全86件 (86件中 1-50件目)
~風土・戦争・歴史・文化~ ウクライナの麦畑 青と黄色のウクライナ国旗のような風景。どんな国にも歴史があり、文化があり、言語があり、民族がいる。島国の日本民族はほぼ単一のままで、文化も歴史も長く続いて来た。だが大陸は別。最大のユーラシア大陸では、古来幾つもの民族が移動し、殺し合い、干渉し合い、文化も言語も入り組んでいる。人類の歴史は戦いの歴史とも言えよう。しかしロシアのウクライナ侵攻を、一体どう考えたら良いのだろう。 美しいウクライナの風景(以下同じ) ロシア人もウクライナ人もスラブ民族だと言う。それにベラルーシを加えたのが東スラブ人で、スロバキアやポーランド人が西スラブ人。そしてかつてのユーゴスラビア周辺の民族を南スラブ人と呼ぶらしい。ベラルーシの「ルーシ」はロシアのこと。ウクライナも「キエフルーシ」と呼んだ時代があった由。スロバキアにもユーゴスラビアにも「スラブ」の意味が含まれている。 かつて現在のウクライナを中心とした「キエフ大公国」と言う国があった。いわゆるキエフルーシだ。それ以前にはバイキングが定住した時代があり、その前後には東ローマ帝国の一部だったり、オスマントルコと国境を接したり、東から攻めて来たモンゴルに滅ぼされたりもした。キエフ大公国からは後年ロシア帝国が生まれ、革命で倒されてソ連となり、ソ連崩壊後に現在のロシアとなった。 古来、人は移動し、民族は戦ったり交わったりした。そして宗教も変容した。野蛮なバイキングも遠征先に定着してキリスト教に改宗し、新しい文化を受け入れた。アメリカ大陸を最初に発見したのも彼らだ。殺戮し尽くしたモンゴルによって、民族は分散と定住を繰り返し、ウイグル民族のトルコも東アジアから現在地に長い年月をかけて移動し、20世紀のクリミア戦争では、領土を巡ってロシアと戦った。 古代エジプト、古代ギリシャに古代ローマ帝国の興亡。アレキサンダーの東征のように世界制覇を目指す者が現れ、その結果文化の交流が行われたりもする。古代ペルシャも版図を広げた。だが産業革命以降の機械化によって、戦争の形も変化して行く。投石器が鉄砲や大砲へ。陸軍のみならず海軍が誕生し、飛行機の発明によって空軍が生まれ、現在では宇宙軍まで存在する。 キエフ市街(以下同じ) ウクライナは今ロシア軍に侵攻され、連日砲火にさらされている。かつては兄弟同様だった両国。同じスラブ系民族で文法も一緒。ソビエト連邦時代、ウクライナはその一部だった。そしてウクライナ東部のドネツク炭田には、職を求めてたくさんの労働者がロシアやソ連各地からやって来た。ロシア人とウクライナ人の結婚が増え、親戚が両国にもいる人も多い。だが、プーチンの歴史観がその関係を破壊した。 第二次世界大戦で、ナチスドイツはヨーロッパ各地へ戦線を広げた。ポーランドも侵攻され、ウクライナやロシアも危うかったのだ。クリミア半島のヤルタで戦後処理に関する会談が持たれた。いわゆる「ヤルタ会談」だ。参加したのはイギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、そしてソ連のスターリン。彼らによって東欧の境界線が決められ、ウクライナはソ連の一員となった。 しかし独裁者のスターリンは、意図的にウクライナを飢餓に陥れ、数百万人のウクライナ人が餓死したこともあった。豊かなウクライナはソ連の食糧倉庫であり、石炭の産地であり、ロシア人の良き僕だったのだろう。ソ連が崩壊して独立した後も、何度か反ロシア政権が蜂起する度に、抑圧を繰り返して来たロシア。特にロシア人が多い東部2州ではロシアに迎合する動きが出た。それもプーチンの策謀だ。 ドンバス地域の戦闘を治めるための協議が、2014年の「ミンスク合意」。調停の一員だったドイツのメルケル元首相は、仲が良かったプーチンに甘い処断をしたようで、その後も続いた紛争が今回のウクライナ侵攻の端緒になった。また同年黒海に通じ不凍港があるクリミア半島をウクライナから奪った。プーチンはEUに向かう第6代ゼレンスキー大統領を失職させ、傀儡政権を作るために侵攻した。 ベラルーシ国内でも合同演習を行った上での侵攻だからたちが悪い。使用したミサイルは250発。当初の戦費は1日2兆円規模だった由。だがウクライナ側の反撃で、多くの兵器と兵士を失った。2日間で陥落するはずの首都キエフは、未だに落ちない。ロシア軍は4人の高級将官が戦死し、ロケット砲弾が尽きた。焦ったロシアの見境のない爆撃で、国外へ脱出したウクライナ人は360万人以上。 ロシアの国教はギリシャ正教から変化したロシア正教。一方のウクライナはカトリック教からウクライナ正教へ改宗。文法は同じでも語彙が異なるロシア語とウクライナ語。だが双方の国出身の両親を持つ家族も多い。プーチンはその「兄弟国」に戦争を仕掛け、核兵器や化学生物兵器の使用をちらつかせて威嚇する。まさにジェノサイドそのもの。ヒットラーやスターリン並みの独裁者だ。 美しいウクライナの国土を徹底的に破壊した結果、プーチンは理不尽な戦争を世界から非難され、厳しい経済制裁を受けた。世界は破壊される都市や、逃げ惑う国民を連日目の当たりにしている。休戦交渉が成立する保証はないが、ウクライナ兵の士気は衰えていない。拙い私の歴史認識だが、プーチンの歴史観よりは真っ当なはず。悪魔の所業のような戦争を呪い、ウクライナの平和と栄光を切に祈る。<続く>
2022.03.18
コメント(2)
~ドラマ「大地の子」を観て~ NHKのドラマ「大地の子」をつい最近何度か見た。最初の放送は1995年で、これまでに何度か再放送されているようだ。ドラマは歴史そのものではないが、日本人残留孤児が戦後の中国で生き延びた過酷な半生を徹底した取材で、山崎豊子が小説にした。その壮絶なストーリーは、今シリーズのタイトルそのものと感じて、最終回に取り上げた次第。 著者と著書 原作者の山崎豊子(1924-2013)は大阪船場の生まれで現在の京都女子大学国文科卒。毎日新聞大阪本社学芸部勤務時代に副部長だった作家井上靖から記者としての手ほどきを受けた。1957年実家の昆布問屋をモデルにした小説「暖簾」が処女作。「花のれん」で直木賞を受賞したことを機に、作家生活に専念、以後「ぼんち」。「女の勲章」、「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」、「二つの祖国」、「沈まぬ太陽」と社会性を帯びた作品を世に送った。呼吸不全により89歳にて没す。 胡耀邦書記と歓談する山崎豊子 日本人の中国残留孤児問題を著すべく当時の中国共産党胡耀邦書記を何度も訪れ、取材許可を嘆願。当時は外国人に開放されてない農村地区を巡り、8年をかけて300人以上の日系戦争孤児の体験談を収集。まさに執念そのものだった。彼女には「盗作疑惑」が複数あるが、いずれも丁寧かつ慎重な脚本化を怠ったのが原因で、猪突猛進の性格が彼女へのあらぬ誤解を生んだのだろう。 歓談する周恩来と田中角栄 山崎がこの小説を書き、さらに日中合同でのドラマ化が実現した背景には、「日中友好条約」締結に向けての両政府の歩み寄りがあった。「尖閣問題」を一時棚上げしての条約締結だが、元々尖閣に領土問題は存在しない。1970年に国連が海底探査し、東シナ海に大量の石油が埋蔵する可能性に言及して以降尖閣は中国領と先方が主張しただけで、それより100年も以前からわが国が実効支配していた。 中国人の養父と陸一心役の上川隆也(右) それはさておき、日中共同によるドラマ化も難航を極めた。日本側はリアリティーを求めるため、当時の貧しい農村部を描こうとするが、中国側は日本側はわざと中国の貧しさを描くと誤解していた由。日本人残留孤児陸一心役の上川隆也は公募で選ばれた新人で、中国語は全く話せなかった。それが2か月ほどの特訓で、中国人俳優と変わらぬ流ちょうな中国語を話した由。誰が見ても素晴らしい熱演だった。 往時の文化大革命(左)とスパイ容疑で地方に追放される一心。(右) だが中国政府のドラマ制作への規制は厳しく、中国の政治家の実名は出さないこと、農村部の貧困や、文化大革命の実像は使用しないことなど大変なものだったそうだ。ドラマ化の構想から完成までに4年もかかったのはその影響が大きいようだ。私はネットを検索し、画像を補足した。 話は前後するが、一心の実父(仲代達矢)が製鉄会社の現地責任者として中国に赴任し、偶然わが子を探し当てる。業務打ち合わせのため日本に行った2人。一心はホテルを抜け出して実父の家を訪ね、祖父母、母、妹の位牌に手を合わせ線香をあげる。その留守中同僚が一心のカバンの中から「機密文書」を抜き取る。中国に帰国後、一心は機密文書を日本に渡した容疑で、地方へ左遷される。 都会の中の貧民街 だが歴史の実態は全く正反対で、中国は賠償金代わりの日本からの膨大なODA(経済援助資金)を元にして工業化を推進し、中国に進出する外国企業に対しては中国企業との合弁会社設立と最新技術情報提供を義務付けた。いわば合法的な企業機密のパクリであった。日本への帰国を願う実父に一心は告げる。「私は日本の子ではありません。この中国の大地の子なのです」と。 日本人孤児の実録(左)と大連の旧日本家屋と満開のアカシア(右) この作品によって、主演の上川隆也は第4回橋田賞新人賞を受賞し、「大地の子」は平成7年度文化庁芸術作品賞とモンテカルロ国際テレビ賞最優秀作品賞をダブル受賞した。私は昨年中国の大連と旅順を旅したが、「大地の子」が胸を過ったのは言うまでもない。大連は旧満州の玄関口であり、日本との連絡船や引き揚げ船が発着した港。大連の日本人街、ロシア人街、旅順博物館を懐かしく思い出す。<完>私なりの現代史論にお付き合いいただき、ありがとうございました。明日からは「通常営業」です。
2021.08.27
コメント(4)
~「ヤルタ会談」と「ヤルタ協定」そして日本と中国の戦後~ NHK「映像の世紀プレミアム」を観て書き始めたこのシリーズ。甲子園の高校野球も、後半戦に入ったプロ野球も、そして昨日から競技が始まったパラリンピックも観ず、シリーズを書こうとしている。学校で習わなかった現代史の面白さを知ったからだし、真実に近づきたいと言う私の想いからでもある。理解を深めるためにネットで検索し、新たな知見と同時に、自らの認識を修正することも度々だった。 皇居前で玉音放送を聞く人々 日本人が初めて自国の敗戦を知ったとされる、昭和20年8月15日の「玉音放送」。思い出すのがこの写真だが、これは不自然との意見があるようだ。当時、皇居に一般人が立ち入ることは許されていない。また皇居前に拡声器や放送設備はない。土下座する前方に立っている人物が不自然などがその理由。ただしこの日重要な放送があるとの通知はあった。日本は前日に「ポツダム宣言」を受諾していた。 ミズーリ号上での調印 1945(昭和20)年9月2日。東京湾に進入した米国艦船ミズーリ号の船上で、敗戦国日本と、連合国代表との間で、停戦に関する協定が結ばれた。日本の全権は東久迩内閣の外務大臣である重光葵(しげみつまもる)、連合国の代表はアメリカのマッカーサー元帥。ミズーリ号が停泊したのは、江戸末期に「日米和親条約」を結んだ同じ場所。アメリカはその「位置的効果」を計算済みだった。 <日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領> ポツダムはドイツの一都市。そしてポツダム宣言とは、イギリスのチャーチル首相、アメリカのトルーマン大統領、中華民国の蒋介石主席の名において、日本に対して発せられた13か条からなる降伏要求の最終宣言。正式には「米英中三国共同宣言」と言う。ソ連は後に加わり追認した。 ミズーリ号上での調印は日本がポツダム宣言を認めたことを意味し、即刻同日に発効した。ミズーリ号では戦勝国を代表してマッカーサー元帥が署名したが、後日日を改めて中華民国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表も署名した。 <ヤルタ会談の参加メンバー(左)とヤルタの位置(右)=クリミア半島先端の宮殿> このように日本の敗戦は前もって連合国側によって綿密に準備されており、ドイツやイタリアと結んだ軍事同盟など何の役にも立たなかった。驚くことに激しい戦争のさ中に戦後処理まで協議されていた。メンバーは左からイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、そしてソ連のスターリン書記長。この会議ではソ連の対日参戦、戦後の国際連盟設立など。知らぬは日独伊の枢軸国のみだった。 1) 2) 3) 枢軸国のドイツ、イタリア、日本の占領地を戦後どう処理するかを協議したのが1)ヨーロッパ 2)朝鮮半島 3)日本列島をどう分割するかが上の3つの分割図で、図にはないがバルカン半島、台湾、樺太などの北方領土も関係する。もしもこの案が実施されていたら、わずかに近畿を除いた地域が全て外国領となっていたわけで、幸い実行されなかったのは、共産主義に対する不信感からだろうか。 日本が敗戦を認めた後に、ソ連が満州や北方領土に侵入し、日本兵をシベリアや中央アジアに連行して強制的に過酷な肉体労働をさせたこと、北方領土を未だに返還しないのを非難しても、ロシアは戦勝国として当然との考えだろう。だが「朝鮮戦争」の勃発などで、その後の世界情勢が大きく変化し、日本も遅まきながら「サンフランシスコ講和条約」の締結によって国連に復帰し、再出発出来た。 それでは中国はどうか。内戦で国民党に勝利した中国共産党は、中華人民共和国を建国し、共産主義を国是とする。一方敗れた国民党の蒋介石(右)は、日本が利権を失った台湾に入る。その台湾が戦後間もなくは国際連合の正式メンバーで、理事国でもあった。だがその後「中共」は「一つの中国」を標榜して台湾を国連から追放、資金援助したアフリカ諸国の力を借りて、安保理常任理事国の座を手に入れた。 アメリカがアフガンから撤退すると聞いたこの国は、タリバンの指導者を北京に呼んだ。協議したのはアメリカ軍に対する攻撃作戦の伝授と、資金援助の約束。アフガンから撤退する米軍は、対中国包囲網を強化する予定でいた。だが、その計画がもろくも破綻した。今年の北戴河会議(中国共産党幹部のOB会)で批判を受けた習近平は、「黙れ。台湾と尖閣は必ず獲る」と怒鳴った由。ああ怖っ。 ロシアの国旗は白青赤の三色。で国旗に込められた願いは、白=高貴と率直さ。青=名誉と純粋さ。赤=勇気と寛大さ。なんですって。そんな風には全然感じないけど。国家としてオリンピックに参加出来ない腹いせにサイバー攻撃を。北方領土では軍事訓練をやりたい放題。「国後島から泳いで来た」と言うロシア人が、先日北海道警察に拘束された。だが服は濡れておらず、小さなリュックを背負っていたらしい。難民だろうか。う~む。しかし、どう考えても変な国だ。<続く>
2021.08.26
コメント(2)
~戦争を止められなかった男とアメリカを戦争に巻き込んだ男~ 「映像の世紀プレミアム」。NHK制作のこの番組を興味深く観ている。初めに観たのは「第一次世界大戦」の事情と背景。そして半月ほど前に観たのは「日中戦争」とそれに引き続いて生じた「太平洋戦争」に関する映像だった。恐らくNHKは実際に入手した映像を極力客観的に繋ぎ合わせただけで、この戦争に関する主観的な主張はしていないように思えた。それがむしろ真実味を増すのだ。 満州事変 日本が統治していた当時の満州国で勃発した「満州事変」は、警察力が弱かった満州では漢族や満州族のゲリラ部隊が出没して、国民(日本人、満州族、漢族、朝鮮族)の財産を脅かしていた。漢族の首謀者は張学林。業を煮やした関東軍の若き兵士は、張学良の兄である張作霖が乗った列車を爆破し、列車はゲリラ部隊によって爆破されたと発表し、満州における権益を強化して行く。 国民党を率いていた蒋介石(右)は日本軍の力を削ぐため、満州から離れた上海や南京などでゲリラ活動を活発化する。長江(揚子江)下流域の大都市である上海や南京には外国の租界(そかい)が置かれ、ここで戦闘が起こると外国資本の利害にも大きく影響する。それで日本軍は満州から中国本土へと戦線を拡大して行くことになる。 若き日の毛沢東(左)と中国共産党の逃亡(長征) 蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党は、時に相戦い(内戦)、時に合作(協力)して日本軍に立ち向かった。こうして日本軍は中国奥地の工業都市である重慶までをも爆撃するなど、戦線は広がる一方となった。ここで蒋介石は一計を案じ、ルーズベルト大統領率いるアメリカの目を日中戦争に向けさせるべく多くの軍事機密を提供した。 チャーチル英国首相 日本軍による米国真珠湾攻撃 一方、イギリスのチャーチル首相も追い込まれていた。ヨーロッパの大英帝国はドイツ機による空襲を受け、アジアの植民地である、ビルマやインドは中国から転戦した日本軍に侵攻されていた。貴重な軍事力を二手に分割されていたのだ。そこで彼もルーズベルトと頻繁に連絡を取り、アメリカを参戦させるべく精力を投入する。やがてアメリカの過激な要求に耐えかねた日本は、真珠湾攻撃の奇襲に出る。ついに日本は、アジアの戦争から広く太平洋を戦地とする「太平洋戦争」に突入。悲劇の始まりだ。 太平洋戦争の主な出来事(左)と、当時の近衛文麿首相(右) 左図の青い線で囲まれた部分が日本軍の最大戦域。アメリカに屑鉄の輸出を禁じられて艦船や銃砲の鋳造が困難になった。また拡大する一方の戦域は兵站(へいたん)補給の困難を日本軍にもたらした。石油を得ようと東南アジアに進出するも反撃に遭い、ついには松の根から出る油脂を精製して使用するなど、悲惨の極み。 <太平洋戦争の映像> 情報不足と資源不足でありながら、無謀にも戦争に打って出た大日本帝国の悲哀。近衛は軍部を抑えることも、天皇に戦争中止を訴えることも出来なかった。戦後の東京裁判で死刑判決を受けた近衛は、その翌日に服毒して自ら死を選んだ。 原爆投下後の広島市内 原爆投下後の長崎市内 実際の戦争を知らない世代の一人として、たとえ映像だけでも当時の日本が置かれた状況や、戦争に至った道が少しは理解が出来たように思う。私は中国の大連に旅して日露戦争の戦跡も観たし、台湾に旅して日本統治時代のことを少し知り、オーストラリアでは首都キャンベラの「戦争博物館」を見学して、戦争の傷跡を知った。 <戦後の風景=バラック造りの「闇市」> そして何よりも戦後に少年時代を過ごした者としては、まだあちこちにあった「焼け跡」、戦争孤児としての浮浪児の存在、生きるがため「パンパン」となった女性、未舗装で石ころと穴ぼこだらけの道路を歩いた、そして朝鮮戦争当時日本に駐留していた米軍のジープから投げられるガムやコーヒーを拾い、学校給食の「脱脂粉乳」と塩の塊のような「クジラ肉」で生き延びた。今なお苦く強烈な貧乏時代の切ない思い出だ。 ここに書いたことはNHKの見解ではなく、私の個人的な感想と意見です。なお、理解を助けるため放映されたもの以外の映像を加えてあることを合わせて付記します。<続く>
2021.08.25
コメント(2)
~映像に観る戦争~ 西部戦線(第二次世界大戦) 今日も第二次世界大戦の続き。私が観た番組の再現は不可能なので、ネットから古い写真を借り、自分の乏しい知識を頼りに「見当」だけで書いている。連合国と枢軸国の戦いは来るところまで来た。連合国は最前線に数百kmにも及ぶ塹壕を掘り、それに守られて攻撃したと言う。1年にも及ぶ塹壕暮らしで、湧いた「シラミ」が兵士を苦しめた。敵も味方も相手陣まで地下道を掘り、爆薬を仕掛けて攻撃した由。 空襲されるロンドン市街 危機に瀕した英仏はアメリカに参戦を促した。この戦争で漁夫の利を得ていたアメリカは高みの見物を決め込んでいた。だが相次ぐ参戦要請に腰を上げてヨーロッパに向かった。いわゆる「ノルマンディー上陸作戦」だ。またアインシュタインはアメリカの大統領あてに、ドイツの「原子爆弾研究」が実現する危険性を訴えた。それもまたアメリカの認識を大きく変えた。 日章旗 一方日本の立場はどうだったのだろう。第一次世界大戦後中国の山東半島の権利を手中に入れて、中国大陸進出の手がかりをつかんだ。だが、相次ぐ「軍縮交渉」で苦難を強いられて行く。満州事変、支那事変(日中戦争)で中国と深く関わった日本軍は1941年12月、「マレー作戦」によりイギリス及びオランダと海戦。真珠湾攻撃によるアメリカへの宣戦布告。「日独伊三国同盟」締結によって、戦火は全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。 ネバダの核実験 そこに到るまで日本はアメリカの強い牽制に悩まされた。つまり日本の強国化を怖れるアメリカの経済統制だ。相次ぐ軍縮要求と相まって、「鉄くずの輸出」も激減された。何と日本は対戦国から屑鉄を輸入して兵器を製造していたのだ。それでは勝てる訳がない。折角建造した戦艦大和も戦地に向かう途中に撃沈された。兵站線は日増しに長くなり、前線に食料や燃料や兵器が届かななくなる。そうなれば玉砕しかなくなる。 沖縄での米国軍艦による艦砲射撃 本土決戦前の最後の砦である沖縄の周囲は、米国の軍艦によって埋め尽くされ、海上から一斉に艦砲射撃を受けた。その後苛烈な上陸作戦。日本軍は次第に南部に追い詰められ、沖縄の島民も一緒に南部に逃げた。だがどこにも彼らの安住の地はなかった。 白旗を掲げる少女 有名な「ひめゆり学徒隊」の名前は知っているだろう。南部の洞窟を塹壕として日本の負傷兵を沖縄の女学生が介抱看護した話だ。写真の少女は後に県知事となる大田昌秀氏が留学先のアメリカで発見したもの。手を上げて降伏すれば米国兵は殺さないと聞いた少女は、勇気を出して洞窟から出る。服はボロボロでもちろん素足のまま。恐らく家族は死に、何日も食べ物を口にしてなかったはずだ。 広島原爆ドーム 昭和20年8月。広島と長崎に原子爆弾が投下された。アインシュタインからの手紙に触発されたアメリカが、イギリス、カナダと協力して製造した最先端の兵器。当時は「マンハッタン計画」と呼ばれ、一部の人しか知らなかった。民間人の大量虐殺に繋がった新兵器。だが原爆ドーム付近の記念碑に日本人は刻む。「二度と過ちは繰り返しません」と。非人道的な爆弾を投下したのは、敵国だったのにも関わらず。 玉音放送 昭和20年8月15日正午。壊れたラジオから重々しい声が流れた。昭和天皇が日本が敗戦したことを国民に伝える放送だった。だがあまりにも文章が難しく音が悪いため、直ぐに理解出来た国民はどれくらいいたのだろう。ともあれ、全世界を犠牲にした長く苦しい戦争は終わった。だが、日本が悪者となり、7名の「A級戦犯」が絞死刑として裁かれたことで、全ては解決したのだろうか。<続く>
2021.07.02
コメント(4)
~映像で知る歴史~ NHK「新映像の世紀」 最近何本かのドキュメント番組を観た。最初に観たのが「新映像の世紀」。確か第1回は「第一次世界大戦」関係の膨大な画像だった。あまりにも内容が複雑過ぎて思い出せないし、従って書くことも出来ない。かいつまんで言えば、最初はヨーロッパの数か国の戦いだったのが、あっという間に戦線が拡大して世界的な大戦となり、最後には日本も巻き込まれることになるのだ。 内容を紹介出来ない代わりに、参戦国を以下に記そうと思う。1)アメリカ 2)イギリス 3)フランス(第3共和政時代)4)イタリア帝国 5)大日本帝国 <以下イギリスの自治領> 6)オーストラリア 7)カナダ 8)ニュージーランド 9)南アフリカ連邦 10)英領インド帝国 <領域内で戦争が行われた国>11)ギリシャ王国 12)セルビア王国 13)中華民国 14)ベルギー王国 15)モンテネグロ王国(のちセルビアに吸収) 16)ルーマニア王国 <その他の連合国> 17)キューバ 18)グアテマラ 19)コスタリカ 20)シャム(のちのタイ) 21)ハイチ 22)パナマ 23)ブラジル 24)ペルー 25)ポルトガル 26)ホンジュラス 27)ボリビア 28)リベリア <中央同盟国> 29)オーストリア・ハンガリー帝国 30)オスマン帝国 31)ドイツ帝国 32)ブルガリア王国 <中立国ながら侵略された国> 33)アルバニア 34)ルクセンブルグ。 参戦国や関係国の数が半端ないことが良く分かるだろう。日本は西欧列強の要請により、中国山東半島の青島(チンタオ)にあったドイツ基地を急襲して陥落した。これがやがて日本の中国進出への野望に繋がると恐れられた。 ドイツは1939年8月に「独ソ不可侵条約」をソ連と締結した上でポーランド西部に侵攻して占拠。一方のソ連もポーランド東部に侵攻して占拠した。第一次世界大戦終了から20年後のこの動きが、人類史上最大の戦争である「第二次世界大戦」の引き金となった。 第一次世界大戦を契機に開発された飛行機は改良されて大型の爆撃機となり、旧式の戦車は最新式の砲と縦横無尽に野山を駆ける「キャタピラー」を備えた近代的な兵器へと変貌して行く。 ドイツの若き将校ヒトラー(左)は巧みな演説でドイツ人の優秀さをアピール。ナチス党を結成して青年をマインドコントロールした。やがてユダヤ人は有害と見なされてガス室送りとなり、精神学科学者アスペルガー(中央=アスペルガー症候群=行動障害理論の提唱者)はナチスの思想に心酔して多くの障害児を安楽死施設に送った。まさに狂気の時代であった。 リトアニアにいた日本の外交官杉原千畝(右)はドイツ、ポーランド、ロシアからリトアニアに逃れて来た大量のユダヤ人に対して、ゴムスタンプと手書きのパスポートを大量に発行してシベリア鉄道、ウラジオストックから日本経由でアメリカなどに亡命させた。彼の行為は外務省の規範に違反したとして職員録から除去されたが。近彼の名誉が復活されたのはつい最近になってからだ。 映画「アラビアのロレンス」から イギリスとフランスは当時敵対していたトルコに苦心していた。そこでイギリスは一計を案じ、トルコの支配下にあった、アラビア、シリア、ヨルダン、レバノンなどに反乱を呼びかけるためアラビア語に堪能だったロレンスをスパイとして送り、反乱が成功したら独立させると約束した。だが、結局その約束は守られなかった。しかしユダヤ人国家イスラエルは建国され、中近東国家の西欧への懐疑は未だに深いものがある。<続く>
2021.07.01
コメント(2)
~秦の始皇帝陵墓と兵馬俑~ 昨日はドラマ「コウラン伝」~始皇帝の母~を中心にして書いたが、今日は主に考古学的な話をしようと思う。秦を滅亡させた始皇帝は西安の北東30kmほどに築かれた陵墓に葬られている。築造は皇帝生存中の紀元前246年から40年近くかけて行われ紀元前208年に完成した。高さ76mのピラミッド型の土塁であるが、風雨の浸食で頂上部が丸く変形している。 歴史書「史記」によれば始皇帝の遺骸安置所周辺には水銀の川と海が作られたとあるが、信用されていなかった。ところが1981年の発掘調査時に、その周辺から水銀の蒸発が確認され、史記の記述が正しかったことが判明した。 左図の緑色ン部分が陵墓で、長方形に区切られたのが墓域。右の写真のように陵墓の周辺は農地となっている。1974年自分の果樹園内で井戸を掘っていた農民が、鍬を振るうと鍬先に堅いものが当たった。掘り出してみるとそれは人間の首。ただし陶製のものだった。驚いた農民は慌てて村の委員会に届け、知らせを聞いて駆け付けた専門家による発掘調査が始まった。それがあの有名な「兵馬俑」(へいばよう)の発見に繋がった。始皇帝陵と兵馬俑は世界文化遺産に指定されている。 埋まった状態の兵士 騎馬と戦車 戦車は100台あまり、陶馬は600体あったとのこと。 武士俑は成人男子の等身大で製作され、8千体近くある。全員が戦闘服を装備し、東に向かって起立している。兵馬俑は3か所あるが、施された彩色が損なわれるのを怖れて、発掘調査を中止している箇所もある由。なぜこれだけ大量の「俑」が作れたかと言うと、人体を部位ごとに分け、武器なども別々に作って後で合体した。つまり「分業」だったのだ。以下に分業の状況を示したい。 1)粘土を足で踏んだり、杵で突いて成分を均等にした。2)部位ごとの「型」に粘土を産める。 3)足は足の型に入れて固定する。2)複雑な顔の部分は前と後ろに分けて型を作り、後に接合する。 3)、4)体の部位のサイズが合うかどうか確かめる。 5)1体分を窯に入れて焼き上げる。焼き上がると幾分縮小する。 6)それに下地の彩色を施す。 7)下地を塗った上から最終的な色彩を施す。 8)完成形。 素焼きの兵士たちの表情は1体ごとに違っていて、まるで生きているようですね。なお今回掲載した兵馬俑の写真は全て「ナショナルジオグラフィック日本版」から借用させていただきました。心から感謝申し上げ、注記します。 最後に現在の中国の領土と、秦朝時代に始皇帝が統一した領土(濃い部分)の地図です。昔も今も異民族を征服し、同じ漢民族と戦って領土を広げて行ったこと分かります。唐の時代になるとシルクロードを通じて、さらに東西の文化が交流し、人も物も、文化や思想も広がって行きました。その最終地が東大寺の正倉院かも知れませんね。ではまた。<完>
2021.06.12
コメント(0)
~猛烈に面白かったドラマが終わって~ NHKのBSで放送されていた「コウラン伝」がつい先日終わった。~始皇帝の母~のサブタイトルがついたこの中国の歴史ドラマの面白さには、毎回強く惹かれるものがあった。ほとんどが史実なのだろうが、細部には脚色があるのだろう。実話が基礎になってるせいか話の展開がスリルに満ちている。日本では全34回だが、中国では60回の長編。半年間日曜日の夜9時から、息を殺して画面に見入っていた。 趙時代の登場人物相関図 主な登場人物は4人。秦の王族で人質として趙に送られた子楚(しそ)、趙の貴族の娘で継母の策謀で奴隷になったコウラン。彼女を買って自分の愛人とした呂不韋。彼は出世を願う趙の商人で、その野望を抱いて子楚に近づく。ところが呂不韋の愛妾であるコウランを一目見た子楚はコウランに恋して、呂不韋に譲れと申し入れる。野望に燃える呂不韋は止む無くコウランを手放す。 秦時代の登場人物相関図 数年後子楚は出身地の秦に帰国する。祖父の皇帝が実権を握り、父が皇太子になったためだ。だが趙に置き去りにされたコウランは子楚の子を産み、苦労しながら密かに育てる。何度も迫る危険から知恵を使って逃れ、呂不韋も彼女を助ける。やがて時が来てコウランと王子、呂不韋の3名は何とか秦に潜入する。だがそこでも宮廷内での果てなき権力闘争に巻き込まれる。毎回手に汗握る展開だった。 阿房宮(復元) 秦の皇帝となった子楚だったが、その地位にたのは4年ほどだが、子の政を皇太子とする。コウランは皇后となり、呂不韋は丞相(じょうそう=総理大臣)に出世していた。政は13歳で皇帝となり、自ら始皇帝と名乗る。後に天下を統一した暴君。ドラマは秦の滅亡までは描かず、最後にナレーションが流れる。呂不韋は皇帝から死を賜る前に自ら毒杯を飲んだ由。皇帝子楚の死後、コウランは愛人との間に2人の子を産んだ由。彼女は50代まで生きたようだ。 秦が統一した天下 壮大なドラマは途中で終わったが、成人した始皇帝は他の6国を攻めて服従させ、初めて天下を統一した。諸国を4度巡回し、5度目の巡回中に部下の反逆によって死す。天下統一から滅亡まで(紀元前221年~紀元前206年)を秦朝と呼ぶが、秦は紀元前905年から同206年まで36代続いた王朝で、決して短命ではなかったのだ。 始皇帝 中国の歴史は悠久だ。それにしても良くあれだけの歴史ドラマを制作出来るものだ。セットも大がかりだし出演する俳優も多く、衣装や化粧、皇宮内での凄まじい確執など、韓国の安っぽい歴史ドラマとは一味も二味も違っていた。だが「中国」と言う名の国家が誕生したのは現代になってから。それ以前は個々の民族が起こした「王朝」で、何度も国の名が変わっている。 焚書坑儒 始皇帝は暴君で自分に意見するものは、皆殺しにした。いわゆる「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)で、自分に都合の悪いことを書いた本は燃やし、意見した者は穴を掘って生き埋めにした。だが、彼が天下を取って統一したものがある。それを以下に示す。 意外と思うだろうが、彼が統一したものが1)漢字 2)度量衡(どりょうこう)=長さ、量や重さの単位 3)貨幣。そして法律を作ってそれに従わせ、各王朝が築いた「長城」を繋いで「万里の長城」とした。滅亡時に放火された阿房宮(あぼうきゅう)は、その巨大さゆえ、全焼するまでに1か月を要した由。この阿房が阿呆(あほう)の語源と言う俗説があるくらいだ。次回は彼の墓と兵馬俑を紹介したい。ではご機嫌よう。<続く>
2021.06.11
コメント(0)
~皇帝から一庶民への人生~ わずか3歳で清朝最後の皇帝(遜帝)となった愛新覚羅溥儀。紫禁城(故宮)で大勢の臣下に傅かれた日々もあったのだが、清は欧米の列強、ロシア、日本の外圧に苦しむと共に、国内では漢民族と満州族との内乱などが続いて疲弊して行った。 <特急「あじあ号」と旧満州国地図> 日清戦争、日露戦争に勝利した日本は、ロシアが保持していた満州の権益の移譲を受けて、「五族共和」を推進すべく満州国を建国した。五族とは、日本人、漢族、満州族、ロシア人、そして朝鮮族。「満鉄」は単なる鉄道会社ではなく、銀行、病院、シンクタンク、博物館、図書館などを有する国家の代行機関であり、後に国内での暴動を抑えるため、関東軍が設置された。 満州政府は広大な土地を開拓すべく、内地や朝鮮(日本と併合)から移民させた。鉄道は北京や現在のソウルまで延びて路線が拡張され、世界最速の「特急あじあ号」を主要路線で走らせた。当時統合下にあった朝鮮や台湾同様、満州においても産業を興し、医療、教育、国民の文化向上に尽力した。これらは植民地ではなく、日本は何も奪わず、むしろ多くの国家予算を投入したのだ。 清朝皇帝の座を奪われた溥儀は満州国の執政(左)となった。また弟の溥任は日本の華族の娘を妻に迎え、日満両国の懸け橋となった。娘の彗生(すいせい)は大戦後日本に留学し、日本人青年と恋愛し、天城山で心中する。中国に残った日本人妻は、戦後中国の孤児を救うなど慈善事業に余生を捧げた。右は弟溥任とその家族。 溥儀の満州国皇帝就任式。 清の皇帝の座を追われた溥儀だったが、祖国満州に日本が建国した満州国の皇帝として錦を飾った。だが、清王朝滅亡後も中国の内戦内乱は続き、満州においても満州族や漢族の抵抗が頻発し、それが「満州事変」による張作霖の爆死事件に繋がった。その間、日本は英米と戦争状態となり、ついに第二次世界大戦に突入し戦線が拡大して行く。 「南京虐殺」とされる写真 蒋介石率いる国民党は首都を南京に移転するが、日本軍による攻撃を受けると漢口に首都を移転。そこも陥落すると、さらに重慶へと移転。毛沢東率いる共産党人民軍は江西省瑞金から延安へと脱出する。いわゆる「長征」で、その地で「中華ソビエト共和国」建国を宣言。後に国民党と合作して日本軍に当たる。「重慶爆撃」は機上からの目視で誤爆が多く、後に「無差別爆撃」と非難される元となった。 溥儀は終戦前に満州に乱入したロシア兵によってロシアに抑留され、帰国後は中国共産党によって、一市民とされ、再教育のため研修施設に入所させられる。退所後は共産党に入党したものの要職には就けず、ひっそりと老後を送る。映画では幼児に戻った溥儀が紫禁城に潜入する場面で終わるが、実際の彼はごく穏やかな表情の一老人だった。 晩年の溥儀夫妻 映画『ラストエンペラー』では、第二夫人(側妃)は大戦のさ中に愛人と逃亡し、正室(元皇后)はアヘン中毒者として描かれている。上は老後の正室だがアヘン中毒患者の面影はない。映画では甘粕大尉は終戦直後ピストルで自殺するが、服毒死したのが真実だったようだ。映画は映画であり、歴史そのものではない。だが今回も偶然観た映画を通じて、近代史を学ぶ機会を与えてもらったと思っている。 「コウラン伝」より 中国の歴史ドラマ「コウラン伝」を視聴中だ。秦の始皇帝の母となった女性の数奇な運命を描くもの。同じ歴史ドラマでも韓国製とは全く重みが違う。どちらも正室と側室の熾烈な戦いの場面が付き物だが、韓国製は話がワンパターン。その点中国製はさすがと思わせるものがある。漢民族の歴史や「中華思想」が良く分かる。韓国の「ミニ中華思想」はうんざり。中国の歴史ドラマの質は高いが、現実の恐怖政治には辟易する。いや、あれが漢民族の本質なのかも知れない。夢も大事だが、現実の直視はもっと大切だ。
2021.06.02
コメント(5)
~史実とファンタジー~ TVで映画「ラストエンペラー」を観た。たまたまで途中から。かなりの長編だったが歴史好きにはたまらず、画面に見入った。清王朝最後の第12代皇帝に3歳で即位。遜帝。清国が滅亡後、日本が建国した満州国の執政、皇帝となるが、終戦後はソ連に抑留、中国共産党により収容所に収容され、一般市民となるなど波乱万丈の数奇な運命をたどる。満州族の出身で、名は愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。 溥儀の自伝「わが半生」を原作に、ベルナルド・ベルトリッチが監督と脚本を担当。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、中国の合作で1987年製作、公開。作曲家の坂本龍一が音楽を担当しつつ、満州国関東軍の甘粕大尉役で出演。中国系アメリカ人の俳優が多く、会話は主に英語。第60回アカデミー賞作品賞受賞。第45回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞受賞。2013年カンヌ映画祭で3D版として公開。 甘粕大尉役の坂本龍一 実在した人物を主人公にしてはいるが史実に忠実とは言えず、かなりファンタスティックな要素を秘めている。またストーリーの展開も過去と現実を何度も行き来し、彼と中国が置かれた歴史的な背景の説明も十分とは言えない。合間に挿入される戦争の場面は当然「借り物」。事実とは言えず、極めて恣意的な用い方だ。この映画は大胆な創作であり、歴史に重きを置いていないとも言えよう。 時代の背景を記しておこう。 日清戦争 1894(明治27)ー1895(明治28) 義和団事件 1900(明治33) 日露戦争 1904(明治37)ー1905(明治38) <幼帝と西太后> このような状況下で溥儀は皇帝となった。年齢は3歳。彼が皇帝になったのは清朝第11代の光緒帝が崩御したためであり、彼を帝に推戴したのは第9代□豊帝(感の心がない字)の側妃(第二夫人)だった西太后(せいたいこう=満州族)。大変な美人で実力者。「中国三大悪女」の一人として有名で義和団事件にも加担したようだ。清朝末期の中国は先進諸国に蚕食されて疲弊し、彼女は国政を案じどの国と結託すべきか、日夜悩んでいたのだろう。ここではそう解釈しておこう。<続く>
2021.06.01
コメント(0)
~海中の火山~ 2018年11月14日午前0時44分。桜島は南岳火口から噴火した。噴煙は4千メートルに達したと言う。私たちはかつて学校で火山の種類を死火山、休火山、活火山の3種と習った。その区分だと桜島は当然活火山。今も激しい火山活動を呈している「現役」の火山だ。桜島は阿蘇山、霧島山、開聞岳そして東シナ海に浮かぶ南西諸島の硫黄鳥島まで続く「霧島火山帯」に属している。 姶良カルデラ 今日のサブタイトルは「海中の火山」。意外に感じる人がるかも知れないが、桜島は陸地とは繋がっていても、れっきとした海の中の火山。上の図は直径約20kmの姶良(あいら)カルデラ。鹿児島湾の最奥部は丸い形で赤線の外輪山が残る。なお「霧島カルデラ」が中にあり、二重のカルデラになっている。 海の中にカルデラがあるのは、かつてそこが火山活動の「現場」だったからだ。「たぎり」と呼ばれる火山性ガスの気泡が出る箇所があるのもそのせいだ。さて、最初の噴火は約3万年前の旧石器時代に桜島付近で起こり、噴出源から半径90kmの範囲が火砕流で埋め尽くされた。また火山灰は南九州で厚さ30m、高知県宿毛市で20m、京都で4m、関東でも10cm積もったようだ。それは地面を掘って調べると、いつの時代のどこの火山灰かが分かるのだが、それにしても物凄いエネルギーだ。 姶良カルデラの名前も初めて聞いただろうが、次に紹介する「鬼界カルデラ」もきっと初耳だと思う。場所は鹿児島県の種子島の西側で屋久島の北側の東シナ海の中。左の地図の赤い丸で囲んだ場所。海の中なので分からないと思うけど、外輪山が「竹島」と「薩摩硫黄島」として残っている。「鬼界」の名は平安時代の僧俊寛らが流された島が「鬼界が島」とされたからだが、奄美には「喜界島」があって紛らわしいため、最近は「薩摩硫黄島」に改めた由。 海中の「鬼界カルデラ」 人工衛星からの撮影と船による洋上からの観測で得られた海中の姿が上の図。直径が32kmもある世界最大級のカルデラが海中にあるが、死んではいない。巨大な溶岩ドームが立ち上がり、「マグマ溜まり」があることも分かっている。海中から火山性ガスの気泡が出ている。まさに鹿児島湾と同じ構造だ。 鬼界カルデラからの火砕流と降灰の範囲 分かりにくいが上の図は、ピンクが火砕流が及んだ範囲で、オレンジ色の降灰は東北地方にまで及んでいる。先史時代以前に超巨大噴火を複数回起こし、約7300年前の噴火は、地球最大級規模だったようで、その火砕流で九州南部の縄文人は絶滅したと言われていた。高温の溶岩が海を埋め尽くして九州の海岸まで行くのだから、その量と立ち上る水蒸気の凄まじさをつい想像してしまう。 霧島市上野原縄文遺跡 ところがである。その説を覆す発見がされた。時は昭和61年(1986年)、所は霧島市(当時は国分市)。工業団地を造成中にとんでもない遺跡が発見されたのだ。何重もの地層の4層目は桜島の火山灰で縄文晩期だと判明。さらに掘り進めて9層目と10層目の境が縄文早期前葉の地層。そこから日本列島最古の大規模定住集落跡地が発見されたのだ。 鬼界カルデラ外輪山の一つである薩摩硫黄島 ことの重大にさに気づいた調査団はそこで発掘を中止して埋め戻した。そして現在は当時の住居跡を再現した縄文の森となり、展示施設を設けた。背後の海は鹿児島湾だろう。すると現地は小高い丘のようで、このため鬼界カルデラの火砕流に飲み込まれなかったのだろうか。 上野原遺跡から出土した土器 上は、同遺跡から発掘された7500年前の土器。分厚くて模様の無い不器用な土器だが、そのために破損を免れたのかも知れない。そして皮肉にも、幾層にも亘って降り積もった桜島の火山灰による「シラス台地」が地下の埋蔵品を守り、その後の開発を防いだのかも知れない。縄文は東北が最高の文化を誇っているとされて来たが、大規模定住はここが暮らし易かった証。多分日本の考古学史を書き変える発見だろう。 上野原遺跡出土土器 考古学は面白い。単なる空想ではなく遺物を通じて、その時代の人の暮らしが明確に分かるからだ。私はこの遺跡の名前は知っていたが、実態は知らなかった。こうして困難なテーマに挑み、ブログを書くためネットで調査することで新たな知見を得る。何と言う果報だろう。同遺跡はその後国の史跡に指定された由。昨晩、200万アクセスを達成した。今後も元気で頑張りたい。読者の皆様に感謝だ。<続く>
2021.05.15
コメント(2)
~最近観たテレビ番組~ 先日の夜にテレビでドラマを観た。藤沢周平原作の同名の時代小説をドラマ化したもので、布団に入って観てるうちいつしか眠ってしまった。どうやら何回分かを一挙に放送したようで、道理で長かった訳だ。しかしこれは確か以前にも観たはず。それなのにまた再放送したのは、NHKもよほど困っているのだろう。困っているのは私のブログも同じ。それでこんなことを書いている。 鶴岡公園(鶴岡城跡) 藤沢周平の小説に良く登場する「海坂藩」のモデルは山形の庄内藩だ。私は一度だけ鶴岡を訪ねたことがあった。城はもう残ってないが城跡と藩校の「致道館」が、博物館となっている。鶴岡は映画「おくりびと」のロケ地で、遥か鳥海山を望む絶景の地でもある。ただし城下町の鶴岡よりは、港のある酒田の方が栄えていて、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と民謡に謡われたほどだ。 大河ドラマ「晴天を衝け」を毎回面白く観ている。こちらは幕末から明治の話で、「歴史ドラマ」と言うべきだろう。理由は簡単。登場人物が実在の人だからだ。主人公は明治の実業家で有名な経済人の渋沢栄一だが、徳川幕府の最後の姿も明らかになる。写真は竹中直人扮する水戸藩主徳川斉昭とその七男で後に最後の将軍となる徳川(一橋)慶喜を演じる草なぎ剛。彼らも時代に翻弄された人物だ。 水戸藩藩校弘道館 東湖神社 天狗党の墓 私は水戸市でも勤務したので、藩校の弘道館や水戸城跡、藩主や藩士が心酔した国学者藤田東湖を祀った東湖神社にも参ったことがある。水戸藩はやがて佐幕派と勤皇派に二分して藩士同士が戦うと言う悲惨な結果を迎える。市内の複数の寺社には、その戦いで死んだ天狗党(尊王攘夷派)の侍の墓が今も林立し、凄惨な歴史を証明するかのようだ。 <老中阿部正弘と福山城> さて幕末の騒乱期に老中筆頭になったのが備後国福山城(上右)主の阿部正弘(上左)。ペリー来航など混乱の中で将軍家定の後継者に一橋慶喜を推したのも彼だが、心労のあまり老中在職中に39歳の若さで急死する。この後井伊直弼が大老となって安政の大獄を決行し、そのため「桜田門外の変」により暗殺された。 私は「しまなみ海道」100kmマラソンに出場したことがあるが、このスタート地点が福山城で、その前日に城内を見学した。なおゴール地点は愛媛県今治市の今治城。城から城へと100km走ったのは初めてで、良い記念になった。<続く>
2021.03.22
コメント(6)
~アイヌの話~ 昨日載せたアイヌの墓標は「クワ」と呼ばれ、死者が使う「杖」なのだと言う。元々アイヌの墓は個々の子孫ではなく集落全体で埋葬、供養するのが普通だったと言う。恐らく明治以降から1970年代にかけて、全国の人類学者や解剖学の研究者たちはこのような場所からアイヌの人骨を勝手に掘り起こして持ち帰ったものと思われる。 札幌医大標本館所蔵の人骨は「オホーツク人」と言われるようだ。アイヌと同様に元々はアムール川の河口付近に住んだツングース系の民族だったと思う。古代日本では「靺鞨」(まっかつ)などの名で知られており、後に百済の白村江で唐軍に敗れた阿倍比羅夫が、当時は渡島(わたりしま)と呼ばれていた北海道南部の蝦夷(えみし)を退治したのがこの民族だった。<続く> 書きたいことがあるのに、体調が悪くてどうしても書けません。暫くブログを休む必要があるようです。そう言う訳でどうもスミマセン。体調が戻ったら、また再開しますね。では、また。
2021.02.23
コメント(2)
~大河ドラマから知る歴史~ 2月15日月曜日は新聞休刊日で、朝から雨が降っている。これでは買い物には行けない。もうかれこれ10日近く買い物に行ってないため、冷蔵庫はほとんど空っぽに近い状態。それでも何とか食いつないで生き延びている。その後地震は起きてない。東日本大震災の時の震度は7強で、マグニチュードは9.0。その後も震度5クラスが1日に何度も起き、「地震酔い」していたあの時に比べたら全然楽だ。 さて、新しく始まった「青天を衝け」の冒頭に、北大路欣也扮する徳川家康が江戸開府から明治新政府までの歴史の流れを滔々と語りかけたのにはビックリ。もちろんあり得ない話だが、その奇抜さが妙に気に入った。第1回目に出て来た、渋沢栄一の生家の大きさにも驚かされた。まるで庄屋のような佇まい。そして青年時代の栄一が腰に大刀を帯びていたことにも目を見張った。 だがストーリーが進むにつれて、事情が分かって来た。渋沢家は養蚕や藍玉を作り、商人でもあった。それで名字帯刀を許されていた由、それで納得だ。岡部藩の「血洗島」と言う地名の奇妙さ。どうやら「荒地」を意味するみたい。しかし江戸時代の農村を髣髴させるあんなロケ地を、よくも探したものだ。あの風景を観て江戸時代の農村を偲んだ。それにしてもあれから150年で日本の風景は一変した。 さて先ごろ放送を終えた「麒麟がくる」で、明智光秀に抱いていたこれまでイメ-ジが変わった。生地や若い頃のエピソードも伝わってないそうだが、それを補ってあまりあるストーリーの展開に魅せられた。足利将軍家との関係や北陸の雄朝倉氏との関係、そして信長に仕えた経緯などが理解出来た。そして天下取りに懸ける信長の姿勢に違和感を覚えて行く光秀の心の葛藤の増幅さえも。 そして染谷将太が演じる織田信長も初めは若過ぎてどうかと思って見ていたのが、天下取りが近づくにつれて権力欲や支配欲が漂う独裁者の風体を良く体現して、さすがは俳優と感心して見ていたほどだ。一方、佐々木蔵之介演ずる豊臣秀吉はさすが。それこそ百姓から太閤に上り詰めただけあって、いかにも知恵者の成り上がり者らしさを醸し出していた。 私と光秀との関りはないのだが、全くないかと言われたらそうでもない。彼が城主だった福知山は「福知山マラソン」(フル)で走ったことがあり、彼が堤を築いた由良川もコースの一部でその橋を走って渡った。また彼の居城だった大津市の坂本城付近に泊り、翌日はそこから京都駅まで走った。また「本能寺の変」後に秀吉と戦った太閤道や山崎は大阪勤務時代の宿舎高槻から近く、訪ねたことがあった。 またお正月に見た「邪馬台国」関係の歴史番組では、「九州説」と「近畿説」の双方について丹念に論証していて面白かった。中でも近畿説については、「纏向遺跡」から3800個も出土した桃の種の話が面白かった。桃の実の呪術性と卑弥呼が執り行った「鬼道」との共通性の存在だ。そして全国各地の焼き物が出土するのは、ヤマト政権の誕生にもつながったと推理。結局2つの説以外は無理とも断じた。 同じくお正月番組だった「大仏開眼」上下は再放送で、観たのは2度目だった。聖武天皇、光明皇后の大仏建立に寄せた壮大な想いと、それを実現するために立ち上がった吉備真備や行基の苦労。そして天皇や皇后を操り、天下を我が物にしようと画策した藤原麻呂と恵美押勝(藤原朝狩)らの反逆と見所満載の一大スペクタクルで、何度見ても心が躍る。しかしNHKの金持ち加減は呆れるほどだ。<続く>
2021.02.16
コメント(2)
~地震、そしてTV番組~ 前夜は薄くなったシーツを裁ち鋏で切って、雑巾と布巾を作った。外は強い風のようだ。高ぶる気持ちを抑えて布団に潜り込んだのだが、11時過ぎに強い揺れで目を覚ました。直ぐにテレビのスイッチを入れた。震源地は福島県沖。福島の浜通りと中通り、そして宮城県南部は震度6強。宮城県北部と中部は震度6弱でマグニチュードは7,2。津波の心配はないとのこと。夜中に3度ほど起きてはまた寝た。 翌朝早く町内会の同じ班の人が安否確認に来た。大丈夫の場合は「黄色い布」を外に出すのが決まりだが、そんなことはすっかり忘れていた。カーテンを開け、シャッターを上げると暖かくて良い天気。布団を2階に運ぶ。2階の洋間2では、美術全集が倒れていた。和室の床の間のこけし、玄関ホールの重たい彫刻とシーサーの置物が倒れていた。そしてキッチンの食器戸棚の扉が開かない。自動的にロックされ、食器が飛び出すのを防止する装置が働いたようだ。 朝のニュースを観ると、常磐道の相馬市付近ののり面が土砂崩れした模様。東北新幹線は那須塩原ー盛岡間で安全確認のため終日運転を見合わせとのこと。ネットでは架線用の電柱が折れたり、高架橋が損傷したみたいで、復帰するまでには10日間を要するとのニュース。けが人も出たみたいで、ヘリコプターの音が煩い。九州の弟が心配して電話をくれた。独り暮らしの身には、ありがたいことだ。 裏のSさんのご主人が私のことを心配して声をかけてくれた。今回の地震は10年前の「東日本大震災」の余震であることや、前回の大震災で日本海溝に東西200km南北500kmに渡って亀裂が入ったことを教えると、とても驚いていた。幾つかのプレートに囲まれた日本列島は、太古から地震や噴火などの大災害に遭遇して来たのだ。 日頃の疲れと前夜の寝不足が響いたのか、午前中は買い物にも行かずに布団を干し、新聞を読み、テレビで地震のニュースを観て終わった。午後は有り合わせの材料でおかずを作ろうと頑張った。先ずはカレーライス。大根おろしと、白菜の浅漬け。焼き魚と煮魚と味噌汁。これで2,3日は持つはず。お向かいのKさんに水屋の扉の開け方を聞いた。強く叩くと扉のロックが外れる由。夕刻に再び地震。 昨夜から新たな大河ドラマ「青天を衝け!」が始まった。明治の経済人渋沢栄一が主人公らしい。もちろん名前は知ってるが素性など詳しくは知らない。何でも現在の埼玉県深谷市の農民の子だったそうだ。幕末期の農民の子が、どうしたらあのような経済人に育ったのか。大志を抱いて江戸に行き、将軍の目に留まって武士となり、欧米に留学したようだ。まさに立志伝中の人。 その人の肖像が、次の新しい1万円札のモデルになると何年か前に聞いた。各分野の新しい会社を500社も興し、しかもそれらが軌道に乗るといずれも他人に経営を委ねた人物。その経済人を韓国では朝鮮半島にとって不都合な人物を紙幣の肖像に使用したと非難していたことを覚えている。相変わらず狭い了見の国民で憐れだ。今年いっぱい、幕末と明治新政府の歴史の勉強が出来るのが楽しみだ。<続く>
2021.02.15
コメント(2)
~追補・思い出したこと~ アウンサンスーチーさんの父親、アウンサン将軍が日本の陸軍で訓練を受けていた時は、日本式の名前を持っていた由。ビルマに帰ったアウンサン将軍は、日本の敗戦が決定的になったと見るや、日本を裏切って秘密裏にイギリスと交渉したとか。いずれはイギリスからビルマを独立させると。でも彼は祖国の独立を見る前に暗殺されたようでした。 ビルマからインド奥地のインパールにいたイギリス軍を攻撃しようとしたインパール作戦。これが道なきジャングルを進む無謀なものだったようで、日本軍は全滅状態に近かったと聞きます。戦後「ビルマの竪琴」なる小説が出ましたが、これは確かそのままビルマに留まって僧になる話だったように記憶しています。小野田さんのように上官の命令を守って二十年近くもジャングルに潜んでいた軍人もいましたね。 もう一つ思い出しました。日本軍が敷設した「泰面鉄道」ですが、「泰」はタイで、「面」はきっとミャンマーの音を漢字にしたのでしょう。そしてその鉄道をテーマにしたのが1957年(昭和32年)に制作された映画「戦場にかける橋」です。これはイギリス軍の立場から描いたもので、クワイ川に架かる泰面鉄道の鉄橋を爆破する話。テーマ曲が勇ましい「クワイ川マーチ」。今でも良く覚えています。 それと映画を観て触発されたのか、1人の日本人がビルマのジャングルに潜入し、そのまま行方不明になった事件がありました。多分彼も陸軍中野学校で訓練を受けた諜報部員(スパイ)だったのでしょう。私がまだ小学生や中学生の頃は戦戦争帰りの先生がいて、得意そうに戦地の話などしていました。そして私の父は片足の半分を失いつつ、フィリピンから帰国した傷痍軍人(負傷兵)でした。 しかしあの戦争は、必ずしも否定される面だけではないと思います。あの戦争がきっかけとなって、戦後多くのアジアの国々が植民地から解放され、その意味で日本に感謝している国も多いのです。また東京裁判でインドのパール判事は、日本人戦犯の罪を認めませんでした。日本は国際法に反するような行為をしてないと認めた唯一の判事でした。だが彼の弁護も空しく多くの軍幹部が死刑となりました。 アメリカを主体とする占領軍によって日本の民主化が進められ、戦前の教育制度や歴史観、価値観、倫理観はすべてが過ちとされ、戦後教育を受けた私たちはそれを当たり前のように受け入れざるを得ませんでした。その呪縛から私が解き放たれたのは、つい10年ほど前からです。それだけ深く被虐史観が心の奥底に刻み付けられたのでしょうね。 朝鮮半島国家における「反日教育」や、中国における「南京大虐殺」の捏造や戦争映画での日本兵の悪行など、長年の「刷り込み」によって、日本及び日本人に対する敵視が深く植え付けられのも事実。しかしながら同じように日本の統治下にありながら、今でも日本に対する感謝と敬意を失わない台湾や南太平洋の島嶼国家。その差は一体どこから来るのでしょうね。恐らくは民族性によるのでしょう。話が脱線しましたが、魯迅や孫文や朴正熙(朴槿恵の父)も若き日には日本で学び、日本も彼らに協力を惜しまなかったのです。<続く>
2021.02.05
コメント(2)
~大連市・旅順博物館の展示品から~ 堂々たる双耳形の青銅製壺。肩の部分に施された円形の文様は、一体何を象(かたど)ったのか。 異形の青銅器の用途は祭祀用か。何やらたくさんの聖獣が刻まれています。透明のビニールひもで吊るされ宙に浮いているのが愉快です。 これも実に不思議な形でしょ。まるで翼を持つ霊亀のような。それとも怪獣? ズームアップすると、海獣ガメラかギメラ。 聖獣の透かし彫りのある装飾品は、文鎮か。 甘粛省張家川ウイグル族自治区の墳墓から出土した「戦車」の原図 中国ではかなり古い時代から戦車が使用されていたことが分かります。2頭の馬が戦車を牽いたみたいです。車軸の鋭い突起は武器で、近寄って来た敵を撃退するのに役立ったことでしょう。 これも不思議な形をした物体です。もしも文鎮なら「紙」が発明された後のものですからね。 博物館の一角に、明治期に日本の大谷探検隊が発掘した敦煌遺跡の人骨がありました。残念ながら撮影禁止だったため、写真はネットから借用したものです。大谷光瑞は東本願寺出身の学者で、当時流行していた西欧列強の西域探検に触発されて、探検に行ったのです。彼が発掘して持ち帰った人骨は完全なもので、現代中国によって容貌と衣装が再現され、まるで生きているように展示されていました。撮影出来なかったのがとても残念なほど、素晴らしい出来でした。以下は彼の探検隊のものです。 かなり大掛かりな探検隊だったことが分かります。相当の奥地ですから、旅程も経費も大変だったことでしょう。 砂漠を行くラクダの隊列。 敦煌莫高窟(とんこう・ばっこうくつ)だろうか。仏像に西洋の影響が感じられる。光背が天使の翼みたいですね。 壁画の一部。いずれも「大谷探検隊」で検索し、ヒットした画像です。旅先で素晴らしい博物館やその展示物を観られて良かったです。台湾では故宮博物館を、オーストラリアでは各種の博物館と美術館を20近く観ましたが、「本物」を見るとやはりどこかが違って勉強になりますね。 今日から2月。心なしか少しずつ昼の時間が増えて来たような。皆様もどうぞお元気で。
2021.02.01
コメント(6)
~大連市・旅順博物館にて(1) 昨年の1月、私は中国の大連市にツアーで行った。3泊4日の旅。仙台ー大連間の直行便を利用した、超お手軽の旅だった。目下最大の関心事は米国大統領選に関する不正事件のことだが、連日書いていると猛烈に疲れる。そこでまだ公開してなかったブログを途中に入れることにした。私が行ったのは昨年の1月初旬だったからコロナウイルス感染症の影響はなかったのだがその後は不明。そして現在は大連でも流行中と聞いた。間一髪ではないが私も何か月か遅かったら、り患していたはずだ。危ない、危ない。 <旅順博物館前のツアー仲間。先頭は現地ガイド> ツアーの白眉は何と言っても「旅順博物館」だろう。同館の展示品の大半は昨年のブログで紹介したが、今回はその残りを紹介することとしたい。なお旅順博物館は、当時の日本が関係した満州鉄道(略称「満鉄」の経営によるもので、当時の収集レベルの高さが展示されている美術品でも頷ける。 博物館正面入口 西漢時代の青銅器。左は鐘のようだ。右は恐らく祭器だろう。 どちらも宗教上の儀式に使った祭器だろう。それにしてもユニークな形だ。 たてがみがあるのを見ると馬なのだろう。胴体のわりには脚が短い。 皇帝と皇后か。それとも男女の神像か。いずれにしても厳めしさを感じる。腰を屈めて拝礼してるみたいだ。 これも上の像と同じ目的で作られたのだろう。祖先崇拝か天帝を敬うのか。 絹の布に描かれた帛画(はくが)だと思う。二人の婦人が供え物をしているようだ。 古い時代の陶器だろうか。碗の内側に天女のような絵が描かれている。(右側) 焼物の肩に耳のような形の把手が見える。双耳壺(そうじこ)と呼ばれる物かも知れない。 銅製の太鼓。「銅鼓」(どうこ)と呼ばれる物かも知れない。宗教儀式か戦いの際の合図用に打ち鳴らされたのだろうか。 銅製の背の高い壺か。蓋(ふた)の部分に神聖な獣(獅子か)が寝そべっているのが見える。 共に青銅製の祭器だろう。独特の形がとても珍しく感じる。 こちらも青銅製の重厚な祭器。脚は多分6本で、下部に精密な装飾が施されている。 宇宙人の帽子みたいな謎の物体。 やっぱり宇宙人だ。ともかく殷(商)の時代の青銅器には、不思議なものがいっぱい。<続く>
2021.01.30
コメント(8)
~野望と変貌そして~ ユリアス・カイザル ユリアス・カイザル(紀元前100-紀元前44)は共和制ローマ期の軍人で政治家。英語読みのジュリアスシーザーの方が良く分かるかも知れない。「賽は投げられた」。「ルビコン川を渡れ」。「ブルータスお前もか」彼が放ったセリフを知る人も多いはず。若い時から戦い続け、「終身独裁官」に上り詰め、エジプトをあのクレオパトラと共同支配し、彼女との間に息子カイサリオンを設けた。 ガリア戦記 相次ぐ戦いの中で、彼は「ガリア戦記」などを著す。ガリアは現在のフランス。戦った相手はゲルマン民族だった。紀元前45年から「ユリアス暦」を使用し、1582年にグレゴリア暦に変わるまで1600円以上ヨーロッパで採用された。July(7月)は彼の名ユリアスから採り、「ブルータスお前もか」は暗殺された際の言葉。聖書には「神のものは神に、カイサルのものはカイサルに返しなさい」の聖句がある。 キャンベラの街で、黒い帽子を被った一団に出会った。「あっ、これはユダヤ教の人」私は直感した。イスラム教祖のムハンマド(右)も元はユダヤ教徒。それがある時砂漠の中で神の啓示を受け、アラーを信じた。砂漠を旅する商人の彼を救い妻となったのが女の隊商だった。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教が一神教であるのは、砂漠のような過酷な環境で生き抜くためには、唯一無二の神が不可欠だった。 フランシスコピサロはスペインの人。スペイン王と神聖ローマ帝国の許可を得て、ペルーのインカ帝国を攻略。インカの財宝をことごとく奪い、金銀製の美術品は鋳つぶし延べ棒にして本国に持ち帰った。メキシコのマヤ文明も然り。征服後やって来たカトリックの神父によってキリスト教に改宗させられた。先住民の宗教施設を破壊し、その上にカトリックの教会を建てたのだ。 ロヒンギャはミャンマー(ビルマ)国内の異民族でイスラム教徒。ミャンマー国内に100万人ほどいた少数民族だが、差別を受けて隣国バングラデッシュに難民として脱出。現在ミャンマー内にはは60万人ほどしかいなくなった由。軍事政権と結託するアウンサンスーチー派も援助せずに見殺し状態。それがかつてのノーベル平和賞受賞者の現状。コロナ禍の今、彼ら難民はどんな暮らしをしているのだろう。 ストーパ(後ろの仏教に因む円形の建造物)を守るヒンズー教風の門(左)と日本の鳥居(厳島神社) コブラを背後にしたヒンズー教の神(左)と日本の竜神様(右) 太陽(日輪)を背にしたガンダーラ仏(左)と船形光背を持つ日本の仏像(右)。 チベットの歓喜仏(左)と男女の道祖伸(日本) 左からヒンズー教のリンガ(シヴァ神の象徴) 中央は巨大な道祖伸 右は縄文時代の石棒 長命と子孫繁栄の祈りは、時代や国の相違を超えた人類共通の願いなのだろう。自然豊かなアジアでは多神教が普通で、複数の宗教や民間信仰が混合してるのが特徴。そして日本古来のものと思われたものにも、古い時代に海外から伝わった事例もある。古来人類は移動し、文化や言語を伝えて来たのだろう。歴史と文化の遥かなる旅。それをなしうる唯一の存在が人類だ。 <祖父と孫 その2> 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は飛鳥時代の武将。斉明天皇4年(658年)、秋田県沿岸部の蝦夷(えみし)を征伐し、翌年は渡島(北海道南部)に来ていた粛慎(みしはせ)を征伐。それらは天智天皇元年(664)の白村江の戦(右)のための訓練だった。百済からの援軍の求めに応じ船200艘で参戦したが、唐と新羅の聯合軍に敗れた。大宰帥(だざいのそち=大宰府の長官)に任じられ、国防に努めた。 比羅夫の孫が阿倍仲麻呂(698-770)。奈良時代の遣唐留学生として遣唐使に同行し長安で学んだ。後に玄宗皇帝に仕えて文学畑の役職に就き、李白などの文人と親交を結んだ。遣唐使と共に3度帰国を試みるがいずれも船が遭難。長安に戻り、衛尉卿や秘書監などの要職に重用された。右は近年西安に建立された記念碑。故国日本を偲んで詠んだとされる 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも が百人一首に採択された。 青ユズ たまたま観たテレビ番組から始まったこのシリーズが20回近くなった。大好きな歴史について語るのは何よりの喜びだが、いざ公開するとなればあまり不正確なことは書けない。そのため下調べをして構想を練り、載せる写真と文章の内容や順番にかなり神経を使った。そのため思い切って「お気に入り」を整理して執筆に没頭し、ようやく新聞も落ち着いて読めるようになった。 ハーブ わずかながら知ってることはある。それを足掛かりに、知らないことをネットで調べて補足した。またネットから借りた画像を参考資料としたことも多い。そんな作業の末にようやく本日最終回を迎えた。だがまだ書き残したような気がする。未使用の写真はいずれ特集を組むとして、明日から新たなシリーズに入る。最後までお付き合いいただいた読者各位には深甚の謝意を表したい。最後まで頑張れたのは、物言わぬ読者のアクセスがパワーの源だった。 ホトトギス草 不思議なのは知っていたわずかな知識に、調査で得た知識が加わったこと。「なるほどそういうことか」。新旧の知見が重なってより深まる理解。今まで見えなかった部分が見えて、長年の謎が解ける。「知らざるを知らずと為す。これ知るなり」。論語の一節だがまさに真理。疑問の持続と知に対する謙虚さが発見への近道だ。これからも大いに恥をかこう。人生も、そしてブログも。 <完>
2020.10.23
コメント(0)
<信仰・侵攻・祖父と孫> <玄奘三蔵(三蔵法師)> 玄奘(602-664)は唐代の訳経僧。629年陸路でインドへ向かい、途中各地で巡礼や仏教研究に励む。645年657部の経典と仏像を携えて帰国。以後持ち帰った経典の翻訳に励み、それまでの過ちを正す。法相宗(ほっそうしゅう=薬師寺や興福寺の宗派)の開祖となる。インド往復の旅を「大唐西域記」に著す。三蔵法師は尊称。 これが彼が辿ったルート。インドやネパールでは仏教の聖地を巡った。高峻なパミール越えや摂氏50度を超える猛暑の火焔山などルートは厳しく、盗賊に遭ったりもした。シルクロードのオアシスには仏教を信奉する小さな王国が点在していた。著書は「西遊記」のモデルとされ、映画化もされた。釈迦が生まれた地を訪れ、真の仏教を学びたいとの一念が実現させた大旅行だった。 1) 2) 3) 1)は三蔵法師が建立に関わったと伝わる長安大慈恩寺の大雁塔。その傍に立つ石塔が2)。その最上段に刻まれた文字を拡大したのが3)である。ここには「大秦国景教流行中国碑」とある。「大秦国」とは当時の東ローマ帝国のこと。「景教」は「ネストリウス派キリスト教」のこと。それが唐に伝わったことを記念して建てた石碑と言う意味だ。 431年同派の教えは皇帝によって異教となされ、信者は止む無く隣のペルシャに逃れた。7世紀ごろにはそれが中央アジアを経由して中国に伝わり、長安に「大秦寺」と称するキリスト教寺院が建てられたようだ。石碑はそれを証明するもの。なおマニ教、ゾロアスター教(拝火教)、とこの景教が「唐代三異教」とされているそうだ。<戦争と民族の移動> アレキサンダー大王 古代ギリシャ、マケドニア王国の若い王がヘラクレスの子孫と伝わるアレキサンダー(紀元前356-紀元前323)。哲学者アリストテレスを師として学び、20歳で王位継承後、アケメネス朝ペルシャに侵入して征服し、その10年後にはインドに到達、彼の地にヘレニズム文化を伝播した。帰路バビロニアで熱病により33歳で病死。 左はアレキサンダー大王の遠征経路。アフガニスタンにはギリシャ系住民がわずかながら暮らしている。恐らくは2300年前の遠征時、現地に残った兵士の子孫だろうとのこと。右はガンダーラ遺跡の石仏。容姿や衣装にはヘレニズムの影響が色濃く残る。まさに東西文化の融合の象徴。人の移動は文化や宗教にも大きな影響を与える何よりの証拠だろう。私は中学の教科書で学んだと思うのだが。 「ゲルマン民族の大移動」も懐かしい言葉だが、深い意味は知らなかった。先ず中央アジアの「フン族」遊牧民で「匈奴」との説がある。4世紀彼らが西に向かって攻め入ったのがこの大移動の始まりだった。原始ゲルマンには、デンマーク人、スェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロサクソン人、オランダ人、そしてドイツ人の祖先が含まれる。 <戦うフン族の兵士> 彼らはフン族の侵入により、トコロテン式に移動を余儀なくされた。その結果ローマ帝国は東西に分割。一方民族移動の原因となったフン族だが、5世紀半ばにアッティラ王が王国を統一したものの、王の死後王国は瓦解した。 モンゴル族の最大版図(左)と元の皇帝フビライハン(右) 蒼き狼ことモンゴル族の英雄チンギスハン(成吉思汗ジンギスカン)は勇猛なモンゴル族の傍系として生まれたが、持ち前の実力をいかんなく発揮して、最後にはモンゴル族を率いるハン(汗=王)となった。モンゴルの草原から遥かに遠いヨーロッパに侵攻し、孫のフビライハンの時代には、最大の版図が左上にまで拡大。領土は当時の世界の4分の1、人口は世界の半分を占めたと言う。 チンギスハン(左)と発掘された彼の陵墓(右) 馬に乗って移動するモンゴルの兵は強い。気性も粗く、抵抗する者は皆殺しにし、敵の女を自由にした。そのため中央アジア各地の民族には、かなりの率でモンゴルの血が混じっているようだ。また大国ロシアは、今でもなおモンゴルを脅威と感じていると聞いた。きっと祖先たちが味わった恐怖の記憶が強く残っているのだろう。 季節外れのタカサゴユリ さて困った。今日で終わると思っていた「付録編」だが、思ったより文章が長くなり書けなかった分が少し残った。そんな訳で明日もまた雑談になるが、ご辛抱願いしたい。ではまたね。<続く>
2020.10.22
コメント(2)
~それぞれの旅~ NHKのドキュメント番組「シルクロード」と「海のシルクロード」の話は終わった。ここからは私版の「付録」。いわば歴史に思いを致す余りの「妄想」みたいなもの。15回のシリーズを書きながら、番組では出なかった歴史と旅に関する逸話をもう少しプラス出来ないかと迷っていた。今回は何人かの人物に光を当ててみたい。ただ私にそんな力があるかが問題だが。<2人の色目人> <タタール族の服装で> <東方見聞録> 男の名はマルコポーロ(1254-1324)。ヴェネツィア共和国の商人で冒険家。若くして父に連れられてヨーロッパ各地を巡り、17歳の時に叔父とアジアに向かった。1266年元の都大都(現在の北京)で皇帝フビライハンに謁見、政治官を任命され、楊州、蘇州などで徴税の実務に就いた。彼がイタリア語の他フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語に精通していたことが大きな理由だろう。 当時の楊州(後の揚州)は貿易港で、イスラム教徒も住んでいた。西域からの使者を送ると言う名目で彼は帰国を許され、17年間滞在した中国を去り福建省の泉州から船で帰途に就いた。ペルシャ(現在のイラン)からカスピ海沿岸を経由して1295年故国に帰った。24年間の大旅行について記したのが「東方見聞録」。日本も黄金の国ジパングとして登場し、南蛮船来航の引き金になったとか。 マルコポーロが辿った旅程。赤が往路で、緑が復路。文字通りユーラシア大陸を横断し、海路も2年を要するほど難儀、帰国後も逮捕されるなどで結婚したのは老年になってからと言う。 2人目の人物は鄭和(ていわ 1371-1434)。明代の武将で12歳の時に永楽帝の宦官(かんがん=後宮に入るため睾丸を抜かれる)として仕え、軍功を上げて重用され1405年から1433年まで7度の大航海の指揮を執った。最後の航海を終えたのは死の1年前と言う苛烈さで、到達した最遠の地は現在のケニア。本姓は馬だが「三保大監」の通称で知られる。大監は当時の役職名。 鄭和の祖先はチンギスハンの大遠征時に服属したイスラム教徒。祖先は雲南省の開発に従事。鄭和はその6世で、昆明で生まれた。大航海の指揮を命じられたのはイスラム教徒としての知識と語学力を買われたのだろう。当然だがマルコポーロの帰路と共通するところが多い。 マルコポーロも鄭和も当時は「色目人」(しきもくじん)と扱われていた。現在のようにイタリア人とかイラン人とかではなく、「異国から来た人」ほどの意味か。ただし当人に力量があれば要職に取り立てられることもあり、この2人が良い手本。国際色豊かで世界の富を集めた元の栄華が偲ばれる。その力が日本への攻撃=元寇となって現れた訳ではあるが。 守礼門 鄭和の本姓「馬」で思い出した。かつての琉球王国にも「馬姓」があった。ただしそれを名乗るのは中国に行く人だけ。琉球王国は当時中国の冊封体制下にあり、進貢していた。その使いが中国で名乗るために必要な姓で、貴族や有力な武士(さむれー)が名乗った。一族がその「姓」で集結し、「馬姓○○」と各自の苗字がその後に続く。一族の共同墓地である「門中墓」(むんちゅうばか)がその名残だ。 進貢船 琉球の進貢船は中国が建造して与えた。また東南アジアとの貿易には必ず中国人が乗り込んだ。通訳のためで、中国には各国語に通じた人材がいたのだ。船も人も借りた。その中国人の幾人かが琉球国に帰化した。その子孫が中国の旧姓を名乗るケースもあった。琉球の貿易はバーター貿易で、A国にはB国の品をB国にはC国の品をと取っ換え引っ換えして利益を増やした。 ただし中国に無くて琉球にある唯一のものが「硫黄」。硫黄は火薬の原料の一つだが、火山がない中国では産しない。奄美諸島の西に「硫黄鳥島」と言う島があり、ここで硫黄が採れた。17世紀初頭から琉球王国は島津藩の管理下となり、徳川幕府も島津に琉球の貿易を許していた。琉球からの進貢品に対して、中国の歴代王朝はその数倍もの品を与えた。船も通訳もその礼と言えようか。島津が硫黄鳥島をそのまま琉球領とした理由はそこにある。今なおポツンと離れた奄美の中の「沖縄県」だ。 サツマイモもサトウキビも琉球が中国から密かに持ち帰ったもの。薩摩藩は金になるサトウキビを琉球に作らせて税として納めさせた。そのため琉球は痩せた土地にサツマイモを植えて飢えを凌いだ。飢饉の際はソテツの実を灰汁抜きしないで食べ、多くの死者を出した歴史。それがサツマイモで救われたのだ。やがて薩摩から全国にサツマイモとして広まり、日本全体が飢えから救われた。 19世紀半ばまで続いた琉球の貿易の富は、そのほとんどを薩摩に奪われた。奪われた琉球側は、離島の農民に過酷な税を課した。いわゆる「人頭税」だ。ある背の高さまで育った子は一人前と見なして課税。中国と島津への二重帰属の長い労苦を思えば、幕末の維新活動は琉球の犠牲の下に為し得た成果とも言えよう。あくまでも個人的な見解だが、一抹の理はあると思う。<続く>
2020.10.21
コメント(2)
~長安へ還る~ 再放送「海のシルクロード」最終回のサブタイトルが~長安に還る~だった。この前の「シルクロード」の取材班のスタート地点が隋や唐の都だった長安(現在の西安市)で、そこからシルクロードの幾つかのルート上の風物を紹介し、ローマがゴール、今回の「海のシルクロード」は逆にローマをスタート地点として、海路で中国に戻り、大運河経由で長安(西安)に還った由。最初の取材から40年以上も経過した。その壮大な企画に驚く。 大慈恩寺境内に立つ「大雁(だいがん)塔」が画面に映った。西安のランドマークで、西域に向かう旅人は何度もこの塔を振り返りつつ長安に別れを告げたのだろう。玄奘三蔵(三蔵法師)が造営に関わったとされるこの塔は、既に700年代には傾いていた由。地下水の汲み上げでさらに傾きが増したが、その後の改善で少し戻ったそうだ。 長安は前漢、北周、隋などの都。唐代、近隣の諸国は都城建設の手本とした。シルクロードの起点であり、西都、大興、西京などとも呼ばれた。宋代以降は大運河と黄河が交わる開封に首都の座を奪われ、政治経済の中心から外れた。現在の西安市は市区の人口が987万人。西安碑林などを有する歴史の都として観光客の人気が高い。なお開封の地下には7つの時代の城跡が層をなしている由。度重なる黄河の洪水の大量の土砂に埋まったのだ。恐るべし黄河。 城門脇で発掘する作業者たち。発掘調査終了後、長安当時の城門を復元再建する予定とTVの解説。30年前の取材なので現在は見事な城門が見られるはずだ。 画面に寺院と仏像の修復作業が映ったが、場所がどこかは不明。 画面には中央アジアの人々や、シルクロードの石窟と仏像が映った。恐らくは以前の映像から抜粋したのだろう。 「シルクロード」第1部(12集)は1980年(昭和55年)の放送。そして第2部(18集)は1983年(昭和58年)からの放送。そして今回再放送された「海のシルクロード」は1988年から2年かけて放送された。もう昭和の最後だ。かつてのテーマ曲、喜多郎のシンセサイザーが懐かしい。 最初の取材からだと45年は経っているはず。一体そのうち何回番組を観たのか。中央アジアの男の精悍な顔や、パミール高原の峻険な山並みを思う。そして遥かに遠いわが家の歴史を思う。まだ幼かった子供たちが40歳を過ぎ、一番上は50に手が届くころ。しかし素晴らしい番組に出会えて良かった。まだ見ぬシルクロードの光景を、脳裏に思い浮かべることが出来るのだから。 今年も始まった「正倉院展」。私もこれまで2度観た。奈良の正倉院こそ、シルクロードの本当のゴール地点かも知れない。中には既に現地では失われたものもあると聞く。遥かヨーロッパやアジアから、陸路や海路を渡った宝物が、大切に保管されて来た古都奈良。だが隣の大仏殿ですら、何度か焼けている。正倉院も一度出火したが、扉を壊して中に入り、何とか消火したようだ。 多賀城南門復原図 最北の政庁。陸奥国府多賀城。現地では目下南門の復元工事が進んでいる。政庁付近の建物跡から、つい最近白磁の破片が発掘された。当時の役人が使用した物だが、多賀城が平安末期まで政庁として機能し証だ。奥州藤原氏三代の居館である「柳之御所」跡からは大量の青磁や白磁の破片が出土している。日本海を通じた交易ルートの存在を思う。そしてシルクロードが北の大地まで延びていたと信じたい。<続く>
2020.10.20
コメント(4)
~大運河の風景~ 「京杭大運河」を行き来する船の列。南の杭州から北の北京まで約1800kmにも及ぶ大運河の開削が始まったのは紀元前5世紀。そして隋の煬帝(ようだい・ようてい)が完成させたのが6世紀。つまり千年近くをかけての一大土木事業だった。日本の遣隋使や遣唐使もきっとこの運河を利用したのだろう。そして今もまだ現役の運河として生活に欠かせない存在だ。 運河の畔に建つ「古運河」の石標(左)と運河の所々にある閘門(右) 大運河は途中で長江(揚子江)と黄河を横切る。かなり水位が異なり、それを調整するための施設が閘門(こうもん)。パナマ運河にもこれの大掛かりなものが複数あり、大型船の航行が可能。もちろん古代にはこんな施設はなく。舟人の苦労が偲ばれる。長江の三峡ダムの直ぐ傍にも、大型船を通行させるための航路と閘門がセットであるそうだ。さすがは大河だけあるねえ。 「大運河」を完成させた煬帝の陵墓は水田の中にあり、他の皇帝の陵墓に比べれば、規模も体裁も実に貧弱。その理由は朝鮮の高句麗征伐にも失敗した挙句、大運河の土木作業に多くの民を使役し、その恨みを買ったためと言う。そのせいで隋は滅び、新たに唐が興った。 煬帝の霊を慰めるセレモニーのようだが、画面からはどこか冷めた感じを受けた。 既に通過した揚州には幾つかのイスラム教の寺院がある。ここもその一つ。杭州にはひと頃500人ほどのイスラム教徒が住み、海のシルクロードを介した貿易で巨万の富を築いたと言う。ところがそれを妬んだ賊に襲われて滅亡、以後貿易の拠点は福建省の泉州や広東省の広州に移った由。確かに広州にはイスラム教の香りがプンプン匂っていた。なるほどそういうことだったのかとようやく納得。 重厚な石の門の奥に一風変わった墓が見える。そして画面には右のテロップ。死者の名には漢字の当て字も。やはり異民族で、便宜上漢字の名を当てたのだろう。 写真はきっと死者の名だと思われる。アラブ系ならアラビア語、イラン系ならペルシャ語。墓碑銘に見る古く長い東西交易の歴史。だが広州のイスラム教徒はブタを食べた形跡があった。ひょっとして彼らは漢民族だったのか。 取材班は大運河を離れ、最終目的地である西安(かつての長安)へと向かう。このレポートも終わりに近づくころだが、話をどう展開させるかと頭の中でストーリーを組み建てる日々。書き手だけが知る苦しみで、かつ喜びでもある。翌朝前日のアクセス数を確認しながら、名も知らない誰かが日本のどこかで読んでいると感じて嬉しい。間もなくゴール。ガンバレ自分。<続く>
2020.10.19
コメント(4)
~「京杭大運河」で西安へ向かう~ たまたま観た「海のシルクロード」の再放送。もう31年も前の放送だが、取材には1年くらいかかったみたい。前回は最終回の画面のうち陶磁器の名産地、景徳鎮を紹介した。引き続いて「中国の陶磁器」を特集で3回組んだのは中国の陶磁器の素晴らしさを実感してもらうため、私が今年の1月旅順博物館で撮影したものを参考として載せたのだった。 <ネットから借用した揚州の風景> 今回は「京杭大運河」の入口にほど近い都市、揚州の紹介から始めたい。かつては木偏で「楊州」と書かれ、隋の時代から存在した都市。その後手偏の「揚」の字に変わった。広域(中国の県、特別市、それよりも広い地域と、日本の行政区とは大きく概念が異なる)での人口は460万人。そして市域だけに限った人口は118万人とウィキペディアにある。 「人生ただまさに揚州に死すべし 神智山光は墓田によし」。「もしも願いが叶うなら揚州で死にたい。神が作った風光の明媚さは墓所とするにも良い地だ」とでも言うべき古代の文人の漢詩。古来揚州には人を魅了する要素を数多く秘めていたのだろう。テレビの画面に多くの寺院の姿が映ったが、その全てが揚州に在るかは確かめようがないが。 運河の畔に建つ仏塔。高僧鑑真もここ杭州の生まれ。若くして仏教を学び、遣唐使として仏法を学びに来た日本の僧侶から、日本で仏法を説いて欲しいと熱心に乞われる。熱意に打たれた鑑真は日本へ向かう。だが船は嵐に遭って難破。6度目で渡海に成功した時、鑑真は盲目になっていた。度重なる艱難辛苦が視力を奪ったのだ。聖武天皇に乞われて唐招提寺住職となり、死の直前まで戒律を授け仏法を説き75歳にて入寂。 若くして律宗と天台宗を学び20歳で長安の都に上る。後に揚州大明寺住職となるが、前記のとおり日本僧に乞われ6度目で種子島に漂着。以後平城京にて日本の仏教の発展に寄与する。 若葉して御目の雫ぬぐはばや 芭蕉 日本への渡海に何度も失敗した挙句失明した和上。その尊い木像を拝した芭蕉は和上の頬に伝わる涙を、柔らかい若葉で拭ってあげたいと感じた。和上の信念と寛容と畏敬を感じた俳人が、思わず詠んだ一句。文学を極めた者にしか詠めない慈愛に満ちた句だ。 東林寺の山門と扁額(左)。奥には「大雄宝殿」の扁額を戴く建物が見える。「大雄」は釈尊の意で「宝殿」は「金堂」の意。取材班は静寂な境内に入って行き、僧侶が勤行をしているお堂を訪ねる。 スリランカの寺院の境内の巨大な涅槃仏(ねはんぶつ)。下はスリランカの寺で修行中の揚州東林寺出身の僧侶。たまたまスリランカで彼を取材したNHKは彼の画像を見せに、わざわざ彼を派遣した東林寺を訪れたのだ。東林寺には彼の弟がおり、仲間と共に兄の姿に見入った。遠く離れて仏教を学ぶ同志。30年前の画像なのに、中国全土で荒れ狂った「文化大革命」の影響は無さそうだ。旅は続く。<続く> <お断り> 写真の順序や説明は筆者の見解に過ぎないことをお断りします。また読者の理解のため、放送にはなかった画像も参考資料として挿入しています。
2020.10.18
コメント(4)
~景徳鎮の窯場にて~ 景徳鎮の川港 ここは景徳鎮(けいとくちん)。昔から有名な焼物の産地。あの「お宝鑑定団」でも時々耳にする名前だ。江西省東北部にある地方都市で人口は101万人。昨日載せた煙突の煙は焼物を焼くときの煙。高温を持続させるため、燃料として赤松の丸太を燃やすそうだ。ここの歴史は古く、前漢(紀元前206~8)には既に陶器の生産を始めていたと言う古さ。 陶器製造の工場街 元の名は「原平」。それが北宋時代の年号「景徳」を町の名とする。宋代(960~1279)には青白磁の梅瓶が宮廷で用られる一方、遥々ヨーロッパやイスラム圏へも輸出されたことで「china」が陶磁器を意味する元となった。その後明代から清代にかけては大量生産体制が確立した。中国陶磁器名産地である「四大名鎮」の一つ。日本へは江戸前期に舶来し、「南京焼」と呼ばれていた。 生産工場の窯場へ続く道 そんな栄光の歴史を持つ景徳鎮が、これほど寂れてしまったのは、中国全土で荒れ狂った「文化大革命」の際、高級な陶磁器は「旧文化」として迫害され、紅衛兵による破壊活動を受けたためだ。それでも何十かの窯場は残り、今では庶民の生活に欠かせない商品を中心に生産している。また高級品の製作と焼成は企業秘密として、取材班の撮影は許されなかった。 焼く前に天日で干される作品群。変形を防ぐために必要な措置らしい。そして均等に風に当てるため、作品は斜めに並べている。 店先に並べられた商品は、生活必需品としての陶磁器だろうか。 捨てられた陶磁器の破片 川の向こう側の山は陶土を採る山だが、取材班が近づくことは許されなかった。景徳鎮の陶土はガラス質「長石」を多く含むため、薄くても強く堅い磁器が作れるようだ。「ろくろ」は日本と逆で「反時計廻り」に回転させ、陶器の破片で土を削りながら成形して行く。 窯では赤松を長時間燃やす。窯の中の作品に直接炎が当たらないよう、「特別な容器」に入れる由。焼き上がった際に、作品の表面に「むら」が出来ないための独自の工夫。 陶磁器を満載したジャンク船が長江を下って行く。行き先は一体どこなのだろう。 テレビの画面に一瞬だけ映った磁器は「上海博物館蔵」のタイトルがついていた。 次に写ったのはオランダの博物館の内部。インドのゴアにあった「東インド会社」を通じての貿易品なのだろう。恐らく景徳鎮をはじめとする中国の高級陶磁器の収集としては、世界でも有数のコレクションと思われる。 エジプトのカイロから出土した磁器の破片の写真と、ゴミ捨て場で拾った破片の絵柄を比較してみる取材班。すると、オランダやエジプトへも取材に行ったのだ。そしてシャム湾(タイとカンボジアの南側にある)には、中国の陶磁器がきれいなままで残された沈没船が沈んでいる由。なるほど、景徳鎮の陶磁器が船に積まれてエジプトやヨーロッパに運ばれたルートつまり「海のシルクロード」が目に浮かぶ。 明日からは「俳句教室」の準備のため、一旦このシリーズから離れます。ただし「特別企画」を2,3回分臨時に挿入します。あっと驚く美しい写真。しかも今日は見られなかった超豪華なお宝です。「鑑定団」に出るような物とは別格。観るだけでも10万円の価値はあるでしょう。何せ私が現地で必死に撮った珍品で一見の価値あり。これほんとのことアルヨ。ではまた。 <不定期に続く>
2020.10.14
コメント(2)
<遥かなる旅と謎の道草> 外は雨。まだ青いユズの実が雨に濡れている。私は窓際の机から外を見ながら、思案を繰り返していた。さて、どんな風に今日のブログを書き進めるか。写真の整理は済んだが、話の展開が問題。何年か前から良く「字」を忘れる。パソコンで変換する場合は問題ないが、自筆の場合はそうも行かない。そんな時は先ず横線を一本引く。それをきっかけに「字の形」を思い出そうとの寸法だ。文章もそれと同じ。何でも良いから取り敢えず入力する。その先は気分次第。ケセラセラ。 前回分の翌日は、新聞のTV欄を確認した。夕方の6時から放送があると分かった。その時刻が来てリモコンのボタンを押して映ったのがこの画面。ほほう。今日がいよいよ最終回か。しかしなぜ「長安に還る」なのか。しかも長安(現在の西安)に行くのに、なぜ長江(揚子江)なのだろう。番組が進むにつれてその謎が次第に明らかになるのだが、それは全部観終わってからの話で、途中は。 現在地は長江河口に近い上海付近。どうやら西安へは黄色い文字の「京杭大運河」経由で行くみたいだ。何のためかはまだ分からない。中国の南北を貫くこの大運河は北の北京と南の杭州を結ぶもの。それで「京杭」なのだ総延長約2500km。日本列島がすっぽり収まる。そして完成後1300年ほどになるだろうか。「南船北馬」の言葉を思い出す。中国の南部は河が多いから移動は船が便利。しかし広大な北部は馬での移動が一般的だった時代の話だ。 長江ですれ違う船は巨大だ。そのデッキに大勢の人が見える。確かにこれだけの大河だと、大型船の航行が可能なのだろう。しかし取材チームが乗った船は揚州から運河へは入らずに、ひたすら西へと向かう。まだまだ謎は解けない。 上を車が通り、下を列車が通る二重方式の「南京大橋」。しかし川の濁りが半端じゃない。黄河なら分かるが、ここは揚子江(長江)のはずなのに。そして南京と聞いて思い浮かべるのは例の「南京大虐殺」。日本軍が南京市民30万人を虐殺したと主張して歴史遺産にも登録され、残虐な人形を陳列した博物館も建っている。すべては中国のプロパガンダの嘘。偽りが今では真実の歴史と認められてしまった悔しさ。 突然画面に映ったこの湖の名前は、今年知った。長江の中流から下流にかけては大小20以上もの湖沼がある。いずれもかつて長江が氾濫した河跡湖なのだろう。中には琵琶湖の20倍も大きいのまである。今夏長江の大洪水の際、「三峡ダム」の崩壊を防ぐためダムの水を放水したため増水。大都市を洪水から守るため土手を爆破して、農村部を「遊水池」代わりにした一つがこの湖だったと記憶している。 しかしなぜこの湖へ入ったのだろう。これじゃ西安へ行くには遠回り。と言うか、まるきり方向が違うではないか。取材クルーが乗った船は湖からさらに一本の川に入り、やがてとある川岸で停まった。目の前にはたくさんの工場らしき建物と、煙突から立ち上る黒い煙。おいおい。これは中国の大気汚染を伝える番組じゃないんだよ。「海のシルクロード」なんだけどなあ。心の中で叫ぶが、謎は深まるばかりだった。<続く
2020.10.13
コメント(2)
~「海のシルクロード」・途切れた地図~ インドのコショウ村(左)とインド洋を行くダウ船(右) 30年も前にNHKが取材・制作した「海のシルクロード」の再放送を4回分観て書き始めたこのシリーズだが、激しい疲労感のため一時休止していた。私が今回観たのはペルシャ湾のバーレーン半島から、インドの突端コモリン岬まで。それでは中途半端なので旅はまだ続くはずだが、確信が持てないでいた。それにしても初めて観る画面の風景をもとに文章を書くのは並大抵の苦労ではなかった。 同番組を観なくなってから12日目の夕方。何気なくTVを点けたら、なんとまだ放送が続いていた。「第10集・中国の門」とあるが、それは最後に分かったもの。その日観たのは30分過ぎた後半からで、慌ててデジカメを持ってTVの前に陣取った。ところが何が何だかも場所がどこだかも分からない。ただ気になった場面を思いつくままシャッターを切っただけ。撮った写真の整理にも手間取った。 この船を観て多分中国だろうと思った。しかし、コモリン岬からだと、ミャンマー(当時はビルマ)、タイ、マラッカ海峡、インドネシア、カンボジア、マレーシア、シンガポール、ベトナムは観なかったことになる。フィリピンもその可能性が高い。途中が飛んで五里霧中だが、それでも再度番組を観られて良かった。ただ疲労した心身で写真を理解するのが一苦労。中国の一体どこなのかと。 その答えが「食は広州に在り」のネオンサイン。広東省の省都広州だ。中国の南部に当たり、香港にも近い港町。宋朝や明朝時代、冊封体制下にあった東南アジア諸国からの進貢(貿易)船が入港したのがここ広州。ただし琉球王国と日本の貿易船は、北隣の福建省の省都である福州に入港するのが約束事で。中国との貿易には厳しいルールを守る必要があった。密貿易を防ぐための措置だと思う。 参考までに華南地方の地図を載せておく。華南は「中華」の南部の意味。福建省(若草色)も広東省(青い色)も共に沿岸部にあり、良港に恵まれて昔から海運が盛んだった。このため「海のシルクロード」としての機能を有していたのだろう。そしてその訳が次第に分かるようになる。 漁船に張り付けられた「所属港」の証明票。直感だが、港の名はいずれもイスラム教に関係するように思う。 <スラム教徒が住む地区(左)とアラビア語の掛け軸(右)> 新疆ウイグル自治区から来たこの人はウイグル族で、やはりイスラム教徒だ。 「南海神廟」。聞き慣れない名前だが、恐らくはイスラム教の寺院だと思われる。ただし中国の寺院は色んな宗教の「ごった煮」で儒教、道教、民間信仰なども併せて祀られていることが多い。中国南部にこれだけイスラム関係の文化、習俗が根付いている訳は何か。私はすぐ答えを見つけたと感じた。やはり「海のシルクロード」の影響で、それも長い歴史があったはず。そのことについては改めて記そう。 <市場の風景> <広州の祭りと、祭りの市> 名高い広東料理は上品な海鮮料理が中心かと思いきや。 物足らない方には、広州の珍味を紹介しましょう。左からサルの頭。生きたサンショウウオ。ブタの顏の皮。これは沖縄では「チラガー」と呼んで、市場でも売っています。チラは面(つら)カーは皮が訛ったもので。直訳するとブタの顏の皮。コリコリしてコラーゲンたっぷり。沖縄には「ブタは鳴き声以外は全部食べられる」の言葉があります。名言ですなあ。でもこんなのを嫌いな方がいたらゴメン。 テレビにこんなのが映りました。面白いと思って急いで撮ったのですが、「食べ物」なのか「置物」なのかは謎です。まあ旅に謎はつきもの。ではまた明日。<続く>
2020.10.12
コメント(2)
~「激動の日本と世界」~ シリーズで掲載して来た「海のシルクロード」だが今日は一旦休んで、NHKの特別番組「大戦国史」~激動の日本と世界~を紹介することにする。ちょうどフランシスコ・ザビエルが来日した時期の話であり、当時の日本を知る良い手掛かりになるとの判断だ。この番組が過去の作品の再放送かは知らないが、偶然にしても良く出来た話。私にとってはお誂え向きの内容で、奇跡のように付合したのだった。 天文12年(1543年)12月8日、種子島に一艘の難破船が漂着した。乗っていたのは100人余りだが、誰とも言葉が通じない。そこで薩摩の武将が明の儒者と思しき者と筆談した。乗組員の中に2人の異人がおり、2丁の銃を持参していた。これが日本へ鉄砲が伝来した初めての記録。種子島の島主は異人が撃って見せた銃を購入する。島主は刀鍛冶に命じて20丁の銃を複製させた。「種子島式火縄銃」の誕生だった。残りの1丁は噂を聞きつけてやって来た紀伊藩に譲った。この「種子島銃」が以後の日本の戦いを大きく変えることになる。 その6年後に日本へやって来たフランシスコ・ザビエルもその後の日本史に大きな影響を与えることとなる。藩主島津公に願い出て、薩摩での布教を皮切りに、豊後(大分)、京、周防(山口)でキリスト教(カトリック)の教えを説き、後に多くのキリシタン大名が誕生することになる。相反する銃とキリストの教えは、戦国時代の日本を大きく変える。ヨーロッパ人によってもたらされたこの2つによって、日本は大激動の世へと変わって行くのであった。 天下統一を果たしたこの3人の武将の対応も様々だった。古い体制を打破し、新しいもの好きな信長は日本人がキリシタンとなることを許し、安土城下にセミナリオ(上右)を造らせた。英語のゼミナールだが、ここでは神学校の意。自らも赤いマントを羽織り、ワインを飲み、黒人の奴隷をもらい受けて自分の家来にした。そして何よりも鉄砲の武器としての価値を真っ先に認識して整備を進めた。 「桶狭間の戦い」では奇襲攻撃で今川義元を破り、「長篠の戦い」では200丁もの銃で武田勝頼を破った。武田軍の銃弾は銅製で加熱して暴発するのに対して、信長軍では外国から取り寄せた鉛の銃弾を使用した。銃の精度と併せて殺傷力が高く、以後天下統一に向けての動きが一気に加速する。 秀吉はキリシタンへの改宗と銃による日本の支配をねらうポルトガル(後にスペイン)の野望の恐れを信長に進言するが受け入れられなかった。信長の後継者となった秀吉は天下統一を果たした後、武将へ功労の代わりに与える土地が国内になかったため明への侵攻を企図。その前哨戦として朝鮮へ2度出兵させたが秀吉の死でその夢は潰え、全軍引き上げた。 日本の銃の精度と強い武士の力を借りて明を占拠しようとしたポルトガルとスペインの野望は秀吉の死で潰えた。関ヶ原の戦いで勝利した家康は近江国友の鉄砲鍛冶に命じて、鉄砲製造の秘密を漏らさず、徳川氏以外からの製造依頼を断らせた。そして国友鉄砲鍛冶に、大筒(おおづつ=種子島よりも大きめの火縄銃)200丁の製造を命じ、オランダ商人にはカノン砲(大砲)20門の調達を命じた。 カノン砲(復元品) 家康はそれらの最新式の兵器を大坂の陣で使用した。カノン砲は550mも飛び、大坂城の城壁を撃ち抜いた。また大筒は2km以上飛び、大坂城に立て籠った大勢の浪人を殺傷した。こうして天下は家康のものとなり、江戸に開府した幕府は明治を迎えるまで260年も続いた。 オランダ人は家康に訴えた。私たちはキリスト教の布教はしません。貿易だけが目的です。家康は彼らを信じて日本との貿易を許した。オランダ人の真の狙いは「銀」。当時世界の銀の大部分はスペインが握っていた。それはメキシコや南アメリカ大陸の鉱山開発で得られたもの。そこでオランダは日本の銀に目を付けた。佐渡や石見など有力な銀山があることを知っていたのだ。 またオランダ人はこうも言った。日本の侍を貸してくださいと。東南アジアでスペインに勝つためには、強い日本の武士を利用するしかないと考えたのだ。関が原や大坂の陣以降、国内には主を失った浪人がたくさんいた。彼らを野放しにしておくのは危険。それに異国と貿易すれば富も得られる。 朱印船(左)と当時の貿易相手(右) そこで家康は外国との貿易を許可する朱印状を希望する藩に発行した。もちろんオランダ人と一緒なのだが、やがてそれを禁止する。そして取った政策が「鎖国」。外国との貿易で得られるものも多いが、失うものが多いことに気づいたのだ。それは国内の銀の消費が早いこと。国際情勢を知らない日本は、銀の価値に気づいてなかったのだ。それで世界との窓口を2つに絞った。 出島風景 その一つが長崎の出島。埋立地にオランダ商館を建て、オランダ人を住まわせた。もう一つの窓口は同じ長崎の平戸。こちらは専ら中国(明)との貿易に限り、後に長崎に移動した。 シーボルトと日本地図 出島で有名なのは何と言ってもこのシーボルトだろう。彼はドイツ出身の医者で、博物学者でもあった。東洋のしかも日本に来たくてオランダ政府の要望に応えて来日。極めて優秀な医者であったため特別に許され、長崎市内の「鳴滝塾」で日本人に西洋医学を伝授した。その評判を聞きつけて全国から若者が医学やオランダ語を学びに来た。 解剖学の専門書である「ターフェル・アナトミア」を訳したのもそんな彼らの影響。杉田玄白らが苦労して翻訳し「解体新書」として世に出、ヨーロッパの最新情報も入手したのだ。だがあることでシーボルトは国外追放となる。間宮林蔵が探検して発見した「間宮海峡」などが載った精緻な日本地図を国外に持ち出そうとして発覚。だがそれまでの功績により罪を軽減された。世に言う「シーボルト事件」だ。 黒船 鎖国の夢は4隻の黒船によって破られた。列強による開国と通商の要求が一気に高まった。維新期の激動は既に知る通りだ。だがその苦難を日本人は乗り切った。あの種子島銃をわずかな期間で再現したように、製鉄のための反射炉を製造したり、なんと蒸気機関まで再現した藩や、近代的な軍隊を整備した藩もあった。アジアでいち早く近代化に成功し、欧米に伍して戦えたのも、日本人の誠実で研究熱心な気質が生んだ「奇跡」だったのだと思う。さて明日からは再び「海のシルクロード」に戻る。<続く>
2020.10.09
コメント(6)
~「海のシルクロード」その4~ ゴアの教会 ヤシの木が立つインドらしい風景の奥に、カトリックの聖堂が見える。ここゴアはかつてポルトガルのイエズス会がアジアへのキリスト教布教の拠点とした地。日本へやって来たフランシスコ・ザビエルもここゴアから船出し、中国経由で鹿児島県の坊津に上陸した。それにはヤジロウと言う名の日本人青年が深く関わっている。 フランシスコ・ザビエル(1506-1552)はスペインのバスク出身。カトリックの布教を目指してローマに赴き司祭の資格を得、ポルトガル王の依頼により1541年リスボンを出航し、翌年インドのゴアへ到着。1549年ヤジロウを伴ってゴアを出航し、鹿児島到着。藩主の許しを得て鹿児島、大分、京、山口などで布教活動に励み、1552年布教先の中国広東省にて熱病で病死した。 遺体は石灰を敷き詰めた棺に入れられ、マラッカ、ゴア、ポルトガル経由でローマへ運ばれ、聖人とされた。法王の命により切断した右腕はゴアのポン・ジェズ教会(右上)に移送され、現在も教会内に安置されている。戦後間もなくの頃、東京へもその「聖なる右腕」が来た由。 コショウの積出 取材班はコショウの積出港を目指してさらにインド洋を南下する。目的地のアレッビ港には着いたものの、その周辺では現在コショウの栽培はしておらず、そこから300kmも離れた山奥へトラックで撮影に向かう。プロの執念を感じたものだ。 山奥のコショウ畑とコショウの収穫作業 コショウの運搬作業(左)と古い時代の金貨(右) インドのコショウや香辛料は、昔からヨーロッパの人々の暮らしに欠かせない必需品。肉の鮮度を保ち、豊かな食事と味をもたらしたからだ。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路が発見される以前からペルシャ湾や紅海経由で各地に運ばれたのだろう。ローマやギリシャなどの金貨(右上)が積出港の富豪の邸宅に今も残されている。「1グラムのコショウは1グラムの金に相当する」と言われた所以だ。 コショウの実 私は31年前に沖縄に転勤し、これとよく似た実を那覇市首里金城町の屋敷の石門で見たことがあった。地元の人から「ヒハツの実」と聞いた瞬間に、きっとヒハツは「ペッパー」から変化したのだろうと直感した。だが昨日ネットで調べたところ、「ヒハツ」は元々サンスクリット語で英語の「ペッパー」の語源だったことが分かった。何と逆だったのだ。こんな風にして、時たま直観力が役立つことがある。 梵字(参考) 因みにサンスクリット語はラテン語同様「話し言葉」ではなく「書き言葉」。中国に渡って「梵字」(ぼんじ=上図参照)となり、「卒塔婆」(そとば=サンスクリット語のストーパが変化)に書かれた文字などがそうだ。中国へ渡った空海は、わずか1年でこのサンスクリット語を習得し、インド伝来の経典を梵字から漢字に翻訳して日本に持ち帰った。寺の高僧が空海の智力を見抜き、中国人の弟子にではなく一私渡僧に過ぎない日本の若者に密教の奥義を託したのだ。 コモリン岬の夕日(左)と海に向かって祈るヒンズー教徒(右) インド亜大陸最南端のコモリン岬は、朝日が昇り夕日が沈む地。その両方を見ることが出来る岬は、ヒンズー教の聖地の一つ。熱心な信徒が毎日のように海に向かって祈る姿は厳かだ。岬から東はベンガル湾。そして西はインド洋とアラビア海。古来この岬を目印にして多くの民族がアジアとヨーロッパを行き来したのだろう。私の拙い歴史談議につき合ってくださる読者各位に、心から感謝したい。<続く>
2020.10.08
コメント(2)
~「海のシルクロード」その3~ ダウ船はゴアの港に着いた。ゴアはインド西海岸にある州だが、マンドウイー川の河口の島の町で天然の良港でもある。11世紀初めから貿易港として栄え、14世紀頃はイスラム系の王朝があり王の庇護のもとに、馬や香料の貿易で繁栄した。馬は恐らくアラブ系のサラブレッドだろう。香料は料理には欠かせない貴重品だが、この周囲は古くからの生産地だった。 ゴアの貿易商の室内。棚に飾られているのは中国の陶器やアフリカの彫刻だろうか。貿易港として重要だったゴアは、16世紀から20世紀までポルトガル領インドの一部だった。1510年ポルトガルのインド提督は千名の兵士を率いてこの島を占拠する。地元の王も一度は奪い返すが、最新式の銃をもつポルトガルには歯が立たなかった。 ポルトガルのリスボンにある「発見者の記念碑」 エンリケ王、コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマなどが刻まれている。「大航海時代」の激動の歴史を振り返ってみよう。 1492年 スペイン王の支援を受けたコロンブスが西インド諸島など新大陸を発見。 1499年 ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由したインド航路を発見し、インドへ上陸。 1510年 ポルトガルがゴアを占拠。 1580年 スペイン王フェリペ2世がポルトガル王位も継承し、両国を併合する。 1588年 イギリスがアルマダの海戦でスペインの「無敵艦隊」を破る。 1648年 1568年から続いた「80年戦争」でオランダがスペインを破って独立。 東インド航路 オランダ「東インド会社」社章 <各国の東インド会社経営史> <イギリス> 1600-1874 <オランダ> 1602-1800 <デンマーク> 1616-1729 *途中休止時期あり ジェノア(イタリア) 1664 <フランス> 1664-1769 <ポルトガル>1628-1633 <スェーデン>1731-1813 <オーストリア>1775-1813 ヴァスコ・ダ・ガマのインド上陸図(左)とザビエル(右) ヨーロッパ列強によるアジアや新大陸進出の目的は貿易や富の略奪だったが、その一方でイエズス会神父によるキリスト教の布教と改宗の狙いもあった。こうして戦国時代に向かいつつあった日本へも、ヨーロッパ文化の波がひたひたと近づいていたのだ。今回は放送内容をかなり逸脱し、「大航海時代」当時のアジアへの影響を参考までに記した。<続く> ゴアの市場にて
2020.10.07
コメント(4)
~「海のシルクロード」その2~ 半月ほど前に観た番組なので、記憶が定かでない部分がある。放送を見ながら後で使えそうと感じた場面を何枚か撮った。今それを見、思い出しながら書いている。また補足のためネットで検索した画像も交えた。取材と異なる部分があるのはそういうわけで、お許しいただきたい。 バーレーン周辺からダウ船に乗り込み、緊張感溢れるホルムズ海峡を通過し、オマーンのマスカットに寄港し、そこからパキスタンのカラチへ向けてアラビア海を突っ切ったことは記した。そこから先はインドの西海岸を南下し、最南端のコモリン岬へゴールするまで3度ほど船を乗り換えた。乗ったのは相変わらずのダウ船。小型の帆船で各地で商品を仕入れ、それを他の港で売ると言う商売だ。 海は穏やかな時ばかりではない、モンスーンが荒れ狂う時などは身近な港に逃げ込んで嵐をやり過ごす。船にレーダーなどはなく、彼らは太陽と星の位置で現在地を推測し、インド洋やアラビア海に乗り出して行く。先祖代々、2千年近くもそんな暮らしを続けて来た海洋民族。東西を結ぶ航路。「海のシルクロード」は確かに今も存在していた。 ダウ船はとある港町に立ち寄る。川辺に係留された小型船。そして岸辺のバザールには地元の人々が集まっている。町の名は「トマ」。ある聖人の名前から付けられたらしい。 木々の間に白亜の建物が見える。TVの画面に「聖トマス教会」の文字が写る。インドでは珍しいカトリックの聖堂。船を降りた取材クルーは、町で不思議な話を聞くことになる。 トマスはキリストの12弟子の一人。最後の晩餐ではイエスの向かって直ぐ右側に座り、手を空中に浮かした人物(右)。左は巨匠ベラスケスが描いた「使徒聖トマス」。しかしなぜ彼はエルサレムから遥かに離れた東洋の地までやって来たのだろう。 イエスの死と復活を見届けた弟子は、キリストの信仰と奇跡を伝えるため、各地へ向かった。レバノンの海岸沿いに北に向かえばアナトリア半島(トルコ)、そこからさらに西へ向かえばギリシャやローマ。だがそれらとは異なって、一人だけ東に向かった使徒がいた。男の名はトマス。ようやくたどり着き彼が布教を始めた土地を、インドの民は「トマ」と名づけた。 聖トマスが時々1人瞑想にふけったと言う岩山は、現在カトリック教徒たちの聖地となり、ことあるたびに各地から巡礼にやって来ると言う。撮影スタッフもその後を追って、山の頂に登った。 聖トマス教会の内部。十字架の前に佇んでいるのは聖トマスと聖母マリアだろうか。マリアの腕には幼子が抱かれているように見える。極暑の地南インドの教会でも、日曜や聖日ごとに敬虔なミサが開かれているのだろう。 民族衣装での結婚式。インドではヒンズー教、仏教、ジャイナ教、イスラム教などが信仰され、それらが複雑に混じった土着の宗教もある。聖トマス由来のキリスト教も、その後の貿易やヨーロッパの植民地となった関係から、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントと様々なのであろう。<続く>
2020.10.06
コメント(0)
~「海のシルクロード」その2~ 昭和63年から64年にかけて放送されたNHKの「海のシルクロード」。もう30年も前の番組の再放送だが、新聞の番組欄を見てなかったため、何が何だか分からないうちに突然放送が始まった感じ。でも私にとっては興味あるテーマなので、TVの前に座って食い入るように画面を見つめていた。 当時NHKが取材した地域の地図。正確に言えばアラビア半島の東南部からインド亜大陸の西岸部までだったが、周囲との位置関係が分かりやすいと思い、ネットで検索したこの地図を載せた。英語だし字がぼけて見難いが、想像を働かせて欲しい。出航したのはペルシャ湾に突き出たバーレーン半島のアブダビ周辺。そこから角のように尖がって、イランの軍艦が警戒しているホルムズ海峡を通過し、オマーンの首都マスカットに寄港。そこから一気にアラビア海を横切ってパキスタンのカラチへ。 そこから船を乗り継いでインドのボンベイ(現在のムンバイ)へ向かい、さらにオランダの東インド会社があったゴア、キリストの十二使徒の1人である聖トマスが布教に訪れたとの言い伝えがあるトマ。さらにかつてコショウの積出港だったと言う小さな港から、300km奥地に入ったコショウ栽培地を訪ね、最後にインド最南端のコモリン岬を訪ねて終わった。そこは海から朝日が昇り、海に夕日が沈むヒンズー教の聖地だった。今日は駆け足で旅の概要を紹介した。 これが取材スタッフが便乗したダウ船。木造の小型帆船でアラビア海やインド洋の貿易風を利用して帆走する。昔ながらの手作りで、釘1本使っていない。昔からこの船で南アジアと中近東を往復して来たが、無風時に備えて最近では小型のエンジンを積載していいる。 乗組員は船長以下5人。イラン人、アラビア人、アフリカ人、インド人と多彩だ。船長は乗組員にはそれぞれの母国語で指示する。イラン人へはペルシャ語、アラビア人にはアラビア語、アフリカ人にはスワヒリ語、そしてインド人にはヒンディー語で。船長には4人の妻がいると言う。イランに1人、アラビアに1人、そしてインドに2人。インドは広いために航路が長く、時間がかかるからだそうだ。 欧米諸国と緊張関係にあるイラン。今でも厳しい経済的な制裁でイランは殺気立っている。だから狭いホルムズ海峡を通過するのは危険が付きまとう。遠くから艦船が近づいて来て緊張したが、イタリアの軍艦で一安心。極力オマーンの海岸に近寄って走り、無事オマーンのマスカットに入港した。 雑然としたマスカットの港。小型の漁船や貿易船でごった返している。取材班の乗ったダウ船は休む間もなく出航する。次はアラビア海を突っ切ってパキスタンのカラチ港へ向かうようだ。カラチからは綿布を積む予定とのこと。カラチの手前で風が止んだがエンジンがからない。機関士は必死に動かそうとするが何せ古い装備。何とか作動し、1日遅れで目的地に着いた。 さて、アラビア半島南端のオマーンとイエメンはかつてシバの女王の国と言われた。女王が直接支配したのはエジプトやエチオピアだったが、紅海を挟んだこの地へも強い影響を保持していたようだ。金を算出し、薫り高い乳香の産地だったこの地は、古代からヨーロッパとアジアをつなぐ中継地。文字通り「海のシルクロード」だったのだ。<続く>
2020.10.05
コメント(0)
~「海のシルクロード」その1~ NHKがかつて放送した「シルクロード~絲〇之路~」の再放送を観たことについては既に書いた。シルクロード」第1部12集は昭和55年(1980年)の放送だった。もう30年前のことだ。第2部18集は1983年からの放送。テーマ音楽、ナレーションともに懐かしく、明治以降各国の学術調査隊が中国奥地などにこぞって向かった記録などもあって貴重だった。 「海のシルクロード」は昭和63年から翌年にかけて放送されたようだが、全く観てなかった。私は新しい図書館づくりを1人で手掛けていて、人生で最も忙しい時期だった。このたび再放送は、全くの偶然だったがそれだけに嬉しかった。名前だけは知ってる「海のシルクロード」だが、その実態は知らない。「一帯一路」で今注目を浴びているこの地域と歴史、人々の暮らしを知ることが出来て本望だった。 イタリアベネチアの商人の息子マルコポーロ(1254~1324)は17歳の時叔父に連れられて、極東の地に向かった。好奇心からのことだが、結局彼はその後24年間にもわたってアジア各国を旅し、訪ねている。帰国後に書いた本が有名な「東方見聞録」だ。さて地図の海中に緑の線が見える。実はこれが彼の帰路。アラビア海のイランの港で下船し、そこからは陸路でローマに向かった。 中央アジアを通る陸路のシルクロードもほとんど自分で足を踏み入れる地ではないが、マラッカ海峡、インド洋、そしてペルシャ湾もおいそれと行ける場所ではない。私たちが知ってる中近東と言えばアラビアンナイト(千一夜物語)が関の山だろう。だが、アルコールもガーゼもアラビア語と知れば、少しは親しみが増すかも知れない。さて次回からはいよいよ船での旅を続けようと思う。<続く>
2020.10.04
コメント(2)
~「コウラン伝」を観て(2)~ タイトルは「コウラン伝」なので、確かにコウランと言う女性を中心にドラマは進展するのだろうが、私の興味は奴隷となった彼女を買った邯鄲の商人呂不韋(りょふい)の今後の行動。それにしても古代中国の小国家「趙」の貴族や王侯の暮らしぶりからスタートしたこの話は、韓国の「時代ドラマ」とはちょっと様相が異なる。韓国のは到底「歴史ドラマ」とは言えない。なぜなら全くの創作だからだ。 写真左は宮城谷昌光著の「奇貨居くべし」。上下2冊だったか。私はこれを読んだ。右はそれを漫画化した作品で、今はこんなのが出てることに驚いた。小説でも胸がワクワクするほど面白いのだから、若い人が漫画に惹かれる気持ちが分からないでもない。それにこの呂不韋。ヒロインのコウランに負けぬほど春秋に富んだ人生を送るのだ。まさに一世一代の出世話。しかもその内容が奇想天外だ。 左は秦の始皇帝。中国で初めての統一国家「秦」を興した男。だが世の中の評判はすこぶる悪い。残虐な暴君として有名だ。例えば「焚書坑儒」。(ふんしゅこうじゅ)。医学、農学、占術などの一般書を除く書籍を悉く燃やし、自分を説教した儒者を穴に埋めて皆殺しにしたとされる。だがそれは中国の歴史家司馬遷が「史記」(右)に記したことで、後世の人がそれをそのまま信じたのが原因と言われる。 始皇帝の陵墓(左)と地下の「兵馬俑」(右) 始皇帝の陵墓は多くの国民や兵士を使役して造らせたとされるが、実際に造営工事に当たったのは他国の捕虜だけで約70万人のようだ。また兵士として駆り出された秦の国民は、20歳から50歳までの男子で、しかも徴兵期間は4年間のみだった。さらに始皇帝は1人の部下も殺してない由。中国の正史は前王朝を倒した次の王朝が書くのが通例のため、自分に有利な記述を王が歴史家に求めたのだ。 中国の歴史は古い。目下考古学的に存在が確認されているのが夏(か)。次が殷(いん)で、最近では商(しょう)とも呼ばれている。次が西周で春秋戦国時代と続き、全国を最初に統一した国家が「秦」なのだが「コウラン伝」はスタートしたばかりでそこに至るにはまだまだ遠い。さて、コウランと呂不韋の運命がどう転び、秦がどう変遷するか、引き続きドラマを楽しむ予定だが、この話は一旦筆を擱(お)く。<続く>
2020.10.03
コメント(0)
~中国古代史への旅その1「コウラン伝」を通じて~ このシリーズを書こうと思ったのは、最近立て続けに歴史に関する特集やドラマを観たのがきっかけ。4つか5つは観たと思うが、今日は一つ一つそのタイトルを上げないで置く。最初に舞台裏が見えると詰まらなくなる。見えないくらいでちょうど良いのだ。それにその話の回になれば当然タイトルも分かる。今日は第1回だから、つい最近観たタイトルを上げてこう。「コウラン伝~始皇帝の母~」だ。 日曜日の夜に観ていた韓国の「時代ドラマ」が終わって少し気が抜けていた。新聞のテレビ欄で最初に番組名を観た時は、コウランが何者かを知らなかった。韓国っぽいがどうやら人名が難しいためカタカナにしたようだ。始皇帝との関係も知らずに、いきなりドラマが始まった。でも古い時代の上流階級の邸宅であることは舞台背景で分かった。中国制作になる歴史ドラマを観るのは初めて。いきなりトンデモナイ場面から話は始まった。 中国「春秋戦国時代」の地図。同時代は紀元前770年から紀元前221年まで。10以上もの小国が覇を競って戦いに明け暮れていた。話のヒロインであるコウランは趙(ちょう=図では上の方の黄色の国)の都である邯鄲(かんたん)の名家に生まれた美女。だが同家には複雑な事情があり、いきなり彼女の生母が後添えの妃に殺害され、それを機に義理の妹は、コウランの許嫁に近寄る。 カンタン 邯鄲と聞いて直ぐに思い出すのがこの虫。漢字は一緒なのだが紛らしいためカタカナにした。とても良い声で鳴くらしいが、聞いたことはない。次に思い出すのが「邯鄲の夢」。仙人から借りた枕をして寝た青年が大金持ちになる夢を見る。だが目が覚めたら元の場所。コウリャンが煮える間もなかったほどの短時間。はかない夢物語の有名な故事だ。 私が初めて知った中国の不思議な話は「杜子春」だった。これも貧しい青年が道士の魔法の力を借りて3度も大金持ちになったと言うような粗筋。芥川龍之介が中国の奇談から採った短編小説だ。わが国にも「日本霊異記」(にほんりょういき)と言う不思議な数百篇のお話があるが、こちらは仏教の説話集だ。 話が進んで奴隷市場に売りに出されたコウラン(左)を呂不韋(りょふい=右)と言う男が買うことになる。この男の名にはどこかで聞き覚えがあった。さてどこだったか。宮城谷正光の中国歴史小説の一冊だ。翌日ネットで調べて「奇貨居くべし」(きかおくべし)の主人公だと思い出した。「奇貨」とは価値があるもの。「おくべし」は自分の手元において大事にすること。因みに呂不韋は邯鄲の一商人。 私はこのドラマが今後どう展開するかは知らないが、彼がその後どうなったかは本を読んでいるので知っている。全くトンデモナイとでもいうべき結末だ。中国と言う大国のまるで大河のような歴史の流れ。その流れに飲み込まれてもがき苦しむ王侯、軍人、そして民衆。男と女。歴史は歴史としての面白さがあるが、それが映像化された歴史ドラマは、さらに面白さが加わるようだ。<続く>
2020.10.02
コメント(4)
~旅への序章~ 今日から10月に入ったので、新しいテーマでブログを書こうと思う。テーマは歴史だ。「またか」と思う読者がいるかも知れないが、書き手にとっては書きたいことを書くだけのこと。歴史は好きだし、文章を書くのも好き。そしてブログに載せて誰だか知らない読者に読んでもらえるのも好き。問題は何を取り上げ、どんな順序でどう描くかだ。ただ、さしたる準備もせずにいきなり書き出すのもどうかとは思うが。 「日本の歴史」に興味を持ち始めてから40年近くになる。関連する分野の専門書を自分で選び、通勤時などに読んだ。いや、それより面白かったのは漫画の歴史シリーズか。確か図書館で借りたはず。年代順にざっと理解するのに役立った。いわゆる「通史」だ。 一方専門書は、その道の専門家が研究成果に基づいて書いてあるため、難しいし文章も堅苦しくて詰まらない。見開きの2ページを読むのに1週間以上かかり、1冊を読み上げるのに1年かかったりもする。その悪戦苦闘が良い修行になるのだ。それを重ねるうち、要点が微かに見えて来る。 読書の対象も広がる。歴史には関連分野があるからだ。考古学、人類学、言語学、民俗学、文化人類学、地理学等々。そして朝鮮半島や中国の歴史は、歴史小説や通俗書だったが役に立った。そして現地に立つ重要性。神社、古墳、遺跡、貝塚、博物館や美術館。 たった1回だけど、発掘調査の真似ごともし、現地説明会にも2度立ち会った。転勤も、その地の歴史や文化、言語、暮らしぶりなどを知るのに有益だった。 6つ目の転勤先の沖縄では、仕事上沖縄関係の本を読んだ。歴史、文化、言語、宗教、文学、音楽、芸術、生態など300冊は読んだ。そして城(ぐすく)、拝所(うがんじゅ)、御嶽(うたき)などの聖地も50か所近く訪ね、20近くの離島へも行った。それが「体感」と言う読書では得られない生きた勉強になった。そして「日本」との比較も出来た。 旅行も趣味のランニングも役立った。歴史に関わる場所を訪れることが出来たからだ。辞職後は遺跡巡り歴史巡りの旅もした。ブログに紀行文を書く際、ネットで調べた情報が勉強になった。オーストラリア、中国、台湾でも幾つかの博物館や美術館を観、比較出来た。最近はyoutubeに結構役立つ情報がある。ただし「本物」を見分ける目が必要だが。 「源氏物語」など私にとっては何の役にも立たない。たかが女好きの王侯貴族の話。その時代の暮らしも、民衆の苦しみも全く出てこない。歴史性のない絵空事。それより役立ったのが歴史小説。日本と中国とで200冊ほど読んだか。特に幕末関係の話は、それまでの古代史から近代史や現代史へと近づく端緒になったような気がする。初回はこんな退屈な話でゴメン。<続く>
2020.10.01
コメント(4)
~東アジアの潮流1~ *写真と文章は無関係です。 私は中国や朝鮮半島の歴史と文化に関心を持ち、かつては日本よりも先進国だった彼の国を尊敬もしていた。歴史の一時期にせよ、それらの国から文字や仏教や芸術や技術を伝えられ、それがわが国の文化を高めたことは紛れもない事実だからだ。だがその気持ちが消えたのはここ10年くらいだろうか。 「南京大虐殺」を執拗に世界にプロパガンダし、尖閣を自国領と言い張る中国。白頭山で聖なる戦いの火ぶたを切ったと言い、多くの日本人を拉致した北朝鮮。日本併合時代の恩恵を受けながら、事実と異なる従軍慰安婦や徴用工など徹底した反日を貫く韓国。それらの国の欺瞞性と歴史を捏造する民族性に強い違和感を抱き、これはおかしいぞと気づいたのが、私の認識転換のきっかけだった。 なぜ彼らは嘘をつくのか。それは彼らの歴史と民族性が嘘を恥じとしないからであり、勝つためなら嘘も立派な武器であり策略なのだ。それが恥を重んじる日本とは決定的に違う点だろう。国家としての「中国」の概念は比較的新しいもので、それ以前は漢民族対それ以外の異民族との戦いの連続であり、異民族と戦って領土を広げることが漢民族の歴史そのもので、それは現代もまだ続いている。 近代になってからもロシアや日本と戦い、満州族やモンゴル族と戦い、それが終わっても漢民族同士の共産党と国民党が戦い、共産党が勝利すると、チベット族やウイグル族と戦い、領土を巡ってインドと戦い、「中華人民共和国」誕生後は、共産党による文化大革命で6千万人もの同胞を殺戮し、「天安門事件」でも1千万人もの国民が犠牲になったと言われる。どれだけ同胞を殺せば済むのだろう。 「南京大虐殺」も当初は10万人だった犠牲者が20万人、30万人と増え、最後は40万人にまでなった。当時南京攻略を指揮した陸軍将校松井石根は国際法の専門家を引率し、常に国際法に違反していないか注意していた由。ところが中国軍は市民に変装した兵士を南京市内に潜らせ、日本軍へゲリラ攻撃をしかけた。これは国際法違反行為。止む無く市民を含む2万人ほどの死者が出たのが南京の真相のようだ。 それを30万人の南京市民が虐殺されたと世界に報じたのは、ドイツのゾリンゲン社の社員。自社製品を販売するため中国共産党のプロパガンダに協力したのだ。アメリカが事実を知りながら黙認したのは、広島と長崎に原爆を投下し、東京などの大都市を無差別に空襲したため。無抵抗な市民への攻撃は国際法違反行為。自国の犯罪性を薄めるため、中国の主張に目をつぶったのだ。 当時の南京市の人口は25万人と言われる。それが戦後は35万人に増加した。そのことだけでも日本軍による大量虐殺が事実でないことが分かる。中国のゲリラ戦法に手を焼いた日本軍はシンガポールに転戦する。終戦後各地に残った日本兵が、その国の軍に混じって独立に寄与した。そして「東京裁判」ではインドの判事だけが日本を無罪とした。国際法に違反する行為が皆無だったためだ。 勝者が必ずしも正義でないことはこれでも分かると思う。戦争に敗れた日本は正当な北方領土を奪われ、国連へも暫くの間加盟出来なかった。その間に韓国は竹島を奪ったのだ。「李承晩ライン」と言うのを勝手に決め、島に近づいた島根県の漁民を軍が攻撃した。いつの時代も彼らは卑怯な行為を恥じとしない。<続く>
2020.09.27
コメント(2)
<戦争と歴史観> 今回の大連・旅順ツアーで中国人に対して不愉快な思いをしたことはほとんどなかったし、現地案内人の価(か)さんの対応も私たち日本人旅行客に対して至極友好的だと感じた。まあ日本のツーリストに雇われているのだから、私たちに不愉快な思いをさせることは万が一にもないだろうが、まあ終始公平で親切だったことに、正直驚いたほどだ。彼は漢族で大連の住人。彼の先祖がどこから来たかは聞かなかったが、日本語は独自で習得したそうだ。 22名のツアー仲間は全て仙台空港から一緒に来た。老若男女様々で、中には中国を何度か訪れた人もいた。また中国の西安を快経由してウズベキスタンまで旅したと言う剛の者もいた。かつて仙台から西安迄の直行便があった時で、その先の航路は自分で調べたそうだ。そんな旅慣れた人が、入国審査で手間取ったのが意外だった。私は愛嬌を振りまき、簡単に大連空港の入国審査を終えたのだが。 若い人の中に、日露戦争当時の日本軍(連合艦隊)がロシアの軍艦を旅順湾内に閉じ込めたことを知ってる人が驚いた。彼は何度か中国を旅し、今回も色々調べて来たのかも知れない。その彼が旧満鉄本社だった列品館で、満鉄が所蔵していた白檀の工芸品を30万円で購入したことに驚いた。もちろんカードでの支払いだったが、私は水師営会見所の資料館で1万円でトルコ石を買うのがせいぜいだった。それも旧満鉄の所蔵品。財政難の大連市の方針で、老朽化した旧日本関係施設の修繕費に充てるため、売却を始めた由。 伯父さんが満州に居たと言う人が私に「反省しなくちゃいけないよ」と言った。私が南京大虐殺はインチキだと言った時だ。私も叔父から満蒙開拓団で働くため、茨城県の内原町にあった訓練所で訓練を受けたと聞いたことがあった。日本の近代史、現代史は学校でほとんど学んでいないが、幕末の歴史小説を読み始めてから関心を持つようになった。 しかし明治以降の日本は、本当に間違っていたのだろうか。日本が置かれている位置、そして当時の世界情勢と東アジアへ迫り来る列強侵略の足音。その脅威から逃れるためには大急ぎで近代化を図り、富国強兵で列強に立ち向かうしかなかったのではないか。それが日露戦争を描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」になった。当時中国(清国)はロシアに満州を侵略され、末期の李氏朝鮮も危うかった。 これは日本に併合される前の朝鮮。これが首都京城(現在のソウル)の姿。国民の2割は奴婢で、識字率は50%以下。産業は農業のみで、便所がないため大便を道路に捨てるなど衛生状態が悪く(大便を野犬が食べ、その犬を人が食べた)平均寿命が低かった。日本併合後は人口が倍増し、識字率も上昇する。ハングルを復活し、大学を建て教育制度を確立したためだ。日本は国家予算の数年分を朝鮮に注ぎ込んだ。 マッカーサーと李承晩 反日活動をしてアメリカに亡命した李承晩は、アメリカの支持により初代大統領に任命された。彼が反日活動をしたのは、身分制度の撤廃で旧貴族である両班(ヤンパン)の権利が奪われたため。併合前の朝鮮で、奴婢には戸籍も職業も自由もなく、貴族階級が富を独占していた。大統領になった李承晩は、まだ日本が国連に加盟出来ない隙に李承晩ラインを引き、竹島を勝手に韓国領に組み入れた。 <魯迅(左)と孫文(右)> 中国の民主化と独立を目指して戦った魯迅と孫文は、共に日本へ留学している。医学者を目指した魯迅は東北医専(現在の東北大学医学部)で恩師藤野先生の影響を受けるが、後にはより多くの民衆に訴えるため文学者へと転身した。「亜Q正伝」や「狂人日記」」などを著して、病んだ自国民を啓蒙し、革命を訴えた。 孫文は中国でも台湾でも「国父」と呼ばれて敬慕されている政治家で革命家。植民地化された中国の現状を憂い、革命に命を捧げる。彼を援助した日本人の一人が長崎の写真家梅屋平吉。彼は莫大な資金援助のみならず、時には大量の武器を日本から中国に送っている。明治初期の日本は西洋の技術と知識を率先して受け入れ、その専門用語を漢訳した。中国の近代化もそれによるところが大きい。 <キャンベラ戦争博物館> 今から30年以上も前だが、私はオーストラリアの美術館、博物館、大学を20近く見たことがあった。キャンベラの戦争博物館では日本コーナーもあった。第2に世界大戦で日本は敗戦国で、オーストラリア本土へも爆撃しているが、第一次世界大戦では連合国側として戦い、中国青島のドイツ軍を下している。そのことも含め、極めて正確かつ公平な展示な内容であることに驚いた。 メルボルン国立博物館 また国立メルボルン博物館で驚いたのは、展示品の半分ほどが国民からの寄付だったこと。古代エジプトやオリエントの見事な美術工芸品が目白押しなのだ。もちろん大英帝国時代占領地から略奪したものだ。その子孫が悪びれることなく、自分の家に先祖から伝わった美術品を新天地オーストラリア建国の際に寄付したのだろう。ここではかかつて植民地を支配したことなどを反省するそぶりはない。 これは「南京虐殺」をテーマにした中国の博物館。でかでかと30万人の数字が掲げられている。だが南京市の閉当時の人口は25万人で、30万人も殺せる訳はない。これは中国共産党が日本軍の残虐性をアピールするため、外国の新聞記者に依頼して書かせたもの。実態は共産軍が市民に紛れてゲリラ活動をしたために止む無く攻撃したもので、死者数はずっと少ない。それに共産軍と国民党の内乱が激しく、日本軍は中国からシンガポール方面に転戦する。 これは30年前の「天安門事件」。行き過ぎた文化大革命に抗議する国民に対して戦車が突っ込んだ。死者は300名程度と言う発表だが、実際は2万人以上の犠牲者が出ていると言われる。中国では古代より政変による国家の興亡が常で、勝者が歴史を書き換えた。中華人民共和国になってもそれは変わらず、未だに権力闘争が続いている。一党支配の全体主義ほど怖いものはない。 新型コロナウイルスを模した五星紅旗。 韓国の師李承晩も大統領の地位を守るため、徹底的な反日教育を行った。従って日本の併合時代のことは全て間違ったことにした。それが今も続き、反日ならどんなことでも許されている。北朝鮮も含めてこんな国が近隣にあると、とても正常な外交は不能になる。コロナ騒動の今も、中国の艦船は尖閣の周辺に押し掛け、示威行為を繰り返している。<続く>
2020.04.27
コメント(6)
<五族共和~満州国の夢と興亡~> 右の少年が清国最後の第12代清国宣統帝となった愛新覚羅溥儀(満州名1906-1967)で即位したのは2歳の時で、在位はわずか4年間だった。彼は後に日本の後押しで満州国皇帝となる。腕に抱かれているのは弟の溥傑で彼は日本の陸軍士官学校を卒業後、日本の華族で天皇家の親戚筋に当たる嵯峨浩と結婚した。長女慧生は戦後天城山で日本青年と心中する。 <満州国執政官着任式> <満州国皇帝即位式> 1922年満州族の婉容を皇后にして紫禁城内で結婚。1924年クーデターの北京政変により紫禁城より追放処分。1932年満州国執政となる。1934年まで。1934ー1945年満州国皇帝。1945終戦により廃位。1960-中華人民共和国政協専門委員。1964-1967同全国委員兼任。1967年波乱に富んだ生涯を閉じる。享年61歳。中国及び満州のラストエンペラーだった。 1927年蒋介石率いる国民党右派が毛沢東率いる中国共産党を弾圧して南京政府を樹立。いわゆる「上海クーデター」だ。 柳条湖事件 孫文の後継者と目される張作霖が満州でも破壊工作を展開する。それ以前に満州には匪賊(ひぞく)馬賊と呼ばれる野盗が2万6千人ほどいたが、これに対して日本の警察官は2千人しかいなかった。乱れた治安を安定させるために関東軍が置かれたが、関東軍の若手将校が陸軍の制止を振り切って、張作霖が乗った列車の爆破を図って爆死させる。これが別名「満州事変」と呼ばれる柳条湖事件で、列強が調査団を現地に送った。 満蒙開拓団 1932年。満州国の誕生後、日本は満州に開拓団を送った。広大な荒れ野を開拓して畑にし、大量の肥料を散布して大豆を作らせた。茨城県の旧内原町には、青年開拓団の講習所があり、長野県のある村では、村民の全てが満州に渡って開拓した。満州は貧しい日本の農民にとっては夢の国で、日本政府は満州を立憲民主制の国家と吹聴し、五族共和を唱えた。 <日本併合以前の朝鮮の農村> 五族とは、日本、満州、漢民族、朝鮮族、ロシアだろう。日清戦争の結果清国から独立した大韓帝国は日本との併合を議会で決議し、日本は朝鮮の民主化と近代化を推進した。身分制度の撤廃、教育制度の確立と識字率の向上、衛生状態の改善、鉄道敷設と産業育成などだ。満州、朝鮮、台湾経営はすべて日本の持ち出しで、搾取するものがとんどなかった。それを植民地支配と言うだろうか。<続く>
2020.04.26
コメント(0)
<日露戦争の激戦地を訪ねて> 大連市内旅順郊外の旧203高地(現在) 大連、旅順ツアーの目玉の一つが「日露戦争」の激戦地だった通称「203高地」の探訪だった。地名の由来はこの山の標高が203mあったことからの命名で、ロシア軍は自軍の軍港である旅順港を死守するため、その背後を取り囲む山々に堅固な要塞を築いた。それは当時としては最先端の技術である、「コンクリート」を用いたもの。そのため日本軍の「榴弾砲」(りゅうだんほう)では破壊出来ず、肉弾戦で突撃するしか王法がなかった。203高地は日本軍の攻撃で山の形が変わり、標高が数m低くなった由。 これが今も残っているロシア軍のトーチカ(要塞)。トンネルは200mほどもあり、ロシア軍はここに隠れ、近づく日本兵に窓から銃撃した。中がきれいだったので、ここを訪れる観光客の安全のため、新たに補強したのかも知れない。 203高地を目がけて榴弾砲を撃つ日本軍。 累々と横たわる日本兵の死体。写真は日露戦争当時のものだが、説明文は現代中国の簡体字による。(「水師営会見所」=後述に掲示されていたものを、私が撮影した) 要塞に残る爆破の痕。銃撃をかいくぐって突撃した日本兵がトーチカに仕掛けた爆薬で入口を爆破し、そこから突入してロシア軍を破った。 203高地中腹にある虎の彫刻(右)とそこまで私たちを乗せて送ったマイクロバス(左)。背後の山が203高地。 203高地の頂上に立つ記念碑は、砲弾の薬莢(やっきょう)を収集して、日本側が建造した。 203高地から見た旅順港。日露戦争当時、日本の海軍は真正面に見える狭い水路に廃船を沈めて閉鎖し、ロシア側の艦船を閉じ込めようとしたが、水深が深くて失敗した。ここから日本軍の榴砲弾はロシアの軍艦には届かず、港外の海上と背後の海岸から同時にロシア軍を攻めた。旅順」の名は、清の将軍が対岸の山東半島から船で遼東半島まで渡った時、「旅」を「順」調に終えたことを記念しての命名。旅順は現在大連市の一部となり、ビルが建ち並ぶ近代的な市街地が広がっている。 203高地およびその周辺での戦いに勝った日本の乃木大将は、ロシア軍のステッセル将軍と旅順郊外水師営の農家で会見する。これが名高い「水師営の会見。 馬(サラブレッド)の傍に立っているのがステッセル将軍。会見終了後、同将軍はこの愛馬を乃木大将に贈った、 日露両軍の記念写真。乃木大将は武士道精神を以て、敗れたロシア軍にも軍刀の帯刀を許し、人数も6人ずつの同数とし、同じように椅子も与えた。また日本海海戦も合わせたロシア軍の捕虜7千名近くを、四国松山の捕虜収容所では手厚く遇し、ロシア兵は道後温泉にも入った由。 だが第二次世界大戦で敗れた日本が降伏した後も、ソ連軍は南樺太や満州に侵攻して、殺戮と金品を奪い、大勢の兵士を連行してシベリア鉄道の敷設工事などに使役し、このため多数の旧兵士、と日本人が死んだ。満州の日本人が命からがら本土へと引き上げたのは終戦の1年後で、大連港からだった。旧ソ連で死んだ日本人の遺骨取り違いや残留孤児の問題など、戦争にまつわる悲劇は尽きない。<続く>
2020.04.25
コメント(6)
<日露戦争の実態> アイグン条約と北京条約によってロシア帝国が南満州(上の地図の赤い部分)に権益を得る(ピンクの部分もロシア領として確保)と、困るのは日本政府。ロシアは南満州だけでなくその隣の朝鮮(当時は李氏朝鮮)にまで触手を動かし、朝鮮の山林を買収し、鉱山採掘の権利を手に入れる。朝鮮半島にロシアが勢力を伸ばされると朝鮮海峡を隔てて日本列島は目の前だからだ。李氏朝鮮最後の王妃閔妃 それでなくともロシアは、江戸時代末期に対馬を軍艦で占拠するなどの実力行使をしている。そして朝鮮の内情が混乱に拍車をかけていた。李氏朝鮮最後の王である高宗の妃である閔妃が舅である大院君と壮絶な権力闘争を繰り返し、賄賂と内乱が横行していた。ロシアの南進を止めるためにも、近代国家日本は富国強兵策を推進して、列強に立ち向かう必要があったのだ。 これは「満鉄」の路線図。日露戦争に勝った日本は、その権益を引き継ぐが、最初はロシアが自国の権益のために敷設したもの。この鉄道網を通じて、ロシアは大連や旅順近辺に着々と物資や兵員を送った。もちろんその目的は、来るべき日本との戦争に備えるためだ。 これが天然の良港旅順近辺の地図。旅順は清国の軍港だが、後にロシアが租借して、旅順艦隊を置いた。ロシア海軍の本隊であるバルチック艦隊はヨーロッパのバルト海沿岸にあり、アジアには旅順の他にウラジオストック艦隊があった。ロシアは旅順を死守するため、港周辺の山々に強固な要塞を築いた。これがいわゆる203高地や東鶏冠山で、当時としては画期的なコンクリート造りだった。 <乃木大将> <東郷元帥> 旅順を攻撃した指揮官がこの2人。左が陸軍の大将乃木希典。2年がかりで203高地などでロシアの要塞を総攻撃し、最後は陥落させた。その戦いで、長男と次男が戦死している。右は元帥の東郷平八郎。旅順港の封鎖に失敗した海軍は、バルチック艦隊が極東に向かったことを知り、対馬沖で待ち構える。この時バルチック艦隊は二手に別れ、先発隊は喜望峰を回り、後発隊はスエズ運河経由で遅れて来たことで、余裕をもって迎え撃つ作戦を立てることが出来た。 日本海海戦 日本の聯合艦隊は機敏に航路を変え、バルチック艦隊をほとんど撃破し。辛うじてウラジオストック港に逃げ込んだ軍艦4隻にも大きな損害を与えた。この結果に世界は驚いた。極東の小国である日本が、有数の軍艦を有するロシア海軍を破ったことが信じられなかったのだろう。 203高地の激戦 一方陸軍の損害は大きく、歩兵の大部分を失う結果となった。この戦争による戦死者は日本軍は11万5千余。一方ロシア軍の戦死者は陸海合わせて4万2千余に留まった。この責任を取って、乃木大将は明治天皇が崩御した際、その墓前において夫人と共に自決した。 奉天会戦 旅順での戦いに敗れたロシア軍は1905年(明治38年)、再び奉天(後の瀋陽)において日本軍と対峙する、ロシア軍36万人の指揮官はエカテリーナ女帝の事実上の夫とされたクロポトキン将軍。一方日本軍24万人の指揮官は陸軍総参謀長の大山巌だった。数では劣る日本軍は隊を4つに分けて攻める戦法を取ったため、挟み撃ちにされることを恐れたクロポトキンが退却を命じたことで、日本軍が優勢となった。だがこれでは決着がつかず、最後は「日本海海戦」での日本軍勝利が決まった。 ポーツマス条約の締結 辛うじて勝利した日本は、アメリカの仲介でロシアとポーツマスにおいて講和条約を結んだ。この時ロシアは負けたのはごく小範囲だと主張して賠償金の支払いを拒んだ。だが、日本は南満州の権益と満鉄の経営権、朝鮮からのロシアの撤退、南樺太の分割を果たした。こうして「満州国」経営と朝鮮併合の下地が出来た。<続く>
2020.04.23
コメント(4)
<近代史への迷い道 日清戦争まで> ここ何回か東アジアの歴史について記している。学校で何も学ばなかった身で、これを書くのは実に辛い。だが私が旅した大連と旅順は「旧満州国」に属した地域。それならどうしても満州に触れない訳には行かず、それを書くためにも東アジア史に触れざるを得ない。そんなことから迷い道にはまり込んだ次第。何か知ってることがあれば、それを手掛かりにしてネットで調べられる。そして固有名詞や歴史の事実が明らかになれば、それなりに画像を得ることも可能。今はとても便利な時代なのだ。 これは北海道の古地図。松浦武四郎が「北海道」と名付ける前は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、その本州に近い部分を奈良時代には渡島(わたりしま)と呼んでいた。先住民はアイヌではなく、縄文人だろう。アイヌの人がこの島へ来たのは、ずっと後になってからだ。江戸時代後半になると、伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎らが探検や測量にやって来た。それは彼らの趣味のためではなく、幕府の命令によるもの。 それだけロシアの南進政策による脅威が迫っていたのだ。彼らは不凍港を求めて東へ、より南へ目指した。そして江戸幕府に開国と開港を迫った。そこで幕府は松前藩、津軽藩、仙台藩に蝦夷地の警備を命じた。それが明治以降の北海道開拓につながった。また仙台藩では藩内の何か所かに蛮船監視所を設けて、黒船の動向を探った。それだけ、飲料水や燃料を求めて来航する黒船が多かったのだ。 嘉永6年(1853年)ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の黒船4隻が浦賀水道沖に現れた。日本の開国と燃料補給などを求めてのこと。幕府の禁止を振り切って品川沖に現れた黒船を、千葉道場を抜け出して竜馬が見物に行ったことが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に記されている。幕府はこれ以降各国の強い要求により開国し、箱館、横浜、下田、長崎などの開港に踏み切る。鎖国体制の終焉だった。 文久元年(1861年)ロシア海軍の軍艦が、対馬を占拠する事件が起きた。この時は幕府と対馬藩の説得では退去せず、イギリス海軍の仲介で箱館に駐在していたロシア領事を対馬に連行して説得させた。ロシア帝国の不凍港確保のための南下政策が、深刻だったための事件だ。それがその後の日露戦争の前哨戦となった。 <清国北洋艦隊> <日清講和条約=下関条約> 明治27年(1894年)朝鮮半島の江華島で測量中の日本兵に対して、清国軍が発砲したことを引き金に日清戦争が勃発した。その数年前には漂着した沖縄の島民70名を台湾の蛮族が殺害し、日本兵が鎮圧したことも背景にあった。清国政府は台湾は化外の民(統治外の蛮族)として責任は取らなかった。清国海軍北洋艦隊は山東半島の基地威衛海から、遼東半島の旅順に向かわせた。 それを監視していた日本の連合艦隊発見して対戦した。これが黄海海戦で、兵力と兵備は清国が優っていたが、作戦と統率力が優った連合艦隊が圧勝して多大な損害を与えた。この結果、下関で締結された「日清講和条約」で、清国は台湾と遼東半島の永久割与、朝鮮国の独立、賠償金2億テールを支払日本に支払うこととなった。こうして約2千年間中国の支配下にあった朝鮮は独立し、後に日本への併合を自ら議決した。<続く>
2020.04.22
コメント(6)
<何枚かの地図から その3> これが清国(1644-1912)の地図と言ったらきっと驚くことだろう。だがこれには当時の柵封国(形式上臣下となって朝貢する国)も含まれ、琉球王国もあった。琉球は1600年代の初頭、薩摩藩の支配下に置かれ、日本と清への両属と言う不自然な形を取っていた。当時は東南アジア諸国との貿易を行っていたため、その方がどちらにも好都合だったせいもある。琉球王国が琉球藩、そして沖縄県となったのは明治時代の後半だった。 清国を起こした太宗は元々ヌルハチと称する満州人。満州は後に日本が興した傀儡(かいらい)国家とのイメージが強いだろうが、本来の満州は民族の名で、「マンジュ」と言ったようだ。この満州族が不思議な民族で、古代日本では靺鞨(まっかつ)とか粛慎(しゅくしん、みしはせ)などと呼ばれ、奈良時代後期には知られていた。また、女真、女直、韃靼(だったん)などの異名を持つツングース系の民族。 満州族の肖像(左)と独特の髪型=弁髪(右) 満州族は古くは「金」と言う国家(1115-1234)を樹立している。中国が異民族に支配されたのは「元」とこの金だけだった。金は北宋と西夏を滅ぼしたものの、元によって滅ぼされた。民族的には古代朝鮮の高句麗及びその末裔が建国した渤海の民族と同じく、牧畜と農業を生業とし、優れた騎馬術を有していた。「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀も満州族の皇帝の子孫で、後に日本の皇女を娶る。 近代化が遅れた上、内乱が続いた清はやがて先進諸国の侵略を受ける。イギリスはアヘン戦争(1840-42)によって莫大な富を得た。当初は銀を支払って茶葉を購入していたが、銀が底を尽いたため東南アジアで安価で仕入れたアヘン(ケシの実が原料の麻薬)を代価とした。これによって中国の庶民はアヘン中毒になって働かなくなり、イギリスはさらに販路を広めて中国奥地へ進出する。中国にとっては「言いがかり」以外の何物でもない、侮辱的な戦争だった。 <アヘン戦争の図> 帝政ロシアは清との間で締結したアイグン条約(1858安政5年)、北京条約(1880万延元年)によって外満州を自国領とし、後に遼東半島を租借する。フランスはかつては清の柵封国だったインドシナの国々に進出して、フランス領インドシナとしてベトナムラオス、支配、カンボジア、タイ、ビルマを支配下に置く。ドイツは1898年の「膠州港租借条約」によって山東半島に進出し、青島市街を建設した。 1900年(明治33年)西欧列強の中国進出と不平等条約の締結に怒った秘密結社の義和団がキリスト教排斥を掲げて蜂起し、20万人が西太后がいた北京城を襲った。これに危機感を抱いた西欧8か国は連合軍を派遣し、日本もイギリス政府の要請に応じて軍隊を派遣した。これが後に「北京の55日」として映画化され、清国の衰退を一層早める結果となった。<続く>
2020.04.21
コメント(10)
<何枚かの地図から その2> ロシア帝国の版図 こんな地図を観たことがあるだろうか。これはロシア帝国がもっとも広大な領土を持った時代のもので、現在のアラスカも当時はロシア領だった。それを1867年(明治3年)にアメリカにわずか720万ドルで売却したのは、露土戦争(帝政ロシアとオスマントルコ帝国)との間で繰り返された戦争により、アラスカへの補給と航路が絶たれたことによる。ロシアがアラスカまで来たのは、ラッコの毛皮を獲るためで、アラスカのラッコはほとんど絶滅したと言われる。その後アラスカからは金鉱山と石油が発見され、当初は氷しかないと苦情が多かったアメリカは、安い買い物をしたことになる。 ロシア帝国の領土が拡張したのは、女帝エカテリーナ2世の時。ドイツ帝国の一小国の娘だった彼女はロシアのピョートル大帝に嫁ぐと、夫を亡きものにし自ら女帝となった。10人もの愛人がおり「王冠を被った娼婦」と呼ばれた由。オスマントルコとの露土戦争でバルカン半島諸国を独立させ、クリミア半島を領土とし、東は中央アジアからオホーツク沿岸に進出。西はリトアニアやポーランド、北はフィンランドを征服してバルト海沿岸にバルチック艦隊を置き、脅威は幕末の日本にも及んだ。 恐らくエカテリーナ女帝と直接会った唯一の日本人が大黒屋光太夫(左図の左の人物)。彼は伊勢国の人で神昌丸(右)の船頭として白子浜から紀州国の藩米を積んで江戸に向かったが、嵐に遭って漂流し、当時はロシア領だったアリューシャン列島の小島に漂着。日本に帰国するためサンクトペテルブルクの夏宮に居た女帝に会って懇願し、女帝の配慮で根室へ帰国。1782年から92年にかけてのことだ。 仙台藩士を兄に持つ林子平(上)は、天明5年(1785年)出版の「三国通覧図説」で朝鮮、琉球、蝦夷地の地理や実状を紹介し。天明7年(1787年)「開国兵談」で西洋列強の脅威と、海防の必要性を説いた。ロシアは領土拡張の野望があり、ヨーロッパとアメリカは日本の開国と通商を求めた。またアメリカは鯨油を織機の機械油とするため、日本近海で捕鯨をし、小笠原諸島に基地があった。 だが自ら版木を彫って出版した「海国兵談」は幕府から発禁処分を受けて蟄居し、六無斎と号する。「親も無し妻無し子無し版木無し金も無ければ死にたくも無し」の6つの無からの号で、失意のうちに死する。世人に先駆けて世界情勢に通じていたがための悲劇だった。 伊能忠敬は上総(かずさ=現在の千葉県)の人で隠居後に測量術を学び、日本全土を自分の足で歩いて海岸線を測量し、歩けない場所は船に乗って測量。蝦夷地(北海道)から九州の島々に及ぶ日本全図を作成した。その精密さは幕末から明治期にかけて測量した英仏などの海軍が驚くほどの精密さだったと言う。シーボルトは禁制のその地図を持ち出そうとして咎めを受け、帰国処分となった。 間宮林蔵(左)は常陸国(現在の茨城県)の百姓の子だが、測量を学んで幕府の御庭番となり、蝦夷地に赴き、択捉(えとろふ)で伊能忠敬と会っている。後に樺太に渡り、樺太が島であることを発見。これにより大陸との海峡が「間宮海峡」と命名されることとなる。松浦武四郎(中)は伊勢国出身の探検家兼浮世絵師で、蝦夷地を初めて「北海道」と名付けた。伊能、間宮、松浦がいずれも町人や農民の出でありながら、最先端の学問と技術を身に着けていたことに驚く。それが支那や朝鮮と異なる点だ。<続く>
2020.04.20
コメント(4)
<何枚かの地図から その1> 逆さ地図 こんな地図を観たことがあるだろうか。これは日本から大陸を見るのではなく、大陸から日本列島を見るとこんな風に見えると言うもの。つまり人間時には視点を変える必要があると言うことだ。真ん中にある日本海を突っ切れば、大陸は割と近いし、樺太や朝鮮半島を経由したら楽に大陸に接近出来ることも理解出来よう。逆に中国から見ると広い太平洋に進出するには、日本列島及び南西諸島が邪魔になるのだ。 これは4世紀から7世紀にかけての朝鮮半島。高句麗は後の満州に跨る騎馬民族の国。百済と新羅は専ら農業中心の国。伽耶(かや)は倭人が住み、任那日本府が置かれていた。新羅は高句麗を討とうとしたが百済が邪魔で、唐と共同で先ず百済を討った。これに驚いた百済は日本に援軍を求めた。このため将軍亜阿倍比羅夫が2万7千人の兵を率いて朝鮮半島へ渡った。だが、白村江の戦いで敗れた。661年のことだ。 阿倍比羅夫(ねぶた絵) 阿倍比羅夫(あべのひらふ)は元は蝦夷(えみし)だが武勇に優れて越国守に任ぜられ、能代(秋田)、津軽(青森)、渡島(北海道)の蝦夷及び粛慎(みしはせ)を討つ。船団を組んで現在の北海道まで征伐に行ったのは、朝鮮半島での海戦の訓練だったようだ。飛鳥時代から緊迫した国際情勢があったのだ。 左は1880年(明治13年)集安(高句麗の都=現在は中国領)で発見された好太王(広開土王)碑文。中はその碑文で、ここに倭人が朝鮮半島に襲来したことが記され、倭が18回登場する。右は多賀城(陸奥国府=宮城県)の碑で、ここに靺鞨の国界を去ること2千里の文字が刻まれている。靺鞨(まっかつ)はアムール川河口(ロシア)付近のツングーズ系の民族で、満州族などにも通じる。 渤海国版図 渤海(ぼっかい)国は新羅に滅ぼされた高句麗の末裔が建国した国家で、日本へ庇護を求め20度以上朝貢した。大陸、朝鮮半島に沿って南流するリマン海流、そこから北流する対馬海流に任せての航行で航路は不安定。このため敦賀(福井)、能登(石川)、秋田に使節の接待所があった。日本の使節は敦賀付近から日本海を突っ切って、現在のウラジオストック(ロシア)に直行した。後に契丹(遼)によって滅亡する。 唐の版図 白村江の戦で敗れた日本は唐の侵略を怖れ、阿倍比羅夫を太宰府帥(だざいふのそち)に任命し、防御を固める。太宰府近辺に水城と山城を築き、対馬及び瀬戸内海から近畿にかけて逃げ城としての朝鮮式山城を築き、都を難波宮から近江宮に遷都した。かつ十分に先進文化は学んだとして、遣唐使を廃止した。唐はシルクロードを経て西方の文化を迎え入れ、その一部が正倉院にも伝わった。モンゴルの版図 チンギスハン及びその子孫は圧倒的な騎馬軍団によりヨーロッパまで遠征し、各地にモンゴル系国家(ハン国)を樹立した。男は全て虐殺、女をほしいままにして恐れられた。孫のフビライハンが中国にモンゴル系国歌の元をを樹立。鎌倉時代には高麗軍と合流してわが国を襲来した。いわゆる元寇だが、2回目は高麗の野望によるもの。ただし集合場所が2か所に別れたため、鎌倉武士の反撃に遭って敗退する。 2度の元寇により、対馬と壱岐の島民はほとんどが虐殺され、この時に船で逃亡した対馬島民の一部が津軽に到達し、その後も対馬氏や津島氏を名乗った。太宰治の本名は津島で、元寇の際に対馬から逃れた末裔とのこと。逆に戦国時代、豊臣秀吉は2度の朝鮮征伐を行った。このように東アジアでは古代から朝鮮海峡を渡っての戦いが繰り返されて来た。それもすべては地政学的な理由による。<続く>
2020.04.18
コメント(7)
~8月は日本にとってどんな意味を持つのか~ 8月はなぜか物悲しい時でもある。8月6日はヒロシマの日。9日はナガサキの日。そして15日は玉音放送が流れた終戦記念日。近隣諸国にも大きな迷惑をかけた第二次世界大戦。日本は戦争の当事者であり、かつ連合軍と戦って敗れた敗戦国でもある。この戦争に果たして一体どんな意味があったのか。あるいは無かったのか。その総括を、わたしたちは今どのようにすれば良いのだろう。 なぜ日本は戦争の当事者になったのか。そのことをわたしは授業で学んではいない。当時の世界情勢は果たしてどうだったのか。日本が経済的に追い詰められ、軍縮を迫られ、苦しくなっていたのは間違いない。アメリカのルーズベルト大統領が強大化する日本を危険国家と見なしていたのは事実だし、彼の判断が日本を戦争へと追い込んだのも事実。拡大主義に陥って大陸に進出した日本は泥沼に足を突っ込んだ。 大元帥だった昭和天皇に責任は無かったのだろうか。全くないとは言えないだろう。だが彼は立憲民主制における天皇の位置を良く理解し、政治に口出しすることはほとんどなかった由。それでも事態の進展を憂慮し、陸海両軍の責任者に戦争を回避出来ないか問うたと『昭和天皇実録』にある。東京裁判では天皇の戦争責任が問われかけたが、進駐軍が天皇制の意義を認識し、辛うじて責任は免れた。 対米宣戦布告の遅れは、担当官の寝坊が原因と聞く。どんな理由でも国際法違反だ。ソ連の対日宣戦布告も条約無視の国際法違反。日本は既にポツダム宣言を受け入れていた。千島、樺太、満州へと乱入したソ連兵によって、日本の領土と財産は奪われ、元日本兵はソ連各地に抑留され、シベリア鉄道の敷設作業などに従事させられた。寒さと飢えとでバタバタ倒れ、次々に死んで行った元日本兵たち。 第二次世界大戦で死んだ日本人は約300万人。だがそれとほぼ同数、他国民を死に追いやった。東アジアの独立と開放を謳った「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」は果たして幻だったのだろうか。いや、戦後そこに留まり、その国の独立戦争に加わった兵士も多い。現にフィリピン、インドネシア、インドなどでは独立出来たのは日本のお陰と今でも感謝し、パラオや台湾も日本統治の恩義を忘れてはいない。 日本の敗因は何だったのだろう。日清、日露戦争で勝ったことによる自信過剰。アメリカの物量を見誤り、戦闘は短期で終結するとの判断ミス。陸海の不和と作戦ミス。物資の圧倒的な不足と空軍力の決定的な不足。戦地の拡大に伴う補給路の長距離化。大本営発表とマスコミの過剰報道と乖離。終戦時期の判断ミス。アメリカは勝利後の日本統治策まで考えていたと言うのにだ。 欧米列強による植民地経営史は長い。だがどの国もかつての植民地に謝罪した事実はない。日本はどこかを植民地にしたのだろうか。答えは「否」。植民地政策とは、その土地の生産物や労力や富を収奪すること。日本は朝鮮や台湾、南洋諸島を本土並みに整備し、教育や医療、文化のレベルを引き上げ、収奪はしなかった。台湾やパラオが今でも感謝を忘れないのはそのため。ただ中国と半島国家は歴史を歪曲する。 わたしは思い出す。戦地から帰った父の義足。飢えた少年期。ありがたかった給食。近所にいたパンパンガール。戦車からチョコレートやガムを投げた米兵。進駐軍キャンプのMP。闇屋をしていた父の苦労。女運に恵まれず、40歳で死んだ父。それよりも若くして死んだ英才の姉。戦争で破壊されたわが家庭。わたしはアルバイトをして高校を卒業した。それらがわたしの戦争にまつわる思い出話。 初代宮内庁長官へ昭和天皇が語った「拝謁記」が最近発見された。天皇は戦争に関する反省と後悔を、自ら公表しようとされた由。だが吉田総理は天皇が示した文案を修正し、天皇もこれに従って反省表明は叶わなかった由。戦後「シンボル」となった天皇の苦悩が良く分かる逸話だ。さて、私の宿題は「満州事変」と「支那事変」。前者は軍部暴走の端緒として、後者は戦争の泥沼化を招いた原因と思うからだが、その実態を知らないままなのだ。 昨日のレースは無事ゴール出来た。スタート地点から順調に走り出したものの、晴天になるにつれて気温は急上昇し、9km過ぎからは歩くことを選択。そのまま走れば、多分体調を崩すとの判断だ。ゴール手前3kmの路上気温は36度を表示。私の判断は正しかったと思う。当日撮った写真を整理後、改めて完走記を掲載する予定。応援、どうもありがとうございました。
2019.08.19
コメント(12)
昨夜旅先から帰宅しました。留守中コメントをいただき、ありがとうございました。お返事は書きませんが、よろしくお願いしますね。 それから最近ウインドウズ10が原因の不都合が起きているようです。上手く立ち上がらなかったり、見たいブログに入れないことはありませんか?それらも多分ウインドウズ10が原因と思われます。世界的なウイルスの脅威に厳重に対処するあまり、チェックが厳しくなったことも原因とか。これは出入りの電気屋さんから聞いたのですが、実に迷惑な話ですね。~海の道~ 訪れた者、立ち去った者 大陸と繋がっていた時期はともかく、縄文時代以降の日本列島は孤立しており、海を渡るには何らかの手段が必要だった。丸木舟、筏、帆船や構造船と、より丈夫で安全かつ大量の輸送が出来るよう、絶えず改良の手が加えられた。三内丸山遺跡からは、新潟のヒスイ、秋田のアスファルト、北海道の黒曜石、岩手の琥珀などが出土しており、それらは舟で運ばれたと考えられている。既に縄文時代に舟による輸送があったことに驚く。 2200年ほど前のある日、浜辺に何艘かの大きな船が漂着し、見かけない人がぞろぞろ上陸した。一行を率いていたのは徐福(じょふく)。秦の始皇帝の部下で、不老長寿の薬を求めて遥々やって来たと言う。中には女子供も含まれていた。なぜ女子供までがこの列島にやって来たのかは不明。始皇帝は大変な暴君で、平気で殺戮を行った。ひょっとすると徐福らは、日本へ逃げて来たのではないのか。 いわゆる「徐福伝説」を私は知っていた。渡来地の一つが佐賀県であり、もう一つが紀伊半島の熊野近辺であることも含めて。そして今回の旅では、三重県の海岸で「徐福上陸の地」の標識をバスの車中から見つけた。ところが旅を終え、紀行文を書くためにネットで調べ、徐福伝説が残された地が全国で37か所もあることに驚いたのだ。これは一体何を意味するのだろう。「徐福」は1人ではなく、幾つも同じような例があったのかどうか。 <補陀洛寺=和歌山県那智勝浦町> また那智勝浦町に「補陀洛寺(ふだらくじ)」があるのを、車中から偶然見つけた。ここは仁徳天皇の御代にインド僧の裸形上人が漂着し、仏教を広めたと伝わる地。そして「補陀落信仰」が生まれた地でもある。補陀落とはインドの南の洋上にある理想郷で、サンスクリット語(梵語)のポータラカの漢訳。チベット仏教の聖地であるラサのポタラ宮殿の「ポタラ」も同源で、「観音浄土」の意味。 <渡海用の船の模型=補陀洛寺HPによる> 補陀落信仰とは、船でその観音浄土を目指すもの。30日分の水と食料を積み、僧は船室にいたまま扉を釘付けされる由。渡海の時期は11月。沖の繋切島で綱を切られた船は、そのまま大海を漂流するのだが、難破する姿を見た者は誰もいないと伝わる。平安時代から戦国時代までに9名、その後に10名が浄土を目指した由。茨城の那珂湊や高知の足摺、室戸にも同じ信仰の痕跡が伝わっているそうだ。 守礼門 私が補陀落信仰を知ったのは、30年前に赴任した沖縄でのこと。沖縄への仏教伝来は14世紀前半で、漢字の伝来も同じ頃とされる。そしてそれを伝えたのが、いずれも船で流れ着いた補陀落信仰の僧との説を本を読んで知った。それがずっと私の頭の中に残っていたのだ。しかし舵もない漂流船が、果たしてあの速い黒潮を逆流出来るのかどうか。真偽は不明だが、不思議な話ではある。 アカバナ 不思議と言えば、源為朝が八丈島から沖縄へ渡り、琉球王の祖先になった話(彼はその後帰国)や、平家の落人が琉球に逃げた「南走平氏」の話が沖縄にある。竹富島の集落の拝所(うがんじゅ)の傍に「私達は平家の末裔で、ここはその聖地です」と書かれていたのには驚いた。そこは西表島のすぐ傍の小島なのだから。 そして沖縄本島東部の島や宮古島には、倭寇の基地があったとされる。そして民俗学者柳田國男の『海上の道』は、かつて一世を風靡した。彼は中国や南方からの文化は、琉球列島や奄美諸島を伝って日本へ渡ったと考えたのだ。現在ではその考えの大半は否定されている。実際は方向が逆だったのだ。 ミルク神(弥勒菩薩) ところで沖縄のこんな言葉をご存じだろうか。1つ目は「ニライカライ」。これは沖縄の人々が憧れた理想郷で、海の彼方にあると言う。ある民俗学者によれば「ニ」は「根」。つまり根の国で、あの世と言う訳だ。2つ目は「うるま」。麗しい土地と言う意味で、沖縄本島には「うるま市」も誕生。また波照間(はてるま)は「果てのうるま」。つまり最果ての理想郷と言う意味を持つ。 <アンコールワット> その波照間に「ぱいはてるま」と言う言葉がある。「ぱい」は「はえ」で南風のこと。ひいては「南」の意。つまり最果ての理想郷の南に、さらなる理想郷があると考えた訳だ。果たして人間の深い欲望を思うべきか、それとも遥かに遠い祇園精舎への渇望を思うべきか。室町時代にはアンコールワットに落書きした武士もいた。彼らはその地を「本当の祇園精舎」と信じていたのだ。<続く>
2018.07.15
コメント(10)
~川の道・山の道~ 地図や地理が好きな人なら誰でも知ってるここは、今回の旅で訪れた場所。良く見ると、三重県と奈良県の間に2か所の緑の離れ島がある。下(南)の緑は新宮市の飛び地だが、これは所属する和歌山県と引っ付いている。上(北)の飛び地は完全に遊離した地区。北山村と言う1つの村全体が和歌山県から遊離した、全国でも珍しい形の飛び地。だから地図好き人間にはたまらない場所なのだ。 3県の県境 家康の江戸開府によって必要となった大量の木材を北山川に筏流しで河口の新宮まで運び、船で江戸へ曳航した歴史がこの村にある。その時以来下流の新宮と結ばれ、明治以降もその関係で和歌山県への所属を希望した由。今回はこの村で筏下りならぬ、川下りを楽しんだ私達だった。これはなかなか出来ない経験で、多分死ぬまで忘れることはないはずだ。 熊野古道 さて、良く名を知られた「熊野古道」だが、実は1本だけではない。色が違った道路の全てがかつての熊野古道。今ではその一部が県道や国道に変わってはいるが、石畳などを残す道も未だに残っている。濃い緑色の「大峯奥駈道」は修験道(山伏)が切り開いた山道で、今でも修行のために用いられる山深い小道。多分大台ケ原の山頂の岩から、絶壁に身を乗り出す修行者の姿をTVで見たことがあるはずだ。 これが役小角(えんのおづぬ)。通称「役行者」(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる聖人だ。吉野をはじめ、大台ケ原など奈良の奥地を修行して励んだだけでなく、関東や東北の山々まで経巡ったそうだ。彼には空を飛び、一瞬にして長距離を移動するスーパーマン伝説が残る。我が国の山岳宗教の草分けで、この木像は青岸渡寺の本堂に安置されているのを撮影した。 これは難波(現在の大阪)から新宮市の熊野速玉大社までの「九十九王子」を示した地図。2日目に泊まったホテルの廊下に展示されていた。都の上皇や皇族は京都から舟で淀川を下り、難波から牛や馬に乗って熊野へと参拝した。「王子」とは熊野三山に対する遥拝所のことで、実際に99の祠があり、それぞれに名前が付いていた。赤と青の少し大きな丸は、往復の宿泊箇所だろうか。 これは歴代の上皇、親王、皇女らが熊野へ参拝された「熊野御幸」(くまのごこう)の石碑で、速玉大社の境内に建っていたもの。一番多いのが白川上皇の9回のようだ。同じ字でも天皇の場合は「みゆき」だが、天皇以外は「ごこう」と呼んで区別しているようだ。 熊野御幸の解説文。 これは「藤原定家熊野詣旅日記」の一部で、泊まったホテルの通路に展示してあったのを撮影。 「藤原定家熊野詣旅日記」の解説文。後鳥羽上皇に随伴した定家は、この旅が嫌いでブーブー不平不満を漏らしていた由。<続く> 本日はバスツアーの2日目です。帰宅は今夜遅くの予定のため、予約機能を使って事前に書いています。いただいたコメントへの返事と、本日のご訪問は出来かねます。どうぞよろしくお願いしますね。ではでは。
2018.07.14
コメント(4)
~丸森町の歴史など~ ぼけているが、これは宮城県の地図。赤く塗られたところが、斎理屋敷がある丸森町だ。見て分かるように、町の半分が南隣の福島県に飛び出している。戦国時代はこの地を巡って、伊達と相馬が戦った。相馬が治めていた時は磐城国の伊達郡に編入され、伊達氏が奪還した後は陸奥国の伊具郡に入った。 さて現在は福島と県境を接しているため、東日本大震災の福島原発事故による放射能汚染問題も発生した。町の特産品であるタケノコが、あの事故以来数年間出荷停止となったのだ。除染が終了し、現在では再び出荷が可能となった。 今日は丸森町の歴史を探るため、「まるもりふるさと館」を案内したい。町立の小さな博物館で入場無料。町役場付近にあり、斎理屋敷から歩いて15分ほどだ。これは縄文時代の石器。左側と上部に見える石斧(せきふ=いしおの)は、丸太などを伐る際に使われた。右隣の石棒は男性のシンボルとも言われ、呪術的な意味合いが深い。いずれも良く磨かれ、技術性の高さが偲ばれる。 縄文土器の一部。破損したままなのが残念だが、縄文の息吹を感じることは出来るだろう。 複製品で、縄文人の勢いが感じられないのが残念。当時の東北は縄文文化の最先端地で、土器にもエネルギーが漲っていたのだが、これだと薄っぺらいものにしか見えない。 これらは土偶(どぐう)と呼ばれる土製の人形。人間に代わって穢れを祓うために破壊された。後世の流し雛(ながしびな)と全く同様の考え方だ。日本人の遠い祖先たちの長命と健康を願う気持ちが込められている。 土偶。当時の品ではなくレプリカだが、造形美と縄文人の精神性を知る上で貴重だ。 弥生式土器の複製。主に狩猟によって食料を確保した縄文時代と異なり、大陸から伝わった米を育てて食料とする弥生時代の土器は、意匠がより単純化する。生命の危険性が減ったからだろうか。東北への稲作はかなり早く伝わったものの、寒冷化によって一旦米作地が後退する。寒さに強い品種がまだ出来てなかったためだ。 複製にせよ、県下でこれだけ見事な埴輪が出土したとは驚きだ。古墳時代の東北に、大和朝廷の影響が出始める。稲作で力を蓄えた豪族たちが、中央の墓制を取り入れるのだ。東北には従来独自の墓制があったが、中央の権力者との協力関係によってさらに自己の権威を増すためその墓制を取り入れたのだろう。ここ丸森町にも前方後円墳を含む古墳群が造られる。 緑色の真っ直ぐなのが管玉(くだたま)で、カーブしたのが勾玉(まがたま)。縄文時代から伝わる勾玉は胎児を模したとも言われ、呪術性を有する。共にメノウ製だ。首飾りだろうが、それにしては部品が少ない。貴石で作られた飾りは、権力者の象徴だった。 これは釧(くしろ)で、腕にはめるブレスレット。やはり権力を表す道具だ。なお北海道の釧路はアイヌ語の地名を漢字で充てただけで、本来の意味ではない。 これは銅製の鈴釧(すずくしろ)。釧の周囲に5つの鈴型装飾が施されている。私は今回初めて実物を見た。 <阿武隈川の流れ=上方が下流側です> 奈良時代にはこの地に伊具郡の郡衙(ぐんが)が置かれたことだろう。平安時代には奥州藤原氏が陸奥守となって東北全体を治めた。だが源頼朝の40万騎が藤原氏を滅ぼすと、この地も鎌倉幕府の支配下となった。南北朝時代は付近の霊山などで戦乱が続き、戦国時代には鎌倉武士の末裔たちが、領地の拡大に奔走して戦いに明け暮れた。 親子同士での戦いもあった。政宗の祖父稙宗(たねむね)は、実子である政宗の父照宗と戦って敗れ、この丸森の小城で余生を送った。その面倒を見たのが相馬氏に嫁いだ照宗の姉妹。稙宗の死後、娘はこの領地を相馬氏のものとし、それを照宗が戦いで奪い返した。冒頭の領地の帰属と郡名の変更の話は、これによる。 <町内の蔵> 仙台藩は、領地のほとんどを家来に分け与えた。ここ丸森を治めていたのは佐々(さっさ)氏。城は設けず、街道筋の町として賑わっていたのだろう。ここは奥州街道から逸れた脇街道だが、並行して阿武隈川が流れており、江戸時代は舟運で上流の福島(幕府の天領)から米が運ばれるなどし、河口鳥の海にあった積出港への中継地としても栄えた。斎理屋敷の主は、舟運などでも大いに稼いだのだ。 <旧郵便局> 幕末の戊辰戦争で陸羽越列藩同盟の中心となった仙台藩は、ここ丸森でも官軍と戦った由。だが最新兵器を持つ官軍に対して、仙台藩の大砲の弾丸は陶器製で威力に欠けた。結果は火を見るよりも明らかで、列藩同盟は敗北。一部は最後の挑戦のため函館の五稜郭へと敗走した。明治初期、何度か混乱があった。一時期この地を南部藩に組み入れたのは、薩長主体の新政府の報復だったのだろう。 <町章が入ったマンホールのふた> 東北を冷遇した大久保利通がやがて反省する。江戸初期に政宗が遥かヨーロッパに使節を送り、通商を試みたことが明らかになったためだ。有為な人物が東北にいたことを知って政策を変え、現在の東松島市野蒜に近代的な新港を築いた。横浜港に先立つものだったが、外洋に面していたため波で堤防が破壊されて断念。しかし、仙台に第二高等学校、東北帝大、陸軍師団を置いて重視する。 <駅から斎理屋敷へ向かう途中の橋> 盛んだった阿武隈川の舟運に代わり、やがて沿線に鉄道が敷かれた。だが国鉄の民営化に伴って丸森線は民間の「阿武隈急行」となり、目下赤字で経営難。この沿線では過疎化が進んでいる。沿線の5市町は財政援助を行って、阿武隈急行の車両更新を図るなどしている。では明日から再び斎理屋敷の紹介に戻ろうと思う。どうぞお楽しみに。なおタイトルの一部を変更した。<続く>
2018.03.06
コメント(6)
5月2日月曜日、私は仙台市博物館へ行った。本来なら月曜日は休館日なのだが、この日は連休の合間で振り替え祝日。地下鉄「国際センター駅」で降り、歩いて博物館へ向かう。 やっていたのはこれ。内心大したことはないだろうとタカを括っていたのだが、どうしてどうして。国立カイロ博物館所蔵の貴重な展示物が103点も貸し出され、とても見応えがあった。会場内は撮影禁止なので、ポスター、図録、協賛の地元紙の紙面、パンフレット、ビデオの映像から写真を借用したことを、予めお断りしておきたい。 ポスターに載った歴代のファラオ(王)像。 左側は第21王朝アメンエムオペト王(治世は紀元前993年~984年)の黄金のマスク。 右側はアメンエムペルムウトの彩色木棺(左)とミイラカバー(右)で、紀元前1069年~945年の第21王朝期のもの。共に新聞から借用。 左側は王の座像。右側はライオンの姿をした神像。共に図録から借用。 ヘプテの方形神像。第12王朝(紀元前1985~1773年)の制作。新聞から借用。 ナクトのナオス(第12王朝時代の制作)。ナオスとは人物の彫像を収める祠のこと。新聞から借用。 メンカウラー王のトリアード。この王の治世は古王国第4王朝時代で紀元前2532年~2503年。トリアードとは三神像のこと。新聞から借用。 イタ王女の襟飾り。王女はアメンエムハト2世王(紀元前1922~1877)の娘。襟飾りは金属とビーズで制作。パンフレットから借用。 クヌムト王女の襟飾り。この王女もアメンエムハト2世王の娘。両端はハヤブサの頭部。新聞から借用。 ロイとマヤのピラミディオン。ロイとマヤは新王国時代第18王朝(紀元前1336年~1295年)の貴族の夫婦。ピラミディオンは夫婦の墓に埋葬されていたピラミッドの模型で、太陽信仰の象徴。パンフレットから借用。 中央のピラミッドは世界最大のクフ王のピラミッド。新聞から借用。 頂上部に大理石の化粧石が残るピラミッドとスフィンクス。図録から借用。 階段型のピラミッド。図録から借用。 ピラミッドの頂上部に載っていたピラミディオン。図録から借用。 パン造り、ビール造り職人の模型。中王国時代第12王朝(紀元前1985年~1773年)の墓に埋葬されていたもの。これによってピラミッドの建設工事に従事したのが奴隷ではなく、農民の労働者であることが判明した。パンやビールは、労働者のために毎日提供されたのだ。新聞から借用。 早稲田大学のエジプト発掘調査隊。隊長は吉村作治教授。(現在は同大名誉教授で、東日本国際大学学長)。かつてはTV番組「世界ふしぎ発見」に良く登場して発掘の現状を解説していた。上のパンとビールの話も、私はこの番組を観て知っていた。ビデオ映像から借用。 クフ王のピラミッド付近の地下から発見された部材を組み立てて再現された太陽の船。吉村博士はこの他にもう一艘、太陽の船が別の地下に埋まっていることを予言し、その数年後に実在が確かめられている。ビデオ映像から借用。 太陽の船の模型。毎日東から出て西へ沈む太陽は「復活と再生のシンボル」として古代エジプト人に崇められた。太陽はこの船に乗って天を移動すると考えられていた。ファラオも死後はこの船に乗って太陽と共に空を移動すると考え、王のため地下に巨大な船を収めたのだ。新聞より借用。 とても充実した展示内容に満足して家路に就いた私だった。 < 本日のO川さん情報 > 「本州縦断レース」(青森~下関間1512km余)に単独で参加中のO川さんは、昨日の22日目も無事完走してゴールされたようで嬉しいです。昨日は松江市をスタートして宍道湖沿いを走る途中、名産のシジミ獲りの船が見えたそうです。ゴールは出雲市の湖陵町で走った距離は52km、かかった時間は10時間とのことでした。 心配していた雨は時折パラつく程度で済み、合羽を着る必要はなかった由。元気なようで何よりです。標識の「出雲縁結び空港」の表現を楽しむ余裕もあり、頼もしい限り。今日は出雲市をスタートし、島根県大田市温泉津温泉にゴールの予定です。安全と健康にはくれぐれも注意して、今日も無事に走れることを祈っています。O川さんファイト~!!そしてガンバ~!!
2016.05.27
コメント(16)
全86件 (86件中 1-50件目)