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~大阪へ行きたい理由・続編(1)~ このブログのとあるシリーズに「大阪に行きたい理由」を書いてから3週間近く経ったと思う。あれから「北京冬季五輪」が始まり、その後緊迫化したウクライナ情勢や、日常の些末な事柄や健康状態などを縷々書き綴り、続編を書く暇がなかった。ウクライナ情勢が気がかりではあるが、一老人が心配して気を病んでもどうにもならない。今のうちにあの続きを書いておこう。そう思いついて書き始めた次第。 継体天皇像の一部 大阪に行きたい理由の第1が、高槻市にある「今城塚古墳」とそこにある「古代歴史館」を観たいこと。私はかつて高槻市に住み、その古墳へも何度か訪れた。あの荒れ果てた古墳がその後の発掘調査で、第26代継体天皇の陵墓と特定されたためだ。実存の天皇陵が特定されるのは、究めて稀。宮内庁が比定した陵墓は別にあるため。自由に立ち入ることが可能な天皇陵はほぼ皆無。その意味でも貴重なのだ。 発掘調査前の今城塚古墳 第25代武略天皇が皇統をほぼ抹殺したため、天皇の候補者がおらず、北陸の片隅に居た天皇の末裔を探し出して天皇になったのが古墳の主。発掘の結果石室から3つの石棺の破片が発見された由。阿蘇のピンク石製の石棺が継体天皇のものと思われる。残りの2組は息子の第27代安閑天皇と、第28代宣化天皇のものと推定されるようだ。2人の天皇は皇后が生んだ嫡子ではなく共に妃が生んだ皇子。 勇壮な埴輪群 古墳の造り出し部分に設置された埴輪群は、継体天皇の葬列を再現したもののようだ。かなりの規模で継体天皇の権力の偉大さが偲べよう。「古代歴史観」も出来ればじっくり観たいもの。 西殿塚古墳 皇后の手白香皇女の陵墓「西殿塚古墳」別名「衾田(ふすまた陵」は奈良県天理市にある。夫婦の陵墓が離れているのは珍しいが、皇女は第24代仁賢天皇の娘。淀川周辺を転々としていた夫とは異なり、ずっと都のあった桜井市周辺で過ごしたのだろう。8年ほど前に「山の辺の道」を歩いた際、卑弥呼の墓とも言われる「箸墓古墳」や第10代崇神天皇陵、第12代景行天皇量を近くで観た。もらった観光案内図に載っていた「手白香皇女陵墓」の名を見たのが最初だった。全くの偶然に驚いている。 発掘調査後に作成された今城塚古墳図 NHKの番組「英雄たちの選択」に出た学者たちによれば、「継体天皇は朝鮮半島に渡った経験があるのではないか」と。それほど国際情勢を見る目が確かだったと言うのだ。当時鉄を「輸入」した伽耶(かや)国との交流も。韓国の古代歴史ドラマに「手白香」と言う女性が登場する由。こちらは「スペクヒャン」と発音するが、「パクリ」のような気がする。皇女は記紀にも載る天皇の息女だ。<続く>
2022.02.24
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~大阪へ行きたい理由(1)~ 今城塚古墳(大阪府高槻市) NHKの番組「英雄たちの選択」の継体天皇編を3度見た。コロナ禍で番組の制作に困り、何度も再放送してるのだろう。だが私には良かった。この古墳には昔行ったことがあるからだ。25年前はこんなにきれいではなく荒れ放題だった。戦国時代に山城として使われたためだ。だがその後発掘され、とんでもないものが発掘された。それで継体天皇陵であることが判明した。だが自由に立ち入ることが出来る。 発掘物を模した埴輪群 なぜそんなことが可能なのか。実は宮内庁書陵部が認定した継体天皇陵は隣の茨木市にある。こちらはこじんまりしていて、時代も合わない。だから天皇陵なのに自由に入れ、古墳に登ることも可能。付近には「埴輪工場」なるものがあり、貴重な古墳であることが推定出来た。私が高槻に住んだのは2年間。だからこの埴輪群を観ていない。私が知ってるのは荒れ放題の古墳。周濠も泥沼だった。 現在は古墳の直ぐ傍に「古代歴史館」(博物館)が建てられ、発掘された遺物が展示されているようだ。発掘された石棺は3つだが破壊されている。恐らくは盗難だろう。石棺の1つは「阿蘇のピンク石」製。わざわざ熊本から運んで石棺にしたのは天皇の権威を示すためで、運搬中の船を九州や瀬戸内海周辺の豪族や民衆は興味深く眺めたことだろう。船での運搬を再現したセレモニーもあったようだ。 第26代継体天皇(450?ー531?)は謎多い人物で記紀での記述が異なる。「をほど」のきみ、みこ、おおきみ、すめらみことの別名あり。父彦主人王は近江(滋賀県高島市)の豪族で、母振媛は越前(福井県出身)。幼児の時に父が死に、母の故郷である坂井市で育ち近江と越前を治めた。高島市にある父の陵墓からは、朝鮮渡来の金の冠や沓(くつ)が出土している。なぜ田舎の男が天皇になったのか・ 字が潰れて見難いが、第25代武烈天皇は次の後継者である皇子を次々に殺戮し、自身の嫡子もないままに死んだ。そこで重臣の大伴氏と物部氏が応神天皇の五代末でかつ傍系の「来孫」である「をほど」を越前(一説では近江)まで迎えに行って天皇になるよう懇願。既に妻子があったが、仁賢天皇の娘である手白香皇女と娶(めあわ)せ、入り婿の体裁を保って皇位に就いた。 ところが有力豪族の抵抗に遭ってなかなか都に入れず、樟葉宮(大阪府枚方市)、筒城宮(京都府京田辺市)、弟国宮(京都府長岡京市)を転々とし、ようやく磐余玉穂(いわれたまほ)宮=奈良県桜井市に遷ったのは十数年後。朝鮮半島で戦乱があり、百済から援軍の支援要請を受けるなど多難な老後だった。何とかもう少し生きて、今城塚古墳と「古代歴史館」を見学したいと強く願っている。<続く>
2022.02.15
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~縄文人は意外にグルメ~ 「縄文の森広場」の外壁 さてさて、昨日から始まったこのシリーズじゃが、今日は縄文人がどんなものを食べていたかを記そうね。マックス爺はそんな風に話し始めたのじゃ。実は先日見たNHKの教養番組では驚いたぞ。日本の考古学界では名の通ったK学院大学の名誉教授がじゃねえ「縄文時代は採集生活をしてた」と言うからビックリじゃ。そりゃかなり古い説だよ。今ではある種の植物を身近で栽培してたことも分かってる。 竪穴住宅 お父さん(左)は武器の手入れ中かな。お母さん(右)は石皿の上でドングリをすり潰しているのかも。それを傍で観ている子供。 さて驚くなかれ、出土した土器の中には見事なイノシシ(左)がおったぞ。右は「ナイフ形石器」。これで動物の皮を剥いだり、肉を切ったりしたんだよ。遺跡の近くには名取川が流れていてね。秋になればサケが上って来る(今も)。だから、「干し肉」や「干し魚」を作って、保存することも彼らはしてただろうね。 これらはほとんど住まいの身近にある植物での、実を採集して貯え、加工して食べた。つまり水につけて「あく抜き」したり、皮を剥いて中の実を石皿と「すり石」でこすって粉にする。そうすると「えぐみ」や「渋み」が取れる。それに熱を加えたら無毒化され、消化も良くなるから縄文人も次第に体格が良くなるんじゃ。しかも栗は栽培されたことも分かっておるぞ。そして挽いた粉を練って焼き、山鳥の肉を加えた「縄文クッキー」も別な遺跡で発見された。縄文人は意外にグルメだったんじゃよ。 これらは元々野生種だったのを縄文人が良い品質の物を選んで、住居近くで栽培していた。すると「定住生活」が可能になる。採集生活だけではそのうち「獲物」が獲れなくなるでのう。縄文人が栽培していた植物は、花粉や植物オパール(ケイ酸とカルシウムの複合成分)が出土することで分かるんじゃよ。試しに爺は「エゴマ」の粒を食べてみたんじゃ。今でも「エゴマ油」は健康食品。案外美味しかったね。 このほかに衣服の原料となる繊維を取るために栽培したのが、カラムシ(苧麻)。これは沖縄県の宮古島の特産品である「宮古上布」の素材として、今でも栽培されておるぞ。また青森県などでは塗料や接着剤として使うために漆(ウルシ)をわざわざ栽培していたことが分かっている。どちらも日本人とは数千年の付き合いなんじゃよ。 クリ トチ 園内にはクリとトチの木が植えられていての。ちょうど実が生っておった。東北では今でもトチを加工したお菓子や食べ物が作られてるね。「アク抜き」して使って来た、もう長い長い付き合いだ。 そして縄文土器にはね、ちゃんと焦げた痕や「吹きこぼし」の痕がついてるのもあった。それも全て縄文人の知恵。私たちのご先祖様が工夫した証なんじゃよ。バランスの良い栄養を摂って、縄文人の心身は頑丈になって行ったんじゃよ。後の弥生文化にも負けない優れた文化が栄えていたんだねえ。そんなこととがこの小さな縄文遺跡からでも分かって、爺はとても嬉しいんじゃよ。ではまた明日。<続く>
2021.07.15
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~「大湯環状列石」(ストーンサークル)への旅~ かなり間が開いたこのシリーズの残りを書こうと思う。あれは5年も前になるか。「大人の休日倶楽部」のフリーチケットと温泉旅館の「ゆこゆこ」を使っての遺跡巡りの旅をした。前日は青森県の八戸のホテルに泊まり、「是川遺跡」を観た。想像以上に内容のある縄文遺跡だった。ただし痛かったのが、ホテルから遺跡までと、遺跡から東北新幹線の八戸駅までタクシーで往復したこと。 八戸から東北新幹線で盛岡まで戻り、そこから在来線の花輪線に乗り換えて、「南十和田駅」で下車した。そこから大湯温泉のホテルまでタクシー。翌日はタクシーに来てもらって「大湯環状列石」まで行き、初めてのストーンサークルを観た後、タクシーで南十和田駅へ。そのお陰ですっかりお金を使い果たし、乗り換えた大舘のコンビニで急遽預金を下ろしたのだった。それだけ両方とも不便な場所にあったのだ。大湯環状列石のある場所は地図の丸で囲んだところ。岩手や青森の県境に近い場所だ。 万座遺跡 大湯環状列石は昭和6年(1931年)の農道建設時に発見された、縄文後期の大型配石遺跡で、万座(上)と野中堂の2つの環状列石がある。万座の直径は46mあり、国内で発見された環状列石の中で最大の遺跡だ。 万座の細部 河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状に配置され、その中間帯に1本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を三重、四重に河原石で囲み、その形から「日時計」と言われる。上の写真の左手に少しぼけて見えるのがそれ。またその奥の建物は祭祀用のもので、後述する。 「日時計」 「日時計」は万座と野中堂の双方にある。それぞれの配石遺構の下からは副葬品を伴う土坑(どこう=穴)が出ていることから、大規模な共同墓地と考えられる。また万座の周辺から掘立柱建物群(最初の写真の周囲の建物)が見つかり、墓地に付属した葬送儀礼施設と推察されている。 その外側にさまざまな配石遺構、竪穴式住居跡、貯蔵穴、「捨て場」などがあり、ここから出土した土器、石器、土偶、鐸型土製品、石製品、動物付き土器、三角形岩板などの祭祀的遺物は、「ストーンサークル館」に収容展示されている。 栗の木のサークル 黒森山 私の興味を惹いたのが「栗の木のサークル」(上)。やはりここが祭祀の場所だったことが分かる。遺跡周辺には今も栗の林がある。私はこれに近いサークルを石川県金沢市の「チカモリ遺跡」で見たことがある。やはり縄文時代の遺跡で、かなりの太さの栗の丸太を半分に割って、円形に立ててあった。 大湯環状列石からは、黒森山(下)が遠望出来る由。三角形の美しい山容で、飛鳥時代の三輪山やそれ以降の富士山や筑波山のように「神奈備山」(かんなびやま)として崇められていたのではないかと思えるのだがどうだろう。 ストーンサークル館(左)と同館のポスター(右) 左は同遺跡から出土した縄文後期の遺物。右は「同館」で画像検索した際にヒットしたもの。この謎めいたものが「岩板」かどうかは定かでないが、念のために載せた次第。この後もその年の歴史を訪ねる旅は続き、3つの遺跡と4つの博物館を見学するのだが、そのことは機会があったら書こうと思う。一応、このシリーズはここで終えたい。<完>
2021.06.13
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~八戸市「是川縄文館」の秘宝たち~ <「是川縄文館」と展示スペース> さて、今日は「是川縄文館」の展示物のうち、特に気になったものを紹介しようね。昨日も書いたように、この博物館には600点以上もの重要文化財があり、そのうえ青森県でも数少ない「国宝」に指定された土偶もあるんだよ。今日は説明よりも実際に発掘された「秘宝」を観てもらうことにしようね。ここで紹介するもののほとんどが重要文化財に指定されていてね、中には国宝もあるんだよ。<土偶> 土偶(どぐう)は言って見れば土で出来たお人形さんみたいなものかな。それでもここ是川遺跡ではいろんな型の土偶が発掘されていてね。それがどれも素敵なのさ。 これが国宝に指定された「合掌土偶」だよ。ほらちゃんと両手を合わせて真剣にお祈りしてるでしょ。縄文人は高い宗教心があってね。人が亡くなればお墓に埋葬したし、長命や子孫の繁栄を祈って、祭祀(さいし=まつり祈ること)もしていたんだ。縄文人の平均寿命は30代半ば。わざわざ土偶を壊すことも、人間に代わって災いを受けてもらうためだったんだよ。後世の「流し雛」と同じだったんだ。 左側はね「頬杖土偶」と呼ばれているんだよ。ちょっと腕がな長過ぎるけど、「ほほづえ」を突いている姿が微笑ましいね。右側は「遮光器(しゃこうき)型土偶」と呼ばれているんだ。遮光器ってのはイヌイット(エスキモー)が雪の眩しさを防ぐための「眼鏡」に似てることからの命名なんだよ。なんだか宇宙人みたいな雰囲気だね。 どっちもまるで宇宙人だね。左の方は「遮光器」がサングラスみたい。そして髪の毛を結ってないね。頭が空いてるからひょっとしてこれは土偶でなく液体を入れる「注口土器」かも。「口」から液体を注ぐんだよ。右側はハート形の顏をした土偶だね。これも髪は結ってないなあ。 左の土偶は髪の毛を結っている。見事に結髪した男性で、顔の刻線は多分「刺青」(いれずみ)だろうね。赤い色の漆(うるし)が塗られているね。右の遮光器型土偶は結髪してない女性みたいだね。 これもかなりユニークだね。宇宙人みたいだけど、腹部の線はひょっとしたら「妊娠線」かな。出産の無事を祈ったのかもよ。それだけ出産は女性にとって大事業だったんだね。縄文時代は出産時に、母子が亡くなることが多かったみたいなんだ。悲しいね。だから宗教心が篤かったんだろうな。 <香炉型土器> 左側の土器には彩色が施されているよ。そして注ぎ口があるのでどうやら「注口土器」みたいだなあ。そして右側の土器にはとても複雑な装飾が施されているね。 同じ形のが3個もあるよ。なるほど香炉型土器と呼ばれる訳がわかるね。<その他の土器> 左は「壺型土器」だけど、精巧な装飾が施されてますね。まるで釉薬(うわぐすり)をかけたような光沢があるよ。中央は「鐸型土器」。「鐸」(たく)は弥生時代に青銅製のものが出現しますが、用途は祭祀用で音を鳴らすことも出来たんだ。右は「注口土器」。容器として用い、中の液体を注ぎました。ひょっとしたらもう「お酒」があったかもね。 左はイヤリング。耳たぶに穴を開けてこれを嵌めました。今でもアフリカには同じようなものがあります。真中は土版(どばん)です。模様が刻まれ、上部に穴が開いているので装身具でしょうね。右は台付きの浅鉢で、赤い漆が施されてるよ。是川遺跡では集落の近辺でウルシを栽培してたんだ。黒と赤の漆を重ね塗りした見事な作品がたくさんありました。いずれも縄文晩期の遺物みたいです。ではまた。<続く> 掲載した写真はすべてネットから借用したもので、縮小するなど一部加工してあります。心から感謝し、付記させていただきました。亭主謹白。m(__)m
2021.06.06
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~八戸市「是川縄文館」に遊ぶ(1)~ 是川遺跡空撮 世界文化遺産の申請では「是川石器時代遺跡」となっていますが、ここでは「是川(これかわ)遺跡」と呼ぶことにします。八戸市の郊外で新井田川沿いの標高10mから30mの台地上に広がる集落遺跡ですが、この地区には3つの遺跡が混在しています。 〇 一王寺遺跡 縄文前期から中期にかけての遺跡で、是川地区では一番古い古い遺跡です。 〇 堀田遺跡 縄文中期に属する遺跡です。上層からは弥生時代の「籾圧痕」が出て、この地区 で稲作が開始された時期が分かります。 〇 中居遺跡 縄文晩期に属する遺跡で、低湿地に位置しています。石棒、女性の土偶、漆器な どが発掘され、上層からは弥生前期の「遠賀式土器」(福岡県)が出土しています。 青森県 是川遺跡がある八戸市は青森県の東南部にあります。前回の「三内丸山遺跡」も載っています。 是川復元集落 是川縄文館 是川地区からは明治時代に土器や石器などが出土して、遺跡であることが分かっていました。大正9年(1920年)には土地所有者が複数で個人的に発掘を試み、出土品を大切に保管して来ました。戦後そのうち6千点以上が八戸市に寄贈されています。 国宝 合掌土偶 そのような考古学に理解がある住民がいたお陰で学術的な発掘調査が進み、昭和38年(1963年)に「是川考古館」が、昭和50年(1975年)に「八戸市歴史民俗資料館」が、平成23年(2011年)には「是川縄文館」が建設され、研究、展示、普及活動に励んでいます。このような歴史の中で昭和32年(1957年)に「国の史跡」に指定され、中居遺跡から発掘されたうち633点が重要文化財に指定され、是川縄文館に展示している「合掌土偶=上」が国宝に指定されています。 是川縄文館の広い吹き抜け 是川縄文館の優れた展示と、工夫された照明装置。 施設の立派さ、展示品の見事さ、そして照明や音声での案内など、これが県立の博物館ではなく、市立の博物館であることに正直驚きました。さらに熱心な啓蒙活動の展開などの努力が、「世界文化遺産」登録への引き金になったことは間違いないでしょう。私は八戸市に一泊した後ここを訪れ、その後秋田県の遺跡に向かったのですが、あまりに優れた縄文の芸術に心を奪われて、とても去り難い気分だったことを今も覚えています。明日は素晴らしい館内の展示品を紹介します。<つづく>
2021.06.05
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~私が訪ねた遺跡など その1~ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」 さて、世界文化遺産への登録間近となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」だが、どうやって紹介したら良いかと悩んでいる。名前すら知らなかった遺跡や、貝塚や周堤墓などをどう紹介することが出来るだろう。そうだ思い切ってこの中で実際に訪れたことのある遺跡を中心に紹介したらどうだろうか。それなら自分の印象も交え、少しは自信を持って紹介出来るような気もする。そうだ、それで行こう。 青森県三内丸山遺跡 トップバッターはやっぱり「三内丸山遺跡」だろうね。縄文時代を代表する遺跡として超有名だもの。ここは青森市の沖館川右岸の河岸段丘上に位置し、標高は200m。1992年県営球場の建設工事中に見つかったんだ。この地で大量の土偶が発見されることが江戸初期には分かってたんだって。それが本当でしかも大規模な集落跡地や、木製の大型建築物が発見されて、本格的な発掘作業が始まったんだよ。 特に有名なのが高さ16mの「楼観」(左)と長さ50mの大型掘立柱建築(右奥=ロングハウス)だね。楼観はね直径1mのクリの丸太が地中から出た。柱の太さと地中の底辺が土と砂を交互に突き固めた版築(はんちく)と言う古墳時代の土木工法が用いられ、それで高さも推定出来、内側に6度傾いて建てて、強度を保ったことが大林組の実証検査で分かったのさ。現在の丸太はロシアから輸入したんだよ。 大型掘立柱建物の内部 そしてこれが大型掘立柱建物の内部。通称「ロングハウス」と呼ばれるほど奥行きがあって、まるで現代の建物みたいだね。ここでは集落全体の宗教行事などが行われていたようだ。私も中に入ったけど、そのあまりの広さに驚いたものさ。 ここからはヒスイの大珠などが出土している。いずれも新潟県糸魚川市姫川産。堅いヒスイに穴を開ける技術も凄いが、遥々とあんな遠くから丸木舟で運ばれて来たことを考えると、三内丸山の凄さが分かるね。この遺跡は縄文前期中ごろから中期末葉(5900年前~4200年前)までの約1700年間連続して人が住んでいた。住居跡が780もあることから、常時500人が暮らしていたと考えられる由。 縄文ポシェット(左)とカバン(右) 左は「縄文ポシェット」と呼ばれている籠(かご)で漆を塗って補強してある。これは「ゴミ捨て場」から出て来た。右は「縄文のカバン」だが、木の繊維を編んで復元したものみたいだね。ゴミ捨て場からは、「くし」などの日用品が見つかっている。主要道路の両側にはお墓の列もあったんだよ。 そして単なる採集生活だけでなく、クリ、クルミ、トチの実、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、豆などを栽培していたことも分かってる。もちろん漆(ウルシ)も植えていた。 板状土偶(ばんじょうどぐう)の破片。縄文人の平均寿命は30代後半。出産時に母子が亡くなることが平均寿命を引き下げたのさ。これらの土偶は人間代わりに「厄払い」のために壊されたんだよ。お墓の存在もそうだけどヒスイなどの装飾品を身に着けるのも既に彼らが高度の宗教性を保有していた証だと思うよ。 三内丸山遺跡出土の板状土偶。大人や子供の墓は、道路脇に整然と続いている。でも出産時に死んだ赤ちゃんは、掘立小屋の囲炉裏の傍に埋めるケースもあるようだ。きっと家族の傍に置きたかったんだろうな。さて、1700年も続いた三内丸山遺跡の大集落だけど、ある時以来人が住まなくなるんだ。それは寒冷期でクリが実らなくなり、暖かい土地に移動して行ったんだろうね。私は2度訪れたこの遺跡。立派な展示館もあって、現在は無料で見学出来るようだね。ありがとうね、三内丸山遺跡。<続く>
2021.06.04
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~わが国19番目の世界文化遺産~ 諸君。これが近く世界文化遺産に登録される予定の「北海道・北東北の縄文遺跡群」だよ。「三内丸山遺跡」や「大湯環状列石」(ストーンサークル)の名前は聞いたことあるけど、残りはほとんど初耳の人が多いだろうね。そして貝塚だの周堤墓だの〇〇遺跡だのって、考古学に興味がない人にとっては退屈だろうね。しかも地域が北海道と「北東北」に限定されてたらなおさら白けるよね。でも、次に行こうか。 ちょっとぼやけているけど、これが日本の世界遺産のマップ。青枠の文化遺産が18か所。これに今度「北海道・北東北・・」が加わるんだよ。そして茶色の白抜きが自然遺産で4か所ある。ただし昨年登録された奄美と沖縄の(計4か所)はまだ載ってないね。結構日本って「世界遺産」が多いねえ。好きな人はぜひ詳しく調べてほしいね。 UNESCOS ロゴマーク ICOMOS ロゴマーク 世界遺産に申請するには、先ずユネスコの「世界遺産条約」を締結する必要があるんだよ。国連加盟国・地域195のうち、190国で締結され、もちろん日本もその中の一つさ。「文化遺産」として申請したい物件があれば文化庁に申請して「作戦」を決める。 それでOKとなったらユネスコに申請し、ユネスコはICOMOS(国際記念物遺跡会議)に現地調査を依頼するんだ。「自然遺産」の方はまた別だけどね。ユネスコは毎年開始される世界遺産委員会へ「世界遺産リスト」に登録すべきか否かを諮るのさ。なおICOMOSには「日本イコモス委員会」と言うのがあって、啓発などさまざまな活動をしてるんだよ。 さて、おじさんは色んなポスターを探したよ。候補地となった各遺跡では、「ジュニアボランティアガイド」、「世界遺産推進フォーラム」。「啓発運動」、「講演会」、「賛助会員の募集」など、世界文化遺産申請と登録のために、さまざまな活動をしてることが分かるね。最近ではマスクをした土偶が「コロナ対策」をお願いしてるのまであるね。こんな熱心な活動が、イコモスの現地調査にも伝わり、きっとユネスコの「世界遺産委員会」での承認につながったんだろうね。 三内丸山遺跡 ずいぶん広い遺跡だねえ。きっと青森県青森市にある「三内丸山遺跡」だと思うよ。少し先には津軽海峡が見えるもの。ここで縄文人たちは500人ほどの大集落を作り、それが1500年くらいも続いたんだよ。そして昔は直ぐ近くまで海が迫り、黒曜石(北海道)、琥珀(岩手県)、アスファルト(秋田県)、ヒスイ(新潟県)などが丸木舟でここまで運ばれて来た。その頃から縄文人たちは海を通じて文化を交流し、物を交換していたんだね。なんだか「北海道・北東北」の謎が解けたような気がするね。ではまたあした。<つづく>
2021.06.03
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~より遠くへ 造船技術と航海技術の向上~ 丸木舟 このシリーズで何度も使わせてもらった丸木舟。きっと最初に作られたのは「スンダランド」付近だったのだろう。丸木舟用の木を伐り倒すための磨製石斧や、切った木を刳り抜き人が載る場所を作るための「丸ノミ型が南方で起こり、フィリピンや台湾を通じて南西諸島、九州、そして関東からも出土したことで石器と人が来たルートが分かる。縄文人たちの勇気ある行動が、今日の日本人を育んだと言っても良く、丸木舟は1万5千年以上の歴史を持つはずだ。 つい数年前、日本の研究者たちが台湾東岸の花蓮市付近から日本最西端の与那国島(よなぐにじま)までを木舟を漕ぎ渡る実験をした。漕ぎ手は5名でうち1名は女性。台湾沖の黒潮に流され、2日間かかって無事与那国に到着した。今回は伴船が随行したが、縄文時代は頼るのは自分たちだけだった。 男鹿半島で今も使われている現役の丸木舟 もう一つ私が丸木舟で思い出すのが、秋田県男鹿市の博物館(なまはげ館)で見た丸木舟。素材は秋田杉の大木で、先端は角ばってとても頑丈な造りだった。今も現役の丸木舟は冬の日本海の荒磯でも作業出来るよう頑丈な造りなのだ。とても良い物が見られたと思っている。 舟形埴輪 上は古墳時代の古墳から見つかる「舟形埴輪」。それまでの丸木舟とは異なり、「波切用」の舳先があり、波が入らない高さがあり、片側に6個の櫂(かい)を漕ぐ場所が設けられている。左右12名の漕ぎ手がおり、これに見張り役などを入れれば15名程度が乗り組んでいたのだろう。外洋航海にも耐え、恐らくこの形の船で、朝鮮半島に渡り唐・新羅の連合軍と戦ったと思われる。 遣唐使船 複数の帆を有し、風のない時は漕ぎ手が漕いだようだ。出発点は難波の住吉宮の傍にあった住之江。航路は幾通りかあり、博多から朝鮮半島経由で黄海を突っ切るコースが一般的で、宗像大社の沖津宮(沖ノ島)などで航海の無事を祈った。だが新羅や唐との関係が悪くなると、五島列島を経由するルートや奄美諸島を経由するルートも採られた。だが南方ルートは台風に遭遇して難破することが多かった。 開元通宝 開元通宝は621年に唐で鋳造された銅貨。奄美や沖縄で比較的まとまって発見されるのは、遣唐使が持ち帰ったことに拠るようだ。これを倣ってわが国が鋳造したのが「和銅開宝」または「和銅開珍」と言われるが、わが国最古の鋳貨は「富本銭」(ふほんせん)。十数次に及ぶ遣唐使、遣隋使も律令制度が整ったわが国には不要、航海も危険としてやがて廃止された。私は長崎県福江市三井楽の「遣唐使館」を訪れたことがある。 日宋(にっそう)貿易船 平安時代末期から北宋との貿易が始まる。これを差配したのは大宰府だが、貿易港は博多で、日本海側の良港として敦賀港があった。平清盛は大宰府の次官に任じられたが現地には赴かず、博多港の隆盛を見て大輪田泊(神戸外港)を築造し、宋船を博多ではなく大輪田に直航させて巨利を得ようとした。福原への遷都も企んだが、それが実現する前に源氏に敗北した。 宋銭 鎌倉幕府が自ら貿易することはなく、ほとんどを商人に任せた。このため室町時代以降も、北宋、南宋との貿易はますます盛んで、博多からは坊津(鹿児島)を経由し、南島との交易ルートが開かれた。また琉球王朝が成立して中国との朝貢貿易を開始すると、その恩恵を得ようと南島ルートがさらに南下し、その結果17世紀初頭の島津藩による琉球王朝への侵攻へとつながる。 坊津古図 坊津(ぼうのつ)は東シナ海に面する薩摩(鹿児島)の良港。その地の利ゆえに南島貿易の中継地となり、中国の高僧が渡来して地名となり、密貿易や、倭寇の基地としても潤い、後世ポルトガル人が布教のために渡来する。薩摩藩の重要港となるなど、最先端の文化をいち早く摂取し、大いに栄えた。 倭寇図 中国の沿岸を倭寇が襲撃している。海上では相手の船に綱をかけて引き寄せ、乗り込もうとしてるのだろうか。右手の海岸では上陸した倭寇が地元民と戦っている。激しい倭寇の略奪は、中国や朝鮮などの諸国にとっては恐怖であり、厄介な存在だったことだろう。このため、わが国に倭寇の取り締まりを要請し、南島の喜界島へもその通達が来たのだろう。 上は倭寇が遠征した地域。倭寇は中国が賊に対して呼んだ名称で、正常に貿易出来る際は貿易した。ただし、相手が貿易を拒んだ場合は襲って略奪した。朝鮮や中国の貧しい民が食うに困って「倭寇」を名乗り、自国の沿岸民から略奪することもあったようだ。また明が海禁(鎖国)政策を採ると、貿易が出来なくなった倭寇は狂暴化して行く。 そのような意味で、前記と後期とでは倭寇の行動が大きく変容する。倭寇とは別に公貿易を行う商人も存在し、さらに琉球王朝の貿易ルートとも重なっていたため、倭寇の実態は一層不鮮明なものだった。 倭寇のイメージ 倭寇の基地と称するものが九州一円に数多くある。五島列島は朝鮮半島や中国大陸に向かうには好都合だった。沖縄本島東海岸にも倭寇の基地と伝わる地区があり、日本風の言葉や氏名が多いのはそのせいとする説がある。また第二琉球王朝の始祖となった尚円(しょうえん=金丸)の父親は倭寇だったとか、宮古島には倭寇の基地があったとの説が存在する。 ヤンバル船(マーラン船) 琉球の近海用の船が上のヤンバル(山原)船。マーランは中国風の呼び名だろう。この船で沖縄本島北部地方から材木や薪を那覇に運んでいた。また沖縄には源氏の頭領が王の先祖になったとか、平家の落ち武者が流れ着いたとかの伝説が多く、竹富島の赤崎(平家の旗は赤)集落には「自分たちは平家の末」と書かれていた。きっと今でも祖先を誇りに思っているのだと思われる。 琉球王朝の進貢船 中国の冊封体制下にあった琉球王朝は、定期的に中国へ進貢船を送り、中国からは冊封使船がやって来た。中国にとって貴重な「硫黄」や夜光貝の螺鈿(らでん)細工、日本の刀や蒔絵、朝鮮の南画などは琉球がもたらした。資源の乏しい琉球にとって他国から得た品も貴重な貿易品で、いわゆるバーター貿易だったのだ。 首里城守礼門 こうして最盛期には遠くはシャム(タイ)バタビア(インドネシア)まで出かけた。ただし船は中国が建造してくれ、通訳も世界情勢に通じた中国人が乗り込んだ。琉球王朝栄光の日々。薩摩は貿易の巨利に目を付け、17世紀初頭琉球を侵略。武器の無い琉球は鉄砲を持つ島津にわずか3日間で占領されて服従し、かつて奪った奄美諸島を島津に返還する。この体制が明治後期の「琉球処分」まで続き、中国(明及び清)は琉球が中国と島津に両属していたことを知らないまま。それが中国の誤解に繋がった。<続く>
2021.05.21
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~神話から歴史へ~ 神功皇后「三韓統合図」 第14代仲哀天皇の后である神功(じんぐう)皇后は熊襲征伐が先だとする夫を残して身重の身で朝鮮半島に渡り、三韓を征伐した後帰国して後の第15代天皇となる応神を産んだとされる伝説上の女性。対馬には彼女が朝鮮の前に対馬に立ち寄ったとする伝説が残されている。 岩戸山古墳の石人・石馬 継体天皇21年(527年)、朝鮮半島南部へ進撃しようとしていたヤマト王権軍を阻止しようとして筑紫君磐井が反乱を起こした。いわゆる「磐井の乱」だが、物部氏によって成敗される。彼が埋葬されたとされる岩戸山古墳は長径170mで北部九州最大の前方後円墳。墓には独特の石人や石馬が供えられた。一説によれば磐井は新羅と結託し、王権軍に対抗したと言われる。 古代朝鮮半島の政治体制 天智天皇2年(663年)。新羅(しらぎ赤色)は高句麗(こうくり茶色)を倒すため唐(グレー)と結託して、まず百済(くだら青色)を滅ぼしにかかった。当時任那(みまな薄緑)に拠点を置いていた日本(倭=薄紫)は百済の援軍要請に応えて征夷大将軍の阿倍比羅夫を援軍として送ったが、百済の白江河口で唐・新羅連合軍と戦いわずか2日間で敗戦。任那も新羅に奪われ、日本は半島の拠点を失った。 その経緯について刻した好太王碑文を唐は高句麗(現在の北朝鮮)に建てた。碑文には「倭」の文字が十数か所刻されているが、後に朝鮮人によって字を消されるが、拓本が中国に残ってたため今も判読が可能だ。勝利した新羅は朝鮮半島を統一し、滅んだ高句麗の故地には渤海(ぼっかい)国が興り、わが国と親交を結んだ。 大宰府政庁(復元) 唐の日本への襲来を怖れた天智天皇は都を難波から近江へ遷都し、大宰府を強化、水城(みずき)を構築して防備を固め、逃げ城としての大野城を背後に設け、九州北部に全国から防人(さきもり)を派遣した。また瀬戸内海から難波に到る地域に逃げ城を設け、対馬には金田城(こんたのき)を置いた。その後、航路が不安定などの理由で、遣唐使が中止された。日本が初めて迎えた国際状況緊迫化時代だった。 日本書紀 史書に南島のことが出て来るのは奈良時代に編纂された「日本書紀」が初見だが、多彌(たね=種子島)、夜久(やく=屋久島)、海見、阿麻美、奄美(あまみ=奄美大島)、貴駕(きか=喜界島)阿児奈波(あじなは=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、信覚(しかく=石垣島)などの名称が散見できる。朝貢と言うよりは舟が難破して漂着し、都に連行されたのではないか。ただし、種子島には、同島と屋久島を領地とする「国府」が一時期置かれたことがある。九州本土に近かったため、早めに律令体制に組み込まれたのだろう。また中国の史書である「隋書」に琉球の名も見え始める。 喜界島城久遺跡 面白いのが喜界島。奄美諸島でもっとも東北部に在り、薩摩、大隅に近い。そのせいか、どうも比較的早い時期から大宰府の下部組織として機能していた形跡が窺われる。後に「倭寇」が九州北部を荒らし回った際、南島の南蛮人を取り締まるよう喜界島にも通達が来たことが史書に載っているようだ。 <夜光貝> <螺鈿細工の柱> <平泉金色堂内部> さて、縄文時代から古墳時代まで日本列島の住民に珍重された、南方のイモガイ、ゴホウラ貝、スイジガイ(水字貝)はその後装飾の趣向が変わったのか、他の素材が出現したためか、需要がなくなった。それに代わって内地に運ばれたのが一番左側の夜光貝だ。これは螺鈿(中央)の素材となり、匙(さじ)や酒盃に加工された。螺鈿細工で有名なのが奥州藤原氏が建てた金色堂内部のもので、豪華絢爛そのもの。 こうしてやがて沖縄の島々まで次第に日本の貿易体制に組み込まれて行く。他にも言語や宗教、独自の歴史と文化交流について述べたいのだが、今回はこれまでにしたい。ご愛読に感謝しつつ。<続く>
2021.05.20
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~移動と定住と交流について~ <旧石器時代人> <縄文人> <弥生人> 日本人の祖先となった人たちの顏だ。旧石器時代の人で頭蓋骨が見つかっているのは沖縄県だけだから、これはその骨から復元したのだろう。それは縄文人も弥生人も一緒。縄文人は旧石器時代人の風貌ととても良く似ている。 これに対して弥生人は顔が長くて鼻は低く、瞼は一重で体毛が薄くて明らかに先の二人とは異なる。日本列島へは一番遅く中国大陸や朝鮮半島経由でやって来た人種。これらの特徴は北方系であることの証明。眉毛やまつ毛などが凍傷にかからないよう薄く、鼻は取り込んだ冷たい空気を温めてから肺に送るため、副鼻腔が広がり顔が扁平になる。彫りの深い顔立ちの前二者とは明らかに異なる。 縄文人と弥生人は徐々に婚姻関係を強めて行く。稲作が盛んだった九州北部から西日本一帯の混血が進んだのに対して、縁辺部の北日本、九州南部、南西諸島では両者の混血が遅れたために、縄文人の特徴を残した人が多かったのだろう。より一層混血が進んだ現代日本人のDNAは、両者の特徴を未だに保有している。 北谷伊礼原遺跡出土土器 沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)にある伊礼原(いれいばる)遺跡は縄文早期(約7千年前)から縄文晩期までの複合遺跡で、国の史跡に指定されている。なお、沖縄の歴史は日本の時代区分と呼び名が異なり、「縄文時代」に当たる「貝塚時代が」、日本の平安時代辺りまで続いている。 左は熊本の曽畑式(そばたしき)土器で、右は鹿児島の市来式(いちぎしき)土器で、いずれも沖縄県内の遺跡から出土した縄文土器。熊本や鹿児島の人が沖縄に住んだのではなく、移動した人が持参したものだろう。なお、宮古島以西の先島、八重山地方からは弥生式土器が出土している。そこまで九州人が移動した理由がきっとあるに違いない。 左からイモ貝、ゴホウラ貝。これらは南西諸島の海で採れる貝。そして一番右はそららの貝で作った釧(くしろ=腕輪)。日本では縄文時代から古墳時代辺りまでこの貝の腕輪が装飾品として珍重された。そのため後に「貝の道」と呼ばれる洋上のルートが存在した。当然何(十、百)人もの人が丸木舟を「漕ぎ継いで」南方の島々に土器を運び、その代わりに南島の貝を入手したと考えられる。そして苦労して得た南海の貝は、他の地方へとさらに分布したはずだ。黒曜石の採取もそうだが、驚くべき航海術と忍耐力だ。 さて上の縄文土器が発見された場所が朝鮮半島と聞いたら、皆さんはどう思うだろう。縄文時代から半島と日本列島との交流があったと考える人もいるだろう。だが私はそうは考えなかった。南島の貝のように交換するものがあれば別だが、その時代に朝鮮半島から日本に持ち帰ったと考えられる物はない。 さて前に書いたように、隠岐の島産の黒曜石がロシアのウラジオストック周辺から発掘されていることを考え合わせると、多分当時の縄文人は彼の地に定住していたように思える。理由は朝鮮史の中で約5千年間ほど空白の期間があると聞く。縄文人が朝鮮半島の各地にいたことを歴史書に記すことが出来なかったのだろう。また百済国の域内からは「前方後円墳」が10基以上発見されているが、韓国人はそれを不都合と考え、重機で幾つかの墓の形を変えてしまった。日本起源のものが朝鮮半島にあっては不都合なのだろう。歴史の捏造は、彼らのもっとも得意分野だ。 しかしなぜ縄文人は朝鮮半島や極東ロシア周辺にまで行ったのか。1)当時は国境がなかったから。2)食料を求めて。でも食料は十分あったはず。日本は四方を海に囲まれ、魚介の入手は容易。それに栗やトチの実、山野の動物も少なくはなかったし、数種の穀物などの栽培も既に行われていて、朝鮮半島へ渡る理由にはならなかったと思われるのだ。 ほかに考えられる理由は、鬼界カルデラ、姶良カルデラの巨大爆発や、阿蘇山、雲仙岳、桜島、霧島山などの相次ぐ噴火で絶滅の危険を感じた九州の縄文人が朝鮮半島に逃げたと考えるのはどうか。そんなことを言う人はいないし学説もないが、ど素人の空想と笑わば笑え。しかし、「明石原人」や「葛生原人」はその後、一体どうなったのか。マックス爺の苦悩と妄想はさらに続くのであった。<続く>
2021.05.19
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~日本人と稲が来た道~ 字が薄くて良く見えないが、人間の祖先がアフリカで出現した後地球上にどう拡散したかが上の図。薄い矢印は現生人種の「ホモサピエンス」。すると濃い矢印は「原人」かも知れない。ジャワ原人や、北京原人が良く知れらている。やはり日本列島へのルートが幾つかある。そして日本列島に現生人類が来た年代は「4万年前」のようだ。 デニソワ人 ネアンデルタール人 左はデニソア人で右はネアンデルタール人。彼らは現生人類が出現する前に滅び、主にヨーロッパで暮らして後者が前者を絶滅したと考えられて来た。ところが両者には婚姻関係が認められ、その後ユーラシア大陸を移動したと考えられるようになった。そしてわが日本人の遺伝子の中にも、彼らの遺伝子がごくわずかだが残っている由。彼らと婚姻関係があった遠い先祖が、日本列島へやって来たのだろう。 さて、中央アジアの民族の伝承には、我々の祖先のうち魚が好きな者は東に向かって日本人となり、肉が好きな者はここに留まってカザックになったと言うのがある。さてデニソワ人の中にはヨーロッパからスンダランドに来た者もいたみたいで、ミクロネシアなどの人々に金髪の人がいるのは、デニソワ人の遺伝子が残るためとも言われるようだ。 現代人のDNAに関する模式図。太い実線であればあるほど近い関係であることがわかる。それによれば本土日本人と中国人。琉球人とアイヌの遺伝的な関係性は少ないと考えられているようだ。 これは遺骨(先祖)のDNAによる関連性。左上の東北の縄文人は、東北の弥生人とDNA的には離れている。つまり婚姻関係が乏しく混血は少ない。現代日本人は渡来系弥生人とDNAの特徴が似ているが、現代韓国人や現代中国人とは似ていない。 少し見難いが、図を見てみよう。長江(揚子江)中流域で起こったイネが西の「熱帯半月板)に向かっている。中国山東半島周辺で起こった稲は「温帯ジャポニカ」(中国の河姆渡遺跡で発見され、種の起源とされた)は、直接日本列島にむかっている。一部は朝鮮半島や済州島に近づき「カーブ」している。かつて日本の米は朝鮮半島経由でもたらされたとされたが、今では否定されむしろ日本から半島に向かったとの説もある。 一番下に南西諸島経由での本列島に向かう矢印がある。柳田国男の「海上の道論」に近いと考えられ、熱帯ジャポニカと注記されている。どうも私たちが現在食べている品種とは異なるみたいだ。 左上は水稲の2種。左側のインディカ種は長粒米(ちょうりゅうまい)で、インドやタイで多く作られている。その右のジャポニカ種は粒が短い短粒米だが国内で生産しているのは温帯性のもの。右の茶碗よそってあるのは古代米。「古代米」には「赤米」、「黒米」、「青米」などがあるがいずれも商品名であり、正確な品種ではない。以上は全てさらさらした食感の粳米(うるちまい)で、もちもちした食感の餅米とは異なる品種だ。 傾斜地での陸稲栽培(タイ) 粟(アワ) 稗(ヒエ) さて左上はタイの陸稲。陸稲とは水田ではなく畑で育てる稲のこと。水田耕作にはそれなりの環境が必要だ。ところが山地では平らな場所が乏しく水利も不便。そこで斜面の畑に種を蒔き、天然水の雨に頼る。もしも痩せた土地なら、焼き畑で林を燃やし灰を肥料代わりにする。日本の稲作は長らく弥生時代からとされて来たが、今では縄文時代から行われたとする説が出ている。当然焼き畑が考えられ、陸稲のほかにアワやヒエの栽培もあっただろう。東北では栗や漆、エゴマ、苧麻(カラムシ、ちょま=衣服の原料)の栽培例も見られる。 土井が浜遺跡人の復元図 さて、稲作が縄文時代に遡ると共に、押し出される形で弥生時代の開始が千年から1500年ほど遡ると考えられるようようになった。戦後からさほど経っていない昭和28年(1953年)九州大学医学部の金関教授が、山口県の土井が浜遺跡から弥生人骨を発掘した。発掘調査はその後も続き、全部で300体ほど発見された。遺体は全て頭を西に向けていたと聞く。 きっと彼らは籾を携えて西から来たのだろう。響灘さらに玄界灘の彼方には彼らが出発した中国の山東半島がある。籾を持った移住者たちは日本の稲作文化隆盛に貢献した。彼らは死に際して故郷を向いて葬るよう懇願したのではないのか。さて、後来の弥生人は先住民である縄文人とどう「折り合い」をつけたのだろう。 稲を刈る神官 西日本から東北の縄文土器が発見されるのは、東北の縄文人がわざわざ稲作を教わりに来た証拠との説も聞いたが、事実はどうなのだろう。稲作地帯の前進と異民族との結婚は、日本神話の「国譲り」や「神武東征」を私は思い浮かべるのだが。<続く>
2021.05.18
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~日本人はどこから来たか~ 柳田國男 昭和27年雑誌「心」に、後に「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田國男が「海上の道」と題する論文を載せた。東京帝国大学の学生だった頃、愛知県の伊良湖崎の海岸に流れ着いた椰子の実を観て受けた、日本人は黒潮に乗って南から米を携えてやって来たとの「素朴な空想」からのものだった。そのイメージがやがて小学唱歌「やしの実」になったと言う。 柳田國男の著書 「海上の道」は研究者たちから猛烈な批判を受けた。それは当然だ。考古学、日本古代史、言語学、宗教学、文化人類学などの観点からの考察がないのだから。その後研究と考察を重ね、かなり緻密な論考を発表し、彼の全集にも収載された。彼の論考は大筋では間違っていないが、十分とは言えない。そして彼の主張は関連分野研究の進展によって、補足されて行く。学問とはそういうものだ。 古生物が辿った道 上は氷河時代の日本列島のイメージ図。ナウマンゾウやアケボノゾウ、イリオモテヤマネコ、アマミノクロウサギ、ツシマヤマネコなどが、当時は大陸とつながっていた樺太や朝鮮半島、現在の中国方面から直接、そして一時期つながっていた西南諸島を通じて「日本」へやって来た。当時の日本海は大きな湖のようで、津軽海峡がわずかに開いていた。日本人の祖先もそれらの獲物を追って「日本列島」へ遅れてやって来たのだろう。もうその時は大陸から切り離されていたかも知れない。 最古の人骨 これは沖縄県石垣市の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した人骨。2016年までの研究で、2万7千年前の旧石器時代のものと判明。国内最古の人骨で、身長は165cm。全部で19体が「埋葬」されていた。この時代のまとまった人骨としては世界最多。DNA分析で、インドネシア人と近い特徴を持つことが分かっている。この遺跡は新石垣空港の造成工事中に発見され、今も滑走路の下にある。 上は那覇市にある山下町第一洞穴とそこから出た人骨で、洞穴そのものは3万6千年前の遺跡と言われる。また南城市の港川フィッシャー遺跡からも人骨が出ている。沖縄県で古い人骨が発見される理由は、石灰岩地質で骨が融けずに残るからで、日本列島は火山灰の酸性度が高いため、骨が融けて残らないのだ。私は沖縄勤務当時山下洞穴を訪れた。昨年30年ぶりに行ったが、開発され昔の雰囲気がすっかり消えていた。 奄美大島 そのほかの古い遺跡としては鹿児島県奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡が2万5千円前のもの。徳之島の天城遺跡は3万年前のもの。沖縄県南城市のサキワタリ洞遺跡からは2万1千年前~1万3千年前の釣り針が発掘されており、これは世界最古の釣り針だそうだ。旧石器時代の古い遺跡が南西諸島に集中していることに驚く。 こうして見ると藤村新一が起こした「偽石器事件」は酷かった。彼は北海道で「偽石器」を予め土に埋めているのを毎日新聞の記者に目撃され、それまでの「成果」が嘘だったことがバレた。15万年前、20万年前、30万年前と遡り、最後は60年前の石器発見と発表。彼の「発掘」を信じて「市町村史」を出版した自治体は数知れない。宮城県内の「馬場壇遺跡」や「座散乱木遺跡」の名を今もまだ覚えている。あの事件で、日本の旧石器時代研究はすっかり狂った。きっと30年間以上の空白だろう。 磨製石斧 これは双刃石斧(そうじんせきふ)と呼ばれ、刃は裏表で使用され、さらに磨製(ませい)であるため、切れ味は鋭い。5千年前のもので、東南アジア、中国沿岸部、沖縄から南九州まで同じ形のものが出土している。これは生木を伐るのに使用する。用途は家の木材や丸木舟とするための伐り出しだ。木の「柄」にこの石斧を縛って固定し、木を切り倒した。 左上は「丸ノミ形石斧」と呼ばれる石斧で、インドネシア、西南諸島から日本列島、東京の新宿の縄文遺跡からも出土したのを知っていた。右上は今回知った「桁ノ原型石斧」(けたのはらがたせきふ)と呼ばれ、長崎県の五島列島から沖縄本島にかけて出土している。どちらも用途は材木を刳り抜くためで、内側がカーブしている。それで丸太を刳り抜いて丸木舟を作った。 丸木舟は海を渡るために必要だった。なぜ縄文人たちが海を渡ったか。危険を冒してまで欲しい物の筆頭が左下の黒曜石(こくようせき)。火山性でガラスのように鋭利。それを打ち欠き、右の鏃(やじり)や槍の穂先を作った。 五島列島から出土の黒曜石は、佐賀県の腰岳(こしだけ)産。関東出土の物は伊豆七島の神津島産。青森の三内丸山遺跡の物は、北海道旭川付近の産。そしてロシアウラジオストック出土の物は、日本の隠岐の島産。いずれも丸木舟を漕ぎ、海を渡ったのだろう。人間は30kmの間に見えるものがないと不安を抱くらしい。だから縄文人たちは必死だったと思う。<続く>
2021.05.17
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~さよなら出雲~ ひょんなことから実現した今回のgoto出雲への旅だったが、収穫は十分にあった。2つの博物館を訪れて、本物の発掘物を観たこと。膨大な勾玉、銅剣、銅矛、銅鐸、古代の装飾太刀などだ。出雲大社の境内から発掘された巨大な宇豆柱と心御柱の「残骸」。小さな古墳へも行ったし、長年心の奥底でくすぶっていた北島国造家にも訪れて、古代出雲の謎を解くヒントを得た気にもなった。 旅先で関裕二著「出雲大社の暗号」(講談社文庫)と、偶然出会ったことも嬉しい出来事だった。博物館の売店で手にし、パラパラと目次をめくって、これは是非買って読まなくちゃと直感。出雲から松江への車中で読み始め、あまりの面白さに松江で降りるのを忘れたほどだった。私が古代出雲に対して抱いていた疑問の大半が、この本を手掛かりにして解け始めたように思うのだ。 <唐古・鍵遺跡復元楼閣> <纏向遺跡> 著者は著書の中で、奈良県の唐古・鍵遺跡や纏向遺跡についても触れている。当然邪馬台国とヤマト王権との関係や古代出雲との関係に関する考察もあるが、ここでは触れない。いずれにせよ古代出雲王国がいかにしてヤマト政権に組み込まれて行くのかが、キーだ。私はyoutubeで、古代出雲王国が「越」の植民地だったという説や、日本海など当時の海運を巡る覇権争いがあったことも知った。 古代出雲の兵士 しかしと私は思う。それでも古代出雲において「倭国大乱」のような争いは起きなかったのではないかと。理由は簡単だ。それだけ大きな戦闘があれば、大量の人骨が発掘されてもおかしくないからだ。それとも、大勢の兵士の死体が全て土に埋もれて融けたとでも言うのか。縄文から弥生への移行に際しても、大きな争いで大量の死者が出たことの証明はまだされていないと思う。 それにしても疑問なのは、「古代出雲歴史博物館」において、なぜ「四隅突出型墳丘墓」の見本や説明をしないのか。あれは古代出雲の特徴の一つなのに。なぜ出雲大社を司祭した二つの国造家に対する説明がないのか。ひょっとして遠慮なのか、それともタブーなのか。やはりその疑問へも応える必要があるように思う。博物館は大社のすぐ傍に位置しているのだから、そして荒神谷と加茂岩倉両遺跡から出土した大量の青銅器の謎の解明は、今後の研究の進捗を待ちたい。 もう一つの謎が出雲人気質。昨年のツアーで出雲大社の境内を案内してくれた現地ガイドの女性の何と気難しいこと。私の8番目と11番目の職場の上司も出雲の人だったが、とても気難しくて付き合いにくかった。恐らくは出雲の風土に根差したもののように思う。そしてこれは私の直感なのだが、出雲国府が置かれた松江付近の人はおっとりした性格なのに、出雲市付近の気質がセカセカしてるのは、出雲大社を有する優越感と同時に、古代から疎外されたための陰鬱さが交錯しているせいかも知れないと。 宍道湖に浮かぶ嫁島 旅の最終日、松江から空港へ向かうバスの車窓から「嫁島」が見えた。宍道湖に浮かぶとても小さな島だ。実は40年ほど前に島根へ出張した際に玉造温泉に一泊し、冬の早朝松江まで走って往復したことがあった。2月の湖は凍り付き、白鳥が片足で立って眠っていた。その白鳥と夜明け前の嫁島の姿が忘れられない。再び島を観たが、もう一度出雲へ来ることはないはず。合計21回プラス3回書いた古代出雲シリーズを、感謝して終えたい。ありがとう、遥かなるわが出雲よ。<完>
2020.08.28
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~神の戦い人の戦い~ 記紀には倭建(日本武尊=左)が出雲建(大国主命=右)をだまし討ちにしたことが記されている。九州の熊襲を倒して大和に帰る途中出雲に立ち寄った日本武尊は親睦の証として互いの剣を交換しようと提案。大国主命は了解して自分の鉄剣を差し出した。ところが武尊が差し出したのは木剣。簡単に大国主命を倒した武尊は意気揚々と大和へ引き上げた。神話だが、日本武尊は天皇の皇子であり、彼の子もまた天皇とされている。 朝廷の使いが、出雲の神宝を検分に来たことが記されている。この時も騙されて神宝を奪われてしまった。出雲国造家の祝詞には、密かにこの時の恨み言が込められていると言う。三種の神器は太刀(鉄剣)、鏡、そして勾玉だ。出雲は北部九州を通じて朝鮮半島とも交流があり、鉄も容易に入手出来た。鏡は三角縁神獣鏡が出土したくらいだし、勾玉は玉造製造の適地があった。 第24代継体天皇は越前国敦賀の出身。第15代応神天皇の5代孫とされ、朝廷の血が途絶えそうになり急遽都に招かれた。后は琵琶湖一帯を制する息長(おきなが)氏の出で、古代豪族の尾張氏とも縁があった。越前も琵琶湖も尾張も水運で栄えた地。古代出雲は越前を含む「越」の国の支配下にあったとの説がある。古代の越前は日本海の海運により、各地の豪族と協力関係にあり、出雲はやがてその植民地となったとの説がある。 大国主命には温和な和御霊(にぎみたま)と破壊につながる荒御霊(あらみたま)の両面があった。明日香、藤原宮、纏向王朝期は大神(おおみわ)神社の祭神として都を守り、平城京に遷都してからは現奈良市に摂社を移して都を守った。だが荒御霊が垂仁天皇の皇子に祟り、皇子は成人しても口が利けなかった。出雲大社に使いを出して、大国主命を祀った結果、口が利けるようになった由。 貴族政治代表格の藤原氏は中臣鎌足が祖。「乙巳の変」(大化の改新)の功で藤原姓を賜り、急速に力をつけた。その子不比等には4人の男子があり。それぞれ「藤原四家」の祖となった。ところが天平4年(737年)の疫病(疱瘡)で、4人全員が病死した。藤原氏は慌てて出雲大社参じ、出雲に大神殿の建設を約束したのか。なお、平安中期の道長は北家の末裔。「この世をばわが世とぞ思う望月の」の作者だ。 天平の疫病は疱瘡(ほうそう)で、朝鮮半島から対馬を経由し、北九州から上陸して全国へ流行した由。天平7年から9年までの3年間で、当時の人口の25%から30%に当たる100万人から150万人が死亡したようだ。医学も十分になかった時代の恐怖は現代の「新型コロナ」にも匹敵したことだろう。疫病を畏れた人々が神仏の加護を祈った気持ちが良く分かる。「呪い」は安倍晴明の出番を作った。 出雲大社の奥に鎮座しているのが素鵞(そが)社。かつて中臣鎌足が絶滅させた蘇我氏を祀るもの。そして出雲大社司祭の北島国造家の境内に鎮座するのが天神社(右)。これも藤原氏の讒言により太宰府で死んだ菅原道真公の鎮魂のための社だ。道真の怨念が紫宸殿への落雷となり死者を出したことに慄(おのの)き、北野天満宮の造営と官位の復位などによって、天変地異が治まったのだった。 京都府亀岡市の出雲大神宮(左)とその磐座(いわくら=右)は丹波国一之宮だが、明治に入るとご祭神の大国主命を出雲に移される。明治新政府は廃仏毀釈を進めるだけでなく、架空の天皇である神武のために橿原神宮を創建した。また神社の格式や名称を整理、それまで原始神道だった沖縄の社にも鳥居を建てさせた。全ての神社が神祇省の下に管理される、いわゆる国家神道の始まりだった。 <出雲大社の摂社 日御碕神社の鳥居> この沖合に海中遺跡がある。 大急ぎで古代出雲の謎を追及して来たが、まだまだ意は尽くしていない。昨年の山陰旅行で「島根県立古代出雲歴史博物館」の存在を知った。今年はそこを訪ね念願の常設展示を見た。また、謎解きのヒントとなる1冊の本と出会った。いずれも偶然だが必然でもある。不思議なことに古代史や考古学の疑問を長年抱き続けていると、突然それが解けることがあるのだ。だから面白い。きっと人生も同じなのだろう。 「神が戦い人も戦った古代出雲への旅」。そんな大仰なタイトルを付けたこのシリーズも、とうとうゴールが見えて来たようだ。いつも退屈な文章に付き合ってくれた読者に心から感謝している。<続く>
2020.08.26
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~2つの遺跡からの出土物~ 加茂岩倉遺跡における銅鐸の埋納状況再現レプリカ。こんな風に銅鐸は同じ方向に向かって並べられ、横たわっていました。青銅の銅鐸も新たに鋳造すると、こんな風に金色に輝いて見えるのです。神秘性が増しますね。 これは実際に埋められていた際の映像。土にまみれて汚れ、銅鐸の神秘性はほとんど感じられません。 発掘され、ある程度汚れを落として並べられた銅鐸群。最下列の2基は「入れ子」状態で発見されました。 「入れ子」状態が分かるよう、半透明のプラスチック(外側)の銅鐸を通じて中の銅鐸(土色をした一回り小さなもの)が見えますね。 どちらの銅鐸にも上部に小さな穴が2つずつ開けられています。ひょっとしたら細長いひものようなものを通して、銅鐸を持ち運んだのでしょうか。田植えや稲刈りなどの行事の際に田んぼの傍まで運んで銅鐸を鳴らし、神に感謝したのかも知れません。銅鐸には動物や舟、建物などの絵が描かれているものもあります。 荒神谷遺跡の直ぐ傍からは、銅鐸と一緒に数本の銅矛や銅剣も出土しました。 加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸(全て国宝)の背後に、荒神谷遺跡から出土した銅剣、銅矛(全て国宝)が見えます。 同一の遺跡から358本もの銅矛と銅剣が出土したのは日本最多です。全て国宝に指定されています。左上段の光り輝いて見える銅剣は、展示用に新たに鋳造したレプリカです。 青銅器の一部でしょうか。破壊されたのか、それとも本体から偶然外れたのかは分かりません。なんだか分からないまま、心惹かれるものがあってシャッターを切りました。これで「島根県立古代出雲歴史博物館」で撮影した写真は全て紹介したことになります。地味な内容に良くお付き合いいただいたことに深く感謝します。<続く>
2020.08.25
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~銅鐸三昧 その1~ さて、古代出雲への回帰旅もそろそろ終わりに近づいて来た。今日と明日の2回で、「島根県立古代出雲博物館」常設展のメインであった、加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から発掘された膨大な青銅器を載せたいと思う。写真が中心なので詳細な説明は出来ないため、ご面倒でも過去の掲載分を参照されたい。 館内にこんな説明文があったので載せておく。古代中国で発祥し、朝鮮半島経由でわが国に伝えられた青銅文化。しかし私たちの先祖である弥生人が選んだ青銅器は、銅剣、銅矛、銅鐸、銅鏡などに限られている。しかも鉄器の渡来に伴って銅剣や銅矛はやがて姿を消して行く。本来は大型の楽器だった銅鐸も、わが国では小型化し水稲栽培における祭器と化して行った。 俗に言う、銅矛、銅剣、銅鐸の文化圏を図示したもの。だが上の図を良く見ると、そのいずれもの文化を有した唯一の地が古代出雲だったことが分かる。それだけも出雲の特殊性が理解出来るが、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣、銅矛、銅鐸の数量が半端ではなかった。さらにそれらの大量の祭器が人里離れた山奥にひっそりと埋納されていた。そしてその理由は未だ解明されていない。謎のままなのだ。 これは銅鐸が出土した出雲地方の遺跡。1が日本で最大数の銅鐸が発掘された、加茂岩倉遺跡。2が大量の銅剣、銅矛と共に銅鐸が出土した荒神谷遺跡。いずれも出雲大社にほど近く、かつ吉備(現在の岡山県)王国に通じる古道の途中に位置している。 常設展示の一角に加茂岩倉遺跡出土の「国宝銅鐸」のコーナーがあった。以下に私が撮った写真を載せるが、他の遺跡出土の銅鐸が間違って載ってないことを祈る。なお、ここには理解を助けるため、銅鐸のレプリカや埋蔵状態を再現するセットも混じっていることをお断りする。 これほど身近に銅鐸を見たのは初めてだった。ただし文様の細部が明確に分からないのが残念だが。 はっきりとは分からないが、何かの絵が描かれているのは確かだ。 銅鐸の内側。中につり下がって銅鐸に触れて音を出すための「舌」(ぜつ)は見えない。古代中国の銅鐸は巨大な楽器だが、日本ではいわば「風鈴」のように、稲作に関わる神事の際に鳴らしたようだ。 わざわざ破壊したように見える銅鐸。銅鐸の祭器としての用い方が変わったのか。それとも他の豪族に渡したくなかったのか。人為的な破壊の理由が謎だ。 その一方で、美しく整ったままの銅鐸も多い。やはり神聖な銅鐸を破壊した理由が謎だ。<続く>
2020.08.24
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~あの日出雲で何が起きていたのか~ 私は今、この本を読みながらこのシリーズを書いている。関裕二著「出雲大社の暗号」講談社文庫。その帯には「あの日、出雲に何が起きていたのか」とある。一体「あの日」とは何を指すのだろう。ヤマト王権の使いに「出雲の神宝」を騙し取られた日か、それとも出雲がヤマトに国を譲った日か、いやそうではなくヤマトタケルに代表されるヤマトの精鋭に大国主命が暗殺された日だろうか。 一見穏やかに国譲りした代償としての杵築大社(後の出雲大社)。だが境内から出土した鎌倉時代の超巨大な宇豆柱と心御柱。そんな時代になってもなお、朝廷が出雲の神を畏れた理由はなんだったのだろう。そして出雲の神は一体何が悔しくて後世まで朝廷を苦しめたのだろう。原因はやはり出雲の神宝を盗み取られた怒りだろう。それがヤマト朝廷の「三種の神器」になったとすればなおさらだ。 同書で著者は出雲神の祟りの第一は疫病だと言う。使いを遣わした隋や唐、そして半島に渡って戦った新羅からなど、何度か疱瘡(ほうそう)がわが国に入って蔓延し、多くの死者を出した。出雲が古来「根の国」(あの世)とされたが理由もそこにあったのかも知れない。もう一つは第10代垂仁天皇の皇子が成人しても口がきけなかったこと。それらを朝廷では出雲神の祟りと考えて使者を遣わして許しを乞うた。 思い起こしてほしい。大黒天は元々ヒンズー教の暗黒神。破壊の神だった。自分を裏切ったヤマトを恨み、神意を示したのだ。その猛威にヤマトは驚き、他に類例がない巨大な神殿を出雲に建立した。それも数度に渡ってだ。そして朝廷から勅使が遣わされる有数の大社となった。それでようやく大国主命の「荒御霊」(あらみたま)が鎮まったのだろう。 上右図は有名な京都祇園祭の山鉾である。これは平安時代の貞観年間に京都で疫病が蔓延し、多くの死者が出たため犠牲者の霊を祀るために始まったとされる。祭りを主催する八坂神社(祇園社)の祭神が牛頭天王。山鉾もこの牛頭天王もヒンズー教縁のもの。そして牛頭天王は神仏混交でスサノオノミコトとの関係が取り沙汰されている。 ここでも疫病、出雲の祟りが登場する。出雲は神が集まり、先進地区との交流で疫病も入って来た。また凄まじい出雲神のパワーは、怖い疫病すら鎮めると信じられた。そしてヤマト政権が出雲に大きな神殿を建てて敬うと、疫病はようやく退散したのだ。こうして大国主命そして出雲神の持つ温和さと凶暴性の両面が国全体に再認識されて行ったのだろう。 因幡の白兎 話の続きはまだあるのだが、先を急ごう。「島根県立古代出雲歴史博物館」を去るに際して、売店で一冊の本を買った。冒頭のものだ。その後北島国造家を訪ね、出雲市駅から第2日目の宿泊地である松江にJRで向かった。ところがこの本が面白過ぎて、何と気づいた時は「東松江」だった。てっきりその次が松江駅だと思っていたのだが、いつになっても松江駅のコールはなく慌てて途中駅で降り松江に帰って来た。 ヤマタノオロチ この本は旅から帰宅後の今も読み続けている。出雲王国とヤマト王権との関係など、著者の長年の研究に基づく知見が方々に散りばめられ、実に読み応えがあって面白い。古代史や考古学の学者ではない市井の市民が、よくもこれだけ丹念に「証拠集め」をしたものだ。必要があれば、この続きを改めて書くことにしたい。それにしても古代出雲は謎だらけで面白い。しかし真実の日本史とは何なのだろう。<続く>
2020.08.22
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~出雲神話を考える~ 出雲国風土記 元明天皇によって編纂を命じられた記紀(古事記と日本書紀)だが、その一環として各国に対して「風土記」の提出が命じられた。出雲国においては出雲国造広島が監修に携わり、和銅6年(713年)~天平5年(733年)の20年間をかけて上下2冊にまとめられて提出された。他国の風土記に対して数倍の詳細さであり、記紀にはない出雲独自の神話が豊富に収載されている。以下に私見などを述べたい。 根堅洲国(あの世)に須佐之男命(スサノオノミコト)を訪ねた大国主命はスサノオから色んな試練を受ける。その苦難を救ったのがスサノオの娘であるスセリビメ(上)。姫が大国主の正妻となる。さてスサオノオは天津神の代表格で、一方の大国主命は在来の国津神の代表。ところが記紀ではオオクニヌシをスサオノの6世の孫としたり、7世の孫とする説がある。日本書紀では息子との説もある。 国津神が天津神の子である訳がない。また6世や7世の孫が、6世代前7世代も前の女性と結婚出来るわけがない。天皇家と在来の出雲族を無理に関係づけた矛盾が出たのだろう。 次に大国主命の2人の妃を紹介しよう。左はヤガミヒメ。出雲の隣国因幡国(鳥取県)八上郡の豪族の娘で美女の誉れが高かった。因幡の白兎伝説では、6人もの兄がウサギに悪いことを教えて通り過ぎた。大国主命は怪我をした白兎に治療法を教えたため、白兎が知恵を授けてたためにヤガミヒメを得ることが出来た。 右はヌナカワヒメで、越後国(新潟県)糸魚川市の豪族の娘のようだ。糸魚川を流れる姫川は古代から翡翠の産地として有名。当然この地の豪族は勢力を誇っていたことだろう。ここの翡翠は三内丸山遺跡(青森県)や遠く沖縄本島にまで届いていた。彼女も大国主命の妃となる。つまりどちらも出雲との交流の証であり、日本海を通じて協力関係があった証と私は考えている。 「国引き伝説」の解釈 出雲神話の代表格が「国引き伝説」。高い山から眺めて出雲の国土の狭さを嘆いた神が、朝鮮半島、能登半島、隠岐の島などから余った土地を出雲に引っ張って来たと言うとんでもない内容。それを博物館では出雲とそれらの地との交流があった証と考える。まあ先の妃を娶(めと)る話とも通じて妥当な線だ。朝鮮半島はやはり製鉄の先進地だったため。当然九州北部との宗像氏(海部族)との交流も欠かせない。 島根半島 さて上の地図は島根半島を含む出雲地方。こうして見ると島根半島が元々「島」だったことが分かる。半島右手下の薄い緑色は砂州が伸びて弓ヶ浜になった証拠。半島左手下の薄い緑色の部分は斐伊川と神戸川の土砂の堆積で平野になったことが良く分かる。地図の薄い緑色はそうした土砂の堆積によって「拡張」された部分。古代の人々が国土が広がったと感じたことが頷ける事実だ。 出雲大社がある半島左端の付け根は、沖積平野で地盤は軟弱だったはず。出雲大社の古称は杵築大社。これは神社を建てるために先ず境内を杵(きね)で搗き固めた証とも言える。 次に紹介するのが神話三人男。左端の素戔嗚尊(須佐之男命=すさのおのみこと)は、天照大神と月読大神の弟。天孫族だが地上の国への派遣を前に高天原の姉天照大神に挨拶に行くが、馬の皮を剥いで家に投げ込んだり、大事な田に糞をしたりと大暴れ。根の国に母イザナミノミコトを訪ねた後、出雲の斐伊川上流の八岐大蛇を征伐して、その尾から草薙剣を得た・ 中央は日本武尊。第12代景行天皇の皇子とされるが兄弟の中で一番の暴れ者だったため、九州の熊襲征伐や東国の蝦夷征伐を父から命じられる。熱田神宮にいた叔母から預かった草薙剣で東国の賊を討ち果たした。別名倭建(ヤマトタケル)が出雲建(イズモタケル)を倒したとの説もある。東国からの帰路、伊吹山付近で倒れ、魂が白鳥になって大和に帰ったとの神話が残る。 右端が大国主命。温和な彼は剣を持たない。しかし天孫族に葦原中国(あしはらなかつきに)を国譲りする。やはり出雲一国を譲ったのではなく、古代日本日本全体を譲り、その代わりに出雲に立派な神殿を建てることを所望する。幾つもの別名があり、和御霊(にぎみたま)と荒御霊(あらみたま)の両面を持つ。ヤマト朝廷にとっては「出雲の祟る神」としてとても厄介な存在だった。それについては次回に述べたい。<続く>
2020.08.21
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~伝承と記録~ 常設展示の中に興味深いものがあった。三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)だ。青銅製で島根県雲南市の神原神社古墳出土で3世紀のものとある。そして、説明板の冒頭には「卑弥呼の鏡」かとかなり思い切った言葉がある。「三角縁」とは鏡のへりの断面が三角形に見えることから。また「神獣」とは鏡の裏面に怪獣や中国の仙人と見える文様が刻まれていることからの命名だ。 卑弥呼の名が唯一文献に現れるのがご存知「三国志」の中の「魏志倭人伝」だ。これによれば倭の邪馬台国の女王である卑弥呼が景初3年(239年)に魏の皇帝に使いを送ったことが記されている。それに対して魏の皇帝は「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を贈ったと書かれている。さらには倭国までの行程と方向が細かく記されている。それに基づいて「邪馬台国」が果たしてどこか、古くから論じられて来た。 解決策の第一は「親魏倭王の金印の発見場所だが、次の鍵が「三角縁神獣鏡」の存在場所。鏡に制作年が刻まれていたら別だが、青銅の合金の比率や文様が魏のものであることの証とされている。最近では日本国内で製造されたと思われる鏡の存在や、三角縁神獣鏡が100枚以上国内で発見されているとの説もある。そして「景初」の年号入りの銅鏡も発見されたと言われるが、邪馬台国論争は今なお続いている。 次に島根県奥出雲町常楽寺古墳から出土した埴輪を紹介したい。3体の埴輪は「個性豊かな出雲の埴輪」とある。6世紀のものなので、古墳時代の後期に入る頃か。 その埴輪を初めて作ったのが出雲族の野見宿祢(のみのすくね)と言われている。彼は垂仁天皇の命によって大和国葛城の豪族であった当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取って勝ち、葛城の土地を与えられた。かつて貴人が崩じた際は、部下が殉死するのが通例だった.天皇から陵墓の管理を任された野見宿祢がそれを悼み、殉死者の代わりとして埴輪を古墳に立てた。 そのことがあってか、彼は土器を制作する土師(はじ)氏の祖とされる。また出身の出雲にあっては、国造に任じられたとも伝わる。そんな経緯があるためか、出雲大社の境内に「野見宿祢神社」(上)と言う小さな神社があり、付近には土俵が設けられている。今も神事として神前で相撲を取っているのだろう。 日本最古の歴史書である「古事記」を編纂したのが太安万侶(おおのやすまろ=左)であることは誰でも知っておろう。彼は第43代元明天皇(女帝)に命じられて古事記の編纂に取り掛かった。神代(神話の時代)から推古天皇の御代までを上中下の3巻にまとめ、和銅5年(712年)に完成し、元明天皇に献上した。右は彼の墓。私は偶然にもこの墓に詣でている。 太安万侶の名が刻まれた銅板(墓誌銘) 通常天皇は別として貴族の墓が明らかになることはない。ところが奈良市郊外にある彼の墓が発見されたのは偶然のこと。農家の人が茶畑を開墾中に横穴に遭遇。発掘調査の結果、大量の炭に覆われた墓と、その中から銅製の「墓誌名」が出たことによる。私は全国47都道府県を走破したが、最後の県が奈良。近鉄奈良駅のロッカーに荷物を入れ、リュックを背負い奈良市の周囲をぐるりと一周。その50kmの旅の途中で太安万侶の墓の標識を見つけて立ち寄った次第。考古学ファンには思わぬプレゼントだった。 稗田野神社(京都府亀岡市) 太安万侶が古事記を編纂するに当たって重要な役割を果たした人物が稗田阿礼(ひえだのあれ)。彼は記憶力抜群の男として有名だったようだ。元明天皇が太安万侶に編纂を命じるに際して、「稗田のあれ」を呼べと命じた。全国から届いた「風土記」を彼に暗記させ、それを太安万侶の前で暗唱させた由。稗田出身の男には名前がなかった。それで「稗田のあれ」が「稗田阿礼」になった由。まるで笑い話ではないか。 古事記伝 私はこの稗田阿礼にも、ちょっとした因縁話がある。大阪勤務当時私が住んでいたのが大阪府高槻市。そこからマラソン会場の兵庫県篠山市まで自転車で何度か行った。往復100kmだが、私にはちょうど良いトレーニング。高槻市から峠を越えると京都府の亀岡市に出る。そこから「湯の花温泉」を経由して篠山市に向かう途中にあるのが「稗田野神社」(上)。 名前からひょっとして稗田阿礼と関係あるかもと思っていたのだが、この文章を書くためネットで検索し、ここが彼の生誕地だと知った。古事記の編纂者である太安万侶と、その彼に日本各地の神話や歴史を読み聞かせた稗田阿礼。その2人に関係する場所をこの目で確認した私は、物凄い幸運の持ち主なのかも知れない。これもランニングや自転車で遊んでいたお陰。偶然にしても恐ろしいものだ。<続く>
2020.08.19
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~王から地方の豪族へ~ こんな絵があった。「領地」を見回る王のようだ。昨日の騎馬像とはかなり様子が異なるのが馬の体格。ずっと低くて小型だったことが分かる。なぜあんな大きな騎馬像を作ったのかが疑問だ。 そしてこちらは王とその馬を飾る装飾品と馬具の名称。照明と影が映り込んで見難いが、お許しあれ。 上は轡(くつわ)などの馬具。下は鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)で座位を固定するもの。その下は鉄剣。 騎馬像の王とは異なる冠と装身具 王冠の形もそうだが、太刀の形も出雲の東部と西部とではかなり異なっていたようだ。それはそれぞれが同盟を結んでいたヤマト王権の中央豪族が違っていたことの証とある。騎馬像の王は出雲西部の出雲市上塩冶築山古墳の主だったから、上の王冠を被った王は出雲東部の王と言うことになろう。展示されていた太刀を以下に載せる。大部分は西部の出雲市上塩冶築山古墳出土品だと思われるが、詳細は不明。 これは確か古墳の持ち主が明治時代に石室を開けて取り出したとあったので、西部出雲市の上塩冶築山古墳出土品だろう。それにしても見事な造りだ。 遠目にはいわゆる「環頭太刀」のように見えたのだが。 これも環頭太刀の仲間なのかも知れない。それにしても素晴らしい装飾性だ。古墳の持ち主が明治期に石室を開けて取り出し、剣を破壊したり研磨したりしているのが残念。西の出雲市西塩冶築山古墳出土品。 この太刀も破壊されている。 この太刀も鉄剣だが、他のものとは束頭(つかがしら)の形と装飾が異なる。 装飾付太刀各種 <参考>東北の蝦夷や東国の豪族が使用していた蕨手刀(わらびてとう)。剛直で装飾性は極めて低い。 さて、7世紀中ごろに律令国家の政権が誕生すると、権威の象徴でもあった装飾付太刀は不要になって行った由。 奈良県明日香村高松塚古墳東壁に描かれた男子群像のイメージ。彼らはもう王冠を被らず、規則に従って位に応じた帽子を被り、ベルトも簡素で太刀も佩(お)びていない。平和な時代の貴人に太刀は不要になったのだろう。こうして天皇制が定まって安定した律令国家になると、国は武力ではなく法で動くようになる。<続く>
2020.08.18
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~米作と権力者の出現 ムラからクニへ~ インディカ(長粒米=左)とジャポニカ(短粒米) かつて縄文時代に米作はないとされたが、いまでは陸稲の栽培が認められている。また水稲の朝鮮半島経由説も消えた。1973年揚子江下流の河姆渡遺跡からジャポニカ種の米が発掘され、我が国の種とDNAが一致することが判明。これで北部九州か山口周辺に大陸から直接渡ったと考えられたのだ。 吉野ケ里遺跡 私が小学生のころに習った弥生時代の遺跡の代表格が静岡の登呂遺跡。これは水田遺跡だった。ところが佐賀県の吉野ケ里遺跡の発見が弥生時代のイメージを大きく変えることになった。2重の環濠で囲まれた集落には、楼閣を思わせる高い建物が複数あったし、環濠に沿って丸太の柵が張り巡らされていた。水田による稲作が強大な権力者を誕生させ、ムラがやがてクニへと発展する基礎ともなった。 <小さな名札を手掛かりに=古代出雲歴史博物館の展示物から> とてもみすぼらしい出土品が常設展示にあった。撮影したのは全くの偶然。たまたま説明板を撮影していたことが役立った。出雲市青木遺跡からの出土で奈良~平安時代(8~9世紀)とあった。このブログを書くに際してネットで同遺跡を検索した。その結果古墳時代から江戸時代にかけての複合遺跡であることが分かった。古墳は出雲特有の四隅突出墓。道路工事中の発見のようだ。 改めて出土品を見直すと、円面硯(えんめんけん)、下駄、刀子などがある。円面硯は字を書くため、墨を擦るための道具。下駄は履物。刀子(とうす)は木を削るための道具。当時は紙が貴重なため、木簡(もっかん=木製の名札)に字を書いた。その字を間違えた際は木を削って、その上に書いた。今ならさしずめ「消しゴム」のような役目だ。 硯やベルトの金具が出土してるのを見ると郡衙(郡の建物)が置かれ役人が勤務したのだろう。出雲国府や出雲国分寺、国分尼寺は松江市付近にあるため、郡の建物ではないかと考えたのだ。土の表面は現代の物。下に行くに従って古い時代の遺跡となる。古墳時代から江戸時代までこの地に人が住んでいた。だが道路工事のため簡単な埋蔵文化財調査で終わってしまう。古墳も破壊されたはずだ。もっと掘り下げたら縄文時代の遺跡すら出る可能性があるのだが。 出雲市上塩冶築山古墳から出た遺物から復元した6世紀後半の大首長とのこと。王冠、装飾太刀、馬具などの華美さからヤマト王権から与えられたものだとのこと。西出雲地方で最も権威があった豪族のようだ。この古墳は個人の所有で、明治20年に所有者が石室を開けて中の遺物を取り出した由。幸いにも215点のほとんどが公的機関で保管され、国の重要文化財に指定。遺跡も国の史跡となった。 だが、あまりにも立派な騎馬像に私は驚いた。違和感を抱いたのは馬があまりにも大き過ぎるためだ。古代の馬は体高110cmから120cmしかないのだが、これじゃまるで競馬用のサラブレッド。きっと復元する際にそこまで考えが及ばなかったのだろう。私は日本馬の古来種を3種ほど知っていた。沖縄与那国島の与那国馬。長崎県対馬の対州(たいしゅう)馬。そして愛媛県今治市の野間(のま)馬。 小さな野間馬 私が住む仙台市の動物園には対州馬が飼われていて、実際に見た。与那国島へは行ったことがないが、沖縄には3年間勤務し名前だけは知っていた。愛媛県にも3年間勤務し、その野生馬の飼育牧場の傍を通り、名前を知っていた。わが国に大型馬がもたらされたのは平安末期。多分十三湊(青森)の安東氏が大陸と交易した結果だろう。奥州の馬産地としての評判が上がるのはそれ以降だ。<続く>
2020.08.17
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<出雲の歴史概観> 余計なお世話だが日本の歴史は 〇旧石器時代(人類が日本列島に移住して以来約16500年前まで)〇縄文時代(概ね16000年前~3000年前まで) 〇弥生時代(紀元前4世紀~紀元3世紀中ごろまで) 〇古墳時代(3世紀半ば~7世紀ころまで) 〇飛鳥時代(592~710年) 〇奈良時代(710~794年) 〇平安時代(794~1185年)のように区分され、以下鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、江戸と続く。これに従って出雲地方の遺跡を見ようと思う。 砂原遺跡出土の旧石器 出雲市の砂原遺跡で発掘された旧石器。同志社大学が発掘調査し、国内最古の旧石器関係遺跡で12万年前のものとされるが、年代には異論もあるようだ。この博物館での展示はなく、たまたまネット検索中に遺跡の存在を知り、写真もネットから借りた。 同館には縄文時代の資料もなかった。たまたま開催中の企画展の中に縄文時代の土偶と思われるものを発見したが撮影禁止。そこで覚えていたイメージに合う画像をネットで探したのが上の写真。正座する土偶とは珍しい。年代は縄文に違いないと考えて載せたが、もし撮影が許可されていたらどれだけ反響が大きかったかと思う。 弥生時代の資料はこのブログでもたくさん載せた。あの圧倒的な量の銅剣銅矛が埋納されていた荒神谷遺跡は弥生前期の遺跡。そして国内で最大数の銅鐸が埋納されていた加茂岩倉遺跡は弥生中期から後期にかけての遺跡だった。直線距離で3.4kmほど離れた2つの遺跡から出土した銅鐸の上部にはなぜか×印が刻まれていた。(上の写真の円内)。これも新たな謎。2つの遺跡の謎はまだほとんどが解明されていない。今後の研究が待たれる所以だ。 鳥取県米子市穐吉角田遺跡出土の高楼と船が描かれた弥生式土器。制作年代は1世紀。 肩の部分に壺や動物が飾られた壺。松江市増福寺20号墳の「出雲型子持壺」と言うらしい。古墳時代の5世紀のもののよう。「子持勾玉」もあったが壺までが「子持」とは出雲は別格だ。こんな風に説明板を撮らないと後で調べる手立てがなくなり、説明不足のブログとなる。これはたまたま撮っていたが、探すのが大変だった。これからもきっと試行錯誤が続くことだろう。<続く>
2020.08.16
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~舞台裏の話~ この博物館は異例づくめだった。観覧の順路はちゃんと表示されていたのか。歴史に関する博物館であれば年代順に展示するのが普通。それがいきなり大量の銅剣、銅矛、銅鐸が目の前にどど~んと現れた。私が古代出雲に対して抱いていた謎を解く糸口は見つからず、これまでの話は私が知ってることを中心に書き、写真もネットから借用するなどして組み立てた。今日は苦労しっ放しの舞台裏を見せよう。 銅ゆう鐘(左)と銅鏃(右) これらがあるコーナーへ来て、違和感がさらに募った。一見してそれらが古代中国の青銅器であることが分かった。台北の故宮博物館(台湾)や旅順博物館(中国)で、数多くの青銅器を見ていたからだ。小さな説明板を撮影していたお陰で、時代と名前が分かった。だが一般の入館者は疑問すら抱かないだろう。後でようやく展示の意図は分かったが、それにしても不可解だ。 有蓋鼎(真ん中)など 時代区分を明確にし、展示物が何であるかを客観的に示す必要があるはず。それが公立博物館の最低の仕事だ。まして「古代出雲歴史博物館」を標榜するなら、「古代出雲王国」の謎が解けるものでなければ。私はかつて素人ながらも考古学、古代史、人類学、文化人類学、神話学、民俗学、言語学などの専門書を読んだ「貯え」があったから何とか少しずつ謎解きが出来たが、もしそうでなかったらどうだったか。 以下は青銅製の鏡です。 それにしても不親切な展示だ。展示物の「名札」が小さく、説明も少ない。これでは自分の「霊感」に頼るしかないではないか。故宮博物館や旅順博物館はもっと分かりやすい展示だった。国内でも国立や県立博物館をかなり見たが、こんな「不思議な国のアリス」のように迷ったのは初めて。交通の便も悪いし、昨年ツアーで訪ねた出雲大社でも不愉快な思いをした。今年もその思いは同じだった。 撮影した写真を整理しながら私は戸惑い、「仮A」、「仮B」とかと便宜的な名前をつけながら前進した。形を見ればそれが何かは大体分かる。だが考古学資料に「大体」はない。だから「仮」なのだ。また展示全体の構成が不明のためそれらの明確な位置づけが出来ず、直感に頼ったのも事実。 ようやくこの写真を見つけた。「東アジアの青銅器文化と日本の青銅器」。つまりこの図では、古代中国の青銅器文化が、その後朝鮮半島と日本ではどう変化したかを示したかったのだろう。それにしても不親切。誰にでも理解出来る説明をもっと目立つよう、もっと以前に行うのは不可能だったのか。最初の古代中国の青銅器も小さな「説明板」を、たまたま私は撮影していたため、帰宅後こうして名前、用途、時代が分かった。普通の人はそこまではしないし、何が何だか分からないままに帰ってしまうだろう。 名前が不明だが、これも古代中国特有の意匠で貴重な資料だと感じた。他の青銅器もそうだが、古代中国の青銅器がなぜこの館にあるのか。島根県内の遺跡から出土した訳がない。そして購入も出来ない物のはずで、それをわざわざ展示する理由と経緯が不明だ。 最後に偶然見つけたのが、この小さな説明文。私は4時間かかって展示物を観、丁寧に写真を撮った。だから自分なりに理解し、ブログも書けた。この説明文によれば、結局古代出雲の、銅剣、銅矛、銅鐸は祭器としての位置づけが強い由。もっと早い段階でこの「説明」を入館者に出来なかったのか。博物館では分かりやすい展示と説明が何より大切。「驚かす」のは邪道。それが私の結論だ。勝手な感想だが、舞台裏の苦労が少しでもご理解いただけたら嬉しい。<続く>
2020.08.15
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<出雲の神などについて> 館内の一角に神社の模型が置かれていた。「大社造り」の形から、出雲大社の本殿(国宝)のように見えるが本殿は撮影禁止とされている。が、ネットで画像検索すればちゃんと出て来る。誰かが撮影して投稿したに違いない。この模型の傍にも「撮影禁止」と書かれていたような気もするが、定かではない。それに私は「人間が作ったものに原則忌否はない」と考える。祟りも恐れない方。1) 2) 3) 出雲大社の祭神が大国主命(おおくにぬしのみこと)であることや大黒様と同一視されていることは誰でも知っている。だが大己貴命(おおなむちのみこと)の別名があり、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)の両面があることや、大黒天が元々ヒンズー教のシヴァ神の一面としてのマハーカーラ(暗黒神・大黒神・破壊の神(3)だったことを知る人は少ないだろう。 大和国一之宮である大神神社の祭神が大己貴命で大国主命の荒御霊として、藤原京の守護神だった由。だが平城京遷都に伴う移動はなかった。恐らく「祟る」ことへの忌避があたのかも知れない。それにしても本来は出雲の神がなぜ大和国の守り神となったのか。 大国主命の名から思えば、彼が元々この国全体の主だったのではないのか。それがヤマト朝廷に国を譲る羽目になった。そのことへの怨念が残ったとは考えられないか。上の2)は笑顔でない大国主命。彼の知られざる側面だが「だいこく」とも読める大国が「大黒」へと変わり、次第に福の神へと変質して行った。息子の事代主神も同様に「恵比寿様」として福の神に変身して行く。 1) 2) 次に島根県に多い古墳を紹介しよう。1)の四隅突出墓(よすみとっしゅつぼ)はヒトデのように、4つの隅が飛び出して石が葺(ふ)かれ、墳丘上に祭祀のための施設が設けられている。朝鮮半島に起源を持つとされるが、遠くは新潟県までの日本海沿いに分布が見られる。2)は前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)。方墳を2つ重ねた形だ。 写真は岡山市の造山(つくりやま)古墳。墳丘長が360mもある前方後円墳で、全国で第4位の大きさ。旧吉備国(岡山県)ではほかに作山古墳もある。前方後円墳はヤマト朝廷との関係が深い豪族が築いたとされ、その点出雲は特異だ。日本海側では元伊勢と呼ばれる籠神社がある丹後国宮津、継体天皇の出身地である若狭国の敦賀、越後国の最初の開拓者が入った弥彦がヤマト朝廷との関係が深いと考えられる。 気多大社 写真は石川県能登半島の付け根にある気多大社。祭神は出雲大社と同じ大国主命。能登半島には大国主命が町や村を訪ね歩くと言う祭りが今も伝わっている。また海中に鳥居が立つ神社が多く、祭神が海を渡ってこの地に来たことを思い起こさせる。 1) 2) 1)は龍蛇神と呼ばれ、出雲では神々の先導役とされる。捕らえた後出雲大社に奉納される。その実態はエラブウミヘビ。産卵のためインド洋から、黒潮や対馬海流に乗って出雲に到る。沖縄の久高島では古来神の使いとして、久高祝女(のろ)と西銘祝女しか捕らえることが出来なかった。今では燻製にして強壮剤となる。コブラ科で猛毒だが性質は温和。口も小さいため危害は少ない。 2)は「加賀の潜戸」(かがのくけど)と呼ばれる奇勝。石川県から遠く離れた島根に「加賀」の名称があるのは、海を通じての交流があった証拠だろうか。神々が出雲に集まったことも、交流の証ともいえよう。 島根県出雲地方の主要神社。1が出雲大社。 7が北島国造家が祀っていた熊野大社。13が海蛇を捕らえる美保神社。4が日御碕神社。伊勢神宮同様に太陽神である天照大神を祀るが、伊勢は朝日、日御碕神社は夕日が主役だ。 また出雲は「根の国」(黄泉よみ=あの世)とされ、亡くなった妻のイザナミを追って夫のイザナギが訪れた地でもあった。黄泉の入り口のよもつ比良坂(ひらさか)に揖屋(いや)神社があるとされる。<続く>
2020.08.13
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~「北島国造館」を訪ねて~ <北島国造館境内図> しばらく「島根県立古代出雲歴史博物館」の展示物が続いたので、今回は一旦博物館を飛び出して「北島国造館」を訪ねてみたいと思います。博物館は右下方向へ500mほどの箇所に、また出雲大社は左手紫の旗が立っている箇所からが境内になります。つまり北島国造館は出雲大社の直ぐ東側にあり、目の前の道路は「社家通り」と呼ばれています。 北島国造館の正門と門前の表札です。千家国造館と比しても全くそん色がありません。 出雲教本殿と由緒。明治初期、神祇省によってそれまでの「国造」を廃されたことを契機に、出雲大社の本来の教えに立ち帰って「出雲教」を興したとあります。千家家はこれまで通り出雲大社の神事を司り、「出雲大社教」を名乗って共に神社庁から独立した宗教法人となりました。 境内の要所には摂社に通じる威厳ある門が設置されています。 境内の奥まった一角に鎮座する摂社 思いがけず境内の一角から滝の音が聞こえて来ました。名称は「亀の尾の瀧」。水源は熊野(よしの)川です。北島国造家が当初祀った神社が出雲東部の熊野大社。当時は杵築大社(後の出雲大社)よりも社格は上だった由。また神武天皇を案内したとされる紀伊半島の熊野本宮大社との関連をも、なぜか考えさせられるのです。 滝の名に因む親子の亀の石像。 天神社 天神社の左手に亀の尾の瀧が見えます。 北島国造館の境内に天神社があることに奇異な感を受けますが、菅原道真公が太宰府に左遷されて非業の最後を遂げたことを思うと納得が行きます。かつての北島国造家には、古代出雲の神宝をヤマト朝廷の遣いに騙し取られ、納得の行かない「国譲り」をしたことに対する恨み言が子々孫々口伝えにされて来たと言われます。 また高さ48mにもなる巨大な神殿は、大国主命が国譲りをした代償として造営を要求したとされています。そしてその巨大な本殿の造営が少なくとも鎌倉時代まで続いた(その柱材が地中に埋まっていたことで証明出来る)理由は、出雲に対して朝廷が何か「疚(やま)しさ」を感じ、出雲を怖いと感じていたことの証でしょう。あの大量の銅剣、銅矛、銅鐸の埋納とも関係しているのか、謎が謎を生みます。 出雲大社及び北島国造家所領地古図 千家家のみならず、北島国造家にまでこれほど手厚い処遇があった背景に何があったのでしょう。古代出雲の謎は尽きません。<続く>
2020.08.12
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~2つの遺跡・銅剣、銅矛、銅鐸大量埋納の謎~ 正座する土偶 今回も古代史や考古学に関心がない方にとっては退屈な話になるはず。だがに関心があるに方には、「よだれ」が垂れそうな話なのである。ただ必死で撮った私の写真は、話を書くために都合良く並んでいない。展示品が多いために片っ端からシャッターを切ることになり、写真の前後関係が分からなくなったり、何の写真か不明なのもままある。だから文を書くためには、そのジグゾーパズルを解くことから始まる。 昭和59年(1984年)島根県斐川町(当時)の山中で農道工事中の工夫が地中に文化財があることに気づき、急いで発掘調査が行われた。山の斜面にはおびただしい数の銅剣が埋蔵されていた、こんなことはこれまで国内にはなかった。整然と4列に並べられた青銅の剣。発掘に携わった職員は、一本ずつ丁寧に取り上げ、ガーゼに包んで運び出した。後に荒神谷遺跡と名付けられ国の史跡ともなった。 実際の埋蔵状態。385本の青銅製の剣が4列になって、整然と並んで埋納されていた。出雲地区の式内社(延喜式に記された古社)は385と言われるがこれは偶然か、それともたまたまなのか。 1年後遺跡の7m傍から16振りの銅矛(どうほこ)と6個の銅鐸が発掘されている。一か所から16振りの銅矛の出土は日本一。これらの鉾は全てが国宝に指定された。それほど貴重な存在だったのだ。 整備の上同博物館に陳列された銅剣と銅矛。下部の陳列品は出土した本物。上段4列の光る銅剣類は銅、錫(すず)、鉛の合金である青銅を新たに鋳造して製作した模造品。これでもまだ全体ではない。 神に祈って大量の銅剣を地中に埋納する古代の出雲族。(想像図) 驚くのは早かった。平成5年(1996年)加茂町(当時)の山中で農道を工事中の業者が地中に何かが埋まっているのに気付いた。それで慌てて工事を止めて町役場に連絡。驚くべきことに地中には39個の銅鐸が埋納されていた。一か所の数としてはこれまた国内最高で、中には「入れ子」(銅鐸の中に小型の銅鐸が重なって入ってる状態=上の写真にもある。これらの銅鐸も国宝となり、ここ加茂岩倉遺跡も国の史跡に指定された。 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の位置関係は上図のとおり。2つの遺跡は山の隣り合わせにあり、この間の直線距離は3.4から3.8km程度。古代豪族の吉備氏が支配した吉備国(現在の岡山県)は地図の下方(南方)にあり、古代出雲は天皇の命を受けた吉備氏などによって神宝を奪われ、権力と権威の失墜につながったとの見方がある。しかし神器でも祭器でもあった銅剣、銅矛、銅鐸が人知れぬ山中になぜ大量に埋められ、長い間発見出来なかったのかが不明。古代出雲最大の謎であろうか。<続く>
2020.08.11
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<常設展2 出雲大社のことなど> 境内から発掘された巨大な柱根などを根拠にして、5人の建築史研究者が推定した古代から中世にかけての出雲大社本殿として考えられる建築物の模型。 上の模型の裏側を、小窓越しに撮影したもの。物好きではあるが、裏面の理解には持って来いだ。 現在の出雲大社本殿(国宝指定)で、高さは鎌倉時代の建造に比べて約半分の24m。建築されたのは江戸中期の延享元年(1744年)ですが、「大社造り」と呼ばれるわが国最古の神社建築様式を保っています。 現在の本殿の一代前の本殿にあった千木と鰹木。千木の手前の物と鰹木は実際に使われた物で、千木の奥の分は模造物です。 左図は本物の部材(赤)と模造部分(茶)の識別。右図は千木と鰹木の位置関係を示した図です。 出雲大社神紋 出雲大社の神紋は「亀甲花剣菱紋」です。一説によれば、剣は草なぎの剣、花は勾玉を、そして中心の「円」は鏡を表すと言われています。天皇家の三種の神器に似ています。出雲の大事な神器を天皇家の遣いに奪われたと言う言い伝えが密かに残されていると言います。元々「草なぎの剣」はヤマタノオロチの尾から出たもの。出雲の有名な神話の一つです。 <千家国造館> <北島国造館> 出雲には2人の国造(こくぞう、くにのみやつこ)がいました。現在の県知事に相当します。2人になったのは南北朝時代と言われますが、第10代天皇が、東出雲で熊野大社を祀っていた出雲氏(出雲臣)に出雲大社の神職となることを命じたのが最初との説があります。それまでの出雲大社の名称は「杵築(きずき)大社」でした。2人の国造が交互に神職を務めていたのが、明治初期に神祇省に「国造」の名称を廃され、千家家のみが神職に就いて今日に至りました。 <千家國麿氏と高円宮典子さまの結婚式> 平成26年=2014年 それ以降、千家国造家は「出雲大社教」を、そして北島国造家は「出雲教」を別々に主宰しています。さて千家家の当主國麿氏と高円宮家の王女典子さまが平成26年に結婚されました。古代の国譲り伝説、「神宝強奪事件」、神紋の謎、祝詞(のりと)に秘められた古代の怨念など出雲と王朝にまつわる逸話には事欠かない状況下での婚姻は驚きとも言えます。 なお、北島国造館で結婚式を挙げた組は離婚が少ないとか。何だかビックリものの話ですね。<続く>
2020.08.10
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「島根県立古代歴史博物館常設展」(1)~出雲大社関係その1~ <出雲大社境内図>この地図の左欄外上方に千家国造家が、右欄外上方に北島国造家があります。 さて今回から「島根県立古代出雲歴史博物館」の常設展示を紹介します。第1回目の今日はやはり出雲大社ですね。出雲大社は上図のようにかなり広大な境内を有しており、ここに納まり切れません。神さびた背後の山が本来の社。そして左側(西側)には神々が到来する稲佐(いなさ)の浜があり、本来はその浜辺から長く高い階段を上って本殿に詣でたようです。 これが稲佐の浜から続く出雲大社の階段の模型。右側には階段を上り下りする神職の姿が豆粒のように見えます。「口遊」(くちずさみ)には「雲太和二京三」の伝承がありました。日本の建物では出雲大社の本殿が一番大きくて、二番目が大和の東大寺大仏殿、三番目が京の大極殿と言う意味。1位が坂東太郎(利根川)、2位筑紫次郎(筑後川)そして3位が四国三郎(吉野川)と似たような発想です。 長らくこの伝承への疑念が続きました。ところがそれが真実だったことが分かるのです。平成12~13年(2001~2002年)境内での工事中に地中から太い柱3本が銅の輪で括られた状態で出土したのです。直系1.35mもあり、巫女さんと比較すれば分かります。測定の結果素材は杉の丸太で建築年代は鎌倉時代1248年と判明。以下の図のような形に組まれていたことが分かります。 中心にあるのが心御柱(しんのみはしら)で、周囲を取り囲んでいるのが宇豆柱(うずばしら)と呼ばれています。祭神である大国主神は心御柱の右上に西を向いて鎮座していると言われています。西すなわち稲佐の浜の方向、全国から神々が集い上陸した地点です。 柱が発掘された境内の位置(右図の赤く囲まれた部分) 地中の柱の状態です。周囲は石で固めて地盤を強化してありました。多分柱の下の基盤は砂と土を突き固める版築(はんちく)と言う古来の土木工法が用いられているはず。縄文時代の三内丸山遺跡(青森)の楼観の基礎も、古墳時代の巨大な古墳も、古代の官衙(かんが=公的な建物)の基礎もみな同じ工法で強度を保ちました。朝鮮半島渡来の高度な技術ですが、縄文時代には既に使用されていたのが不思議です。 柱の下に埋納されていた宝剣(左)勾玉(右)。いずれも大社鎮護のために祈りを込めて捧げたものです。古代、建物を建立する際の習わしでもありました。 宇豆柱(うずばしら) 心御柱も宇豆柱も3本で1セットになるよう銅の金輪(かなわ)で括られ、柱の下部には材木を運ぶための「ほぞ穴」が穿たれていました。恐らくは太い綱で縛って曳いたのでしょう。地下に残存した柱の長さと太さから柱は途中で接がれたと思われます。本殿の高さは16丈(約48m=15階建てビルに相当)とされ、千家家に絵図が伝わっていますが、「口遊」が真実だったことがこれで証明されました。現代科学と考古学の成果です。<続く>
2020.08.09
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<いざ「古代出雲歴史博物館」へ> 川べりの源泉 7月30日旅の第2日目。4時半には目覚め、5時になるのを待って朝風呂へ。昨夜は露天風呂も結構高い温度だったのが、今朝は内風呂も温くなっていた。部屋に戻って着替えし、玉湯川に沿って散歩した。さすがは出雲の温泉場だけあって、出雲神話にまつわる造形が幾つかあり、カメラの撮影台まで設けられていた、川の傍に源泉らしき装置。バスの時刻表を確認して宿に戻った。 稲わらで編んだ鶴と亀 朝食は実に粗末な内容だった。温泉場のホテルにしては驚くべきメニュー。わが家の朝食の方がよほど充実している。呆れ果てて写真も撮らなかった。フロントで清算し、バス停へ。そこで待っていると老夫婦が道の向こう側で呼び寄せた。一方通行のため乗り場が逆らしい。バスの運転手に尋ねると出雲大社に行くには再び松江に戻る必要がある由。そして直行便はないと言う。 ドライフラワー そんな訳はない。時刻表には8時15分発のが載っていた。ただし「コロナ」で観光客が減ったため、運休中なのだろう。面倒になって「JR玉造温泉駅」に停まるか聞くと近くには寄るらしい。老夫婦はそのまま松江に行く由。バスと電車に乗り放題の券を4500円で買ったと言うが、多分電車は「一畑電鉄」のはず。私には遠回りだ。一方通行のコースは昨日訪ねた資料館の脇を通った。 大黒様 JRの駅には15分ほどで着いた。駅員に尋ねて出雲市までの切符を買い、そこから大社までの交通を聞いた。40年前の2月の早朝、玉造温泉に泊まっていた私は宿を抜け出し松江市まで国道9号線を走って往復した。ところが当時の9号線は狭い上に歩道がなく、タイヤで寄せられた雪が凍って走るには危険過ぎた。だが30代半ばの私は怖れを知らなかった。凍った宍道湖では白鳥が片足で立って眠っていた。 クシナダヒメとヤマタノオロチに飲ませる酒 出雲市駅から出雲大社へのバスはたくさん出ていた。私が乗ったのは博物館前で停まるコースだったのに止まらず、出雲大社正門前まで行った。だが博物館までは歩いてもわずか。こうして歩けば地理と道路を覚える。間もなく博物館が見え出した。だが入口がどこか全く分からない。有名な観光地なのに、どうしてこうもはっきりした道案内がないのだろう。何とも不思議な出雲気質だ。 「島根県立古代出雲歴史博物館」の遠望 こんな感じで正面の入口が分からない。間違って遠回りをしたお陰で次に行く「北島国造家」の方向が分かった。個人で旅をすれば迷うこともある。それもまた良い勉強なのだ。敷地内でも迷って遠回り。ようやく入口を探し当てて入館。ここでも両手の消毒と検温。そして氏名と連絡先を記入。「GoTo」前だが何と厳しいチェックであることよ。常設展と企画展のセットを1050円だったかで購入。 これが入場チケット。企画展は「大地に生きる」で島根県の災害史が主な内容。私は「東日本大震災」で大きな被害を受けた宮城県に住んでいるし、東北歴史博物館でもその手の企画。つまり文化財の震災による被害と修復作業の様子は何度も見ただけに、さほどの感銘は受けなかった。 チケットの細部(円空仏) ただ、なた彫りで有名な「円空仏」の本物を見られたことが良かったことの第一。そして第二は縄文時代の正座した土偶を見られたこと。企画展は残念ながら撮影禁止で写真が撮れなかったが、実に写実的な土偶だった。私は青森県八戸市是川遺跡の「合掌土偶」(国宝)を始め、遮光器型土偶を三内丸山遺跡や青森県郷土館で、また勇壮な火焔式土器を新潟県立博物館で観ている。本物に接することが最大の勉強だ。 「古代出雲歴史博物館」のパンフレット リュックはロッカーに入れていた。そして幸いにも常設展は自由に写真を撮ることが出来た。私は無我夢中でシャッターを押し続けた。全体の構成が頭に入る前に、順路に沿い一個一個足を止めて展示物を眺め、「絵」になりそうな物を中心に撮り、後で思い残すことがないように注意し続けた。こうして館内に4時間ほど滞在し、ここで撮った写真は多分250枚以上に上ったものと思われる。 <同館展示物の一部 古代の出雲大社模型など> 実は予め同館の主な展示物はネットで確認済みだった。だからこそその本物を今回自分の目で確認しようと思ったのだ。でなければ昨年出雲大社に来たばかりなのに、こうして直ぐに来はしなかったはず。たくさん撮った写真の整理にかなり手間取った。撮った写真の1枚1枚を覚えてはいない。それをブログでどう紹介すべきかを考えながら分類し、名前を付けるのは実に根気がいる作業なのだ。苦もまた楽しみの一部なのではあるが。 そしてこの本に出会えたことも幸せだった。これは4時間もの間展示物を観覧し、疲れ果ててレストランで遅い昼食を済ませ、退館する寸前にお土産の勾玉とブレスレットを売店で買い、ついでに本のコーナーに立ち寄り、書名に惹かれて目次を見て購入を決めた。そこに私が長年抱いて来た疑問を解く「鍵」があると直感してのことだった。この本が元でこの後失敗するのだが、そのことについては改めて記すことにしたい。<続く>
2020.08.07
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<2冊の本のことなど> 玉作資料館のパンフレット。入館料は個人の大人で300円だった。万葉美人のような女性が描かれていたが、何を想定したものかは分からない。 玉作資料館所蔵の石器 玉作資料館にあった唯一の石器がこれだった。時代も用途も書かれていない。下の字を拡大すると辛うじて「松江市玉湯町 花仙山産」と判明したが( )内の2文字は潰れて読めなかった。石器と分かるのは石を打ち欠いて形を作ってるため。恐らく左端は槍の穂先のような武器と思われる。右の2点は肉を切るナイフか皮を剥ぐためのものだと思う。もしも用途がそうだとしたら、全て縄文時代のもののはず。弥生時代は稲作が中心になった。思い出すのは稲穂の先だけ切り取る「鎌」の用途を果たした石器だが。 資料館には2体の埴輪が陳列してあった。どこのものか、そして彼らが何者であるかの説明はなかった。いやあったかも知れないが、私が見逃したのかも知れない。左は机の上に巻物を広げて何かを記録しているように「見える」。右は武人だろうか。右腰に太刀を差しているように見える。そして左肩に鳥が止まっている。 私はその後丘の上の古墳を観た。円墳の「徳連場古墳」だが、あそこに埴輪が捧げられたようには思えない。玉造温泉近辺には後期の横穴式を含めて4つの古墳があるようだが。私は右上の「記加羅志神社跡古墳」のように思われた。理由の1)はパンフレットに写真が掲載されていること、理由の2)は「きからし」と言う万葉仮名を思わせる地名。そして大事な古墳の上か傍には神社が置かれることが多い。文字がない時代から、「あそこにはこの地の祖先が眠っている」との口伝えがあったのだろう。祖先の霊を祀るための神社を、全国各地の古墳近くで数多く観たことに基づく私の直感だ。 「各国風土記」編纂に係る詔 日本の国情が落ち着き、律令制度が安定して来ると大和政権は各国造に詔(みことのり)を発して、各国に伝わる風土記をまとめて朝廷に差し出すよう命じる。実際は実権を握った藤原氏に都合の良い歴史を記すための材料だがそれはここでは擱(お)く。ともあれ出雲国では他に類例のない詳細な「出雲国風土記」を5年をかけてまとめて提出した。そのため出雲国の豊富な神話が、今に伝わっている。 <玉作湯神社の扁額(左)と同社(右)> 館内に玉作湯神社の写真とその扁額の写真があり、後日の参考になるかと思って撮影した。かつては「玉造湯神社」と称したようだ。式内社かどうかは調べていない。この名称が明治に入ってから「玉作」と変えられた。それまでの神仏混交を排した頃だ。そして社格も国家(神祇省)が決めた。恐らく国造にもつながる「造」から「作」に変え、社格も「村社」にしたのではないか。そこまでして「富国強兵」と「神国日本」に突き進んだのだろう。 この神社の背後の丘の上に「玉造要害城」があったことをネットで知った。別名は湯ノ城、玉造城、湯ケ城、など。古くは出雲国守護の居城だったそうだが、戦国時代は中国地方の英雄尼子氏の武将である湯(ゆ)氏の居城だった由。尼子氏は山陽の雄大内氏の攻撃には耐えたものの、大内氏に取って代わった毛利氏の攻撃と策略の前に敗れた。一時は石見銀山の銀を独占して繁栄した尼子氏が敗れ、湯ノ城を守った湯氏は九州へと逃れたようだ。 さて「玉造」の地名のうち、出雲(島根)と摂津(大阪)の玉造では、実際に玉を造る工房があったと思われる。陸奥国の玉造郡(宮城)は常陸国(茨城)の玉造から移民が来たことによる地名の移動だろう。常陸の行方郡から陸奥の行方郡(福島)も同様。蝦夷を服属させて大和朝廷の支配圏が拡大すると、人を移動させて開拓を図った。当然収められる税は増える。神社も地名も人の移動によって移動した。人はそれまでに信仰していた神社を移動先にも分祀する。そのようにして神社は「増え」て行くのだ。 以上、この地の歴史を縄文時代から戦国時代までを駆け足で観て来た。松江藩の御用窯であった布志名(ふしな)焼の作品については改めて紹介したい。 さて、資料館を去る前に私は1冊の本を買った。「島根の考古学アラカルト」。著者は確か高校の教師を務めた方のようで、多分トンデモナイ内容ではないと思ったからだ。学芸員の女性に明日は「古代出雲歴史博物館」に行くと告げると、あそこの展示物は凄いですよと一言。そしてかつて出雲大社の神事を司った「北島国造家」の話を切り出すと、北島国造家がかつて東出雲の熊野大社を祀り、朝廷の命により出雲大社へ移って司祭するようになったことを教えてくれた。 「古代出雲歴史博物館」で購入した2冊目の本 「出雲大社の暗号」の謎めいたタイトル。ああ、確かそんなことがあったなあ。本を読み人づてに聞いた古い記憶が、断片的に蘇った。「神が戦い人も戦った古代出雲への旅」おどろおどろしい今回のタイトルはそんなことから付けた。謎の古代出雲に、一体何があったのか。明日はいよいよ、「古代出雲歴史博物館」と「北島国造家」を訪ねる。<続く>
2020.08.06
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<玉作資料館にて> 左手の丘へ登る石段道を往くと、建物の前にこの看板。「常設展古代出雲の玉作 その歴史と技術」とある。玉造温泉への宿泊を決めてからネットで温泉周辺の地図を検索中に見つけたのが「玉作資料館」。これは是非とも訪ねてみたい。そう思っていた。40年前は確か玉造町と言っていたように記憶しているこの町が、今では松江市玉美町玉造温泉に変わった。だからここも松江市立なのだろう。 碧玉の原石 受付でコロナのチェックを受ける。先ずは両手の消毒と体温測定。次に用紙に氏名と連絡先などを記入。まさに厳戒態勢だ。島根県全体の感染者数は20数名で、かなり神経質になってる感じ。それも良く分かる。係の女性に学芸員かどうかを尋ねたらその由。で専門はと聞いたら弥生時代の石器とのこと。磨製の鍬のようなものかと聞いたら違う由。丸木舟を削った「丸のみ」のようなものかと聞いたらそれでもない由。 <各種の原石> 打製石器と分かった。弥生時代にも石器を使っていたことに驚いた。当時はまだ日本に鉄が将来されてなかったのだろう。玉造のメノウ製品の分布を尋ねたら結構広い由。それで「糸魚川のヒスイ製品」の分布と交流関係について私が話すと、全くの素人ではないと判断した模様。その後館内を2時間ほどじっくりと見た。この周辺ではメノウの他に碧玉なども産出したようだ。 <勾玉の粗型(左上)と完成品(その他)> <子持ち勾玉の複製品> <勾玉の謂れ> 勾玉の形は朝鮮半島と日本にしかなく、わが国では縄文時代には既に勾玉が作成された。勾玉の語源としては「曲がった玉」説が有力。また独特の形は、1)魚の形説 2)胎児説 3)獣の牙説 4)釣り針説などがある。 さて韓国国旗の太極旗も2つの巴型が重なり合っている。(下図参照)ただ朝鮮半島には縄文文化より古い文化は存在せず、日本の縄文土器が半島の南部から出土している(=倭人がかなり古くから朝鮮半島にまで出向いたことの証)ことを思えば、勾玉は日本発祥のものだろう。ただし、朝鮮半島の人がこの形に神聖なものを感じたことも間違いはないのだろうが。 <参考>韓国国旗の中央部に勾玉様の形象 左は獣の牙を模した装身具。紐を穴に通したネックレスか。右は「けつ」(王偏に決のツクリだが環境依存文字)と呼ばれるイヤリング。 各種の装身具 <砥石などの工具各種> <研磨の痕跡が残る研磨台> 回転式の錐(きり=上)とそれを使用して穴を開けた石など(下) 玉造工房遺跡は宍道湖の南岸に集中しており、ここ玉造温泉周辺はその中心地だった。良質なメノウや碧玉を産出した玉作山(現在は花仙山)が資料館の背後にあったのだ。縄文時代から神聖な石として貴ばれたメノウや碧玉などで作られた装身具は、神威や権力の象徴として貴重で、水路や海路を通じて日本の各地に伝えられたのだろう。 またそのことが古代の東出雲地方に強大な力を持った豪族を誕生させたとも考えられる。後に出雲国造の一つとなる出雲氏(出雲臣)だろう。西出雲地方の豪族集団や大和朝廷との対峙にもつながったと私は見ているのだが実際はどうか。 花仙山(古代の玉作山)に今も残るメノウ採掘用の坑道(上)と出雲石の特徴など。(下) 古代の作業小屋における作業風景の復元です。<続く>
2020.08.05
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<古代玉造遺跡を訪ねて> ここは玉造温泉の中心地。かなり大きな温泉地であることが分かる。兵庫県の有馬温泉、愛媛県の道後温泉と共に日本の三大古湯とのこと。古代から皇族が訪れて入湯した由。私が宿へ行かずに向かった先は上の写真の赤い矢印の山。手前の小高い丘に玉造工房の遺跡と「玉作資料館」がある。そして背後の花仙山は古代からメノウの原石が産出した旧称玉作山(標高199m)だ。 私は地元の方に2度「玉作資料館」への道を尋ねた。その都度「本当に行くのか」と言うような顔をされた。確かにきつい上り坂が続く。ほとんど運動をしてなかったここ数か月。だが考古学好きの強い想いには勝てず、ドンドン坂道を登って行った。 先ずは道の右手の谷あいにある史跡公園を訪れた。上の写真が公園の全景。下の遺跡の標識は堂々たる大石に刻まれていた。説明板によれば大正12年(1922年)に付近の2遺跡と共に国の史跡に指定され、昭和44年と46年に発掘調査が行われた由。 写真はいずれもこの地区の発掘調査風景。(昭和44、46年) 発掘調査結果に基づいて復元された古代の玉造工房 <古代の玉作り作業風景想定図>このような作業をした工房の遺跡は、この周辺の宍道湖南岸に数十か所も点在している。(地図は次回に掲載予定)この後、私は丘の上の「玉作資料館」で展示物を時間をかけて観覧した。そして付近を調査しながら宿へと向かった。その途中で観たのが以下のものです。 この古墳は玉作資料館のある丘の隣の丘にありました。小さな円墳で、頂上部にはむき出しになって横たわった石棺。古墳に眠っているのはここ一円でメノウなどの玉製品を作らせた古代の地方豪族だったのでしょう。 今もこのようなかつての採掘穴が残っているようで、つい数年前も巨大なメノウ原石が発見されたと聞きました。「玉作資料館」については次回紹介する予定です。 これは翌日出雲市にある「島根県立古代出雲歴史博物館」の売店で自分用に買ったお土産の「勾玉」です。島根県産のメノウなら良かったのですが、インド原産の翡翠(ひすい)でした。でも古代の魂に触れる思いがして嬉しいのです。こんな内容の紀行文ですが、これが私の旅なんですよね。<続く>
2020.08.04
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<計画の狂いは旅の初日から> 準備は簡単だった。リュックサックに入れたのは、着替え、洗面具、折り畳み傘、新聞、俳句の本、そして毎日の服薬数種。バスは比較的スムーズにJRの最寄り駅に到着。駅のコンビニでお握りとお茶を買ってリュックへ。空港行きの電車もスムーズ。ここまでは何の問題もなかった。 少し早めに搭乗手続きをして待合室へ。そこでお握り3個をぺろりと平らげた。何と貧しい食事だ。それでもこれから贅沢な旅をするのだからと、自分に言い聞かせた。もちろんご馳走をたらふく食べようとする旅ではない。自分が好きな日本の古代史と考古学を十分に堪能するのが今回の目的。趣味にお金をかけるのが贅沢と言う訳。時間になっていよいよ機内へと向かう。機体はこんなピンク色。 航空会社は「フジドリームエアライン」と言う名前。静岡に本社があり、JALの系列会社みたい。仙台ーいずも縁結び空港への直行便は2年前の就航らしいが、初めて聞く名前。横4席の小さな機体だった。機内でのサービスは小さな飴と、これまた特別に小さめの飲み物パック、そしてミニチョコレート。飛び立った機は直ぐに雨雲の中に突っ込んだ。読書灯を点けて新聞を読んだ。 会社のパンフを開いて航路を確かめた。仙台空港から新潟上空へ出、ほぼ日本海の海岸に沿って南西方向に飛ぶ。私には初めてのコースだが、窓の外に見えるのは分厚い雨雲だけ。高度は1万1千メートルほどで、時速は800kmと機長のアナウンス。偏西風に逆らうため若干時間がかかる。でも1時間半ほどのフライトなら楽なもの。退屈もせず、無事出雲空港に着陸。直ぐ横は宍道湖(しんじこ)だ。 ところがバスに乗ろうとしてビックリ。なんと空港からは松江方面に向かう便しかないのだ。出雲大社への便や、その夜泊まる予定の玉造温泉行の連絡バスはコロナ騒動で運休中のようだ。仕方なくバスの運転手さんに尋ねた。玉造温泉へはどうやって行くのか。途中玉造温泉駅で下車出来ないかと聞いたら無理とのこと。一旦JR松江駅まで行き、そこから玉造温泉行きのバスに乗るのが一番と。あれまあ。 当初この日は出雲大社周辺をうろつこうと考えていたのだ。だがそれだと宿泊地に着くのが遅くなる恐れがある。それに出雲大社付近は翌日の第2日目の「島根県立古代出雲歴史博物館」の見学と合わせたら良いと考え直したのだ。松江から今度は路線バスに乗って玉造温泉へ向かった。ここは40年前にも一度泊まったことがあった。だがバスから降りた私はホテルへは向かわずに、山の上へ上って行った。またチェックインまでは時間があるため、急遽ある場所を訪ねる気になったのだ。<続く>
2020.08.03
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~埼玉古墳群と博物館~ このシリーズも今日が最終回となった。「古墳の話に・・」シリーズと合わせてもわずか8回。そんな短編なのに苦しんだのは、ひとえに考古学と言う専門分野が関係したのは間違いない。中国からの帰国後の体調の悪さ。家事と日常生活。毎日ブログを更新すると決めた自分のルール。旅の写真の整理と、未公開写真の活用。どれ一つとってもそれはまことに重たい軛(くびき=手かせ足かせ)であった。 それらを同時にこなせたのは、奇跡と言うしかない。実際一度は深夜に倒れ、一度は鼻血を出した。あんまり根を詰め過ぎたせいか、視力が急速に落ちた、それでも作業の手をを止めなかったのは、生真面目さゆえの執念だろう。これでは身がもたないと判断して、最近幾つかのブログを訪れるのを止めた。 私は自分の命をかけてブログを書いている。だから私の心に響かないブログ、必要な情報がないブログへは行かないと決心した。ただし気持ちが通じ、長い付き合いのある友は言うまでもなくこれまで通り。命は限られている。私に残された時間は少なく、無駄遣いは出来ない。これからも私らしく生きるにも、何かを切る必要があった。そんな理由のため、あえて謝罪はしない。 いつものことだが、旅や歴史の話は、予め持っている知識、現地で得た情報と自分の目で確認した直感。そしてブログを書くに際してネットで確認した情報。それらのミックスだ。写真も同様に、現地で自分が撮影したもの。補足や参考のため後日ネットで検索した画像。そして現地で入手した印刷物を参考にして総合的な見地から文章と写真とを組み合わせるのがい私のいつもの方法だ。 今回は現地で、上の冊子を購入した。確か1200円だったはず。これは現地の博物館の学芸員や研究者による情報なので、ネットよりもさらに詳細で最新の情報が得られる。今回の探訪記もこの冊子の説明や掲載された写真を拝借した。この場を借りてお礼を申し上げる。こんな作業の中から、全国的かつ、最新の情報が得られ、客観的な評価や判断が可能になる。さて最終回の画像を以下に乗せたい。 当時、この古墳群の被葬者であるカサヒヨ一族(笠原氏か)と近隣の一族との間で、紛争があったようだ。その諍いを調停したのが安閑天皇だったことが「安閑天皇紀」に記載されてことが博物館内の展示物にあったのを撮った。こんな風に、一つの事実を確認するためには、様々な工夫や努力が必要となる。それはこんな分野をブログのテーマとした者の当然の手続きなのだが、意外にこれが疲れ、目も悪くなる。 目が限界に近づいたようだ。説明は↑の解説をお読みいただきたい。 稲荷山古墳の発掘調査。これを見ると登頂部だけでなく、周溝部周辺も発掘調査をした様子が窺える。 器台型の土器(左)とこれに載せための小型の壺(右)が見える。 お椀型の土器。 高坏(たかつき) いずれも高温で焼かれたようには見えないが、実際はどうなのか。 銀環(下)とヒスイ製の勾玉。 いずれも国宝 こちらも上と同様の遺物で国宝だが、文化庁所有と記されている。 分解した状態で発掘された 国宝の帯金(ベルトの金属部分) 上の発掘品から想定した復原図。金具の正確な名称は図を参照されたい。 馬の装飾に使われた環鈴(かんれい=国宝)形が雲珠(うず)にも似てるかな。飾りであると同時に、鈴の音もした。それらの形と音を聞いた者たちが驚く様子が目に浮かぶ。当時馬は朝鮮半島経由でもたらされたと考えられ、とても貴重な存在だったために農耕用ではなく、軍馬だったのだろう。そして馬のいななきにもまた、驚く民の様子が想像出来る。 ブログ友の夢穂さんは東京国立博物館で開催中の特別展「出雲と大和」をご覧になったようだが、私はこの時に現地の博物館内に掲示されたこのポスターで知った。前期の展示は終了し、目下展示品の入れ替え中。その後3月末近くまで後期の展示は観られそうだ。(詳細は東京国立博物館のHPでご確認願います。これでこのシリーズを終了します。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。<完>
2020.01.27
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~鉄剣などに刻まれた文字~ <国宝の鉄鏃てつぞく=やじり:稲荷山古墳出土> 埼玉古墳群・稲荷山古墳から発見された鉄剣がとんでもなく貴重なものだったこと何度も記した。それなら文字が刻まれた鉄剣はとても数がすくないのだろうか。「いや実はそうでもなんですよ」。と言ったら亭大抵の人は「そんな馬鹿な」と言うだろう。だがそんなこともないのだ。種明かしをすればこんなこと。例えば日本刀の古刀にも作者の銘を刻んだものが結構ある。しかしそれは刀の値打ちを高めても、必ずしも日本史の謎の解明に役立つかどうかは、別問題なのだ。これでお分かりだろうか。 さて鉄剣に刻された銘文が発見されたと言われている遺跡(古墳など)は全国で8か所ある。残念ながら字が潰れて読めず、きっと〇ズキルーペを掛けても無理なはず。どうもスミマセンね。 それがこの8本なのだが、これもまた見づらいんだよなあ。小さくて字が読めない! しゃあない。では繰り返しになるけど、ちょっと復習しましょう。これが埼玉県行田市の稲荷山古墳。鉄剣が出たのは後円部(実際は奥の方)の頂上部。ここにあった礫郭からの発見でしたね。 ここの博物館では、真空の小部屋を作り、その中に剣を吊るしていました。真空にするのは腐食を防ぐため。そして吊るしたのは、前後左右から「裏表」の双方を見てもらうための工夫でした。 でもそれでは読みにくいため、やはり横に寝せて見ました。上の写真では金の文字がはっきり確認d来ますね。 これが全体像。この文字が出て来た時、きっと研究者の方は身震いしたことでしょうね。明らかに意味のある言葉がそこに刻まれていたためです。その興奮した様子が目に浮かびます。 これが鉄剣の<表側>の読み下し文。オワケノ臣はじめ8人の人名(恐らくは笠原氏)が読み取れます。 そしてこちらが裏側の読み下し文。「カサヒヨ」=「笠原氏と推定の根拠」。古代の発音は今と少し違っていましたが、推定は可能です。(例、伊治:当初は「イジ」後に「コレハリ=栗原)宮城県栗原市にあった古代の城柵です。 「白い部分」は刀に刻まれた字の形をより忠実に再現した。 やっと2番目。こちらは稲荷台1号墳(千葉県市原市)から出土した鉄剣。かなり腐食が進み、辛うじて字だと分かります。王から賜ったと記載されている由。 こちらは奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した剣。刻まれた字は明瞭ではないですが、環頭束(かんとうづか)の形が独特ですね。私は初めて見ましたが、これは中国大陸に源流があるものの特徴で、朝鮮半島を経由してわが国にもたらされたと推定出来るそうです。 これはご存知、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮所蔵の「七支剣」です。まるで「スギナ」のように枝分かれしていますね。この刀を地面に差して農事をしていたために腐食が進んだのです。それを明治期に考古学に造詣が深い宮司がたまたま着任し、これは貴重な剣と見抜き、さび落としに出したのが大発見につながったのです。 いつだれがこの剣を作り、だれに献上したかが分かります。この珍しい形の剣は百済の国王からヤマトの大王に献上されたのです。つまり百済がわが国に対して朝貢関係にあったことが一目瞭然。その意味でも貴重なのです。中国の史書には倭人を朝鮮半島3国の「安東将軍」に任命したことが明記されています。そして朝鮮半島の南部にはわが国の半島支配の足掛かりとなる根拠地(かつては任名(みなま日本府と呼ばれていましたが、今は韓国に遠慮したのか、そうは呼ばないことが増えましたが)。またかつての百済領地及び半島南西部地域からは幾つもの前方後円墳が発見されています。 一時日本の前方後円墳は韓国が起源と韓国の研究者がいきり立ちましたが、日本よりかなり遅い時期の建造と分かると、認識は一変します。。また縄文人がかなり古い時代から朝鮮半島で活動していたのは、隠岐の黒曜石が半島から出土することや半島南部全体から縄文土器が出土することでも裏付けられます。さて七支刀の重要性の確認後、この剣が再び農事に用いられることはなくなりました。 兵庫県八鹿(ようか)町の簀谷2号墳です。出土した剣の映像は見つかりませんでした。 松江市の岡田山1号墳です。ここからは「額田部臣(ぬかたべのおみ)」銘の大刀が出土しています。 お待たせ。最後にやっと登場したのは、熊本県菊水町にある「江田岩船山古墳」出土の鉄剣で、製造されたのは5世紀から6世紀にかけてと推定されています。この鉄剣に刻まれたのが「ワカタキル大王」つまり宋書に倭王武とある雄略天皇その人の名。稲荷山古墳の他にここからも彼の名が出たことで、雄略天皇実在説が確定した。いかに「金石文」が重要な史料であるかが分かるでしょう。<続く>
2020.01.25
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<蘇る死者> 皆の衆今日は!わしの名はオワケノ臣。住所は埼玉県行田市にある「埼玉古墳群」の一つ、稲荷山古墳の住人じゃよ。だがわし宛に手紙を出しても届かんぞ。なにせわしは今から1529年ほど前に死んどるでのう。それでもわしの名が日本全国に知られるようになったのは、わしの墓から1本の錆びた鉄刀が発掘されたからなんじゃよ。何とも不思議な話じゃ。今日はわし自身がわしの話を聞かせてあげようかのう。それにしても足元がスース―するぞ。何せわしは靴も靴下もないでのう。ふぉっふぉっふぉ。 これがわしが1500年以上も眠っとった稲荷山古墳じゃよ。墓は左手の階段を上った頂上にあっての。本当は2つの墓があったんじゃよ。わしの他にももう1人横に眠っておったんじゃのう。ふぉっふぉっふぉ。 こっちはもう一人が眠っておった石郭のある墓。ひょっとしてわしの親父どのじゃったんかのう。だがのう生憎そっちの方は後世盗掘にあっての、何も残ってなかったらしい。どの時代にも悪いヤツがおったんじゃのう。もしわしが生きとったら、絶対許さんのじゃがなあ。う~む残念無念。 でこっちがわしの寝床もといお墓があった場所。石ころを集めた墓を考古学の世界では礫郭(れきかく)と言うらしい。もっともこのままではみじめ。そこでわしにも少しマシなお棺が造られたんじゃ。 これがわしの棺桶じゃよ。大木を真っ二つに割っての。中を刳り抜いてあるんじゃ。礫郭が凹んどるのは、この大木の重さによってなんじゃよ・ふぉっふぉっふぉ。そしてわしの横には全部で5振りの鉄剣が置かれていた。もちろんわしはこの辺の豪族でかなり力を持っていたからのう。ふぉっふぉっふぉ。 これが後年金歓嵌文が発見された鉄剣じゃ。なに、2本もあるってか。いやいやそうじゃない。これは分かりやすいように表と裏の両方をみせたんじゃ。ここに彫ってあった115文字の文が、やがて日本国内を驚かせたんじゃから愉快じゃのう。やあ痛快痛快。 さて、こっちは何にも書かれてなくても国宝になった鉄剣じゃ。なに、それは不公平じゃとな。いや、そうではないんじゃ。115文字の銘文の解析で、副葬品として備えられた他の品々も、その貴重性ゆえ国宝になったと言う訳じゃ。貴重な歴史資料だからのう。それは3日後くらいに話すことにしよう。1)死者の名前などについて。 最初にある漢字の名前がわし。これで「ヲワケ」と読むんじゃよ。そしてここにはわしの名のほかにご先祖様のオオヒコ以下7名の名が刻まれておる。みなわしらの一族。つまりこの地を治めておった豪族(推定=笠原氏)なんじゃよ。そこまで分かったんじゃからビックリポンと言う訳さ。 2)わしらがしていた仕事の話・ ちょっと難しい表現じゃが、わしらは代々杖刀人首と言う役職に就いておったんじゃ。でもここでではないぞ。都におられる天皇の警備隊長と言ったら分かるかのう。つまりは腕を見込まれた武官なんじゃよ。そして遥々遠い都へ派遣されたと言う訳なんじゃ。都へは後の中山道を通るのが普通。山道で一見遠回りに見えるが、逆にその方が安全だったんじゃ。太平洋側の東海道には大河が多くて、渡るのが大変だったからのう。一旦大雨でも降ろうものなら当分の間は増水しとるでのう。 3)わしらが仕えた人の名は ハハハ。もう分かったじゃろう。ワカタキルさま。つまり後世第21代の雄略天皇と呼ばれたお方じゃ。この方はとても乱暴での、ご自分の本当の兄弟を何人も手に掛けたことで悪名が高いんじゃ。そして「宋書のいわゆる「倭の五王」の1人である「武」に比定されておる。やはり腕力が強かったでの。わしらもいつ罰せられるかとヒヤヒヤしとったぞ。ここだけの話」。 しっかり刻まれた「ワカタキル大王」の金色の名が眩しい。 実は、このワカタキルの名を刻んだ剣が熊本県の古墳からも出たことで、雄略天皇が実在したことが歴史的に確認されたと言う、日本史上の一大発見につながった訳。だからこそこの鉄剣が国宝となり、同時に埋葬された副葬品の全てが国宝指定と言う、前代未聞の快挙になったんじゃよ。分かったかの。 4)わしらが活躍した時代はいつ? 鉄剣には「辛亥」の字が刻まれていた。これは十干十二支(じゅっかんじゅうにし)の表現なので、西暦に換算すると紀元471年に相当し、今から1529年前にこの鉄剣が制作されたことが判明した。このことも雄略天皇の実在を裏付ける根拠となったのじゃよ。 こんな具合に、古代史や考古学は思い付きや適当な推定で物事を判断してるわけじゃなく、実証を繰り返して成立する学問であることを強調しておこう。つまり他にも人類学、生態学、言語学、神話学、文化人類学、植物学、解剖学、地質学、などの分野の協力を得て、最新学説が定説化されて行くんじゃ。分かったの。最後は少し肩に力が入ったが、さらに論考を続けよう。<続く>
2020.01.24
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<埋葬された将軍> <将軍山古墳に埋葬された「将軍」の再現騎馬像> 埼玉県行田市にある崎玉(さきたま)古墳群は国宝の稲荷山鉄剣が発見された「稲荷山古墳」など関東随一の古墳群です。あの国宝の鉄剣を作った「オワケノ臣」が、実はこんな姿だったのではと推定出来る副葬品が付近の「将軍山古墳」(前方後円墳)から出土しています。今回はその副葬品から、当時のヤマト王権の武人として仕え、この地の豪族だった「オワケノ臣」を偲んでみたいと思います。考古学の専門的な話ですが、写真を多用し読者の理解を助けたいと思います。 <石室内の副葬品の配置図>馬具が多いのが特徴です。 副葬品の馬具などを複製し、埋葬当時の配置状況を再現しています。色んなものが見えて興味深いです。 遺体および副葬品の忠実な複製化と、当時の埋葬状況再現。 「将軍」が着用していた兜(かぶと)と鎧(よろい)の想定図。鎧(桂甲=けいこう)は小さな金属片を紐で縛って作られています。 <馬具及び装飾品の装備状況再現図> 貴重な軍馬はこんな風に装備されていました。 軍馬に騎乗するための鞍(くら)。写真は鞍の前部で、揺られてずり落ちないための装置です。 不思議な形の金具は、騎乗者が将軍であることを表す旗竿(はたざお)を立てるための道具でした。 これは馬兜(ばちゅう)と言い、大事な馬が敵の武器で怪我しないよう顔全体を覆ったのです。それだけ馬は貴重で、朝鮮半島経由でわが国にもたらされたと考えられます。再現した複製品です。 軍馬の飾り金具の一種の杏葉(ぎょうよう)の破片です。銀杏の葉っぱに似た形からの命名で、福岡県の宗像(むなかた)大社所蔵の物は特に有名で、純金製の完成品(国宝)で気品があり、美術品としても優れています。 馬鈴(ばれい)です。馬に付け馬が動くと音がしました。さて、どんな音だったのかな。 生前に将軍が使用した品か。 将軍が着用した耳輪か。金の純度は不明です。 ガラス小玉のネックレス。当時のガラス製品はすべて舶来の貴重品です。古墳時代にはるばるシルクロードを経由して伝わったガラス製品が、関東地方の豪族が着用していたとはねえ。やはりこの一族はヤマト王権に直接仕えた武官だったのでしょう。 ベルトの金具です。金属製の部分だけが腐食せずに残っていました。 <続く>
2020.01.21
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<埼玉県行田市埼玉古墳群の古墳たち> 公園内風景。まだかつての湿地や田んぼの跡が残ってますねえ。右手奥が丸墓山古墳です。 大連旅行関係の写真の整理が全く手についておりません。整理までの間、休止していたこのシリーズを再開します。国宝の「稲荷山鉄剣」」などが後で出て来ますので、それを楽しみに辛抱強くお待ち願います。今日は園内の主な古墳の写真を掲載します。 丸墓山古墳(日本一巨大な円墳)。頂上に数本の桜の木が植えられていて、お花見の名所です。 丸墓山古墳の航空写真。きれいな円墳であることが一目瞭然ですね。 丸墓山古墳の測量図。等高線がきれいにそろっています。見事な円墳です。 在りし日の丸墓山古墳と田起こしをする農家の方。背後に見えるのが石田三成が利根川と荒川の堤防を破壊して川の水を入れ、忍城を水攻めにした際に築いた「石田堤」。三成の陣地は丸墓山の頂上にあり、水没することはなかった。映画「のぼうの城」は傑作で、戦いの様子がほぼ再現されていましたね。 左側の将軍山古墳に円筒型埴輪が立ってるのが見えます。右手奥が二子山古墳。 成形された将軍山古墳の後円部を取り巻くように立つ埴輪列。 将軍山古墳下部に突き出た「造り出し部分」にも埴輪が並んで立っている。 稲荷山古墳の全容。右手の後円部頂上の礫郭(れきかく)から「稲荷山鉄剣」などが出土しています。その出土品の全てが国宝に指定されています。それほど歴史的に貴重な品だったのです。詳細は後日紹介しますが、それが古代日本史を塗り替えるほどの大発見につながるのですから、物事とは分からないものですねえ 稲荷山古墳全景。右手後円部頂上に2つの墓があり、うち1つが盗掘され未盗掘の墓に鉄剣などが副葬されていました。それが後年、大変な騒動となる原因をつくることになるのです。 <埋葬想定図>まさかこの被葬者の名前まで分かるようになるとはねえ。だから「事実」は面白い。 秋の稲荷山古墳周辺にはコスモスの花が。 <続く>
2020.01.20
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<埼玉古墳群の埴輪たち> 埼玉古墳群の配置図です。上方の黒くアンダーラインが引かれたのが将軍塚古墳で、下方の黒くアンダーラインが引かれたのが瓦塚古墳です。今回はこの2つの古墳から発掘された埴輪を紹介することにします。 瓦塚古墳の説明文です。以下にこの古墳の埴輪を紹介します。 動物埴輪の説明文です。ご参照ください。 左は犬。古くから人間に飼われ、猟などにもお供しました。右は白鳥。古代には割と身近な動物だったのでしょう。日本武尊が三重で死んだ後、白鳥になって都へ帰ったとの白鳥伝説が有名です。 馬は朝鮮半島経由でわが国にもたらされたようで、古代は専ら軍馬として用いられました。豪族の死後、古墳の周囲に生前の馴染み深い動物や使用した物、墓を警備する武人の埴輪などが立てられました。 倒れた状態の埴輪。本来は古墳の側面に立てられていたのが、長い歳月の間に倒れたのです。 以下は将軍塚古墳の人物埴輪です。殉死した兵士の代わりに、土師氏の祖である野見宿祢が考案して土で兵士などの埴輪を作り、豪族などの墳墓に並べたのです。 盾持ち人物埴輪 朝顔型円筒埴輪と呼ばれるものです。これらが古墳に並んだ姿は壮観だったことでしょう。 異常の朝顔形円筒埴輪は、どうやら国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳のもののようです。 将軍塚古墳に配置された「琴を弾く人」の人物埴輪(左)とその復元図(右) 稲荷山古墳に配置された家形埴輪。当時の豪族が住んだ家屋の形が想定出来ますね。 当時の武人の様子も分かりますね。このように埴輪から当時の服装、飼っていた動物、住宅、船の構造などが推測出来ます。埴輪の数量と内容が最も充実した古墳は、大阪府高槻市にある「今城塚古墳」と思われます。同古墳は第22代継体天皇の被葬地とされ、付近には巨大な埴輪工場が数か所存在します。なお宮内庁の天皇陵は茨木市にありますが、築造年代が継体天皇の時代とは異なります。<来年に続く>
2019.12.28
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<「埼玉古墳群」の位置関係> 「埼玉古墳群」の位置関係を示した地図です。利根川と荒川に挟まれた土地(湿地帯)だったことが分かります。大きな古墳は西側の上野国(現在の群馬県)にも多いのです。その理由を私なりに考えると、両方とも古代から中山道(東山道)によって大和朝廷と強い協力関係があったためと思われます。当時は東海道よりも中山道(東山道)の方が安全で主流な官道だったと。ただし奈良時代以降、武蔵国府が現在の東京都国分寺市周辺に置かれると、この地の豪族の力が衰えたと考えられます。 整備前の公園です。湿地を埋めるため、古墳の土が取られたりしていました。今では信じられない話ですが。 国指定の史跡として整備された後の航空写真です。土を取った跡も埋め戻され、きれいな古墳の形になっています。<将軍山古墳と出土品など> 将軍山古墳(緑の濃い場所)の位置。古墳主軸の長さ=90m。後円部高さ=8m以上。 埴輪の配列想定図。 発掘調査前の将軍山古墳。土が埋め立て用に取られて、古墳の形が崩れています。 整備前の測量図。古墳の土が取られた様子が良く分かります。 整備後の将軍山古墳。古墳の右側に地下の展示館のコンクリート屋根が見えています。 地下の展示館の看板が立っています。ここの見学は博物館の入館料に含まれています。 出土品などから復元された被葬者の騎馬像です。「将軍」の名は、ここから来たのでしょうね。 石室内部模図。 出土品などから復元した被葬者(将軍)と彼が乗った騎馬。 石室にあった黄色い石(房州石)は現在の千葉県南部から運ばれたものと判明しました。 上の説明文です。 遺体の埋葬状況を精密に再現してありました。本日掲載分の写真が複雑で、記事を書くのがとても困難でした。かなり専門的な内容で、興味の無い読者には読むのもさぞかし苦痛だったことでしょう。最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。なお、本日紹介した出土品に国宝は含まれておりません。国宝が出土したのは、「稲荷山古墳」(後日紹介予定)です。<続く>
2019.12.27
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~さきたま古墳群と博物館その1~ 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」です。埼玉県行田市にあります。11月27日(水)富山県の宇奈月温泉からの帰り道、寄ったのがここでした。熊谷駅で長野新幹線を降り、そこからJR高崎線で行田駅へ。駅前からのバスは平日のため少なく、数台しかないタクシーもなかなか来なくて困りました。駅から博物館までの料金は1980円でした。 博物館前に「埼玉県名発祥之地」の堂々たる石碑が建っていました。「さきたま古墳群」の名前が「埼玉県」となったのですね。ここに5世紀後半から7世紀初めまでに造られた9基の大型古墳が集中しています。昭和13年に国の史跡に指定されて以降、史跡公園として整備が図られて来ました。 ほとんどが大型の前方後円墳ですが、左上方の丸墓山古墳だけが円墳です。この地は利根川と荒川に挟まれた湿地帯で、その湿地を埋めるため、かなり古くから古墳の土を掘り出していたようです。そのためかなりの数の小型の円墳が姿を消してしまったようです。残念なことをしましたね。 現時点での航空図です。「さきたま古墳公園」として行田市民、埼玉県民から広くし親しまれています。私も今回が2度目の来園でした。アクセスが不便なのが残念。付近には「古代ハス園」もあり、花の時期は特に賑わいます。この古墳が有名なのは、稲荷山古墳(前方後円墳)から出土した鉄剣から、金で象嵌された115文字の金石文が発見されたことです。そこに歴史的な人物の名があり、朝廷と地方豪族の協力関係が解明されたのです。まさに歴史的な快挙。副葬品は一括して国宝に指定されています。 入場料は成人が1人200円。ただみたいなものです。そして「将軍塚古墳」の地下にある、展示館にも入場することが出来ます。博物館展示館ともに撮影も可能なので、考古学ファンにはたまりませんね。 博物館前の道路です。この道を前方に直進すると県道を越えて公園内の各古墳へと向かいます。また逆方向に向かっても、幾つかの前方後円墳と出会えます。 公園内の紅葉と落ち葉がきれいでした。 二子山古墳。2つの山があるのでそう呼ばれます。前方後円墳のこの形を「茶臼」と言う表現もして、国内には「茶臼山古墳」などと呼ばれるケースもあります。 二子山古墳横の湿地(元周濠跡)で餌を探していたアオサギ。 丸墓山古墳は直径約200m。国内で最大級の円墳です。発掘調査されたことはありません。墓の上は戦国時代秀吉が北条攻めをした際、石田三成が陣を置いた場所です。忍(おし)城は北条側の出城。この抵抗に手こずった三成は堤を築き、利根川と荒川の水を入れて水攻めにしたのです。その実話が「のぼうの城」として映画化されています。 丸墓山まで真っ直ぐに伸びるこの道路が三成が築いた「石田堤」の痕跡なのです。戦国時代の戦いの跡が道路として今も残っているなんて不思議な話ですね。このように当時関東の各地では、豊臣方と北条側の熾烈な戦いが続いていたのです。最後は「小田原攻め」で決着がつき、秀吉の天下統一につながりました。 春の丸墓山古墳。ここは桜の名所で、塚に登って花見を楽しめます。 冬の丸墓山古墳。雪で真っ白な古墳の姿とは珍しいですね。明日からは考古学の専門的な内容になりますが、我慢して最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。ではまた明日ね。<続く>
2019.12.26
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~最終章・出雲王国と大和政権~ さて、用意した写真も尽きかけた。そろそろ結論を急ごう。出雲と大和との関係であり、大国主神の本質の解明であり、古代日本に何が起こったのかの謎解きだ。私は端的に「出雲王国」と「大和政権」の勢力争いと見ているのだが。 これは出雲大社の神紋、「亀甲に剣花菱紋」である。これにも花は勾玉であり、中心の円は鏡、そして剣が4振りあるとの言い伝えがある。勾玉、鏡、剣は「三種の神器」そっくりではないか。出雲王国の意地が秘められているのだろうか。また大和政権に譲ったのは出雲ではなく、出雲以外の領地との説もある。つまり出雲王国は大和朝廷より以前に成立し、広範囲の領地を有していたとの考えだ。 大国主神は杵築大神、大物主神、大己貴命(おおなむちのかみ)、大穴持神など15以上の別名を持っている。大和国一之宮である大神(おおみわ)神社の祭神は大己貴命で、第七代孝霊天皇の皇女ヤマトトトソモモソヒメの夫とされる。だが、三輪山の主は蛇の形になって姫の元に通ったと言う。姫が葬られたとされる箸墓は、卑弥呼の墓とも言われている。出雲族と大和王権との関係が窺える伝説だ。 蛇は龍であり、水の神、農業の守り神だ。大神神社には白蛇が棲み、神前に「生卵」が供えられている。出雲は蛇を祀る神社が多いことでも知られる。毎年秋から冬にかけて対馬海流に乗って産卵に来るウミヘビを捉え、神前に供える儀式が伝わっている。不思議なことに沖縄の久高島では、ウミヘビの捕捉は身分の高い祝女(のろ)だけに許された仕事、つまり出雲同様重要な神事なのだ。 神武東征の際に協力した熊野三山。その中でもっとも奥地の熊野本宮大社は、松江市にある熊野大社(出雲大社と共に出雲国一之宮)からの分祀とされる。そして祭神の櫛御気(くしみけ)命の「くしみけ」は奇しき食べ物と言う意味。丹後一之宮である籠神社の奥宮、ひいては伊勢神宮外宮の祭神と深くつながっている。さらに出雲大社近辺には、大和と共通の地名が幾つも残されている。 上の写真は「四隅突出墓」と言われる古い形の古墳。四隅に「舌」のような出っ張りがあるのが特徴だ。最初に出現したのは中国地方の山中で広島県三次市近辺。それが日本海沿岸に進出して、出雲を代表する古墳となった。この古墳が分布するのは北陸から新潟付近までで、その他の地方には全く存在しない。出雲王国との協力関係にあったことを窺わせる事実だ。 島根県下の荒神谷遺跡及び加茂岩倉遺跡からは、おびただしい数の銅剣、銅矛及び銅鐸が出土している。2つの重なった文化圏を持つことから、出雲は九州から機内に至る広範囲の交流関係にあったと推定される。上は島根県立古代出雲歴史博物館に陳列されたもの。あまりの量の多さに度肝を抜かれる。不思議なことに、これらの中には✖印を付されたものが混じっている。それは一体何を意味するのか。 銅鐸も尋常な数量ではなく、中には国宝もある。淡路島からも同じ型が出土しており、古代出雲王国の影響力が分かるだろう。だが出雲の銅剣と銅鐸は深く土に埋められていた。銅は鉄に劣り、銅剣は鉄剣に敗れる。それは大和王権に屈した証だろうか。そして大和王権に下ることで、稲作祭祀に不可欠だった銅鐸も、存在意義がなくなったのだろうか。銅鐸の幾つかにも✖印が付されていたのだ。 <CGで再現した古代の出雲大社> 能登の浜辺に鳥居が立っている。気多大社の祭神は大国主命。能登には大国主命が村々を練り歩く祭りが今も残る。出雲と交流があった証拠だ。宗像氏が祀る宗像大社には辺津宮があり、市杵姫を祀る広島の安芸の宮島も鳥居が海中に立つ。対馬の和多津美神社も同様だが、最近韓国人の立ち入りを禁止した。落書きなどをするのだ。私は昨年訪れたが、境内の石垣に韓国式の積み石がしてあり非常に腹が立った。 さて、「旅・歴史と美を訪ねて」のタイトルで書き始めたこのシリーズだが、最後に歴史に触れることが出来た。私は歴史学や考古学を専攻した訳ではないが、日本の古代史に深い関心を寄せて来た。今回の旅が少しは謎を解くきっかけになれたかどうか。残念なのは島根県立古代出雲歴史博物館に立ち寄れなかったこと。旅行会社のツアーでは到底無理だし、帰宅後にその存在を知ったのだが。 出雲は国つ神=在来の民。天つ神=天孫族は後から日本列島に来た人たちだろうが、出雲は縄文人と早めに通婚していたことがDNA分析で分かっている。「魏志倭人伝」には「倭国大乱」とあるが、両者での争いはどうだったのだろう。大国主命はスサノオの子とも7世の子孫とも言われるが、それなら天孫族同士の国譲りだったのだろうか。神話で歴史の謎は解けず、科学的な実証が必要。私の歴史を学ぶ旅は続きそうだ。ではまたね。<完><お断り> ここに紹介したのは定説ではなく、一つの考え方に過ぎません。学問の進歩に伴って、今後も新たな事実が解明されることでしょう。日本の古代史が科学的に解き明かされる日が一日も早く訪れることを、心から願って筆を置く次第です。頓首。
2019.12.17
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<宮城県の土偶> さて再び土偶の話に戻る。東北歴史博物館で開催された特別展『蝦夷 ~古代エミシと律令国家~』(11月24日まで開催中)を観るのが目的だったが、企画展「宮城の土偶」にも興味があった。65枚ほどの土偶の写真を撮った。あえて4回に分け、その間隔を開けた。理由は専門的な内容の記事を4日連続では飽きると思ったのだ。それで土偶同様にバラバラに分けた次第。 それで写真の説明も簡単にした。到底専門的なことを書く能力がないからだが、こんな地味なものにも読者が関心を持ってくれただけで嬉しい。明らかに縄文人は私たち日本人の祖先。その遠い祖先たちが、なぜこのようなものを作ったのか。それを感じ、考えてもらえたら嬉しい。それが私の願いだ。 縄文土器は世界で最も古い土器と言われている。彼らが作った土偶にも、彼らの宗教性や思想が強く反映されている。今よりもずっと人口密度の薄かった時代に、人々は肩を寄せ合うように協力しながら暮らしていた。 それで平均寿命が37歳と言う、彼らの生活が維持出来たのだ。37歳は短いと思う人が大半のはず。だが数十年前までのインド人の平均寿命は40歳以下。女性は15歳くらいで結婚し、30歳くらいでお婆さんになるのが普通だったと聞く。 子孫繁栄と健康を祈って土偶を作り、自らの身代わりにせっかく作った土偶を壊した。壊すことによって人は長生きし、幸せを得る。現代人から見たら不思議な感覚だが、後の人形も全く同じ思いで作られたことは既に書いた通りだ。 こんなあどけない顔をした土偶を作る縄文人の凄さは、当時から既に広範囲の交流をしていたことだ。青森市の三内丸山遺跡には、北海道から矢じりやナイフの材料になる黒曜石(こくようせき)が、岩手県からは琥珀(こはく)、秋田県からは接着剤になるアスファルト、そして新潟県からは翡翠(ひすい)が届けられている。もちろん当時は丸木舟しかない。その小舟で海を渡っていたのだ。 もっと驚くのは釧(くしろ=腕輪)の材料であるイモガイやゴホウラガイなどが遥々運ばれて来たことだ。それらは沖縄近海でしか獲れない種類の貝。そして沖縄の宮古島でも縄文土器が発掘されている。そのことでも縄文人の能力の高さが分かるだろう。 私たちが習った縄文人は、採集生活をしていたと言うことだった。男は海で魚や貝を獲り、山では獣や鳥を獲った。その間女たちは機を織り、木の実を拾った。そんな風に教えられて、縄文人のイメージが定着していた。 だがその後の研究で、縄文人が作物を栽培していたことが分かった。粟(アワ)や稗(ヒエ)などの穀物や荏胡麻(エゴマ)なども。そして食料として確保するために大規模の栗林(三内丸山)や、塗料や接着剤としての漆(ウルシ)の栽培(八戸市是川遺跡)も確認された。 さらに驚くことに、これまで弥生時代から始まると考えられて来た稲作が、実は縄文時代から行われて来たことが分かっている。ただし、水稲ではなく陸稲(おかぼ=焼畑による)なのだが。その可能性について、私は23年ほど前の職場の研究者から話を聞いていたが、まさか本当だったとは。 そして弥生時代の始まりも、これまでより500年も古いと考えられることが分かって来た。それに加えて分子生物学の進展。DNA解析によって人類の遺伝子がほぼ正確に確認され、祖先が辿った道のりまでが判明し出した。ただし男子と女子とでは判別出来る遺伝子の型が違うのだが。 いやはやとんでもなく話が脱線したようだ。私は夢中で土偶の写真を撮りながら、一抹の寂しさを感じていた。それは宮城の土偶は少し貧弱なように感じたからだ。八戸市是川遺跡の合掌土偶(下A)、青森県亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶(下B)のような凄さはない。それに新潟県の火焔型土器(下C)のような物凄いエネルギーの土器も県内では見つかっていないからだ。 A B C<参考資料> A合掌土偶(青森県八戸市是川遺跡出土) B遮光器土偶(青森県亀ケ岡遺跡出土) C火焔型土器(新潟県立歴史博物館所蔵) いすれも国宝または国宝級のものです。 でも他県の遺物と比較する必要もないだろう。それらの地区は縄文時代の先進地帯だったのだ。それだけ海流を通じての交流があったのだろう。だがこの土偶を見直したら、ちゃんと服を着ている。まんざら劣っているわけでもないだろう。そう思うことにした。 そしてちゃんと遮光器土偶になってるもの(上)や、ユニークなハート形の顔の土偶(下)もあるしね。ちなみに「遮光器」と言うのはイヌイット(かつてはエスキモーと呼ばれていた民族)が雪の反射光を避けるためにかけている「眼鏡」に似ていることからの命名。 そして展示室を出てから驚いた。なんとそこには「撮影禁止」と書かれていたのだ。前回は撮影許可だったのですっかりその気になっていた自分。しかしなぜ撮影禁止なのかが分からない。撮影して困ることがあるのだろうか。展示品が各市町村からの借り物だからなのか。論文が未発表のためなのか。著作権があるとも思えないし、逆に良いPRになると私は思うのだが。とも角ここは謝っておこう。<完>
2019.10.22
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<宮城の土偶3> こんにちは。今日もまたわたしたち土偶のお話よ。お願いだから、もう飽きたなんて言わないでね。 最初にお話したように、わたしたち土偶が壊されているのは、人間に代わって災いを避けるためなの。壊すことによって人間が病気にならないなんて卑怯よねえ。 <新しい命の誕生を祈って>。 でも縄文人の真剣な祈りが、やがて形を変えて行くのよ。 <大きなおなか>たとえば「流しびな」。これはもっともっと後の時代だけど、人間の災いを紙人形に託し、それを川に流して厄払いしたのよ。言ってみればそれが「雛人形」の始まりね。 <生まれて来る子供が健やかでありますように> だから人形は「にんぎょう」じゃなくって、「ひとかた」だったのよ。人の形に作って人に代わって災いを受けてくれたの。縄文の土偶がバラバラに壊されたのも、それと一緒の考え方。つまり「ひとかた」だったって訳よね。 わたしたちの時代から、出産は大事業だったの。だって今のように産婦人科の先生や助産婦さんもいなかったしね。だから母子ともに命を失うケースも多かったのよ。 不幸にして亡くなった赤ちゃんは囲炉裏の周りを掘って埋めたり、住居の近くの墓地に埋めたのよ。それは亡くなった後も、家族の傍から離れないよう大事にされていた証拠なの。 珍しく壊れてない土偶も見つかったようね。時には「アスファルト」や「ウルシ」などを接着剤にして修理した痕のある土偶が見つかることもあるんだって。それらはきっと重要な儀式で使うため、大事にされたんだろうね、きっと。 少しは縄文人の気持ちが分かってもらえたかしら。そしてわたしたち土偶の重要な役割もね。<不定期に続く>
2019.10.18
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~宮城の土偶2~ 私の体に書き込まれた文字は、発掘した年月日と遺跡の場所を示しているのよ。 相変わらずのこんな姿でゴメンなさいね。首や手足を壊されたのよねえ。グスン。 手を合わせて拝んでるんだけど、みんな不気味だって言うのよねえ。 私は女よ。ほらおっぱいが付いてるでしょ。そしてお腹も大きいの。顔の刺青も見てね。 ふふふ。ミロのビーナスみたいでしょ、わたし。 縄文人の平均寿命は37歳と考えられているの。だからこうして生まれて来る子供が無事に成長し、長生き出来るようお祈りをしたのよ。 これも妊婦。お腹が大きいでしょ。 これだけバラバラにされると、もう体のどこだか分からなくなるわねえ。 これにもおっぱい。そしてお腹には妊娠線がくっきりと。 29番さんの体のイボイボは刺青の代わりかしら。そして、ちゃんと立つように作られているわねえ。 ゾウさんじゃないよ。これでも人間のつもりなの。 どちらにもおっぱいがあり、刺青が施されているわねえ。 やだ~っ。顔を壊されちゃ見えないじゃないの。 ボクは宇宙人。円盤に乗って宇宙からやって来た。ボヨヨ~ン。 最後は私が締めるわね。鼻が欠けてみっともないけど、ハート形の顔が素敵でしょ。<続く>
2019.10.13
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~宮城の土偶1~ やあ、こんにちは。おれの名前は土偶。縄文時代に作られたんだよ。それも宮城県内でね。もっともおれが作られた頃は、そんな名前などなくて、ただ広い原野がどこまでも広がっていただけなのさ。おれを作ったのは縄文人と言ってね。今の日本人の先祖なんだよ。だから君たちにもおれとどこか似たところがあるはずさ。えっ、全然似てないって。ハハハ。それは失礼。ではおれたちの仲間を紹介するね。 一番下の真ん中にいるのがおれ。顔に何か模様がついてるのは刺青(いれずみ)だよ。恰好良いだろ。でおれの周りにいるのもみんな土偶。帽子を被ったのや、手がないのや、胴体だけのもあるよね。お願いだから「気味が悪い」なんて言わないで。これはみんな人間のためなんだ。自分に代わっておれたちを壊し、元気で長生き出来るようにいのったのさ。つまりおれたちは犠牲者ってわけ。 それにしてもバラバラだねえ。こんなになっても展示する意味があるんだろうか。人間って勝手なもんだねえ。自分の都合で壊したり、何千年後に掘り出して、こんな明るい場所に並べたりして。 されたんだけど。 でも、ちゃんと見るといろんな模様がついてるでしょ。縄文人が結構丁寧におれたちを作ってくれたのさ。でも最終的には壊してバラバラにされたんだけど。 グスングスン。悲しいよう。もっともっと長生きしたかったのになあ。 サンダルじゃないよ。これっておれたちの服なの。良いデザインでしょ。えへん。 エエ~ン、エエ~ン。ボクも泣きたいよう。 ボクは円盤に乗って来た宇宙人。地球の皆さんヨロシクね。 僕たちは「一つ目小僧」。でもちゃんと良く見えるけどね。 待って~、お兄ちゃんたち。ボクも忘れないで~!! 一つ目の上に切腹までさせられたもんなあ、おれなんか。 あのねえ。ビスケットを並べたんじゃないんだよなあ。 わお~っ。目が広がってる分ワイドに見えるんだよなあ。 君なんか良いよ、まだ。ボクなんか口だけだもんね。 エヘン。ボクの頭は平らだよ。ヘリコプターだって着陸出来るさ。 明日もまたヨロシクね~。<続く>
2019.10.12
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~東北歴史博物館特別展を観て その3~ <古代の官道と城柵(宮城県内)> 古代の官道は道幅が広く、極力直線的に造られている。また約18kmごとに駅舎を設け、中央政庁との連絡用の馬がいた。これが「駅伝」の起りだ。官道(黒線)は下野国(栃木県)から多賀城に到り、伊治(これはり)城へから岩手県南部の胆沢(いさわ)城、盛岡の紫波(しわ)城へと続いていた。また反乱した出羽のエミシを鎮めるため、宮城県大崎市から秋田県内陸部に至る道が新たに造成された。 <伊治城平面図> 伊治城はエミシ対策上多賀城創建以前に築城され、元エミシの伊治公呰麻呂(これはりのきみ・あざまろ)は服属し、伊治公姓を賜る。「これはり」が後の郡名「栗原」になったと言われる。桃生城主の道嶋氏が嘲笑したことに逆上して伊治城内で道嶋を殺害し、さらに国府多賀城を急襲。このため多賀城は炎上し落城と言う大事件が起きた。だが逆賊である呰麻呂の墓が今も残されているのが不思議だ。 <胆沢城の鬼瓦> 前進基地はさらに北上し、坂上田村麻呂が征夷大将軍兼鎮守府将軍となって胆沢城に駐屯。北上川を船で北上して阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)らが率いるエミシ軍と戦い、これを下した。勇猛で人望のある彼らの命を惜しんだ田村麻呂は彼らの助命を嘆願するが、公家らの反対で死罪が決定。大和川の岸辺で2人は惨殺される。近年になって、清水寺の舞台下に彼らの慰霊碑が建立された。 <志波城南門=盛岡市=復元> 最前線の城が盛岡市の志波(しわ)城。ここを根城にして田村麻呂は戦った。さらに文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)は八戸方面のエミシである爾薩体(にさったい)と久慈方面のエミシ閉伊(へい)を襲って平定する。その後川の氾濫により城域が破壊されると、南の徳丹城まで退き、志波城はそのまま放置された。現在城跡は公園として復元され、付近に盛岡市立「学びの館」が開設されている。 <秋田城水洗トイレ復元状態> 一方日本海側での最北端の古代城柵が秋田城だった。飽田(あきた)のエミシの鎮圧のため、内陸部に雄物柵が築かれ、一進一退状態で朝廷軍が北上する。秋田城は日本海を見下ろす丘陵地にあり、後に山形から出羽国府が移転し、日本海を通じて兵士や食料が送られて来た。現在秋田城南門と当時の水洗トイレなどが再現されている。渤海使(ぼっかいし)の迎賓館がここに置かれていたのだ。 渤海国は唐と新羅の連合軍と戦って絶滅した高句麗の末裔で日本海沿岸に立国し、庇護を求めて朝貢して来た。当時は潮流に乗るしかなく、都から遠く離れた能登半島に接待所が置かれた。秋田への来航は貿易が目的との説もある。環日本海貿易の端緒であり、後世の平泉文化を支えた十三湊の安東氏の貿易にもつながる。それによって大陸の馬や蝦夷錦、海獣の毛皮などの貴重品がもたらされた。 <前九年の役絵図断片> 律令体制下に入った後も東北では元エミシ同士の戦いが続いた。羽後国(秋田)を舞台にした前九年の役(ぜんくねんのえき)では源氏と清原氏の連合軍が、奥六軍(岩手)の元エミシ安倍氏と戦って安倍氏が敗北。後三年の役(ごさんねんのえき)では逆に源氏と結んだ安倍氏が清原氏を滅亡に追い込んだ。この後安倍清衡は父祖の姓藤原氏を名乗り、奥州藤原氏として平泉に壮大な都と寺院を築く。 <平泉・柳之御所から出土した鏡(左左)と人面が描かれた壺(右) > 奥州藤原氏は4代に渡って栄華を極め、平泉は東の都と呼ばれるほど繁栄した。だが義経を匿ったとの理由で頼朝は関東から騎馬軍団を派遣し滅亡させた。この敗北により、東北の古代は終わりを告げた。 さて東北は歴史の中で3度朝敵とされている。1つ目は古代のエミシ征伐。2つ目は頼朝による奥州藤原氏討伐で、東北の富は鎌倉幕府のものとなった。そして3つ目が幕末の「戊辰戦争」。朝敵となった東北各藩は、明治後暫くの間は冷遇を受けた。振り返れば実に長い忍従の歴史であった。 <東北歴史博物館所有 今野家住宅> この特別展はテーマがかなり専門的であり、かつ対象となる地域と時代が限定されている。私には垂涎もののテーマだが、ほとんどの読者は文章を読むのでさえ苦痛だろう。そこで「展示目録」の写真を載せ、説明も平易に書き直そう。そうすれば幾分理解が進むのではないかと考えたのだが、その目的は果たせただろうか。さらに私見を述べたいところだが、それはいずれの日にかに譲ろうと思う。 <今野家住宅のカマ神=かまどを守る神様> 目録は展示物のリストで、あったのは専門家によるごく手短かな解説のみ。それも学術的過ぎて読者には理解が困難と判断。そこでウィキペディアなどを参照し、より簡明に書き直した。これが自分にとってはとても良い勉強になった。また今回の特別展に遭遇したことによって、長年抱いていた歴史上の謎が一挙に解決した感が強い。この場を借りて謝意を記し、本稿を一旦閉じることにしたい。<完> 同日に観た企画展も、いずれ紹介する予定です。
2019.10.07
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<東北歴史博物館特別展を観て2> 展示目録の中に1枚の地図が載っていた。そこには色んな記号や、「仕切り」や説明が施されている。だがあまりにも専門的過ぎて、多くの読者は理解出来ないだろう。ただ言えるのは「大和朝廷」と「エミシ」には色んなせめぎ合いがあったと言う事実。文化と墓制の違い、農業の違い、時代による民族の移動と支配地の変遷などが浮かび上がる。エミシは国内統一の最後の砦だった。 中央に「山道蝦夷」、太平洋側に「海道蝦夷」の名が見える。山道エミシは「東山道」の奥に住み、北端のエミシは「爾薩体(にさったい)」。初期は北上川を船で遡って攻め込んだ。一方海道エミシは「東海道」の太平洋側で、北端には「閉伊(へい)」がいたが、共に文屋綿麻呂に征伐される。なおこの際の「道」は「地域」の意味。 上右は大和朝廷側の前進基地である城柵(じょうさく)が設置された場所を示す地図。上左はその設置年。日本海側は647年のぬたりの柵(新潟)、658年つきさら(新潟)、689年うきたむ(山形)、709年出羽柵、780年秋田城と北上する。出羽国(秋田、山形)は陸奥国からの分国。 一方太平洋側には737年の多賀柵を嚆矢として海道、山道それぞれに前進基地が築かれて行く。この間780年には陸奥国府並びに鎮守府が多賀城に置かれ、それ以前には仙台市太白区郡山に多賀城の前身となる国府が置かれたと考えられる。やがて坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、北上川を北上してエミシを攻め、盛岡市の志波城が803年に築かれる結果、エミシが朝廷に下ることになる。 <ねぶた絵 津軽エミシを征伐する阿倍比羅夫(右)> 話は前後するが、斉明天皇4年(658年)越の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)は渡島(現在の北海道)のミシハセ(北方民族)を180隻の水軍で征伐。また飽田(あきた=秋田)周辺のエミシも征伐し、服従した恩荷(おんが=男鹿)を能代、津軽の郡領に命じた。後に将軍となって朝鮮半島に出兵し、663年百済と連合して白村江で戦い敗北する。東アジアは日本海を巡って揺れ動いていたのだ。 <国府多賀城政庁跡地の発掘現場> 多賀城は陸奥国府であると同時に、北辺の国庁としてエミシの懐柔に当たり、治安に努めた。新たに郡を置いて関東周辺から農民を移住させて農業を興し、税を治めさせた。このため、人と共に地名や神社も移って来た。多賀城裏面にある総社の宮には、移住者が信仰した各地の氏神など100社がまとめて分祀されている。また多賀社を国府の守護神として分祀し、これが多賀城の地名の起源となった。 <多賀城政庁復元図> 国府多賀城は小高い丘の上に建てられ、周囲を堅牢な塀で蔽われていた。城内には5万人もの兵士が駐留し、城下には整然とした大路が縦横に整備され、付属寺院が設置されていた。出土した土器に「観音」の名が見えることから、観音寺だと推定される。また陸奥国府鎮護と航行を守るため、陸奥国一之宮として塩竃神社が置かれた。城下には市が立ち、官人や兵士の食料や塩などが国内各地から届けられた。 <政庁前での朝礼の様子> 丘の上の堂々たる建物群は、服従したエミシにとっては異次元の世界に見えたことだろう。付属寺院の荘厳さ、政庁前における朝礼の儀式など、彼らにはすべてが驚きの光景だったに違いない。これが朝廷の威光か。これが律令国家の実態か。ほとんどのエミシは、心から恭順の意を示したことだろう。ところがやがてこの地で一大事件が発生する。<続く>
2019.10.06
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~東北歴史博物館の特別展を観て~ ポスター 特別展「蝦夷~古代エミシと律令国家」を過日観て来た。これは東北歴史博物館開館の20周年記念と、宮城県多賀城跡調査研究所設立50周年記念の双方を兼ねた企画で、陸奥国国府である多賀城の傍にある研究調査機関としては力が入らざるを得ないと推察される。私のライフワークとも言える古代東北研究に直接関わるテーマだけに、珍しく会期早々に出かけたのだった。 日本書紀の一節 太古倭国の東方に「日高見国」と言う国があった。人々は力が強くて極めて粗暴。声が大きく朝廷に従わない。いわゆる「まつろわぬ国」で、九州の熊襲(くまそ)と同様に恐れられていた。そこで記紀は日本武尊を遣わし、征伐したとある。 さて、古代東北の蝦夷は後のアイヌとは異なる。「エミシ」と呼ばれた東北地方以北の人々。彼らの実態と、中央との関係を明らかにするのが今回の特別展の趣旨だ。 <出土した蕨手(わらびて)刀(上)とその再現品および鞘(下)> 「日高見(ひたかみ)」は太陽が高く上がる地方の意味で、後に「北上」に転じたとの説がある。縄文時代の東北地方は日本で最も栄え、弥生時代には青森県にまで早々に水稲技術が到達した。だが気候の冷涼化に伴って水稲が不可能(冷害に強い品種が生まれてなかったため)になると、北海道南部から「続縄文文化」が東北へと浸透する。古墳時代には中央政権との深い関りを示す古墳群が、宮城、山形まで進出する。このように、古代東北は早くから中央政権とエミシとの交流とせめぎ合いの場であった。 <環頭太刀束頭(かんとうだち・つかがしら)> エミシは単なる狩猟民ではなく作物栽培も行い、倭国との接触でもたらされた製鉄技術も持っていた。また優位な馬産地で、海路を通じての交易も盛んだった。ただ中央から遠かったため、独自の体制を維持していただけのこと。アイヌ語とは異なり、言葉は互いに通じたことだろう。ただ聞き慣れない言葉の響きが、都人には恐ろし気に聞こえた。最近の研究により、エミシの高度の文明が次第に明らかになる。 <ベルトとバックルの金具(上)とメノウとガラス玉の装身具(下)> こんな見事な装飾品を身に着けていた「蛮族」が、果たしているだろうか。ただ中央政権の手が届かない遠隔地に彼らが住み、独自の文化と政治体制を保持していただけの話。中央集権化が進んだ倭国、そして大和政権が自らの支配を拡大すべく、次第に北の大地へと進出するのも当然の帰結だろう。そして北の大地は、次第に大和朝廷の傘下へ組み込まれて行く。 <周溝(しゅうこう)と墓壙(ぼこう)を持つ墓> 現在の岩手県南部以北にはエミシ独特の墓がある。ただ中央や地方豪族ほどの権力と人口がなかったため豪壮ではないが、それでも良く整備された墓が整然と並んでいるのはしっかりとした政治体制があったからに違いない。これもアイヌの墓制とは異なる。東北のエミシが史書に登場する最初は、確か高志(越=こし国守)の阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田県のノシロのエミシを征伐したことだった。 <整然と石を積み上げたエミシの墓に石槨(せっかく)が見える> 阿倍比羅夫はノシロのエミシを退治しただけでなく、ツカル(青森)や渡島(わたりしま=現在の北海道)のミシハセ(大陸の北方民族と言われる)をも退治したと文献にある。陸奥国府多賀城などまだ建設されていない時のことだ。陸路が整備されていない当時は海路を舟で渡るしかないが、飛鳥時代に良くそれだけの船団を組み、かつ勝利したと言う事実に驚かされる。<続く> 当特別展での撮影は許されてない。そのためここに掲載した写真は、別途購入した「展示目録」から借用した。極めて内容が専門的なため、写真でもないと理解が困難と考えたからだ。
2019.10.05
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