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~最近の出来事などを詠む~ つぼみ 身近で起きた出来事や、訪ねたブログに触発されて浮かんだイメージ、届いた年賀状からの着想。それらを俳句や川柳や短歌としてメモしています。このシリーズのテーマは『ブログは文学たり得るのか』。習作を文学作品へと昇華させるにはかなり推敲が必要ですが、たとえ荒削りの原石にも光はあるでしょう。私はブログの世界は実験と認識しています。そして恥をかくのも修行のうちと。 <出来事から> 松の内笑顔優しき女逝けり まつのうちえがおやさしきひとゆけり 享年は知らねど哀し屋根の雪 きょうねんはしらねどかなしやねのゆき 享年を知らざる女や屋根の雪 きょうねんをしらざるひとややねのゆき 俳諧の道極めしか冬銀河 はいかいのみちきわめしかふゆぎんが<届いた年賀状から> 師の長寿願ひて祈る年始 しのちょうじゅねがいていのるとしはじめ 嬉しやの初日に映ゆる金亀城 うれしやのはつひにはゆるきんきじょう(松山城) 友の老ひ知る手がかりの賀状かな とものおいしるてがかりのがじょうかな ともかくも寒気見舞ひを出し終へぬ ともかくもかんきみまいをだしおえぬ<ブログから その1> 初春や友の手術の成功す はつはるやとものしゅじゅつのせいこうす 老残の身に有難き初日かな ろうざんのみにありがたきはつひかな 初空や残れる日々は知らねども はつぞらやのこれるひびはしらねども 老残のわれに眩しき初日かな ろうざんのわれにまぶしきはつひかな 珈琲のデスクに注ぐ初日かな こーひーのですくにそそぐはつひかな 初春や珈琲に生き返るとき はつはるやこーひーにいきかえるとき 一杯の珈琲温し年始め いっぱいのこーひーぬくしとしはじめ コーヒーを大人の味と知ったとき (川柳) <ブログからその2> 黄花亜麻 モラエスの愛せし花ぞ黄花亜麻夫婦の契り千年経るとも もらえすのあいせしはなぞきばなあまめおとのちぎりちとせふるとも 腰痛を持ちたる友を哀れみぬ吾も苦しむ同病なれば ようつうをもちたるともをあわれみぬわれもくるしむどうびょうなれば 冬の街北の大地を歩む友心を癒す珈琲一杯 ふゆのまちきたのだいちをあゆむともこころをいやすこーひーいっぱい いづれもが倭言葉を紡ぐわざ文学の道けふも勤しむ いずれもがやまとことばをつむぐわざぶんがくのみちきょうもいそしむ 掲載した作品は直感的に詠んだのをメモし、多少手を加えたもの。載せなかった駄作は狂句まがい。さて直感で選んだ言葉を「文学」に仕上げるには、さらに「語彙の引き出し」を調べ、文法や俳句、短歌の約束事などの確認作業を要します。これらのほかに「俳句教室」への提出句を3句選んで仕上げる作業が残っています。今日は教室の当日ですが、この文章は2日前に予約したものです。<続く>
2022.01.20
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~離合集散と魂の独立~ 今日もブログを書いている。指先を切った手袋をして。水仕事で手がかじかんだので。ウオークマンで買った儀式用の白い手袋も、次第に汚れて来た。「汚れちまった悲しみに今日も小雪が降りかかる」。30歳で死んだ中原中也の詩の一節だが、雪国では何もしなくても死ぬ。屋根から落ちた雪に埋もれたりして。ホームレスは最低気温零下5度の仙台が、住まいの限界と聞く。住む家があるだけ私はマシか。 離合集散は人の世の常だ。幼くして母と生き別れた私は、その後色んな別れを経験した。若いころの同人仲間との別れ。信仰との別れ。文学との別れ。仕事との別れ。妻との別れ。去っていったものの数々。そんなことで私は案外別れに慣れて行ったのかも知れない。だが別れと同じくらいの出会いもあった。有難いことではないか。別れも出会いも生きていればこそ。自ら身を引いたことも多かった。 インターネットの世界でも色々渡り歩いた。ホームページ。掲示板。字だけの日記。ブログ。脅迫や嫌がらせもあった。WWWも結局は人間世界なのだ。だから何が起きても不思議ではない。死の直前までブログを書いていた人。認知症になった人。だが、それにも懲りず私はブログを更新し続けている。それも連日。いわば「ブログ中毒」だが、表現の手段が広がったのも確か。何でも載せられるブログは最強。 離婚した年に始めた短歌は1年も持たなかった。理由は簡単で、同人の代表を信じられなくなったためだ。人格も歌人としての資質も、その言動の何もかもが。多分私の方が感性も作品の完成度も優っていたはず。私は彼の添削を拒否し、この同人はやがて崩壊すると直感して退会した。私の退会後、3人が退会したと聞いた。長年管理職として組織を見、人を見て来た私の目に狂いはなかった。 その翌年から通い始めた俳句教室。変だと感じることが多くても、私は黙って聞いた。頑固で偏屈な講師でも、学ぶ点が数多くあった。それだけ私はずぶの素人。俳句理論や日本の短文学の歴史。それを「ただ」で学べるだけでも良いじゃないの。講師と喧嘩して辞めた人が過去にはいたみたいだが、私は人と喧嘩はしない。喧嘩するなら俳句と言う世界での勝負。素人には良い句を詠むしか道がない。 彼から学べるものは全て学んだ。そして私は作風をいろいろ変えて行った。だが自分の信念を貫いたことに変わりはない。表現は実験。人生もまた然り。実験を恐れれば進歩はない。若いころから詩や小説や短歌や芸術に親しみ、常に本物と接して来た私にとって恐るべきは自分自身の慢心。それを忘れさえしなければ、発展の可能性はある。教室を辞めた人も何人かいたが、去らば去れ。私は心身が許す限り残る。 他のブログや日常の出来事から触発されることも多い。詩心を揺さぶられて詠んだ俳句や拙い川柳は、実験かつ挑戦。恥をかくのも修行のうち。若いころから私はどれだけ汗をかき、恥をかいて来たことか。それらの全てが「肥し」になったと信じたい。人生死ぬまで修行。後どれだけ修行可能かは知らない。多分知ったに時は死んでるのだろう。 さて明日はその俳句教室。今日中にどの句を提出するかを決めて、清書する必要がある。だがあまりにも秀作が多過ぎて選ぶのが大変。それは冗談として、考え抜いて選んだ句が評価されないことも多い。やはり視点が違うのだろう。だが私は心の中で反論する。「全国紙の俳句欄に載る句は、彼の持論よりもっと自由だよ」と。「選者が多い全国紙は、彼が推奨する地元紙のレベルとは質が違うよ」と。さて、次回からそろそろ各論編へ進むべきか。<続く>
2022.01.19
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~捨てたもの・出会ったもの そして源流から支流へ~ 沖縄に赴任する前、青年時代までに書いた詩を全て捨てた。これからは2,3年ごとに転勤することになる。いつまでも過去に拘ってはいけないと思ってのことだった。だが今になると惜しいことをしたと思う。感受性が強かった時期に書いた詩は尊く、二度と書けないものだったからだ。だが不思議なことが私に起きた。何と25年ぶりに詩が書けたのだ。これには自分でも驚いた。 書けた理由は分かっている。「内地」と異なる風景や文化や歴史。沖縄では有数の詩人が部下で彼の詩を読んだこと。そして上司による連日のパワハラ。それらの異常な感情が私に奇跡をもたらしたのだ。神様は「死」の代わりに「詩」をくれたと思った。だが魂を込めて発行した2冊の詩集は、家族の誰にも受け入れられなかった。妻などは「お父さんの詩はインチキだ」とまで言い切った。レ・ミゼラブル。 気になっていた「寒中見舞い」を出し切り、ついでに大掃除をした。それで気持ちの整理が出来た。その夜つくば時代の同僚Tさんから電話があった。私が出したハガキの文章が気がかりだったと、20分以上話した。奥様が2年前病気で倒れ、今は自宅で介護生活を送っている由。お世話してるのは娘さんと彼。それは初耳だった。そして次の言葉にはもっと驚いた。 私の辞職時の挨拶状の「職辞して春風(しゅんぷう)われのものとなる」の句を覚えていたのだ。19年前に私が詠んだ俳句。さらに沖縄で発行した2冊の詩集のことも。それはもう30年前の話で「それなのになぜ」と考えて、理由が分かった。彼は京大の文学部卒。きっと日本文学専攻だったはず。家族すら見捨てた私の魂を、まだ忘れず覚えていてくれた人がいたとは。彼の長く篤い友情に感謝だ。 白山 北陸勤務時代に「俳句紛い」を千句近く作った話は既に書いた。侘しい単身赴任の私のために、ランニング仲間がホームページを作ってくれたのだ。メニューは日記、俳句、歴史のコーナーと「掲示板」。それを毎日更新していた。足を傷めて走れなかった時期で、私は早朝に散歩しながら五七五を口ずさんだ。そのノートをある時に捨てた。断捨離の際、もう役に立たないと判断し、処分したのだ。 クロユリ 白山登山の最中にも120句は詠んだ。今にして思えばいかにも勿体ない話。俳句になってなくても、そこには北陸の自然と風景が描かれていた。つまり俳句の素材になり得たのだ。「偽物」から「本物」へと詠み直すことも可能だったのにと、悔やんでももう遅い。私が覚えているのはわずか2つ3つ。 春霞白山姫を虜にす。 (はるがすみしらやまひめをとりこにす) 白山神社の祭神は白山比売という女神だが「め」は口編に羊。季語は春霞で一応俳句になっている。 観音のマリアに紛う姿かな (かんのんのマリアにまごうすがたかな) 墓地の観音の後ろ姿がマリア様に見えた。これが私が粗製乱造した無季語のインチキ俳句の典型。 奥つ城の六字名号加賀は春 (おくつきのろくじみょうごうかがははる) 兼六園の桜と金沢城 最後の句は当時の風景を思い出して4年前に詠んだ作品。「奥つ城」はお墓のこと。「六字名号」は南無阿弥陀仏のこと。加賀国(石川県)はかつて一向宗(浄土真宗の一派)の宗徒が一世紀以上に亘って支配した時期があり、墓地のほとんどがその宗派で埋め尽くされ、墓はすべてが西を向き「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれている。捨てたノートには「俳句の素」がたくさんあったのだ。 ブルーベリー 若いころの下宿先で、T大学博士課程の人が私に言った。大学でこんなのを聞いたと。「雨が降る日は天気が悪い悪いはずだよ雨が降る」。おいおい本気なのかよ。大学院でそんな話をしてるとは。そんなのは俺でも作れると、聞いた夜に100ほどの戯れ歌を詠んだ。だが今になって調べると、それは狂歌の類のようで、それも色んな形や呼び名があると分かった。 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 太平の眠気を覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず (注)「上喜撰」(お茶の高級種)を「蒸気船」にかけた掛け言葉。「太平を泰平と、眠気を眠りと」詠むのは明治期に入ってから。馴染みがない元歌は幕末の資料に残っているそうだ。 散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする それらを三味線などの音曲に載せて歌ったのを「都々逸」(どどいつ=左)と呼び、幕末の志士である高杉晋作が愛したそうだ。また坂本竜馬(右)は狂歌の先頭に五文字を加える「五字冠り」(ごじかむり)を愛した由。竜馬が詠んだのが以下の歌。 世の人は我を何とも笑わば笑え我なすことは我のみぞ知る いかにも竜馬らしい磊落(らいらく=こだわりのないこと)さではないか。 しかし日本の短文学は凄い。和歌(短歌)が時代と共に連歌(れんが)や俳諧(はいかい)となり、そこからさらに川柳、狂歌、近代俳句などが派生した。戦後「第二芸術論」で桑原武夫が近代俳句など短詩型文学を批判したが、歌壇や俳壇からの反論が相次いだ。無論正岡子規の流儀を忠実に守る派もある一方で、様々な試みもなされていると私は認識している。今日は話があちこち飛んだが、お許しあれ。<続く>
2022.01.17
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~別世界への旅路~ 最初の職場での勤務は3年間で終わった。定型的な仕事は自分には向いてないし、精神的な苦痛も感じていた。そこで新設機関への転勤希望を出した。その希望が叶って始まる新たな生活。これまでとは全く異なる分野なのに加えて、新設機関のため「無」の状態からのスタート。そして職場は仮校舎から現在地へと新築移転し、以後天職となるその仕事に夢中になって取り組んだ。 さて、若き日に出会った宗教や文芸や音楽が無駄にはならなかったと思う。旧約聖書の詩編や讃美歌、借用した法句経(ほっくきょう)。それらは文語体で書かれ、古語を交えた韻文もあった。日本語の美しい響きに感銘し、言霊(ことだま)すら感じた。美術や文学もそうだが、なるべく若いうちに「本物」に出会うことが大切だと思う。それは他の分野も同様だ。結局「偽物」には偽物の価値しかない。 職場では軟式野球部に入って練習に励み、試合にも出た。新しい分野の仕事と環境の変化は、私の心身を健康にした。やがて4年遅れで大学へ通い始める。勤労学生が中心の夜間部だ。だが全国的な大学紛争が仙台にも波及し、職場の大学もそして夜学のある大学も学生運動のプロ集団によって封鎖された。私は二部の学生委員会に所属していたが、逃げ出した先輩に代わってやむなく委員長になった。 夜学の学生には職場の組合の猛者もいて、混乱の元になった。だが一般学生の代表である私たちは穏健な主張で混乱を乗り切った。体重は10kg以上減り、病院に担ぎ込まれたことも。それでも4年間で得たものは多く、妻とも知り合って結婚し、資格取得のための講習やより上位の専門試験にも合格出来た。礼拝堂の地下食堂の天ぷらそばの味、クリスマス礼拝や、委員長としての演説など今なお忘れられない。 試験合格が契機となって東京へ転勤し、その後も転勤を重ねた。国内最先端の電算化を実施していた3番目の職場では、懸命に専門雑誌のタイトルを覚え、英文タイプを打ち、不得意なコンピュータ操作に苦しんだ。国内初の新構想大学となった4番目の職場では、全国から集まった優秀な同僚たちの実力を知らされた。そこで10年勤務した私は、一大決心をし新天地へと向かう道を選んだ。 何もないところから私が作った5番目の職場。理想に燃えて構想を練る私を、上司であるM教授は理解し、学長をも説得してくれた。心身はすり減ったが、それまでの経験がすべて生きた。いやそれらを駆使して全国にないものを作った積もりだ。3度の創設事務は累計で21年に及び、私の誇る最後の作品となって今も立派に機能しているはず。仕事に悩んだ時は深夜に起き、真っ暗な海岸を1人で走ったっけ。 退任される際、M教授は私に1冊の本をくれた。世界的な大脳生理学者であった先生は、ホトトギス派の俳人で、フランスのパスツール研究所で勤務された時も俳句を詠んだ由。その本の内側に私への献辞と共に自筆の句が添えられている。「汐時の鳴門轟く良夜かな」 巨草が先生の俳号だった。 世界的な学者と心を通わせて築いた職場。私は何度か転勤を重ねたが、本当に偉い人は決して威張ったりしない。文化勲章を受章された先生や、若くして学士院賞を受賞された先生。皆穏やかな方だった。 ところが世の中にはトンデモナイ人もいて、激しいパワハラに遭ったり、部下の裏切りにあったりもした。「胡麻をする能力」がない私は、本音で語り馬鹿正直に生きるしかなかった。若くして病死した後輩たち。パワハラを受けて自殺し、失恋して自殺した後輩。途中から研究者へと転身した同僚や部下。彼らの顔を一人一人思い出す。そして私が死なずに済んだのは実に「文学に守られていた」からなのだった。 雪国 沖縄では25年ぶりに詩を書け、2冊の詩集を出した。人事権を握る女ボスに飛ばされた雪深い北陸では、1年で千句ほどの「五七五」を作った。季語も知らず基本知識もないがリズム感は育てられ、後に生きた。短期間の博物館勤務は、知識や観点が豊富で多様になった。やはり「本物」との出会いが大切だ。早くからインターネットに接した私はやがてブログにも出会うのだが、それはしばらく後になる。 さて人生に無駄などない。離婚したことも含めて良い経験だ。「もしもあの時」と考えることもあるが、すべては自分が良いと判断して選んだ道。失敗もまた貴重な経験だ。失敗し躓いたからこそ得られたことも多かった。人生然り。文学も同様だと思う。すべては「修行」と考えたら、この世に生を受けたことに先ず感謝すべきなのだろう。今日は文学論より人生論になったかもね。<続く>
2022.01.16
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~再び故郷へ戻って~ 小学校の教科書では「オッペルの象」と習った宮沢賢治の童話が、本当は「オツベルの象」と濁ることを今回調べて知った。出版社の担当者が字を間違えたのが真相のようだ。しかし音楽教室があり、いきなり「三人の王の行進」や「オーゼの死」をレコードで聞かされた松山の小学校には驚いた。仙台の木造校舎には音楽教室などはなかったはず。傘が人数分なかった我が家では、ネギを刻んだのがおかずだった。 松山で小学校は1年3か月、中学は3年。そして高校へは入学後1か月しか通わなかった。父が急死したのだ。次は静岡で稼ごうと考えた父は税金対策のため全財産を3番目の妻の名義に書き換えていたようだ。大きな夏みかんが実っていた愛媛県庁の前庭。北国生まれの私たちにはとても珍しい風景だった。死の直前の父と行った今治市の「唐子浜」をその35年後に訪ねた。人生はまさに夢幻だ。 広瀬川と仙台市 義母は遺産の10分の1しか私たちに渡さなかった。私たちは成人してなかったし、義母(と呼ぶのも嫌だが)は親戚の弁護士と相談の上だったのだろう。そんな事情で仙台では何度か転居を重ねた。兄は勤めながら夜間高校を卒業し、私はようやく公立高校に授業料免除で転校出来た。だが2年の秋からは部活を練習のある運動部から文芸部に変えた。放課後にアルバイトをするためだ。 青葉城隅櫓 男女共学で柔らかい雰囲気の県立高から転校した仙台の高校はすべて別学で、ガサツな校舎と校風。違えば違うものだと感じた。アルバイトは仙台名産の配達。それでも就業前に夕食を摂ることが出来たのは幸い。「手当」は全部兄に渡した。元旦は電報の配達を、夏休みには某文具メーカーの倉庫で重たい段ボールを担いだ。そして夕方からはいつもの配達。クタクタでも頑張れたのは若かったからだろう。 文芸部では詩と小説を書いた。詩は慣れていたが小説は初経験。甘っちょろい青春ものだったが、印刷され文集に載った。書いた詩は「ガリ版」で詩集を自作した。たまたま文化祭に来た姉がそれを読み作れば東京で売ってやると。そして思いがけないことが起きた。ある女子高の演劇部員から詩の創作を頼まれたのだ。その詩を「鶴の恩返し」の劇で朗読するらしい。 私は文語体の短い詩を書いて彼女に送った。それを60年ぶりに思い出してみた。もう少し長かったはずだが、どこか忘れた部分がある感じ。 トントンぱたりとんぱたり トントンぱたりとんぱたり つうが織りたる織物は 黄金の布に銀の布 ついによひょうが見たものは 一人機織る鶴ばかり 白い姿の鶴ばかり あわれよひょうよどこへ行く 愛しきつうの面影を 探し求めて雪の中 今日もさまよう雪の中 演劇は大成功だったようだ。彼女からお礼の手紙が届いて、私は彼女が通う教会に顔を出すことになった。これも奇縁。弟が生まれた直後に別れた生母はクリスチャンだった。聖書の言葉と讃美歌の調べは多感な高校生を虜にした。私は結婚する牧師のために詩を書き、教会のオルガン奏者が作曲した歌を、式の当日に聖歌隊の一員として歌った。自作の詩が歌になった人生初めての経験だった。 彼女から東京の大学に行って良いかと聞かれた。私には彼女の進学を止めるなんの権利もない。きっと交際したいと思ったのだろうが、17歳の私にはまだ重すぎる決断だった。それに私は既に就職が内定していた。その後は勤務しながら合唱団に入って歌を歌い、教会では子供たちの世話をした。若くして出会った宗教は、たとえ一時的にせよ心の汚れを洗い、魂を清らかな世界へと導いてくれた。 石川善助の詩碑 教会の勤労青年部の早朝礼拝で行った山の頂上に、その詩碑はあった。詩を読んだ途端に魂を撃ち抜かれた。なんという素朴さ。それでいて暖かくて清純な言葉。詩の題は「化石を拾ふ」。私も小学生時代に化石を拾ったことがあったし、詩も早くから書いていた。そして母の暖かさも家庭の味も知らずに成人した。そんな体験と感情が、この詩を読んだことで一気に蘇ったのだろう。 化石を拾ふ 光りの澱む切り通しのなかに 童子が化石を捜してゐた 黄赭(きあかつち)の地層のあちらこちらに 白いうづくまる貝を掘り 遠い古生代の景色を夢み 遠い母なる匂ひを嗅いでゐた ・・・もう日は翳(かげ)るよ 空に鴉は散らばるよ だのになほも探してゐる 捜してゐる 外界(さきのよ)のこころを 生の始めを 母を母を 石川善助 石川善助(1901-1932)は仙台市国分町「芭蕉の辻」(かつての奥州街道が通った商店街で、現在は青葉区国分町1丁目)の商家に生まれ仙台商業を卒業後、仲間と共に詩や童話の創作に励み、同人誌「感触」や「北日本詩人」の創刊に関わる。1932年(昭和7年)東京大森駅付近の線路を酔って歩き側溝に転落して溺死。死体の発見は死後10日目だったそうだ。彼の死を悼んだ友人らがその後詩集「亜寒帯」や童話集などを刊行した。 詩碑は仙台市太白区向山4丁目愛宕神社境内(愛宕山頂上:愛宕大橋南たもと付近から階段などで)にある。一生で何度か自分の生き方を決める場面に出会うが、この詩碑との遭遇がその後も私を詩に誘い、日本短文学との出会いにつながったと感じている。<続く>
2022.01.15
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~小学生から中学生へ~ 「われと来て遊べや親のないすずめ」。「古池や蛙飛びこむ水の音」。一茶や芭蕉の名句を知ったのも多分小学生時代だったと思う。仙台から松山に転校したおかげで、私は水泳を覚えた。場所は瀬戸内海の海水浴場の外れ、5mほど先の岩まで手足を動かしたら行けた。唯一私が泳げるのが平泳ぎ。翌年6年生では伝馬船から海に飛び込み必死にもがいた。その成果が40年後のトライアスロンにつながる。 中学校の敷地は松山城の二の丸跡。石垣には良く登った。校門前の坂を上ると「立志の塔」があった。昔なら14歳で元服だ。中学は他の小学校からの生徒と合流し、番長同士の対決もあった。1年の担任は美術の先生。2年は国語で3年は数学。1年では学級委員を命じられ、峠越えで40kmを歩いたこともあった。2年の担任には可愛がられた。拙い詩も短歌も褒めてくれたT先生。 法隆寺 修学旅行で行った関西の寺院。そこで初めて詠んだ短歌のうち覚えているのが下の3首。 斑鳩の里に聳えし塔みれば花のごとくの古(いにしえ)思ほゆ 緑なる春日の宮の朝の風吊り灯篭を揺すりをるかな 老人の鐘撞き堂に一人ゐて石山寺は線香のかほり 先生は「新古今調だね」と言うが、古語は何となく覚えたもの。ダム建設の現場を訪れて書いた詩は、「名詞止め」を褒められた。そのダム湖のある川を40年後にカヌーで河口まで40km以上漕ぎ下ることになるとは知る由もない。先生は元オリンピックで銀メダルを取った水泳選手の娘。先生が詠んだ下の俳句を今でも良く覚えている。その60年後には自分も俳句教室に通うという縁に驚く。 マスク取りて顔に笑いの広がりぬ 中学生時代に読んだ「人間襤褸」(「らんる」はぼろ切れの意味。著者は大田洋子で、広島原爆の被害の様子を詳細に記した小説。生々しい表現と被害の実態に驚嘆。ぼろ切れ同然に倒れ死に行く群像。中学生には残酷な現実だが、読んで良かったと思う。その何十年か後に2度訪れた原爆資料館。この本は文学少女だった姉の蔵書。私の詩を新聞に投稿し、詩集を仲間に売ってくれた美人の姉は若くして死んだ。 湊町銀天街の古書店を訪れたのも中学時代。私が見たのは美術全集や古い彫刻など。美術や歴史に惹かれる素地は、多分あの時代に築かれたのだろう。1年の担任美術のF先生にもなぜか可愛がられた。養子だった先生は、きっと東北から四国に流れ着いた私に、ある種の哀れみを感じていたのではないか。松山に赴任し40年ぶりに再会した際、先生は椿の花の版画をくれた。今は懐かしい少年の日の思い出だ。<続く>
2022.01.13
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~教科書で出会った文学~ 私が小学校で最初に使った国語の教科書はこれか。画像検索で引っかかっただけだが、最初の文章は「たろうさん、はなこさん」だったはず。サンフランシスコ講和条約が締結された日、私たちは校庭に並び「今日から日本は独立した」との訓話も校長の名前も記憶は鮮やかだ。昭和天皇が国体のため仙台に行幸された際は、お車が通過するまで決して顔を上げてはいけないと先生に注意された。そんな時代。 覚えている最初の詩は大関松三郎のもの。お百姓さんが畑で薬缶から直接水を飲む場面で、確かごっくんごっくんのイメージが強い。彼は新潟の農民の子弟で、戦前「生活詩」の指導を受けていた。その後兵士となり戦死。師が保管していた大関の詩を戦後詩集として出版。民主教育を目指していたGHQ(進駐軍)の目に留まって教科書に載ったのではと推察。5年生(昭和29年)のころだと思う。 また急速に広がったのが作文で、戦後民主主義啓蒙活動の一助となった。無着成恭(むちゃくせいきょう)が山形県で実践した綴り方教室「山びこ学校」はその代表だろう。 その3年ほど前、新聞社から2本の鉛筆が届いた。私の詩を姉が地元紙に投稿したのだ。鉛筆は掲載の謝礼だったのだろう。「青い海 白い雲 浜辺では「まて貝」が出たり引っこんだりしている」との幼いもの。父と行った海水浴場の風景を思い描いたのだろうが、まて貝は空想。海水パンツなど買ってもらえず、裸同然だったはず。教科書で詩に出会うより前、私は「詩人」としてデビューしていた。 私が出会った最初の小説は教科書の「走れメロス」。メロスを信じて身代わりの受刑者となった友を救うため、必死に王宮まで走り抜いたメロス。2人の友情に希望を感じた。太宰治は津軽出身で、本名は津島。対馬へ旅した折、元寇の際に島民が船で逃げた先が津軽だったとバスガイドの話。津軽には対馬姓や津島姓が多い。800年前の史実が継承される不思議。私が地名や人名に関心を持つ所以でもある。 教科書で知った最初の短歌は与謝野晶子の「金色のちひさき鳥のかたちしていてふちるなり夕日の岡に」。意味は分かったが、旧仮名遣いの「いてふ」が銀杏であることに驚いた。「てふてふ」が蝶々と知るのはさらに後日。教科書は新仮名遣いに変わっていたし、当用漢字も年々変わった。それなのにこの歌が教科書に載ったのは、優れた文学でありかつ作者が女性だったからではないかと推察している。 明治天皇御集 同じころ「児童年鑑」で明治天皇の御製「ちはやぶる神路の山をいづる日の光のどけく春立ちにけり」を知った。今回ネットで確認したら明治天皇は生涯で9万3千首もの和歌を詠まれ、「明治天皇御集」上中下3巻に編集されている。この歌は下巻にあり天皇が56歳の立春の日の御製。しかしよく70年近くも忘れずにいたもの。私は「山」を「岡」と覚えていたのだが、これもきっと何かの縁なのだろう。 俳句は教科書ではなく、いきなり「本物」と出会った。正岡子規の「春や昔十五万石の城下哉」。(はるやむかしじゅうごまんごくのじょうかかな)。場所は四国松山城旧三の丸東堀端にその石碑があった。この句碑はJR松山駅前、堀端と場所を移し、現在は道後温泉の「子規記念博物館」の前にあるようだ。博物館へも入ったことがある。しかし仙台出身の私がなぜ松山にいたのか。 松山城 確か昭和26年のこと、仙台駅前の火災のもらい火で店が延焼し借金が出来た父の夜逃げ先が、四国の松山だったのだ。その3年後、中学生の兄、小学生の私と弟が夜汽車を乗り継いで父を訪ねた。給食費が払えないほど困窮していた。転校先の小学校は市の中心地にあり、裕福な家庭の子女が大半。ある時道後温泉に行こうと決まり、私も同行したが所持金が1円足らず1人だけ歩いて帰った。 道後温泉 実に生意気な餓鬼どもで、旧制の松山中学に赴任した「坊っちゃん」が手こずったのが良く分かる。因みに私の中学校は松山城の二の丸にあったが、文化庁の方針でその後取り壊された。懐かしい母校と校歌を今も覚えている。縁とは不思議なもので、父の客死で仙台に戻った私がその30年後に松山に赴任したのだから奇縁と言うべきか。俳句や短歌、詩との縁も切れなかった。人生は不思議で愉快だ。<続く>
2022.01.12
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~プロローグ~ 今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の初回を観た。予想に反してかなり面白かった。私は「歴史」が大好きだ。文学なんて目じゃない。だが私が興味を持っているのは考古学や日本の古代史や人類学など、それに類した分野で、中世史にはほとんど関心がなかった。だが大河ドラマともなれば、観ないわけには行かない。話題にもなり、NHKが組んだ「番宣」のための解説番組も観た。 ドラマの脚本は三谷幸喜が担当したようだ。タイトルに初めて「アラビア数字」が使われたことが話題になり、英語の表記があったことにも驚いた。ドラマの中で俳優が今風の「ためぐち」をきくのも痛快で、何の違和感もなかった。気になって北条頼政や義時、政子に関するYOUTUBEも観、鎌倉時代の流れもおおよそつかんだ。それが私流の番組を楽しんで観る秘訣だ。 朝ドラの「カムカムエブリヴァデ」がますます面白い。脚本は藤本有紀の担当。彼女の脚本は朝ドラ「ちりとてちん」で出会ったのが最初。落語と言う特殊な世界を描いたドラマで、俳優が慣れない落語に挑戦する姿を見て楽しんだ。落語の中の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ」の崇徳院が詠んだ一首が今なお忘れられない。女優貫地谷しほりのデビュー作だったことも。 女三代の100年の歴史を半年の放送期間中に完結させるのだから、話のテンポが速いのは当然だ。それが意外性の連続で、その後一体どう展開するのだろうと想いが膨らむ。だが脚本家は視聴者の期待を裏切らない。2代目の「るい」役の深津絵里の実年齢が48歳と聞いて仰天。その彼女が18歳の乙女に戻り、若やいだ声で話し恥じらう姿。脚本家も凄いが、役者のプロ根性もどっこい負けてはいない。 ドラマ「おらが春」も興味深く観た。「おらが春」は俳人小林一茶の句集の名。原作は田辺聖子の「ひねくれ一茶」。1993年(平成93年)の「吉川英治文学賞」受賞作品で、原作にドラマ性を加味して最初に放送されたのが2002年(平成14年)。私も当時観たはずなのに、記憶が薄れている。 台本 理由は簡単。その当時私はさほど俳句に関心を持ってなかったからだ。だが今回は違った。一茶の一生と俳人としての成長を如実に感じ、時々に詠まれた句に感銘した。自己を見つめる目と俳句を追及する心の厳しさ。多少とも俳句に関わる者には嬉しい贈り物だった。 これがまあ終の栖か雪五尺 一茶 これがまあついのすみかかゆきごしゃく 終の栖は人生の最期に住んだ家のこと 五尺は約1m50cm 自宅は長野県の寒村にあった。 さて、このシリーズを書き始めたきっかけはある方のブログを拝見したこと。そこに掲載された作品が私の詩心を呼び起こした。少年時代から触れて来た詩、短歌、小説、俳句、エッセイなど。そして自己流の詩や短歌や小説や俳句。そして今では日課となったブログ。それらとの遭遇と、自らの想いを書ければと願う次第。大層なタイトルの割に中身がないことは承知の上だが、ネットに晒して恥をかくのも修行と考えている。連続となるか非連続かは未定だが、先ずは一歩踏み出した。<続く>
2022.01.11
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