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~南島の神話と民俗と歴史~ 南島の夜明け 「日本民俗学の父」柳田國男は、「海上の道」で、日本人の祖先は稲を携え南から島伝いにやって来たと唱えたが、そんな単純なものでないことをこのシリーズでは説いたつもりだ。逆に内地から南島に伝わったことも多いのだ。神話、言語、宗教、文化、食物など多岐にわたる。追補版で記したように、内地と南島の間には古来様々な交流や物流があったことは、考古学上からも文献上からも確認されている。 辺戸岬と安須森御嶽 手前の頂に聖地安須森御嶽(あすむいうたき)がある。その先の辺戸岬(へどみさき)は沖縄本島の最北端。沖縄の始祖はあまみきよ。そして奄美の始祖はあまみこ。どちらも頭に「あま」が付き、海洋民族だったことが分かる。あまみきよが最初に上陸したのが辺戸岬。やはり神は北からつまり内地からやって来たのだ。岬周辺には貝塚が多く、海中洞窟からは土器を発見。かつては陸地で、人が暮らした証拠だ。 浜比嘉島のあまみきよの墓 神は島の東海岸を南下し最南端まで行った。途中にカヌチャベイと言うリゾート地があるが、カヌチャに(神着)を充てているのが何とも示唆的。おもろ市の浜比嘉島には始祖神の墓と伝わる洞窟があり、沖縄勤務当時に訪れたことがある。とても不思議な雰囲気の漂う島で、倭寇伝説もある。「シヌグ」と言う名の伝統芸能があるようだが、私は「凌ぐ」=祖先の暮らしぶりを伝えたものと解していた。 神の島 久高島 次に神が上陸したのが久高島。ここにはクマール御嶽(うたき=聖地)やフボウ御嶽、穀物の種が漂着したと言うイシキ浜があり、琉球王朝の聖地だ。神の島からは一木一草たりとも持ち出し厳禁。二人の祝女(のろ)を頂点とする神行事が盛んで、産卵のために近づくエラブ岩でエラブウミヘビを捕獲出来るのは、のろだけだった。午年(うまどし)に行われた奇祭「イザイホウ」が絶えて久しいが、私は勤務した国立民族学博物館で動画を観た。 受水走水 久高島の対岸、知念岬にある受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は沖縄で最初に田植えをしたと伝わる。だが現場は驚くほど小さな湿地。隆起石灰岩で出来、川が短くかつ直ぐに海に流れる沖縄本島に稲作に適した場所はほとんどない。それでは穀物の栽培も無理で、採集生活の「貝塚時代」が内地の平安時代辺りまで続いたのも無理からぬことだろう。やはり柳田國男の説には無理があると思う。 玉城城 沖縄本島南部にある南城市の玉城城(たまぐすくじょう)。沖縄本島では11世紀ごろから各地に按司(あじ=権力者)が起こり、群雄割拠状態だった。砦(とりで)程度のものが多く、やがて北山、中山、南山の3国に落ち着き、最後は中山が統一して琉球王国が成立する。沖縄の城(ぐすく)には大抵御嶽(うたき)などの聖地があった。つまり祭政一致で、敵を負かすために祈った訳だ。 沖縄には古くから「おなり信仰」があった。妹(女)が兄(男)を霊力で助けると言う思想。卑弥呼が「男弟」を助けたのと一緒だ。皇室の斎宮と同源だろう。沖縄では祝女(のろ)やその頂点である聞得大君がいた。国王の姉妹が聞得大君に就任し、王国の神事を掌理した。伊是名島や久米島にも有力な祝女がおり、重要な神事を執り行った。古代日本を彷彿とさせ、内地から伝わったと考えて良いと思う。 左は祝女の装束。首には玉が掛けられ、所々に「勾玉」が見える。右は沖縄県立博物館所蔵品。先端にヒスイかメノウ製の勾玉が付いている。日本では縄文時代に始まった勾玉が、沖縄では琉球王朝が崩壊した後も重要な宗教用具として今日も使用されている。 さて、奄美諸島の喜界島(上)の話に戻る。大城久(おおぐすく)遺跡(中)からは九州南部の陶磁器などが出土している。近辺には製鉄遺跡が存在し、奄美ではかなり異質だ。沖縄本島でも製鉄遺跡は初期の王都である浦添城などに限られる。強大な権力の象徴で、奄美を併合した琉球王国が喜界島を統治するまでさらに200年を要したのも、喜界島が太宰府や九州の有力武家と協力関係にあったと推察出来よう。 尖閣諸島 魚釣島 上は明治時代、福岡の商人古賀氏が尖閣諸島の魚釣島で事業を行っていた際の写真で、那覇市の歴史博物館提供。古賀氏は明治21年(1879年)那覇市に寄留。1882年に石垣島に支店を設立し、尖閣の状況を探っていた。同諸島がどの国にも所属しないことを確認、沖縄県の承認を得て1884年尖閣に職員を派遣した。1895年には自ら尖閣の久場島に赴いて現地視察をしている。 1897年から螺鈿(らでん)の材料である夜光貝の採取、アホウドリの羽毛採取とはく製の製造、肥料となる糞を採取。鰹節の生産にも乗り出し終戦後も続いた。ところが1970年に国連が尖閣周辺の石油埋蔵の可能性を公表すると、中国が領有権を主張し始めた。尖閣諸島は国際法上も実効支配上もわが国固有の領土で論議の余地はない。日中友好協定の締結を急いだ田中角栄が、歴史を知らなかっただけだ。 ユウナの花 さて、奄美大島、徳之島、沖縄本島北部、西表島が世界自然遺産の候補地になることが決定したニュースを聞いて書き始めたこのシリーズ。「補遺版」と合計で9回になった。苦しみの連続ではあったが、我ながら良く最後まで書けたものだ。まだまだ検討不足や書き足らない部分、不正確な部分はあろうが、これを以て最終回としたい。 沖縄本島および沖縄県の島々については、沖縄勤務時代及び転勤後に何度も訪れたため、懐かしい箇所ばかり。これからも訪れる機会があり、さらにブログで取り上げることがあるだろうか。長期間のご愛読に心から感謝し、結びの言葉としたい。どうもありがとうございました。亭主敬白。<完>
2021.05.22
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~わが内なる差別~ <ねぶた 阿倍比羅夫の蝦夷征伐> 東北に生まれたことで、東北の民が古来より蔑視されて来たことを知りました。蝦夷は「えみし」と読み、野蛮な民とされたのです。それは都から距離が離れていて実態を知らなかったための誤解で、彼らにも彼らの文化があった訳です。えみしはアイヌとは異なり民族的には全く一緒。強いと言う意味もあって、蘇我蝦夷のように有力な古代豪族の名にも用いられました。 古代東北の民、蝦夷と同様の立場が九州南部の熊襲(くまそ)や土蜘蛛(つちぐも)や隼人(はやと)でした。こちらも都から遠く離れていたため実態を知らずに蛮族とされ、日本武尊(やまとたけるのみこと)などによる征伐の対象となったのです。 四国に転勤したことで、東北にはなかった「部落問題」を知りました。何と子供たちが通う学校の直ぐ近くに、その被差別集落があったのです。「士農工商」と言う明確な身分確立の世の不満を解消するため、最下層の「えた、非人」と言う階層を作ったとの説を聞きました。 住井すゑの「橋のない川」は近畿地方のある被差別集落をテーマにした長編小説で、私はこれを読んで部落問題と部落解放運動の存在を知りました。東北人には全く異質な世界です。大阪に転勤して街に出ました。そこは有名な古寺の傍でしたが、とても異様な雰囲気でした。そこにはアンタッチャブルな空気が漂っていて、一角が被差別集落であることを直感したのです。 沖縄に転勤したことで、沖縄についてたくさんのことを学びました。歴史、文化、文学、風土、生態、宗教、芸術、言語などです。戦火で焼失した沖縄関係資料の収集が私の仕事の一つだったこともあって、ずいぶん本を読みましたが、琉球処分で沖縄が近代国家日本に組み入れられる過程についても学びました。近代日本にいち早く馴化させるため、琉球方言を標準語に変える努力を子供たちに強い、学校内で方言を使った子供の首に「方言札」と書かれた札をぶら下げることもあったようです。 東北出身の県令(現在の県知事)が貧しい沖縄に同情して善政を敷いたことも、琉球を支配した旧薩摩藩出身の県令が鹿児島県の商人を優遇したこともありました。貧しかった沖縄県民が当時開かれていた航路で移住した関西で、容貌や言葉で嫌がらせを受けたと聞きます。そしてハワイやブラジルなどへ県民は雄飛しました。勤務当時の部下が先祖は中国人と言ったことがありました。それだけ中国を敬い、誇りにしていたのです。でも彼が言ったことは嘘でした。沖縄では今でも通じる話です。同じ日本民族なのにねえ。 関東大震災 日本の古代史が好きだった私は、手当たり次第にそれらに関した本を読み、やがてその関心が幕末から明治期にまで至りました。その過程で歴史小説も読み始め、関東大震災当時朝鮮人が井戸に毒薬を投げ入れたとの噂を広めて、60名ほどの朝鮮人を虐殺したことを知りました。当時朝鮮は日本に併合され、白丁(ぱくちょん=奴隷)などの身分制度は解体され自由の身となっていたものの、半島では依然として蔑視は残っていたのです。 それで彼らは満州国や内地へと渡りました。そこでは同胞からの差別は無くなったものの、一部の日本人からの蔑視はありました。関東大震災当時は幸徳秋水らの社会主義者が捕らえられているので、きっと憲兵隊などによる思想取り締まりが強かったのだと思います。不幸で暗黒な時代でした。 博物館に勤務したことで、アイヌにも関心を抱くようになりました。アイヌの口承文学「ユーカラ」を読み、動画でそれを耳にし、幾つかの博物館でアイヌの衣装や民芸品を見、一度は北海道に出かけてアイヌ人初の国会議員萱野茂氏から直接アイヌ語の話を聞いたこともありました。それらの中で、明治新政府がアイヌの日本化を図った方策などについても知りました。日本語教育は沖縄と一緒ですが、アイヌからは無理やり土地を奪ったのが、沖縄と全然異なる点です。 広大な北海道の中の好猟場や良漁場を失ったアイヌたちの生活は困窮しました。固有の言葉を失い、宗教を失い、次第に彼らは追い詰められて行きます。その中で純粋なアイヌの血を引く人も激減して行きます。仕事を求めて都会へ出、差別や迫害を避けて道外へと移住したアイヌ。今でも彼らの暮らしは苦しく、日本人に同化することで辛うじて生き延びているのが現状です。そんな中での「アイヌ新法」であり、ウポポイなのでしょう。 この話をある親子の肖像を借りて記しました。女性の名は宇梶静江。詩人、古布絵作家、絵本作家、そしてアイヌ解放運動家です。男性の名は宇梶剛士。職業は俳優で、ウポポイの開設PRアンバサダーを務めています。上の写真はそれぞれの若き日のもの。静江の夫は和人。剛士は元暴走族のリーダーでした。母子が歩んだ道は、恐らく苦難に満ちた茨の道だったのでしょう。 親子はアイヌに対する蔑視と差別から、都会へと逃れて来たようです。その遥かなる苦難の道のりを思います。二人は今、アイヌの誇りと共に生きています。ちょっとしたきっかけから書き始めたこのシリーズですが、何とか書き終えることが出来ました。私は博物館もアイヌも歴史も大好きなので、是非ともウポポイでは真実を伝えて欲しいと願っています。北海道に嘘は似合いません。開拓のことも真正面から受け止め、是非取り上げて欲しいものです。それでこそ「民族の共生」だと思うので。 このシリーズを読むために私のブログを訪ねて下さった皆様。どうもありがとうございました。皆様のお陰で何とか最後まで書くことが出来ました。心から感謝します。もしもこれだけたくさんの方が来て下さらなかったら、きっと毎日は書けなかったと思います。私はアイヌに対する偏見は全くありませんが、もしも不適切な表現や間違った理解があったらお許しいただきたいと思います。 確かにアイヌと和人の交流の歴史を見れば、時には戦って血を流したこともあったと思います。気高いアイヌの魂同様に、純粋な魂を持って北海道での開拓に挑んだ和人がいたこともまた確かな事実です。アイヌと和人がこれからも共に心を通じ、共に歩むことが出来るよう願って筆を置きます。ではまた。感謝。<完>
2021.03.09
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~出雲大社の謎~ 出雲大社の境内の一角に、堂々たる建物がある。大社と同じ注連縄が飾られ、「出雲国造千家国造館」の看板が掛けられている。奈良時代にあった「くにのみやつこ」と言う言葉が未だ生きている出雲。日本広しと言えども、そんな場所は出雲だけだろう。この千家(せんげ)家は代々出雲大社の神職を務める家柄で、装束は上下とも黒と決まっている。 その若き当主である千家國麿氏に嫁いだのが旧皇族、高円宮典子女王。数年前のことだが私にはとても印象深い出来事となった。皇族の降嫁は滅多にないからだ。天皇の妹君である清子内親王が黒田氏に嫁いだことも思い出される。だが皇族と出雲国造の血を引く千家家との婚姻はとても衝撃的な出来事。なぜなら出雲王国の地を「国譲り」と言う名のもとに奪った当事者が天皇家だったのだから。 その出雲国造がもう一つあると聞いたらもっと驚くだろう。「北島国造家」がそれだが、名乗れたのは中世から明治初期までの数百年間のこと。立憲君主制を推進する明治政府の方針で、北島家は国造家を外された。だが当家には、代々口伝えで秘密が伝えられていた。それは「国譲り」に対する恨み言。豊かな国土を大和王権によって無理やり強奪されたとするもので、世間には明らかに出来ない秘中の秘だった。 千家家が表の宮司なのに対し、北島家は陰の宮司で一切表には出ず、祖先から伝わる恨み言を代々引き継いで来た由。私はそれを産経新聞社の社会部長だった方の著書で知った。その方が北島国造家関係者だとすれば全て符号が合う。現在は「出雲教」の看板を掲げて宗教活動を展開している。一方の千家国造家は「出雲大社教」。恐らくは人事上の制約を受けないよう、両社とも神社本庁には属していないはず。 事代主神 再び神話の世界に戻ろう。国譲りを迫られた大国主神は次のように答えた。「私には2人の息子がいます。彼らが良いといえば譲りましょう」と。早速釣りに行っていた兄の事代主神が呼び返された。彼は「良いですよ」とあっさり了承した。だが弟の建御名方神は強硬に抵抗し、科野国(信濃=長野県)の諏訪に逃げ込んだ末に敗北。これ以降科野国から一歩も出ないことを約束することになる。 諏訪大社 上は諏訪大社だが、注連縄(しめなわ)の形を良く見て欲しい。何と出雲大社のものと寸分も違わない。つまり蛇のシンボルとしてのあの形だ。あっさりと国譲りをした大国主命と事代主神は、大和政権にとっては恩人。大国主神は大黒様、事代主神は恵比寿様として長く慕われる存在ととなった。一方の建御名方神は今も怒り狂い、山から大木を落としている。それが「御柱大祭」の由来ではないかと勝手に考えているのだが。<続く><お断り> 出雲神話に関する解釈は様々です。ここに紹介したのはその一部で、異なる見解もあります。関心のある方は是非ご自分で謎解きに挑戦されたらいかがでしょうか。
2019.12.16
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~出雲神話の世界~ 出雲風土記 出雲はとても神話が多い土地柄だ。「記紀」(古事記と日本書紀)、「出雲風土記」、「出雲国造賀詞」などにそれが色濃く残っている由。現存する6つの風土記の中でも、出雲国風土記は良く原型を留めていると言われる。しかし、記紀も含めて神話に歴史上の価値はあるのだろうか。そして真実に迫る事柄が潜んでいるのだろうか。今日はゆっくりと考えて見たい。 手始めが国引き神話。出雲の国が狭いことに嘆いた神が、遥か彼方から島を引っ張って来て出雲の国にくっつけたと言う話。引っ張り寄せた中には出雲の島(隠岐とも言われる)の他に越の国(福井から新潟にかけての地方)、朝鮮半島の新羅にまで及ぶ。私はそれを日本海を通じての交流を意味すると解釈した。出雲は古来日本海を通じての交易し、朝鮮半島とも文物の交流があったと。 地形的には斐伊川や神戸川の沖積作用により、元々島だった島根半島との間に砂洲が広がってつながったのは間違いない。ただし不思議なことに、朝鮮半島の地層が北陸から中国地方にかけての地層とつながる部分があるのも事実。かつてアジア大陸の東端だった日本が、大陸から引き剥がされた証とも言えよう。 次に出雲は「根の国」、「黄泉(よみ)の国」とも言われる。つまり「あの世」だ。イザナギは死んだ妻恋しさに黄泉の国を訪ねて行く。妻のイザナミが中から、「絶対覗かないで」と言う。だが我慢し切れなくなったイザナギが覗くと、ウジ虫が湧いた妻の顔が。逃げるイザナギと追うイザナミ。夫が桃を投げるとそれが障害物となる。の戸を閉めてようやく黄泉の国を脱出したイザナギ。夫婦は声を掛け合う。 「愛しい人よ、こうなった以上私は貴方の国の人を1日千人殺すわ」。「それなら私は逆に1日に1500の産屋(うぶや)を建てよう」と。その境界線、黄泉比良坂(よもつひらさか=松江市)に揖屋(いや)神社が祀られている。「いや」は「熊野」とも書き、紀伊半島の熊野にも熊野三山がある。桃は穢れを清める霊力があるとされ、桃太郎伝説にもつながる。また沖縄にも桃にまつわる話が伝わる。 3つ目の神話、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説は奇怪だ。8つの頭と8つの尾がある大蛇を退治したのが須佐之男命。彼は黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊(みそぎ)をした際に生まれた三神の1人。姉の天照大神は太陽の化身で、月読神は月の化身。イザナギは十束の剣で酔わせた大蛇を切り殺し、クシナダヒメを救って娶った。大蛇の尻尾を切った時に出た「草薙の剣」が、後に天皇家の三種の神器となる不思議さ。 8つの頭と尾を持つ蛇は、斐伊川の支流を表すという説もある。また斐伊川の上流では砂鉄が採れ、製鉄につながったとの説もある。須佐之男命とクシナダヒメとの間に生まれた子が、大国主たち出雲の神の祖先になったとの説もあるんじゃよ。この辺は天つ神=天孫族と国つ神伝説が入り乱れているとわしは思うんじゃ。まあ歴史は時の権力者に都合良く書かれるのは、どの国も一緒じゃのう。ふぉっふぉっふぉ。 4つ目の因幡の白兎伝説はどうだろう。因幡国(いなばのくに=今の鳥取県東部)に八上比女(やかみひめ)と言う美女がいると聞いた出雲の神々は一番下の弟に荷物を担がせて、因幡へと向かった。その途中皮を剥がれて真っ赤の兎に出会い、兄たちは塩水で体を良く洗い海岸で干したら良いと教えた。だが治るどころか痛いのなんのって。そこへ通りかかった大国主神は真水で良く洗い、蒲の穂をつけたら良いと教える。 傷が治ったウサギが言うには、「優しいミコトよ、八上比女はきっと貴方を選ぶでしょう」と。結果はその通りとなり、大国主命はやがて出雲王国を支配することになった。いわゆる「縁結び神話」だが、近隣の諸国の信頼と協力関係が出雲王国の繁栄を招いたというシンボルでもあろう。大国主命は宗像三女神の一人である市杵姫をも妻とするが、海人族間の連携とも言えよう。 なお韓国済州島に次のような神話がある。島の3人の男神が海に向かって「嫁よ来い」と騒ぐと、船に乗って宗像の3女神が現れたという。古来玄界灘は大陸へ向かう航路であり、人の往来があったのだ。初期の遣唐使船も島伝いに朝鮮半島を経由して中国へ向かった。 国譲り神話 5番目の有名な「国譲り神話」はどうだろう。折角築き上げた豊かな国土出雲。それをむざむざ譲る必要があったのか。たとえ代償としてあの高く立派な神殿を建ててもらえたとしてもだ。さて、国を譲られた側の天孫族とは一体何なのだろう。そして譲った大国主命は果たしてどんな人物だったのか。さらに、この強制的な国譲りに反対する出雲族は誰一人いなかったのだろうか。この話には続きがある。 最後に登場するのが野見宿祢(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)との角力(すもう)。第10代垂仁天皇の命により、神前で戦うことになった2人。宿祢は蹴速の腰を蹴り砕いて勝つ。この結果、宿祢は蹴速の領地であった大和国葛城の土地を下され、天皇の警護を命じられた。この野見宿祢はやがて葬制にも関与し、殉死の代わりに初めて埴輪を作った。これによって土師氏の祖となったとされる。 これらの話には補足したいことが山ほどある。例えば野見宿祢じゃが、出雲と大和を往復し、出雲国造(くにのみやつこ)になったという話じゃ。また黄泉の国のイザナミは、今で言えば「風葬」じゃね。体にウジが湧いていたと言うんじゃからのう。沖縄の風葬も湿気のある風土にはぴったりだったのさ。決して恥じることはないんじゃよ。さて時間も尽きた。今日はこれまでにしよう。ではまたの。<続く>
2019.12.15
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~出雲王国と出雲大社 その1~ 出雲には「神在月」と言うのがある。旧歴10月は「神無月」。なぜ日本の他の地方では神無月なのに、出雲だけが神在月なのか、私は不思議でしょうがなかった。 <東の十九社:文字通り19の小社が連結し、神様が住まう長屋のようだ。> 神無月と言うのは、神様が出雲に出かけていなくなるからだとか。一方全国から神が集まる出雲では神在月。その期間、神様が一時的に泊まるのがこの十九社とされている。 <西の十九社> 十九社は境内の西側にもある。現代ならさしづめ「シェアハウス」だろうか。東西合わせて38になるが、果たしてこれだけで全国から来られた神々を収容し切れるのかと心配。 おやおや、38柱だけじゃないねえ。何せ八百万(やおよろず)の神々。到底泊まれるわけがない。と言うか、こんな考えが出来たのは中世以降とのこと。水無月(みなづき=旧暦6月の別称)も本来なら梅雨の季節だから「水無」とは書かない。「な」は「の」の意味だった由。つまり水の月。それなら梅雨そのものだ。 同じ理由で神無月は「神の月」。でもそれでは解決しない。神の月の本来の意味は何だったのだろう。神様はやはり出雲へ集まったのだろうか。では一体何のために。 さて、境内にこんな絵があった。私はこれが何か、直ぐに何か分かった。高さ48mほどの巨大な神殿。これが古代の出雲大社なのだ。なぜこんなものがと、疑うのが普通。だが「口遊」(くちずさみ)と言う古謡に次のようなものがある。「雲太、和二、京三」。意味は出雲大社が一番大きく、二番目が大和(奈良)東大寺の大仏殿、三番目に大きいのが京都御所の大極殿と言う訳だ。坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)と良く似た発想だ。 今から19年前、工事中の境内から古い柱が出土した。銅の輪で括られた3本の柱は丈夫な栗材で、太さから推定すると高さは40m以上と考えられた。古い柱の出土で、あの「口遊」の伝承が本当だったことが分かった。 真っ先に現地ガイドに「どこにあるか」と私が聞いたのがこの柱だった。「埋めたのでない」と彼女。だがそれが嘘であることは知っていた。そんな貴重なものを全部埋めることはないはず。日本の古代史と考古学に関心を寄せる私は、40年近くその分野の専門書を読んでいた。看板(左)には宝物殿で展示しているとあるではないか。ほら、やっぱりね。 <発掘地点を示す標識。3本合わせた柱の太さが分かるだろう。> こんな丈夫な柱を3本銅の帯で括って建てた神殿の高さが48mほど。よくも古代にそんな土木技術があったものだ。発掘された古い柱は、確か鎌倉時代のものだったはず。さて古代の神話は、記紀より「出雲国風土記」に詳しい。この柱があの「国譲り神話」とリンクしていると聞いたら驚くはず。天つ神つまり大和に「出雲を譲る代わり、立派な神殿を建てて私を祀れ」と大国主命が言ったと言うのだ。 そしてこれが柱の配置図。全部で9本(3本まとめたのが)だから、内部の部屋は4つしかないことになる。祭神の大国主は右の奥(上)に鎮座しており、正面からは見えない。そして神殿に昇る階段は西の海岸に向かっている。つまり祭神も西を向いているわけだ。これは一体何を表すのか。出雲族は西から来たか、あるいは海人族と強い同盟関係があったと言えないだろうか。 絵を左右反転すると左が西で、階段の昇り口は引佐の浜。神々つまり出雲王国の同盟者は船でこの地へ来たと言うことだろう。九州の宗像氏、九州を起源とする安曇氏、丹後の籠神社を守る海部氏たち。彼らとこの出雲は海運を通じて深く結ばれていた。そして広範囲の交流で得た富を、大和王権が欲しがった。だからこそ国譲りを迫ったのが真実なのではないのか。大国主命は言う。「譲りましょう。でもその代わりに立派な神殿を建て、私を祀ってください」と。だがそれに従わない者が出雲族にいた。<続く> 巨大神殿は3度建て替えられたと聞く。神殿が現在の規模になったのは出雲族の勢力が衰え、資材入手が困難になったためかも知れない。発掘された古い柱がもう一組「島根県立古代出雲歴史博物館」にもあることが、帰宅後に分かった。現地ガイドは何であんな嘘をついたのだろう。考古学ファンを甘く見てはいけない。
2019.12.14
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~籠(この)神社の謎 その2~ <橿原市 檜原神社神籬> 山の辺の道を歩いた時に遭遇したのがこの神社。滅多に見られない3連の鳥居に目を奪われた。ここに「元伊勢」の説明があった。不思議な籬(まがき)の内側で天照大神が一休みされた由。帰宅後ネットで調べると、第10代崇神天皇が「同床共殿」を避けるため、皇女豊鍬入姫命に天照大神の神霊を託された由。つまり大神を祀るため、適当な場所を探しに同皇女が最初に訪れた場所がここと言う訳。 <籠神社本殿=ネットから借用> 次に皇女が訪れたのが丹後の宮津にあった吉佐宮。つまり籠(この)神社の前身だ。皇女はこの後も6度土地を変遷し、24か所の地を訪ねた由。さらに第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命がそれを引き継ぎ、さらに6度変遷して24か所の地を巡った由。そして最終的に落ち着いたのが現在の伊勢神宮(正式名は神宮)と言う訳だ。合計12度変遷し、45か所で適地を探したことになる。(ウィキペディアより) その中に奈良県明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の名がある。その小社にも私は偶然訪れている。つい最近、そこに男女のシンボルが祀られていることを知った。一時的にせよ皇祖である天照大神が休んだ場所に、道祖神が立つとは。だがそれは生命とエネルギーの起源として自然とも思える。実は道祖伸は、国つ神である猿田彦が天孫族を道案内した証とされているのだ。 <籠神社奥宮の眞名井神社> 内宮遷宮後食事を司る神が必要との天照大神の神託により、丹波の国から呼ばれたのが豊受大御神。この神を伊勢に祀ったのが外宮だ。約300年もの間、天照大神はずっと腹を空かせていたのだろう。籠神社の奥宮である眞名井神社の主神が豊受大御神。私たちが天橋立を見降ろした山の奥に、そのお宮があることを知っていたが、私は籠神社参拝を優先したのだ。 <琉球王国祝女(のろ)の頂点だった聞得大君(きこえおおぎみ)> 卑弥呼の時代、祭政は別れていた。祭(まつりごと)は巫女である卑弥呼の仕事で、政(まつりごと)は男弟の仕事。大和朝廷発足後はそれを一緒にした。だが崇神天皇は神託によって皇祖の意思を尊重し、皇女に天照大神を祀る宮の適地を探させたのだろう。天皇に代わる神宮の世話役が斎宮。現代においても旧皇族の黒田清子さんがその務めを果たしている。 なお、琉球王朝でも祭政が別れていた。政治は琉球王が、神事は王の親族である聞得大君が司った。古代日本と同様の二重構造だ。日本の古い形が琉球王国に残存していたことに、大多数の沖縄人が気づいていないだろうが。 <籠神社前に立つ2本の石標> これで籠神社の重要性が分かったはず。だからこそ「丹後国一之宮」の名誉を与えられたのだろう。もう一つの疑問は丹波と丹後の関係。名前も位置も近いことから、丹波から分国したのが丹後と考えていたのだが、今回調べたらその通りだった。こんな風にして、歴史の謎がまた一つ解けて行く。 籠神社の宮司は代々海部氏が務めて来た由。同氏は天孫族とする考えもあるが、縁起にある通り海神を祀る海人族のはず。それでもう一つ謎が解ける。それが目の前の海。宮津は天然の良港で、古来日本海を通じた交流があった。九州の宗像氏や出雲族、安曇氏などが想定されよう。そしてそれは北陸出身の第26代継体天皇ともつながるはず。江戸時代には北前船がこの宮津に寄港していた。<この項完 続く>
2019.12.12
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~籠(この)神社の謎 その1~ 天橋立を見るため丘の上に登るケーブルカーとリフトの駅である。これが旅の初日の最後で、既に夕刻が迫っていた。この駅の名を見て私は思わず声を上げた。そして地元の小父さん(ガイドの方)に尋ねた。「府中と言うことは近くに国府があるんですか。籠神社は丹後国の一之宮なんですか」と。答えはまさにドンピシャ。私の直感の通りだった。これはさっさと天橋立を見、それから神社に行かなくちゃ。 天橋立を見、速攻で山を下りた。また小父さんに尋ねた。神社の場所とそこまでの時間。「元伊勢ですか」。「そう、一番最初は奈良県で」。もうそれだけで十分だった。教えられた通りに行った積りが、方向を間違えた。走って道を渡り神社の前へ進むと、門が開いていた。だが境内の撮影は禁止とある。ありゃまあ。何とか撮りたいが、最悪ネットで画像を探せば良い。そう高を括って本殿の前に立った。 思案してる前に、神職と巫女さんが姿を現した。どうも様子がおかしいので何時までですかと聞く。答えは5時まで。その時間が過ぎていたのに門が開いていたのは、小父さんが電話してくれたのだろうか。巫女さんに倣って二拍二礼で参拝し、急いで門を出る。神職は社務所に戻ったが、巫女さんは門から出て、待っていた男の人と何かを話していた。そのための開門かも知れないが、お陰で境内に入ることが出来た。 「元伊勢」の言葉を知ったのは、6年ほど前に奈良の「山の辺の道」を歩いた時。「御旅所」の言葉も奇異に感じたが、これは御神輿が休む場所も指すので普通名詞だろう。だが「元伊勢」だけはなぜか気になっていた。伊勢神宮の元になった神社と言う意味なのだろうが、果たしてそんなことがあるのだろうか。そしてその理由は一体何なのだろう。そんな疑問を抱いて奈良から帰ったことがあったのだ。 謎解きのヒントが、yorosiku!さんのブログ。以前彼女がこの地を訪れた際の記録に、籠神社の写真もあった。不思議な名前に惹かれてネットで調べて仰天。何とこの神社が元伊勢の一つだったのだ。長年の疑問だったこの神社が、今回のツアーで見られるのではと私は密かに期待していた。古称の吉佐(よさ)宮は与謝(よさ)半島から来たのか。では祭神は。そしてなぜ元伊勢なのか。 あっと言う間の出来事で、振り返ると既に門は閉まっていた。まさに奇跡的な籠神社との遭遇。他のツアー客の誰一人ここへは来なかった。恐らくは歴史の謎を解きたいと言う長年の願いが、こんな体験を私に与えてくれたのだと思う。バスの発車時間まで少しだけ間があったため、先ほど間違った海の方向へ歩いて行った。静かな波が打ち寄せる宮津湾が目の前にあった。その海を見たことも、謎解きに役立った。 海の傍にある神社も皆無ではない。私が知ってるのは塩竃神社(宮城)、気多大社(石川)、気比大社(福井)、住吉大社(大阪)など。出雲大社(島根)、宗像大社(福岡)もそうだ。今では海から離れているように見えるが、かつてはいずれの神社も海の直ぐ傍だった。きっとそこに深い意味があるのだろう。そしてそれは日本と言う国の成立に深く関わっているはずだ。<続く>
2019.12.11
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~姫路城と考古学~ 姫路城の門前に案内板として示されていたのがこの図。当時の古図を使うとは珍しいねえ。 天守閣には姫路城下の精密な模型が置かれていた。きっと古図を元にして作ったのだろう。 これも天守閣にあった。現在の航空写真に、城下町の城域を書き込んだ珍しいもの。 天守閣の案内図(上)が透視図になっていた。下は天守閣の構造を立体化したもの。共に珍しい。 天守閣の基盤と同じ平面にある「備前丸」の発掘状況。これも貴重な資料だ。以下の瓦類もこんな風にして発見されたものだろうか。 説明板を拡大すると「波状鬼瓦」と読める。しかも「鯱」(しゃちほこ)の下にある瓦のようだ。 沢潟(おもだか)紋は酒井家の家紋。 蓮華紋は普通お寺にしか使わない。元々ここは日女路(ひめじ)の丘と言い、お寺が建っていたと聞く。 揚羽蝶の紋は池田家の家紋。江戸初期から三代続いた。 五七の桐なら榊原家の家紋だが、七三の桐紋は初めて見た。 五三の桐は松平家の家紋。 片喰(かたばみ)紋は酒井家の家紋。 図柄は判然としないが、揚羽蝶のようにも見える。 この城は福岡藩主となった黒田氏が中国攻めの羽柴秀吉に譲った本来の姫路城ではなく、関ヶ原合戦の後江戸幕府以降に建てられた城。西方の大名を監視するため、山陽道、山陰道、中国道に通じるこの地を重要視し、三河以降の譜代及び親藩大名を配備した。また孫であり秀頼の妻だった千姫を本多忠刻に嫁がせたことも、この城を華美なものにした要因であろう。 天守閣を背にして 幕末までの城主は、池田、本多、松平、榊原、松平(2)、本多(2)、松平(3)酒井と続く。この城は一度も火事に遭っておらず、豪華な屋根瓦を葺き替えた原因は不明だが、刻された家紋でどの時代の物かはほぼ判断出来よう。考古資料を天守閣に展示しているのは稀有で、良い学習の場になるだろう。<続く>
2019.11.18
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~江戸開府と土木工事~ 最初に問題。この城の名を当ててほしい。答えは江戸城の天守閣。だが現代人で観たことのある者は誰もいない。なぜなら焼失して既に現存しないからだ。 焼失の原因は「明暦の大火」。明暦3年(1657年)に生じたいわゆる「振袖火事」のもらい火による。この火事には因縁があり、同じ着物を着た若い娘が立て続けに3人死んだ由。当時死体改め人には死人の着物を自由にする権利があった。だが着物を売った後、それを着た2人の娘が立て続けに死んだ。これは凶事と考え着物を火の中に投じたところ、強風に煽られ後世に残る大火となった由。 他に八百屋の娘お七が恋に狂って火をつけたとの話もある。ともあれ天守閣が焼失した後、再建されないままに幕末を迎えた。そのため現在見られるのは天守台の石垣のみである。 さて時代を安土桃山時代末期に戻す。これは秀吉による「北条攻め」以降、家康が下された領地(赤の部分)。それまでの150万石から250万石へ加増となった。それは良かったのだが、実はこの地には大きな問題があったのだ。<もちろん関が原の戦い以降は、大々的な領地の再配分が実施され、常陸の佐竹氏は羽後(現在の秋田県)へ転封され、他の大名も大幅な国替えが行われた。> これは平安末期の関東地方だが、家康が江戸へ移った時期も基本的には江戸湾(東京湾)へ流れ込む川にさほど変化はない。利根川や荒川が直接湾に流入し、大雨の際はたびたび大きな被害をもたらしたのである。この治水が第一の課題だった。 家康は早速土木工事を命じ、荒川を西遷させて入間川につなげた。当然元の下流の水量は減る。一方利根川は2度に亘って順次別の川につなげて東遷させ、最終的には現状のように銚子から太平洋へと流した。長期にわたる難工事の結果江戸の水害は激減し、関東平野には美田が広がったのである。 これが開府以前の江戸。ここへ城下を開くためには大幅な土木工事が必要だった。なぜなら後に江戸城となる台地の目前まで、日比谷入江などの海が入り込んでいたためだ。また元々は沼だった千鳥ケ淵を生かし、濠の一部として使った。こうして次第に江戸の縄張り(都市計画)が実行されて行く。なお江戸の町から生じた大量のゴミは、浚渫泥と共に湾埋め立ての材料となった。現代とまるきり同じ思想だ。 そしてこれが土木工事後の概略図。入江はきれいに埋め立てられ、河川と運河は整備され、城下町に相応しい土地が周囲に広がって行った。かって島だった浅草寺も、このころには陸地だったのが分かる。 そしてこれが「総構え」。つまり江戸の町全体の防御体勢だ。江戸城を中心にして二重の濠で囲い、かつ排水を兼ねた。また生活に不可欠な上水(水道)は、小石川上水、神田上水などを順次整備した。これにより江戸は世界一の人口を誇る都市に成長して行く。今年の正月にこれらの一大土木工事をドラマ化した『家康、江戸を建てる』がNHKから放送されたが、とても圧巻で重要な知見を得た。 さて、260年以上続いた幕府に滅亡が迫る。薩摩から第13代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫(写真左)の尽力、第14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮(孝明天皇の異母妹=右)の「公武合体」も、体制維持に役立たなかった。だが、無血開城の一助とはなった。その後の歴史は周知の通りだ。 皇居一般公開の日から2か月半。ようやくこのシリーズが書けた。困難なテーマをなんとか物にするのも、ブロガーの喜びには違いない。<完> <参考>皇居は公開日以外は公開されませんが、常時公開されている箇所があります。その一つが「東御苑」。ここには元本丸、大奥、二の丸 、三の丸などがありました。入り口は大手口(上)など2か所。入場は無料です。美しい広場などがあって楽しめます。ただし月曜日と金曜日はお休みです。
2019.02.20
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~江戸と呼ばれた寒村~ 昨年12月初旬のある日、私は皇居を訪ねた。と言っても天皇陛下と会うためではない。その日は一般公開の日であり、皇居内の「乾通り」が通過可能な貴重な日。そこで仙台からのこのこ出かけたのであった。だが「入り口」がどこか分からずに迷って、さんざん歩いたのである。まあ良い運動になった。それにしても皇居は広くて、地理が良く分からずに困った。 大手濠 本丸の石垣と乾(いぬい)濠 乾濠 平川濠 <丸の内にある馬場崎濠> 下道灌濠 皇居は昔の江戸城だから、周囲を幾つかの濠で囲まれていることは分かる。もちろん防御のためだ。だが皇居の中にも濠があった。表示は「道灌濠」。恐らくあの太田道灌に因むものだと思う。それで皇居の詳しい地図を見たら、上下2つの道灌濠があると分かった。それから江戸城の歴史に関する興味が湧いたのだ。これはいつかちゃんと調べてみなければとね。 これは平安末期の江戸近辺の地図。武蔵国豊島郡江戸と言うのが当時の地名。ここに江戸重継が館を構えていた。 江戸氏の先祖は桓武平氏。江戸重継は源頼朝の御家人で、当時まだ寒村だった江戸を所領地としており、それで江戸氏を名乗った。後に江戸城の本丸や二の丸になる高台に居館を構え、平安後期から鎌倉初期にかけて活躍した。右は江戸氏の家紋。後に琉球王朝の尚氏もこれを家紋に用いたのだが、沖縄には元々家紋はなかったのだ。 太田道灌 江戸の地に初めて城を築いた太田道灌は関東管領(かんれい)である上杉氏(摂津源氏の末裔)の一族で、室町後期の武将。歌人としても名高い。あの「山吹」に関する農家の娘の逸話(「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ哀しき」の「蓑」にかけた歌での返事)は作り話だと私は感じている。当時の農家の娘に、そんな教養はなかったと思うのだ。高貴な武将すら知らなかった歌なのに。 この江戸に幕府を開いたのが徳川家康。徳川幕府は265年間続く強固なものであった。その間ほぼ鎖国体制を貫き、独自の高い文化を築き上げた。だが幕末期に先進諸国が開国を迫って押しかけると、第15代将軍慶喜が朝廷に大政を奉還し、幕府は急速に崩壊への道をたどる。 勝海舟と西郷隆盛 官軍は大挙して江戸へ向かった。だが当時世界有数の人口を誇るこの地で両軍が戦えば、町は焼け、大勢の死者が出ることは明白。幕府代表の勝海舟へ、官軍代表の西郷隆盛は江戸城の無血開城を説き、勝はこれを受諾した。慶喜が水戸へ退く代わりに、助命したのである。彰義隊の戦いなど戊辰戦争はなお続くが、新政府誕生後明治天皇が城に入られ皇居となる。そして江戸は東京となった。<続く>
2019.02.18
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~仙台市博物館特別展から~ <在りし日の仙台城大手門=坂の上> 簡単に東北の戊辰戦争を振り返ろう。同盟軍は関東との境にある白河に結集して戦って敗戦。仙台藩も領地へと退く。官軍は陸路からだけでなく船でも進軍した。越後の諸藩は敗れて降伏。近代兵器を整備していた長岡藩も敗れた。太平洋側では官軍は茨城の平潟港に上陸し、進攻を開始。会津領へは、越後、日光、白河など数か所から攻め入った。そして鶴ヶ城は落城し、白虎隊は自刃した。 奥羽越列藩同盟隊旗 官軍に敗れた同盟下の藩は恭順の意を表するため、今度はかつての仲間であった別の藩を攻撃する立場となる。かくして仙台藩も官軍、相馬藩と藩境の旗巻峠などで戦い敗北する。官軍側の近代兵器に対し、仙台藩の大砲の弾は陶製。これでは勝てっこない。秋田の佐竹藩も官軍側に就く。こうして奥羽越列藩同盟は善戦も虚しく敗れ去った。 五稜郭 敗れた「賊軍」のうち、さらに官軍と戦おうとした者たちは蝦夷地(後の北海道)へと渡った。箱館(後の函館)の地に築かれた五稜郭に立て籠もり、さらに一戦を交えようとしたのだ。江戸から脱出した榎本武揚や新選組の一部もこれに加わり、蝦夷地に自治領を築こうとしたのだ。だが嵐で艦船が沈むなどして、最後の砦の五稜郭も官軍に屈した。 敗戦後の仙台藩版図 敗れた賊軍は新政府から厳しい扱いを受けた。「同盟」の中心となった仙台藩は62万石から28万石へ減らされた上、かつての領地を分割し他藩の管理下に置かれた。このため大勢の家臣は失職し、新政府の斡旋で北海道の開拓に当たった。伊達家臣団の開拓地は、道内で10数か所に及んだ。 また会津藩は下北半島へ移され、斗南藩として再出発したが、そこは不毛の土地で家臣団の労苦は筆舌に尽くせないほど。その一方で、早めに官軍に加担した藩は領地を増やした。秋田の佐竹藩は、旧南部藩の鹿角地方を手にした。そこは良質の金属の産地でもあった。 <仙台藩洋式軍隊「額兵隊」の軍服=レプリカ> 新政府発足後も東北への圧政は続き、「白河以北一山百文」との言葉も生まれたほど。東北の地は何の値打ちもないと言う意味だ。それが覆されたのは、元勲大久保利通が伊達政宗の遣欧使節を知って以降。徳川に対抗するため、スペインと結んで通商を進めようとした英雄が東北にいたことを知って反省し、急速な近代化を図った。第二師団、第二高等学校の仙台への設置などがその例。残念なのは宮城県の野蒜築港が嵐でとん挫したこと。もしこれが成功していたら、横浜港よりも早く近代港湾が出来ていたのだ。 会津は初めから反逆したのではない。孝明天皇から晨書を戴き、感謝もされていた。だが薩長主体の官軍はそれを知らずに逆賊と見做し、自らを正義とした。仙台藩の取りなしも聞かれず逆賊となった東北の諸藩。 歴史を紐解けば、太古の蝦夷征伐、頼朝軍による奥州藤原氏の征伐、そして戊辰戦争。東北は3度も朝敵となっている。だが会津には会津の正義があり、東北には東北の熱い思いがあった。歴史は勝った者によって書かれる。だが書かれない歴史や明かされない正義もある。堕落した明治新政府と袂を別った西郷隆盛の「敬天愛人」の精神を、もう一度思い起こしたいものだ。<完>
2018.11.16
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~仙台市博物館特別展~ 先日、仙台市博物館へ行った。特別展を観るためだが、あまり気乗りはしなかった。その理由は「絵にならない」からだ。特別展の趣旨から言えば、多分資料の撮影は許されないはず。そしてたとえ許されたとしても、写真映えしないものが大半だ。性格上、絵図や歴史資料が中心。ブログで取り上げても、興味のない人にとっては退屈そのものだと思ったからだ。 だが、私個人としてはとても興味があるテーマには違いない。今年の大河ドラマは『西郷どん』。あれを観ても、自分が知らないことが大部分。しかも戊辰戦争は私が住む東北が、「賊軍」となった戦いなのだ。勝ち負けは時の運だが、果たしてその実態と真実はどうだったのだろう。そして明治維新の避けられない部分が戊辰戦争でもあった。自分としてそれを、どうしても「総括」する必要があったのだ。 <新選組の服=もちろんイミテーションだが> 幕末期に京都守護職を命じられた会津藩の松平容保。京都の治安を取り締まるため、新選組をその配下に置いた。相次ぐ黒船の来航と、迫られた開国。国論は二分し、尊王攘夷を唱える声が日増しに高まった。一時は賊軍となった長州藩だが、竜馬などの働きにより薩長連合が整うと、気運は一気に討幕へと傾いた。そして鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利すると、幕府の体制は一気に弱まった。 戊辰戦争の戦跡 大政奉還後、最後の将軍慶喜は水戸で蟄居。江戸城の明け渡し後、幕臣の中には戦うことを選んだ者たちもいた。上野の戦いでも敗れた賊軍は、最後の戦いを挑むために東北へと逃げる。一方勢いを得た官軍は、会津藩憎しの思いで進攻する。官軍は最新兵器を備えた精鋭が中心。それに天皇から「錦の御旗」を賜って、意気軒高なものがあったのだ。さて一体どうする、東北の諸藩は。 3つの旗 ここに3種類の旗がある。一番左側は官軍の「錦の御旗」。真ん中が仙台藩に下された「錦の御旗」。なぜ賊軍となった仙台藩に天皇から旗が。その疑問は当然だ。仙台藩も最初から賊軍だった訳ではなく、会津藩を討つよう官軍から要請され、一旦はそれに従うため止む無く進攻の準備を進めるのだ。だが幕藩体制にある同じ東北の雄藩として、会津藩への許しを取りなすための動きに出る。 白石城 東北の各藩へも官軍から会津進攻の命令が届いた。この事態にどう対処するか迷った各藩は仙台藩南端の白石城へ集まって対策を練った。会津藩への許しが下りない場合は、会津藩と共に官軍と戦うと言うのがその結論だった。これに越後の長岡藩も同意した。その結果結成されたのが「奥羽越列藩同盟」。上の写真の一番右側が、そのシンボルとなる旗。こうして東北の諸藩は自ら「賊軍」となったのだった。<続く>
2018.11.15
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~墓参りの帰りに寄ったのは~ 父母、姉の墓参りをした秋のお彼岸。その帰路に立ち寄ったのがこの龍雲院。実は卒業した高校がこの付近にあり、歴史上の人物が近くの寺で眠っていることだけは知っていた。当時は半子町と呼ばれた地区が、その後「子平町」(しへいちょう)と名を変えている。町名の元となったのは林子平(はやし・しへい)。幕末の政治経済思想家なのだが、仙台市民以外ではほとんど名を知られていないだろう。 門前の掲示板に、境内の案内があった。1番の万城目正は作曲家で、戦後すぐに流行した『リンゴの唄』で名高い。5番から8番までが私が訪ねようとした林子平関係のもの。そして9番の地蔵と4番の住職が案外面白い人物に関するものだった。 真ん中の石標には、「前哲 林子平墓域」と刻まれている。左側の石碑が顕彰碑で、右側のお堂の中に彼の墓石が鎮まっていた。 林子平肖像 林子平は元文3年(1738年)に書物奉行岡村良通の次男として江戸に生まれた。だがまだ幼少の頃に父が職を捨てて出奔し、叔父で医者の林従吾に預けられる。その後姉が伊達家の江戸屋敷に奉公し、六代藩主宗村の側室「お清の方」となり、叔父は仙台藩の雇いとなる。その死後、実兄の林友諒が仙台藩士(150石取)となる。 六角堂 宗村公の逝去後兄は仙台に転居し、子平も仙台藩士として取り立てられる。英才の子平は経済政策や教育政策を藩に進言するが採択されず、落胆して碌(ろく)を返上する。その後、北は蝦夷が島(北海道)の松前から南は九州の長崎まで行脚して学び、日本の現状を知る。 六角堂の木像 この旅でロシアの脅威を感じた子平は、2つの大著を著す。『海国兵談』は国防の重要性を訴え、『三国通覧図説』は海外の事情と日本の現状を説いた。共に出版してくれる版元が無く、『海国兵談』(16巻、3分冊)は自分で版木を彫ると言う苦労の末に生まれた私家本だった。 ところが世に問うた啓蒙の書は幕府によって発禁となり、版木も没収される。そしてその身は仙台の兄宅へ蟄居(ちっきょ)預かりとなる。発禁となったこの本が今日まで伝わっているのは、子平が書写していたため。その想いの深さには、驚嘆すべきものがある。 「六無斉」の碑文 自由を奪われた子平は、自ら「六無斉」と号す。碑文にはこうある。「親もなし 妻なし子なし版木なし 金もなければ死にたくもなし」。「無し」が6回出て来るので「六無斉」。彼の悲痛な叫びが聞こえて来そうだ。 墓に刻まれた「六無斉友宜居士」の戒名が哀しい。さて日本近海にはその後、欧米の黒船が大挙して押し寄せる時代が来る。ロシア、アメリカ、イギリス、フランスなどが通商と開国とを迫り、あわよくば中国に続いて日本をも支配すべく、虎視眈々(たんたん)と狙っていたのだ。 子平銅像 子平の悲劇は「早過ぎた英才の悲劇」だろう。彼が時代に先駆けて感じた列強の脅威は、やがて現実のものとなる。浦賀への黒船来航以来幕府は列強と協定を結び、二百数十年も続いた「鎖国」は終焉を告げる。そして近代国家の誕生に向けて、戊辰戦争へと続いて行く。安政5年(1793年)、世をはかなみ悲憤のうちに死んだ子平。享年56歳の惜しまれる死だった。 細谷十太夫の像 林子平の墓域の横に、とても不思議な石像があった。一体これは誰なんだろう。それで色々と探し回り、ようやく細谷十太夫だと分かった。直ぐ隣には「細谷地蔵」の標識があったが、この像が地蔵には見えない。さて、彼は知る人ぞ知る、幕末から明治にかけて活躍した仙台藩士で、戊辰戦争の際に散々官軍を悩ませた張本人だった。 僧侶姿の十太夫 細谷家は仙台藩大番士の家柄で、下級武士に当たる。彼は藩から京都詰めを命じられるが、喧嘩沙汰を起こして帰省。石巻の鋳銭場の役人や探索方(スパイのような仕事)を命じられる。ところが幕藩体制が危うくなり、東北の諸藩の多くが越後の長岡藩と共に「奥羽越列藩同盟」を結んで、薩長主体の官軍と戦うことになる。 官軍の快進撃に後退した仙台藩は、最後の戦いを挑む。その先鋒となったのが十太夫が率いた「からす組」。これはゲリラ戦を得意としたならず者の集団で、正式名称は「衝撃隊」。最新鋭の軍備を誇る官軍を相手に、30連勝したとの逸話も残されている。最後の戦いは県南部、福島との県境にある丸森町旗巻峠。ここで初めて敗走した。新政府発足後は陸軍少尉として、西南戦争にも従軍した。 細谷地蔵 その後石巻で開墾に当たり、一時は北海道へも渡った由。日清戦争では千人隊長として従軍。歴戦の経験を駆使した軍人だったはず。帰国後は仙台に帰り、僧侶となった。当山、龍雲院の第八代住職がこの人。いかつい容貌が、その後丸顔の地蔵となって祀られた。歴史とは不思議なもの。そして人間とは実に面白い存在だ。たまたまの寄り道が、私に郷土の歴史を学ばせてくれた。これも奇しき出会いとして感謝したい。
2018.10.02
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~『西郷どん』の主なメンバー~ 『西郷どん』には、この桜島が良く登場する。薩摩富士とも呼ばれる秀麗な山で、鹿児島の人にとっては見慣れた聖なる山であろう。良く爆発する火山はかつて薩摩湾に浮かぶ島だったが、溶岩で半島とくっついた。さて、江戸へ行く場面で桜島を前に観ながら右(南)へ行くことが稀にある。「おいおい、そっちへ行ったら指宿方面だよ」と1人で突っ込みを入れている私だ。 この方をご存じだろうか。西郷どんに大きな影響を与えた島津斉彬公その人だ。若い頃から蘭学が好きで、彼を藩主にしたらたちまち藩の財政が破たんすると危惧した家臣によって、長らく江戸藩邸暮らしを強いられた。第11代薩摩藩主となったのは、42歳の時。叔父である福岡藩主黒田斉薄らの執り成しの結果だった。 大河ドラマでは、杏ちゃんのお父さんがこの役を演じている。斉彬は藩主になると、富国強兵策を打ち出し、尚古集成館などで造船、反射炉、溶鉱炉の建設に励み、地雷、水雷、ガラス、ガス灯などの生産を行った。日本で最初の洋式帆船「いろは丸」や、洋式軍艦「昇平丸」の建造も決行する。また老中阿部正弘、宇和島藩主伊達宗城、福井藩主松平慶永らと交流し、幕末の四賢侯と呼ばれた。 斉彬は積極的に人材を登用し、西郷などの下級武士を取り立てた。また幕府の改革を図り、将軍家定の正室に親戚の篤姫を養子として嫁がせ、一橋慶喜を次期将軍として推進するよう策を練った。だがその野望も虚しく、49歳にて突如永眠する。このため、西郷は奄美大島に続き沖永良部島へと2度にわたって島流しに遭う。 篤姫役を演じているのがDAIGOの奥様のこの人。藩主の縁戚ではあるが、まさかの殿の養女となり、まさかの将軍の御台所となった運命の人。将軍家輿入れの直前に公家である近衛家の養女となり、幕府と大奥内の反対を圧した。だが、夫である家定は体が弱く、ほどなく逝去する。義父である斉彬の意に反して、まだ幼い紀州徳川家の慶福(よしとみ)がその後継となった。 だがその慶福も夭折し、第15代将軍には念願の慶喜がその座に就いた。徳川最後の将軍で、彼は大政奉還を決する。関ヶ原の戦いで、島津は敵中を突破して薩摩に逃げ帰った敗者。だが、その二百数十年後に敵徳川に引導を渡すのだから面白い。天璋院篤姫もまた、歴史に翻弄された女性と言えよう。だが、実際は慶喜とは仲が悪かった由。大河ドラマではそこまでは見せないだろうが。 さて、これは私達が良く知っている西郷どん。上野の山で犬を連れて散歩してる人だ。この像が披露された際、妻の糸は「これはうちの旦那様じゃない」と言った由。顔はともかく、他人の前で浴衣姿になるような男ではないと言うことかも知れない。糸は西郷どんの3番目の妻。そこにどんなドラマがあったのだろう。 西郷どん役を演じているのがこの男。私が初めて彼を知ったのは、朝ドラの『花子とアン』の時。爽やかな印象を受けたものだ。実は西郷隆盛は彼の名ではなく、父の名。後に明治新政府が維新の活躍に対して位階を授ける際、友人が誤って父の名を記したのが真相。それならそれで良いと西郷どんは、隆永から隆盛に改名したと言う。それほど大らかな人物だったのだ。 土佐の坂本龍馬同様、薩摩の西郷隆盛は幕末に欠かせない英雄。その西郷は欲がなかった。明治4年(1871年)参議となり陸軍大将となるも、その2年後には2度目の下野で薩摩へ戻った。私学校を開いたが、生徒の暴動の責任を取るため、西南戦争の指揮を執る。そして城山にて自刃し、49歳の生涯を閉じる。「私学校」とは官立に対する呼称で、本当は無私無欲の人だった。 大久保ら岩倉使節団が遊学中は、新政府を主導した。だが、朝鮮との国交回復を巡って、帰国した大久保との意見の対立が深まり、下野して賊軍の首領となった。その死後名誉が回復し、正三位が授与されたが国を救った英雄なのに、靖国神社の英霊に祀られていないまま。ともあれ稀有の人物だ。号は南洲。各地に南洲神社があり、今も参拝者が絶えないと聞く。 これが明治の元勲の一人である大久保利通の肖像。ドラマ『西郷どん』では、正助どん、正助さ~と皆から呼ばれている。西郷吉之助とは幼い頃からの友であり、同じ下士(下級武士)の朋輩であり、良きライバルでもあった。斉彬に愛された西郷どんと違って、大久保は対立する斉彬の弟、久光に重用された。この辺りが2人の分かれ道だったのかも知れない。 演じているのはこの男。維新での活躍が認められ、明治2年参議、明治4年第3代大蔵卿、その後初代内務卿となり、事実上の首相を務めた。西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑と呼ばれ、日本の官僚機構の基礎を作った人物。冷徹ではあるが奢侈を嫌い、留学で得た知識を国家建設に活用。明治11年、不満士族の凶刃に仆れる。享年47歳。 これが西郷どんの3番目の妻となる糸。幼馴染の西郷どんをずっと愛していながら、それを告げたのは他家に嫁ぐ前日。純情でかつ鈍感な西郷どんは、自分も好きだったのに言い出せなかったのだ。初めの妻は西郷家の貧乏ぶりに驚き、実家に引き取られる。2番目の妻は島流しに遭った奄美の娘愛加那で、2人の子を生す。この糸がどんな経緯で西郷どんの妻になるのかは、まだ分からない。 糸は隆盛との間に何人かの子を産む。西郷どんは国賊となった後に名誉回復するが、2人の間に生まれた嫡男寅太郎が侯爵に叙せられる。彼は陸軍大佐まで上るが、伝染病で死去する。他方愛加那との間に生まれた菊次郎は、やがて京都市長となる。西郷どんの三弟従道も明治政府の重鎮だ。ただし、ドラマに登場する人物のほとんどが50歳以前に死んでいる。まさに「人生50年」の時代だったのだ。 私は幕末から明治にかけての時代が好きだ。まかり間違えば、外国に占領されたかも知れない状況下での鎖国制度。それを打破しながら、政治体制を変革して行った志士たち。時には血が流れ、戦争も起きた。だがそれはあくまでも内乱で済み、大国の侵略からは免れた。そこにはたくさんの勇気ある行動があった。大河ドラマは私にとって、歴史を学ぶ大いなる舞台なのだ。今夜はここらで良かろうかい。<完>
2018.04.26
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~道と歴史~ 先日購読紙の連載小説が終わった。タイトルは『落花』で著者は澤田瞳子と言う女流作家。歴史描写や文章が優れていたためネットで検索すると、京都大学文学部で日本史を専攻した人。それで全て納得した。時代は平安で舞台は関東平野。平将門の乱と盲目の琵琶法師蝉丸にまつわる奇怪な話だった。読んでいるうちに私はとても驚いた。私が知る場所が幾つかその中に出て来たからだ。 小説の舞台の一つの常陸国(茨城県)に、私は11年ほど住んだ。将門が襲った常陸国府や常陸国分寺があった石岡市へは水戸市から何度か走ったし、国分寺跡の礎石も観ている。筑波山は研究学園都市から10年間眺め、霞ケ浦は土浦から潮来へ船で往復したことがある。 当時はまだ関東鉄道筑波線が走っていたし、霞ケ浦の定期観光船も航行。そして筑波こそ、私がランニングを始めた土地。「かすみがうらマラソン」では霞ケ浦の湖畔を、「つくばマラソン」では学園都市の平地を何度か走った。そう言えば将門を祀った神田明神に詣でたことがある。 蝉丸は百人一首にも出て来る歌人で琵琶の名手。彼が盲目となってから結んだ庵が逢坂の関の付近にある。京都から大津へ抜ける峠道の山中だ。実はその道も走ったことがあり、その際に蝉丸神社を訪ねた。まさに奇遇とはこのこと。転勤しながら各地を走っていると、時にはこんなことにも遭遇する。旅は良い。人生もまた偉大なる旅のように思えてならない。 先日阿武隈川沿いを歩いた際、コースを選定したFさんがある山の名を口にした。厚樫山(あつかしやま)は福島県国見町にある標高290mほどの低山。宮城県境にほど近い。私がその名前を知っていたのは、自宅から福島市まで80km走った際に、山の直下を通ったため。時間不足で山に登ることは出来なかったが、ここは奥州合戦当時の古戦場のようだ。 古来より東北は討伐の対象だった。古くは征夷大将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐。そして奥州藤原氏を征伐した源頼朝による奥州合戦。3つ目は江戸幕末の戊辰戦争。東北は官軍に負け、その後暫くの間冷や飯を食わされた。いや、神話時代にまで遡れば、日本武尊による征伐もある。彼が実在の人物か、そしてどこまでを本当に攻めたのかは不明だが、宮城県南部にも白鳥伝説があり、岩手県にまで武尊縁の神楽が伝わっている。 厚樫山はかつて阿津加志と表記し、ここに奥州藤原氏の砦が築かれていた。現在は国道4号線、東北道、JR東北本線、東北新幹線がいずれも直ぐ傍を通る交通の要衝。攻める頼朝軍は40万騎。それに対して藤原氏の勢力は1万もいないだろう。勝敗は簡単について退却を迫られ、最後は平泉の滅亡で終わった。仏教都市平泉の平和の願いも、豊かな東北を傘下に収める頼朝の野望の前には一たまりもなかった。 奈良時代に道幅20m近い官道が整備されるが、これは各国府を極力直線でつなぎ、朝廷の指令を伝馬によって地方へと伝えるためのもの。だが、それ以前も細いながら道は各地へと繋がっていた。神話時代も交えて、神武東征、日本武尊や四道将軍による遠征、蝦夷征伐などによって大和朝廷の権力の及ぶ範囲が次第に広がって行ったのだろう。 それに伴って人と物資が移動し、道はどんどん広がり整備される。東山道、東海道、山陽道、山陰道、南海道、西海道などだ。すると人口がさらに増加して税が増え、その管理のために分国が起きる。出羽国(山形、秋田)は陸奥国から、下野上野は毛野国から。越国は越前、越中、越後に別れ、越前からは若狭、越中からは能登と加賀が分国と言った風に。他にも多くの分国がある。 新潟県の弥彦神社で驚いたのは、付近の海岸に舟で上陸したのが越後開拓の初めと伝わっていること。弥彦神社が越後国一宮である理由が分かる。海岸沿いの「親不知子不知」の難所は、波が引いた僅かの時間しか通行出来なかったし、江戸時代まで「ツツガムシ病」と言う郷土病が存在した。「つつがない」はそこから来た名前。だから新潟の海岸部では陸路よりも安全な海路が重要だったのだろう。 福島県の会津地方は、神話時代に親子の四道将軍が片方は日本海側から遠征し、もう一方は太平洋側から入って落ち合ったため会津(あいづ)と呼ばれたとの伝説がある。真偽のほども分からない遠い時代から人々の移動で道が出来、各地に文化が伝わって行った。私が地名や人名に興味を持つのはこのため。これまで地球を2周と7千kmほど走ったのも、そのほとんどが人為的な道の上だ。 人類はたった1人のアフリカ女性から生まれたとされる。そしてアフリカから長い年月をかけて、世界各地へと拡散していった。氷結したベーリング海峡を歩いて渡ったのは、黄色人種の仲間。それが北アメリカ大陸を縦断して南下し、パナマ地峡を経て南米大陸の最先端にまで達した。そこの原住民にもお尻に青いあざ、いわゆる蒙古斑がある由。時間はかかったもののそんな遠くまで歩いて行った先祖達は凄い。 茨城在住の頃、道路が色んな方面に繋がっていることに驚いた。広くて平らな関東平野では、古い時代から移動や交流が激しかったのだろう。仙台に帰ってからは、峠を越えて隣県まで走った。戦国時代はその峠を越えて、侍たちが戦った。さて人類の道は、何処へ繋がっているのだろう。地球温暖化や核戦争で破滅に至るのは避けてほしい。やはり平和じゃないと安心して道を歩けないしね。
2017.12.08
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<美術館・博物館編> 私は美術館や博物館が好き。特に博物館は大好きだ。ひょっとして映画館より好きかも知れない。なぜそんなに好きかと言うと、日本史に関心があるからだ。特に日本古代史や考古学、それも東北地方の歴史ならなおさらだ。きっと東北人の祖先達がどんな暮らしをしていたのか、知りたいと思う気持ちが強いのだと思う。 そんな訳で、今年も色んな博物館を訪れた。今日はその総括だ。訪れたのは以下の通りで、月日順に記した。 1月 松島瑞巌寺青龍館(宝物館)常設展示 松島町立博物館 2か所とも雪の松島を撮影するついでの訪問だった。 2月 角田市郷土資料館で牟宇姫のお雛様を観る。牟宇姫は伊達政宗の次女で、家臣で角田城主の石川氏に嫁いだ。雛人形はその嫁入り道具となった大名雛だ。 4月 第79回河北美術展 仙台市内Fデパート 5月 『黄金のファラオと大ピラミッド展』 仙台市博物館 国立カイロ博物館所蔵の逸品。 5月 『レオナルドダヴィンチとアンギアーリの戦い展』 宮城県美術館 5月 企画展『縄文人の精神世界』 仙台市縄文の広場 9月 『アンコールワットへの道』 東北歴史博物館(多賀城市) 9月 『ポーラ美術館コレクション ~モネからピカソ、シャガール~』 宮城県美術館 小品が多く、残念ながらさほど迫力を感じなかった。11月 『版画と音楽でつづる星野富弘の世界』 せんだいメディアテーク 寝た切りの障害者星野富弘が筆を口にくわえて描く絵と詩の世界。 5月に宮城県美術館で観た「アンギアーリの戦い」は、フィレンツェのヴェッキオ宮殿「500人広間」にかつて描かれたレオナルドダヴィンチとミケランジェロの戦争図を比較したものだった。その際、「500人広間」とは何か、ネットで検索したため強く私の印象に残っていた。 それが今月観た映画『インフェルノ』に登場したものだからビックリ仰天。見覚えのある宮殿の一角。思わず「あっ、あそこだ!」と心の中で叫んだものだ。それが事件の現場になって映画に登場する不思議さ。それは歴史とも通じるものがある。 今年は東北の古代史を訪ねる一人旅へも行った。旅先で訪れたのは以下の通り。☆ 岩手県遠野市立博物館ほか2館。柳田國男の『遠野物語』の世界を満喫するだけでなく、南部藩における遠野の歴史や役割などを学んだ。☆ 青森県八戸市立是川縄文館 ここには国宝に指定された「合掌土偶」や遮光器型土偶など、縄文時代の優れた遺物がたくさん収蔵してあった。青森県立郷土館と比べても遜色がないもので驚いた。☆秋田県立博物館 ここには縄文時代の遺物だけでなく、古代の城柵である秋田城や雄勝柵などの展示コナーや秋田の民俗に関するコーナーなどがあり有益だった。 今年の一人旅では、下北半島の中心部にある恐山をも訪ねた。ここでは長年の謎だった「いたこさん」と出会い、貴重なお話を聞くことも出来た。このようにして現場を訪れて初めて分かることもある。アイヌ語との関係、北前船を通じての都との関係、そして日本海を通じての古代からの外国と東北との関係など、本を読んで得た知識が、さらに肉付けされるのが良い点だ。 古代エジプトの文明やアンコールワットの文明。博物館へ行けば、世界旅行をしなくても実際に行ったと同じような知見を得られることも多い。実に素晴らしいことではないか。本を読む。旅で現場に赴く。そして博物館でさらに学ぶ。こうして歴史や文化への認識が深まって行くのは楽しい。<続く> ≪103歳の言葉≫ 現役の抽象芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「真実は見えたり聞こえたりするものではなく、感じる心にある」。 何という感覚なのだろう。本を読んで得た知識や新聞やテレビから得られたニュース。果たしてそれだけが真実なのだろうか。「真実とは何か」。恐らく彼女は長い間自分の胸にそう問い続けて来たのだろう。そういう積み重ねがあって、ようやくこの言葉が生まれて来たに違いない。 たとえ真実を告げられても、それを感じ、そして受け入れる心が自分になければ真実にはならない。ひょっとして彼女はそう言いたかったのではないだろうか。
2016.12.29
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<海を渡る> これは私達の祖先が日本列島にやって来た際のルート。この時はもう大陸から分離されていたため、海を渡って来るしかなかった。きっと不安に満ちた厳しい旅だったと思う。 縄文人が乗っていたのは丸木舟だった。彼らは石斧で木を切り倒して半分に割り、中を削ったり燃やしたりして舟を作った。この舟で縄文人は物を運んだ。例えば青森の三内丸山遺跡には、新潟から翡翠が、秋田から接着剤のアスファルトが、北海道から石器の材料となる黒曜石が運ばれて来た。日本海や津軽海峡を渡るには、きっと各地に中継地点があったはずだ。 弥生人は稲を携えて日本列島にやって来た。丸木舟よりは安定した舟だったのではないか。それに縄文時代のように近海を渡るのではなく、外洋を乗り切る必要がある。考えられるのは筏のような舟。簡単な帆柱があれば速力も上がる。中国の山東半島の稲が、日本の稲であるジャポニカ種に似てるのでそこが起源であり、そこから直接来たと考えるのが妥当。一部は朝鮮半島から島伝いにやって来た人たちもいただろう。 これは今年の春に実験された「葦船」。台湾から沖縄の最西端にある与那国島まで渡った。距離は60kmほどある。人間は30kmの間に島影が見えないと不安になるらしい。太古の人々はその不安に打ち克って日本列島にやって来た勇気ある人々だ。 草を束ねて作ったこの舟は激しい海流に流され、予定時間をオーバーして与那国島に着いた。だが私たちの遠い祖先は、ライフジャケットも地図も持ってはいなかったのだ。 これは埴輪の船。丸木舟よりはましで、「波切り用」の板もついている。船べりには両側に8つずつ「ろ」を漕ぐための装置が見える。20人近くの人が乗り込んで船を漕いだのだろう。だが「構造船」ではないため、外洋では転覆・沈没することもあったに違いない。古墳時代、この船に乗って兵士たちはどこへ出かけたのか。恐らくは各地の豪族たちの連携体制も徐々に形成されて行ったはずだ。 これは古代の城柵の一つである秋田城の城門で、天平5年(733年)に築造されている。ロシアの沿海州にあった渤海国の使節を接待する施設が、福岡県、能登半島、そしてこの秋田城内にあった。日本海を通じての交流が既にあったのだ。 これに先立つ斉明天皇4年(658年)から3年間、鉞国国司の阿倍比羅夫は渡島(北海道)まで遠征して、アムール川河口付近からやって来た異民族をけん制し、秋田のエミシを討伐している。当時陸路は厳しく、日本海沿いに船で行くしかなかった。後に比羅夫は天皇の命令で朝鮮半島へ渡り、新羅と戦っている。恐らくは古墳時代の船よりはより頑丈な船がこの時代にはあったのではないか。 やがて朝鮮半島は高句麗に統一される。この際滅ぼされた百済や新羅に加え、高句麗の王族など約200万人が3世紀に亘って我が国に渡来したようだ。弥生人どころの比でない膨大な数だ。彼らは我が国に先進技術をもたらし、やがて関東(埼玉県高麗郡など)へも移住させられた。 一方、古代東北には関東などから人が移住して新しい郡が作られた。征服されたエミシの一部は宮廷の警備を担当したり、九州(大分県佐伯市)などへ移住させられた。こうしてさらに混血が進むことになる。佐伯(さいき)はさえぐ(=ふさぐ)が語源。エミシは強い兵士。朝廷が怖がるわけだ。 これは遣唐使船。中国の優れた政治体制や先進技術・文化を学ぶため小野妹子や阿倍仲麻呂などが海を渡った。ルートは何通りかあったがいずれも命がけの旅で、暴風で沈没することもしばしばあった。逆に中国からは高僧が我が国を訪れた。唐招提寺を開いた鑑真和上もその一人。彼は暴風雨などで船が難破し、6度目でようやく日本に渡れた時は盲目になっていた。 遣唐使は遣隋使から変わったものだが、航海の危険性が極めて高いことや、中国から学ぶべき点も少なくなったと判断されたことから、長期に亘った交流に終止符が打たれた。 これはご朱印船。室町幕府から許された者だけが貿易に携わることが出来た。守護大名などが勝手に密貿易して財を築くことを恐れたのだろう。やがては泉州堺の商人たちが南洋に乗り出し、巨額の富を得る元にもなった。シャム(現在のタイ国)に渡って警備兵となった山田長政なども、このような船に乗って夢を叶えたのだろう。 再び時代は遡る。上段は青森県津軽半島の十三湖にあった中世の貿易港十三湊(とさみなと)の交易状況。日本海を渡って北は北海道、南は西国まで交流があった。また大陸との貿易も行われ、2段目の蝦夷錦(えぞにしき)や月琴(げっきん)などが我が国にもたらされた。この湊を支配していたのが安東(安藤)氏。東北の古代豪族でエミシの族長だった安倍氏の末裔と言われている。 これは岩手県平泉の中尊寺金色堂の内部。奥州藤原氏の祖はエミシの族長安倍頼時の娘と結婚した藤原経清。陸奥国国司まで上り詰めた奥州藤原氏の膨大な富は、金の産出や大量の強い馬によって築かれた。だがその陰には、十三湊の貿易があった。珍しい大陸の産物を都に持参すれば、さらに富と信用が増した。 源頼朝はその巨富を奪うために奥州藤原氏を滅亡させ、邪魔な弟義経を殺す必要があったのだ。こうして日本は古代から中世へと移行し、政治も貴族から武士の手に渡った。 2枚の絵馬はいずれも青森県立郷土館で撮影したもの。十三湊以来、日本海を通じての交流や貿易が盛んだった東北地方では、江戸時代になるとますますその傾向が強くなる。いわゆる北前船による西回り航路が完成して、物品は遠路大坂まで運ばれた。 帆船は風がないと走れない。それで各地に風待港が設けられた。佐渡島の宿根木(しゅくねぎ)もそんな風待港の一つ。私は206kmのウルトラマラソン「佐渡島一周」を3度完走しているが、この宿根木集落にある博物館で北前船を見た。ウルトラマラソンの途中に博物館を見たのは初めてだが、実に大きくて立派な船だった。 北前船で運ばれたのは米や紅花などの東北の産品ばかりではない。蝦夷が島(北海道)のアイヌがもたらした昆布やニシンの干物、鷹の尾羽(矢に使う)、海獣の皮なども大量に積み込まれた。ラッコやトナカイはアイヌ語だ。サケ(酒)やハシ(箸)は逆に日本語からアイヌ語になったもの。ただし日本語の神とアイヌ語のカムイ(神居)がとても良く似ているのはなぜだろう。 仙台藩の藩祖である伊達政宗は領内の沼地を干拓して米を増産した。62万石が実高100万石を超えたそうだ。政宗はその米を江戸に運んだ。北上川や阿武隈川を改修し、貞山堀などの水路を整備し、銚子から利根川を遡り運河で江戸へ至る航路を開発したのだ。仙台藩の繁栄を知った津軽藩や南部藩も東回り航路を使うようになった。こうして江戸も大坂以上の繁栄を見るようになったのだ。 日本人の船の旅の話を最後に、このシリーズを終えることにしたい。長期間のお付き合いに心から感謝しつつ。<完>
2016.10.01
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<アイヌ語地名の謎> チカモリ遺跡 石川県に勤務していた頃、金沢市のチカモリ遺跡を訪ねたことがあった。栗の巨木を半分に割った柱を円形に並べた縄文時代の遺跡だ。ここで不思議な人物と出会った。話を聞くとアイヌ語地名を調べている由。 そう言えば弥生時代の代表的な遺跡である静岡の登呂遺跡の「トロ」もアイヌ語から来てると聞いたことがある。だが私には「チカモリ」の語源がアイヌ語のようには思えなかった。「カタカナ地名」は滋賀県の「マキノ」など、数少ないがあることはあるのだ。 青森県立郷土館にて 幕末期、当時は蝦夷地と呼ばれていた北海道を探検した人たちがいる。伊能忠敬は自分の足で海岸線を歩いて測量し、精密な地図を作った。歩けない場所は仕方なく舟の上から測量した。いわゆる「伊能図」がその地図だ。西欧人もこの地図の正確さには驚嘆した。間宮林蔵は樺太に渡り、樺太が島であることを確認した。それが間宮海峡の発見につながった。 最上徳内 松浦武四郎は蝦夷地を北海道と名付けた人。そして国名(現在の支庁)と郡名も自ら決めた。北海道内を隈なく歩き、アイヌの集落なども描いている。最上徳内は現在の山形県村山市の農民出身だが勉学を重ね、蝦夷地を7度も訪れている。その中で危険人物とみなされて幕府に捕まり、入牢したこともある。ロシアのアリューシャン付近まで流された大黒屋光太夫が帰国した際も、彼は蝦夷地でその噂を聞いている。 アイヌ語地名の一例 彼らに共通したのは、アイヌ語地名を聞いて漢字に置き換えたことだ。そうして次第にその地名が内地の日本人にも認識され、やがて定着して行った。だが日本語にはない子音や促音などの表現には、きっと悩まされたことだろう。 知里幸恵 知里真志保 上の写真は言語学者金田一京助のアイヌ語研究を助けたアイヌ人の姉弟だ。姉の幸恵は現地の北海道で金田一京助の研究を援助した。アイヌ語を日本語に翻訳することはもちろんだが、自分でもアイヌ語に関する知見をまとめている。金田一博士を訪ねて上京し、19歳の若さで亡くなったのが残念だ。 弟の真志保も金田一博士を頼って上京して東京帝国大学文学部言語学科で学び、卒業後は北海道大学の教授となった。はじめは金田一京助の弟子だったが、やがて激しい批判者となったそうだ。やはりアイヌ人として受け入れられない部分があったのだろう。 画像が不鮮明で申訳ないが、これは東北に残るアイヌ語地名の地図だ。今年の6月に私が旅した恐山の宇曽利湖。その「ウソリ」はアイヌ語の「窪んだ地」の意味とか。カルデラ湖なので窪んでいるのは当然だ。また八戸付近を流れる馬淵川は「まべち」と読み、アイヌ語「べつ:川」から変化したようだ。 かつてウルトラマラソンをしていた私は「秋田内陸100kmマラソン」を何度も走ったが、コース近くの桧木内(ひのきない)や笑内(おかしない)の「ナイ」も小さな川と言う意味のアイヌ語が起源だ。 萱野茂氏 これはアイヌ人で初めての国会議員(参議院議員:日本社会党)となった萱野茂氏(1926~2006)。私は平成11年(1999年)の夏に北海道マラソンに出場した際、平取町二風谷にある氏の自宅を訪ねたことがあった。氏は風邪を引いて臥せっていたが、わざわざ起きて私の質問に答えてくれた。 その時に氏が話してくれたのは、アイヌ語地名かどうかを判断するには「ナイ」(小さな川、沢)や「ベツ」(大きな川)があるかどうかだと言うことだった。なるほどねえ。私と会った2年後に氏は長年のアイヌ文化研究で博士号(学術博士)を与えられ、その7年後に氏はパーキンソン氏病で亡くなった。とても温和な方だった。1975年菊池寛賞受賞。1989年吉川英治文化賞受賞。合掌。 これは青森県立郷土館にあったアイヌ語地名の説明板。興味深いのは江戸時代を通じて、津軽半島の先端部(弘前藩領内)にアイヌ人の集落があったことだ。当時は北前船が西廻り航路で東北や蝦夷地の物産を大坂まで運んでいた。恐らくアイヌ人たちは蝦夷地の物産を津軽半島まで運ぶ手助けをしていたのだと思う。 弥生時代、稲がかなり古くから青森県にまで到達していることが田舎館遺跡の発掘調査で判明している。だがその後その稲作最前線は後退し、再び北上するまで数百年を要した。寒さに強い品種が出来るまで、きっとそれだけの年月を要したのだと思う。 その期間に最初のアイヌ人が東北北部に渡来したと考えられるようだ。アイヌ人の方が寒さに強かったからだろう。狩猟民であるマタギの言葉には、一部アイヌ語が混じっている由。また後世、八戸藩の武士の中には、アイヌ族の末裔と思われる名を持つ者もいたと聞く。 これは昨年訪れた青森県五所川原市立市浦歴史民俗資料館にあったアイヌ人の絵。果たして松浦武四郎の手による絵かどうかは不明だが、この地にかつてアイヌが居住した証かも知れない。「苫米地:とまべち」に「小比類巻:こびるいまき」。これは青森出身の人の姓。元々はアイヌ語の地名が起源だと思う。 さて、東北の古代史に関する最大の謎がある。明日はその謎に迫ってみたい。<続く>
2016.09.29
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<260年前の恨みを果たす> 6月26日(日)。いよいよ北東北の歴史を辿る一人旅の最終日になった。6時半からの朝食は和食を選んだ。メニューは悪くなく、一日のスタートとしては申し分のない内容。早めに荷物をまとめ、バスで秋田市内へ向かう。秋田駅に着いて、まずは列車の時刻をメモ。それが終わると千秋公園に向かって歩き出した。 向かった先は久保田城跡。駅から10分で着く。秋田藩主佐竹公の居城で石高は20万石であった。 秋田の城が秋田城ではなく、なぜ久保田城なのか、奇異に感じる。昨日も書いたが秋田城は古代の城柵で海よりの地にある。それに対してこちらの久保田城は江戸時代の築城だ。 説明には書かれていないが、秋田藩の城主である佐竹氏は元々常陸国(現在の茨城県)の戦国武将。徳川氏の関東進出と江戸での幕府開府によって佐竹氏は水戸の地を追われ、ここ秋田に移封された。その後には御三家の一つである水戸徳川家が入った。本貫の地を奪われた佐竹氏は、恨み骨髄であったのだろう。 表門 幕末に起きた戊辰戦争において、東北と越後にあった藩の大半は幕府側に就いた。徳川の恩顧に報いるためだ。仙台の伊達はもとより、京都守護職であった会津藩の意思は固かった。その中にあって官軍側に味方した数少ない藩がこの佐竹藩。徳川氏によって本貫の地を追放された恨みを、260年ぶりに果たす機会が到来したのだ 表門内側 復元された御隅櫓 戦いの結果は誰しもが知ってるだろう。戦いに勝った薩長は明治新政府を作り、味方だった藩を手厚く保護し、敵となった藩に対しては冷遇した。それは廃藩置県で置かれた県の形で分かる。伊達は北方の領土を失い、小さな宮城県となった。会津は福島県の一部となった。官軍に味方した佐竹は南部藩の所領だった鹿角地方を秋田県として編入されたのだ。 御隅櫓 最後の城主第12代佐竹義堯公立像 だが勝利した久保田城は明治13年(1880年)に失火で全焼した。失火の原因は分かっていないが、ひょっとしたら佐竹藩(秋田藩)が官軍側に就いたことを恨んでいた者の仕業だったのかも知れない。つまり「秋田は寝返って官軍に就いた敵だ」として。特に旧南部藩の領民だった鹿角地方の恨みは激しかったのではないか。ただし、これはあくまでも私の推測に過ぎないのだが。 久保田城外濠 城が焼け落ちた10年後になって、城跡は現在のような公園に整備された。早朝の久保田城を訪れた私がここで会った人はとても少なかった。 濠に咲く睡蓮の花 当初の第一希望だった古代の城柵秋田城に行く予定が残念ながら適わず、代わりに江戸時代の久保田城を訪れる羽目になった。それはそれで良い。私も一度は街中にある佐竹の城を観、260年間の「佐竹の恨み」を感じたい部分もあったのだ。再び駅まで歩いて戻り、そこからいよいよ旅の最終訪問地へと向かった私だった。
2016.07.16
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<いざ下北半島へ!!> 「是川縄文館」内部 是川縄文館の展示は観尽くしたし、写真も十分に撮った。少し離れた分館へも行ったが、さほど見るべきものはなかった。本館のミュージアムショップで図録2冊を購入。八戸駅へのバスはない。朝お世話になったタクシー会社に電話すると、配車に30分ほどかかる由。バス停で待っていると、15分くらいでタクシーが来た。やれやれ♪😥 八戸市蕪島神社 八戸12時14分発青い森鉄道の快速「しもきた」に乗れた。当初の予定より3時間も早い列車だ。車内で朝のうちに買っておいたお握りとサンドウイッチを食べる。それにしても是川縄文館は良かった。想像以上の収穫があったと思う。 八戸市種差海岸 新しい知見も幾つか得た。先ず甲斐(山梨県)に居た南部光行が「奥州合戦」の戦功として頼朝から与えられた「糠部(ぬかのぶ)五郡」が、八戸郡、三戸郡、上北郡、下北郡、それに現在は秋田県に所属している鹿角郡と、かなり広大な領地だったことが分かった。私は八戸付近のごく限られた土地だとばかり考えていたのだ。道理でタクシーの運転手さんが知らなかったはず。それは中世の呼称だったのだ。 八戸えんぶり この地方の歴史を語る際に最初に登場させるべきなのは、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)だろう。彼は征夷大将軍坂上田村麻呂と同時代の人物で、奈良時代後期から平安時代前期にかけて活躍した公卿。弘仁2年(811年)爾薩体(にさったい=現在の岩手県二戸市付近)から青森県南部にかけての蝦夷を征伐している。このお陰で盛岡の前進基地である「志和城」もあまり必要性がなくなったほどだ。 復元された根城 八戸には南北朝時代の南朝側の武将だった南部師行が建武元年(1334年)に築城した根城があったことも初めて知った。この城は末裔が岩手県の遠野へ移るまでの300年間、ここ八戸地方の中心的な存在だった由。 何年か前に函館市の海岸を走っていた時、たまたま津軽海峡に面した「志海苔館(しのりだて)」と言う中世の城郭跡を観たことがあった。これは南北朝時代に敗走して蝦夷地へ流れて来た小林氏の居城で、発掘調査の結果大量の宋銭などが出土した由。恐らくは津軽海峡や日本海を通じて手広く貿易をしていたのだろうが、やがてアイヌと2度戦って落城する。あれも偶然旅先で知った歴史の一幕だった。 斗南藩領域図 列車はいつの間にか、下北半島に入っていた。雨空の下に湿地帯が見える。確かこの周辺は「斗南藩」の領地だったはず。戊辰戦争で敗れた会津藩が廃藩置県までのわずか2年足らずの期間、移って来たのがこの斗南藩だ。耳慣れないその名前は大河ドラマ『八重の桜』で知った。なるほど旧会津藩士の苦労が偲ばれる荒涼たる原野が続いている。歴史とは何とまた不思議な存在であることか。 是川縄文館の展示 このシリーズではいかにも知った風に書いているが、実際は帰宅後にネットで調べて分かったことが大部分。旅先では自分の「勘」に基づいて、一心不乱に写真を撮るだけ。メモする暇もないため、説明文や名札などもいちいち撮って置く。それで枚数がやたらに増えるのだが、写真の整理が終わった段階で説明の大半は捨ててしまう。その写真が何か、同定出来れば良いためだ。 歴史や考古学は本を読んで知った知識だけでは駄目で、その現場に立つことが重要。自分の目で確かめることでより理解が増し、新たな発見もある。長い間考えていた疑問が、氷解することも多い。だからこんな一人旅が、私にとってはとても重要な意味を持つのだ。 大湊線の終点 13時54分大湊駅に到着。ここから先にレールはない。ここは本州最果ての地。下北半島の「斧」の直下だ。ホテルは駅の直ぐ傍にあった。ネットで予約していたのは2人部屋だったが、「ダメ元」で交渉するとシングルの部屋が取れた。喫煙ルームだが止むを得ない。大人の休日倶楽部の割引が適用され、7千円以下で済んだ。当初料金の半分だ。早めにチェックインも出来た。 窓の外は雨。部屋から陸奥湾の寂しい風景と、行き止まりのレールが見えた。デジカメのバッテリーを充電し、濡れた傘を広げ、ベッドに横になったらいつの間にか眠っていた。自分では意識してなかったのだが、やはり疲れていたのだろう。夕方には雨が止み、私は散歩に出かけた。陸奥湾の上空を覆う黒い雲と海岸に打ち寄せる波。最果ての風景がどこまでも広がっていた。<続く>
2016.07.07
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<3つの国宝> タクシーの車内で運転手さんと話す。東北新幹線の八戸駅と、八戸線の本八戸駅の関係。最近の八戸の漁業の状況。「三社大祭」の三社とはどこか。そして、青森県にある3つの国宝が、全てこの八戸市にあることなどだった。運転手さんは、きっとそれが誇りだったのだろう。料金は1800円ほど。道が混んでなくて良かった。帰りのために、名刺をもらった。「南部と津軽」の仲の悪さについては、残念ながら聞きそびれてしまった。 この際、折角だから紹介しよう。国宝というのがこれだ。左側は「赤糸威鎧兜大袖付」(あかいとおどしよろいかぶとおおそでつき)で鎌倉時代の作。長慶天皇から拝領したと伝わっている。新羅三郎(源義光)が着用したと江戸の書にあるが、彼は後三年の役(1083年~)に都からこの地に駆け付けた武者で、時代が合わない。 右側は「白糸威鎧兜大袖付」で、こちらは南北朝時代の作。後村上天皇から南部信光が拝領し、子の光経が奉納したと伝わっているが時代が合うのかどうか。どちらも櫛引神社の国宝館に納められているそうだ。写真はネットから借用した。 八戸三社大祭は毎年100万人の見物客が出るほどの盛況ぶりらしい。三社大祭とは、共に八戸市内にある「おがみ神社」(これが最も古い歴史がある由)、「新羅神社」、そして「神明宮」の3つの神社の合同で開催される祭。新羅神社は白山神社と同様元々新羅(しらぎ)からの帰化人が信奉した神社だが、恐らく新羅三郎との関係から八戸にも請来したのだろう。写真はネットからの借用だ。 昨年の歴史の旅で秋田県の大湯環状列石(ストーンサークル)を訪れた際も、タクシーのお世話になった。その運転手さんが嘆いていたのは、戊辰戦争で越奥羽列藩同盟が破れたのは、秋田の佐竹藩が官軍に味方したからだと言うのだ。同じ秋田県内でも、鹿角地方(先日タケノコ採りで熊に襲われ、4人の死者が出た市)はかつて南部藩に属していた。 そのことを知らない秋田県民が多いのだそうだ。私はすっかり驚いてしまった。「藩」の意識がまだ残っていたとは。昨日TVを見て驚いたのは、福島県の会津地方で「先の大戦」と言うのは、何と幕末の「戊辰戦争」を差すと言うのだ。まさに「へえ~っ?」の連続。地方でタクシーに乗るのは、その地域の歴史や住民の意識を知るために欠かせない「取材活動」とも言えそうだ。 八戸市の郊外にある「是川縄文館」の名前を初めて聞いたのは、昨年盛岡の街を案内してくれたブログ友ニッパさんからだった。私が考古学が好きなことを知って、「青森にも凄い遺跡があるよ」と教えてくれたのだ。今年の計画を立てる際にネットで調べ、これは絶対に行きたいと思ったのがここだった。 入館料は250円とバカ安。もらったパンフレットが上の写真。イラストに描かれた土偶が実は八戸にある3つ目の国宝通称「合掌土偶」だ。ロッカーにリュックを入れて身軽になり、展示場に行って驚いた。何という充実ぶり。特に「遮光器型土偶」の数が凄い。これは青森県立郷土館の「風韻堂コレクション」にも負けてはいない。これも南部と津軽の代理戦争みたいなものだろうか。<続く>
2016.07.03
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<城下町としての遠野> 「歴史と旅」をシリーズ名にしながら、まだ歴史的なことはほとんど書いていない。第4回目の今日辺り、そろそろ歴史について書いても良いころだろう。「とおの物語の館」を見学した後、私は「遠野城下町資料館」と「遠野市立博物館」を訪れた。そこで撮影した写真を中心にして、今日は話を進めようと思う。 盛岡藩(南部藩)を治めた南部氏の本貫は甲斐国(現在の山梨県)の南部町にあった。源頼朝の奥州藤原氏追討により東北は鎌倉幕府の勢力下に置かれた。南部氏は小舟に乗って太平洋を北上して現在の八戸付近に上陸し、新しい領地を治めた。 やがて戦国時代になると、現在の青森県の全体および秋田県の鹿角市付近まで版図とするが、家老大浦氏の裏切りにより津軽の領地を奪われる。大浦氏は津軽氏と名乗り、秀吉によって10万石を安堵される。津軽と南部が仲が悪いのはそれ以来のことで、両氏は江戸城中でも顔を合わせなかった由。なお南部氏の所領は夏泊半島の東部から下北半島の先端にまで及び、十和田湖周辺にまで広がっていた。恐らく現在の感覚では信じられないだろうが。 南部藩はやがて盛岡に城を築き、そちらが中心となって行く。ここ遠野は元々阿曽沼氏が治めていた土地で、鍋倉城がその居城だった。寛永4年(1627年)本来の所領だった八戸から南部直義が入部。以後遠野南部氏と称され、12500石の城主となり、明治まで続いた。遠野南部氏は代々盛岡藩の家老として勤めた。 またここ遠野に城を築いて南部氏の一族を置いたのは、すぐ南側が伊達領だったため。遠野は仙台藩と盛岡藩の境界に近かったのだ。これも現在ではなかなか信じられないが、伊達は一関、水沢、平泉から陸前高田付近までを所領としており、北上山中の重要な鉱物資源を巡って、南部藩と争っていたようだ。なお地図の赤く塗られた範囲が現在の遠野市。 遠野南部氏の家紋。本家に遠慮し、家紋は周囲の「外輪(円)」を省いた由。 大名行列を織り込んだ模様。遠野南部氏が単独で大名行列を行ったかどうかは不明。 左は鎧兜と采配。右は兜と軍扇。 見事な一振り。 笠各種。 左は裃(かみしも)で右が根付(ねつけ=煙草入れなどが落ちないよう帯に挟む小道具) 左は各種の鏃(やじり)で、右は乗馬の際に足を置く鐙(あぶみ)。 刀の鍔(つば)各種。 南部藩藩士の武者姿 打掛(うちかけ) べっ甲製の簪(かんざし=左)と花瓶 蒔絵塗りの香炉入れ2種 持ち運び可能な重箱入れなど 貝合わせ 花巻人形のお雛様 花札 町人の暮らしぶり ただ現地で撮った写真を並べただけだが、藩政当時の遠野の姿が、少しは見えただろうか。写真が多くてなかなか旅が前に進まないが、おそらくは明日も遠野の話になるはず。気長にお付き合いいただけたら嬉しい。<続く>
2016.06.30
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昨年の12月6日。仙台市地下鉄東西線が開通したその日、私は「一日乗車券」を購入して色んな所を訪れた。もちろんブログネタの取材を兼てのものだ。この日は妻の兄の法事があり、それが終わり次第最寄りの駅に駆け付けたのだ。 薬師堂山門。 行き先の一つが若林区にある薬師堂。普段は静かなお寺で、地下鉄の新路線開通日にわざわざ訪れた人はそう多くはないはず。 山門の格子の中に仁王像が見えた。その堂宇の前に古ぼけた草鞋(わらじ)が幾つかぶら下がっていた。足の故障を抱える人が供えたのだろうか。 薬師堂の本堂。現在では曹洞宗に所属する寺院だが、この寺には秘められた歴史の一面がある。 本堂の横に古ぼけた石標が立っていた。 古い説明板もあったが、字が薄れて読みにくい。そこで私が読んだ文章を紹介しよう。「陸奥国薬師堂は藩祖政宗公が和泉国(現在の大阪府)から工匠を招いて再建し、慶長12年(1607年)に完成。素朴な力強さが特徴で、同時代に築造された大崎八幡宮(国宝)とは対照的な存在。本尊である菩薩如来を納める家形厨子が堂内に在り、十二神将、毘沙門天、不動明王(いずれも重要文化財に指定)が周囲を守っている。 薬師堂本堂の側面 今では住宅街の真ん中にあるが、建立当時の仙台は寒村で、相当寂しかったはず。ここは宮城野の一角で、茫漠とした野原が広がっていた場所なのだ。 薬師堂の屋根。屋根の上には鬼瓦が鎮座し、棟には法輪が刻まれている。 所在なさげに境内に立つ2頭の狛犬。右側が「阿形」、左側が「吽」(うん)形。 手水舎の亀の親子。口から清水が流れ出していた。 境内風景 その1 私が高校生の頃、この周辺は寂しい所だった。江戸時代はさらに寂しい一角だったのではないだろうか。 境内風景 その2 鎌倉以降の板碑が林立している。ここが聖地であったことは確か。 梵字を刻んだ板碑の表面が摩耗して字が判読出来ない状態だ。12月なので花は皆無。私が勝手に写真を添えた。 右は芭蕉の句碑。 あやめ草足に結ばん草鞋の緒 元禄2年(1689年)の早春、俳人松尾芭蕉は弟子の曽良を伴って旅に出た。いわゆる「奥の細道」の旅だ。師匠と弟子の2人連れは、同年5月5日から7日までの3日間を仙台の門人の家で過ごした。 4日目つまり5月8日の朝、塩釜、松島へ向かおうとする主従に、知人から2足の草鞋(わらじ)が贈られた。芭蕉は甚くこれを喜び、石碑に刻まれたこの句を詠んだとされている。 私がここを訪れたのは寒さが厳しい12月だったため、当然アヤメは咲いていない。そこで写真の花を句碑に添えてみた。まあそんな事情なので、平にご容赦を。 薬師堂の境内の一角に、曰くありげな「礎石」が幾つか埋まっている。奈良時代、この場所には陸奥国分寺と国分尼寺が建立されていた。当時の陸奥国府は太白区の郡山遺跡から多賀城に移転したと思われるが、この寺はちょうどその中間点に位置している。しかも当時の官道が直ぐ傍を通っていたはずだ。だから決して寂しいだけの原野ではなかったはず。私はそう見ている。 左が陸奥国分寺跡の案内板 右は国分寺(赤線内)と国分尼寺(黄線内)の寺域。 天平13年(741年)聖武天皇は詔を発し、国内の各国52か所に国分僧寺(正式名称:金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(正式名称:法華滅罪之寺)を建立させた。国民に広く仏法の恩恵を与えるためであった。 2つの寺院が円滑に運営されるよう、僧寺には20人の僧侶を置いてこれを支える封戸50戸と水田10町を与え、尼寺には10人の尼僧を置いて水田10町を与えた由。 昭和30年(1955年)からの発掘調査によって、国分寺は南大門、中門、金堂、および僧房が一直線上に並んでいたこと、および金堂の東側に七重の塔があったことが実証された。またこのたびの地下鉄工事に伴って、創建当初の梵鐘の鋳型の一部が発掘され、私も先日写真を見ることが出来た。今日は極めて専門的な記述となったことをお詫びしたい。
2016.06.21
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<石川家関係史料> あれまあ。今日もまた蔵の登場か~。きっとそう思うでしょ。でもそうではなく、今日は蔵の中身がテーマです。「角田市郷土資料館」には、この地の縄文時代から江戸時代までの歴史資料が陳列してありました。今日はそのうちの江戸時代の史料、つまり宮城県南部の角田市を治めていた石川氏関係史料の紹介です。 これが角田石川氏初代石川昭光の木像です。彼は仙台藩祖伊達政宗の叔父に当たり、現在の福島県石川郡を治めていた石川氏を継いだ人です。ところが秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため領地を没収され、甥の政宗に泣きついて臣下となったのです。政宗は昭光に1万石を与え、仙台藩一門筆頭格として扱いました。昭光は角田の初代館主になり、さらに政宗の次女牟宇姫が昭光の孫第三代館主宗敬に嫁いで、両家の縁がますます深まったのです。 昭和36年に撮影された旧角田館の跡地です。江戸時代に入ると、幕府が発令した「一国一城令」により、各藩には一つの城を置くことしか許されませんでした。その例外が、仙台藩と阿波藩(徳島)で、仙台藩内には仙台城(青葉城)、白石城、岩出山城があり、この他にも角田、涌谷、登米などに館や要害と呼ばれる建物が置かれました。それらも実質は城だったのです。角田の石川氏はその後二万一千石以上に加増されます。これは大名並みの扱いでした。 石川氏伝来の甲冑1 石川氏伝来の甲冑2 石川氏伝来の胴着。 これらは「目の下頬当」と呼ばれる、顔面を防御する武具です。装飾の意味もあったのでしょう。 これは「大袖」と呼ばれる肩と腕を防御する武具で、左肩用です。 馬の背に置いた鞍(くら)です。 馬に乗る際に足を置いた鐙(あぶみ)です。 これは母衣(ほろ)と呼ばれる防具です。馬に乗った際背中に着けると風でこの母衣が広がり、背後から射られた矢を防ぐことが出来ます。「幌」の語源でしょうか。 陣貝です。出陣の際などにこの法螺貝を吹いて合図しました。 伊達家の家紋の一つである「三つ引紋」が入った大盥(おおたらい)です。 これは耳盥(みみだらい)と呼ばれる容器です。女性の洗顔用でしょうか。 これは鏡掛けです。鏡は金属製のものの表面を磨いてあります。伊達家の家紋の一つである「竹に雀紋」などが見られます。漆と金箔の蒔絵が見事ですね。 説明には「乱れ箱」とありました。大きなお盆のように見えます。 仙台藩お抱え絵師だった東東洋の「松図屏風」その一です。 同じく「松図屏風」のその二です。カメラを構えた私が写っています。 この他にも縄文時代以降の貴重な発掘資料がたくさん展示してありましたが、それらはいずれ紹介する予定です。<続く>
2016.03.09
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<1枚のパンフレットから探る2つの藩の歴史> 11月23日。私は仙台市博物館で開催中の特別展「宇和島伊達家の名宝」を観ました。パンフレットには「政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達」と副題がついています。愛媛県宇和島市に、もう一つの伊達家があったのです。特別展の会場内は当然撮影禁止です。そこで今日はもらったパンフレットから写真を借用し、仙台、宇和島2つの伊達家の歴史を振り返ってみましょう。 <秀宗童体装束> 桃山時代の幼児用狩衣と袴。 秀宗は伊達政宗の長男として戦国時代に現在の宮城県村田町にあった村田城で生まれた。母は側室で飯坂氏の娘であった。 <伊達政宗甲冑椅像> 松島瑞巌寺所蔵 慶安5年(1652年)作 宮城県文化財指定。 父政宗は戦国時代の武将で、62万石の仙台藩祖。家来の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど、江戸時代に入ってからも野望を持つ英雄だった。 <「青山」銘の琵琶> 桃山時代の作で政宗の正室だった愛姫愛用のものと伝わる。 愛(めご)姫は田村氏の出。2人の間には長らく子がなく、政宗35歳、愛姫34歳の時にようやく嫡男虎菊丸が誕生した。 <伏見御殿屏風(花鳥図)>の一部 桃山時代。 話は遡って、政宗の長男として生まれた秀宗は幼くして秀吉の人質となり、後に猶子となる。やがて誕生した秀頼の小姓として仕え「秀」の一字をもらった。 <上記屏風絵の一部> 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いが勃発。この時秀宗は、西軍に加担した五大老の1人である宇喜多氏の人質となった。 <上記屏風絵の一部> 関ヶ原の戦いの後、秀宗は覇者となった徳川家康の人質として差し出された。これは当時の武将の子供の宿命でもあった。 <上記屏風絵の一部> 大坂冬の陣には父政宗と共に参陣。これが彼の初陣だった。 <豊臣秀吉画像> 慶長4年(1599年)狩野光信筆 重要文化財 やがてこの後、政宗に嫡男が誕生する。政宗は秀宗の扱いを家康に伺った。彼はかつて秀吉の猶子(養子のようなもの)であったためだ。家康は秀宗を、関ヶ原の戦いの報償として政宗に与えた宇和島10万石の城主とすることを許す。これが宇和島伊達家の誕生秘話であった。一方、嫡男の虎菊丸は元服後忠宗と名乗り、第二代仙台藩主となる。 <宇和島御城下絵図> 元禄16年(1703年)作 政宗は秀宗のお国入りに際し、自身の家臣を秀宗に与えた。1200人の家臣団のうち、2割が政宗の家臣だった由。さらに支度金として6万両を貸与した。宇和島城は海城で、濠は海水だった。現在は地続きとなり、小さな櫓が天守閣代わりに残っている。 <香木> 銘柴舟 政宗が秀宗に与えたもの だが、政宗が家老として帯同させた山家(やんべ)氏一家が、何者かによって暗殺される。秀宗はこのことを政宗に知らせなかった。政宗は激怒し、困り果てた秀宗は山家氏を祀る和霊神社を建立した。これが今でも和霊祭として続いている。また鹿踊りなど東北の祭が伝わっている。 <黒塗御紋散梅に竹文蒔絵香道具> 江戸時代中期 仙台藩と宇和島藩には、それ以降も幾つかの確執があった。6万両の貸与の件や、仙台藩の分家ではないとの主張も宇和島藩内で起きた。だが両藩両家の交流は続き、血筋が絶えた際は養子となって幕末まで継いだ。 <指面> 第3代仙台藩主綱宗作 江戸時代中期 仙台藩においてもお家騒動が起きた。3代藩主であった綱宗は若くして藩政を怠り、芸能などに溺れた文化人。藩の危機と感じた家臣は、綱宗の隠居を幕府に願い出た。これが許されて、幼い第4代の藩主が誕生する。この補佐役だった原田甲斐らがこの機に権力を延ばそうと画策する。これが世間を騒がせたお家騒動となって原田甲斐らは断罪される。いわゆる「千代萩」として戯曲化された事件がこれだった。 <花菱月丸扇紋散蒔絵三棚> 安政3年(1856年)佳姫婚礼時所用品 幕末には宇和島藩の血筋が絶えた。この時に第8代藩主となったのが旗本吉田家から入った宗城公。英明な彼は西洋文化を取り入れ、西洋医学を学んだ医者を藩内に置いたり、蒸気機関を製作させたりした。やがて戊辰戦争が勃発すると、宇和島藩は官軍に就いた。 一方の仙台藩は奥羽越列藩同盟の旗頭として幕府側に就いた。結果はご存知の通りで、朝敵となった東北各藩は、明治に入っても長らく冷や飯を食う立場に置かれたのだ。 <伏見御殿屏風図(唐人図)> 桃山時代 明治後期、明治維新の際に功労があった宇和島伊達家は侯爵となるが、仙台伊達家は伯爵のままに置かれた。爵位が逆転したのだ。かつての「本家」の土地と「分家」の土地が「和解」したのは昭和50年(1975年)。仙台市と宇和島市は「歴史姉妹都市」を締結した。今年は40周年に当たり、記念事業としてこの特別展が開催されたのである。
2015.12.05
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<十三湖と十三湊の興亡> 五所川原市の「立ちねぶた」のポスター 6月27日土曜日。ホテルの送迎バスで鰺ヶ沢駅に送ってもらい、9時1分発弘前行きの電車に乗る。9時31分五所川原駅到着。ここが五能線の本来の始発駅で、五所川原~能代間なので五能線。素早く駅前のバス乗り場と発車時間を確認し、駅に戻ってトイレと買い物を済ませる。雨だ。今日は大変な一日になるはず。予め窓口で切符を買ってバスに乗り込む。行き先は「中の島公園入口」。距離が34kmもあることを、この時はまだ知らない。 古い地図だが、良く目を凝らして欲しい。下部中央に五所川原市がある。私が乗ったバスが向かうのは地図の上の方。津軽半島の日本海側の湖が十三湖(じゅうさんこ)で、中世の都市十三湊(とさみなと)があり、安藤氏(安東氏)の貿易港として栄えた。遠路雨の中を訪ねるだけの価値があると、私は判断していた。帰路は途中で下車し、有名な縄文遺跡を訪ねる予定。今日の訪問先は2つだが、地理の見当がまるでつかない。 バスは曲がりくねった田舎道をグルグル廻り、長い旅の末にようやく十三湖の姿が目の前に現れた。雨で霞んだ湖水。ここが安東水軍の根拠地か。11時10分、中の島公園入口に到着。1時間25分の旅。五所川原で雨に濡れた体は、すっかり冷え切っていた。帰りのバス乗り場と休憩できる場所を運転手に聞いて下車。外は猛烈な風雨だった。さて帰りのバス時間までどうしたものか。 中の島に架かる橋 傘を差して雨宿り出来そうな場所を探すと、仮の長屋のような店舗があった。小窓が開いて「休んで行きな」と女性が招く。他に休めそうな場所はない。私は礼を言って中に入った。どうやら観光客相手の店のようだ。トイレの場所を聞いたら、外との返事。再びバス停の方に戻ると全身ずぶ濡れ。靴の中まで水浸しになった。店に戻って「しじみラーメン」を頼む。しじみはここの名産。きっと体も温まるはず。 私がわざわざここに来た話をすると、店にいたもう一人の女性が、あの橋を渡った島の中に資料館があると教えてくれた。ここで発掘の手伝いもしたことがある由。それは良いことを聞いた。バスの時間まで少ししかないが、是非行ってみたい。リュックを店に預け、大きめの傘を借りて250mほどの橋を渡った。強風で傘が煽られる。壊れてはいけないと、必死になって傘を抑えて歩く。安物のビニール合羽の上から容赦なく雨が叩く。びしょ濡れのズボンと靴。やはり妻を連れて来なくて正解だった。きっと怒って一人で帰り出すに違いない。 ここが市浦歴史民俗資料館。この時は所属が分からなかったが、どうやら五所川原市の飛び地のようだ。だから駅前から長距離バスが出ていた訳だ。若い女性が窓口にいたが、学芸員ではないとのこと。色々尋ねたいことがあったのだが、仕方なく一人で館内を巡った。そして驚嘆。何とそこは私が長年疑問に感じていた中世都市十三湊と安藤(安東)氏に関する資料の宝庫だったのだ。こんな小島になぜ?バスの時間は大丈夫?これはもう自分の直感で、写真を撮りまくるしかない。 航空写真 写真は上下逆さま。南北の位置が反対で右側が日本海だ。湖に突き出た半島が十三の集落で、この場所に安藤氏が権勢を振った中世都市があった。下の小島がこの中の島で、縄文時代以降の遺跡がある。湖の周囲、左下には奥州藤原氏関係の寺もあった。安藤氏が治める前は、平泉の藤原氏の勢力下にあったようだ。 左側は発掘調査の模様。右側は十三湊を治めた安東盛季の像。 貿易港としての十三湊の歴史はかなり古く、湊の帰属と富を巡って、古代から争いが続いて来たようだ。だが栄華を誇った中世都市、そして北前船が出入りした湊と町は、いつしか地震の津波や湖に流れ込む岩木川の土砂で夢と消えた。今は静かな風景の地下に、かつての街並みが眠っているのだ。 これは十三湊を中心とした環日本海交易図。この港にはかつて中国の貿易船や北前船が出入りして、様々な商品が取り引きされていた。岩手県平泉に古代文明を築いた奥州藤原氏の富の一部は、きっとこの湊からもたらされたに違いない。日本海を通じて、ここから西日本まで中国やアイヌの品々などが届けられていたとは、なかなか信じられないだろうが。 左側は中国船の模型(朝鮮半島沖で沈没したものの復元)。右は中国渡来の青磁。 左側は中国などの貨幣。右側は蝦夷錦(えぞにしき:中国渡来の衣服) 左側は中国地方の中世都市で、西廻り航路による交流があった湊。中でも広島県福山市の「草戸千軒」は発掘調査の結果、巨大な中世都市であることが判明している。私は「しまなみ海道ウルトラマラソン」(福山市~愛媛県今治市:100km)の際に、その傍を走って通ったことがある。右側は商取引の準備に励む蝦夷が島(北海道)のアイヌ。 十三湖と北前船。 左側は湖岸風景。右側は十三湖の特産であるしじみ汁のパック。 私は夢中で写真を撮り続け、再び橋を渡って店に戻った。礼を言って傘を返し、バス停に向かう。時間は間にあったが、全身ずぶ濡れ状態。体は冷えたが、予想外の大収穫に私は興奮していた。バスの運転手に「濡れて寒い」と言うと、ヒーターを入れてくれた。ここからこの日2つ目の訪問先に向かう。<続く>
2015.07.07
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<もりおか歴史文化館と不来方城址など> ブログ友ニッパさんに志波城古代公園に続いて「盛岡市遺跡の学び館」に案内していただいたお陰で、岩手県内(盛岡市内)でも素晴らしい縄文土器が出土していることを知った。右側の遮光器土偶(しゃこうきどぐう)は複製だが、まさか青森県以外でも出土していたとはねえ。青森も岩手も東北の北部に位置する地方。縄文時代もやはり何らかの交流があり、共通する文化が存在していたのだろう。私のような素人は、こうして現地に赴いて初めて分かることも多いのだ。 次にニッパさんにお願いして、「もりおか歴史文化館」まで車に乗せていただいた。とてもタクシーなど拾える場所ではなく、午後にJR花輪線に乗るためにも時間の節約が必要だったのだ。もしニッパさんと会えなかったら、盛岡の見学箇所はもっと少なかったはずだ。嫌な顔も見せずに案内してくれたブログ友に心から感謝だ。お礼を言って、ニッパさんと別れ、文化館に入る。ここは予めネットで調べて、行きたいと願っていた場所だった。 先ず館の入口で目を引いたのが盛岡山車。右側のものは高さが10メートルを超える堂々たるもの。戦前の盛岡で祭礼の時に市内を巡行していたそうだが、今は電線が引っ掛かって無理とのこと。 左側の藩境図は後に訪れた青森県立郷土館で撮影したもの。右は南部藩主が着用した甲冑。 少し長くなるが、江戸時代の東北の藩について書いておこう。南部藩を治める南部氏は元々甲斐(山梨)の武士。源頼朝の命により奥州藤原氏を滅亡させた殊勲により、現在の八戸周辺を所領としていただいた。そこで7人ほどの主従が由比ガ浜(神奈川)から船に乗り、遥々八戸まで下ったのが初め。戦国時代に領地を広げ、現在の青森県全域と秋田県の鹿角地方、そして岩手県の8割ほどを手中に収めた。禄高は10万石で、そのうち2万石は支藩の八戸藩の分。 青森の西半分を領土とするのが弘前(津軽)藩。元は南部氏の分家で大浦氏と称し、家老職を務めた。それが謀反を起こして地勢の険しい八甲田山以西の地を我が物にし、弘前に城を築いて津軽氏と改姓した。禄高6万石。黒石藩は支藩。このような歴史があるため、南部と津軽は仲が悪く、江戸城内でも決して同席せず、参勤交代では南部領内を通行しなかった由。 (左)盛岡城(不来方城)模型 (右)城域図 秋田佐竹藩の佐竹氏は元々常陸(茨城)の武士だが、関ヶ原の戦いでは中立的な立場を取った。このため勝利者となった家康から国替えを命じられ、領地禄高も明確に示されないまま秋田へ移封した。常陸が家康の居城である江戸城に近かったため、遠くへ左遷されたのだ。これを恨んで幕末の維新戦争では、東北の諸藩の中では珍しく官軍側に就き勝利を収めた。こうして佐竹氏は300年近く抱いて来た徳川への怨念を晴らしたのだった。 南部藩の屏風 仙台藩の伊達氏は禄高62万石だが、実質上は100万石を越えたと言われている。その領地も現在の宮城県のみならず、岩手県の南部まで広がり、水沢藩、一関藩も伊達の支藩だった。家康は伊達の隆盛を恐れ、密かに南部氏に対して伊達を抑えるよう命じたようだ。このためより伊達領に近い盛岡に城を築き、本来の拠点である八戸を支藩とした。伊達と南部の長い境界線には、ずらりと目印を設置してお互いに警戒を怠らなかったようだ。 藩政時代の盛岡城下の店(再現) 館内の展示品は少なく、見学は直ぐに終わった。南部藩と弘前藩の関係や、領地の範囲が分かったのが収穫だ。ここから歩いて盛岡駅に向かう。その途中に盛岡城跡公園に寄った。 盛岡城(不来方:こずかた城)を訪れたのは今回が初めて。仙台藩伊達氏との関係も分かって良かった。 直ぐ近くに藩主南部氏を祀る桜山神社があった。岩手県民にとってこの神社は盛岡城と同様に、心の拠り所なのであろう。 やがて城の濠のようなものが見え、さらに行くと突然街中に若き日の石川啄木像が現れた。 啄木は薄倖のうちに亡くなった歌人。明治19年(1886年)岩手に生まれ、盛岡高等小学校、盛岡尋常中学校(1年後に盛岡中学校に改称)を卒業。明治45年(1912年)死去。若くして和歌に惹かれ、数々の歌を詠んだ。歌集に「一握の砂」などがある。30年にも満たない短い人生だが、彼の歌には心に響く何物かが潜んでいる。 不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心 ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 盛岡駅13時48分発のJR花輪線各駅停車に乗り、一路次の訪問先である秋田県鹿角市を目指す。車窓から岩手の風景を楽しむ。姫神山は何とか見ることが出来たが、岩手山(南部富士)は厚い雲の中だった。安比高原駅で止まったら、目の前に見事な白樺林があった。駅のすぐ前にこんな天然林があるとは驚き。やはりここは高原なのだ。次第に天候が回復し、暑くなって来た。ニッパさん、色々お世話になりました。どうぞお元気でね~!!<続く>
2015.07.01
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今日も青葉神社の話である。 死後、神として祀られたのは権現様の家康公だけではない。 甲斐(山梨)の武田信玄公は武田神社に、そして加賀(石川)の前田利家公は尾山神社に祀られて、今もなお郷土の人々に敬愛されており、その他にも神となった武将は多いはず。 加賀百万石を死守するため、藩主の中にはわざと鼻毛を延ばしていた者もあったと聞く。また茶道、謡曲、加賀友禅などを愛し、歌舞音曲に励んだ。幕府から藩を取り潰されないため、暗愚を装ったのである。 南部(岩手)の隠れ里と言われる沢内(現西和賀町)は米の名産地だが、かつて藩政時代飢饉に苦しんだ農民が年貢米を出せないことがあった。 そこで困った農民達は願い出て、村の美しい娘お米(よね)を年貢代わりに差し出したとの悲しい伝説がある。 三つ引き紋 伊達仙台藩は62万石だが、実質上は百万石だったようだ。 竹に雀紋 政宗は積極的に領内の沼地を干拓して田に変えた。藩の余剰米は船で江戸へ運び、藩の財政は安定していた。仙台湾に沿って、内陸には「貞山堀」などの水路も整備した。荒波を避け、舟運を助けるためだ。 他の藩の農具は先端の周囲部分だけが金属製だったのに対し、仙台藩の農具は全て鉄で出来ていた。だから農作業の効率が良く、収穫高が多かったのだ。かつて仙台市内には、北鍛冶町、南鍛冶町と言う町があった。だが金属製品を作り、修理する「鍛冶屋」の存在を知らない人が増えて来たようだ。 米の生産量が増えたため農民の不満は少なく、藩政時代に領内で百姓一揆はほとんど起きなかったと聞く。 独眼竜政宗は死んで神となった。神号は武振彦命(たけふりひこのみこと)。武勇に優れた政宗に相応しい名だ。 時は流れ、今は極めて静謐な境内。 祖霊社の裏にある池も静まり返っている。 池には枯れた竹の葉が、まるで政宗の霊を乗せる笹舟のように浮かんでいた。 ここ北山は、「仙台五山」はじめ多くの寺が連なっている。それらは政宗と共に各地を移動し、仙台の街を守るべくここに集められたもの。ここは仙台城の鬼門に当たり、藩祖自らが神となって、今なお防備に努めているのだ。<完>
2015.06.22
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6月初旬のこと、私は東北福祉大学で「芹沢○介の世界展」を観た後、青葉神社の前を通りかかった。(○は金偏に圭) 子供の頃、私はここから3kmほどの町に住み、何度かこの神社へも来たことがある。 広い境内では盆踊りや野外映写会が開かれていた。あれから早60年以上の歳月が流れたのだ。 3月には藩祖伊達政宗公の霊廟である瑞鳳殿を、そして5月には「青葉まつり」をブログで紹介している。この祭りは青葉神社の祭礼を、市民が楽しめる祭に編成し直したもの。 それなのに、藩祖を祀った神社の前を通りかかったのに素通りするのは、いかがなものか。 この神社の歴史はさほど古いものではない。明治7年(1878年)、旧藩士3名の願い出により藩祖伊達政宗公をご祭神とする神社の創建が県に認可された。場所は伊達家の菩提寺である境内の一角を当てた。 政宗公をご祭神とする神社の創建の願い出は、藩政時代にもあったようだ。だが独眼竜政宗の威光を嵩に、仙台藩の民心が勢いづくことを時の権力者は恐れたのか、許されることはなかった。 仙台藩の家格の一つである「一門」に片倉氏がある。禄高1万3千石白石城の初代城主片倉小十郎景綱がその祖。小十郎は若き政宗の近侍となって政宗を守り、やがて重臣となる。その片倉氏が代々青葉神社の神職を務めている。 本殿の前には浄財を募る賽銭箱。 静まり返る境内。 政宗は遠くヨーロッパにまで使節を派遣した。メキシコとの貿易を通じて、巨万の富を築こうとしたのかも知れない。だが、その野望が実現することはなかった。イスパニアが政宗の要望に応えることはなかったからだ。 ここは祖霊社。本殿が藩祖を祀るのに対し、こちらは旧家臣の霊を祀っている。同じ境内に藩祖も藩士も祀るとは、いかにも仙台藩らしい剛毅さだ。 人影のない境内を、狛犬がしっかりと守っていた。<続く>
2015.06.21
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<旧登米高等尋常小学校その1> 3月の末に、私は宮城県北部の登米市を訪ねた。平成の大合併で9つの町が合併して出来た新しい市。私が訪ねたのはこのうちの旧登米町。ここはかつて城下町だったところで、明治初頭の一時期「水沢県」が置かれた。その県庁庁舎をはじめ、当時の古い建物が町の中に幾つか残っている。登米市ではこれを「みやぎ明治村」と呼んで、観光の目玉にしている。 今回はその中の主要な建物である「旧登米高等尋常小学校」を紹介したい。ここで撮ったたくさんの写真は便宜上「歴史資料」、「校舎」、「設備」に分類した。今日はそのうち学校の歴史的資料を載せる。なお、旧校舎は「教育資料館」を兼ね、旧登米町の古い写真や民俗資料がたくさん保存されており、私もブログ用に撮らせてもらった。 旧校舎の版画。校舎は明治21年(1888年)に建築された。当時の洋風学校建築を代表する建物で、国の重要文化財に指定されている。特徴は校舎の中央にあるバルコニー。バルコニーがある明治期の学校建築では長野県の開智学校が有名だが、登米の校舎も堂々たるものだ。 純木造の2階建てで、屋根は寄せ棟造りの瓦ぶき。正面に向かって「コの字」型に造られている。廊下は1階2階とも吹き抜けの片廊下式。両端には六角形を半分に切った形の昇降口がある。(上の版画参照) 左側は現在校門に掲げられた表札で、右側は当時の表札。 校舎が建つまでの間、仮校舎として使用された養雲寺の仮校舎。「水沢県」当時の明治6年(1873年)に開校。 校舎の古い写真。撮影の時期は記載されてない。 こちらの写真も撮影時期は不明のようだ。 昭和8年(1933年)、創立60周年を記念した同窓会時のもの。 創建当時の屋根瓦 一時期併設された女子教育施設の授業風景。 第二次世界大戦中に都会から疎開した児童が炭俵を背負って運ぶ姿。昭和19年は私が生まれた年だ。 教室の壁に張られていた「教育勅語」。現代で言えば「教育基本法」だろうか。 国に「忠」、親に「孝」は論語の教えで、教育勅語や修身教育の基本理念だったのだろう。 左は額に刻まれていた「皇紀二千六百年」の文字。右は当時発売された記念切手2種。 明治期に入ると明治天皇を中心とした立憲君主制が敷かれ、やがて日本書紀に記された神武天皇即位の年(西暦で紀元前660年に相当)を元年として起算した「皇紀」を用いるようになった。皇紀2600年は1940年(昭和15年)に当たり、数々の記念行事が挙行された。 教育勅語は学校教育にも大きく影響し、各学校には明治天皇の肖像(御真影)の安置場所があり、その前を通過する際はお辞儀をするなどの決まりがあった。修身教育(現在の道徳教育)もその一環である。 教室に張られていた絵図。明治以降急速に西洋の水準に達する必要性から、西洋の生活を紹介したのだろうか。 教育資料館に残る同校の校章。 <続く>
2015.04.16
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3月25日、私はバスに乗って宮城県北部の登米市登米町を訪れた。そこは岩手県と接する城下町で、「みやぎ明治村」と言う観光地がある。この閑静な町では江戸時代の武家屋敷や、明治時代の貴重な建物が残る珍しい風景が見られるのだ。さて今日はたくさん見たうちの何を紹介しようか。やはりこれから始めるべきだろう。<水沢県庁記念館> これが「水沢県庁」旧庁舎の入り口である。私は東北生まれでしかも歴史好きなので、その名前は幽かに聞いた覚えがあるが、大抵の人はそんな名前の県がかつて日本にあったことを知らないだろう。しかし、なぜその「水沢県」がこんな片田舎の登米に置かれたのか不思議だ。 これが「水沢県」の範囲。つまり現在の岩手県南部と宮城県北部を分割して1つの県を作った感じ。明治4年(1871年)7月、明治新政府が集権国家を目指すためにそれまでの藩を解体して新たに県を置いた。全国で3府72県だった由。幕末、東北と新潟の各藩は「奥羽越列藩同盟」を興して官軍と戦った。つまり最後まで薩長に抵抗したのが東北だったのだ。 この地図に含まれる水沢、一関などの地域は今でこそ岩手県に含まれているが、江戸時代は伊達領であった。それを分割したのは、新政府が反乱を恐れたためと私は感じたのだ。「水沢県」が置かれたのは明治4年1月から明治8年11月までの間。その前には明治元年から「登米県」、明治4年の2カ月だけ「一関県」が置かれ、明治8年11月以降は「磐井県」となった。目まぐるしい変化であるが、やがて分割され、南半分は「仙台県」と合わされて現在の宮城県に落ち着いた。 東北蔑視が見直されたのは、伊達政宗がイスパニアとローマに使者を派遣したことを、新政府の中心人物である大久保利通が知ったため。彼は明治11年(1878年)に不満士族によって暗殺されるが、新政府は同年現在の宮城県東松島市野蒜に新港を築き(その後の嵐で破壊され計画は断念された)、明治20年(1887年)に旧制第二高等学校、翌年に第二師団が共に仙台に置かれ、ようやく東北蔑視政策が修正されたのだ。 庁舎の玄関先。ここは土足厳禁で、履物を脱いで建物に入る。現在は登米市の重要文化財に指定されている。 旧庁舎の古い写真だがいつ頃のものかは分からない。県庁としての役割を終えた後は、裁判所や小学校校舎としても使用されたようだ。 県庁時代に登記事務のために使用されたデスク。 裁判所として使用された時代の法廷。 旧庁舎備品の装飾1 旧庁舎備品の装飾2 旧庁舎大会議室で使用されたランプ。名前だけは知っていた「幻の県」の実態が、今回の旅でおぼろげながら見えた感じがした。<登米懐古館> 行った順番は違うが、写真の枚数の関係で次に登米懐古館を紹介したい。これは寺池城址公園の中にある歴史博物館で、旧登米町の名誉町民であった故渡辺政人氏(日本鋼管取締役)の寄贈による。中には城主登米伊達氏ゆかりの武具、絵画、美術工芸品などが展示されている。 寺池城址公園の紅梅 城址がある岡 「寺池城址公園」の表示(左)と登米伊達氏の家紋「竹に雀」紋(右)。 城址の一角とそこに咲いていたヤブツバキの花。 寺池城の古地図(左)と登米伊達氏の系譜(右) 登米伊達氏は仙台藩主の伊達氏の親戚筋で石高は2万石。仙台藩の家臣団は「一門」11家(その他廃絶4家)最高亘理伊達氏24343石。「一家」17家(廃絶5家)最高1万8千石。「準一家」8家、最高2700石。「一族」22家、最高1万3千石。「宿老」3家、最高2700石。「着坐」30家、最高7042石。「太刀上」(一族から降格した家など)、「召出」一番座、二番座。と言う厳然たる格付けがなされていた。登米伊達氏は最高位「一門」で、藩主の家系が絶える恐れがある場合は、子を譲って家を継がせた。系譜は小さくて字が読めないが、参考までに載せた。 寺池城(通称臥牛城)は元々葛西氏の居城。戦国時代の「葛西大崎一揆」の際に伊達政宗が攻め滅ぼし、葛西氏大崎氏の旧領を秀吉から拝領した。江戸時代は「登米要害」と呼ばれた。このような要害が伊達藩には10か所以上もあった。実際は城だが、仙台藩は徳川幕府から特に許されて「一国一城令」を免れていた。 歴代城主の武具類など 兜(かぶと) 旧登米高等尋常小学校跡の「教育資料館」に掲示されていた甲冑の写真。どうやら城主が着用したもののようで、上の写真と一致している。 読者の中には歴史が不得意な方もおられ、あまり興味がないテーマかも知れないが、私にとってこの町はまるで宝物のように感じた。歴史的な遺産を直接見るだけでなく、ネットなどで調べることで郷土の歴史をさらに理解することが出来るからだ。明治は遠くなった。まして幕末や江戸時代はなおさらだ。<不定期に続く>
2015.04.12
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<登米の街並み> くどいようだが、今回私が訪ねた登米市の位置をもう一度確認して置こう。地図の上部で、黒く塗りつぶした場所が登米市。岩手県南部と接する県境の市は近隣の9つの町が合併して平成17年(2005年)に誕生したばかり。その中の赤い部分が旧登米町で、私は仙台からバスに乗ってここへ行ったのだ。今日はこの登米の町を、順不同でざっと紹介することにしよう。 「みやぎ明治村」前でバスを降りると、目の前に広い駐車場があった。その駐車場を取り囲むように立っていたのがこの塀。これにはビックリ。こんな長い塀は滅多にない。不思議に感じたのだが、恐らくは武家屋敷ゾーンの雰囲気を壊さぬよう、駐車場を目立たなくするためにこんな塀を建てたのではないだろうか。 登米の街並みの古い写真。旧登米高等尋常小学校校舎の歴史資料館にあったもの。道路はまだ未舗装のままで、電信柱と自転車に乗る人が見える。恐らくは昭和の初めよりも以前のものだろう。 これも上と同様で、登米のメインストリート。 なんだか不安定そうな船橋で、橋の名は「来神橋」となっている。流れる川は北上川だろう。開通したばかりで「渡り初め」でもやっているように見える。 比較のために載せた現在の登米大橋。上の橋と同じ場所かは分からない。 これも旧尋常小学校の歴史博物館にあった写真。戦前の馬市の様子。恐らく当時の馬は、農作業用に飼育されていたのだろう。 「仙北鉄道」の車両。仙北鉄道登米線は国鉄東北本線の瀬峰駅から登米駅まで結ぶ軽便鉄道で、米などの農産物を東北本線を経由して運ぶために、大正10年(1821年)に敷かれ、旅客も乗せた。昭和43年(1968年)に営業成績が上がらないため廃線となった。写真は廃止された時のもののようだ。 仙北鉄道機関車の模型。 蔵風の建物(製薬会社) 醸造会社の蔵 醸造業の店と蔵 城下町にふさわしい蔵のたたずまい 上と同じ場所を逆の方向から 美術館も街の雰囲気を壊さないよう蔵のイメージで 登米は仙台藩伊達氏の一門が城主として治めた2万石の城下町。今でも町中にこのような武家屋敷が幾つか残されている。 立派な門構え 中には門しか残ってない家もあるようだ。 たとえ門しか残っていなくても歴史は感じられ、観光の目玉にはなるだろう。 武家屋敷の塀。道路がこんな風に鈎型に曲がっているのは敵の侵入を防ぐためで、城下町の特徴の一つだ。 古民家を改造した団子屋さん。これもなかなかの風情だ。<続く>
2015.04.11
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<小さな旅へ> 北上川 北上川は岩手県と宮城県を流域とする大河で一級河川。流域延長は249km。流域面積10150平米は東北最大で、国内では第4位に当たる。 北上川 一しきり諍ひをせし妻と別れ 北の町へと我は向かひぬ 妻は温泉我は歴史の旅に出づ 弥生三月風の冷たき 風強き街よりバスを乗り継ぎて 我は向かひぬ歴史の旅へ 陽はうららなれども風は冷たかり 七十過ぎし老残の身に ひたすらにバス北上す三陸道 車窓の景色春浅くして 3月25日。私は宮城県北部の登米市(とめし)に向かった。登米は登米郡の8つの町と本吉郡の1つの町が平成の大合併で新しく誕生した人口8万4千人の市である。地図の赤い部分は登米市の登米町に相当する。元の読みは「とめ郡とよま町」。同じ字を用いても郡と町で読み方が違う変な町。東北の大河北上川に沿うこの町は、江戸時代は仙台藩の城下町でもあった。伊達と蜂須賀だけは一国一城の例外だったのだ。 今年の旅は3月上旬の斎理屋敷、3月下旬の瑞鳳殿(伊達政宗公の霊廟)など、専ら宮城県内を訪れた。いずれも歴史に深く関わる小さな旅だった。3回目の今回も同様の目的で、訪問先として登米市を選んだ。市町村別の地図で、何やら面白そうな施設を発見したからだ。事前にネットでも調べて見たのだが、興味がさらに増した。幸いにして妻は友人と温泉に1泊するようだ。それなら私は1人で歴史の旅に出かけよう。そうしてバスに乗り、北の町へと向かったのだ。 これが旧登米町の中心街。町の東側を北上川が流れている。それが冒頭の2枚の写真だ。菱形のマークに1から5までの数字が入っている。そこが共通観覧券で観られる場所。△印がついた「遠山之里」は物産館で、観光案内所を兼ねている。 「遠山(とおやま)」は奈良時代の村の名で、「とよま」の起源になった地名なのだとか。○印がついた春蘭亭は元の武家屋敷鈴木家住宅で、無料で拝観出来た。以上の7か所が今回訪れた場所。このほか時間切れで行けなかった施設もまだあり、意外に見所の多い町だった。以下に私が訪れた場所の写真を、観光パンフレットから借用して載せておきたい。 これらが番号1番の「旧登米高等尋常小学校校舎」で、国の重要文化財に指定されている。現在は「教育資料館」となっていて、博物館の機能を持っている。私はここで1時間半ほど過ごし、じっくりと見学したが寒かった。暖房は事務室にしかなかったのだ。 これが番号2番の懐古館。旧登米町の名誉町民である故渡辺政人氏(日本鋼管取締役)の寄贈により、旧寺池城址に建てられた歴史博物館だ。登米伊達一門縁の武具、絵画、彫刻、歴史史料などが展示されていた。私はここで昼食を摂らせてもらった。 これが番号3番の「水沢県庁記念館」。明治初期、廃藩置県によって藩が廃止され、藩に代わって県が置かれた。ここ登米に短期間置かれたのが水沢県。登米県と呼ばれた時期もあった。これとは別に仙台を中心とした仙台県もあった。明治新政府が伊達藩の反乱を抑えるために、仙台領を2つに分割してそれぞれ県を置いたのだと思う。 私が最初に訪れたのがここ。バス停から一番近い場所だったからだ。登米市の重要文化財指定建造物。ここで話を聞き、共通観覧券を買った。料金は800円。5か所がこれで観られるのだから安いもの。事務所の方が連絡してくれて、閉まっていた伝統芸能伝承館をも観ることが出来た。 ここが番号4番の警察資料館で、旧登米警察署庁舎。宮城県重要文化財指定建造物。中には独房などの施設が残されており、古い資料や制服の見本などもあった。警察には滅多にお世話になることはないが、ここは博物館なので安心して見学出来た。 ここが番号5番の伝統芸能伝承館「森舞台」。写真は建築当時のものでまだ新しい。総桧造りの能舞台では、藩政時代から伝わる登米能をはじめ、町に残る神楽や囃子などが上演されている。私が訪れたのは冬季で閉館中だったが、職員の方がわざわざ車で案内してくれ、見学することが出来た。 ○印の春蘭亭。旧武家屋敷の鈴木家住宅。春蘭亭の名は、屋敷内に自生する春蘭から採ったもの。入館は無料で、しかも職員の方が、丁寧に案内してくれた。町内ではこのような武家屋敷を5戸ほど目にした。 △印の物産館「遠山之里」で観光案内所兼用の建物。目の前がバス停なので便利。中は広くて町内の物産が所狭しと並んでおり、観光資料も揃っている。レストランもあり、休憩も可能。 寺池城址公園の紅梅 そうそう、この他に警察資料館の隣にあった「玄昌石の館」(無料)も見学した。これはかつてこの町から切り出した玄昌石(硬度のある粘板岩)産業の展示館だった。また城主である登米伊達氏の霊廟にも足を延ばした。 このほか町内には美術館や民営の「蔵の資料館」、アンティーク資料館などもあるようだが、残念ながら時間切れで訪れることが出来なかった。明日からは今回の訪問先を一つ一つ紹介して行きたい。なお、シリーズの合間には、休憩の意味で他のテーマを挿入する場合がある。<続く>
2015.04.10
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≪ 江戸東京博物館 ≫ 横綱白鵬の手形 浜名湖からの帰り、両国駅で降りた。駅の構内には歴代横綱の「手形」があった。その中で、白鵬の手形を写真に撮った。モンゴル人の男が日本に来て力士となり、最高位の横綱にまで出世した。名横綱の双葉山と大鵬を慕う彼は、日本人以上に日本を愛し、日本に帰化した。サインも筆で漢字を書いている。何だか彼の努力の跡を見ているような気がした。 切符を入れるとブザーが鳴って、戻って来た。本来の経路から外れていたため、引っかかったのだろう。慌てて駅員に切符を見せると、「こちらから通って下さい」と、外へ出るのを許してくれた。この駅で途中下車したのは国技館へ行くためではなく、その隣の東京江戸博物館が目的。ちょうど「明治のこころ ~モースが見た庶民のくらし~」が開かれていたのだ。 E.S.モース E.S.モース(1838-1925)は、アメリカの動物学者。モールス信号の発明者であるMorseとスペルが同じなのに、カナの表記が違う。明治学院の教師でローマ字表記法を考えた「ヘボン」と女優の「ヘップバーン」が同じ綴りなのと同様だ。モースは日本の近海に生息する「シャミセンガイ」に惹かれ、明治の初めの頃わざわざ我が国までやって来た奇特の人。 彼は「お雇い外国人」として東京大学に勤務し、動物学を教えた。ダーウィンの「進化論」を初めて日本に伝えた人でもある。そして「大森貝塚」の発見者でもあった。たまたま列車の中から白い貝の層を目にした彼は一目でそれを貝塚と見抜き、後日改めて調査する。その中から発掘された縄文式土器などが重要文化財に指定されている。 一見普通の土器で、美術的な価値は無さそうに見える。「何でこんなものが重要文化財?」と思うくらいだ。だがそれらは、「我が国で最初の科学的な方法で発掘された成果」として、学術的な価値を重視したのだろう。2年間の滞在中、彼は庶民の暮らしに興味を惹かれ、片っぱしから日用品を収集した。それがアメリカ国内の美術館と博物館に保存され、今回の展示の中心となった。 日本の産物を収集したことで有名なのは、幕末に来日したシーボルト。彼は医者であると同時に博物学者でもあった。国禁の地図を持ち出そうとして国外追放にあったが、彼の収集品はオランダとドイツの博物館に保存されている。長崎出島のオランダ屋敷や鳴滝塾で勤務した彼は、元々ドイツ人だったのだ。 シーボルトの収集品が極めて学術的だったのに対し、モースは庶民の持ち物が多いのが特徴。今回の展示品は全部で334点。この博物館に相応しい企画だったと思う。我が国に大きな変革をもたらした「明治」も、今では遠い時代になった。こんな機会に私達の祖先がどんな暮らしをしていたのかを知るのも悪くない。「降る雪や 明治は遠くなりにけり」。 モースのスケッチ:彼の家族 モースのスケッチ:噺家 モースのスケッチ:囲炉裏 モースのスケッチ:脚でふいごを操作する鍛冶屋 色つきガラス写真:子供 色つきガラス写真:駕籠屋と女性客 生き人形:武士 竹細工:トンボ形の花入れ 子供の玩具:ままごとセット 模型:瀬戸物屋 最後にお断りさせていただくが、展示物の撮影は許可されておらず、すべての写真は購入したカタログから転載させていただいた。もちろん私に著作権を侵害する意図はない。ただ明治時代の庶民の暮らしと、外国人であるモースがそれをどう捉えていたのかを、現代の我々に伝えたかっただけだ。改めてお許しいただければ幸いである。
2013.10.25
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≪ 湖畔の暮らしと祈り ≫ 夜が明けると、船が湖上を走り出す。汽水湖の浜名湖は豊かな漁場でもある。ここはかつての遠江国(とおとうみのくに)で、古くは遠淡海(とおつおうみのくに)と表記した。つまり都(京都)から遠い淡水湖のある国の意味。因みに都に近い淡水湖のある国が近江(近淡海)。こちらは現在の滋賀県で、湖はもちろん琵琶湖だ。 浜名湖が淡水湖から汽水湖に変わったのは、400年ほど前に相次いだ地震のせい。このため砂州が破壊され、海水が浸入するようになった。湖と海をつなぐ「今切口」がホテルのまん前に見え、ここに有料道路の巨大な橋が架かっている。(上の右側の写真) 船を待つ間私が訪ねた舘山寺は曹洞宗のお寺だが、元々は真言宗だったようだ。何故だかここに天狗の面や秋葉三尺坊大権現の図絵があった。神仏混淆だった頃の名残だ。同じ境内にある愛宕神社は古い寺院の建物を借りたようで、ちっとも神社らしくなかった。 これは浜名湖唯一の島である礫島(つぶてしま)で、私は瀬戸港までの船中から見た。伝説上の巨人ダイダラボウが琵琶湖の土を運んで富士山を造った時に食べた、お握りから吐き出した「小石」がこの島だそうだ。この小島にも弁天神社が祀られている由。 ダイダラボウ伝説は全国各地にあり、民俗学者の柳田國男は元来「大太郎法師」だったと唱える。つまり一寸法師の逆パターンだ。ダイダラボウの足跡だとする池がこの付近にある。また巨人が転んで手をついた跡が浜名湖になったとも言う。なるほど浜名湖を上から眺めたら、手の形に似ている。 湖畔の幾つかの集落では秋祭が行われていた。私はその写真を撮りながら湖畔を走った。遠州は風が強いが気候は温暖で、作物も良く実るのだろう。おまけに湖からは魚介類だ。湖の割合奥までカキの貝殻があった。淡水魚と海水魚が獲れる豊かなこの地を巡って、戦国時代は今川、徳川、武田、織田が激しく戦った。 四国八十八か所の寺々を巡る遍路の菅笠には「同行二人」と書かれている。これは弘法大師空海と二人連れの旅と言う意味だ。今回の私の旅も「同行二人」。ただし私の方はウルトラマラソンの神様との二人連れだ。腰には「熊よけの鈴」をつけた。このためちっとも淋しくはなかった。人生最後のウルトラレースも、こうして無事に走り終えることが出来た。 帰途の車中で、私は小松左京著の『日本沈没』を読み始めた。「東日本大震災」のあった後だ。さらには「東海地震」、「東南海地震」、「南海地震」が連動して起きるとも言われる。もしそうなれば、標高がわずか数メートルしかない浜名湖周辺でも大きな災害が起きるだろう。かつての淡水湖が汽水湖に変わったように。 「天災は忘れたころにやって来る」。これは物理学者であった寺田寅彦の言葉。『日本沈没』は小説の作り話だが、油断は禁物。普段から心の備えをしっかりしておきたいものだ。 懐かしい風景がどんどん車窓から遠のいて行く。サヨナラ浜名湖。そして富士山。次に会えるのは、一体いつになるだろう。旅は祈り。そして人生もまた旅に似ている。
2013.10.23
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≪ 旅と祈り ≫ 2冊の本を持って旅に出た。行き先は100kmマラソンのある浜名湖だが、それでも旅には違いない。往きに読んだのが、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ第13巻の『壱岐・対馬の道』。今回もたくさんの示唆を受けたが、中でも印象に残ったのが対馬に伝わる古い仏像の話。司馬はそれを李氏朝鮮時代の儒教到来時に、朝鮮人自身が火にかけた「残骸」と推測する。つまり廃仏だ。 当時朝鮮と通商していた日本の貿易船が哀れに感じて、焼け焦げた仏像を我が国に持ち帰り、それをこの地で篤く敬ったと言うのが司馬の説。蒙古語を専攻し、東アジアをグローバルに捉える司馬ならではの視点だ。それにもし日本人が火にかけたのなら、そんな焼け焦げた仏像を、わざわざ持ち帰る必要性がないからだ。 ところがつい最近、これが国際的な問題になった。韓国人が対馬の古い仏像2体を盗み、韓国に持ち去った。我が国は窃盗事件として訴えたが、韓国の裁判所は元々韓国のものとし、無罪の判決を出したのだ。昨今は身勝手な論理が目立つ韓国だが、この話はその典型だろう。司馬の直感は残念ながら実証されていないが、私はそれが真実だろうと思っている。 大山(神奈川県) 富士山(静岡県側) 東海道新幹線の車窓から山を臨む。最初は神奈川の大山(おおやま)。見事な三角形のこの山は昔から信仰の対象で、今もなお「大山講」が残っている。祀られているのは阿夫利神社。遠くから「講」に来る信者のため、地元には10名以上の引率者がいると、先日のテレビ番組で知った。 一方の富士山は、つい最近世界文化遺産になった。この山も浅間神社が祀られるほど信仰の歴史は古い。筑波山や奈良の三輪山もそうだが、我が国では美しい三角形の山は「神奈備(かんなび)山」として、古来から崇められた。きっとピラミッドにも通じるものがあるのではないか。もちろん「富士講」があり、富士登山が出来ない人のために、かつては全国各地にミニ富士が造られていた。 夕日の鳥居 弁天神社 浜名湖の弁天島に着いてから、私は散歩に出かけた。湖の中の鳥居はてっきり弁天神社のものと思ったのだが、何と観光のためのシンボルタワーらしい。赤い弁天神社は、実に可愛らしかった。祭神の弁財天は本来ヒンズー教の伎楽の神だが、ここでは舟旅の安全を守る神として祀られていた。 旧舞坂宿の脇本陣 ここは旧東海道舞坂宿の脇本陣である「茗荷屋」。江戸時代の建物だ。現在は浜松市西区舞阪町だが、ここは江戸から30番目の宿場町。次の新居(荒井)宿との間には浜名湖があり、この間を当時は舟で渡ったのだ。 旧東海道の松並木 宿場時代の常夜灯 この地区には今でも旧東海道の松並木や宿場時代の常夜灯が残されている。岸辺の常夜灯は、きっと船着き場を照らすためのものだったのだろう。 浮世絵 東海道荒井宿 4枚の浮世絵は、浜名湖対岸の旧荒井宿。ここは江戸から数えて31番目の宿場町だ。これは翌日レース中に走りながら撮った。現在の住所は湖西市新居(あらい)町だが、当時は「荒井」と呼ばれた。天候が悪くなると、いつもは穏やかな湖が荒れ狂ったのだ。 荒井関所 こちらは荒井の関所。これも当時の建物で、一時校舎として使われていた。この関所は海の関所と陸の関所を兼ねていたため取り調べがきつく、特に女性には厳しかったことから、女性の旅人は舞坂~荒井の通常ルートを避けて、湖の北側の通称「姫街道」を通った。大名家の姫君も同様だったようだ。だが、荒れる舟旅を避けるためとの説もある。<続く>(注)昨夜の楽天のパリーグCS優勝を祝い、↓に「号外」を臨時発刊しています。良かったらご覧いただけると嬉しいです。
2013.10.22
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≪ 冒険の走り旅(2)≫ さて、ここから真っすぐ帰宅すれば30kmだが、私はこの日ある冒険をしようと思っていた。昨年の秋に自転車で来た時、工事中で行けなかった岩切城と青麻(あおそ)神社を訪ねてみることだ。そのためには食糧を確保する必要がある。安くて美味しいパン屋さんがあったはずと思って立ち寄ると、空き家になっている。さて、困った。だが、迷わずに冒険に向かう。ポシェットには若干のお菓子がある。先ずはそれを食べて凌ごう。 東光寺脇の小道を入り、そこからさらに急な坂を登る。最初は走れていたが、途中から歩き出す。岩切城への入口は開いていた。どうやら地震で起きた地滑りの工事は終わったようだ。城跡へ登ろうとした時、1台のタクシーが停まり、中から1人の中年男性が降り立った。こんな辺鄙な所までわざわざ訪ねて来るのは、よほどの物好きのはず。頂上の公園から、中年のハイカー集団が降りて来る。 岩切城は中世の山城で別名は高森城。ここは奥州藤原氏を倒した鎌倉の頼朝が奥州留守職として派遣した伊沢氏が籠った古城だ。国府多賀城にも近く、広大な東北地方を治めるには好都合だったのだろう。南北朝時代、戦国時代にもこの城を巡って激しい戦いがあった。その後留守氏を名乗った伊沢氏は、結局伊達政宗の配下となる。城跡へ立つと、なるほど見晴らしが良い。これなら敵の進軍を監視出来た訳だ。 気になっていたトイレを済ませ、山頂の城址から降りる。山道を右折すると「県民の森」。周囲は全て鬱蒼とした森で、ここは時々クマが出没する物騒な場所でもある。暫く行くと、県民の森の中央資料室が見えた。後で立ち寄ってみよう。ひょっとして何か食べ物を売ってるかも知れない。さらに走ると、富谷町方面への分岐点。青麻神社はまだ先だ。 アップダウンを繰り返したその先に立派な神社があった。なんでこんな山奥に?と思うほどの辺鄙な場所。拝殿でお参りした後、社務所に向かう。売店を兼ねた家屋の扉を開けると、神主と思しき人が座っていた。不躾けながら私は尋ねた。「なぜこんな山奥に神社があるのか、そしてここに麻を植えたのはなぜか」と。きっとそんな質問をした人は初めてだったはず。神職は戸惑いながら答えた。 「このような山奥にも小さな集落はあるものです。麻は木綿が入るまでは貴重な繊維で、水が湧くここが適地だったのです」。ここ青麻神社は奈良時代に山城国(京都府)から勧請したのが起源だが、麻の適地なら他にもあるはず。「蔵王町の青麻(あおそ)山とは関係がありますか?」との問いには、「あの山はかつて刈田嶺と呼ばれていました。その神社の方が昔ここを訪れ、持ち帰った青麻神社のお札を山上の社に張ったのが山名になったようです」。なるほどねえ。 「縁起」を読むと義経の家来だった常陸坊海尊が立ち寄ったとある。ここにも義経伝説が残っているようだ。日本人は判官びいきが多いのだ。外へ出てポシェットのお菓子を食べる。得られた熱量は200KCくらいか。井戸水を汲んでペットボトルに継ぎ足す。昨年の秋に岩切集落の片隅で偶然見つけた「青麻道」の石碑。「これは一体何だろう」と思ったその謎が、少しは解けたような気がする。 再び急激な坂道を登る。今は舗装されたこの道も、古代や中世当時は官道へ抜ける脇道の一つだったのだろう。徳島県鳴門市の大麻比古神社は阿波国一宮だし、吉野川の対岸には麻植(おえ)郡がある。成長が早い麻は、古代人にとっては貴重な衣料の原料だったはず。それが遥々都からこんな東北の山中までもたらされたのだ。当時は科(しな)の木の樹皮や、苧麻(ちょま=からむし)も人々の暮らしには欠かせない大事な繊維だった。 結局県民の森の中央資料室は無人で、食べ物はなかった。麓まで降り、コンビニで稲荷ずしを食べ、味噌汁を飲んだ。帰路はかつてSパパ達と歩いた旧街道を通り、比丘尼(びくに)坂を登った。Kスタでは開幕の準備が進んでいた。 自宅への到着は夕方の4時。走った距離は37kmで、要した時間は7時間半。古稀を祝うクラス会と冒険の走り旅は、こうして無事に終わった。9月には学年会があるようだ。我が3年B組がその担当とのことで、幹事から出席を厳命されている。だから秋には再び恩師と級友達に会えるはずだ。<完>≪3月のラン&ウォーク≫ ラン回数:11回 ラン距離:188km ウォーク:73km 月間合計:261km 年間合計:761km うちラン:549km これまでの累計:81677km ≪ わたしは案外日蔭が好きかも♪ ≫ ヒマラヤユキノシタ
2013.04.01
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≪ 瑞巌寺へと急ぐ ≫ JR仙石線の松島海岸駅で下車すると、駅前に矢本行きの代行バスが待っていた。2年前の大震災で、東北地方では各所で線路が被害に遭い、今も数か所で不通になっている。仙台から石巻まで海の傍を走る仙石線もその例外ではなく、線路をより安全な内陸部へ移動する案で工事することが決まった。代行バスはそれまでの臨時的な措置なのだ。 瑞巌(ずいがん)寺へと急ぐ。その一角が高校時代のクラス会の集合場所。冬の間は閑散としていた松島にも、少しずつ観光客が戻って来たような感じ。近道は知ってるが、寺の正面へと向かう。洞窟群が地震で崩壊してないかを確かめるためだ。奈良時代創建の寺は本来天台宗で寺域も広く、洞窟に籠って修行する僧が多かったと聞く。 鎌倉以降は禅宗の臨済宗に宗旨替えし、特に仙台藩主である伊達政宗の庇護を受けると、寺でありながら城の役割をも兼ねるようになる。本堂の一段高い場所は、藩主しか立ち入ることが出来ず、その裏側には警護の武士が詰める「武者隠し」がある。一般の台所に当たる庫裡(くり)は国宝。また境内の高い杉の梢には、セッコクと言うランの仲間が根付いている。極めて珍しいことらしく、確か天然記念物指定だったはず。 洞窟にはほとんど被害がなく、岩に彫られた仏像なども無事。それを確認した後、陽徳院へと急ぐ。集合時間には何とか間に合った。誰かが向こうに立っている。近づくとM山。彼は瑞巌寺の付属寺院である天麟院の住職だ。彼の寺には政宗と正室である愛姫(めごひめ)の間に生まれた五郎八(いろは)姫の御霊屋がある。 15年目にして初めて生まれた子供が女子。男子誕生を待ち望んでいた政宗はそのまま五郎八と名づけた由。五郎八姫は徳川家康の七男である松平忠輝(越後高田藩主70万石)に嫁ぐ。だが、キリシタンであった彼女は、夫の不行跡のために離縁される。豪放磊落な忠輝は、舅の政宗とは気が合ったが、父の家康には疎んじられていたようだ。 天麟院は五郎八姫の院号(法名)。彼女を祀った廟の内側にはバラの花の間に、幾つかの十字架が描かれている。江戸初期の意匠としては極めて珍しい。バラは政宗から遣欧使としてイスパニア(スペイン)やローマに派遣された支倉常長がヨーロッパから持ち帰ったものであり、十字架は禁教のキリシタンの証。このため、廟の扉を開かれることは滅多に無かったそうだ。 集合場所の陽徳院は禅の修行道場。クラス会に先立ち、ここで座禅を組むのだ。私はその前に見たいものがあった。愛姫の御霊屋である宝華殿だ。。政宗はじめ藩主とその正室の墓陵は全て仙台にあるのに、なぜ愛姫の御霊屋だけがここにあるのかが謎。一説によると、彼女は政宗を恨んでいたと言う。 愛姫は田村氏の出。同氏は征夷大将軍である坂上田村麻呂の末裔と伝えられ、現在の福島県田村市周辺が領地だった。だが、秀吉の小田原攻めの際に参陣しなかったことを咎められ、一家は断絶し政宗の領地となる。それが夫への恨みの原因のようだ。だが二代藩主は母の願いを汲んで子の1人を水沢1万石の大名として分領し、田村氏を再興させる。 宝華殿は小高い山の上にあった。さほど大きな造りではないが、黒漆に金箔などで装飾された荘厳な雰囲気。政宗の霊を祀る瑞鳳殿をコンパクトにした感じだ。急いで道場前に戻り、級友と一緒に道場へ入る。中には高校卒業後初めて再会したのもいる。51年ぶりの友の顔はさすがに変貌しているが、当時の面影がどこかにある。ここからは無言で過ごすのが約束事だ。<続く> ≪ 裏庭のフキノトウ ≫
2013.03.28
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先週の土曜日、「映画を観に行こう」と言うと、「私は買い物に行く」と妻。デパートの商品券で自分のものを買ったり、孫の服を探したいようだ。それなら、と1人で行くことにした。妻はまだ働いているが、私は今年の5月にパートの仕事を辞めた。それ以来1人で映画を観る機会が増えた。小遣いは多少減るが、その分自由で良い。 観たのは『のぼうの城』。ちょっとした話題作で、埼玉県にある忍(おし)城の攻防を巡る実話のようだ。忍と書いて「おし」と読むことを知ったのは、司馬遼太郎の歴史小説。幕末の関東で、官軍と戦った唯一の藩として上げられていたのが忍藩だった。「へえ~っ、忍藩ねえ。変わった名前だけど一体どこにあるんだろう?」。それが忍との出会いだった。 時は戦国時代。天下統一を狙う秀吉は、小田原の北条氏を攻める。この北条氏は鎌倉幕府の執権だった北条氏の末裔ではなく、伊勢(三重県)出身の豪族のようだ。この時、石田三成は上野(群馬)の館林城と武蔵の忍城を落とすよう、秀吉から命令される。館林城は簡単に落ちたものの、この忍城はなかなか落ちなかった。城内には武士と農民3千人が立て篭もり、その士気が極めて高かったせいだ。 城の守りを指揮するのが「のぼう様」と呼ばれる城代成田長親。「のぼう」とは何か?その前に「でく」をつけると直ぐに分かる。つまり長親は領民をはじめ、家臣からさえ「でくのぼう」と見られていたのだ。その役立たずが、こんな非常事態になって本領を発揮する。手を焼いた三成は、城を水攻めにしようと、長い堤を作って利根川の水を城の周囲に流し入れる。 絶体絶命の忍城を救うために長親が採った意外な行動とは何か。ここが長親役を演じた狂言方和泉流能楽師野村萬斎の真骨頂だ。彼の顔はNHKの連続ドラマ『あぐり』で知っていたが、久しぶりの登場だ。忍城を守る武将役が佐藤浩一と山口智充。彼らの演技も見応えがあった。結局この城は落ちなかった。「忍の浮城」と後世まで伝わる所以だ。だが、小田原城が落城したことで、この城も涙を飲んで開城することになる。 さて、戦いの中で三成が陣取った場所がユニーク。「丸墓山」と呼ばれた古墳なのだ。スクリーンに巨大な円墳が出て来た時は、自分の目を疑ったものだ。後で調べてみたら直径105m、標高18.9m。6世紀後半に造営された我が国最大の円墳とのこと。なるほど巨大な訳だ。さらに地図で調べたら、あの金象嵌の文字が刻まれた国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳も近くにあることが分かった。 つまり映画のロケ地となったかつての戦場は、「埼玉県」の名の興りである「さきたま古墳群」のある地でもあったのだ。かなりの数の古墳が戦前の干拓で破壊されたが、今も9基の古墳が残っているようだ。古墳と忍城の近くには博物館や資料館もある。また「古代ハス」の池もあるみたい。そしてここ行田市では「鉄剣マラソン」が4月に開催される。もちろん古墳の周辺がコース。 考古学ファンとして、またランニングをこよなく愛するランナーとして、一度は訪れてみたい行田。走りながら幾つもの古墳を観られるなんて最高。そして戦国時代と幕末の戊辰戦争の2度の戦いで不屈の精神を見せた忍城の勇姿も、併せて観たいものだ。たかが1本の映画だが鋭い観察力を働かせれば、歴史を学べることもあると今回感じた。
2012.11.13
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≪ 長谷寺から鎌倉の大仏へ ≫ 長谷寺は入口から超近代的な寺だった。寺の歴史は古く、天平8年(736年)に大和の長谷寺の開祖である徳道を招来して開山したようだ。となれば、当時は真言宗だったのだろう。鎌倉幕府が滅んだ後は康永元年(1342年)に足利尊氏が伽藍と諸仏を修復するなど、時の権力者の庇護を受けた。慶長12年(1607年)には、徳川家康が寺院を修復。浄土宗となったのはそれ以降のことだ。 パンフレットも日本語で書かれたものの他に、外国人向けのものが別に用意されていた。きっと花の寺として訪れる観光客も多く、潤沢な資金を持っているのだろう。良く整備された境内が気持ち良い。本尊は十一面観音菩薩。楠の巨木で作られた像高9mもの観音は、金色に光り輝いていた。散策路は割愛し、見晴らし台から相模湾を見下ろす。 冷やかしで弁天窟に入ると、真っ暗な岩窟の中に弁財天と十六童子が刻まれている。寺伝によれば諸国を修行中の弘法大使がここで参籠したようだが、果たしてそれほどの古さがあるかどうか。宝物館を観る時間がなく山門を出、最後の鎌倉大仏へと向かう。もう夕方が近いと言うのに大変な人混み。行き交う車に注意しながら道を急ぐ。 大仏がある高徳院は浄土宗の寺。そして鎌倉大仏の名で親しまれている阿弥陀如来座像は、本来大仏殿の中に鎮座していたもの。それが露座となったのは、2度に亘り大風によって破壊されたためだ。明応7年(1498年)の明応地震による津波で破壊されたとの説もあるが、文明18年(1486年)には既に露座だったとの記録が残されている。 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は 美男におわす夏木立かな 歌人与謝野晶子によってそう詠まれた大仏は建長年間に造立された国宝で銅製。大仏の中は空洞で入ることも出来、背中には明り取りの窓がある。この地は鎌倉時代大仏(おさらぎ)と呼ばれ、北条氏の中に「大仏流」(おさらぎりゅう)と呼ばれる一族もいる。またこよなく鎌倉を愛した文士大仏次郎のペンネームもここから来ている。 彼は鶴岡八幡宮の後背地が開発されようとした時、多くの文化人と共に立ち上がり開発の手から鎌倉を守った。昭和39年のことだ。それがきっかけで昭和41年に「古都保存法」が制定される。相変わらずの人波の中を、長谷駅までの道を急ぐ。江ノ電で戻り、鎌倉駅の周辺で買い物。お土産に買ったのは、鎌倉焼き、鳩サブレ、そして蒲鉾。蒲鉾で有名なのは小田原だけでないようだ。 横須賀線は座れてラッキーだった。東京駅では一旦外へ出、ライトアップされた新駅舎を観た。7月の時はまだ工事中だったのが、今は見事に創設当初の姿を取り戻している。駅で買った「グルメ弁当」とガイド料を次男に渡す。朝から一日ありがとうね。次は東京の近代的な場所を案内してもらう予定。 東北新幹線の中でワンカップを傾けながらの夕食。そして食後は「新平家物語」の第15巻を読了。残るは最終巻だけになった。帰宅すると、愛犬が大人しく留守番をしてくれていた。餌も全て食べたようで一安心。早速彼と夜の散歩に出かける。こうして慌ただしい秋の一日がようやく終わった。<完>
2012.11.02
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≪ 極楽寺界隈 ≫ かなりの観光客が「長谷駅」で降り、ゆったりする車内。小さなトンネルを出たところが「極楽寺駅」。駅の直ぐ前に貧弱な寺が見えた。多分あそこのはず。次男はまだ行ったことがないと言う。駅を出てその付近まで行くと、やはりその寺に間違いなかった。寂れた寺だ。頭を下げて小さな門を潜る。受付もないので無料なのだろう。 宝物館のようなものはあったが、ひっそりとした雰囲気。おまけに「境内では撮影も写生も禁止」の張り紙。観光とは程遠い雰囲気に戸惑う。数ある鎌倉の寺の中には、こんな寂れた寺もあるのだ。円覚寺や建長寺を見て来た目には奇異に映るが、きっと寺にも運、不運があるのだろう。この地はかつて「地獄谷」と呼ばれていたらしい。当時は多くの死骸が捨てられ、浮浪者が住んでいたためだ。 そこに極楽寺を建てたのは鎌倉幕府「連署」の要職にあった北条重時。正元元年(1259年)のことらしい。以後、重時の子孫は「極楽寺流」と呼ばれることになる。第6代執権の長時や第13代執権の基時らがそうだ。長時は父の遺志を継いで伽藍を整備した。忍性が住職のころは7つの伽藍と49の塔頭(支寺)を持つほど栄えたようだ。 だが火災と再興を何度も繰り返し、江戸の後期にはすっかり荒廃した由。さらに関東大震災で本堂が倒壊。どこまでも不運な寺だったのだろう。淋しい境内を出て、東に向かう。曲がりくねった坂道を登り、やがて下る。鎌倉七切通しの一つ「極楽寺切通し」だ。右手の丘の上にある成就院もアジサイの名所で、境内から相模湾が見えると次男。 鎌倉の街は京都などに比べればとても狭い。前は海だし、後三方は小高い山に囲まれている。武士だけの幕府を開くにはそれだけの土地があれば十分で、却って防備には好都合だったのだろう。だが、山がちの鎌倉へ入府するためには、どうしても幾つかの谷を切り開く必要があった。それが今になって独特の風情をもたらす「切通し」だった訳だ。 次男が「力餅屋」の角から曲がれと言う。「おかしいな。長谷寺への道はまだ先だが」と思ったら、どうやらそこが近道らしい。坂を登ると正面に大きな木が見える。樹齢350年のタブノキがあるのが御霊神社。祀られているのは関東平氏の一族鎌倉権五郎。源義朝に従って奥州後三年の役に参陣した際、左目を射抜かれ顔を踏ませて矢を抜いた勇猛な武将だったようだ。その頃はまだ源氏も平家も一緒になって戦っていたのだ。 小さな神社の前に、これまた小さくて可愛い踏切。さっき乗った江ノ電がその前を通っているのだ。折しも真っ暗なトンネルを抜けて電車がやって来た。軌道の傍のアジサイが咲く頃が、絶好の撮影シーズンなのだと次男。彼も中古の一眼レフを構えている。なるほどねえ。こんな所が絶好の撮影ポイントになるのか。それにしても鎌倉は何と親しみやすい街だ。裏道をさらに進むと、長谷寺の裏口に出た。<続く>≪ 10月のラン&ウォーク ≫ ウォーク:113km ラン:249km(15回) 月間合計:362km 年間累計:2154km うちラン:912km これまでの累計:80、299km
2012.11.01
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≪ 若宮大路と江の電 ≫ 昨日分の最後に書いた歌だが、走友のkazuさんが訂正してくれた。正しくは しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな だった。 私はいつもその歌の「下の句」を忘れてしまう。それで「だったかな?」と書いたわけだ。ついでに「新平家物語」を読み直したら、静が舞ったのは雪ノ下の御所ではなく、鶴岡八幡宮の舞殿だった。たとえ素人でも、歴史ものを書く場合は注意しないといけないね。折角なので書いておこう。静御前が舞った際の歌がもう一つある。それは吉野山で別れた義経を偲ぶものだ。 よしの山 峰のしら雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき この後で頼朝の妻政子は、静が身籠っていることを女の直感で見抜いてしまう。 金沢街道へ戻る路地で、スイセンの芽が出ているのに気づいた。仙台の我家ならスイセンが地中から顔を覗かせるのは翌年の3月ごろ。いくら南関東とは言え早過ぎる。これも異常気象のなせるわざだろうか。他の場所でもツツジやシャクナゲが狂い咲きしてるのを観た。 時間は午後の1時近く。相当腹も空いて来た。蕎麦屋には行列が出来ていたため、角のしゃれた店に入る。妻が注文したのは、きのこたっぷりのサンドウイッチ。私と次男はスリランカ風カレー。鳥肉が入ったターメリックとトマトの味で、スープのように薄いカレーだが、案外美味しかった。これにコーヒーか紅茶とデザートがつく。デザートはイチジクのタルトだった。 若宮大路は大変な人混みだ。次男のお気に入りの陶器店に入る。扱っているのは備前焼がほとんど。私が作品を見ていると店の親父が色々と説明し出す。置いてある作品は、彼が前から目をつけていた作家のものとか。結構高額な品だ。笠間焼に似てると言ったら、「あれは焼きが甘い」と一言。陶器を焼く際の温度が低いため、備前のような風格は出ないのだとか。ほうほうの体で店を出る。 妻が買った「鎌倉焼き」を食べながら歩く。外側は抹茶の味で、中のあんはゴマ。次男が横町へ曲がれと言う。そこが鎌倉駅への近道らしい。ここも人波がすごい。別名「鎌倉の原宿」なんだとか。確かに観光地だけあって、街には活気が溢れている。ようやく人波を掻い潜って駅に到着。鎌倉名物の「江ノ電」(江ノ島電鉄)に乗るのが今日の楽しみの一つ。極楽寺までの切符を買う。 江ノ電は鎌倉と藤沢を結ぶ単線で、途中には江ノ島がある。そして「腰越」も通る。そこは平氏を滅亡させた義経が都から鎌倉へ訪れたものの兄頼朝への面会を許されず、必死の思いで弁明の書「腰越状」を書いた地なのだ。やって来た電車は2両編成の可愛いもの。ギュウギュウ詰めの電車は観光客で一杯。街中をカタコト音を立てながら、電車は西へと向かった。<続く>
2012.10.31
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≪ 鶴岡八幡宮と頼朝の墓 ≫ 雅楽が聞こえる。それに大変な人混みだ。着物姿の子供がやけに目につくのはなぜ?七五三のお参りは11月15日なのだが、親の都合で予定が開いている週末に行うのが、最近の流儀なのだろう。先ず本殿に向かう。神門の両側に武者姿の神像が2体。さすがは源氏の守り神だけのことはある。 平安末期の前九年の役の際に源頼義が、東北の古代豪族安倍氏を討つべく戦勝祈願するため、京都の石清水八幡を勧請した若宮八幡が神社の起源とか。康平6年(1063年)の時だ。それを治承4年(1180年)に頼朝がこの地に遷移し、社殿を中心に鎌倉幕府の中枢施設を整備したそうだ。 本殿の中では七五三詣での親子が大勢、お祓いを受けていた。出口に向かいながら懸られた絵馬を見る。あれれ?何と言うことだろう。日本語の絵馬に混じって、外国語で書かれた絵馬もたくさんある。英語、フランス語は分かるとして、中にはロシア語のキリル文字や、東南アジアの文字も散見。結構色んな国の人が参拝してるんだねえ。それも宗教を超えて。 舞殿では神前結婚式の最中。それが外からも丸見えなのだ。妙なる雅楽の音は、ここから聞こえていたのだ。石段では写真を撮る老若男女の姿。そして石段の右側には根元から切られた大イチョウ。それは2年前の強風で倒れたもの。三代将軍実朝が、イチョウの木陰に隠れていた甥の公暁に暗殺されたと言われる伝説の樹だ。今は元の位置から7m離して育成中みたい。 境内には源氏の氏神である白旗神社や鎌倉国宝館があるみたいだが、先を急ぐ。2つの池は平家池と源氏池。平家池に浮かぶ4つの島は「死」を意味し、源氏池の3つの島は「産」を意味する。これは頼朝の妻政子の発案だった由。平安から鎌倉初期にかけては、そんな迷信がやたらと信じられていた。それだけ世の中が不安定だったのだろう。太鼓橋は本来赤く塗られていた由。鎌倉幕府最後の執権赤橋氏の姓は、この橋から来ているそうだ。 境内を出て向かった先は頼朝の墓。次男も行ったことはないらしい。地図を確かめながら金沢街道を東に進む。やがて「雪の下」の地名。路地を左に入ると正面に小高い丘が見えた。路地の四つ角に「鎌倉幕府跡」の標識。んんん?これは予想外。こんな所に幕府の政庁が置かれていたとは。ところが頼朝の墓が貧弱なのには二度ビックリ。それもそのはず、江戸時代の初期、薩摩の島津藩が再興したものだとか。鎌倉時代のものなら、五輪の塔もそれらしい形をしているものだ。 そう言えば「私本太平記」には、鎌倉を攻めた新田義貞が頼朝の墓を徹底的に破壊したことが記されていた。なぜ同じ源氏の血を引く義貞が、源氏の統領である頼朝の墓を暴く必要があったのかが不思議。あの時代にはそれほどの憎しみが存在したのだろう。 帰路「雪の下」で思い出す。吉野山で捕らわれた義経の愛妾静御前が鎌倉まで連行され、頼朝と政子の前で舞を舞ったのが確かこの地「雪の下御殿」だったはず。その時静は義経の子を身籠っていたようだ。こちらは「新平家物語」の話。しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな だったかな?<続く>
2012.10.30
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≪ 円覚寺から建長寺へ ≫ 鎌倉街道を南に下ると間もなく、円覚寺(えんがくじ)への入口。ここが最初の訪問地だ。境内へ入ると自然と寺院が融合した独特の趣がある。いかにも古そうな白槇(ビャクシン)の樹。この寺は鎌倉6代執権だった北条時宗が、元寇の死者の霊を慰めるために建立したもののようだ。寺名の由来は、寺地を選定した際、地中から石びつに入った「円覚経」が掘り出されたことによる由。 新田義貞が鎌倉を攻めた際、寺社の多くは焼け落ちたと聞いた。歴史の古さに比べて建物がさほど古いように感じないのは、再興されたせいだろう。それでも禅寺独特の雰囲気が一面に漂う。岩に刻まれた流紋に驚く。「模様を彫ったのかな?」と妻。「これは昔の谷の跡だよ」と私。山間の地形を利用したため、かつての流路の名残があるのだ。 「これはどこかに似てるな」と思って考えたら、安芸の宮島(厳島神社)の裏手から弥山へ登る辺りの雰囲気に良く似ている。あそこも境内の一角が小さな谷間になっていた。清々しい山門の後に仏殿。ここには宝冠を戴いた釈迦如来が安置されていた。堂々たる風格だ。天井に描かれた龍は、前田青邨が監修し、守谷多々志が描いたもののよう。 広い境内を山に向かって歩くと左手に古い堂宇。清楚な佇まいの舎利殿は、三代将軍実朝が宋から招来した仏牙舎利を奉安した建物で国宝指定。これは創建当初のままなのだろう。最奥部には北条時宗の霊廟があるようだが、観光客は近づけない。NHKの大河ドラマで北条時宗を演じた、狂言師の和泉元彌を思い浮かべる。 アジサイで有名な明月院には寄らず、鎌倉街道を下る。いつの間にか横須賀線の軌道とは離れていた。結構歩くと左手に学校。「鎌倉学園」の標識。校名は聞いたことがある。隣が建長寺なので、仏教系の学校のはず。円覚寺と比べれば、建長寺はより開かれた平地の趣。7本の立派で古いビャクシンの樹が先ず目についた。樹齢は730年。やはり創建当初のものだ。 この寺は五代執権北条時頼の創建。寺の名は完成した年号に因るのだろう。鎌倉五山第一の寺で、臨済宗建長寺派の大本山。そんなことよりも誰でも知っている「けんちん汁」はこの寺の発祥で、「建長」から来ているとは意外。法堂に安置されたご本尊は地蔵菩薩。大きく目を見開いていたのが印象的だった。修行中の釈迦像はガリガリに痩せた姿。ガンダーラ仏に良く似てると思ったら、やはり愛知万博のためにパキスタンで製作したものらしい。 唐門は金色に輝く扉が目立ち、禅寺には相応しくないような印象を受けた。山奥にある「半僧坊」にも行かず、国宝の梵鐘も観ずに境内を出る。鎌倉街道は途中から結構急な下り坂となった。これが鎌倉名物の「切り通し」かと思いながら坂道を下ると、鶴岡八幡宮の裏手に出た。階段を登ると丸山稲荷の赤い鳥居。その左手に社殿が見えて来た。<続く>
2012.10.29
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結局はあの薄気味悪い山道を、再び戻ることにした。お寺で自転車に乗って出発。最初の曲がり角に「青麻道」と刻まれた石がある。これは一体何だろう。ちょっと不思議な雰囲気だ。そこから少し戻ってとある店の中に入る。珍しくパン屋さんを見つけたのだ。コンビニでお握りでも買いたいのだが、どうやらコンビニは無さそうだ。 小さな米粉パン5個が入った袋と、豆パンを買った。いずれも半額の品。それをリュックに入れて再出発。「青麻道」の所から左折。ここを直進した若宮前には八坂神社がある。もちろんその昔、京都の八坂神社からご神体を勧請したものだろう。そして現在塩竃神社の境内にある志波彦神社は、元々この岩切に鎮座していたもの。そのことを見ても、多賀城に近い岩切が、街道を通じて古代から栄えた集落であったことが分かる。 ところで志波彦神社、旧志波姫村、岩手県盛岡市付近にあった古代の出城紫波城のいずれもにつく、「しわ」とは何なのか、長年の私の謎になっている。間もなく岩切城へ入る道の角に、再び幾つかの古い石碑を発見。きっとこれが岩切城への標識代わりのはず。直進すると宮城郡利府町の「館の内」地区。奥州藤原氏が滅亡した後、鎌倉幕府から奥州留守役として派遣された留守氏の館があった場所だろう。 左折して山道を登る。直ぐ左手にも幾つかの板碑。やはりこの辺は鎌倉時代の宗教遺物が多い。付近には熊野神社もあることを後日知った。坂道が急過ぎ、もう自転車を押して登るしかない。それが延々と続く。先ほど飛び降りようか迷った崖まで来た。右手の集落は利府町の神谷沢。神様が住む谷や沢。昔からの地名には、何か謂れがあるはず。 小高い山が見える。あれが岩切城がある山だろうか。坂も緩くなり、アップダウンを繰り返す。城跡への入り口らしい場所まで来てガッカリ。何とその先は工事中で入れず、鉄の柵で塞がれている。ここもやはり昨年の大震災時に崖崩れが起きたようだ。残念だが今日はここまでだが、雰囲気は分かった。先ほど見えた頂上が城跡で、現在は高森公園になっているようだ。 「青麻道」を直進すると県民の森に続くようだが、そこも工事中で歩行者の進入は出来ない。仕方なく自販機でコーヒーを買い、道端にしゃがんでパンを食べる。米粉パンは素朴な味で美味しかったし、甘い豆パンも美味しい。帰宅後気になって「青麻道」が何なのか地図とネットで調べて見た。あの道の先をどこまでも行くと青麻(あおそ)神社に行き着く。だから「青麻道」だったのだ。 仙台市泉区、黒川郡富谷町、宮城郡利府町との境界だが、その神社までの道に沿って宮城野区が細く入り込んでいる不思議な形。青麻神社は全国にある同名の神社の本宮で、奈良時代に穂積氏がこの地に勧請した由。穂積氏は古代の豪族で、確か大阪の茨木市穂積周辺が本拠地だと思う。彼らは麻の栽培を広めたようだ。それが神社の名前にもなったのだろう。 麻は成長が早く、とても大きく育つ。そのためにかつて赤ちゃんの肌着や「オシメ」には、麻の模様が施されていた。徳島県には麻植郡(おえぐん)があり、阿波国一宮は鳴門市にある大麻比古(おおあさひこ)神社だ。今でこそ大麻(たいま)は取り締まりの対象だが、昔は生活に欠かせない重要な繊維だったのだ。そして青麻の名は麻の表皮が青っぽいことに基づくみたいだ。 帰りながら城跡の山を見上げる。なるほど素晴らしいロケーションだ。山は深い谷の向こうにあり、攻めるのはかなり困難だったはず。この天然の要害を巡って、戦いが続いたことが容易にうなづける。『私本太平記』の室町時代も、ここで北畠顕家が戦ったはずだ。帰路は「今市橋」を渡り、「奥の細道」を通った。途中、急な比丘尼坂を登る。 平安中期、戦いに敗れて平将門が討ち死にした際、妹の比丘尼(びくに)がこの地まで逃げ、生活の足しに甘酒を売っていたとの言い伝えがある由。私は「尼」と「甘」をかけたように思う。つまり元々は「尼酒」だったのではと。いずれにしても岩切を通り、多賀城へ向かうこの道が、古代から多くの人々が往来し、中央から人や文化や宗教やたくさんのものを運んだことは間違いないだろう。 ブログ友であるしぃさんが、たまたま不要になった本を送ってくれたことで読んだ『私本太平記』。その関係で岩切を訪ね、新しい歴史の勉強をすることが出来た不思議な縁。中世を訪ねる旅の終わりに、私は仙台市歴史民俗資料館に立ち寄った。そこで早速岩切周辺の歴史を調べたのは言うまでもない。小さな旅は、私にとって楽しく意義深い旅になった。<完>
2012.07.07
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境内で草刈りをしてる人に「磨崖仏」のある場所を聞く。そこの坂道を登ったところらしい。ついでに岩切城に行けるか聞くと、行けると言うが、歯切れは良くない。私はポシェットから鈴を取り出し、腰につけた。名取市那智が丘、仙台市折立、富谷町などにクマが出たニュースが続いていたからだ。そして利府の県民の森にも出没したようだ。お寺の裏手の山は、その県民の森とつながっているのだ。 坂を登って行くと何やら看板。ここ東光寺にも中世の城があったようだ。少し平らな部分が「見張台」か。磨崖仏のある岩窟は直ぐに分かった。5つある岩窟のうち、磨崖仏が刻まれているのは1つだけ。それも鉄柵で塞がれている。中を覗くと、すっかり摩耗した仏像らしき姿が見えた。鎌倉時代のものだが、長年の風雨で本来の形を失っている。それでも貴重な文化財だ。 私は大分県の国東半島で、かなりの規模の磨崖仏を見たことがある。あそこには古い仏教文化が栄えていた時代があったのだ。付近の宇佐市には天皇家と縁のある宇佐神宮もある。伝説では神武天皇が東征した際に宇佐に立ち寄ったとされ、古い相撲神事や古墳群も残されている不思議な土地だ。磨崖仏を観た場所からさらに坂を登ると、平らな場所に出た。 直ぐに目についたのが石を切った跡と板碑。この付近には古代の石切り場跡がいくつかあるようだ。それが岩切の名の起源だ。岩切から切り出された石は、陸奥国分寺と国分尼寺の基壇になったようだ。多分ここからは15kmは離れているはず。それなら3kmしか離れていない国府多賀城や、その付属寺院である多賀城廃寺の基壇などに使われていたとみてもおかしくないだろう。これは奈良時代の話。 一方鎌倉時代の仏教遺物である板碑は、名取市の熊野那智神社境内に数多くあり、東北大学植物園の中にもある。それらは静かな山中にあるのだが、ここでは平らな場所に忽然と現れたのだから驚く。板碑は戦いや飢餓で亡くなった人を鎮魂するために建てられることもあるが、一般的には神聖な場所「結界」を示したのではないか。 仙台市内のお寺にある「モクリコクリの碑」は蒙古軍襲来時に派遣された兵士の魂を慰めるためのものらしい。「モクリ」は蒙古軍のことで「コクリ」は高句麗つまり高麗軍のこと。あの時「神風」で海に沈んだのは蒙古と高麗の合同軍だった証しだ。墓地では石工が墓の設置をしていた。それを横目で見ながら山に入る。先方も鈴をぶら下げた変な爺さんが、何故山に入るのか不思議そうな感じだった。 山の道は細くて頼りない。これはキノコ採りの人しか通らない道だ。クマに出会わないかビクビクしながら行くと行き止まりの道が多く、最後に出たのがある家の前。だが青いビニールシートがかかっていて、その家の庭へは行けない。昨年の震災で崖崩れしたようだ。右手下には岩切城への道路。そこへ出るには高さ3mの崖を飛び降りるしかない。悪い足がさらに壊れるのは必至だが、さてどうするか?<続く>
2012.07.06
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そうそう、『私本太平記』で意外だったことの一つは、多賀城が出て来たことだ。古代東北の治安と経営のために奈良時代に建てられた多賀城は、度重なる炎上や復興の末、平安時代の末期にはその機能を終えたと言うのが私の認識だった。調べたらやはり承徳元年(1097年)に国府多賀城は焼失している。 だが後醍醐天皇により建武の新政(建武の中興ともいう)が敷かれた後、わずか7歳の義良親王を征夷大将軍とし、17歳の北畠顕家を陸奥守に任じて多賀城に派遣し、ここに陸奥将軍府を設置した。北関東と東北の騒乱を抑えるための措置だった。その期間は短かったものの、多賀城が再び歴史上に浮かび上がったのだ。 JR多賀城駅をスタート地点に、先日「みちのくラン」が2年ぶりに開かれた。一歩も走れない私は参加出来なかったが、星峰さんのブログ、雲峰さんの掲示板への辻ポンさんの書き込み、T田さんが送ってくれた大量の写真でマラニックの様子が大変良く分かった。また参加されたボクシーどん、ちっちさん、kazuさんが私のブログにコメントを寄せてくれた。 大会は大成功で、皆喜んで帰られたみたいだ。マラニックの途中国指定史跡の多賀城跡に立ち寄った時、「あの歴史好きの爺さんはどうしたの?」との声があったとか。どうやら私のことを覚えてくれていた遠来の客がいたようだ。参加者の中にSパパがいたことも後で知った。今年3度目の「トランスヨーロッパ」に出場する彼が、わずか30kmばかりのマラニックに来られたことが意外で嬉しかった。彼は練習のため、早朝の仙台の街を走っていたみたいだ。 「みちのくラン」の4日前、私は自転車に乗って市内の岩切へ行った。そこには中世の山城である岩切城がある。『私本太平記』を読む途中で、「中世の雰囲気」をどうしても味わいたくなったのだ。この周辺でも南朝方と北朝方に分かれて壮烈な戦いがあったことは何となく知っていた。その岩切から多賀城へは極く近い距離。まさかそこに北畠顕家が陸奥守として派遣されたとは。 岩切へは極力「東街道」を通って行った。昔から利用された古道で、芭蕉も「奥の細道」の際に歩いている。私が初めて岩切に行ったのは、Sパパが主催した「奥の細道ウォーク」の時だ。雲峰師匠やちっちさんと初めて会ったのもその時。原町の古い標識の位置は覚えていたのだが、途中で「奥の細道」を離れ、広い県道を直進してしまった。確か急な坂があったのに、こっちは平らな道で変だとは思っていたのだが。 それでも岩切へは行ける。七北田川を渡るとそこが岩切。中世の頃、この川は冠川と呼ばれ、多賀城の前を流れていた。今では流路が変わり、砂押川と言う別な川になっている。その河口から舟が上り、岩切の周辺は大変な賑わいだったと言う。もちろん鎌倉や室町時代ごろの話で、当時は岩切ではなく今市と呼ばれていた。その今市は現在でも地名として残っている。 その日私が最初に訪ねたのは東光寺。あの「奥の細道ウォーク」でも立ち寄った古寺だ。みんなが記念にと撞いたゴ~ンゴ~ンと響く鐘の音が、今でも耳の奥に残っている。ここは現在曹洞宗だが、建立当時は天台宗。慈覚大師が開基の古刹なのだ。実はあの時、この寺で見つけられなかったものがあった。鎌倉時代の磨崖仏がこの寺のどこかにあるはず。何故なら本物そっくりの「洞窟」を、私は仙台市博物館で何度も観ていたからだ。<続く>
2012.07.05
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「サンデー毎日」となった爺さんは暇な上、さほどお金もない。そんな時に役に立つのが自転車だ。昨日は愛用のマウンテンバイクに乗って、多賀城市の「東北歴史博物館」へ行った。往復40kmにはなるから良い運動だ。体も鍛えられるし、精神的な刺激も受ける。以前は中世から近世の街道を通って行ったのだが、今回は国道沿いに行ってみた。案の定何箇所かで迷ったが、それもまた勉強のうち。 館のHPによれば、目下開催している特別展は「神々への祈り」。サブタイトルが、~神の若がえりとこころの再生~となっている。これは東日本大震災の復興祈念を兼ねた企画のようだ。構成は伊勢神宮(三重)、加茂御祖神社(下鴨神社=京都)、出雲大社(島根)、そして塩竃神社(宮城)の4社。特別展は900円だが、前にもらった割引券とシルバー割引が効いて700円で入れた。 伊勢神宮はご存知の通り「皇室御用達」の神社で、下宮、内宮がそれぞれ20年ごとに遷宮する(建て変える)ことで有名。「お伊勢さん」の名で親しまれ、江戸時代には「伊勢参り」の名目で庶民も旅することを許された。出品は伊達綱宗が奉納した神刀や、信長、秀吉、家康の朱印状、棟札、おかげ参り風俗屏風、神宮撤下御装束神宝など。境内の厳かな雰囲気を思い出した。 下鴨神社は平安京鎮守のために建てられた神社で、古代豪族加茂氏の氏神でもある。境内を散策した覚えはあるのだが、社殿の記憶がない。出品は古神宝須賀利御太刀(すがりは蜂の古名)、後陽成天皇宸筆の神号(神社の扁額)、御陰祭(葵祭)行列絵巻など。確か葵祭は古代の装束で京都御所から出発し、途中この神社に立ち寄ってから上加茂神社へと向かったはず。 出雲大社は縁結びで知られ、旧暦10月には全国から八百万の神が集うため神無月(出雲では神有月)と呼ばれることで知られている。古代から中世にかけての社殿の高さは16丈(48m)あったと言い伝えられていたが、実際に巨大な材木3本を括った柱が地中から発掘されている。出品は後醍醐天皇の綸旨、遷宮儀式注進状、秀頼奉納の太刀、徳川家奉納の御櫛笥など。 塩竃神社は奥州一之宮で、古代には国府多賀城を守護する神でもあった。神社の傍には小社釜神社があるが、これは古代から製塩に携わった証し。後世伊達家の手厚い保護を受ける。出品は鎌倉時代の太刀、江戸時代の棟札、藩主伊達吉村が奉納した太刀などで、いずれも重要文化財。立派な神輿(おみこし)が1基置かれていたが、重量に比べて担ぐ棒が極端に短い。 さて、私はこれまで各地の神社を観た。これは参拝と言うより学術的な好奇心のため。南から主なものを挙げると、波の上宮、普天間宮(沖縄)、青島神社(宮崎)、宇佐神宮(大分)、宗像大社、太宰府天満宮(福岡)、大山祇神社(愛媛)、金刀比羅宮(香川)、大麻比古神社(徳島)、厳島神社(広島)、吉備津神社、吉備津彦神社(岡山)、出雲大社(島根)、春日大社(奈良)、八坂神社、平安神宮、下鴨神社(京都)。 熱田神宮(愛知)、気多大社、白山神社(石川)、湯島天神、明治神宮(東京)、筑波山神社、鹿島神宮(茨城)、日光東照宮(栃木)、塩竃神社、大崎八幡宮(宮城)、北海道神宮など。この他にもたくさんあるはずだが今は思い出せない。これから行ってみたい神社は諏訪大社(長野)、石清水八幡(京都)、熊野大社(和歌山)くらいか。立派な社も良いのだが、原始神道を思い起こす沖縄の御嶽のシンプルさが心に沁みるのは何故だろう。 最後に質問。日本の神様を数える単位は何か? もちろん人間と違うので「人」ではない。答えは「柱」。北方アジア系民族共通の神話に、神が高い山に降り立つことがある。日向の高千穂へ天孫降臨があったとの日本神話もその流れを汲むもの。神が憑依するものはやがて山上から高い木となり、さらに太い柱に変化したと思われる。諏訪大社の御柱祭は、きっとその名残だろう。私が諏訪の勇壮な祭りと、荘厳な社を見たいと思う理由はそこにある。
2012.05.25
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≪ 地名の不思議 ≫ 突然ですが、次の言葉からあなたは何を思い浮かべますか? 火 木 粟 黍 箒 湯または魚 蓑 豊 総 越。これでピンと来た人は相当勘の良い人です。それならこれはどうかな? 科野 毛野 淡江 稲葉 道奥。まだ分かりませんか~?これらは全て旧国名の原型ではないかと、私は密かに考えています。 火の国 木の国 「あわ」の国 「きび」の国 「ほうき」の国 「いゆ」または「いお」の国 「みの」の国 「とよ」の国 「ふさ」の国 「こし」の国 「しなの」の国 「けぬの」の国 「あわうみ」(おうみ)の国 「いなば」の国 「みちのく」の国です。でもどこか変だと思いませんか。皆さんが知ってる名前とは少し違いますものね。 国の名前の起りは、多分上記のようなものだったのではないでしょうか。それはごく普通に見られるものの名前です。少し説明すると「火」は火山で、「越」(こし)は都から見て山を越して行く遠い国。「豊」は豊かな土地で、「総」は立派な土地かな? 淡江(おうみ)は淡水湖のことで、道奥(みちのく)は文字通り道の奥。つまり最果ての地でしょうね。 ところが奈良時代のある時、「国の名前はおめでたい意味を持つ漢字2字で統一するよう」定められます。これでは漢字1文字の国は困ります。そこで火は肥前(今の長崎、佐賀)と肥後(熊本)に分かれます。本来の意味は雲仙岳や阿蘇山のような火山がある国だったのですが。樹木が生い茂る「木の国」は無理して紀伊国に、「粟」は阿波国、「黍」(今でもキビ団子が有名)は吉備に変わった後で備前、備中、備後に別れます。人口が増えると税を取り易くするために国を分割したのです。 「箒」は伯耆国(鳥取)、「湯」または「魚」は伊予国、「蓑」は美濃国。確かに美しく変身した気がします。「豊」は豊前(ぶぜん:福岡、大分)と豊後(ぶんご:大分)に「総」は上総(かずさ)下総(しもふさ:共に千葉)、越は越前(福井:後に若狭国、加賀国が分離)、越中(富山:後に能登国が分離)、越後(新潟)に分かれて2文字表記になります。 科(しな)の木は、その樹皮を加工して布を織りました。きっと科の木がたくさん生えていた土地だったのでしょうが、信濃国に変身です。稲葉は因幡国(鳥取)へと変わりましたが何だか意味不明ですね。問題は淡江。これは2つありました。琵琶湖と浜名湖です。今は海水が入り込んでいる浜名湖も昔は淡水だったのですね。 都から近い淡水湖の国を近江(「ちかつおうみ」滋賀)、遠い方を遠江(とおつおうみ=とおとうみ静岡)と呼ぶことにしたのですが「2字」の制約から「淡」が外れてしまったのです。毛野(けぬの)は草深い原っぱの意味ですが、上野(かみつけぬの=こうづけ群馬)、下野(しもつけぬの=しもつけ栃木)とこちらも「毛」が抜けます。2つの県をつなぐJR「両毛線」の名前の由来はここ。鬼怒川(きぬがわ)も昔は「けぬがわ」と呼ばれていたようです。 最後の道奥ですが、多分お隣の日立(お日様が出る国)が常陸(ひたち)国と名前を変えたため、その奥にある国と言うことで陸奥国へと変わったのでしょう。しかし常陸が何故「ひたち」と読むのかは分かりません。ひょっとして「陸」には「立つ」の意味があるのかも知れませんね。 ついでに沖縄のことも記します。琉球は中国から見た名前です。中国は沖縄のことを「大琉球」、台湾のことを「小琉球」と呼んだこともあるのです。沖縄自身は昔から「おきなわ」と呼んでいたようです。日本の古い文献には「阿児奈波」島(あじなは)の名前があります。きっとそのころの日本人には「おきなわ」が「あじなは」と聞こえたのでしょうね。 「レキオ」は西洋人が琉球の音を聞いた表記で、「うるま」は「うるわしい土地」の意味を持つ沖縄の古語です。「果てのうるま=はてうるま」が変化したのが波照間(はてるま)島や鳩間(はとま)島です。平成の大合併で沖縄本島に「うるま市」が誕生しましたが、由緒ある名前の復活は、文化遺産の保存の点からも良いことだと思っています。
2012.02.01
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司馬遼太郎著「最後の将軍」を読み終えたことは既に書いた。ただし、この内容については記してない。20冊ほど読んだ本で、幕末から明治に至る時期の状況については以前よりかなり分かった。だが凡人の悲しさで、どんどん忘れてしまうのが辛いところ。 司馬の「花神」は後に討幕軍の総司令官となる大村益次郎(村田蔵六)の半生を描いた歴史小説だった。これによって幕末の緊迫した情勢が理解出来たが、同時にあの時代を生きた人間の精神構造が良く分かった。自分の信念を貫き通す人があの時代には確かに存在した。大きな目的を達成するためには、他人の評価は全く気にせず、死すら恐れてはいなかった。 花神(かしん)とは花の精の意味。だが、中国語だと「花咲爺」なのだそうだ。司馬が何故タイトルを「花神」にしたのか、説明は無い。ひょっとして、幕末期は価値観が混沌とした枯れ木みたいなものと考えたのだろうか。蔵六が自分の生死を賭けて播いた「灰」が樹木の肥料となり花が咲くのは、明治と言う新しい時代に入ってからのことだった。 その後読んだ司馬の短編小説「斬殺」は、官軍の奥羽征伐隊の責任者である世良修蔵の話だった。彼はわずか200人の官軍を率いて会津藩を攻めに来るが、人格の粗暴さが仇となって奥羽の各藩に離反される。中でも仙台藩は朝廷から「錦の御旗」を与えられる立場だったようだが、やがて白石城で米沢藩と謀議し、奥羽列藩同盟を結成して世良を斬殺する。この結果東北地方は朝敵として、明治に入って暫くの間冷遇される 同じく司馬の短編小説「英雄児」は長岡藩の河井継之助が主人公。彼は身分の低い立場でありながら一念発起して学問を学び、長岡藩の家老に出世する。藩の経済を立て直した河井は、近代的な兵器を整備して「中立」を守ろうとするが果たさず、奥羽列藩同盟に加盟。立て籠る官軍を討つため自藩の町屋を撃破した。その結果彼の死後、その墓は恨んだ町民によって破壊された由。 佐幕や勤皇、または「尊王攘夷」とは言っても、藩によって、あるいはその時期によって、状況はどんどん変化する。それは薩長や土佐も、保守的な幕府の高官も同様だった。だがほとんど変わらなかったのが最後の将軍である徳川慶喜。本来なら将軍家を継ぐ資格のない水戸徳川家の出(徳川斉昭の七男)で、一橋家を継いだ男だ。 だが十三代将軍家定(最後の夫人は篤姫)が35歳で、十四代将軍家茂(夫人は皇女和宮)が21歳で逝去すると、固辞したにも拘らず将軍に任命される。だが英明な彼は密かに「大政奉還」を決意していたし、最終的には江戸城も領地もすべて朝廷に差し出した。その変わり身の早さが、幕臣には理解されなかったみたいで、3人の側近が次々に斬殺される。 慶喜がその後若くして隠居し、かつての住まいだった皇居(江戸城)へ上ったのは明治31年になってからとは驚く。それまでひたすら謹慎生活を送っていたのだ。公爵の爵位が与えられたのはさらにその4年後。慶喜が大政奉還や江戸城の無血開城に応じなかったら日本はもっと悲惨な状態になっていたはずで、本来は維新の最大の功労者だったと思う。大正2年、「最後の将軍」慶喜は77歳で逝去する。 蔵六と慶喜は立場が全く異なるし、生き方も違うのだが、どちらも「筋」が通っていた。つまり良くも悪くも「信念の人」だった。そんな人が何人もいたからこそ、列強の手で奪われずに済んだ日本。わずか100年ちょっと前の我が国には、肝の据わった人物が確かにいたのだ。1人の小説家が魂を込めて書いた本が、そのことを私達に教えてくれる。歴史の真実とは凄いものだ。
2012.01.30
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