。彼が卒業した北海道大学農学部は、あの「少年よ大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士が居た札幌農学校の後身で、開拓精神に富んだ素晴らしい歴史を持っている。きっと彼には、その認識と誇りが欠けていたのだと思う。 ゴルフの石川遼選手が日本プロゴルフ機構から処分されることになった。2年連続して同じ大会を欠場したことに対してで、罰則として200万円を支払う義務があるそうだ。彼は国内ツアーだけにとどまらず、広く世界で活躍している選手。その疲れが出て、たまたま2年連続の欠場になったのは気の毒だった。 彼は今シーズン、獲得した賞金は全て東日本大震災の被害者に提供することを宣言している。そして現時点での賞金獲得額は6832万円。もちろん国内トップの金額だ。わずか20歳の若者が自分の全精神力をかけてプレーし、それを全て寄付すると言う見上げた行為を、先日大臣を辞任した某代議士はどう考えているのだろう。 大震災発生後6か月に当たる日、米国アーカンソン選手権では宮里藍選手が1打差の3位に入賞した。彼女は沖縄出身だが東北高校を卒業し、宮城県を第2の故郷と考えているようだ。そして大震災からの一早い復興を心から願っていると聞いた。ありがとうね藍ちゃん。 今回ロンドンオリンピック出場を決めた「なでしこジャパン」のメンバーにも仙台市の常盤木学園出身者が3人もいる。中国戦で決勝弾を放った田中明日菜、鮫島彩、熊谷紗だ。また右ひざに全治6カ月の怪我を負った丸山と鮫島は、東京電力女子サッカーチームのメンバーでもあり、被災した東北を気遣っていた。また澤キャプテンの言葉の端々にも、震災を受けた地方への労わりがひしひしと感じられた。 震災後6か月のあの日、Kスタでは楽天と日ハムの試合があった。楽天は仙台が地元だし、日ハムは東北高校卒業のダルビッシュが先発で、両チームともどうしても勝ちたいゲームだったと思う。ダルビッシュは中3.5日だったにも関わらず、自ら先発を希望したようだ。それだけ震災に苦しむ東北に希望を与えたかったのだと思う。 あの日はダルビッシュが降板した後、4番バッターの山崎が奮起して楽天が逆転勝ちを収め、3位に浮上した。ダルビッシュのみならず、西武の岸(東北学院大学卒)、中日の和田、阪神の金本(東北福祉大学卒)、ヤクルトの由規(仙台育英卒)などプロ野球選手の中にも東北の関係者が多く、きっと彼らも大震災を心配しているはず。 アホな行為で大臣の椅子から転げ落ちた政治家。方や体を張って戦い、国内外で活躍しているアスリート達。どちらが被災地のことをより心配しているかは、その行動を見れば明明白白。アスリート達があれだけ頑張っているのだから、政治家には自分がやるべき仕事をしっかりやって欲しいと思うのだが。
2011.09.13
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「鯰絵」(なまずえ)と言うものをご存知だろうか。江戸時代の庶民は、地震の原因は鯰が暴れることと信じていたことを証明するものだ。安政2年(1855年)10月2日に発生した「安政大地震」の後、江戸市中に初めて「鯰絵」が出回った。当時浮世絵は幕府の許可が必要だったが、これは無届けの不法出版。 「鯰絵」は大暴れする大鯰を人々が取り抑えたり、逆に地震を起こしたことを大鯰が謝る極めてユニークなもの。私がその存在を知ったのは職場の後輩の著書。彼は仕事の傍ら、自分が興味を持つ分野の研究を密かに行っていたのだ。今でこそ地震の原因が鯰であるなどと信じる人はいないが、わずか160年前には本気にする人が多かったことに驚く。 国内の古い史料には、巨大地震について記されたものがある。その1つが「貞観地震」。貞観(じょうがん)11年(869年)7月13日に東北地方で起きたこの地震によって、大津波が発生したようだ。地震の規模はマグニチュード8以上。津波は当時の政庁であった多賀城付近まで押し寄せ、大きな被害が出たみたいだ。 東北大学の今村教授(地震学)と箕浦教授(地質学)の共同研究によれば、宮城県内ではこの他にも貞観津波の痕跡が何箇所かで確認されている由。そして巨大地震は800年から1100年のサイクルで発生していることも判明しているとか。北海道大学のグループは三陸海岸で同じような調査をした結果、岩手県でもほぼ1000年毎に巨大津波の被害に遭ったことが地層の発掘で確認されている。 東京電力が福島第1原発を造るに際し、この「貞観地震」の存在は知っていたようだ。だが、現実には何ら対策は取らなかった。逆に元々30mもの高さがあった地盤を、地層が弱いと言う理由で20mも掘り下げ、今回の大津波で悲惨な結果をもたらした。これは「たら話」だが、もし30mの高さのままで地盤の補強工事を進めていれば、被害はほとんど出なかったのではないか。 今回の津波で被害を受けた宮城県岩沼市の農家は、ボランティアの助けを借りてトマトを栽培したようだ。これは熊本県の「塩トマト」と呼ばれる品種。やはり塩害を受けた農地で実験的に栽培し、効果があったものだ。実ったトマトは塩害にも強く、食べると甘味が強かった由。出来たトマトは感謝を込めてプレゼントしたようだが、来年は本格的に栽培する予定とか。是非とも成功してほしいと願う。 また、茨城県の研究機関が塩害に強い稲を育てているとのニュースを聞いた。それによれば今回育てたのはインド原産の品種で、塩害が強くても枯れずに収穫出来た由。今後は日本の品種と掛け合わせ、塩害に強くかつ美味しい稲の発見に努めるそうだ。今は雑草が生い茂る広大な田圃に、黄色い稲穂が波打つ光景を一日も早く見てみたいものだ。
2011.08.25
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「三陸道」の整備計画が発表された。ルートは未確定部分もあるが、インターチェンジの個所を当初の計画よりも増やしたようだ。通常は10kmくらいに置かれるICだが、大震災を受けて災害復興にも役立つよう、5kmごとに細かく設置される由。さらに、土手状の「ノリ面」には避難用の階段や臨時の避難スペースを設けるようだ。ただし、経費増を抑えるため、部分的に1車線に減らした個所もあるとか。 被災地で「レッドジャイアント号」が活躍している。これは東松島市の企業が導入したドイツ製の特殊車両で、瓦礫を紙、ビニール類、土、木材、コンクリート片などに仕分けしながら処理する優れ物。金属は予め除外しておくようだ。20万トンの瓦礫を、約2ヵ月間で処理出来るとか。活躍の場が広がることを祈りたい。 肉牛の出荷停止が、福島、宮城、岩手の3県に続いて、栃木県産牛まで対象になった。一方、福島県産の桃の放射能汚染度は基準内で安全だったことが確かめられた。主食である米は、今後土壌と、収穫後の2回に分けて検査をすることが決まった。汚染の影響がどこまで広がるか注目だ。 岩沼市の防災計画が決まった。やはり震災で出た大量の瓦礫を、防波堤として「活用」する案も含まれているようだ。安全な市街地を造り、製薬会社の工場を誘致する計画もあるようだ。気仙沼市では、閉鎖中のコンビニから現金2千万円ほどを盗んだ若者数名が逮捕された。 先日の新聞に1枚の地図が載った。群馬大学の早川教授が作成した放射能汚染の広がりを示すものだ。震災の翌日3月12日から3月21日までの風雨で、東京電力福島第1原発から発生した汚染がどのように拡散したかを示している。これによれば、北は岩手県の一関市周辺、南は埼玉県東部、西は群馬県北部にまで影響が残ったようだ。 原発のある福島県内は半分近くの地域が汚染され、宮城県も県南の一部が該当地域だ。幸いと言うべきか、私が住んでいる仙台市周辺は空白地帯。震災の数日後に雨も降っているが、風向きのせいで汚染物質は飛来しなかったのだろう。これは全くの偶然としか言いようがない。 当初は「レベル4」と発表されながら、かなりして「レベル7」に訂正された放射能汚染。今後は急速に被害の補償が進むだろうが金額は空前絶後となり、国の関与も免れ得ない。精神的なダメージの大きい被害者が、何とか希望を持って前進出来る施策を、早急に実施して欲しいものだ。
2011.08.06
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ひょんなことから「稲わら」が悪者になった。それも宮城県産のものだ。隣県とは言え、福島原発の放射能汚染とはほとんどなんの関係もないと思われて来た宮城県。それが表舞台に出たのは、たまたま測定した牛肉にセシウム137が含まれていたからだ。その原因が宮城県産の稲わらとはビックリ。 あの大震災の直後、外国の報道機関は過敏なほど放射能漏れを恐れていた。そしてフランスなど数国はチャーター便で自国民を帰国させる緊急措置まで取った。「どうしてそこまで恐れるのだろう」。多くの日本人は案外楽観していたのではないか。私も心配しつつ、雨でも自転車通勤していた。でもあの時はあれしか方法が無かったのだ。 我が宮城県は稲作の先進地だから稲わらも大量に出る。それに冬でも雪が少なく、外に出してある「わら」が乾燥して良質なのだそうだ。その稲わらが全国の畜産農家へ飼料として渡っていたとはねえ。それを牛が食べてセシウム汚染につながったんだ。果たしてどれだけの牛肉を食べたら体に影響が及ぶのか。その安全基準はどうなんだろう。 つい最近問題になったのが腐葉土。これは栃木県の園芸業者で、落ち葉の採集地は栃木県北部だった。結局汚染の原因は原発事故直後の風向きと、数日後の降雨だろう。雨が降ったことで汚染物質が地上にあるものに付着した。腐葉土と土の混合比率、植物が土壌から吸い上げるセシウムの比率、そして野菜を摂取した際に人体へどう影響するのか。 腐葉土の汚染はかなり高濃度だったようだが、最終的な人体への影響はさほどでもないと思う。稲わらにしても腐葉土にしても、国の安全基準はまだ出来ていない。今後の整備が待たれるが、特に福島県産の農産物の風評被害は甚大。福島県では今が桃の最盛期。「赤月」とか「川中島白桃」など優秀なものが多いが、福島県産の桃を「お中元」として送ることを郵便局が取り扱っていない。 先日妻がHCへ「よしず」を買いに行った。連日の猛暑で参ったのだろう。ところが在庫もなければ、入荷の予定が立たないとか。理由は日本一の「葦」の産地である北上川河口が、大津波で被害を受けたこと。刈り取った後には津波でもたらされた海砂が10cmも堆積して芽が出ず、刈り取ってない場所は瓦礫で目茶目茶。業者の話だと、今後数年は商売にならないそうだ。 北上川河口の葦は品質が良く、金沢兼六園の東屋の葺き替えなど、全国から注文が殺到するとか。それが全滅に近い状態では、「よしず」の入荷は望み薄なのかも知れない。地震や津波は天災だが、放射能汚染は人災そのもの。今後の対策をしっかりしてもらわないと、国民は安心して暮らして行けない。大震災の影響が一日も早く治まることを願っている。
2011.07.28
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震災を受けた家の修復工事が進み出した。3月の震災直後は屋根にブルーシートを掛けるのすら大変だったし、その後も人手が足りないのか修復工事が進まなかった。それが最近では、屋根瓦の修復や、擁壁の修復などが目立つ。ひょっとしたら被災証明が取れ、地震保険が下りたせいもあるかも知れない。ささやかだが、我が家でも地震保険金が振り込まれた。 3か月ほど休んでいた映画館が、ようやく営業を再開した。きっと10ほどあるホールの幾つかが地震で壊れたのだろう。津波の被害が大きかった気仙沼港に最初のカツオ船が入港し、たくさんのカツオが水揚げされた。少し遅れて女川港には、キチジなどの高級魚が水揚げされた。だが、福島の小名浜港へ入ったカツオ船は1隻も無い由。みな風評被害を恐れて水揚げしないのだ。同じ海域で獲れたカツオだというのに。 東京電力の福島第1原発では多大な被害が出、今でも放射能汚染対策で四苦八苦している。それが東北電力の女川原発では、ほとんど被害が出なかった。後80cmの所まで津波が来たが、辛うじて被害を免れたのだ。女川原発建設に際し、本社により厳しい立地条件を要求した人は、その後左遷させられたとか。かなり予定より高額な工事費になったためだ。 その人がその後どうなったのかは知らないが、会社は今頃感謝しているのではないか。もし当初計画通りの立地なら、きっと多大な被害を出し、会社は大きな損失を出したに違いない。その東京電力も東北電力も、先日の株主総会では一部の株主から求められた原発からの脱却は承認されなかった。簡単に他のエネルギーへ切り替えることが難しいのだろう。 地震や津波で落ちた幾つかの橋に、仮の橋が架かった。私が一昨年走って通った「新北上大橋」も橋げたの一部が落ちたようだ。水面までは10m以上もあり、長さ250mほどの巨大な橋が落ちるほど津波が巨大だったことに驚いた。その北上川河口でも、シジミ漁が再開されたようだ。 さる方のブログが再開された。被災後100日目を期しての再開だったようだ。その美しいブログに驚くべきことが書かれていた。津波で亡くなった方の指が切断されていた話だ。指を切ったのは、指輪を盗むため。その話は噂話としてEちゃんから聞いていた。そして避難所でレイプがあったとの話も本当だった。気仙沼で犯人の一人が捕まったのだ。人の弱みに付け込むとんでもない犯罪だ。 就任後9日目の松本復興相が自ら辞職した。被災地の県知事と話すのをニュースを観て驚いたのだが、非難の渦に飲み込まれ、辞めざるを得なくなったようだ。確かにあの言葉づかいは非常識ではあったが、連日のマスコミの「辞めろコール」に驚いたのも事実。今の日本の政治は最早「人気取り」でしかない。そしてマスコミの論調の低俗さを同時に嘆きたい。
2011.07.07
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皇太子殿下と妃殿下が宮城県内の被災地を訪ねてくれた。少し前には天皇陛下と皇后様がわざわざ慰問してくれた。いずれも避難所へ寄られて被災者へ言葉をかけられている。最近の政局では時期を限った大連立論が出ているが、国会議員にはもっと被災地の現状を見、素早い対応を取って欲しいと思う。 宮城県の石巻市立大川小学校では、74名の児童と3名の教師が津波の犠牲になっている。亡くなった児童は全校の70%に相当するようだ。大津波警報が発令されたにも関わらず、40分間も校庭で対策を検討していたのが犠牲者が多かった原因とか。4名の児童は、学校の裏山に登って助かった。父兄が学校の責任を追及する気持ちが良く分かる。 あの日は雪が降るほどの寒さ。教師達は校庭に生徒を集め、焚き火の準備も検討していたようだ。私は一昨年の夏、その小学校の前を通った。石巻市から気仙沼市までマラニックをした時だ。学校の目の前を流れているのが北上川。悠々たる大河で、新北上大橋の上から見ると、川面までは10m以上もあった。それに川幅は100mほどもあったと思う。 それがあの土手を乗り越えて大勢の児童を飲み込んだのだから、津波の高さは相当のものだったのだろう。その原因は北上川の河口がラッパのような形をしていること。リアス式海岸独特の地形が、思いがけない高さまで津波が到達した理由だと思う。それにしても大勢の教師が、何故直ぐに児童を避難させなかったのか。やはり油断があったとしか思えない。 町がほぼ壊滅した南三陸町では、仮設住宅に当選した被災者のうち約70%が住宅に移住しないため、役場が困っている由。仮設住宅に入ると、食料の配布が受けられなくなるというのがその理由。分からなくもないが、抽選漏れの人は入りたくても入れない状態。仮設住宅の場所が通学や通勤に不便な町村も多く、新たな問題になってるようだ。 仙台市地下鉄東西線の工事が今月の下旬から再開される。3か月以上ストップしていたのは、予算を他の事業に廻すべきとの意見があったからだろうか。ともあれ当初の計画通り、2015年の開業を目指す由。近所の道路工事はストップしたまま。工期は延長されたが、全く手つかずで長引きそうな気がする。 今日は循環器病専門医での検査日。採血の結果、血液の「サラサラ度」は改善されたようだが、今後も薬を飲む必要がある由。トレッドミルに乗っての運動負荷試験では、薬の服用で治まっていた不整脈が顔を出したようだ。そしてスピードを上げると血圧もかなり上昇した。 検査後、この一週間は血圧降下剤を飲まなかったことを話した。ドクターによれば、これまでのレースでも不整脈が出ていたと考えられるが、長い間の訓練で違和感を感じなかったのではないかとのこと。運動能力はかなり高く、100kmマラソンへの出場は禁止されなかったが、水分を十分に摂取し、体調に変化が生じたら無理しないことを厳命された。 扁平足による不調、緑内障による視力低下、そして今回の不整脈と、老化に伴う障害が一気に噴き出した感がある。これからはあまり無理せず、レースを楽しむことを優先しようと思う。それも後どれだけ自分に時間が残されているかが問題。自分自身の復興計画は、どうやら前途洋々とは行かないようだ。
2011.06.06
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東京電力の発表によれば、福島原発第一の1号機は、東日本大震災の16時間後、つまり翌朝には既にメルトダウンしていたようだ。そんな重要な情報が2カ月経たないと分からないとは不可解な話。まさか国民を欺いていたわけではないだろうが、電力会社も、それを信じていた政府も事態を軽く見過ぎていたのではないか。 第1ビルのさる企業のトップ2人、会長と社長が防災服を着て本社に向かった。本社は今回の大震災で莫大な赤字を被った。それ以上に今後の対策をどう立て直すか、すべての関連会社の重役を交えて協議に入ったのだろう。普段はスーツ姿しか見せない彼らが防災服を着ても似合わないけど、社運を賭け必死なんだろうなと感じた次第。 大震災に関連して、軽微な犯罪の容疑者を釈放した福島地検の検事正が、本日付で異動した。これは実質上の処分らしい。軽微な犯罪者の中には、やくざや性犯罪者も混じっていたそうだ。そんな人を震災のどさくさに釈放した感覚がやはりおかしいと言わざるを得ない。君達は厳正なる法の番人なんだから、もっとしっかり見張っててよね。 市域の約半分が津波に浸食された宮城県岩沼市では、流された瓦礫を海岸部に集めて堤防を構築し、今後の津波に備える防災計画を立案したようだ。今後国や県の災害防止策との整合性についても照査するようだが、それにしても「邪魔なもの」を市民の安全確保のために再利用しようとする試みが斬新。市長の学生時代を知っているが、頭部は薄くなったもののあの頑張りは立派。 震災の津波で道路に打ち上げられた漁船を、北海道の造船所が特殊な機材を使って海まで運んだとのニュースを観た。東北の漁船は今回の震災で全体の9割が被害を受けた。中には新造船が幾度も橋脚にぶつかり、橋を破壊したケースもあった。だが、修理すればまだ使える船もある由。漁業復活のためにも、何とか船を海に戻し、漁師の生活を守って欲しいと願う。 海の男と言えば釜石シーウェイブスのラガーマンも熱い。元新日鉄釜石のV7は余りにも有名だが、彼らは解散後現在のクラブチームになった。昨日関東学院大学チームを招待して、震災後初めての練習試合をやり、見事勝利を飾ったようだ。この試合には往年の名選手松尾雄治氏なども応援に駆け付けたとか。震災で苦しむ市民の希望の灯になってくれたら嬉しいねえ。
2011.05.16
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「東日本大震災」が起きて、今日が2カ月目になります。3月11日(金)から仙台市内は停電となり、地震と津波による被害の様子は携帯ラジオでしか知ることが出来ませんでした。それも仙台港に10mの大津波が来襲。仙台空港が津波に襲われ、旅行客達はビルの3階に避難したことなどを断片的に聞いただけでした。 そんなわけで地震や津波による激烈な被害の様子を映像で見たのは、かなり後になってからです。町全体が消え去った南三陸町の無残な姿、津波に飲み込まれた岩手県の太平洋側の港町、海岸の松林の上を越えて来た津波で大勢の死者を出した仙台市若林区荒浜の惨状、飛行機が津波に流される仙台空港、津波による火事で燃える気仙沼市内等々、生々しい映像に胸を傷めたものです。 連休中の5月3日、私はマウンテンバイクに乗ってとある港町を訪ねました。名取川の河口にある名取市ユリ上(ユリは門の中に水)です。往きは名取川の右岸を走りましたが、ユリ上が近づくにつれ、河原には津波で運ばれて来た瓦礫が目立つようになり、「仙台東部道路」から先の住宅地はほとんど津波で破壊されていました。 それがユリ上の集落に入ると風景が一変し、まるで廃墟と化しています。田圃のようになった地面に折り重なる自動車。動いている人影は自衛隊の捜索隊くらい。彼らは行方不明者を必死に探しているのです。ある個所からはロープで塞がれていましたが、私は抜け道からユリ上の港町に入りました。ロープは空き巣狙いの阻止のためです。 海岸部の住宅はほとんど津波で破壊され、残っている家も1階は目茶目茶です。特に港と貞山堀沿いの一角は、コンクリート製の建物が全壊しています。ほとんどが水産加工場です。あれだけ密集していた住宅が全部無くなって、ずっと先の方まで丸見え状態でした。1月のマラソン会場である「サイクルスポーツセンター」までは行きませんでしたが、海岸沿いのため恐らくは大変な被害を受けたものと思われます。 帰路は違う道路を通りましたが、消防署や中学校なども大変な状態。私の従兄もユリ上の病院に入院していたのですが、津波で亡くなっています。警視庁の機動隊が交通規制をしていたため裏道を通ってユリ上大橋に出、通行止めの橋を渡って対岸に出ました。橋の上には小規模の亀裂と陥没が見られました。 橋を渡ると仙台市若林区。左岸の堤防上から藤塚、種次、今泉の集落を見ながらペダルを踏みましたが、やはり津波による瓦礫が凄く、とても農業は出来ない状態でした。津波は「仙台東部道路」の土手でかなり食い止められたと聞いてましたが、土手のない橋脚部分から浸水した個所もあり、予想以上の惨状でした。 海水に浸かった田圃は後何年か稲作は無理のようで、市域の半分が津波にやられた岩沼市など4つの市では、農家の集団移転計画もあるようです。また海水に浸かった田圃の跡地を使って、「水耕栽培」による野菜作りを考えている企業もあるようです。他の被災地では、瓦礫の中から拠り出した木材を燃料として再利用する試みも行われていると聞きました。 私が訪れたのは広大な被災地のほんの一部だけで、県下には未だに水道やガスが回復してない悲惨な地区や、まだ見つかってない遺体が多数あります。福島原発の放射能汚染のために避難している方々の苦労も大変なものでしょう。そのことを決して忘れず、被災者の方々に一日も早く安寧の日が訪れるよう祈りたいと思います。
2011.05.11
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昨夜は久しぶりに「ケルティックウーマン」の美しいハーモニーを聞いて眠った。このところしょっちゅう起きていた深夜の余震が珍しく鳴りを潜めたせいか、ガレージに出していた愛犬も静かに朝を迎えた。こんな平和な朝がずっと続いてくれるととても助かる。 今日は待ち兼ねた帰宅ランの日。上はTシャツだが下はランパン。気温が上がったため、上もランシャツで良くなったかも知れない。元大手門の所から青葉城方面に曲がろうとしたら前回とは様子が違う。緩かった柵が全面的に固定され、中に侵入する隙間が無くなっていた。仕方なくT大の構内から工学部のある山へと向かう。 所々に咲いているのはヤマザクラか。先の大地震ではT大もかなりの被害を受けたと聞く。特に理学部、工学部、大学病院、各研究所など超高額な実験装置や医療器具が破損したようだ。交差点から青葉城方面へ左折し、理学部植物園の裏手を走る。ここの原始林は天然記念物に指定され貴重な動植物の宝庫。青葉城の「御裏林」として、数百年以上人の手が加わってないためのもの。 汗をかきながら走っているとバイクの小母ちゃんに呼び止められた。ヘルメットを脱いだ顔はO友さん。職場に向かう途中だが、やはり遠回りしたようだ。いつもタイムを計る地点で時計をチェックすると7分以上遅い。きっと1km以上余分に走ったのだろう。遊園地裏手の坂道で、紫色の花を見つける。カタクリの群落だ。動物公園のトイレを借用し、後はずっと下り坂。 新しいシューズの違和感はやはりある。慣れるまでには痛みが出る可能性も。私が指定したのは4Eの幅広いものだったのだが、実際に手渡されたのが4Eかどうかは確認しなかったのだ。ひょっとしたら2Eのようにも感じるが、もう取り換えることは困難。私の不注意が原因なので怒るわけにも行かない。 ソメイヨシノが散りかけた分、柳の青さが目立つ。我が家の庭では白いイカリソウとやはり白のハナズオウが咲き出した。貧しい庭ではあるが、1年で今が最も花が多い季節。震災後貯まりに貯まった「プラスチックごみ」の袋を3個物置から取り出して、ガレージへ運ぶ。 さて、宮城県が作成した「街作り復興案」の概要が昨日発表された。これは政令指定都市である仙台市を除いて、被害が大きくかつ復興計画作りまで手が回らない沿岸部の14市町村を対象にしたもの。その概要は1)平野型(名取市、岩沼市など)a海岸部には厚めの堤防を築く。 b海岸とほぼ平行に複数の道路を新設。この際高さをかさ上げする。c景観上道路と道路の間に田圃を残す。 2)リアス式海岸型(南三陸町など)a海岸部に高層の避難ビルを構築。 b低地に防災公園を設ける。c高台に住宅地を移転。 3)都市型(石巻市、気仙沼市など)a海岸部に水産工場や魚市場などの産業集積地を集中させる。 bかさ上げした道路で内陸部の居住区を津波から守る。(新聞記事から抜粋) これとは別に、気仙沼市、東松島市、名取市、岩沼市の4市にある沿岸9地区では、津波で生じた農地の塩害により、内陸への集団移転を検討中とか。移転を希望する農家は目下1400世帯に上る由。各市と農家との間では、既に移転の合意も成立しているようだ。農家は逃げられても漁師は海の傍を離れられない。海岸部での避難場所の確保も今後の重要な課題になろう。
2011.04.26
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警視庁のパトカーが3台連なって市中を走った日。そして、京都府警のパトカーが5台連なって大通りを走った日。見慣れた宮城県警ではなく、他県のパトカーが何台も市内をパトールする姿には違和感を感じたが、大震災があったからこそ観られた光景だろう。 上水道の復旧に際しては、遠く福岡市の水道局から支援の手が差し伸べられたし、都市ガスの復旧に際しては、東京、大阪、名古屋などから大部隊が応援に駆けつけてくれた。1万人を超える行方不明者の捜索には米軍などの協力があったし、震災後の医療に関しては世界各国の援助があったことを忘れてはならない。 第1現場の向かい側にあるビルがほぼ完成した。だが、このビルは当分空いたままとか。折角植栽などを施した美しいビルが出来たのに、何故直ぐに移転しないのか。その理由は持ち主が保険会社であるため。つまり予想もしなかった大震災の発生で、会社は膨大な保険金の支払い事務に忙殺され、移転どころではなくなったのだ。こうしてがらんとしたビルが今日も所在なさそうに佇んでいる。どこか違和感が残る風景だ。 愛犬マックスの様子がやはりおかしい。深夜トイレに起きた妻が観たのは、彼が玄関でグルグル回っている姿。相次ぐ余震で情緒不安定になったとも考えられるが、老化に伴う惚けの症状とも思える。人間に当てはめれば「徘徊老人」そのものか。精悍だった彼にもついに老化現象が起きたと思えば悲しいが、誰にでもいつかは訪れる現象と思って容認するしかない。 大学時代の同級生I君から挨拶状が届く。先月末で定年後に勤めた職場も退職した由。彼の別荘が海沿いにあったため震災後の消息が気になっていたが、津波で別荘は失ったものの、本宅と彼自身は無事だったようで一安心。他にも海沿いに住む高校時代の同級生や大学時代のクラスメイトが居るのが気がかりだ。千葉のK氏から高級ミカン、徳島のYさんからお菓子や若布などの震災見舞いが届く。篤い友情に感謝するのみ。 昨日走れなかった分今日の帰宅ランを楽しみにしていたのだが、天候の急変でバスで帰ることに。本当は新しいシューズの履き心地を試す予定だったのだが、とても残念。歩いただけでも堅い感じで少々違和感があり、実際に走ってみたらどうなるか。確認は明日以降に持ち越しになった。 震災後の失意の中で読んだ宮城谷昌光の「管仲」上下巻がとても面白かった。彼の小説は歴史を超える真実味があり、登場人物の魅力は形容のしようがないほど。荒廃した心がこの小説に救われた。高校1年の漢文で学んだ「中帯鉤」(たいこうにあつ=ベルトに当たる)の一文が、古代中国の春秋時代に主人公の管仲が斉の公子である小白(後の桓公)を矢で射た際の逸話だったことが判明。52年ぶりに謎が解けた。
2011.04.25
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昨日のJリーグで、ベガルタ仙台は2-1で川崎フロンターレに逆転勝ちをおさめた。あの大震災でJリーグも日程の変更を余儀なくされた。ベガルタのホームであるユアスタも地震による被害があり、本拠地でのゲームは今月の29日。奇しくも楽天の地元での初戦と一緒の日なのだ。ベガルタの昨日現在の成績は、暫定で4位。今後の復興にはずみをつけるためにも、大いに活躍して欲しいと願っている。 昨夜の東北楽天は日本ハムとの第2戦。先発の永井が好投し、3対3の同点で最終回を迎えた。9回表は片山が0点に抑え、残された9回裏の先頭バッタールイーズが、何とサヨナラホームランを打って決着をつけた。彼は今季1割にも達しない打率。本来ならば2軍へ落されても文句を言えない立場。だが星野監督は黙って起用し続けたのだ。その辛抱が産んだ一打で、再び貯金1。ベガルタ同様、被災地の希望の星として、このまま頑張って欲しいものだ。 今日は朝から徐々に天気が回復。朝食後は例によって畑と庭の草取り。そして畝に残っていたチヂミ菜を始末し、スコップで耕す。蕾菜の収穫はこれが最後。全部で10回ほど摘んで食べるた貴重な野菜だった。鶏糞と石灰を撒いて、後は苗を植えるだけの状態に。 10時から町内会の総会へ。急遽集会所を避難所にして対応した先日の震災など、昨年度の活動状況が報告された。今年度も震災など災害への備えとして、予算を組むことが承認された。もめたのが役員人事。我が町内会でも高齢化問題の影響をそのまま反映し、役員の成り手がいない。今後1年間で選出の方法を見直すことになった。 30周年記念の「買い物袋」をいただいて退散したが、3時間近くかかった熱心な討議ですっかり腹ペコ。昼食に連日の激辛ラーメンを食べ、直ちにホームセンターへ向かう。買ったのはトマト6本、ミニトマト3本、カラーピーマン3本、ゴーヤ3本。帰宅後、予め計画した案に基づき苗を移植。さらに空いた畝へ、キュウリ、インゲン、大根の種を蒔いて潅水。これで夏野菜の植え付けはほぼ完了。 先日福島県まで実兄の手掛かりを探しに行った義兄だが、意外なことが判明したようだ。1カ月以上音信不通で死亡したと思われたのが、何と親子3人が東京で無事暮らしていた由。その背景には複雑な事情があるようだが、ともあれ生存が確認されて一安心。それにしても、大津波による放射能汚染問題がなければ、こんな騒ぎにはならなかったはず。 そんな中での嬉しいニュースは、日本文学研究の第一人者であるドナルド・キーン氏(コロンビア大学名誉教授88歳)が日本に帰化する話。彼は今回大震災を受けた日本人と行動を共にする決意を固めた由。震災後の苦難の中でも、何とか正常な教育活動を目指す日本人を見て、心中感じるものがあったようだ。近く東京都北区に居を移し、石川啄木や平賀源内の研究に余生を捧げるとのこと。こんな日本でも、まだまだ捨てたもんじゃないね。
2011.04.24
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ある方のブログが更新されなくなって久しい。普段は素敵な園芸の写真が中心だったブログが、震災後は津波による被害を冷静な目で捉えていた。だからよもやその後に被災したことは考えられなかったのだが、私のブログに良く訪ねて来て下さるYさんがメールしたところ、被災した友人宅の補修を連日手伝っておられたことが分かった。 その方が誰かは知らないが、同じ仙台市内に住む女性であることは分かっていた。これで一安心。そのような理由であれば、更新されずにいても心配しないで済む。ヒット件数が100万件を超える人気ブログだけに、出来れば一日も早く美しい映像を見せて欲しいと願っている。 今週の水曜日、4月20日に東北本線が全面開通した。今日22日(金)は仙山線(仙台~山形間)が全面開通。連休初日の29日(金)には、東北新幹線も復旧の運びとか。仙台市内の広瀬川に架かる鉄橋の上で停止したままだったMaxやまびこが、今日42日ぶりに移動したようだ。これで通勤や旅行などが、グッと楽になると思う。 ただ、被害が酷かった仙石線(東塩竃~石巻間)や、常磐線の一部(岩沼~いわき間?)は、全く復旧のめどが立っていない。特に常磐線は福島原発の直ぐ傍を走っているだけに、修復工事すら出来ないのではないか。岩手から福島にかけての太平洋沿岸部の復興までに、果たしてどれくらいの年月を要するのだろう。 昨年の11月に営業を停止した仙台の旧Eホテルの持ち主が、同ホテルを大震災で被害を受けた方の避難所代わりに使用してもらうプランを出した。その清掃を請け負ったのが我が社で、今日早速施設内の清掃を行った。仙台市内への通勤者が多い石巻市が、これを受ける意志を表明したようだ。役に立つものは何でも利用する。こんな時は先ず行動することが大切だと思う。 書店を覗いたら、東日本大震災関係の写真集が5種類ほど発売されていた。そのうち価格と内容が適切だと思えるものを1冊だけ購入した。まだ見たことのない写真がたくさん載っているこの特集は、きっと忘れられない思い出として記憶に残るはず。 牡鹿半島と金華山との間の海峡が、大地震による津波で海底まで見えた映像がテレビに映ったとの話を聞いた。それはまさしく私が走友会のF田会長から聞いた内容と同じもの。会長が話していた登山客が撮った写真に間違いない。幅3kmの海峡が底まで見えるなんて話は、世界でも珍しい滅多に起きない事象。貴重な映像が出て来る可能性が、まだ残されているのかも知れない。
2011.04.22
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