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~曇りから雨へ~ 南の畑 13日金曜日。確かキリストが十字架に架かったとされている日だと思う。この日私は朝から畑仕事をした。家の裏で作っていた腐葉土を畑に撒く仕事。それが結構な量なのだ。それは前日からの続きで、前日は8個のジャガイモを半分に切って2つの畝に埋めていた。いつもの年より1月以上遅い始動だが、ジャガイモは年2回収穫出来るほどだから、植え時期の範疇ならいつ植えても良いのだ。 庭 朝食後新聞を読み、準備をして自転車で出かけた。最初は郵便局でお金を下す。次は生協。先ずサービスカウンターで、除草の代金の支払い。先日除草に来た業者は生協と提携していて、振り込みでなくとも支払える。次は隣のパソコンショップで古いPC内のデータ除去を依頼。ハードディスクを破壊するため、データが遺漏することはない。無料廃品回収などに出すと、データが悪用されて危険とのこと。 生協内では前から必要だと感じていたものを購入。ついでにその日の昼食も。パソコンを処理したためリュックには余裕がある。次は100円ショップで除草剤と「刷毛」を購入。ネットで調べたら「ドクダミ」など根茎が深くてしつこい草は、除草剤を刷毛で葉に塗るだけで地下茎まで枯れると知ったため。わずか220円で簡単に除草出来るとは嬉しい限り。大枚を叩いて業者に除草を依頼したのは、花木と雑草の場所を識別するためだった。次は薬局に寄り買い物。 ある施設 同じ班のTさん宅のチャイムを鳴らすと、奥さんが私に資料をくれ、幾つかの情報を教えてくれた。Tさん夫妻には今回の入院騒動で大変な心配かつ、迷惑をかけてしまった。そのお礼を言うために立ち寄ったのだが、帰宅後いただいた資料を見、奥さんから聞いた情報に基づいて区役所に電話して、自分がいかに無知だったかを思い知らされた次第。能天気に連日ブログを書いてる暇はなかったのだ。 時々番で庭に来るヤマバト 昼食は助六寿司プラス冷蔵庫にあった焼き魚、コロッケ、ピクルス、野菜の浅漬け、三つ葉のお浸し、それに果物少々。久しぶりに暖かい緑茶を飲んだ。午後近所のHさんが来宅。Tさんの奥さんに私が緊急入院したことを聞き、驚かれた様子。そして困ったことがあったら気楽に声をかけて。自分はまだ車を運転出来るからと。とても有難い話だが、今やるべきことは問題点の整理と体調の回復だ。 午後、生命保険会社の担当者から電話。前日電話した時は、どうしても連絡がつかなった。どうやら先方が故意に切ったような音がした。2回とも同じ状態で諦めた。どうやらそれで慌てて掛けてよこしたのだろうが、生保会社は、契約が取れるまでは愛想良いが、いざ請求と言う段になると、冷たい態度に変わる。年1度の本人確認も果たしていつになるやら。彼らは契約者の健康状態を正確に知っており、病状から死期もある程度予測しているのだろう。特に一人暮らしの爺は絶好のカモ。そこである作戦を思いついたが、それは書かないでおこう。 ゴムの木 さて、8日の日曜日以降私の身に起きたことをかいつまんで書くのが、このシリーズの趣旨。だがそれも自分の体調が最優先だし、順序立てて書けるかは不明。さてここ4日ほどブログを休んだが、その間も心配して訪れてくれた読者諸氏には、この場を借りてお礼を申し上げたい。とりあえず、今は生きてブログが書けたことに感謝です。<続く予定>
2022.05.14
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~暮らしの中で~ 地元紙のニュースで、仙台に1台だけ屋台が残っていることを知りました。これにはビックリ。何せ最近私は繁華街に行くことも夜出歩くこともないのでねえ。屋台の主は88歳。米寿ですね。先日まで転んだ時に腕を骨折して休んでいたそうです。常連客が心配して電話したようですが、何と先日復活開店した由。仙台市の条例で屋台の許可は一代限りで、他の屋台は病気や高齢で辞めてしまったみたい。 私が知ってる屋台は50年前東京に転勤するまでのこと。当時の青葉通りには道の両側歩道に5、60台の屋台が赤ちょうちんをぶら下げていました。しかしこの屋台をどうやって運んで来るのか。道路には段差があるし、88歳の体力で屋台を運び、営業するのも大変な体力でしょうにねえ。店の決まりは、「お酒は1杯だけ」。そしてメニューは「おでん」のみ。それでも常連客が待っているのです。 凄いお年寄りと聞いて私が思い出すのは、大分市の「スーパーボランティア」尾畑春夫さんです。尾畑さんは80歳になってもリヤヤカーを引いて、各地の被災地へボランティアに行ってましたね。リヤカーですから当然徒歩です。それも生活に必要な物品を全部載せて。支援先では自炊し、給食もいただきません。野草などを摘んでおかずにすると言う仙人ぶり。笑顔の素敵な奉仕者でしたね。 私はお二人のような体力はなくなりましたが、60代半ばまで200km超級のウルトラマラソンをやっていました。2晩寝ないで走っていると、最後には幻覚や幻聴を体験します。疲労の限界が近づくと、人間の脳にも栄養が伝わらず、距離感が狂って同じ場所を何度も往復したりもします。走友が幽霊を見たと言ってました。 私も同じ場所で深夜歩いている女性を見ましたが、失礼なので足元を懐中電灯で照らすようなことはしませんでした。場所は佐渡島の淋しい場所。北朝鮮の船で拉致されそうな気がしたこともありました。今回40時間も眠れなかった原因は分かっています。生活上の悪癖が招いた現象。何の自慢にもなりません。それで昨日は近所を散歩して来ました。 しかし知床半島での観光船遭難事件は酷過ぎますね。社長が記者会見(上)しましたが、その責任感と誠意のない態度には驚きを通り越して、怒りを感じました。折れたままの通信用アンテナ。修理が不十分船体。元々あの船は波が穏やかな瀬戸内海仕様で、風波が強い知床での運航は無理なのです。そしてGPSも外すと言う無謀と言うか、安全性を顧みない運営方針。 ベテランの船長を全員解雇し、経験の乏しい船長を安い賃金で雇い、甲板員はずぶの素人。宇登呂漁港の他業者や漁師たちは、以前からその危険性を指摘していたようですが、ホテルを6つも経営する社長は金儲けに目がくらみ、尊い人命を失う事故を発生させました。あの会社もですが、管理指導する立場の国にも、欠陥があったみたい。26名の命が冷たい北の海に晒されました。これは人災です。 山梨県の道志村で発見された子供の頭骨の一部と、左右の運動靴、そして靴下の片方。村の名前を今回ニュースで聞いた時、直ぐに3年前の行方不明事件を思い出しました。お母さんが必死に探し、その後も現場を何度も訪れて捜索したり、手がかりを得るため「チラシ」を配っていたのですよね。そのお母さんの行動をネットで中傷する人がいたと聞いて怒っていた私でした。 しかしあんな傾斜のきつい山奥に幼児が1人で行けるわけないと、私は感じています。誰か大人が美咲ちゃんを連れて行ったとしか思えません。もっと手がかりになる遺留品が見つかることと、DNA鑑定で身元が判明することを願っています。しかし気の毒な事件。お母さんの気持ちを察すると辛いです。 ウクライナのマリウポリ市での話をしておきます。同市では伝染病の蔓延が懸念されるみたいです。理由はたくさんの死体が長期間放置されていたこと。無論ロシアの攻撃による死者です。埋められるものは市民が仮埋葬したようですが、あまりにも多いのと、市民が高齢者で無力なためです。 あの製鉄所の地下でもたくさんの人が亡くなっているようです。地下は6層の複雑な構造で、死者は生活空間から離れた場所に運ばれているのでしょうが、太陽が当たらない寒くて湿気のある場所で2か月以上過ごしたら、病気になるのも当たり前。それに食料や水(工業用水を煮沸して飲んでいる由)、医薬品が乏しく、生存してる人がいるのが奇跡的なほどの悪条件。ロシアの攻撃のせいで脱出出来ないのです。 彼らに比べたら、私の不眠など些細なもの。暖かい寝床や食べ物、お風呂にも入れるのですから。 最後に明るいニュースを一つ。大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手が先日今季2勝目を挙げ、第4号ホームランを打ちました。そして初めて完全休養日を監督の意向で1日だけ設けたみたい。さてわが東北楽天ですが、昨日は放送時間の関係で楽天がソフトバンクに4点差で負けている場面で終わりました。これは負けだなと思諦めて夕食を摂り、ブログを書いている途中にスポーツニュースを観ると、延長11回に浅村のタイムリーでサヨナラ勝ちしていました。私には何よりの「薬」です。 エニシダ さて今日から5月。サンデー毎日の私には大型連休と言う意識はないのですが、今朝は町内会の今年度第1回目の草刈りがあり、9時過ぎには業者が庭の除草作業にやって来ます。午後は雨の予報ですが、その状況を見ながら午後も継続する由。そろそろ私は布団を敷きます。ではまた。
2022.05.01
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~その後の体調~ <モデルナ「スパイクバックス筋注」ワクチン接種後に現れる副反応などについて。製造元の武田薬品が配布した資料から抜粋して紹介します。 <接種後すぐに現れるかも知れない副反応>1・ショック、アナフィラキシー 〇全身:冷汗が出る。ふらつき 〇顔面:減免蒼白 〇胸部:動悸、息苦しさ 〇皮膚:全身のかゆみ、蕁麻疹 〇頭部:めまい、意識の消失 〇口や喉:喉のかゆみ 〇手足:手足が冷たくなる2.血管迷走神経反射 〇立ちくらみ 〇血の気が引く(時には気を失うこともある) <接種日以降に現れるかも知れない副反応> 1.心筋炎、心膜炎 〇胸の痛み 〇動悸 〇むくみ 〇息切れ 〇浅くて速い呼吸など 2.注射部位症状 〇注射た場所の痛み 〇腫れや硬さ 〇発赤 〇注射した側の腕のリンパ節の痛み、圧痛、腫れ 3.全身症状:発熱、頭痛、疲労、筋肉痛、吐き気、嘔吐、悪寒(おかん=気持ち悪い寒気)注1)1回目では5割の方に、2回目に接種した場合は8割の方に、何らかの全身症状が出ることが報告されている。追加免疫として3回目の接種した場合では2回目の接種時と同程度の症状がみられます。注2)これらの症状は多くの場合、接種後1~2日以内に現れますが、稀にこれより遅く(概ね1週間)現れることもあります。全身症状の多くは軽く、1~3日で消失しますが、高熱やけいれん等の異常な症状が現れた場合は、速やかに医師の診察を受けてください。 これらは本ワクチン接種により現れる副反応のすべてではありません。本ワクチンを接種した後、特に数日間は、ご自身の健康や体調の変化に注意し、普段と変わったことがあった場合は、医師に相談してください。 以上参考までに接種に配布された武田薬品工業(株)の「医薬品リスク管理計画」から抜粋しましたが、責任は負いかねます。またこのほか今回省略した「接種前の注意点」も掲載されていますので、受診者は事前に十分確認のうえで接種された方が良いでしょう。意外に大変なものですね。 私の場合は接種直後から発熱と軽い頭痛を感じ、帰宅後(接種1時間半後)に軽い喉の痛みを感じましたが、これは空気の乾燥によるものかも知れません。接種の翌日には接種部位(左肩)に痛みを感じましたが、手で触れないようにしています。そのほかの変化はなく、食欲便通ともに平常通りです。 フィギュアスケートペアの部。三浦璃来(りく)・木原龍一郎の(りくりゅう・ペア)は素敵でしたね。予選で勝ち上がってフリーに臨み、見事7位入賞でした。試合後4年後も8年後も滑りたいと語っていたのが印象的。木原はカナダの自宅でトレーニングを重ね、20kg体重を増やして今大会に臨んだ由。しっかりと相手を受け止めるためにも筋力をつける必要があったのでしょうね。 女子カーリングのロコ・ソラーレ。健闘しましたね。決勝ではイギリスに敗れて銀メダルでしたが。北京出場のために彼女らが長年積み重ねて来た努力が報われたように思います。精神力、団結力、ピンチでも明るさを失わず意見を交換した仲間意識に敬意を表します。一番左の石崎選手はサブの43歳。五輪出場最高年齢を更新した。藤沢選手が感謝を込めて彼女の首に銀メダルを懸け、二人はハグした由。 合同演習をモスクワからリモートで観る2人 ロシアのプーチン大統領(右)とベラルーシのルカセンコ大統領(左)が両国の軍事演習の様子をモスクワからリモートで眺めています。(AP通信配信)どうやら核戦力部隊が大陸間弾道ミサイルや極超音速ミサイルを実射したみたい。どちらも核弾頭の装備が可能です。ウクライナ東部では連日親ロ派とウクライナ政府軍の間で数千回以上の爆撃が行われているみたいです。 米ロは互いに相手を非難し合って、実態は闇の中です。だがKGB(秘密警察)出身のプーチンにとって相手を騙すなんてお手の物。自分に批判的なジャーナリストをこれまで何人暗殺したことでしょう。今回もオリンピックを「隠れ蓑」にして、支配を強め領土拡張を狙う全体主義国家の策謀を許してはいけません。私は少しのんぶりしたくなりました。ではでは。<続く予定>
2022.02.21
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~初めてのモデルナ接種~ バスの中で さて、どうする。3度目のワクチン摂取に備えて、やれることを考えた。副反応による体調の悪化を考えて、先ずおかずを作り置きした。野菜料理と焼き魚をそれぞれ2種。不足しそうな野菜類などを買い揃え、当日の夕食用に握り寿司と助六寿司を購入。念のため初めて薬局で「解熱剤」を買ったが、頭痛薬でもあるんだねえ。私の場合、頭痛くらいでは薬を飲まないため、知らなかったのだ。 帰宅が遅くなることを考えて懐中電灯を、雨が降ることを考えて折り畳み傘を小さなリュックに入れた。バスの時刻も予め調べていたが、民間のバスに乗らないで良かった。私は経路とバス停から会場までの所要時間を考えて市営バスにしたが、正解だった。お役所仕事であまり早めに着いても寒いところで待たされるだけ。私は図書館に入って暖を取っていた。 今回は公的機関が接種会場でやたらと待たされ、手続きが細かく分断されている。きっと「密」にならないための措置なのだろうが、うんざりした。おまけに「モデルナワクチン」に関する情報を会場で初めて渡されたが、観る暇もなく作業が進み、少々不安になった。でも体調が何とか接種当日までに回復し、これなら体も耐えられそうと判断して受けた。痛みはないが、直後から微熱が出た。 帰りもちょうど良い時間の最も近いバス停を通る路線のに乗れた。雨も降らず、懐中電灯も不要。帰宅して直ぐに暖房を入れ、シャッターを下ろして荷物を片付けてから夕食。握りと助六を半分ずつ皿に盛り合わせ、暖かい味噌汁と副食品と果物類。アルコールは控えた。夕食後パソコンを開いて翌日のブログを書き始めた。この分なら風呂にも入れそうと判断して、浴槽の掃除。接種会場では待機していた医師に体調と服用している薬剤名を聞かれたが、「お薬手帳」持参とは書かれてなかったはず。 ともあれ、3回目のワクチン接種は無事終了。副反応は3日以内には出るようだが、今のところはいつもより調子良いと感じるほど。前夜の寝不足を取り返して、カーリングの決勝を観たい。ウクライナ東部の親ロシア2州では、武力衝突が始まっているようだが、ともかく私は風呂に入って早く眠りたい。先ずは今のところは無事でおります。元気で日曜日(20日)に再会しましょう。ではでは。<続く>
2022.02.20
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~心配と安心と~ 胃カメラを飲む前日、朝も昼も手抜きの食事だったため、夕食はしっかり食べた。病院からもらったパンフに夕食は7時までには摂るよう書かれてあったので、それは意識していた。風呂に入って髭も剃り、着替えと目覚ましをセット。睡眠導入剤を飲み、まあまあ眠れた。翌朝は6時前には目が覚め、目覚まし時計は必要なかった。歯磨き時に水を2杯飲んだ。それも病院の指示だった。 問題は天気。胃カメラの予約は7時50分で、案内では20分前までには来るようにとのこと。この朝の最低気温は2度。前夜は雨が降ったようだが、自転車で行けるかどうか。もしも行けるならどのコースが安全か。寒くないよう手袋とアノラックは用意していた。指定通り7時半には病院に着いた。だがドアは閉まったまま。7時50分にドアを開けるとの表示有り。すると20分前に集合は一体何だったのか。 受付を済ませ、看護師さんに呼ばれて処置室へ。ここで胃カメラを飲むための事前の指導と準備。ベテランの看護師さんは手際が良く丁寧な応対。これで気持ちが落ち着いた。時間になってドクターが処置室へ。「グーテン モルゲン」と私が言うと通じない。看護師さんが「ドイツ語ですよ」とフォローしてくれた鼻腔から麻酔薬を注入し、喉から麻酔用のスプレー。どちらもカメラの管が通り易くするため。 カメラの画面を見ていたドクターが、私にも見ろと言う。体を起こして画面を見ると、胃の中にたくさんの食べ物が未消化のまま残っていた。これは大失敗。栄養をつけようとクジラの刺身を鱈腹食べた。それが良くなかったのだ。仕方なく撮れる範囲だけ撮って撮影は終わった。しかし胃の中の麻酔剤が気持ち悪い。何度かうがいをし、水を飲む。看護師さんから注意を受け、しばらく後でドクターの診断。 撮れた範囲では、良性のポリープが3個あるが問題なし。半年後にもう一度胃カメラ実施。次回は前夜の食事はエネルギーの高いジェリーくらいにせよとのこと。血糖値と運動に関しても注意を受けた。帰路A公園経由で無事帰宅。昼食はパンと果物くらいで簡単に済ませ、雨傘で作った「杖」とカメラを持って散歩に行った。体調の悪さにかこつけて、じっと自宅に籠っていた最近の日々を反省したのだ。 殺風景な公園。ケヤキもカツラも葉を落として、すっかり冬支度を整えていた。しゃがみ込んで写真を撮ると腰が痛む。何とか立ち上がり杖をついて歩く。こんな杖でもあれば助かる。ますます北風や雪や氷に苦しむ季節だが、頑張って歩かねば。それが独り暮らしの老人の課題。寝た切りにならないためにも。 夕方のニュースで、この日の朝仙台に初雪が降ったことを知った。やはり寒かったのだ。自転車で転ばなくて良かったと安堵。午後からユズの実を枝から切って近所に配る。凍ったり解けたりを繰り返すとそのうち腐る。美味しいのを上げて喜んでもらった方が良い。残った実は、Tさんが高枝鋏で切って持ち帰った。ユズ湯にするみたい。私は小さいのと傷ついた実が少しで十分。味に変わりはないしね。 歌舞伎役者で人間国宝の中村吉右衛門が死んだ。享年77歳。私と同じだが誕生日が少し早い私が1学年上。死因は心不全。心臓に問題があったのかどうかは分からない。心臓が止まれば心不全になる。松たか子の父松本白鷗は実兄。松たか子にとっては叔父さんだ。私はここ数か月、体調の悪さに苦しんだ。この体でどこまで生き長らえ、暮らしに必要な認知機能をどこまで保てるか。日が一層短くなった。
2021.12.03
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~中国の苦しみと私が身の苦しみ~ 中国で開かれていたいわゆる「第6総中」でこの度歴史決議が出されたようだ。その全文は明らかになってないが、習近平国家主席の政治手腕と功績を讃え、「歴史的功績を上げて歴史的変革を起こした」と称賛。ついに習近平は毛沢東、鄧小平に次ぐ歴史的な政治家として歴史に残ることになったようだ。確かに軍拡を進め、「一帯一路」を強行し、南シナ海のサンゴ礁を軍事基地化し、ウイグル族、香港市民を抑圧して自由を奪い、南モンゴル地区では漢民族化を進め、宇宙開発にも乗り出した。 その一方で国民の所得格差は爆発的に拡大し、ここ数年の水害は多くの国民を苦しめている。街の至る所に監視装置が設置され、常に行動がチェックされている。今、国内には食糧確保令が出ているとのこと。来年の初めに開催予定の「北京冬季オリンピック」までに新型コロナを抑え込むため、近くロックアウトを実施する予定。食料の確保令はそのための準備のようだ。 また中国では全国的な停電が多発している。政府の最初の説明はCO2の削減のためだった。だが実態は石炭の高騰で発電所が赤字になるため、発電を抑制しているのだ。このため、都市部では一斉に自家発電装置を用い出した由。そのため逆にCO2の排出が進んだようだ。国民が苦しむ中で習近平は、自分が2035年まで国家主席でいられる特権を手にしたようだ。どこまで危険な道を選ぶのだろう。 このたび外務大臣に就任した自民党の林議員が「日中議連」会長職を辞した。これまでは大の親中派と目されていた林氏がこのたび参議院議員から衆議院議員に鞍替えし、外務大臣の要職に就いた。そのため中国や国内外からあらぬ目で見られぬよう、「中立」の姿勢を取ったと言うことだろう。中国は貿易相手として重要ではあるが、尖閣を巡る対立で日本は譲れない立場にある。今後の舵取りが重要だ。 <守礼門(左)と普天間飛行場(右)> 沖縄の2大新聞である「琉球新報」と「沖縄タイムス」が折に触れて沖縄独立論や米軍基地反対をアピールする裏に中国の工作があることは以前から叫ばれているが、沖縄県民の目にはそれが明白に見えないほど当然の県民感情として定着してかのようだ。だが、先島の「八重山日報」(?)だけは冷静に事態を把握してその危険性に警告を発しているのだが、何分沖縄本島から遠過ぎて声が届かないのが実態だ。 さて、危険と言えば私の健康状況も同様だ。一晩に何度もトイレで起きるため不眠がちとなり、朝から不調。食事を作るのも億劫なほど。これでは健康は維持不可能で、自分でもこれは危ないと感じることが最近はしばしばだ。その理由を考えていたがどうも薬の飲み過ぎに原因があると考え始めた。市の健康診断を終えた時、診断結果に「腎機能」の評価が3で、「要治療」とあった。だが、主治医は何も言わない。ある日のこと、頻尿は泌尿器科が担当かと聞いたら、彼は「腎臓内科」と即答した。 それで「腎機能の障害になるもの」をネットで調べた。その結果は「水分の不足」これは大丈夫。私は良く摂る方だ。第2が過剰な薬の害。特に血圧抑制剤を複数種類処方する医者は要警戒とのこと。それから血糖値を抑制する薬と合わせると腎機能が衰えて重大な結果をもたらす由。つまり腎臓の役割の一つが解毒作用。薬やサプリメントは人工物で人体には毒。その解毒のために腎臓がフル稼働する由。 そのため血液をきれいに作り変えて再び全身に送る機能が疎かになる訳だ。私は今日急遽内科を受診してドクターにそのことを質問しようと思う。薬をたくさん出すと医者は儲かるが、高齢者の患者には負担になって毒なのだ。得に言えない体調不良は腎機能の低下に起因するものかも知れない。そして腎臓に良くないことの3つ目が睡眠不足。一晩に何度もトイレに起きれば睡眠不足になる。だがなるべく飲まないようにしている私は、それも体調不良の大いなる要素になっていたわけ。理屈は分かった。後は実行だ。 将棋の藤井3冠が昨日から山口県の宇部市で戦っている「竜王戦」の第4局。結果は今日の夜に判明する。もし後手の藤井3冠が勝てば4連勝で「竜王」を奪取し、4冠となる。前にも書いた通り十代での4冠達成は最年少記録を塗り替えることになる。 一方ロサンゼルスエンゼルスの大谷翔平選手は、アメリカンリーグの「指名打者部門」でシルバースラッガー賞を受賞し、また一つ評価を上げた。分野こそ違え、2人は日本の若者の誇りだ。元阪神のスラッガー、バース選手は大谷はメジャーでも別格の第選手と絶賛した由。観る人が見れば、彼の偉大さは一目瞭然だ。 さて、セパのファイナルステージ第3戦が昨夜あった。これを書いている時点(予約で書いてるため)では戦いの最中。巨人とロッテには是非とも一矢報いて欲しいところ。さてそろそろ夕食の支度に取り掛かろうかな。では、また。アディオス。さて結局セもパも引き分けた。これで4連勝となりヤクルトとオリックスの日本シリーズ進出が決まった。前2年最下位のチームの優勝も珍しいが、同じ状態同士の日本一決定戦も初めてのこと。巨人も、ロッテもお疲れ様でしたね。また来年頑張りましょう!!
2021.11.13
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~これから気を付けることなど~ 金曜日は眼科に行った。目薬がなくなっていたからだが、この日は瞳孔を開く目薬を差して眼底撮影するのが主目的。時間がかかったが無事終了。特に問題はなかったようだ。だが困ったのは瞳孔が開いてるために眩しいこと。嬉しかったのは隣の薬局の薬剤師さんが、他の病院で出された薬と「目薬」の相性を調べてくれたこと。別の薬局では耳鼻科に行くことを勧められ、半年間の投薬で耳鳴りと女眩暈が治まったこと。プロのこんな親切心は嬉しい限り。中にはつっけんどんな人もいたけどね。 翌土曜日は整形外科へ行った。一つはもらった湿布薬が強過ぎて、肌が赤化したことどうやら炎症が起きたもよう。もう一つは腰痛が治まらずに他の治療法がないかドクターと相談したいと思ったことだが、さてどうなるか。先ずは背中の服を上げて腰の湿布薬の痕を確認。これは塗り薬のステロイド剤を処方してくれた。 次いで私は質問した。手術での完治は無理かと。ドクターの答えはこの程度の脊椎の異常で、手術はしない由。それでは神経ブロック注射の是非。これも同様の答え。私がやっている体操の説明をすると、それは脊椎が擦れるから止めた方が良い由。整骨院で理学療法を受けるのは自分の判断で良い由。そして今後は腰痛と上手に付き合うしかないとのたまう。 そして「腰痛体操」のパンフレットをくれた。なるほどこんな軽い体操で良いのか。そして腰痛に良くないことも書かれ、私にも該当することがたくさんあった。あちゃ~。受付で支払う時、痛み止めの飲み薬が処方されてないことに気づき、処方してもらった。これはいざと言う時の最後の砦(とりで)。ともかく独り暮らしの私は、寝込んではいられない。前夜も義姉と電話で腰痛の話をしたばかりだった。 二宮金次郎の石像 先日NHKの「英雄たちの選択」のテーマは二宮尊徳だった。幼名は金次郎。昔は小学校に金次郎の石像があったものだ。山で切った柴(薪たきぎ)を背負い本を読みながら家路に就く姿。倹約家で努力家の見本みたいな人で、成人後は農民の手本として崇められた。ところが彼が幼いころ村が大災害に遭い、十代半ばで両親を亡くし、以後は自分の才覚で暮らしを立てたことが分かった。 私が知っていたのは下肥(人の糞尿)を肥え壺で発酵させ、それを有効な肥料として活用したこと。そのため「発酵」具合を確かめるため糞尿を舐めたと言う事実。それは恐らく本当の話なのだろう。金次郎は家計を建て直しただけでなく、村の農業を改善した。その評判を聞きつけた小田原藩の家老が、士分に取り立て、家の家計を任せると数年で借金を返し、逆に財産を増やし、小田原藩に雇われることになる・ 桜町陣屋 当時小田原藩は全国7か所に領地を有していたが、金次郎改め二宮尊徳が管理を任されたのが4千石の分家。これは栃木県真岡市(現在はさくら市か)にある桜町陣屋。現地の家臣の抵抗に遭いながらも尊徳は改革を進めて、見事農村経営に成功し巨額の収益を得た。その評判を聞きつけた幕府が尊徳を召し抱えることにした。こうして尊徳は幕臣となり、ますます力量を発揮する。 二宮尊徳 幕臣としての最初の仕事は印旛沼の治水を兼ねた利根川から江戸への航路を切り開くこと。尊徳は測量と実地調査に基づく緻密な計算で、70年での完工計画を提出した。だが折角の計画も、経費の関係で幕府が実行することはなかった。次に命じられたのが「日光領」の収益改善と、全国どこでも通用する農村経営素案作りだった。これも尊徳は心血を注いで緻密な計画を70冊もの本にまとめた。 「日光領」は日光東照宮を中心とした「天領」だが、山あり谷あり荒地ありの問題地。だが尊徳は自ら現地を訪ねて計画を取りまとめた。そしてその途中で死ぬ。一農民が幕臣となって全国の農政の手本となる農村経営策を講じた。後世の渋沢栄一の「論語と算盤」同様、そこには農民愛に基づく道徳と経済理論があった。恐るべき思想家で、全国に尊徳講が出来たくさんの「弟子」が生まれたのも頷ける。江戸時代の農民には、こんな人材もいたのだ。後の渋沢栄一も近代日本を作った偉人だった。恐るべし、江戸の農民たち。
2021.11.07
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~マックス爺の緊急一泊旅行その3~ ようやく遅い昼食を食べたものの、何か物足らなかった。そこで病院内の売店へ。飲むヨーグルト、ピーチ入りのヨーグルト、週刊誌を買って病室へ戻り、早速食べかつ飲んだ。それから遅ればせながら「カテーテル検査同意書」の注意書きを丹念に読む。夕食は6時過ぎ。それまでは椅子に座って週刊誌を読んだ。5時過ぎ、太った男性の看護師さんが来た。夜勤の担当の由。確か以前入院した際もいましたね。 事務の人がやって来た。明日の土曜に退院となるが、土曜は会計が閉まっているため請求書は後日自宅に送付する由。そして明日の9時半に着替えし、全て片付けて食堂へ来るよう案内あり。また義姉から明日車で迎えに行くとの連絡があったので、夕食後にでも私の方から連絡して欲しいと。夕食は6時過ぎに部屋に届いた。納豆なしで1800キロカロリーの普通食。ヨーグルト2個食べた後だが、何とか完食。 夜の分の薬を飲み歯を磨き終わったころ、主治医のO先生が病室にやって来た。今日の検査結果を知らせに来たのだ。カテーテル撮影の結果冠動脈に異常は見られず、心電図に現れた不整脈は通常の人でも出るもので、心配はない由。血糖値もさほど高くなく特に問題なし。軽いランニングもOKとのこと。ただし「げっぷ」の原因は分からないので、心配なら消化器内科を受診して欲しいと。 わが心臓の冠動脈 心臓の血管で細くなってる箇所はなく、私が通院してるM内科には「心臓は全く異常なかった」と伝えてほしい旨。これは嬉しい。ドクターが持っていたカテーテル撮影写真のコピーを頂いた。心臓に問題なしとなれば、後は脳と胃か。げっぷは以前の不整脈手術の後遺症と考えていたのだが、別の理由かも知れない。先ずは消化器内科へ行くか。腰も痛いので整形外科にも行きたいし、眼科に行く日に入院した。 今回入院したK病院 脳の方も心配だが、一度には行けない。病棟の公衆電話から義姉に電話した。そして驚いた。今ではもうテレフォンカードが使えないことを発見。確かにそんなことを何年か前に聞いた覚えがあった。心配なのか検査結果が気になるようだ。それで何事もなかったことを報告。翌日は最寄りの地下鉄の駅まで歩いて帰ろうとしたが、義姉は自宅まで車で送ると聞かない。雨だったし、傘も持って来なかった。 土曜日。退院の朝は6時起床し、ナースステーション前で血圧測定。暇なので窓辺で週刊誌を読んでいた。外は雨。これじゃ歩いて帰るのは無理。7時半には着替えし、入院着と枕カバーを所定の場所へ。トイレを済ませ、男の看護師さんに左腕のカテーテル装着口、右腕の採血痕、胸の心電図装着用のテープを全部剝してもらう。最後の朝食も1800キロカロリー。食後にいつもの薬を服用。 食堂でのミーティングを終えると、義姉がナースステーションまで迎えに来てくれていた。外は肺然たる雨。車中で色々と話し合った。看護師には「もう80なのに」と口説いていた彼女。だから世話になりたくはないのだが、止むを得ないこともある。旧O廻し住宅で公園化の工事が進んでいた。無事帰宅し、義姉に謝意を述べる。前日早朝に救急車にのったため、家は一晩中カーテンを開けたままだった。 それから猛烈な勢いで荷物の整理、家の片付け、畑の見回り、新聞に軽く目を通し、昼食、2日分のブログの公開と予約、新聞、テレビ、パソコンでニュースのチェック、おかず2種を作って夕食。深夜近く風呂を沸かして入浴。翌日の朝義姉から電話。私の次男に電話しても出ないと愚痴。母親の認知症発症と両親の離婚だけでも動転しているのに、父親の体調不良と聞けば、自分が喪主になる覚悟が出来てない息子たちは狼狽えるだけ。 それでなくとも、コロナ感染者数が激増する東京のど真ん中で神経をすり減らしている彼らの心中を察すれば、先ずは手紙を書いて当方の近況を知らせ、今後の考え方などを記して少し安心させるのが先決。それがずっと離れて暮らしていた家族の苦しさ。そして独り暮らしの高齢者の定めでもあろう。私が電話しても出ない次男。きっと親父が危篤と誤解し、ビビっているのだろうけど。<この項完>
2021.09.06
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~マックス爺の緊急一泊旅行(2)~ 早速担当の看護師が部屋にやって来た。この病院の看護師さん、パラメディカルスタッフは若くてきれいな女性が多い。これだけでも宿泊(いや入院(;^_^A)する価値があろうと言うもの。10階病棟の簡単な案内、治療計画など当日の予定について説明があり、入院着に着替え。右手に囚人番号(いや、患者固有番号と名前が入ったリングが嵌められ、検温と心電図測定。抗生物質を2錠服用。 それから車いすで1階の臨床検査室へ移動。最初はベッドに寝たままでの胸部X線撮影。次に採決(いや採血)。それから心電図測定と、両手両足の血圧測定、最後に胸に薬を塗って、心エコー撮影。これは心臓の動きや異常をその場で確認するもの。担当者はドクターではなく臨床検査技師とのこと。私は質問があれば何でもその場で尋ねる派。珍しい苗字だと出身地までお聞きすることも。 これだけの検査でももう草臥れていた。検査の合間にトイレに駆け込むこと数度。もう1階での検査は終了とのこと。これはおかしいなと思って尋ねたら、検査指示票にそう書いてある由。そのうち10階のパラメディカルスタッフがやって来て、車いすを病室まで運んでくれた。だが病室の様子がおかしい。私が検査で留守の間に2人部屋の相棒がどこかの病室に移動し、私は「窓際族」に変っていた。 理由を聞いて笑えた。2人とも同じ姓のため、間違いを防ぐための措置らしい。部屋の壁には「当院は救急病院指定のため、救急の患者さんが入院する場合などに部屋の移動をお願いする場合があります」とある。そして看護師さんが慌ててやって来た。「心臓カテーテル検査」が入りました。帰って来られたばかりで恐縮ですが、これから2階の検査室に移動します」と。 それで分かった。心臓カテーテルは1階ではなく2階。私は過去3度入院し、心臓カテーテル手術を受けたのに、検査会場を忘れていた。さて既に朝8時過ぎには左手首にカテーテルの挿入口となる装置が装着されていた。処置室に到着し技師さんの名札を見て出身地を尋ねた。珍しい苗字だった。狭いベッドに横たわり、先ず麻酔薬を飲まされた。苦い変な味の薬。それを舌でなめて溶かし、唾液で胃に流す。 暫くすると胃がムカムカして来た。思わずうなり声が出る。「どうかしましたか」と技師さん。「吐き気がします。空腹のせいかも」。朝から悪かった胃の調子。てっきりそれが原因かと思っていたのだが。技師さんが「吐き気止めを今から点滴に混入します」と。それが効いてか、その後は胃のむかつきは解消。彼が叫んだ「○○投入」の○○の正式名を思い出した。大学病院の医事課に勤務していた若き日。 その薬剤名を約60年後に思い出すとは。 身動きできず苦しかったカテーテル検査も無事終了。看護師がカテーテル挿入口を透明なテープで嫌と言うほどきつく固定する。そうしないと傷口から猛烈な勢いで血液が噴出する由。後はちゃんと私の心臓が撮影されたかどうか。部屋に戻った後で「検査同意書」の説明欄に「麻酔薬の副作用として吐き気が起きる場合がある」とあった。そうか、それが原因だったかと納得。2時過ぎに遅い昼食が届いた。だが、私は箸を持参しなかった。コップも歯ブラシも忘れた。そこで売店へ行き最低必要なものを購入。 そこへ看護師が慌てふためいてやって来た。「どこへ行ってたんですか。10回も探しに来たんですよ」と彼女。それは悪かったね。でも午前中に無理やり全ての検査を突っ込んだのはそっちじゃないの。お陰でまだ昼食も摂ってない。こっちは昨夜から何も食べてないの。そんなことは言わない。我慢には慣れている。彼女は左手のカテーテル挿入口の蓋の圧力を少し下げようとしていた。 締め付けた堅いテープが、左手首の骨に当たって猛烈に痛く、左手の掌と指が紫色に腫れ痺れる。そのため傷の治り具合を確かめながら、管の圧力を徐々に弱める。転倒して左手を衝かないよう厳重に注意されていた。そんな経緯の後、20時間ぶりに食物が、胃に滑り込んだ。摂取カロリー1800calのちらし寿司、煮物、ごく薄いスープなど。食事の指示票に「納豆禁止」とあった。 誰の指示かは知らないが、納豆に多く含まれるカリウムが、「血液サラサラの薬」ワーファリンの効き目を阻害するためだが、私はワーファリンを飲んでないし、「お薬手帳」も提出してある。これが最後まで訂正されず、退院時の注意にも「ワーファリンは飲みましたか」とあった。因みに私は納豆が好きで、「たれ」なしでも食べられる。ただしその代わりに沢庵や、ザーサイ、梅干しを少し齧るが。(続く)
2021.09.05
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~マックス爺の緊急一泊旅行(1)~ 金曜日の朝6時前。前日整理した古い剪定枝をゴミ収集所まで運んだ。これは去年の剪定枝のうちユズとバラの枝で、1年間腐葉土づくりの山に放置していた。もちろん葉はすっかり落ちて腐葉土になったが、枝がまだしっかりしてるだけでなく、鋭い棘が残っていて、そのまま縛ってゴミに出すと、自分自身も清掃の人も負傷する恐れがある。そのため前日丹念に棘を切り落としていたもの。 帰宅後パソコンを立ち上げて当日のブログを確認した直後、体調の異変を感じた。動悸と息苦しさ、両手の痺れと体温の低下。げっぷとたとえようもない不快感。自然に口から流れ出すよだれ。恐らくは急に気温が低い外に出たことによる、血圧の急上昇とそれに伴う異常なのだろう。血圧を測る前に怒涛のように押し寄せた異変をどう処置するか。もしも「脳梗塞」ならこれは一刻も争う。 迷わず119番に電話した。管区の消防署の救急の人が電話に出る。聞かれるままに体調を説明。至急救急車をよこす由。名前、住所の確認。電話は自動的に登録されるはず。自宅付近に救急車をターンさせる場所があるかも。10分ほどで到着する由。それから猛ダッシュで、お薬手帳、保険証、薬、財布の入ったポシェット、小さなリュック、履いて行く靴を選んで救急隊が来るのを、ソファーに座って待った。 間もなく合計4人ほどの救急隊員がやって来て、矢継ぎ早の質問。現在の体調を詳細に尋ねるので、さっき話した通りと言っても、きっと彼らも詳しく伝える暇なく出動したのだろう。そこで再び丁寧に話す。その受け答えをみて担架は不要と思ったか、徒歩で救急車へ。9段ほどの外階段は隊員の肩を借りた。救急車に乗り込む前、向かいのKさんに簡単に事情を話す。Kさんとはゴミ出しの際会ったばかり。 救急車の狭いベッドに、進行方向に頭を向け仰向けに寝る。その間も質問が飛び交う。これまで手術などで入院した病院。近くの総合病院は診療を受けたが、入院や手術はしてない。結局不整脈の手術を3度受けたK病院の救急部に症状を話し、搬送されることが決定。山越えルートなので、揺れるせいで車酔い。そんな状態で近親者の連絡先を聞かれる。メモの義姉の名を告げた。早速連絡する救急隊員。 ベッドの脇に血圧、脈拍、血中酸素量がデジタルで表示。血圧は上が198で下が110とかなり高く.血中酸素量は98。これは正常。やがてK病院の救急搬送口から、救急部にストレチャーのまま入る。担当医は循環器内科のO先生で、到着前に私のカルテに目を通していたようだ。改めてO医師に今朝からの事情と現在の体調を説明。医学的な知識がほとんどない救急隊と異なり、こちらは直ぐに察知。 直ちに心電図を測定し、胸部のX線撮影。それらと私の説明を見合わせて今後の治療方針を策定。外来で検査することも、入院してさらに詳細な検査を可能とのこと。心臓のエコー撮影、カテーテルで造影剤を注入しての冠動脈造影検査、両手、両足の血圧の差の測定、血液検査がその具体的な内容。突然の体調変化と救急車内での緊張からか、急速に血糖値があがって物凄い口の渇き。立て続けにコップで2杯水を飲み、トイレに行った。 今春体調の悪さを自覚し、K病院の人間ドックを受けようと資料を請求した。それで「脳ドック」を含む精密検査が22万円以上かかることを知った。人間ドックは健保の適用外。それなら後期高齢者保険の1割負担で必要な検査を受けた方がベターと考え、即刻入院を決断。1泊2日なので、ほとんど準備不足でも何とかなるはず。直ちに循環器内科病棟のある10階の病室に移動。義姉も移動し、必要書類に記入してくれた。 80歳近い義姉に迷惑をかけたくないが、他に頼るべき者がいない。こんな場合を想定し、従弟にもしもの時は保証人になって欲しいとお願いはしていたが、彼もコロナ不況で苦しんでいるさ中。無理は言えない。これが転勤族で長年故郷から離れていた者の宿命、そして独り暮らしの高齢者の定めでもあろう。ともかく後はドクターに一存。それにしても腹が減った。前夜の夕食から何も口にしておらず、薬も服用しないまま。これでどこまで持つか。生来の強さを信じるしかない。<続く>昨日の朝に緊急入院したため、いつもは前日に予約しているブログが予約出来ませんでした。本日の正午近くに退院し帰宅したので、それからブログを書き更新した次第です。亭主謹白
2021.09.04
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~体調と不安~ 火曜日の夜。急に腹が苦しくなってトイレに行った。せっかく食べた夕食のうどんもサラダも、飲んだ薬も全部戻してしまった。なぜこんなに苦しいのだろう。胃は極めて丈夫で、多少傷んだものを食べても大丈夫だったのだが。だが食中毒が原因でないとすればほかに何があるか。一つは天候が悪いこともあって、ほとんど体を動かさなかった。運動不足による消化不良が大きな原因だろう。 しかしこのままの状態が続けば、週末に受ける2回目のワクチン接種に支障が出るかも知れない。そしてその日の日中、殺虫剤を使ったことを思い出した。羽が生えた女王アリ2匹が大勢の働きアリを連れて新たな巣に向かうところ。これは困る。家の横の隙間に巣を作られては。そう思って殺虫剤を噴射した。その薬がひょっとして手に付き、手洗いが不十分なことによる薬物中毒かも。悪い予感が頭を過り、眠れない長い夜だった。 火曜日。この日の天気は曇りから晴れに移る由。これは絶好の洗濯日和。溜まりに溜まった洗濯物を処理しよう。そして久しぶりに布団干しも。何とか頑張って布団を2階まで運び、洗濯物を干した。次にスポーツドリンクを少し飲んだ後、風呂場でシャワーを使う。汗ばんだ体を洗えて良い気持ち。それからバナナを食べ、冷たい味噌汁を飲んだ。水分、塩分と若干の食べ物。胃は何とか大丈夫そう。体重が2kg以上減っていた。 しかしとニュースに見入る。熱海の土砂崩れは一体なんだろう。少なくとも130戸の住宅が被害を受け、死者も行方不明者も出た。土砂崩れの源になった現場の様相に驚く。それ以前の風景と比べたら様相が一変している。あれはまさしく人災。あんな場所に大量の土砂を埋め立て、しかも排水については何の手当もしていない。あんな恐ろしいことが許されるものだろうか。体調もあり、気分が滅入る。 昼はお粥をほんの少しだけ食べた。塩分とでんぷんとわずか小魚。それだけでも食べられて良かった。午後はずっと居間で横になっていた。このまま胃が落ち着いてくれると良いのだが。落ち着いてから布団と洗濯物のを取り入れ、それぞれの場所に収容。眠ったせいで少し体調が回復したか。それにしても暑い一日だった。粗末な食事しか摂ってないのに、よくも体力が持ったものだ。 夕方起きて相撲を見る。取り組みは結びの一番までに2,3組しか残ってなかった。何とか夕飯を食べよう。そう思って久しぶりに米を研いだ。わずか2合で3日分にはなる。ついでに日曜日に漬けた梅の様子を確かめる。重石を退けると容器の中で梅酢が上がっているのが見えた。これなら大丈夫。上手く梅干しになりそうだ。そして「殺虫剤中毒」ではなかったみたい。こんな風に独り暮らしの年寄りは不安が一杯だ。
2021.07.07
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~信じるべきこととは~ 京都大学医学研究科のさる特別教授が言うには、〇新型コロナには今の段階の3つの型があることが分かった。日本には比較的症状が弱いX型とY型しか入っておらず、劇症型のZ型はまだ。なぜ日本における新型コロナの感染者と死者が少なかったのかだが、恐らくは毒性の弱いウイルスに感染した中で、自己免疫が形成されたのだろうと。つまり感染中に自分の体でワクチンを作ったのだと。 それから欧米諸国が比較的早い段階で中国人の入国を制止したために自己免疫を作ることが出来ないまま、劇症型ウイルスが到達した第2波でいきなり強烈なウイルスと対峙したため、重症者数と死者数が増えたのだろうと。ところが日本が中国人の入国を制止したのが3月後半。この期間までの感染で自己免疫が出来たのだろうと。それに風呂、手洗い、マスクと規則を守る生活スタイルが蔓延を防いだとも。 その医師によれば、以上のことや世界の情勢から判断すると、日本国内での新型コロナは今年中にはおおよそ収束すると考えられる由。「ほんまかいな?」と言いたくなるが、理論的にはそう言えるのだそうだ。でも油断は禁物だ。東京オリンピックの開催は、人類が新型コロナに勝利した証とも言われるが、是非そうあって欲しいし、早急な収束を願う。それでも「ウイズコロナ」を忘れてはいけない。<続く>
2020.09.16
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~ウイズコロナの時代を生きる~ gotoに東京が入ることになった。10月1日かららしい。そして東京都の「夜の街」の営業時間の延長も決まった。わが家へもツーリストからのパンフがかなり届くようになったし、メールでの旅の誘いもある。それでも腰が重いのは、やはりまだ心の奥底で用心してるのだ。旅の楽しさと、「もしもコロナに感染したら」との思いが「綱引き」してるのは紛れもない事実。 筑波勤務当時の「悪友会」は、今年は東京都内で飲み会の予定だったが、このご時世を考慮し休止を決めた。高校時代のクラス会も今年は私たちの喜寿と恩師の卒寿を祝う予定だったが、一向に音沙汰がない。やはり無理をすべきではないと幹事が判断したのだと思う。無理もないし、それで良いと思う。そして級友の誰も反対する者はいないはず。 日本のさるメーカーがフランスにPCRキットを大量に輸出してる由。フランスなどに送らずに、なぜ日本国内で販売しないのかと誰しもが思うだろう。ところがその会社はフランス政府との契約で、5年前から最新型ウイルス用の検査キットを開発しており、完成後はフランスに優先的に送ることが義務付けられている由。つまり「サーズ」や「マーズ」で大きな被害を受けた同国の危機管理政策だったのだ。 ところがあの時期、さしたる被害が生じなかったわが国では、新型コロナに対する対応が極めて鈍かった。全く予想しない事態だったのだ。だからPCRの数も不足なら、診療体制も不足。それどころか治療方針すらなかなか決められなかった。その上に医療機関や老人施設での集団感染が続き、パニック気味にもなった。大型クルーザーの横浜寄港すら天地がひっくり返るほどの一大事態だったのだ。 サーズ、マーズで大きな被害が出た韓国が今回は早急な防疫体制を採って成功した。別格なのが中国。密かに生物兵器の研究をしていたからこそ、いち早いワクチン開発にも成功したのだろう。武漢の病院で新型コロナは人から人への強い感染性があることを告発して、政府に口止めされて病死した良心ある医師、その状況を現場で調査した香港の医師が、アメリカに亡命して実態を公表したこともあったっけ。<続く>
2020.09.15
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生きる日々・思うこと(1) 蒸し暑い夜に眠って、雨の朝に目覚める。おうおう、今日もまだ生きている。小雨に濡れながら新聞を取りに郵便受けに。そのついでにタマネギを2個、ガレージから運んだ。グニャリとした感触は、どちらも一部が腐っているのだろう。布団を上げ、冷たいウーロン茶を飲み、洗面とトイレを済ませて血圧を測る。いつものルーチンだ。素早く朝食の準備をし、食後は服薬と歯磨き。 先ずは料理を作ろう。パパっと頭の中でメニューと味付け、そして手順を考える。先ずカボチャの煮物を鍋で。味付けはっキュウリの佃煮の残り汁でOK。それに味醂を追加。次にジャガイモを圧力鍋で煮る。硬くて時間を要するためだ。8分ほど「強」で煮てるうちに、野菜炒めの準備。ナス、タマネギ、ニンジン、椎茸、ベーコンを刻む。これは残り汁を薄め、味醂と味噌を追加。 茹で上がったジャガイモをを取り出し、次に圧力鍋で「モツ」を茹でる。既にボイルしてある「白モツ」だが、匂い消しと脂分を除くため。それが終わると水で曝し、大鍋でモツの煮込みを作る、材料はジャガイモ、ニンジン、タマネギ、モツ2パック、そして木綿豆腐半丁。それを煮てる間に野菜のピクルス作り。材料は角切りのニンジン、キュウリ、そしてスライスしたタマネギ。味付けは酢とレモン汁。 完成した料理を容器に移す。そして使い終わった鍋やまな板、包丁、菜箸などを洗う。タマネギの腐った部分などを入れたビニール袋を縛ってゴミ袋に。アッと言う間に作り起きおかず4品の完成。それに焼き魚や練り製品などもあるので、4,5日は持つはずだ。 統合した野党の名称は「立憲民主」に決まった。そして党首は枝野さん。結果は最初から分かっていたこと。野党は結集して選挙に臨むと力説するが、これまで安倍内閣打倒で息巻いていた相手がいなくなって、大義名分はあるのか。政府批判はもう良いから、自分らが政権を取ったら一体何を目指すのか。先ずそれを明確にしないとねえ。私など国民民主の方がまだ筋が通っているように感じるのだが。 あれは「安全保障関連法案」改正時だったか。与党が提示した改正案に対して、野党は「もし法案が通ったら、徴兵制になり青年たちは戦地に行かされる」と狂ったように訴えていた。共産党に民主党などだ。あれだけ騒いだ結果はどうだったか。実に平穏なものだ。表現の自由を奪われると反対した法案の改正案も、その後不都合な点は全く生じなかった。あの頃マスコミは総理の独断と横暴を訴え、国民は総理を呼び捨てにした。 煽る政党とマスコミ。ワイドショウはわが国が民主主義から逸脱するかのように報道し、自らの頭で考え、判断することを放棄した国民。憲法論議をしようものなら、まるで狂犬のようにうなり声を上げる始末。「スパイ防止法」がないわが国は、世界最大のスパイ天国なんだよ。マスコミも政治家もエサをぶら下げられ、他国の国益に動かされるのに気付かない。<続く>
2020.09.14
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<マックス爺の日常> アメリカ海軍太平洋艦隊の原子力空母の乗組員千人以上が新型コロナウイルスに感染して、かなりの人数が任務から離れて下船した。グアム島に配備されていた大型爆撃機が中国の中距離ミサイルの射程距離内にあると言う理由で米国本土へ移動した。インド洋を巡航していたフランス海軍の原子力空母でも千人を超える乗組員が新型コロナに感染して、急遽フランスへ戻った。 その間隙を突いて中国は南シナ海の岩礁に築いた軍事基地を、この度行政区に組み入れた由。水没するサンゴ礁を埋め立てて軍事基地にしたのも、米軍がフィリピンから撤退した直後だったし、今回も米軍の動向を察しての措置だったようだ。デモで混乱した香港には、中国寄りの5人の委員を新たに任命する由。だがコロナ騒動で国民総生産は確実に落ち、ひと頃の勢いは消えたようだ。 韓国の国会議員総選挙で与党は圧勝した。新型コロナ感染症への素早い対応と、日本への対抗心を煽ったのが功を奏したようで、300議席のうち180議席を獲得し、文大統領の支持勢力は盤石なようだ。ただし韓国経済は相変わらず青息吐息で、通貨のウォン安は止まりそうもない。 北朝鮮の若き指導者金正恩の健康問題が取り沙汰されていた。心臓手術の術後が悪く重篤のため妹の金与正第一副部長を後継に指名したとの見方もあったが、相変わらず軍を統治してると言うのが米国情報筋の最新の判断のようだ。 先日眼科で眼圧測定と「視野検査」を受けた。視野検査を予約していたためだが、緑内障の目薬が切れる頃でもあった。検査結果は相変わらずで、次回は眼底検査をするとドクター。受付のお嬢さんが「素敵ですね」とのたまう。白髪染めをしたせいで、若く見えるのだろう。帰り道HCに寄って野菜の種を購入。ところが雲行きが怪しくなり、急いで帰宅。ベランダに布団を干したままだったのだ。 買ったのはモロッコインゲンとキュウリの種。袋に印刷されている種まきの時期を確認したら、まだ少し早そうだ。朝方は6度ほどの時があり、多分蒔いたとしても低温でなかなか発芽しないはず。そんなに慌てることはない。前の日は歯科の予約日だったのにすっかり忘れており、改めて予約を取った。先日の暴風雨で散った落ち葉の掃き掃除がようやく出来た。最近は何かを忘れることが増えた。 飲み薬が切れかけたためかかりつけの内科に行くと、玄関に2枚の張り紙。1枚は体温が高い人は院内感染を防ぐため、予め電話でそのことを告げドクターの指示を受けてから来院すること。もう1枚は同じく感染防止のためスリッパは履かず、そのまま土足で上がって良いとのこと。待合室に人影はまばらで、受付には感染防止のため透明なビニールシートが下がり、総毒液が置かれていた。 50日ぶりにドクターと話すと、新型コロナは厄介で、感染してるかどうか全く見分けがつかない由。仙台市内でも陽性患者のチェック体制は揃っておらず、東京のようなクラスターが発生したらお手上げらしい。防御策は、やはり出歩かないことに尽きる由。一般の内科医がそう言うのだから、老人が感染したらどうしようもない。それに私のような一人暮らしの者は、特に用心しないといけないだろう。 厳重さは薬局も同様で、熱がある人は車の中で待つよう指示されていた。私は睡眠導入剤の処方を断っていた。案外睡眠は良く取れている方。食欲も便通も正常。時々軽い頭痛と、冷水で洗い物をした時などに若干血圧が上昇する程度で済んでいる。途中コンビニに寄って、安い野菜とご褒美用の大福などを購入。この日も雨がぱらつき出し、慌てて帰宅し干していた布団を取り込む。春は天候が一定しない時期でもある。 長崎のドックで修理中のイタリア船で新型コロナのクラスター発生。前回横浜に接岸した大型船と言い、外国船には困ったものだ。この騒動は世界中で続き、人類の一大危機と言えるのでないか。商品の流通もそうだが観光業には相当の打撃で、オーストラリア第二の航空会社が倒産したようだ。こんな状態での旅行は不可能で、人混みに出かけるのでさえ無謀。まだまだ辛抱して目に見えぬウイルスと戦う必要がありそうだ。果たしてどれだけ我慢強いか。これからはそれが問われる。やはり趣味は大切だ。 女優の岡江久美子さんが新型コロナウイルス感染症のために亡くなった。俳優大和田獏さんの奥様で、まだ63歳の若さ。そんな若い人が入院して4日後には亡くなるのだから、いかに急激に体調が悪化するか分かるだろう。この新型ウイルス凶暴だ。しかも感染力が半端じゃない。自分がまさか感染してるなどと意識してなくとも、他の人に感染してるのだ。新型コロナを舐めるな。だから出来るだけ家に居よう。心からご冥福をお祈りします。合掌。
2020.04.24
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<食事・いのちをつなぐ行為 その2> 1月下旬から3月上旬にかけての、家中の物品の9割(総重量は4.5トンほどか)を捨てた断捨離に続く、家と物置小屋の大掃除、家全体の模様替えと、美術品・工芸品などの再配置、庭の改造を連続して行えた陰には、1日3回の食事を疎かにせず低カロリーながら、自ら料理しかつ美味しくいただけたからだと思う。重労働と睡眠不足で体重はかなり落ちたが、幸いにして食欲は落ちなかった。 動物性たんぱく質は決して多くはなかったが、野菜と果物などの食物繊維は十分摂取したせいで、快食快便の日々。良くぞ最後まで体が持ってくれたと思う。長年ウルトラマラソンで鍛えた精神と身体、そして忍耐力のお陰だろう。普通の人なら半月も持たないだろう。ところが私は「行」だと自分に言い聞かせて何とか持ちこたえた。まさに奇跡的。それらの日々の中で食べた物を、記念に残していた。 動物性たんぱく質の大部分は魚や練り物や卵で、肉は安物のブタの細切れ、若鶏のレバー、冷凍のラム肉程度。牛乳は低脂肪乳で補足。そして納豆や豆腐、油揚げなどの植物性たんぱく質、ワカメ、昆布などの海藻類、キノコも良く食べた。それらの大部分は「見切り品」で、買った時からどう料理するかのイメージが湧いていた。冷蔵庫の中の食品の賞味期限にも注意し、ほとんど無駄にはしなかった。 買い物に行けなくて食品が乏しくなると、残った味噌汁に冷や飯や卵、残り物のおかずや野菜、魚の小片など何でも入れて「おじや」にした。これは増量が効き、かつ腹ごなしも良い優れもの。男一人だから出来ることで、女性が見たら多分「ゴミ」としか見えないはず。だが、永平寺の修行僧を思えば、どんな食べ物でも美味しく、いただいた。これは戦後数年間の飢餓を体験した者ならではの強みだろう。 私の食事の写真を見たこけしちゃんが、激務の後の「ドカ食い」の危険性を心配してくれたが、私はランナーとしての長い経験から、心が満たされている場合は「食」もコントロール出来ることを知っており、何の心配もしてなかった。むしろ「痩せ過ぎ」てないかの方が心配で、長い激務を休止して静養に入ってから、睡眠時間と体重がわずかずつでも戻って来たのが嬉しかったほどだ。 でんぷん質はご飯がメインで、麺類やパンで補い変化をつけた。パンは2割引き、3割引きのものを買い、食パンを焼いてコロッケやアジフライ、手作りの野菜サラダなどを挟んだ。自分で作ったユズのマーマレードも酸味が美味しく、食欲をそそった。ヒジキの炊き込みご飯など、「創作料理」も工夫した。まさに「必要は発明の母」を地で行ったのだ。創意工夫は脳の活性化にもつながる。ボケ防止だ。 圧力鍋、電子レンジ、トースターを効率良く利用することも覚えた。米は前夜のうちに研いでおき、最低でも30分間はうるかし(仙台弁で水に漬けること)、圧力の強弱、IHレンジの強弱と時間の加減を失敗しながら学習して行った。そして次第に粘り気がある美味しいご飯が炊けるようになった。左は自家製のジャガイモなどを使ったポテトサラダと、野菜サラダをミックスした。増量と栄養のバランスだ。 そして夕食には、安物の焼酎のごくごく薄い水割りを1杯。それがささやかなる慰労と言う、超安上がりな爺の楽しみなのであった。長期間にわたる作業の激務を支えてくれたたくさんの食事。それを作った自分、食べた自分、片付けた自分、工夫した自分に感謝。そして生かされてあることへの心からの感謝を、食事の度に感じた私だった。<不定期に続く>
2020.03.08
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~作用と反作用~ 体調は良くないが眠るのは無理。そこでゆっくりと体を動かすことにした。先ずは和室の植木鉢を全て外へ出す。冬越しさせていたのだが、もう遅霜の心配はないはず。運び出したハイビスカス、ノボタン、ゼラニウム、シャコバサボテン、アロエなどに水やり。そしてこれまで置いていたテーブルを片付け、シートを拭き清め、室内を清掃。テーブルには不要の壺類などを。 次に居間の植物を外に出す。2鉢のシンビジウムは昨年春に株分けしたため花は咲かなかったが、元気で育っている。カポックは玄関の前、クンシランは外水道の傍に。玄関内のゴムの樹も外に出して水やり。それらのほとんどに翌日液体肥料を施す。オリヅルランなど観葉植物の場所を変更。テーブルを撤去すると、こちらも広々として気持ちが良い。 昼食は麺類、ポテトサラダ、野菜サラダ、果物をたっぷりと。一晩だけ入院の病院食には参った。あんな食事内容じゃ体が持たない。一日中ベッドに横たわっている病人なら良いのだろうが、老人と言えども普通に暮らしている市民には不十分。きっと便通にも影響するのではないか。冷たいウーロン茶もヨーグルトも美味しい。これこそが生きている証拠。 午後遅くしばしの昼寝。夜はオリックス相手のナイターで、この日も勝った。夕食はアルコールを控え、入浴せずに体をタオルで拭くだけに止めた。前夜の「事故」から学んだ教訓だ。翌朝はまだ体調不十分のままいつもの病院へ行き、ドクターに緊急入院のことを報告。それで彼は悩んだようだ。何せ長い間患者の体調を診ていながら、「血圧手帳」のことすら口にしなかったのだから。 結局これまで飲んでいた薬の1種を倍の強さの錠剤に代え、別の1種を夕食後にも服用することになった。それは薬局で初めて知った。ややこしくなるため私への説明を省略したようだが、これには参った。一番苦しんでいるのは患者であって、ドクターではない。薬剤師には睡眠導入剤のことを質問した。やはり依存性が高い由。私は極力飲まないよう努めていたが、それもまた苦しいのだ。 月曜日は早朝から眼科へ。この日は眼圧測定と眼底カメラ。どちらも異常なし。脳に続いて眼底がきれいだったのが嬉しい。緑内障用の目薬をもらって帰宅。さて、強い血圧抑制剤を用いればめまいや耳鳴りが生じる。下がり過ぎになるのだ。一方薬が弱いとやがて血圧が上がる。痛し痒し。そして「木の芽時」の激しい体調変化をどうコントロールするか。それが私の大いなる課題だ。
2019.04.24
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~救急車で深夜の病院へ~ 「どうぞ」。布団の中で私は答えた。何人かの救急隊員が部屋に入って来た。そのうちの1人が私に問いかける。その一つ一つに小声で返答。本日の経過、過去の病歴、家族構成と緊急連絡先、保険証の有無、服用中の薬と「お薬手帳」、着替えの場所などだ。着替えや財布など一式をリュックに詰めてもらう。担架に乗せられて救急車へ。電気は玄関灯だけ点け、鍵を閉めてもらった。 救急車の中で血圧を測定しながら質問に答える。通院中の総合病院の有無。「ない」と言うと、幾つかの救急病院へ連絡。揺れる車と逆方向に横たわる感覚。病院が決まった。名前は聞いたことがあるが、正確な場所は知らない。患者の意識と現状、これまでの病歴などを担当医に伝えて、受け入れてもらったようだ。頭の中に地図を思い浮かべ、救急車の現在地を推測。血圧はかなり落ちた由。 K病院に着き、ストレッチャーでCTスキャンの撮影室へ。頭部を固定されて装置内に入る。身動きが出来ないのは辛いが、MRIの騒音が無いだけマシ。撮影後は心電図と血圧の測定。さらに心音の聴取。当直医は大学病院から派遣された若い医師だった。脳はきれいな状態で全く問題なし。心電図、心音も異常はなかった。このまま帰宅することも可能だが、念のため入院した方が安全とドクター。 ベッドの準備が済むまで、ドクターと会話。今の状態なら、後何年も生きられる由。ただし健康診断でがん検査各種を受けること。体調が回復したら軽い運動をすること。「血圧手帳」を通院中の病院からもらって、毎日記録することが肝要と。イントネーションから島根出身と分かり、以後は島根の歴史談義に及んだ。ようやくトイレと水を飲む許可が下りた。礼を言って病室に向かう。 2階の4人部屋で入院関係書類に記入。相棒たちは既に就寝中だ。検温と血圧測定の後、ようやく目を瞑る。だが向かいの部屋の老婆の「お願いします。お願いします」の連呼が気になる。あれはナースコールではなく多分幻覚から来るものだろう。カーテン越しに同室者の呼吸音。「ヒューヒューヒュー」。辛そうな音が気になって眠れない。 この夜のトイレは4度。その都度水を飲んだ。「鼻呼吸テープ」を持参しなかったため喉が渇く。室温も自宅よりかなり高いせいもある。神経が昂ぶっているのに加えて、早朝には苦し気な呼吸音で目覚めた。どうやら酸素マスクが外れたようだ。そのために痰が溜まり、呼吸困難になったと後で知った。眠ったのは実質3時間程度か。遮光カーテンでないため、早々に朝の光が射し込む。ああ。 血圧はまだ高い。ほとんど眠ってないことを看護師に伝える。朝食はとても貧相で500キロカロリーもない。7時半に院長の往診。私の表情を観て大丈夫と見たのか、退院OKの判断。退院のための書類に記入し、治療費を支払って外へ出たら見知らぬ場所だった。何とか方向を見極めてバス停まで1km以上歩く。帰宅後、お向かいのKさんにお礼と経過報告。それから長い一日が始まった。<続く>
2019.04.23
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~救急車を呼ぶ~ 木曜日の夜7時からは「プレバト」を観る楽しみがある。ほとんどは俳句の部分だけだが、NHKのニュースを観たいのも本音。この日は珍しく最初から「プレバト」に照準。直後の画像に驚いた。何と芸能人の名人たちと高校生の対決だ。松山東は「俳句甲子園」で何度も優勝した高校。しかも俳句の街松山で随一の名門で、前身は高浜虚子が学び、「坊ちゃん」で漱石が教師を務めた松山中学だ。 対戦は熾烈を極めた。松山東の健闘で芸能人チームに1点差をつけて最終戦に。いつも偉そうに大口を叩く梅沢富美男が高校生に敗れたのが混乱の原因。「とり」の志らくが予想外の出来で、「しゃぼん玉」を詠んだ。対する高校生が詠んだのは無機質な大都会のビル街。意外性があって悪くはないが、志らくの句の評価が高く、辛うじて芸能人が名目を保った。これまでにない趣向で、熱戦に酔った。 まるまる1時間の緊迫した内容。その間夕食の準備が出来なかった。番組終了後に夕食を整え、アルコールも用意。この日、俳句教室で体調を崩したことが脳裏を過ったが、大丈夫と判断。いつもより2時間遅い夕食を終え、風呂を沸かす。お湯の温度を1度下げた。かなり暖かくなって来たためだ。沸くまでの間に布団を敷き、読書。やがて風呂が沸いた音声案内が聞こえた。 急いで風呂に入り、ニュースを観よう。体にかけ湯もしないまま浴槽に入った。湯温はさほど高くはないが、突然体調に異常。両手が痺れて来た。血圧の上昇は間違いない。だがそれだけに止まらず、頭の中に違和感。後頭部が痺れて来たのが分かった。こんなのは初めての経験。急いで浴槽から出て体を拭き、パジャマに着替えた。そして布団の中に潜り込む。 さて、これからどうする。第1は睡眠薬を飲んで眠る。第2は緊急時用の降圧剤の服用。第3はこのまま布団の中で様子を見る。最後の方法を選んで目を瞑ったが、体調はますます悪化する感じ。手の痺れを確かめ、指を動かす。言葉も発してみる。まだ大丈夫だが、意識のあるうちに救急車を呼ぼう。そう判断して119番を回し、体調を告げた。後は何をすべきか尋ねたら、「布団の中で静かに待て」と。 救急車が着く前の間に、お向かいのKさん宅へ。もう眠っていたようだが、玄関に出て来てくれた。事情と入院になる可能性を連絡。この日の体調異常については前もって伝えていた。後は待つのみで、まな板の上の鯉。幸い翌日病院に行く積りで、保険証や「お薬手帳」などは用意してあった。薬袋も着替えも布団の傍に置き、到着を待った。救急車が近づき、玄関から消防署員の声。<続く>
2019.04.22
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~老いと健康~ パソコンの調子が今一で、いつ壊れてもおかしくない状態。そのためまだ動くうちに予約機能を使ってせっせと書いている。もし理由もなくブログが2Wも停止したら、その時はPCが「修理中」か、本人が「入院中」とご理解くださいませ。<亭主敬白> さる奇特な方が「芋煮」の残りを届けてくれた。11月中旬の日曜日。その日が今年最後の町内会の草刈りだった。この日は「芋煮会」をするのが我が町内の恒例行事。だが私は毎年行かないでいる。何だか「ただ」で何かを食べることに抵抗があるのだ。届いた「芋煮」にうどんを入れ、有り難く頂いた。肉もなく、味は薄かったが不足分は自分で追加。老化が進み、年々参加者は減る一方らしい。 ある方がブログを一週間休まれ、出した結論が週3回の更新とのこと。それも立派な選択だ。高齢のご主人を見守る中でのご自分の勉強や家事。立派なものだといつも感心している。これからはもっと時間を掛けて短歌や俳句を作りたいとも。そんな風にして自分に残された時間を有意義に使うのは、とても素晴らしいことだと思う。 それを読まれたある方のその日のブログは、いつもより元気がなかった。80歳を過ぎて幾つもの趣味の会に所属し、毎日のように活動されている方。気持ちは若々しく、知的関心も高い。いや気持ちだけではない。毎日8千歩ほども歩かれる壮健さ。その方が弱音を吐くのは、最近甥御さんを亡くされたせいか。いや、その方のことだ。少し日が経てばまた元気になるはず。何せ生命力に富んだ方だもの。 ある方がブログを閉じている。私の一番古いブロ友さんで昨年体調を崩され、年末に再開してから怒涛のように更新された。だがその内容に驚嘆。来る日も来る日も朝日と庭木。それもほとんど同じ話だった。きっと息子さんが気づいて止めたのだと思う。自分では有為な情報を発信した積りでも、他人にはそう思えないこともある。つまり認知機能の低下。老いとは実に残酷なものでもある。 終末期医療問題に関する番組を観た。寝たきりになり、自分で医療の継続、非継続の是非を判断出来ない患者が増えている由。高齢化社会の一面だ。でもねえ、そうやって身近に家族がいる人はまだマシ。これからは独居の高齢者がますます増える状況にある。60歳を過ぎた単身者には、不動産屋さんもなかなか物件を紹介しないようだ。無論それは大家さんの意志でもある。 健康ならまだ自分でも何とか出来る。問題は自分で自分の始末が出来なくなった後だ。今は元気で他人事のように聞いてる人も、やがては切実な問題として自分自身にも降りかかることを忘れているだけなのだ。高齢化問題は単に高齢者自身の問題だけでなく、社会や家族の在り方と密接不可分な関係にある。亡くなったかつてのブロ友さんのことを思い出さない訳には行かない。彼らは「その時」どれだけ苦しんだのだろうね。 前妻と別れて独り暮らしになった昨年。私は人生で初めての「霜焼け」を体験した。今になって思えば、原因は食べ物の節約つまり栄養不足か、暖房の節約や風呂の節約つまり光熱費をケチったか、それとも新陳代謝の低下つまり老化に伴うものか、そしてそれらの総和なのか。いずれにしてもその過ちを繰り返さぬよう、今年は早くから暖房を入れている。 食べかけのムベ ともあれ今は全てがマイペースだ。寝るのも起きる時間もゆっくり目。おかずはまだ何とか自分で考えながら作れている。正月のおせち料理は外注した。昨年とは別な会社で、少し豪華な気もするが実物はどうか。冷凍ではなく冷蔵なので早めに処理しないと。来年早々の旅行はまだ申し込んでいないが、行き先は決まっている。別末の愛知行きも何とかなりそうだ。さて、そろそろ洗濯物を取り込む時間だ。
2018.11.25
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~老いと健康~ ユキムシ(雪虫) 「雪虫つかまえた」。子供の声が聞こえた。「どれ見せて」と私が近づくと、子供の指に白く小さな虫が止まっていた。確かに雪虫だ。今時の子供が良く雪虫を知っていたねえ。感心しながらその場を離れると、後ろから「だけど飛んで行かないんだよなあ」と声。昔なら雪が降り出す頃に姿を見せるのがこの虫。だが最近はこの虫の姿を滅多に見ない。虫の発生と初雪の時期がずれて来たのではないか。 私が出かけていたのは、こんな物を買うためだった。浅漬けの素、白菜漬けの素、塩昆布。いずれも漬物を作る際に必要だと思ったのだ。これまでは塩を振り、手で揉むのがせいぜいだった。それでは旨味も出ないし、漬かり難くて白菜を腐らせてしまったことがあった。畑の野菜を大量に、しかも美味しく消費するためにも、初めて試してみようかと。 大根、カリフラワーの初収穫に続いて、今度は一番大きめの白菜を抜いた。外側の葉を虫が食ってない部分まで包丁で切り落とす。それを6等分し、新聞紙を敷いて玄関先で干した。それから漬物樽になりそうな容器を物置から出して洗った。半日しか干さなかったが、まあ良しとしよう。改めて「白菜漬けの素」の注意書きを読み、白菜を3分の2だけ適当に刻んだ。 左は刻んだ白菜に、3種類の「素」を入れて混ぜた。本当は1種類でも良いのだが、より複雑な味にしようと思ったのだ。その分通常よりも白菜を6分の1だけ多くしたのだ。後は蓋をし、その上から白菜の重さと同様の「重石」を載せて、1昼夜置くだけ。翌日には美味しい白菜漬けの出来上がりと言う訳だ。まあ梅干しなどに比べたら、とても簡単。注意すべきなのは「塩分の摂り過ぎ」だろうなあ。 青竹 そうそう。先日観た健康番組によれば、「夜間頻尿」を少なくするためには「青竹踏み」が良いと言っていた。膀胱の神経は足の裏とも関連があるらしく、讃岐うどんの職人には、頻尿の人がいない由。理由はうどんの「腰」を強くするため、練った粉を足で踏むのが通常だかららしい。そうか。体調の関係で中止していた「青竹踏み」を復活させるか。 シャコガイ 以前は「シャコガイ踏み」もやってたんだよねえ。勿論このままでは床を傷めるためタオルを敷き、貝の上には薄手の敷物を置いて踏む。貝の突起が足裏に痛く感じるけど、慣れれば大丈夫。これならさらに良い刺激になるはず。これまでは100回ずつだったのが、両方合わせて500回踏んだが、足の裏は大丈夫だった。ただし効果は夜間の回数が1回減った程度で、これからなのだろう。 ついでにこんなものも復活させた。上は握力強化用の小道具。左右50回ずつ握る。下はチューブ製のエクスパンダー。つまり黒い部分を両手で握って。チューブを引っ張るだけ。色んなポーズが出来る上に、傷めている肩にも優しい。こんな簡単な「仕掛け」でもやらないよりはやる方が体のため。現役のランナーだった頃は、実に色んなトレーニングで筋力を保っていたのだが。 ハーモニカ 歌いながらの「行進」も時々やっている。ところがその番組では、歌うのと一緒に手を叩けと言うのだ。それは認知症予防のための訓練。知らない人が見たら驚くだろうが、気にしない気にしない。そして認知症予防の極めつけは、楽器なんだって。我が家にあるのはこのハーモニカだけ。夜間家の中で歌いながら行進してたり、ハーモニカが聞こえて来たら、それが我が家だと思ってね。 さてビックリ。その朝に収穫した白菜が、夕方には立派な漬物になった。3種類の「素」が利いたのだろうし、十分な重石も効いたはず。食べたらとても美味しい。絞った汁はペットボトルに入れ、冷蔵庫に保管してある。まだ十分に塩分と旨味が残っていたからだ。他の野菜と混ぜて作ったのが右側のもの。まだ食べてないけど、きっと美味しいと思うよ。
2018.11.10
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~風立ちぬ~ 翌朝は気分良く起床。布団を上げて洗顔し、服を着替えて血圧を測定。起きて直ぐ動いたせいか血圧も高く、脈拍数も多かった。朝食は少な目にし、食後服薬。この後はいつもよりゆっくり行動することを心がけた。私は亡き父からは高血圧の、そして亡き母からは糖尿病の遺伝子を継承している。来年から「後期高齢者」で何が起きてもおかしくない。独り暮らしの身には、それなりの覚悟が必要だ。 薬が効いたのか、体調が少し上向いた感じ。おお、これなら散歩も出来そうだ。つい先日までそんな気が全く起きなかったのは、やはりどこか不調を感じていたのだろう。無理しなかったのではなく、無理が利かなかったのだ。外へ出て足を踏み出した途端、クラクラっと目まい。久しぶりなのでゆっくり行こう。小さな秋を探す積りが、まだ紅葉には少し早そう。徐々に体が慣れ、落ち着いて来た。 A公園からM公園へ裏道を通って移動。町の様子が少し変わり、新しい家がドンドン建っていた。M公園も紅葉はまだみたいでとても閑散。広い園内の一隅で、園芸会社が草刈り作業得推していた。ゆっくり歩いて野草などを撮影。中年のランナーが1人黙々と練習中。走りぶりではまだ初心者のようだ。帰路もA公園経由で、そこからは違った道を通って帰宅。とても良い気分転換になった。 帰宅後、この日3度目の血圧測定。血圧は上も下も正常。問題の脈拍数は120→100→80台とかなり下がった。本当はこの半分なのだが、間に微小な不整脈が入る。それでも心臓の違和感や嫌な動悸を感じないのが有難い。PCを開き60枚以上撮った写真を整理。そしてこのシリーズを書き始め、2日分を予約した。 前日病院への行き帰りに、研究所の跡地を観た。50日前には高いビルを解体中だった敷地が、6つの建物全てが解体処理され、樹木が残らず伐採されていた。この後広大な敷地を整備し、宅地造成工事が始まるのだろう。私が住む区では土地や家屋の売買が盛んらしく、目下ネットにも頻繁に広告が載るほど。きっと春先に公示された「路線価」とも関係しているのだろう。 小康状態の体調が今後どう変化するか。弟の来宅までは元気でいたいし、来月下旬のウォーキングや12月初旬の「筑波悪友会」までも体調を維持したい。薬なしで不整脈をコントロールするのは無理。血栓が脳に飛べば脳梗塞の病因となり、主治医が「血液サラサラの薬」とK病院での診断を勧める理由もそこにある。秋の深まりと同時の「風立ちぬ」だが、「いざ生きめやも」で行くしかないねえ。
2018.10.19
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~生きている証に~ 少し前のこと、新聞の連載記事を読んだ。著名な研究者などがその半生を振り返り、若き日の思い出などを語る内容で今も継続中。記憶に残ったのはある認知症研究者の話。驚くことにはその方自身が認知症患者と言う事実。医者が病気にならないことはない。ガン研究者がガンに罹らないと言う保証もない。認知症研究の第一人者でさえ認知症になると言うこの現実におののくばかりだ。 では認知症の人がなぜ新聞に連載記事が書けるのだろう。まだ「正常」な部分が残っているのだろうし、若い時からの研究成果はきちんと残されているせいかも知れない。それに連載に際して、補助者の手も借りるのだろう。さて、専門の研究者でさえ認知症になるのだから、その予防は困難なのかも知れない。これから研究が進めばどうか知らないが、素人はあっさり白旗を上げてしまう。 精神神経医学も急速に進歩したと思う。統合失調症はかつて精神分裂病と呼ばれ、凶暴性を抑えるため脳の一部を切除したり、強い電気を与えた時代もあった。それが今ではある化学物質の不足が病因と判明している。てんかんは脳の電気信号の異常であり、不整脈は心臓の電気信号の異常。そしてその治療方法も確立しつつある。さらにiPS細胞などの出現で、がんですら高度の治療が可能となりつつある。 先日の真夜中、息苦しさに目覚めた。「脈」を取ると、脈拍がとても弱い。「ああ、これは不整脈の再発だ」。そう思いつつ、5時間近く眠った。薬が切れかけおり、病院に行くにはちょうど良い。電動自転車なら多分行けるはず。そう判断して山の上までペダルを踏んだ。受付で症状を簡単に説明。早速血圧を測ると脈拍数が異常。脈と脈との間に不整脈の分が入るため、数が倍増するのだ。 検査室で採血。これは主に血糖値の確認が目的。次いで心電図計測。採り終えたグラフを見た看護師が慌てて診察室のドクターに届けた。間もなく名前を呼ばれた。血糖値はまた元に戻って高めの数値が出た由。そして心電図の波形は明らかに異常。それは4年前に出たタイプで、激しい鼓動はないがとても不快な症状を呈する。 「K病院へ行きますか」とドクター。そこはこれまでに3度不整脈の手術を受けた専門病院。「いや、様子を見ます」と私。今回は多分そこまで症状は重くないと踏んだ。「3度も手術すると心臓も硬くなるんですよ」と彼。とりあえずの対処は、血糖値を抑えるため、再び抑止剤を服用すること。不整脈はこれまでのに加えて新しい種類の薬を2週間分。念のため導眠剤も2週間分。後は以前のままだ。 帰宅後、一刻も早く薬を飲みたかったが止めた。新しい不整脈抑止剤は朝夕2回の食後と決まっている。不整脈勃発には弱ったが、謎が解けた。最近の目まい、視力の低下、手足の冷え、疲労感の主な原因が不整脈のせいだと気づいたのだ。不整脈が起きると、全身への血液量が2割以上減るらしい。まるで常時高山病と戦っているようなもの。そして疲労感は、血糖値の上昇とも関係する可能性も。 「この状態で走れますか」と聞いたら、「脈拍が180くらいまで上がるため当分運動は止めた方が良い」とドクター。どことなく不調を感じ、運動は中止していたのは正解か。庭木の剪定ですら、動悸を覚えたほど。今は慎重に行動すべきと判断。夕食時には焼酎の水割りを1杯と、新しい薬を1錠。お風呂は温めで、導眠剤は飲まずに就寝。多分7時間近く眠れたはずだ。<続く>
2018.10.18
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~老いと付き合う~ 雪割草 普通に目覚め、洗濯機を回し、ブログにコメントを書き、布団をベランダに干し、朝食の準備をし、洗濯物を干す。燃えるゴミは出した。新聞は郵便受けから取って来た。畑のネギと雲南百薬には水を撒いた。今日もお日様が出て、春らしい陽気。何も不自由はないが、何か物足らないものがある感じ。これも加齢ゆえの春愁だろうか。 雪割草 そうそう。最近起きた身の毛がよだつ怪事件について記しておこう。最初の話は「資源ゴミ事件」。先日古新聞を所定の場所に持って行った時のこと。何か様子がおかしい。これは変だと思って収集所の予定を確認したら、4月8日と書いてあった。ああそうか。1週間前に済んでいたのだ。4月は1日が日曜日。1日のズレが1週間のズレになり、結局1か月のズレに。何故なら来月まで「お預け」になるからだ。 蝋梅 第2の怪談は「スリッパ事件」。ある朝いくら探してもスリッパが見つからない。玄関、トイレ、台所、脱衣所、2階の各部屋。だが影も形もない。おかしいなあ。スリッパが勝手に移動することは考えられないし、空を飛んで行くこともあるまい。万策尽き、脱衣所へ行ってハッとした。扉を開けると、その陰に探し物が鎮座していた。前夜風呂から上がった際、そこに脱ぎっ放しにしていたようだ。 クリスマスローズ 第3話は「ガムテープ事件」。私は夜、鼻呼吸テープを張って寝る。いびき対策などのためだ。結構高額のため2晩目は使い古しのテープの上からガムテープ(布製)を張り、3晩目はガムテープだけを張る。それと全く同じ状態のが2階の部屋にあった。残り具合もそっくり。不思議に思いつつ1階へ下りると居間にも同じものが。どうやら以前あの部屋に1個放置していたようだ。こうして謎は全て解けた。 ヒヤシンス ある方がお嬢さんから「お父さんもお母さんも壊れて来たのね」と言われたとブログに書かれていた。両親の老化を実感した際の、素朴な感想なのだろう。私にはとても良く理解出来る。何故なら自分でも心身が壊れて来つつあることを、日々体験しているからだ。誰でも二度も死なない。初めて迎える老化であり、初めて迎える死。その最終目的に向かって驀進する中で、心身の変化は徐々に起こる。 チオノドクサ 私はNAHAマラソン(沖縄)の最高年齢完走記録を作ろうと考えたことがあった。まだ60代前半の頃だ。いくら走っても疲れず、何でも実現出来る気力と体力が備わっていると信じていたのだ。それがその10年後には、事態が全く変った。体も心もガタガタで、年賀状すら出せない状態に追い込まれた自分がいる。 クリスマスローズ 先日診療を受けた整形外科で、足の治療は出来ないと言われた。肩の治療は5か月にして、何とか痛みが薄れるまでになった。だが、来月から勤務体制が変わり、これ以上理学療法を続けられないとのこと。私は初診の日にドクターが言った話を問い質したが、それ以上追及しても無理と判断。走れないどころか長距離を歩くのでさえ痛みが出る私の足。これ以上の負荷は禁物と思う。 スイセン ここ10年で失ったものは多い。気力や体力もさることながら、第一は家族だ。妻の人格の変化をおかしいとは感じつつ、彼女は定年まで働いていた。その暴走を止める手段はなかったかと、今にして思う。そして私自身も少しずつ壊れて来た。今日書いた3つの「事件」などまだ可愛いもの。これからどこまで破壊が進むのか。多分それも老後を安寧に過ごすための自然の摂理なのかも知れないが。 ハナニラ さて、幸い頭の方はまだ部分的にでも働いてはいる。それをフルに活用してブログを書き、短歌や俳句をひねろうとする意欲も残されている。これからのボケとの長いレースを存分に楽しまない手はなく、当分このページを持続するつもりだ。ボケ行く夕景を見守ってもらうのも一興。「そんな訳でよろしくね皆の衆」。そう言うと男は微かに笑った。
2018.04.19
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~老化や病気との付き合い~ 整形外科へ通い出してから3か月が過ぎた。診てもらっているのは主に右肩。昨年の4月に庭で倒れて強打し、暫く整骨院で施術を受けていたのだが、なかなか良くならないため1か月もせずに通院を止めて放置していた。整形外科ではヒアルロン酸を右肩に8回ほど注射し、週1回理学療法を受けている。これはマッサージとは異なり、細かい筋肉の動きを確認しながら少しずつ傷んだ箇所を治して行く方法だ。 あまりの悠長さに呆れて診療を止めようと考えたこともあった。だが週に1度くらいの治療だと、金額的にも体調面でもさほど負担には感じないのが救い。そのうち肩の痛みもかなり薄れ、自宅でも体操が出来るようになった。そのせいもあって肩の関節が潤滑に動き、生活に支障を感じることがほとんどなくなった。肩の治療は3月一杯で、その後足の治療に入る予定。気長な治療計画だ。 その翌日、循環器内科の定期診断を受けた。血糖値が高いことが他の内科で判明し、この日は血液検査と尿検査を受けた。まだ薬を飲むほどではないが、血糖値は徐々に上昇している由。ドクターによれば、これまでランナーとして長い間して来た運動が、加齢で不能になったためではないかとのこと。もちろん遺伝的なこともあるだろうが、本人としては食事内容には注意している積り。 尿には若干の潜血が見られた由。原因として考えられるのは、泌尿器系統のがんだが、詳しく検査しないと判定は出来ない由。ただ血液検査ではがんの兆候はないそうだ。手足の先が冷たいのは、血流に障害があるためと判定し、脈波図、心機図、ポリグラフというのを測定。検査の結果、血管の若さは年齢相当とのこと。霜焼けの治療のため、引き続きビタミン剤を処方された。 糖尿病のための薬の服用は様子をみてから。年の初めは特に血糖値が高くなる傾向がある由。「無理にランニングなどをしてはいけませんよ」とドクター。寒い時期は逆効果にもなるらしい。そして「糖尿病連携手帳」を発行してくれた。これを眼科のドクターに提示するようにとのこと。帰宅後パラパラめくったら、歯科のページもあった。内科、眼科、歯科の連携作業が必要なようだ。 その翌日出来立てホヤホヤの「糖尿病連携手帳」と「お薬手帳」を持参して眼科へ。道路の雪はかなり融けて、まあまあ安全。この日は「眼圧測定」と「視力測定」。数値はあまり変化なし。診察時にドクターから目と糖尿病についての説明があり、その後「眼底撮影」をすることに。まず瞳を広げるための目薬。そして30分後、瞳が完全に開いたら暗室で撮影。その後2度目の診察室へ。 まだ糖尿病の影響が目に現われていることはない由。内科では毎月血糖値を測ることになり、眼科では次回に視野検査をするため予約を取った。瞳が開いて眩し過ぎ、良く見えないため歩き難い。隣の薬局で緑内障用の目薬2本をもらって帰宅。この日も往復3kmは歩き。景色が少し春めいて来たように感じる。 自宅付近で職場の先輩であるSさんにあった。今月ガンの手術で入院する由。これまで胃ガン、十二指腸ガン、すい臓ガンなどを手術で執ったが、さらなるガンが発見されたとのこと。「もう会えないかも知れないよ」。ニコニコ顔で先輩はそう言うが、奥様は軽い認知症があるとも聞く。私も同じだが、高齢者は入院時の保証人に困る。そして子供が遠くに住んでいると、こんな時は特に心細いものだ。
2018.03.02
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~老人たちは今~ 早いもので今日から2月。でもこのブログは予約機能を使って書いているため、本当はまだ1月30日。書ける時に書いて置こうと言うのが私の考えだ。 先日郵便受けに1枚のちらしが入っていた。2月15日以降にテレビの映像が乱れる可能性があり、その際はどこそこへ連絡して欲しいとの知らせ。新しい電波を利用する影響らしく、携帯電話関連の4社からの通知だった。 裏面には「悪徳行為・詐欺行為などにご注意ください」との注意事項が。1)費用を請求することは絶対にありません。2)また物品の販売をすることもありませんとあった。作業員はテレビ受信障害対策員証明を携行している由。 老人は騙されやすいため、要注意だねえ。私はブロバイダーの変更手続きで、もっと安くなるからと何度も騙されたことがある。だがこうして事前に読んでおけば、もしもの場合の用心になる。 先日観たTV番組で、「血圧サージ」と言う言葉を知った。一日の中で血圧が乱高下する現象らしい。これは別段血圧が高い人だけがなるものではなく、一般的な現象なのだとか。そう言えば冷えた脱衣所から風呂に入って、血圧の急変で死亡する「ヒートショック」と言う現象があることは知っていたが、あれと似たようなものだろうか。 この冬、私は初めてしもやけに罹った。手足の指8本の爪が浮き上がるほどの酷さ。それがしもやけのせいとは思いもしなかった。そして血圧が200近くまで上がったのが数度。そのまま放置したら脳出血や大動脈剥離に繋がるとドクターに言われ、新たな血圧降下剤を処方された。 それでも収まらず、さらに強力な薬を飲むことに。ほとんど自覚症状がないのが怖い。そんな時に酒を飲んで風呂に入ったら一体どうなるのだろう。それに自分は独り暮らしだしねえ。 新聞に本の広告が出ていた。見出しだけをざっと読む。曰く 〇「頑張り過ぎる人」は「いいかげん」になる。〇ぼーっとする練習をする。〇 「行くため」ではなく「歩くため」に歩く。〇「美しい所作」は心とからだに良い。〇一日三食も絶対ではない。 〇しんどい気遣いは今すぐやめる。〇「自分が気持ちいいことを選ぶ」。〇「思い立ったが吉日」でふらっと旅に出る。〇長く生きるかではなく、どう生きるか。 なるほどもっともではある。自分でもそう感じて既に実践していることも多いが、そんな勇気がなかったり、生活を維持するのが精一杯で、なかなかそうは出来ないのが実態だ。 著者は東大病院の救急医療を担当して来たドクターで、現在は名誉教授。長年生と死を見つめて来た立場から、ストレスを抱える現代人に何かを示唆したいとの著作。そう考えると『自分を休ませる練習』とは、まさに当を得たタイトルであり、内容なのだろう。読者からも「何かが吹っ切れ、明るくなりました」とか「読んでるだけで癒されました」との声が届いていると言う。 こうして見ると、私達は始終何かに追われるような精神状態で暮らしているのかも知れない。現代は特に「生き難い」世の中なのだと思う。時には自分を休ませるのも良いよね。そして本当に休ませるために、時々その練習をするのも良いよね。まあ私などは歳を取って少々面倒臭くなり、ただサボっているだけだが、大いに自分を休ませているのは事実だ。
2018.02.01
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<老いと付き合う 2> あるブログ友が11月は10回病院へ行かれたと書かれていたので、私も調べてみた。もちろん対抗心ではなく、心覚えとブログネタのためだ。 で、結果は13回。勝った!!ではない。そんなことで威張ってもしょうがない。その内訳だが脳神経外科が2回。循環器内科1回。消化器内科2回。整形外科6回。耳鼻科1回。眼科1回だった。診療費及び薬代の合計は14091円。1割負担で助かった。 そうそう。消化器内科では内臓のエコー検査もした。腸内にガスがあって、すい臓が見えなかったのが残念。でも血液検査の値では心配ない由。肝臓が白っぽく写っていたのは、脂肪肝なのだとか。これは予想外だが年相応なのか。眼科に糖尿病のことを伝えると、次回に検査結果を見せて欲しい由。眼底にまで糖尿病の症状が現れたら大変だが、多分その心配はないはず。ドライアイの目薬が効いている。 先月7回通った整形外科だが、治り具合は遅い。肩関節への注射は鎮痛剤が1回、動きを円滑にするヒアルロン酸が3回。痛みは初診の頃よりは薄れたが、肩の張りが凄い。左肩にまで痛みを感じるし、訴えた左足の痛みに対しては何の対応も示さない。長期計画に基づくリハビリがまだ続きそう。医療法人は長引かせて治療費を稼ぐ方針かと疑いたくなるが、今はじっと我慢だ。 循環器内科のドクターは私の主治医のような存在で、通院して7年目になる。今は薬の関係で2か月に1度の診察。だが11月は色んな病院へ通ったので、その結果もドクターには伝えた。他の病院で血糖値が高かったことを告げると、私の場合はその時々で極端に上がり下がりするので数値が当てにならない由。こんな風にドクターは長いスパンで判断している。糖尿病はストレスも影響していると思う。 血液サラサラの薬、ダブって処方された胃薬を自分の判断で服用中止したことを告げると、良い判断だったと喜んでくれた。短期間に体調の変化が続いたことを憂慮し、今後は月1回の診察が良いのではと提案すると、これにも賛成してくれた。医者と患者の相互信頼。医療にはこれが大切と私は考えているのだが、往々にして世間にはプライドの高い医者が多い。 岡山のHさんが先日の会合の写真を送ってくれた。私は右から3番目。左隣のS先輩は米寿だと言うのに今でも朝夕1時間ずつ歩いている由。それに引き換え暫く歩くのをサボっていた私。足の痛み、体の不調とふらつき、家事の忙しさ。そんなことを言い訳にしていたのだ。反省してまた少しずつ歩き始めた。先日のウォーキングも良いきっかけ。あの後体調が良くなったため、改めて運動は大事と痛感した。 刀豆(なたまめ)の歯磨き粉を注文した。口臭や歯周病対策だ。「鼻呼吸テープ」を買った。就寝後口呼吸をしてるせいで、朝は喉がカラカラだった。夜間唾液が流れないと口中が歯周病菌だらけになる。使い出してから3日目。喉の調子が良くなって、痰も出るようになった。一番良いのは熟睡出来ること。やはり効き目はあった。ささやかではあるが、より健全な老後を模索中の私だ。 何日か前、長時間のパソコンが病気の源だと気づいた。両肩の痛みとドライアイ。長時間不自然な姿勢で肩に負担をかけていた。また、目が悪いため画面を凝視し続けていた。それで瞬きの回数が減り、涙で眼球を潤せなくなっていたのだろう。2つの病因は、生活スタイルが原因。ブログは大切な趣味だが、長時間のパソコンは老人にとって負担が大。時々こうして生活のチェックが必要みたいだ。
2017.12.02
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<老いと付き合う1> あの日はなぜだかふらついていた。それにも関わらず片づけようと思って裏庭へ行った。今は使わなくなった堆肥を作るためのコンポスト容器。それをゴミ袋に入れて捨てる積りだった。ところが袋が小さくて入らない。それで硬化プラスチック製の容器に、石をぶつけて壊そうと考えたのだ。弾力性があってなかなか壊れない。そこでさらに踏ん張って持ち上げた石をぶつけた時に事件は起きた。 体が宙を飛んで倒れるのを防げず、手をつく暇もなかった。コンクリートの擁壁に頭を打った。「しまった」私は心の中で叫んだ。ドクターからあれほど頭を打たないよう注意されていたのに、何と言う失敗。おまけにズボンの紐を結ばなかったことがよろめく原因になったことを知り、愕然とした。そんなことにすら気づかなかった自分。とても惨めな気持ちだった。 頭部のCTを撮ったのはその3日後。9月に慢性硬膜下血腫を見つけてくれた街中の脳神経外科で、今回も同じドクター。幸いにして頭蓋骨内部の出血はなかった。「ふらつき」は服用中の薬のせいでしょうか。そう聞いた時、ドクターは言下に否定した。そして写真のコピーを耳鼻科に持参するよう私に言った。最後に「頭を打った後の注意」と書かれたメモをくれた。 「頭を打って1~3か月してから、物忘れがひどい、変なことを言う、尿を漏らす、転倒しやすいなどの症状が出た場合、頭蓋骨と脳の間に血液が溜まっている可能性があります。(中略)特に抗凝固薬や抗血小板薬を服用中の方はご注意ください」。前回の手術はこれに該当し、抗血小板薬も服用していた。だから血が止まり難かったのだろう。だが今回はその薬を、自分の判断で中止していた。 別の日、CTのコピーを持って耳鼻科へ行った。私はドクターに経緯を話し、コピーを見せた。彼はいきなり鼻の穴に麻酔薬をスプレーし、ファイバースコープで覗いた。苦い液が口へ落ちた。「何と乱暴な」私は心の中でそうつぶやいた。「半年に1度は来てください。はれることがあるので」。耳の悪い私は聞き直した。体調が悪化した場合、副鼻腔炎(蓄膿症)で頬が腫れることがあるようだ。 確かにこれまでにも痛んだことが何度かあったが、私は我慢していたのだ。7年ほど前の早朝、私は大量の鼻血を出し、救急車で大学病院に運ばれたことがあった。処置後、大学病院の指示でこの耳鼻科で鼻の中の毛細血管を焼きつぶす手術を受けたことがあった。それ以来の受診なので、ドクターも不機嫌だったのだろう。私はかなり痛まない限り病院へ行かないのだが、それが良くないのかも。 先日3年ぶりに胃カメラを飲んだ。げっぷとガスで苦しんだため受診した消化器内科。整形外科と循環器内科で処方された2つの胃薬が原因と判断して服用を止めたら止まった。だが3年に1度くらいの頻度で胃カメラを飲むのも身のため。そう判断して予定通り実行。眠くなる薬(精神安定剤か)を断ったため、胃カメラを飲む際に苦しんだ。そのためドクターも胃を観るのに苦労したようだ。 結果は軽い胃炎があるが薬は不要で、良性のポリープ1個も問題なしとのこと。前回の血液検査では糖尿病と診断され、当分様子を見ると言われた。そのことは眼科へ行った際に伝えて欲しいとのこと。目薬が切れかかっているため、眼科へも行く必要があった。それに何だか目が霞むのも気になっていた。眼科に行ったら、「ドライアイ」とのこと。緑内障に加えて目の障害がまた1つ増えた。<続く>
2017.12.01
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<老いと病> 長崎のブログ友ローズコーンさんがヒルティの考え方について紹介されていた。彼によれば、歳を取って病気になるのは普通のことであり、不安を感じるのもごく当然のことと言う。ふ~む、そんなものか。それは私が常々感じていることで、改めて他人の口から聞くと妙に安心し、納得もするのだ。 カール・ヒルティ(1833-1909)はスイスの法学者で、優れた文筆家でもあった。『幸福論』や『眠られぬ夜のために』は特に有名だ。私もその名と書名は知っていたが、どんな考えの持ち主かまでは知らなかった。時代も生まれた国も違うのに、なぜこれほど共鳴出来るのか。それはごくシンプルながら真理を突いているからだろう。 「白内障は病気ではありません」。眼科医に前回そう言われた。それは老化に伴う自然の現象らしい。そう言えば先日TV番組で以下のようなことを聞いて驚いた。「目の寿命はほぼ70年。だが寿命が延びた今では、目の衰えの方が先に来る」。ふ~む、そんなものか。そうなると自分が苦しんでいる緑内障や、左右の焦点距離の違いによる錯視についても、諦めざるを得ない気がする。 新聞によれば、OECD(経済協力開発機構)加盟35か国の中で、認知症患者の比率は日本が2.33%で1位なのだとか。それが20年後には3.8%にまで上昇することが予測されるらしい。理由は我が国の高齢化が他の国よりもかなり急速に進んでいることにある。85歳以上の高齢者の半数が、要支援、要介護認定を受けているとも聞く。超高齢化社会の到来に伴う経費負担が気になる。 がんや呆けは昔からあった。だがさほど目立たなかったのは、その前に寿命で死んでしまったためだ。貧しかった昔は「棄老」などもあったそうだ。いわゆる「姥捨て」だ。年寄りたちに溢れた今では、入るべきホームも難関。こうなるとどこまで元気な状態で自分を維持出来るかが問題。目下独り暮らしの私にとって、それは現実的かつ深刻な課題だ。 頭の傷跡が癒えて来た。9月に受けた慢性硬膜下血腫の手術。抜糸後も傷跡がジュクジュクしていたため、自分の判断で血栓予防薬の服用を止めた。血が止まり難かったからだ。最近ようやく瘡蓋(かさぶた)が出来て来た。先日掛かり付けの循環器内科でドクターにそのことを告げると、それが正解だったようだ。その際に整形外科を紹介してもらった。 4月に転倒して整骨院に通ったが、未だに激痛があったのだ。整形外科ではレントゲン写真を撮り、肩関節に注射をし、痛み止めと炎症を抑える薬を飲み、湿布薬を張り、2度リハビリを受けた。診断の結果は「肩関節周囲炎」。あれほど痛みがあったのに骨折ではなかったのが意外。靱帯の損傷はMRIじゃないと分からない由。まだ痛みが残るものの、生活上の支障はかなり減った。 「ピンポーン♬」。誰かが来た。話を聞くと生協の人で、カタログを見て電話してくれれば商品を配達してくれる由。折角だが断った。そんなサービスを受けるのは、いよいよ体が動かなくなってからで十分。「今は買い物が良い運動の機会になり、かつ社会との接点なんですよ」。私はそう答えた。ヒルティじゃないが、ありのままの姿で生きるのも、そんなに悪いことじゃないしね。
2017.11.13
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<食べる> おでん 先日長寿者の暮しぶりをTVで観てビックリ。お父さんは105歳で、息子が69歳。息子が作る料理のレパートリーと、1日に食べる食品数が半端じゃないのだ。2人暮らしなのに、様々な食品で溢れ返る冷蔵庫。料理を平らげる老父の食欲にも驚く。肉などもパクパクだ。いやはや、やはり長寿は食べることから来てるのかと感じた次第。 干した白菜 69歳の息子が面倒見てるのはなぜだろう。私の関心はそこにもあった。奥さんと別れたのか、病死したのか、あるいは元々独身なのかと。それにしてもあれだけ食品にお金をかけるのだから、経済的に困ってはいないのだろう。まあ余計なお世話だが、老後の健全な家庭経済はとても重要だ。 貴重なレタス 旅行から帰宅して助かったのが、カレーを作り置きしていたこと。それからも具だくさんの味噌汁、野菜たっぷりのシチュー、カボチャの煮物、おでん、野菜と練り物の煮付け、寄せ鍋などを作り、焼き魚も3種類は用意した。困ったのはおでんと煮付けが似たような味と組み合わせになったこと。私の場合は使う調味料が限定されているため自然とそうなるのだが、少々飽きが来るのが問題だ。 まだ細い大根 それでも自分なりに工夫はしてる積り。先日は初めて冷凍食品とスライスしたラム肉を買った。食品数を増やせるのと、料理が簡単だからだ。そして缶詰はいざと言う時に重宝だし、自分では出せない味付けだ。豆菓子やレーズンも良く買う。これも少ない食品数を補ってくれるのではないか。昼は麺類かパンにし、夜はご飯を食べずにおかずだけのこともある。運動不足でさほど腹が減らないのだろう。 畑のキャベツ 畑の野菜も重宝だ。レタスは4株のうち3株が他の野菜の陰になって腐ったが、残りの1株を大事に食べた。大根はおでにし、葉っぱは刻んで漬物に。まだ発育途上なので1本しか抜かないでいる。白菜は第1弾の苗が立派に育ち、1株だけ抜いた。4等分に切って干し、うち4分の3を目下漬物にしている。春菊や小松菜は適宜摘んで味噌汁や料理に使用。雲南百薬はまだ地植えのままで、専らお浸しにしている。 南瓜の煮物 食欲も便通も普通にある。乳製品や海藻類、キノコ類も適宜摂取。元々果物は大好きで、アルコールは水割りの焼酎1杯で十分。贅沢は出来ないが、栄養のバランスはまあまあのはず。体重も大幅に増えることはない。そうそう、大学時代の級友と飲ん夜は、食べ切れなかった魚(ホッケ、イカ)をパックに詰めてもらった。戦時中生まれの私は、勿体ないと感じたのだ。あれで何日か助かったっけ。<続く>
2017.11.12
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<退院は唐突に> 10時45分。左腕の点滴受け口を変更。血管が腫れたためみたい。11時抗生物質投与。11時40分終了。12時昼食。野菜が多くて食べ易いのが助かる。食後70代後半の老婦人が同室へ。酸素ボンベが必要な患者。救急病棟は男女同居の原則。男女の比率が緊急事態によって変化し、別室にする余裕がないのだ。15時、一般病棟の8階へ移動。眺望極めて良好。 病院があるのはここ数年間で開発された新しい町。隣にはアリーナや大型ショップ、外国の家具店などがあり、少し離れて高層マンションが林立している。昔は国鉄の貨物駅や操車場があり、金属精錬の工場や女子の矯正施設などがあった。それらが全て撤去され、新未来都市が出来つつある。病院はその地区の最も北に位置し、市の中心部から移転して来たのだ。遥か遠くに奥羽山脈の姿。そして足元には東北新幹線。 同室の先輩患者の案内で、8階を散策。ついでに1階の売店まで案内してもらった。16時義姉来院。飲み物とヨーグルトの差し入れ。16時40分からラジオで大相撲を聴く。18時夕食。メニューは敬老の日で赤飯など。夜外泊中の若い患者が妻子を伴って帰院。神戸出身で、仙台へ転勤した由。21時30分抗生物質の点滴開始、。22時就寝。 9月19日火曜日。入院5日目。5時に起床し、洗顔と歯磨き、トイレ。8階病棟の一番東端まで歩いて行くと、朝日に光る広瀬川が見えた。荘厳な朝。生命の重さを感じる一瞬だった。病院の近辺には、最初の陸奥国府だった郡山遺跡がある。あの広瀬川を遡り、飛鳥の都から官人たちが舟で渡来した往時を偲ぶ。ここは古代東北では最先端の文化を誇り、蝦夷(えみし)を抑える拠点でもあった。 休憩室でニュースと朝の連続ドラマ「ひよっこ」を観る。5日ぶりのテレビだ。ついでに血圧測定もここで受けた。114/71と安定。病室で朝食中、東北新幹線が通った。服薬と点眼。同室の若者はPCで仕事。どうやら溜まったメールを確認していたようだ。やはりサラリーマンは会社や仕事から逃れられない運命のようだ。 9時15分執刀医のMドクター来室。術後の経過が良いため午後からの退院が許可された。陰気なドクターから「自転車事故」の話は聞いたそうだが、特段の反応はなかった。抜糸は1週間後外来で。脳のCTスキャン撮影後に実施の由。ただし既に準備中の昼食は食べてからとのこと。義姉には急遽退院することになった旨連絡。車で来てくれることになった。 何という急転直下の退院だろう。入院も急だったが、退院も急。お陰で請求書が間に合わず、支払いもせずに退院と相成った。後日郵送すると聞かされていたが、結局は届かず1週間後の再診と抜糸の日に支払った。足掛けで5日。だが厳密に言えばまる4日間にもならない短期入院だった。その短期間に私の命は救急病棟の最新医療によって救われたのだ。はたして偶然と言うべきか、それとも奇跡と言うべきか。 まる4日にも満たない短期入院。その間に多くのことを見聞きした。様々な患者の様々な症状。そして思いがけない病気にり患しての複雑な反応。多くの方は一日も早く社会に復帰しようとして必死だった。だが中には今後長期療養を余儀なくされる方もいたことだろう。 色んな看護師と接して種々の話を聞き、私も身辺に生じたことを正直に話した。ベッドから起きられるようになると本を読んだ。五木寛之の『孤独のすすめ』。作者の真摯な言葉が深く胸に響いた。恐らく老いや死についての実感。真実であるからこそ人の心を打つ。今回の入院は自分にとっては極めて有意義で、良い経験だったと思っている。秋空が実に爽やかな日だ。<完>
2017.09.28
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<閑話休題> このシリーズを連載し出した頃、今回の入院を「頑固だから」と書かれた方がいた。お口あんぐりである。また頭蓋骨内に200ccの血が溜まっていたと書いたら、「ずいぶん大きな頭ですね」と書かれた方がいた。絶句である。その一方で慈母のように心配して下さった方も何人かおられた。感謝である。 退院後、気になっていたあるブロ友を訪ねたら、7月末に亡くなったと息子さんが書かれていた。一昨年は盛岡市内の遺跡を案内してくれ、今年の秋にはブロ友さんが集まって一緒に登山したいと書かれていたNさん。残念ながらその望みは絶たれた。心からのご冥福を祈りたい。 お付き合いしていたブロ友さんが亡くなったのは、今回で2例目のこと。最初のK君は、絶命の前夜までブログを書いていた。さぞかし無念だったことだろう。いつも心の中で合掌している。お二人とも最後まで見事な闘病だった。 今回奇跡的な展開になったのは、最も新しいブロ友あみさんの助言だった。「独り暮らしなんだから、調子が悪い時は早めに病院へ行くこと」の一言が、病院行きを決断させた。彼女自身の病気の経験と、闘病中の息子さんの存在からの助言だったのかも知れない。病院に行くのにも勇気と体力が要るが、あの日はなぜか素直な気持ちになれたのだ。 さて病気との因果関係を探るため、ここ半年間の出来事を振り返ってみたい。〇 3月29日調停離婚が成立。4月20日前妻が家を出、一人暮らしの開始。〇 4月29日所属走友会のお花見に参加。帰宅後庭で転倒し、右肩を強打。恐らく骨にはひびが入り、何本かの靱帯が断裂したはずだ。今も右腕が十分に上がらず、痛みがある。以前2か所の整形外科で誤診されたことがあり、近所の整骨院へ8回通ったが根本的な解決にはならなかった感じ。 〇 5月12日電動アシスト付き自転車購入。その日の試運転中に前から来た車を避けようとして転倒し、コンクリートに左の側頭部を打った。ごく軽いショックだったが、それが原因で頭蓋骨内で内出血を起こしたのだと思う。私は血栓防止のための薬を服用中で、その作用で出血が止まり難いのも大きい。〇 5月21日。右肩に痛みがある中で、5時間走レースに参加。頭部の痛みはなく、ゆっくり24km走った結果、同夜は右肩と左足の痛みに苦しんだ。 〇 6月17日~18日 尾瀬ハイキングツアー参加。2日間で21km歩く。左足底に痛み発生。〇 7月8日 チャリティーマラソン参加。5時間で21km歩く。疲労感あり。〇 8月19日 電動自転車で往復110kmを参加予定の「薬莱山とお足」をキャンセル。理由は天候不順と、自転車のバッテリー不足。この頃には5月12日の「事故」以来、かなりの血が頭内に溜まっていたはずで、もし転倒していたら死んでいただろう。キャンセルは正解で、あれが岐路だったのかも。 〇 9月2日 「みやぎ湯めぐり遠足」のスタッフとして参加。睡眠は30分程度で、われながら良く奮戦したと思う。〇 9月15日 思いついて急遽病院へ。紹介先の2番目の病院で頭部MRI写真撮影。「慢性硬膜下血腫」と診断。その写真を持って3番目の病院へ。直ちに入院と手術の勧告。帰宅して入院の準備をし、翌朝9時手術。〇 9月19日退院。 〇9月26日外来でCTスキャン撮影と抜糸。2か月後に最終診断あり。 長い間ウルトラマラソンのランナーだった私は、我慢することに慣れている。80kmの練習走でさえ楽しいほど。今回の転倒事故が、まさかこんな大事に繋がるとは考えもしなかった。血腫のために頭痛、めまい、失語、思考遅滞、不安があった1か月間も、記録的な天候不順と老化の為せる業だとばかり考え、ただひたすら耐えていた。それを頑固だと私は思っていないのだが。<続く>
2017.09.27
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<猫じゃらしと無法者> ベッドに横たわっているとエノコログサが見えた。通称猫じゃらし。秋になったせいか黄色く色づき、まるで麦の穂のようだ。それが風になびいている。隣の小児病棟の屋上に生えているのだが、除草しなかったのだろう。草が揺れるのは台風18号の影響か。テレビも見ず、新聞も読んでないため、外からの情報が全く入らない。救急病棟から出ることは出来ず、見舞いも家族や親戚だけに限定されてるのだ。 ようやく一人でトイレに行った。3日ぶりの排便なのに、出た量はわずか。連日ベッドに寝ているため運動不足なのだろう。おまけに腰まで痛み出した。毎日10時間ほどベッドで寝ている。14時30分。看護師さんが洗面台でシャンプーをしてくれた。これは傷口を清潔に保つためでもあるらしい。ついでに髭を剃ったら、さっぱりした。こちらも3日ぶりの出来事だった。 17時血圧測定。手術後も上は180近くあったのが、ようやく140台までに下がる。手術と血圧降下剤の効果が出始めたようだ。18時夕食。メニューはチキンカツ、モヤシと青梗菜のお浸し、刻みキャベツ、油麩とネギの味噌汁。20時。この日2度目の排便も細々としたもの。21時30分消灯。 9月18日月曜日。入院4日目。朝の6時に看護師の声で目覚める。体温と血圧を測定し、ライトを瞳に当てて反応を確認。いずれも正常みたい。看護師さんの話によれば台風は日本海側に抜けた由。それでも昨夜は風雨が強かったそうだ。屋上の猫じゃらしが風に揺れている。台風は抜けたが、まだ風があるようだ。ドクターから歩行の許可が下り、救急病棟の廊下を往復する。ああ愉快なり。 7時45分朝食。メニューは可愛らしいワカサギの佃煮2匹、五目豆腐含み煮、オクラと大根おろし、玉ネギと豆腐の味噌汁、牛乳小パック。いつもながらの低カロリー食。8時50分陰気なドクターが来室し、午後から一般病棟への移転を宣告される。退院は抜糸後とのこと。執刀医の最初の話と違っていたため少々戸惑う。では退院は何時になるんだろうね。 9時20分。「ため口」の看護師来室。その割には何だか要領を得ない話しぶり。「結局私1人でシャワーせよと言う意味ですか」と聞くと、そうだと言う。左腕の点滴の「受け口」をビニールで覆ってもらい、シャワー室へ。不自由ながらもちゃんと洗髪し、体を洗った。もちろん手術痕の傷口を清潔に保つための入浴だ。 それを観た同室の男が自分もシャワーしたいと言い出した。やれ病院食は味が薄いので、濃い味噌汁を飲みたい。やれテレビカードが切れるので何とかせよ。やれ友人の見舞いは無理か。やれ仕事が溜まっているので早く退院したい。常に要求し続けている非常識な男。自分が脳出血で救急病棟へ運び込まれたことなどまるで認識してないのだ。ついには友人を親戚に仕立て上げて、面会を実現させてしまった。この無法者めが!!<続く>
2017.09.26
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<ブラックジャック> 病室の天井を見て、あまりにクリヤーなのに驚いた。これは手術のせいだろうか。血が頭部から抜け、脳が圧迫から解放され症状が消えたのだと思った。だが、やがていつものように視野はぼんやり霞むようになった。そうだろうなあ。これは「事故」の前からあったこと。両目の焦点距離の違いから来るものと眼科では言われていたのだ。ちょっとがっかりだが、そうは問屋が卸さない。 7時30分。頭部のCTスキャン撮影のためベッドで移動。10分もかからずに終了。個室に戻り8時に朝食。メニューは焼き魚、菜の花の辛子和え、煮豆、白菜と芋の味噌汁、そして牛乳。ご飯はいつも通り220g。9時30分。兄嫁が来院し飲み物の差し入れ。洗濯物を持って直ぐに帰宅。日曜日なのにありがとうね義姉上。 10時過ぎ、陰気なドクターが来室。執刀医とは異なる脳神経外科の先生。貯血バッグに溜まった量を確認後、左の額からドレンを抜いた。どうやら200ccの血液が抜け切ったのだろう。管を抜いた後の穴を縫ったのだろうか。チクリと痛みが走った。そのドクターに5月に自転車で転倒したことを話した。だが反応が鈍い。そんな古い時期の怪我ではないと言いたげだ。だが病院の資料には3か月後に症状が出ることもあると書かれていたはず。 看護師さんが2人来て、温かいタオルで体を清拭してくれた。その後、鏡で手術の痕を見せてくれた。左の額を5cm切った個所には、金属的なホチキスの針がまるでジッパーのように刺さっている。「これはブラックジャックだね」。私は心の中でつぶやいた。一方ドレンを抜いた穴は、黒い木綿糸のようなもので縫われていた。手術痕との「面会」はあっと言う間に終わった。 注)ブラックジャック:手塚治虫の人気漫画の主人公で、天才的な謎の外科医。頬の大きな傷跡が特徴。大金持ちや悪人からは高額の治療費をふんだくる一方、貧乏人は無料で助ける義人でもある。専門は脳外科だったはず。 12時に昼食。メインはかば焼き風のサワラ、卵豆腐、春雨とワカメのサラダ。果物にバナナとネーブル。ご飯を除き、いずれも少量だ。こんな風に書けるのは、食事の内容を書いたメモが付いているため。因みに私のは「常食1」となっている。きっとほとんど制限のない患者用の食事なのだろう。 13時45分。看護師が来て胸の「心電図計」と指に装着していた「体内酸素計」を取り外した。これらの装置はナースステーションと直結し、刻々と情報を伝えていたのだ。残るのは左腕の「点滴剤注入口」のみ。終了後、男3人の病室へ移動。入院後3度目の部屋替え。それだけこの救急病棟は人の移動が激しく、症状が軽快した患者はナースステーションから次第に離れて行くのだ。<続く>
2017.09.25
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<「事故」の顛末> 入院2日目の昼、初めての食事が出た。メニューは忘れたが薄味の病院食で、とても美味しかった。到底自分では出し得ない味。そしてご飯が220gもあったのには驚いた。私が通常食べているほぼ倍の量。夕食は6時。これも美味しくいただく。自分で食事を作らないなんて久しぶりのこと。それだけでも贅沢な気分。手術が成功裏に終わった時から、私は目には見えない神様に感謝の言葉をつぶやいていた。 夕方から担当の看護師さんが若い女性に交代した。高校時代の部活の話やなぜ看護師を目指したかなど、とても気さくに話してくれた。その彼女に下半身を曝すことが出来ず、小用は起きて備え付けの尿瓶(しびん)で行った。 それが禁止されていることを教えてもらったのは、翌日の担当のベテラン看護師さんから。このブログでもいかにも知った風に書いているが、実際はほとんど何も知らず、その後の知識を加味して書いているだけなのだ。電車が通過する音が微かに聞こえる。こうして入院2日目の夜は静かに更けていった。 9月17日。日曜日。入院3日目の朝は3時半ごろに目が覚めた。気分は悪くない。まだ暗い病室で色んなことを考えた。急患としてこの病院を訪れた際、執刀医となったMドクターが言った「助かりますよ」の言葉を思い浮かべていた。助かるなんて当り前じゃないか。第一自分が病気だなんて思ってなかったのだから。だが、MRI写真の脳の写真は全くの想定外。あれには正直驚いた。 街中の脳神経外科とこの病院のMドクターには転んだことはないと答えたが、待てよ1回だが転んだことがあったなあ。突然ある「事故」を思い出した。それは今の自転車を買った日のこと。初めての電動アシスト付き自転車はハンドルがやけに重く、操作性が悪いことに気づいた。それでも慣れる必要があるため、安全な裏道を通って買い物に行ったのだ。 登り坂に差し掛かる手前、前方から急に車が現れた。車がやっと通過できるかどうかの細い道。すれ違うことなど出来はしない。私は咄嗟にハンドルを左に切った。そしたら倒れて私はコンクリートに頭の左側を打った。「大丈夫ですか?」。運転手が尋ねた。「大丈夫ですよ」。私は答えた。打ったのはコツンと軽いもので、痛くもなんともなかったからだ。そして起き上がってそのまま買い物に行ったのだった。 自覚症状が全くないため、あの時に軽く頭を打ったことなどは忘れていた。それが数か月後になってから、重篤な病気だったことに初めて気づくなんて。15年間乗っていたマウンテンバイクなら、ハンドルの操作性やグリップ力の強い太いタイヤで急ハンドルでも倒れなかったはず。 だが新しい自転車のタイヤは細く、おまけに以前は無かったコンクリートの駐車場の床に5cmほどの段差があった。悪い条件がたまたま5つほど重なった「事故」。しかも私は「血液サラサラの薬」を服用していたため、血が止まり難かったのだろう。得てしてこんな時には「泣きっ面に蜂」になりがちだ。<続く>
2017.09.24
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<手術室から個室へ> そうそう。書き忘れていたが、この朝8時に心電図と胸部のレントゲン写真を撮っていた。さて手術室内には現代的な音楽が流れていた。手術の体制は3人。執刀医がMドクター。それに付き添いの女性看護師が2名と言う小規模なもの。ベッドから手術台の上に移動し、麻酔薬を服用した気がする。 左腕の点滴口からは睡眠剤が投与されたようだ。ドクターが看護師を叱っている。患者の頭のどちら側を手術するか、彼女らが確認してなかったためだ。「もし僕が間違ったらどうするの」。優しいドクターの厳しい指導。私はますますドクターが好きになった。 ドクターがバリカンで頭髪を切った。後で見たら左の額に「剃り込み」を入れた感じ。胸が圧迫されて来た。ドクターにそれを訴えると、麻酔が効いた証拠らしい。暫くして「剃り込み」を入れた部分をメスで切られた。痛みは軽かったが、その後のことは覚えていない。睡眠剤による作用だ。頭蓋骨に直径1.5cmの穴を開け、ドレン(管)を差し込んで終了。準備30分、手術30分。合計1時間の手術室滞在だった。 手術前の4人部屋から、ナースステーション前の個室に寝ながら移動。頭にはビニールの管が差し込まれている。ベッドでは枕は使わず、そのままの状態。横の装置には透明な袋がぶら下がっている。頭の中から流れ出る血液を収容するためのもの。毛細管現象と落差を利用した方法だ。頭蓋内の出血は200ccと計算されており、それが全て除去されたら終了。何と単純明快な処置なのだろう。 ただし排尿などはすべてベッドに寝たまま。起き上がればそれだけ落差が大きくなり、急激に出血量が増える危険性が高まるためだ。担当は男性の看護師になった。彼なら下半身を曝しても平気だ。意識は完全に戻って、彼とは色んなことを話した。担当の看護師以外にも通りかかった看護師は、ことあるごとに私のベッドにやって来た。多分救急病棟で手術後の患者への手厚い看護方針なのだろう。 さて「慢性硬膜下血腫」についておさらいしよう。軽微な頭部外傷後2週間から1~3か月経って頭蓋骨の内側にある「硬膜」と「くも膜」との間に血液が貯留する病気で、男性高齢者に比較的多い。外傷以外の要因としてはアルコール多飲、脳圧の低下、動脈硬化などがある。血腫は吸収されず、ゆっくり増大する傾向にある。この結果、意識障害、知能障害、頭痛、吐き気、失語などの症状が出現し、放置すると死に至ることもある由。(病院がくれた資料から) 私の場合は、頭痛、失語、激しい意欲減退、それらから来る不安などがあった。当時の私はてっきり1か月以上続いた不安定な気候のせいだとばかり思っていたのだ。そんな体調でも家事とブログは毎日こなした。何とか別な言葉を探して文章を書き、ふらつきながらも買い物へ行った。同時にやたらとSOSを発し続けた。その信号すら結局誰にも受け止めてはもらえなかったのだが。<続く>
2017.09.23
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<緊急入院の夜と朝> 病院がくれた案内に従って、入院に必要な物品を準備。タオル3枚。結果的には2枚あれば十分だった。バスタオル3枚。これは1枚で十分。上靴の持参も求められたが、結果的には普段履きのランニングシューズ1足で間に合った。必要物品はバッグに入り切らず、簡便なザックなども利用。郵便受けには新聞屋さん宛に、当分不在のため配達をせぬようメモを張った。 入院と手術の電話連絡は、市内にいる兄嫁だけに止めた。3人の子供はいずれも遠い地に在り、来ることは出来ない。前妻がいた時ですら、入院の準備は全て一人でやり、一人で手術を受け、一人で退院して来たのだ。夕食を終えると、お向かいのKさんが車を準備してくれていた。病院まで送ってくれると言う。ありがたい隣人だ。7時30分発車。7時50分病院到着。 日中同様に救急外来の非常口から院内へ入り、4階の救急病棟へ案内される。看護師から入院後の説明があり病室へ。ところが泣きわめく子供の声が煩く、急遽別な病室へ移動することになった。手術前夜に眠れないと困るだろうとの配慮だ。持参した睡眠薬が使えないことも理由の一つだった。手術に影響するとの判断だろう。入院着に着替え、体温、血圧などを測定。 その途中で警報が鳴った。脈が遅いのが原因だ。65歳まで100kmや200kmのレースに出ていた私の心臓は大量の血液を全身に送るため、一般人に比べて大きいのだ。看護師は機器を再調整した。その後翌日の手術に備えて、点滴を実施。この朝北朝鮮のミサイル発射で国内は大騒動だった。私自身は3つの病院の梯子で、実に慌ただしい一日だった。9時30分消灯。体調チェックのため看護師が何度か夜間に来室。 9月16日土曜日。5時前に起床。洗顔、歯磨き、トイレを済ませる。朝食は抜き。もちろん手術があるためだ。8時30分兄嫁来院。昨夜のうちに看護師が連絡し、手術に立ち会うよう依頼した由。何せここは救急病棟。最悪の場合の対応なのだろう。8時45分。ベッドに横たわったまま手術室へ移動。いよいよ運命の時。だが心は意外と冷静だった。<続く>
2017.09.22
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<病院の梯子 その2> 2時30分。名前が呼ばれて頭部のMRI 撮影に入った。装置の中に体が入り切ると、やがて金属的な音が鳴り出す。カンカンカン。ジージージー。ゴンゴンゴン。キーンキーンなど様々な機械音。きっと閉所恐怖症の人なら耐えられないはずだ。でも私は3度目なので平気。20分ほど耐えて無事終了。暫くして再び診察室へ呼ばれた。果たしてどんな裁定が下るのか。 ドクターはシャウカステンに挟んだ写真を私にも見せた。左右、上下は反対になっている。脳の左側(実際は右脳)は正常なのに、右側(実際は左脳)の方にはあるべき「ひだ」がなく、どんよりとした感じ。そして頭蓋骨との間に、液体が満ち溢れていた。それが血液などだと言う。私は2つの医学図書館で勤務したことがあり、脳内の写真なども見慣れていたため驚くことはない。 「転んだことはありませんか」。午前中にもあった質問をまた受けた。4月のお花見の帰りに転倒して右肩を打ちましたが、頭部は大丈夫でした」。私は答えた。指を1本立て、「何本に見えますか」。ドクターは聞いた。「1本、いや2本です」。私の眼は左右で焦点距離が違うため、物が二重に見えるのだ。「目を瞑って片足で立ってください」。だが数秒も立ってられない。これも昔から苦手だったのだが。 ドクターはそれを見て、どこかへ電話をかけた。そして緊急入院と手術を依頼したようだ。「これからS病院の救急外来へ行ってください。自転車は絶対ダメ。タクシーで行くように」。私の病名は「慢性硬膜下血腫」で、直ちに手術をする必要がある由。予想外の展開に私は動転した。自転車がないと困るんだけどなあ。でもドクターの厳命なら仕方ない。私は受付に自転車の保管を頼んで外へ出た。付き添った看護師さんがタクシーを停めてくれた。 運転手さんに行き先を告げると思いがけないコースを通った。なるほどこれが一番近いのか。名前は知ってても、一度も行ったことのない病院だ。それにしてもなぜこんな事態になったのか、私の頭は混乱していた。病院に着き、救急外来の入り口でブザーを鳴らした。名前を告げると直ぐ職員の人が迎えに来てくれ、受付にドクターから預かった紹介状とMRIの写真を渡した。そして必要書類を記入。完全なパニック状態だった。 いよいよ診察が始まった。ドクターは紹介状と写真を観て、直ぐに合点したようだ。そして名前、生年月日、今日の日付、自分の病名を聞いた。私がよどみなく答えると、「良いですね。助かりますよ。ところで転んだことはありませんか?」。ないと答えると、「原因が分からない場合もありますからね」どドクター。あくまでも優しい人だ。最短で3日、最長で5日の入院。抜糸は外来でも可能とのこと。 私はドクターに尋ねた。「一旦家に帰って来て良いですか。何も入院の準備をしてないもので」。OKが出た。事務の人が入院の手続き等の書類を持って来た。「9時ごろでも良いですか」。「それはちょっと」職員は口ごもった。これは大変。入院の準備に夕食。そしてブログにも緊急入院のことを書かないとねえ。私は焦った。何せ手術は翌朝の9時からなのだ。 家に帰ると朝干したままの布団がベランダの手すりにあった。お向かいのKさんに事情を話し、入院することを告げた。彼も布団がそのままだったので心配していたのだ。<続く>
2017.09.21
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<病院の梯子 その1> 9月15日金曜日のお昼頃、私は仙台駅前のベンチに座りカツカレーを食べていた。目の前をスタイルの良い若い女性が歩き過ぎるのを観ながら食べる昼食は最高だ。かつて仙台は不美人が多いとの専らの評判だったが、今はそんなことはない。女優になるため奥茨城村から東京へ出て来た時子よりも洗練されたピチピチギャルがわんさかといる感じ。それにしてもコンビニの暖かいカツカレーは何とも美味。自分では作り得ない風味なのである。 さて、自転車は大丈夫だろうか。植え込みのヤブランを横目にしながら、私の頭はそのことを心配していた。広瀬通の脳神経外科の前に路上駐輪したままなのだ。不法駐輪の取り締まりは大抵木曜日なのだが、稀に金曜日のことがある。撤去されると3kmほど離れた場所に移動され、確か手数料として3千円徴収されるはず。そんな訳で美女もカツカレーもゆっくりと楽しむことは出来なかった。 頃合いを見計らって広瀬通りへ戻った。若草色をした私の自転車は、撤去されず元の場所にあった。受付の女性に駐輪場があるかどうか尋ねるとビルの地下にある由。そこで地下駐輪場まで愛車を移動し、ようやく一安心した私だった。だが、この電動アシスト付き自転車が、まさか病気の原因だったとは、この時まだ知る由もなかった。私は14時30分予約のMRIまで、待合室で静かに待っていた。 その日の朝、私は予感めいたものを感じ、掛かり付けの循環器内科へ行った。普通なら歩いて行くのだが、この日は電動自転車で行こうと決めていた。ドクターに最近起きた頭痛と血圧上昇の話をすると、軽い診察後、ある脳神経外科の紹介状を書いてくれた。今から急げば午前中の診察に間に合うし、脳のMRI(核磁気共鳴撮影)も間に合うかも知れないとのこと。私が不整脈の手術を受けた病院には脳の専門科がないことも教えてくれた。 循環器内科は山の上にある。そこから吊り橋を渡り、青葉城の急な坂を下り、最短距離で脳神経外科へと向かった。直ぐ傍を車がすり抜けて行く。もしバランスを崩して転倒したら、取り返しのつかない事故になる。私は細心の注意を払いながら、坂を下った。これをドクターが知ったらなんと言うか。今は無我夢中。ともかく一刻も早く頭部のMRI を撮り、頭痛の原因が何なのか知る必要があった。<続く>
2017.09.20
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夕方になってもユサユサ揺れていた。昨日の地震の話だ。ブログを書いている途中に地震が起きたのは初めてだろうか。でも私は開き直っていた。5年8か月とちょっと前の3.11.あれに比べたらどうってことはない。何せ観測史上世界第4位のM9.それに比べたら今回の地震のエネルギーは80分の1程度とか聞いた。騒いだ割に被害は少なかったはず。予想される南海地震、東南海地震の方が心配だ。 使い古しの手袋の指先を切った。これはランニング用に買ったもの。左手の人差し指の先に穴が開いていたので、ちょうど良かった。左右全部指先を鋏で切り、パソコン用にする。わが部屋の暖房はコタツのみ。ここで寝るし、パソコンも操作する。足許は暖かいが、冬は手の先が冷たくなる。 今日、明日辺り、仙台は初雪の予報。最低気温も0度になるとか。それで急遽、用意したわけだ。今もこの手袋をしながらキーを叩いているが、温かくて大いに助かっている。 TV番組で知ったのだが、夜中に1回でもトイレに起きたら「頻尿症」なのだそうだ。私などほとんど毎夜1回か2回は起きているから、頻尿と言うことなのだろう。別にそれで困ってる訳ではない。それが老人の普通の姿のように思うのだが、それでも治療が必要かどうかは聞き漏らした。 長く座ったままの姿勢でいると耳の中の「耳石」が働かず、目まいの原因になるとか。これも同じ番組でやっていた。「試してガッテン!」だ。特に麻雀など長時間座りっ放しのゲームが良くないらしく、30分に1度は立つようにしないと、耳石の機能が低下する由。ISSの宇宙飛行士が宇宙でいくら運動しても体が弱るのも、この耳石の機能低下によって体力が衰えるせいらしい。人間には「傾き」を察知する働きが必要なようだ。 ストックを持って歩いている人をたまに見かける。ノルディック・ウォークと言って、良い体力増強になる由。何でも両方の肩を使うのが良いようだ。ふ~ん、と思う。登山の時、特に下山の際のストックは重宝だが、それなら大きく両手を振って歩いたら良いのではないかと、天邪鬼な爺は思うのだ。私は歩く際も走る際も実際にそうしているし、それで筋肉を一定量、今でも維持している積りなのだがねえ。 先日は5匹で300円のサンマを買った。このうち3匹は腹を開いて一夜干しにし、残りの2匹は佃煮のように煮てみた。本当は塩を振って焼くのが一番なのだが、一度には食べ切れない。常備菜は3種類ほど作っている。今週からタンパク質と果物を多めにした。しょっぱい「ホッケ」は切って鍋にした。出汁が出て塩分が減り、ちょうど良い味加減になった。これもまた工夫の賜物。老人も料理で考え、少しは賢くなる。 最近はランニングノートに買い物をした際の支払額をメモしている。家計簿と言うほどの内容はないが、そのうち1か月分を集計する積りだ。今は米や主な調味料などがまだ揃っているが、そのうちにそれらも買う必要が出るだろう。先日は味噌を買った。一番安い減塩味噌。私はそれで十分だ。 毎食のメニューも予め考えてメモしておく。食材が限られているため簡単な内容になるが、それでも極力バランスの良い食事にするためには必要だと思っている。なんだ坂、こんな坂だ。 散歩から帰って来る途中、T氏に遭った。我が家に来ようとしていたらしい。彼は2番目の職場の1年後輩で野球部で一緒だった。以前から腰を傷めて治療しているが、脊椎狭窄症で歩くのが辛い由。血糖値はかなり改善したそうだ。人間歩けなくなると足が弱る。運動量が落ちれば、内臓の機能も弱るのだろう。頑張れと言って別れたが、他人事ではない。この歳になると、明日は我が身なのだ。 帰宅すると喪中はがきが届いていた。何と2番目の職場で野球部の監督をしていたH氏の奥様からのもの。享年75歳。あの人望があり、野球が上手で仕事も出来た先輩が亡くなったとは。慌ててT氏に教えようとしたが、止めた。茨城のNさんのご主人からも先日黒枠の葉書をいただいた。今はそんな季節だ。心からお二人の冥福を祈りたい。合掌
2016.11.23
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首の辺りがチクチク痛いと感じたのは土曜日の夜だった。たまたま部屋に飛び込んで着たのが毒蛾だったのだろうか。翌日の日曜日になると、さらに痛みが増した。これはひょっとして毒毛虫にでも触れたのか。それともダニのせい?それにしては痒みがないのは何故だろう。ひょっとしたらこれは帯状疱疹かも知れないねえ。ここら辺で皮膚科と言えば、前日行った眼科の近くに病院ある。内科、外科、整形外科、肛門科、胃腸科とあって、皮膚科も看板に書かれてあった。 「これは帯状疱疹ですね」。診察を受けるなり医師はそう言った。子供の時に退治された水疱瘡のウイルスが「神経節」に退避し、体調が悪く免疫力が落ちた時皮膚の表面に出て来るようだ。アルコールと運動は禁止。入浴は禁止でシャワーだけ。感染の恐れがあるため3歳児以下の幼児には近づかないこと。 塗り薬を塗られ、シャツに当たる部分にはガーゼを張られ、薬局で飲み薬と塗り薬を処方された。今後2週間外来で通う必要がある由。赤く腫れて痛みがある患部はさらに増えたが、体の片側にしか症状が出ないのが不思議だ。近所の路地で、前方から近寄って来た幼児を避けながら家に入った。 前日の火曜日には眼科に行ったばかり。緑内障用の眼薬が無くなりかけていたのと、「眼底カメラ」の予約が入っていたためだ。我が家から歩いて1.5kmほどの眼科は感じの良い病院だ。ご存知のように緑内障は失明につながる恐ろしい目の病。私がその指摘を受けてからもう6年目に入るが、初めて行った眼科の対応がのんびりしていたのに呆れ、行くのを止めたのだ。その間に視力は徐々に落ち、視覚欠損部分も徐々に広がって行ったのだと思う。 緑内障は不治の病で治ることはない。今は点眼薬で眼圧を下げている。幸いなことに視覚欠損部分のさらなる拡大は抑えられているが、視力は落ち、目の前に相当近づかないと誰かは分からない。それに右目と左目の焦点距離が違うため、物が二重に見える。それが不整脈の発作時にはさらに症状が激しくなり、目が廻るほど。そして老人特有の白内障も出ている由。この日は2本の目薬を処方してもらって帰宅。ここ数年躓き易いのも、周囲が良く見えないためだ。 自慢じゃないが歯も歳相応に良くない。貧しかった少年期から青年期にかけては、ほとんど歯を磨く習慣がなかった。昔はさほど甘い物を食べなかったために何とか持ったが、壮年期に入ると歯の状態は一気に悪化した。接待に明け暮れたこともあったし、忙しくもあった。だから飲食をしながら長時間歯を磨かない時間帯があったのも確か。そうして虫歯が増えて行ったのだろう。転勤先で2ど試みたインプラントも、結局恒久的な助けにはならなかった。 今は3カ月に1度ほどの頻度で近所の歯医者に行き、歯石を取っている。「なんだそんなことか」と思うだろうが、歯茎が伸び、「歯周ポケット」が深まった老人の歯は、放置すれば歯根まで腐り歯が抜けてしまう。だから定期的で丁寧な処置が必要なのだ。こんな羽目になったのも、長期間歯磨きを怠ったせい。今は残り少ない「自前」の歯を、大事にするしかないのだ。まだ噛める歯があるうちは何とか元気でいられるように思うのだが。 最近は整形外科の厄介にはなっていない。その代わり数年に1度、整骨院で施術を受けることがある。肩痛や腰痛、そして膝に痛みが出た時などだ。幸い近所には腕の確かな整骨医がいて、ある程度通えば症状が緩和するのが嬉しい。保険が効いて1日300円と言う料金は、年金暮らしの老人には実に有難い。それにご老人の症状を観察出来るのも、きっと今後の生活に役立つだろう。 まだ現役ランナーだった頃は、良く整形外科や接骨院のお世話になった。生来の偏平足で長い間走っていると、どうしても足に障害が起き易いのだ。単純骨折、疲労骨折、膝痛、足首の脱臼、アーチの低下に伴う腱鞘炎や、足底筋の筋膜炎などに罹り、高額な「医療用インソール」なしには走れなくなった。病気と老化で体力が落ちた最近はごくゆっくりとしか走れないため、大きな障害が出ることはなくなった。今はウオーキング程度のランを楽しんでいる。 不整脈と付き合い出してからもう5年を迎える。明確に指摘されたのは「東日本大震災」の年。それ以前からウルトラマラソンのレース中に失速することがあったが原因は分かっていなかった。それが重度の不整脈と判明し、これまでに3度の手術と、1度の電気ショックを受けた。私の症状は性質が悪く、治療するごとに復活する「ゾンビ」のような存在で、私を苦しめ続けて来たのだった。ランナーとしてこれまで何度絶望したことだろう。 昨年末の3回目の手術では6時間をかけ、不整脈の源となった5個の「病巣」を焼き切った。それ以来大きな発作は出ていない。発作が酷い時は私の場合、激しい動悸、目まい、吐き気、物の二重視などが起きる。血液の3割が逆流するため、まるで「高山病」のような症状が出るのだ。昨年の8月はそれが1ヶ月間続いた。まさに地獄。私は死を覚悟したほどだ。その他猛烈な鼻血や予期せぬ血圧の急上昇で、救急車のお世話になったこともある。 老化とは実に色んな変化をもたらすものだ。体だけではなく気持ちの問題も含めてだ。それに少子化高齢化、核家族化と言う我が国の社会の変化も大きい。年金暮らしの老人にとって不安材料は山ほどあるものだ。それに最近は認知症問題も、決して小さな存在ではなくなった。老後を守る国策が乏しければ、個人で対処するほかはないのだが、それにも限度はあるだろう。ともあれ何とか元気で老後を過ごし、平和裏のうちに死を迎えたいものだ。
2016.06.09
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2月中旬のある日、仙台の気温は21度近くまで上がった。2月の最高気温としては史上初の20度越えだった由。だが一転、翌日の最高は6度。それも夜中に出たもので、日中は冷たい風が吹き荒れていた。この週末、低気圧の通過で大荒れとの予報だったが、雨も風も思ったほどではなかった。こうやって一進一退を繰り返し、春は近付いて来るのだろう。 ノンフィクション作家の桐山某氏が亡くなった。糖質制限ダイエットの推進者だった由。死因は心不全で、享年は61歳。長く患っていた糖尿病を治したい一心でダイエットに励み、18kgの減量にも成功したようだ。だがこの糖質制限ダイエットは、医学界から危険性が指摘されていたようだ。脂肪やタンパク質中心の食事は、血管をもろくさせたのかも知れない。それに脳の唯一の栄養はブドウ糖のみ。何でも極端な方法は良くないとの見本だろう。 私もある接骨医から「あなたは極端だね」と言われたことがあった。走れる時は100kmも走るのに、体調が悪くなったら10kmも走れなくなる。5年ほど前から、私はそんな状態にあった。恐らくは老化に加えて、不整脈の影響が強く出始めていたのだろう。血液が3割ほど逆流して、まるで高山病のような症状が起きる私の不整脈の発作。運動が出来なくなると体力も落ち、早歩きさえ苦しく感じたものだ。 手術後の定期検診の結果を聞きにK病院へ行った時、執刀医は「脈飛びが出ている」と私に言った。「ははあ、やはりそうだったか」と私は思った。寝ていても何かがおかしいと感じたことが数度。そして24時間計測のホルター型心電図計を装着した前後も、心臓の幽かな変化は感じていた。あれがそうだったのか。だがドクターは言う。「歳を取ると脈が飛ぶことは普通に起きる」のだと。 病院から坂道を走って帰った時も、さほど心電図の図形は乱れてなかったようだ。2回目の手術後にジェット風船が膨らまなかったのは、気胸のせいではなく横隔膜のせいとドクター。高熱で不整脈の源を焼き切った際、近くの横隔膜にも一時的に影響する由。胃が苦しいと言うと、現在の胃薬の服用を続けるよう指示された。これも不整脈手術の後遺症なのだ。 病院からの帰路、私はコンビニで1枚の板チョコを買った。その銀紙を破き、歩きながら板チョコを食べた。誰にもチョコを貰えなかった今年のバレンタインデー。消費税込みで111円のチョコは、頑張った自分自身へのご褒美でもあった。 西風が強く吹いた日、私は6日ぶりに走りに行った。心臓には少し不安があるものの、きっと大丈夫なはず。向かったコースは走友会のかつての練習コースだった。だが、坂を走って登るのは無理だった。「ああ、もうこんな坂も俺は登れなくなったのか」。自分の体力の現状を、はっきりと思い知らされた。そのまま山の上に向かわず、川沿いのコースを選んだ。ゆっくりゆっくり、風に背中を押されながらのラン。久しぶりの風景が懐かしかった。 帰宅後「ジョギングシュミレーター」で距離を測ると13.2km。時速5kmのランは歩くようなスピードしか出ない。それが今の自分の走りなのだ。さて、昨年の秋に太白大橋から名取川を覗いた時、鮭の遡上が見られなかった理由が分かった。鮭は孵化して4年目に故郷の川に還って来る。その4年前は東日本大震災の年で、孵化場にも被害が出、河口の川底も津波で大きく変化した。あの年、海へ戻れた稚魚がほとんどいなかったことにようやく気づいたのだ。 「無理するなと言うけど、時には無理も必要なんだよ」。これは76歳になるM仙人の言葉。私も全くの同感だった。先日雪の松島でたまたま会った高校の同級生は「心臓の鼓動の生涯の回数は決まっている。お前はランニングでそれを使い果たした」と私に言った。「それでも俺は悔いはないんだよ」。私はそう答えた。 もう無理だと思った時点で、人間は冒険が出来なくなる。これほど体がヨレヨレになりながら、まだ走ろうとする人は少ないだろう。走っている姿は無様でもある。それでも自分は自分を信じ、ジョギングが健康に良いと心からそう思っているのだ。 先日近所の人がコピーを持って訪ねて来た。ある合唱団の60周年記念祝賀会の資料に、私の名前があったと教えてくれたのだ。何とそのご主人も同じ合唱団に所属し、祝賀会に出席された由。私がそこで歌を歌っていたのはもう50年も前の話。Tさんのご主人はずっと後輩だが、まさかあの合唱団で歌っていたとはねえ。名簿を見たら、まだ現役の仲間が4人もいた。50年以上も歌い続け、年齢は70代半ばに達したはず。人間の意思の凄さを知らされた思いだ。
2016.02.22
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<健康と運動> 口唇ヘルペスがようやく治って来た。だが胃の調子は依然として良くない。胃酸過多の薬を服用しているが、げっぷが出て苦しい。実はこれらの症状は、不整脈手術の後遺症の一つなのだ。不整脈を発症させる心筋の一部が高温で焼き切られた時、付近の臓器にも影響を及ぼすと聞いた。ほかにも10以上の後遺症が現れる可能性があるが、幸い私の場合はまだ出ていない。3度目の手術から2週間経ったが、私はいつになく慎重に行動している。 思えばこの1年も苦しみの連続だった。1月にはやる気になって、M公園内を結構走った。膝も痛くなり、もうかつてのスピードは出ず、まるで亀のような走りしか出来なかった。だが翌月から体調が思わしくなく、走る距離は極端に減った。4月の早朝、急に血圧が上がって下がらなくなり、救急車でK病院へ運ばれた。体調が良いと感じられるようになったのは7月。翌月の「薬莱山とお足」を目指して練習も出来たのだ。 だが現実はそう甘くはなかった。8月に入ってすぐ、明らかな不整脈の症状が現れた。激しい動悸、目まい、吐き気、息苦しさなどで、歩くのもやっとの状況。暫く我慢していたがM医院のドクターに手術を勧められた。そこで以前も手術を受けたK病院を受診。O先生もカルテを過去に遡ってじっくり見、かつ検査の結果から手術を口にした。だが手術予定者が多く、それから4カ月待つことになった。本当に手術で良くなるのだろうか。私はまだ疑っていた。 手術の結果を報告しにM病院へ行った。ドクターと色々話したが、3度目の手術後も再び不整脈が起きた患者がいた由。私は今回6時間もかけて5つの病巣を焼き切った。それでも不整脈は起きる可能性はあるのだ。何と言うしつこさだろう。それでも私は何とかまた走ろうとしている。かつてのようにレースに出ることは無理だが、健康のため早歩きくらいはしたいし、増え続ける体重を何とか抑えたいのだ。 今年歩いた距離は以下の通り。うちカッコ内は走った回数と距離。1月145km(6回86km) 2月103km(2回21km) 3月113km(4回41km) 4月104km(1回11km) 5月136km(5回42km) 6月143km(5回46km) 7月203km(16回139km) 8月89km(6回47km) 9月31km(0回0km) 10月89km(2回14km) 11月(3回24km) 12月50km(0回0km)。 12月は昨日までの記録。年間の合計は1282km(50回471km)となった。1回辺りの平均は9.4km。もうレースに出られるレベルではないが、毎月必死で運動しようとしていたことが分かる。これまでの累計は86412km。地球を2周と6分の1走った計算だ。 先日ある人のブログを見て、1人のウルトラランナーの死を知った。愛媛出身のSさん。年齢は多分40歳そこそこのはず。彼と初めて会ったのは平成19年の「第2回佐渡島一周」の150km地点付近。そこから10kmほど並走して、色々話した。偶然にも彼は私の小学校の30年後輩だった。スーパーで買った「いなり寿司」を上げたら、彼は美味しそうに食べた。私はそこからロングスパートし、40時間23分でゴールした。 次に会ったのは東京お台場の24時間走。私は膝を傷めて114km(20時間)で止めたが、彼はもちろん最後まで走り、すっかり強いランナーに変身していた。きっと30年も先輩のランナーに負けたのが悔しかったのかも知れない。その彼があるサイトに笑顔で写っていた。何とギリシャの有名レース「スパルタスロン」(距離250km:制限36時間)を完走していたのだ。死因はガンのようだ。若くして世を去った後輩の死を悼み、心から合掌したい。 「佐渡島一周」で出会ったランナーの思い出は他にもある。第1回、第2回で一緒に走ったHさんは60歳の若さで胃がんで亡くなった。まだ30代だったR子さんは卵巣がんで亡くなった。それを知った私は、2人の弔い合戦として第4回の「佐渡」へ出た。65歳の私にとって206kmものコースは厳しく、最後はゴール手前で3回行ったり来たりを繰り返した。激しい疲労で距離感がすっかり狂ったのだ。44時間11分35秒でのゴールだった。 もう2度とレースで走ることは無理だが、私には47都道府県全てを走った思い出がある。後どれくらい生きられるか分からないが、来年はまた早歩き出来るくらいの体力を取り戻したい。今はじっと我慢の時。馬鹿かも知れないが、私は私自身を信じたいのだ。<続く>
2015.12.27
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<12月14日(月)退院の日> 夜中に3度トイレに起きた。起床は4時。やはり退院日を迎えて、気分が高ぶっているのだろう。セーターを羽織り、トイレ周辺で短歌を作る。5時洗顔と歯磨き。6時血圧測定。上は160と相変わらず高い。体内酸素97%、体温は35.6度の平熱だった。とうとう最後に残ったモニター心電図計を、看護師さんが胸から外してくれた。そして腕の点滴液注入口もきれいに取り外された。 6時30分から廊下を7往復して700mを歩く。前日も廊下を300m歩いた。退院となれば直ちに歩いて帰る必要がある。それにこれは、リハビリを兼ねての運動にもなる。 今朝までは患者なりけりこの我も 眠りし巷病棟より見る 街はまだ眠りてゐしか家々の 灯り乏しき師走早朝 最後まで残りしモニター心電図 外されし後無罪放免 心臓解剖図 7時トイレで排便。実はこれが手術後4日目にして最初のお通じだった。しっかり食べていたし、腹も苦しくはなかったので特に心配はしてなかったのだが、出るべきものが出ると安心だ。やはり廊下ウォークは効果があったようだ。おしっこの時の尿道痛もかなり薄れた。そして手術を受けた肝心の心臓が、こうして穏やかに機能しているのが何よりも嬉しい。 尿道の痛みも薄れ朗らかに 術後四日目朝の放尿 通常の色してそれは生まれ出づ 術後四日目待望の便 鼓動未だ弱きと言へどわがヘルツ* 新鮮血を隈なく送る *ドイツ語で心臓 退院のお祝いを兼ねて「ぜいたくミルクココア」を自販機で購入し、ゆっくり飲み干した。これからは体力の回復に努める必要がある。7時20分、最後の体重測定。これまでで一番減って68.75kgになっていた。7時40分、執刀医のO先生が病室に顔を出し、退院後の治療について指示してくれた。次は来年の2月に24時間心電図を装着して、心臓の調子を確認する由。念のために、手術の後遺症の注意事項を読んで再確認する。 8時食堂で朝食。今朝は珍しくパン食だった。メニューはベーグル、クロワッサン各1個。バター、ジャム。豆、ジャガイモ、ウインナーソーセージ片が入ったトマトスープ。水菜と大根のなます。バナナ1本。 頑張りし褒美はミルクココアなり 入院五日目退院直前 私が入院したK病院 8時30分。病室で看護師から次回の予約表を受け取る。既に帰り仕度を整え、セーター、トレパンに着替え済み。9時薬剤師から新しい薬の服用について説明。入院時に預けていた薬を返却してもらう。これで終了。後は入院費の支払いのみ。同室の皆さんに挨拶して食堂へ向かう。皆は驚いてきょとんとしていた。彼ら3人は循環器外科の患者で、いずれも大きな手術をしている。それに比べて循環器内科の私の手術は、体への負担がとても軽いのだろう。 廊下で医療介助のお嬢さんに出会った。手術日の夜、私に夕食を食べさせてくれた人だ。「良い人が早く見つかるように」。私がそう言うと、ペコちゃんは笑って去って行った。不二家のペコちゃんに似た愛嬌のあるお嬢さんだった。本当にありがとうね。 青と白、制服の色異なれど パラメディカルの笑顔優しき 食堂で事務の人から請求書を受け取る。1階の窓口にそれを提出し、ATMで現金を引き落とし。金額はわずか5万円足らず。あれだけの高度医療を受けてこの金額で済むのは、日本の保険制度のとても優れた点だろう。安かったのは私が70歳を超えていたからでもあるが、この病院の業務改善のお陰でもある。3年半前の入院時より、ずっと気持ち良く過ごせたし、改善の跡がはっきりと見て取れた。本当にありがたいことだ。 病院の外へ出ると、風が冷たかった。やはり12月、油断は出来ない。コンビニに寄って書類をコピー。それは生命保険会社へ提出するもの。書類は翌日保険会社に提出したが、私が支払った3倍以上の補償が出る由。風の中、最寄りの地下鉄の駅まで歩いた。朝のトレーニングが効いて、息が苦しくなることはなかった。帰宅して荷物を整理し、午後から早速入院の記録をブログに書き始めた。苦しい作業だったが、何とか書けた。 夕食時には薄い水割りの焼酎を1杯飲んだ。ささやかな退院祝いだ。お風呂に入るのも6日ぶり。ようやくこれで落ち着いた。翌日は2kmほど散歩し、久しぶりに体操をした。そのせいか、体の調子が良くなったみたい。ひょっとしてこれなら1カ月先には、ゆっくり走れるかも知れない。諦めていた健康が、ひょっとして取り戻せるかも知れない。これも勇気を持って3度目の手術に立ち向かったお陰だろう。 今日から仙台は少し寒さが厳しくなるみたい。体調には十分注意しないとね。最後まで応援して下さったブログ友の皆さん、本当にありがとうございました~!!<完>
2015.12.18
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<12月13日(日)入院4日目> 4時に目覚め、そのまま起床。病室内はまだ暗いまま。パジャマの上からセーターを羽織り、靴下を履いて廊下へ出る。それ以上は眠れないと考えて、短歌を詠もうと思ったのだ。トイレの前が明るいので、そこに椅子を置いて構想を練る。入院後の状況を思い出すままノートに記録するが、どうしても順不同になってしまう。通りかかった看護師さんが不審そうな顔。それを気にせず短歌作りに没頭。結局この日夜までに詠んだ歌は、70首ほどになった。だからこれまでブログに添えた歌は、すべて4日目以降の作だ。 眠られぬ夜は短歌を詠ひつつ 頭の中に言葉を刻む 柔らかきベッドは我に合はずして 四日四晩の背中の痛み 病得し老ひの身なれど手術後は 生への意欲ふつふつと沸く 白々と夜は明け初めて朝となる 明日はいよいよ退院の日ぞ 6時。体重69.15kg。6時30分。体温35.6度、体内酸素量98%。血圧は高めに現れた。8時。朝食をクリスマスツリーが飾られた食堂で摂る。メニューは焼き魚(鮭)、白菜のお浸し、大根の味噌汁などを完食。部屋に戻ってミカンを食べる。その後に薬を服用し、髭を剃る。病室から外の景色を眺めた。私のベッドは壁際なので、普段は外の景色が見えず、他の患者がカーテンを開けた時にしか見えないのだ。 血圧はやや上昇す短歌詠み 廊下を歩む四日目の朝 青葉山薄紫の朝の空 わが病室の十階の窓 銀色の車輌三輌橋の上 十階病棟地下鉄眺む 病室は温室なれど窓の外 師走の風は冷たきものを 入院はテレビパソコン打ち捨てて 読書短歌のアナログの日々 10時執刀医のO先生が病室に顔を出して挨拶。日曜日まで病院勤務とは、よほど忙しいのだろう。10時45分「12方向心電図」をベッドの上で撮る。その後ナースから退院後の生活について指導。O先生は何をしても良いと言うが、今後1カ月が重要なのはこれまでの経験で分かっている積り。午後1時からシャワーの希望を伝え、荷物の整理を始める。何度も立ったり座ったりを繰り返したせいか、急に気分が悪くなる。心電図に異常はないと、確認したナースが言う。 四日ぶりシャワーの準備その途中 体ふらつき手先冷へたり 12時食堂で昼食。メニューは白身魚のカレー風味、キュウリの酢の物、オレンジ、牛乳。またまた残さずに全ていただいた。今日は日曜日のせいか、たくさんの見舞客が病院を訪れた。だが妻は買い物があると言って、今日は来ない。 クリスマスツリー輝く食堂に 見舞ひの家族けふは日曜 13時。シャワーのため一時モニター心電図を看護師に外してもらう。浴室に行くと太った先客が1人体を洗っていた。そこへ若い看護師が来て、「酸素吸入の患者が入るが良いか」と聞かれる。もちろん断る理由はない。シャンプーを済ませ、タオルに石鹸をつけて体を洗う。若い看護師がいるので気が気でないが、これもまた勉強のうち。今日はシャワーだけ解禁で、入浴許可は明日帰宅してから。それでもさっぱりとした気分で浴室から病室へ戻った。再び心電図装着。 シャンプーと体を洗ふ十分間 手術の汚れ全て流して 酸素付き看護師付きの入浴に 「これは良いね」と老人笑ふ さっぱりと心と体のリフレッシュ 再び胸にモニター装着 14時血圧測定。150/92と高め。脈拍数49。30分後にもう一度測定したが、今度は160まで上昇。これまでの入院でも、術後3日目くらいから血圧が一時上昇することがあった。恐らくは心臓内の傷を必死に治そうとする防衛本能のように思うのだが。14時50分ヨーグルトとミルク煎餅2枚を食す。15時の測定で2度とも血圧は高いまま。それでも多分心配ないはず。 モニターの心臓波形見守りし ナースステーション頼もしきかな 六時間手術に耐へしわがヘルツ* けふは高めの血圧となる *ドイツ語で心臓の意味 血圧は変動せしも心臓の 波形は常に安定せりと 18時夕食。メニューはボリュームたっぷりの他人丼(豚肉、卵、タマネギ、ゴボウ)。レタス、キュウリ、ミニトマトの野菜サラダ。ヒジキと野菜の煮物。そして香草とシメジのお吸い物。退院前夜の晩餐に相応しい内容かもね。 セーターを羽織りて食す晩餐は 退院前夜心臓食の 仙台の煌めく夜景見降ろして 我は食さむ他人丼 病棟には男性の看護師がいることが分かった。他の患者には結構横柄な口調だったが、私に対しては常に謙虚な受け答えをした。私が時々ノートに何かを記しているのを見ていたのだ。私は短歌をメモしていたのだが、彼は院内の苦情でも書いてると誤解したのかも知れない。てきぱきした男性看護師も必要な時代だ。 ナースステーションの奥に、重症患者専用の病室があることを知った。19時の測定でも血圧は高めに出た。こうして入院4日目の夜も更けて行った。いよいよ明日は退院の日だ。<続く> 男性の看護師もゐててきぱきと 患者乗せたる車椅子軽し 十階のナースステーションその奥の 重症病室静まりてゐし 「生きるとは何?」入院し想ふこと 人は歳老ひ必ず死すを 一度たりもナースコールは押さざりき 最後の夜も穏やかに過ぐ
2015.12.17
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<12月12日(土)入院3日目> ずいぶん長い間ベッドに寝ていた。3日目の朝を迎えた。前日は雨だったのに、この日は晴れたようだ。7時20分、執刀医のO先生が病室に顔を出す。私の顔を見て安心したのか、直ぐに病室から出て行った。今日は土曜日で手術はないはず。先生もようやく帰宅出来るのだろう。透明な尿管カテーテルを通して、尿が流れて行くのが見えた。尿意は全くないのに、とても不思議な感じだ。 病癒へ眩しき朝を迎へたり あと幾許の命なれども 手術日は雨の朝なり翌日は 朝日輝き病室照らす アブレーション*病巣は五箇所そのうちの 二個は派生しものとドクター *心筋焼灼手術 つつつつと透明の管流れ行く 美しき液聖なるハルン* *ドイツ語で尿のこと 7時30分。若いドクターが来て、脚の付け根のカテーテルを挿入した箇所の回復具合を確認。点滴装置を押しながら、少し廊下を歩いて来いと言う。出血はなかったため、絆創膏で固定していた止血バンドをバリバリと外す。ベテラン看護師が来て測定。血圧は正常値。体温36.6度と1度高い。これは体内の傷を治すために戦っている証拠。体重69.25kgと過去最高値。点滴が原因だろう。 9時に遅めの朝食。今日も野菜が中心のおかずだ。今朝は自分で起きて食べ、完食。歯磨きし、紙タオルで洗顔。今朝から服薬再開。ただし脈拍抑制剤は飲まなくて良くなった。その後尿管カテーテル装置を外し、体を清拭。手術時の汚れが落ちてようやくサッパリした感じ。汚れた手術着からパジャマ方式の入院着に着替えて落ち着く。 手術着を脱ぎて点滴、止血措置 全てを外し体を拭ふ アブレーション手術概略図 その後ベッドに寝ながらレントゲン撮影。胸部は肺に穴が開く「気胸」などのチェック、そして腹部は胃拡張などになってないかのチェックのため。高熱のアブレーション手術は、心臓付近の臓器にも影響が出る場合があるのだ。つまり手術による後遺症が何%かの確率であると言うわけ。トイレで小便。最初の時は血が混じった尿がたった1滴出ただけ。2度目、3度目も尿道の傷が猛烈に痛む。 キリキリと尿道奥に痛みあり そを堪へつつ尿(いばり)を放つ 昼食は歩いて食堂へ行き、そこで摂った。おかずはヒレカツでいつもよりボリュームがあった。野菜サラダ、ご飯も全て完食。売店でヨーグルトを買い、病室でミカンと一緒に食べた。ささやかな手術成功のお祝いだ。 めでたさも中くらいなりおらが冬 手術成功ヨーグルト食ふ 13時40分。看護師が来室し測定。血圧は117/79、脈拍数61と安定。体温は35.6度の平熱に戻る。15時、点滴装置を外す。残ったのはモニター心電図だけ。これでかなり身軽になった。夕方近く妻が来院。初日は地下鉄の「北4番丁駅」まで歩き、昨日は雨の中を「国際センター駅」まで歩いてずぶ濡れになった由。野菜の買い置きが無いと言うので、畑の白菜やブロックリーを収穫したらと言う。今日も途中まで歩いて帰るらしい。 全身の装置外して身軽なり 明日はいよいよシャワー解禁 看護師の若き肢体の美しき 熱き情熱白衣に包み 美しき女性働く院内の 尊き姿朝な夕なに 18時夕食。おかずは例によって薄味の野菜の煮ものと煮魚(カレイ)など。今回も全て美味しくいただいた。18時50分看護師が病室に来て測定。血圧は137/90と上昇。脈拍数54。体温35.6度。体内酸素量98%。その後食堂で読書中に寒さを感じ、慌てて病室に戻り布団に入った。まだ手術の翌日。油断は出来ない。 この日もたくさんのことを見聞きした。運転中に脳血栓の一歩手前になり病院に担ぎ込まれた患者。運転中に失神した患者。危うく腹部の動脈瘤が破裂しそうになった患者。肺の機能を回復するために、必死で筒を吹いてる患者。リハビリのため廊下をゆっくり歩く患者。見舞客と競馬の話に夢中の患者。テレビを点けっ放しにして眠りこける患者。地方からやっとの思いで入院した患者。まさに世の中は様々だ。 痛みあり苦しみもあり悩みあり それらも全て己が人生 新聞を買ひてニュースに目を通す 入院三日の世界と日本 薄暗き廊下を歩む老人は リハビリらしき退院前の それに見舞いに来た家族の話も、聞くともなく聞いてしまった。まだ高校生や中学生の子供のいる患者の今後の人生が気がかりだ。私と同じ手術を受けた患者は明日退院の予定と聞いた。優しそうな奥さんが、いつも一緒に傍に付き添っていた。病院とはまさに人生の縮図。天国もあれば地獄ともなる。入院3日目の夜も更けて行った。<続く> 病院は社会の縮図様々の 病抱へて人集ひ来る 病室に個人情報飛び交ひぬ 患者と家族お見舞客の
2015.12.16
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<12月11日(金)入院2日目:手術当日> 深夜0時、ナースが点滴の生理食塩水を交換に来た。5時小便に起き、ついでに歯磨き。6時体重測定68.05kg。体調管理のため、病院の体重測定は50g単位まで細かくチェックしている。7時手術に備え、紙おむつに履き替え。以前はT字帯(ふんどし)だったのが、患者の経費負担を少しでも軽くするための改善みたい。7時40分執刀医のO先生が病室に来て挨拶。目が笑っていない。彼も今日は本気で手術に臨む気持ちのようだ。 三度目の手術となればまな板の 上の鯉なり性根を据へむ 8時指輪、時計など金属製のものを全て体から外す。不整脈のアブレーション(心筋焼灼術)は体の二か所(太股の付けてと首)からカテーテルを心臓内に送り、高周波の高熱で不整脈の病巣を焼き切る手術。このため金属は予め取り去る必要がある。8時20分睡眠薬2錠を服用。ナースは精神安定剤と言うが、そんなことはなく、直ぐに口の中で溶けた。ストレッチャー(寝台車)に乗ってオペ室へ移動。 手術担当のドクターとスタッフが数人「よろしく」と言う。こちらも「よろしくお願いします」と返す。シャウカステン(レントゲン写真読影装置)に前日撮った私の心臓と胸部腹部の血管の写真が張られている。きっと血管の形状や位置を確認しながらカテーテルを心臓に送るのだろう。そのうち急に意識が飛んだ。麻酔薬は打たれてないので、やはりあれが睡眠薬だったのだ。これから6時間の長い手術が始まる。今日手術を受ける患者は2人。もう1人は午後3時半からと聞いていたので、逆算すると6時間はかかる計算。O先生の目が笑ってなかったのは、そう言うことだ。 オペ室のシャウカステンに浮き出たる アンギオグラフィー*森林のごと *血管造影写真のこと 「よろしく」と挨拶をせし執刀医 眸の中の決意も固く 舌下錠二錠の薬たちまちに 溶けて眠りし手術の前に ドクターに挨拶返すそのうちに 記憶は飛びて眠りに入る オペ室へストレッチャーで行きしわれ 手術台より記憶失ふ 血管の中でも太き動脈を 二本辿りてオペ開始する 病室へ戻ったのは恐らく午後の3時過ぎだったはず。まだ意識は朦朧として良い気分。まるで静かな海に浮かぶ小舟のようだ。妻が来ていて言葉を交わす。無事手術は成功したようで、彼女もホッとした様子。タブレットで横たわる私の姿を撮った。高松の娘と孫、そして東京の息子達にラインで送る由。その後妻は雨の中を帰って行った。点滴が増えて生理食塩水と抗生物質の2袋になっていた。夕方まで眠る。 豊穣の海にたゆたふ小舟なり 術後の麻酔解けたる我は 18時、パラメディカルのお嬢さんが寝ている私に夕食を食べさせてくれた。24時間ぶりの食事は美味しい。メニューは小さなお握りが2個。沢庵、鳥肉のから揚げ、そしてポテトフライ。飲み込み難いため、ストローでお茶を吸いながらの食事。以前は看護師の仕事だったが、今はパラメディカルのお嬢さんがかなり増えている。そのお嬢さんが天使に見える。いや天使そのものだ。少なくとも寝たきりの私にとっては。 寝ながらに夕食を摂る傍にゐて 医療介助の女性優しき 看護師と変わらぬほどに働きし りりしき女性パラメディカルの 19時。執刀医のO先生が病室に現れた。やはり手術は6時間ほどかかり、その後もう1人の手術もした模様。顔色が青い。相当疲れているようだ。私の不整脈の病巣はかなり深い位置に5つあったようだ。そのうちの2つは派生的なものだった由。寝ながらお礼を言う。先生は安心したように頷き、退室して行った。ありがとうね寡黙なるO先生。 それにしても5つの病巣があったとは驚きだ。これまで2回の手術で既に2つの病巣を焼き尽くしたはず。それに昨年の9月にも電気ショックで1個退治したのも合わせると、合計で8つも不整脈の「巣」があった計算になる。道理で苦しかったわけだ。種類の違う不整脈が次々に現れ、それが発作を起こし私を苦しめたのだ。不整脈恐るべし。決して侮ってはならない。 合計で八つの深き病巣よ わが不整脈死滅したるか 実はこれからが苦しいのだ。麻酔が効いているうちは眠っていれば良いが、傷口を守るため寝返りが出来ないのだ。それに腕には点滴の管が付いていて不自由。おまけにベッドが柔らかくて、ますます腰が痛くなる。この苦しみとの戦いが一番の敵なのだ。 夜間の看護師がベテランの人に代わった。以前の入院時にもお世話になった方。「もうここへ来ちゃいけないと言ったんだけどねえ」。彼女は朗らかに笑い、夜中に「寝返り板」を添えてくれた。これで体を少しだけ右側に傾けることが出来る。それだけでも幾分楽なのだ。入院第2日目の夜も更けた。だが、きっとナースステーションではスタッフが患者を見守っているはずだ。安心して眠りに落ちる。<続く> 「もう二度と来ちゃいけない」と言はれたる ナースと三度病室で逢ふ 人声は止みても響く電子音 十階病棟夜は更け行く
2015.12.15
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<12月10日(木)入院1日目> 午後1時の入院に合わせてバスで向かう。この日は朝から服薬を中止した。翌日の手術への影響を防ぐためで、入院後の検査のため昼食も禁止となっていた。病院へは妻も同行した。窓口で入院手続きを済ませ、10階病棟に赴く。これでK病院へは3回目の入院。3年前循環器内科の病棟は5階だったのだが、その後院内を模様替えしたようだ。 ナースステーションに書類を提出し、食堂で担当者に手術時に敷くバスタオルなどを渡す。病室は6号室で4人部屋だった。食堂に戻ってガイダンスが始まる。妻はここで帰宅した。もう3度目の手術なので一連の流れは頭に入っている。病室に戻って他の患者に挨拶し、病院着に着替え。不整脈と診断されてから5年目。もう長い付き合いだ。 意気込みも望みも何もなきままに ドクター信じ入院したり 「不整脈」人は簡単に言ふけれど その苦しみをどれだけ知るか 入院着着替へたれども心まで 病人にならじと誓いは堅く 病室で体温と血圧を測定。引き続きナースステーション前で、体重と身長を測定。14時30分検査室へ移動し、造影剤を用いての心臓と血管のCT(断層写真)撮影。これは勿論翌日の手術で、どの血管からカテーテルを心臓に送るかを決定するためのもの。装置に入って動脈に造影剤が注入された途端、頭部から足の爪先まで全身が火のように熱くなった。吐き気が治まってから撮影開始し、15分ほどで終了。 造影剤動脈ははや龍のごと 炎と燃へて全身巡る 検査技師に尋ねたら、体が燃えるように感じるのは動脈に異物が入ったための防衛本能とのこと。再び病室に戻り、血液検査のための採血。その後右腕に点滴のための注入口を処置し、生理食塩水の点滴が開始。15時30分から経食道の心臓エコー撮影を行う。これは胃カメラに似ていてとても苦しい。予め喉に麻酔液を含ませてあるが、装置を飲み込むのが辛い。この後通常型の心電図撮影を行い、病室に戻る。 売店でコップ、ストロー、スポーツドリンクを購入。自室に戻って下半身の剃毛。これは脚の付け根から片方のカテーテルを動脈に挿入する際、感染源になるのを防止するための措置。この後も何度か下半身をナースの目に曝すことになる。両方の足首と足の甲に、動脈静脈の位置を示す×印がマジックペンで記される。これは手術後の脚のむくみをチェックするため。 下半身露わにしたるその様も 慣れざるを得ず病人なれば 胸にモニター用の心電図を装着。これは心臓の動きがリアルタイムでナースステーションに送られる装置。つまり入院中私の心臓は常にこの小さな機械で監視されている訳だ。18時50分血圧測定。120/73と非常に安定した数値。脈拍も53と良好。18時夕食。点滴装置があるため病室で摂る。心臓食は薄味だが美味しい。量も過不足なし。野菜中心のおかず。翌日は手術のため、これ以降24時間の絶食に入るため、貴重なエネルギー源だ。 薄味の心臓食は美味しかり 量もほど良く完食のわれ 夜勤担当はT市出身のナース。岩手県で資格を取った由。なまりがある目の大きな人だった。初日の夜は次第に更けて行った。遠くの病室からお婆さんの叫び声が聞こえる。宮城の方言で「痛いよ、痛いよ」を連発。相部屋の同僚も一人二人と眠りに就く。23時55分小便のためトイレへ。ナースステーションにはまだ半分ほど灯りが点っている。私達患者を見守る不夜城のように。<続く> 「いでや、いで」叫びし老婆病室の 声も止みたり深夜となりて 煌煌とナースステーションは不夜城のごと 眠らずに患者見守る 各々のいびき寝息を聴きながら 四人病室我も眠りし
2015.12.14
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もがいていた。苦しんでいた。まるで金縛りにでもあったように。そして体が熱かった。私は一晩中うなされたまま、とうとう朝を迎えた。ブログを書いて庭へ出ると、真っ赤な花が目についた。あれっ、ハイビスカスが咲いてる。おかしいなあ。暑かったこの夏は一度も花を開かせた記憶がないのに。それにしても昨夜の苦しみは何だったのだろう。今も首と肩が猛烈に痛み、カチカチに固まった感じだ。 朝食後、歩いて2kmほど先の山の上にあるM医院へ行った。薬がほとんどなくなったのだ。それにドクターには、前回の診察後K病院で検査を受けた結果を報告する必要があった。ゆっくり一歩ずつ確かめるように足を出す。まだ元気だった頃は、こんな坂道を平気で走って登ったものだ。それが情けないことに、ゆっくり歩くだけでも息が切れて苦しい。どこからか匂って来る芳香。これはキンモクセイだ。今年もまたキンモクセイが咲く季節がやって来たのだ。 M医院の待合室は既に大勢の患者で溢れていた。「今日は通常の診察で良いんですか。後1時間半はかかりますけど」。受付の女性が言う。それは織り込み済みのこと。暫くして血圧計に左腕を突っ込む。血圧は正常範囲だが、脈拍は120ほど。やはり不整脈が出ている。新聞と雑誌を読み、無料の緑茶やジュースを飲んで順番を待つ。普段は読まない地元紙と週刊誌の記事が新鮮。やっと名前を呼ばれて、診察室前のベンチに座る。 この日のMドクターは髭面だった。日頃はマスクをしているため、分からなかったのだ。ドクターに前回以降の経過を話す。その間2回通院したK病院からも検査結果の連絡が来ている由。気になっている首と肩の痛みが不整脈と関係あるか尋ねたら因果関係はない由。発作が出て以降40日経ったが未だに苦しく、12月に3度目の手術を受ける予定であることも告げた。薬を処方してもらい、隣の薬局へ向かった。 薬剤師も心得たもので、あまりしつこくは症状を聞かない。処方された薬の種類と量を見たらピンと来るのだろう。2袋分の薬は2カ月分。病院と合わせると5千円近い料金だが、71歳を過ぎ「東日本大震災」の被災地であるためまだ1割負担適用なのが有難い。これが通常の2割負担だと倍になる。眼科、歯科、K病院など含めたら相当の医療費だ。帰路は全て下り坂なので楽。 坂を半分ほど下った所で誰かに呼び止められた。良く見ると2番目の職場の元同僚。ご主人共々最近私を見かけないと心配していたそうだ。そこで立ち止まって事情を話す。体の辛さもさることながら心の辛さも正直に話すと、とても驚いていた彼女。元気良く坂道を走り回っていた私が、まさかそんな現状だとは想像出来なかったのだろう。それにしても、この首と背中の痛みの原因は何? そう言えば、先日妻の電動自転車を借りて、鶏糞を買いに行った。2袋で30kg。小さな荷台にゴム紐で縛りつけたが、帰宅した時には危うく落ちそうになるほどずれていた。あの時は重くて必死にハンドルを握っていた。そして畝をシャベルで掘り返しもした。最近は自室に籠ってパソコンとテレビ三昧。きっと座椅子に座るその体勢も、首や肩に負担をかけているのだと思う。それであの夜は久しぶりにストレッチ体操をしてみたのだが。 午後から整骨院へ行って見よう。そう思って古い診察券を引っ張り出した。良く見たら水曜の午後は休診日だった。ああ残念。折角その気になったのになあ。その夜寝床に入っても、前夜ほどには苦しまずに済んだ。背中と首は心なしか楽な感じ。だが、不整脈の気持ち悪さは残ったまま。その夜は何度も目覚め、その都度テレビを点けて国会の動きを確かめた。例の安全保障関連法案の審議状態だ。目下国を二分しているこの件についても、書く必要があるだろう。そう思いつつ、いつの間にか深い眠りに落ちた。 翌日居間のテーブルの上に柿の実を発見。我が家の裏庭で生ったのを妻が枝ごと折ったようだ。春には枯れかけていた樹だが、私は必死に水やりをした。そのお陰で何とか樹勢が戻り、わずかながら実をつけたのだ。柿の樹も自分も何とか頑張った。そして秋を迎えることが出来た。 今は爽やかな風が心地良い季節。「風立ちぬ。いざ生きめやも」。堀辰雄の小説と共に、同名のアニメーションを思い出した。後は12月の手術まで、何とか体を持たせたいのだが。
2015.09.18
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生年月日と名前が呼ばれて、第1診察室へ入った。昨日の午前、K病院の循環器内科でのことだ。中にいたのは「不整脈外来」担当のO医師。私がその日の最初の患者だったのは、恐らく緊急度が一番高かったのだろう。カルテが十分に読まれていたのか、若い医師は開口一番手術の必要性を説いた。そして今回の「発作」と現在の体調を私に尋ねた。そうか、この体調の変化は発作なのか。そして手術を要するほど今回の不整脈は重篤だったのか。私は事態をそう受け止めた。 胸に違和感を感じたのは、8月6日の真夜中だった。脈拍がわずかに乱れているのが分かったが再び眠りに就き、その日はブログを書くため「仙台七夕」を取材に行った。走れなくなったのはその翌日から。明らかな不整脈の発生だ。その引き金となった要因は、猛暑と熱帯夜が続いたことによる睡眠不足、2週間連続の早朝ラン、そして脈拍を抑える薬を医師の指示によって飲んでいなかったことだと思う。それに精神的なストレスもあった。 不整脈の発生に伴う症状は、1)動悸2)眩暈(めまい)3)胸の苦しさ4)胃のもたれ。私の場合それに緑内障に伴う視野欠損と老化による二重視が加わる。酷くなるとそのまま死んでしまうのではないかと思うほどだ。とても運動するどころではなく、ひたすら耐えて病院のお盆休みが終わるのを待った。この間、自分の判断で服用を中止していた脈拍を抑える薬を飲んでいた。 8月18日。通院しているM医院で健診。病院を訪ねたのは、薬が無くなったこともある。心電図を見たドクターがいきなり「K病院での手術」を口にした。だが、私は真剣に受け止めてなかった。手術はこれまで2度受けたが、その都度不整脈が再発した。昨年の9月にはあまりの体調の悪さに入院して、不整脈を止めるため心臓に電気ショックを与える処置を受けた。それでも2週間後には、不整脈がゾンビのように蘇ったのだ。 いつでもK病院へ行けるようMドクターは心電図のコピーをくれ、脈拍を抑える薬を1日3回服用することになった。ペースメーカーの装着について尋ねたが、私の症状には不必要の由。この時は運動のため、歩いて帰宅した。症状が悪化したのはそれからだ。おまけに自室でパソコンやテレビを見続けていたことで、肩と首がガチガチに凝って苦しい。一歩歩くごとにうめき声を上げる始末だった。 8月25日の早朝から、覚悟を決めてK病院に行く。担当医師は4月末に救急車で運ばれた際に対応してくれた人。胸部X線撮影の結果、肺に水腫は見つからなかった。不整脈が悪化すると、肺に水が溜まることがあるらしい。血液検査もまあまあの結果。心臓のエコー写真では、さほど心機能の衰えはない由。心電図はM医院の時と同じ波形が出て、再度「不整脈外来」を診察するよう言われ、予約してくれた。強い薬効のある不整脈抑制剤を1錠追加服用することになった。 それでも私は手術をためらっていた。高いお金をかけ、体に負担をかけて手術をしても、長い歴史のある私の不整脈が、またぶり返すのではないかと諦めていたからだ。そして発作から1カ月経った昨日、K病院の不整脈外来を訪ねた。その日が予約日だったのだ。 その日撮った心電図を見て、O医師の反応が少し変化した。恐らくは脈拍が前回より穏やかになっていたのだろう。それは体の楽さで、自分にも分かった。「薬の効果が出ているね」。薬はそのまま継続し、万全を期して12月に入院、手術する由。体調と相談して旅行をしても良いとのこと。実は最初の診察では散歩すら禁止令が出ていたのだ。再検査のため、45日後にK病院に来院すること。通常の治療はM医院で受け、M医師には手紙で診察結果を伝えることになった。 「先生、なぜ不整脈になると苦しくなるのですか。年に何度かそのまま死んでしまうのではないかと感じる時があるのですが」。「脈拍が乱れることで血液が全身にちゃんと届かないためですよ」。なるほど、やはりそうか。自分では多分「高山病」の症状と似ているのだろう。そんな風に考えていたが、当たらずと言えども遠からずだったのだろう。「今回の手術は気合いを入れてやりますよ」。O医師はそうも言っていた。さっぱりした気持で、私は病院を後にした。 病院で不整脈が見つかったのは「東日本大震災」の年だから、既に4年半が経つ。考えて見れば、それ以前からその兆候があった。レース中に体調の異変を感じたことも何度かあった。過酷なウルトラマラソンに挑戦してから20年。退職後はその参加費用を稼ぐため、9年間肉体労働のパートにも従事した。その「勤続疲労」と精神的な過度のストレスが、私の体を知らず知らずのうちに蝕んだのだと思う。 その間に、ラブラドルレトリバー種の愛犬マックスを失った。彼は私の最大の相棒で、ウルトラのレース中も彼の名を呼びながら走ったものだ。老化と病気で最大の趣味であったマラソンを失い、良き相棒のマックスまで失った私の目下の楽しみはブログ。老後の体調に不安を抱きつつも、何とかより良き文章として昇華させたいと願っている私だ。自らの健康状態をブログに曝すことの是非はあろうが、アハハと笑って読み飛ばしていただけたら嬉しい。
2015.09.08
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