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岡山で借りたレンタカーは電気自動車。7割引きだったとか。車は一路海岸部へと向かう。国道2号線からやがて水島コンビナート方向へ。ここは日本でも有数の工業地帯。以前には環境汚染が問題になったようだ。 さて今回欠席したのは4名。F森さんは心臓の調子は良くなったものの、今は大腸に問題発生とか。F田さんは長男が急病で入院した由。T田さんはイタリアへ旅行で、K沼さんは神社の祭りの準備らしい。 ここがホテル。オーナーはドックの持ち主とか。金曜日に会合を持つのは今回が初めてのこと。ほとんどが無職の暇人なので、何も土日でなくても良い訳だ。そしてその方が料金が安いと幹事のH瀬さん。私たちは筑波勤務当時の麻雀仲間。それになぜか麻雀をしない人まで加わって、年に1度会合を開いている。幹事は前年の大会の優勝者が務めることになっていて、岡山在住のH瀬さんが今回は面倒見てくれたのだ。 去年久しぶりに茨城県の筑波山で会合を持った時は、大先輩のS﨑さんやK原さんも参加してくださった。その時の雰囲気が良かったと言う理由で、S﨑さんはわざわざ今回も参加してくださった。御年86歳。茨城空港まで自分で車を運転し、神戸まで飛行機で来られた由。麻雀をしないN澤さんは、会合の都度観光を兼ねての参加。奇特な人だ。残りの5人は、かつて麻雀仲間の悪友たちだった。 宿泊室はいずれも海が見える部屋。一つの部屋に集まって、早速飲み会が始まった。私が持参した宮城の酒、T村さんが持参した茨城の酒、そしてH瀬さん差し入れの地酒。いずれも馥郁たる銘酒で、皆はどんどん飲んだ。酔いが回るにつれ、私は昨年末の手術と最近の体調などを全部吐露した。冷酒が効いたようだが、酔って高揚していた私だった。 夕方の6時から食堂で夕食と宴会。先ずは冷えたビールで乾杯だ。思い出話に花が咲く。これまで会合を持った場所は、宮城県の鳴子温泉、秋保温泉、山形県の蔵王高原、福島の飯坂温泉、栃木県の鬼怒川温泉、茨城県の筑波山、東京の本郷、、岐阜の山奥の温泉、三重の津市内、滋賀の琵琶湖湖畔、そして今回が最も西側の倉敷市水島。他にも開催した場所があったかも。それに私が不参加の回もあった。 かつては全国から集まった同志であり、かつライバルでもあった。だが、卑怯な男は誰もいなかった。仙台出身の私など、足元にも及ばないような秀才ぞろいで、彼らの多くは国立大学や有名私大を卒業し、上位の試験合格者だった。そんな男たちがある時期筑波に集まり、国内でも類例のない優秀なシステムを作ったのだった。厳しくも懐かしい思い出だ。 その後部長になった者、課長になった者、地元に残って課長補佐で終わった者など様々だ。だがそれはたまたまのこと。優秀な者は研究者として教職にも就いた。そして皆それぞれに歳を取った。そのメンバーがこうして年に1度顔を合わせ、酒を酌み交わし麻雀を楽しむ一時。 私は酔った。部屋で飲んだ冷酒が効いたのだ。そして宴会が終わると同時にトイレでリバース。いつもは弱い酒を一杯飲むだけなのが、今日はかつての仲間と会った嬉しさに、つい杯が進んでしまったのだ。それもまた良し。腹の中のものを全部吐き出して、私はむしろすっきりしていた。 第2部は麻雀大会。今回は面子が足らないため1卓のみ。最初に抜けた私は風呂に入りに行った。腹には何も入ってないのに、全く空腹感はない。まだアルコール分が残っていたのだろう。抜けたK間さんの後に入り、それから半荘3回した。最初は大敗続きだったが最後の回でトップになり、何とか辻褄を合わせた。 優勝者はまたも岡山のH瀬さん。だが2位のK村さんが来年の幹事となり、東京周辺での開催になった。一番遠い私の旅費を心配したのかも知れない。昔なら当然徹夜で朝まで戦ったのだが、年老いた今は翌日の行動を考え1時半で就寝。それぞれが安らかな眠りに就いたのだった。<続く>
2016.09.06
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新幹線を乗り継いで西へと向かう。今回は大きな出来事があった直後だけに浮き浮きした気分ではないが、やはり人に会う楽しみはある。それに東北とは違った風景が見られるのが嬉しい。 「のぞみ」で東へ向かったことはあったが、西へ向かったのは今回が初めてだったのではないか。この日の約束は岡山駅へ3時集合。それに間に合う、東北新幹線と東海道新幹線を探していた。「のぞみ」の車内で景色を見ながら、朝コンビニで買ったお握りとサンドウイッチを食べる。 これはどこあたりだったか。平凡な風景も旅に出ると新鮮に目に映って、私はどうしても写真を撮りたくなってしまうのだ。きっと常に何かブログのネタを探しているのだろう。だが、折角「関ケ原」を通り過ぎたのに、眺めていただけで写真を取り忘れたのが残念だ。今年の大河ドラマは『真田丸』。間もなく関ヶ原の戦いの場面が始まりそうだ。 これは滋賀県の伊吹山。新幹線の目の前に特徴のある山容が見え出す。ここは琵琶湖の湖水を通って、日本海から強い風が吹き込む地峡。そのため、標高の割には花の種類が多いと聞いた。山の西側では、相変わらず石灰岩を掘り出していて、山の形が少しずつ変わっている。 黄色く色づく滋賀の田圃。所々に稲刈りが終わった田圃も見えた。東北よりは早く色づいた田圃。帰りの新幹線では石田三成の居城「佐和山城」の看板を見つけた。姫路城はちらっと見えただけで、カメラが間に合わなかった。帰路、岐阜城があった稲葉山が遠くに見えた。歴史上のドラマを想定しながら、風景を見るのも楽しいものだ。 京都では「京都タワー」を撮ろうとしたが、建物が邪魔になってあっと言う間に隠れてしまった。そこで京都駅が過ぎてから比叡山らしき山を撮った。京都は2人の方のブログを通じて色んな寺社の風景や伝統行事を楽しませてもらっている。そのうちにゆっくり出かけてみたいものだ。 神戸も過ぎた。明石海峡も過ぎた。姫路城は猛スピードで走る車内からちらっと見ただけ。そうこうしているうちに「のぞみ」は岡山に近づいた。実は東京のK村氏が車内を見回りに来て、同じこの列車に茨城のT村氏と千葉のK間氏も同乗していたことを知っていた。2時27分、岡山に到着。改札口を出たところで待っていると、やがて総勢7名のメンバー全員がそろった。<続く>
2016.09.05
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昨日の朝ブログを更新した後、楽天ブログに入れなくなった。そこでニューシューズを履いて走りに行った。走るのも久しぶりだし、朝ランも久しぶり。でもなぜか私には走れるとの確信があった。と言っても選んだのは9kmのコース。これなら大丈夫だろうと言う感覚をちゃんと保ち続けていられるのが奇跡みたいなもの。生きていることに感謝。走れることに感謝。気持ちの良い朝の道だった。 朝食後にパソコンを開けると、大橋巨泉さんの訃報が目に飛び込んで来た。享年82歳。テレビ界で一世を風靡した彼も、晩年はがんとの闘いで4回も手術を受けたようだ。15歳若い奥様が「11年間の闘病生活にアッパレ!を上げて」とコメントしていた由。あのふくよかだった彼が、壮絶な闘病生活と老化で、顔の表情が一変していたのが哀れ。謹んでご冥福を祈りたい。合掌。 日本人宇宙飛行士の大西卓哉さん(40歳)が先日、宇宙から日本語で挨拶する姿を観た。ロシアの宇宙船ソユーズで宇宙へと飛び立ち、その後ISS(国際宇宙ステーション)とのドッキングに成功し、日本人として11番目の宇宙飛行士となった彼は、元全日空の副操縦士。少年時代から宇宙に行く夢を追い続け、本当にその夢を実現した。10月下旬までISSに滞在し、様々な実験に従事する由。 なでしこジャパンの中心選手だった澤穂希さん(37歳)が妊娠したとの朗報に接した。ごく最近まで若手の見本として活躍した彼女。その彼女が結婚した相手がプロサッカーJ1ベガルタ仙台の運営・広報部長を務める辻上裕章さん。今夫妻は仙台市に住んでいる。出産は来年1月の予定とか。同じ仙台市民として、心からお祝いを申し上げたい。澤さん、辻上さん、どうもおめでとうございま~す。 映画『嫌な女』を観た。女優黒木瞳の監督初作品だ。子供の時から何かと張り合って来た同い年の従姉妹同士。地味な娘(吉田羊)は派手な娘(木村佳乃)にいつも酷い目に遭わされて来た。その関係が大人になってからも続き、頑張って弁護士になったものの詐欺師紛いの従姉妹に振り回される。おまけにどちらも×1なのだ。そんな中で弁護士として、人間として成長して行く。 私が吉田羊を最初に観たのはNHKの朝ドラ『純と愛』だった。ホテルのクールなチーフ役。陰のあるスタッフ役の黒木華と合わせ、主役の夏菜を完全に食っていた。今彼女は20歳も年下のBFとの逢瀬をスクープされ、話題になっているのだとか。年齢不詳のクールな女優もとうとう年貢の納め時なのだろうか。映画は決して『嫌な女』ではなかったのだが。 続いて映画『クリーピー 偽りの隣人』を観た。これは法政大学教授で「日本ミステリー文学大賞新人賞」を受賞した前川裕の小説を映画化した作品。監督は世界の注目を浴びている黒沢清。主な出演者は夫婦役の西島秀俊と竹内結子。不気味な隣人役の香川照之、警察官の笹野高史、東出昌大など。 離婚の危機を迎えた夫婦が転居先で、不審な行動をする隣人の犠牲となって行く。この不気味な隣人は異常な性格の持ち主で、大きな犯罪を隠している。夫婦が被害に巻き込まれる過程が凄惨。そして変質者役の香川の表情の変化に息を飲んだ。手に汗握るドラマの結末は書かないでおく。映画では設定を変えたようだが飽くまでも架空の話で、実際に起きた犯罪ではないそうだ。 月末の東京都知事選まで残り10日となった。主な候補者は無所属で防衛大臣などを務めた小池百合子さん(64歳)、自民、公明など与党の推薦を得た元総務大臣の増田寛也さん(64歳)、そしてジャーナリストで野党4党の統一候補となった鳥越俊太郎さん(76歳)の3人。私は東京都民ではないが、三者三様の戦略と個性に注目している。 だが有体に言えば、都政に憲法改正論議の是非など持ち込む必要があるのかどうか。どんな手段でも都民の目を引き、最後は勝てば良いみたいな戦略が適切なのかどうか。途中まで立候補を表明していた俳優石田純一氏や日本弁護士連盟会長宇都宮氏の動きは一体何だったのだろうか、全く腑に落ちないのが実態。果たして都民がどんな判断を下すのか、最大のドラマを静かに見守りたい。
2016.07.21
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ある日、一人の老人が歩道の車止めに自転車をぶつけて転倒してるのに遭遇した。男は大丈夫かと尋ねた。老人は「十分避けられると思ったのだが、ぶつかった」と、力なく笑った。「俺もそんな危険性があるなあ」と男は思った。緑内障のため、視覚に欠損部分があるのだ。それに焦点距離が左右の眼で違うため、物が二重に見える。このため、走っていても良く躓く。足が上がらないせいもあるが、眼の影響が強い。最近は自転車に乗っていても危険性を感じることが増えていたのだ。 男が整骨院へ行くようになってから3週間経った。腰と左の肩に痛みがあったのだが、若い先生の施術で、かなり状態が改善したように思う。マッサージに電気治療、それにウォーターベッドと言う、マッサージ器での治療が中心だ。これで1回300円。保険が利いて1割負担なのが助かる。10回通っても3千円。通常のマッサージ師なら1回でもそれくらいは取られるだろう。これまで7回ほど通ったが、後3回は行きたいと男は考えている。 山形勤務時代に仲人をしたT君から挨拶状が届いた。本社(そうは呼ばないのだが便宜上)勤務だったのが4月1日付けで横浜に転勤した由。彼の実家は神奈川の大磯。18年前からいずれは神奈川に帰りたいと希望していたのが、ようやく実現したのだ。彼の父上は最近亡くなり、年賀状も母上の名前で来ていた。「結局俺は何も出来なかった。まあ頼まれ仲人だしなあ」。男は淋しそうな顔をしながら、T君へ「おめでとう」と書いた葉書を出したのだった。 かつて男は「お父さんの老後の面倒は見ないよ」と長女に言われたことがある。「四国に住む娘に世話になることはない」。その時男はそんな風に思っていた。そして今回は「お父さん、孤独死しても良いの」と言われた。「ああ、覚悟の上だ」。男はそう答えた。これまでは「どう生きるか」を考えて来たが、これからは「どう死ぬか」を考えることになるだろう。男はそんな風に思ったのだ。 「あれは最悪だった」。男がつぶやいた。四国の松山勤務の時、ある有名な神社で御神籤を引いたことがあった。結果は大凶。次男の県立高校受験は失敗し、次男は一人残って下宿から私立高校へ通った。男はその年の4月から大阪勤務になったのだ。その後次男は煙草を覚え、大学受験にも失敗した。東京の専門学校時代はサラ金から金を借りて友人とアメリカへ行き、その支払いに苦しんだことがあった。就職にも失敗して仙台へ戻り、アルバイトして過ごした時期もあった。 今は東京で派遣社員をしている次男が、あることを妻に話したそうだ。それを聞いた男は次男の成長を感じたようだ。「これまで何度も躓いたことが、きっと生きたのだろう」。「それに現実的な娘と違って男だけに、きっと父親の気持ちが分かるのかも知れない」。男はそんな風にも思ったのだ。 「東京の長男からは何の音沙汰もないなあ」。男は思う。妻との折り合いが悪く、最近は連絡もない。長男も公立高校の受験に失敗し、たまたま男が転勤した沖縄の私立高校に何とか合格した。勉強が嫌いな長男と次男は気楽な沖縄の暮らしに慣れ、本土に戻ると厳しい現実に打ちのめされた。専門学校や就職先は男が苦労して探したのだ。だが、その職場からも退職を勧告されるほどの勤務態度だったそうだ。男は友人に侘び、長男は一時仙台の自宅に帰って来た。 長女がこの家に住んだのは、花嫁修業の1年間だけ。長男、次男に至ってはわずか数ヶ月間の我が家だった。今子供部屋の一つを男が使い、他はたまに里帰りする次男が使い、もう一部屋は妻のアトリエ代わりになっている。「もう誰もここへは戻っては来ないだろう」。男はつぶやく。妻との間もしっくりしない男には、孤独死しか待ってないのかも知れない。「それもまた俺の運命」。それが最近の男の心境のようだ。 早朝のブログ。朝は玄関とガレージの掃き掃除。ベランダの掃き掃除。風呂の掃除。資源ごみの整理。畑から白菜の蕾菜収穫と冬の間土に埋めていた最後の大根2本の掘り起こし。植木鉢への水やり。そして趣味のランニング。昼は自分で麺類を作るのがここ10数年の慣習。もちろん自分の食器は自分で洗う。その他、布団や洗濯物を干し、乾いたら取り込んで自分の洗濯物は自分で処理するのも男の仕事。畑仕事や庭の草取りも、もちろん男の担当だ。 「これが結構俺の自立に役立っているし、今後も役立つだろう」。男はそんな風に思っている。事実単身赴任を3年間経験し、長男と2人だけ残った沖縄の3年目は炊事洗濯の全てを男がやっていた。「だが問題は年だ。それに今はまだ体調が良いのだが」。男の表情が少し翳った。それでも男には迷いがないようだ。「これからはどう死ぬかが最大の問題だな」。男はそう呟いて大きく息を吐いた。<続く>
2016.04.11
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3月31日。甲子園の選抜野球大会が終わった。この日は決勝戦。1対1の息詰まる戦いだったが、奈良の智弁学園が延長11回裏、香川の高松商業に2対1でサヨナラ勝ちの優勝だった。連日熱気の籠った戦いぶりが光った今回の大会だが、滋賀県で不快なことがあった由。滋賀県庁へ甲子園出場の挨拶に行った滋賀学園の学生に対して、「お前らなど1回戦で敗れろ」と言った県議がいた由。県の許可を得て停めていたマイクロバスを、違法駐車と勘違いして怒ったのが真相とか。多選の実力県議なのだろうが、実に大人げない行為だ。 3月31日はブログ友きっかい君の一周忌でもあった。彼は兵庫の障害者で、震災で奥さまを亡くされ、自身も病気で半身不随の重症。その体で通院を続けながらブログを公開していた。PCのキーも片手で操作していた由。そんな彼とはX氏のブログを通じて知り合い、死の直前まで毎日のように励ましの書き込みをしていた。常連は彼のお友達、私、京都のうさぎさんがほぼ毎日書き、徳島のじゅんじゅんさんがたまに書かれていた。 彼のブログの更新が途絶えておかしいと気づき、X氏に連絡した。彼はきっかい君の会社の先輩と言っていたからだ。だが返事がない。2回目の連絡にもなしのつぶて。これは異常だと3回目の連絡をした後、きっかい君の死をしった。亡くなる前の日までブログを更新し、そのまま倒れてしまったのだ。最後まで不自由な体で頑張り続けたきっかい君。冥福を祈って私はもう更新されない彼のブログに、最後のお別れを書いた。もちろん返事はなかったが。 その数カ月後X氏がコメント欄を閉じ、次いで私のブログを訪れなくなった。それまでも彼のブログに書いたコメントを消されたことがあった。X氏が教えてくれたことをそのまま書いただけだったのが、何か不都合なことがあったのかも知れない。1周忌のその日、私はきっかい君のブログをお気に入りから外し、X氏のブログも抹消した。祈りは人の心の中にあるもの。それに全ては天網恢恢。自分に都合の良い美談やPRは不要のはずだ。 3月のラン&ウォークは結局109kmに止まった。あることをきっかけに崩した体調。私は眠れなくなり、ほとんど自分の部屋に閉じ籠る毎日だった。そんな状態から何とか脱却しようとしたのは、そのままでは何にもならないと思い直したため。整骨院で施療を受け、かかりつけのドクターからは軽めの睡眠薬を処方してもらった。散歩やストレッチ体操なども復活させた。それで何とかこんな距離になったのだ。 歩いたのが10回で62km。走ったのが4回で47km。年間合計距離は375kmだから元気な頃の半分以下の距離だ。そしてこれまでの累計は86795km。走り始めてから37年目で地球を2周と7千km近く。これは減ることがないのが嬉しい。そしてこれらの運動によって、体重と体脂肪率がさほど変わらずに維持されているのも有難いことだ。 3月31日。四国から訪れていた長女と2人の孫娘が、この日成田経由で高松へと帰って行った。孫達は9年ぶりの仙台に嬉々として喜び、連日買い物を楽しんだが、長女は今回特命を帯びていた。四国の大学を卒業し、四国で就職し、四国で結婚した長女。彼女が結婚前の花嫁修業で仙台の我が家に戻り、ここで暮らしたのはわずか1年だけだった。同じように現在東京で暮らしている長男と次男も、仙台の我が家で暮らしたのは失業期間の数カ月のみ。 上の2人は私が東京勤務時代に生まれ、末っ子の次男は筑波勤務に生まれた。そして一家はその後、鳴門、沖縄、松山と私の転勤や長女の大学入学に伴って引っ越しを繰り返した。3人の子供にとって仙台の我が家は遠過ぎ寒過ぎで、どうやら本当の故郷にはならなかったようだ。6部屋もあるこの家に住むのは老夫婦の私達だけ。それがもし片方だけになれば、家の管理と維持は容易ではない。 昨日は4月1日。現役時代ならこの日から新年度が始まる、大切な日だ。実はこの日が私達夫婦の46回目の結婚記念日でもある。当時招待状を持参したら、怪訝な顔をされたものだ。4月1日は人事異動の重要な発令日。それに「エイプリルフール」の日でもある。だからきっと結婚式場が空いていたのだろう。おぼつかない私達夫婦のスタートだった。あれから46年。独身の頃も入れると、半世紀に亘る実に長い付き合いだった。どうもお疲れ様でしたね、お母さん。 3月末から庭や畑の整備を始めた。いつもの年よりは3週間も早い出だしだ。ブロッコリーの脇芽(左)はこれが最終の収穫物で、苗は全て抜いた。右は白菜の蕾菜だが、まだ6株ほどそのまま畑にある。畝や庭や花壇の雑草を2日に亘って抜いたが、今年は気温が高いせいか、次々に伸びて来るので油断が出来ない。空いた畝をスコップで掘り、堆肥、鶏糞、そして石灰を梳き込んで支柱も立てた。 左は葉ワサビの花。これはピリリと辛くて薬味になるし、天ぷらも美味しいようだ。右は雲南百薬。「雲南」とついてるが南米原産の健康野菜で、冬は植木鉢に植え替えて室内で育てていた。春になったので畝と支柱を整え、定植したのだ。今年で4年物の苗が2本、3年物が2本、2年物が2本と各世代を揃えてみた。粘り気のある葉で、お浸しなどにすると最高の味。これで6カ月以上の長期に亘って収穫することが出来る。 NHKの朝の連続ドラマ「あさが来た」は今日が最終放送。実に見応えがある歴史ドラマだった。幕末から明治にかけての混乱期。そんな時代によくもまああのような進取的でおおらかな女性指導者が育ったものだ。きっと家庭の指導が良かったのだろう。そして来週から始まる「とと姉ちゃん」は果たしてどんなストーリーなんだろう。4月はこんな風にして多くのものが交代する時期でもある。 「しまなみ海道ウルトラ100km」(広島県福山城~愛媛県今治城)2005年6月 3月の末で私は72歳になった。私にあとどれくらいの余命が残されているのかは知らないが、エイプリルフールにことかけて、小さな夢を記しておこう。先ずは新しいランニングシューズを買うこと。そして今年は体調を整え、練習で30km走れるようになること。そして機会があったら、外国のレースに出て走ること。実にささやかな夢だが、出来ればエイプリルフールで終わって欲しくないものだ。 今月末の走友会のお花見の参加申し込みを、4月1日にメールで申し込んだ。これは夢ではなく現実。大勢の仲間達と八重桜の下でワイワイガヤガヤ、一献傾けるのが楽しみだ。そして近所の量販店で携帯ラジオと目覚まし時計も買って来た。これも生活改善の一環。新年度は心を入れ替えて臨む時でもある。さあ、今朝はこれから大掃除だ~!!
2016.04.02
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大リーグのイチローが最終戦で投手を務めたそうだ。負け試合で4番手のピッチャーが足らず、イチローは自ら志願してマウンドに立ったらしい。結果はヒットを2本打たれ、1点を失った。41歳の彼だが、球速は143kmに達したそうだ。恐らくは来シーズンも戦力として期待されているのだと思う。でなければ今の時期は、将来のために若い選手を出すだろうから。 日本のプロ野球界では、ベテラン選手が引退することになった。中日の山本昌は50歳の老齢投手。とうとう彼にも引退の時期が来た。監督と補修兼任の谷繁は、監督に専念することになった。そして日ハム、巨人、中日と渡り歩いた小笠原は、引退して中日の二軍監督を務めるようだ。 熱血漢だった横浜の中畑監督も成績不振の責任を取って辞任することになった。今季は調子良く、一時はトップに立ったこともあった。来季の続投も約束されていたのに、潔く辞任するのは人柄だろう。阪神の和田監督も辞任し、後任には金本が推挙されているとか。我が楽天は大久保監督がわずか1年で辞め、ベテランの梨田が後を継ぐようだ。与田が投手コーチに就任するとの噂もある。来季こそ優勝を目指して欲しいものだ。 大体にして優勝したチームが、翌年から2年連続で最下位になるのがおかしいのだ。コボスタは来季から天然芝の球場に生まれ変わる。「楽天山」も普通の観客席に生まれ変わり、さらに充実するみたい。来年こそ一度は球場を訪れたいものだ。ベテランが辞める中で、ソフトバンクの松中選手はなお現役を希望して自由契約の道を選んだ。果たして採用してくれる球団があるかどうか。 ラグビーのワールドカップで、日本がサモアを下して2勝目を挙げた。だが、2勝1敗で並んでいる南アメリカ、スコットランドが上位2位に入り、日本は3位となっている。これにはこの大会の独自ルールである「ボーナスポイント」が影響している。トライ数が4つ以上の勝利だとボーナスポイントが付き、僅差で敗れた場合もボーナスポイント1点が与えられる。 日本の次の対戦相手はアメリカだが、もしこれに勝っても、南アフリカやスコットランドが勝てば次のステージに進出出来ない厳しいルールのようだ。もしも3勝しながら決勝リーグに進出出来ないとすれば、前代未聞のことなのだとか。日本は実に強くなったと思う。もし今回が無理だったとしても、次回にはさらに強いチームに生まれ変わるのではないか。 佐渡島で行われたバイクレースをテレビで観た。島の北半分を周回する140kmの部に出場した芸能人のレポートだった。どこか知ってる風景が出ないか、必死になって画面を観ていた。私は206kmのウルトラマラソン「佐渡島一周」に3度出て、3回とも完走している。最後の出場は66歳の時だった。 11度の勾配がある「Z坂」は懐かしかった。自転車で登るのも大変だろうが、走るのはさらにエネルギーを使う。画面には出なかったが、坂を登り終えると小さな橋があるのだ。そしてそこから北上する海岸の淋しい風景を思い出す。「大野亀」の懐かしい風景がちらっと写った。それだけでもう十分。苦しかったレースも、今は良い思い出だ。 先日サンマの塩焼きを食べた。今年の初物だった。翌日にはサンマの「ぬた」を食べた。こちらも新鮮で、とても美味しかった。妻の親友が獲れ立ての新鮮なものを、わざわざ届けてくれたのだ。かつてはいくらでも獲れたサンマ。高校時代は5匹で20円ほどだったと思う。今ではサンマも高級魚になった感がある。秋の名物サンマの塩焼き。昔はもっと大きくて脂が乗っていたのだが、どうやら昭和も遠い時代になったようだ。 先日の日曜日の朝、妻の姿が見えない。さて、どこへ行ったのだろう。そのうちハッと思い出した。その日は町内会の草刈りの日。慌てて外へ出ると、いつも使っている「鎌」と軍手が見当たらない。体調の悪い私に代わって、やはり近所の公園に行った模様。私は役員の方に断って、自宅の庭の草取りをすることにした。少し前に雑草を抜いたばかりなのに、もう大きくなっていたのだ。 そう言えば、9月の最終日曜の「秋田内陸100kmレース」のこともすっかり忘れていた。あの厳しいレースを完走するために、わずか数年前までは夏場も懸命に練習していたのだ。体調が悪かったとは言え、それすらすっかり失念していたのだから、自分も相当歳を取ったのだろう。 11月のカレンダーに、妻が旅行の予定をメモしているのに気付いた。2泊3日で高野山を歩く旅のようだ。私には何の相談もなかった。先日行った長野の木曽駒ケ岳登山のことは春先に聞いたが、今回は「ナシのつぶて」。最近妻は週に3回以上早朝に走っている。ゆっくりだが毎回10kmは走っているだろう。一方の私はもう2カ月も走れないまま。今や体力はすっかり逆転。方や健康人の妻に対して、私は命の危険すらあった病人だったのだから。 女優の川島なお美さんが亡くなった。享年54歳。胆管がんだったそうだ。少し前、すっかりやせ衰えた彼女の姿がテレビに写った。頬がこけて病気だと一目で分かった。恐らくはあれがお別れの顔見せだったのではないか。今になってみると、そんな風に思えるのだ。聞く所によれば、彼女は放射線療法や強烈な化学療法を拒否していたそうだ。女優として生きるため、体にメスを入れたり、髪が抜けることを嫌ったのだろう。 まだ若過ぎる死。最先端の医療を受けて生き伸びる道も選択出来ただろうに、その道を選ばなかった彼女。パテシエだと言う彼女の夫君も、きっと辛い思いをしたことだろう。だが、彼は妻の選択を尊重した。実に見事な夫婦愛だと思う。最後まで愛し合い、お互いに信頼を貫いたのだから。
2015.10.06
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暑い。このところ猛烈な暑さが続く仙台。庭と畑はカラカラに乾き、朝夕の水やりが欠かせない。私の部屋は熱気が籠り、半ズボンとランニングシャツで過ごしている。首には濡れタオルが必要だ。そんな暑さの中、先日久しぶりに映画を観に行った。期せずして両方とも妻が病気になる話。これは決して他人の話では済まされない。今後自分達にも起こり得ることなのだ。さて、親しい家族が病気になったら、あなたは一体どうしますか? <『アリスのままで』> アリスは名門コロンビア大学の言語学教授。その彼女が講演会の最中、異変に気付く。突然ある語彙が思い出せなくなったのだ。またある時は、ジョギング中に家への帰路が分からなくなる。それが病発見のきっかけだった。50歳の彼女が罹ったのは「若年性アルツハイマー症」。そこから彼女と家族の苦しみが始まる。 認知症の存在が人々に意識され始めたきっかけは、有吉佐和子が新潮社から昭和47年(1972年)に出版した小説『恍惚の人』だった。あの時はまだボケ老人と言う名前で呼ばれていた病気が、その後の研究で脳の病気と判明した。当時は物事が理解出来ず、失禁や夜間徘徊を繰り返す奇病だと思われて来たこの病気が、誰しもが罹る可能性があることも分かって来た。 そして認知症は、今では最も身近な社会的課題の一つになった。単なる老化によるボケだけではなく、脳に特定の化学物質が沈着して起きるアルツハイマー型認知症や、レビー小体型の認知症があることも分かって来た。だが病気の進行を緩めることは出来ても、まだ本格的な治療法は確立されておらず、本人と家族の苦しみは続いたままだ。 日に日に言葉を忘れて行くアリス。でもやがて彼女はその姿を人前に曝すことを恐れなくなる。あれほど知的で賢明だった彼女が、記憶が衰えて行く自分を講演会などで見せる。若年性アルツハイマーの実態を、多くの人々に理解してもらうためだ。そんな彼女を深い愛で支えるのが家族の存在。認知とは何か。病気とは何か。人間の尊厳とは、そして家族とは何か。この映画は、観客にそのことを問うている。<『愛を積む人』> 破産した東京の町工場を処分して北海道に移り住んだ夫婦。まだ若かった頃に登った山を観ながら暮らすのが、妻の希望だったからだ。広大な北海道の風景がまた良い。だが、自分がやるべきことを見つけ出せないままの夫。ある日夫に石の塀を作るように依頼する妻。夫は嫌々ながらも、とある青年と一緒に重たい石を運んで、長い塀を作り始める。 原作はエドワード・ムーニーの『石を積む人』。アメリカで大評判になった小説のようだ。話の舞台を日本の北海道に置き換えて、この映画を制作した。主演は樋口可南子。その夫が佐藤浩市で、娘役が北川景子。後で懇意になる夫婦役が柄本明と吉田羊。老後を楽しく暮らしていた夫婦に、ある日思いがけないことが起きる。留守中に泥棒が入り、妻は持病の心臓病で倒れてしまうのだ。 急逝した妻。そしてその妻が残した数通の手紙。それを見つけて取った夫の行動とは。悲しくも切ない夫婦愛。そして断絶しかかった親子の絆が、妻の遺した手紙によって再び蘇る。もう一つ許された罪の話は、敢えて書かないことにしよう。亡き妻との思い出を追って夫は1人山に登り、そこで事故に遭う。さて、夫の運命は果たしてどうなる? 夫婦愛とは何か。そして家族愛とは何か。人が人を許すとは、一体どんな行為なのだろう。この映画は観客にそんなことを問いかける。愛に飢えた現代人、失望感に打ちひしがれた私達現代人に対してだ。そして妻(夫)が倒れた時、残された者は果たしてどんな行動を取るのか。この映画はそのことに、ヒントを与えたように思う。完成した石塀を、天国の妻はきっと喜んで観ているに違いない。そして北海道の大自然は、今日もまた美しく広がっている。
2015.07.14
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問題です。この花、一体何に見えますか~?答えはサル。花の上の方がサルの顔に見えるでしょ?先日ネットのニュースに載っていました。「モンキーオーキッド」と言う名のランの仲間なんだそうです。直訳すると「サルのラン」。まさにそのものズバリの名前ですね。 では2番目の質問。この花の名前はなんでしょう?花弁の色も変わってますが、花弁に細かいイボイボがあるのが特徴です。これはつい最近カンボジアの山中で発見された新種。従ってまだ名前は付いてないんですって。これもネットのニュースで知ったランの仲間なのだとか。 土曜日の夜は町内会の役員会がありました。そこでの話ですが、仙台市内の町内会はどこも高齢化が進んでおり、町内会同士の合併話も出ているのだとか。最近は「空き家」が目立つ代わりに子供の姿をあまり見かけなくなりました。それだけ活気がなくなっているのでしょう。予算もその多くを高齢者を対象にした行事に割いていると、会計担当の役員がこぼしていました。 我が町内会の役員も、一番若い人で70歳。会長は80代近いですが、まだまだ元気です。ここ数年役員改選の話が良く出ますが、実現はしていません。私も年度末のこの時期、毎回役員になるよう誘われていますが、固辞しています。不整脈のためこれまで3回入院して手術や処置を受けている身。一日のうちにも体調の好不調の波が激しいのです。数年前までは元気で走っていたため、きっとその印象が強いのでしょうけどね。 長年の走友であり、徳島県鳴門勤務時代の上司でもあったT氏から喪中葉書をいただいたのは、昨年の暮れのことでした。亡くなられたのは奥様。亨年は私と同じ70歳となっていました。HPに奥様の闘病記を書いたとの文章があったことを思い出し、数日前にその掲示板にお悔やみを書きました。それが偶然にもちょうど一周忌の日だったようです。 奥様はすい臓がんでした。余命半年と聞いて奥様がされたのは身辺整理と預貯金の解約。そのうちの一部をお子様に生前分与され、病院を退院して自宅療養されていた由。それまで作られていた俳句の中から160句を自ら選び、句集を刊行されたと書かれていました。覚悟を決めた見事な最期、見事な生き様だったと心から感服しています。 T氏はじめお子様達の看病も大変だったことでしょう。でも最後に思い出の家族旅行もされたようで、奥様は静かに天国へ旅立って行かれたとのことです。きっと強い痛みもあったことでしょうし、苦しい思いをしたことでしょうが、最後の最後に従容として死の旅路につくなど、なかなか出来ることではないでしょうね。T氏からは昨夜私のブログに長いコメントをいただきました。改めて奥様のご冥福をお祈りいたします。合掌。 さて、昨日は新年早々に亡くなった義兄の納骨でした。時間前にお寺に着いたのですが、まだ本堂は閉まったまま。軒下には雪が積っていました。お墓に行くと、石屋さんが納骨の準備中。その彼がお坊さんに電話してくれ、ようやく中に入れました。でも本堂は冷え切ったまま。どうやらお坊さんは自宅からこのお寺へ通っているみたいで、普段は無人なのでしょう。数年前、まだ先代が居られた頃はこんなことはなかったのですが。 納骨をしてくれた石屋さんによれば、動かした花立ては小さいながら1個で65kgあるのだとか。それを素手で持ち上げていました。大変な重量があるんですねえ。妻の実家のお墓は、4年前の地震と津波で被害にも遭っているのです。石屋さんは若い息子さんと一緒でした。目下見習い中なのだとか。家業を引き継いでくれる人がいるのは、有難いですね。お寺の一角に、無縁仏を祀るお堂が新しく出来ていました。今はそんな時代なのでしょう。 無事納骨を終えて帰宅すると、テレビでは「いわきサンシャインマラソン」のニュース。私も3度走ったフルマラソンですが、すっかりそのことを忘れていました。4年前は4時間15分台で完走する力がまだ残っていたのですが、今は目まいや息切れに悩まされている日々。月日とは実に残酷で、レースは「過去形でしか話せない世界」になりました。でもその思い出があるだけ私は幸せなのでしょうね。多くの走友のレースぶりが脳裏に浮かんだ夕暮れでした。
2015.02.09
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義兄(妻の兄)のお通夜と告別式を終えた。いずれも身内だけの家族葬だった。義兄は地区の世話役もやっており、交際範囲も広かったのだが、まだお正月と言うこともあって遺族は家族葬を選択した。結果的には、やはりこれが良かったようだ。とても厳かでかつ和やかな雰囲気の中で、100か日までの法要を済ませることが出来た。 導師は言う。人間朝に道を聞いて、夕べには白骨になると。またこうも言った。清めの塩は用いないで欲しい。浄土真宗では死は穢れたものと考えてはいないと。なるほど人間の生はいかにもはかない。72歳の誕生日を目前にして、義兄は幽冥の世界へと旅立って行った。 義兄と最後に会って話したのは昨年の夏。お盆の時に妻の実家の墓参りをした帰りだった。前立腺がんなどの手術を受けたことのある義兄だが、あの頃はまだ元気だった。あれから腰が痛み出し、歩行にも杖を使用するようになった由。既に病魔が義兄の脊髄を冒してがん細胞を増殖させ、圧迫骨折を起こしていたのだろう。懇意にしていた内科医の診断で専門病院に転院して検査を受けたのが先月半ば。それからまだ3週間もしないうちに義兄は帰らぬ人となった。 喪主は妻である義姉が勤めた。長い間色んな病気と戦って来た義兄夫妻。今回も看護などで、きっと疲労が蓄積していたはずだ。それでも3人の子供に支えられながら、何とか喪主の務めを全うした。私が妻と知り合ってから48年。妻の家族とも46年以上の交流があった。あれから生まれた妻の兄弟の子供達、つまり甥や姪は今やすっかり成人となり、その子らも早い者は高校生になる。 孫を代表して、中学1年生になる姪の長男が送る言葉を述べた。とても心が籠った優しい送辞。血が繋がり、愛された数々の思い出があるからこその言葉だった。義兄には4人の孫がいる。一番下のまだ1歳5カ月の孫は祖父の死を理解出来ず、元気良く斎場の中を走り回っていた。その無邪気な姿が、悲しみに暮れる遺族の心を慰め、癒してくれたように思う。 つい先日まで話していた義兄の声は、記憶の中に留まるだけになった。あの笑顔も、今は写真の中でしか見られなくなった。義兄には話したいことがあったが、話せないままに終わった。きっと残された3人の子供達も同じ気持ちだったのではないか。大きな体をした義兄が、今では小さな骨壷に収まっている。まさに導師の読んだ経文通り、朝に道を聞いて、夕べには白骨になるそのものだ。 今回のことで、私は時代が変わったことを知った。今はもう子供達の時代、甥や姪の時代だ。私達が死んだら、きっと彼らが葬儀の中心になるはずだ。そしてこれだけ核家族化すれば、「家族葬」は益々増えるのではないか。家族に見送られてあの世へと旅立つのも悪くない。私はそんな風に思えた。 若い頃から私には死や狂気を異常なほど恐れる気持ちが強かった。だが、歳を取るにつれて、次第にそれらとも慣れ親しむことが出来るようになって来た。きっと何事にも準備期間が必要なのだと思う。生命あるもの全て、いつかはそれを喪失うのが定め。だからこそまだ生きている時は思い切り笑い、思い切り泣き、出来るだけ仲良くしないとね。義兄の冥福を心から祈って。合掌。本日から再びコメント欄を開けさせていただきますね。
2015.01.06
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7月のある朝、私は郵便受けを開けた。雨で少し濡れた新聞の下に、2通の封書をみつけた。1通は妻宛てで、もう1通は私宛て。濡れて切手が剥がれたその封書の裏側の住所と差出人の名前を見て、私は何が起きたのか瞬時に察した。知らない女性の名前だが、住所と姓は分かる。Nさんの身に、一体何が起きたのだろう。 自室に戻って封書を開けると、中に1枚の紙片が入っていた。上段に奥様の挨拶文。何とNさんは今年の5月に亡くなっていたのだ。ようやく49日の法要を終え、亡きNさんの希望により、生前お世話になった方にNさんが用意した挨拶文を送った由。下段にはNさんが書いたお別れの文章が記されていた。以下にその全文を紹介したい。 私Nは、ガンという不治の病によりまして亨年69歳をもって人生を終えることになりました。 ここに、生前、あなた様からお受けいたしました数々のご厚情に対しまして衷心より幾重にも厚く御礼申し上げます。 長年にわたるご厚情は、私の生きる喜びでした。 それは「宝」でもあり、「見えざる財産」の一部でもありました。 悠久なるあの世の楽しみのために、生前好んだ本やテニスボール、日記等の一部を持参いたします。 先に旅立った黄泉の国の方々と堅い契りを交わし、再びまみえた喜びをゆっくり分かち合いたいと思っています。 在世中は本当にお世話になりました。心からの感謝を捧げます。 この挨拶文を、果たしてNさんはどんな気持ちで準備していたのだろう。まだ40代前半の頃、私は四国の小さな都市で新しい大学の図書館を作っていた。そこへ九州の小さな都市の新しい大学に勤めていた彼が、見学に来たのだった。彼はある有名大学の秘書係長をしたことがあると話していた。そのまま行けばエリートコースで、大学内ではかなり偉くなっただろう。だが彼はその後、故郷に出来た新しい大学での勤務を選んだ。 私はその後、彼の勤務先を訪ねたことがあった。それ以来26年ほど年賀状のやり取りが続いていた。本が好きな彼は市内の古本屋から古本を買って読み、自宅には2千冊以上の本が集まり、書庫を新設したと聞いた。彼はシニアテニスの県チャンピオンでもあった。つまり文武両道だ。自慢の子息は2人とも国立大学に入り、1人は医学部卒、もう1人は工学部卒で、共に研究者の道に進んだと聞いた。 私はそれから転勤族となって全国を異動し、彼はそのまま地方の小さな大学に勤め、最後は慣れない分野の仕事に携わったようだ。人生でたった2回しか会ったことのない彼が、その後も熱心に手紙をくれ、時には私のブログにコメントをくれたこともあった。結局お互いにあまり偉くはならなかった。その原因はゴマ擦りが下手なこと。自分を誤魔化してまで相手に頭を下げるのが嫌いだったのだ。 男らしくて誠実そのものだったNさん。一緒に仕事をしたことはなかったけど、あなたと知り合えて本当に嬉しかったよ。素晴らしい奥様や息子さんに恵まれて良かったね、Nさん。そのうちに私もそっちへ行くので、その時はまたお話をしましょう。それまでNさん、ゆっくりと休んでくださいね。では、ひとまずさようなら。そちらの世界でも、どうぞお元気で~。
2014.07.08
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イテテテ。夜中に男が目覚めた。どうやら脚がつったようだ。「こむら返りか。今年のレースは大丈夫だろうか」。男は心配した。去年は3度、もう走るのは無理と諦めたのだ。「でも先祖返りや朝帰りよりは良いか」。そのうち痛みが治まり、再び深い眠りに就いた男だった。 朝起きた男は、裏庭から一旦捨てた大根の葉を拾い上げた。それは昨年末に畑の大根を抜いて土に埋めた時に切ったヤツ。一緒に土に埋めると、そのうちに葉が腐り、大根も傷んでしまう。「今は野菜が高いからなあ」。男はそんなことをつぶやいた。戦後の物がない時に少年期を過ごした男には「飢え」の体験が頭にこびりついている。「あの時に比べたら、これはご馳走」。そう言って、わずかに微笑む男だった。 節約なら男の妻だって負けてはいない。男の作った失敗作の白菜を割って日に干し、せっせと漬物を作るのだ。どんなものでも無駄には出来ない。彼女は本気でそう考えている。時々小さな畑にヒヨドリが野菜を食べに来る。その様子を苦々しく見つめながら、男は「そろそろキャベツも食べ頃か」とつぶやいた。まだほんの小さなキャベツが凍りかけているのだ。 「お父さん、一緒に映画に行こう」。男の妻が言う。タイトルは「小さなおうち」とか言うらしい。「ああ良いよ」男はしぶしぶ返事した。本当は妻と2人で観るべき映画なのかと迷っていたのだ。去年男が観た21本の映画のうち、妻と観たのはわずか1本だけ。残りはこっそりと出かけて観たのだ。「俺だって1人で観たい映画がある」。男のつぶやきは妻の耳には届かなかったようだ。 妻が仕事を辞めようとして苦心してるようだ。彼女は67歳。既に定年は過ぎたのだが、会社が何度も規則を改正して辞めさせないのだ。「本当にあれで辞められるのかね」。男は皮肉な目を妻に向けるが、今度は本当に辞める決心がついたようだ。「ふ~む」。男は小さなため息を漏らす。妻が仕事を辞めたら、これまでとは違った付き合い方が迫られる。これからが本当の老後なのだろう。間もなく古稀を迎える男も、何かを決心したようだ。 男は前職を59歳で辞めて家へ戻った。最後は単身赴任が続いていたのだ。だが故郷のハローワークに行っても、ろくな仕事はなかった。それで仕方なく、パートの肉体労働者になったのだ。人が嫌がるきつい、汚いいわゆる「3K」の仕事を9年あまり勤めて2年前に辞めた。心臓の手術を受けた直後に、よりきつい仕事に廻されて死にかけたのだ。会社と言うものの非情さを、改めて知った男だった。 最近妻はタブレットの契約をしたようだ。悪戦苦闘しながら新しい技術に挑戦している彼女を見ている男の顔は、意外にも羨ましそうだ。男はメカに弱く、新しいことが覚えられないのだ。苛立つ妻が最近静かになった。少しはタブレットに慣れたのだろうか。四国に住む孫とタブレットを通じて交流するのが妻の希望。それを指をくわえながら見ているだけの男だ。 「あれは残念な結果だった」。男がそう言ったのは、沖縄の名護市長選挙。基地移転反対派の候補者が勝ったのだ。地元の市民、沖縄県民、沖縄の新聞社、内地の大新聞社が大喜びのようだ。だが、男の顔は暗く沈んでいる。「それじゃ一体誰が沖縄を守るんだろう。今度の結果を一番喜んでいるのは中国なのに」。どうやら男の嘆きを聞く者は誰もいないようだ。 田中マー君の移籍先が決った。NYヤンキースだ。「やっぱりな」。男はつぶやく。「あそこになるよ」。前日も男は妻にそう話した。161億ドルで7年契約らしい。年俸は23億円。楽天時代の6倍近くだ。「俺には関係ないけどな」。心なしか男の顔は厳しい。今年はマー君無しでの戦いになる。きっとその苦労を今から思い描いているのだろう。 ベランダで布団や洗濯物を干す男の姿を、近所の人は良く見かける。それでも男は平気な顔をしている。夫婦喧嘩の大声も、狭い路地には良く響くようだ。それでも平然としている男。どうやら男は世間体を気にせず、開き直って生きているみたいだ。「きれいごとは俺にふさわしくない」。ひょっとして男は、死ぬまでその調子を貫こうとしているのかも知れない。 仕事を辞めたら友人と一緒に登山をしたい。お父さんと一緒に旅行に行きたい。3人の子供や2人の孫と一堂に会したい。それが妻の希望。「お父さん」と言うのは男のことだ。「ふ~む。それも悪くないねえ」。男は妻の希望を何とか叶えてやりたい気持ちになった。「それが老後の楽しみかも知れないなあ」。そうつぶやきながら洗濯物を干す男の姿を、今朝もベランダで見かけた。
2014.01.23
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夜中に寒くて目が覚めた。朝になって窓が少し開いていたことに気づいた。零下4度の日の話。オーマイガー!!今も俺は指先を切った手袋をしながら、ブログを書いている。 お正月用に買った上等の日本酒が切れた。その後は4リットルで1680円のいつもの焼酎。「人民の酒焼酎は、安くて廻りが早い♪」。エノケンが昔歌っていた。 「自分の腹を痛めて産んだ子」と女は言う。確かに男は子を産めないが、心配することは出来る。夫として、父として、人間として。年末に帰省していた次男が東京へ帰って1週間経った。2人の息子の将来を、今でも心配している俺だ。 「今年仕事を辞めたらストレスが増える」と妻。黙ってそれを聞き流す俺は、2年前に一切の仕事を辞めた。 年の初めの妻の注文。1)玄関は毎朝掃くこと。 2)浴槽は必ずスポンジに洗剤をつけて洗うこと。 3)掃除機をかけた後は、モップでフローリングを拭くこと。 う~む。それくらいなら何とかなるか。 女は京劇の面のように激しく変わると言う。困るんだよな、そう言うのって。俺はそれで2回不整脈の手術を受けた。 かじかむ手で洗濯物を干す。これも零下4度の朝の話。 「今日はポイント10倍の日だから、米を買って来て」と妻。俺は10kgの米が入ったリュックを背負って坂道を歩く。ふふふ。これはちょうど良いトレーニングだ。 冗談だけど、俺が寅年生まれで、女房が午年生まれならどうなると思う?「答えはトラウマ」。実際は女房が戌年生まれで、俺が申年。んんん~?これって犬猿の仲ってこと? 「石の上にも三年」だそうだ。俺はまる50年間働いた中で何度涙を流し、何度死のうと思ったことか。その全てが「人生の肥やし」になったと思っている俺だ。 俺の体調はこの1年どうなるのだろう。でも頑張っていれば、そのうち良いこともあると信じたい。そう思って俺は今年も走る積り。 俺が走り出してからこの元旦で35年目。ずいぶん走ったもんだ。何しろ47都道府県を走破し、地球3周目突入だもんね。このまま頑張り続けて「東京オリンピック」に出て見るか。でも後7年も生きているかどうか。そっちの方が問題だ。
2014.01.11
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トウガン 「神戸マラソン」の話を書き終えた。レース後の疲労に耐えながら完走記を書くのはいつものことだが、これが終わるとようやくホッとする。 カリン 天皇陛下の陵墓造営が決まったそうだ。陛下は規模を小さめにし、皇后との合葬を臨まれた由。だがそれは畏れ多いことと皇后が辞退され、直ぐ隣に皇后の陵墓が造られるそうだ。これまでの皇室の伝統とは異なるみたいだが、何だか俺は微笑ましく感じた。 ムラサキシキブ 島倉千代子さんの死の直前の言葉と歌を、先日聞いた。その声はとても弱々しかったが、俺の心に響いた。人生の最後にたった1人で死に立ち向かった彼女は、とても強い心の女性だったんだろうね、きっと。 ナス 「歳を取るとこれまで出来ていたことが出来なくなるね」。先日妻がポツリと言った。俺は黙って聞いていた。 トマト 妻よ。俺なんかもう数年前からそれを感じているさ。今年に入ってからは疲労感が酷く、特に夏の頃はそのまま死ぬのではと思ったほどだ。 ハマナス そんなことをこれまでお前に話したことはない。いつもじっと自分の胸に秘めていた。何せ俺はウルトラランナー。耐えることには慣れているからね。 ヤーコン 「お父さん、もうウルトラは止めてください。それでもレースに出るのなら、エベレストに登った三浦さんのように、ちゃんとトレーニングしてください」。それはお前の置き手紙にあった言葉。 ブラックベリー あのなあ妻よ。人間歳を取ればいつか筋力が落ち、体調が悪くなることもある。あの頃俺は息苦しく、めまいや動悸が酷かった。だから俺は1人苦しみに耐え、走らないでいたんだよ。 ダリア だが、そうして休んだのが良かったのだろう。秋になって涼しくなると、俺は少しずつ体調を取り戻し、ゆっくりとなら走れるようになった。あれは俺にとって、まさに奇跡そのものだった。 ホオズキ 妻よ。心配症のお前には言わなかったが、あの後も65kmの「猪苗代湖一周」の前夜には突然体調が悪化し、70kmの「浜名湖一周」ではレース中に不整脈が起きた。 カサブランカ それでも妻よ。俺は走歴35年の経験で、何とか最後まで走り切った。だから体調に注意し、無理のないペースでなら、ある程度は走れると俺は信じてる。 アサガオ 他人から見れば馬鹿かも知れない。こんな歳で未だに走り続けるなんて。こんな体調でもまだ走りたいと思うなんて。だがなあ妻よ。俺はこれまでどれだけランニングに助けられたことか。だからこうして生きて来れたんだよ。 枯葉 これからも出来れば俺は走り続けたい。人間は幾つになっても目標を持つことが大事。たとえいつか枯れ果て、朽ち行くとも。 小菊 「楽なことを幸福と思っていては、人生の深い喜びは味わえない」。 これは最近俺の心に響いた言葉。ある方のブログに書かれていたんだ。
2013.11.24
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≪ 戦士達の宴 ≫ 古稀を祝うと言っても、70歳に達したのはまだ数人。彼らは高校に入るのに浪人した連中で、大部分は今年中に70歳になり、早生まれの人はようやく69歳になったばかりなのだ。このクラスは3年生で、当時は55名。そのうち8名が物故者となり、住所不明が6名。明らかな生存者41名のうち、今回は22名が参加した訳だ。 クラスには銀行員、保険会社社員、教師、公務員になった者が多く、話を聞くと、肺がん、前立腺がん、脳梗塞、脳出血、不整脈などで苦しんでいた。戦争のさ中に生まれ、戦後の物の乏しい時期に少年時代を過ごした私達は、好景気も不景気も味わった。ほとんどの級友は企業戦士として、厳しく生き抜いて来た。その結果がきっと死や病気に繋がったのだと思う。 私は挨拶で昨年2度不整脈の手術を受けたが回復し、明日は自宅まで走って帰る予定と話した。だが、本気にした人は少なかったようだ。70近い老人が宴会の翌日に30km以上も走るなど、信じられないのが当然。まして走った距離が既に地球2周分に達したことなどは。ホテルの女将が日本酒を手に挨拶に来た。彼女は級友の妹で、料金も安くしてくれたようだ。 2次会はカラオケ。ここでも大いに酒を飲み、大いに歌った。70年の人生をかけた歌声はさすがに重みが違う。級友が過ごした歳月は、果たしてどんなものだったのだろう。カラオケルームには、クラス会に先立って撮った記念写真が届いていた。かつては紅顔の美少年も今ではただの老人。部屋に戻ってからもまだ飲み続けた私達だった。 翌朝の目覚めは5時前。眠ったのは5時間半ぐらいか。朝風呂へ向かい露天風呂へ入ると、低い雲の隙間から真っ赤な朝日がわずかに見えた。まだ酔っているのが自分でも分かる。部屋へ戻って走る服装に着替え、その上にズボンとセーター。朝食は極力バランスの良い食べ物を選んだ。最後に牛乳2杯とトマトジュース。これで体調が戻ると嬉しいのだが。<続く> ≪ もっと背が伸びたいな ≫
2013.03.30
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≪ 座禅と恩師の近況 ≫ 道場名の陽徳院は愛姫の院号のはず。玄関に雲水姿の青年僧が伏せている。私達を歓迎するにしては不自然な姿だ。座禅と法話が終わってからお寺の方に聞くと、若い僧は入門を願い出た人なのだとか。許可が下りるまでの間は、寒さに耐えながらあんな姿で玄関で待っていたのだ。帰りには姿が見えなかったのは、首尾良く入門を許されたのだろうか。 玄関で靴を脱ぎ、素足になる。既にここから修行が始まる。冷え切った廊下が続き、事前にトイレを済ます。これから約1時間、冷気に耐えるのだ。修行堂で座禅の作法を聞く。20分を2回繰り返し、開始と終了の合図は拍子木と鉦(かね)で行うこと。座禅の間の姿勢と心得、そして警策(けいさく:背中を叩いてもらう木の棒)を受ける際の注意などの説明。 警策を受ける際の姿勢は、級友の住職が模範を見せてくれた。いよいよ座禅の開始。目は閉じず前方の「かまち」周辺を観る。心の中で1から10まで何度も繰り返して数字を数えると自然に腹式呼吸となり、無心の境地に達する。時々聞こえるのは松風とカラスの鳴き声だけ。目の前を何度も警策を持った僧が往復する。 誰かが警策を受けたようだ。1回目の座禅中は勇気がなかった私だが、1度は経験したい。2度目の座禅に入って間もなく、近づく僧に手を合わせる。それが警策を受けたい時の合図。手を組み、体を前に倒す。最初は右肩を2回、次いで左肩を2回叩かれる。初心者に対しては通常より軽めに叩くと言われていたが、清々しくて気持ちが良かった。 座禅後は老師の法話を拝聴。禅宗の世界観、仏陀の悟りと弟子への説教の話など示唆に富んだ内容だった。玄関に戻り、車に分乗してホテルへ向かう。私はDの車に乗せてもらった。彼はお笑い芸人サンドイッチマンの父親。高校時代は合唱部で、大学卒業後は銀行に勤め、幾つか支店長をした男。高校時代に彼から教わった歌は、今でも良く覚えている。 ホテルは松島を見降ろす高台の上。割り振られた部屋は海側の5階で、たくさんの島々が眼下に望めた。まさに絶景だ。島の少ない塩竃市はあの大震災の津波で大きな被害を受けたが、ここ松島町は無数の島々が津波の緩衝材となり、ほとんど被害を受けなかった。早速大浴場へ行くと、露天風呂に外国人の子供が大勢珍しそうに入っていた。 6時15分、宴会場でクラス会が始まった。最初に幹事から恩師の近況報告。なんと82歳の恩師は心筋梗塞で手術を受け、4日前に退院したばかりとのこと。それでもわざわざ我々の古稀を祝って駆けつけてくれたのだ。恩師の挨拶、クラス会会長の挨拶に続き、8名の物故者の冥福を祈って黙祷し、M山住職の乾杯の音頭で懇親会へ。酔いが進むと51年間の空白を埋める思い出話や体調の話などで盛り上がり、アルコールのピッチが一気に早まった。<続く> ≪ 今年も一番乗りはわたし ≫
2013.03.29
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オーマイガ~ッ! いやはやたまげた。何のことかって?野球のWBCの話ですよ。何と優勝候補のアメリカが、プエルトリコに予選で負けちゃったんです。今回は本気で優勝を狙い、大リーガーの有力選手を何人も投入したアメリカが、ベスト4にも残れなかったんですよ。今回は驚きの連続ですよね。韓国が敗れ、キューバが敗れ、今度はアメリカまで敗れ、弱かった侍ジャパンがまだ勝ち残っているんですから。次の日本の相手はプエルトリコとドミニカが戦った敗者。油断せずに頑張って欲しいです。 オーマイガ~ッ! いやはや参りました。今度は何かって?朝の連続ドラマ「純と愛」の話ですよ。朝の連続ドラマとしては異例づくめのこの話。これまでもあり得ない話の連続で、ビックリすることばかりでしたが、先週の土曜日、つまり昨日の放送では最後に主人公である純ちゃんの夫、愛(いとし)君が、「糸電話」の途中に倒れちゃったんですよ。 あの雰囲気ではどうも死んじゃったみたいです。ええ~っ、そんなのアリ~?って感じですよね。双子の片割れが幼い頃に死んでしまったり、両親と上手くコンタクトが取れなくて家を飛び出した愛君。ともに優秀な弁護士である両親はその後離婚。妹は精神的なショックから異臭を感じる変な病気に取りつかれ、本人も長い間「人の本性」が見える悩みを抱えた愛君。 それがあくまでも前向きな純ちゃんと出会ってから、少しずつ人間らしさを取り戻して来た愛君。一方純ちゃんの家でも波乱続きだったね。故郷宮古島の「お爺のホテル」は、父親の放漫経営のお陰で他人の手に渡り、お母さんは認知症になるし、能天気な兄と弟は勝手放題な暮らしぶり。挙句の果て頑固一徹だった父親は、妻を助けようとして水死する。 そんなどたばたの後、折角宮古島にお爺のホテルの名を継ぐホテルをオープンする寸前に、この急展開は一体どう言うこと?あのドラマを観ている人なら、きっとそう言うと思うよ。まあ好き嫌いは当然あると思うけど、私は案外面白かったな。残り2週間で、果たして脚本家はどんな結末を示すのか分からないけど、最後の最後までこのドラマは意外性の連続なんだろうねえ、きっと。 私は思う。このドラマで作者が伝えたかったのは、一体現代人にとって「家族とは何か」と言うことなんじゃないかな?一見はちゃめちゃで、常識外れに見えた2つの家庭。でもあんな風に極端ではないにしろ、どんな家庭でも小さな波風は立ち、色んな出来事が起きたと思うよ。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、親子喧嘩、ちょっとした浮気や「へそくり」や内緒の秘密などね。 昨日は妻と一緒に墓参りに行って来ました。これは我が家のお墓。そこには離婚したはずの両親と、結婚したはずの姉が眠っています。なぜそんなことが??その問いには答えないでおきます。そこには色んな「大人の事情」があるってことで。「私は実家のお墓に入ります」。かつて妻はそう宣言したことがありました。今でもその気持ちに変わりないかは聞かないでいます。まだ良く覚悟が出来てないもんですからね。 そして今日は妻の実家の墓参り。そのお墓は割と海に近く、東日本大震災の津波に飲み込まれたんですよ。倒れて傷だらけになりながらも、流されずに済んだそのお墓に眠っているのは妻の両親。私はその2人に何故だかとても信用がありました。特に老妻を亡くした晩年の義父にはね。さて、妻がそのお墓に本当に入りたいのか、今日も聞かずに置こうと思っているとても臆病な私です。まあ、人生いろいろあら~な。
2013.03.17
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トントントン。階段を登って来る音がする。昨日の朝、私がブログを書いている時のことだ。あらら。朝っぱらから一体何の用だろう。第一こんな時はろくなことがない。部屋のドアを開けた妻が言う。「お父さん、今朝はお湯が全然溜まらないの。後でこのマニュアルを読んでおいて」。安い夜間電力の時間帯に大量のお湯を作るのが我が家の給湯システム。どうやらそれが上手く作動しないようだ。 「ええっ、設置してまだ1年も経ってないのに、もう故障?」「そんな訳ないし、もしそうだとしても保障期間だから大丈夫」。私は咄嗟にそう思った。先日もお風呂の回転窓のハンドルを壊し、「壊れたのは自分のせいじゃない」と、修理業者の前でしきりに言いわけをしていた彼女。そのうち階下から声が聞こえた。「お父さん、お湯溜まったよ~」。あのなあ、出かかった言葉をグッと飲み込んだ。 9時過ぎ、私はランニング姿に着替えて走りに行こうとした。「ピンポ~ン♪」。おっと来客のようだ。玄関の扉を開けると妙齢の婦人が2人。それも美人だ。あらら、これは保険の勧誘か、それとも宗教団体か、はたまた北朝鮮の・・。「今度引っ越して来ます○○です」。一人が名刺と挨拶代わりのティッシュの箱を差し出す。昨年亡くなった老人宅の後に住まうようだ。 「美人歓迎です」。思わずそう答えるともう一人も挨拶代わりのサランラップと封筒を渡す。こちらはリフォーム会社の方。40年以上にもなる古家を全面的にリフォームし、フラワースクールにするようだ。へえ、こんな住宅街に若いお譲さん達がたくさん集まるの~?完成は2カ月後とのこと。「どうぞよろしくお願いします」2人はにこやかに帰って行った。 準備を終えて走り出すと、近所のスーパーの前に先刻の婦人がいた。私だと気づき「気をつけてくださ~い」の声。これは嬉しい声援。傍にいた老夫婦は彼女の両親のようだ。この日のコースは12kmの山道。結構風が強く、特に登り坂では息が上がった。苦しいけれど、これも練習のうち。4月、5月と連続してハーフマラソンを走る予定。こんなことで参っちゃいられない。 「ピンポ~ン♪」昼食中にまたしてもチャイム。今度は何?とドアを開けると、頭の薄い中年男性が立っていた。「味噌屋の番頭です。美味しい味噌はいかがでしょう」。大きな前掛けをつけた男が言う。「結構です」。そう言うと男は素直に帰って行った。その後は外国の保険会社から電話。「お宅の保険には既に入ってますよ」。電話が来るのはこれで3度目。一体どうなっているのだろう。 午後1時半に再びチャイム。これは住宅メーカーの点検と分かっている。東日本大震災後の2回目の点検で無料。先日ペンキがはげて修理した際、気になる所があり来てもらったのだ。潜望鏡のような道具で屋根を見、後は外壁や排水路の点検など。結果は基礎部分に細かいひびが数か所。そして玄関脇の外壁にひびが1か所。いずれも原因は地震で、特段問題はないとの診断だった。やれやれ助かった。 ところでつい最近私のブログで問題発生。12日に書いた東日本大震災に関する私の詩へのコメントで、「関東の人は驚いただろう」云々の書き込みがあり、私は地震は東北の方が酷いと返事した。ところが翌日同じ人が「認識としては関東周辺の地震」云々と再び書き込み。本人がそう思い、自分のブログに書くのならともかく、今も震災や津波や原発事故の後遺症に苦しむ被災地の人に適切な言葉とは到底思えない。 そのことを指摘したら再び当人からコメント。内容は「私はあなたの千倍以上情報に接している」云々。すっかり気分を害し、私のコメントと、その人の最後のコメントを削除した。今回の大震災で多くの犠牲者と被害が出たことは誰でも知ってるはず。それが「関東周辺」との認識とはおかしい。その方の住む地方では皆同じ認識とも書かれていた。 恐らくその人は東北の鉄道の路線が何本、どこで不通になっているか知らないはず。私も地震で不整脈を発症し、親戚が2人津波で死んだことを詩にも書いた。書いてはいないが、妻の兄宅や私の兄宅は地震で全壊した。東北はまだ復興が進んでおらず、大切な家族や家や財産を失くして悲痛な暮らしをしている人がたくさんいるし、故郷すら失った人も多いのだ。 今回の大震災は初め「三陸沖大震災」と呼ばれ、次に「東北大震災」と名前が変わり、最後に「東日本大震災」に落ち着いた。それらはいずれも気象庁の正式な命名だ。「サラダ記念日」で知られる女性歌人が、放射能汚染を恐れ両親を仙台に遺したまま去ったことも、コメントしてくれた人は多分知らないはず。 その人の翌日のブログのタイトルは「ブログ炎上」。東北に住む○○爺云々とある。やはり私の真意を分かってなかったようだ。でなければそんなタイトルはつけないと思う。文章を読めば状況は分かるはずなのに、それが読めないのだ。まして書いて無いことは分からないだろう。だが短い間でもブログ友であったことに感謝したい。私は孤立を恐れない。死ぬ時は誰しもたった一人で向かわなければならないからだ。今はその修行中の身。 「ピンポ~ン♪」。「ハイ、どなたですか~?用件は何ですか~?ネットは虚構の世界です。ほかのお家を訪ねて書き込みする時は、よほど注意してくださいね~」。ブログを読めばその人の暮らしや人生観や価値観がつい分かったような気になるが、それは錯覚。たとえ何年間も続いたブログ友でも「親しき中に礼儀あり」。相手の心情を思いやるのが真の友情だと私は思う。
2013.03.15
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猛吹雪の北海道で9人の方が亡くなった。車が雪に埋もれて一酸化炭素中毒死したり、ホワイトアウトで方向を見失った方が多かったようだ。合掌。札幌のブログ仲間(と言っても、私は滅多に書き込みをしないのだが)のたくちゃんは、その後ブログを更新してないので、無事デンマークへ出国出来たのだと思う。 あの日、彼女は新千歳空港近くのホテルに1泊すると書かれていた。そこから成田経由でデンマークへ行ったのだろうが、始発の頃はまだ飛べたのだ。漢字検定試験1級に何度も合格し、川柳の会に入り、自治会の仕事をしながら、ある社会学級で学んでいた彼女。多分73歳くらいだと思うが、その向上心には驚かされる。今回の旅行も、同学の仲間とデンマークで交歓する旅なのだ。帰国後のレポートが、とても楽しみだ。 千葉の亀仙人がチリから帰国した。彼は私と同学年で仕事もマラソンの趣味も共通。「立山登山マラニック」で一緒になったことがあるが、彼はこれまでにインカ帝国のシンボルであるマチュピチュ遺跡に2度、モアイ像のあるイースター島に1度旅し、今回は南極に近いパタゴニア地方に行った。まあどれほど南米大陸が好きなのだろうと驚く。 3月3日、4日開催の「小江戸、大江戸フットレース」が終わった。距離94km制限が13時間の「大江戸ナイトラン」に参加した星峰さんが無事完走したことは彼女のブログで分かったが、203kmの部(制限36時間)に出ていた宮城UMCの仲間達はどうだったのだろう。いくら暖かい関東とは言え、夜は気温が下がるはず。結果が気になるところだ。 近く「台湾一周」1100kmに出られるコノちゃんのブログを見たら、沖縄の野菜「ハンダマ」のことが書かれていた。先月沖縄本島を一周した時に食べた野菜の茎を19本ほどもらって来て、コップの水に漬けた所、根が出て来たようだ。それをこのたび畑に移植した由。トランスヨーロッパに出たウルトラランナーが広大な畑を耕しているのは、とても興味深い。 一昨年沖縄で食べた時、金沢の「金時草」に似てると思ったら、やはり同じものらしい。おまけに熊本では「水前寺菜」と呼ぶことも彼のブログで知った。台湾一周は13日間で走るようだ。1日平均84.6kmの走り旅。日本からの出場メンバーは、いずれも錚々たるウルトラランナーばかり。果たしてどんなレースになるのやら。 さて、昨日は病院でホルター心電図を装着して来た。不整脈手術の1年検診のためだ。1月の「寅さん詣で」、2月の「いわきサンシャイン」参加後、気持ちの悪い動悸を感じていた。血液検査で特段の指摘はなかったが、かなりの疲労感や、軽いめまいもあった。また不整脈が起きた心配があるが、それは24時間装着する今回の心電図で分かるはず。 昨日はそのまま走って家に帰った。久しぶりの山越えで、青葉城から動物公園に向かう山道は、まだ凍結したままだった。心電図計は今も私の胸にあり、自動的に鼓動を捉えている。この結果が分かるのは今月の21日。目下ハーフマラソンを2回、100kmレースを1回エントリー済みだが、参加可能な体調だと嬉しいのだが。 整形外科のスポーツドクターには、ランニング禁止令が出されているが、手術を受けた病院の主治医には、ランニングを止められていない。ランニングから他のスポーツに切り替えるとしても、心臓の具合は気になる所。2回目の手術を受けた後の昨年5月には、肺活量が減って風船を膨らますことさえ出来なかった。そしてようやくランニングを開始したのが8月だった。 あれから7カ月。かつての体力と走力を取り戻すのは無理だが、老後を楽しく過ごすためにもある程度の健康は保ちたい。こんな「前期高齢者」だが、夢はある。ゆっくりとでも良いから走れ、低い山でも良いから登れ、いつかはシルクロードの近くまで行くことだ。今日は再び病院に行き、心電図計を外して来る。もちろん帰りはランニングの予定。たとえ小さくても、夢を観るのは楽しい。
2013.03.05
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実に不思議な映画だった。1組の男同士の友情。1組の男女の愛情。そしてふとしたことから養育することになる幼い子供。それがまた偶然の悪戯で、パキスタンの奥にある桃源郷、フンザへ旅をすることになる。そこで出会った雄大な景色。そして現地の老人の口から発せられた謎の言葉とは。 原作は宮本輝の同名の小説とか。私は彼のことを何も知らなかった。今回の映画を観た後ネットで調べ、少し分かっただけだが、苦労の末に作家になった経緯を知った。昭和22年生まれの神戸出身。『泥の河』昭和52年で太宰治賞。『蛍川』昭和53年で芥川賞。『優駿』昭和62年で吉川英治文学賞。『約束の冬』平成16年で芸術選奨。『骸骨ビルの庭』平成21年で司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。平成22年には紫綬褒章を授与されている。 『草原の椅子』と言ってもピンと来ないはず。だが、敢えて説明は省く。フンザの大草原を見降ろす椅子に座って眺めた光景と語られた言葉。それがエンディングとだけ言っておこう。ふとしたことで出会う宿命的な邂逅。それがこの映画の全て。だからこそ人生は面白いし、捨てたもんじゃない。 観覧後、妻に感想を聞いたら、さほど印象に残らなかったようだが、私は違う。ひょっとして、これが男女の差だろうか。テーマはまさに男冥利に尽きるもの。男が抱く永遠の夢なのかも知れない。そういう意味では男が創った話とも言えよう。友情も良し。中年男女の出会いも良し。そして桃源郷フンザの雄大な光景が忘れられない。 今日は未完成のままでブログを更新する。これから病院に行くのだ。そしてその帰路、私はある実験をしようと思っている。この続きは、帰って来てから書く積り。出来れば夕方にでも再び読んでいただければありがたい。 ーーーーーーーーーー ☆ ☆ ☆ ーーーーーーーーーー<追記分> 午前中のうちに病院から帰宅した。「実験の話」は明日書くとして、映画に関する若干の補足を記しておこう。監督は『八日目の蝉』の成島出。主題歌はGLAY。出演は佐藤浩市、西村雅彦、吉瀬美智子、若村麻由美、小池栄子など。吉瀬美智子が可愛かったなあ。小池栄子はメイクなしのスッピンと、メイク後の顔が観られ、ソゾ~っとしたのが実感。 原作者の宮本輝は、阪神淡路大震災の後、シルクロードを40日に亘って6700km旅したようだ。この『草原の椅子』は、その時の体験を元にして書いた小説が映画化されたもの。パキスタンで長期滞在して撮影したのは、日本初のこととか。昨年の秋に亡くなった大学時代の友人が、シルクロードが大好きで、何度も現地を旅したことを思い出した。シルクロードへの旅は、私の長年の憧れでもある。
2013.03.04
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映画を観た。名前は『きいろいゾウ』。「黄色いぞ~」でも「黄色い象」でもない。名前からして変わっているが、とても不思議な話だった。出て来るのはこころを病んだ3組の夫婦。それに1組の少年と少女が登場する。西可奈子の同名の小説を映画化したようだが、彼女のことは全く知らない。それに廣木隆一と言う監督も私は良く知らない。 予告編は観なかった。ただ、映画の粗筋を読んで、これは良さそうだと思っただけだ。映画の舞台は三重県度会郡南伊勢町と言うところ。若い小説家夫婦の役が向井理と宮崎あおい。近所に住む中年の夫婦役が柄本明と松原智恵子。東京の画家夫妻役の名前は知らない。小説家の夫は妻に「ムコさん」と呼ばれ、夫は彼女を「ツマ」と呼ぶ。この辺は「ツレがうつになりまして」と似たような雰囲気だ。 2組の夫婦の会話は三重の言葉。なんだか四国の言葉にも似ている感じ。東北弁にはない柔らかな響きが、不思議な世界にはとても良く似合っていた。こころを病む3人の妻と、それを見守る3人の夫。どんな風にストーリーが展開するかは書かないことにする。ただ、この映画で思いがけないものを観た。宮崎あおいのヌードだ。まあ、若い夫婦だから愛し合うのが自然なのではあるが。 こころを病んだ妻が裸になる映画は、23年前に沖縄で観た『死の棘』。当時話題になったこの映画は、確か白黒だったはず。松坂慶子が入浴するシーンには圧倒された。実にナイスバデーなのだ。あおいちゃんの薄っぺらいものと違って、堂々たる肉体。あれはまさに見ものだった。だが、本当の見ものは、悩める女のこころの闇なのだ。 女とは不思議な生き物。妻を見ていても、つくづくそう思う。50年近く前の、まだ付き合っていた頃の小さなことに拘り、夫の行動に不信感を抱き、いつまでも「根」に持つ執念深さ。あまり小さなことに拘らず、過去のことはあっさりと忘れ、「根」に持たない男からすれば、不可解と言うしかない存在だ。それが夫婦ともなれば一筋縄では行かず、生涯その「怨念」と付き合うことになる。 幸いにして3組の夫婦は全てハッピーエンドで終わる。ところでタイトルの『きいろいゾウ』だが、これは映画の中に出て来る童話の題。不思議な映画にふさわしい、不思議な童話だった。さて、明日は早朝から妻とバスツアーに出かける。帰宅は月曜日の深夜。まる2日留守にするので、その間のブログはお休みになる。伊豆箱根の風景が楽しみだ。はたして河津桜って、どんな花なのだろう。
2013.02.23
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手が冷たい。手袋をしていてもかじかむほどだ。洗濯ものを干した後の冷たい手で、ブログを書き始める。おまけに何だか最近、嫌な動悸を感じている。また不整脈が起きているのだろうか。さて、節分の日、我が家では豆を撒かなかった。ちょうど夫婦喧嘩をしていたのだ。そうでなくても静かな我が家が、節分の夜をひっそりと過ごした。 最近私は映画を観た。一つは先日紹介した『ライフオブパイ』。これは不思議なお話の洋画。そして同じ日の午前中に観たのが『東京家族』。これは上映の前に、テレビで何度もコマーシャルが流れていた。ずいぶん昔、小津安二郎監督が撮った『東京物語』の焼き直しらしい。あの時の主演は、確か笠智衆だったはず。 映画は瀬戸内海の島に住む老夫婦が、子供達が住む東京へ出かける話。老夫婦役は橋爪功と吉行和子。長男夫婦役は西村雅彦と夏川結衣で開業医。長女夫妻は中嶋朋子と林家正蔵で美容師。次男役は妻夫木聡で舞台の大道具係。その恋人役が蒼井優。頑固一徹な父親は、この次男の仕事や生き方をとても心配している。 一方の子供達は老いた父母が心配で、逆に東京に引き取ろうとするが、家が狭くて同居も出来ない状態。おまけに忙しいため、高級ホテルへの宿泊を余儀なくされるが、老夫婦はすることもなく退屈だ。そのうち母親は体調を崩し、思いがけない結末を迎える。老夫婦と言ってもまだ60代後半。ちょうど私達夫婦と歳恰好が良く似ている。 この映画は、誰にでも起こり得る老後の一こまを描いている。夫婦の機微、家族愛、兄弟間の微妙な考え方の違い、田舎と都会の人情の差などが山田洋次監督によって、丁寧に描かれる。スクリーンには「この映画を今は亡き小津監督に捧げる」との献辞が映った。多分師弟にだけ分かる、共通の想いが籠められていたのだろう。我家の二人の息子も同じく東京暮らし。しかも未だに独身。だから親としては身につまされる想いで、この映画を観たのである。 さて、夫婦喧嘩の原因の一つは、先日私が走ったマラニック。妻はレース後の疲労を、心臓の不調と勘違いしていたのだと思う。レースでは疲れたものの、不整脈は出ない。むしろヒステリックな妻の声が強いストレスとなって、不整脈を惹起する元にもなる。喧嘩の原因の2つ目が、この映画であった。最初は一緒に行く予定が、あまり気乗りしない妻の返事で、私はさっさと観に行った。 どうもそれが悪かったのか、妻の様子が急変。こうなると始末に負えなくなる。私は上映時間を記したメモをテーブルに置いておいた。それを見て、妻は映画を観て来たようだ。それは私の財布から一時消えていた映画館のポイントカードが、いつの間にか戻っていたことで分かった。それから妻の機嫌は少し良くなったみたい。 朝の連続ドラマ「純と愛」も夫婦や家族がテーマ。かなり深刻な問題が起きているが、私達夫婦のことも含めて、興味を持って注目している。一昨日妻に言った。「私の小遣いで旅費を出すから、北海道か沖縄へ行かないか」と。妻は私が自分の管理するお金を無駄遣いしてると思い、まさか「へそくり」があるとは思ってなかったようだ。1年4カ月レースに出なかった分、結構蓄えがあったのだ。 今、妻はルンルン気分。沖縄の離島へ4泊5日くらいで行きたいらしい。そうすると私の小遣いはかなり乏しくなるが、それもまた良し。「今年中に仕事を辞め、来年は自分の小遣いでお父さんを外国旅行に招待する」と妻。まあ、どこまで本気か知らないが、楽しみにしておこう。老い先短い人生。時には思いがけないことがある。赤の他人同士が一緒になる夫婦。人生は実に面白い。
2013.02.07
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「新年あけましておめでとうございます。昨年は、5月末、中国北京に行ってきました。早朝の天安門広場や天壇公園に走って行き、じい様、ばあ様たちの太極拳に参加しました。万里の長城に行きました。2000年以上前、電気やガスや何の動力もない時代、しかも敵と戦いながら万里に及ぶ壮大なものを作りました。その時の土木工事に比べれば難しいことではないと思いました。まだまだ見たこともない所、見てみたい、行ってみたいです」。 「10月初めに東京の24時間マラソンに参加しました。ちょうど2年ぶりに大会参加しました。私は6時間半で走れなくなり、約60kmでリタイヤしました。日本の24時間マラソンのトップの方々の走りを見ることができ、感動しました。ボランティアの方々がランナー以上に一生懸命されていたのが印象的でした」。 「11月初めより通勤ランを再開しました。2010年6月末より環境を変え、その半年前から通勤ランをしていませんでしたので、約3年ぶりの再開となりました。今は夜の難波、四ツ橋を抜け、今まで知らなかった大阪の街を走っています。12月1日誕生日。フルを越え、年齢もいよいよウルトラマラソンが始まりました。2013年1月1日。六甲摩耶山からスタートします」。 「身体の具合はいかがでしょうか。元気で動けることに感謝します。色々なことにチャレンジ出来て幸せです。感謝します。いつまでもお元気で!」。 神戸のNさんから戴いた1800文字の年賀状の全文である。写真は元旦の摩耶山から見た初日。そして眼下には神戸の港が見える。その横の小さな写真は「リヤカー」の文字。 彼と初めて出会ったのは12年前。金沢の兼六園前の「佐藤桜」の前だった。そこは名古屋から金沢まで走る「ネーチャーラン」250kmのゴール地点。お互いに知人のランナーのゴールを迎えようとしていたのだ。私は当時57歳。彼は30歳で、ウルトラマラソンに憧れる青年だった。知り合ったきっかけはとある「掲示板」。私は毎日のように書き込んでいたが、彼は確か2、3度だけ。 会ったのもその時のただ1度だけだったのに、未だに年賀状のやりとりが続いているのは、転勤族だったかつての私の「日記」を、読んでくれていたからだと思う。彼はその後精進して、「ネーチャーラン」や「スパルタスロン」を何度も完走するエリートランナーになった。私もそのイメージを強く持っていたのだが、どうやらここ2、3年の間に大きな心境の変化があったようだ。 レース参加は2年ぶりだったと言う。それも60kmでのリタイヤ。それで3年ぶりに通勤ラン(帰宅ラン)を始めたのだろうか。それにしても長い柄のついた小さなリヤカーは何なのだろう。とても軽そうな作りなので、きっと押しながら(あるいは引っ張りながら)走るためのものではないか。ここ数年、それを持ってどこか旅をしていたのかも知れないなどと勝手な想像をしている。 最後の文節は、私が手術したことを知り、あて名側に書き加えたもの。小さな文字で丁寧に書かれた1800文字の文章は、彼の人柄を良く表わしている。決して目立たない彼。しかし芯がしっかりした素直な青年だ。長い人生にはこんな風に「立ち止まる」こともある。その時に何を考え、何に気づいて再出発するかが大切だと思う。 「元気で動けることに感謝します。色々なことにチャレンジ出来て幸せです。感謝します」。何と清々しい心境だろう。その気持ちがあれば、どこに向かっても困難を乗り越えることが出来るだろう。自分の子供くらいの年齢のNさんだが、良い友人を持てて幸せ者だとしみじみ思うのである。これだから人生は面白い。
2013.01.10
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昨夜は2度トイレに起き、次に目が覚めたのは朝の6時半だった。床に着いたのが9時頃だったので、9時間半の睡眠。前日23km走った疲れが出たのだと思う。カーテンを開けると家々の屋根が真っ白に覆われている。この冬何度目かの雪だ。 そう言えば年賀状にも何枚か雪の写真があった。筑波時代のバトミントン仲間Uさんからのものは、福島県猫魔岳の一面真っ白な雪と樹氷。職場は違っていたのに、未だに年賀状が届く。山形のUさんからのものは穂高連峰ジャンダルムの絶壁。「日本100名山」完登まで残り26座。「後2、3年かかるがガンバリます」とある。若い頃研修で一緒だった一夏の出会いが、未だに年賀状のやりとりが続いている。 ブログでもたまに雪の写真を見る。稚内の方は積雪が50cmを越える写真。晴れた日には樺太の真っ白い山々。その写真も観たが年配の彼が樺太ではなく「サハリン」と書くのが悲しい。新潟の銀のねこさんは、新年早々からの雪山ラン。年々強さが増す彼女だが、育児の陰でこんな努力をしているのだ。みんな良く頑張っているねえ。 その「頑張る」が好きでない人も稀にいる。香川のTさんはレース中に「頑張れ!」と言われるのが嫌いだそうだ。本人は必死で頑張っているのに、その上頑張れと声援されると辛い由。古稀を過ぎた彼は昨年100kmのレースを完走し、ハーモニカの演奏を11回開いている。茨城のSさんは僧侶。人生は頑張るのが当たり前なので、敢えて頑張ると言う必要はないとの考えのようだ。ふ~む。 私は「頑張る」も「一生懸命」も結構好きな方。そして日本人は真面目なので、大抵の人はこの言葉が好きだと思う。茨城のSさんは宗教活動の合間を見て本を著し、陶器の作品展を開かれている。まさに「頑張る」手本みたいだ。 沖縄の知人2人の年賀状には、基地反対、オスプレー配属反対の字句。それが沖縄人の普通の気持ちだと思う反面、不思議にも感じる。それだけ反対しているのに、何故選挙では自民党が圧勝するのだろう。太田元県知事の「本土の人は沖縄を植民地と思っているんじゃないか」との年末の発言には驚いた。そう思う日本人は1人もいないはず。それなのになぜ被害者意識が強いのだろう。 それは沖縄が長い歴史の中で「差別」を受け続けたせい。いや正確には「差別」を受けたと「感じる」ためだろう。江戸初期の薩摩藩の侵攻、明治期の琉球処分、太平洋戦争の地上戦、戦後の米軍統治、そして日本復帰。それらを屈辱的と感じる人がいるのも事実。加えて幼少からの学校教育と、琉球新報と沖縄タイムス2大紙の主張で、それが「真実」になるのだろう。 潤沢な振興予算を与えられてなおかつ「悪いのは米軍と日本政府」はおかしくないだろうか。一体誰がその平和な島を守るんだろう。沖縄の走友Hさんからの年賀状が遅れて届いた。私が不整脈の手術を2回行ったことを知って驚いたのだと思う。あの南の島を再び走りたいものだ。沖縄に寄せる私の想いを確かめるためにも。
2013.01.08
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私は第2次世界大戦のさ中に生まれた。だから、物が乏しい戦後の少年時代の記憶が、今でも強烈に残っている。そのせいだろうが、食べ物には全くと言って良いほど煩くない。昼食にはいつも麺類を作っているが、その汁は何日か使う。味噌ラーメンの残り汁に味噌汁の残り汁を足し、余ったカレーや煮物なども入れれば、立派な1食。味が薄まれば、出汁醤油を足す。 衣類にもそれほど煩くはない。加齢臭が染みついた肌着も擦り切れるまで身に着けるし、靴下だってヨレヨレになるまで穿いている。私は楽なジャージが好きだが、尻の裏側には大きな「継ぎ当て」がミシンで縫ってある。滑って転んだ時に、その部分が薄くなったためだ。脇に穴が開き、袖が擦り切れたセーターもまだ捨てずに使う。そんな服装で、平気で街へ買い物にも出かける。 子供のころからの貧乏性が、いつの間にか私の身に着いてしまったのだろう。そんなことは全く気にならないが、3歳年下の妻は違う。先ず魚の食べ方が下手だ。釜にはたくさんのご飯粒を残すし、鍋には余った味噌汁。私には食べ物を粗末にするのがとても考えられないが、妻は物の有難さが分からない世代なのだろう。 それでも男女の経済観念は違うようだ。私はしょっちゅう妻に怒られ、その違いに逡巡する。私にとっては重要なことが、彼女にはきっと「大いなる無駄遣い」と見えるのだろう。ブログなどはその最たるもので、「お父さんは自分の趣味しか考えない」となるのだ。私に言わせれば、良い趣味の存在は生き甲斐につながり、老後を豊かにすると思うのだが。 今朝も結構忙しい。昨夜は遅くまで読書していたため、朝一番でのブログは書けなかったが、3kmほど散歩した後、玄関とガレージの掃き掃除をした。朝食後は洗濯ものを2階に運び、妻の蛍光スタンドの修理とゴミを入れる容器の修繕。暖簾を画鋲で止め、ゴミを出す。それらは全て妻の「注文」。 これから布団を干し、午後は生協の配達品の受け取りと洗濯ものの取り込みと始末。その合間に植木を剪定し、郵便局へも出かける。さらにはランニングの練習もしたいし、ネットの契約について確認したいこともある。今は「サンデー毎日」の私だが、それなりに結構忙しく、自分のしたいことと、妻の要望を叶えること。そのバランスを取るのに苦労する。 「俺も亭主関白なら楽なんだけどなあ」とつぶやきながらも、戦中生まれの男はじっと我慢。「人間辛抱だ」。初代若乃花のテレビコマーシャルだが、今では知ってる人も少ないだろう。徳川家康は言う。「人生は重き荷を負うて長き坂を行くが如し」。修行の道はまだまだ険しそうだ。
2012.12.05
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昨日の早朝、何から何まで黒づくめの服装で新幹線に乗った。幸い、最寄り駅までは雨に降られることはなかった。座席に落ち着き、『徳川家康』の第3巻を読み出す。福島は曇り空だった。一切経山、吾妻小富士はどんよりと曇っていたが、雪が積っているのは分かった。東北の山々は既に冬支度を終えたようだ。宇都宮も曇り空だったが、埼玉へ入ると雨に変わった。 大宮で降り、駅員にこれから私が向かう駅が、何線に乗れば良いかを確認した。大都会の周辺は交通の手段が複雑で、「お上りさん」には少々戸惑うことが多いのだ。快速に乗り、武蔵浦和で普通列車に乗り換えた。目的の駅で降りると雨は激しくなっていた。タクシーに乗り、斎場へ向かう。友の遺骸が安置された部屋は直ぐに分かった。気さくな雰囲気の遺影に驚く。ラフな服装でほほ笑む友。 その部屋にいたのは2人の若い人。話しかけると彼の長女と次男だった。確かに彼に似ている。長男は知ってるが、彼らとは初めての対面。お母さんと長男はまだ自宅に居る由。2人から友の死の真相を聞く。友は奥様と一緒に仙台の友人の見舞いに来、兄弟の家で食事を済ませてホテルに戻り、風呂から上がってベッドに横たわった後、急に心臓が停まったのだそうだ。 間もなく奥様と長男も見えた。奥様にお悔やみを述べる。初めてお会いしてからもう40年が経つ。奥様も突然の夫の死に、呆然とされていた。友の死に顔は安らかだった。15年ぶりに対面した彼は、すっかり白髪になっていた。若い頃に柔道をやり、山男だった頑健な彼がまだ67歳の若さで突然亡くなったことに驚く。6人兄弟の4番目で、兄弟のうち一番早い死だった由。 2人のお子さんの他に誰もいなかった部屋が徐々に賑やかになり、葬儀の準備が進む過程を見させていただいた。彼の若い頃の写真も見た。兄弟をはじめ、親戚の方が集まって来た。大学時代の仲間も来た。彼が副委員長だった時代のO委員長。その前の委員長だったS先輩。私に訃報を知らせてくれたKさんも来た。N先輩は仕事先の青森から車で駆けつけた。皆30年から40年ぶりの再会だ。 彼の住む町内の方や、旅行を通じての友人も来られた。列席者が増えて、椅子を足した。時間通り告別式が始まった。僧侶の読経に続いて遺族と列席者の焼香。その後に弔辞が読まれた。旅行仲間と言うのは、彼が第1回から参加したシルクロードの旅。20年目の今年はその最終回で、ローマに達した由。今回は旧ユーゴから終点のローマまでだったが、奥様は自転車で、彼は徒歩で同時にゴールしたのだそうだ。 弔辞の中には、彼が旅先で出会った中国の少女をリンパがんから救うために、長年高額な「丸山ワクチン」を送り続けたことや、東日本大震災の被害者を支援するため、仙台のNPOに協力していたことも紹介された。また若い頃に脳梗塞と脳出血の2度の大病を克服したことや、奥様に対する感謝を込めた彼自身が書いた文章も読み上げられた。その名文に驚いた。彼の意外な一面を観た想いだ。 告別式の後火葬にも立ち会い、御骨も拾った。こうして優しかった一人の男は、白い骨になった。彼の葬儀を通じて、彼が多くの人を愛し、多くの人から愛されたことを改めて知った。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、そして人類への大いなる愛。彼は多くのものを与えるだけ与えて、そのまま天国へ旅立ったのだ。さよならTさん。でも私達は決してあなたを忘れないよ。ありがとうTさん。今はゆっくり眠ってくださいね。 因みに、彼が救いの手を差し伸べた中国の少女はその後全快し、現在はアメリカで活躍中とのことです。彼の見事な人生に敬意を表して合掌。
2012.11.24
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めっきり寒くなった。私は今、コタツに入りながらブログを書いている。寒さを防ぐためにセーターの上から「半纏」を着、手には指先を切った手袋をはめている。窓ガラスにはびっしりと結露。家の外と内側の温度差が大きいのだ。そして私の傍らには先日死んだ愛犬マックスの写真。子犬だった頃のマックス。成犬だった頃の精悍なマックス。そして老犬のマックス。14枚のマックスの写真が私を観ている。 子犬を抱く妻はまだ若く、優しそうな笑顔。私も今より若やいだ表情をしている。14年もの間一緒に過ごしたマックスは死んだが、今もこうして私の傍にいる。彼の墓にフユシラズを植えた。そのうちオレンジ色の花を咲かせるはずだ。そして彼との日課だった散歩は、今も1人で続けている。 今年も喪中葉書が届く季節になった。木枯らしが吹きつけるようになると、毎年喪中葉書が届く。昨年は30枚近く届いて驚いた。今年来たのはまだ6枚だけ。もう少し様子を観てから、年賀状を買おうと思う。年々減って行くのが淋しい年賀状だが、さて今年はどんな文面にするか。そろそろ原稿を準備する必要がある。 そんな時に訃報が届いた。大学時代の先輩が急逝したのだ。聞けば亡くなったのは、お母様の法事で仙台に帰省していた時のことらしい。最近の体調は優れなかったようだが、それにしても頑健だった彼が66歳の若さでこの世を去るとは。私達が通った大学は市内で唯一の夜学。つまり私達は勤労学生だったのだ。だから先輩と言っても歳は私よりも若い。何せ私は4年遅れて大学へ入ったのだ。 その夜学を卒業して43年。あの頃の私達は本当に貧しかった。私は既に親はおらず、わずかなボーナスも授業料として消えた。礼拝堂の地下にある食堂のかけソバが15円。天ぷらソバが25円だった。そのソバすら食べられず、空腹のまま授業を受けた日々だった。私達が所属していたのは学生自治会。それも思想的な背景のない一般学生の代表だった。 彼は2年先輩の副委員長。温和な性格だが、柔道をしてるだけに根性はあった。彼らが4年生の時に大学紛争が起きた。1年先輩の3年生からは誰も立候補せず、結局は2年生の私が委員長をせざるを得なくなった。連日連夜もみくちゃにされ、体重が51kgまで減った。大学を封鎖したのは東京から来た他大学の学生。彼らは「プロ」の闘士だったが、最後は警察官によって排除された。夜学の委員長の私も、何度かテレビに映ったようだ。 卒業後彼は東京の会社に就職し、私も転勤で東京へ出た。彼が奥様と知り合ったのはその頃だ。彼は40代の頃、脳梗塞になった。それを自己流のリハビリで克服し、あっと言う間に職場に復帰した。その後職場を変え、良く中国奥地へ旅をしたようだ。モンゴルやイスタンブールへも行ったから、きっと大陸の風土が彼の気風に合っていたのだろう。 当時の仲間5人に訃報を知らせた。うち2人には速達で告別式の場所と時間を案内した。私は告別式に出席する予定。斎場は東京都と埼玉県の境で、初めて行く場所。切符も既に手配した。先日入った「大人の休日倶楽部」のお陰で、3割引なのが助かる。朝早い新幹線で行けば、十分間に合う。そして当時の懐かしい仲間とも会えるはずだ。 昔の写真も持った。仲間に見せる積りだ。ここ数年、彼がどんな暮らしをしていたのか、東京に住む仲間から聞けると思う。若くして旅立った彼だが、今もあの温和な顔と声が、私の脳裏にはっきりと残っている。そして私達が学んだあの懐かしい夜学も、今はなくなった。合掌。そんな訳で明日は早朝に東京へ向かい、ブログの更新は夜になります。どなたも良い一日になりますよう。
2012.11.22
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「私達は75歳までだね」と妻が言う。「何が?」と聞くと寿命らしい。彼女がそう考えた理由は「無理してるから」。あのなあ、勝手に俺の寿命を決められても困る。「俺は後10年は走りたいんだけど」と妻へ答える。走ることがそれほど無理だとは思わないし、無理をするのが必ずしも悪いこととも思わない。 「新平家物語」を読み出してから3カ月近くなるだろうか。テレビの大河ドラマと並行しながら読んで来たこともあってとても面白く感じるし、これまで分からなかった歴史の裏舞台まで良く理解出来た。そのことはまた改めて記すことにするが、著者吉川英治の人となりについて興味が湧き、ネットで調べてみた。すると意外なことが分かった。 その一つが、吉川は高等小学校中退だったこと。義務教育すら満足に受けてない学歴で良くこんな流麗な文章が書けると感心したし、教養が半端じゃないことにも驚く。二つ目は離婚していたこと。貧しい作家時代を支えてくれた糟糠の妻は、作品が売れ出して収入が爆発的に増加すると、それにどう対処して良いか不安になり、精神のバランスを崩す。吉川は元の静かな環境に戻してやろうと、やむなく妻を離別したようだ。悲しくも憐れな話だ。 映画「あなたへ」を観た時も夫婦について考えた。夫役の高倉健は離婚経験者。結婚の相手は歌手の江利チエミだった。だがチエミの成功を妬んだ義理の姉がマネージャーになり、2人に対しそれぞれの悪口を吹き込んだり、大金を勝手に持ち出したようだ。このためチエミは自ら離婚を申し出、たった1人で莫大な借金を返済したと言う。チエミは45歳で亡くなった。死因は脳卒中。きっと長年の無理が祟ったのだろう。チエミの遺体を乗せた車を、高倉は道路に立って静かに見送ったそうだ。 妻役の田中裕子は離婚を経験していない。だが、夫の沢田研二の最初の妻は、歌手ザピーナツの姉伊藤エミ。2人の間には男の子が生まれたようだが、その後離婚。原因は沢田研二の不倫。その相手が田中裕子だった。エミは夫を愛しながらも離婚を承諾したようだ。慰謝料は当時としては破格の18億円だった由。そのエミが今年がんで亡くなった。亨年71歳。あんなに睦まじい夫婦役を演じた陰に、実生活ではそんな凄惨なドラマがあったのだ。 先日観た映画「天地明察」では、岡田准一と宮崎あおいが夫婦役を演じた。この2人なかなか雰囲気が合って夫婦役がピッタリだと感じた。宮崎はまだ若いのに離婚経験者。夫だった高岡蒼祐はツイッターでフジテレビの韓流ドラマを批判し、問題になった。宮崎はそのことに嫌気が差して高岡に離婚届を郵送し、高岡は已むなく同意したようだ。 ところが離婚後に疑問に思った高岡が調べたら、宮崎が前から不倫していたことが判明した由。その相手が何と親友の岡田だったのだ。人気歌手で俳優の岡田と宮崎が知り合ったきっかけは映画「陰日向に咲く」での共演。妻の宮崎はコマーシャルや映画で活躍中の大女優で、夫の高岡はあまり売れない俳優。2人の収入にはかなりの差があったようだ。結局宮崎はそんな夫に愛想をつかしたのだろう。 以上書いた内容は、ほとんど今回ネットで調べて知ったこと。「天地明察」では出戻りの妻宮崎が、新婚初夜に夫役の岡田に言う。「いつまで私の帯を解いてくださらないのですか」と。今にして思えば、あれはとても意味深長な言葉だ。クリクリした目で愛苦しく聡明な女優の宮崎だが、その陰にはドロドロとした実生活が隠れていたようだ。 芸能界には普段ほとんど関心のない私だが、こと「離婚」となると話は別。縁あって夫婦になった男女が、何かの行き違いで別れてしまうことの不思議さ。さて夫婦とは一体何なのだろう、人生って何なのだろうと考えさせられるし、自分の人生に置き替えてみるテーマではある。
2012.09.29
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ずいぶん前に亡くなった歌手、河島英五の歌に「時代おくれ」と言う歌がある。阿久悠作詞、森田公一作曲でペーソスを感じる好きな歌だった。その1番の最後が次の歌詞だ。 目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめつづける 時代おくれの男になりたい 私の場合は別に「なりたい」わけじゃないのに、結果的に時代に取り残されているようだ。フェイスブック、スマートフォン、携帯電話、デジカメ、プリンター、車の免許。今時はフツーに持っているそれらを一切持っていない。唯一持っていた「原付」の免許も、今年返上した。もう15年以上乗っておらず、特に不便を感じなかったのだ。 私のブログも同様で、1枚の写真すら載っていない淋しいもの。ただし、文章だけはやけに長い。これは私がメカに弱いのが原因。そのうち覚えたいと思ってはいるが、それよりも文章を書くのが好きなので、自分では不便とも思わない。いわゆる「アナログ人間」の典型なのだろう。ブログのテーマだってアクセス数が増えるよう、「ジャンルクチコミテーマ」などを選べば良いのだろうが、その使い方も知らないままだ。 大方の「ポイント」にも無関係。仕事柄、良く飛行機を利用していた頃は「マイル」を貯めず、その後折角貯めたマイルも使い方が分からず無効になった。チェーン薬局、リカーショップ、コンビニなどのカードもあるが、金額が少ないのでポイントが生かされたことはない。役立っているポイントカードは、映画館と床屋くらい。それらは回転が早いために結構ポイントが溜まり、時々「タダ」になるのが嬉しい。 ある走友に、「携帯があると便利だよ」と言われたが、経費がかかるため妻が持たせてくれない。まだ仕事をしている妻は簡単な機能のものを持っているが、私はパソコンのみ。それも極端にメカに弱いため、プリンターはない。まさに「時代遅れ」そのものだが、私自身は特に困っていない。車の代わりには愛用のマウンテンバイクがあるし、旅行したければ安いバスツアーでも十分。 最後の職場を辞める時に、OBが加入する「後援会」へは入らなかった。その職場で冷遇されたのが理由だ。「業界」のニュースはテレビや新聞で十分。いや、最近ではそれすらさほど活用せず、パソコンでニュースをチェックすることが多くなった。いずれは自分の葬式を出すことになるが、妻には「家族葬」で良いと伝えてある。いくら金をかけても本人は分からないしね。 私は転勤族だったため地元の知り合いは少なく、親せき付き合いも兄夫婦に任せたままだった。長年のそんな習慣が、気楽で良くなったのだ。幸いにして私には、ランニング、読書、日本史研究、家庭菜園、自転車、映画、プロ野球の応援、美術鑑賞などの趣味がある。そしてたまには妻と一緒に旅行する。これで老後は十分。他に何を望むことがあるだろう。 欲を言えば切りがない。次から次へと欲しいものが増えるだけ。だが、私は健康な体と判断力さえあれば、後は何とかなると思っている。世の中、期待し過ぎると裏切られた時のショックが大きい。だからほどほどの期待で良いのだ。自分へも、他人へも。さて、今日も一日が始まる。愛犬と散歩にでも出かけようか。
2012.09.12
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甲子園での熱闘が終わった。またしても勝ったのは大阪桐蔭。スコアは3対0だが、内容的には圧勝だった。光星学院は春の選抜に続いて桐蔭に敗れ、東北に優勝旗を持ちかえる悲願は達成出来なかった。光星の天久選手は沖縄県石垣島出身。弱い心に打ち克つべく、敢えて北国の青森から日本一を目指そうと考えた由。準優勝ではあったが、島の家族達は「良く頑張った」と、彼の帰郷を待ちわびていると思う。 映画「The Gray ~凍える太陽~」を観た。アラスカで飛行機事故に遭って助かった8人が、厳しい寒さと戦いながら何とか生き延びようとする話だ。新田次郎の「アラスカ物語」を思い出したが、こちらは船での遭難。宮城県出身の日本人フランク安田が、最後には飢餓に苦しむエスキモーを率いて、500kmも先の地に移動し、新しい町を作る実話だ。 どちらの話にも獰猛なオオカミが出現する。「アラスカ物語」では確か2種類のオオカミがいたと思うが、エスキモー達の知恵で、彼らの餌食にならずに済んだ。ところが「凍える太陽」に出て来るオオカミは体重が70kg以上もある巨大なもの。8人の仲間は次々に彼らに食い殺されて行く。最後に残った1人が雪原で観たのは、優しい家族の幻影だった。 「薬莱山とお足マラニック」があった夜、関西から戻った妻から何通かの手紙を受け取った。それは旅先で預かった2人の孫からのもの。いつものように「ワンワンじいちゃんへ」と書かれた他愛もない内容だが、小学6年生の孫娘が別便で書いた手紙は、それらとは全く違って具体的だった。 書かれていたのは古墳に関すること。私も四国の孫に、古墳に関する手紙と3冊の本を事前に送っていた。古墳の調査は夏休みの「自由研究」の課題だが、孫の手紙で間違いに気づいた。私が例として上げた「前方後方墳」は、「双方中円墳」が正しかった。その形の古墳を知らない私に対し、彼女はその古墳を実際に観ている。真実の厳しさを幼い孫から教わった形だが、私にとっては却って嬉しい出来ごとでもあった。 お盆には我家のと妻方の2か所の墓参りをした。妻方の墓石は昨年の大震災で倒れ、大きな傷が残ったままだ。我家の方は墓石が倒れることはなかったが、花立ての金属が腐って底が抜けていた。やがて私もそこへ入る。そんなことへの抵抗感は、ほとんど無くなった。別の日に兄宅を訪れた、父母の位牌に線香を上げるためだが、兄はデーサービスで留守だった。 義姉に自家製の野菜やお中元代わりのお土産を手渡す。私が作った完熟の立派なトマトに、彼女は驚いていた。私が2度不整脈手術を受けたことは、九州に住む弟から電話で聞いた由。そして義姉が病気の原因を正しく言い当てたのには驚いた。彼女も8年ほど前に、同じ手術を受けたそうだ。兄の長い病気で相当に苦労を重ねて来た義姉。良くここまで頑張ってくれたと、心から感謝している。 お盆休みで帰省していた長男が東京へ帰った。交通事故の影響で、まだ本調子ではないようだ。折角の休暇も部屋に閉じこもってゲームに興じている息子。少しは成長したかと期待していたのだが、相変わらずだ。それでも何とか1人で生きて行けるのがありがたい。次男も含め、早く家庭をと願っているが、親の夢に終わりそうなのが淋しい。再び妻と2人の暮らしに戻った。まだまだ厳しい残暑が続きそうだ。
2012.08.24
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映画監督の新藤兼人が亡くなった。100歳だったと言う。私は彼の映画を一度も観たことはないが、反骨精神に富んだ社会派の監督であることは知っていた。それに女優乙羽信子の夫だったことも。4月22日が誕生日で、関係者が100歳のお祝いの会を催したらしい。その時、彼は挨拶で一言「さよなら」と言ったそうだ。 その誕生祝いの後、2回も救急車で病院に運ばれたようだ。「さよなら」はユーモアだけでなく、案外本気だったのかも知れない。死の前日、監督は寝言で映画のことを話していたとか。最後の最後まで映画作りが頭の中にあったのだと思う。彼にしてみればまだ道半ばだったのだろう。息子や孫にも映画監督がいると聞いた。彼の遺志はきっと息子や孫が継ぐに違いない。 先日2010年の我が国の平均寿命が発表された。それによれば女が86.3歳で、男が79.55歳。男女とも前年よりわずかに下がったようだ。言うまでもなくこの平均寿命は、その年の出生児が何歳まで生きられるかの平均予測で、私達成人のものではない。ましてこれから何年生きられるかを保障するものでもない。でも、少なくともその歳まで生きたいと思うのが人情だ。 だが幕末期はそうではなかった。吉田松陰や坂本竜馬は30代で死んだ。満年齢なら松陰はまだ20代の若さだ。もちろん自分の意思ではないが、彼らは死を賭して行動していたのだから同じようなもの。戊辰戦争で敗れた会津藩の白虎隊に至っては10代での切腹。死を称賛するものではないが、平和な現代ではとても考えられない覚悟の人生だった。 さて、私の体調は少しずつ回復している。先日までのめまいと吐き気は、間違いなく薬の副作用。これは危ないと思い、妻には何かあったら救急車を呼んでくれと言っていた。だが彼女は本気にしなかったようだ。初めて低血圧になったため、血圧降下剤を2日休んだ。一時は140近かった脈拍が70台まで下がり、逆に血圧はようやく110を上回るようになった。どうやら体が薬に馴染んで来たようだ。 昨日は少し歩いた。最近隣の市や町でクマが出たとのニュース。この日はとうとう市内にも体長1.5mのが現れたようだ。用心のためラジオを聞きながらの散歩。本当は近所の山に登りたかったのだが、無理せずその麓にあるお向かいさんの畑を見た。畑は木の柵で囲まれていた。イノシシが荒らすのを防ぐためとのこと。帰路は幾つかの団地を迷いながら帰った。2時間8kmのささやかな旅だった。 今日は昨年津波の被害を受けた地区を、自転車で廻る予定。体調を見ながらゆっくりペダルを踏もうと思う。未曽有の津波で多くの方々が犠牲になった町。それをこの目で確かめるのだ。死を必要以上に恐れることはないが、かと言って侮るのは愚かなこと。「盛者必衰」の言葉を心に刻みながら、生きていることの意味を考えてみたい。
2012.06.01
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ゆっくりだったがグラグラっと来た。これは大きいと思ったが、揺れは間もなく治まった。時間は昨夜の8時過ぎ。テレビの字幕を見ると、震源地は岩手県沖で、最高値は岩手県と宮城県北部で震度5弱。宮城県中部は震度3程度だった。間もなく電話が鳴る。東京に行っている妻からだ。ちょうど山手線に乗ってたようだが、多分車内の電光ニュースで知ったのだと思う。 震源地と震度を聞かれたので、テレビで知ったことを教えた。家でも何の被害がないことを伝えると、彼女は安心した様子で電話を切った。孫娘の発表会がどうだったのかは聞かずじまいのまま。昨年の大震災以来、彼女は地震に関して少し神経過敏になっている。だが私は案外平気で、あの程度なら何とも思わない。 今朝の出勤時、バスの中であることを思い出した。それは前日に書いたブログの文章。確か「飛ぶ鳥跡を濁さず」と書いたが、「たつ鳥」の間違いであることに突然気づいたのだ。それにしても「たつ鳥」の「たつ」は立つだったか、それとも発つだったかと考える。意味から言って「経つ」と言うことはあり得ない。やはり「立つ」だろうと結論を出す。 赤瀬川原平流に言えば、このところすっかり「老人力」がついた私。昨日の業務引き継ぎ時にも、人の名前とタクシーの名前が直ぐに出て来ないで困った。それを教えることになると自覚はしていたのだが、多分思い出すと過信していたのだ。それもまた老人力の為せる業。ひょこっと忘れるかと思えば、何気なく思い出すことの連続。まさかこう言うのを「まだらボケ」とは言わないのだろうが。 特に忘れ易いのが人名で、どうでも良い人の場合は簡単に忘れる。ところが決して忘れない人名もあるのが摩訶不思議。歳を取ると脳細胞は1日に何億と死んで行くらしいが、変なことだけは覚えている。例えば「飛鳥(とぶとり)の明日香」。飛ぶ鳥は明日香の枕詞だが、やがて「飛鳥」自体が「あすか」と呼ばれるようになる。 これは「日下(ひのもと)の草加」も同様で、「日下」自体がやがて「くさか」と呼ばれるようになる。日本語の難解でかつ面白いところだ。それにしてもなぜ「立つ鳥」とすべきところを「飛ぶ鳥」と書いたのか。ひょっとしたら「飛ぶ鳥を落とす」勢いと混同していたのかも知れない。混同もまた老人力が熟成して来た何よりの証拠だ。 少し前、テレビのバラエティーショーか何かで、クイズが出た。アフリカの国名を、時計回りに答えて行くのがその内容だが、何と漫画家のやくみつる氏が全ての国名を正しい順番で答えた。氏の凄さはそれに留まらず、その国の中で国境線が未確定な個所まで指摘すると言う完璧さ。あの様子ではまだ老人力は育ってないようだ。それに反して「やくみつる」の名前を思い出すのに一苦労した私は、そうとう老人力に満ち溢れていると言えよう。エッヘン。 今日は第1現場のテナントのある方に別れの挨拶をした。ここで勤務をするのは後3日。ひょっとしたらそれまでに顔を合わせないかも知れないからだ。経験が全くないままで始まったこのビルでの警備。6年間の思い出は私にとって貴重なものとして残るだろう。そしてこの後現場を変わっても、私はますます老人力を磨いて行こうと決意している。<付記>昨日の間違った文章は既に訂正済みです。念のため。でも今日もまた同じ過ちを犯しました。「飛ぶ鳥の勢い」ではなく、「飛ぶ鳥を落とす勢い」でしたね。書いてから2時間後に気づき、こちらも訂正しておきました。なんだかなあ!?
2012.03.28
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入院の準備は全て整った。昨夜から雪ではなく雨になった。それだけ気温が高いのだろう。夕刻、さる電気屋から荷物が届いた。妻が先日購入したパン焼き機が不調で、2度とも上手に焼けないことをメーカーに伝えると、改めて新品のものを届けてくれたのだ。粉をこねる小さな「羽根」は、結局焼いたパンの中に食い込んでいたようだ。 今朝もいつもの時間に目が覚めた。きっと体内時計がちゃんと作動しているのだろう。電気とテレビを点けて布団の中で聞きながら、再び眠った。起きた時は6時過ぎで、外はすっかり明るくなっていた。まだまだ寒いけど、着実に春は近づいているように思う。裏庭には小さなフキノトウが5個、顔を出している。 雨の中を愛犬と散歩。いつもなら凍てついた道を注意しながら歩くのだが、今朝はその心配もない。この雨で、かなりの雪が融けるだろう。だが、今夜から再び寒気団が南下するらしい。帰宅して妻と一緒の朝食。いつもは出勤の早い私1人で食べるのだが。朝から連続ドラマ「カーネーション」を観、新聞も残らず読めた。 病院から渡された「入院手続き」を最終チェック。明日の手術に備えて、いつも飲む「ワーファリン」は今朝は服用を中止する。これは血液をサラサラにする薬だが、明日は出血が直ぐに止まった方が良いからだ。薬を止めてそんなに急に効果が現れるのか分からないが、ともかくそれが執刀医の指示なのだ。 全ての準備を終えて、自室でパソコンを開く。走友T田さんからは励ましのメール。人に隠れての好意は誰しも真似が出来るものではない。暖かい心の持ち主であるT田さんならではのもの。来週の土曜日には宮城UMCの新年会が開催されるが、無事手術が成功して退院したら、「ハグ」してくれるそうだ。お掃除の婆ちゃんのハグ話も嬉しかったが、男同士のハグも案外良いものだ。 「じゃあ、行ってくるからね」。そう玄関から呼びかけて、妻は仕事へ出かけた。ホームヘルパーと言う職業のため、なかなか時間が自由にならない妻。その妻とも朝食後にしっかりと握手した。明日の手術時間が不明だが、妻が来院出来るのは午後の3時頃になってから。その事情は、今日入院したら看護師とドクターに伝える積り。 私のブログへは、昨夜もたくさんの方から励ましのメッセージが書き込まれていた。皆さん、本当にありがとうございます。大した手術でもないし、こちらは4泊5日の短期で帰宅出来る楽な患者の身。3冊持った本も、多分読みかけの1冊しか読めないようにも思う。そして無事帰宅したら、またブログを再開したい。 「入院日記」を書くために、筆記用具もバッグに入れた。読みたくもない、知りたくもないことだろうけど、ひょっとして誰かのために役立つかも知れないと思ってのこと。妻との日常、体調の不良や自らの老化など、ブログには相応しくないテーマだろうが、私は敢えてそのことを書きたいと思う。なぜなら人生には必ず最後があるからだ。 死に向かう不安や孤独や哀しみなど。それは誰もが必ずいつかは遭遇するもの。今から折にふれてその準備をしておけば、いざという時にさほど困らないのではないか。人生には覚悟が必要。それを妻や子供に話すことはないが、じっくり自分の胸の中で考えるのも悪くはない。折角入院という機会を与えられた今回は、病院とはどんなところかしっかり観察したいと思う。 皆さんご機嫌よう。再びこの場でお会い出来る日までさようなら。では行って来ますね~!!
2012.02.07
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昨日はM先生の病院に行って来た。循環器病主体の個人病院だ。先日先生の紹介状を持って大病院の診察を受け、入院と手術が決まったことを話すと、先生はことの他喜んでくれた。昨年の5月にこの病院へ変わったのは、不整脈が発見されたため。それ以降の付き合いだが、ドクターは暖かい人柄で何かと心配してくれるのが有難い。 病院から帰宅し、今度は愛犬との散歩を兼ねて買い物へ。夕方の冷たい風が目を刺激し、涙が鼻水になる。そこからさらに眼鏡店へ向かった。実は先日家の中で転んだ際、階段で左足と額を打った。スリッパが階段に躓いたのだ。その時から眼鏡のフレームが曲がったままだった。落ちることはないが、緩すぎるのが少々心配だった。 最初は第1現場近くのS眼鏡店を訪ねた。ところが店員は眼鏡を手に取って見た後、「この眼鏡はうちで買われたのですか。申し訳ありませんが、買われたお店で直してもらって下さい」と一言。私も無理にフレームを直したら、壊れる可能性があるとは思っていた。ただ店員の対応が良ければ、次の眼鏡はその店で作っても良いとも考えていた。 だが、その態度で考えは一変。妻にその話をすると、彼女も時計の電池を交換してもらおうとしたらその店で断られたことがあると憤慨していた。きっとどちらも儲けにはならないからだろう。結局は高級な時計や眼鏡を特定の人に売る、殿様商売なのだと思う。散歩のついでに立ち寄ったN眼鏡店は、今回フレームが曲がった眼鏡を買った店だった。 若い店員は愛想良く接してくれ、話を聞いて早速直してくれた。もう1人の店員は、美味しいお茶を淹れてくれた。安売り眼鏡店に客はいない。実はそこで作ってもらった眼鏡は、どうした訳か全く見えなかった。再び作り直してもらったものも、また見えない。きっと検眼技術が下手なのだろう。そのまま我慢をして使っていたがフレームだけは生かし、別のA店で新たに検眼してレンズを入れ直してもらったのが今回の眼鏡だった。 あの時はベテラン店員だったが、今は2人とも若い人。彼らの検眼の技術はどうなのだろう。安かろう悪かろうで一時評判を落とした店だが、こんな時にしか行く気にならない。それでも直してもらったフレームは安定し、これなら安心していられそうだ。次に行くのは、やはりA店しかなさそうだ。A店は老舗で信用が高く、専門の技術者がしっかり検眼してくれた。だが媚を売るような女店員の態度が嫌いだった。 私はゴマは擦らない。会社の上司はもちろんのこと、契約先の社員や病院の先生にも同じ態度で接する。もちろん人を見下すこともしない。今回は眼鏡店の店員の態度をじっくり観察させてもらった。その評価を次回以降に生かす訳だ。 話は変わるが、第1現場の同僚が急に辞めた際、ある人を代わりに推薦した。面接したのは私の上司だが、彼に向ってこう言ったそうだ。「Aさんの紹介なら間違いないでしょう。よろしくお願いします」。直ちに彼は採用され、目下張り切って勤務している。例え上司でも同じ態度で接している私だが、それでも見る人は見ている。日頃の変わらぬ態度が信用につながり、評価につながるのかも知れない。
2012.01.25
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何日か前の新聞に、1人の女性の写真が載った。これはまさしくAちゃん。彼女の顔を最後に見たのは45年ほど前だが、あの頃の面影があるし、年齢もピッタリだった。「へえ、なぜ新聞に?」。急いで記事を読み、あまりのことに驚いた。 彼女と初めて出会ったのは50年前。場所は私が最初に勤務した職場だった。彼女は1学年上の先輩で、2列ほど離れた係に所属していた。色の白い大人しい人で、職場ではAちゃんと名前で呼ばれていた。ほっぺたの赤い少女のような彼女と話したことはなかったのだが、1年過ぎたころ彼女の方から話しかけられた。 昼休みは近くの公園まで散歩に行き、一緒に歌を歌った。誘われて1度ハイキングに行き、私が誘って1度映画を観に行った。4歳で母と離別した私は、母の温もりを知らずに育った。そのため、常に暖かい母の面影を求めていた。多分Aちゃんはそんな人だったと思う。彼女がどんな感情を抱いていたかは知らないが、晩稲(おくて)の私には好きとかいう気持ちはなく、手をつないだこともなかった。 そのうち私はノイローゼになった。当時担当していた精神神経科の医療事務が苦痛になったのだ。当時の精神神経科は一般病棟とは離れた別地区にあり、そこまでレセプトを取りに行くのでさえ恐ろしく感じた。穏やかな性格に「改善する」ため脳の一部を切除したり、電気ショックをかける荒っぽい治療。まるで牢獄のような鉄格子の奥からは、患者の悲鳴が聞こえて来る。 精神神経科を担当していた先輩2人が重篤な精神病になったこと。精神神経科の看護助手を務めていた人が、怖さのあまり私達の係に配置転換になったことも、私の精神をより不安定なものにした。私は思い切って新設されたばかりの職場への異動を申し出た。これまでとは全く違う職種で、一から勉強する必要があったが、自分に向いた天職だと感じたものだ。 転勤を機会に通信講座を受け、さらに夜間大学に学んだ。風の便りでAちゃんが心の病にかかって入院したことを知った。だが私にはどうすることも出来なかった。街でばったりAちゃんに出会ったのはそれから1年ほど後のこと。彼女は赤ん坊をおぶっていた。「結婚したんだ!」と思いつつ、お互いに言葉を交わすこともなく別れた。 ナタリー・ウッド主演の映画「草原の輝き」を観たのは、その頃のように記憶している。恋愛関係にあった若い男女が何かの理由で別れ、女性は精神のバランスを崩して入院する。退院後たまたま2人は再会するが、お互いに許し合って別れるというストーリーだったと思う。「草原の輝き」は、入院中に彼女が読んでいたワーズワースの詩のタイトルだった。 新聞記事によれば、Aちゃんは昨年の大震災による津波で自宅を流され、ご主人を亡くされたようだ。しばらく茫然自失の生活を送っていたが、これではいけないと思い直し、避難所で暮らしている被害者のために教会の仲間とボランティア活動を行っているようだ。信仰生活は40年以上と書かれている。きっとあの頃から、教会へ通い始めたのだと思う。新聞の中の柔和な笑顔に、あの古い映画を思い出した私だった。 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還らずとも嘆くなかれ その奥に秘められたる力を見出すべし ワーズワース ≪草原の輝き≫ より
2012.01.22
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昨日も今日も、いつもの時間に目が覚めた。目ざましをセットしていたわけではないが、無意識のうちに起きたようだ。だがテレビを点けたまま、7時近くまで再び眠った。電気代が無駄にはなったが、睡眠時間が十分に取れて良かったと思う。それにしても今朝はビビった。目が覚めた一瞬、仕事に行く日と勘違いしたのだ。 「温泉事件」以来、幾つか家事を手伝っている。洗濯物や布団の取り込み、玄関などの掃き掃除、自室の掃除、風呂の掃除などはこれまでもしていたが、年末にかけての大掃除の中で、妻が気になっていることを手伝うのだ。先週は2階のレースのカーテンを全部取り外し、洗濯後は再び取りつけた。こんな面倒なことは本来大嫌いなのだが、実際にしてみて大変な作業だと分かった。 2階のトイレ掃除もした。ここは私しか使わないので、掃除するのは当然とも感じた。こんな作業をすると、「手伝う」のではなく「分担する」のが正しい表現とも思える。今週末は、それらの仕事に加えて、書斎の掃除、床や階段の拭き掃除もしたし、自室のテレビの裏側なども丁寧に掃除機をかけた。 建坪43坪の家に住むのは妻と私の2人だけ。子供達も同居すると考えて建てた家だが、誰も一緒に住まないと掃除に手間がかかる。やはり妻1人では到底無理だと感じた。今日は妻のお供で買い物に行った。妻が買い物をしている間に、私がお歳暮を贈る手続きをし、買い物が済んだ後は家まで持ち帰る係。 妻は昨夜も遅くまで台所の片づけをしていたようだ。不用品も少しずつ整理し捨てているようだが、私が見た所まだまだありそうだ。私の予定だと12月初めに年賀状の原稿を作り、年賀状を書き終えてからようやく大掃除に入るのだが、妻の大掃除は相当前から始まることが初めて分かった。今回掃除を分担したせいか、妻の機嫌はすこぶる良い。まあ、それだけでも収穫があったかも。 昨日、ある人のブログを読んでビックリ。「東京マラソン」、「大阪マラソン」、「神戸マラソン」と立て続けに当選していたのは知っていたが、何と今回は「京都マラソン」にも当選した由。恐るべき幸運の持ち主だが、その確率は天文学的数字になると思う。出来ればその運の一部をお裾分けして欲しいと思った。 その願いが通じたのか、今日何気なく「仙台国際ハーフマラソン」のHPを観たら、何と応募者全員が当選と書いてあった。さらに2次募集もしているようだ。まさか自分が当選すると思ってなかったので少し慌てた。制限時間の問題も大きいが、それ以上に心臓の手術が気がかり。果たして手術することになるか、そしてその時期がいつになるかのか。 今日は午後から近所の公園へ走りに行った。新しいシューズの履き心地を確かめる意味もあった。やはり胸が苦しくてスピードは出ず、シューズの底が堅いせいで足の裏に痛みが生じた。それでも走れるだけでも有難く、贅沢を言っちゃ申し訳ない。あるがままの姿で、あるがままに走る。これが老ランナーの心得だろう。風が冷たく感じ、1時間半走って公園を後にした。
2011.11.27
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日曜日の午後は、パソコンで楽天の試合を確かめていた。テレビもラジオの放送もない場合はそうせざるを得ないのだ。この日の先発はマー君。彼の最多勝獲得が懸っている大事な試合だった。高校時代を北海道で過ごした彼は星野監督に直訴して登板を1日ずらしてもらった由。記念すべき試合をお世話になった北海道の人に観てもらいたかったそうだ。 そんなゲームを救ったのが銀次。彼は捕手として入団したのだが、その後打力を買われ野手に転向した選手。1軍での本格的なデビューは確か今年からだと思う。その銀次の一振りが2点タームリー。防御率1点台のマー君にはそれでも十分だった。味方のエラーなどで2度のピンチがあったようだがいずれも気迫で圧倒し、見事完封勝ちを収めた。 最多勝を争っていた日ハムのダルビッシュは、CSに向けての調整を理由にその後の登板を辞退したため18勝に終わった。問題はソフトバンクのホールトン。今日彼が先発して勝てば最多勝に並び、中3日で再び勝利すれば彼が20勝で最多のタイトルを取ることになるが、果たしてどうか。目下マー君は防御率、勝率、完投勝利数などでもトップ。沢村賞獲得も目前だ。 昨日は種屋に玉ネギの苗を買いに行った。今年の苗がようやく入荷すると聞いたのが昨日。早速1束買った。100本の苗が650円。1本6円50銭の計算だが、上手く育つかどうか。その帰り道、橋の上から川の中を観ると大勢の人が作業をしている。予め張ってある網に向かって徐々に包囲を狭めているようだ。 これはきっと鮭の捕獲に間違いない。初めて目にする光景に興奮する。男の人達は名取川・広瀬川漁協の関係者。捕獲した鮭から卵を採り、人工ふ化させて、来春稚魚を放流するのだろう。網の中から鮭が捕えられる。鈍色(にびいろ)に赤の婚姻色が混じった魚体は、まだうろこがしっかりしている。これが自然の産卵だと体が擦り切れて、ボロボロになる。 大きな地震と津波があったにも関わらず、鮭は今年も帰って来た。確か鮭は4年かかって成長し、生まれ故郷の川を遡上すると聞いた。そして人口が100万人を超える大都会の川に、鮭が上るのは珍しいと思う。私が観ているうちに手で捕まえた鮭は10本ほど。網の中には、後どれくらい入っていたのだろう。 夕方のニュースの時間に、懐かしい名前を聞いた。思わずテレビを観ると、やはりKさんだった。45年も前に下宿で一緒だった先輩だ。当時彼は工学部の博士課程で学んでいた。確か専攻は材料破壊で、中でも金属の弾性、塑性に関するものだった。その後私は転勤族となったが、彼は大学に残って助手から助教授と栄進した。 彼がとある研究所に転勤したと聞いたのは数年後。教授は自分の息子を助教授に据えたかったようだ。やがて時は経ち、彼が研究所の所長になったことを知った。その彼は既に70歳を超えている。目の前の顔も若い頃と同様に穏やかで、言葉はさらに優しくなっていた。彼はタンクの破壊研究の第一人者で、肩書はさる国立大学の特任教授となっていた。 今回の大津波で流された石油タンクの画像を観ながら解説する彼の姿は、全国放送でも再び観ることが出来た。若い時から飄々とし、大人の風格があった彼。自然科学はもとより歴史にも造詣が深く、経済的に困っていた私から日本史の全集を買い取り、忙しい中わずか2か月ほどで40巻を読了したのには驚いたものだ。 彼は順調に研究者としての道を極め、世界を相手にして来たのだと思う。その彼に対抗出来る何ものもない私だが、私なりに様々な経験をした積りだ。一緒だったのは若い頃のわずか数年の下宿暮らしだけ。その彼とテレビの画面を通じて出会えたのは、きっと大震災の「お陰」だと思う。不思議な縁だが、時たま人生にはこんなことが起きるから面白い。
2011.10.18
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昨夜の9時過ぎ、書留が届いた。前日留守中に郵便屋さんが来、再配達を依頼していたものだ。妻は何が届いたのだろうと期待していたようだが、中から出て来たのは10月から有効の2人分の新しい保険証だった。 「私はあと20年は生きるよ」と妻。「ええっ?」と内心驚く。あと20年と言えば彼女は85歳。「へえ~っ、85歳まで生きる気でいるんだ」と感心しきり。確かに朝は30分以上も体操をしているし、ゆっくりだが時々走ってもいる。栄養には人一倍気づかい、適当な運動もしている。 それに彼女は健康に敏感で、市で行っている健康診断の色んな検査も受けている。それでも飽き足らず、生命保険会社のポイントを使って近く人間ドックを受ける予定だ。彼女が待っていた郵便物は、その生保からの資料だったのだ。妻の健康に対する意識は、87歳まで生きた父親譲りのように思う。義父も早朝から体操を欠かさない人だった。 だが、彼女の母親は67歳で人生を全うした。今の私と同じ年齢だ。リウマチを患いながら、無理して65歳まで働き、最後は糖尿病が悪化して亡くなった。タバコが好きな人でもあった。偶然だが、私の上司2人も67歳で亡くなっている。2人とも2つ目の職場の上司で、とてもお世話になった人。彼らはタバコと酒が好きで、そのうち1人はコーヒーにも目がなかった。 上司2人の死因は喉頭がん。放射線治療も受けたようだが、がん細胞が死滅するまでには至らなかったようだ。こうしてみるとタバコがいかに健康を害するかが分かる。私はタバコを止めて既に25年になるが、あの悪弊から逃れられたことがとても嬉しい。自分の健康だけでなく、他人に迷惑をかけずに済んだからだ。 九州の弟から葉書が届いた。少しにやけた弟と傍に寄りそう新妻が写っている葉書には、「9月に入籍しました。2人だと何かと安心です」と書かれている。弟が彼女を連れ立って仙台へ来たのは、8月の暑い盛りだった。前妻を亡くして5年。この度その改葬を終えて、ようやく入籍することにしたようだ。住所も新しいマンションに変わっていた。 悪口を言うようだが、亡くなった前の妻は自分の考えを変えない人で、ある種の偏見を持っていた。義兄の私に対して快く思っていないことが、電話を通じても強く感じられた。弟の新しい嫁は2人の子の母親だが、前夫亡き後一念発起して看護師になった人。8月に我が家に寄った時も、車のリアウインドーからいつまでも手を振っている可愛い人だった。 妻に葉書を見せると、「美人だねえ」と一言。彼女はまだ40代で、弟とは16歳が離れている。前妻をがんで亡くした夫と、まだ若いころ前夫を亡くした妻。この義妹と生きて会えるのはせいぜい1度か2度くらいだと思うが、暖かい九州の地で、第2の人生を共に健康で過ごして欲しい。 さて、平成22年度の熟年離婚は6700組以上になるそうだ。35年以上夫婦であった人の離婚が6700組以上と言う数が多いのか少ないのかは分からない。財産の分割、年金の分割、子供達への影響、老後の生活と不安。解決すべき「負のエネルギー」は大変なものだと思うが、それでも離婚に踏み切るにはよくよくの事情があったのだろう。熟年離婚は「夫婦道」とは何か、人生とは何かを考えさせられる問題だ。
2011.09.15
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< 健康の秘訣とは? > かなり盛り上がって来た頃、皆が一言ずつ挨拶することを幹事に提案した。一瞬戸惑ったようだが、一番奥のテーブルから一人ずつ近況報告が始まった。手打ち蕎麦とスキーに熱中している友、将棋の研究に勤しんでいる白髪が美しい友。健康を意識し10kg以上痩せた友、畑で野菜を作っている友。 浦安に住んでる級友は、震災時の液状化現象で驚いた由。高校時代ラグビー部だった友と2人、脳梗塞で入院していた友を見舞ったようだ。元気な様子でクラス会にも出席したかったのだが、家族に止められたとか。見舞いのお礼に、昼間から酒を飲まされたそうだ。山形に住む友は、ボランティア活動に従事している由。彼はほとんど毎回クラス会に出席している。 数年前に医者から「後8時間の命」と宣告されたのは千葉に住む友。奇跡的に健康を取り戻した後は、毎年靖国神社に参拝してるそうだ。健康のため毎日歩いているという友もいた。中には100km歩くと言う強者も。私はウルトラマラソンと登山の話。32年間で47都道府県の全てを走り、もう数年で地球2周に達すること。最近は不整脈に苦しんでいることを話した。 心筋梗塞で手術をしたり、血液をサラサラに保つワーファリンと言う薬を服用している級友も多かった。それに対してM和尚曰く。「自分は一切運動はしない。その方がむしろ健康に良い」と。彼はタバコも吸うし、酒も人一倍飲む方だ。ただ雑念を払い、腹式呼吸でお経を読むのが健康維持に役立っているのだろう。そしてさらに言う。「最後は自分が残って、クラスメート全員の冥福を祈る」と。 この場に来れなかった中には、もう15年間も人工透析を受けている友もいるようだし、津波で自社を失った友、翌日の地方選挙で忙しい友もいたようだ。一番最後に恩師が話した。大震災の日は新幹線で東京に向かっていた由。ご家族と台湾へ旅行する途中だったようだ。ところが地震発生のため車中に18時間ほど閉じ込められ、翌日から数日間は福島の避難所に収容されたのだとか。 大震災発生後半年を迎えるが、あの震災で亡くなった友が居なかったことは幸いだった。2年後には古稀(70歳)になる私達だが、それまで無事で過ごし、次回のクラス会を元気で迎えられることを祈って散会した。外へ出ると雨になっていた。級友を見舞って日中から酒を飲んだSはかなり酔っていた。彼に肩を貸し、駅まで送って行った。彼の家は千葉の浦安市。無事帰宅出来たか心配だった。 こうしてクラス会は無事終わった。高齢の恩師は今年81歳。やはり心筋梗塞で手術を受けたようだが、一番健康に留意している印象を受けた。何故なら血圧のコントロールに影響するため酒は一切飲まず、グレープフルーツは口にしない由。さらに血液を凝固させる働きが強いビタミンKを多く含む納豆は食べないとのこと。 そこまで徹底しないと長生きが出来ないのかも知れないが、私はこれからもゆっくり走りたいし、山にも登る積り。そしてバランスの良い食事を摂るように心掛け、多少はアルコールを楽しみたい。ただ長く生きるだけが人生ではなく、与えられた時間の中で何をするか、どんな充実感と達成感を得るかが大事だと思うからだ。人生は様々で良い。それが一番面白いんじゃないかな?
2011.09.12
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< 懐かしい顔 > バスを降りると音楽が聞こえて来た。それは外資系のホテルが入っている高層ビルの方向だ。ビルの前には人だかり。テーブルではビールを飲む人も。そして仮設ステージでは男女のギタリストが外国の曲を弾いていた。今日はジャズフェスティバル。街中の至る所でミュージシャン達が代わる代わる演奏している。 時間が気になったが、椅子に座って音楽を聴いた。若い男女が、馴染みのあるビバルディーの曲や、どこか物悲しいルーマニアの民謡を弾いている。クラシックギターだが、マイクで拾われた音は意外と高い。ギターの音に混じって、傍を通る車の音や風の音も時々聞こえて来る。そして強い風が悪戯して、ギタリスト達の譜面をめくる。 豊かな気持ちになってそこから離れた。横断歩道を渡り、向かい側のビルへ急ぐ。ホテルのロビーでクラス会の会場を確認すると3階の部屋だった。受付に何人かの級友がいる。挨拶をして先ずトイレを済ます。室内には3つの丸テーブルがあり、それぞれ6席ずつ設けられていた。そして真ん中のテーブルには恩師の笑顔が待っていた。 恩師、親しかった級友に挨拶し、自分の席に落ち着く。席順は無く、早く来た順番に座るようだ。右手は長年県庁に勤務した級友で、左手はさるお寺の住職。彼とはKスタで一度会ったことがある。今日もわざわざ応援して来たとか。田中マー君と日ハム斉藤の元高校球児対決は、楽天が4対1で勝った由。5年目の田中が、新人に負ける訳がない。 その彼が1枚の写真を私に見せた。仙台出身のお笑い芸人、サンドイッチマンが写っている。先日お寺に彼らが来た時のものらしい。顔と名前は知っていたが、まさかそれが級友の息子とは知らなかった。Dはお殿様の子孫で、地元銀行の支店長を務めた堅物。その息子が金色に髪を染めたあのお笑い芸人だったとは。 司会のAはクラス会の万年幹事役で、彼も地元銀行の支店長を務め、今でも仕事を続けているようだ。優しい人柄は幹事役にうってつけ。この日もちゃんとクラス名簿の最新版を用意してくれていた。先ず記念撮影。亡くなった級友の冥福を祈って黙祷した後、恩師の挨拶。担当は国語だったが、恩師が威張ったり怒った姿を見たことがない。この日も穏やかな口ぶりで、招待されたお礼を述べた。 乾杯の音頭を取ったのは、有名デパートに勤務していたI。彼は来月開催される同学年会の幹事で、実に真面目な男。私達の学年は、学年会とクラス会を隔年ごとに交互に開くほど熱心で結束が固い。2年前のクラス会は近郊の温泉に一泊してのものだったが、あれからわずか2年しか経ってないとは思えない。もう3、4年前の遠い思い出のような気がしていた。 飲み放題の安い店とは異なり、出される料理は良かった。部屋の大きさもマイクの調子も、何よりクラスの雰囲気がとても良かった。飲むほどに酔い、昔話や今の話に花が咲いた。幹事からは参加出来なかった級友からのメッセージが紹介された。 奥さんが亡くなった級友、津波で自宅が全壊した級友、病気で入院中の級友。この2年の間に級友達の身には色んなことが起きたようだ。その紹介を聞きながら、1人1人の顔を思い出していた。転勤のため31年もの間仙台を離れていた私の脳裏に浮かぶのは、まだ17、8の高校生だったころの若々しい顔だ。<続く>
2011.09.11
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今朝目が覚めたら7時前だった。8時間ほど眠ったようだが、よほど疲れていたのだろう。パートタイマーの肉体労働者。67歳。最近は故障がちでウルトラマラソンの完走も覚束ない。週末の疲れ。前日早番と遅番を兼務した疲れ。なでしこを応援した疲れ。不整脈のため血液が上手く体内を巡り難いための疲れ。原因は何だか良く分からないが、恐らくはそれらの要素が絡み合ってるのだと思う。 こんな時間まで、愛犬はじっと待っていてくれた。いつもより2時間も遅い朝の散歩だ。もう日は高く、気温も上がっている。帰宅途中バス停に寄り、土曜日の運行ダイヤを確認する。今日は夕方から、街中のホテルで高校時代のクラス会がある。帰宅後、愛犬に餌と新しい水を与える。次いでガレージと玄関の掃き掃除。 植木鉢に水遣り。今庭に咲いているのはノボタン、セージ、バラ、ムクゲ、ヤブラン、シュウメイギクくらいか。畝にも散水。先日蒔いた秋野菜の種から小さな芽が出ている。唯一始末しなかったモロッコインゲンだが、「もう駄目じゃないか」と妻は言う。私は「まだ慌てることはない」と言って、そのままにしていた。まだ葉は青く、たくさんの花が咲いていたからだ。 確かに真夏ほどの勢いは無くなったが、ゆっくり見守れば収穫出来るはず。それは長年家庭菜園を手掛けて来た私の直感。今朝は久しぶりにインゲンを探して見た。あまり太くはないが、柔らかそうな莢が幾つか実っていた。採ったのは全部で20本ほどか。妻はまだ眠っている。きっと仕事とうつ病の姉への対応で、疲れているのだろう。 インゲンはお浸しにした。ワカメと豆腐の味噌汁を作り、ご飯やおかずをチンする。いつもながらの健康食。食後には自家製のカスピ海ヨーグルトとグレープフルーツを食べる。そして薬を服用。その頃になってようやく起きて来た妻。早速自分の布団と妻の布団を2階のベランダに干す。その間、妻は洗濯の準備と朝食。 妻が朝食を摂る間に、リサイクルゴミをビニール紐で縛って始末。これは子供会の収益になる。洗濯機が停まると、今度は洗濯ものを籠に入れて2階へ。妻が洗濯ものを干す間に、薬缶でお湯を沸かし、ポットに入れておく。そしてそれらが一段落すると、物置から古いバスタオルや敷物を取り出す。臭気が酷い愛犬のシャンプーの準備だ。 雰囲気を察知して逃げようとする愛犬。それを後から抱えて、風呂場まで連行する私。中で待ち構えている妻に愛犬を渡し、私は自室でパソコンを開く。要領の良い妻は、手早くかつ丁寧に愛犬を洗う。よほど気持ち良いのか、その間愛犬は抵抗をしないのだとか。これが私だったら、そうは行かないだろう。 さて、今夜のクラス会では級友からどんな話が聞けるか。そして私はどんな話をしようか。限界に近づきつつあるマラソンの話。大した被害はなかったけど春先の震災の話。マラソンの費用を稼ぐため、いまだに続けている仕事の話。もう一頃のような元気はないが、それでも何とか充実した暮らしの日々。人生にも秋の予感が漂いつつあるこの頃だ。
2011.09.10
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九州に住む弟から初めてのお中元が届いたのが一昨日のこと。「これはどうした風の吹き回しだろう」。そう思っているうち、昨日は兄嫁から電話があった。何と弟が「彼女」を連れて東北を観光旅行中とのこと。そして今日、仙台に来るとの話だった。「へえ~っ、それでお中元をねえ」と思って電話を切ったのだが、思い立って兄嫁へ電話をかけ直した。 高校卒業後直ぐに東京へ出た弟。あれから弟と会ったのは、お互いの結婚式や母の葬儀など、今まで10回も無い。最後に会ったのは5年前。奥さんのお葬式が最後だった。私は31年間もの間転勤を重ねて来たし、彼も東京の本社勤務の他、北海道、茨城、宮崎へ転勤していた。彼の妻が亡くなったのも、最後の勤務地である宮崎でのことだった。 定年となった後も弟はそのまま宮崎に住み続けていた。のんびりとした土地柄が気に入ったようだった。奥様の希望通り遺灰の一部を沖縄の海に流した後は、地元のテレビ局に時たまゲストで出たり、ゴルフを楽しむ毎日だったみたい。「誰か良い人が出来たら結婚するかも」と言っていたが、あまり本気にはしてなかった。 兄嫁は車で弟達を仙台駅まで迎えに行き、私は途中で拾ってもらった。行き先は父母が眠る墓地。車から下りた時に初めて弟の「彼女」を見た。清楚な人だった。49歳の看護師さん。20代のお子さんが2人居られるとのこと。そして看護師の資格を取ったのが42歳と言う話に驚いた。深い志がなければその歳で看護師を目指すことはないはず。 夫君とは死別なのか離別だったのかは聞かなかったが、墓前の草を抜き、墓碑に水をかけ、線香を上げて手を合わせる姿を見ていたら、それぞれの第2の人生を幸せに過ごして欲しいとの思いが強まった。兄宅へ挨拶に行き、そこからは従弟のタクシーで市内見物しながら我が家へも寄ってもらった。 生憎妻は仕事で留守だったが、花壇のカサブランカと老犬マックスが迎えてくれた。従弟が我が家へ来たのは初めて。私達兄弟と従弟の3人が会ったのはきっと50年ぶりくらいのこと。弟も従弟も妻をがんで亡くしている。なんだか運命の悪戯を感じてならないが、次に会えるのは果たして何時になるか。 元気なうちに、是非弟達の所を訪ねてみたい。観光も楽しみだが、妻にも弟の彼女を見せたいからだ。そのためにもしっかり足を治さないとね。今日も30度を超える暑い一日だった。そしてこの暑さはまだまだ当分続くらしい。
2011.07.13
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貧乏を売り物にした女性タレントが自殺した。鹿児島県種子島出身の上原美優さん(24歳)がその人。子だくさんの家庭に育ち、子供の頃はおやつ代わりに野草を食べていたと言う。飾らない性格でとても可愛かった人だったのに、どうして死んでしまったのだろう。 昨年最愛の母が亡くなってから、淋しさを感じていたようだ。これまでも自殺未遂を2度行っているそうだ。死の前日には種子島の父親に電話し、家に帰りたいと漏らしていたとか。早く不毛な芸能界に見切りをつけて、故郷で伸び伸び暮らしていたら、きっと死ぬことはなかったはずだ。可哀想なことをしたと思う。合掌。 女優樹木希林の夫であるロック歌手の内田裕也が逮捕された。容疑は知人に対する脅迫と無断侵入のようだ。勝手に鍵を付け替えるなど、あきれた行動には口が塞がらない。相手の女性とは以前不倫関係にあったのだろう。「仕分け会議」の会場に乗り込んでのパフォーマンスなどにも奇異を感じていた。 それにしても妻の樹木希林の悠然とした態度には驚きを禁じ得ない。夫婦ではあっても既に30年以上別居が続いているとか。夫の犯罪に恐縮し、自発的に記者会見を開いて謝罪し、コマーシャル関係者にも謝罪したそうだ。 娘婿のもっくんこと本木雅弘も義父の犯罪に関して、「どんなことでも責任を取る」と表明しているようだ。こんな出来た妻や、孝行な義理の息子に対して、本人のあまりにも無責任な行動には怒りを禁じ得ない。家族とは一体何だろう。最近、そんなことを強く考えさせられている。 妻が朝から旅行に出かけた。筑波時代の友人達と箱根に一泊するらしい。日頃は忙しい妻だが、こんな時こそのんびり過ごして欲しいと思う。先だっての母の日には、カーネーションを買っただけ。そのうち何かプレゼントしたいと考えている。 そんな訳で今日は私自身ものんびり過ごした。本当は暑い中で30kmほど走ろうかとも考えたのだが、無理はしないことに。妻に頼まれた買い物のついでに、食べたいと思っていた「豚足」を買い、強烈な加齢臭が漂う自室用に消臭剤を買った。コタツを片づけたついでの気分転換も悪くない。 そんな訳で今日は昼間から豚足をつまみに、水割り焼酎を2杯いただく。1本は塩をつけて食べ、もう1本は酢味噌で。どちらもそれなりに美味しい。酔っ払った後はソファーで昼寝。まさに極楽そのものの1人暮らしだった。今日は久しぶりに楽天も勝利したため気分は良い。早めに風呂に入った後は大河ドラマを観る予定。明朝の味噌汁もとっくに作ったよ。
2011.05.15
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「お父さん、オイアイって知ってる?」。妻が私にそう尋ねたのは、確か2日ほど前のことだった。「オイアイではなく、アイオイだろ。兵庫県の相生市」。そう私は答えた。「そうそう相生。でも地名じゃないの。歳とってからも夫婦がいつまでも一緒に暮らすことなんだって」。どうやら彼女はテレビ番組を観て、何か感激することがあったようだ。 今日は真夜中の3時に目が覚め、眠れなくなった。1時間ほど布団の中で過ごし、4時過ぎに起きてパソコンのスイッチを入れた。だが、楽天ブログはメンテナンス中で観られない。楽天以外のブログを幾つか覗いた後、読書に切り替えた。先日歯医者さんからもらった雑誌の特集記事「日本の神様入門」の幾つかの項目に目を通す。専門書ほどの専門性はないが、なかなか読み応えがある。これは退屈凌ぎにゆっくり読むことにした。 次に宮城谷昌光著の「夏姫春秋」。上巻は既に読み終え、昨夜から下巻に入っている。彼の著書は勝田マラソンの後に読了した「史記の風景」に続き、「花の歳月」も読み終えている。今回の「夏姫春秋」は、これまで読んだ彼の著書とは全く趣が異なる。言って見れば「人間の深い業」がテーマ。強烈な場面に出くわし、思わず読書を中断してしまった。 愛犬との散歩、朝食に続いて新聞を読み、いつもの番組を観る。だがその途中で眠たくなった。その間に妻はジョギングに出かけたようだ。一眠りした私も着替えて、近所の坂道へ走りに行く。途中走友会の若いメンバーに会う。膝を傷めて今はゆっくり走っている由。その後遭遇した妻に、11時には出かけることを告知。 今日は映画を観ることになっていた。本当は「別府大分マラソン」の中継があるのだが、妻との約束を優先したのだ。「僕と妻の1778の物語」がそれ。ガンで死に行く妻を励ますために、SF作家の夫が毎日小さなお話を書いてプレゼントする話。主役は夫役が草なぎ剛で、妻役が竹内結子。予告編の通りなかなか素晴らしいストーリーだった。 映画は作家眉村卓夫妻に起きた実話をリメイクしたものとか。草なぎは例の露出事件で顰蹙を買ったが、その後立ち直って活躍している。竹内結子は歌舞伎俳優の中村獅童と離婚したばかり。だが作品中での2人はそのような過去を引きずることなく、至高の夫婦愛を演じていた。最後のシーンでは思わず涙を流す観客が多かった感じ。 「どうだった?」。そう尋ねる妻に、「良かったよ」と涙を拭きながら話すと、彼女は「眠っていたの」と一言。1時間40分のランニングに疲れ、讃岐ウドンの大盛りに満腹し、映画館内の暖かさに、つい眠気が差したのだと思う。それはそれで良し。少し眠って疲れが取れたら、また元気が出ると言うものだ。 妻がどこかに立ち寄ってる間に帰宅し、愛犬との散歩を済ます。さて、「相生」とはなかなか素敵な言葉。一人ではなく相手と共に生きて行くのは、時には大変な苦労にもなる。健康に不安が生じる老後となればなおさらのこと。今日の映画は、夫婦のあり方を考えさせてくれたように思う。さて、「別府大分」を走った走友達の結果はどうだったのだろう。
2011.02.06
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昨日の11日は成人の日だった。以前は1月15日だったのが、法の改正で最寄りの日曜日にひっつく形になったのだろう。インタビューに答えて立派なスーツを着こなした新成人の若者が話す。「これからは社会に貢献出来る人間になりたい」と。なかなか殊勝な発言だ。仙台市内の成人式では、胸元が露わな女の子が映った。何と言う無様な服装なのだろう。 当然のことながら、彼らが着ているスーツや振り袖は、彼ら自身が代金を支払ったものではなく、ほとんどが親から与えられたものだろう。昔と違って子供の数が極端に減った今は、誰もが大事に育てられていると思う。そしてえり好みさえしなければ、どこかの大学へ入れる時代になったのではないか。 不景気が影響して、今は「就職氷河期」なのだとか。だから大学も3年になれば、ほとんどの学生は就職活動に必死になる。少しでも良い会社に入るために。そして少しでも高い収入を得るために。なるほどそれも悪くはない。だが、それが人生の全てだろうか。アメリカの大学は入るのは簡単だが、出るのは困難と言われている。予習をしっかりしていないと授業について行けないからだ。 それに教員達は学生に独創性を求める。日本の学生とは大違いだ。入学試験に必死になり、就職活動に必死になって、人間として成長すべき時期に大切なものを見失っているような気がしてならない。それでも一頃のような荒れる成人式よりはよほど健全。酒が飲めるのが成人の特権と勘違いし、成人式の会場で大暴れする若者の姿はもう見たくない。 私が二十歳を迎えたのは昭和39年。もちろん成人式は1月15日だった。だが私は成人式へは行かなかった。3月生まれの私は1年遅れて成人式を迎え、大部分の同級生は既に成人式を終えていた。だから見知らぬ人ばかりの会場へ行く気が起きなかったのだ。私が向かった先は血液銀行。成人の記念に相応しく献血をしようと思ってのことだ。 だが、院内の様子に愕然とした。血液銀行にたむろしていたのは、顔色の悪い不健康そうな人ばかり。彼らは自分の血を売って暮らしていたのだ。当時の血液銀行は献血ではなく、売血によって成り立っていた。つまり血は手っ取り早い収入の手段で、彼らは労せず金儲けをしていたのだ。私は黙ってそこから立ち去った。 昭和39年は東京オリンピックが開催された年でもあり、東海道新幹線が開通した年でもあった。その年末、私は京都に旅した。もちろん自分で稼いだお金でだ。あの旅が私の心を開放してくれたように思う。そして鬱々とした気持ちは、新しい職場に異動したことで一掃された。勤めて4年後には夜間大学に入った。22歳の勤労学生だった。 経済的にはとても苦しい4年間だったが、学べることが楽しかった。そしてそれが妻との出会いにもつながった。学生委員会に所属したせいで大学紛争にも遭遇し、まさに波乱の時期だった。その夜学も勤労学生の減少により、数年前に消滅した。大学卒業と結婚が同じ年だったから、あれからもう41年が経つ。我が青春の思い出もかなり古ぼけたようだ。
2011.01.11
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猛暑が続く仙台だが、悪いことばかりではない。梅雨末期の豪雨で湿った畑が、その後の高温で野菜の生育が一気に早まった。モロッコインゲンは大豊作だったし、7月は4本ほどしか収穫出来なかったゴーヤが、今は次々に成長している。そして完熟したトマトやミニトマトの甘くて美味しいこと。今日は知り合いの家に採れたての野菜をお裾分けに行った。 東北楽天が弱い。負け試合ばかりでさっぱり面白くなく、Kスタへ応援に行く気がしない。ラジオで聞いていて終盤に3点差で負けていれば、さっさとスイッチを切って眠る。そうすると翌朝4時に起床し、早朝ランが可能。楽天が弱いことが、結果的に私の走行距離を増やす原因になった。でも田中マー君が久々に登板する今日の試合のチケットが完売だったのは、ちとショック。 妻の定年まで後1年となった。仕事が少しずつ減り、土曜日が暇になった妻は観劇に出かけるなどし出した。今日は友人と山間のウイスキー工場に絵を描きに行った。私にとっては自由時間が増えて嬉しいことだ。妻の仕事が忙しかった時は色んな用事を頼まれたり、妻に付き合うことが多かった。 老後は自分のしたいことをするのが一番ではないか。これはお互いが健康で、経済的な心配がないことが前提だ。もちろんこれまで通り家事の分担やお手伝いすることに異存はない。唯一の心配はまだ独身の2人の息子。これも「少々心配事があった方が人生の彩りになって良い」と考えるようにしよう。 走友会の専用掲示板を見てガッカリ。楽しみにしていた蔵王のトレイル練習が既に終わっていたからだ。これは専用掲示板を開けなかった自分が悪い。10月の末にある「伊南川100kmウルトラ遠足」も今年は参加を見合わせた。少々寂しい気持ちはあるが、来年の楽しみとして取って置けば良い。チャンスは必ずあるし、今回はその代用の練習を自分で考えることにした。 昨日は妻と買い物に出かけた。買ったのは私のランニング用品と、2人の登山用品。登山関係で買ったのは上下の登山服と雨具。これだけでも5万円近い額。不足のものはまだまだ多いが、これから徐々に揃えるのを楽しみにすれば良い。負け惜しみかも知れないが、時には辛抱することも必要だと思う。
2010.08.01
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10日ほど前にアカデミー賞の発表があった。今回は例年以上に注目されることがあった。共に受賞の有力候補と目されたキャスリン・ビグロー監督とジェームズ・キャメロン監督が元夫婦だったからだ。結果は元妻のキャスリンが作品賞や監督賞など9部門中6部門で受賞。元夫のジェームズは3部門の受賞に止まり、元妻の圧勝に終わった。 注目度が高かったのはむしろジェームズの方だったかも知れない。何故なら彼が製作した話題の3D映画「アバター」は、興行収入ランキングの堂々1位だったからだ。一方キャスリンの作品はイラクにおける米軍爆弾処理班を描いた戦争アクションとのこと。 キャスリンはコロンビア大学芸術大学院で映画理論や映画批評を専攻したエリート。これに対してジェームズはカリフォルニア州立大で海洋生物学と物理学を学び、後に英文学に転向した。大学卒業後はトラックの運転手などをしながらも、映画製作への夢を捨てなかったとか。 この2人が夫婦だったのは僅か3年間だけ。ジェームズは3回離婚を繰り返し、目下4度目の結婚生活のようだ。女性初の監督賞を受賞した元妻を、元夫は心から祝福したそうだ。男と女が出会って一緒に暮らし、やがて破綻の後の別れ。彼らが作った映画もさることながら、彼らの人生そのものがかなりドラマチックに見える。 人生のドラマで思い出すのが2人の後輩。1人はアフリカから留学した黒人と結婚してアフリカへ渡り、もう1人は妻子ある男性の子を身ごもって、シングルマザーになる道を選んだ。2人とも勇気ある選択をし苦労の連続だったと思うが、幸せに暮らしていることを願っている。 ある年の正月、妻が1枚の年賀状を私に見せた。「干支」の赤いスタンプが押してあるだけで、何のメッセージもない年賀状。差出人は妻の高校時代の親友だった。10年ほど前に彼女の夫が病気で倒れたことは知っていたが、医療費が嵩み貯金が底をついたのだろう。夫君が元気で商売が繁盛していた時は、パリやローマへ遊びに行った話を何度か聞いたものだ。若い頃アン・ルイスに似た美人だった彼女が、まさか40年後に生活保護を申請する身になるとは。 ある時、妻は別のクラスメートの自宅に招かれた。彼女の夫は元銀行員で脱サラ後金融業を開業し、今はパチンコ店を幾つか経営している。家はカラオケルームもある豪邸だったっと妻。だが、友人は膝を痛めて車椅子でしか移動出来ないとも。若い頃から良妻賢母の印象が強かった彼女が、今は車椅子生活を余儀なくされているとは。 方やお金に困窮している友。方やお金には不自由しないけど、健康に不安がある友。男と女の巡り会いは実に不思議な出来事だし、人生とは時に残酷なもの。我が家は経済的な余裕はないけれど、夫婦揃って健康に過ごしている。これで案外幸せなのかも知れないと、最近は考えるようになった。
2010.03.16
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この冬、初売りの割り増し商品券を使って、妻が眼鏡を作り変えた。ずっと我慢をしていたのだが、仕事で書類を書くのに不便で限界を感じたのだろう。ところがこれまでの眼鏡を調べた店の人に「乱視が入ってない」と言われたそうだ。それを聞いて私にも思い当たることがあった。 私の前の眼鏡も妻と同様低価格を売り物にした店で作ったのだが、検眼の時は良く見えたはずなのに出来上がって来た眼鏡が全く見えず、再度作り直したものも全く見えなかった。これでは埒が明かないと考え、今回妻が訪れた老舗で改めて作ったが、はっきり乱視であることを指摘された。今にして思えば、2回作った安売り店の眼鏡にはきっと乱視矯正が施されてなかったのだろう。 昨日は妻と連れ立って話題の映画「アバター」を観に行った。前回は満員だったため仕方なく別な映画を観たが、今回は開館前から並んでチケットを買った。ところが空席は前列のわずか6席だけで、しかも妻とは離れ離れの席になった。観終わった妻が言うには、「3Dの眼鏡が合わなかったため目が痛くなった」由。良く聞くと上下逆にかけていたようだ。 私の方は時々3D眼鏡がずり落ちたため、何度かかけ直した。妻が目が痛かった原因は、きっと瞬きをせずに観ていたからだと思う。そして、アバター達が空を飛ぶ場面が怖かったため、最初は眼鏡を外したそうだ。私も妻と同様高所恐怖症のため空中から下を見るのが怖かったが、これは作り物だと言い聞かせているうちに慣れて来た。 昨年観た「2012年」もそうだったが、SF物はどうしても奇をてらう傾向が強い。ストーリーが奇抜だし、映像が立体的に見えるのだから別世界の気分を味わえるのは確か。巨費をかけ、膨大な手間をかけた話題作だから当然人気が高く、観客数も多いのだろうが、深い味わいや感激といった点ではどうなのだろう。 先日妻の職場の上司から電話があった。来月末で定年になるが、それ以降の意志を確かめるものだった。それとなく聞いていたら、妻は仕事に生き甲斐を感じているのでこれまで通りに働きたいと答えていた。次の区切りは65歳で、最大67歳までは勤務出来るそうだが、妻は65歳まであと2年間頑張る積もりらしい。 その頃には公的年金が支給され、個人年金の支払いも始まるからだと思う。そして、その後は私と一緒に外国旅行をするのが夢とのこと。一方の私は、出来ればこのまま70歳まで勤務し、さらに事情が許せば警備員の仕事だけを72歳くらいまで勤めたいと願っている。それは飽くまでも私の希望であって、会社の判断とは別問題なのだが。 元気で仕事が出来るのはありがたいことだ。生きる上での張り合いになるし、健康も保てる。そして体は疲れるが、経済的に助かるのも本当のところ。だからこそ気軽に温泉にも行けるし、映画も観られるし、子供や孫達に贈り物をすることも可能なのだ。後数年、何とか元気に働きたいものだ。小さかった「ふきのとう」がようやく膨らみ、クリスマスローズの苗全てに花芽がついているのが嬉しい。待たれる春よ。
2010.02.22
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NHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」を観ている。今年の連続ドラマ「天地人」が早めに終わり、その時間帯に放送されているのが「坂の上の雲」だ。これは3年間にまたがって放送されると聞いた。原作は司馬遼太郎の同名の小説。文庫本だと8冊にもなる大作のようだ。 時代は明治期。舞台は四国の松山と東京。このドラマの主人公となる人物は、秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟と正岡子規。彼らの故郷が松山なのだ。そして真之、子規らと大学予備門(旧制一高の前身、現東大教養学部)で共に学んだのが後の夏目漱石。話は彼ら4人を中心に展開して行く。司馬遼太郎は、この小説を書くにあたり、絶対真実でないことは書かないことを決意したようだ。不明な部分はあえて書かなかったのだとか。 一番年長の秋山好古は愛知県の師範学校を卒業して教師となるが、やがて陸軍兵学校に入学しフランスに留学、最後は陸軍大将となり「日本騎兵の父」と呼ばれる。除隊後は郷里の松山へ帰り、自ら願い出て中学の校長となる。71歳で糖尿病と脱疽のために死去。 真之は予備門から海軍兵学校へ進んで主席で卒業し、後にアメリカへ留学。当時最強であったロシアのバルチック艦隊をウラジオストックで破ったのが彼で、後に海軍中将となる。盲腸の悪化による腹膜炎のために49歳で死去。 子規は大学予備門から帝国大学文学部哲学科へ進み、後に文学科に転じた。学生時代から短歌や俳句に親しみ、喀血してからは俳句に打ち込むため新聞社に入社。わが国に野球を紹介した人物としても知られているが、俳句中興の祖としてその名を知らない人はいないだろう。肺結核と脊椎カリエスのため34歳で死去。 漱石は東京の人。松山出身の3人が士族の家柄だったのに対し、彼の家は町方名主。帝大文学部英文学科を卒業後、愛媛県尋常中学の教師として松山に赴任。これを素材にした小説が「坊ちゃん」である。後、五高(現熊本大学)教授に転じ、イギリス留学後東京帝大講師となり、小説に専念するため朝日新聞社に入社し、有名な小説を次々に発表した。胃潰瘍のため51歳で死去。 彼らが活躍したのは明治だが、いずれも江戸時代の誕生。武士や名主の子として生まれ、一流の学問を身に着けた彼らは、その後それぞれの分野でさきがけ的な存在として活躍する。このドラマを観ていると、明治政府の中心となった人物が、元武士としての誇りを抱きつつ、お国言葉(方言)から抜け出せないままだったことが分かる。 冒頭のタイトルに出て来るのが松山城。これはとても美しい城だ。私は足掛け8年ほど松山で過ごしたことがある。小学校5年の冬から高校1年の春までと、48歳から51歳までの2回だ。卒業した中学校は松山城の二の丸にあり、昼休みにはしょっちゅう城の石垣を登って遊んでいたし、一度は学校からの帰路、お堀に落ちたこともあった。だからあの城はとても懐かしい。 ドラマに出て来る人物が話すお国言葉の中で、今は使われないものもある。例えば「ありがとう」の意味の「だんだん」は、てっきり島根県の方言だとばかり思っていたのだが、明治期には松山でも使っていたことが分かった。 また語尾に強調のためにつける「なもし」は、私が子供の頃には良く使われていたのに、30年以上経って赴任した際はもう使用されず、使って笑われてしまったこともある。そんなことから言葉もその時代を反映し、流行り廃りがあることを知らされた。 この長編ドラマが今後どう展開して行くのか全く分からない。幕末の動乱を乗り切り、一躍先進諸国の仲間入りを果たすためにわが国が急速に体制を整え、近代化を推し進める明治期。その中心となった当時のエリート達が一体何を考え、どう行動したのか興味は尽きない。方や軍人となって国を支え、方や文学の道を志した青年。 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」。明治時代が終わってから、まだ97年しか経ってないのに、遥か昔のように感じるのは何故だろう。そして古い時代の言葉や、遠い地方の言葉も、次第に忘れられてしまうのだろうか。
2009.12.15
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NHKの連続ドラマ「ウェルかめ」を時々観ている。だが、果たしてタイトルがこれで合っているのか、自信がないほどの不熱心な観方しかしていない。内容は青春のドタバタ喜劇とでも言えようか。ヒロインは徳島県南部の海岸の出身。実家の遍路宿は母親が悪戦苦闘しながら営んでいて、小さなサーフショップの主である父親は、未だにサーファーとしての夢を捨て切れないでいる。 徳島の小さな出版社に勤務し、一流の編集者になるため頑張っているヒロインを巡って、仕事や恋愛がからみながらストーリーが展開して行く。だが私が惹かれるのはドラマの内容ではなく、舞台となっている徳島の言葉そのものだ。 私は40歳から45歳までを、家族と共に徳島県の鳴門市で過ごした。新しい組織を立ち上げるため、急遽茨城県から赴任した。もう20年以上も昔の話だ。たった一人で新しい仕事に挑んだあの時の苦労が、ドラマの中で頻繁に出てくる「阿波弁」を聞く度に思い出されてならない。 職場ではほとんど徳島県人だったから、やはり阿波弁が飛び交っていた。東北にはない独特のイントネーション。彼ら自身の話では、徳島県人の気質は3つに分類されると言う。県南地方は海岸性気候の影響かとても温和。そして吉野川の上流は「そら」と呼ばれ、もの静かな性格の人が多いとか。それに比べ大阪に近い東部の鳴門や徳島は気質が荒く、商売上手とのことだった。 そう言われてみると、そのような性格は確かに当てはまっていた。イントネーションだけでなく、彼らが話す言葉の裏には果たしてどんな本音が潜んでいるのか。そんなことを気にしながらの日々だった。子供達の世界はもっと単純で、話す言葉が自分達とは違うと言う理由で、結構苛められたりもしたようだ。 何年か前、さだまさし原作の映画「眉山」(びざん)を観た。主役は松嶋奈々子だった。あの映画でも徳島や鳴門の言葉が飛び交い、眉山を初めとする徳島の懐かしい風景がふんだんに登場した。徳島の夏の風物詩である阿波踊りの場面では、生来の不器用のため練習してもなかなか上手に踊れなかったことを、苦々しく思い出したりもした。 その鳴門勤務時代の先輩が今年亡くなったことを、最近になって知った。息子さんの名前で喪中はがきが届いたからだ。昨年彼から届いた年賀状には、目が見えなくて返事が書けないため、来年から年賀状を出さないで欲しいと書かれていた。私は誰かに読んでもらえば良いと考えて今年も出す積もりでいたのだが、ひょっとしたら糖尿病でも悪化していたのだろうか。 享年67歳で1学年先輩だった彼。まだ亡くなるような年齢ではないと思うのだが、管理職として転勤した晩年は、きっと他人には語れないような苦労続きだったのだろう。鳴門時代も毎晩酒を飲み、酔いが醒めるまで麻雀に熱中した。あの時の仲間達は、元気で過ごしているのだろうか。安否の手がかりとなる年賀状を出す季節が、今年もまたやって来た。
2009.12.14
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妻の不機嫌そうな表情に気づいたのは、「佐渡島一周」から帰宅した後だった。否、厳密に言えばそれ以前の夫婦喧嘩以降だったかも知れない。ウルトラレースで何日か留守にした後、妻の様子がおかしいことはこれまでもあった。私の方は辛く厳しいレースを終えてホッとしているのだが、妻にしてみれば私が1人だけ楽しんで、自分は放っておかれたような気分になるみたいだ。 昨夏、私は「立山登山マラニック」で怪我をした。帰宅後激痛に苦しんでいたが、妻の様子を見て2週連続でハイキングに出かけた。彼女のストレスを発散させるためには、大自然に触れるのが一番だと知っていたからだ。痛みを隠して12kmの山道を2度歩いたことが、その後腱鞘炎を悪化させる原因となったのは確かだが、あの状況では止むを得なかったと思う。 それに比べ今回は少し油断していた。自分はずっと温泉に行きたいと思っていたのだが、私に遠慮して言い出せなかったと妻は言う。日帰りならまだしも、3泊4日ほどのレースだと、愛犬との朝夕の散歩も彼女が引き受けることになる。仕事を持つ妻にとっては、結構負担に感じているのだろう。 それ以上に嫌なのは、私がマラソンに夢中になって温泉に行けないことなのだとか。もしそうなら女友達とでも行けば良さそうなものだが、彼女はよほどでもない限りそうはしない。世の中には「亭主元気で留守が良い」の名文句もあるのだが、どうも我が家には該当しないみたいだ。 佐渡島から帰って以降、私なりに配慮して近場の野草園にも行ったし、映画や美術館にも一緒に出掛けた。それでも彼女にとっては不満だったみたい。安いバス旅行で良いから月に1度は2人で出かけたい由。それならそうと、旅行会社から送られて来るパンフレットを見て、自分が行きたいところを提案すれば即座に解決するのだが、それすら遠慮だったとはねえ。 妻の言い分を聞き、早速3件のバス旅行を申し込んだ。その「1回目」が明日の旅行。明日は朝早く出かけ、夜遅い帰宅になるため多分日記は書けないことを予めお断りしておく。さらに、妻からの注文が続いた。私の来年のレース参加予定を、予め自分にも教えて欲しいとのこと。 私がカレンダーにレースの予定を書き込み、それを見た妻が事後承認するのがこれまでの我が家の暗黙のルールだった。それが事前にチェックし、あまり長い日程のレースは困ると言い出したのだから参った。これまでだってレース参加は月1回を原則とし、体への負担や必要経費などの点から慎重に選んでいた積もりなのだがねえ。 急遽練りに練って翌年の計画を立て、次の日妻にそれを見せた。まだ不満が残るようだが、月に1度は私と2人でバス旅行に行くと言う条件で何とか許可。その際私も申し入れをした。来月の沖縄行きの経費を一部前借したいこと。来年パソコンを更新する際は、家計からの補助をお願いしたいことの2点だ。「転んでもただじゃ起きない」とはこのことじゃよ。むふふ。 さてマラソン費用を稼ぐため、私は70歳まで後4年半は働く積もりだが、妻自身はせいぜい65歳までと言う。記憶力が落ちて提出書類を書くのが大変と言うのがその理由だ。強いストレスを感じてまで働く理由はさらさらないし、退職後は本当に自分がしたいことをすべきとも思う。老後のあるべき夫婦像とは何だろう。先日亡くなった女優の南田洋子と、認知症になった彼女を5年間に亘って介護した夫の長門裕之の姿から、そんな想いを抱いた私だった。< 今月のラン&ウォーク > 月間走行回数:10回(うちレース1回) 走行距離:198km 月間ウォーク回数:毎日 距離:252km 年間走行距離:2033km 年間累計:3831km これまでの累計:69、253km
2009.10.31
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