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~懐かしき地名、人名と風景~ TVのニュースを聞いて「あれ?」と思った。汚染物質が検出された川の名が「ダクジャク」。その瞬間沖縄だと分かった。そして字は「大工廻」大工が沖縄の言葉で「だく」で廻は本来「迫」(さこ)とも知っていた。さこが「じゃく」に変化し、字も間違えたのだ。 本来の「だいくさこ」が「だくじゃく」に変化した。発音の変化、と言葉(文字)の変化の双方だ。 沖縄の地名や人名は不思議なのが多いが、元来の日本語が沖縄風に変化したことが分かる。沖縄の原型は日本にあり、断じて中国ではないのだが、「内地」の人も沖縄の人もあまり知らない。さて米軍基地内の小川が比謝川に合流する。河口付近には比謝橋があった。琉球王朝時代は石橋だった由。私は原付で沖縄本島を走り回り市町村の地図を丹念に見ており、島内のことは案外詳しい。もう30年も前の話だが。 北陸本線「越後筒石」地下駅 俳優の火野正平がサイクリングしながら旅を続ける番組がある。先日JR北陸本線の「越後筒石」が出た。珍しい地下駅だが私は石川県勤務の時に、列車内から見て驚いたものだ。当時は北陸新幹線はなく、「ほくほく線」で近道して北陸本線に乗り継いだ。その地上に出た上越市の柿崎区は「えちごくびき野」マラソンの92km地点くらいのはず。さて筒石が地下駅なのは、天下の難所「親不知」の海岸だからだ。 同じ番組で佐渡島の「赤泊」と言う集落も出た。今は全島が佐渡市だが合併前は幾つかの市町村に別れ、赤泊は島の左下に近い。ここは柏崎市からの連絡船が着く港があり、私はアイスクリームを買って食べた記憶がある。「佐渡島一周」206kmレースに3回出て、地図を見ただけで地形や景色、集落名などを思い出す。佐渡島一周を走った仲間が3人ガンで死んでいる。2晩寝ずに走った怖いコースだった。 伊豆大島「月の砂漠」 後ろの山は活火山の三原山。 兄の告別式で一緒だった姪の旦那さんが火山学専攻と知り、どこの火山に行ったか聞いたら伊豆大島とのこと。つまり三原山だ。なら「月の砂漠」を知ってるかと聞いたら、彼も行った由。私は「伊豆大島ウルトラマラソン」で走り、そこもコースの一部だった。走友のT田さんもエントリーしていてレース中に何度か出会い、翌日は港で缶ビールをご馳走になった。今は良い思い出だ。 一青窈の出身地 あることから一青(ひとと)姓の由来をネットで調べた。母親が石川県中能登町の一青出身で、それが姓の由来だ。平安時代に藤原氏の荘園があった土地柄とのこと。私は石川勤務の時にマウンテンバイクで能登半島方面に旅し、たまたま2日目の帰路、その町を通っている。隣町が日本で一番古い「お握り」が出土した鹿島町。気多大社に寄ったが、主目的は縄文時代の真脇遺跡の見学。往復160kmの旅だった。 沖縄県大宜味村喜如嘉集落 芭蕉布の糸を採る芭蕉 私はランニングを始めて40年。47都道府県全部を走った。それとは別に旅行や会議などでも訪ねている。だからそれぞれの府県ごとに思い出がある。加えて地名大好き、人名大好き人間のため、その名を聞いただけで大体どの辺かが分かる。TVで地名や人名を聞くと、懐かしくその景色に見入るのが常だ。大宜味(おおぎみ)村喜如嘉(きじょか)は美しい集落だった。4年がかりで沖縄本島を1人で一周した。450kmはあったろうか。まだ若かった60代の素晴らしい冒険だった。 何日か前。久しぶりに走った。兄の告別式などで寝不足と高温の日が続いて体調は今一だった。だがその朝は湿度も低く、これなら走れると感じた。それで「腹出しシャツ」を着て家を飛び出した。「自粛太り」の醜い腹だが、これも不摂生の為せるわざ。実際は1kgも増えてないのだが、運動不足がありあり。帰宅後は水シャワーし、着たものを全て手洗い。やはりランニングは気持ち良い。たとえ遅くともね。
2020.06.21
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~コロナ禍の中で~ 買い物をし、民生委員のHさんが訪れた大型連休の日の夜。寝る前に歯を磨こうとし、洗面所に行った時、喉に嫌な痛みを感じた。なんだなんだこれは。とうとう俺もコロナに罹ったか。それにしても一体どこで。薬局とスーパーには、マスクをして行った。民生委員のHさんもマスクをしていた。だが彼女は色んなお年寄りを訪ねている。ひょっとして彼女からもらったお知らせに、ウイルスが付着していたか。 それとも洗面所の排水溝に落ちた部分入れ歯をピンセットでつかんで取ったが、あの時にでもウイルスが付いたか。いくら考えても答えは出ない。また出たところで、どうしようもない。とも角寝よう。今はそれが一番良い方法。一抹の不安を抱きながら、それでも朝まで眠った。翌朝、喉の痛みは少し治まっていた。血圧を測ると170に97.脈拍は61。上が高いが気分は悪くない。 それでも走れると判断。約1か月ぶりのラン。前夜の喉の痛みの原因だが、声帯を鍛えるため新聞の俳句・短歌欄の作品2週間分を声を出して読んだ。きっとそれが原因。しかしたったそれだけで、喉が痛み血が出るなど考えもしなかったこと。老化は色んなところに起き、誰とも話さない暮らしでは声帯を使わない。声帯も筋肉だから使わなければ、弱る一方なのだ。スポーツドリンク入りのペットボトルを持って家を出る。 ランニングシャツでも全く寒くはない。今日は9Kmの反時計回りで行こう。そう決めて走り出した。誰もいない裏道を太白山方向に。早速ウグイスの鳴き声。春先よりもずっと上手なさえずり。道路にこぼれた花を見つけて見上げると山藤の花。そしてその隣に地味なウワミズザクラ(上溝桜)の花も。原始的な桜の仲間で、到底桜とは思えない花の形。やはりこの辺は自然が残っているんだねえ。 ゆっくりとでもこうして走れるのが嬉しい。喉は大丈夫そうで、水も飲めるし息も苦しくはない。どこかの家の庭にオダマキが咲いている。まだ薄暗い山への裏道は誰とも行き会わず、マスクも不要だ。T団地の坂道を登ると太白山が曇り空から顔を出す。植物はネットから借用出来るが、今日のこの雲や空の色は無理。やはりカメラを持って来るべきだったかと悔やむ。 この写真もネットから借りた物だが、実際はこんなに晴れていない。クルミの花にブナの花。そして農業用水の沼に映える新緑もこれとは全く違う。坂を下って左折すると、国道まではずっと緩い下りで信号は1か所だけ。体が楽で鼻歌が出る。この日は少しコースを変えて無事帰宅。直ちに風呂の残り湯で体をう。体重が少し減っていた。血圧は129と87に低下し、脈拍は逆に68に。当然のこと。 久しぶりのランだったせいか、左ひざの周囲が痛んだ。大腿四頭筋が引っ付いている辺り。風呂上りほか数度にわたり、膝に冷却スプレーを噴射。夕刻また喉に痛みがあり、唾液に少し血が混じる。多分作り直した部分入れ歯が合わず、歯肉が擦れたのだろう。口内炎用の軟膏を塗って終了。味がおかしいのは軟膏のせい。まあコロナ感染の恐れはなさそうだ。いつの通りの夕食と、いつも通りの睡眠。 そうだ、ネットから写真を借りて、今日走ったことを俳句に詠んでみよう。4月の俳句教室は休止だったが、5月も休止と連絡があった。6月はまだ市の方針が決まってないので、6月に入ったら会場の老人センターに電話で問い合わせてほしい旨。そうか、教室がなければそれも良し。ここは自学自習で行くしかない。元々人を頼る方が間違っているのだ。やる気があれば何でも出来る。
2020.05.20
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<5年ぶりのコースへ> 3月31日。お天気が良いので走ろうと思っているうちに夕方になってしまった。日が翳って風が出て来たが、まあ何とかなるだろうと、赤の半袖Tシャツと白のランパン姿で走り出した。もう桜が咲いてるはず。そう思ってポシェットにはデジカメを入れた。手にはお茶が入ったペットボトル。思い切って11kmのコースに行って見よう。Z川の土手のソメイヨシノが撮れたら良いなとの軽い気持ち。 でもそのコースを走らなくなってから5年くらいになる。どこをどう走るのかも忘れたが、必死になって思い出す。果たしてすっかりスピードが落ちた今の私に走れるかどうかは不明。でも何とかなるだろう。最初の公園で桜が咲いているのが見えた。白い花のこの桜は恐らく「オオシマザクラ」(大島桜)系だと思う。伊豆七島の大島が原産地と聞いた。 大島桜 ソメイヨシノは江戸の植木職人が、白い「大島桜」と、ピンク色の「江戸彼岸」を掛け合わせて作った新品種と聞いた。遺伝子の関係で接ぎ木でしか出来ず、日本中のソメイヨシノは全部同じDNAになり、寿命は約60年と短いのが特徴だ。それが日本を象徴する品種になるとはねえ。 ザル川は一級河川の名取川に注ぎ込む小川。水源は標高321mの目立つ山、太白山付近。支流が3つほどあり、そのうちの1つは近所を流れている。この近辺の水田はほとんど埋め立てられて、広大な住宅地に生まれ変わっていた。黄金色の田んぼが山の傍まで続いていた風景がとても懐かしい。特に「東日本大震災」後の建築ラッシュで、様相がすっかり一変してしまった。仙台が東北で唯一の人口増加地だ。 ザル川の堤防のソメイヨシノが、想像通り咲いていたのは良かったのだが、困ったことがあった。夕方の冷たい風に吹かれたせいで体が冷え、トイレに行きたくなったのだ。誰もいないのを確認して河原に下り、そっと立ちション。危ない危ない。あやうくセーフ。お茶も飲んでいたこともあり、地下鉄の駅まで持たなかった。 20年以上かかった発掘調査が終わって、今ではすっかり住宅地に整備されたこの周辺。ほとんどの畑が消えて個人の住宅やマンションに姿を変えた。お洒落なパン屋さんや喫茶店も出来た。私の俳句教室が開かれる老人センターもこの周辺。大雨が降った昨年は、浸水騒ぎもあって大変だったようだ。 例年なら桜の木の下で近所の町内会のお花見が開かれるのだが、今年は例の新型コロナウイルス感染症騒動で人影もまばら。学校が休みの子供たちがわずかに遊んでいるだけだった。 橋の上から雪を被る南蔵王の山並みを撮ろうと思ったのに、もう蔵王連峰は春霞に隠れて見えず、夕方の風がますます寒く感じられるようになって来た。後ろから追いかけて来たランナーに抜かれたが、抜き返すのは無理。今はゆっくりと走れるだけでもありがたい。愛犬マックスを泳がせたこの場所まで再び走って来れたことに感謝だ。 その後もずっと川に沿って走り、国道286号線を信号のところから横切って近所の神社へと寄った。そこに咲いているのが冬桜の仲間の「コフクザクラ」(子福桜)。年に3回ほど咲く小さな花びらの品種。 氏子の方が寄付して植えたもののようだが、花の色も形も儚げで頼りない感じ。春の夕暮れの空にその儚げな花の色が融け込んで行く。 神社横の急な坂を走って登る。それがこの齢でまだ出来るのが信じられない。ひと頃は不整脈で体が酷く疲れ、手術を3度受けたのが夢のよう。その間に妻も去り、独り暮らしになった。それでもこうして生き、まだヨレヨレで走っている。 坂を登り切ったところにあるのがこの桜。この辺一帯の地主である農家の庭の隅に咲いている枝垂れ桜。まだ青い空にピンク色の花が美しく映えている。 帰宅してPCに取り込んだ写真を整理して見ると、案外良い感じに撮れていた。これなら「中国の旅紀行」を1回休んでこれを入れても良いかも。5年ぶりにあのコースを走れたのが嬉しく、5月の仙台鉄人会の練習会の「3時間走」にも少しは自信が出来たと思う。その夜は疲れてグッスリと眠れた。
2020.04.07
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<マックス爺大いに吠える> ランパン 走友会など団体への所属が必ずしも良いことばかりとは限らない。在る年のあるレース後、10も若い後輩がいきなり「〇さん評判悪いですよ」と私に言った。なぜそんなタイミングでそんなことを口にしたのか。多分自分が完走出来なかったはらいせだと私は直感した。そして「裏で悪口を言ってるのはお前だろうが」とも。それは彼が別な時に「〇さんは走友会を利用してる」と言ったのでも分かった。 ランシャツ こいつはよっぽどの馬鹿。そして転勤族の苦労を知らないなとも。と言うのは言われた当人は中部地方から仙台に赴任した転勤族。そしてわが走友会にたどり着いて入会した次第。走友会など「利用してなんぼ」のもの。すべからく利用するためにあるのがそもそも走友会の役割。それを会の中心に据え熱心に会員を勧誘している走友会が存在するほど。利用するための走友会で一体何が悪いのか。 そもそもその当人が一番便宜を得てるはず。彼は誰かと一緒じゃないと距離の長いレースを走れない人。私はそんなのが大嫌い。ウルトラは1人で走ってなんぼの世界。コースに迷うのも、地図を読み解くのも、食料や水分の調達、どんなペースで走り、無事にゴールするか。それを自分だけの判断で最後まで走り切るのがウルトラマラソン。それを他人の援助にすがってしか走れないなんてウルトラランナーとは呼ばない。 ウインドブレーカー こんなこともあった。その1年間、ずっと私に負けっ放しだった12歳も年下の男が、行事で写真を撮る際、私の前まで来るとくるりと引き返す。そんな訳で、私の写真はそれ以降走友会のHPには1枚も載らなくなった。何と言う度量の狭さ。ケツの穴の小さな奴ばかり揃ってるとはなあ。私の完走記は実に詳細。だが嘘は書かない、その文章で心理分析までされてよほど悔しかったのだろう。 この日も4つ年下の男を叱った。4歳違えば少年時代の状況がまるきり異なる。都市と地方では食糧事情が異なるし、仙台には進駐軍が常駐し、朝鮮戦争と同時に、米軍の射撃演習が郊外で始まった。食えない家では娘が「パン助」になり、男は「闇屋」で食いつないだ。生きるか死ぬかの時代だった。ところが「ランニング馬鹿」は歴史も文化も学ばない。人は何時か老い、何時か死ぬ。いつまでもランナーで通すのは無理な相談なのだ。 ある人が今年は北海道を自由に走る計画中教えてくれた。1520kmの「本州縦断フットレース」を完走した強者が、70を目前に果敢に自分の夢を目指す。エベレスト走った81歳の長老。昨年100kmを完走した80歳の長老。膝を傷めた84歳の長老。かつての勢いがなくなったことを憂い、もう会合に顔を出さないかつてのスピードランナー。老いは誰にも平等に訪れ、いつしか体力も弱るのが宿命か。 「ムンバイマラソン」に行くと言ってたA山さん、Y野さんはどうだったのか。インドは1月でも30どを超えるだろうが、心臓の悪い2人が無理してなければ良いが。私も誘われたが「大連旅行」を優先した。「仙台鉄人会レース」を今年は形を変えて再出発させるとF氏。スタートが朝6時なら「10時間走」か。あのコースでそれは厳しいねえ。しかし新年会でT田氏と飲んだ酒は旨かった。 S氏とは昨年死んだ彼の兄の話をした。兄は高校の3年後輩。彼ら兄弟とは実に不思議な縁で結ばれていた。人生とは不思議だね。弟は私の愛犬の名前を出した。三神峯公園で花見をした時、私が連れて行ったのだ。その愛犬が私の腕に10時間抱かれて死んだことを教えた。家族で唯一私を裏切らなかった愛犬。ありがとうわが走友たち、これからもどうぞよろしくね。 文中敬称を略しました。 <完>
2020.02.15
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<映像編> 永遠のマドンナ。まあどんな? まだまだ元気でランニングライフ!! みんな笑顔が素敵だよ。 私(右)とレバノンへ逃れたゴーン氏(?) みんなのお顔も真っ赤っか。 81歳のM仙人(左)と新役員のS君、お疲れ様で~す。 Yさん福島原発からの避難、お疲れ様でしたね。一緒に飲んだ「銀河ビール」懐かしいなあ。 K野さんM井さん役員お疲れ様でした。白髪が増えましたねKさん。 K山長老は84歳、M仙人は81歳。まだまだ走るそうです。凄い先輩たちに大きな拍手を。 昼の酒は効くねえ。もう腰がフラフラ。お開きはまだなの。もうちょっとだよ。 記念撮影その1。最前列の左側が私。みんな良く飲みましたね。 記念撮影その2 ちゃんと前向いてよ、おんちゃん前会長~っ!! <続く>
2020.02.14
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<総会そして新年会へ> やっぱり天然温泉は良い。眼下の名取川の清冽な流れにも癒された。本当はもっとゆっくりお湯に浸かりたかったが、そろそろ総会が始まる頃。もう送迎用のバスに乗って、仲間が大広間で待ってるだろう。 それにしても良く今の体調で、幅が40cmもない粗雑な小径を走れたものだ。あそこは散々練習で走った小径だし、雪もまだあんな程度だから危険性は全くなかった。もし怪我するとすれば、それは自分の不注意。9kmくらいあるかと思ったが、実際に走ったら6.5kmから7kmの間だろう。自分の勇気と判断力に拍手。十分注意しゆっくっりとなら、これからもまだランを楽しめる。男はそう確信した。 総会中の役員たち O川会長はじめ真剣な表情の執行部。すでに会長の挨拶、昨年度活動報告、会計報告、監査報告が型どおり終わっていた。会費を値下げしたためかなり財政は苦しそうだ。議題は新年度の活動計画案に移り、活動計画と年間予算案がそれぞれ会長と会計担当役員から説明された。 総会遠景 新年度活動計画案に関する質疑及び討議に移り、今後は経費と事務省力化のため極力「ペーパーレス」を目指すことになった。会の正式な行事として残すものの決定、役員の退任と東京から仙台に赴任したS水会員が新役員となること、および退会した会員名が披露された。私が参加出来なかったここ数年の間に、大きな時代の流れと会員の高齢化が進んだことを意識させられた。 戯れるAさんとKさん(新年会にて) 最後に私が緊急動議を出した。それは財政難の走友会に寄付すること。OKみたいなので直ちに財布から2万円を出して提供。ビックリする仲間達。「宮城UMCには?」とKさん。そう来たか、それならとさらに1万円をKさんの手に。本日の会費+3万円は大変な出費には違いないがここ数年間。私は全く会の中では異邦人。そのくらいは安い物。それにウルトラマラソンなら1回分でそれぐらいする。だからこの新年会&総会はが自分にとって久しぶりの「ウルトラ」に参加したと考えれば済む。 こうして予め準備された議題は全て討議され、挙手による賛成多数で全議題が可決された。この後はM井会計担当(左)の司会で、新宴会の部に突入。一気にアルコールの海に浸かるのであった。だがそこでも厳しい声。「値段が高いビンビールは極力抑えました」と天からの一声。それ以降は「プシュッ!」と言う缶ビールを開ける音が大広間に響き渡ったのであった。 <明日に続く>
2020.02.13
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<いざ雪道へ> 所属走友会の新年会&総会の前夜、雪はしんしんと降り続いていた。あれまあ。これは想定外のことが起きた。でも明日は何としてでも行く。男が一旦口にしたことは何が何でも守る必要がある。それだからこそ生きる価値がある。そう思って深夜にランニングの準備を始めた男だった。先ずは最悪のケースを考えての服装。明朝までにどれくらいの積雪になるか。そして足元は、そして西風対策は。 朝が明け、外を見てビックリ。庭は一面の銀世界。なるほど。これなら走れる。だが問題はあの峠道。あそこさえクリヤー出来たら、後は峠からの下りに注意すれば何とか行けるだろう。男はそんな風に考え直した。しかしこんな日にこの冬一番の大雪とはなあ。だがウルトラマラソンなどしていたら、こんなハプニングなんてしょっちゅうだ。それに対応するのが本物のウルトラランナーではないか。 時間の経過と共に気温が上がり、道路の状態が変化した。ふ~む。これなら重装備は必要ない。そう判断した男は折角前夜準備した荷物を全部解いて、改めて服装と荷物の中身を変更。もう道路の雪は融け始め、グチャグチャ状態。厄介だが、それも自然現象のなせる業。ランナーはそれに合わせて走るだけだ。9時ジャスト家から走り出し、自販機でホット紅茶を購入。もちろん道中の水分補給用だ。 街中は難なく通過し、いよいよ問題の峠へ。人が走れるのは右側の狭い歩道。到底歩道とは言えない狭い幅しかなく、足元はデコボコで横から木の枝が邪魔をする。車道は元国道286号線。これが狭くて車が多いため走る訳には行かない。だからこの真っ白くて狭い空間を行くしかない。でもここは30kmから最長77kmまでの私のかつての練習コースで30回は走っている。だから走れるのだ。 徐々に標高が上がる。たまに広い箇所があるが、こんなのはごく一部。時々車道の様子を窺い、車が来ない時だけ車道の端っこを走る。さすがに下が安定して走りやすい。でも車が来たら再び「獣道」へ。その内に車道の雪が融けて水たまりに。そこを車が通れば、当然泥水が撥ね飛んでズボンを濡らす。それもまた想定内。せめて脇の木の枝が掃われていたら、さぞかし走りやすいだろうと、思うのだが。 数kmの峠道はやがて下り坂となり、間もなく「山神」などの石碑が立つ場所まで来た。ここまで来たら後はちゃんとした歩道になる。一安心し、山に向かって放尿。ふむふむ。これで大丈夫。国道との合流地点までさらに下る。そして広い国道の広い歩道へ。ここまで来たらもう安全。横断歩道を2つ渡って道路の向かい側へ。そこから左折すると、あとは会場の温泉までは一本道。雪があっても走れる。 10時20分会場へ到着。開会は11時なので十分間に合う。部屋に荷物を置き、着替えなどを持って早速温泉へ。ここは何年ぶりだったか。サラサラして気持ち良い泉質。目の前の山も川岸もすべてが真っ白。昨年の大雨ではここが氾濫しかけたと聞いた。今はとても静かな流れに戻っている。体を洗ってお湯に浸かり、大急ぎで部屋へ戻ると、既に「総会」が始まっていた。着替え後、その席へ。<続く>
2020.02.12
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~コース風景と走友たち~ 練習会当日の車中。愛子駅の手前でもう走る姿になっている私です。 仙山線のこ線橋から作並方面を眺める。 仙山線と並行して走る国道48号線。真夏日の木陰は貴重な存在です。 奥羽山脈の向こう側は山形県です。 8月中旬の田んぼは、まだ青々としていましたよ。 木陰の影絵で遊ぶ筆者の手とカメラが下に見えます。 猛暑の中を走る仲間達。左は住吉台走友会の両S氏。右は二婆のお二人。 ここからは並行して流れる広瀬川の風景を何枚か。 鳳鳴四十八滝の一つ。水の音が涼しく感じます。 この辺りの流れは緩やかでした。 この上流にニッカウヰスキーの仙台工場があります。 同じ走友会のMさん(左)とOさん(右)の雄姿。 作並の鎌倉山が目の前に。別名はゴリラ山だけど、似てるかな。 急な断崖は昔からロッククライミングの訓練場所でした。 「いらっしゃいませ」。作並温泉のこけし塔がお出迎え。ゴールは間近です。 走り終えて寛ぐOさん(左)とM仙人(右)。 懇親会の会場には「仙台七夕」の吹き流しが飾られていました。 さて、来年も元気で参加出来るかなあ。
2019.09.19
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~幽霊会員の辞~ ある温泉施設で開かれた所属走友会の総会を兼ねた新年会に、過日出席したのである。まあ敷居は高い。もう7,8年ほどまともな活動をしていない私。不整脈の勃発と3度の手術。左足足底のアーチ陥没、自転車事故による頭部負傷と手術、そして熟年離婚。その間、「東日本大震災」の悲劇もあった。小説のネタになるには十分な理由もあったのだが、あえて顔を出した次第。 出席者は23名。風邪による欠席者が1名。総会はとんとん拍子に進んだ。今年度の活動報告、決算報告と監査報告。そして新年度の活動方針案の審議。会費は安くなり、会員の高齢化に伴い、役員を含む会員の負担を極力減らすことで満場一致。若年層への取り組みが弱い一面はあるものの、私には気心が通じる和気あいあいの雰囲気が、とても有難い。新年会開催までの間に、天然温泉を楽しむ。 低料金のため、さしたる料理は出ないのだが、私には質量ともに十分だ。それに別途用意したたくさんの食べ物や飲み物も並んだ。O川会長の挨拶。K山長老の乾杯の音頭に引き続き、一気に懇親会へと雪崩れ込む。体に負担をかけぬよう、極力アルコールは控えよう。その誓いも最初のうちでもろくも崩れ去り、ビール、日本酒、ワインと、注がれるままに飲み干した私であった。う~む。調子は良さそう。 「共同作業」 「母と暮らせば」 「巨匠そろい踏み」 「和やかなグループホーム」 K山長老 M仙人 O川会長 ここから今年の参加予定レースや抱負が、意気揚々と述べられたのであった。(敬称略) S原 S木 M井 K野 A原 Y田 M谷 H郷 S木 K野 Y広 DK T脇 私はカメラマンなので自分のは撮らなかった。それに参加レースの予定もなかった。ただここ数年間の健康状態と家庭の事情を簡単に話し、目下社会と関わるのは月に1度の「俳句教室」と、この走友会へまだ籍を置いていることだけと告げ、後1、2年籍を置かせて欲しいとお願いした。私の抱負は今年も元気で生き抜き、来年のオリンピックを見ることとも。仲間は走れないランナーにも大きな拍手をしてくれた。写真は宴席。一番左でピースサインをしてるのが筆者。既に相当の酩酊ぶりだ。 恒例の記念撮影。筆者は最前列の右端で正座している。 先日の「宮城UMC」創立20周年記念式典でもそうだが、今回の新年会でも出席を迷った。もう一歩も走れない元ランナーが、まだまだ現役で頑張っている仲間の会に、果たして出席する意義があるのだろうかと。今回の挨拶でもそのことを正直に話した積り。それでも仲間は暖かく迎えてくれた。まだランナーの「魂」を失っていないうちは、元ランナーであることを誇りに思うことを許していただこう。 別れ際、余った食べ物をDKさんがビニール袋に詰めてくれた。何も恥じることはない。折角の食べ物を粗末にせず、すべて美味しくいただくのだ。帰宅後、酔っぱらいながら写真整理を始めた私だった。さて今回も期せずしてY田さんと歴史談義をすることが出来た。まさか彼が私と似たような他の趣味を持っていたとはねえ。これもまた奇縁と言うべきだろうか。
2019.02.21
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<川にまつわる話> 11月下旬のある日、ランニング仲間と阿武隈川のほとりを8kmほど歩いた。阿武隈川は福島県の甲子旭岳に源を発する東北第二の大河で、距離は239km。かつては大隈川と言ったようだ。阿武も昔は「あふ」と書いて「おお」と呼んだ。最下流の宮城県亘理町には逢隈(おおくま)の地名が残る。河口付近の鳥の海はかつての河口だった由。 私達が当日歩いたのは福島県と宮城県の県境。阿武隈川の中流から下流にかけてで、流れはさほど急ではない。それもそのはず、江戸時代には川の流れを改修し、舟で米などの物産を江戸まで運んだ。もちろん河口の鳥の海で、三十五反の帆船に積み替えたのだが。今はただ流れるだけの川が、かつては一大動脈だった時代があるのだ。 かつての豪農の雰囲気を残す住宅。重厚な門の屋根瓦は鯱(しゃちほこ)だ。往時は養蚕もさかんだった由。現在福島県伊達市は果物の産地で桃が有名。私達が歩いた時は柿やリンゴが鈴生り状態だった。だが福島原発汚染問題の風評被害で苦戦しているみたいで、出荷してもなかなか売れないそうだ。 さて、皇太子殿下の長年の研究テーマは交通史で、中でも江戸時代の水運史が専門。それで修士の学位を取っている。また英国留学中はテムズ川の水運を研究され、名誉博士号を授与されている。天皇陛下や弟の秋篠宮殿下は昭和天皇の影響か生物学が研究テーマだが、皇太子殿下のみが文科系とは珍しい。 経済流通の要所だった最大の河川は淀川だろう、京都と大坂の間には定期船が通っていた。今で言えば高速バスのようなもの。その乗客を目当てに食べ物や飲み物を売る舟さえ存在した。これが「食らわんか船」。京都の伏見には港も整備されていたし、河口の大坂には、古来水運を司る「渡辺党」と言う水軍も存在した。写真は「兜(かぶと)の渡し」跡。義経がここで兜の血を洗ったとの伝説が残る。 五月雨を集めて早し最上川 松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ句として有名だ。この最上川も江戸時代に改修され、河口の酒田まで紅花などの物産を上流から運んだ。中流部には、珍しい川の関所まであった。通行税を徴収するためだ。酒田の豪商本間氏は、庄内藩の殿様よりも金持ちだった。西廻り船の寄港地である酒田は、京の文化が入るため東北の中では進歩的な町。今でも立派な山居倉庫が残っている。 北上川は岩手県と宮城県を流れる東北随一の大河で、全長は249m。古代はこの川を舟で遡って、大和朝廷の兵士が蝦夷(えみし)を征伐した。その総大将が坂上田村麻呂だ。縄文時代には津軽海峡を丸木舟で渡り、現在の北海道から黒曜石が、新潟県からヒスイが、秋田県からアスファルトが三内丸山遺跡(青森)にもたらされた。関東地方の黒曜石は伊豆七島から、そして長崎県福江島の黒曜石は福岡の英彦山(ひこさん)から。舟による移動や通商は意外と古くから存在したのだ。 川とランニングに関する思い出も多い。四国の清流四万十川(高知)は100kmマラソンで2回走った。ここはダムが無いため川魚の宝庫。武庫川(兵庫:70km)は「ユリカモメ」で河川敷を7往復し、「飛翔千葉」(60km)では花見川に沿って12往復した。「北上マラソン」(岩手)ではフルを、「阿武隈リバーサイドマラソン」(宮城)ではハーフマラソンを何度か走った。 転勤族だった私は、転勤先でも走った。松山(愛媛県)勤務当時は石手川や大川の畔が練習コースだったし、大阪勤務時代は淀川べりを20kmから30km走った。山形では最上川の支流の馬見ヶ崎川が昼休みの練習コース。出張先の鳥取では千代川を、市内から河口の賀露港まで往復した。仙台に帰ってからは、広瀬川や名取川流域も練習コースの一つになった。奥入瀬川(青森)は16km歩いた。 今ではもう歩くのさえままならなくなった私だが、気持ちだけはまだランナーのままだ。鳴門(徳島)では海沿いの磯の香りの強い道を走った。また何とかして走りたいものだが。<続く>
2017.12.07
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<福島・宮城県境を歩く> 11月25日土曜日。福島市と宮城県柴田町槻木を結ぶ第三セクター「阿武隈急行」の富野駅に大勢の仲間が揃った。「続伊達なマラニック」に集まった走友たちだ。中にはかつて5千km近い「トランスヨーロッパ」を3度完走した剛の者や、80歳の今でも60kmを走る現役ランナーもいる。だが、この日は宮城県との県境を8kmちょっと歩くウォークの日なのだ。コースは登山家のFさんが選定した。 富野駅があるのは福島県伊達市。以前は伊達郡保原町と言い、桃など果物の産地だ。地名から分かるように、仙台に城を構えた伊達氏の遠い祖先が源頼朝の命を受けて奥州藤原氏を討伐した際の恩賞としてこの地を与えられ、以後伊達氏を名乗る。江戸時代は養蚕などで栄え、米などと一緒に阿武隈川の水運で江戸へと運ばれた。今でも冠木門を構えた豪邸が幾つか残されている。 果樹農家が多いのだが、例の福島原発汚染の風評被害が続いて、長らく出荷出来ないままだった。除染後の今では出荷出来るのだが、苦戦はまだ続いているようだ。私は木の枝に残った完熟の渋柿を丸々1個取って食べた。そのままだといずれ鳥に食われるか、落下する運命。勿体ないと思ったのだが、大きな柿1個で満腹になったほど。実に甘くて美味しい。皮を剥いて干し柿にする作業場も、コースの傍にあった。 元気に歩く仲間たち。関東や新潟からの参加者も。手を上げるTさんは100kmは卒業した由。 背後には悠々と流れる阿武隈川が見える。 季節遅れのミニヒマワリ畑に驚く仲間たち。良い思い出が出来ましたね。 ハーモニカを吹きながら歩く茨城のHさん。彼は9月の「みやぎ湯めぐり」でもこのスタイルで62kmを走ったつわものだ。 山林は楢(ナラ)の樹が多く、茶色にはなるがきれいな紅葉は見えない。阿武隈川は江戸時代伊勢の政商だった河村瑞賢が改修して舟運を盛んにした。河口の鳥の海から江戸までの航路も開発された。丸森町の斎裡屋敷もこの舟運で成功した商家の一つ。一方北上川の改修に当たったのが長門(今の山口県)出身の武士川村孫兵衛。干拓事業で余った米を江戸へと運ぶことに成功したのだ。 福島・宮城県境付近は峡谷が狭く、坂道が続く。だがランナーたちはさすがに健脚揃いだ。 対岸に大きな岩が見えた。「猿跳岩」辺りで昼食。ここまで来る途中、東京のツジポンさんの目が腫れて見えなくなった。ザクロを食べたせいか、それともブタクサが原因か。アレルギー体質の彼は花粉に弱く、毎年春先は外国へ脱出する。それでも休憩後は目が開き、元気を回復した。良かったね。 滅多に車が通らない道路なので、安心して歩いている仲間たち。 ゴールの「あぶくま駅」に無事到着。だが本数が少ないためここで暫く休憩し、疲れを癒した。中には懇親会を待ちかねてビールや日本酒を手にする仲間もたくさんいたようだ。 私は懇親会には参加せずN駅で下車し、自転車で帰った。その途中ユニ○ロでヒートテックの下ズボン3本を買った。実はこの日、私は冷や冷やの思いで参加していたのだ。理由は前日に裏庭で作業中、よろけてコンクリートで頭を打ったのだ。 あれほどドクターに注意されていたのに、何と言うこと。それで夜もまんじりとしなかったのだ。昨日脳神経外科でCTを撮り、頭蓋骨内に出血は見られなかった。ヤレヤレ助かったが、最近はこんなことが増えた。その作業の続きを昨日無事終了。今回はふらつきはなかった。危ない危ない。
2017.11.28
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<広瀬川の河原にて> 今日は~!!皆さんは芋煮会ってご存知ですか。河原で作る鍋料理。仙台では広瀬川などで、山形では最上川の支流である馬見ヶ崎川の河原で行う芋煮会が特に有名です。四国の松山勤務の時、重信川の河原で芋煮会をやってることに驚きました。こちらは会場にガス管まで引いてある本格的なものでした。なぜ遠く離れた東北と四国に似たような行事があるのか、不思議に思ったものでした。 所属走友会の芋煮会が行われたのは先日の日曜日でした。天気予報では雨の時もあって心配されたのですが、当日は曇りに変わって幸いでした。でもとても寒い日だったため、服装には気を遣いましたよ。それに交通手段。元気な人は走って行くけど、家が遠い私は自転車。これだと飲んで酔っ払った時が心配ですね。 これがわが走友会の芋煮会の会場。ここは月に2回定期的に練習会をやっている場所です。走れなくなった私は、ここでの練習会に出たことはありません。参加者は全部で18名ほど。中には他の走友会に所属している方が練習に来て、飛び入りで参加した方も数名おられました。こんな風に、ランナー同士は顔見知りが多いのです。 どう言う風の吹き回しか、この日の最初の乾杯の音頭は、私にお鉢が回って来ました。普段はなかなか走友会の行事に参加出来ない私。しかも今は全く走れなくなった私にですからビックリ仰天。でもそこは歳の功。さらっと乾杯の音頭を発声して、早速飲み会に突入です。最初は缶ビール。その後はワイン、日本酒、焼酎と徐々にアルコールの度数が上がって行きます。さて、この後一体どうなるのか。 芋煮の基本的な具材は、肉、里芋、ニンジン、ゴボウ、ネギ、キノコ、蒟蒻、豆腐などです。でも場所によって味付けが異なります。左側は仙台風芋煮で、豚肉が入る味噌仕立てです。右側が山形風で、肉は牛肉で醤油味。女性陣の活躍で、どちらも美味しくいただきました。その他、会員からの様々なおつまみの差し入れも。丼で2杯もいただくと、それだけでも腹一杯になりますね。 特製のカレーうどんやも出ました。右は裏方として頑張ってくれた女性陣。感謝感激です。 ええ、女性陣も飲む人は飲みますよ。酔いが回ると会員から下ネタ話も飛び出します。これが高齢ランナーのざっくばらんな所。若いランナーは昼間からこんな河原で日本酒は飲みませんからねえ。 光源氏4人組。もちろんですが、誰も「このハ〇~!!」とは言いませんでしたよ。 シブ~い2人。 ヨーロッパアルプスのトレイルレースを走ったAさんも飛び入りで。(左の左側)右は「本州縦断フットレース」(1520km)を28日間で走破したOさん。 T会長(右)も絶好調のようです。Mさん(左)はほんのり桜色に。 記念撮影その1。後ろのグラウンドが走友会の定期練習会会場です。 豪華大芋煮会終了後、全員で片づけをしました。引き続き二次会へ行った剛の者もいたようですが、私は大人しく家路に就きました。結局この夜も満腹状態が続き、夕食を摂らなくて十分。楽天が西武を下して、1勝1敗のタイに持ち込んだのも嬉しい出来事でした。加えて昨夜は西武に連勝し、ソフトバンクホークスとのファイナルステージに臨むことになりました。何だかとっても嬉しいな。
2017.10.17
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<私設エイドステーション奮戦記 その2> 私達南仙台走友会の仲間は、「第1回東北・みやぎ復興マラソン」の30km地点(往路)に私設のエイドステーション(AS)を設置しました。左側に向かっているのが往路の選手。1.5km先の第2折り返し地点帰って来る(左側から)のが復路の選手です。33km地点に相当します。だから往路、復路の選手の双方がここで見られるのです。そろそろ遅いランナーガ通過する頃。いよいよASの出番です。 バナナとパンです。どちらもランナーが直ぐに食べられるよう切ってあります。他にはクッキーや塩分補給のための塩飴、梅干しなども用意しました。でもチョコレート菓子は太陽の熱で溶けてドロドロ。これは失敗でしたね。 飲み物は水、スポーツドリンク、そしてコーラを用意していました。ところがここまで33kmを走って来て疲れた選手たちに人気だったのがコーラです。なぜって、水やスポーツドリンクは公式の給水所でも飲めるからです。この日の最高気温は24度C。コーラの味がたまらなく恋しくなるのですね。用意した大びんのコーラ10本がたちまち空。そしてコップも無くなりました。これは嬉しい誤算でした。 これが私達の私設AC。次々にやって来るランナーを捌くのが大変。休む暇なくコップに飲み物を注ぎ、ランナーが喜んで飲んで行きます。コップやコーラも追加で買いましたが、それにも限界があります。何せ遠いコンビニまで歩いて買いに行くのですから。それでも声を嗄らして選手たちを応援します。そして仲間の走友が通ると、さらに応援がヒートアップします。 これがわが南仙台走友会の仲間たち。上左からTさん、Kさん、後ろ姿のM仙人(看板の左)、Oさん、Yさん、Eさん、そして完走ペースランナーとして最後を走ったDさん。彼女が到着した時には、食べ物、飲み物が全て「完売」してました。そしてスピードランナーのOさん、Iさんは撮れず終い。旧会員のIさんも無事通過。久しぶりの再会でしたね。 こちらは宮城ウルトラマラソンチャレンジクラブの仲間たち。上左からFさん、Aさん、TさんそしてKさん。9月に206kmの「佐渡島一周」、1週間前に「秋田内陸」の50kmの部を完走し、この日もフルに挑んだK藤さん、9月の「みやぎ湯めぐり」100kmを完走したSさんとは、話し込んで写真を撮り忘れたみたい。メンゴ!! 中にはこんなランナーもいました。LiLiCoさんです。何だか生意気なため口の女がいるなあと思ったら彼女でした。ずっとカメラマンが伴走しての取材。彼女がスエーデン人と日本人のハーフで女子プロレスの選手などをしてることを知ったのは、ブログを書くためネットで確認後のこと。道理で態度がデカかったんですねえ。何せ「私にビスケットを食べさせてなんて」言うんですから。 何はともあれ、第1回の記念大会の応援が出来て幸いでした。私達の私設ASの目の前を1万3千人のランナーが通過して行きました。中には足が痙攣して道路に倒れたランナーもおりました。咄嗟にタオルで氷を包み、足を冷やしてやりました。暫くしてランナーは再びゴールに向かって走り出しました。たくさんのランナーから元気をもらった一日。この大会が東北の復興に繋がることを心から願っています。 後日レースの写真をネットで見つけました。感謝して以下に掲載させていただきました。 <東日本大震災の慰霊碑に手を合わせるランナー> 復興が進む被災地を走る選手達。どうもお疲れ様でした。また来年もお会いしましょうね。
2017.10.04
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<~私設エイドステーション(AS)奮戦記~ その1> 第1回の記念すべき大会を何らかの形で応援したい。そんな声が大会の数か月前に出て、私も参加希望を伝えていた。当日の朝O川さんが8時過ぎに迎えに来た。レースのスタート時間は9時15分。私設エイドの設置予定場所は34km付近と言う。ところが先行していたK野さんからの連絡で、予定した場所には公式の給水所があった由。これは困った。ともかく現場へ急ごう。最短距離のコースで現場へと向かう。 確かに予定場所には巨大な給水所が準備され、たくさんのボランティアが集まっていた。地元の方だが、マラソンの運営に携わるのは今回が初めてだろう。そこで場所を1kmほどずらしてASを設置することにした。目の前は刈り入れ前の田圃。どこにでもある平凡な風景だ。適当な空き地に車を停め、早速準備に取り掛かる。 これが仲間の面々。1週間前の「秋田内陸」(100km)を完走した人もいれば、前月に「佐渡島一周」(206km)を走破した人もいる。私以外はみな現役のランナーで、本当は自分も走りたいくらいなのだ。それを我慢して仲間の応援に回っているのだ。 レースのコースが左図。スタート及びゴールは仙台空港付近で、岩沼市の沿岸部。そこから南下して亘理町の荒浜で折り返し、海岸線に沿って北上。空港を過ぎ、名取市の北部で右折し、閖上地区で2つ目の折り返し。私達は黒丸付近にASを設置した。往路の30km地点、復路の33km地点に当たり、どの選手も目の前を通過する。コースの大半は東日本大震災による津波の被害を受けた地区だ。 これがコース最南端付近を上空から見た写真。右が太平洋で仙台湾の沿岸部。左が阿武隈川で、間もなく河口と言う場所に当たる。選手たちは北(上)の仙台空港から走って来てこの南で折り返し、海岸に沿って北上して行く。ここも大きな津波被害があった場所。あれから6年半を経過した今、再び実り豊かな水田が復元しつつある。同じ苦しみを味わった熊本からも、大勢の「くまモンランナー」が参加した。 軽便なテントの下には、飲み物や食べ物が置かれている。いわば私達の基地みたいなもの。道路沿いに机や椅子を並べ、いよいよASの準備を開始する。でも私達が飲食物を提供するのは、スピードの速いトップランナー達ではない。練習量が豊富な彼らは、飲み食いしないでもわずかな補給でトップスピードで走り続けることが出来る。 従って私達の応援の対象は、普通の遅いランナーなのだ。彼らこそ途中で飲み食いしないと、最後まで走るエネルギーが保てない人たち。まして故郷の復興を願って参加を希望した初心者ランナーなら、なおさらエネルギーの補給が不可欠。公式の給水所では水やスポーツドリンクしか置いてないのが普通。第1回大会なら、まださほどノウハウもないだろうし。 やがて先導車のパトカーの後から、トップの選手が走って来た。2位の姿が全く見えないダントツ。余りの速さにシャッターを切る暇もない。上位の選手はフォームが違う。そして歩幅が違う。あっと言う間に風のように通過するスピードランナー達。市民ランナーがここまで来るには後1時間ほどはかかるだろう。<続く>
2017.10.03
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4月29日。「天皇誕生日」、「みどりの日」、そして「昭和の日」。そんな風に名前が変わったこの日。私は早朝から走りに行った。長袖を着て手袋をしてるのに手が冷たい。これなら外へ出した観葉植物が寒さで葉が萎れてしまうはずだ。帰宅後は洗濯、6つの部屋などを掃除し、洗濯物と布団を干す。10時半にはそれらを取り込み、最寄りの地下鉄の駅まで歩く。今日はこれから所属走友会のお花見に行く。 今年はM公園ではなく遠いT公園。ところが園内に入っても、それらしい集団が見当たらない。その時A原さん発見。彼と一緒に探したがなかなか見つからず、携帯で場所を聞く。それでも分からず、とうとう園内を一周してしまった。2度目の電話で何とか場所が分かり、ようやく合流。公園に入ってから既に20分以上が経過していた。 これがこの日のフルメンバー。男ばかり13名。O川さんがふざけて平均年齢を計算したら、何と69.2歳だった。良く言えばベテラン揃いだが、俗に言えば「暇な爺さん集団」。だけどもこのメンバーは凄いんだよね。本州を1521km走って縦断した人もいれば、ヒマラヤを走った人もいる。 かく言う私も、47都道府県を全て走破してるもんね。走ることが何よりも好きな連中なのだ。私はまあ過去形になってしまったが。 左からS木兄、D堂、K山の各氏。 左からK山、M仙人。F田前会長。 左からF田、M井、S木弟の各氏。 左からT野会長、O川、K野の各氏。 缶ビールを手にしたA氏。 T野会長(再掲)愛称はオンチャン。 カメラを向けるO川さんと、和やかなメンバー達。かなり出来上がって来たようだ。 左は力自慢のS木弟で、右はエールを送る同氏。彼はエゾシカなどの狩猟も趣味の一つ。私は会長と離婚談義をしていたのだが、それを聞きつけたK野副会長が私に15分間の時間を提供してくれた。それで自由に話せと言う趣旨のようだ。 挙動不審のF田前会長。 帰り支度の両レジェンド先輩。 そこで私は今回の経験について話した。平均年齢が70歳近くなれば、似たような苦労話は誰もが経験してるようで、女っ気のない飲み会もザックバランで良いものだ。私はビール、ワイン、日本酒の冷やをグイグイ煽り、ついに酔っ払って眠ってしまった。目が覚めた時は、そろそろお開きの時間。やはり昼の酒は効く。それに今日は朝から体を動かして疲れていたもんねえ。 楽しかった集いもお別れの時が迫った。最後に記念写真の撮影。なお、今回は私の写真は1枚もない。理由は全て私がカメラマンだったため。通常の5倍ほどアルコールを摂取した私は、歩いて仙台駅まで帰り、そこから地下鉄東西線に乗った。自転車で来なくて良かった。とても乗れる状態ではなく、怪我するか捕まるかのどちらかだったと思う。 何とか自宅まで帰って来たまでは良かったのだが、階段を登り終えたところで倒れ右肩を強打した。まだ夕方で、外にいたお向かいさんが異変を感じて飛んで来てくれた。もし庭石に頭を打ちつけていたら、出血多量で死んでいたかも知れない。私は血栓を防ぐ「血液サラサラ」の薬を服用しているため、普通の人より血が止まり難いのだ。 結局風呂には入らず、夕食も食べず、そのまま眠った。翌日は右肩が上がらないため、激痛をこらえながらの一日。ようやく整骨院に行ったのは昨日の月曜日で、診断の結果は打撲傷だった。前夜冷却スプレーと湿布薬を張って寝たのが幸いして、右肩の可動域は少し広がっていた。整骨院から帰宅後、自転車に乗って野菜の苗を買いに行き、畑にトマトの苗を植えた。そして痛い痛いと叫びながら、支柱も施した。 なお、今日は予定を変更しました。ご了承くださいませ。
2017.05.02
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今年もプロ野球の公式戦が始まった。わが東北楽天は、オリックスの本拠地「京セラドーム」での3連戦。初戦のマウンドへは美馬と金子が上がった。4対4の同点で延長戦へと突入し、楽天は11回表に2ランホームランでオリックスを突き放した。勝ち投手は9回、10回の2インニングを無失点で抑え切った松井。6時半試合開始だったが、ゲームが終わったのは11時。初戦から4時間半もかかり、またまた寝不足になったのだ。 2戦目の昨日はデーゲーム。東北楽天は着々と追加点をもぎ取って、終わってみれば13対4の圧勝だった。大阪同士の戦いになった甲子園の選抜高校野球決勝戦は、厳しい競り合いが終盤まで続き、9回に大阪桐蔭が追加点を取って逃げ切った。長い今大会だったがついに決着。次は夏の大会に期待しよう。 さて3月のラン&ウォークだが、ランはわずか4回で36kmのみ。走れたのは前半だけだった。例の事情で心労が重なって眠れず、体調は最悪だった。ウォークは17回で53km。これは買い物と散歩が中心。月間合計は89km。年間合計は274km。これまでの累計は88309kmと相変わらず遅い歩みだが、これが現実。今はゆっくりとマイペースで、しかも確実に前進出来たら良いとしよう。 久しぶりに所属走友会の掲示板を見たら、5月にO川さんが完走した「本州縦断フットレース」1520kmのレポートをK野さんがリンクしていた。28日間の戦いは壮観だが、O川さんの温和な性格でやんわり仕上げ。この掲示板で連日応援した昨年の記憶が蘇った。連日のレースの模様は、全て覚えていた。65歳での完走はこれまでの最高年齢だった由。改めてO川さんおめでとうございます。 難問が一歩前進したため、走友会のお花見に参加することにした。だがもらったメールを消したようだ。裁判が続くため、多分参加は無理と判断したのだろう。事務局長のKさんに頼んで再送してもらい、改めて申し込みをした。今年は総会を兼ねた新年会も欠席だったため、会費を納入する必要性もあったのだが、これでようやく納入出来る。さらに練習会へも行ければ良いのだがねえ。 5月下旬にある仙台鉄人会主催の「5時間走大会」への参加申し込みをした。これも例のことと体調の問題で保留していたのだが、思い切って申し込んでみた。参加種目も3時間走にしようかと迷ったのだが、5時間走の部にした。許可が下りたら料金を振り込む予定。まだ元気だった頃は10時間走の部で、あの厳しいアップダウンのコースを75kmも走ったものだが、今は5時間歩けるかどうか。 9月下旬に宮城県内で「温泉地巡りウルトラマラソン」が初めて開催されることは、Kさんからメールをもらって知っていた。だが、その頃もまだ裁判が続くと思っていたし、体調も全く不明なので放置していたのだ。それが急遽事情が変わったため、スタッフとしてお手伝いしても良いとの気持ちになった。 そうなると万全の体調を整える必要がある。数少ないスタッフがドタキャンでは申し訳ないからねえ。これもKさんに申し込んだ。他県からのランナーも多いだろう。給水所でランナーのお世話をしながら、ウルトラランナーだった頃の気持ちが戻ると嬉しい。 その他、心に秘めていることがある。それは出来れば幾つかの被災地(東日本大震災の)を訪れて、自分の目で現状を確認しながら走りたいと言う希望が第一。第二は30km程度の距離の「峠越え」をしたいと言う希望。 かつては60km~80kmほどの峠越えランをやっていたのだが、今はそんな体力がないことは本人が一番知っている。そこで30km程度を歩く夢を見たのだ。それが本当に実現するかは今後の練習と体調次第。これも衰え行く自分への挑戦と思っている。
2017.04.02
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<石巻から気仙沼までの90km> 3月11日の未明私はトイレに起きてから眠れなくなった。仕方なくテレビのスイッチを点けた。画面に映ったのは鹿踊り。正確には「行山流水戸辺鹿躍」(ぎょうざんりゅうみとべししおどり)と言う伝統行事だった。何でも3.11特集で、被災者を応援するアーティスト達と、被災地の若者がコラボした祭典の一幕だった。だが、その名前はかなり前に聞いたことがあった。果たしていつ、どこで聞いた名前だったか。 <宮城県北部の地図> 9年ほど前、私は石巻市から気仙沼市までの90kmをリュックを背負って走ったことがあった。一日目は×印のJR石巻駅前をスタートして内陸部を北上。北上川にぶつかってからは東行し、石巻市大川で北上大橋(赤丸印)を渡り、そこからはほぼ海岸線に沿った国道398号線を走った。 南三陸町との境にある神割崎(黒丸印)を経由してその日は南三陸町の袖ヶ浜にある民宿に泊まった。上記の鹿躍の名を聞いたのは、確か南三陸町のどこかの集落だったはず。2日目は南三陸町をスタートしてJR気仙沼駅前までの30kmを走った。それはウルトラマラソンの練習のためであり、まだ体調に問題がなかった60代前半の頃。当時の私は峠を越え、山形や福島まで走ったりしていたのだ。 <石巻市日和山公園からの眺望:被災前> マラニックの朝JR石巻駅で降りた私はランニングスタイルになり、早速「日和山公園」に向かった。頂上からは旧北上川河口と、そこに架かる橋が見えた。ここはかつて「奥の細道」で芭蕉と弟子の曽良が訪れた地。その光景を山の上から是非とも見たかったのだ。 江戸時代、ここには川村瑞賢が築いた良港があり、北上川を利用して水沢藩、一ノ関藩(共に伊達藩の支藩)以南の米が全て集まる一大集散地だった。領内の寒風沢島、鳥の海などを経由した三十五反船は米を満載して銚子港に向かい、そこから利根川や幾つかの運河を伝って江戸へ入った。江戸の繁栄は、仙台米が支えたと言っても過言ではないのだ。 <震災後の風景> だが、「東日本大震災」で状況は一変。海に接した集落が多い石巻市は、多大な被害を被った。私があの日見た素晴らしい光景は、こんな無残な姿に変わった。 <石巻市立大川小学校の在りし日の姿> 先を急ごう。旧北上川の橋を渡って内陸部を北上すると北上川にぶつかる。そこから東に向かうとやがて大川小学校の前に出る。ユニークな形の校舎が珍しい。「田舎にしてはなかなかモダンな校舎だなあ」そんなことを思いながら、私は新北上大橋を渡って対岸へ出た。そこからはほとんど海岸線に沿って走るのだ。小学校の裏手には小高い山があるのも印象に残っていた。 <瓦礫と化した大川小学校の校舎> <空から見た大川小学校の被害状況> ところがここも津波が襲い、80名近い生徒と数名の教師が亡くなった。裏山が左手に見える。かなり急だが、ここを登った数名の生徒は助かっている。右手が北上川と「新北上大橋」。水面からかなりの高さに小学校はあるのだが、リアス式海岸とラッパ状の河口の形態が、激烈な高さの津波となったのだろう。もし裏山への避難路が整備されていたらあの悲劇は避けられ、父兄による裁判も起きなかったはず。 これは石巻市と南三陸町の境界にある神割崎。昔々、領民が激しい土地争いをした時、神様が斧でスパッと割ったと言うのが地名の起源。つまり神様が割った岬と言う訳だ。今は美しい公園になっている。 神割崎からは志津川湾に沿って西に向かう。午後になると太陽が行く手の空に見え出した。ある集落まで来た時、私は立ち止まった。左は南三陸町の地図だが黒枠の中に「鹿踊供養碑」とある。右が私が見た看板。地名は南三陸町水戸辺。この地からかつて「行山流鹿躍供養碑」が出土した由。 <鹿躍供養碑> 享保6年(1724年)と記されたこの石碑は、昭和57年(1982年)に地中から発見された。私が看板を見ていると、土地の人が古い踊りのことを教えてくれた。その踊りが約260年ぶりに復活させたものであることを、今回初めて知った。走っている途中に何気なく足を止めただけだったのだが。 <水戸辺集落の慈眼寺境内で奉納される鹿踊り> そもそもなぜ鹿踊り(躍)なのか。今でこそ漁業が生活の中心の南三陸町だが、かつては山に入って炭焼きをしたり、鹿など獣の狩猟が中心だった由。傾斜地ばかりで川はないため、米を作るのは困難そう。そして鹿踊りは殺した鹿の霊を弔うための供養だったのだ。石碑発見後、集落の有志は行山流の本場である一関市を訪ねて踊りを習い、復活させた由。踊りは古い時代の暮しを今に伝える大切な行事となった。 ところがあの津波で、鹿踊りの衣装の全てが流された。ところが瓦礫の中から偶然に発見され、それを修復して再び踊りを復活させた由。たまたま深夜に観たテレビ番組が、まさか9年ほど前のマラニックと結び付くとは意外だった。 <南三陸町袖ヶ浜海岸と荒島> もう夕刻が近く、私はガス欠に近い体調だった。そう言えばほとんどエネルギーを補給してなかったのだ。南三陸町の中心部から浜辺の道に入ったのだが、そこにはコンビニがなく、漁業関係施設のみ。ようやく袖ヶ浜の民宿を見つけ、その夜は豪勢な海鮮料理に舌鼓を打った。 翌朝は早朝に起きて、荒島へも渡った。また海岸の神社をも訪ねた。その境内に石碑があり、江戸時代の仙台城下の大橋の橋げたはこの境内から伐り出した大杉であることを知った。南三陸町は漁業と林業の町。ここ南三陸町の杉が新東京国立競技場の建材として使われるよう、目下運動中らしい。 <震災後の南三陸町海岸部> その南三陸町が震災の津波で甚大な被害を受けた。最後まで避難を呼びかけた「防災庁舎」は、震災遺構になっている。浜辺は今盛り土され、復興が進みつつある。住宅地も高台へ移転される。さて津波の高さは20m近かったようだが、あの時私が泊まった民宿はどうなったのだろう。 偶然走った浜辺のコース。そして偶然観たテレビ番組。それが不思議な縁で結び付いた今回の話だった。縁とは実に不思議なもの。人生もまた然りだ。
2017.03.12
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昨日は6日ぶりに走りに行った。2月最後の日だし、何より気分転換したかったのだ。コースはZ川添いの11kmで、デジカメ持参。例によってあちこち撮りまくっていたのだが、途中段差に気づかず転倒。捻挫が心配だったが、何とか行けた。所々で雪を被った山が見えた。南蔵王、仙台カゴ付近、大東岳、後白髭から泉ケ岳など。2月のラン&ウォークは113km。ささやかな足跡だ。 所属走友会から今年度の活動方針などが郵便で届いた。2月にあった新年会&総会に欠席したからだ。その数日後には、定期練習日の変更がメールで届いた。また今年県内で初めて開催される「温泉地巡りウルトラマラソン」の案内と、ボランティア募集の通知ももらっていた。5月の仙台鉄人会5時間走大会の案内状も届いた。だが、まだそれらの返事を一切していない。 それどころではない。今年は年賀状を出さなかった。一時は2月に出そうと考えた「寒中見舞い」も結局は出さず終い。実はいただいた年賀状すら見ていない。あることが生じて、私はまるでシベリアのツンドラにいるような心境。そんな状態でブログを書き続けて来たのだ。 先月は病院へ6回行った。不整脈の手術を受けた総合病院へは3回。1回目は「ホルター心電図計」を装着しに。2回目はそれを外しに。そして3回目は検査結果を聞きに。ドクターの評価は悪くはなかった。ゆっくりとなら走っても良いとのことで、早速走って帰宅した。 眼科へは視野検査を受けに行き、緑内障用の目薬を処方してもらった。検査結果は、見えにくい部分が少し増えたようだが、想定内とのこと。歯科へは歯石の除去に2回。1回目は歯茎の治療も受けた。体調が良くないため、炎症が起きたのだろうと抗生物質を充填された。 循環器内科へは薬をもらうために1回。総合病院から検査結果が届き、ドクターは事前に確認していたようだ。血圧が異常に高い原因の事情を、ドクターに初めて告げた。今は睡眠薬で何とか眠れている状態。今月は睡眠薬だけをもらいに行くこともあり得る。 先日買い物中に同じ走友会のM子さんと出会った。M仙人、Mさん、M子さんの3人で「京都マラソン」に参加した由。76歳のM仙人が4時間30分台で完走し、年代別の2位になった由。やはり仙人だけある。その歳で4時間半は国内でも上位の記録だろう。 今年の「東京マラソン」はコースを変更し、高速レースになった。東京オリンピックを想定してのコース変更だろう。優勝は男女ともアフリカ勢。しかも男女ともに国内新記録の好タイム。日本人選手は4分以上遅れてるので、1.5km近く差がついたのだろう。若手が日本人トップになったのがせめてもの救いか。 昨日の夕方、震度5弱の地震があった。今月11日で「あの日」からまる6年を迎えるのに、当地ではまだ大きな余震が続いている。さて、今月下旬に私は73歳になる。私自身の余震が落ち着くまで、後どれくらいの月日を要するのだろう。気分転換のためにも、ゆっくりとでも走れる体力を維持したい。今日から弥生三月。新たな気持ちで頑張ろう。
2017.03.01
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一昨日の朝、私はこの駅で降りた。この日はバスと地下鉄を乗り継いで病院へ行く。前日装着した24時間心電図計(ホルター心電図計)を外してもらうためだった。 駅の裏側の広場は真っ白。誰一人歩いた形跡はない。普通ここへは出ずに道路に向かうのだが、私は写真を撮るためこちらの出口に出て見たのだ。道路は雪が踏み固められてツルツル状態だった。そこは大学生や高校生などがたくさん通る場所。寒さで凍った道に雪が降り、人が歩いてさらに凍り付いている。これは困った。私は病院からの帰途、走る予定でいたのだ。こんな状態で本当に走れるだろうか。 橋の上から仙台の中心街方向を眺める。下を流れるのは広瀬川だ。 ここはマンションの敷地内。前日ライオンなどの彫刻を撮った場所だ。 病院では決められた検査室の窓口に直行。「記録表」を提出するとやがて名前を呼ばれ、室内に入って心電図計を外す。検査技師の質問に答えるが、今回は何の異変も感じなかった。次回は来週の月曜日。その日に検査結果が分かるのだ。 待合室のベンチで、セーターやズボンを脱ぐ。その下は予めランニング出来る服装になっている。服と眼鏡はリュックサックに入れ、手袋をし、ランニング用の帽子を被る。 玄関の外で軽くストレッチ運動をする。前夜もまあまあ眠れたし、体調もさほど悪くはない。実は以前の検査時には、心電図計を装着したまま走って帰っていたのだ。もちろんドクターの了解を受けてのこと。彼は普段通りで良いと言うので、走った時に心電図に異常が出るか試したのだ。それは危険なようだが、そうでもない。もし異常を感じたらランニングを止めれば良いだけの話。 実際に走り出すと、道路はさほど滑らなかった。あれから1時間もしないうちに少し気温が上がり、雪の状態が変化したようだ。これで少しは安心だが、問題は山道。果たして登り坂が滑るかどうか。 前方に仙台城の隅櫓(別名艮櫓:うしとらやぐら)が見えて来る。右手の石垣は二の丸跡のもの。その先にかつては大手門があったのだが、戦災で焼失したのが残念。この隅櫓も東日本大震災で倒壊し、修復工事を行っている。仙台城(青葉城)で現存する唯一の櫓だ。 隅櫓からいよいよ登り坂が続く。これは三の丸跡(現在は仙台市博物館が建っている)へと降りる分岐点にある旧沢門跡付近の灯篭。仙台城は平山城と言っても、結構急峻な高台にあるのだ。 これは仙台城(青葉城)本丸の石垣。でも築造当時のものではない。戦前からこの周辺は亜炭(あたん;石炭のなり損ないで燃料にはなる)の採掘地が地下にあり、2回の大きな地震で崩れてしまったのだ。それで石垣の石一つ一つに番号を付けて移動し、かなりの期間をかけて修復工事を行った。石垣に全く面白みも風情もないのはそのため。実は古い石垣は、この内側に二重に埋まっている。 これは天守台からの風景。眼下には仙台市内が見える。ここは標高60mほどはあるだろう。堅固な地形のため天守閣は不要で、その代わりに大広間があった。この天守台で私は、藩祖伊達政宗の騎馬像、護国神社、土井晩翠像などを撮影した。もちろんブログネタ収集のため。 これは青葉城の南側にある橋の上。私が高校生当時は本当の吊り橋で、渡るとゆらゆら揺れたものだ。そしてここはまた自殺の名所でもあった。昔の橋は欄干が70cmほどの高さしかなかったのだ。今ではバスも通る立派な道になった。さらにこの右手の遥か奥を、地下鉄東西線が通っている。 これは欄干の隙間から見た谷底。「竜の口渓谷」と呼ばれている。深さは50mほど。黒い筋が川。昔は歩けたが、崖が崩落しやすいので、今は谷の入り口が閉鎖されている。これだけの深さがあるため、城の南側に濠は必要なかった。それに城の東側と北側には広瀬川が流れており、西側の深い森は城を護るため出入り禁止。切り捨て御免の山小屋が3軒あり、厳しい警護だった由。 これがこの先の道。私が心配していたのはこの坂だった。ここは日陰で気温が低く、冬の間は雪が融け難くて滑りやすい。でもこの日は新雪だったので足元も大丈夫。それにゆっくりなので、心臓の鼓動も安定していた。ふうふう、はあはあ。頑張れ、自分!! こうして私は無事に帰宅出来た。心配ご無用。判断は間違ってなかったようだ。途中でコンビニに立ち寄り、頑張った自分へのご褒美に「どら焼き」も買った。疲れるとどうしても甘いものが欲しくなりますからね。
2017.02.10
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先日のTVでお笑い芸人の小島よしおが、沖縄の久米島を案内していた。パンツ1丁で「そんなの関係ね~!!」とか「オッパッピー!」とかふざけたことを言ってる、あの男である。もちろん服は着ていた。でもなぜ久米島へと言うと、そこが彼の故郷だからだ。彼が私立大学の名門、早稲田大学卒業であることは知っていたが、久米島出身とは知らなかった。 ブーゲンビレア 実は私の引退レースが「久米島マラソン」だった。体力、走力が落ちてもう長距離レースは無理と判断したのが70歳の時。そこで制限時間が7時間のこのマラソンを引退レースに選んだ。ひょっとして完走出来るかも知れないと考えたことと、沖縄勤務当時にエントリーしながら台風で参加しなかったリベンジの意味もあった。最初に思い立ってから23年後のこと。それも最初で最後の参加になった。 ハイビスカス レースは散々な結果に終わった。何とかゴールしたものの、制限を30分過ぎていた。大会要項に不備があり、関門の場所と時間を間違えていたのだ。そのせいで走っている途中に片づけられ、迷子になった。帰宅後便箋8枚に改善すべき事項を記し、大会本部に郵送した。翌年届いた大会要項は、私が指摘した通りに修正されていたが、時既に遅かったのだ。だが、それもまた良い思い出だ。 佐渡島 私が参加したレースで最も短い距離は8kmだった。これは四国の高速道路の開通前に記念として行ったもの。そして最も長い距離のレースは、「佐渡島一周」の206km。ほぼ海岸線に沿って自己責任で走る。給水所は4か所。それに仮眠所がある。飲み物、食べ物を入れたリュックを背負って48時間以内に走る心細いウルトラレースだ。62歳、63歳、65歳で3回出場し、いずれも完走した。 脳が興奮して眠れないままに走ると、やがて幻覚が現れる。木の枝が招いたり、木目が猿の顔になったり、工事中のポールがジャンプしたりする。また誰もいないのに話し声が聞こえたり、波の音が人間の声に聞こえたりした。幽霊を見たと言うランナーもいた。深夜の12時過ぎ、周囲は真っ暗で集落もない場所だった。疲労し過ぎて3回同じ道を行ったり戻ったりしたこともある。あれが体力の限界だった。 最高到達地点は3003mだった。「立山登山マラニック」は65kmだが、高低差が3003mある。富山市の浜黒崎が海抜0m。そこをスタートして上の写真の雄山の頂上がゴール。制限は11時間だが、後で10時間に短縮された。途中には八郎坂と言う厳しい山道がある。雨の時は、ここで20回ほどよろめき、3回ほど倒れたこともあった。崖から落ちたら死ぬか大怪我は必定。参加資格も厳しかった。 写真の池は火口湖の「みくりが池」。この周辺で私は天然記念物のライチョウを見たことがある。厳しいレースだけにゴール後の達成感は凄いものがある。また泊まった雷鳥荘からの壮大な眺めは忘れられない。 知床半島 私が走った場所で最北の地点は知床半島だ。妻と観光で行き、宇登呂から北へ向かって走った。だが前方に動物が固まっているのを見つけ、用心のために引き返した。走っている時は眼鏡を外すのが汗かきの私の流儀。見えたのは恐らくエゾシカの群れだったはず。阿寒湖周辺で走っている時は、エゾシカの大群が走る姿が見えた。また大沼公園付近で走った時は、キタキツネに出会った。 訪れた最東部は根室半島の納沙布岬だが、そこは走っていないので私が走った最東部はこの知床半島になる。ただ、国後島も歯舞諸島も、霞んで見えなかったのが残念だ。 私が走った最西端は沖縄の西表島。ここも観光で妻と訪れた。走った距離は12km程度だが、良い思い出になった。東隣の小浜島でも走った。ここは朝ドラ「ちゅらさん」の舞台になった島だ。訪れた最南端は波照間島だが、走ってないためこの西表島が私が走った最南端にもなる。なお沖縄では石垣島、宮古島、久米島、沖縄本島及び周辺の島を走っている。 私が走ったのはレースとは限らない。観光で訪れたり、仕事で出張した際もランニングシューズを持参して、出来るだけ走った。だから全47都道府県走破は、その延長線上にあると言って良い。50歳を過ぎてからはウルトラマラソンが中心となったため、フルマラソン以上のレースがほとんどだ。そしてフル以上のレースの完走は、101レースに及んだ。私のささやかな勲章だ。 20年前、仕事でオーストラリアに行った時も、ランニングシューズを持参した。首都キャンベラでは、早朝にグリフィン湖の周辺を走った。湖水に浮かぶ水鳥、樹に止まる大型のオウム、木の枝に実るサクランボ、原っぱに開いた野兎の巣、大きな杉の松ぽっくりなどが忘れられない。 メルボルンでは早朝王立植物園の周囲を走った。ヤラ川のボート、州提督邸を警備するポリスマン、路面電車、石畳道と大聖堂などが印象に残っている。そしてシドニーでは帰り道に迷子になって困った。曲がり角を一つ間違えたようだ。公園を馬に乗ってパトロールするお巡りさん、クリケットの専用球場、ヨットハーバーでのクリスマス風景などが今でも脳裏に蘇る。 こんな風にたくさんのランニングにまつわる思い出がある私は、きっと幸せ者なのだろう。レース参加は夢のまた夢になったが、これからも出来るだけ思い出話を書きたいと願っている。<完>
2017.02.05
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先日の夜、あるTV番組を観た。記憶を失った青年の身元を、何とか探し当てようとする内容だった。ある青年は言葉の特徴から、岩手辺りで暮らした形跡があると言う。だが見つかったのは九州の佐賀県。列車マニアで地名にも詳しい。ところが記憶は島根県辺りで途絶えてしまった。彼の姿を見た方の証言では、幼い頃にとても厳しい環境に育ったことが分かった。 もう一人の青年は、愛知県岡崎市周辺の景色や食べ物に強い反応を示した。だが彼の顔を見たかつての恩師は、彼が京都府の出身であることを告げた。さらにお姉さんと言う女性が現れて彼と話したが、全く記憶がないとの答だった。どちらもまだ20代の若さなのに、記憶を失うような大事件でも起きたのだろうか。 我が家の近辺では認知症の老人が何人か行方不明になっている。ある時散歩していて、「ちらし」を見せられた。奥さんが必死で手掛かりを探していたのだ。徘徊の結果行方不明になる人の話は、さほど珍しくはなくなった。それだけ認知症の人が増えているのだろう。 あるブログ友が四国八十八か所の別格本山を訪ねたとブログに書かれていた。今回訪ねたのは愛媛の三か寺。そのうち2つは知っていて、あとの1か所も大体の場所は分かった。何故なら私は松山でも勤務したことがあったのだ。また不思議な縁だが、昭和20年代の後半に父親が夜逃げした先が松山市だったのだ。 松山城 卒業した小学校は街の真ん中。そして中学校は松山城の二の丸跡にあった。その懐かしい校舎はもうない。その後、史跡公園になったのだ。そして高校入学後間もなく父はそこで死に、私達兄弟は故郷の仙台に帰って来た。父が残した財産はほとんど継母に持ち去られた。そんな苦い思い出のある街へ、その34年後に再び勤務することになるとは全く不思議な巡り合わせだ。 松山勤務当時の練習コースを思い出して見た。昼休みは職場の周辺を8kmほど走り、休日はkm5分ペースで最長30kmほど走った。山のコース、海沿いのコースなど20kmから30kmのコースが3つあった。当時は水が飲める場所が限られていたため、夏でもほとんど水を飲まなかった。良くそれで走れたものだ。それは当時制限時間が3時間36分の「愛媛マラソン」完走に向けての、良い練習になった。 雪中の灯り 私が走り始めたのは35歳の時。当時は茨城県のつくばに勤務していた。それから、徳島県の鳴門市、沖縄、愛媛県松山市、大阪、山形、石川県の山奥、そして茨城県の水戸。59歳で辞職する時まで、私はずっと走り続けてた。その距離の累計が地球2周を超えた。 記憶が朧げになって来たが、今でもそれぞれの勤務地の練習コースを思い出す。同時に厳しかった勤務のこともだ。それぞれの練習コースには、私の血と汗が沁み込んでいる。いつか再び訪れて、また走って見たいとも思うが、きっとそれは無理。あの懐かしい風景は、私の胸の中で生き続けている。<続く>
2017.02.04
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歳は取りたくないものだが、こればかりはそうも行かない。先日、とあることで愕然とした。何と「ポインセチア」が何だったか分からなくなったのだ。これまでも物の名前を忘れることはあった。俳優の名前や、花の名前などを思い出せないことが増えた。それが今回は「実態」を忘れてしまったのだ。ネットで入力し、画像検索して直ぐに分かった。そして自分の老化を深く認識させられたのだった。 話は変わるが、私はNHKの番組「ファミリー・ヒストリー」と言うのをたまに見ることがある。確か放送は土曜日の夕刻だったと思う。著名な人の家の歴史を辿る内容で、父母の先祖がどんな人物だったのかやその時代の背景を探り、現在とどんな風に繋がって行くのかを解明する過程がとても面白く感じる。まあ有名人でなくとも、どんな家にも歴史はあるのだが。 先日の未明、眠れないまま黒木メイサが出演するTV番組を観ていた。彼女がスペインに渡って、フラメンコダンスを習う内容だった。彼女の名前は知っていた。日本人らしくない名前に加え、エキゾチックな容貌で一目見たら忘れないだろう。スペイン人ダンサーの熱心な指導で、次第に様になって行くメイサ。手つき、腰つき、足のステップ、体全体の表情、そして顔。やがて彼女はフラメンコダンサーそのものに変貌して行った。 デイゴの花 起床後、気になって彼女のことをネットで調べた。何と生まれは沖縄県名護市の辺野古だった。今米軍基地の拡張問題で揺れているあの地区だ。そして父親はスペイン人の血を引いているのだとか。偶然少女時代の彼女の写真を見た東京の芸能関係の人にスカウトされ、10代の頃に東京へ出たことが分かった。なるほどエキゾチックな顔をしていた訳だ。そしてフラメンコを見事に踊ったのも、きっと血のなせる業なのだろう。 話は変わるが、これは沖縄本島の地図。どこにも地名は入ってないが、私はほとんどの市町村に行ったことがある。そして黒木メイサの故郷も、ゴルファー宮里藍の故郷も走ったことがある。12月開催の「NAHAマラソン」は9回完走し、4年かけて沖縄本島を走って一周した。私は3年間この島で勤務し、転勤で去った後も沖縄を何度か訪れて走ったものだ。 そんな訳で、島の地形や風景は大体想像出来る。恐らくランニングで走った距離は2千km。原付バイクで走ったのは、きっとその倍にはなるだろう。約30年間の転勤生活と、勤務した11の職場。それがたまたまTVに映ったりすると、当時の苦労が脳裏に蘇る。転勤生活は決して楽なものではない。その厳しさを癒してくれたのがランニングだった。因みに私は47都道府県の全てを走っている。だからどこも懐かしい思い出の地なのだ。 <1月のランとウォーク> ラン5回45km ウォーク10回27km 合計72km これまでの累計88107km。(地球2周と5分の1周相当) 今ではかつてのように長い距離を走ったり、速く走ることは出来なくなったが、歩くような速さでもゆっくり走れることは私の大いなる喜びだ。走り始めてから今年で38年目。これからも命がある限り、ランニングを楽しみたいと思っている。<続く>
2017.02.02
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<森の工作> 10月29日(土)年に1度の「再度 伊達なマラニック」に参加。今年のコースは仙台市の市街地から5kmほど離れた「青葉の森緑地」。ここは元々仙台藩の藩林で、仙台城を防御するため木を伐ることが禁止されていた場所。それが明治以降も自然林として残されていた。そのコースの中ほどにある「管理棟」で昼食を摂った後、室内の展示物を撮影した私だった。 管理棟にはこんな可愛い看板が掛けられていました。でも時間がない私は絵本を読む暇はありませんでした。 私が夢中になって撮っていたのはこんな工作物。なかなか良く出来ていましたよ。 樹上の小屋はしっかりしていて、本当に人が住めそうでした。 こちらはカヤ葺きの農家。屋根を持ち上げると中の様子が見えるんですって。 モミの枝と松ポックリで作ったリースがシブイですねえ。 松かさとドングリを使って作った写真立てです。子供たちが楽しそう(^^♪ こちらの写真立てはデコレーションが凄いですねえ。 細い木の枝を切って作った「迷路」(左)と木目を生かした現代風な彫刻。(右) 形はいまいちですが、叩くととても良い音がする木琴です。 竹の節の部分近くを切って作った工作。カエルの顔にも見えますね。 押し花の額絵(左)と松ぽっくりで作ったクリスマスツリー(右) ふふふ。もしこんな電車があったら愉快ですねえ。 これはクルミのすだれでしょうか。 葉っぱや実の形に切った仮面(左)と竹を切って作った剣玉(右)ですね。 枯れ木と化石と苔で作ったミニ盆栽はいかがです? 山に生えた小さな苗を使った自然豊かなミニ盆栽の数々です。 松枯れ病で伐採された丸太さんサヨウナラ。 飛び石さんに小さな紅葉の苗さんお世話になりました。 参加者の皆さん、どうぞお元気で。また来年仙台でお会いしましょうね~!!<完>
2016.11.05
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<青葉の森緑地の動植物> 10月29日(土)「再度 伊達なマラニック」ではこんな山道を歩きました。ここは江戸時代、仙台城(青葉城)を守るため、木を伐らずにいました。明治以降は営林署の管轄下に置かれ、森の大部分は自然林として残ったのです。繁華街からわずか数kmの箇所にこんな豊かな森が残されているのは珍しいでしょうね。こんな道を3kmほど歩いて行くと・・。 目の前にこんな看板が掛けられた建物が見えて来ました。私たちはここで遅めの昼食を取りました。 ここには「青葉の森緑地」を紹介するための色んな展示物がありました。今日のブログはそれらが中心です。 先ずは森の動物の紹介から。左はリス。愛くるしい表情をしてますね。私は高校生時分に青葉山で一度見かけ、つい最近になって太白山付近で二度見かけました。右は猛禽類。段ボール紙を切って作っています。仙台城付近の広瀬川の断崖に、ハヤブサの巣があります。彼らは都会に棲む鳩を餌にしています。そうそう、ごく稀にこの森にはツキノワグマやカモシカが姿を見せるようですよ。(^^♪ この森に棲む野鳥の置物。ジュウシマツやシジュウカラなどでしょうか。 全部手作りの野鳥ですが、ずいぶんたくさんの種類が生息しているんですねえ。 脅かしてスミマセン。これは蛇の抜け殻です。結構長いですねえ。シマヘビでしょうか。 小さな松ぽっくりが箱の中にギッシリ詰まっていました。 こちらは栗の実(イガ)、松ぽっくり、サルノコシカケかな? こんな不思議な植物も展示されていました。地衣類かな? 各種のドングリ(団栗)とヤマグリ(山栗)みたいですね。 こちらはクルミ(胡桃)の殻。食べたのはだ~れ? 野草をそのまま飾った自然流の生け花。 この森で見られる植物や野草の写真ですね。 この山中にある「化石の森」の写真。かつてここは海の底。隆起と沈降を繰り返して現在の山になりました。宮城県で最も有名な化石は南三陸町の「ウタヅギョリュウ」(歌津魚竜)でしょうか。まだアジア大陸と陸続きだった時代に渡って来たセンダイゾウ(仙台象)の標本が、仙台市科学館などに展示してありますよ。 どうやら貝の化石みたいですねえ。 実はみんなが昼食を終えて再び歩き出した後も、私は一人残ってこのようなものを撮影していたのです。<続く>
2016.11.04
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<コースの紅葉と花など> 今日は10月29日に開催された「再度 伊達なマラニック」の参加中に見た紅葉や山中の花と実などを紹介しますね。 集合場所の八木山動物公園駅に向かう途中に見た紅葉です。 緑地帯の植木が紅葉しています。これらはケヤキですね。 ケヤキは宮城県の県木、そして仙台市の市木でもあります。 これはケヤキの落ち葉。そのうち大変な量のおちばになりますよ。 ケヤキの紅葉を楽しみながら集合場所に急ぎます。 病院の高い壁を伝う黄葉。これは山芋かオニドコロのはず。 「青葉の森緑地」に入るとこんな紅葉が。 高い梢も紅葉していますね。これはカエデでしょうか。 今年誕生したばかりの小さな若木もきれいに紅葉していました。 黄葉した葉っぱの上に載りかかった小さな枯葉です。 黄色く色づいたのはクルミの樹でしょうか? 大きくて裏が白っぽいこの枯葉はホウ(朴)の木の葉っぱですね。 「青葉の森緑地」では今、微妙な色合いに紅葉が進んでいます・・。 こちらはヤマザクラの仲間でしょうか? 鮮やかな赤い葉っぱはウルシの仲間みたいですねえ。 ウルシの仲間ともう一種類の紅葉が混じり合っています。 ここからは花や実など。これは道路わきで見かけたハギの花。そろそろ終りみたいですね。 特徴のあるこの形は、ツルリンドウの実のようです。 藪の中にひっそりと静まっていたのはリンドウ(竜胆)の蕾でした。 可愛らしい赤い実はヤブコウジ(藪柑子)。別名では十両とも言います。 葉を裏返しにして見た赤い実。インストラクターのFさんに名前を聞いたのですが、忘れてしましました。変わった名前で、ちょっとの間は憶えていたんだけどなあ。<後2回続きます♪>
2016.11.03
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<コース編> 今日は10月29日に参加した「再度 伊達なマラニック」のコースを紹介しますね。 スタート地点の「八木山てっぺんひろば」。 ここは仙台市営地下鉄東西線「八木山動物公園駅」の屋上なんですよ。 この駅は山上にあって、日本一標高が高い地下鉄の駅なんですって。普通の車では山を登る時に空回りするため、リニア方式の地下鉄なんだよ。 駅の名前が「八木山動物公園駅」。そうそうここには動物園があるんだよね。 カメラをちょっと引くとこんな感じ。動物園って雰囲気がするよね。 この親子もこれから動物園へ行くのかな? そうそう。この「てっぺんひろば」からは遥か遠くに光る太平洋も見えました。 この日歩いた「青葉の森緑地」の散策コース。入り口から出口まで5kmほどありました。 早速こんな看板がお出迎え。これは単なる脅かしではないんですぞ~!! 小さな谷川に架かる小さな橋。こんなのも楽しいよね。 マツクイムシの被害に遭って伐採されたアカマツの丸太。 それが何年かするとこんな姿に変わります。 インストラクターのFさんの話だと、これは野生のカモシカが角を擦り付けて出来た傷跡なんですって。まだ若い木で少したわむような木がカモシカは好きなのだとか。私もこの周辺で2度カモシカに遭ったことがありますよ。カモシカは人間に興味があるのか、逃げないでじっとこちらを見つめていました。 私たちがこの日歩いたのはこんな山道でした。 コースの所々にこんな標識があるので、迷子になる心配はありません。 ほら、こんな看板もありましたよ。今年は山の実が不作で、熊が里まで下りてくるケースが多かったみたい。仙台市の市内近くへも何度か姿を現したみたいで、ニュースにもなったのです。 かなり人里に近くなったせいか、木で作ったお地蔵様がありました。Fさんによれば、戦後間もなくの頃、この山中に開拓民が入っていたとのこと。誰かがホオズキを供えていましたね。 山から下りた広瀬川の河畔では「芋煮会」をしている若者たちの姿がありました。 澱橋付近の広瀬川。左前方に仙台の中心街が見えています。 澱橋から広瀬川の上流方向を見ています。私たちが歩いた山が右奥に見えています。この日歩いた距離は全部で8km。結構アップダウンがあり、良い運動になりました。私は家から往復歩いたので12kmを完歩。結構疲れましたよ。<続く>
2016.11.02
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<走友たち> 先週の土曜日、「再度 伊達なマラニック」と言うウォークの集いに出た。以前は「みちのくラン」と言う名前で、山の中などを30kmほど走っていたが、メンバーが年を取り数年前から歩きが中心になっていた。通算すれば今年で確か13回目だが、私はそのうち12回に参加しているはず。今年は仙台市の青葉城付近、地下鉄東西線「八木山動物公園駅」から営林署の山の中、遊歩道などを通って、地下鉄東西線「国際センター駅」まで歩いた。8kmの行程だったそうだ。上は間もなく80歳のランナーから下はまだ30代の現役ランナーまで幅広い。第1回の今回はこの日集まった走友にスポットを当てたい。 「動物公園駅」の屋上にある「てっぺん広場」に集まった仲間たち。T本さん、1年ぶりですね。この日集まったのは関東から10名、新潟から3名、宮城県内から14名。そしてスタッフは県内の7名。合計34名の面々でした。 もともとウルトラランナーが多いだけに、支度はばっちり。服装も決まってますね。 ほら、これだけ集まると壮観でしょ(^^♪ 76歳のM仙人を中心に記念撮影。前に出ておどける新潟のTさん。 説明を始めるDKさん。彼女がこの催しの「仕掛け人」で貴重な連絡役。もちろん現役のウルトラランナーです。 逆光ですが、太平洋方向を背に記念撮影第一弾。 今度は向きを変えて第二弾。背後は仙台市営八木山動物公園です。 念のために第三弾発射。誰です、一番前で寝転んでいるのは? スタートして1kmで白いシャツのO川さんにバッタリ。彼は今年5月の「本州縦断フットレース」で28日間で1521kmを走破したウルトラランナー。走友会の仲間なんですよ。そこで急遽街角で記念撮影をば。 第2弾でようやく寛いだ表情に。O川さんはこの日も15kmの練習中でした。 「鈎取治山の森」を往く御一行様。この一帯はかつて「亜炭」の採掘地でもありました。 ハロウィン用のカボチャの横でおどけるTさん。彼女は206kmの「佐渡島一周」の仲間です。 「仙台市青葉の森緑地」の中を歩く一行。所々に「熊注意」の看板も。 皆さんお疲れ様~!!ようやく「管理センター」で遅めのランチタイムに。 歩いた後のお握りの味は格別ですね。T野さんはパンかな? 午後一番で駆け付けたFさん。彼は登山やハイキングのインストラクター。植物の名前なども詳しく説明してくれました。70代半ばでトライアスロンクラブに所属する、現役のランナーです。 山道からようやく三居沢まで下りて来た御一行様。ここは明治初期、東北で最初に発電所が置かれた場所。小規模ながら、今も発電している現役の珍しい施設があります。私は60年以上も前に遠足で訪れたことがありますよ。 M仙人、A山さんら70代半ば過ぎの超ベテランを先頭に広瀬川の堤防を往く面々。 新潟三人衆もこの日は童心に帰って良い顔をしてましたね。 黙々と歩く古川組。ひょっとしてお疲れなのかなあ? ゴール地点の「国際センター駅」前でポーズする四人衆。もうちょっとダイエットしたら楽だよFさん。私はここでお別れでしたが、大部分はこの後仙台市内で、懇親会に参加でした。 老化と故障で走れなくなった私が今年参加したのはいずれもウォークばかり3回。でもこんなのでも結構満足しているんですよねえ。<続く>
2016.11.01
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蔵王エコーラインの眺望 還暦を少し過ぎたころから、リュックを背負って1人で走るようになった。いわゆるマラニック(マラソンとピクニックを兼ねたもの=合成語)だが、それもウルトラマラソンの練習だった。仙台の自宅から石巻市までの夜間マラニック(60km)は2晩寝ないで走る「佐渡島一周」対策の練習だった。それがいつしか峠を越えて隣県まで走ることに惹かれるようになった。 自宅~二口峠~山形市山寺(53km)、自宅~関山トンネル~山形県天童市(56km)、自宅~笹谷峠~山形市(56km)、白石市~金山峠~山形県上山市(57km)、自宅~蔵王エコーライン~山形市蔵王温泉(77km)、自宅~国見峠~福島市(80km)などがそうだ。また海岸沿いに石巻市~気仙沼市(90km)なども走った。それがやがて沖縄本島単独一周(440km)走破につながった。 太安万侶の墓(奈良県) 走りながら見えるのは道路や景色だけとは限らない。平成16年の奈良市内マラニック(50km)では、奈良公園からスタートし、時計回りに東大寺転害門~忍辱(にんにく)山~柳生の里~新薬師寺~奈良公園と一周した。この時走りながら偶然見つけたのが太安万侶の墓の案内板。歴史好きな私は、もちろん苦労しながら探しに行った。 太安万侶(おおのやすまろ)は稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた日本の歴史を「古事記」として編集した人。茶畑を開墾していて偶然に発見した墓だが、埋葬者が誰か分かったのは名前を刻んだ銅板があったため。このリュックを背負っての60歳の旅が47都道府県走破の記録を作り、同時に私の最初のマラニックになった記念すべき日となった。 カラムシ(苧麻) カラムシで織った布 平成20年の「宮古島ワイドーマラソン」(100km)では、走っている途中にカラムシを栽培している植物園を見学した。前日、島のオバーが偶然カラムシを織る様子を見た。それでカラムシを栽培してる所を聞いていたのだ。オバーは織ってるものを「ぶー」と呼んでいた。これはきっと「布」(ふ)が訛ったものだろう。私はそう直感した。 私がカラムシの名前を知ったのは考古学の専門書。縄文人がその茎の繊維を布の材料にしたようだ。だがどんな植物かは長い間分からないでいたのだ。どこにでもありそうな普通の草だったが、やがて近所の博物館で栽培しているのも知った。この日のレースでは、東平安名﨑でマミヤの墓も見た。琉球王朝時代、沖縄本島の首里から来た役人を好きになった宮古島随一の美人の墓だ。私はレース中にも歴史の勉強をしていたのだ。 佐渡島宿根木集落の北前船 206kmのレース「佐渡島一周」には3度出たが、その3回目の際に宿根木(しゅくねぎ)集落の博物館で見たのが、この北前船。博物館は閉まっていたが、偶然扉の隙間からこの巨大な船が見えたのだ。北前船は西廻り航路で蝦夷が島(北海道)や東北の産品を大坂まで運ぶ船。途中で山形の酒田港や福井県の敦賀港などにも寄港した。 この船は帆船のため、風が吹かないと動けない。そこで各地に風待ち港があったのだ。佐渡島の宿根木は小さな港だが、波を避け風を待つのに好都合の深い入り江があった。この島には日蓮が流された集落や、流刑に遭った上皇の墓のある町もあった。私は走りながらそんな場所を見つけ、記憶していたのだ。 これは宮城県の松島にある雄島の岩窟と稲荷社の祠。3年ほど前の「みちのくラン」の際にここに寄った時に小さな祠を見つけた。そこの説明板にこの小島の狐が都で正一位の称号を受けた帰り道、石巻まで帰る船に乗って、寒風沢島で下してもらったと書かれていた。 この小島は松島の瑞巌寺の所領で、かつては多くの僧が修行していた聖地。江戸時代には松尾芭蕉が弟子の曽良と一緒にこの島を訪れている。だが、私はなぜ狐が船に乗るのか、この時は全く分からなかった。 松島湾の有人島 寒風沢島の縛り地蔵(眼下に港が見える) 松島湾に浮かぶ島のうち4つの島には人が住んでいる。昨年の「みちのくラン」では、塩釜港から市営のフェリーに乗ってこのうちの3つの有人島を訪れた。青い色の寒風沢島はかつて風待ち港だった所。伊達政宗が領内の沼地を干拓して米作を進め、余剰米を船で江戸に送った。米の積出港の一つが石巻。当時の北上川を改修して良港に変えていた。 だが風が吹かないと船は出ない。この寒風沢島には江戸時代女郎屋があり、女郎衆は船乗りたちが船に乗り込めないよう、地蔵を紐で縛った。つまり船乗りたちは風が吹くのを祈願し、女郎衆は風が吹かないことを願い地蔵が自分たちの言うことを聞くよう、縛ると言う荒業に出たわけだ。これで松島雄島の狐の話も理解出来た。それはつい最近ようやく結びついたこと。走りながら、歩きながらでも歴史の勉強が出来る見本だ。 ひょんなことから書き始めたこのシリーズ。1回で終わると思っていたのに、今日で4回にもなってしまった。私は老化で満足に走れなくなったが、ランニングやレースの思い出は数え切れないほどたくさん持っている。それほどランに打ち込んでいたのだ。これからは歩きが中心になるだろう。そうして東北や日本の古い歴史を学ぶ予定。走れなくなった私だが、まだ楽しみが少しは残されているようで嬉しい。<完>
2016.10.28
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長い間走っていると、故障することがある。いわゆる「ランニング障害」だ。疲労骨折では2年半ほど影響が残り、捻挫したまま走っていて足首の関節が変形したこともあった。足底筋筋膜炎になったこともあり、アーチが落ちて足の形が変形し、腱鞘炎にもなった。元々偏平足だったのが、ウルトラマラソンで無理をし過ぎたのだろう。これは医療用のインソールを作ってもらって対処した。3度作ったが5万円から6万円近くかかり、今もそれなしでは走れない私だ。 不整脈が出始めたのは平成20年の「薬莱山とお足」の時ではなかったか。今思えば肉体労働のアルバイトで疲れていたのが引き金になったように思う。その2週間後の「立山登山マラニック」では魔の八郎坂で20回ほどふらつき、3度倒れた。当然標高2500mの室堂でタイムアウトになった。この年はまだ不整脈に気づいていなかった。 不整脈と診断されたのは平成23年の東日本大震災の年。偶然内科に行って判明した。あれからカテーテルによる手術を3度受けたがランニングも続けていた。平成23年の「秋田内陸」では8km地点で不整脈が出て43kmほどでリタイヤ。猪苗代湖マラソンでは前夜祭で不整脈が出たものの、レースでは66kmを走り通せた。「浜名湖一周」では40km付近で不整脈が出たが、70km走ってゴールした。 神戸マラソン 36km地点 平成25年 当時勤務していた筑波で35歳から走り始めて今年で38年目。その間には色んな出来事があった。その後転勤を重ね、全国各地で走った成果が以下の記録につながった。 平成8年10月 47都道府県探訪達成。最後は和歌山県。記念に110kmレース「和歌山城ー高野山往復レース」に出場。両ひざを傷めながらも完走。(大阪府吹田市で勤務) 平成14年8月 地球一周走破達成(茨城県水戸市で勤務) 平成16年10月 47都道府県走破達成。最後は奈良県。奈良市内を50kmジョギング。(宮城県) 平成24年10月 地球2周走破達成。68歳。(宮城県) 平成26年10月 沖縄県「久米島マラソン」完走。70歳。フル以上の距離の101レース完走。 現在の累計走破距離は87818km。最近ではペースが落ち、歩くことが増えている。 <続く>
2016.10.27
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桜村民運動会 昭和55年 職場駅伝大会 昭和55年 そもそも私がランニングを始めたのは昭和54年の元旦からだった。前年の桜村(つくば市の前身)の子供の運動会で恥をかいたのがきっかけだった。走るのには自信があったのに、骨折の影響で足が上手く運べなかったのだ。そこで一念発起して翌年の元旦から走り始めたと言う訳。 そもそもランニング用品などが一般的でない時代。パンツは卓球用だったり、バトミントン用のもので、シューズも単なるズックだった。それに走れたのは3kmまで。それから8km、10kmと距離を伸ばし、16kmほどまで走れるようになった。翌年の桜村民運動大会の3km走では2位になり、職場の駅伝大会では優勝するまでになった。あれから時は流れ、走り始めてから今年は38年目を迎える。 時は流れ平成16年の秋、私は最後の未走県である奈良県を走った。私は全国を転勤する立場になり、合計で11もの職場を移った。59歳の時に前職を辞め、仙台の自宅に戻って初めて走友会に所属した。転勤や会議、観光の都度、全国どこへどもランニングシューズを持参して走った。最後に残った未走県が奈良県だったのだ。そこで大阪行きの夜行バスに乗り、京都で降りて奈良へと向かった。60歳の時だ。 奈良公園をスタートして時計回りに奈良市内(一部は他の町も通ったが)50kmほど走った。そして走り終わると再び夜行バスで仙台へ戻った。右側の写真は走友会が私の47都道府県走破を祝って開いてくれた祝賀会でのもの。左が私で、右は富士登山競争走破、フルマラソンを2時間台で走るサブスリー、100kmレースを10時間切って走るサブ10の3冠を達成したKさん。同時祝賀会だった。 「宮古島100kmワイドー」平成20年 宮古島東平安名崎 ここもコースの一部 64歳の時に沖縄で100kmレースに出た。「宮古島ワイドーマラソン」だ。ワイドーとは宮古島の言葉で「ガンバレ」の意味。朝暗いうちに出発して島を時計回りに回るコース。1月の開催だがこの日の最高気温は18度ほどと走るには絶好のコンディションだった。だが、橋の上は強風が吹き荒れていた。1つ目の栗間大橋をクリヤーして島の西端に向かい、池間大橋を渡って池間島を一周する。左は強風吹き荒れる池間島大橋の上で。 私は沖縄に3年間勤務したこともあり、沖縄は大好きだ。初めてのフルマラソンも沖縄の「NAHAマラソン」。平成20年から4年かけて沖縄本島を単独一周した。7月はあまりにも暑過ぎて朝夕しか走れず、後は熱中症に耐えながら歩いた。そうして4年かけてたった1人で440kmを走破した。命の危険性を感じたこともあったが、今では良い記念になったと思う。忘れられない思い出だ。 沖縄県久米島の海 久米島マラソン 平成26年 走友Mさんと 平成26年10月。私は人生最後のフルマラソンとして制限時間7時間の「久米島マラソン」に出た。沖縄勤務時代(平成元年~4年3月)にも出ようとして、台風のために断念したマラソンだった。前日も不整脈が出ていた。その数年前からレース中に不整脈が起きることが何度かあった。その都度血液が逆流してパワーが上がらず、失速してしまうのだ。この最後のマラソンでも息が続かず最後尾となった。 途中でタイムアウトになったが、私はそれでも最後まで走り続けた。送って来た大会要項やパンフレットが不備で、どこに関門があるか不明だったのだ。もう後片付けが始まってコースも分からなくなっていた。時間をオーバーしての完走。誰も私を迎えてはくれなかった。それでも私は満足だった。ランニング人生の最後のレースを、こうして終えたのだった。 帰宅後、久米島マラソンの事務局に長い手紙を書いた。そして大会要項やパンフレットの修正すべき点を全て抽出して改善案も添えた。翌年その新しいバージョンの大会要項が届いた。だが、私の体はもう42.195kmの距離に耐えられないものになっていた。レース当日出会ったMさんは宮城UMCの仲間。それがその後、沖縄や北海道に移住し、この日は何年振りかでの再会。人生はいつどこで、何が起こるかわからない。だからこそ面白いのだ。<続く>
2016.10.26
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ブログ友が先日思い出話を書いてるのをみたら、私も急に思い出話がしたくなった。いや、そろそろブログネタと言うか、写真のストックが乏しくなって来たせいもあるのかも知れない。それに歳を取ると、どうしても繰り返し同じ話をしてしまう。きっとそれらのいずれもが当たっているのだろう。今日は始めてから38年目になるランニングの思い出を書きたいと思う。 四万十川の沈下橋 香川県小豆島にて 平成5年 私が初めてウルトラマラソンを走ったのは平成6年の「第1回四万十川100kmマラソン」だった。50歳の初挑戦で見事完走した。当時は四国の松山市が勤務地。制限時間3時間36分(当時)の「愛媛マラソン」完走を目指して練習を重ねる日々。100kmレースに同行した仲間8名の中で完走出来たのは私も含めてわずか2名だった。90km過ぎからの足の重さには参ったものだ。 このレース中60km付近で出会ったのが岡山のISさん。ゼッケンに名前が書いてあった。当時はまだ目も良かったのだ。途中で別れ別れになったのだが、彼女も無事ゴール出来たことを後で知った。30代の若い方だった。四万十川にはダムがないため、魚が上流まで自由に行き来できる。沈下橋は大雨が降って川が増水した際に橋が流されないよう、手すりのない橋。レースではそこも渡った。翌年も出て2度とも完走出来た。 秋田県角館の武家屋敷 秋田内陸100km 平成17年 次にISさんの名前を聞いたのは「秋田内陸チャレンジウルトラ」の記念文集でだった。出会ってから5年ほど経っていた。その間に彼女は「関西周遊」(300km)や「トランスエゾ」(片道555km)を走破する一流ランナーに変身。だが文集には意外なことが書かれていた。何と乳がんで片方の乳房を失った由。 住所が分かったので年賀状を出した。彼女からも返事が来た。だがその数年後さらに驚くことが年賀状に書かれていた。なんともう片方の乳房もがんで摘出した由。それが厳しい現実だった。彼女の消息はその後途絶えた。元気でいてくれたら嬉しいのだが。「秋田内陸」のコースは実に美しい風景だ。4度完走し、3度途中リタイヤの懐かしい大会も、体調不良で出られなくなってからもう5年が過ぎた。 佐渡島「大野亀」の奇景 伊豆大島 平成22年 206kmを48時間で完走する「佐渡島一周」には62歳から65歳までの間に3回出場し、3回とも完走した。最初の年は寂しい海岸を1人で走っていると、某国のスパイに拉致されそうな感覚になって困った。翌年第2回の時は「幽霊騒ぎ」があった。佐和田集落手前の道路に深夜0時ころ女性がいたと言うのだが、私もそれは見た。誰も通らない寂しい道を女性がたった1人で深夜に歩くわけがないのだが、私は幽霊だとは思わなかったのだ。 3度目の挑戦は65歳の時。佐渡島仲間のHさんが60歳で胃がんで亡くなり、R子さんが卵巣がんでまだ30代の若さで亡くなったことを知り、2人の弔い合戦のために走ることを決めたのだ。当時は既に故障と老化で体調は悪かった。それでも佐渡で出会った2人の冥福を祈りながら、挫けそうになる気持ちと戦い前進を続けた。 残り70kmではフラフラ状態だった。ゴールの手前3km付近では疲労のあまり距離感が狂い、同じ道を3度行ったり来たりしていたのだ。それでなくても2晩寝ないで走っていると、異常な感覚に襲われる。いわゆる幻覚、幻聴を体験したのも「佐渡島一周」だ。幸い車でパトロール中のSパパに出会って、残り3kmと教えてもらって事なきを得た。物が二重に見え、このころから既に緑内障の症状が出ていたのだ。<続く>
2016.10.25
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今月の初めに所属走友会の創立30周年記念祝賀会があったことは既に書きました。その時の写真がまだ残っていましたので、載せて見ますね。前にも見たような写真が混じっていますが、良かったらお付き合いくださいませ~(^^♪ 秋保方面に向かうバスの車中で、既に缶ビールが配られています。2人ともウルトラランナーで、100kmのレースを完走しています。 勝負の神である秋保神社へ参拝する仲間の後ろ姿。この近辺は平氏の末裔である秋保氏の支配地でした。 わが走友会が奉納した旗を持つ会長。彼はスピードランナーです。 秋保神社本殿前で記念撮影をする際の仲間たち。まだ準備中ですが。 こちらもまだ準備が整っていないうちに撮影しました。 秋保大滝の傍にある滝本山西光寺にお参りする仲間の後ろ姿です。 祝賀会会場となった秋保温泉の宿の前で。なお当日は会場を4時間お借りしただけです。 宴会場の前に掲示されていた電子式の案内板です。 挨拶をするT会長(左)。乾杯の音頭を取るK長老(右)は間もなく80歳で、フルマラソンを完走する現役のランナー。国内でも上位にランクされています。 詩吟を吟詠するKさん(左)はかつてのスピードランナー。思い出話をする元会長のSさん(右)は今でも50kmレースを楽しんでいます。2人とも会の古いメンバーです。因みに私は入会後まだ13年。最近は体調が悪くて走れず、会の行事にもほとんど参加していないのですよねえ。 舞台の上では次に始まる表彰の準備中です。 表彰されたKさん(右)は走友会の事務局長だけでなく、県内のウルトラマラソン仲間の集まりである「宮城UMC]の事務局も務めるタフな人。還暦ですが100kmを楽に走破するランナーです。 余興に「恋するフォーチュンクッキー」を踊る彼らは駅伝メンバーのエースたち。 舞台上では安来節を熱演し、その扮装のまま表彰式に臨むT会長。 懇親会の一幕。わが走友会の会員は60名ほどいるのですが、記念式典に参加したのはシニア会員が多く、若いメンバーはレースに参加した模様です。 思い出のスライドショウから。邪魔にならない角度から撮ってるため、曲がっています。 30年の間には色んなことがあったようですね。 会員同士で結ばれたTご夫妻の結婚式の写真。目下転勤で東京勤務です。 写真はありませんが、私の47都道府県走破の写真や、今年の5月に1521kmの「本州縦断フットレース」を完走したOさんの写真も、この時に紹介されました。 VサインをするFさんは前会長で、長年の功績を称え表彰を受けました。高校の後輩です。 30周年記念祝賀会が無事終了後に記念撮影。私は最後列の左から2番目にいます。 すべてが終了し、寛いだ表情のメンバー。彼らはこの後二次会、三次会へと繰り出したとか。 (お断り)ネットでは特定出来ないよう顔を加工するのが一般的ですが、ランナーの多くはそれに拘っていません。特にウルトラランナーはその傾向が強いのです。そんなこともあって、ここでは写真をそのまま掲載しています。驚かれるでしょうが、ランナーは善意を信じているのです。
2016.10.24
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10月2日は私が所属している南仙台走友会の創立30周年記念祝賀会が、仙台市近郊の温泉で開催されました。会場は今年のサミットの蔵相、国立銀行総裁会議が開催されたホテルで、とても立派な施設でした。 司会はK野副会長。黄色い蝶ネクタイが似合ってますねえ。 8年間会長を務めたF田さんに対して、T野現会長から表彰状が授与されました。F田さん、長い間本当にお世話になりましたね。 続いて多忙の中で事務局長を務めているKDさんに、還暦祝いの赤いランニングパンツを贈呈です。Kさんいつもご苦労様で~す。 2時間飲み放題の祝賀会では、お刺身の船盛りなどのご馳走が満載でした。 余興は順不同で。走友会のユニフォームで「恋するフォーチュンクッキー」を踊るのは、左からS水、M川、S山、A部の各氏。練習はしたのですが、フォームはバラバラのようですねえ。 朗々と詩吟を吟詠するM仙人。76歳で100kmマラソンに挑戦してる仙人は立派な現役選手です。他にK木さんも見事な詩吟を披露。 待ってました、いよっ千両役者~!!T野会長の安来節は堂々たる腰つき、手つきです。実に様になってますなあ。目下花嫁募集中で~す。 ここからは思い出のスライド上映。走友会最初の練習会は昭和61年8月19日の15km走でした。無事走り終えてくつろぐ創設メンバーの笑顔。 昭和63年当時の練習風景。みんなまだ若かったですねえ。 平成11年、本格的なウルトラマラソンデビューを目指して練習を始めた頃の雄姿。このしばらく後に、私の「47都道府県走破達成祝賀会」の様子も映し出されました。(^^♪ 走友会初のカップル誕生となったMさんY子さんの結婚式。お二人さんおめでとうございます(^^♪ 舞台裏で出番を待つ、光り輝くメンバーたち。いや~っ眩しいねえ。 そろそろ出来上がって来たメンバーたち。皆さん昼酒が効いて来たようですねえ。 記念撮影。最後はビシッと決まったのはさすがです。 秋保神社に奉納した旗(左)と、元気に二次会へ繰り出す仲間たち。(右) ファイト!さらに前進。次は40周年を目指すぞ~!!
2016.10.04
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走友のO川さんが、とてつもなく大きな夢を実現した。故郷の青森駅から走り始めて28日目にして、とうとうゴールの山口県下関市のJR駅前に辿り着いたのだ。そこには共に祝うため、同じ走友会のM井さんとS原さんが待ち受けていたそうだ。O川さんは直ちに大会本部へメールし、記念撮影後仲間と共に宿泊先に向かった由。 前日走った距離は37km。そしてこの最終日に走ったのは31km。合わせて68kmは彼の力を以てすれば決して走れない距離ではない。でもそうしなかったのは、明るい時間帯のうちにその日の宿に着くことを守ったため。最後の2日間はそれに合う適当な宿がなかったためのこととか。いかにも冷静な彼らしい話だ。 今回彼が参加した「本州縦断レース」の模様を、私は連日自分のブログで紹介し続けた。それは彼が約束した通り、走友会の掲示板に毎日のレース結果を書いてくれたからこそ可能なことだったし、それが私が出来る唯一の応援だったからだ。私の計算によれば今回O川さんが走った総距離は1551.2kmとなった。途中で迷子になったのを入れれば、さらに数字は増える。でもそんなことを気にするような小者ではない。何せまだまだ走りたいと言う鉄人なのだから。 思えば彼は520kmのレース「川の道」を2度走破している。実は自分の目前でトラックにはねられて亡くなったランナーを目撃した年もあった。それでそのレースは急遽中止されると言う悲しい事故も経験している。だからこそたった1人で走る今回のレースは、より慎重なレース運びを考えたはずだ。最初は80km超を走り、途中から50km台に抑えると言う冷静な計画だった。おめでとうO川さん。あなたはわが走友会の誇りです。 ご家族の方々もこれでようやく安心されたことでしょう。無事に仙台に戻り、いずれ一緒にお祝いの宴で再会出来る日を楽しみに待ってますよ~。28日間の長旅、本当にお疲れ様でした。改めて1550km超級のレース完走、おめでとうございます。きっと宮城のウルトラ仲間や走友全員が喜んでいることでしょう。 おめでたいニュースに便乗して、私の5月のランとウォークの記録を記しておこう。はわずか2回で33km走っただけだった。O川さんの1日分にも遥かに及ばない。そしては25回で105kmだった。膝や腰に痛みがあったため、無理が出来なかったのだ。月間合計は138km。そして年間合計は695km。O川さんの1回のレースの半分以下の距離にしかならない。 それでも私は喜んでいる。5月は6年ぶりに「仙台鉄人会5時間走」に出られたからだ。今は「あること」が起きて、体調は最悪。良く眠れないために血圧の上昇が激しく、時々酷い頭痛もある。そんな中でO川さんのレースがあり、自分も一緒に伴走するような気持ちで応援していた。 私は47都道府県を訪れ、そのいずれでも走ったことがある。だからO川さんが走ったうちのごく一部でも、かつて自分が走ったり訪れたりした懐かしい場所があったのだ。今日は本当は「色んなニュース」を書く予定だったのだが、長文になったことと、やはりO川さんのお祝い1本で行くべきと考え直し、こんな体裁になってしまった。お祝いにしては写真も乏しくて淋しいが、事情を察していただけたら嬉しい。
2016.06.02
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5月8日日曜日。この日は「仙台国際ハーフマラソン」の当日。多くの走友が仙台の街を走る抜ける日だ。どうしても応援に行かない訳にはゆかないだろう。だが私の心は重かった。5月4日に近所の小さな博物館を歩いて訪れた際、膝に激痛が走った。 恐らくは前月のランとウォークを頑張り過ぎた反動だろう。しかもその原因は新しく買ったシューズのせいだと思う。慣れないメーカーのシューズは、私の足には少々堅かったようだ。それをカバーしているうちに、他の筋肉も傷めてしまったようだ。 だが泣き言は言ってられない。荷物をまとめ、必要な物をリュックに詰め、短い「棒」をマウンテンバイクの脇腹に輪ゴムで止め、ペダルを踏み出す。山越えで行くのが最短距離だが、さらに足を傷める可能性がある。ここはゆっくり遠回りだ。国道286号線で土樋まで出、そこから米ケ袋経由で大橋のたもとに出る。 ここは仙台城の旧大手門前。恐らくちょうど5km地点辺り。選手はまだ来ていないが、時々大会関係者の車が通って行く。時計を見ると間もなくスタート時間。さて急ごう。 これが第2次世界大戦で焼失した大手門。選手はこの城門を知らないだろう。コースも上の写真の場所から右に曲がって川内に向かうため、ランナーは坂の上まで気が廻らないはず。今は小規模の「隅櫓」が坂道の左隅に建っている。仙台城の残り少ない観光資源だ。 西公園の角、仲の瀬橋から坂を登り、大学病院方面に左折する角に陸橋がある。ここは往路の6km地点辺りか。また市役所手前の折り返し点から帰って来ると9km地点ほどになる、応援に都合の良い場所。リュックから2枚のユニフォームを出して、短い棒にクリップで留める。黄色い方は「南仙台走友会」のもの。オレンジ色のはウルトラマラソン仲間で造った「宮城UMC」のユニフォーム。これを振れば、きっと目立って走友が見つけてくれるはずだが。 その時スタッフと警察官が近づいて来て、歩道橋の上では応援出来ないため直ちに降りろと厳命。折角橋の上に載せたマウンテンバイクも移動を命じられてしまった。間もなく仙台市内ではG7の蔵相会議がある。警察もスタッフも警備上の問題で神経が過敏になっているようだ。場所を移動しているうちに、トップランナーは行ってしまった。レ・ミゼラブル。あちゃ~!! こちらは定禅寺通りから折り返して来たランナー。実は昨日映画の「殿、利息でござる」鑑賞記と抱き合わせてブログを書こうとしたため、折角撮った大量の写真を捨ててしまい、僅かに残った写真を使っている。往路の6km地点で確認出来た走友は、南仙台走友会がO内さん、K野さん、S山さん、A原さん、T野会長、M仙人、K山長老。そして住吉台のI村さん、S藤さんら。仙台鉄人会のF田さん、T橋さんら。何せ1万人の中から探し出すのだから大変な作業だ。 でも黄色とオレンジのユニフォームはやはり抜群の効果があり、自ら見つけてくれたランナーも多かった。ランナーが少なくなった頃、横断橋を移動し、復路9km地点の応援に廻る。選手の姿がかなり減ったのを見計らって、マウンテンバイクで楽天の本拠地「コボスタ前」に移動。街角に自転車を停め、早速「手製の旗」を作る。速いランナーはもう通り過ぎたようだ。ここは13.2km地点辺りか。東京に転勤した仙台明走会のM井前会長が目ざとく手製の「旗」を見つけ、声をかけてくれた。やれやれ良かった。 最終ランナーが通り過ぎて交通規制が解除され、ようやく道路を渡ることが出来た。急いで陸上競技場の前に陣取る。ここは21km地点。もう競技場内のゴールから大きな音声が聞こえて来る。ここでわが走友会のK野(ま)さんと遭遇。彼女は速いランナーだ。A原さんも気づいて手を上げて通過。M仙人は今日の暑さが堪えたようだが、私の声に気づき、手を上げてグラウンドに向かった。制限タイムのギリギリにK野母娘の姿。娘さんとは西公園でも会えたっけ。後刻、母娘と握手した。ここでも最後まで応援し続け、すっかり足が痛くなってしまった。 ゴール後の選手の肩にかかっているのが完走賞代わりのバスタオル。これを広げて記念撮影するのが「フィニッシャー」の誇りなのだ。私もたった1度だけその栄誉に浴することが出来た。コボスタ前で応援を終えたD口さんK藤さんとバッタリ。K藤さんはわざわざ酒田市までO川さんの応援にも行かれたはず。選手の皆さん、そして応援の皆さん、どうもお疲れ様でした。私が帰宅して冷やし中華を作って食べたのは午後の2時近かった。ああしんど。<完> < 本日のO川さん情報 > 5月9日(月)は「本州縦断レース」(青森市~下関市1500km以上)の第5日目。O川さんは仙台から駆け付けた応援仲間と20kmほど並走し、途中のクラゲの飼育で有名な「加茂水族館」を見学。前夜は仲間との歓談を楽しまれた様だ。走友の観察によれば、O川さんには全く疲労の色は見えず、傷めた箇所もないとのこと。まさに鉄人ランナーだ。 この日走った距離は60kmで時間は10時間。これで5日間の累計は348.2km。時間は61時間20分に達した。残りは本日も入れて25日間。今日は新潟県村上市からスタートし、同県の新発田(しばた)市がゴールの予定。O川さん、体調には十分気を付けて安全に走ってくださいね~!!
2016.05.10
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自宅のシバザクラ(スタート地点) 4月9日土曜日。ニューシューズを履いて走りに出かける。この日の服装はシューズに合わせて青系統にまとめた。手にはサプリメント水溶液が入ったペットボトル、そしてポシェットにはデジカメ。走りながら景色や花を撮ろうと言う考えだ。果たしてどんな写真が撮れるかは分からない。スタート前に、庭のシバザクラを一枚。 (4km地点)結婚式場のチャペル。 同結婚式場。 長い坂道を登った所にある結婚式場。ここはもう仙台市の隣の名取市。ここから右折し、山の上の団地へと向かう。とても厳しい登り坂が2kmほど続いている。 (5km地点)ある家の庭に咲いていたアカヤシオ。 坂道の途中にも瀟洒な住宅が建っている。ここは「ゆりが丘」と言う団地。ある家の庭に大きくて見事なアカヤシオの花が咲いていたので、思わず一枚。これはツツジの仲間だ。 (8km地点)熊野神社境内のソメイヨシノ。以下同様。 この神社は標高230mほどの山の上から下った麓にある、熊野三社のうちの一つ。境内にはほとんど人影がなく、ソメイヨシノが静かに咲いていた。この神社から東に向かい、名取川の堤防に出る。 (9km地点)名取川河川敷のコブシの大木2本。 堤防上の道は見晴らしが良く走っていても気持ちが良いのだが、ニューシューズが足に合わず、この辺りではかなり足が痛んでいた。目の前に2本の真っ白い花が咲いている大木が見え出す。あれはきっとコブシのはず。6日前にもこのコースを走った時は満開だったが、今は花弁が散り始め、木の下に白い絨毯が見えた。堤防を3km走って太白大橋を渡り、今度は笊川(さるがわ)に沿って走る。 (12km地点)笊川堤防のソメイヨシノ。以下同様。 堤防の上には桜の並木がある。樹齢はまだ30年ほどだろうか。その花の下でお花見をしてるのは、きっと近所の人なのだろう。中には町内会の行事と思えるお花見も見かけた。 (12.5km地点)向こう岸の桜。 (12.5km地点)こちら側の桜。 笊川の両岸で、小規模のお花見が行われていた。冬は西風が厳しいこの堤防が、今は長閑な春の景色に様変わりだ。 (13km地点)大通りの大島桜。 堤防を走っていると、地下鉄富沢駅前の大通りに真っ白い花が見えた。思わず近づいて見ると、これはオオシマザクラ(大島桜)。以前に何度も観ているはずなのに、すっかり忘れていたのだ。 (13km地点)太白山の遠望。 遠くに見えるトンガリ山が標高321mの太白山で、区名の元にもなっている名山。麓には仙台市の「自然観察センター」があり、山野草の豊富な場所だ。1週間後にはあの頂上に立つのだが、この時は全く予想してなかった。この小川、笊川の水源地でもある。 (14km地点)スーパー銭湯裏の桜。 ここは近所のスーパー銭湯(天然の温泉)の裏で、笊川の堤防。ここまで来たら家までは残り1kmほど。もうちょっとの辛抱だ。 (14.5km地点)近所の神社の境内。以下同様。 同じ境内の枝垂れ桜。決して大きくはないが案外見応えがある。ここは昔から地元の氏神様として祀られ、祭礼は毎年5月の初めにある。 (14.6km地点)公園の大島桜 八幡神社横の急な坂道を登り終えた所に、小さな公園がある。これはその公園に咲いていた大島桜をアップしたもの。白い桜なのだが、アップして見ると少しピンクがかっているのが不思議。 (14.7km)農家の枝垂れ桜。 ここまで来たら我が家はもうすぐ。この辺は戦後開拓農家が入植していた辺り。住宅地の中にまだ広い畑を有しているお宅が少し残っていて、畑や作物などが見えるのが嬉しい。その一角に咲く見事な枝垂れ桜。あれから10日過ぎた今は、もうすっかり葉桜に変わってしまった。季節の移り変わりの速さには、いつも驚かされている。 なお、今年の花見はまだ残っている。今月末には近所のM公園で所属走友会恒例のお花見がある。もちろんソメイヨシノではなく八重桜。それは見事な花。M公園は市内の桜の名所の一つで、30種類ほどの桜が植えてある由。その様子は多分5月の掲載になるだろう。「御衣黄」など緑色の桜もまだ残っているはずなので、どうぞお楽しみに~!!
2016.04.19
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2月の末に走った13kmのコースで橋の上まで来た時、名取川の川幅がかなり広がったことに気づいた。「おかしいなあ。これほどまでに広がるのは初夏頃なんだが」。だが直ぐに原因が分かった。暖冬の影響で例年より2カ月以上も早くから山の雪が融け出したのだ。これが夏場の田圃の水不足に繋がらないことを祈りたいものだ。 結局2月のは9回で92km止まり、一方は13回で45km。合わせて137kmだった。元気な頃の半分以下だが、ゆっくりでもまだ走れることに感謝したい。これまでの累計は86686kmに達した。 先日県南の市に行った時にふと思った。6年ほど前までやっていた「峠越えラン」。家からこの角田市、丸森町を通って福島の相馬市まで走ろうとしたことがあった。その後不整脈の症状が出てからは無理になったが、電車で角田や丸森まで来て、そこから残りを走れないだろうか。距離は30kmはありそうだ。その体力と走力が今の私に残っているかどうか。その前にもっと鍛える必要があるが、もしかしたらまた夢の続きが見られるかも知れない。冒険の再現だ。 2月下旬に9kmのコースを走った時、200mほど前方を歩く人が見えた。ところが登り坂なのでなかなか追いつかない。ようやく追いついたのは3kmほど先の団地の下り坂になった頃。そこでその男の人に3km手前から姿を見ていたことを話した。私の住所を言うと、彼は私の名前を口にした。向かいのKさんの畑と山友達で、彼もランナーなのだとか。それでKさんから私の名前を聞いていたらしい。 これは驚いた。世の中にはこんなこともあるんだねえ。学年は私と同じ。病気になって体力が落ち、今はレースに出ていないが、体力維持のために走ったり歩いたりしている由。何とまあ私とそっくりではないか。私が所属する走友会のM仙人のことも知っていた。同じような経歴のランナーが今もまだ同じように頑張っている姿を見て、本当に嬉しくなった。 あるブログに沖縄の写真が載った。浜比嘉島の風景を観たのは平成3年に私が沖縄勤務中に訪ねた時以来。そして古宇利大橋から見る「ライオン島」と古宇利島の風景は、私が単独で走破した沖縄本島一周の最終年以来だから4年半ぶりのものだった。涙が出るほど懐かしい風景なのに、そのブログのコメント欄は半年も前から閉じられたまま。 ブログの主のMさんも元ランナーで同学年。現役時代は月間500kmも走ったと言うから、セミプロ級だったのだろう。だが彼はその後走るのを止め、一方の私はボロボロになりながらもまだ走り続けている。彼がコメント欄を閉じている理由は分らないが、何かに苦しんでいるのかも知れない。 ある方のブログに、先日文章のことで意見を書かせていただいた。彼は近い将来文筆や講演活動で余生を過ごしたいと書かれていたので、直ぐに理解してもらえると思ったのだ。だが私の書いたことが理解出来ないと言う。そして私は走るのを止めて歩きに変えるべきとも書かれていた。どうやら私のブログも読んでてくれたようだ。 疑問に感じた点は二重否定にすべき箇所を単なる否定形にしたことで文章の意味が通じなくなったことだが、彼はそれに気づかなかったようだ。原因は彼の文章が「話し言葉」のために論理性に欠けてしまうこと。言葉を思いつくとメモし、文章の一部を取り換えることがあるそうだ。一つ一つのセンテンスは正しくても、それを繋ぎ合わせた文章になると逆の意味になるのは、きっとそんなことが原因なのだろう。 彼は60を過ぎてからスキーや登山に挑戦し、素晴らしい経験を積まれている。それらのことが原因で障害を受けた時は、障害者として生きるとも書かれている。勿論そうなりたい訳ではなく、万が一そうなった場合の生き方を言ってるのだと思う。それは私のランニングも全く同様。リスクは覚悟の上での行動だ。そうならないよう鍛錬をしている積りだが、交通事故の巻き添えなどはあるかも知れない。 ランニングのし過ぎで病気になったとの誤解を持つ人は結構多い。ランニングや病気の経験のない人が大半だ。不整脈の発生メカニズムは生理学的なことに原因があり、有酸素運動のジョギングはむしろ一部の不整脈には有効な運動療法でもあるのだ。そして何よりも私は楽しいから走るのであり、ランニングは苦しむためのものではない。 1月に松島に行った際、同級生に会った話は前にも書いた。僧侶である彼の持論は「健康は何もしないのが一番。そして腹式呼吸の読経は健康の秘訣」。酒は大好きだし煙草も吸う。彼も私が体調を崩したのはランニングが原因と考えているようだ。だが私は敢えて反論はせず、「全てが良い経験になった」と答えただけ。そしてまだ朝の勤行を続けているのかを尋ねた。答えは「もう全て息子に任せている」だった。 彼はクラス会などで良く言う。「自分が一番長生きして、亡くなったクラスメート全員の冥福を祈る」と。その志は嬉しいが、果たしてこの先どうなるかは神様しか分からないはず。先ほどの彼も、「自分は100歳まで生きる」と書いている。どうやら僧侶とは自分の健康に、相当自信がある人種なのだろう。 これは15年ほど前に週刊誌で読んだ話。ある高僧が体調を崩して病院へ行ったそうだ。精密検査を終えて診察室へ入った時に高僧が言った。「先生、私は長年厳しい修業を重ねて来ました。ですからどんなことを聞いても驚きません。全て本当のことを言って下さって結構です」と。そこでドクターは検査結果を見ながら高僧に答えた。「そうですか。それなら申し上げましょう。貴方は○○がんの第○期で、余命は後3カ月です」と。 その高僧、直ぐに顔が蒼ざめ、それから1週間もしないうちに亡くなったそうだ。多少誇張はあるかも知れないが、実話のようだ。宗教者と言えども人間。死の恐怖や不安から逃れることは出来ないのかも知れない。 つい最近私は1人のブログ友を知った。最愛のご主人を亡くされたばかりの婦人だ。だが彼女の健気な生き方に感嘆する。まず自分に正直だし、何よりも前向きな生き方だ。そして書かれる文章がまた魅力に溢れている。人間歳を取ると、人格が顔に現れると良く言われる。文章も同じ。著者の人格、知性、器量などが文章を見れば一目瞭然なのだ。思い付きの言葉を羅列すれば素敵な文章に変わる訳ではない。文章にはその人の想いや生き方(哲学)が凝縮されている。まして言霊が宿る日本語ならなおさらだ。 私のブログ友には高齢者が多い。彼らもそしてこの私も、長くて後十数年の命だろう。自分に遺された時間をどう使い、どう生きるのか。それは宗教者だろうが一市民だろうが一切関係ない。3月に入った途端の時ならぬ雪になったが、また体調を見ながらゆっくり走りたいと思っている。あっ、歩くのだって素敵だけどね。
2016.03.02
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9時20分。リュックを背負って家を出る。行き先は名取川河畔にある温泉。所属する走友会の総会と新年会の会場だ。リュックの中身は着替え。リュックを背負って走るのは久しぶりだが、全く抵抗はなかった。背中の感触を楽しみながらのラン。コースに雪がないことは、先日乗ったバスの車中から確認済みだった。一か所工事中の所が対面通行だが、無事そこも通過。小さな峠の日陰に少し雪が残っていたが、滑らずに済んだ。 国道からM荘に向かう道が結構長かった。そして高速道を潜るガードを一つ間違えて曲がった。これまで走ったことがなかった道。当てずっぽうではやはり駄目。引き返して向かった道の長く感じたこと。ようやく温泉施設の建物が見えた時、後から軽やかな鈴の音がして、女性ランナーに追い抜かれた。実力者のK野さんだ。後で聞いたら17kmの山道を走って来た由。私は比較的平らな道を7kmだが、それでも大汗をかいた。 着替えを持って温泉へ行く。川沿いの天然温泉は2階にあり、広々として眺めも良い。熱い湯に浸かり冷えた体をゆっくり温めた。わずかな距離だが無事に走れて良かった。温泉はそのご褒美のようなもの。体を拭いて着替え、大広間へ戻った。 受付で新年会費と走友会の会費を支払う。三々五々、仲間が集まって来た。わざわざ岩手から参加したIさん、丁寧な年賀状をくれたM仙人とO川さん。いつもメールで連絡してくれるD夫人。そして私の体を心配してくれているK山さん、喪中葉書をくれたD長老などなど。でも穏やかなF会長の顔が見えないのが淋しい。 創立30周年記念事業をどうするかなど、総会では熱心な討議が続いた。役員の顔ぶれが変わって若返った。と言っても皆50代半ば以上。K山長老の挨拶、T野新会長の挨拶と乾杯の音頭で新年会が始まる。聞けば私が体調不良で会の行事に参加出来なかったここ数年のうちに、退会した会員も何人かいた由。実に淋しい話だが、これも走友会の宿命だろう。会員数は全部で58名。私は上から5番目の高齢会員になった。 出された料理は大した内容ではないが、アルコールは十分確保してある。それに差し入れの飲み物もたっぷり。私も久しぶりにビールを飲んだ。手術後の心臓の負担になるが、酔って気が大きくなったのだろう。一人ずつ今年の抱負を述べた。現役ランナーはそれで良いが、レースにも出られない状態の私は自分の体調とブログの話。 右側のO川さんは5月の連休に「本州縦断レース」に参加予定とのこと。5月3日に青森駅をスタートし、30日かけて山口の下関駅まで一人で走る。距離は1500km以上で、1日平均50kmちょっと。宿の関係で60km以上走る日もあるそうだ。実に壮大な一人旅。今は練習で10kmから30kmのコースを走っている由。1500kmを走り切る自信はあると話してくれた。そっと背中に触れたが、実にしっかりした筋肉だった。 結構料理も食べ、ビールも飲んだ。やはり仲間の顔を見、話し、一緒に酒を酌み交わすのは楽しい。中には私のブログを毎日読んでくれている走友もおり、寝坊して更新が遅れた日は、一体どうしたのだろうと心配してくれた仲間もいた。ほとんど会の行事に顔を出せなかったのに、有難いことだ。かつては共にレースを走った女性陣とも、しっかり握手をした私だった。一番左が私で、真ん中がIさん。右は新会長。 最後に全員で記念撮影をした。これも高齢のいや、恒例の行事だ。マイクロバスで仙台市体育館まで送ってもらい、そこから歩いて帰宅した。夕食はポテトサラダとリンゴ半分だけ。日中ビールを飲み、結構おかずも食べた。カロリーオーバーは避けなければならない。 酔いながらもブログにいただいたコメントに返事を書き、ブログ友へもお邪魔した。そしてこの日撮った写真を整理し、翌日のブログの構成を考えた。風呂に入り、9時過ぎに就寝。ランニングと宴会ですっかり疲れたのか、たちまち深い眠りに落ちた私だった。ありがとう仲間達よ。こんな私だが、これからもどうぞよろしくね~!!
2016.02.12
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10月12日月曜日。体育の日らしいことが出来たら嬉しいね。で、先ず血圧を測る。上が155で下が97.かなりの高血圧だ。もう一度測り直しても似たような数値。でも心配ない。その原因が興奮であることが分かっていたからだ。なぜ興奮してるかだって?それはね。今から走ろうとしてるため。8月6日の未明、寝ていた時に不整脈の発生を感じ、翌日走ったきり、ずっと走れなかった私。あれは大変な発作だったもんねえ。一時は死を覚悟してたくらいだもの。 血圧は高かったが脈拍は非常に安定していて、脈拍数は47。不整脈は出てなかった。「あれっ、不整脈が消えたぞ」。そう感じたのは10日ほど前から。でも私は走らなかった。怖かったのだ。もし無理して走って、あの発作が出たら大変なことになる。10月19日には検査のために病院に行く予定だし、10月31日には、筑波へ行く積りなのだ。3年ぶりに悪友に会い、31年ぶりに2人の先輩に会う予定。それが台無しになったら困るのだ。多分、先輩に会えるのは、これが最後になるだろうから。 家の裏から道路へ出る。だが走らない。いきなり急な坂道なのだ。そこはゆっくり歩く。準備運動だと思えば良いのだ。信号機の手前で軽く脚や膝を屈伸。そしてM高校前の坂道を下って行く。心臓は大丈夫。脈は乱れていない感じ。ゆっくりゆっくり太白山への裏道を、自分のペースを確かめるように走る。きっと人が見たら、歩いているようにしか見えないだろう。でも自分は走っている積り。これでも立派なランニングだ。まさか、自分がまた走れるようになろうとは。 酷い発作で苦しんでいた頃、何気なく鏡を見て驚いた。そこには死相が浮かんだ青白い顔が写っていたからだ。思わずギョッとしたが、自分ではどうすることも出来ない。動悸、目まい、物の二重視、胃のむかつき、それに耳鳴りすら感じていた。それでも食欲とブログを書き続けようとする気持ちは残っていた。だがランニングは無理。もう二度と走れることはないだろう。そんな風に思っていたのだ。 風が心地良い。これがランニングの醍醐味だ。こんな無様な走りでも、自分にとっては立派なレース。ここ数年、思うように走れなかった。原因は老化と不整脈による体調不良だ。その間に、走るための筋肉はどんどん落ちて行った。大臀筋(お尻の筋肉)はプヨプヨになり、内転筋(太股の内側の筋肉)には痛み。山道を走っていたまだ元気だった頃には到底考えられない変貌ぶり。それに膝の周囲にも違和感と痛み。だが、そんな状態でも走れることは分かっていた。 太白山の麓、「自然観察の森」への入口で引き返す。ここまで来る途中、若いランナーに抜かれた。挨拶をして先を行く若者の姿が眩しい。あのすらりと伸びた脚は、トライアスロンでもしてるのだろうか。抜かれても全く気にならない。むしろ清々しいくらいだ。自分もまだ若かった頃は、颯爽と走っていたのだ。あれから37年。すっかり老いぼれたが、どっこいまだ自分は生きている。そしてヨタヨタながら、まだ走っている。 まだ暑かった夏の頃、Z川の畔を走ったことがあった。その時、前を走っていた若い女性が突然止まった。暫く前から並走していたのだが、そのスピードに耐え切れなくなったのだろう。直ぐに初心者だと分かった。年寄りの私に抜かれまいとして、必死に走っていたのだ。きっと自分のペースを知らないのだろう。「無理は禁物だよ」。心の中でそう呟き、私は彼女の前へ出た。ベテランは自分のペースを守る。まるでそう教えるかのように。 ともあれ67日ぶりのランニングは無事終了した。だが、ブログに書こうとして書くのを止めた。本当にこんなことを書く価値があるのか。それにまだ大きな不安が残っていた。このささやかな6kmのランが、再び不整脈を起こす引き金にならないのかと。それで翌日は別なテーマでブログを更新し、体もゆったり休めた。軽い畑仕事と6kmの散歩。それは夏に走ったコースの確認でもあった。 10月14日水曜日。つまり昨日だが、午前中から畑仕事を続け、雲南百薬の畝を始末した。タマネギの苗を植える準備のためだ。4時間ほどかかって作業を終え、ランニングスタイルに着替えて走りに行った。今日は8kmを走ってみよう。果たして体がどう反応するか。この夏、まだ元気だった頃に走ったコースが、ゆっくりとでも走れた。沼の樹が紅葉している。太白山が青空に映えている。素晴らしきかな人生。素晴らしきかなランニング。また走れて良かった。きっと奇跡とはこのことなのではないのか。 今のところ、後遺症はない。脚の筋肉も傷んではいないし、不整脈も出ていない。だが、油断はしていない。何しろ2度の手術と1度の電気ショックを受けても、その都度ゾンビのように復活した私の不整脈だ。今年の12月には3度目の手術を受ける予定でいる。この「業病」と付き合ってもう5年。年々症状は重くなる。だが、それも運命。全ては受け入れるしかないだろう。それでもたまには走らせてくれよな。秋風を受けながら、出来れば颯爽と。
2015.10.15
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準備は前日のうちにしておいた。ブログを更新し終え、トイレを済ませ、5時20分に家を出る。行き先は隣の市の山を登り、太白大橋を渡って帰る15kmの周回コース。所属走友会のかつての練習会コースだ。不安はある。最近走っているのは8km。その約2倍だから、果たして本当に走れるのかどうか。それに筋力不足で、膝や股関節に痛みが出ていたのが気がかりだ。 不安はあるが、もし駄目な時は歩けば良い。15kmの距離を走るのは昨年の10月以来。つまりこのコースは9カ月ぶりなのだ。その間に自分は急速に走れなくなった。改めて老化を実感した9ヶ月間だった。少しヒンヤリした朝の大気が心地良い。懐かしい栗木橋からの眺め。つい足を止め、カメラを向けてしまう。そこから暫くすると長い上り坂が始まる。果たして私の心臓はちゃんと機能してくれるだろうか。 県道と別れて、山の上の団地へと向かう。日が昇り、大気が暑くなり始める。汗が流れるのが分かる。頭から、首から、背中から。どこかで食用ガエルのゴーゴーと言う低い声が聞こえる。バス通りに沿って登る長い長い坂道。その苦しみを味わうのも久しぶり。涼しい日陰がせめてもの救いだ。フーフー、スースー。何とか息を整えながらのラン。 団地の最初の小学校を過ぎ、その先の角を左折する。昨年は造成中だった箇所が、すっかり宅地化されていた。建設中の住宅は既に完成して、もう人が住んでいる。あの未曾有の大震災後、県内の住宅事情はすっかり変わってしまった。その様子を観ながら、さらに坂道を登って行く。 既に日は高く、全身から汗が滴り落ちる。ペットボトルのスポーツ飲料が美味い。それはアミノ酸とクエン酸を水に溶いて冷蔵庫で冷やしておいたもの。かつて私がアスリートだった証拠のサプリメントの最後の1袋を使ったのだ。団地の頂上に立つ。そこからは緩い下り。瀟洒な家々を観ながらゆっくりと坂道を下って行く。 公園のトイレでペットボトルに給水。まだ飲料は少し残っていたが、用心のためだ。それが後になって大いに役立った。公園にはたくさんの子供達が集まっていた。間もなくラジオ体操が始まるのだろう。それを横目で観ながら、さらに坂を下って行く。心配していた股関節と膝の痛みがないのが幸い。きっとスピードがゆっくりなのと、体が次第に温まったことで、痛みが緩和されたのだろう。36年間の経験が、こんな時に役立つ。眼下に団地の調整池が見える。 マリーゴールドは仙台平野を見下ろす山の上で、またヤマユリはそこから降りて来た団地の道の傍に咲いていた。下り坂では、躓いて危うく転びそうになった。振り返ると道路の一部が盛り上がっていた。以前転んで怪我をした場所だ。もう足が上がらないのが躓く原因なのだが、同じ場所で再び同じ経験をするとはねえ。てれ隠しに笑いながら坂道を下る。 山を下り終えると平地。畑ではトウモロコシが育っていた。ガソリンスタンドは基礎から造り直しの工事中。そこから左折し、神社の脇を通って名取川の堤防の道に出る。 これが堤防上の道で、後方を振り返ったところ。遥か遠くに太白山が小さく見える。最近はブログの更新後、あの山の麓に向かって走っていたのだ。 こちらは今走って来た名取市の山の団地。高低差は250mほどもあろうか。 こちらがこれから走る方向。60代前半まではスピード練習をした場所が、今はヨレヨレで地獄のように感じる。ここで甘納豆とクッキーを食べる。これも大事なエネルギー補給だ。ここから長く感じるのは、体が疲れた証拠。20年間ウルトラマラソンを走った経験が、どうしたら前進出来るかを知っている。リンゴ園のリンゴがまだ小さくて青い。先月旅した弘前では、車窓から赤いリンゴが見えたのだが。 太白大橋の上から太白山を望む。眼下に流れる名取川に鮭が遡上するのは10月頃。今年その姿を観ることが出来るかどうかは、今後の体調と練習量次第。ここから太白山に向かって戻る。既に足は限界状態。普段8kmしか走ってないと、それ以上の距離が苦しくなる。それが老ランナーの悲しい現実だ。ここで小さな煎餅を食べる。塩味が疲れた体に美味い。苦しみに耐えながらのラストランがさらに続く。 8時20分、自宅に到着。3時間ちょうどかかった。長い坂道があり、撮影を交えながらのランだからこんなもの。しかし最近の練習量にしては良く15kmが走れたと思う。2.4kg体重が減っていた。800ccほど水分を摂ったが、それを上回る汗が出たのだ。お陰で腹周りが少しすっきりした感じ。火照った体に、水シャワーが心地良い。こうしてささやかな冒険は終わった。いつの日か、またこんな冒険が楽しめたら嬉しいな。
2015.07.23
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足の痛みはかなり薄れた。疲れもかなり取れた。だが体調はまだ戻っていない。目まいと胃の辺りの不快さが私を苦しめている。あの日は12kmほど歩き、最寄駅まで往復8kmを自転車で行っただけなのに。 塩釜港 6月20日土曜日。仙台駅の仙石線乗り場に8時過ぎに到着。ホームにはたくさんの走友が集まっていた。Kさんに参加費を支払い、参加者名簿を受け取る。色んな人が声をかけてくれた。昨年まで「みちのくラン」として30kmほどの距離を走っていたこの大会も、今年からウォークラリーとして生まれ変わった。私のように長い距離を走れなくなった参加者が増えたことに対する配慮のようだ。 3つの島 走友と話すうちに、私は喉が渇いてしまった。普段はほとんど口を利かない生活。妻との会話もごく短くて済む。それが久しぶりに話したもので、直ぐにカラカラになったのだろう。「太ったね」。「腹が出て来たね」。「体調はどう?」。「8月の薬莱山は今年も自転車での参加?」。矢継ぎ早の質問に、次々答える。皆の日に焼けた顔や、固く引き締まった足の筋肉が眩しい。皆現役のランナー。中には70代半ばで100kmを走る仙人もいる。 芭蕉像 本塩釜駅で降り、駅前のスーパーで昼食の食料を購入。私は予めお握りとパンを買っていたが、念のためオレンジと豆乳を追加。そこから観光船乗り場まで移動。待合室でこの人が待っていた。旅姿の芭蕉だ。彼は弟子の曾良と旅に出た際、この港から舟で松島に向かっている。当時は陸路が険しかったためだ。元禄2年(1689年)「奥の細道」の時のことだ。 航路 今回私達が向かうのは松島湾に浮かぶ3つの島。塩釜市に属する有人の島、桂島、野々島、そして寒風沢島だ。 連絡船 今回は遊覧船に乗るのではなく、塩釜市が運営する連絡船で島へ向かう。 呑ん兵衛たち 船中では早速缶ビールを飲み始める仲間もいる。わずか15kmのウォークなど朝飯前。中には200km超級や500km超級のレースを完走する走友もいるのだ。だが、私はせいぜい10km程度しか走れなくなった。老化と不整脈のためだ。 実は前日の金曜日に、突然目まいが始まった。それまでは比較的体調は良く、たまに走ることも出来たのだ。だが、こんな風に突然体調が崩れてコントロールが出来なくなる。私は気持ち悪さに耐えながら笑顔を作っていた。 ビールも飲みたいが止めておこう。トイレが近くなるし、体調がさらに悪化したら迷惑をかけかねない。私はデジカメでの撮影に専念した。ブログ用の写真をたくさん撮ること。これが今日の私の使命。 子供がカモメに餌をやり始めた。たちまちたくさんのカモメが船に集まって来る。「本当は餌をやってはいけないんだよ」と私。観光客が与える餌でカモメが増え、彼らの糞が名勝松島の松を枯らすのだ。遊覧船だと餌禁止の船内放送があるが、連絡船では放送がない。他の人も与え始めたせいか、カモメがまた増えた。私は群がる鳥の姿を撮っていた。 桂島へ 最初の島、桂島への上陸である。 記念撮影 全員の記念撮影である。参加者とスタッフ合わせて60名。そのうちの半分以上が県外の走友。東京、神奈川、千葉、栃木、新潟、福島、岩手からの遠来の客だ。うち1名は前夜泥酔して転倒し、ホテルでの待機となった。あらまあ、Tさん今回もやっちゃったねえ。 海水浴場遠望 ここ桂島の浜辺はかつて美しい海水浴場だった。私も子供の頃に来たことがある。だから60数年ぶりの再来なのだが、現在ここは遊泳禁止。あの東日本大震災の津波で、浜も海の家も破壊されてしまったのだ。3つの有人島では、いずれも大きな被害が出、3人の住民が津波で亡くなっている。だが、その3つの島が防波堤代わりになったお陰で、松島の街は奇跡的に助かったのだ。 その浜辺を歩く仲間の姿。美しい浜辺が戻るのは、果たしていつになるか。残骸はほとんど片づけられたが、津波の破壊の爪跡はまだそこここに残っている。 折角なので順番は異なるが、展望台からの風景を載せておこう。天下の名勝松島が眼下に広がり、まさに絶景だ。 2つ目の島へ 桂島を歩いて横断し、別の港から渡し船で2つ目の島、野々島へと向かう。この小さな船は塩釜市の運営で、渡し賃無料。少ない島民の足代わりなのだ。 ツバキのトンネル 島は全体が凝灰岩で覆われており、その岩を削って造った小道が島を貫いている。昔から島民が歩いて来た小道を進むと、途中に椿のトンネルがあった。花の季節は、きっと美しい小道に変身するはず。しばらく行くと、道端にたくさんの筍が生えていた。破竹だろうか。若くて美味しそうな筍がニョキニョキ。 タブの樹の根元で昼食。私達が休んだこのテラスは、津波で破壊された船の木材を再利用したもの。大きな木陰での休息と食事でエネルギー補給。胃が小さくなった私は一頃の食事量の3分の2で十分。結局塩釜で追加購入したオレンジと豆乳は家に持ち帰った。風が火照った体に心地良い。 最後の島へ 3つ目の島、寒風沢島へも小さな渡し船で行った。定員の関係で5回のピストン輸送。そのために時間不足でこの島はショートカットし、結局は15kmが12km程度になった。私はそれでも十分。何せ小さな島でも50~60mほどの標高があり、アップダウンが結構きついのだ。 浜辺の景色 津波の海水を被った田圃では大規模な埋め立て工事。島を離れた島民が増えたのだろうか。そして浜辺の沖合には、新たな防波堤。島もすっかり様変わりだ。 連絡船から見えた松島 寒風沢島から再び連絡船で塩釜港に戻る。途中、桂島、野々島の順で寄港。お葬式のため島を離れる老人と少し話した。それから潮風に吹かれながら、私は松島を撮り続けた。 酒造所前で 塩釜港からは3つのコースに分かれた。1班は自由行動。2班は地酒の利き酒。3班は多賀城まで8kmのランニング。懇親会に出ない私は、利き酒コースを選んだ。こんな機会じゃないと来れないためだ。それにブログネタにもなるしね。冷たくて美味しい地酒が300円で3種類飲めた。中には寒風沢島の米で造った酒もあって、良い記念になった。 さようなら走友。ありがとう幹事さんたち。私は仲間と別れ、一足先に電車で帰った。来年もまた参加出来たら嬉しいね。そして、もっと元気な体になれたらさらに嬉しいのだが。
2015.06.23
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スタート前 9時15分、自宅を出発する。行き先は塩竃神社だが、ゴールはJR仙石線の本塩竃駅。背負ったリュックの中身は着替えで、重さは3kgもないはず。痛みを感じて、右膝にはエアサロンパスをしゅっと一振り。タイツはサポート機能があるものを履き、念のため右膝にはサポーターを着用した。上着は長袖のTシャツのみ。寒くなったら薄手のウインドブレーカーを着る積り。問題は足がどこまで持つかどうかだ。 アスト長町にて やはり風が冷たい。この日の気温は5度になると言うが、風が吹けばきっと体感温度は零下だろう。それでも私の場合走っていれば、この服装で大丈夫。長町で最初のトイレと給水。そこから新しい街を突っ切り、国道4号線のバイパスを目指す。妻が本当に走れるのか心配していたが、ダメな時は電車に乗るからと言って納得してもらった。「ジョギングシュミレーターで計測した距離は22.5km。最近の練習は長くても11km止まりなので、それが少し心配だ。 広瀬川の河川敷 千代大橋の上から河川敷を見ると、大勢のランナーがいた。ここは私が所属する走友会の練習場所。念のため河原まで下りてみると、走っていた集団は若いランナーだった。仲間が1月2日に塩竃神社へ参拝ランしたことは、HPで知っていた。名取市から往復50kmを走破した模様。私はとても無理だし、その日は義兄が亡くなった日でもあった。当初は4日に予定していたが、通夜や告別式があってこの日(昨日11日)になったのだ。 遠見塚古墳 家を出る前、妻が「とうとう1人になった」と話していた。実兄が死去し、実姉が認知症とパーキンソン病とで近々入院することになるかも知れない。兄弟で1人だけ取り残された気持ちだと言うのである。分からないでもないが、私はずいぶん前からそのことは覚悟を決めて来た積り。結局人は1人で死んで行くのだと。妻は来年度も仕事をする予定とも話していた。今年誕生日が来たら69歳になるが、自分の励みになると言う。 そこで私は言った。「俺のランニングも同じようなものだよ。実際に走れるかどうかは分からないけど、挑戦する気持ちが無くなったら終わりだ」と。バイパス沿いの遠見塚古墳に立ち寄る。ここは高校時代に叔父の家に厄介になってた所。もう55年も前の話だが、畑の土の上に土器の破片が幾らでも落ちていたし、滑石製の「紡錘車」を拾ったこともあった。優しかった叔父もずいぶん前に亡くなり、あのボロ家も今はもう無い。(参考)遠見塚古墳は全長110m、後円部の直径63mの東北で第4位の大きさを持つ前方後円墳で、国の史跡に指定されています。 陸橋の上から古墳を撮り、バイパスの向こう側へ渡る。北風が強く、鼻水が出る。そのまま国道45号線まで直進。もう15kmは走ったはず。45号線にぶつかった所で右折。長い旅だ。足が全く伸びない。鈍足の亀ランナー。いや亀と言うよりかたつむりランナーだ。空腹を感じてポシェットから干し柿を出し、2つ続けて食べる。遠見塚古墳ではチョコレートを食べ、ミルクティーも飲んだのだが、ガス欠にならないようエネルギー補給は欠かせない。 梅田川河川敷 最近はダイエットに励んでいた。年末年始にご馳走を食べて酒を飲んでいたら、見る見るうちに体重が増えたのだ。それに十分走れなかったこともある。代謝機能が老化で落ちて、簡単には痩せなくなった。それで最近では1日2食にしていた。それも慣れると空腹を感じなくなった。日差しが出て暖かく感じたのは20分間ほどで、再び風が冷たくなった。今度は海からの東風だ。 泉ヶ岳 あれはどこだったか、「塩竃まで8km」の標識。それはおかしいと思ったら、間もなく6kmの標識発見。だがそこから疲労のため距離感が狂って、ゴールが遠く感じるようになった。宮城野区からようやく多賀城市に入る。何度か人に尋ねながら、塩竃への近道を捜す。ようやく下馬の三叉路から左折。ここからは一本道のはずだが、最後に間違って少しだけ遠回りをしてしまった。 本塩竃駅前にて 本塩竃駅にゴールしたのは1時26分。23kmに4時間11分もかかってしまった。多目的トイレの中で着替えをし、ようやく暖かい服装になる。そこから御釜神社を経由して塩竃神社まで歩く。正月ももう11日と言うのに、日曜日のせいか、参拝客が結構目につく。東参道を過ぎて表参道へ向かう。この周辺は芭蕉が「奥の細道」の旅で泊った場所。当時は神社の直ぐ近くまで海が入り込んでいた模様。長くなったので神社の話はまた明日にしたい。<続く> 塩竃神社東参道の鳥居 なお、昨日は帰宅後遅くまでかかって写真整理をしていたため、ブログ友へはどなたへもお邪魔出来ませんでした。この場を借りてお詫びします。
2015.01.12
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「山の遭難保険の期限が切れるが、更新しないことにした」。昨日読んだブログにそう書かれていた。こよなく山を愛する岩手のニッパさんは、私より数歳年上のはず。そう書かざるを得なかった彼の気持ちが、私には痛いほど良く分かる。歳を取り、なかなか治らない怪我。そして幾つかの病気で時々入院する日々。思うように動かない体に、つい弱音が出るのだと思う。 それは私も全く同様だ。来年はレースはとても無理で、せいぜい家の近辺を練習で走るくらいではないか。悲しいが、それが私の現実だ。かつて私は「NAHAマラソン」の最高年齢完走記録を破ろうと、本気になって考えていた。67歳の私はまだフルマラソンを4時間15分で走る力があった。当時の記録は76歳、そして同マラソンの制限は6時間15分。だから10年間で2時間遅れるほどの体力を維持さえすれば、簡単に実現すると思ったのだ。 だが、東日本大震災が未曽有の災害を引き起こしたあの年、私の体に異常が起きた。思いもよらかなった不整脈だ。薬による治療は激しい副作用で断念。翌年は専門の病院に入院して手術を受けた。だが、2度の手術でも治らず、先月は3度目の入院で心臓へ電気ショックを与えた。それでも新型のものが姿を変えて再び現れ出た不整脈。そのことも含めて、通院しているM内科へ先日報告に行った。 ドクターは大変驚いていた。心電図を観た彼の表情が暗い。早速新しい薬を試すことになった。血栓予防のため、「血液サラサラ」の薬も飲む必要があるとのこと。それにしても手術や処置を受ける度に、新型の不整脈が現れると言う厳しい現実。新しい薬の作用は強く、「だるさ」や「胃のもたれ」もある由。無理やり薬で発症を抑え込むのだから、何らかの副作用が出るのは当然とドクター。取りあえず1週間はこのまま様子を見ることになった。 M内科へ行ったのはK病院での入院治療記録を届けるためだが、数日後に迫った久米島マラソンへの備えでもあった。26度の気温の中での42.195kmは、今の私にとっては地獄のような厳しさ。そしてそれが私の最後のレースになるはずだ。もちろん数ヶ月前のエントリー時には、完走出来る自信があるから申し込む。だがレース当日の体調が確約出来ないのが私の現実だ。 私は今回以下の目標を立てた。1.まずレース当日まで生きていること。2.当日はレースのある地(沖縄県久米島)にいること。3.当日スタートラインに立つこと。4.レース当日はコースを走れるか、また歩けるかの体調にあること。5.時間内完走が無理だと判断したら、途中リタイア出来る心の余裕があること。6.しかし、最後までゴールを目指す強い精神力も同時に備えていること。 冗談だと思うかも知れないが、私は真剣そのもの。当日スタートラインに立つまでには色んな障害がある。例えば自分の体調であり、家族の反対であり、台風などの気象条件であり、思わぬ突発事故などだ。それに今回はまだドクターから最終的なゴーサインが出ていない。だが走るのが無理なら途中まで歩けば良いし、それすら無理な場合は観光に切り替えれば済む話。今回は私の古稀記念レースでありお祝いの旅。リスクを背負う覚悟も出来ている積りだ。 幸いにして台風の襲来はなさそう。残るのは自分の体調だけ。だが、それが一番の問題だろう。久米島の大会本部からゼッケンナンバー通知も届いたし、ツーリストからはチケットも届いた。多分スタートラインには何とか立てると思うが、心配な点もある。今私を苦しめているのは、強い薬の副作用。血液サラサラの薬は飲んでいない。今日は歯科で歯周ポケットから歯石を取る処置を受ける。その際血が止まらないと困るためだ。 それにしても良くここまで来れたものだ。先月の大阪への家族旅行前。あの時は到底旅行するのは無理と思うほど体調は最悪だった。K病院で受けた治療のお陰で、その後も妻と長野、群馬、埼玉、東京へ旅行出来たし、今回久米島へも行けそう。だが、来年は選択の幅がグッと狭まるのは確実。それだけ老化による体力低下が著しく、体調も良くないからだ。そんな自分に出来ることは何だろう。 レースへの参加は言うに及ばず、所属する走友会とウルトラマラソン仲間との行事参加も厳しくなるはず。それでも何とか走り続けたいし、ランニングとの関係は保ちたい。それを見つけるのが来年の課題になるのではないか。面白きかな人生。愉快なり人生。35年間走ったことで、私の人生は実に充実したものだった。そしてヨレヨレになりながらも、自分の足で少しでも前進したいと願っている。 走友のT田氏が、先日写真を送ってくれた。「えちごくびき野」100kmレース参加時のものだ。もうウルトラマラソンが無理な私にとっては何の役にも立たないが、チャレンジする走友達の姿に感動することだけは出来る。引退間際の老ランナーが今後出来ることは何だろう。それが最後の宿題。 ありがとう走友達。ありがとう私の家族。そして35年も走り続けられたことに、心から感謝したい私だ。
2014.10.20
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赤いシャツで走りに行く橋を渡り坂を登るたちまち悲鳴を上げる俺の心臓ここに来たのは11カ月ぶりそれにこの夏俺は体調不良で1カ月以上も走れなかったそれでも俺の心臓はやがて坂道にも慣れて来る この団地から引っ越した走友もいた今も住んでいながらなかなか会えない仲間もいる所属走友会の練習コースは遠くへと変わったが俺は今でもこのコースが好きだ 坂が続く厳しい道冬は凍って滑りやすい道頂上からは太平洋が見えるこの山の道が マンホールの蓋を撮っていると団地の人が話しかけて来たイントネーションで広島出身だと分かった俺より2歳若いその人は11回も転勤したと笑う偶然だが俺も転勤は11回そして四国の松山で勤務したのも一緒ブログの名前を教えたが果たして読んでくれただろうか 山の上で俺は見たススキの向こうの青い空とコスモスの向こうの故郷の街を11カ月ぶりに見る風景はなんだかとても懐かしかった 山を下り風を切って堤防の上を走るリンゴ畑に近づいたら突然ガス鉄砲が鳴ったおいおい間違うんじゃないよ俺はただリンゴを撮ろうとしただけだよさらに行くと秋空の下に真っ白い花ソバ畑が一面に広がっていた 北海道の支笏湖では6人の走友がみごと100kmを完走したようだそして明日の「秋田内陸」でも大勢の仲間が100km先のゴールを目指すだろうだが俺はのろのろと歩くようなスピードでしか走れないそれでも何度か死にかけたこの俺がこうして走れるのはまさに「奇跡」とでも言うべきもの 名も知らぬ花よこんな俺だが俺はこれからも走るつもりだ無様なフォームのまま命ある限り季節の移ろいを友にして<9月のラン&ウォーク>ラン回数:11回 ラン距離:96km ウォーク:85km 月間合計:181km 年間合計:1618km うちラン:923km これまでの累計:85209km
2014.10.01
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「いわて銀河」スタート前 「いわて銀河」の完走記を書き終えた後、「認定書」と完走メダルは捨てた。そしてフルマラソン以上の完走リストに1行、今回の記録を付け加えた。思い出は自分の頭の中にあれば良く、残しておいてもゴミになるだけだ。これで100kmレース時のリタイヤ分も含め、「レース」で42.195km以上を走ったのが100回になった。自分としては十分意味のある記録で、いずれそのことについて記したいと思っている。 < 6月のラン&ウォーク > ラン:4回71km ウォーク:20回69km 月間合計:140km 年間合計:1060km うちラン:647km これまでの累計:84741km 6月は全くと言って良いほど走れなかった。「いわて銀河」の50kmも含めてわずか71km止まり。ウォークの距離も延びなかった。レースの疲れがずっと取れず、めまいや息苦しさも感じた。きっと微細な不整脈が出ていたのだろう。月の後半になって、幾分体調は戻った。そこで改めて「権利」を行使すべきかどうかを考えた。 あれは確か2月頃だったと思うのだが、今年のレースや旅行について妻と話したことがあった。それで2人の予定を確認したのだ。私のレースに関しては、宿泊を伴うものが2回までとし、その他に「古稀祝い分」として久しぶりに沖縄で走ることを認めてもらっていた。その沖縄分を活かすのか、それとも捨てるのか。 もし行く場合は、12月第1日曜日にある「NAHAマラソン」を考えていた。確か今回で13回目の参加で、申し込みは8月1日からのはず。首尾良くエントリー出来れば、沖縄の走友にも会えると思う。奥武山グラウンドの集合場所が決まっているためだ。だが2万5千人もの参加者数と、6時間15分の制限時間、そして幾つかの坂道があるあのコースは、走力と筋力が落ちた今の私にはかなりきつい。 だが、10月末の「久米島マラソン」はコースがフラットで、制限は7時間。これなら何とかなりそうな感じ。ネットでの申し込みは6月下旬からだったが、大会本部にメールして要綱を送ってもらい、郵便振替でエントリーした。 妻は驚いたようだが、これは話し合って決めたことなので、最終的には納得してくれた。問題は「足」と「宿」の確保。既にツーリスト数社が押さえているせいで、全く「空き」がないのだ。 そこで沖縄へ行く時はいつもお世話になっているツーリストを訪ねた。ここで3時間以上粘って、何とか「足」と「宿」は確保した。さらに本社の「マラソンツアー」に空きが出たら、再検討することになった。 最近5年平均の10月末の久米島は、最低気温が24度で最高は25度。涼しくなった仙台から行けば、きっとその温度差に苦しむことだろう。それに4カ月後の体調がどうなっているかは分からない。最近は1日の中でも、体調が激しく変化することがある。 ともあれ、「久米島マラソン」が私の引退レースになることは間違いない。大好きな「NAHA」で沖縄の走友と会えないのは残念だが、それもまた運命。そして、わが東北楽天がキャンプでお世話になっている離島を、最後のレースとして走るのも何かの縁だろう。 南の島での42.195kmを楽しめるよう、何とか体調を整えたいと思う。たかがマラソン、されどマラソン。ランニングに寄せる想いは尽きない。
2014.07.03
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4月29日(火曜日)。心配された天気は晴れに変わった。かつて「天皇誕生日」だったこの日は、その後「みどりの日」と名を変え、さらに「昭和の日」に変わった。デジカメを持って新緑を撮影しながら、M公園に向かう。この日は所属走友会のお花見の日だ。4月末なので当然ソメイヨシノは散っているが、何の心配もない。M公園には30種類以上の桜があり、一か月以上何らかの桜を楽しむことが出来る名所なのだ。 走友会の横断幕の下で寝そべるD長老の寛いだ姿。もちろんまだ開会の前だ。場所は八重桜の樹の下。本当に良い場所を探してくれたものだ。会費2千円を支払い、注文していた走友会のジャージを受け取る。紺と黄色のツートンカラー。なかなか洒落た感じだ。「俺が死んだら、これを着てお棺に入るからね」と言うと、皆が笑った。だが、それは私の正直な気持ちで、まんざら冗談ではなかったのだ。 F会長の挨拶でお花見の宴が始まる。ランナーは大らかで、写真に「目線」を入れるようなことはしない。ブログ掲載も暗黙の了解事項だ。会長は高校の4年後輩。頭だけ見れば私の方が後輩に見える。彼はいつ会社から呼び出しがあるか不明のため、こんな時でも決してアルコール類を口にすることはない。見上げた後輩だ。 八重桜の花の下での宴会は、こんな感じでとても良い雰囲気だ。お世話役が用意してくれた食べ物や飲み物で、座が盛り上がる。 別の角度から見た宴会。これもなかなか良い感じ。 左の2人は兄弟会員のSさん。赤シャツの弟さんは、今回仙台近郊で仕留めたイノシシの肉を提供してくれた。Kさんが料理してくれた「ぼたん鍋」を皆で賞味する。う~ん。臭みもなく、適当な歯応えがあって、なかなか美味しい。彼は以前北海道で仕留めたエゾシカを会員に提供したことがあった。あれもなかなか旨かったなあ。 皆に酒を注いで廻るM仙人。彼はこの朝も朝食前に35km走っている。100kmレースも楽々と完走する74歳のMさんは、まさに仙人の名に相応しい存在だ。その一方、休会を申し出た会員のニュースも知った。年齢が高まれば、こんなことも起きる。思うように走れなくなった私だが、まだ何とか走友会のお世話になっている。 K野副会長が、何人かの女性ランナーを引き連れてお花見にやって来た。若い女性がいると、座が明るく賑やかになって良い。このまま入会してくれると嬉しいのだが。 嫁に来ないか~ お二人さん♪ わが南仙台走友会へ~♪ ガラガラ声で歌ってみたんだけどねえ。(笑) 帰国が1年延びたマックスさんは、早速女性を相手に英会話教室を開催♪ この後、彼を連れて緑色の桜「御衣黄」や、薄緑色の桜「ウコン」を見に行った。ビックリするマックスさん。アメリカに帰ったら、きっと良い土産話になると思うよ。 2時間たっぷり飲んで食べて、宴は終了。後片づけをする「おんちゃん」ことTさん。「チョンガー」の彼は、手なれたもの。誰か良い人いませんかねえ? 最後はお約束の集合写真。ご機嫌ですね、皆さん。でもここには3人のカメラマンが写ってませんけどね。どうもお疲れ様でした~!!お陰様で楽しい一時が持てました。でもね、昼間から冷や酒をグイグイ飲んだ私は、結局この後翌日の朝方まで酔っ払っていたのですよ。お粗末の一席でした。では、またね~!! ちょっと待った~。実はこんなこともあろうかと、私は前日のうちにたくさんの桜を撮っていたのです。もちろんその中には、「御衣黄」や「ウコン」もありますよ。たくさんの写真は、5月6日から連載する予定です。どうぞお楽しみにね~!!
2014.05.03
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≪ 暗闇の中へ ≫ 4月26日土曜日。未明2時過ぎに目が覚めた。この日、東日本大震災の被災地に向けて走ることは、前夜のうちに妻に告げていた。ただ、彼女は暑い日中に走る自信がないため、まだ涼しい暗いうちから走りたいと言っていたのだ。私が日課のブログを書き上げる間に、妻は朝食を済ませていた。私は3時頃から早目の朝食を摂り、走るための準備をした。妻の走力を考えると、家から直接走り出すことは無理。3kmほど先まで自転車で行き、そこから隣の市の海岸へ向かうことにした。 春とは言え、朝は結構冷え込んでいる。走ることを考えれば荷物は出来るだけ少ない方が良いのだが、自転車だと風を受けるので、最低限の防寒は必要だ。懐中電灯を自転車に取り付けて、暗闇の道路にペダルを踏み出す。途中コンビニに寄り、お握り3個を購入。走るためにはエネルギーを補給する必要があるからだ。区役所の裏側にある銀行の支店の前に自転車を止める。3時50分、妻と2人の長い旅がいよいよ始まる。 妻は5年ほど前から走り始め、今ではゆっくりながらも2時間くらいは走れるまでになった。だが距離はせいぜい13km止まりだろう。だからわずか3kmだけだが、自転車で短縮したのだ。一方、私にも不安があった。このところ体調が悪く、1週間ほど走れない日が続いた。もう走るのは無理と諦めながらも、久しぶりに近所の整骨院で超音波をかけてもらい、何とか回復したばかり。だが、院長は私が翌日30kmを走ると言っても、その体で走れる訳がないと信用しなかったほどだ。 今回の行き先は「ゆりあげ」。漢字で書くと写真のような表記だが、国字のため字が変換されない。それで便宜上「ゆりあげ」と書くことにする。そこは3年前の東日本大震災では大きな被害を受けた海岸だ。私が今年は被災地探訪ランをしたいと話したら、妻が自分も被災地に行きたいと言い出したのだ。だが、妻が走れる距離を考えたら、走って行ける場所は限られる。そこで選んだのが「ゆりあげ」だった。 空には赤く細い月。そしてその下に見える目立つ星は火星だろうか。本来は金星か木星が普通だが、最近火星が見えると聞いたような気がする。 名取川にかかる太白大橋。ここで写真を撮っていると、妻がどんどん先へ行った。慌てて追い駆け、妻を呼ぶ。彼女は道を知らないのだ。先日もこの付近で迷子になり、自分が分かる場所まで車に乗せてもらったそうだ。朝のまだ暗いうちに走る割には、方向音痴なのだ。その点私は用心深く、地図で何度か確かめながら位置を確認するほどだ。このコースも何度か走って様子を知っている。橋を渡り切ったら左折し、海まで真直ぐ堤防の上を行くのだ。 国道4号線の旧道とそのバイパスを横切る。4時半、空が明るくなって来た。左手の河原に見える小高い丘は古墳時代の円墳だ。きっと名取川の氾濫も何度かあったと思うのだが、私達の遠い先祖はこうして中央の文化を少しずつ受け入れて来たのだろう。 相変わらず妻のペースは快調だ。遅いのだが休まず前進するため、写真を撮っているとどんどん姿が遠ざかる。再び後を追うことの繰り返しが続く。ここは堤防の一本道。車も来ないし、しかも迷うことはない。菜の花畑が朝もやの中から現れる。 ゆらゆらと上る太陽。普段はその時間にブログを書いているため、私は滅多にお目にかかることはないのだが、妻は良く走っている途中に日の出と遭遇するらしい。 あれは名取川の対岸にある今泉の清掃工場。仙台市の若林区に当たる。こちら側は太白区四郎丸近辺。 こちらは川面に映る太陽と空中に浮かぶ太陽。滅多に観られない光景だ。先を行く妻を呼ぶ。そろそろ休憩が必要な時間だろう。 ここは落合観音堂。仙台市の文化財にも指定されている。境内に入って参拝し、ついでに水を飲ませてもらう。 英気を養って、再び走り出す。だが、暫く走った所で妻が戻って来た。水を入れたペットボトルをどこかで落としたと言う。探したが見つからないので出発。飲物はリュックの中に入っているし、私の分は手に持っている。それに朝は涼しく、さほど汗はかかない。私は既にウインドブレーカーを脱いで半袖シャツになっていた。一路海岸へと向かう。 私は時々立ち止まって写真を撮る。その間妻は休まずに前進している。習慣とは恐ろしい。いつの間にか結構強くなったものだ。遅いけど自分のペースを守って走る。年寄りにはこれが良いのだ。 振り返ると、朝もやの中に仙台市内のビルが見えた。ここまで走った距離は6kmほどか。 東部道路は過ぎた。広瀬川との合流地点もとっくに過ぎているだろう。だがまだ太陽は地表に近く、水面に赤光を映している。あの大震災当日、津波はこの名取川を濁流となって遡った。岸辺に打ち上げられていたたくさんの小舟や残骸は、すっかりきれいに取り払われている。だがこれから向かう「ゆりあげ」は、無残な姿のままだ。それを観た妻がどう思うだろうか。そろそろ仙台市と別れ、名取市に入るころ。前方に松並木が見え出した。<続く>
2014.04.29
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≪ ランニング編 ≫ スイセンさん行って来ますね。 おやまあお爺さん、これからどちらへ? トンガリ山ですよ。ひとっ走りしようと思ってね。そうですか。どうぞ気をつけてね。 お爺さん今日は。 おやまあ竹林さん今日は。これからどちらへ? トンガリ山ですよ。今日は体調が良いので、走ろうと思ってね。そうでしたか、それじゃ気をつけてね。どうもありがとう、行って来ますよ。 ヤマザクラさん今日は。お爺さん今日は。お元気そうですね。ふふふ、そう見えるかい。今日は珍しく調子が良くってねえ。おやまあ、それでランニングを? ああ、トンガリ山まで行って来るのさ。それじゃあお気をつけて。 やあ立派な桜だ。ここで一休みするか。おやお爺さん、汗をかいてますねえ。ああ、走ったら暑くなってね。ふ~ん、元気そうで何より。で、これからどちらへ。トンガリ山だよ。あるものを探しにね。「それは何ですか」と桜の木が聞こうとした時には、もうお爺さんは駆け出していた。いったいなぜそんなにあわてていたんだろうねえ? ふう~っ、ようやく森の入口まで来たよ。お爺さんはここで大きく息を吸ったんだ。ここまで来たらあと1kmでお爺さんの目的地。春風さんが石の標識を見たら「仙台市太白山自然観察の森」と書いてある。ふ~む。トンガリ山と言うのは、どうもお爺さんが勝手につけた名前だったようだ。 おや?看板に何か書いてあるぞ。なになに、危険な生物だって~? クマは確かに冬眠から目覚めたかも知れないね。でも、マムシやスズメバチやダニはまだ大丈夫だろう。お爺さんは独り言をつぶやいて、それからまたとっとこと走り始めたのさ。少し息が苦しそうだったがね。 ほほう、小鳥の森まで来たか。ここまで来たらもう一息。とっとことっとこ。 これはね、泥棒の隠れ家でも、子供達の冒険の小屋でもないんだよ。今は辺りの木の葉が落ちてるから目立つけど、ここが「小鳥の森」の野鳥を観察する小屋なんだよ。お爺さんはぶつぶつ言いながら、その横を通り過ぎたのさ。とっとことっとこ。 次は何だって~っ?お爺さんは良く見えない目をこすったのさ。走っている時は老眼鏡をしないのがお爺さんのいつものくせ。何しろ眼鏡をしてると汗が拭きにくいからねえ。「お爺さん、『緑を未来世代へ』と書いてあるんだよ」と春風が教えたけれど、どうやらお爺さんにも分かったみたい。「緑は大切だからなあ」。そうつぶやいていたからね。とっとことっとこ。 これはね、ざる川の上流なのさ。静かな森の中を流れているんだ。マックスとここにも何度か来たことがあったよ。マックスとはお爺さんが飼っていた愛犬の名前。賢い黒ラブだったけど、一昨年の晩秋に14歳2カ月で死んだんだ。それでもお爺さんは、毎日のように彼の名前を呼んでいるのさ。もう写真のマックスは吠えないんだけどね。春風がそっとつぶやいた。 お爺さんはこんな小さな橋を渡るよ。ここが目的地なんだろうか。いや、そうではないみたい。とっとことっとこ。もう走りはしないが、キョロキョロと何かを探し始めたのさ。てくてくてく。 もう一つ小さな木の橋を渡った森の中が、どうやらお爺さんの目的地だったみたい。ふ~む。トンガリ山に登るのではなさそう。ここは「自然観察の森」なので、きっと何かを観察するのかも知れないなあ。春風はそう思ったのだが、続きはまた明日。じゃあね~。<続く>
2014.04.20
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2月11日(火)建国記念の日。朝9時に家を出る。この日は所属走友会の総会と新年会を兼ねた集まりがある。お世話役のKさんには会場まで走って行くと連絡してあるが、これは無理だと判断して長靴で出かけた。2日前の大雪が残っているし、融けたのが再び凍った部分はガリガリでとても危険な状態なのだ。 集合場所の体育館までは3km近い。写真を撮りながら歩いてたのだが、これは送迎バスに乗り遅れる可能性があると判断し、途中から走った。転ばぬよう慎重にだから、長靴ランはとても疲れる。幸い時間は十分に残った。マイクロバスに乗ったのは13名程度。当初は走って行こうとして呼びかけた「おんちゃん」ことT野さんも、危険だと判断しバスに乗った。 会場の温泉 鐘景閣 写真は会場の温泉とその前にある古い家屋。この日会場まで走って来たのは近所のAさんとOさん。Oさんは家から28km以上のラン。凍って危険な道路を、彼らは涼しい顔をして到着した。1時間ほどで総会を終え、新年会までの合間に温泉へ直行。湯船からの雪景色が絶景だ。直ぐにデジカメを取りに行き何枚か撮影。すっかり写真に取り憑かれてしまったようだ。 年会費、新年会の会費、新しく作るチームのジャージ代を支払う。集まった会員は20名ほど。F会長の挨拶に続き、翌日90歳の誕生日を迎えるA原長老の音頭で乾杯。たくさんの差し入れの披露もあり、座はどんどん賑やかになった。私はビールから美味しい日本酒へ切り替えた。 長老2人 左側のA原長老が90歳の現役ランナーで、いつものように「どんぱん節」を即興の替え歌で歌った。右のMさんは74歳ながら今でも100kmマラソンを楽々完走する仙人。この後私も含めて数人が集まったのだが、平均年齢は76歳になるとK野副会長が言う。間もなく古稀の私はまだ若い方だったようだ。 花の女性会員 長老を囲んで 1人ずつ今年の抱負を発表。皆はそれぞれ目標の参加レースなどの話をしたが、私は新年会には相応しくない話に終始。昨年経験した体調の急変は、今年も予想されるためだ。再び指名された時は、「峠越えラン」などを試みたいと話した。今年も駅伝で頑張ると話す若手の顔がまぶしい。最長老と若手の年齢差は60歳以上。それでも全てが現役のランナーなのだ。 このような会合に出れば、当然仲間の活躍を見聞きする。それでも仲間や若い時の自分と比較しないことが大切。距離の長いウルトラマラソンを志向する私は、気持ちが衰えた時点で走るのが困難になる。自分なりに納得してランニングを楽しむことだ。昼酒に酔って20分ほどまどろんだ後、S木さんからお土産のエジシカの肉をいただく。 記念撮影 最後に出席者全員そろって記念撮影。会の準備と後片づけまで、お世話役の幹事さん、本当にお疲れ様です。私は春までレースがないので、次に皆に会えるのは「お花見」になるかも知れない。 マイクロバスから 帰りの雪道 途中で降ろしてもらい、ザル川に沿って歩いて帰った。泥酔しているのに加えて、この雪道。足元は覚束ないものの、まだデジカメで写真を撮ろうとしている自分。楽しかった一日。ささやかではあるが、今年も自分なりのランニング史を綴りたいものだ。ありがとう走友会の仲間達。こんな私だけど、これからもどうぞよろしくね~!!
2014.02.13
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1月の最後の日曜日。男は走りに出かけた。その日が「勝田マラソン」、「寅さん詣り」、「館山若潮マラソン」の日であることを男は知っていた。男は今年、用心して冬のレースには出ないことを決めていた。だが、大勢の走友が走るこの日に、何とか自分も走りたいと思っていたのだ。比較的暖かかったこの日、男は半袖シャツを着、ポシェットにデジカメを入れて出かけた。 男の耳は何年も前から聞こえにくい。「地鶏を食べる」を「千鳥を食べる」と聞き間違えるくらいだ。男の目は何年も前から物が二重に見える。だがお金を数えても、決して倍にはならない。男の足はスポーツ医から走るのを止められている。アーチが落ちて変形してるのだ。だが男は特別製の医療用インソールをシューズに入れ、ドクターストップを無視して走っている。 男の心臓は時々誤作動を起こす。不整脈の手術を2度受け、今も薬を服用中だ。だが「不整脈が直接の原因で死ぬことはない」との主治医の言葉をひたすら信じ、心肺機能は心配ないとうそぶいている男だ。去年男は3度、走るのを諦めた。レースの際に体調が急変したのが2度。楽天の応援でジェット風船が膨らまなかったのが2度。下り坂で転んだのが1度。そして死にかけたのが1度。特に夏の猛暑が堪(こた)えたようだ。 男の傍を青年が颯爽と駆け抜けて行く。だが男はその後を追おうともしない。いや、あまりにもスピードが遅くて、とても追いつかないのだ。それに、男の敵は他のランナーではなく、目には見えないもの。男が戦っているのは「老化」と言う未知の領域なのだ。そして男が走り出してから今年の元旦で、35年目に入った。 男は3月末で満70歳になる。もう洟垂れ小僧でも青年でも壮年でもなく、堂々たる老年。だから春以降のレースは、全て70歳としての出場だ。古稀と言う年齢まで走れることに、案外満足している男。これまでに走った距離は地球2周分を超えた。だが、老化は容赦ない。一旦走るのを止めれば、直ぐに筋力が落ちてしまう。だから男は故障し易い冬を用心し始めたのだ。 男の出場予定レースは去年より少ない。前泊するレースの数を妻に制限されたこともあるが、それは男自身の決断でもあった。レースの最長は多分50km止まり。100kmの時間内完走は厳しいと判断したのだろう。だが隣県への「峠越えラン」と、「津波被災地訪問ラン」を今年は何とか復活させたいと男は願っている。そして、今はそのための練習と、男は自分に言い聞かせている。 だがデジカメを持ったのが良くなかったのか、この日はあまり良い練習にならなかったようだ。しょっちゅう立ち止まって写真を撮ったためだ。空、樹、川、家、道、寺や道端の石仏など、目の前に見えるものを、男は鼻水を垂らしながら片っぱしから撮り続けた。この日男が撮った写真は140枚ほど。今もそれを、せっせとブログに載せている男だ。<男の1月の足痕> 11回55km 16回194km(1回の平均12.1km) 月間合計249km 運動しなかった日4日 これまでの累計83930km <続く>
2014.02.04
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