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~俳句教室に向けて~ 我が家のシンビジューム 「ウクライナ戦争」が始まって50日が過ぎた。どれだけ心を傷めて不眠の夜を過ごしたことだろう。その間に季節は移ろい、咲く花も姿を変えた。3か月以上目を楽しませてくれた我が家のシンビジュームもいよいよ枯れ始めた。戦争の行方が気がかりで、新聞の俳句欄も読まずに積んでいただけ。だが4月の俳句教室が来週に迫った。これは始動する必要がある。そう感じて俳句をテーマに選んだ。 休会となった3月の俳句教室の兼題(宿題)は「紅梅や」だった。先ずはこれから行こう。 紅梅や戦火止まざる国在りて 紅梅や戦火に喘ぐ遠き国 *あえぐ 重要文化財「黒川能」 紅梅や黒川能の「大地踏」 *だいちふみ 「黒川能」は山形県鶴岡市の集落で数百年間継承されている農民が演じる能楽で、国の重要文化財。2月初旬のある日、一晩かけて演じられる伝統芸能。かつては屋外の能舞台で舞われていたが、今は地元の公民館の中に舞台が設置され、そこで集落の人々によって演じられる。「大地踏」は演目の一つ。 「紅梅」と「戦火」や「黒川能」は無関係だが異なる内容を一つの句に詠む作法を「取り合わせ」または「二句一章」と言って、わが講師はその作法を推奨している。一つの内容を最初(上五)から最後(下五)まで詠む技法を「一句仕立て」と言う。ホトトギス派はその典型。 天に星地には戦ぞ春憂ひ *いくさ *はるうれい 春寒や朽ち始めたるもやい舟 *しゅんかん(はるざむ) 花冷へや戦乱既に五十日 花冷へや「ちむどんどん」と朝ドラマ 物言はず去り行く女や初桜 *ひと 初孫や庭に一本藪椿 *ひともと *やぶつばき 韮切りし鋏の匂ひ嗅ぎにけり *にら 菜の花や男やもめの夕支度 不器用に生きし男や犬ふぐり 笑ふなら笑へと俺も犬ふぐり 「紅梅」、「春憂」、「花冷え」、「初桜」、「藪椿」、「韮」、「菜の花」、「犬ふぐり」が春の季語。俳句の上での「春」は立春から晩春までで、あくまでも「旧暦」の頃の季節感に拠っている。それは「万葉集」成立以来の日本人の感覚とも言える。「犬ふぐり」は生物学上の正式名は「オオイヌノフグリ」だが、俳句の世界では片仮名表記はしないで良い。 また俳句は基本的に「古語」であり、「や」や「かな」、「けり」などの「切れ字」も古語。「旧仮名遣い」である必要はないが、私は難しいと思いつつも挑戦している。 イチローが始球式する佳き日かな イチローがシアトルマリナーズの本拠地での初戦。始球式の投手を依頼され、球速151kmの剛速球を投げたそうだ。季語がないため川柳と言えようか。 背番号みな同じ日の大リーグ 4月15日は黒人初のメジャーリーガーとなった選手を記念しての「ジャッキー・ロビンソンデー」。この日は全チームの全選手が彼がかつてつけた「42」の背番号が付いたユニフォームを着る習わしがある。イチローは現役でないし、試合に出場しないため現役中の「51」で始球式を行った。川柳は原則的に現代語で新仮名遣いと聞いている。 記念日にHR2本ショウタイム もちろんエンジェルスの大谷翔平選手も背番号42をつけたユニフォームで試合に臨み、見事2本のホームランをかっ飛ばしたショータイムならぬ「ショウタイム」になった。ゲームも勝った。アッパレ さて我が東北楽天は、昨日北九州市でソフトバンクとのデーゲーム。この日が誕生日の西川選手が9回表に逆転となるバースデーアーチを掲げた。勝利した楽天は首位ホークスに0.5ゲーム差と迫り、今日(17日)に鹿児島で連勝した場合は、首位に躍り出る。(これは予約原稿) 春愁を癒す殊勲のホームラン *しゅんしゅう *いやす 「春愁」が季語の俳句。なお、野球は季語にない。お粗末様でした。
2022.04.17
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~師との対話~ 滅多に人を褒めない講師が、この日は最長老の受講生を褒めた。唯一講師よりも高齢の方。その彼が提出する作品のほとんどが武張(ぶば)った句。生真面目な性格が彼の句や書かれた文字にも表れている。講師が褒めたのは声の大きさといつに変わらぬ彼の句。世界を股にかけて旅したのか、いつぞやはオーロラの句を提出。私は彼がある月刊誌に句を投稿してることを知っている。無口な努力家なのだ。 かまど神 私が提出したのは3句。先ずは季語の「繭玉や」を上五にした兼題。 繭玉や厨におはすかまど神 まゆだまやくりやにおわすかまどがみ 繭玉とかまど神の「取り合わせ」は上手く行った積もり。だが「厨におはす」が失敗。私は晴れがましく居間に飾られた繭玉と、暗い厨(台所)で家の安全を守るかまど神との対比が面白いと考えたのだが、「かまど神が厨(台所)に居るのは当たり前」なので、その「中七」が無用だと。「中七」は「下五の説明」に気を取られていたが当然のことを言うのは無駄。使える音が17音の俳句では特にそうだ。 2句目。 届きたる友の賀状の癖字かな とどきたるとものがじょうのくせじかな。 こちらも「賀状は届くもの」でちょん。言わずもがなのことは言葉の無駄だと講師。まだまだ推敲が足らなかったようだ。自分の句の言葉に酔ってしまうと、そんな単純なことが見えなくなるのだ。 通し矢 3句目。 振袖の白き腕や弓始 ふりそでのしろきかいなやゆみはじめ 「白き」を注意されるかと思ったが、結果は無添削。新年早々に矢を射る行事が季語の「弓始」。京都三十三間堂の「通し矢」が有名だ。振袖姿のお嬢さんが襷(たすき)をして弓を引く際に露(あらわ)になる腕の白さを強調した。添削はなかったものの、「袖」が衣偏(ころもへん)ではなく示偏(しめすへん)の誤字を指摘された。目が良く見えないのと、字の確認を忘れたことによる二重の失敗だった。 講義終了後、私は誰もいない教室で講師に尋ねた。講師が以前から今後の体調次第では講師を辞めると言っておられたことに関してだ。主催者からは「俳句教室」の講習期間は年度と無関係で、体調次第でいつ休み、辞めても良いと言われている由。肝臓がんが肺に転移して治療中だが手術は受けないと明言していた。それでいざという時の臨時講師を私に依頼されたが、私は体調不良を理由に断った経緯があった。 「体調は今も良くないが、手伝いたい気持ちはある」と伝えたら喜んで、今後休む際は「自習」と言う形で代理を頼むとの返事。体調の関係で安請け合いは出来ないが、今は講師と話せて良かったと思っている。無論彼の講義の継続が最良の道。私に人を教える力はないが、一緒に学ぶことなら可能。寒風の中ペダルを漕いで帰宅し、早速来月の兼題に着手。次回も難題だ。「上手くなるには挑戦心が必要」。講師の言葉を心に刻みたい。俳句の道は遠く厳しいが私の命が持ち、さらなる高みに到達出来るかどうか。頭痛がまだ続いている。<未完>
2022.01.24
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~準備そして当日~ 埋めた大根を掘る 当日が雪の場合を考え、バスの時刻を調べた。当日の寒さを心配して一番暖かそうな服装を選んだ。もしものことを考えて夕食のメニューを考え、翌日分のブログを予約。だが、天気予報はたった一日で変わる。それに寒気が厳しい今頃は、たとえ太平洋側が晴れていても奥羽山脈を越えて雪が飛んで来たり、強風になる場合もある。だが杞憂は無駄で、当日は自転車で行けそうな天気になった。 ギボシの種 会場へは早めに着いて、早速検温と入館票に記入。その際老人センターの職員と話して、来年度の開講などについて情報を得た。このところ感染者数が急激に増えた新型コロナのオミクロン株。3回目のワクチン接種も、来年度も俳句教室が継続されるか計画は未定。来年度は参加しないかもと賀状に書いてよこした仲間も含めて欠席者はなかったが、人数は最盛期の半数だ。 観葉植物 予め用意した「短冊」を出席者のテーブルに配る。「密」にならないよう、座席がかなり離れ、通気のため窓が少し開けられている。マイクの前の席に講師が座られた。新年の挨拶を交わし、短冊を置く。1人遅れたが、講師が黒板に短歌と俳句をひとつずつ板書した。講師の作品のようだ。彼は受講生の「短冊」にざっと目を通し、立ち上がって新年の挨拶をした。順番に受講生の名が呼ばれ、提出した兼題(宿題)の句を読み上げる。いつもながらの緊張の一瞬だ。 繭玉(まゆだま) この日の兼題(宿題)は「繭玉や」。まゆだまは小正月の縁起物で、「新年」の季語。「餅花」(もちばな)などの別名を持ち、色のついた小さな餅や繭の形をした飾り物を柳やミズキの枝に刺したもの。家内安全、豊作、商売繁盛などを祈る。餅も繭もかつては農業と人の暮らしに深く関わっていた。昔の暮らしには欠かせない年間行事だったのだろう。 壊れたハート だが兼題は「繭玉」そのものではなく「繭玉や」。つまり季語を「上五」にして、「中七」以下をどう詠むかと言うもの。「下五」に「繭玉や」が来ることはない。「切れ字」の「や」で終わる句はほとんどないのは、句の安定が悪いためで、かなりの名句でないと通用しない由。加えて講師は「取り合わせ」をも要求しているのだ。季語とそれ以外の無関係なものや事象を組み合わせる俳句の技法のひとつ。 季語を中心にそのことだけを丁寧に詠むのを「一句仕立て」と言い、正岡子規につながる近代俳句の正統派である「ホトトギス派」はその典型。ところがわが講師は「俳句の神髄は「取り合わせ」(二句一章とも言う)にこそあると主張して止まない。これが初心者にはかなり難しい作業で、頭の切り替えを要する。一句仕立てでさえ難しいのに、さらにその上を行くのだから。 たいていの提出句は、講師の意図に沿わないものだった。中には複数の季語を有する「季重なり」があったり、音数が足らなかったり余ったり、句のリズムが悪かったりで手を入れられる句が続出した。そして難しいと言わずに何にでも挑戦しなければ上手にはならないとも。それは十分納得出来る意見と感じた。俳句の世界は単純だが深い。少ない音数で自然と人との関りを詠む侘(わび)、寂(さび)の文学が「余韻」を有する所以だ。<続く>
2022.01.23
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~新年の習作/俳句と川柳など~ 東雲の少し明かりて年始む しののめ 初日仰ぎ老残未だ生きむとす ろうざん 老残や初日は死出の一里塚 しで 妻去りぬ寓居に眩しき初日かな ぐうきょ=仮住まい 雲間より皇居へ急ぐ初日かな ビル街を抜け皇居へと初日の出 臭き息吐きてなまはげ退散す 「なまはげ}は「新春」の季語 村はずれ酔ひ潰れたる生身剥 なまみはぎ=なまはげの別名 結界や酔ひしなまはげ人もまた 初春のみ目美しき女人かな うるわし にょにん 初春やシンビジウムに日の光 子も孫も七草粥を持て余し ななくさがゆ グルメにも七草粥の優しくて 七草や笑ひ広がる奥座敷 寅年の七草を食ふ佳き日かな とらどし 七草を無用と笑う健啖家 けんたんか=食欲旺盛な人 <川柳は現代語を口語で表現するのが原則> 大根葉十把ばかりを煮たりけり じゅっぱ 大根は冬の季語 テーブルの上にも注ぐ初日かな 一杯の熱きコーヒー初読書 <どんと、とんど、松焚祭、左義長などの名称がある「小正月」の行事> 今日のブログに載せたのは習作のごく一部。俳句の季節には「春夏秋冬」のほかに「新年」があり、それぞれの季語があります。ここでは主として「新年」を詠み、季語のない川柳も楽しみました。「俳句教室」の兼題(宿題)句を30句以上詠み、うち3句を提出しました。 次回から別のシリーズを始めます。今回「クチコミテーマ」に選んだ「ブログは文学たりえるのか」ですが、書き手が文学を意識し、内容と形式を備えていれば十分文学になり得るでしょう。ジャンルとしての「日記文学」もありますが、すべてが該当する訳ではありません。無論ブログは有意義で、尊い作業です。当シリーズを閉じるに際し、ご来訪いただいた皆さまに、厚く御礼申し上げます。<完>
2022.01.21
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~サラリーマン川柳入選作から~ 昨年末、保険屋さんが挨拶に来た。カレンダーや景品と一緒に「サラリーマン川柳」の小冊子が入っていた。内容は2020年に募集したものだが、折角なのでブログで取り上げようと考えた次第。小冊子をデジカメで撮った画像なので、果たしてきれいに収まるかは不明だが、この鬱々した昨今「ワハハ」と笑い飛ばしてもらえたら嬉しい。 リモートで便利な言葉”聞こえません” (1番右) 嫁の呼吸五感で感じろ!全集中!!!(右から2番目) 十万円見ることもなく妻のもの(右から3番目) 会社へは来るなと上司行けと妻(一番左) じいちゃんにJ.Y.parkの場所聞かれ(一番左) 我が部署は次世代おらず5爺(ファイブジイ=左から2番目) お父さんマスクも会話もよくずれる(右から2番目) お若いと言われマスクを外せない(一番右) 抱き上げた孫が一言密ですよ(一番左) 義理なのにチョコのお返し倍返し(左から2番目の2) 我が家では夫婦げんかもリモートで(左から2番目の1) 待ち合わせマスクの妻がわからない(右から2番目の左) 我が夫見ざる言わざるグチ言わず(右から2番目の右) 定年後いつでも俺は不要不急(一番右の左) 心配ない三密我が家は会話なし(一番右の右) 妻は言う家事も含めてテレワーク(一番左の左) 育休の夫にさらに手がかかる(一番左の右) gotoに妻を誘うもソロキャンプ(左から2番目の左) 妻の指示不要不急のお買い物(左から2番目の右) 免許より返納したい我が夫(右から2番目の左) 妻は言う次も帰省はオンライン(右から2番目の右) マスクでも瞳を見てわかる思いやり(一番右の左) 道後の湯今年は家内と老後の湯(一番右の右) 在宅増主婦は家事増自粛なし(一番左の左) 同じバス娘に避けられ時差出勤(一番左の右) リモートの休憩時間待つ愛犬(左から2番目の左) ストレスは娘ピエンで俺胃炎(左から2番目の右) 還暦を赤いマスクで祝う会(右から2番目の左) 帰宅したパパに手洗い子が指導(右から2番目の右) 帰省せぬ孫に送ったポンジュース(一番右の左) 娘との会話始まる自粛中(一番右の右) 有料化袋忘れて手で抱え(左の左) ショッピング袋よりたまる段ボール(左の右) アイデアは良かったのですが、写真のサイズをいろいろ変更しているうちに、ボケてしまったり、見難いのも出てしまいました。楽をしようとした結果です。どうもごめんなさい。そこで慌てて補正してみました。さて、皆さん苦心の作品がちゃんと読めたかな。m(__)m では私も便乗して。 汗染みた母校の襷ゴールへと オミクロンに会長真っ青尾身苦労 初場所もコロナ休場の力士あり 甘いもの除いてお節食べ尽くす 核戦争止めるって本当?五人衆 米、英、仏、中、ロ 五か国がスパイ衛星で見張りっこ 怖いものコロナ中国核戦争
2022.01.05
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~わが習作と過ごす~ ゴッホ自画像 凍星や捨てし暦のゴッホの絵 *いてぼし=冬の季語 年越や捨てし暦のゴッホの絵 年越や狂ひしゴッホ耳を切る 大年神 年越や旧き衣を脱ぎ捨てよ 年越や病癒えよと願いつつ 和かや大晦日の蕎麦と酒 *なごやか *おおつごもり 石女の背を押すごとき除夜の鐘 *うまずめ=子の無い女 石女の終の棲家や除夜の鐘 *ついのすみか 年越やなめた鰈も煮えたころ なめた鰈(カレイ)は仙台地方の年越魚 年越や家族揃ひて鰈食ふ 荒れる日本海 鰤起し白山早も隠れけり *ぶりおこし=冬の雷 *白山は石川県の名峰 +はやも 風花の生まれ故郷の怒涛かな *かざはな=風に乗って来た雪 地吹雪や狂ふがごとき日本海 冬銀河 凍星や疫病の世なれども *いてぼし *はやりやまい 葉牡丹 葉牡丹を植へて寡の仕事終ふ *やもめ
2021.12.21
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~わが貧しき習作~ 皇帝ダリア 月1回の俳句教室に向けて、凡人たる私は幾つかの句を準備する。11月の兼題(宿題)は「立冬や」だが、その他にも晩秋から初冬の句を詠んでみた。まあとても文学的とは言えない句ばかりだが、私にとっては愛する作品だ。では暫し愚作にお付き合いいだけたら幸せです。 立冬や旧友に文認めぬ *したため 立冬や日は傾きて鳥の群 立冬やわが人生に悔ひのなし 立冬やわが人生も凛たらむ *りん 立冬や一杯の茶の旨きこと 立冬や終の棲家に差す朝日 *ついのすみか 立冬や完結したる朝ドラマ 冬カモメ石女深き息を吐く *うまずめ 冬鴎完結したる朝ドラマ *ふゆかもめ 凩の河口に響く汽笛かな *こがらし 虎落笛わかれし妻は何方へ *もがりぶえ *いずかた もがり笛石女いまだ眠られず *うまずめ=子のない女性 石女や冬立てる日の宮詣り *みやまいり もがり笛行方不明の妻の夢 *もがり笛=竹の切り口などに当たる風の音 立冬や夜汽車の汽笛遠ざかる 立冬や遠ざかり行く夜汽車の音 *ね 実方中将の墓 冬めくや歌人の墓の夕まぐれ 枯尾花歌人の墓の夕まぐれ *枯尾花は枯れススキのこと 歌詠みの墓や草木はみな枯れて 立冬や遠ざかり行く日々の数 冬菜畑影引きずりて村夫子 *そんぷうし=村の学者 冬菜畑村夫子の影長くして *ふゆなばた 陽を受けて気高きことよ木守柚子 *きもりゆず 日を受けて輝く柚子の命かな 講義を終えた講師に言いました。「先に引き受けていた俳句教室の講師の件ですが、著しい体調不良のため辞退したいと思います」。「そうか分かった。君は弁が立つので適任と思ったのだけど、体調不良の苦しさは自分も一緒なので、無理しなくて良い」と講師が答えた。 私だって自分なりに俳句の話はしたいし、仲間とこれからも俳句を学びたいと思う。専門の本を4冊買って勉強したいと準備していた。だが今の体調で1年間講師を続けるのは無理。引き受けても迷惑をかけるとの判断だった。これで2,3日続いた不眠から解き放れたら嬉しい。それ以上に講師のために役立てなかったことが悔しい。講師は胃がんが肺に転移し、これ以上の治療を拒んでいる。風前の命で教壇に立っているのだ。
2021.11.19
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~床屋と2つの公園~ 秋の彼岸。兄に線香を上げに行った際義姉が言った。「健康のため、1日4千歩は歩くようにしてる」と。それを聞いて甚(いた)く反省した私だった。元気だった頃は40km走っても疲れを知らなかったのに、喜寿を過ぎた今では一日中パソコンに向かい、腰も痛む。俺も少しは歩いてみようか。ああそうだ。2つの公園を通って床屋へ行こう。そうすれば運動にもなるし、何かブログネタもみつかるだろう。 そんな訳で、首にデジカメをぶら下げて家を出た。だが立秋を過ぎてもまだ暑い。いわゆる残暑だが、その日の仙台は26度の夏日になると言う。腰にはタオルハンカチ、頭には帽子。そして半袖、半ズボンのスタイルで。足元は安物のズック。これがぶかぶかで歩きにくい。写真は結構撮れ、その夜のうちに整理。翌日写真中心のブログを書こうとし、途中で気が変わった。折角なので俳句も載せようと。 コスモスの頼りなげなる空の碧 *あお コスモスや寡婦となりたる女の庭 *かふ *ひと 秋暑しイヌサフランのフラダンス *あきあつし=残暑(季語) 散髪へ休み休みの残暑かな 散髪へ急ぐ小径や萩の花 *こみち 秋の沼番の鳥の動かざる *つがい 沼の水静まり映す秋の雲 秋めくや風に諾ふ桂の木 *うべなう=したがう 田舎道歩み疲れて男郎花 *オトコエシ ミズヒキソウ(細い赤い花) 床屋の待ち時間を利用して「旧かな入門」を読んだ。有名な俳人も古語の文法を間違って句を詠むことがあると知って驚いた。文学部の国文科で勉強した人ならいざ知らず、俳人も知らずに間違うと聞いて、少し安心した。床屋の後、裏道を通ってM公園に行った。5か月ぶり。赤いミズヒキソウが咲いていた。 水引の花の揺れをり丘の径 ツリガネニンジン 公園の広い芝生は全て造園業者が草刈をして、すっかりきれいになっていて、とても残念。本来ならツリガネニンジン(上)などの野草がたくさんの花をつけているのだ。中には貴重な野生植物もあるのだが。 草の花岡にも迫る住宅地 *くさのはな=野草の花=秋の季語 踏まれたり折られたりして草の花 いわし雲蔵王は遠き西の果て オミナエシ 女郎花少しはなれて男郎花 <おみなえしすこしはなれておとこえし> 星野立子(ほしのたつこ 高浜虚子の次女で初の女性主宰誌「玉藻」を創刊 1903-1984) 晩秋や思案有り気な樹下の人 邸宅に取り残されて秋の薔薇 大きな庭園のあったお宅。今ではその大部分から花が消えていました。きっと高齢になってお世話が出来なくなったのでしょう。ピンクのバラがたった一輪だけ咲いていました。薔薇(バラ)な夏の季語ですが、「秋の薔薇」や「冬薔薇」(ふゆそうび)とすると、他の季節の季語になります。最初の意図とは違った散歩でしたが、ブログネタと作句の良い機会を得ることが出来たことに、感謝しています。
2021.09.25
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<尾崎放哉(おざきほうさい)の巻> 尾崎放哉(おざき ほうさい 1885-1926)鳥取県鳥取市出身で本名は尾崎秀雄。旧制一高俳句会当時「層雲」の荻原井泉水に師事し、自由律俳句に目覚める。東京帝大経済学部を卒業後東洋生命保険(現在の朝日生命保険)に入社。大阪支店次長を務めるも辞職して「無所有」を信条とする一灯園(香川県小豆島)に住まい、俳句三昧の生活を送る。一灯園隣の廃寺で極貧の中で病死。享年41歳。 よき人の机によりて昼ねかな 咳をしても一人 *せき すき腹を鳴いて蚊が出るあくび哉 *かな 今日一日の終りの鐘をききつつ歩く 子供等さけび居り夕日に押合へる家 *おしあえ 渚白い足出し *なぎさ 墓の裏に廻る 貧乏して植木鉢並べて居る 雨の中泥手を洗ふ 一つの湯呑を置いてむせてゐる *ゆのみ 入れものがない両手で受ける こんな大きな石塔の下で死んでゐる 淋しい寝る本がない 底が抜けた柄杓で水を飲まうとした *ひしゃく 冬川にごみを流してもどる 犬よちぎれるほど尾をふってくれる 犬をかかへたわが肌には毛が無い 朝早い道の犬ころ 迷って来たまんまの犬で居る 山茶花やいぬころ死んで庭淋し すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ *やせ 絵は3点とも山下清(上1922-1971 放浪の画家でペン画やちぎり絵細工が得意)の作品です。彼の半生は芦田雁之助主演の「裸の大将」のタイトルで映画にもなりました。<完>
2021.09.24
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~荻原井泉水の思想と俳句~ 荻原井泉水(おぎわらせいせんすい 1884-1976) 俳人、評論家。東京生まれ。東京帝国大学文学部言語学科卒業。在学中からゲーテに親しむ。俳人の河東碧梧桐(かわひがし・へきごどう)の新傾向運動に参加し共鳴するも、後に袂を分かち自然のリズムと無季俳句を提唱。俳誌「層雲」を碧梧桐から引き継ぐ。門下に種田山頭火や尾崎放哉がいる。独特の雅趣ある俳画をたしなむ。 <荻原井泉水の書と俳画> 力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝 みどりゆらゆらゆらめきて動く暁 けふはいちにち光なき海が悶え寄る *きょう *もだえ かなかな鳴きつぐかなかなはなくてふと暮るる 空を歩む朗々と月ひとり 妻の追憶のすっぱい蜜柑を吸うてゐる <ミロの絵> 自分の茶碗がある家に戻ってゐる たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く 月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり はっしと蚊をおのれの血を打つ 月光ほろほろ風鈴に戯れ うつくしこつつぼぼたんかわられている <美し骨壺牡丹代わられている 絶唱=辞世の句>
2021.09.18
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<種田山頭火の巻> 種田山頭火の名前は知っていた。自由律俳句を追求したことも、破天荒な人生を送ったことも、彼の作品もいくつか諳(そら)んじてもいた。たまたま先日ネットで彼のことを調べ、彼の作品を十句ほど読んで、私の記憶が曖昧だったことを知った。思った以上のインパクトだった。そして画像と組み合わせて彼の俳句を紹介したら面白いと考えた。ひょっとしたら、3回ほどのシリーズになる予感もする。 へうへうとして水を味ふ *ひょうひょう *あじわう まっすぐな道でさみしい どうしようもない私が歩いている 鈴をふりお四国の土になるべく 生死の中の雪ふりしきる また一枚脱ぎ捨てる旅から旅 霧島は霧にかくれて赤とんぼ うしろすがたのしぐれてゆくか 音はしぐれか 鉄鉢の中にも霰 *てっぱち *あられ 分け入っても分け入っても青い山 おちついて死ねそうな草萌ゆる 種田山頭火(1882-1940) 種田山頭火<たねださんとうか>は明治15年山口県の資産家の長男として生まれた。父の放蕩が原因で資産のほとんどを失い生母が自殺。後に弟も自殺する。結婚後は放浪を繰り返し、自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事。熊本で寺男となり俳句を詠みながら、旅を繰り返す。自由律(五七五)の定型を取らないばかりでなく、季語や季節感を伴わない自由奔放な作風。酒が好きで体を壊し、旅先の松山で脳溢血のため昭和15年死亡。享年58歳。 私はたまたま松山勤務の経験があり、職場から自宅へ帰る際に寄った寺の中で、偶然彼の墓を見つけた。その時は俳句への興味も、彼がどんな句を詠んだのかも知らなかった。彼のことを知ったのは早坂暁(はやさかあきら)原作のテレビドラマ「花へんろ」ではなかったか。早坂暁は松山市の生まれ。 さて、正岡子規、夏目漱石、高浜虚子など松山に因む文学者は多く、市内のいたるところに「俳句ポスト」が設置されている。ある夜ふらりと入った居酒屋で、突然店の女将に俳句を一句詠めと言われた時には狼狽(うろた)えた。振り返れば私は案外俳句とも松山とも縁があったのかも知れない。松山市は昭和20年代の父の夜逃げし先で、小学生の時から句碑を眺めていたのだから。 春や昔十五万石の城下哉 はるやむかしじゅうごまんごくのじょうかかな 正岡子規の句で、句碑は松山城下の東堀端にある。市電(イヨテツ)が通る市役所のすぐ傍だ。
2021.09.13
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~俳句は自分で創るもの~ 教室に入って席に座った時、句友が私にそっと言った。「先月先生が褒めた句があったでしょ」と。もちろん私も良く覚えていた。決して見かけない情景を詠んでいたのと、季語との組み合わせが何とも不自然だったからだ。それが講師が褒めたその「フレーズ」がネットで検索したら出て来たと言う。そうか季語以外は「パクリ」だったのか。まさかそんなことをする人がいたとはねえ。 ところがである。私も似たような経験があった。何と「プレバト」で詠まれた俳句を提出した仲間がいたのだ。私はそのことを指摘した。他の句を参考にすることは良くある。だが、季語はA氏のから、中七と下五は別の人の作品から採って繋ぎ合わせただけとは驚いた。第一他人が良く観る俳句番組からそっくり「いただく」神経が良く分からない。そんなことをしても進歩はない。文学とは苦労して創るものだ。 ★ 紫陽花や縁切寺の築地塀 *ついじべい ★は提出句 7月の兼題は「紫陽花や」。それと「詠み合わせ」(全く異なる風景の中七以下の句を詠むことが宿題だったが、講師の指示を守れた人は少なかった。「紫陽花や」で始まっても、その後も紫陽花に関わる情景を詠んだ人が大部分。それだと「一句仕立て」と言う技法になる。私は鎌倉の古寺を連想して詠んだのだが、一応「詠み合わせ」にはなっている。講師の評価も悪くなかった。 紫陽花やすまじきものは老ひの恋 自分としては思い入れのある作品だったが、提出はしなかった。講師の評を聞きたい気持ちもあったが。 恋しさや紫陽花の彩薄れゆく やうやくにけふも暮れけり七変化 *ななへんげ=紫陽花の異称 ノウゼンカズラ 裏道や凌霄花音もなく落つる *のうぜん=ノウゼンカズラの短略形 井戸端に凌霄花落つる景色かな ノウゼンカズラ(凌霄花)は夏の季語。今頃の時期に鮮やかな色で咲いている。咲き終えると、その鮮やかな花が道端などに落ちている風景を良く目にする。 ドクダミ 十薬や旧き書物を出して読む 十薬や窓辺の読書黄昏れて ドクダミは夏の季語。十薬(じゅうやく)はドクダミの別名。ドクダミは漢方薬でもあり、昔は葉を患部に当てて、腫物の毒を吸い出した。そんなイメージもあって別名の「十薬」を使用した。わが家の庭もこの時期はドクダミの花盛り。根は深さ50cmにも達する厄介な雑草だ。八重咲に改良した園芸種もあるようだ。一種独特の匂いがする雑草。 ツバナ 野を往けば茅花流しの仄かなり *ゆけ *つばなながし *ほのか 野の径の茅花流しも黄昏れて *みち *たそがれ 茅花は「つばな」とも「ちばな」とも言われる雑草。「茅花流し」は梅雨時のじっとりとした風に茅花の穂が一斉になびく様子で夏の季語。わが家の周辺でも見かけるのは、元々が山野だった証拠だろう。 ホトトギス ★ 時鳥声は南部か伊達領か *ほととぎす 不如帰声は南部で塒は伊達 *ほととぎす *とや=ねぐら 不如帰世は疫病に揺らぐ時 疫病に揺らぐこの世や不如帰 疫病に眠れぬ夜の不如帰 時鳥声はいずこの梢から ホトトギス(時鳥、杜鵑、不如帰、霍公鳥、子規)は渡り鳥で深い森林に棲む。夏の季語で鳴き声に特徴がある。「テッペンカケタカ」とかが有名だが、他にも「擬音」が多い。ウグイスなど他の野鳥の巣に自分の卵を産み付けて「托卵」する性質を有する。体格の良いホトトギスの雛は、先に生まれた本来の巣の幼鳥を尻で巣の外に落として、自分たちだけが、「仮の親」から餌をもらう不届きな特徴を有する。 私は距離100kmのウルトラマラソン「いわて銀河」(6月開催)の75km地点付近の森で、良く鳴き声を聞いた。わが家でも夜中に鳴き声を聞くことがある。近くに営林署の森があるからだろう。提出した句とその次の句は自分でもふざけ過ぎかと思っていたが、講師には「あまり力まない方が良い」と諭された。それはそうで自分で自覚してたら良いのである。 クチナシ ★ 梔子の花や娘は嫁ぎゆく *くちなし 梔子の花や命のありがたき 不思議な話だが梔子は秋の季語なのに、「梔子の花」は夏の季語なのである。おそらく「梔子」は「実」を指すのかも知れない。クチナシの実は食品を黄色く染める素材として古来親しんで来たことからかもと想像している。提出した句は「クチナシの花」と「嫁ぎゆく娘」との、無関係なものを一緒に詠んでいる。これが「取り合わせ」の妙。 ノリウツギ 糊空木木下闇より出づる時 *ノリウツギ *こしたやみ 青葉闇犬連れし人通りけり *あおばやみ ノリウツギは紫陽花の仲間。木下闇(こしたやみ)も青葉闇も同義で、「深い森の中の暗さ」の意味。共に夏の季語。俳句は陰暦の世界なので、季節は現実よりもかなり早い。特に地球温暖化で季節感がずれた今日ではなおさらだ。そこに俳句の世界と現実との大きなギャップがある。さらに都会に住めば、自然との一体感も乏しくなり、句を詠むには厳しい環境と言えようか。かと言って「プレバト」のように何でもありの俗物的な題材は詠みたくはないとも思う。 オニドコロ 俳句は十七音の最も短い文学だが、その短さの中に無限の広がりを持つ。言って見れば「余韻の文学」なのだ。全部言い切らなくても良い世界。これぞ日本文学の極地かも知れない。どうもお粗末さま。知ったかぶりしてゴメン。
2021.07.17
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~わたしと俳句~ 離婚してまる4年経つ。離婚した年は短歌の同人に入った。自分としてはなかなか良い歌を詠めたと思ったが、あることをきっかけに退会した。ある人を信用出来なくなったためだ。「歌心」がないし、「感動」もない平気で嘘をつく。短歌に未練はあったが、その同人に残る気はなかった。私が退会した後、続いて3人が辞めたことを知った。やっぱりなあと思う。文学には純粋な魂が必要だ。 その翌年、市の俳句教室に通い出した。市の広報に募集要項があったので申し込んだのだ色々あったが、1度も自己都合では休まず受講した。これは同人でも「俳句塾」でもなく、市の行事。講師は「嫌味」のある人だが、私は全くの素人なので学ぶ点は多い。先ずは虚心坦懐に聞くことだ。そして重要なことはノートに記入するだけでなく、頭に記憶することだ。今年で4年目に入った。皆勤は私だけのはず。 受講生も色々だ。上手い下手はとも角、講師の話をよく聞いてない人。兼題(宿題)を忘れる人。進歩のない人、筋の良い人。反発する人、素直な人。それぞれの教養に従って、言葉は選ばれる。そして俳句には厳しい「約束事」がある。それは「十七音」と言う世界で最も短い文学なので当然だ。そのルールを覚えるのが先決だ。後はその人の「センス」。そして日本語の深遠さに気づくこと。 今日(これは予約で書いてるため正確には昨日)の俳句教室はまあまあだった。私が出した3つ作品は、「それなり」の評価を受けたし、自分で拙いと感じた箇所も講師に指摘された。仲間の作品に対して、私は良く自分の考えを述べる。講師から許されていると同時に、それが俳句の勉強にもなる。思ったことや疑問点は素直に聞いた方が得。それが良い作品に繋がればさらに嬉しい。明日は作品編だ。<続く>
2021.07.16
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~最近の習作から~ 奥入瀬渓流(おいらせけいりゅう:青森県) 奥入瀬の径苔生して朴の花 *みち *こけむして *ホウ 朴の花瀬音は渓の彼方より *たに 獣道高き梢に朴の花 *けものみち ホウの花 朴の花早世したる姉の貌 *そうせい=早死に *かお 喜寿過ぎてなお健やかに朴の花 薔薇咲けど陽は中天に昇りけり *バラ *ひ *ちゅうてん=中空 薔薇咲きて近まる兄の一周忌 薔薇や薔薇疫病の世なれども *はやりやまい 雨に濡れ風に揺れたる薔薇の日々 散りし薔薇うち重なりて香を放つ *か 朴の花 朴の花は夏の季語。私はこの花を2度見たことがあります。最初は青森県の奥入瀬渓流で、2度目は近所の農家の林で。良い香りがするようですが、高い梢の上で咲いているため、直接香りを嗅ぐことは出来ません。花は良く知らなくても独特の形の大きな葉っぱで朴の木と分かります。朴の木は木質が素直なので版画の版木になります。また昔の高下駄の「歯」にしました。高校時代に私も履きました。 薔薇(バラ)も夏の季語です。わが家の庭では目下各種のバラが咲いています。でも花期が短くて、あっという間に散ってしまいます。モッコウバラ(木香薔薇)などは花の量が多いだけに散り出すととても掃除が大変です。「朴の花」は6月の俳句教室の兼題(宿題)のため、ボチボチ準備にかかっています。 私がバラを詠むことは滅多にないのですが、これも練習です。なお秋に咲くバラなら「秋の薔薇」冬なら「冬薔薇」(ふゆそうび)にのように詠むと、その季節の季語として使えます。なお私の俳号「真楠」(まっくす)は10年前に死んだ愛犬マックスから借りたものです。
2021.05.29
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~ランニングと俳句~ ランニング姿に着替えていざ出発しようとした時、裏でウグイスの声が聞こえた。直ぐ裏の家はご主人が10数年前に亡くなり、空き家になって無人。その庭の梅の木が満開で、ウグイスは梅の蜜につられてやって来たのだろう。そこで俳句を詠む気になった。 仕舞屋の庭にも初音猫の聲 *しもたや *はつね *声 「仕舞屋」(しもたや)は商売などを止めてしまった家のこと。「初音」はウグイスの初めの頃の鳴き声で春の季語。「猫の恋」や「猫の子」は春の季語で「季重なり」になるため猫の聲とした。誰も住んでいない家の庭にもウグイスや野良猫の鳴き声がすると言う春の風景。 この日も黄砂が降るとの予報。国道の辺りまで走って来ると、真上は青空だが地表に近い部分が霞んで汚れ、この時期なら見える雪を戴いた蔵王連峰の姿が全く見えなかった。ああ無情。 黄砂激しく蔵王連峰隠れけり *「黄砂」が春の季語 いざわれもランニングせむ弥生尽 *やよいじん 「弥生尽」(やよいじん)は本来旧暦三月の月末の意味で、春の季語。今は太陽暦だが、旧暦と変わりなく使っている。3月下旬が誕生日の私は、今年77歳になった。いわゆる「喜寿」だが、本来は「数え年」でのお祝いだが、これも拘らずに使っている。喜寿記念のランニングは先日も行った。 ツクシ(土筆) 通学路整列する子つくづくし 道端にタンポポ’(蒲公英)とツクシ(土筆)が並んでいた。どちらも春の季語だ通学路を小学生の一団が整列をしながら歩いて学校に向かう。「つくづくし」は「つくし」の異名。俳句や短歌の世界では音数を揃えるため、こんな風に音数の異なる異名を用いて、句の音数を整える技法がある。子供もツクシも真面目に整列しているおかしみ。 タンポポ 蒲公英やなぜか気怠き昼餉時 *タンポポ *けだるき *ひるげどき 漢字の蒲公英はなんだか人の名前みたいで、初めて「タンポポ」と読むと知って大層驚いたものだ。さて春の正午ともなれば腹も空く。まして暑い中で走ると余分にエネルギーを消費する。だから私はスポーツドリンクを薄めたペットボトルを持ちながら走るのが常。それで喉の渇きも癒せる。 アオキ(青木) 沼温み紅の実の転げ落つ :ぬるみ :くれない 農業用水の沼の畔に赤い実が見えた。これはアオキ(青木)でわが家にもあるが。冬は野鳥が実を食べに来る。それは良いのだが、落ちた種が土を被りやがて小さな苗になる。青木の名を詠みたいのはやまやまだが、生憎それだと冬の季語になるためやむなく「温み」(春の季語)を使った。最善ではないが次善のこともたまにある。トサミズキ 瓔珞 瓔珞のごとく揺れをり土佐水木 *ようらく *トサミズキ 瓔珞(ようらくまたはえいらく)は仏具の一つで、仏像などの傍にある装飾品。トサミズキは春先に薄黄色の花を咲かせる植木で、春の季語。良く似た花に日向水木(ヒュウガミズキ)があるが、こちらは季語に選ばれてない。風に揺れる可憐な花を、仏具に見立てて詠んだ一句。 アカヤシオ 赤八汐子は故郷を去り行けり *アカヤシオ *ふるさと ピンクのヤシオツツジを赤ヤシオと呼ぶのが通例だが、ツツジが春の季語。白花のを白八汐と呼び、どちらも庭木として珍重されている。この花が咲くころ愛するわが子は故郷を出て、都会の大学へと向かった。 イチリンソウ 人夫らの見向きもせずに一輪草 道路工事の現場近くで白い花が咲いているのを見つけた。花の形からしたらイチリンソウかニリンソウのはず。そう思って柵を乗り越え確かめに行った。結果は一輪草だった。キンポウゲ科の山野草。この付近に群落があることは知っていたが、まさか道路の直ぐ傍に、こんな可憐な野草が残っていたとは。私の走るコースは自然が豊富。ありがたいことだ。一輪草が春の季語。黄砂の日の思わぬ出会いだった。 春の校庭球児はつらつノック受く *うく N高校の裏手まで来ると、硬式球の打球の音がした。この県立高校は10年以上も前に県の代表になって甲子園に行ったことがあった。結果はあえなく1回戦敗退だったが、それでも同校生徒の間では、いつまでも語り草になるのだろう。「受く」は「受ける」の文語体。 甲子園のセンバツ準決勝は東海大相模高校と大分の明豊高校が接戦をものにし、決勝に進出した。決勝戦は本日の12時30分開催。 辛夷(こぶし) 校門の辛夷去る者来る者 *きたる ぐるりと回って、N高の正門まで来た。ここには見事な辛夷の並木があり、満開の時は圧倒的な存在感となる。この校門を入って新入生となった者や、この校門から出て卒業して行った先輩たち。比較的新しいこの高校にも、それなりの歴史が刻まれて来たのだろう。この日もまあまあ快調で、帰宅後早速残り湯で体を洗った。黄砂で天気は今一だったが、走りながら俳句が詠めて幸いだった。
2021.04.01
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~やもめ暮らしのつれづれに~ <写真はわが家の庭の花> ヒマラヤユキノシタ 私は3と2と4の組み合わせが好きだ。なぜなら3月24日が私の誕生日だからだ。このブログが公開された日の朝を無事迎えることが出来たら、私は77歳になる。俗に言う「喜寿」で目出度い日になるのだろう。3月下旬が誕生日だと、小学生の時は出席番号が最後になるのが常だった。それで損をしたのか得をしたのかは分からない。4月生まれの同級生とは、ほぼ1歳年が違うのだから。 ムスカリ それでも高校に上がると、出席番号は前の方になった。理由は五十音順だったからだ。確か52名いた3年B組の級友たちも1人欠け2人欠けして、既に10名は黄泉の国に旅立ったはずだ。恩師も卒寿(90歳)となり、新型コロナ感染症と相まって暫くクラス会も開かれてない。きっと永久幹事のAもやきもきしてるだろうが、これだけはどうにもならない。 梅の花 昨日は朝から天気が良かったため、洗濯物と布団を干した。そしてゴムの木ともう一つの観葉樹を外に出して、たっぷりと水を与えた。午後から思いついてこの半年間で詠んだ俳句をノートに清書した。「プレバト」の梅沢永世名人なら駄作は他人がシュレッダーに掛けてくれるが、私のような凡人は自分で取捨選択するしかない。 その作業もまた良い勉強になる。捨てるべきものを捨て、推敲して生かすものは残す。そしてそのついでにヘボな俳句を詠む。それもまた喜寿の良い思い出となろう。 梅の香や一服の茶の旨きこと 欠伸して馬鈴薯植うる日和かな *あくび *ばれいしょ わが家の梅は豊後梅(ぶんごうめ)と言い、アンズと梅の掛け合わせ。花は少しピンク色をし、実はとても大きくて立派。毎年梅雨の頃に実をもいで、梅干しを作るのが恒例行事になっている。「梅」が春の季語だ。 馬鈴薯(ジャガイモ)は先日男爵を植えたばかり。「馬鈴薯」は秋の季語だが、「馬鈴薯植う」(植えるの意味)が春の季語となっている。俳句は季節と密接な関係があるため、そんなわずかな違いで季節感が異なる。文語や古語が生き、わずか十七音(17文字ではない)しかないため、独特の用法もあり、その分余韻が生まれる世界と言えようか。私は「俳句教室」に通って今年の春で4年目を迎える。 ヤブツバキ 藪椿生き長らへて喜寿の朝 藪椿やもめ男の侘び住まひ *わび 私は一人暮らしの寡(やもめ)。50年近く連れ添った妻が家を出て、熟年離婚となった。それでも何とか77歳までは生きることが出来た。その殺伐とした暮らしぶりを句に託した。藪椿が春の季語。 フキノトウ 萌黄色の夢そのままに蕗のとう *もえぎいろ われもついに喜寿の朝ぞ蕗のとう *あした 春愁飯の旨さのありがたき *はるうれい 喜寿となる寡のゐたり蕗のとう *やもめ *いたり 「蕗のとう」が春の季語。十七音でフキノトウのことだけを詠むのを「一句仕立て」と言う。「フキノトウ」と全く関係のないものを一緒に詠むのを「取り合わせ」と言い、私たちの講師は後者を専らとする。初めは大いに戸惑ったが、3年経ってようやく少し慣れて来た。だが俳句の世界は広くて深い。私も精進していつの日にか、そんな句を詠みたいものだ。4月の俳句教室へは今日の句の中から選ぶ予定だ。
2021.03.24
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~トランプ離れと日常への回帰~ 写真は文章とは無関係です。 朝、新聞を取りに行って驚いた。何とゴムの木ともう1つの観葉樹の植木鉢を外へ出したままだったのだ。前日は6度と比較的暖かい日で、布団を干した。その後、郵便局、買い物、早めの昼食後は「俳句教室」へ急ぎ、その帰り道にも買い物をして帰宅。買い物の整理、干した布団を取り込み、何品か料理を作り、その後はブログの執筆。夕食後はいつも通りyoutubeのチェックに勤しんでいた。 そのまま疲れて布団の中に倒れ込み、そして朝を迎えた。すっかり忘れていたゴムの木と観葉植物は大丈夫だったろうか。去年も確か、外へ出しっ放しにしたことがあった。その時はゴムの新芽がしばらく出なかったくらいで済んだ。だが今回はマイナス1度。いつもは暖かい部屋に入れていた南方系の植物には、かなり強烈なストレスになったはず。ゴメンゴメン。そう言いながら、私はゴムの葉を撫でた。 1か月ぶりの俳句教室に私は3つの句を提出した。兼題(宿題)は歌留多(かるた)か新年だった。 1) 振袖に飛ぶ「蝉丸」や初座敷 蝉丸は盲目の琵琶法師で歌人。小倉百人一首にも彼の歌が採られている。だが蝉丸は人間。ここでは歌留多(かるた)の札が若い娘の振袖に触れて飛んだの意なので「 」を付けて歌留多の札の積りだった。だが、講師も教室の仲間も蝉丸を知らず「」の意図も理解してくれなかった。これでは話が成立しない。「初座敷」が「新年」の季語。季語には春夏秋冬のほかに「新年」と言う区分が別にある。 2) 屠蘇に酔いつつ上の句を聴きにけり 屠蘇(とそ)は薬草を煎じた「屠蘇散」(とそさん)が入ったお酒で、元旦に飲むお祝い用の酒で、当然新年の季語だ。奥座敷で子供たちが百人一首をして遊んでいる、詠み手は妻という設定。妻が読む和歌(百人一首は読まれた上の句を聴いて、下の句が書かれた札を取る遊び。だからその上の句を読む声を聴きながら、新年の酒に酔う夫あるいは父親の幸せそうな姿を詠んだのだが。 3) 初春を寿ぐ膳に日の光 *ことほぐ 座敷に家族が揃って新年を祝う。その座敷に低い新春の日が差し込む様子を詠んだ。初春が新年の季語。こんな単純で素直な表現が講師には好評。 4) 疫病に仆れし人や去年今年 *たおれ *こぞことし 私の心情としてはコロナ禍に苦しむ現状を句に詠んで提出したかったのだが、講師は「現代俳句」を好まず、俳句は人と自然との関りを詠むものと主張して已まない。受講生の中にはそれに逆らって難解な「現代俳句」を提出する仲間がいて、それも立派な挑戦だと私は考えているのだが、正月早々ことを荒立てる必要もあるまいと、自制した次第。去年今年(こぞことし)が新年の季語。 2月の兼題は「立春や」となった。しかも「取り合わせ」にせよとの厳命。つまり中七以下は「立春」とは全く無関係の内容にせよとの意味。彼は「取り合わせ」こそが俳句本来の姿であると信じている。帰宅後早速幾つか詠んではみたのだが。 立春や句を友として喜寿となる 立春や疫病いまだ治まらず 立春や子の消息も知らぬまま 立春や朝餉は美味し鳥の声 *あさげ 短信 近畿福祉大学講師の鳴霞さんは言う。どうやらこの人が死んだようだと。習近平氏が昨年末に脳動脈瘤の手術を受けたことは分かっていた。その後退院してテレビに姿を現したようだが、先日やはり死んだ金正恩同様「影武者」がいるのだとか。習近平の死で、今中国共産党は内部紛争が激化してる由。彼女は瀋陽市生まれの中国人で元中国共産党員だからやはり何らかの情報源を持っているはずで、信用出来ると思う。 アメリカ人で弁護士の資格を持つケント・ギルバートさんは言う。大統領選で不正があったことは連邦最高裁も承知してるはず。だが「組織だった不正の確かな証拠」が提出されないため、裁判が進まないんじゃないかと。確かに一理はあるが、裁判官も人の子、それこそディープステート側から脅迫を受けていたらどうだろう。怖くて審理が出来ないんじゃなかろうか。となると、後は軍事裁判しかないよね。 ワシントンDCに駐留していた州兵だけど、非常事態宣言が出ていたのは1月24日までだよね。それが5千人から7千人はそのまま3月まで駐留すると言う噂がある。やっぱりそれは尋常じゃないね。やはり「何かある」、「これから何か起きる」と思うのが普通じゃないのかなあ・それでもまだ「陰謀論」と言うのかねえ。 38歳の時に飛行機事故で死んだと言うケネディー大統領の長男のJFケネディージュニアの肖像。実は彼がまだ生きていて、「Q」とされている。確かに私は60歳近くなった彼の姿を先日この目で見たよ。陰謀論が陰謀に終わってしまうか。それとも奇跡が起きるか。3月まで楽しみに待とうと思う。 ありゃりゃ。シドニー・パウエル弁護士が「アメリカ共和国」の復活を宣言したぞ。ふ~む。そっちとの関係はどうなってるんだろうねえ。何だか良く分からないけど、じいさんの政権よりはずっとマシ。さてこれからのアメリカは果たしてどうなるのか。
2021.01.25
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~秋の実を詠む~ 野葡萄の彩薄れゆき冬に入る ノブドウ いろ うすれ 真弓の実帰省はせずや都会の子 マユミ きせい 行く末の定めなき身や梅擬 ウメモドキ 晩秋の庭に仲良きキウイかな 紅白の南天見つつ通学路 振り返る人なき秋やねずみもち 鬼灯で遊びし吾も六十路 ほおずき 手に取れば粘りて重き花梨の実 カリン 秋なれどその名悲しきフユイチゴ 日短やフォックスフェイスまだ蒼し ひみじか あおし 木守り柿天の一角独占す きもりがき 柚子の実の待ち兼ねゐたる厨かな くりや=台所 柚子味噌や今宵の酒の尽くる頃 ゆずみそ 仕舞家のピラカンサスや百舌鳥の声 しもたや=店仕舞いした一般の家 モズ 石蕗や行き交ふ人の忙し気に つわぶき せわしげ 秋の実などに相応しい俳句を詠んでみました。脳トレに最適です。<続く3
2020.12.02
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~秋に想う~ 8月の俳句教室に私は3つの句を提出した。兼題(宿題のテーマ)は立秋。8月なのに「秋」がテーマなのは俳句の世界では旧暦が生きているため。それはさておき、提出した中の1句が講師に惨憺たる評価を受けた。気分は最悪だったが、私は気を取り直して9月の兼題を尋ねた。「初紅葉」と講師。帰宅した私はうっ憤を晴らすかのように、急いで幾つかの句を詠んだ。 その中には赤ちゃんの手をモミジに見立てた句も。だがあまりにも通俗過ぎると感じて、ノートに清書しないまま捨てた。それから2週間ほど経ったある日、老人センターから電話があった。俳句教室の会場だ。9月の俳句教室は講師が手術のため、休止する由。彼がガンと戦っていることは何度か聞いた。さてそのことがあって8月の教室では不機嫌だったのか。私は私の俳句道を往くだけの話だ。 乳飲み子のぐずりて眠る残暑かな *ちのみご=赤ちゃん 嬰児の寝息安けき白露かな *みどりご=赤ちゃん *白露=秋の季語で24節季の一つ 初もみじを背に宮島の大鳥居 安芸の宮島(広島県)は日本三景の一つで、平清盛が信奉した国宝の厳島神社がある島。背後の弥山(みせん)は紅葉の名所で、宮島の観光土産はかの有名な「紅葉饅頭」だ。句はその紅葉が美しい弥山を背にして海中に立つ大鳥居を詠んだ。私はこの島を2度訪ねたが、山頂までは行けなかった。この山頂の岩には、奇妙な文字が刻まれており、世界共通の神聖文字と言われている。 山野辺の径迷ひつつ初紅葉 「山野辺の道」は奈良県の明日香村から天理市まで続く、わが国最古の官道で7年ほど前に私はこの道を迷いながら歩いたことがあった。大神神社、石上神社、狭井神社、元伊勢の古社、箸墓古墳、幾つかの天皇陵などがある曲がりくねった道に難儀した覚えがある。大和王朝と出雲族、蘇我氏、物部氏らの古代豪族が深く関与する土地柄で日本史の故郷でもある。今となっては懐かしい思い出だ。 月清ら苫屋に神は降臨す *とまや=粗末な小屋 沖縄勤務時代、沖縄本島の北にある伊是名(いぜな)島を訪ねたことがあった。とても神秘的な島で、風景の清らかさと荘厳さに先ず驚かされた。それもそのはず、この島は後に第二琉球王朝の祖となった金丸(後の尚円王)の生誕の地で、古い城跡が残っている。島の集落に一見みすぼらしい小屋があった。 それは神アシャギ(足上げが変化したもので、神様が寄る神聖な家の意味)と呼ばれる茅葺の小屋。その小屋の神々しさに、思わず息を飲んだ。日本の神社にも共通する神聖さだが、さらに原始的でもっと神に近い存在だと直感したものだ。沖縄にはそんな聖地が各所に残されている。つまり「原始神道」の島なのだ。精神のより深いところで日本と沖縄が繋がっている証拠みたいなもの。それを思い出して詠んだ。 絵筆持つ妻の項や虫の聲 *うなじ *虫の声が秋の季語 前妻は趣味で絵を描いた。その妻が家を出、大量の絵が残された。私はそれを全て処分した。その他にも不要品を4トン車に載るほど捨てた。2か月にも及ぶ過酷な断捨離だった。妻が複数の男性と付き合っていたことを知ったのは、離婚後妻が家を出てからのこと。それも意外な出来事だった。だが妻は子供たちには私が妻の金を盗み、私に恋人がいると話していたようだ。認知機能が狂っていたのだと思う。 離婚調停が終わったその年、私は一人の女流画家を知った。あるブロ友の紹介で彼女の個展を観に行ったのだ。その方がその後私のブログを何度か訪ねてくれた。それもきっと何かの縁なのだろう。方やアマチュアで方やプロの画家。とても不思議な縁を、幻想的に詠んだ一句。もちろん女流画家は妻ではないが、夢のままでも良いかなと思っている。
2020.09.13
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<マックス爺の俳句論再び> 私が良く観るテレビ番組の一つに「プレバト」がある。正式には「プレバト才能ランキング」と言うらしいが、私にとってそんなことはどうでも良い。先日ここ8年間で詠まれた俳句1400句余りの中から、選者のなつき先生が50句の秀句を選ぶという企画があった。最上位の「天」に選ばれたのが東国原氏の次の句。 花奮ふ富士山火山性微動 (はなふるう ふじさん かざんせいびどう) 「プレバト」のルールは翌週の出演予定者が、同じ1枚の写真を観てそれぞれ1句詠んで提出し、それを選者が選んで順位を決めるというもの。もちろん選者はどの句を誰が詠んだのかは知らされていない。「天」の東国原氏の一句は、選ばれた言葉も表現も、日本語として俳句として美しい文句なしのものだった。やはり現代俳句よりも、基本を押さえた句の素晴らしさは格別だ。 この「プレバト」良く使われるフレーズが「発想を飛ばす」と言うもの。写真の印象をそのまま詠むのみならず、そこから得た別のイメージを詠むのも自由と言う訳だ。それは俳句を志す者にとっては、良いヒントになる。つまり自分が感じたものをどう表現するかの訓練であり、イメージをどう膨らますかの訓練でもある。ただし独り暮らしの私の場合は、通常競う仲間はおらず自分で作り、自分で評価するのみ。 先日、作りかけの梅干しの「梅酢」の上がり具合を確かめた。その時に詠んだのが、 重石退け梅酢の嵩を確かむる *おもし *どけ *うめず *かさ=量 そこからお寺の修行僧が梅干しを作るイメージが湧き、以下の句を詠んだ。 作務衣(さむえ)の僧 重石退け梅酢確かむ修行僧 禅寺や梅酢確かむ作務の僧 修行僧梅酢の嵩を確かむる 庫裏(くり) 庫裏には僧たちの暮らしの場や、食堂、厨(くりや=台所)などがある。そこに目を転じて。 大庫裏に梅酢確かむ作務衣かな 作務僧の梅酢確かむ庫裏の奥 *さむそう(寺の雑務をする僧) 確かむる梅酢の嵩や奥の院 次に僧たちの日々の勤めである読経(どきょう)の称名(しょうみょう=仏や菩薩の名を唱えること)に目を転じて。 梅雨寒に称名響く古刹あり *こさつ=由緒ある寺 梅雨寒や読経乱るることもなく *つゆざむ 梅雨寒や称名響く文殊堂 *もんじゅどう 梅雨寒や称名乱るることのなし 称名と言えば、「立山登山マラニック」(距離55km、高低差3003m)のコースである八郎坂から見える滝(落差400m)の名前が「称名の滝」だった。立山は山岳宗教の霊山であり、他にも仏教に因む地名が多く存在する。さて、「梅酢」と「梅雨寒」が夏の季語。梅干しを漬ける作業から思い浮かんだ一句が、こんな風にお寺での修行に変化した。 福井県の永平寺で観た厳寒期の修行僧の姿、宮城県松島の瑞巌寺の庫裏や、座禅を組んだ際の経験と記憶が私にこのような句を詠ませたのだと思う。それらの経験からの印象であり、果実でもある。言葉に対する追及には終わりがない。たかが俳句、されど俳句。俳句は奥の深い芸術。私が心惹かれる所以でもある。日本語の深遠さと俳句の本質を思う。退屈な話に最後までお付き合いいただき、感謝です。合掌。
2020.07.03
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<花と俳句> 苧環(おだまき) 自分が撮った花を漠然と並べるだけなのはどうかと、今回は花の写真に俳句を添えることを思いが至った。例の実験精神である。だがそれには困難さも付きまとう。全ての花が季語ではないためだ。そして上の苧環は春の季語。ところが俳句の世界ではもう夏。理由は旧暦のため季節がずれているのだ。そして外国から来た花や、新たな栽培種などは季語に入っていない。 ならばどうするか。花以外の季語にすれば良いだけの話。頭をひねるのはボケ防止に有効だし、何より俳句の勉強になる。幸い時間はたっぷりあるので、後はどれだけ俳句の世界に没頭出来るかだけだ。では暫し花と俳句の世界にお付き合いあれ。 ヒマラヤの青いケシ 先日北海道のブロ友たくちゃんさんのブログを拝見したら、ヒマラヤ産の青いケシの花の写真が載っていた。以前三重のブロ友さんがヒマラヤへトレッキングに行った際に写真を撮り、ブログに載せた。それが青いケシを見た最初の出来事だった。噂には聞いていたものの、あまりの衝撃に声も出なかった。今回は2度目。何とかそれを題材にして句が詠めないか。暫し悪戦苦闘した私だった。 ヒマラヤの芥子の青きと出逢ふかな ヒマラヤの峠幾度翠き芥子 *いくたび *あおき チェリセージ 梅雨半ばカモメさながらチェリセージ アジサイ アジサイには「七変化」とか「四葩」(よひら)と言う呼び名がある。いずれも俳句の世界でのことだ。だが私はそんな気障(きざ)な言葉は使いたくない。「言葉」も当然大事だが、一番は内容だ。そこで「紫陽花」と言うありきたりの呼び名を使うことにした。 紫陽花の夢の通い路巨星墜つ *おつ *「巨星」は志村けんさん 紫陽花の変はりゆく彩数えけり *いろ 紫陽花や新聞すべて読み終へし ヒナゲシ ヒナゲシ(雛罌粟)は夏の季語で、虞美人草(ギビジンソウ)の別名がある。こちらも夏の季語。虞美人は中国の希代の英雄項羽の愛妾で美人の誉れ高かった。略して虞姫(ぐき)。 雛罌粟や田の水嵩もほど良くて *きずかさ 陽は昇り虞美人草の萎れけり *しおれ ハマナス 浜茄子や虞姫の裳裾もかくあらむ *ハマナス *ぐき *もすそ 浜茄子や美しき女みな逝きぬ *ひと ハマナスは夏の季語。海岸などに咲くバラ科の植物で、秋に赤い実が生りそれが「梨}に似ていることから、浜梨としたがそれが訛って「ハマナス」となった由。 バラ 薔薇散りて閑けさ戻る垣根かな 薔薇(バラ)は夏の季語。他の季節にも咲くため、秋の薔薇とか、冬薔薇(ふゆそうび)とか言い方を変えると、その季節の季語となる。 テッセン テッセンは蔓が鉄線のように見えたことからの命名。鉄線、鉄線花は夏の季語。鉄線の改良品種であるクレマチスも夏の季語になっている。私はカタカナを使わず敢えて漢字にして詠んだ。 鉄線花母の形見の博多帯 鉄線や躾厳しき祖母の貌 *しつけ *かお 鉄線や逝きたる祖母の佇まひ *ゆき *たたずまい 鉄線花祖母の形見の紺絣 *こんがすり 俳句に詠まれたことが全て真実とは限らない。句に託して物語を作る、つまりストーリー性を持たせるのも「あり」で。芭蕉はその天才でもあった。それが俳句文学とも言えようか。ただし、正岡子規は徹底した写生を重んじ、そのホトトギス派の主張がその後の俳壇の主流となった。ただし今日では現代俳句や時事俳句など、表現の幅が広がっている。 擬宝珠(ギボシ)の花 生真面目な故人なりしか花擬宝珠 ギボシの花はあまり面白みを感じない。地味で目立たない花だ。まるでその花のような生き方をした故人だったのだろうか。そんな気持ちを句にした。なお、「擬宝珠」とだけだと橋の欄干の「飾り」と間違える。そこで俳句の世界では「花」を頭につけて「花擬宝珠」とする。間違い安い花の名にも通用する約束事だ。例えば「花八手」これはヤツデの花。「八手」のままだと農作業などで使う道具。 タチアオイ(立葵) 立葵怒りをいかに鎮むべき *しずむ=鎮める 黄昏て母の呼ぶ聲立葵 *こえ *たそがれ <ノウゼンカズラ(凌霄花)> 咲いて落ち落ちては咲ける凌霄花 *のうぜんか 凌霄花終戦遠のく令和かな 凌霄花戦後遠のく令和の代 サルスベリ(百日紅) 百日紅終日妹背負ひけり *ひねもす=一日中 *せおい 背負ひたる妹重し百日紅 背負ひたる子の憎らしさ百日紅 ノウゼンカズ(凌霄花)、タチアオイ(立葵)、サルスベリ(百日紅)のいずれも盛夏の頃の代表的な花で、夏の季語である。稚拙な実験俳句に最後までお付き合いいただきどうもありがとうございました。<シリーズ続く>
2020.06.28
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~マックス爺の俳句論~ 俳句を詠むと言う行為は芸術活動、つまり創造だ。自由で柔軟な発想が必要とされるように思う。空にはばたく鳥のように、自由な心で「ことば」を紡げたらどれだけ気持ち良いことか。自由自在に言葉を選び、それを組み合わせて一つの作品を生み出す。純粋かつ無限の行為のように思える。 その一方、自分を縛る何者かが存在する。俳句は十七音で構成される「世界で最も短い詩」。それだけに幾つかの約束事がある。曰く「季語」。曰く「切れ字」。曰く「古語」かつ文語体での表現。季語も切れ字も一つであることが原則。そして「上五」、「中七」、「下五」で構成され、その内容にも若干の約束事がある。面倒と言えば極めて面倒な文学なのだ。 俳句教室に通い出してから今年で3年目。講師からは俳句の歴史や約束事や常識めいたことを何度も聞いた。それで理解した積りになっても、俳句は奥の深い文学で、十七音(17文字ではない)と短いながら、「余韻」を重視する文学でもある。だから理解しがたい部分があるのも確か。それは日本の四季の移ろいであり、日本語の美しさと「言霊」の神秘性とも言えようか。 受講生は年配者が多く、中には80歳を超えた人もいる。人生経験はきっと講師にひけを取らないだろう。それなりに自分の俳句論を持ち、一家言もある。講師は地方紙の俳句欄に載る作品が詠めるように指導したいと言うが、私にはまったくその気はない。地方紙に載ることにさほどの意義を見いだせず、それよりも自分が納得出来る作品が詠めたら満足だ。最近の習作を以下に載せたい。 笹舟や白雨峰より荒磯へと *はくう=夕立 *ありそ=岩場の多い海岸 笹舟を海まで流す白雨かな 夕立風蔵王見へざる侘び住まひ *ゆだちかぜ *わびずまい 寓居あり蔵王隠しし夕立風 *ぐうきょ=仮住まい 夕立風たちまち蔵王隠れけり それらの作品は言って見れば虚構で、実体験ではない。笹舟、白雨、荒磯、夕立風、蔵王、寓居などいわば「絵」になる言葉を「見繕って」選び、それらを17音に入れ込んだに過ぎない。多分講師の「受け」は良いかも知れないが、自分としては大いに不満足なのである。本当にこんな句が、自分が詠みたい句なのか。自分が理想とする句なのかと悩みは尽きない。そこで「反逆の」の句lを詠んだ。 反逆の狼煙密かに卯月尽 *のろし *ひそか *うづきじん=旧6月の末 反逆の十七音や卯月尽 *じゅうしちおん=俳句のこと 焦げ飯も馳走となさむ土用入り いわば講師が理想とする俳句への反逆である。美しいばかりが俳句なのかと言う本音を詠んだ。焦げ飯の句はむしろ川柳に近く、人の行為の滑稽味を詠んだもの。無論これが自分の理想形ではなく、「こんなのも面白いんじゃないの」と言う感じだ。この後も幾つか俳句を詠み、その中から提出句を吟味したい。願わくば無心になって私なりの秀句が詠めるのを期待している。
2020.06.25
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<立夏を過ぎて> 柿若葉疫病の世なれども *はやりやまい 隠元の双葉出でけり聖五月 *せいごがつ 麗しき人去りゆきて夏立ちぬ *うるわし 芍薬の夢破りけり通り雨 不器用に生きて胡桃の花眺む *クルミ せせらぎに胡桃の花や一日過ぐ *ひとひ 往き往けど青葉繁れる陸奥の山 *むつ 老鶯の一山すべて独占す *ろうおう *いちざん 苧環の舞ひ閑まりて朝の径 *おだまき *みち 苧環やしんと静もる路地の家 山藤や駆けゆくわれの前後 *まえうしろ 巨星二つまたたく天も卯月かな *うづき <上溝桜 うわみずざくら> 石女に上溝桜ひそとして *うまずめ 酒蒸しにして喰ふ夜の鬼浅利 *さかむし <平山郁夫 仏教伝来図> 月明や仏教東漸絹の道 *げつめい 月清し砂漠越へゆく主従かな 月清し仏典絹の道を往く 月明や仏典駱駝の背に揺られ *ラクダ 月明や仏舎利駱駝と共に往く *ぶっしゃり=仏陀の遺骨 仏舎利や砂漠の上に月一つ 昨年の秋、私は 月明やあくまで皓き釈迦の骨 を提出した。高野山の塔頭の一つである普賢院で観た仏舎利の神々しさに感激した時のことを思い出しての句で、平山郁夫画伯の絵「仏教伝来図」も頭の中にあった。 だが講師は「あくまで」も「皓き」(しろき)も良くないと言って 月明や豆粒ほどの釈迦の骨と直した。俳句には副詞も形容詞も使うべきではないと言うのが彼の持論。それは分かるし、きっとそうだのだろう。だが「豆粒」では仏舎利の清らかさも月明も生かせないと私は感じていた。 あの時の悔しがまだ残っている。つい最近も夜中に起きて上の幾つかの句を詠んだ。言葉に対する思いや、イメージは尽きない。そこに文学の原点があると私は思うのだ。もう夜も更けた。だが創作には完成がない。(予約機能を用いて1週間前に投稿し、その後も修正)
2020.05.21
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コロナ騒動渦中の句 柿若葉身過ぎ世過ぎの是非もなく 柿若葉は夏の季語。「身過ぎ世過ぎ」は生活とか生業(なりわい)、日々の暮らしの意味。 わが家の裏庭に通じる狭い通路に、柿の木が植えられている。もちろん植えたのは私。日当たりが悪いせいか、それとも土の成分が悪いのか、2年連続で若木のうちに枯れ、これは3代目で植えてから3年目。植えた年に実が1個だけ生り、昨年は2個生っていずれも干し柿にした。今年はどうかと心配したが、無事に冬を越して若葉が出始めた。だが、枯れたような枝が何本もある。まあ部分的にでも生きていたら、そのうち勢いを取り戻すのではないか。ぜひそうあって欲しいと私は願っているのだが。 菫草世は疫病に慄きて 菫草(すみれぐさ)が春の季語。紫色のタチツボスミレは花期が終わったが、この白花のスミレは幾つかの群落を作って、まだ元気に咲いている。慄きは「おののき」と読む。怖がってうろたえる意味。世は新型コロナウイルス感染症に怖れ慄き、世界でも相当の死者を出した。だが自然界のスミレはまるで無関係であるかのように、これまで同様静かに咲いている。 日は落ちて通草の花の翳りけり 通草(あけび=木通とも書く)の花が春の季語。春の日も夕方が近づき、生垣で咲いているアケビの花も翳(かげ)って来た。ただそれだけの句。このアケビはご近所さんの庭に植えられていて、ちょうど今ごろは地味な花を咲かせている。この隣にはキウイの樹があって白い花を咲かせ、秋には棚全体にキウイの実が鈴生りになる。それは壮観な眺めで、収穫時には羨ましいとも思う。 花蘇芳しんと静もる路地の庭 花蘇芳(ハナズオウ)が春の季語。静もるは静まると同義で、明治時代の造語。このハナズオウはわが家の西側の通路にあり、ちょうど今頃に白い花を咲かせる。だがこの木を植えた覚えはなく、元々は裏庭の東側で突然芽を吹き、あれよあれよという間に背が伸びた。1mほどになった時に掘り上げて現在地に移植した。恐らくは鳥の糞に混じっていた種が発芽したのだろうが、私にとっては嬉しいプレゼントだ。 梅の実の触れなば落ちむ風情かな 梅の実が夏の季語。わが家の庭の豊後梅が散って、今その後に小さな梅の実が見えている。これはズームしたため大きく見えるが、実物はとても小さくてまだ弱弱しい。恐らく触れればポロっと落ちてしまうほど頼りない存在だ。それが梅雨の頃にはとても大きくて見事な青梅に変身する。それを2年前に 青梅の玉にも優る命かな と詠んで俳句教室に出したら、講師が「玉」(ぎょく)は大げさだろうと言う。「ぎょく」は中国の歴代皇帝が愛した宝石で、中国人にとっては権威の象徴として貴ぶ。私は青梅の見事な翡翠色に生命力を感じてそう詠んだのだが、感性の違いは如何ともし難い。その1年後台湾旅行ではたくさんの玉に接したが、青梅の生命力と美しさに対する思いは今も変わらない。 夕風に身じろぎもせずトマトの葉 トマトが夏の季語。植えたばかりのトマトの苗に、小さな支柱を施した。まだ弱弱しく、強い風でもふけば葉が折れたり、幹がこすれて傷んだりするのを助けるためだ。「身じろぎもせず」と詠んだが、別な表現も出来るだろう。俳句とは何か。色んな考え方があるだろうが、私は「十七音で表現する小さな自然」と言いたい。都会で自然に接するのはなかなか難しいが、案外身近にあるのだが気づかないだけかも知れない。 庭の花を撮影中に、ピンク色の花を見つけた。近づくとツリガネスイセン。紫色の群落は幾つもあるのだが、ピンク色のを観たのはこれが初めて。こんな狭い庭でもそんなことが起きるのだから面白い。コロナ禍で心が沈みがちな毎日だが、たまには意識を俳句にも向けないとね。でも折角詠んだ句をなかなか清書しないのが私の欠点。ブログに載せて、それでもう清書したような気になっているのだ。 昨日書いた連絡先は「ここへ」と言うのは、「昨日の日記に」と言う意味だったのですが、気づかなかった方のためにもう一度だけ わたしのメールアドレス
2020.05.02
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<自学自習> 3月の俳句教室も自信作を3本揃えて、手ぐすねひいて待っていた。そして来年度の俳句教室への受講申し込みも済ませた。自分では万全の準備をした。Kさんには、「これから毎月トリを取ると宣言し、それなりの自信もあった。講師の説く俳句の神髄が、何となく理解出来ていた。季語や切れ字の重要性、韻文、古語、「一句仕立て」でなく、「取り合わせ」、文学性などなどについての認識が深まった。 だが、好事魔多しとはこのことか。3月に入ったある日、俳句教室の会場である老人センターから電話が来た、何と例のコロナウイルス感染症騒動で3月の俳句教室は休止し、4月の開催も市当局からの通知次第で、開催開始日が決定するまでは不明とのこと。ガ~ンだ。 山鳩の番の聲や春障子 *つがい *こえ 障子は冬の季語だが、「春」を付ければ春に変わる。わが家の庭には良く山鳩が遊びに来る。それも夫婦の番2羽の姿をガラス窓越しに確認していた。だが障子越しでも、鳴き声でやって来たのが分かる。彼らは庭や畑で食べ物を探すために来る。障子越しに山鳩の気配を感じられるとは、何と贅沢な環境だろう。そして張り替えた障子のなんと清々しいことか。 だが憎たらしい野鳥がヒヨドリ。鳥へんに卑しいと書くヒヨドリは何でも食べる。特に冬の食べ物が乏しい期間は、畑のブロッコリーなどの葉っぱなどは彼らに食いちぎられて無残な姿になる。先日、花壇のチューリップの葉が変な形だと良く見たら、食われた痕が。やはりヒヨドリの仕業。コンチクショーと叫びたくなるほど悔しい。 3月の兼題は「初桜」(はつざくら)だった。その年に咲く最初の桜と言う意味で、春に先駆けて咲く桜。暖冬だった今年はかなり早めで、季語としても実感としても違和感はなかった。それをどう「取り合わせ」るかが問題と私は考え、次の一句を得た。 妻に似し老女をりけり初桜 認知症になった前妻が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラして花見をするイメージだった。 二句目は 独り身の夜の長さや猫の恋 季語は猫の恋で「春」。独り者の男がなかなか寝付かれないでいるのに、今が恋の季節真っ最中のネコだけが夜もすがら一晩中、ニャーゴニャーゴとかまびすしいと言った滑稽な状況を詠んだ。 ほかに 声ばかりにて夜は更けぬ猫の恋 精も根も尽きたる頃や弥生尽(やよいじん) 年度末で草臥れ果てた男の姿が浮かび上がる。 筑波山 遠白き筑波嶺(つくばね)何処(いず)や春霞 遠白き(とおじろき)は遥かに雄大であると言う意味の古語で、上皇后さまが好んで和歌に用いる言葉と聞いたため、これを用いて句を詠んだ次第。 なお筑波嶺を詠んだ万葉の歌に次のものがある。 つくばねの嶺より落つる男女の川(みなのかわ)恋ぞ積りて淵となりぬる 筑波山は古来より年に一度だけ自由恋愛が許される日があったことで有名。上記の和歌は、その様を詠ったもの。男女の川は、江戸時代の有名な力士のしこ名にもなった。 俳句はそれなりに詠め、数もまあまあ作れて楽しい。だが清書してノートに書き写す暇がない。断捨離のためでも、ブログのせいでもある。何かを取れば何かが落ちこぼれ、すべてが上手く行くとは限らない。私の自由になる時間にも限度がある。(完) 明日からいよいよ「大連紀行」が始まる。準備は十分ではないが、既に何回分を予約した。満足出来る紀行文を書きたいのだが、構想を練る暇がない。だが、何でもありのスタイルも良いかもと思い直した。あまり構えず、その時の「ひらめき」に任せよう。とも角システムがスイスイ「動く」うちに、1枚でも多く写真を載せるのを優先させたい。
2020.03.23
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<俳句教室にもコロナの騒動の影響が> 2月の俳句教室はKちゃんが集金に来る日だったので慌てた。 彼女がギリギリで来たこともあって、眼鏡を家に忘れて困った。手元は見えるが黒板に書かれた字が見えない。それで隣のKさんに聞いて、何とか最後まで頑張った。 次の試練は句友の作品の講評を講師に指名されたこと。 太古よりウイルスが降り春の雪 この句友は講師が嫌いな「現代俳句」を詠み、講師が嫌いなカタカナも平気で使う。こんな時は力量が試されていると考えて、思ったことを言った方が良いのだ。「この句は時間軸と空間軸が雄大で、到底凡人には評価不可能な表現能力を有しています」。それで逃げ切った。 次は自分の句の自評。私の提出句がこの日の「トリ」になった。 春風を拒みて立つや屏風岳 春が近づいて海からの春風(しゅんぷう)が吹いて来る季節だが、南蔵王に聳え立つ屏風岳は、文字通りその南風・春風を拒むかのように屹立している。今蔵王連峰では、春と冬がせめぎ合ってる真っ最中。春風は「はるかぜ」ではなく虚子が詠んだ「春風や闘志抱きて丘に立つ」のとおり、ここは「しゅんぷう」と読ませたい。それで講師はグーの音も出なかったようだ。 次は兼題(宿題)の「立春」を詠んだ句の出番。 私は 春立ちて吾妹の声も若やぎぬ を出した。 吾妹は「わぎも」と読み、妻を意味する古語。古代の皇族や貴族の場合、腹違いの妹を妻とすることが公式に許されていた。それで「わがいもうと」が短絡して「わぎも」となった。古語の使用も講師の心証を良くしたようだが、彼は兼題の「立春」を用いず 菜の花や吾妹の声の若やぎて とした方がより文学的と言いたかったのだろう。それ以上抗う必要はなく、「ああそうですか」と引き下がった。だが本心は立春が兼題なのになあと。 私がこの日提出した3番目の句は 愛憎を八つ裂きにして風光る 「風光る」が春の季語。長らく生活を共にした夫婦の愛憎劇をテーマにした。どんなに夫婦の仲が悪かろうが、季節はお構いなしに訪れる。そんな心境だ。<続く>
2020.03.22
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<1月の兼題=小正月> 去年今年女気のなき小正月 *こぞことし 小正月シンビジウムの花芽かな 酒も尽き餅も尽きたり小正月 小正月身の置きどころなき齢かな *よわい 鋳潰して捨ててしまおか除夜の鐘 *いつぶし 小正月三途の川の近くなり *さんずのかわ 小正月会津の人の無口なる 餅玉の軒下にあり宿場町 *もちだま 餅玉は高く碧空なほ高く *あをぞら なまはげの臭き息して眠りをり 臭き息吐きてなまはげ眠りゐる なまはげの酔ひ潰れけり村外れ *よいつぶれ 子の年の走り始めよ蒼き空 *ねのとし *あおき めでたさよ新年会のラン仲間 ネット上の門脇麦さん <嫁取り作戦に夢中になっているころに詠める> 唐突に君を抱けば春の雷 *らい 桃の花湯浴み終へたる肢体かな *ゆあみ *したい 褥にて微笑む妻や春憂ひ *しとね=夜具 *はるうれい 逃げる妻をバックハグする猫の恋 君の名も知らずに春を迎へけり やはらかき母の乳房を知らぬまま育ちし吾も七十代半ば 寒牡丹 寒牡丹漢検受験の君に笑む (何十回目の漢検受験に向けて目下猛勉強中の札幌のブログ友たくちゃんさんに捧ぐ) 皆さん今日は~!!昨夜無事中国から帰国しました(多分)。何せこの記事は予約機能を用い、かなり前に書いていますので。不悪(あしからず)。どうぞまたよろしくね。
2020.01.14
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年越や明日は骸となりとても *むくろ 年越や一番風呂の父の歌 年越や一番風呂の亜炭の香 *あたん 凍星や特攻隊のなれの果て *いてぼし 年越や帰省せし子の背の高さ 年越や帰省せし子の標準語 年越や厨の寡魚を炊く *くりや *やもめ 嬰児も泣き疲れけり夜半の月 *みどりご *よわ 妹の泣き泣き寝し虎落笛 *いねし *もがりぶえ 枯れ菊や昔語りの祖母の声 凍星や昔語りの祖母と孫 いてぼし 年越や塒へ帰る鳥の群 *ねぐら 冬ざれや馬のいななきわらの尿 *しと 凍星や曲家の馬尿の音 *いてぼし *まがりや *しと いななきや湯気立ち上るわらの尿 *しと 冬ざれや鼻うごめかし馬の尿 しと 人波や市場へ急ぐ大晦日 この年も俳句作りて終はりけり では皆様もどうぞ良いお年をお迎えくださいね。そして来年もどうぞよろしく。
2019.12.31
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~ヘボ俳句との付き合い~ 通っている俳句教室の10月の兼題(宿題のテーマ)は「10月や」。そして11月の兼題は「初冬や」と「立冬や」。いずれも季語だが、宿題を出されたのは自分にとって初の経験だった。悪戦苦闘しながら作句に挑戦したのだが、その全容を載せるのが今回の趣旨。それ以外に詠んだ句なども若干交えたのでご笑覧あれ。 歳時記に触れずに秋の一句かな 十月や句評厳しき師の眼 *まなこ 〇十月や峠の下に城下町 ⇒ 十月や山の麓に城下町 と修正さる 十月や峠より見る城下町 十月や山の端遥か田舎道 *やまのは 十月や山の端翳りゆくばかり *かげり 十月や川は光りて海に入る *いる 十月や雲映しつつ川流る 十月や野の草揺らし風の過ぐ *すぐ 十月や揺れつつ草の実を結ぶ 十月や山は憂ひを秘めしごと 十月や郷愁はいま野に満ちて 十月や悔恨空を彷徨へる *さまよう 十月や未だ黙すること多し 十月や祷は悔恨と共にあり *いのり 十月や懺悔と祈り交錯す *ざんげ 十月や懺悔は潮の満つるごと 十月や憂ひ果てなき風の丘 十月や山は哀しみ語るごと 十月や日は落ち鳥は塒へと *ねぐら 十月や塒は鎮守の森ならむ *とや=鳥のねぐら 十月や泣きて寝転ぶ風の丘 十月や泣き伏した日よ風の丘 十月や狂ひしままのハーモニカ 十月や酒の肴はなけれども *さかな 〇十月や粗酒粗肴とふ通夜の膳 *そしゅそこう 十月や従兄弟集ひし通夜の膳 *いとこ 〇は10月の提出句 初冬や夕餉支度の独り者 *ゆうげ 初冬や眩暈こらへて丘に立つ *めまい 初冬や会津の人の無口なる △初冬や濠に小波三の丸 *ほり *さざなみ 初冬や人影もなき三の丸 立冬や尾灯遠のく最終便 立冬や天の一角隅櫓 *すみやぐら 立冬や坂を登れば隅櫓 立冬や会津の人は寡黙にて △立冬や新聞を読む父の背 *せな 立冬や天地の音絶へしごと *あめつち 立冬や街に子供の姿なく △初冬や句評鋭き師の眼 *まなこ 新旧の暦に惑ふ十九社 *十九社は全国から集う神が泊る出雲大社の摂社 △は11月の提出予定句
2019.11.21
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~提出までの過程は~ 名月も女気もなき苫屋かな *とまや=ぼろ家 女気も名月もなく経る齢 *ふる=年月が経つ *よわい=年齢 女気の絶へたる家や虫の聲 *こえ 赤まんまハモニカ半音狂ひけり *あかまんま=イヌタデの別称 赤まんま狂ひしままのハーモニカ 赤まんま母知らぬ児の戦後かな 秋天や狂ふハモニカわれもまた 秋天や狂ひしままのハーモニカ 秋桜や狂ひしままのハーモニカ *コスモス 老ひを知ることの増へたり凌霄花 *のうぜんか=ノウゼンカズラ 浜木綿や歳月人を待たねども *ハマユウ △探査機の使命遥けき無月かな *むげつ=曇天などで見えない状態の十五夜 <小惑星リュウグウで活躍中の「はやぶさ2」をテーマに> 苦瓜を食ひつくしたる欠伸かな *にがうり=ゴーヤ *あくび 苦瓜も食ひ尽くしけり大欠伸 大欠伸苦瓜つひに喰ひ尽くす 行く雲や秋明菊は揺るるまま *シュウメイギク 行く雲や敬老の日の祷かな *いのり 揺るるまま秋明菊の孤独かな 孤独なり揺るる秋明菊もまた 悔恨はあまたありけり彼岸花 彼岸花悔恨を捨て風に立つ 秋遍路地図になき橋渡りけり *あきへんろ 〇誰そ彼の野辺の小橋や秋遍路 *たそがれ 歳時記も読まずに秋の一句かな 秋の季語記せしままの余白かな 行く雲や硬さ増しゆく秋茄子 *あきなすび 珍しく時事俳句△を詠んだが、講師は時事俳句を好まない。結局〇の句を提出した。その講評だが、「誰そ彼」を「黄昏」に置き換えたら100点満点だったとか。来月は「十月や」が兼題(宿題)として出され、1人3句の提出となった。いずれも初めての試み。帰宅後から翌日にかけて、25句ほどを詠む。難しかったが案外面白い。来月の俳句教室が楽しみだ。
2019.09.24
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~最近の習作と俳句教室~ 姫女苑たそがれ迫る通学路 *ヒメジョオン 黒南風や眩暈に耐へてあらを炊く *くろはえ *めまい *たく 朝風やカサブランカに翳りあり *かげり 天然アユ 鮎喰らふ寡の天下取りしごと *やもめ 夕風やとにもかくにも鮎を焼く 来る人の無き夕暮や鮎を焼く 風止みて夕餉の鮎を焼く寡 *ゆうげ 私が買った鮎は当然天然ものではなく、徳島県で生産した養殖鮎。それも売れ残った見切り品で、半額だった。だから天然鮎特有の良い香りなどはせず、ぬめりもあった。それを水で洗い流し、塩を振って焼いた。七輪のような風情があるものではなく、IHの魚焼き器。それでも独り者の男にとっては十分に美味しいと感じ、幾つかの作句を試みたのだった。 スダチ 鮎を焼く寡に風の止まりけり 鮎焼ける寡夕風も止まりけり 鮎焼きし寡夕風の止まりけり 鮎を焼く夕の風の止まりけり *ゆうべ 夕風や鮎俎に化粧塩 *まないた *けしょうじお 夕風や俎上の鮎に化粧塩 *そじょう 夕風や焼けたる鮎の化粧塩 夕風や鮎の勢ひ化粧塩 〇夕風や鮎に勢ひ化粧塩 8月の俳句教室は15日(木)。お盆のせいか出席者はわずか8名。私は〇の句を提出し、句の背景を説明。ようやく俳句らしくなったと講師の評。だが「夕風や鮎に施す化粧塩」の方が良いと一言。そうか、そんな単純な言葉でも良いのか。私は常日頃感じていたことを質問し、時間が余らずに済んだ。俳句の基本とは何かを、改めて認識させられた一日だった。いつまでも素人のままの私だ。
2019.08.20
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~6月の習作 その2~ 青梅を漬けて眺むる庭の石 梅漬けや米研ぎ魚のあらを炊く *とぎ *たく 昨日は俳句教室講師が唱える俳句論を紹介した。カタカナ語は俳句に不向きなどと言う考え方については異論がある。俳句もかつての古典的な考え方から、現代人の感覚にマッチしたものへと変貌していると感じるからだ。だが文学と古典を愛してあまりあるこの講師は、自らの考えを変える気持ちはないようだ。それはとも角、学んだことを頭に入れながら詠み、かつ過去の作品をも見直した。 なまはげも酔い潰れけり石地蔵 石地蔵なまはげつひに酔ひ潰る *つぶる=潰れるの古語 酔ひ潰るなまはげもゐて道祖神 時鳥星の無き夜はなほさらに *ホトトギス 時鳥生あるものの定めとて 時鳥心の闇の深さかな 時鳥闇夜はまさに地獄なり わが父は道化なりしか濃紫陽花 *こあじさい あぢさゐや寡の恋の無残なる *やもめ 時鳥友の病は癒へたるか 病てふ友は癒へしや濃紫陽花 *ちょう=と言う 昨日台湾ツアーから無事帰宅しました。留守中大変お世話になりましたね。心から感謝申し上げます。さて、荷物の片付け、留守中の始末、大量の洗濯ものなどでなかなか旅行中の写真の整理が手に着きません。当分の間、旅行前の予約記事でお付き合いいただけたら幸いです。
2019.07.05
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~苦戦する俳句初心者~ 令和元年6月20日。第3木曜日は区の老人施設が主催する「俳句教室」の定例日。この日も勇んで会場へ行くと、受付に見知らぬ婦人が座っていた。「ああこれは先生の奥様だな」。その直感は当たった。それに先生が既に到着し、講師席に着座していた。今日は都合により2人で来られた由。そして奥様もかつてこの「俳句教室」で講師をされていたのだとか。私は優しそうな奥様の講師の方が良いけどね。 受講生の出足が鈍いと感じたのか、いきなり「俳句論」をぶち上げた講師。それは私たちが早く俳句の本質を知り、技術が向上して欲しいとの願いからであるのは間違いない。理解が乏しい頭で、その言葉をノートに記して行く。どれも講師がいつも口にしている事項ばかりなのだが、いざ改まって聞くと、どれも大切なことだとも思える。なぜならそれはこれまで俳句に関わって来た彼の結論でもあるからだ。 1)固有名詞の使用は避ける。 *素人はついそれに頼りがちなのかも知れない。固有名詞を出さなくても良い俳句を作るべし。2)形容詞、副詞は用いない。 *素人はつい「大きい」「白い」「こんもり」「ゆったり」などの語を使いたくなりがちだ。3)季語を「説明」しない。 *素人は季語を修飾してしまいがちで、俳句の「切れ」を悪くしがちと言うのだが。私もこの指摘の傾向にある。4)カタカナは用いない。 *これは同人によって考え方が異なる。ただし季語となった名詞などを除く。 5)「ポーズ」は不要。 *どういう意味かまだ理解出来ないが、無駄な修飾や形容は不要で本質に迫れと言う意味か。6)勝手な「ルビ」を振らないこと。 *歌謡曲の歌詞に見られる「造語」は、俳句として成立しないと考えること。7)「て」、「で」は散文的にになるため使用しない。 *俳句はあくまで「韻文の文学」。散文的な句を許す派もあるが、講師はこの考えは取らない。8)「中七」は「上五」や「下五」の句をつなぐ役割を持つ。 *それぞれが全くバラバラになっては句が成立しなくなる。 9)「字余り」は上五は〇、中七は▲、下五は✖と心得よ。 *字余りを用いることが出来る場所にはほぼ約束事がある。10)俳句に関する知識を重ねるより、実作を重んじること。 *俳句は単なる知識の集大成ではない。数を作ることで俳句の本質により近づく大切さを学ぶ。11)子ら(こら)のような言葉は美しくないと考え、俳句には用いないようにする。 *その感覚が私にはまだ理解出来ない。17音(17文字ではない)の限られた中で、どんな言葉を使って自分の意思を表現するのか。しかも俳句は韻文の世界にある。 数日後、私はネットで「切れ字」を検索した。講師が「切れ字18」と話していたからだ。俳句の中で「季語」と同じくらい重要なのが切れ字。この俳句の「切れ」と言う感覚が未だに良く理解出来ない。俳句の出来を左右する「切れ」とは一体何なのだろう。17音の「世界一短い文学」を左右する「切れ」が分かれば、少しは俳句の上達につながるのかも。以下は18の「切れ字」。 1)「や」 ・・や 10)「か」 助詞 2)「り」 追えり 11)「よ」 3)「かな」 12)「ぞ」 強調4)「けり」 詠嘆および言い切った形 13)「つ」5)「す」 14)「せ」6)「もがな」 ・・もまた 15)「ず」 ・・しない7)「し」 形容詞終止形の語尾 16)「れ」 8)「じ」 ・・しない 17)「へ」 動詞命令形語尾9)「らん」 助動詞終止形 18)「け」 このほかに「なり」も切れ字の一つとネットにはあった。何と難しいのだろう。再掲しては見たものの、まるでチンプンカンプン。きっとその「語だけ」を考えるのではなく、多くの句を読むうちに自然と理解出来る性質なのろう。韻文の「感じ」は分かっても、日本語の古語や文法を知らず、「古語の文法」ともなればなおさらだ。 この日の話で、俳句教室への提出句は毎回各自1句までとなった。受講生が減って時間が出来たと考え、最近私は2句提出していたのだ。今回その1句を捨て「山鳩やトマトの脇芽摘みし朝」を読んだ。後ろから2番目。最近は大体こんな席次。講師の講評は特になく、先月欠席のKさんが「シンプルな句の方が却って詠むのは難しい」と評してくれた。その通りで、無駄な装飾もポーズもない句なのだ。 <付記> 連載中の「博物館シリーズ」に、「俳句論」を挿入しました。内容があまりにも専門的過ぎて、面白くなかったでしょうけど。まあ、たまに異質な世界も覗いてみてくださいませ。 台湾ツアーは第5日の最終日。この日は台北桃園空港から仙台空港へ直行便で帰国予定です。ただし写真の整理に時間がかかるため、博物館の話をもう少し予約してあります。最後までお付き合いいただけたら幸いです。
2019.07.04
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~梅雨時の花々と俳句~ <ブラックベリー> 木苺をふふめば雨の味がして 比田 誠子 *ふふむ=含むの古語 ブラックベリーをキイチゴの仲間と理解して 卯の花は日をもちながら曇りけり 千代女 山かけて卯の花咲きぬ須磨明石 支考 卯の花の絶え間たたかん闇の門 去来 写真はバイカウツギ(梅花空木)でしょうか。ウツギの別称は卯の花。夏の季語です。 紅うつぎ風移る間も紅たもつ 殿村莵絲子 写真はヒメウツギ(姫空木)でしょうか。ウツギと名が付いても科が違うことがあります。 谷ゆけば硫黄こぼるる花卯木 秋元不死男 写真はハコネウツギ(箱根空木)でしょうか。「卯木」をうつぎと読ませるようです。 薔薇垣の夜は星のみぞかがやける 山口誓子 夕風や白薔薇の花皆動く 正岡子規 花びらの薔薇のかたちを守りけり 辻美奈子 バラ(薔薇)には色んな品種があるのでしょうが、私はその多くを知りません。夏の季語です。 梅雨なかば名を忘れたる白き花 マックス爺 花の名前を良く忘れます。聞けば思い出すのでしょうが、なかなか覚えられなくなりました。 <キンギョソウ(金魚草)> いろいろな色に雨ふる金魚草 高田風人子 かな女忌の来る鉄線の濃紫 殿村莵絲子 鉄線の花の紫より暮るる 五十嵐 播水 鉄線花うしろを雨のはしりけり 大嶽青児 「鉄線花」と「カザグルマ」などを交配した園芸種がクレマチスですが、俳句では同じものとして扱っています。夏の季語。 <咲き終えたテッセン(鉄線)のヒゲ> てつせんの花てつせんに巻きつける 林 徹 <タチアオイ(立葵)> 立葵いま少年の姿して 岩田由美 立葵天香具山隠しけり 八木林之介 *あまのかぐやま=大和三山の一つ <ムラサキツユクサ(紫露草)> 露草の露千万の瞳かな 富安風生 便宜上自然種の露草の句を採りました。秋の季語です。
2019.06.24
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~梅雨時の花々と俳句~ <白のシャクナゲ(石楠花)> 石楠花や朝の大気は高嶺より 渡辺水巴 紫陽花の末一色となりにけり 一茶 紫陽花のあさぎのままの月夜かな 鈴木花衰 あぢさゐの藍をつくして了りけり 安住 敦 <アジサイの仲間> あぢさゐや軽く済ませる昼の蕎麦 石川桂郎 <カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)> あぢさゐの色をあつめて虚空とす 岡井省二 <サツキツツジ 五月躑躅の盆栽> 濡れわたりさつきの紅のしづもれる 桂 信子 満開のさつき水面に照るごとし 杉田久女 庭石を抱てさつきの盛りかな 嘯山 曇天に彩喪ひしさつきかな マックス爺 *いろうしない <ハナミズキ(花水木)> 一つづつ花の夜明けの花みづき 加藤楸邨 くれなゐの影淡くゆれ花水木 小島花枝 はなみずき=春の季語 <シラン(紫蘭)> 雨を見て眉重くゐる紫蘭かな 岡本 眸 <ホタルブクロ(蛍袋)> 山の雨蛍袋も少し濡れ 高田風人子 <カランコエ> カランコエ梅雨の歯医者の華やぎて マックス爺 新しくもたらされた園芸種の花たちに季語はないので、こんな風に詠んでみました。<続く>
2019.06.23
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~6月の習作から~ 雪形の雉子の垂り尾融けそめぬ *キジ *しだりお 雪形の雉子を仰ぎし牧場かな 百年を経し農場の薄暑かな *へし *はくしょ=初夏 畑の草刈り終へ軍手洗ひけり *はた 山鳩やトマトの脇芽摘み終へて 黎明や玉葱の茎折れ伏せぬ *れいめい=朝の光 *タマネギ 野茨の散り初む朝の畑に立つ *ノイバラ *ちりそむ 麦秋やまだ人恋ふる吾のゐて *ばくしゅう=麦が実る頃=初夏 未だなほ恋する吾ぞ麦の秋 恋一つ拾ひて侘し麦の秋 *わびし 人恋ふる寡笑ふか麦の秋 *やもめ わが恋の行方果てなき麦の秋 老ひらくの恋無残なり麦の秋 野茨の花ほろほろと顔洗ふ *ノイバラ 真夜に覚め鬱たる朝や銭葵 *まよ=深夜 *ゼニアオイ 銭葵眠れぬ夜の幾度か *いくたび 六月や友の病の癒へし時 *いえし ともかくも煎茶一服梅雨寒し *せんちゃ 梅雨寒や日は落ち道の遠きこと *つゆざむ 梅雨寒やアンテナで鳴く鴉二羽 梅雨寒や残り香恋し夢の女 *ひと
2019.06.13
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~日々是危機~ 清明や魂洗ふごとき雨 清明の雨は魂洗ふごと 蝶舞ひて天地返しの日和かな あめつちに一人ゐませる仏生会 *ぶっしょうえ あめつちに光あふれて仏生会 捨てられし名ぞシッタルダ誕生会 *たんじょうえ 仏生会酒呑童子の大いびき *しゅてんどうじ 大いびき酒呑童子の仏生会 清明の句が2句、天地返しが1句、花まつり(仏生会、誕生会)の句が5句。合計8句。恥ずかしながらこれらがこの一月に私が詠んだ俳句のすべて。言い訳はしない。そのうち冒頭の句を4月の俳句教室に出した。 教室に入ると隣のKさんが私に言った。「花が好きなようなので、今日は上げようと思って持って来た」と。これにはたまげた。私は逆に「歳時記」を彼に上げた。勉強熱心な彼がそれを持ってないことを知っていたのだ。私はコンパクト版があれば十分。彼の研究熱心さは、いつも隣に座って感じている。思わぬ物々交換になったが、それもまた縁。 ところが教室の様子がおかしい。彼は素早く言った。「前年度の女性が7名辞めた」と。名前も顔も良く覚えている彼は、新年度の名簿チェックも既に済ませていた。新規加入は男性1名、女性2名。合計で18名。去年のスタート時に比べたら火の消えたような寂しさだ。そこで私は言った。「人数が減った分、勉強が出来て良いかもよ」と。どうやらその言葉を講師が聞いていたようだ。 新年度の開講式のため、講師はいつもより早く着いていた。きっと7人も減って落胆したはずだ。新人がいるので、俳句論からの開始。その後、一人ずつ提出句を読む。句のレベルは去年よりかなり上がったが、講師の手加減なしの指摘は変わりなし。ある人の作品が変だと気づく。以前「プレバト」の句を丸写しした人。今回の作品も本人の技量とは似ても似つかぬ内容で、彼がそれに気づいているかどうか。 私の名前がいつまで経っても呼ばれない。そのうちに気分が悪くなり出した。頭が爆発しそうな予感。これはヤバイ。脳出血の前触れか。体調異変と不安に耐える。最後に名前が呼ばれ、私は何とか作品を読み上げた。講師曰く。「言葉の裏に何が隠れているのか」と。私は答えた。「一人者の後期高齢者が何とか冬を越して春を迎えた心境を素直に詠んだだけです」と。 前月の提出作品には、彼が知らなかった言葉があったのだろう。元ジャーナリストの彼はそれに驚き、今回はつい私の意図を探ったようだ。背景が分かったためか、作品を以下の通り添削。 清明や魂洗ふごとき雨 ⇒ 菜の花や御霊を洗うごとき雨 季語の「清明」と「洗ふ」のイメージがダブるため、全く雰囲気の異なる別の季語を入れ、自分の魂ではなく先祖の御霊とすれば地方紙の俳句欄に掲載されるだろうと宣う。ストーリー性を持たせ文学化する。すると「切れ」が良くなる由。講師は以前、そこに気づくまで30年近くかかったと話していた。 家についてビニール袋を開けると、kさんがくれた植木鉢がめちゃくちゃ状態。花の芽が吹っ飛んでいた。袋の中で倒れたせいだ。土を退けて観察するとまだ根付いておらず、植え直して如雨露で水やり。いかにも頼りない花芽だが、買えば1万円はする「エノモトチドリ」と言うランの一種とか。くわばらくわばら。不器用な爺が果たして無事に育てられるかどうか。 野菜苗への水やり、布団と洗濯物の取り込みと整理、台所に置きっ放しだった食器洗い。一通り作業を終えてようやく血圧を測る。頭痛も発作感もないのに、上が160、下が110と明らかな高血圧状態。明日は何を置いても病院へ行こう。そしてドクターに事情を話そう。後期高齢者用の保険証を初めて使う記念日。症状が軽いものであることを願う。そして「プレバト」を観よう。さて今夜はどうかな。
2019.04.21
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~花と俳句のものがたり~ 第3回の今回は、M公園の花と俳句を組み合わせました。最初は桜(エドヒガン)です。 花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉 青空や花は咲くことのみ思ひ 桂 信子 さくら満ち一片をだに放下せず 山口誓子 以下はカタクリ(片栗)の花です。古名は堅香子(かたかご)と言います。20年前は5月初旬に咲いていた花が、今年はそれより1か月も早くこの公園の林で咲き出しています。 山の湖かたくりも花濃かりけり 星野麦丘人 片栗の一つの花の花盛り 高野素十 かたくりは耳のうしろを見せる花 川崎展宏 片栗の花ある限り登るなり 八木沢高原 潮騒や片栗の花うすれゆき 村上しゅら もののふのやそをとめらが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花 大伴家持 かたくりの花の韋駄天走りかな 綾部仁喜 かたくりの葉にかたくりの花の影 西川章夫 かたかごの花の辺ことば惜しみけり 鍵和田柚子 どの花となくかたかごのかげりたる 深見けん二 かたかごが咲き山神は少彦 下田 稔 大伴家持の和歌を交えて何とか間に合いました。これからも花の情報は続きます。<完>
2019.04.10
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~わが貧しき句より~ 区の施設からハガキが届いた。来年度の「俳句教室」への応募の返事。何とか募集人数の中に潜り込めたようだ。これでまた1年間俳句を楽しむことが出来そうで嬉しい。以下は3月の教室へ提出した句。 奥つ城の六字名号加賀は春 奥つ城(おくつき)はお墓のこと。六字名号(ろくじみょうごう)は「南無阿弥陀仏」。私は石川県の地方に勤務したことがある。そこは昔から一向宗の強い土地柄で、今で言えば浄土真宗に当たる。何せ約1世紀ほどを一向宗徒の農民や野武士が加賀一国を支配した歴史があるほど。 単身赴任だった私は、毎日のように里へ下りて散歩した。コースの途中に広大な墓地がある。ずらりと並んだ墓石には「南無阿弥陀仏」の名号が彫られ、すべて西方浄土に向かっていた。信仰深い人々は、毎朝お墓に花を供える。一晩に60cmも雪が積もる土地柄でさすがに冬は寂しいが、春ともなれば庭の花を切り墓前に供える。その光景を思い出したのだ。以下は旅の思い出などを詠んだ。 風花や湯立て神事の夜は更けて なまはげの息白々と柴灯祭り *せど なまはげに似たる男や酒臭し 鬼打てる太鼓の音や山眠る 圧雪の道遥かなり柴灯祭り *あっせつ 餅花やあめっこ市の仮宮に *かりみや 凍て星に紙風船は吸はれけり *いてぼし かまくらや水神様の灯の揺るる 福寿草妹背契りし日のとおく *いもせをちぎる=結婚 蝋梅や老ひの歩みの覚束ず *ろうばい :おぼつかず 三月や去り行く友の低き聲 *こえ 妻去りて雛人形も見ざるまま 雛人形捨てて寡の夕餉かな *やもめ みちのくの土も吸はれぬ春嵐 *はるあらし 清明やたましひ洗うごとき雨 *せいめい 清明や父母遠き山の寺 *ちちはは てふてふや天地返しの土の色 *蝶々 春日や遊び疲れし子らの貌 *しゅんじつ *かお
2019.03.28
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~幻日環と現実感~ <幻日環> 雪まつり客賑はいし店の軒 賑はいし宿の軒端の氷柱かな *じゅく *つらら 大寒の野鳥畑の葉ついばめり 風花の舞ひ来る庭の雀かな 風花と日輪競ふ日のありぬ 日輪と風競ふとき山眠る 山眠り日輪と風競ひけり 風と日の競ひし季や山眠る 春立ちて野鳥集ひし畑の土 立春や日輪と風競ひつつ 日輪と風競いつつ山眠る 今回はあまり気乗りしないまま俳句教室を迎えた。新聞の俳句欄もほとんど読まず、提出すべき句も低調。理由の一つは季語と季節感の齟齬。俳句の世界では立春を過ぎれば春だが、現実に春めいたものは乏しい。北国ならばなおさらのことだ。 太陽が出ているのに、風に乗って雪が飛んで来る。「北風と太陽」みたいで面白いと感じ、もっぱらそれがテーマになった。教室には最後の句を出したが、講師には不評。文法的に変だと言うが、どう直すかは答えない。そして「競ふ」も好ましくないと言う。 旅行以外は家でじっとしていたこの冬。苦吟の原因だが、その分ブログで頑張ったと自負。サブタイトルと写真の「幻日環」(げんじつかん)は、「現実感」とかけて遊ばせてもらった。
2019.02.23
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~イメージと創作~ 俳句は単純なようで難解。わずか17音の中に自然観や独特の世界が展開し、厳しい約束事もある。また芭蕉につながる伝統を貴ぶ派もあれば、表現方法や詠む対象が異なる現代俳句もある。俳句作り1年生は、諸先輩の句を参考にしつつ頭をひねる日々だ。今日は空想の句を試みたい。 年の果狂女の旅のはるかなる 一人の女が家を出た。夫が他に女をこしらえ、自分の金を盗んだと家庭裁判所に調停を訴えた末のこと。その言を信じ、「あなたとは縁を切った」と父親に宣言した娘。娘は今、母親と新しい家に住み、やもめ男は2度目の暮れを迎えた。連絡もしない息子たちと老後の不安。そんな中でも男は、去った女の安否を思う。高齢化社会の日本では、これもさほど珍しくなくなった光景か。 筋塀や北山寺町しぐれ過ぐ 格式が高いお寺の塀に白線が入っていることは知っていたが、それを筋塀(すじべい)と呼ぶことは知らなった。そこで早速その言葉を使って俳句を詠んでみる。仙台で筋塀の寺と言えば、北山付近に何か所かあったはず。その光景を頭に思い浮かべつつ詠んだのが揚句。「時雨」(しぐれ)が冬の季語。実際に見た風景だと良いのだが、年寄りが冬出かけることは滅多にない。 雪おんな星ふる夜ぞ眠れかし 雪女は妖怪で実在のものではないため、句に取り上げない派もある由。もちろん私もまだ出会ったことはない。冬の夜、凍てつく寒さの中で「おいでおいで」と人を誘う雪女。だが暖冬続きの昨今では、あまり出番は多くなさそうだ。雪が降らず、星が美しい夜はせめて「仕事」を休み、ぐっすり眠ればと、お節介な爺さんは思うのだ。 冬ざれや縁切寺の塀の穴 「駆け込み寺」と言うのがある。別名「縁切寺」。住職は尼僧で、ここに逃げ込んだ女性は、一定期間後に世俗の婚姻関係が解消されたと言う。女性の人権が軽視された時代の特例だった。だが女を守るべき寺の塀にも穴が開いて、そこから世俗の風が入って来るという想定。人間は一人では生きて行けない動物。句はそれをユーモラスに描いて見たが、今や女性と靴下の強さは格別。時代は変わった。 鳴れよかし旗巻峠の虎落笛 虎落笛(もがりぶえ)は切った竹などに北風が当たって鳴り響く音で、冬の季語。旗巻(はたまき)峠は宮城県丸森町と福島県相馬市の境にある峠。「鳴れよかし」は鳴ってくださいほどの意味だが、「もがり=殯」には、死者を悼む意もある。私は現地を訪れたことはなく、これは想像上の句だ。 幕末、この地で官軍と仙台藩の戦いがあった。強力な官軍の大砲に対して、仙台藩の大砲は木製で弾丸は陶製。結果は火を見るよりも明らかで仙台藩は敗走。だが、討ち死にした薩摩の兵士の遺体をねんごろに葬ったと聞く。今でも虎落笛の嫋々たる音色が聞こえて来そうな峠道。今年はあたかも「戊辰戦争」から150年目。その後明治、大正、昭和、平成と続いた御代から、新たな時代を迎える今。
2018.12.29
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~最近の習作より~ 戌年のなほ咳はおさまらず *いぬどし *しわぶき 長らへて月冴へ冴へと黄泉の声 *よみ=あの世 野ざらしと見紛ふ今朝の雪の色 野ざらし=白骨 野ざらしの夢捨てかねて除夜の鐘 オリオン座句に呻吟し去年今年 *こぞ 冬ざれやいまだ闘志は失はず 冬ざれや闘志ひとつを友として 冬ざれややもめ温めし夢のあり 冬ざれや大長考の一手かな 鳥の影過りし庭や冬紅葉 *よぎり 庭石の静もりし日や藪柑子 *やぶこうじ 鳥の声居間で聞きゐる冬至かな 冬至かな書斎にとどく鳥の声 冬ざれや庭を過りし鳥の影 雪虫や息子に嫁の来ざるまま 雪虫や平成の御代終へむとす 雪虫や土寄せ終へて啜るお茶 *すする 雪虫や土寄せ終へしお茶の味 北国の雪にまみれし一日かな *ひとひ 今年から区の俳句教室に通ってヘボ俳句をひねっているど素人です。「歳時記」で時々季語を眺めたり、ブログ友さんの作品を参考にさせてもらっています。諸先輩、どうもありがとうございます。
2018.12.28
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~海と俳句~ <陸中海岸 三王岩にて> 暑中お見舞い申し上げます 8月に入った日、仙台はいきなり37.3度の猛暑となりました。これは新記録だそうです。大雨や猛暑続きのこの夏、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。暦の上では間もなく立秋を迎えますが、そんなのは言葉の上だけの話。実際は炎熱地獄ですものね。今日は少しでも「涼」を感じていただくために、先日行った陸中海岸の絶景に、私のヘボ俳句を添えました。きっと「ゾゾッ」とすること請け合いです。冒頭から暑苦しい顔が登場しましたが、平にご容赦を。<以下「三王岩」にて> 梅雨明けの海茫洋と眠りけり *ぼうよう 陸中の奇岩眼下に夏の海<浄土ヶ浜風景=美術品> 夏の陽や浄土ヶ浜も地獄絵に 雲の峰ウミネコいよよ高く飛ぶ<以下「鵜の巣断崖」にて> 断崖の果てはいずこと鵜の目かな 夢遥かまだ霧深き夏の海 夏霧の晴れて明るき岬かな<以下「北山崎海岸」にて> 公園の名に「復興」の文字ありて 三陸海岸静まり返る 潮騒の遥かに遠し夏の磯 夏の海荒波岩を穿ちけり *うがち <この項不定期に続く>
2018.08.03
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~7月の提出句にちなみ~ ボクの名が呼ばれた。「マックスさんはアメリカ人ですか」。センセイが尋ねる。「いいえ日本人です」。とボク。より「日本人」に近づくため、いつもは「真楠」と表記してるのを今月はわざわざ「眞楠」と旧字を使ったのだが。続いて提出句の読み上げ。 生かされて一日終へて冷奴 センセイが言う。「『生かされて』か。まるで修行僧ですね」。「ええそうなんです」。と平気で答えながらもボクは嬉しかった。少しでもセンセイの印象に残ればそれで良い。勿論センセイも「何か」を感じてるから、そんな「言葉アソビ」を楽しんでいるに違いない。「『て』が2つ続いてますね」。受講生の1人が言う。「ええ良いんです。わざとそうしたんです」とボクは返す。 「中七は『一日終へたる』にしましょう。一日は『ヒトヒ』で、辞書にもあります」。「実はそう詠んだのを変えたんです」。「いや、みんな後でそう言うんですよ」とセンセイ。変えたのはウソではなかった。実は7月の提出句は5度も清書し直した苦心の作。たかが「半丁」にも満たない木綿豆腐に、散々てこずった今月の課題作。そんな苦労を知ってるのは、この世にボクだけだ。 提出句の変遷はこうだ。 1) 冷奴けふもやうやく終はりけり 2) 冷奴やうやうけふも終はりけり 3) やうやくに一日終へたり冷奴 *ひとひ 4) 生かされて一日終へて冷奴 この他にも直した。だからもうボクのお腹は、きっと冷奴で満腹状態になっていたはずだ。 ヌサマイさんの中七は「とぎれとぎれの」を「何方よりか」に直された。ヌサマイさんとボクは思わず顔を見合わせて頷いた。なるほどこれは文学的。ヌサマイさんの素敵な山の歌が、こう直されて一層冴えた。 一方ボクの歌は説明的になり過ぎていたようだ。センセイによれば、初心者が陥り易い欠点とか。「二句一章」のように逆転の発想が俳句には必要の由。一瞬だが、どこか一皮剥けたような気になった。 4月5月とヌサマイさんの隣に座ったボクが先月別な席に座ったのは、ヌサマイさんの指に光るものを見つけたため。左手の薬指。もうガッカリして力が抜けた。そうだったのか。当然ながらそれもあるよね。でも今月は勇気を奮ってヌサマイさんにあることを尋ねた。答えは意外な内容。人生とはまさに不可思議。彼女の知性と人柄は俳句にも良く表れて話も楽しく、ボクにはかけがえのない一時だ。 俳句教室の帰路、司法書士事務所に寄った。前妻との離婚に関し、土地の名義書き換えでお世話になった所。ところが共用道路がまだ前妻との共有になっていたのだ。生憎所長は留守で、帰宅後に電話があった。名義が共有になっていても道路なので何の影響もない由。やれやれ。これで宿題が一つ減った。そして来月こそは何とかヌサマイさんを喫茶店に誘おうと、決意したボクだった。
2018.07.22
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~6月の俳句教室にて~ 梅雨寒が一転して蒸し暑くなった日の午後、6月の俳句教室へ行った。前回と違った雰囲気を感じて、席を変えた。寝不足のせいか体調は今一。冷房などない部屋の窓が少し開いていて、講師の声が聞き取りにくい。これは意識を集中させる必要があるな。だがそんなことにはお構いなく、講師の声が小さい。耳鳴りがさらなる緊張を誘う。 話は「なれど」の用法から始まった。この場合は以後が否定される必要がある由。なぜそんな話をと訝しく感じたのだが、それは前回のある句の批判だった。確かにそうだ。なれどの後はそれを否定しないと意味は成り立たない。「季重なり」に関しても講師はシビア。論外と言ってそれ以上評価はしない。前回と全く同様の反応だ。有名な句を例に出した人がいたが、それでも良くないものは良くないと講師。 造語への戒めもあった。例えば「限界村」。本来は限界集落だが、字数の点からそんな風に詰めたのだ。「法被すずめ」。これは法被を着たすずめ踊りの踊り手の表現だが、勝手な造語は慎むべきとのこと。もっと違った言い方を探せと講師は言う。有名になったら許されるんじゃないのと受講生。だがそれも直ちに却下。より適切な言葉を探す努力を、さらに重ねよと師の指導はあくまで厳しい。 「一手打ち込む黒の石」。これは「一手打ち込む石の音」と直された。囲碁を嗜む講師ならではの指摘。石の音が効果を増すことを、彼は十分に理解している。そして与謝野晶子の短歌を俳句に直して言う。「こんなことは自分にしか出来ない」と。確かに31音が17音にはなった。だが歌に籠められた心情は、どこにも感じられない。17音に情感をどう詠むのかが勝負ではないのか。 私の提出した句は、「雷鳴ののちのしじまや夜半の雨」。先生は「後の静寂」と漢字の方が良いと一言。漢字は真名で男の字。ひらがなは仮名で女の字だからと。元の句は漢字だったのを、わざわざひらがなにしたのだ。俳句を始めて何年になるかとの質問には、歳時記を確認しながら作るのは初めてと答えた。もう一人同じ質問を受けた方がいた。確かに優れた表現だが、同時に出した別の1句は月並み。全ての作品のレベルを上げるのは大変なものだ。 その日の朝、ローズコーンさんの作られた俳句を私流に詠み替えたのが最初の句。その夜は気になる夏の季語を使って、作句の練習をした。つまり絵で言えば習作と言う訳だ。 白南風やバスを待つ間のひと眠り *しろはえ 黒南風や男やもめの弱り顔 *くろはえ 冷奴けふもやうやく終はりけり 梅の実のまだ青きまま笊ひとつ *ざる 夏蒲団いささか早き目覚めかな 行く雲や山裾までの遠青田 トマト熟れもぎ取る畑の朝の露 山鳩のくぐもる声やトマトもぐ 馬鈴薯を抜きて畑の清々し ドクダミや我が物顔の庭の主 おまけの一句 初物や安売りなれどサクランボ お後がよろしいようで。
2018.06.24
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~わが凡庸の道~ 走り梅雨クジャクサボテンに花ひとつ 鉢植えのクジャクサボテンが咲いた。いつもの年よりずっと早いせいか、色も淡くて小さな花だ。陰鬱な梅雨空を吹っ飛ばすため、夏の季語で句を詠もうと思う。何事も練習。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。それぞれの句に相応しい写真を選べば良いのだが、ここは最近撮ったアジサイを使おうか。撮った写真は極力生かす。それが私のブログの方針。駄句としばしお付き合いいただけたら嬉しい。 米買ひてつなぐ命やつゆ晴れ間 米を10kg買った。半年ぶりで、値段は3220円。一応2軒のスーパーで値段を比較した。一等米ではないが、米どころの銘柄米なのでそんなに不味くはないはず。一人暮らしは食欲があってなんぼ。工夫しながら健康を維持する日々だ。 梅雨晴れや美女と呼ばれし花ありぬ 長崎のブログ友ローズコーンさんのブログを拝見して詠んだ一句。バーベナには「美女桜」と呼ばれる種類があるらしい。またオトギリソウの仲間であるビヨウヤナギの別名は「美女柳」。あいにく美女とは縁のない男だが、せめて俳句の中では美女を詠みたい。 草むしり一雨ごとの難儀かな 雨後の竹の子ならぬ雨後の雑草は強い。この季節、庭と畑の雑草の勢いには凄いものがある。まあ彼らも生きているのだから当然だ。体調と相談しながらの草取り作業。だがこの時期は、取っても取っても草が生える。諦めがちなのが人間だが、これも人生修行。かくして連綿と修行続きの昨今だ。 トマトの実まだ青いのが二つ三つ トマトは雨を嫌う。あんまり雨が続くと水を吸い過ぎ、やがて茎が腐って来る。土に潜んでいるウイルスが悪さをするようだ。どれくらいの雨なら耐えられるのかを見極めるのも経験。ビニールを張るのが面倒な私は、支柱に何本かのビニール傘を結わえて凌ぐ。さて今年の梅雨はいかがなものか。 一匹の蚊に線香の臆病さ 先日台所の水道の調子が悪くなった。工事の人に来てもらったが、工具を持って出入りする際に蚊も一緒に侵入。腕が痒くて見たら、蚊に食われた痕がしっかり。慌てて蚊取り線香をつけた。21年前に家を建てた時に買った年代物。しかし日本製品の優秀さは、年月を経た今でも効き目があることで証明される。「日本の夏。金鳥の夏」。そんなコマーシャルも遠い思い出になった。 カタツムリ行方不明の妻に似て 幻想の句である。妻は去り、四国在住の娘一家と暮らしている。実父の死後、彼女は次第に精神のバランスを欠き、その13年後裁判所に離婚調停を訴えた。若き日の彼女は一体どこへ消えたのだろう。今ではカタツムリも妻も見当たらない家。わが結婚生活と家庭は、蜃気楼だったのだろうか。 梅雨寒や句も覚束ぬ手のふるへ 梅雨寒が続いている。鬱陶しいだけでなく、心までもが寒い。血行障害ぎみの私にとっては厳しい日々。ヒーターを点け、コーヒーを飲み、熱い風呂に入ってようやく暖まる。手の震えは梅雨寒のせいとしても、句が出来ない理由は何か。来週はいよいよ俳句教室。当日も雨の予報だ いざわれも紫陽花の句を詠まんかな 凡人の第5位の句。下手なりに自分の言葉で句を詠み、歌を詠む。乏しい語彙。貧弱なイメージ。だが文法を知らないせいで恥とも思わない。自分の世界が創れたら良い。他の人にじゃ詠めない世界を詠めたら良い。紫陽花の色は様々で、人生も多分一緒のはずだ。 紫陽花や母は木偶のごと死にゆける *でく あじさゐや幸薄き母しのばれて 4歳で生別した母が死んだのは私が54歳の時。まる50年別れて暮らしていたのに、病室に横たわっていた母は私のことを覚えていた。その3日後に死んだ母。幸薄い彼女は、敬虔なクリスチャンだったと聞く。紫陽花に、長い間一人で暮らした母の姿を重ねる。私も一人、梅雨寒に震える日々だ。 あじさゐに恥ずることなく生きゆかん この世に恥じることなどない。また人に恥じるような生き方もしてはいない。何とでも言わば言え。私は私らしく生きて行く。紫陽花にまだ色がついていないように、残された自分の人生も無色。はたしてこれからどんな花が咲きどんな彩がつくのか。 神奈川のTさん夫妻に手紙を書いた。第一子の誕生祝いにデパートの商品券も同封した。人生初めての「頼まれ仲人」をして17年。ようやく授かった彼らの赤ちゃんだが、わが暮しにも大きな変化があった。手紙にその経緯を記し、私のことはもう忘れて良いと書いた。おめでとうTさん、そしてH美さん。人生はドラマ。これだけは先輩として自信を持って言える。これからも仲良くね。 仲人の務め終えたる心地なり 子の誕生を祝ひし後は
2018.06.17
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~マックス爺は二刀流~ 開講前の教室 5月の俳句教室へ行った。受講生の定員は25名だが、この日の出席者は23名。うち3名が遅刻。提出された句は17。6名が未提出だが、それでも良いらしい。講師が受講生の名を呼び、呼ばれた人が自分の作品を読み上げる。それを講師が批評し、受講生からも意見を聞く。そんな感じで2時間を過ごす。提出しなくても済むなら楽だが、それではあまり進歩がないだろう。恥をかくのも勉強なのだ。 過去の作品例 詠んだ句の背景を長々と話す人がいる。そこまで説明しないと分からない句ではしょうがないではないか。ろくろく推敲もせずに提出する人。拘りが強い割には語彙が貧弱だったりする。季語を十分確かめずに詠む人もいる。講師は論外として、その作品は論評しない。1句に3つの季語が含まれた作品もあった。最低の約束事が守れないようでは、勉強する意味がない。 さて、私の最初の作品は沖縄風のものを止め、青梅を詠んだ句を提出。 青梅の玉(ぎょく)にも優るいのちかな 句の背景は説明せず、句を2回読み上げた。講師が「これは深いね。ただし青梅が玉に優るかどうかは主観的な問題だけど」。私はそれで十分だった。このエメラルドグリーンは私の大好きな色。命の象徴でもあり、これで作る梅干しは私の健康を守ってくれる存在。二重の意味での生命なのだが、そこまでは言わなかった。 閉講後、私は講師に「そのうちビックリするような作品を出しますから」と話した。沖縄風俳句の予告だった。 深夜トイレに起き、再び床に就いた時、カーテンを通して雷光が見えた。その後雷鳴は直ぐに静まり、雨の音が聞こえるばかりだった。私は急いで電気をつけ、紙にメモした。俳句が思い浮かんだのだ。 1)雷(いかずち)の光りて闇にもどりたる だが翌朝見たら全然詰まらない。そこで 2)雷は一瞬闇にもどりたる まだまだ物足らない 3)雷は一瞬夜半の雨続く ちょっと説明的過ぎか 4)雷光一閃あとは静けき夜半の雨 形容詞は不要と見て 5)雷光一閃闇に戻りて夜半の雨 やはり説明的 6)雷光一閃のちのしじまや夜半の雨 少し硬いか最終句 雷光やあとはしじまのよわの雨 更新後も2度直し、最初の句が生まれてから最終句まで、約1日半かかった。だが、さらに直す可能性がないとは言えない。私にとって作品とは、そう言う存在だ。東北北部の豪雨被害に、この場をお借りし、心からお見舞いを申し上げたい。 栴檀の花 翌朝ローズコーンさんのブログを訪れたら、栴檀(せんだん)の花の写真と共に、彼女の俳句が載っていた。「栴檀は双葉より芳し」のあの花だ。古名はおうちで旧仮名遣いだと「あふち」らしい。花は芳香を放つという。知ったかぶりしたくないのと彼女と被ってもいけないので、短歌を詠んだ。 細き径落花ふみしめ分け入れば 天にも届く栴檀の花 廃校と決まりし校舎裏庭に 栴檀の樹は香りて立てり 朴の花 そう言えば、先日ランニングした時に朴(ホウ)の花が咲いてるのを見た。3年ほど前に青森県の奥入瀬川渓谷沿いを歩いた際に見て以来だった。あれを俳句に詠めないか。そこで頭をひねった。 1) 朴の花遠目にランナー駆けゆけり 実に平凡至極 2) 朴の香やランナーの頭上遥かなり ちょっと今一 3) 朴の香を知らずランナー駆けゆけり 悪くはないのだが最終句 朴の花ランナーの眼を奪ひけり 山藤 さらに欲張って、最近見た山藤でも一句出来ないかと考え。 山路来て疲れしころや藤の花 平凡だが、これはこれで良さそうと直ぐに決着した。こんな風にエンゼルスの大谷ばりに、マックス爺も日々二刀流で頑張っている。ワハハ。
2018.05.19
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~俳句・未知なるものへの挑戦~ この4月から「俳句教室」へ入った。結社ではなく、市か区の行事。定員は25名で料金は無料。暇なので申し込んだらめでたく抽選に当たった。前年度から継続の人もいれば、私のような新人もいる。講師は厳めしい人で、初回の講義で次のようなことを話した。 1)俳句は文語体で韻文の文学 2)季語は必須の条件 3)字数が限られているため、形容詞や副詞は用いないのが原則 初回は作品の提出を免れた新人だが、次回は作品1点を披露し、講師から講評と添削を受けるルール。俳句とはもっと自由なものかと思っていたのだが、その考えを完全に裏切られたのだった。<写真はネットから借用したもので、実際の講義とは無関係です。> そこで講師が勧めるこの本を買った。季語が載っているだけでなく、それを用いた俳句の実例が載っているので参考になる。角川学芸出版の刊行で、本体の定価は2300円。収載された季語が2537語、傍題(事例)が5034句。 パラパラとめくると、日本人の感性が分かって面白い。万葉以来の言葉が季語になったと聞くが、近年の気象に合わせて、新しい季語も加わっている。私が思うには、作句の勉強になるのは、季語ごとに2句くらいずつ詠んでみること。それだけでも5千以上もの俳句が生まれる。なお、わが講師は旧仮名遣いが好きなようだ。 試みとしては面白いが、実際は無理な作業だと思う。ノートに記した「自信作」を講師に見せたが、けちょんけちょんの評。厳しいものだ。案外気楽に構えていたのだが、次回には果たしてどんな作品を提出すべきか。そこで考えた。誰も文句がつけられないテーマならどうだろう。例えば沖縄。季節感が本土と違い、風土が異なるが、挑戦する価値はある。そこで試しに以下の作品を詠んだ。 <春 八重干瀬(やえびし=幻の大環礁)> *季語 ()内は沖縄での発音 八重干瀬(やえびし)に舟集ひ来し潮干かな *潮干 怒号とび勢子血眼の牛相撲(うしおらせ) *牛相撲 一族の墓に揃ひて御清明(うしーみー) *清明 <夏 ガジュマルの樹> 夏近し梯梧(でいご)血を吐くごと咲きぬ *夏近し 熱帯夜ガジュマルの根の向かふ先 *熱帯夜 偏降(かたぶ)りの夕立ユウナ打ちにけり *夕立 夕立やユウナの花を打ち過ぐる *夕立 <秋 芭蕉> エイサーの太鼓そろひて盆踊り *盆踊り 破(や)れ芭蕉城(ぐすく)は遠き迷ひ径 *破れ芭蕉 月清しアシャギに神の寄る気配 *月 <冬 サトウキビ刈り> 新年や御嶽(うたき)より海に手を合はす *新年 甘蔗刈(うじとーし)結(ゆい)の手止めし鷹の舞ひ *甘蔗刈り ランナーの背を木枯(みーにし)の押すごとく *木枯らし <梯梧=デイゴの花> 私の沖縄風俳句が講師からどう評価されるのかは不明。だが、台湾のお年寄りの中には、短歌や俳句を詠む人がいると聞く。ならば沖縄にもきっといるはずで、私にも詠めるはず。それともあっさりと白旗を上げて、内地風の俳句を詠むべきか。いずれ賽は投げられる。<続く>
2018.05.06
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~俳句三昧の日~ 百円ショップでファイリングケースを2個買って来た。一つは短歌用で、もう一個は俳句用。既に短歌用のファイルはあるのだが、こちらは今後資料が増えた際の予備になる。早速俳句教室でもらった資料を閉じ込んだが、まだスカスカ状態。何せ先生が詠んだ句と彼の名刺が入っているだけ。これからの1年で、どれだけ資料が増えるかは分からない。また教室での指導事項はノートに記してある。 それにしても講師の厳しさには驚いた。俳句に対する態度もさることながら、人生に対する厳しさも同じ。きっと彼が極めた居合道や囲碁にも通じるものがあるのだろう。言葉に対する厳しさも一入で、美しい日本語を愛して止まないようだ。これは素人相手の俳句教室でも同様で、決して手抜きはしない。その殺気が教室内に漲っている。所属短歌会の和やかさとは、まるで違っていたことに驚いた。 短歌もそうだが、先生は「成立するかしないか」を問う。短歌は31文字(音)、そして俳句はわずか17文字(音)の、世界でも有数の短い文学。その限られた字数(音数)の中で、詠まれた作品の是非を問う。文法的な過ち、内容に齟齬がないか、無駄な表現がないか等々。そして俳句の場合のポイントは、季語が適切かどうかも大きい。わずか17文字(音)で、しかも季語が生死を制するとは。 先生は言う。俳句は和歌から派生したもの。そして季語は万葉以来の歌の中から、重要と考えられる言葉を選んだもの。俳句は口語ではなく文語であり、散文ではなく韻文であること。これまでに私が受けた印象では、短歌の方がずっと約束事が少ないと感じた。俳句は主催団体によっても異なる部分はあるだろうが。ノートに書いた私の俳句を直ちに批判したのも、その「型」に治まっていなかったからだろう。 <ナニワイバラ> さて昨日ブログ友であるローズコーンさんのブログに載っていたナニワイバラの写真などを見て、私は以下の便乗俳句を詠んだ。1700年代に中国から伝わった花のようだ。 名はイバラされども薔薇の貌(かお)をして 廃屋や茨切られし庭の跡 だがどうにも納得が行かず、その後で手を加えた。 第一句は 名は茨されども薔薇の貌をして で決着。 第二句は 古家や茨切られし風の庭 で決着したが、さらに一句。 野茨の切られし家や風の庭 を追加。 茨も野茨も春の季語である。 そして俳句を生む苦しみを連作で。 春愁や句の成立も半ばにて 中七の浮かばざるまま春の月 中七も馬耳東風の春の宵 春の宵句の成立も覚束ず と来て、ようやく気持ちが落ち着いた。 お向かいさんが知人からもらった八重桜の枝を玄関先に活けたのをみて一句。 八重桜切られし枝も陽を浴びて 八重桜切られてもなお陽を浴びて さらに歳時記から季語を選んで一句。 やれ嬉し三つ葉摘みたる命かな 蟻穴を出でてトマトの苗植えし 八重桜、三つ葉、蟻穴を出ず が共に春の季語。昨日、ミニトマトとキュウリの苗を購入。
2018.04.21
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<実と俳句> 散歩中に見かけた秋の実に俳句を添えてみました。まあ写真だけよりはマシでしょう。ただし私の俳句は季語を無視した勝手な作品ばかりなので悪しからず。 ウメモドキ天より高き実の生りし <ウメモドキ=梅擬> 白き実の形おぼろに秋更けぬ <白のコムラサキ=小紫> ムベの実の何聞かれても答へざる <ムベ=郁子> 紅シタン珊瑚の赤に負けずして <ベニシタン=紅紫檀> 仲秋を過ぎ朝顔の種乾く <アサガオ> 枝の先口論したる柘榴かな <ザクロ> 行く秋や辛夷の異形許せかし <コブシ=辛夷> 木瓜の実の花梨に優る彩かたち <ボケ=木瓜> *カリン=花梨 銀杏の拾はれぬまま黄昏れて <ギンナン=銀杏> *たそがれ 錦木の枝に点りしランプかな <ニシキギ=錦木> 団栗の転げて哀し坂の道 <ドングリ=団栗> 団栗を独楽に仕立てし幼き日 *こま 野葡萄の彩まだ浅き秋の夢 <ノブドウ=野葡萄> *いろ 野葡萄の渓深くして届かざる *たに 染まりたる葉陰に紅き実のありぬ *あかき 柿の実の静まりてゐし夕餉かな <カキ=柿> *ゆうげ 葉の落ちし農家の庭の柿一本
2017.10.15
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