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~尽きない思い出の島々~ 「ちむどんどん」のタイトル NHKの朝どら「ちむどんどん」が始まった。主な舞台が沖縄で、食べ物やご馳走にまつわる話のようだ。これは沖縄の本土復帰50年を記念しての番組。今から50年前と言えば1972年(昭和47年)で、私は3番目の職場である東京に勤務していた。そこの外郭団体に日本最西端の与那国島出身の2人の女性がいた。でも航空券が高くて、親戚の葬式に帰れないと彼女が嘆いていたのを覚えている。 話の舞台は沖縄本島の北部にある通称ヤンバルの山原村と言う設定になっている。多分西海岸のはず。東海岸は地形が険しくて不便なので。そして話は昭和39年(1964年)に東京から転校生がやって来ることから始まる。まだ本土復帰前だから国道もなく、米軍に合わせた右側通行。支払いはドル。村には共同売店が1軒あるだけ。その当時は那覇とどんな手段で往復したのだろう。当時長距離バスはないはず。 貧しい村では、皆が助け合って生きるしかない。腹を空かした子供らが食べるのは、島豆腐にサツマイモ。それが当たり前の暮らしだった。だが自然が豊かで人情も豊か。ちらっとシークワーサーの木が写った。柚子に似てるが完熟すると甘い。皮が薄くて簡単に剥ける。とても小さくて、ミカンの原型のような果物。私はシークワーサージュースが大好きで、島を走った時に家人から直接もらったこともある。 母親役の仲間由紀恵はウチナンチュ(沖縄人)で、ドラマでは那覇からこの村にやって来たとの設定になっている。恐らく戦災に遭いヤンバルに来たのだろう。「糸芭蕉」が籠に入っていたので、大宜味村(おおぎみそん)の喜如嘉(きじょか)集落をモデルにしたのかも。私はその集落内を走ったこともある。当然現地でのロケもしたろうが、ドラマのため精巧な沖縄の家屋をセットで造ったとも聞いた。 「ちゅらさん」の一場面 沖縄を舞台にした朝ドラの第1作目は「ちゅらさん」。沖縄の方言で「清らさ」が訛ったもの。美しいや清純の意味。ヒロインの「えみー」を演じたのが一般公募で選ばれた沖縄出身の国仲涼子。実に初々しくて可愛かった。放送は平成12年(2001年)で私は仙台の自宅から職場のある山形に長距離通勤していた。沖縄勤務の経験があったため、とても懐かしい場面ばかりだった。 「民宿」になった民家 家族は父がマチャアキでウチナーグチ(沖縄弁)が下手くそ。逆に上手だった母親役の田中好子はその後若くして死んだ。古波蔵(こはぐら)家は八重山の小浜島出身と言う設定だが、私は石垣島と西表島の中間にあるその島へも旅し、かつ走った。やがて那覇市首里に出て来て民宿を始めるとの話。オバー役の平良とみが懐かしい。えみーの純愛と小浜島での最後のシーンが忘れられない。 すっかり忘れていたが沖縄が舞台の朝ドラの第2弾が「愛と純」。主演の夏菜のことは良く覚えている。宮古島のホテルの娘で、修行のため大阪のホテルに勤務する話。意地悪なフロント係の女性役の黒木華よりもフロント主任役の吉田羊の印象が強烈。私が彼女の名を知った初めての作品だった。しかしあのドラマの中での宮古島の風景を思い出せない。 写真左は宮古島の最西端の「池間大橋」で、前方に見えるのが池間島。まだ橋がなかった大昔、引き潮の時は「竹馬」で行き来していた由。右は島の最東端の東平安名崎。私は100kmの「宮古島わいどーマラソン」でどちらも走った。島を一周するコースなのだ。また出張で宮古島に行った際も島の中を走ったので、むしろその時の風景が心に残っている。 沖縄には3年間勤務し、転勤後も良く沖縄へ行った。飛行機には往復で60回以上乗っただろう。機内からエメラルドグリーンの海が見え出すと、心がときめいたものだ。「ちむどんどん」=ドキドキしながら、今回の朝ドラを楽しみたいと思う。
2022.04.13
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~絵に描かれた琉球王朝時代の沖縄~ 最終回の今回は2冊の図録に掲載された琉球王朝時代の沖縄の姿を紹介します。<「琉球文化秘宝展」図録から> 1) 那覇港の図 6双の屏風仕立てになっています。 2-1) 琉球人登城図部分 その1 琉球王の使者が江戸城に登城する姿です。「正使美里王子」の名が見えます。美里は「間切」(領地の名前で、現在の沖縄市付近です)。 2-2) 同上の一部 正使「豊見城王子」の名が見えます。豊見城は現在の豊見城市の領主であることを示します。1-1)合わせて正使が2人いるのは、1人は慶賀使(新将軍の就位を祝う)ための使いであり、もう1人の謝恩使(琉球王の交代許可を感謝する)ための使いだったのでしょう。 2-3) 同上の一部 琉球人をことさら異国風に描くのは、幕府の力が遠く異国にまで及んでいることを観衆に示すためで、中には喇叭(ラッパ)を吹いている人もいます。武士の姿をしているのは、琉球を実質支配していた薩摩の島津藩のお付きの衆でしょう。 2-4) 同上の一部 「紫童子」(?として)2人の名前が見えます。右(前)の人物は小禄里之子(おろくさとぬし)と読めます。小禄は現在の那覇市の南部にあり、王朝時代には「間切」が置かれていました。左(後)の人物も同じ役職の里之子(下級武士)ですが、姓は不鮮明です。 3) 琉球王国冊封之図 中国(明、清)からは数年に一度、沖縄に使いがやって来ました。琉球王が中国の支配下にあることを追認する儀式です。この使いが来航する際は、琉球を実質支配していた島津藩の役人は那覇、首里から離れた農村に身を潜めていました。だから中国は琉球が日本と中国に両属していた「事実」を知らないままでした。琉球王朝は沖縄を広い土地だと思わせるため、わざわざ遠回りをして首里城へ案内したのです。途中の休憩場所が現在も残る「末吉宮」だったと聞きます。王朝は冊封使を盛大にもてなしました。 4) 婚礼図 かなり格式の高い婚礼の行列です。女性は駕籠に乗っています。高位の貴族の夫人なのでしょう。 5) 物売りの図 左側の女性は薪(たきぎ)を売り、右側の女性は豚肉を売っているようです。 6) 風俗図 左側の女性は漁村である糸満の魚売りです。漁師である夫から仕入れた魚を売った収入は自分のものとなります。昔から糸満女性は自立していたのです。右側は「焼酎持」と読めます。 7) 市場で物売りをする女性の図 以下は「沖縄の城ものがたり」から借用したペリー来航時の絵です。 幕末にアメリカのペリー提督が浦賀に来航しました。その前に彼は当時の琉球王国を訪れ、あわよくば奪おうと考えていたのです。絵は提督が連れて来た絵師が描いたものです。以下は当時の琉球王国の風景です。 樹下で休む士族(さむれー) 冠(はちまき)を被った高官の貴族 那覇港周辺から首里城方面を眺めた風景でしょうか。 高貴な士族の肖像 どちらも首里城内かその周辺と思われます。 これで本編「沖縄の話をしよう」(全16回)とその追補版「おきなわ補遺編」(全6回)を終了します。まだまだ沖縄について書きたいことや紹介したいことがあるのですが、ここまでとします。長期間にわたるご愛読を心から感謝し御礼申し上げます。ではでは。 亭主敬白
2021.12.30
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~焼物のことなど~ 「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録をもとに紹介しています。ただし、読者の理解を助けるために、適宜<参考資料>挿入しています。 1)緑釉花瓶(壺屋焼) 2) 白地緑釉差しカラカラ(壺屋焼) カラカラとは泡盛用の「お銚子」ですが、温めません。 3) 緑飴釉筒描抱瓶(だちびん) 壺屋焼 だちびんとはかつて沖縄の農民が腰に下げていた水筒です。そのため腰に密着するよう、内側が湾曲しています。また、腰にぶら下げられるよう、麻縄で括り付けるための突起があります。 4) 素焼張付文御殿型逗子甕 (壺屋焼) 御殿は「うどん」と発音します。逗子甕は「じゅしがみー」と発音し、風葬しかつ洗骨を終えた遺骨を収容するものです。絵柄は粘土を張り付けてありますが、「六地蔵」だと思われます。仏教の影響が感じられるので、遺骨は火葬されたのかも知れません。<参考資料> 那覇市の「国際通り」と「ひめゆり通り」の間に「壺屋やちむん通り」があります。やちむんは「焼物」の現地語です。かつてはこの場所の窯で実際に焼いていました。私が沖縄に赴任した平成初期のころもまだ焼いていました。その後は材料となる粘土の入手や作業スペースの確保、大型の窯の必要性などから、集団で読谷村(よみたんそん)に移転したと聞いています。 これは沖縄陶芸界で唯一人間国宝に指定された金城次郎氏(1912ー2004年)の作品「線彫魚紋大皿」(1967年制作)です。金城氏が魚紋を使い始めたことで、魚のモチーフはその後壺屋焼の特徴にもなりました。 比較的最近の「やちむん通り」の様子です。観光客などを相手に焼物を売っていますが、ここはお店だけで、読谷村の窯場から作品を運んで来ているのでしょう。私が知ってる頃とは雰囲気がすっかり変わり、道路が広くて立派になっています。 5) 潤漆樹下人物七宝繋箔絵丸櫃 中国風の人物が描かれた漆器製の丸櫃(まるびつ)。おひつは本来炊いたご飯を入れる容器の名前ですが、装飾や大きさからみると、「物入れ」のように思えます。 6) 朱漆定紋入冠入れ 沖縄には元々家紋はありません。琉球王朝時代に日本との交流から真似て新たに作ったのです。因みに琉球第二王朝の王である尚(しょう)家の家紋は「左三つ巴」です。 <参考> 琉球王朝時代、高位の人物は冠を被るのが習わしでした。せいしきには「はちまき」と言いますが、日本の鉢巻きと異なり帽子のような形をしています。ターバンからの変形との説があります。王族、貴族、士族の身分ごとに「はちまき」の色と模様が定められていました。それだけ大切な物であるため、「専用の容器」が必要だったのでしょう。 7) 進貢船(模型=民芸品) しんこうせんは琉球王国から中国(明、清)へ進貢(貿易の形を取った従属)や外国(日本、朝鮮、東南アジア諸国)との貿易に用いられました。当時の琉球では外洋航海用の大型船は建造出来ず、中国が建造して与え、中国人通訳までも付けました。船の舳先の「眼」は魔除けで、現在も沖縄県の「県章」(右上)になっています。 8) ハーリー(模型=民芸品) ハーリーは中国から伝わった習俗で、把竜船(はりゅうせん)が沖縄でハーリーと変化したもの。毎年初夏にこのボートを集団で漕ぐ競漕が祭りとして定着しています。因みに「鎖国当時」に中国の窓口だった長崎の「ペーロン」も全く同様で、長崎の方が中国の発音に近いと思われます。 9) 旗頭 (模型=民芸品) 「はたがしら」は言ってみれば町内会の「目印」みたいなもので。実物はかなりの大きさがあります。例えば那覇市の伝統行事である「大綱引き」の際には、この旗頭が登場します。昔は地区ごとに分かれて綱を引き合ったのでしょうが、交通の障害となるため今では「東西」の2つに分かれ、観光客も入って「子綱」を引き合う勇壮なお祭りです。那覇のほか、与那原町にも大綱引きが残っています。 10) ハーチブラー 民芸品のお面のようですが、残念ながら説明はありません。 11) チリクブサー これも民芸品のようですが説明がありません。形から見て内地の「起き上がりこぼし(小法師)のようなものかと推察しています。倒してもまた元に戻る玩具です。クブサーが「小法師」に相当します。音も良く似てるので、日本のものが伝わったのでしょう。なんだかとても愉快です。 12) わら算 かつて八重山地方で文字が読めない人のために工夫された納税の表示法です。編んだわらの形やわらの数で、どんな物をどれくらい納めるよう指示したものです。そういえば「インカ」にも似たような「キープ」と言う表示法があったはずです。 ほらね。良く似てるでしょ。時代や場所は違っても、人間が考えることは一緒なんですねえ。なんだかとっても不思議です。ただし、こちらはわらじゃなくて何かの繊維のようですが。
2021.12.28
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~沖縄の染織~ 那覇市市制70周年記念企画「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(平成3年開催)の図録から写真を借用しました。 13) 白地霞に松山枝垂桜雁文様衣装 <紅型(びんがた)日本民芸館所蔵:以下同じ> 14) 白地牡丹桐鳳凰文様衣装 15) 灰色地霰文に梅花散らし文様衣装の柄 16) 白地菊桐雪輪文様衣装 <参考> これは紅型(びんがた)の型紙です。相当細かい柄ですが、型紙の「隙間」から様々な原料から得た顔料で色を塗ります。大変な手間がかかるため高級品です。沖縄県立芸術大学には、染織の専門コースもあります。 17) 紺地牡丹文様風呂敷 紺で染めたもの 18) 浅地鶴に渦波桜散らし文様 個人蔵 沖縄の歌「芭蕉布」の一節に「浅地紺地(あさぢくんじ)のわした島うちなー」の歌詞があります。紺地は17、26)が相当します。 26) 紺地ティジマ衣装 これも「紺地」なんですねえ。 31) 芭蕉格子絣衣装(上)とその細部(下) 有名な「芭蕉布」がこれです。 <参考> 芭蕉布の原料となる糸芭蕉の栽培から糸作りまで a 芭蕉布の原料となる糸芭蕉です。台風に負けないよう密集して植えます。かつては沖縄本島のいたるところで栽培され、芭蕉布は庶民の着物の素材でした。でも芭蕉布を作るには相当手間がかかるため、現在は沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が最大の生産地です。私も沖縄本島単独一周ランで走った時に、その集落を通りました。とても静かで清潔な集落でしたよ。 b)成長した糸芭蕉の幹を切り、茎の中から繊維を取り出します。 c) 取り出した繊維を乾燥させる作業です。 d) 糸芭蕉の繊維はとても弱いので、慎重に取り扱います。 e) 乾燥した糸をより合わせる作業です。1本では弱いため何本かの糸をより合わせます。さらにその糸を使って織る作業があります。このように手間がかかり、しかも織り手の高齢化が進んだため、芭蕉布は高級品になりました。軽くて涼しい芭蕉布は沖縄人にとっては普段着でしたが、今では人間国宝が何とか伝統を守っていると聞きます。
2021.12.26
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~「琉球文化秘宝展」から その2~ 今回は那覇市制70周年記念企画(平成3年=1989年)として沖縄三越で開催された同展の図録から、沖縄の至宝をいくつか紹介します。 1) 朱漆鳳凰雲点斜格子沈金碗<愛知県 徳川美術館所蔵品> 以下の美術品は琉球王朝から江戸幕府に献上された品が、将軍から尾張徳川家に下賜され現在徳川美術館に所蔵されているのを今回借用して特別に展示した。 2) 朱漆花鳥七宝繋密陀絵沈金足付盆 <徳川美術館所蔵品> 3) 朱漆草花箔絵丸盆 <徳川美術館所蔵品> (4,5) 黒漆鹿山水玉石嵌堆錦螺鈿硯屏・裏表 (徳川美術館所蔵品) 6) 黒漆梅七宝繋箔絵沈金三尺丸膳 (徳川美術館所蔵品) 7) 漆塗鶯梅箔絵三足丸膳 (徳川美術館所蔵品) 8) 朱漆山水楼閣人物密陀絵箔絵台子 <宮内庁所蔵> 琉球王朝から徳川幕府に献上されて江戸城にあった品が、そのまま皇室所蔵となったのだろう。 9) 10) 11) 9)10)と共に 白密陀山水楼閣人物漆絵箔絵紙料箱・硯箱一式 <宮内庁所蔵> 多分沖縄では漆は産しないはずです。それに極端に乾燥を嫌う性質があるので、素材の取り扱いには相当の注意を必要としたことでしょう。中国でも漆は産しますが、日本の漆とは性質が異なると聞いたことがあります。このため漆の原料は日本からもたらされたと思われます。それにしても琉球王朝の漆工芸のなんと見事なことでしょう。琉球漆器は現在も沖縄の重要な工芸品です。なお、陶器を英語で「china」と呼びますが、漆の英語名は「japan」です。 図録の文字が小さいのと、画像と名称のページが離れてるため、照合に苦労しました。<続く>
2021.12.23
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~手持ちの資料から~ 今日は手持ちの資料から幾つかの画像を載せたいと思う。最初は平成3年(1991年)10月に沖縄三越で開催された「明治の沖縄~鳥居龍蔵博士撮影写真展~」のパンフレット(上)から借用した。当時私は沖縄に赴任した3年目で、高校3年の長男と2人で頑張っていた時期。パンフレットによれば展示された写真は66点だが、そのうちパンフレットに載っているのは4点のみだ。 鳥居龍蔵博士(1870-1953)は東京帝国大学で人類学を学び、アジア各地で調査する傍ら東京帝大などで教鞭を執った。この展示は博士が明治29(1896年)と明治37(1904年)の2度に亘って沖縄を調査した際に撮影されたもの。その時の収集品は後に国立民族学博物館に移管された。 不思議な縁だが私は沖縄赴任の直前に勤務した徳島県鳴門市で「鳥居龍蔵記念館」(博物館)を訪れたことがあり、同氏が日本の人類学や考古学の先達であることを知っていた。また収集品が移管された国立民族学博物館(大阪府)にもこの数年後に勤務することとなり、その縁で沖縄へも何度か訪れたことがある。素人の私がたまたま日本の古代史や考古学や文化人類学(民族学)に強い関心を持っていたのも何かの縁だと思い感謝している。 タイトルには「琉装の老人」とあるが、風貌からするとかつての士族(さむれー)と思われる。「琉球処分」で「沖縄県」となった後も、沖縄に対しては内地より緩い税制が適用された。それは「禄」を失ったかつての貴族や士族の不満を和らげるため。だが食えなくなった多くの士族たちは首里から地方へ移り住み、慣れない農業などで食い延びたと聞く。この老人たちには一種の威厳がまだ残っている。 タイトルには「市場(マチ)の女性たち(首里近辺)」とある。市場のことを現地の言葉でマチグァーと言う。グァーは接尾語で東北弁の「こ」に相当するイタコ(死者の霊を呼ぶ女性)の「コ」や嫁っこの「こ」と同義。因みにイタコに相当する琉球語は「ゆたぐぁー」。このうち「ぐぁー」が東北弁の「こ」に当たる。意味も言葉の響きも同一だと私は直感し、琉球語は古代の日本語からの転化と判断した。イタコは青森の恐山で健在だし、ゆたぐぁ―も現代沖縄でまだ生き続けている。 さて首里はかつての王都で人口も多く、明治後期も賑わって商売が成立したのだろう。首里近辺にも農村があり、新鮮な野菜が届けられた。また鮮魚のことを現地語で「イマユー」と言う。イマは「今」で獲れたての意味。ユーは魚(うお)の変化。日本語の古語でも「イユ」や「イオ」と言ったようだ。写真には首里崎山町周辺の雰囲気が残っているように感じる。 タイトルには「路上の女三代」とある。祖母は草履を履いているが、母と子は裸足のままで足は黒い。母親の懐には赤子がいる。着衣は琉球絣(かすり)のようで、貧しくなく、道路は広くて清潔だ。英国人女性イザベラ・バードは当時の日本、朝鮮、中国(清)を何度か旅しているが、朝鮮の不潔さには音を上げている。大便を道路に放り、それを犬が食べていた。その不潔な習俗は日本が併合するまで続いた。 2つ目の資料は「歴史をひらく琉球文化秘宝展」(那覇市、琉球放送、沖縄三越主催)で、サブタイトルは「那覇市制70周年記念企画」となっており、冒頭の「写真展」と同時に沖縄三越で開催された。これはその際に購入した図録の表紙で、同展では各種の文化財157点が展示されている。このシリーズではそのうちの一部を紹介することとしたい。 朱漆花鳥七宝繁陀絵沈金御供飯一式。愛知の徳川美術館所蔵物を借用しての特別展示。琉球王朝時代、王国からの使者が十数回江戸城へ登城した。新将軍が就任したさいの慶賀使や琉球王が交代した際の謝恩使だが、その際の献上品の一部が将軍家から尾張藩主に下賜されたものが「徳川美術館」に保存されている。見事な琉球漆器で、地上戦があった沖縄にはこれほどのものは残っていないのだろう。 今回はこの一品だけの紹介に止めたい。それにしても30年前に購入した図録を大事に保管し、こうして活用出来たことに感謝し、不思議な出会を喜びたい。
2021.12.20
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~詩画集から借りた版画~ 自分が持っている本から版画を借りようと思う。本の名は「詩画集 日本が見える」。東京の書店から1983年に出版されている。今から38年も前だ。その頃私は筑波にいて、沖縄とは出会っていない。筑波から5番目の職場に転勤し、沖縄に赴任したのはその後。本は沖縄勤務時に職場で現物を見、書店に発注したもの。今回書架から取り出したのは、私が沖縄で書いた詩と組み合わるためだった。 オキナワを返せ ところが絵が激し過ぎて私の詩とは雰囲気が合わない。詩人も画家も共に沖縄人(うちなんちゅ)で、沖縄は日本に復帰してまだ日が浅いころ。彼らには日本人(やまとんちゅ)に対する恨みつらみが大きかったはずだ。島津藩による琉球王国への侵攻、琉球処分による沖縄県としての従属、激しかった沖縄戦と戦後のアメリカ軍政府の発足、その後の民政府の誕生と日本への復帰。 昔の物売り 貧しかった沖縄は明治以降、大勢の人が内地や外国に移民した。内地では差別に苦しみ、外国では慣れない環境と風習に苦労したことだろう。だからウチナンチュの熱い思いがこの詩画集にも満ち溢れてる。詩人の名は新川明、そして画家(版画家)の名前は儀間比呂志。本にはページも振られておらず、版画のタイトルも一致しない。そのため、詩は載せずに絵(版画)のみ。それで作者がこの本を通じて訴えたかった沖縄の精神を感じてもらえたら嬉しい。今回版画を借用したことに感謝したい。なお絵のタイトルは読者の理解のために私が適当につけたものであることをお断りします。 三線を弾く男 沖縄では三線(さんしん)を弾きながら歌います。民謡はウチナンチュの命であり、最大の慰めです。 かつては頭に載せたザルに物を入れて、ヤマモモの実や魚などを売っていました。 紅型(びんがた)の衣装を着た女性が琉球舞踊を踊っています。周囲を取り囲んでいるのは、恐らく猛毒のヘビのハブだと思われます。 神行事をする久高島のノロ(祝女)のようです。最大の神行事であるイザイホウは無くなりましたが、その他の神行事はきっと今でも続いていることでしょう。 踊っているのか、それとも跪(ひざまづ)いて祈っているのか。 これは何だか良く分かりません。多分島に自生する植物を図案化したものと思われます。 これも神行事をするノロみたいです。 踊り手が手に持っているのは華やかな色の「花笠」です。右上に見える「龍柱」(りゅうちゅう)は、進貢した中国から贈られて首里城正殿の正面入り口を飾っていました。 琉球王朝時代は税の取り立てが厳しく、百姓は働きづめでした。飢饉の時はソテツの実まで食べ、その毒で死んだ人も多かったようです。食べるためには粉にして熱を加え、無毒化する必要があったのです。農民が飢えなくなったのは、中国からサツマイモが伝わって以降です。サトウキビも中国から伝わり、良い換金作物になりました。島津藩は利益を上げるためにサトウキビ生産を奨励し、百姓が飢える原因にもなりました。 浜で魚を仕分けする女性。右奥に見える小舟がサバニと呼ばれる小型の漁船で、男たちは集団で漁労に励みました。かつて糸満(いとまん=漁村)では女が魚を買い、自分で売り歩いて得た収入を自分のものにしていたそうです。糸満の女性が自分の財布を持っていたことは、沖縄では有名な話です。 力強い表情の女性。背後には赤瓦屋根の家が見えます。那覇か首里近辺の女性でしょうか。 幼子を抱く女性。後ろに見える植物がソテツで、琉球語では「クバ」と言います。クバが訛ると「フボー」と変化します。琉球語には日本の古語が色濃く残り、「pa」や「fa」で始まる言葉もあります。N音とM音の入れ替わりもあり、新原(にーばる)が「みーばる」に変わります。また5母音が3母音に変化し、今もその影響が残っています。オがウに、エがイに置き換わるのが特徴です。 棒術で戦ってる様子でしょうか。琉球王朝が成立すると、民衆は刀狩りで武器を奪われます。そのため棒など手ごろに入手出来るものが武器に代わりました。また空手の原型である武闘も沖縄で発祥し、今でもたくさんの流派があります。沖縄では「手」(てぃー)と呼ばれています。文字通り手だけが武器と言う訳です。 良く分かりませんが大きな龍を棒で持ち上げているようです。ひょっとして中国から伝わった「龍踊り」(じゃおどり)でしょうか。長崎などでは今でも祭りで見られます。 人物の手前には「ばら線」が見えます。基地返還運動を表現したのでしょうか。「沖縄は奪われっ放し」それがウチナンチュの偽らざる心情なのでしょう。でも決してそうではないのです。海洋民族である縄文人、奄美や琉球人は昔から丸木舟で往来し、言葉も文化もイネを始めとする穀物も島伝いに伝わりました。現代人はそれを忘れただけの話。私は心からそう信じています。
2021.12.18
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~ふしぎの国・沖縄~ 水曜日の朝のこと、朝食を済ませた後いつの間にか座椅子にもたれかかったまま眠ってしまったようだ。目が覚めるとTレビに映っていたのは、このシリーズを書くきっかけになったNHKの番組の再放送。新聞で確認すると2時間近い壮大なものだった。そして以前も載せたこの女性が座喜味さんと言う名で、お母さんは大正生まれと判明。それにしては若々しい。琉球舞踊で体を動かしているせいだろう。 ノロクモイ図 座喜味さんはエキストラだったが、こちらは琉球王国時代の本物の祝女(のろ)。以前も書いたように「のろ」は祝詞(のりと)や呪(のろ)うのような日本の古語と同一の起源を持つ言葉で、神に仕える女性。琉球王朝時代は聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする巫女の組織があり、祝女は国家の安寧を祈る重要な位置づけだった。「クモイ」は尊称で、雲居(くもい=雲の上)が語源か。 のろは白装束に大きな数珠のような装飾品を首にかけている。おそらくその先端には「勾玉」があるはずだ。足は素足で両手の指には「はじち」と呼ばれる刺青を施している。魔物から身を守るためだろう。このように琉球では祭政が分離して、まるで古代の「卑弥呼」を見る思いがする。 1)風葬墓 気温と湿度が高く、石灰岩の洞窟が多い沖縄では風葬募は最も理にかなった葬制だったのだと思う。それが割と近年まで続いた。風葬墓は集落の地縁血縁上大切な聖地で、集落以外の者の立ち入りを赦さなかった。上の写真では多数の頭蓋骨と共に壺が幾つか見える。遺体が完全に腐敗すると、数年後に「洗骨」して壺に納めた。洗骨は昔から女性の仕事とされて来た。 2)亀甲墓 亀甲墓は琉球王朝が中国の冊封体制に入って以降、福建省の墓制を真似たもの。その特殊な形から「亀甲墓」と呼ばれるが、これは母の胎内を表し、人は死後に母の胎内に還るためとの説がある。これも風葬の一種で、墓室はかなり広く親戚(門中)が共同で使用した。清明の頃(24節季の一つで4月上旬)は親戚全員が墓前に集まり、先祖を供養した。これを沖縄では「うしーみー」と言う。清明の変化。 墓室内の手前には「しるひらし-=汁減らし)と呼ばれる遺体置き場があり、腐敗が進んだ頃に扉を開けて洗骨した。死後33年以上経った遺骨はその奥にある「池」と呼ばれる部分に積み上げられ、「先祖」となる。門中の男子は「名乗り頭」に同じ漢字を用いるのが慣習だが、それが残るのは貴族や武士(さむれー)の子孫で、現在も守られる一方で新しい名前を自由につけることも増えた。 3)門中墓 これは巨大な倉庫型の門中墓(親戚の共同墓)で、特に有名な例が糸満市にある。また親戚の通称に「向姓」とか、「馬姓」とか「毛姓」と言う呼び方がある。王朝時代中国との貿易(冊封)に関わった上級士族は沖縄式の名の他に中国式の名を持った。それが例として挙げたもの。沖縄では血族意識が高く、逆に地方や離島では地縁を重んじる。血族結婚の機会が増えれば、遺伝学上の影響が生じやすい。 4)破風墓 現在も風葬の習慣が残るのは、小さな離島だけになった。理由は火葬場がないためだ。現在の沖縄は土地が限られているため、かつてのような大きな墓を造ることは不可能になった。それでも先祖を大切にする沖縄では、近年現代風の「破風墓」が目立つようになった。この大きさでは親戚の遺骨を全て納めることは出来ないが、家の形をした破風墓も結構場所を取り、施工費も高額のはずだ。 5)厨子甕 これは厨子甕(ずしがめ)と呼ばれる遺骨を納める石製の容器。彩色が施されているので、身分の高い人(家)のものだろう。もちろん、このまま屋外に置かれるのではなく、亀甲墓や門中墓に安置されていたのだろう。沖縄勤務の3年間で私はたくさんの墓を訪ね、墓を見ながらランニングした。沖縄の墓は元々住まいの近くに作られ、葬られた後も先祖たちは子孫の繁栄を見守って来たのだ。 与那国島海中遺跡 さて「お口直し」に珍しい写真を載せたいと思う。これは日本最西端の島である与那国島の南側の海中にある「遺跡」。地元のダイバーが発見し、琉球大学理学部の木村政昭教授(当時)らが、調査した結果遺跡と判明したもの。階段や溝、道路や門を建てるため開けた穴、亀の形の石などがあり、自然の造形ではないとの結論に至った。それは壮大かつ見事で、私は何度か映像で見たことがある。 遺跡図 これは海中遺跡の図。船上から海底に向けてレーザー照射して得た映像を図化する工程も見たことがあった。さてなぜ海中にこのような物があるかだが、南西諸島は古来沈降と隆起を繰り返して来た。なおこの「海中遺跡」に続く陸の遺跡の存在もその後の調査で分かっている。その場所が高かったため海に沈まなかったのだろう。このように沖縄は不思議に満ち溢れた島だ。 何年か前、台湾から与那国島まで日本人が舟で渡る実験をした。初回の「草舟」は浸水して失敗。2回目の「竹の筏(いかだ)」は黒潮に流されて失敗。3回目の丸木舟は縄文時代の石器で台湾の木を切り倒し、中を刳り抜き男女5人で漕ぎ、黒潮に流されて時間を要したものの、無事与那国島に到着した。確か国立科学博物館の実験だったはず。私は台湾の東海岸を旅し、現地の原住民の踊りを観たこともある。今となってはとても良い思い出だ。 大陸と南西諸島が地続きだった時があった。その時は人も動物も歩いてやって来た。イリオモテヤマネコもアマミノクロウサギもそうだ。だが沈降と隆起を何度も繰り返した時、島が離れて人は丸木舟でしか渡れなくなった。標高が200m以下の島は海に沈み、ハブが死んだ。また巨大な海底火山の爆発で、数千年間も人が往来出来なかった時期もある。 人は南や西から沖縄へやって来ただけでなく、北からもやって来た。その代表が縄文人だ。彼らは南の島々に縄文土器や北方の神話を伝えた。南の島々からは装身具の材料となる貝が日本列島(北海道まで)へ伝えられた。こんな貧弱な丸木舟でよくも遠方まで出かけたものだ。私は男鹿半島の「なまはげ館」で、今なお使われている丸木舟を見たことがある。人とは凄いものだ。縄文土器が南米まで伝えられたとの説もあるが、真偽のほどは定かではない。 さて、私がこのシリーズのために用意した材料はここまで。次回以降をどうするかは未定だが、読者が退屈でなければ、もうちょっと続ける手もあるがさてどうするか。ともあれご来訪と愛読を感謝したい。
2021.12.16
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~琉球王朝の栄光と苦悩~ 第2琉球王朝の王都首里城を描いた絵図である。今も残る「守礼門」(琉球王国は礼儀を守る礼節の邦と中国の皇帝から称賛されたことから「守礼之邦」の扁額を掲げた門)の他、「中山門」(琉球を統一した王朝(中山)であることを示すなど幾つかの門が見える。首里城は全部で10ほどの門がある壮大かつ華美な城で、小高い山(首里森)の頂上にあるため、遠くからでも良く目立った。 韓国青瓦台 なお、城(グスク)、墓、集落など重要なものの位置は、風水思想に基づいて定めた。沖縄では風水を(ふんし)と呼んでいる。京都の都が東山、北山、西山と三方を山に囲まれていること。ソウルの大統領官邸青瓦台が山を背後にしていることも風水思想から来ている。なお古い時代の浦添城や首里城の地下からは、朝鮮式や日本式の屋根瓦が出土し、古くから琉球と人的、文化的交流があったことが分かる。 琉球王朝は中国の明や清王朝に進貢していた。それにより中国皇帝の支配下にある「琉球王」として認められた。これが「冊封」(さくほう)体制と呼ばれ、数年に一度「冊封使」が派遣された。上は冊封使の行列。琉球では狭い島国であることを悟られないよう、那覇港に着いた使節を輿に載せ、わざわざ遠回りして首里城に案内し、さらに海が見えない別荘「識名園」で一行をもてなした。 組踊 冊封使をもてなすため踊奉行の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が考案したのが「組踊」(くみおどり)で、日本の歌舞伎と琉球舞踊を組み合わせたもの。組踊や琉球舞踊を中心とした沖縄の芸能を上演する施設「国立劇場おきなわ」が浦添市にある。なお名乗頭の「朝」は上流士族の男性のみが許され、日本の「朝臣」の名残との説もある。初代琉球民政府長官の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)も一例。 王冠 さて、琉球王の王冠(左上)はかなり中国風と言え、金や銀、さまざまな宝石、サンゴ、ガラス玉などで飾られている。大きめの簪(かんざし)は琉球髷(まげ)に王冠を留めるためのもの。これに対し、王族や上流士族は城内では「はちまき」(右上)と称する冠を被るのがルールだった。日本の「鉢巻き」とは異なり、いわば「ターバン」の変形と言えるもの。無論階級によって色が異なっていた。 琉球王朝が最盛期のころは貿易船(左上)に乗って、様々な国と交易した。北は日本の博多や堺、中国、フィリピン(当時はルソン)、ベトナム(当時は安南?)、タイ、インドネシアとかなり広範だった。中国とは進貢と言う形での貿易であり、当時の琉球の明、清への進貢品は火薬の原料である硫黄(中国には火山がないため採れない)だった。ただし琉球では外洋を航海する大型船を造る技術がなく、中国が船と通訳を貸し与えた。それが臣下に対する大国の応対だった。 螺鈿細工 琉球の船は福建省の福州港に入るのが規則。他の国も入港先が決まっていた。当時はバーター貿易(物々交換)で、貿易先で仕入れた物品を、他国に持参し別のものと交換した。「わらしべ長者」だが、それでもかなりの利潤を得た。琉球から日本へは螺鈿や中国や東南アジアの陶磁器などが送られ、日本からは蒔絵や太刀を得た。螺鈿(らでん)細工の原料は夜光貝(ヤコウガイ)で、琉球王朝ではその品質管理のために「貝擦(かいすり)奉行」を置いたほどだ。 その琉球王朝の富に目をつけたのが島津藩。徳川幕府に「琉球征伐」を申し出て認可された。島津藩の言い分は次の理由。1)秀吉が命じた朝鮮の役に琉球は参加せず、その分の経費を島津藩が請け負ったが、琉球はその半額しか返済しなかった。2)琉球の船が仙台付近と長崎付近に漂着した際、島津藩が琉球まで送り届けたが、その謝礼をしなかったというもの。まあ「言いがかり」みたいなものだ。 1609年島津藩の軍船300艘が沖縄本島北部の運天港に入り、今帰仁城を攻略陥落させたのを皮切りに、陸路と海路でわずか3日間で首里城を落とした由。島津が最新式の火縄銃を大量に保有していたのに対し、琉球王国ではその100年以上も前に「刀狩り」して武器がなく、残った武器も錆ていたと言う。これ以来琉球は島津藩と中国(明、清)に両属する形になった。 無論中国はそのことを知らない。冊封使が琉球に来る際、島津の武士は首里を去って農村部に身を隠していたからだ。そして江戸幕府の将軍の代替わりには慶賀使を、また新琉球王の即位時には謝恩使をことさら異国風に飾り立てて江戸城に登城させた。これがいわゆる「江戸上り」(えどぬぶい)で琉球王朝には大きな負担となった。 島津家家紋 一方島津は琉球王朝が貿易で得た富を奪い、国内で高く売れるサトウキビ生産を琉球に強制した。それで十分「元」は取ったはずだ。また島津藩には「密貿易」の噂が付き物だ。その根拠地や中継基地となったのが、坊津であり東シナ海に浮かぶ甑島(こしきじま)。九州南部には倭寇の基地が多く、かなり古い時代から活動が盛んだったのだろう。それもまた海洋民族である日本と沖縄との宿命なのかも知れない。 倭寇の図(1) 倭寇の歴史も前期と後期とでは様相が異なるようだ。初めは室町幕府の許可を得た正式の貿易船だった。安土桃山時代も堺の貿易船は遠く東南アジアまで航海して巨大な富を得た。呂宋(るそん)助左衛門などはその典型だ。江戸時代の初期はオランダなどの要望を受けて、武士を傭兵として東南アジアへ派遣した。シャム(タイ)へ渡った山田長政などはその代表だろう。 倭寇の図(2) ただし徳川幕府によって外国との貿易が長崎、平戸の両港に制限されると、倭寇として密貿易に変わる。また、倭寇と言えば日本人が主体と思われがちだが、朝鮮や中国の沿岸部の貧困な農民や海洋民が貿易船を襲うこともあったようだ。中国は貿易船をインドやアラビア半島に派遣した時代があった。現在世界各国に存在する華僑はその子孫なのだろう。それが素人である私の認識だ。 中国の皇帝に仕えたイスラム教徒鄭和による7次に亘る航海図。先に述べた「冊封体制」と共に、中国の南シナ海における権益と琉球は中国領の主張の根拠だろうが、それは国際法がない時代の話で、到底肯定出来るものではない。かつての「海のシルクロード」の存在が「一帯一路」の夢を抱かせたのは確か。唐王朝以来、中国の領土拡大野望は続いている。なお「中国」の呼称は近代の辛亥革命以降で、それ以前は各王朝の呼称しかなかった。強いて全土を指すなら「支那」か。理由は秦や清の欧米名チャイナの変化だから。
2021.12.14
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~「貝の道」そして「謎の文字」~ 紅型の袷(びんがたのあわせ) 何日か前、自分が持っている沖縄関係の本と、古代史関係の本を改めて調べてみた。すると気になる資料がたくさん見つかった。結局収集はしたもののまだ読んでなかったのだ。いわゆる「積ん読」(つんどく)。買っただけで満足し、その後手にしてなかったのだ。その中から数冊選んで手元に置き、そのうちの1冊を読んだらとても面白かった。 また沖縄の地図帳には、沖縄勤務当時にコピーした資料や新聞の切り抜きが挟まっていた。当時訪ねた離島の聖なる場所に関するもの。改めて読むと、興味深い事実が分かった。本は出版された時点での最新の情報だが、現在の最前線の研究成果はyoutubeで確認出来る。このまま自堕落に過ごしていてはいけない。まだ認識出来るうちに、少しでも本を読もう。そんな風に思った。さて、今回は図録の中から気になった写真を幾つか載せようと思う。年代順でもテーマ別でもなことを先ず断って置きたい。 左は葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一部。勿論北斎が沖縄へ来て描いたわけではない。右は琉球王朝時代に描かれた那覇港。たくさんの船に混じってひと際目立つ船が中央に見える。黒と赤の船で、舳先に「目」のようなマークがある。これが現在も沖縄県のシンボルマークになっている。これは当時の貿易船で、日本、朝鮮、中国(明、清)、東南アジアにまで出かけた。 北斎が描いたのは那覇港で、右の図の上方に見える部分を参考にしたのだろう。都城のある首里は小高い丘の上にあり、港のある那覇はその外港。当時は小島の多い磯で、小島と小島を橋で繋いで港にし、その後徐々に干拓地を広げた。北斎の描いた船や家は和風で、実際の沖縄の風景ではない。ただ、小島と小島を繋いだ長矼(ちょうこう=堤)は当時の那覇らしさを感じさせる。 これは飛鳥時代の日本と近隣諸国。朝鮮半島では百済と高句麗が滅び、新羅が統一した。九州の南にある多禰(たねは現在の種子島)、西隣の島は現在の屋久島、その南方の阿麻弥(あまみは現在の奄美)で、さらに阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=沖縄の久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が古い文献に残っている。わざわざの朝貢ではなく、難破したための挨拶ではなかったか。 これは北海道伊達市の有珠10遺跡出土の装飾品。貝そのものや貝で作った製品が多いが、大半は南方産のものと思われる。北海道では縄文時代の後「続縄文時代」が長く続き、沖縄では縄文時代の後「貝塚時代」が長かった。それにしても沖縄から北海道まで渡った南方産の貝。丸木舟でリレー式に日本列島の各地に届ける「貝の道」があったと考えられている。 これは韓国慶尚南道出土の貝製腕輪。貝の名はスイジガイ。漢字では「水字貝」と書く。角が出た特徴ある貝は韓国では産しない。それを切って腕輪に仕上げたのは貝の形に呪術性を感じたからだろう。5~6世紀の遺物で、日本の南島産の貝が対馬半島を渡ったものと思われる。 沖縄県具志川市地荒原貝塚出土品で、紀元前2千年~400年。左はイモガイ製の腕輪で、右は貝製の釣り針、鏃(やじり)と穴を開けた装飾品。同じ貝が北海道伊達市の有珠10遺跡出土品にも見える。韓国から出たスイジガイ製の腕輪も具志川市出土のイモガイ製腕輪も、日本の古墳時代には形を真似た青銅製のものに代わる。なお腕輪のことを考古学では「釧」(くしろ)と呼んでいる。 鹿児島県種子島広田遺跡出土の貝符(かいふ)で、紀元前1世紀~紀元2世紀。白くて立派な貝を加工して模様を刻み、穴を開けて紐を通し装身具にしたのだろう。この貝も種子島よりずっと南方産と思われ、同遺跡が貝符の製造地なのか、中継地なのか、それとも使用地なのかは不明だ。 鹿児島県奄美諸島の沖永良部島神野貝塚出土の深鉢で、紀元前3千年~2千年の縄文後期前半のもの。これと同様の土器が沖縄本島中部の遺跡からも出土している。縄文土器が宮古島からも出土してることからも、南方の島々と日本列島との間に人的、文化的な交流が古くからあったことが分かる。まだ丸木舟しかなかった時代、縄文人は果たしてどんな気持ちで大洋に漕ぎ出したのだろう。 最後に謎めいたものを紹介したい。これは沖縄本島中部の嘉手納(かでな)町や北谷(ちゃたん)町から出土した刻画石版で、制作された時代も制作の意図も判明していない。中にはこれを「ムー大陸」文化の証拠とか世界の各地で見られる「神聖文字」だと主張する人もいる。 ところがである。沖縄本島から何千kmも離れた北海道の小樽市の海岸にある「フゴッペ」洞窟からも、似たようなものが発見されている。絵なのかそれとも特殊な字なのか、また岩に刻まれた時代も不明。沖縄のは石版、小樽のは直接洞窟の岩に刻まれたことが異なる点。世の中には摩訶不思議なこともあるのだ。そしてかつて日本に原人がいた証拠とする「葛生原人」や「明石原人」の骨が、いつの間にか消えて、行方不明になった。今日は不思議な話で終わりとしたい。
2021.12.12
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~疲れながらも~ 疲れて頭痛がしながらも、なお沖縄の話を書こうとしている。最初は前回の補足をまず。縄文時代は新石器時代とも言われるが、「新」があれば当然「旧石器時代」もある。縄文は約1万5千年前から3千年前くらいなので、旧石器時代は1万5千年以上も前になる。日本列島が大陸とつながっていた時代があり、動物も人類も歩いて来れた。 ただし、南西諸島は大陸から岬のように突き出ており、九州との間に海峡があった。北海道も樺太と繋がっていたが、津軽海峡はあった。縄文人が日本の先住民族であることは何度も書いた。彼らの中には南から日本列島にやって来たグループと、樺太を経て北からやって来たグループがいた。元々は南方系の古い民族の子孫だろう。 弥生人が稲を携えて北九州へやって来たことは書いた。Natureに載った論文は朝鮮半島経由だったが、揚子江南部から直接北九州や山口に来たとの説もある。ところで弥生人の顏が縄文人に比べて扁平なのは、「北方的な適応」の結果。眉毛や髭が薄いのは凍傷にならないため。鼻が低いのは冷たい空気を広い副鼻腔で暖めてから肺に送るため。胴長なのは消化に時間を要し、腸が長くなったため。 寒冷な北海道が稲作に適さなかったため、縄文人やツングース系の民族が弥生人との混血が進まなかった。一方沖縄は隆起石灰岩地質で稲作には向いてなかった。それに雨が直ぐに地下に沁み込み、短い川は直ぐ海に注ぐ。そのため北海道同様に、縄文時代(沖縄では貝塚時代)が長く続き、弥生人との混血がなかなか進まなかった。そして容貌にも縄文人の特徴が色濃く残った。 (1) このシリーズを書きながら、自分が持ってる沖縄関係の本を何冊か探した。「沖縄の城ものがたり」は沖縄の出版社が1988年に出したもの。価格は2800円。多分私が沖縄から転勤する時に買ったのだろう。当時としてはかなり高価。文章が平明の上図が多くて理解しやす。今読んでもなかなか面白く、大いに役立った。 (2) 「海上の道」~沖縄の歴史と文化~は東京国立博物館が、沖縄の本土復帰20周年を記念して開催した特別展の目録で1992年の刊行。ほとんどが図版で、解説は少なくしかも専門的。8番目の職場に転勤した際、たまたま私の机の上にあったもの。今ではとても貴重な資料で、次回以降にこの図録から借りた写真を載せようと思っている。 (3) 「世代わりにみる沖縄の歴史」は2007年に(1)と同じ出版社から刊行されている。価格は1500円で、著者は沖縄の教育関係者で、歴史の専門家ではない。恐らくは沖縄に観光か走りに行った際に買ったと思われる。「沖縄7度の世代わり」として〇原始沖縄世 〇古代沖縄世 〇薩摩世(島津藩の統治下にあった時代) 〇大和世(日本の沖縄県となった明治以降) 〇戦世(戦時中) 〇アメリカ世(アメリカ軍政府時代) 〇沖縄・大和世(琉球民政府時代及び日本復帰以降)のように区分している。 それが恐らくは沖縄県民の偽らざる歴史観なのだろう。多分今後読むことはないだろうが、これも沖縄と私の縁として傍に残しておこう。
2021.12.10
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~首里城炎上~ 現存する首里城の一番古いとされているのがこの写真である。撮ったのはフランス人で、撮った時期は明治10年(1877年)。いわゆる「琉球処分」(琉球王国が日本に編入されて一時「琉球藩」 となり、それが沖縄県となった)のが明治12年(1879年)なので、これはまだ琉球藩当時のもの。確かに写真の下に見える説明文はフランス語だ。なお琉球処分後、城は「神社」として残された由。 さてこれはアメリカのペリー提督が首里城を訪ねた時の絵。時は1853年で日本の暦では嘉永3年に相当する。ペリーは日本に向かう前に当時の琉球王朝を訪れ、あわよくばこの島国を奪おうと企んだ由。だが琉球は一行を丁寧にもてなし、那覇港に停泊していた黒船に無事帰還してもらえた。当時カメラはなく、ペリーはお抱えの絵師に描かせた。これは守礼門から立ち去る際の様子。 尚巴志王 これは第一琉球王朝第2代の尚巴志王の肖像。1429年に沖縄を統一した中山王国は王都を浦添城から首里城に移したと伝えられている。そしてその後の600年間で首里城は5度焼失している。そのうち3度は王朝内部の対立によるもので、1609年の島津藩による侵攻の際も、琉球処分の際も城は無事だった。最後の琉球王尚泰は明治政府の命により、住居を東京に移された。反乱を防ぐ人質だった。 首里城の4度目の炎上は、第二次世界大戦時に米軍による攻撃のため。城の地下に日本軍司令部の塹壕があったため、写真の通り神聖な首里森は全くのはげ山となった。城跡は整備され、昭和25年(1950年)琉球政府立琉球大学のキャンパスとなる。校舎は木造でキャンパスはとても狭かったそうだ。昭和47年(1972年)の本土復帰を契機に、琉球大学は国立となり現在の西原町に移転。私もそこで3年間勤務した。 復興した首里城 昭和61年(1986年)国営公園として首里城を復元することが閣議決定した。本土復帰20周年に当たる平成4年(1992年)11月3日に、正殿や瑞泉門などの復元完成により、公園を一部開園した。平成12年(2004年)、他の4つの城、御嶽1か所、王朝の王陵および別荘庭園と共に世界文化遺産に指定された。 首里城の復元に関して大変な苦労があったことを私も知っている。資料調査のため関係者が私の職場にも来たからだ。決め手となった過去の資料類が、沖縄県立芸術大学の資料館(左)にあるのを発見したのが高良倉吉氏(右)。氏が浦添市立図書館長時代に「沖縄県史」(全20巻)を刊行した記念式の際にお会いした。氏はその後琉球大学教授、名誉教授、沖縄県副知事を歴任されている。専門は琉球史及び琉球文化。 炎上する首里城正殿 それほどまでに苦労して復元した首里城が、令和元年10月31日の火災により焼失した。火災の原因は今も不明のままで、当夜は城内で工事中だったがその責任追及も、警備会社に対する賠償請求もなかった。それが私が嫌う沖縄のテーゲー(いい加減)主義の弊害だ。あの美しい城を観られたのはわずか13年間。幸いにして私はたった1回だけどこの目で観ることが出来た。 厚かましくも玉城沖縄県知事は、首里城の早急な復元を政府に要求した。不十分な管理体制で貴重な建築物や歴史資料を焼失させたのに、焼けたら次のを作れば済むと言うのだろうか。当時の安倍総理は沖縄県の希望を入れ、2028年までには再興することを約束した。沖縄県民も再建のための基金を拠出し、5億円ほどになったと聞いた。実際はもっと巨額を要するのだが、問題は建築資材の確保。前回以上の苦労は目に見えている。大量な木材や特殊な屋根瓦の製造など。そして次回は厳重な防火設備の確保だ。山の上にある首里城の消火設備をどうするか。文化財の展示とは相反する要素であるからだ。 焼失した正殿跡地 これが焼失した正殿の跡地。正殿前に立っている「龍柱」(黒い2本の石柱)が哀れだ。正殿の右手にあった北殿(にしのうどん)も左手にあった南殿(ふぇーぬうどん)も全焼し、正殿の跡地はまだ整理中のよう。たくさん見える袋の中には、赤瓦が入っている。再利用と、次回の素材とするためだ。私はたまたまこの現場も観た。復元前、復元後、そして焼失後の首里城を全て見た内地人はそう多くないはずだ。 最近の空撮か? 変な言い方だが、首里城が焼失したお陰で、私は長年の疑問が解けた。沖縄勤務当時、そしてその後に首里城を訪れた際に、それまで見たくとも見られなかった場所を観ることが出来たためだ。昨年末の旅では、女官たちの浴場、王の遺体を一時安置する聖地、城内の幾つかの御嶽(うたき)そして東西の砦などを確認出来た。やはり首里城は、敬虔な祈りの場所だったのだ。首里城の輪郭がはっきり分かる。 王の間(焼失前) 王の間の火の神と香炉 このシリーズを書く契機になったテレビ番組で、琉球王の個人的な空間である「王の間」にも、「火の神」(ひぬかん)が祀られていたことを知った。「火の神」は民衆の間で古くから守られて来た習俗。火は神聖かつ暮らしには欠かせない重要な存在であるのは、縄文以来不変なのだろう。伊勢神宮でも深夜に松明を灯して遷宮の儀式をする。こんなことでも沖縄と古代日本のつながりを感じている。 首里森御嶽の位置関係 これもテレビの画面から借用した。焼失前の正殿前から伸びる赤い線が御庭(うなー=正殿の前庭でピンクに見える場所)を通り緑色をした「首里森御嶽」(すいむいうたき)まで一直線につながってる。ここが城内で一番神聖な場所。恐らくは首里城が建てられる以前から、首里森(首里城がある山)の聖地だったことが窺える。華美な城中にも、祈りの場所があったことをようやく確認出来た想いだ。 祝女(のろ)に扮した女性が祈っているのは上の地図の「京の内」にある御嶽の一つ。その上に緑色の「首里森御嶽」が見える。だがそれは城の復元に伴って新たに作られたもの。戦後琉球政府立琉球大学のキャンパスとなった時に、ここから北東方面に3kmほど離れた「弁の嶽」(びんぬたき)に城中の御嶽を移動して祀った由。私はその御嶽も訪ねたが本来の神々しさが失われ、とても明るい墓地だった。さて今回の番組で、首里城内に10の御嶽があると分かったのが、私にとっては最大の収穫だった。
2021.12.06
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~日本の最果ての島で~ 沖縄の染色=紅型(びんがた) たまたあるテレビ番組を観て書き出したこのシリーズも今日で10回目を迎えた。書くほどに面白くて熱中するのだが、話のネタはまだ尽きない。ただし、それを読者にどう伝えるかが問題。私自身は長年現地を観、資料を読み、日本各地で見聞きしたことや調べたこととも対比して自分なりに考えている積りだが、単なる歴史愛好者のためたまには不正確なことを書く場合もあるのを断っておく。 ボケてるがこれは沖縄県の地図。中央下の赤い島が沖縄本島。その北にかなり離れて「硫黄鳥島」とボケて記された島も沖縄県。名前通りここはかつて琉球王朝が硫黄を採掘し、中国に輸出していた重要な場所。そのため1609年から琉球を支配した島津藩もそのまま琉球領とし、沖縄県に組み入れられた。沖縄本島と宮古諸島の間は300kmも離れている。先月中国とロシアの空軍機が通り抜けたのはこの海峡だ。宮古諸島の先にあるのが八重山諸島で、今回の話の舞台。 宮古と八重山の位置関係は上の地図を参照されたい。この中で一番人口が多いのが石垣島で、島全体が石垣市。尖閣諸島も石垣市登野城と言う住所を持っている。一番面積が大きいのがイリオモテヤマネコで有名な西表島。人が住む日本最南端の島が波照間島。その他の小島を含めたのが竹富町だが、町役場は交通の便から石垣島にある。日本最西端の島が与那国島で、単独の与那国町。台湾までは80kmの距離。宮古島までは縄文土器や弥生土器が到達している。 この地図は「八重山」の概念を表すためのもので、島の位置は不正確。「よなぐに」は本来ずっと左(西)、「はてるま」はもっと下(南)だが、距離が遠過ぎて入らない。尖閣諸島は石垣島のずっと上(北)に離れており、中国が虎視眈々と狙い、海警の艦隊をいわば常駐させているのもそのせい。八重山は古来から国境の島なのだ。 これは竹富島の「なごみの塔」から見た赤瓦の集落。面白いことには、塔の周辺に「私たちは平家の子孫です。集落名に「赤」が付くのは平家の赤旗に由来します」と書かれた看板があったのには驚いた。沖縄本島には源為朝が来島して琉球の王の始祖となったとの伝説があるが、こちらは「箔」をつけるための創作だろう。竹富島には琉球王朝の出先の「蔵元址」があり、当時はこの小島が八重山の中心地だったのだろう。 沖縄本島を統一して琉球王朝を成立させた後、奄美諸島のうち6島も制覇し、勢力は八重山諸島にまで及んだ。ところが波照間島出身のオヤケアカハチが石垣島で反乱を企てる。王朝の税が過酷なことと、無理な開拓が多くの人々を死に追いやった。石垣島や西表島には風土病のマラリアがあったため。琉球王朝にとってオヤケアカハチは反逆者だったが、八重山の人達にとっては英雄。 左がその図だが、私には名前も姿も日本人に見える。平家の落人か倭寇の血を引くのではないか。彼を討ったのが宮古島の豪族「仲宗根豊見親」。つまり琉球王朝は自ら手を出さずに、先島の島民同士を戦わせたのだ。右は「クスクムリ」と言う名の狼煙台(のろしだい)で波照間島にある。「クスク」は城のぐすくだろうし、「ムリ」は盛り上がった場所のこと。日本語の古語と同義だ。私もこの傍をマイクロバスで通った。 宮良殿内 これは石垣市にある宮良殿内(みやらどんち)。殿内は身分の高い人の住宅の意味。国の重要文化財に指定されている。オヤケアカハチを征伐した宮古島の仲宗根豊見親は、「八重山頭職」に任命されたが、長くは続かなかった。その後の頭職を継いだのが石垣島の宮良家。宮良家の名乗頭(なのりがしら=直系の男子が受け継ぐ名の漢字一文字)は「当」の旧字である當。例えば宮良當壮だが、これは実在の人。 宮鳥御嶽 私は石垣島へは仕事と観光で2度行った。仕事で行った際に観たのが博物館と宮良殿内。そして観光で行った川平湾の付近で、この御嶽に行った。ここは地元民しか入れませんと書かれた看板があったが、私は心の中で礼をして御嶽(うたき)に入った。うたきは沖縄本島での名前で、八重山では「おん」と言うことを知っていた。御嶽山も「おんたけ」なので何ら不思議ではない。 外の鳥居は立派だが、神域は沖縄本島や離島と同様に香炉があるくらいの簡素さ。それが原始神道本来の姿なのだろう。私はバスガイドに尋ねた。「オヤケアカハチ」の墓はあるのかと。答えは「ある」だった。もし彼が琉球王朝に対する反逆者だったら墓を作るのは許されないだろう。きっと八重山のために戦って死んだ英雄は、目立たない場所にひっそりと葬られ、島人たちに篤く崇拝されて来たのだろう。 石垣島の「唐人墓」 観光で島を訪ねた時、早起きしてホテルから西に向けて走った。行った先にあったのがこの場所。今回ネットで調べて初めて謂れを知った。清時代清人が奴隷としてアメリカ船に積まれた。船員の横暴に怒った清人は船長らを殺害し、石垣島に逃げた。だが別のアメリカ船がやって来、犯人たちを探し出して殺した。そこで日本が仲裁に入って70人以上の清人を船に乗せて清国に送り返した。そのお礼と供養のため、後年中国人が中国式の慰霊塔を建てた由。 久松五勇士顕彰碑 一方、宮古島には「久松五勇士」伝説がある。日ロ戦争当時、ロシアの軍艦を見かけた宮古の青年5人が通信基地があった石垣島までの100km以上小舟を漕いで伝えた。その急報により日本海軍の太平洋艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。私は「宮古島ワイドーマラソン」(100km)の途中、顕彰碑の前を通った。そんな風に全都道府県を旅しかつ走破した私は、ヤマネコの西表島でも「ちゅらさん」の舞台だった小浜島でも、早朝に起きて走った。今では腰を傷め、歩くのがやっとだが。
2021.12.04
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~沖縄の離島と聖地(その2)~ これは沖縄本島の西にある久米島の上江城(うえぐすく)です。小さな島にしてはかなり大きくて立派な城です。 久米島はかつて楽天イーグルスがキャンプをしていた島として有名でした。これは上江城の頂上に立つ私。眼下に島の集落が見えます。私がこの島を訪ねたのは「久米島マラソン」(フル)を走るためで、70歳で走ったこのマラソンが私にとっては最後のレースになりました。レース前日タクシーで島の観光地巡りをやったのです。この島には幾つか気になる場所がありましたので。 これは具志川城です。カーブした城壁がなかなか見事でした。ここは下から眺めただけで終わりました。 これも久米島の伊敷索(ちなは)城の石垣です。久米島を統一したいなは按司(あじ)は沖縄本島からやって来たみたいで、長男に与えたのが上江城。次男に与えたのが具志川城です。三男にも城を与えたようですが勢力争いに敗れて沖縄本島に逃げ、糸満市の具志川城主になったと伝えられています。 これは重要文化財に指定された「上江洲(うえづ)家住宅」です。上江洲家は具志川城主の末裔の家柄と伝えられています。 上江洲家住宅の石塀で、とても見事です。久米島の按司は中国との交易もしてましたが、沖縄が統一されて琉球王朝が誕生すると、王朝に仕えます。久高島同様、久米島の水夫は船の操縦が巧みだったため、中国、朝鮮、日本、東南アジアなどへ向かう貿易船の乗組員となったようです。 久米島の祝女(のろ)の君南風(きみはえ上右=現地語でちんべー)は経験あらたかな神女でした。彼女を祀る君南風御殿(左上)が今も信仰の対象として残っています。八重山地方の石垣島で反乱が起きた時、君南風は敵を呪詛するため、宮古島の武将仲宗根豊見親(なかそねとよみうや)と共に船に乗り込んで八重山に向かい、見事反乱を治めたと伝えられています。 これは宮古島の武将仲宗根豊見親の墓で、沖縄本島の墓とは全く形態が異なります。それでも風葬墓であることは確か。石垣島の反乱を鎮めた豊見親は「八重山頭職」に任じられますが、それは一時的なことでした。正面に墓室への入口が見えます。その左にある池にはエビが数匹泳いでいました。 豊見親の本名は目黒盛と言ったようです。これも沖縄にはない姓で、倭寇の末裔と私は感じたものです。宮古島にも倭寇の基地があったと言われ、縄文時代や弥生時代の古い土器も発掘されています。 これは宮古島平良港の近くにある漲水御嶽(はりみずうたき)の中で、祈る信者の姿です。このように離島では今でも古来の信仰を守っています。 上は宮古島の大和井(ヤマトガー)と言う名の井戸です。雨は直ぐに石灰岩に吸い込まれてしまいます。そのため石段を下りた深い井戸が必要で、水を得られる場所は聖地です。名前が示す通り、この井戸は当時琉球を支配していた薩摩藩の武士か、首里の役人しか使えない重要な場所でした。島の人々が使ったのはその付近の「ウシガー」でした。そこは島の人が水を飲み、牛や馬を洗う場所。それだけ差別されていたのです。 これは「人頭税石」と呼ばれるもので、平良港の近くにありました。高さは148cm。子供はこの石と同じくらいまで背が伸びると一人前と見なされ、税金を支払ったのです。かなり過酷だったと聞きます。宮古島ではなかなか作物が獲れず、カラムシと言う植物の繊維で織った「宮古上布」を税金として琉球に納めていたそうです。宮古島へは仕事と100kmマラソンで2度行きましたが、私は島の歴史を知るのに夢中でした。だから今でもこうして、沖縄の話が書けるのです。
2021.12.02
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~沖縄の離島と聖地(その1)~ NHKで首里城の復元に関する番組を観たことで書き始めたこのシリーズも今日で8回目を迎えることになりました。45歳から3年間沖縄に赴任し、沖縄を去ってから30年近く経ちました。その後も仕事や観光やマラソンで20回以上沖縄を訪れて各地を巡った思い出が尽きません。特にリュックを背負って4年かけた「沖縄本島単独一周ラン」の記憶が鮮烈です。今回は離島の聖地について記します。 久高島 沖縄本島最南端の知念半島の沖合にある小島が「神の島」久高島です。私は職場の仲間と一緒に島に渡りました。今は島の真向かいの港からフェリーが出ていますが、当時は馬天港でした。この島の神秘性や神行事のことは本を読んで知っていましたし、その後最大の神行事「イザイホウ」の動画を観ることが出きてラッキーでした。昭和53年が最後のイザイホウになったからです。 岡本太郎が島の人に無理に頼んで見せてもらったという風葬墓。岡本を案内した島人(しまんちゅ)がその後狂死したことも私は知っていました。島の印象は詩に書きましたが、今回ネットでその画像を検索するとヒットしたのが上の写真です。奥に2人の人が見えます。勝手に行ったのか、案内してもらったかは不明ですが、私が風葬墓の白骨を目にしたのは1回だけ。それも偶然のことでした。 これは沖縄本島の北にある伊是名島の伊是名城です。見事な三角形の山は、日本でも聖なる山の特徴です。島へは今帰仁村の運天港からフェリーで渡ります。右が城跡ですが、見事な石段と石垣がありますが、私には巨大な風葬墓に見えます。きっと背後の崖の下に洞穴があり、そこが本来の聖地、あるいは古い時代からの居住跡があったのではと思います。 不思議なことにこの小さな島から英雄が出ています。その一人が第二琉球王朝を興した金丸(後の尚円王)です。彼は田の水を盗んだと島人に疑われて島を出たと言われています。後に琉球王となった人物にそんな噂があるのは変な話です。きっと彼の家系は九州南部から来た倭寇だったと私は推察しています。彼の本名、文武に優れて首里城に出入り出来たことの点からです。 これは伊是名島の奇観「陸ギタラ」(手前)と「海ギタラ」(後方の海中)で、とても不思議な印象を受けました。共に絶壁の頂上には「祭祀址」が残っているみたいです。嶺や山上の岩に神が降臨するのは内地も一緒で、北方民族の神話の特徴です。またこの景色を観た松山の美しさにも驚いたものです。ゴミ一つ落ちてない、まさに神の島に相応しい厳かさでした。 これは「神アシャギ」と呼ばれる伊是名島の聖地の一つです。「アシャギ」の語源は「足上げ」で、つまり神様が憑依(ひょうい=寄り付く)する場所を意味します。この原始的で床もないようなわらぶき小屋が、神社の原型だったのでしょう。何もなく素朴だからこそ感じる厳粛さ。尚円王となった金丸の実姉の「伊是名ノロ」も、きっとここや城で琉球王国の安泰を祈ったことでしょう。 ここは沖縄本島勝連半島沖の浜比嘉島。今では「海中道路」から枝分かれした橋で連絡していますが、昔は屋慶名港からフェリーで渡りました。島には沖縄の始祖神であるアマミチュー(アマミキヨ)の墓と称されるものがあります。上の写真の小島にありますが、私が島を訪れた頃は、まだコンクリートの道はなく、海岸から眺めるばかりでした。私が風葬墓探しを断念したのも実はこの島でした。 これはアマミキヨが妻シネリキヨと暮らしていたと伝わる洞窟「シネリチュー」へ向かう参道です。こちらはお参りした記憶が残っています。やはりとても不思議な感覚を受けたものです。この島には沖縄の他の地区とは異なる氏名が多いと聞きます。九州南部の倭寇が沖縄本島の東海岸沿いに南下したことを物語っているように思います。沖縄本島北部の東海岸にも日本の姓が多いとされるのと同様です。 アマミチューの墓か、シネリチューの洞窟かは不明ですが、両者はごく近い場所にあります。浜比嘉島には「浜」と「比嘉」の二つの集落があり、島には「シヌグ」と呼ばれる棒を持って戦う伝統行事があります。シヌグの語源は恐らく「凌ぐ」。現地の島民と後からやって来た倭寇が戦った名残ではないかと私は推測しています。私の沖縄への想いは、30年経っても未だに胸の奥で煮えたぎっています。<不定期に続く>
2021.11.30
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~沖縄の聖地を巡る~ 沖縄の聖地については、このシリーズでも何度か書いた。ここは沖縄本島南部にある南城市の「佐敷ようどれ」。自衛隊の基地内にあるため、私は観たことはない。一見家のように見えるがこれは風葬墓。「ゆうどれ」は夕方の意味で、薄暗い「あの世」を連想させる。この地には琉球王国が成立する前の豪族が住み、墓はその時代のものとされている。現在は麓に「月代宮」と言う神社が建っている。何度も書いているが、沖縄の城(ぐすく)は墓、聖地、城や砦、古い住居址、そしてそれらの複合体で、内地の城とは全く概念が異なる。だから墓や神社があるのは当然なのだ。 これは同じ南城市の知念城。知念半島の先端部にあり、沖縄最大の聖地である斎場御嶽(せいふぁうたき)にも近い。美しい城壁が比較的に良く残っている方だろう。古い城と新しい城の二重構造で、城壁の門が崩れかかり、木材で支えているのが見える。私が沖縄に勤務した30年前は補強されてなかった。背後の山も多分聖地で、御嶽か拝所(うがんじゅ)があるはず。城内にも拝所が複数あったと記憶している。 これは旧玉城村(たまぐすくそん=現南城市)にある仲井眞城(なかいまぐすく)城と言っても実際は風葬募でこれは第一琉球王朝第6代尚泰久王の墓。場所が分からなかったため、近くの村役場に聞きに行ったら警戒された。顔を見て内地人だと分かったのだ。警戒した理由は外国人が墓を掘rり、古い武具を発見したため。勝連城主の阿麻和利に嫁いだ王女百十踏揚(ももとふみあがり)の墓も付近にある。 これは同地に近い場所にある玉城(たまぐすく)で、石段も城壁も自然の石灰岩で、世界文化遺産指定の美しい城とは異なり、原始的な城の形を残している。城内には幾つかの拝所があり、うこー(沖縄式の燃えない線香)が供えられていた。どうやら外国人が勝手に発掘したと言うのはこの城の麓の洞穴らしく、私はその時発掘された武具を、昨年行った沖縄県立博物館で偶然見ることが出来た。 写真撮影禁止だったが、印象としてはこんな日本の野武士がつけたような簡便な鎧(よろい)。直感的にこれは日本の倭寇じゃないかと思った。琉球王朝の武士(さむれー)は武具を持たない。統一王朝誕生後、武具は不要になったためだ。なぜ外国人がこの城の麓を掘ったのかは不明だが、歴史に興味を持っていたのだろう。だが藪の中はハブの棲みかでもあり、とても危険だ。この絵は後に再び登場する予定。 首里城と尚円王 浦添にあった第一琉球王朝の王都は、やがて現在地の那覇市首里に移る。第一琉球王朝の最後は内乱などがあって衰退した。そこに現れたのが伊是名島出身の百姓金丸。彼は島から追い出されるような形で都へやって来た。役人に取り入って城に出入りし、最後は大臣に上り詰めた。やがて周囲から推される形で幼い王子を排除し、自ら第二琉球王朝の王尚円と名乗った。進貢していた中国にはばれないように。 首里城歓会門 なぜ一農民の金丸が琉球の王になれたのか。実態はクーデターとの説がある。金丸が伊是名島を追われた理由も不明。私は伊是名島へも行ったことがあるが、実に神聖な気配に満ちた美しい島だった。伊是名城がある山へは金網がしてあって登れなかったが、神秘に溢れていた雰囲気が印象に残っている。尚円は実の姉を島の祝女(のろ)の最高位伊是名ノロに就けたと言う。 玉陵(たまうどん) これは第二琉球王朝の陵墓である玉陵。うどんは本来「御殿」で生きている人の御殿の場合もあるが、貴人の墓にも用いられる名称。とても巨大で立派な風葬募で、世界文化遺産の一つ。私は尚円王となった金丸の先祖は九州南部の「倭寇」出身だったのではないかと推定している。それなら文武に秀でていたの当然で、名前の金丸も大和名(日本式の名前)にぴったり。沖縄には倭寇伝説が多く残り、史実に近いと思われる。 識名園 これは琉球王朝の別荘で、琉球式の広い庭園を持つ識名園。世界文化遺産の一つ。中国から来た柵封使をここで歓待した。この場所は直接東シナ海が見えないほぼ唯一の地で、琉球は広いと誤解させたのだ。そのため中国では沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼んだ。当時の台湾は蛮族しか住まない未開の地で、日清戦争の賠償として割譲したのには、蛮族が台湾に漂着した多数の沖縄人を殺害したこともある。
2021.11.28
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~沖縄の城物語(2)~ 沖縄の城の石垣 沖縄の城がグスクと呼ばれ、その起源が墓、御嶽(うたき)などの聖なる場所、砦(とりで)、古い住居跡、あるいはその複合体であると言う仲松弥秀氏の学説については既に紹介した。それが按司(あじ=豪族)や統一者である王の居城となった例はさほど多くはない。世界文化遺産に指定された今帰仁城、座喜味城、勝連城、中城、首里城のほかには浦添城、大里城、南山城、糸数城、知念城くらいだろうか。その中には石垣が残る程度のものも多い。焼失した首里城は沖縄を統一(最大時には奄美の一部も)した琉球王の居城だったため、例外的に大きくて華美だったことを先ず理解してほしい。 これは日本の戦国時代に当たる「グスク時代」の沖縄本島。北山は現在の国頭郡、中山は中頭郡、南山は島尻郡に相当するが、郡が置かれたのは明治時代に沖縄県になってからのこと。琉球王朝時代の行政区分は「間切」(まぎり=現地語でまじり)で、これが平成の大合併までほとんど変わらずに残っていた。 「北山」のグスクは、今帰仁城と名護城程度。「中山」のグスクは、首里城、浦添城、中城、勝連城、座喜味城、安慶名城、知花城、具志川城、越来城、山田城、台城など。「南山」のグスクは大里城、大城、南山城、玉城、糸数城、知念城、ミントングスク、垣花城、志喜屋城などだが、私はそのほとんどを訪れたが、中には見つからなかったグスクもある。グスクの多様さと大戦での破壊のためだ。 勝連城 勝連城は勝連半島の付け根の丘の上にある。城主は阿麻和利(あまわり)と言う名の豪族で、妻は琉球王の娘の百十踏揚(ももとふみあがり)つまり政略結婚だった。城下の南風泊には港があり、中国にも使者を送るほどの権力を有していた。だが阿麻和利は後に奸計を用いて首里王朝に反逆する。 中城湾を隔てて勝連城を監視していたのが護佐丸が城主の中城。護佐丸の娘は琉球王の王妃。つまり護佐丸は琉球王の舅に当たる忠臣。中城で警護の訓練をしてるのを見た阿麻和利は、護佐丸が反逆したと首里に使いを出す。それを知った百十踏揚が急使を首里に送ったが間に合わず、反逆の疑いをかけられた護佐丸は事態を悟り、王の軍に抵抗せず妻と共に自害した。彼は付近の巨大な亀甲墓(右)に眠っている。なお、この戦いについては諸説あるが、那覇の大綱引きで綱に上がるのは、この2人の豪族だ。 浦添城 浦添ようどれ さて、北山王国、南山王国を制覇し沖縄を統一した第一琉球王朝は、浦添に王都を構えた。眼前の東シナ海には牧港(まちなと)の良港があり、中国との貿易に便利だった。城の北側の崖の中腹には巨大な風葬墓である「浦添ようどれ」がある。ここは伝説の王朝時代からの古い墓でもあった。また崖下の発掘調査では、城下址や鍛冶屋の工房跡が発見されている。 金属加工は権力の維持には不可欠で、中城の裏道の途中にも「カニマンの墓」称するものがあった。カニマンは現地語で鍛冶屋のこと。製鉄技術がなかった沖縄では、朝鮮や日本から「鉄てい」(鉄の延べ板」を輸入し、それを何枚か繋ぎ合わせて鍋を作った。「三枚鍋」「四枚鍋」などと言われるのはその当時の名残。沖縄のオバーの名前に多かった「なべ」(現地語でなびぃ)は食べ物に困らないように付けたもので、カマドなども同様だ。 私は沖縄に赴任した平成初期に浦添城を訪れた際、一人の白装束のオバーが海に向かって手を合わせる姿を観た。沖縄では海の彼方にニライカライと言う極楽があると信じられている。内地で言う西方浄土だが、その姿の神々しさに驚いた。未だに原始神道が信じられている沖縄。既に内地では失われた姿が、沖縄には残っている。沖縄各地の聖地を訪れる旅に強くそう感じたものだ。<続く>
2021.11.26
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~沖縄の城ものがたり~ 琉球漆器のお盆で絵柄はユウナの花。わが家にもこれと同じ物があります。鮮やかな赤には、ブタの血を混ぜて使うそうです。沖縄の話を1日おきに書いています。公開の前日に予約機能を使って書いていますが、疲れて眠くなって来ました。こんな時は誤字に気づかなかったり、文章が変になったりするのが常です。それでも書き始めました。もしも途中になったら24日に続きを書きますね。 これは13世紀ごろの琉球です。各地に按司(あじ)と呼ばれる豪族が出、城を築き次第に勢力の範囲を広め、中国と貿易を始めます。日本との関係はそれよりもずっと古く、縄文時代には九州と行き来して土器や貝を交換し、奈良時代には南島人が渡来し、史料に以下の地名が残されています。海見(あまみ=奄美)阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=いしがき)などです。 紅型(びんがた=沖縄の染色) 沖縄の始祖神が北から来、古代神道に繋がること。源氏や平家の落ち武者伝説があることも日本との関係を思わせます。鎌倉時代に日本から仏教や漢字が伝わり、南九州の倭寇が沖縄に基地を持っていたことも分かっています。九州南部の地名や人名との共通性が奄美や沖縄に見られるのも倭寇の影響が考えられます。ただし異なる漢字を用いたのは、島津藩が琉球王朝を征服後本土と区別するためです。例=中曽根(内地)仲宗根(沖縄)、中間(内地)仲間(沖縄)、松村(内地)松茂良(沖縄)など。 これは世界文化遺産、北山王国の今帰仁(なきじん)城(ぐすく)です。この城の石は他の城の琉球石灰岩と異なって熱変性のため青い色をしてるのが特徴です。とても広い城郭が4重に張り巡らされ、城壁の上の「犬走り」が見事です。奥の廓に住居址や、飲み水を得るため谷川に下りる道、馬場跡などがあります。北山を滅ぼした中山王国は、「北山監守」を置きます。 今帰仁村にある百按司(むむじゃな)墓は、北山監守やその子孫の遺体を葬った風葬墓と伝えられています。現在は高い塀で遮られていますが、低い方の塀からは中の白骨が見えるはずです。女性が2人立っている辺りです。ここで言いたいのは城と墓には密接な関係があり、しかも共に聖地であることです。 かつてここから京都大学の研究者が無断で人骨を持ち去り、沖縄県が現在返還を求めていると聞きました。かつてアイヌ人の墓から北大や札幌医大が無断で人骨を持ち去ったのと同じ構造です。人類学者や分子遺伝学者には貴重な「研究資料」でしょうが、到底許される行為ではありません。 世界文化遺産の座喜味(ざきみ)城で、読谷村(よみたんそん)にあり、中城城主である護佐丸の父王の居城とされ、城壁の石は護佐丸が生まれた恩納村の山田城から運んだとされています。私は山田城も訪ねましたがほとんど石垣はなく、周囲に風葬募も見当たらず、とても城跡と思えないほどでした。その当時長男の高校の歴史の教師は場所すら探せなかったそうです。さて座喜味城の廓は2つでこじんまりしていますが、カーブした城壁が美しい城です。私は2度行きましたが、厳粛さを感じなかったのは、城内に御嶽がなく、付近に風葬募がなかったからでしょう。でも正確には存在するのかも知れません。かつてここには日本軍の高射砲の陣地があり、米軍に徹底的に破壊されたようです。世界文化遺産指定の沖縄の城のほとんどは戦後再建されたものです。<続く>
2021.11.24
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~久高島は神の島~ 沖縄本島南部の知念半島の沖合にある久高島は「神の島」と呼ばれる。アマミキヨとシネリキヨがこの小島に漂着し、対岸に渡って沖縄の始祖神となったとの伝説があるからだ。またかつては琉球王が年に一度島を訪れ神行事をしたとも伝えられている。だが島津藩による琉球支配(1600年代初頭)後、王が島に渡ることは禁じられ、王朝随一の神女である聞得大君が王に代わって、対岸の斎場御嶽から遥拝するだけになった。それが王朝最大の神行事となった。 これが久高島の祝女(のろ)。「のろ」は呪うの「のろ」祝詞(のりと)の「のり」と語源が共通で、日本語の古語と意味も発音も近く、神の言葉を伝えることにつながる。神社での戦勝祈願は言葉で相手を呪い殺すことであり、祝詞(のりと)は神への讃辞。言葉は言霊(ことだま)。青森県出身の野呂さんは神職の家系だった。恐らく偶然ではないのだろう。さて久高島でノロになるのは島出身の女だけ。またこの島からは一木一草たりとも持ち出せないのが決まり。港にそう書いた看板があった。 久高島では琉球王朝時代、年に40回以上もの神行事が行われた。それは当時島の男たちが貿易船に乗って長く家を留守にし、その間女の操を守るためと言う。最大の神行事「イザイホー」では、砂の上に梯子の絵を描き、女たちを渡らせる。不思議なことに不貞を働いた女は、それを渡れなかったそうだ。また久高島は原始共産制で、畑は共有で順番に耕作地を交換していたと言う。今でも私有地はないはずだ。 かつて午年(うまどし)に行われていた島最大の神行事イザイホー(上)。島のノロ総出の行事は1週間続く。各々に役割があり、男の世話役もいたが、島の最高神職である久高ノロと西銘ノロが高齢となったため昭和53年(1978年)が最後となった。私はテレビでもその模様を見、勤務していた国立民族学博物館のビデオテーク(当時)でも見たことがあった。壮大かつ厳粛な神行事だ。 フボー御嶽 写真は久高島最大の聖地であるフボー御嶽。フボーとはソテツの現地語。ここは男子禁制の地で、簡単な拝所(うがんじゅ)と香炉くらいしかない。これが原始神道本来の姿で、内地も同様。磐座(いわくら)、巨岩、巨木、山頂、洞穴などが信仰の対象で、神社の建物や鳥居などが出来たのはずっと後になってからだ。大勢のノロたちは、この御嶽と祭りの広場を何度も往復して祈り続ける。 後ろに見える小屋はエラブウミヘビを燻製にする場所。西銘ノロと久高ノロだけがウミヘビを獲ることが出来た。ウミヘビは産卵のため遥々インド洋からやって来る。毒性は強いが性質が穏やかで口が小さいため噛まれることは滅多にない。ウミヘビの燻製は滋養があり、高額で取引された。島根県の美保神社でもウミヘビを捕らえて神前に供える風習がある。ウミヘビを神の使いと考えるのも、共通で興味深い。 さて「芸術は爆発だ」の言や「太陽の塔」の制作で知られる岡本太郎は、パリ大学で民族学(文化人類学)を学び、久高島にも来たことがある。その際「風葬募」を是非見たいと島の人に頼み、仕方なく案内した由。だがその男は狂死した。風葬地は島の聖なる場所で、島外の人に見せてはいけない場所。その禁を破ったため、精神に異常を来したのだろう。 <百按司(むむじゃな)墓=今帰仁村の白骨> 沖縄勤務当時、私もある島に渡って風葬募を訪ねようとしたことがあった。だがその手前で男の人に止められた。彼は那覇からその島に来て酪農をしていたようだ。私が風葬募を見に行くと言うと、止めろと言う。きっとそこは禁断の地なのだろう。私はそう察して別の聖地に向かった。さて私が久高島を訪れた際、どこからともなく白い子猫が現われて、私を港まで導いてくれた。本当に不思議な体験で、私は詩を書き2冊の詩集を出した。<続く> 写真はすべてネットからの借用です。
2021.11.22
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~祈る~ 首里城「京ノ内」の御嶽にて 首里城内の御嶽(うたき)の中で最も重要なものは首里森御嶽だったことは前述した。私はその理由を、首里城が建つ前に御嶽のある森があったからではないかと考えている。その森にあったのが首里森御嶽(すいむいうたき)だから首里城の正式な名も「すいむいぐすく」だったのではとの推察。城と祈りの場である御嶽は密接な関係。つまり城は神によって守られていたのだ。神女の髷(まげ)の後ろに大きな簪(かんざし=後述)が見える。 因みに最初の写真の低い塀の内側が御嶽の一つ。本来ならあの中で祈る。だが、この女性は琉球舞踊の踊り手で、テレビ撮影のため神女の服装をして御嶽の入口に立っただけ。そして御嶽自体も現在では信仰の対象でなく、ほとんど厳粛な雰囲気はない。第2回で載せた首里森御嶽も現在祭祀の対象になっていないが、風化した琉球石灰岩がいかにも古めかしく見えて、雰囲気はある。 これは2011年にNHKで放送された琉球歴史ドラマ「テンペスト」(嵐)で女優高岡早紀が演じた、琉球王国最高の神職である「聞得大君」「きこえおおぎみ)。琉球髷(まげ)を抑える大きな簪(かんざし)を琉球語で「ジーハ」と呼んだ。ジーハは身分により材料も形も違う。胸の赤い玉は「勾玉」。大君は王の血族で太古の卑弥呼や伊勢神宮の斎宮に当たり、国家の安泰を祈願するのが役目だった。 1) 2) 上は沖縄第一の聖地である斉場御嶽(せいふぁうたき)。「第一」の理由は琉球王朝時代、王や聞得大君がここで国の安寧を祈ったからだ。ここも世界遺産の一つ。御嶽の中には幾つかの聖地があり、それぞれ名前があって信仰の対象だった。 1)は巨大な岩が右側の岩にもたれかかって、きれいな三角形を作っている。大きな岩も三角形も日本古来の聖なるもの。2)は縄文時代の岩陰遺跡に良く似ている。多分縄文時代(沖縄では貝塚時代だったか)には縄文人が住んでいたと思われる。台風を避けるに好都合だったからだ。洞窟が聖なる場所であるのは古代日本も変わらない。 3) 3)は1)の三角の奥にある聖地で、ハート形の樹木の向こうの海上に見えるのが「神の島」久高島(くだかじま)。沖縄の神アマミキヨとシネリキヨが上陸した島であり、米などの「五穀」が漂着した島との神話がある。かつては琉球王が島に渡って神行事を行ったが、1600年代初頭に島津藩によって琉球が支配されると王が島に渡ることを禁じられ、ここは島を遥拝する「通し御嶽」となった。 それも王に代わって聞得大君が代参した。右の地図で見ると、斉場御嶽は知念半島の先端にあり、大君は色んな聖地を巡って首里からここまで来た。それを東回り(あがりうまーい)と呼ぶ。久高島はその沖5kmほどにある平坦な小島。この島の重要な神行事のことなどは改めて記すことにしたい。私は斉場御嶽が世界文化遺産に指定される前に3度、指定されてから1度訪れたが、指定前は観光客は誰もおらず怖いくらいで、とても神秘的な雰囲気が漂っていた。久高島へも1度船で渡ったが、とても不思議な経験をしたことがある。<続く> 昨日の金曜日、朝食抜きで消化器内科へ行って来ました。胃カメラの予約だったので朝食を摂っても良かったようですが、空腹でフラフラ状態ながら新たなことが分かって良かったです。ひょっとしたらセカンドオピニオンのために病院を変えるかも知れません。 そしてもうどなたもご存知のように、大リーグエンジェルスの大谷翔平選手が、下馬評通りアメリカンリーグのMVPに選ばれました。日本人のリーグMVPはイチロー選手以来偉業。しかも満票だったみたいですね。簡単ですがひとまずオメデトウと申し上げておきますね。やったね翔平!!
2021.11.20
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~沖縄における信仰と祈りの形(1)~ 私は沖縄が大好きだ。だから沖縄の話を書いているうちに死ぬことがあっても本望と思うくらい。わが家にも沖縄のものがたくさんある。シーサー4対。漆器は2個。抱きビン2個。織物2種。トックリ1個お猪口2個。版画数枚。だがそれを撮らずに今日のブログを書き始めたため、とりあえず借り物の写真を載せて置こう。 漁船はサバニ多分小舟(さぶねの変化だろう)と言い、パイナップルみたいな実はアダンで、ヤシガニの大好物。手前の海がエメラルドグリーンなのは、サンゴが砕けた白い砂のため。沖が紺色なのはそこから急に深くなっているためで、その境にサンゴ礁がある。サンゴ礁の内側がイノー(内海)と言って、昔から潮が引いた時はカニや逃げ遅れた小魚やあーさ(アオサ)を採って食料にしていた。 これは首里城内にある首里森御嶽(すいむいうたき)。首里城の中でも最も大事な聖地で、私も沖縄勤務当時に見たはず(?)なのに全く厳かさを感じなかったのは、多分現在では信仰の対象ではなかったせいだろう。塀の内側に樹が茂っている多分ガジュマルのはずだ。本来はこの木が樹がご神体だったはず。 ガジュマル 沖縄を代表する樹木のガジュマルは成長すると樹高20mにもなる。そして枝から髭のような気根(きこん)を垂らして空気を吸い、それが地面に届くと根付いて太くなると支柱根(しちゅうこん)になる。上の写真にも支柱根が見える。こうして幹だけでなくたくさんの支柱根が生えるのは、強い台風に耐えるため。痩せた土地では根は板根(ばんこん)と言う板のように立った根になって幹を支える。 ソテツ ソテツは良く見られる植物。沖縄ではクバと言い、この葉を編んで笠にした。クバが変化してフボーと訛る。飢饉の時はソテツの実をあく抜きし、毒素を少なくして食べた。神の島久高島には「フボー御嶽」と呼ばれる聖地があり、島で最も重要な儀式を執り行った。ここは男子禁制で神職の男が最も大切な儀式の時だけ入れた。ガジュマルもソテツも神の憑代(よりしろ)で、神道の神木と一緒。つまり沖縄には日本の古代神道が色濃く残っているのだ。首里城も初めは森しかない聖地で、城はかなり遅れて出来た。 左は沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬。奥の尖った山の頂上に安須森(あすむい)御嶽(右)がある。私は沖縄在住中に一度だけ登ったことがある。猛毒のハブが出そうで怖かった。長靴を履き、棒で草むらを突きながら用心して登った。頂上には何もない。それが本来の姿。高い峰(沖縄では嶺の字を用いる)に神が降り立つのも内地と同様に北方民族共通の神話なのだ。 頂上には小さな祠と香炉があり、「ここは神様と交信する大切な場所です。汚さないでください」と書かれた小さな表示板があった。沖縄神話で辺戸岬は沖縄の男女神アマミキヨとシネリキヨが初めて上陸した地とされる。最北端のここに初めて着いたと言うことは神は奄美方面から来たわけで、名前からも海人族(あまぞく)だったことが分かる。縄文土器も神も内地から島伝いにやって来たことを暗示する。 中城城の大井戸 なかぐすく城の城内には大井戸(うふがー)がある。ここはかなり大きな城で沖縄本島を貫く脊梁山脈の標高150mほどの丘陵上にある。敵の阿麻和利(あまわり)の居城である勝連城を見張るには好都合の場所だった。だが飲み水を得るために掘ったのがらせん階段状の石段を下りた先の井戸で沖縄では「かー」と呼ぶ。人工的に作った泉で水が貴重な沖縄では聖地であり、信仰の対象となる。首里城では感じなかった厳粛さをここで感じたのは、背後の森が自然であるためだろう。だがこの城のある本島中部も沖縄戦の激戦地だった。 ここは宜野湾市にある普天間宮の地下洞窟。ここが元々信仰の対象で、本来は風葬の地だったと私は思っている。だから沖縄人は先祖を祀った。日本神話にもイザナミが亡き妻イザナミを追って黄泉(よみ)の国(あの世)を訪ねる場面があるが、風葬募を想定させる状況だ。温度と湿度が高い沖縄では、洞窟に遺体を置けば、そのまま腐って遺骨だけが残る。神社の建物が建つのは明治以降に日本に帰属してからだ。 風葬墓 モノクロなので昔の写真だが、お棺の先に見えるのが人骨。現在ではちゃんとしたお墓(沖縄では色んな形をしたものがある)に葬り、かつての風葬墓は石垣と漆喰で封鎖されるのが大半だが、地方は離島には未だにそのまま残るものがあり、私は本島中央部の嘉手納町で見たことがある。恐らくは戦争で関係者が全員死亡したため、手をつけずに放置した「財産」ではないかと考えられる。<続く>
2021.11.18
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~あるテレビ番組を観て~ 庭の山茶花が咲いたのを居間から見つけ、写真を撮りに外へ出た。パソコンに写真を取り込む作業中に、手の痒さを感じた。注意して右手を見ると、黒くて小さな虫が止まっていた。私はすかさず左手で叩いた。やはり血を吸っていた。これは多分九州で言う「スケベ虫」。大きさは4mmほどで、衣類を潜って胸元に飛び込むことからそんな名がついたようだ。仙台にはこんな蚊はいなかった。それが11月中旬でも蚊が出る。やはり地球温暖化の影響が大きそうだ。 福原愛さんが青森大学の非常勤准教授に就任したことはブログに書いた。その後彼女はプロ卓球Tリーグ男子の「琉球アスティーダ」の社外取締役に就任した由。愛ちゃんは常々日本卓球界のために貢献する気持ちが強かったそうだが、その希望が今回叶った。チームでは広くアジアでも通用する選手の強化を考えてのことで、中国のリーグに属した経験のある彼女は適役だったのだろう。 首里城守礼門 それにしてもなぜ「アスティーダ」と名付けたのか。3年間沖縄に勤務した私は直ぐにピンと来た。アスは明日だろうが、「ティーダ」は琉球語で太陽の意味。琉球王朝時代の沖縄で太陽は神そのものの存在。「ティーダ」または「てだこ」と呼ばれる太陽信仰が王朝内でも庶民の間でも浸透していた。 なぜこんなことを書き始めたかだが、先日NHKの「祈りの首里城・デジタルで蘇る姿」と言う番組を観てのことだ。私は3年間の沖縄勤務のほかにも20回以上沖縄を訪れ、いろんなものを見聞している。だから守礼門と旧い歓会門しかない時代の首里城も知ってるし、復元された美しい首里城も観たし、焼け落ちた後の首里城本殿跡地も観た。そこでタイトルの「祈りの首里城」が引っかかったのだ。 これは現存する最古の首里城の写真。もちろん戦前の撮影でモノクロ。明治時代の「琉球処分」で琉球王国は「琉球藩」となり、さらに遅れて「沖縄県」となった。最後の琉球王は東京に移され、王の居城だった首里城は「神社」として残った。その建物も第二次世界大戦の沖縄戦で焼けた。首里城がある山の地下塹壕に日本軍の司令部があり、米軍によって徹底的に破壊されたのだ。 首里城は合計で5回焼失してるそうだ。だが「世界文化遺産」としての首里城は無事。その理由は文化遺産として指定されているのは、地上の建物ではなく地下の遺構であるため。この焼けた瓦の下に遺構は埋まっていて無事。因みに世界文化遺産に指定されたのは、北から今帰仁(なきじん)城、座喜味城、勝連城、中城、首里城、第二琉球王朝の陵墓である玉陵(たまうどん)、王朝時代の時代の別荘である識名園、そして沖縄最大の聖地斎場御嶽(せいふぁうたき)の8か所だったはず。私は全て訪れ、識名園以外は複数回訪れている。 古い時代の首里城歓会門 因みに沖縄では城を「ぐすく」と呼ぶ。沖縄の民族学者で琉球大学の教授だった仲松弥秋氏の著書に拠れば「ぐすく」は奄美諸島から沖縄の八重山地方にまで広範囲にあり、墓、聖地、集落、砦などの性格を有し、またそれらの複合の場合も多かったようだ。そしてその「ぐすく」には必ずと言って良いほど御嶽(うたき)があるのが普通。だから城は祈りの場でもあったのだ。もちろん平和と安泰を祈っての。だが私が見た20以上のグスクで御嶽を持つのはそう多くはなかった。多分戦火で焼失したと思われる。それだけ沖縄本島は激戦地だったのだ。ただ今帰仁城と中城、浦添城には明確に御嶽と思われる場所が残っていた。 園比屋武御嶽 首里城で誰にでも分かる御嶽が園比屋武(そのびやん・うたき)。ここは琉球王朝時代外国に旅立つ時などに旅の安全を祈願した場所。徳川将軍の代替わりや琉球王の交代時には江戸上り(えどぬぶい)と称す使節を送るのが通例だった。その時は琉球衣装を着ていたそうだ。当時旅は命がけ。王朝の最盛期には中国への朝貢はもとより、朝鮮や東南アジアまで貿易船で出かけた。御嶽の前には必ず香炉が置かれ、線香を上げた。沖縄の線香(うこう)は1本1本ではなくまとまって引っ付いている。色は緑ではなく黒。そして今では火事にならぬよう、火は点けないで置くだけ。面白くない専門的な話がましばらく続く予定だ。<続く>
2021.11.17
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<a)沖縄の火山島> まずは昨日の続きで火山島の話から。でも鹿児島県の分は終わって、今日は沖縄県。上の図はその火山島の位置で、赤い矢印で「ここです」と書いてある。ところが右側(東側)に鹿児島県とあるのになぜか沖縄本島はずっと南にある。それでもここは沖縄県。つまり「飛び地」なのだ。島の名は硫黄鳥島。その島名にヒントが隠されているが、さて分かるかどうか。 上の図は島を上空から見たもの。島には円形の地形が大小3か所以上ある。火山の火口のようだが、色は白い。ここはかつて硫黄を採掘した場所だが今は無人島。島の住所は沖縄県島尻郡。沖縄本島の最南端の郡なのが2つ目の謎。実は昭和34年(1959年)の噴火時に島民全員が避難したのが久米島で、そこが島尻郡だったため。久米島の泊集落の一部に「鳥島」の地名をつけた。私は70歳の時に「久米島マラソン」(フル)を走ったので、集落の風景を今も覚えている。偶然だが楽しい思い出だ。 崇元寺石門 これは那覇市安里にある崇元寺の石門。去る大戦で破壊され、後に復元された。琉球王朝時代、硫黄鳥島で採掘された硫黄はこの寺の隣の「硫黄蔵」に収容された。かさばるため精製されたが、王国の首都で硫黄を精製したら発生した有毒ガスで困っただろうが。実は硫黄は中国に貿易品として送る貴重品。火山のない中国で火薬の原料の硫黄は採れず、琉球に頼っていたのだ。 恐らく300年間は中国のために採掘されたはず。そんな歴史から明治以降も沖縄県に編入されたのだろう。なおこの石門の前を戦前は軌道車が走っていた。路線は4つあり、いずれも人とサトウキビを運んでいた。いかにも南国らしい話だが、現在では那覇市と浦添市を結んでモノレールが走っている。 久場島 久場島は尖閣諸島の一つで沖縄県所属。明治期には人が住んで仕事をしていた。そのことは後日改めて書くが、今日はこの島が火山島であることだけ紹介したい。良く見ると丸くくぼんだ地形が2か所見える。恐らくは火山の火口痕だと思われる。そのほか西表島の海中にも気泡を生じる場所がある。きっと海中で熱水が湧いているのだろう。<b)氷河期の「日本列島」> さて上の図は氷河時代(約200万年前~1万年前)の地形の様子。現在のインドネシアとボルネオ島は陸続きで「スンダランド」と呼ばれ、アジア大陸にも繋がり、台湾から日本へと緑色の陸地だったことが分かる。その途中に飛び出て「琉球弧半島」と書かれた箇所がある。南西諸島と日本列島は完全につながっておらず、以前記した生物学上の境界線になった。 「スンダランド」の東側には、オーストラリアとニューギニアと陸続きの「サフールランド」と呼ばれる大陸があった。海が凍ったため海面が低下して陸続きになったのだ。なお2つの大きな大陸の間には「小スンダ列島」があるため、人類が割と簡単に移動して行った。オーストラリアの原住民のアボリジニ、ニュージーランドの原住民のマオリ族、ミクロネシアの人々などだ。 下田遺跡出土土器 上は沖縄県波照間島の下田遺跡から出土した新石器時代(縄文時代)の土器で、インドネシアや台湾の土器の特徴があると言われている。陸続きになって人類が移動し易くなった影響だろう。日本最古の石垣島の人骨(3万5千年前)のDNAがインドネシア人の特徴と似てるのも同じ理由。なお、同遺跡からは西表島にしか生息しないイノシシの骨が出ており、縄文人が丸木舟で行き来していたことが分かる。毎回専門的な楽しくない話で済みませんが、私の好きな分野なものでつい。ではまた明日。<続く>
2021.05.16
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~「世界自然遺産」への登録に向けて~ 南西諸島 かなりボケているが、鹿児島(右上)から台湾(左下)まで連なる南西諸島の島々。冒頭にこんな地図を載せたのは、奄美大島、徳之島(鹿児島県)、沖縄本島のやんばる地方、西表島(沖縄県)が近くユネスコの「世界自然遺産」に登録予定なのを知り、これらの島々をブログの話題にしようと考えたのだ。 左の地図は鹿児島県の薩南諸島で、右は屋久島の南西に位置する口永良部島で、煙を上げているのが新岳。有史以前からつい最近まで、ひっきりなしに噴火を繰り返している火山。平成、令和になっても噴火と地震が起きて、時々ニュースになる。地図の左側上部(西側)に続く島々がトカラ列島で、十島村に属している。最近のコロナ騒動で、鹿児島からフェリーでワクチンを運び、7つの島民に無事注射出来たことが話題になったばかり。 この列島の宝島とその右(東)にある悪石島との間に生物学上の境界線「渡瀬線」がある。ここは海深が千mあり、南西諸島と九州が一度も繋がってないためここを境にして動植物の生態がまったく異なる。津軽海峡の「ブラキストン線」と同様だ。 さて、奄美大島(上)と徳之島にしかいない固有種が右のアマミノクロウサギ。国の天然記念物だが、かつて大陸とつながっていた時代にアジアから渡って来たもの。その後隆起と沈降を繰り返して、島に閉じ込められた「生きた化石」となった。耳、尻尾、手足が他のウサギに比べて極端に短いのが特徴だ。 左上は奄美大島の最高峰である湯湾岳(ゆわんだけ694m)から見える焼内湾の「あまみブルー」。右上は湯湾岳にある神社。沖縄の始祖神はアマミキヨ(アマミク)だが、奄美の始祖神は(アマミコ)。奄美はかつて記紀に「海見(あまみ)」と記された。九州南部の「海部(あま)族」だったのだろう。縄文土器が沖縄に渡来してることも含め、沖縄の神と神話がどこから来たかが窺える。ただし琉球王朝時代の1458年に、奄美諸島は琉球王朝の支配下に入り、その150年後に再び島津藩に奪還される。 沖縄本島北部の山原(やんばる)には豊かな森(左上)があり、琉球王朝時代から戦前までは、薪や木材を山原船で那覇や首里に運んでいた。第二次世界大戦の激しい沖縄戦でも大きなダメージを受けず、今日まで動植物の貴重な固有種が保たれている。右上は良い香りを放つイジュの花。ヤンバルテナガコガネなどの昆虫や、ノグチゲラなどの野鳥が棲む森でもある 天然記念物のヤンバルクイナ(左上)やセマルハコガメ(中央)を守るための道路標識を設置し、道路を動物が潜り抜けるためのトンネル、また落ちても登ることが出来る側溝を作って貴重な動物を保護している。飛べないヤンバルクイナの天敵であるマングース(右上)を捕獲する檻(おり)を設置するなど自然を守る活動を展開して来た。それらの活動が「世界自然遺産」指定に繋がったのだろう。 左上は奄美大島、徳之島、沖縄本島のやんばると共に「世界自然遺産」に指定候補の西表島。右は同島の固有種で天然記念物のイリオモテヤマネコを守るための道路標識。普段は深い森の中にいるが、夜道路に飛び出して車に轢かれる事故が増えている。餌にしているイノシシの子供のウリボウが減ったことも、個体数が増えない理由だ。この島には近畿大学と龍雄大学の研究施設が別個に置かれている。 日本国内でこれまでに「世界自然遺産」に登録されたのは、知床半島、屋久島、白神山地(秋田・青森)、小笠原諸島。私は白神山地は訪れ、知床半島は観光で行って走った。私の国内ランニングの最北端と最東端が知床。北海道は色んな箇所を走り、キタキツネ(上中)やエゾシカ(右上)と出会った。そして国内で走った最西端と最南端が西表島だった。ここでは水牛や蝶々のアサギマダラと出会った。 沖縄本島 奄美大島は行ってないが、上空から何度か見た。沖縄に勤務し、旅したお陰で南西諸島の上空を70回は飛んだだろう。地図も好きだしフライトマップ(航路図)も見るので、島の形を見れば大体どの島か見当がついた。そしてブログを書くためにネットで検索し、その地の歴史や文化を改めて知る。楽しみにもなり有難いことだ。なお走った最東端はシドニーで、最南端はメルボルン。出張の際ランニングシューズを持参したのだ。各地で走った思い出が増え、走破距離は42年間で10万km以上。地球3周目に入っている。
2021.05.13
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~那覇空港で出会った青年~ 那覇空港ビル 格安航空のピーチ社は待遇が悪いのか、搭乗前のチェックコーナーも少し外れていて分かり難い。おまけに案内がルーズでちょっぴり気をもんだ。ベンチで隣り合った青年に聞いた。出身はどこ。地理が好きで地名や人名を尋ねるのは私のいつものくせ。養父(やぶ)です。それで兵庫県の人だと分かった。じゃあ八鹿(ようか)の近くだねと言ったら、何と隣町の八鹿高校出身みたいだ。 養父や八鹿を知ってる人がいるとは驚きました。川は何川でどっちに向いて流れてる。と二の矢。円山川で日本海に流れると青年。それなら兵庫県北部で旧国名は但馬(たじま)だろう。去年は彼の住む町の隣、豊岡市のホテルに泊まった。山陰へのツアーの時。京都北部の丹後も地理的に近い。そこまでのイメージがつかめ、搭乗前のチェックを終えた私は搭乗ゲートに向かった。 学章は芭蕉の葉 ゲートのベンチに行くと驚くことに、彼もピーチ機で仙台へ行くとのこと。沖縄へは何をしに。私が聞くと、今春沖縄の大学に入学した由。OK大?と私は代表的な私大の名を上げた。答えは国立の琉球大学。これにはビックリ。私が管理職として31年前に赴任したのが、その大学なのだ。これは奇縁。たまたま出身を尋ねた青年が私のかつての職場の学生で、しかもピーチ機で仙台へ向かうとは。 学章と大学概要 彼の所属は工学部。授業は全てリモートで、まだ教室へ行ってない由。大学の食堂へ弁当を買いに行くだけらしい。食事の回数が減って、かなり痩せたと笑う。その横顔が彼と同じ年齢の頃の長男に生き写し。まさかこんな不思議なことがあるだろうか。沖縄への旅の最終日に、またまた奇跡的な出会いとは。私は急いで弁当を食べた。朝からたくさん歩き続け、猛烈に腹が減っていたのだ。 岩手山と北上川 仙台からバスに乗り、盛岡に住む高校の先輩を訪ねる予定と彼。内陸部の盛岡はかなり寒いと教える。仙台空港から電車に乗るが、高速バスの乗り場と発車時間を気にしていた彼。出来れば仙台駅まで行って乗り場を探してやりたいが、生憎私はキャリーバックを預けていた。彼はリュック一つだしシートも前方。私のシートは真ん中付近なので、同一行動はちょっと無理そうだ。 琉球大学構内図 機は滑走路を飛び立ち上空へと舞い上がった。窓のわずかな空間から、渡嘉敷島が見えた。これが今回の旅で初めて見た離島の姿。やがて白い雲しか見えないようになり、明るかった西空が茜色に染まり出した。ありがとう4日間の沖縄への旅。日ごろ独り暮らしで頑張っている私へのご褒美だった今回のGOTO。約束があるのでなるべく早く降りたいと乗務員いお願いすると、着陸後に誘導してくれると。 <キャンパスを跨ぐ「球陽橋」> 無事着陸し、私は階段で地上に降りた。途中で彼を待つ。搭乗中にスマフォで電車と高速バスの乗り継ぎ時間を調べたようで、とても慌てた様子。仙台駅まで行くのは止め、元気でねと言って別れた。きっと若い彼のこと、何とか高速バスに間に合い無事盛岡に着いたはず。そしてあまりの寒さに驚いたのではないか。もうそんな心配はよそう。失敗も良い経験。そして彼ならきっと立派に成長するはずだ。 かつての職場の附属図書館本館 今回大学を訪れることは出来なかったが、空港で彼と出会ったお陰でネットを介して大学の近況を知ることが出来た。素晴らしい4日間の旅。たくさんの人と出会い、その不思議な縁で、数々の奇跡に遭遇した一人旅。新型コロナにも感染することなく、無事帰宅出来た。心温まるたくさんの思い出が出来たことに心から感謝している。ありがとう大好きな沖縄。私の心の故郷よ。<完>
2020.12.27
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~街の発展と新たな知見~ 「おもろまち」風景 モノレールを降り西に向かう。30年前と異なり、副都心らしく変貌していた。町の名の元になった「おもろさうし」は王朝時代の「歌謡」(口に出して謡う詩のようなもの)で、ひらがな表記。当時の公用文は平仮名が主体で、漢字の使用は確か14世紀頃からだったはず。それも中国からではなく日本から伝わったのだ。さて、旅の最終日の主目的は、ここにある県立博物館を観るため。以前にも1度来たが、博物館への案内表示が全くなく不安になる。 旧米軍住宅 この旧天久(あめく)地区には戦後米軍住宅が立ち並んでいた。那覇の一等地を占める広大な米軍宿舎。ゴルフの練習場や文化施設もあったと聞く。空襲で一面焼け野原となり、粗末な沖縄の住居とは雲泥の差だ。ベトナム戦争の敗戦後大量の米兵が去ると、基地返還要求の動きが激しくなる。最初に返還の候補地に挙がったのが天久地区。一等地で広大なのだから至極当然の要求だ。 更地になった天久地区 米軍関係の建物は全て取り壊され更地に。その後埋蔵文化財の発掘調査。だがあまりにも広大で時間を要した。それが幸いし、私も在勤時に発掘作業を見学出来た。ここから出たのは「貝塚時代」から琉球王朝時代までの遺跡。中でも佐銘川大主(さめかわうふしゅ)の亀甲墓発見が最大の収穫だったはず。今回その写真を博物館で観られて良かった。 沖縄県立博物館・美術館 何とか博物館に着いたものの、正面入口が分らない。モノレール駅からのアプローチと言い、敷地内のサイン計画と言い、観光客には不親切この上もない。きっと管理者はそのことに気づかず、その指摘もなかったのだろう。チケットを求め、キャリーバックをコインロッカーに預けて入館。ところが常設展会場入口の床がガラス張りのため下が透けて見え、とても怖い。 屋外展示1(古民家) 旅行に行く前、博物館内での撮影が可能かをネットで調べて驚いた。撮影希望者は申込用紙をプリントアウトし、2週間前に許可申請してほしいとHPにあった。それじゃPCやプリンターの無い人はどうするのか。観光が売りの沖縄県が役人根性丸出しの運営では困る。幸い少数の展示物以外は撮影出来たが、会場の小母ちゃんがしつこく注意するのには参った。多分彼女はそう指導されているのだろうが。 屋外展示2 高倉 そこで小母ちゃんに言った。「注意事項を一度読んだら分かる。それに俺は博物館にも勤めていたし」と言うと「どこの」と聞くため、「大阪の国立民族学博物館」と。無論知るはずない。展示物を動画で解説する「ビデオテーク」や、「マルチメディア展示」を国内で最初に開発し、写真撮影OKで展示物にも触れても良い自由で学術性に富む博物館。地域研究専攻の大学院もあるのだが。 常設展の一部 「浦添ようどれ」の石棺に見入っていると今度はガードマンの小父さんが、「本物は浦添のようどれ館にある」と。この人も素人。目の前のが本物で、私はようどれ館で模型を観て来たばかり。私は「本物」の感触を確かめた。石の質感が凄い。さすがはわざわざ中国から運んだだけのことはある。大きさも装飾も王の棺に相応しい風格を有し、盗掘時に開けた穴も、内地の盗掘石棺の特徴とまるきり一緒だった。 やんばる船(近海用) この2人もホテルの食堂の小母さん同様、一流の施設で働いていると、自分までが偉くなったような錯覚に陥り、つい威張りたくなるのだろう。写真は400枚ほど撮ったが、ネットの写真には私が欲しいものはなかった。素人の関心ははそんなもの。だが今回の来館で新たに得た知見が幾つかあった。 進貢船(遠洋航海用) 県内の発掘件数が増えて成果が上がり、新たな発見につながっていると感じたこと。弥生時代の須恵器が、先島(八重山地方)にまで及んでいたこと。日清戦争前に日本と清との間で西南諸島を3分割する案があったこと。(これは日清戦争の日本の勝利で反故となり、台湾まで日本に割譲された)。石垣島白保発掘の人骨が日本最古で、DNA解析で特徴が明白になったこと。 棺桶を載せて運ぶ輿(確か「がん」と言ったはずだが漢字は不明) 今帰仁村の百按司墓(むむじゃなばか)から人骨を持ち去った京都大学に対し、返還するよう法的措置を取っていること。「港川フィッシャー人」の遺伝子解析から、復元像を作り直したこと。かつての糸満の魚売りの女性の声が、「ヨー、こーとれや」と私には聞こえた。「よー」は魚(うお)の変化。「こーとれ」は買っておくれか。昔から糸満女性は強く、漁師から魚を仕入れ売った代金を自分で管理していたことで有名。糸満の漁師たちは小舟に乗って、遠く五島列島までトビウオを追って出漁した。当然遭難の危険性が高く、残された妻は女手一つで稼いだのだろう。それを私はあの「売り声」で実感した。 2時間半ほど見学し、アンケート用紙に感想を記した。熱心に書いてたら小母ちゃんが悪口を書かれたかと心配になったみたいだが、無論そんなことではなく、元博物館職員の目で見た率直な意見だ。おもろまち駅からモノレールで真っ直ぐ空港へ。使い終えた「1日乗車券」を旅の青年に上げると、とても喜んでいた。空港でも再び奇跡に遭遇するのだが、そのことは次回に記そう。<続く>
2020.12.26
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~最終日は朝から良い天気に~ 国場川と対岸の奥武山運動公園 島ラッキョウの辛さに苦しんだ深夜。そのせいか腹が減って4時には目覚め、起きてコーヒーを飲み、お菓子を食べた。外はまだ真暗。6時半になるのを待って食堂へ。珍しく腹いっぱい食べた。いつもは野菜中心だがこの日はたんぱく質も摂り、牛乳やジュースも飲んだ。沖縄最後の日も有効に使おうと考えてのことだ。荷物をフロントに預け、早速散歩に行った。皮肉にも最後の日になってようやく青空。 奥宮(奥社)のある山 向かったのは奥武山運動公園。野球場、陸上競技場、プール、武道場、テニスコートなどのある静かな公園。NAHAマラソンのスタート及びゴール地点で、私にとってはとても懐かしい場所だった。沖縄在勤中も含め、同マラソンには12回出場した。グラウンド内にはかつての職場の集合場所があり、転勤後もマラソンに行くと、懐かしい仲間たちが私を待っていてくれた。 6年前に私がここで撮った「ニービ石」。奥宮のある丘の周囲に無造作に置かれていた。私は以前から不思議な形だと思えてシャッターを押したのだ。「ニービ」は霊力と関係する名だと思っていたのだが、今回「鈍色」(にびいろ=鉛色)から来てると知った。砂岩の一種で、石を切ると実に美しい鉛色。沖縄本島最北部の辺戸岬にある石園の情報で知った。30年前は浦添城の伊波普猷(いはふゆう)の墓所の前でも見たのに、今回は無かった。きっとその後誰かが持ち去ったのだろう。今回は私が昔撮った写真をネットで見つけて載せた。 古い写真(1) 奥武山がかつて風葬の地だったことを、現地でも知る人は少ないだろう。沖縄本島には「奥武(おお)島」が4つあるが、いずれもかつては風葬の島。仲松弥秋氏によれば、墓地で親族が「おお」と泣いたからだろうとのこと。明治にになってから明治橋が架けられ、その後の埋め立てで風景が一変する。琉球八社の一つの「奥社」のある小山が、当時島だった微かな証拠だ。 古い写真(2) 明治期の絵図 既に明治橋が架かっている。橋の左手に見える御物城(おものぐすく)は琉球王朝当時に貿易品を収めた蔵だが、位置は橋の右側にあるべき。手前が「壺川」(つぼかわ)で対岸が垣花(かきのはな)とあり、もしも地名が逆転してたら城の位置は合っている。上の2枚の写真も、絵図も今回ネットで見つけた。 現在の奥宮 私が沖縄に勤務していた30年前は、本土の神社とは異なる趣があった。まだ原始神道の雰囲気が残っていて、一番驚いたのが神名を刻んだ石碑だった。そこには確か「阿母礼可那志」と刻されていたように記憶している。「あもれかなし」と読むのか。そして「かなし」はきっと美しいや尊いの意味だろうと勝手に解釈していた。沖縄市の安慶田城の神名はもっと厳めしく、奥社のものとは全然違っていた。 神社入口 それにしても沖縄の神社はどうしてどこも似たようになったのだろう。近代化して個性をなくし、本土の神社となんら変わらない。護国神社の建物は巨大なビルに変貌し、ホテルと間違えたほど。沖縄の原始神道は一体どこへ消えたのか。ガジュマルに棲むキジムナー(伝説上の小人)も、これじゃ出て来れないよね。 奥武山グラウンド 懐かしいグラウンド。ここがNAHAマラソンのゴール地点。スタート地点は参加者数が増えるに連れて、国道58号線に押し出されて行った。競技場にあったスタンドがなくなり、沖縄市泡瀬の県立運動場のがメインの陸上競技場になった由。NAHAマラソンは今回コロナで中止されたが、街中では練習するランナーを見かけ、この朝も大勢のランナーが奥武山公園を走っていた。 NAHAマラソン(毎年12月の第1日曜日に開催)を走る大勢のランナーたち。左の川が久茂地川だなら、スタート後500mくらいのはず。NAHAマラソンはとても人気が高く、完全な抽選制になった今では、沖縄のランナーと言えどもなかなか出場するのは困難になった。私は第5回から12回出場。新旧のコース風景が今も脳裏に浮かぶ。 <国場川沿いの遊歩道 左手前方に見えるのが明治橋> ホテルに戻った私はフロントに預けた荷物を受け取り、「お世話になった葉さんにもよろしくお伝えください」と伝言して旭橋駅に向かった。モノレールの1日乗車券を買う。もうまる1日乗ることはないが、奇跡的に小銭入れが見つかったお礼。「おもろまち駅」で降り、キャリーバッグを引きながら歩く。さて、方角は西で良かったかな。既に大汗をかいた私だった。この日の気温は24度。<続く>
2020.12.25
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<マックス爺の失敗> 月桃の花 記紀には女性器(ほと)に関する神話がいくつか出て来る。1つはある女神が火の神を産んだ時、ほとを火傷して死ぬ。もう1つは三輪山の大物主の妻モモソヒメが箸でほとを突いて死ぬ神話。これは禁じられた大物主の正体を見たせいか。姫が箸でほとを突いて死んだのが「箸墓古墳」と呼ばれる所以。出産が死につながる危険性の象徴が「ほと」かも知れない。そんな大変な仕事を女性は古来続けて来たのだ。 普天間宮前からバスに乗り、那覇の古島からモノレールに乗り換えて那覇空港へ行った。古島駅付近には長男が卒業した興南高校がある。長女の首里高校、長男の興南高校、そして次男の城北小学校と、沖縄勤務時代に子供たちが通った学校の近況が分かって良かった。果たして3人の子供たちは、沖縄当時のことをどう思っているのだろう。さてこの後私は那覇空港で、思わぬ事態に遭遇する。 空港の土産物店 時間のあるうちに土産物を買って、キャリーバックに詰めておこう。そうすれば最終日に慌てなくて済む。日持ちの悪いお菓子は選ばず、中国から伝わった「くんぺん」(薫餅)なら現代版クッキーなので日持ちするはず。首里の菓子店が閉店しガッカリしていたが、空港で売っていたとは意外だった。喜んで代金を支払おうとし、小銭入れがないことに気づき青ざめた。 プルメリア 小銭はなくしても良いが、小銭入れには家の鍵と、キャリーバッグの鍵を入れていた。これじゃ荷物の整理どころか、帰宅しても家に入れない。さあ困った。一体どこで落としたのだろう。古島での乗り換え時が一番可能性が高い。ではバスかモノレールか。とも角一旦旭橋へ戻ろう。あそこならバスターミナルにもモノレールの駅にも連絡が可能だ。そして最初に行ったのはモノレールの旭橋駅。 駅員に事情を話すと、早速古島駅に連絡してくれた。そして私に聞く。落とし物の色とサイズ、中に何が入っているかと。答えるとそれと全く同じ遺失物が駅に届いている由。礼を言って古島駅に向かう。私の推理はこうだ。もしバスの車中で落としたなら、音がして気づいたはず。それでモノレールに懸けてみたのだ。古島駅で受け取った小銭入れは、びしょ濡れ状態。きっと駅前で急いだ時に落としたのだろう。 那覇空港 空港へとんぼ返りし、土産物店へ行った。経緯を聞いて驚く店員たち。一番驚いたのは自分自身。まさか雨の駅前で落としたとは。それを拾ってわざわざ駅に届けてくれた方に感謝。まさに奇跡だ。再び旭橋駅に戻って、先刻の駅員に無事受け取った報告とお礼。そしてがっちりと握手。きっと水溜りに落ちたせいで「音」がしなかったのだ。それにしても「2日通用券」がこれほど役立つとは。 首里の龍潭池 風呂に入り、その間に靴と傘を乾かした。入浴後は着替えと荷物の整理。お陰で無事バッグも開けられた。予備の鍵はバッグの中だから全く役立たず。しかし2つとも鍵が見つかって本当に良かった。小銭入れは23年前オーストラリアへ出張した際の自分用のお土産で、カンガルーの革製。その特徴が早期発見につながったのだろう。どうもありがとう。やはり沖縄では不思議な何かが起きる。 現在の三重城 居酒屋「赤とんぼ」へ行ったが、まだ開店前。そこで真っ直ぐ西に向かい、「三重城」に行った。多分30年ぶりのはず。昔はもっと粗末な拝所に供え物が置かれ、それを乞食が食べていた。それほど当時の沖縄は貧しかった。今では過去の面影はどこにもない。三重城は(みーぐすく)と呼ぶが城ではなく、「見る場所」。正しくは王朝時代に船を見送る場所で、そのため聖地の拝所となった。 かつての三重城 ネットで探したら、古い時代の写真が見つかった。これは雰囲気が良く出ていて、船を見送る場所だったことが一目瞭然だ。ここは那覇港の先端に近い場所、王朝時代にはわざわざここまで見送りの人が来て、別れを惜しんだ。それほど当時の航海は危険性に満ち、貿易も江戸上り(えどぬぶい)も命がけ。だからこそ園比屋武御嶽で礼拝し、姉妹は経血で染めた「てぃーさじ」で兄弟の無事を祈ったのだ。 王朝時代の進貢船 比較的最近の三重城 琉球王朝時代の進貢船は中国が造って琉球に与えた。そこまでした理由は、琉球が持ち込む「硫黄」のせいだ。火薬製造に欠かせない硫黄が中国にはない。そこに琉球の進貢船による貿易の利点があったのだ。ただし当時の航海は命がけで、だからこそ乗組員たちは首里城の園比屋武御嶽(そのびやんうたき)で礼拝し、乗組員の姉妹は経血で染めたティーサジを兄弟の肩に掛けたのだ。 進貢船は中国や東南アジア諸国との貿易のみならず、江戸幕府の将軍の代替わりや、琉球王の就任挨拶のための「江戸上り」(えどぬぶい)にも使用した。幕府にとって琉球は中国との誼(よしみ)をつなぐ手段であり、直接の支配者だった薩摩藩にとって琉球は文字通りの「金蔓」で、琉球を征服した理由の一つとなった。かくして琉球の「大航海時代」は生まれた。 さてようやく開店時間となって「赤とんぼ」に行くと、S店長がカウンターに私のための予約席を用意してくれていた。これは嬉しい心配り。ここへ来るのはその日が最後なので、いつもとメニューを少しだけ変えた。 ゴーヤチャンプルーは定番だが、飲み物はオリオンビールから。やはり沖縄へ来たら、一度はこのビールを飲まないとね。 てびち(左)と豆腐よう(右)は定番。ただし赤とんぼのてびちは塩味で色は白いのだが、写真は全てネットからの借用(カメラからPCへ取り込めないため)なので、実際は他店のもの。どうもスミマセン。 この晩は珍しい物を注文。左は「スク豆腐」と言い、堅い島豆腐にアイゴの稚魚の塩漬け(すくがらす)を載せたもの。食べたのは20年ぶりくらいか。右は島ラッキョウ。実際はもっと細くて辛みが強烈。S店長はわざわざその塩漬けも出してくれたが、それでも結構辛かった。3日連続で店に通い、すっかり親しくなったS店長。笑顔の彼も撮ったのに、ソフトの不調でまだ載せられないのが残念。ゴメンね!! <ソーメンチャンプルー(左)と沖縄のお守り「さんぐぁー」(右)> 泡盛はコップ1杯だけで、ソーメンチャンプルーもハーフサイズに。連日の「取材活動」でクタクタな体を休めようとの考え。S店長は最後に、沖縄のお守り「サングァー」を手渡してくれた。見たのはこれが初めて。実際サングァーの効き目はあった。だが強烈な島ラッキョウの力が優った。深夜逆流する胃液を堪え、何度もげっぷをして凌いだ。かくして那覇の最後の夜は更けて行く。<続く>
2020.12.24
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~マックス爺の民俗学入門~ 旭橋バスターミナル 3日目も朝から土砂降り。それでも歴史探訪に行こうとしていた。タクシーでと思ったが、30年前なら1日5千円で貸切出来たが、今は完全なメーター制だろう。中城方面に向かうバスに乗った途中の地名はほとんど覚えていて、口にすると驚く運転手。与那原三叉路から東海岸沿いに北上。この辺の地名も記憶が鮮やか。沖縄本島をランニングでの一周(450km)や、原付で走り回ったことも今は懐かしい思い出だ。 穂が出たサトウキビ 12月からはサトウキビに穂が出て糖度が上がり、サトウキビ刈り(ウジトーシ=荻倒し=サトウキビを荻と間違えた名残)の季節。しかし畑は全て宅地に変貌していた。サトウキビの根をハタネズミが食べに来る。そしてそれを食べにハブが。キビ刈りは激務で、一家総出の結い(ユイ)で行う共同作業が普通。そしてこの季節はハブが冬眠するので安全。そんな風景が見えないのが淋しい。 サンニン(月桃)の葉 バスは中城小学校前で停まった。そこは屋根付きの停留所。目の前に月桃の茂み。早速葉をちぎって匂いを嗅ぐ。芳しき香り。沖縄では月桃の葉を防虫剤や紙の原料にし、祭や祝い事では餅を月桃の葉で包む。すると餅もが良い香りになる。それがムーチー(餅)。オーストラリアで沖縄に似た空気を感じたのは、ユーカリの葉の香りのせいと今にして思う。 中城城全景 小川と化した坂道を登っていると、タクシー。手を上げて止め行き先を告げる。距離は近いが文句は言われない。豪雨の日にこんな急坂を歩く内地人がいるのに、きっと驚いたことだろう。雨で中城城は見えないが、心の中でしっかり見た。3つの廓と犬走り、アーチ状の石門、降り井戸(うりがー)、護佐丸が王の軍を確認した「除き窓」。滾々と心に浮かぶ城内風景。 護佐丸の墓 王の舅でありながら非業の死を遂げた護佐丸。彼の墓は王族クラス。墓は立派なものをと考えた王の配慮が偲ばれる。山田城(恩納村)で生まれ、父と共に座喜味城(ざきみぐすく=読谷村)に移り、成人後は最後の按司(豪族)である阿麻和利の監視役として中城城城主となった護佐丸の生涯は、王家への忠義一筋だった。2人のライバルは今、伝統行事の「大綱引き」に欠かせない永遠の英雄だ。 重文中村家住宅 中村家住宅の駐車場でタクシーを降り、傘を差して住宅を観に行くと扉は閉ざされ、「コロナのため5月から閉鎖しています」の掲示。雨に濡れながら何枚かの写真を撮り、急いで駐車場に戻った。 <中村家正面入口> <屋敷内の風景と倉庫(左奥)> 正面入口の奥に石塀が見える。これは「ヒンプン」と呼ばれる目隠しで、主人と客人はこの右から玄関に向かい、女性と下人は左から入った。壮大な構えを見ると主は百姓ではなく、村長クラスのさむれー(武士階級)だったのだろう。このシリーズの写真は全部ネットからの借り物。それで十分だ。 <高倉式の倉庫(左)と「フール」> 収穫した穀物を湿気から守るため、倉庫の第2層に収納。階下は農具置き場と、ヤギなどの家畜小屋。「フール」は沖縄独特の施設で、大便専用のトイレ。上の台に開いた3つの穴から用を足す。下の豚小屋は3つに分かれ。親ブタは自分のスペースだけ、兄ブタは自分のスペース+親ブタまで。そして子ブタはどこへも自由に出入りして餌を食べた。より弱いものへの対策で、仕切の穴は体格に合わせて開けた。 フールは当時の食糧事情からの考案。明治38年当時、山形県民の食料の98%が米。逆に沖縄では98%がサツマイモ。大家族で毎日大量のサツマイモを食べればどうなるか。それをブタの餌にしたのだ。フールは富裕な家にしかなく、久米島の重要文化財「上江洲(うえづ)家住宅」では、下の豚小屋は残ってなかった。 中村家のは完全形で現存する唯一のフールだと思う。風葬募も洗骨も沖縄では次第に「恥」と感じたのではないか。ブタを残さず食べるのは沖縄の食文化。朝鮮では大便を道路に放り、それを食料にする犬を人が食べた。ベトナムのトイレは池の上にある。理由は沖縄と同じだ。文化には上下も貴賤もない。あるのはそれぞれの環境に適した暮らしの形。それこそが文化で、世界の文化を比較研究するのが、「文化人類学」。 普天間宮本殿 駐車場で1台の自家用車が近づき、運転手さんが私に言った。バス停まで送りましょう。ただし本数の多い宜野湾市に向かいます。これはありがたい。さもなければずぶ濡れになるところ。さらに私は頼んだ。出来たら普天間宮で下ろして下さいと。彼は私の頼みを快く聞き入れた。普天間宮は「琉球八社」の一つだが、私はまだ参詣したことがない。そしてそこへ行きたい理由は別にあった。 実は本来の神社は地上ではなく地下の鍾乳洞内にあると知り、是非とも見たかったのだ。ノートに名前を記帳し、巫女の案内で入口に向かう途中、「中は撮影禁止です」の注意。「でもネットには画像が載ってますよ」と言うと、彼女は口をつぐんだ。地下は別世界。これこそ沖縄の原始神道の最骨頂で、日本の古代もかくやと思われた。なおノートへの記帳は、「三密」を避けるための配慮だった。 イザナギとイザナミ 死んだ妻イザナミが恋しくなって黄泉の国を訪ねたイザナギは、妻に厳しく戒められる。「決して灯りを点けて顔を見ないで下さいと」。だが夫はその約束を破って妻を観た。目の前には顔からたくさんのウジ虫が湧いたイザナミ。これは神話時代の日本に「風葬」があった何よりの証拠。怒った彼女は大急ぎで夫を追った。妻に桃を投げつる夫。モモはは小山となり、垣根となり、それでも追いかける妻。 桃の核 妻は怒って夫に告げる。「私は1日に500人を殺します」と。夫は妻に答え「それなら私は1日に千人の子を産もう」そう言い放ち、黄泉国入口の戸を塞いだ。そのため今も人口が減らないとの神話。しかしなぜ桃の実に神力が宿るのか。私は桃の形に答えがあると考える。桃の実と種(核)は女性器のシンボル。実は沖縄にも桃は神聖な女性器との言い伝えがある。 姉弟の誓約(うけい) 種の核を「サネ」と読む。それは女性器を意味する隠語。天鈿女命(アメノウズメノミコト)は天照大神が天岩戸に隠れた際、自分の陰部を曝した。皆がドッと笑うと何事かと天照が顔を出す。その一瞬手力男命が岩戸を開けた。途端に太陽の光が蘇った。さて姉の天照と弟のスサオノは誓約(うけい)する。私が男を生んだら、私が正しい証ですとスサノオ。そしてスサノオはたくさんの男神を産む。 <山幸彦とコノハナサクヤヒメの結婚> 兄の大事な釣り針を無くした山幸彦は海神(わたつみ)の国でコノハナサクヤヒメを見染める。姫の父海神の神が山幸彦に言う。もしも姉を妹と一緒に娶れば永遠の命が得られますと。だが山幸彦は醜い姉を嫌った。最後に海神は2つの玉を手渡す、潮を自由に満ちさせる玉と、自由に干し上げる玉。美人の妹だけを竜宮から連れ出し地上に戻った山幸彦は天皇の遠い祖先になったそうな。 月桃の花 さて、それらの神話は一体何を物語るのだろう。この世に生と死があり、男と女が存在する理由だろうか。しかしなぜ女性器が神聖なものなのかは謎。そこでもう一つ沖縄の話をしよう。 赤い花織(はなおり)だが、沖縄には「てぃーさじ」の風習があった。その意味は手拭い。男兄弟が旅に出る際、姉妹は手拭を彼女らの経血で染め、男兄弟の肩に掛けた。女性器と関わる経血が神聖で、男兄弟を守ると信じられた証。私も沖縄から転勤する際に、赤い花織の布を肩に置かれた。ヤマトでは女性を不浄と見なして女人禁制も生じたが、沖縄では女性への神聖視が、後世まで残った。こんな説を唱えるのは私だけだろうが、それはそれで愉快だ。 さてコノハナサクヤヒメは身ごもり、鵜戸神宮(宮崎県)の窟屋(いわや)で産気づく。絶対見てはいけないと言われるがその禁を破って産屋を覗く山幸彦。そこにいたのは一匹のワニ(当時はサメのこと)だった。 箸墓古墳の主、ヤマトトトヒモモソヒメの夫は三輪山の神で、毎晩通って来る。絶対見てはいけないと言われたが我慢し切れずに灯を点けると、そこにいたのは一匹の蛇。有名な神話だが大神(おおみわ)神社のシンボルも白蛇。人間と動物の通婚、そして禁忌を破る結末は「鶴の恩返し」とも通じる。沖縄の神社はすっかり大和風に変わった。果たしてそれが良いのか悪いのか。まとまらぬまま紙数が尽きた。実は帰路重大事に遭遇するのだが、書くのは明日にしよう。長文深謝。ではまた。<続く>
2020.12.23
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~首里城近辺の風景~ 円鑑池と天女橋 首里城を出て当蔵(とうのくら)方面に向かう。アカギの林が生い茂る坂道を下って、先ずは円鑑池(えんがんいけ)へ。水源は首里城の森から染み出た地下水だろう。小さなお堂にはかつて経典を収納していたと聞いたが、こんな水辺では湿気で直ぐにカビが生えただろうに。橋の名は天女橋。池の水はさらに一段低い「龍潭」(りゅうたん)と流れ込む。 円覚寺と放生橋 円鑑池の正面には王家の菩提寺、円覚寺の跡地がある。門は閉ざされたままだが、横の小径の奥から境内を眺めることが出来る。昔は格式ある立派な寺院だったのだろうが、今は小さな池とそれに架かる「放生(ほうじょう)橋」があるだけの寂れた風景。放生とは仏の功徳をいただく代わりに、魚などを水に放して自由にすること。それを「放生会」(ほうじょうえ)と言う。東南アジアでは今でもその風習がある。 沖縄県立芸術大学 沖縄県立芸大の講義棟の真向かいに、新しい建物が建っていた。首里城跡に琉球大学があった時代は、この辺には琉大の学生寮が建っていたそうだ。今では沖縄の染色、陶芸、伝統音楽、伝統舞踊、組踊などを学べる沖縄県立芸術大学のユニークな建物が建ち、全国から学生が集まって来る。昔の首里公民館はなくなり、こじゃれた建物の玄関先に戦前の写真を張り付けた陶板があった。 これが当蔵(とうのくら)界隈の地図。かつては首里公民館や、古い県立博物館があった。ひょろ長い池が龍潭(りゅうたん)で王朝時代は舟を浮かべ、中国の使者を接待した、丸い池がさっきの円鑑池だ。この一帯には王の親戚筋の、「御殿」が集中していた。「ごてん」ではなく「うど(う)ん」と呼ばれていた(。 )内のうは小さくduと発音する。たまに池から戦時中の不発弾が出、そんな時大騒動だ。 首里高校 細い路地から守礼門のある広い通りに出ると、県立首里高校がある。ここは「ひめゆり部隊」を出した名門で、長女もここに編入し卒業した。その編入試験受験のため、赴任前に娘を連れて来たのももう遠い思い出になった。 玉陵資料館 玉陵(たまうどうん)に行くと、入り口に見慣れない建物。ここも世界文化遺産なので、資料館を作ったようだ。受付でモノレールのチケットを見せると2割ほど安くなった。何気なく私が琉大の図書館に勤務していたことを告げると、「Iさんを知ってますか」と思わぬ質問。「知ってるよ奥さんのM子さんは部下だったもの」。受付嬢はI氏と同窓で、書道部だった由。こんな場所でかつての部下の知人と出会うとは世の中は狭い。久しぶりに懐かしい名を聞いた。 陵墓に向かう道にガジュマルの並木がある。初めてここを訪れた30年前。この木の不気味さに驚ろかされた。枝からは何本もの長く伸びた根(気根=きこんと言い、酸素を吸う)。それが地面に達すると地中の栄養分を吸って太くなり、幹に絡みつく。支柱根(しちゅうこん=上の写真にも見える)と呼ばれ、こうなると台風にも負けない。樹も環境に合わせて大きく姿を変えるのだ。 玉陵を仕切る塀。ガジュマル並木はこの道路の左側に植えられている。 夕暮れの陵墓。左手の岩山にももう一つ墓室があり、合計で3つの墓室に第二琉球王朝の王、王妃、王子らが葬られた。本質的には「浦添ようどれ」同様の風葬募で、王族の陵墓に相応しく加工してある。大戦時には被害を受け、墓室に穴が開いた写真を見たことがある。陵墓前庭に敷かれているのは砕かれた珊瑚。これは内地の「玉砂利」に相当し、身分の高い家にしか許されない。 王家の陵墓を守る屋根のシーサーは一般のものとは大きく異なり、威厳に満ちている。わが家にもこのレプリカがあるが、それでもかなり重く一度落としたことがあったほど。 陵墓の前庭東側の石碑。内容はある王の悲劇。母を亡くした王子がいた。聡明な王子にちょっとした油断が生じた。ある日若い継母が王子に頼んだ。「王子様助けてください。蜂が着物の中に入ったので捕まえてください」と。純真な王子は疑うこともなく継母の胸に手を入れた。すると継母は大声で叫んだ。「誰か来て。王子が私の胸に手を入れました」と。 それは自分が産んだ王子を次の王にするための計略。こうして王位継承権を失った王子は己の未熟さを恥じ、この陵墓に入るのを拒み、「浦添ようどれ」に葬るよう書き残した由。これは実話だが、王子の何代か後の子孫が再び王統を継いだそうだ。 また「志魯・布里の乱」(しろふり)では王位継承を巡って叔父と甥が争った結果、首里城を炎上させた。いつの世も権力を巡る熾烈な戦いがあるものだ。歴史とは人間の愚かさの証明なのかも知れない。 那覇市国際通り 国際通りを経由し、終点のバスターミナルでバスを降りホテルへ戻った。風呂を沸かして体を温め、その間に靴と傘を乾かし、濡れた衣類を始末し、着替えてサッパリしたところでひと眠り。目が覚めてから「居酒屋赤とんぼ」へ行った。S店長はお休みだったが、いつものメニューを頼んで泡盛を安く飲み、ネパール人の青年と色んな話をして帰った。長い長い雨の一日だった。<続く>
2020.12.22
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<首里城炎上> 有料ゾーン入口 首里城の有料ゾーン入口でチェックを受けた際に「ビニール袋はないですか。飛行機の搭乗用紙が濡れて破れないか心配なので」と言うと、案内嬢が親切に紙ナプキンで搭乗用紙を包み、ビニール袋に入れて手渡してくれた。嬉しい。これなら大丈夫だ。足場が組まれた作業現場が見えた。火災に遭った正殿跡地を丁寧に調査してるのだ。 正殿跡地はこんな状態で、折角大金をかけて復元した美麗な建物は、全てが残骸と化していた。 これが焼失部分の詳細。正殿を含む7つの建物が火事で焼け落ちた。 正殿前に立っていた2本の龍柱(りゅうちゅう)のうちの1本。龍は権力の象徴で、中国では皇帝しか図柄も使えなかった。焼け跡に立つ龍柱が何とも空しい。 御庭(うなー)に集められた、焼け落ちた正殿の屋根瓦。精査後は次の復元に備えて再度利用するもの、細かく砕いて焼き直す瓦の原料とするものなどに分けられる由。 作業現場には見学者巡回用の足場が組まれ、作業の邪魔にならぬようゾーニングされていた。 炎上する首里城 巨額をかけて再現復興した首里城が、なぜ火事になり、なぜ消火出来なかったのかが不思議だ。消防と警察の調査でも出火原因は明らかにならなかった。ただ、電気系統に起因することだけは確かなようだ。当日は遅くまで業者が作業していたが、最後に火気の点検はしたと主張。扉が何か所も閉まっており、警備員が出火場所に近づいての消火活動が出来なかった。何たるざまだ。 出火翌日も煙を上げる首里城 首里城は丘の上にあり、構造上消防車が入れないためホースをつないで消火したが、限界があった由。貴重な史料が水に濡れるのを防ぐためスプリンクラーは設置してなかった。警備員による消火訓練を全くしてなかった。施設管理のための施錠と出火時の対応が連動してなかった。建設した国と管理を委譲された県との連絡体制に問題があった。ニュースを聞いて知った私の理解は以上の通りだ。 火災の数日後には玉城県知事が上京し、安倍総理に早期の再建を陳情したのには呆れ果てた。まだ出火の原因が明らかになってない段階で、何の反省もなく「首里城は沖縄県民の魂なので早期再現復興を」だと。馬鹿野郎。あれを造るのにどれだけ大変だったか。昔の設計図や写真を探し、台湾から貴重な檜の大木を譲ってもらうなど、かなりの年月をかけ、どれだけ苦労したかを彼は知らない。 尖閣諸島に侵入する中国に対しては文句も言えないくせに、超危険な普天間基地の移転問題には反対してばかり。さらに中国とは喜んで共同研究会をするアホ加減。中国は尖閣を自国領と主張し、沖縄の奪還を公にしているのにだ。沖縄県が国に金をねだるのはずっと以前から。沖縄振興費は国民の血税なんだよ。道路の整備も離島の架橋も、他県よりずっと簡単に早く実現してるのを彼らは知らない。 沖縄勤務当時、私の職場へも首里城復元のための調査が来た。柱や壁が赤かったか黒かったかの資料の確認だ。最終的には「赤説」が採用された。塗った赤い漆が経年劣化によって黒ずんだとの結論だ。鎌倉芳太郎氏所蔵の戦前の写真や設計図、建設した宮大工が作った精巧な模型(現在東京国立博物館で展示中)が復興再現に寄与した。 戦災で焼け落ちた首里城 第二次世界大戦の激戦地だった沖縄。地下に日本軍の司令部があった首里城も徹底的な砲撃で焼け落ち、戦後の一時期は城跡に琉球大学が置かれた。同大は日本復帰後国立大学となって現在地の西原町に移転。私もそこで3年間勤務した。沖縄への想いは今も深いが、愛すればこそ厳しくもなる。「沖縄独立論」など中国の策謀以外の何物でもない。沖縄は昔から日本であり、沖縄人は昔から日本人だ。 それをこともあろうに沖縄人は日本の先住民族と国連で訴えた馬鹿な知事がいた。昔から同じ言語と、同じ文字を使っているのに。日本の先住民族は縄文人しかいない。そしてそれは沖縄とも共通の祖先だ。 焼失前の城内 今回焼け跡の現場を確認出来て良かった。珍しい女官用の「湯屋」跡も見たし、王の遺体を一時的に安置する貴重な場所も見た。「東の砦(あざな)」と言う見張り台にも登り、王朝時代の風景を偲んだ。首里城内の御嶽が移された「弁嶽」(びんのうたき)を久しぶりに見た。神の島「久高島」こそ雨で隠れていたが、心の瞳はその島影をしっかりと捉えた。 地下の遺構 首里城正殿はじめ7棟は焼失したが、「世界遺産首里城」は健在。実は世界遺産に指定されたのは地上の建物ではなく、地下の遺構なのだ。焼け落ちた瓦の下に礎石などの遺構がそのまま眠っている。政府は2026年までの再復元を目指す方針とか。それを私が見られる保証はないが、心の中で見ようと思う。首里城近辺の散策はこの後も続き、驚くべき奇跡に遭遇する。<続く>
2020.12.21
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<マックス爺のザッとした沖縄史> 南西諸島地図 ザッとした沖縄史を記します。南西諸島は一時大陸とつながっていた時期があり、その後隆起と沈降を重ねて現在の形になりました。ハブのいない島は海に沈んだため。日本で一番古い人骨が石垣新空港建設作業時、地下の洞窟から数体発見されました。約2万7千年前のもので、港川人や山下洞窟人(共に沖縄県)より1万5千年ほど古いと判定されました。沖縄県から古い人骨が見つかる理由は、アルカリ性の石灰岩のため。内地は火山灰が多く酸性土壌で、骨が融けやすいのです。 石垣市白保出土の人骨(左)と頭蓋骨から復元した容貌(右) DNA解析の結果、縄文人にかなり近いことが分かっています。アイヌのDNAとは少し離れたグループで、インドネシア近辺のDNAの特徴と類似性があったと記憶しています。縄文土器は宮古島が最先端。ただし弥生時代の須恵器は与那国島でも発見され、年代による交流範囲の変化が見て取れます。逆にインドネシアなどと同様の丸木舟を刳り抜くための丸ノミ状石器が、東京の新宿でも発見されています。 デイゴの花 伊豆七島の利島の黒曜石が、広範囲で出土しています。奄美のイモガイやゴホウラガイは国内各地で釧(くしろ=腕輪)に加工されています。逆に糸魚川のヒスイは沖縄本島で発掘。モノや文化の交流がかなり古くからあったことが分かります。全ては丸木舟での移動です。ただ鬼界カルデラや姶良カルデラ(共に鹿児島県)の大爆発による降灰が兵庫県にまで及び、数千年間暮らしに影響を及ぼしたとされています。沖縄では採集が主だった「貝塚時代」が10世紀近くまで続きましたが、最近の学説はどうでしょう。 ユウナの花 文献への沖縄に関する記述は奈良時代からです。阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=石垣島)は、南島人の言葉を「ヤマト人」が聞いた「音」に漢字を当てたのですが、雰囲気は伝わります。沖縄では芋を「ウム」と言います。ヤマトの古語では「うも」です。それだけでも共通性があると分かります。沖縄では日本語の古語が母音、子音共に変化して異なる言語のように感じますが、基底は一緒なので「一方言」とも言えましょう。 ハイビスカス 沖縄には「南走平氏」伝説があります。内地の落人部落と同類です。私は竹富島の集落で、わが祖先は平家と書かれた看板を見ました。また源氏の頭が琉球王朝の祖となったとの説がありますが、「琉球処分」以降に考えられた「日琉同祖論」でしょう。九州南部の倭寇が沖縄の島々に基地を築いたとする説には説得力があり、ヤマトの地名(従って姓も)が多い理由です。 月桃(現地語ではサンニン) 薩摩侵攻以降はヤマトと琉球人を識別するため、同姓の場合は琉球人の姓の漢字や音を意図的に変えました。中曽根→仲宗根。中山→仲井眞。舟越→富名越。中間→仲間、名嘉間。平→平良。松村→松茂良。横田→与古田などなど。ただし山田や石川は変えようがないため、そのまま残っています。 さて11世紀になると、各地に権力者が現れます。いわゆる按司(あじ=領主)です。さらに統一が進んで、3つの王国が誕生します。今帰仁城を根拠とする北山王国は「はん安知」を名乗りますが、領地の羽地(はねち)の音を借りたもの。南山王国は南山城を根拠とし、他魯毎(たろみ)を名乗り、中山王国は浦添から王都を首里に移し、「尚」を名乗ります。中国に朝貢する必要性から漢字を当てたのです。最終的には中山が統一して琉球王朝を開きました。 北山の今帰仁城は女性に変装した中山の兵が敵将に酒を飲ませて酔わせ、油断したところを殺して城を奪いました。 南山城の他魯毎王は希代の女好き。重要な泉を中山王は美女と交換して手に入れ、怒った村人は王を見放した。泉は現在も「美女がー」(美女の泉)と呼ばれています。ただし写真は別の泉です。水道がない昔は大切に扱われ、拝所が設けられたほどです。川が短くてあっという間に海に流れ込む沖縄では、泉は命をつなぐ大切な施設。集落を作る際も「風水」(現地では「ふんし」と発音)的見地から決めた由 。 中城城と護佐丸 中城城城主の護佐丸(ごさまる)は希代の忠臣で、娘を王妃として差し出しました。王の舅です。この城に対峙していたのが勝連半島の勝連城。城主の阿麻和利(あまわり)は力のある豪族で、城下は中国との貿易で栄えていました。それを監視するのが護佐丸の重要な任務。そのため警備の兵を集めて訓練に励んでいました。 阿麻和利と勝連城 阿麻和利の妻は王女の百十踏揚(ももとふみあがり)。阿麻和利は王にとっては婿に当たります。阿麻和利は一計を案じ、護佐丸が兵を集めて謀反を起こしていると、首里に偽情報を伝えます。百十踏揚は父に早飛脚を出しますが、間に合いませんでした。王府の大軍が迫るのを物見から見た護佐丸は全てを悟り、無抵抗のまま王の兵に討たれます。 プリメリアの花 百十踏揚の従者の鬼大城(うにうふぐすく)は事情を知って阿麻和利を討ち取ります。王府軍と阿麻和利軍が戦闘になるのを防いだのです。そして王女と共に無事脱出します。王は王女と鬼大城を結婚させ、鬼大城は新たな任地に赴きます。その後、王に疑念を抱かれた鬼大城は死を賜り、その地に葬られます。王女の百十踏揚は第一琉球王朝の陵墓、旧玉城村の仲井眞城に葬られています。実に悲しい話です。 さて繁栄を誇った琉球王朝に終わりが来ます。内乱で勢いを失った上、後に残されたのは幼い王子。それを救ったのは大臣の金丸(右)でした。彼は伊是名島生まれの百姓で、素性も良く分かっていません。伊是名では彼の田だけがいつも水に満ち、村人たちは彼を水泥棒と疑っていました。い辛くなった金丸は首里を目指して島から逃走します。 月代宮(旧佐敷町) どう運をつかんだのか首里の城への出入りを許され、役人に取り入って出世する金丸。幼い王子の摂政となり、王国の滅亡を救ったのです。当然金丸の人望は高まり、彼の支持者は増加する一方。そして皆に推されるまま王となります。名を尚円と改め、第二琉球王朝の始祖となります。そして彼の子孫は「琉球処分」に到るまで王であり続けます。 百按司(むむじゃな)墓(今帰仁村) 金丸の素性については諸説あり、倭寇の子孫説もその一つです。伊是名島は神秘的な島で、その美しい風景に驚いたものです。海と山に屹立する「海ギタラ」、「山ギララ」の威容。神の憑代(よりしろ)の神アシャギ(足上げ=立ち寄る)からの転)の崇高な雰囲気など忘れることが出来ません。沖縄は不思議に満ちた島です。 大好きなエメラルドグリーンの海 尚円に始まる第二琉球王朝にも幾つかの波乱があるのですが、紙数が尽きたので今日はここまでとします。拙い話でどうも済みません。時間がないため記憶に頼って書きましたが、正確な史実は各自でお調べいただけたら幸いです。ではまた明日。 <続く>
2020.12.20
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<土砂降りの首里> 肺然たる雨の中で私は考えた。首里方面にどうやって向かうか。晴れていれば安波茶(あはちゃ)から首里の平良へ歩けば30分で着く。だがこの雨では無理。腹も減った。郵便配達の人にソバ屋の場所を聞いた。だが定休日で閉店。モノレールで儀保駅に向かう。経塚駅周辺が一変している。次の石嶺も様変わり。30年の間に沖縄はすっかり近代化した。王朝時代の経塚は物騒な峠道で、安寧のため仏教の経典を塚に埋めたと言う。たくさんのお墓の上をモノレールが走る。 経塚で思い出した。経塚を現地の言葉で「ちょうじか」と発音する。そして「ちょうじか、ちょうじか」は呪(まじな)いで、内地の「くわばら、くわばら」と一緒。「どうぞ助けて」の意味。お経は魔物を封じ、桑畑は根っこが張って地震の揺れにも強かった。シーサーは獅子が訛ったもので、家を魔物から守り、「石敢当」(いしがんどう)は中国の強い将軍の名を刻んだ石を三叉路に置き、魔物の侵入や迷子を防いだ。他愛もないが、何だか微笑ましい沖縄の民間信仰。 儀保駅で降りて歩くと、道路の拡幅工事中。菓子店がい。ここでお土産を買う予定だったが移転したのか。安謝川の水量が凄い。大雨が一気に流れ込んだみたい。家庭排水が混じった小川が、下水処理施設が出来たのか今では透明。横道へ入るとサーターアンダギー(沖縄式ドーナツ)の専門店が3階建てのビルになっていた。私たちがいた時はとても小さな店だったのに。 インドワタノキの花 隣にはインドワタノキの大木が3本あった。ピンクの花が素敵で癒されたのだが、1本も残っていない。かつて住んだ宿舎に向かう。「玉城理髪店」は無い。城北小の校庭に入る。次男が少年野球をしたグラウンド。西武の山川はどうやら後輩のようだ。伊礼商店も閉じ、優しかったオバーの姿も見えない。裏の畑は住宅で埋まっていた。30年の歳月が、当時の懐かしい風景を私から奪った。 見るもの全てが異郷に思えた赴任当時。ゴムやガジュマルの大木。パパイヤ、グァバ、マンゴーが植えられた庭。上司の激しいパワハラ。4月末から5か月も続く蒸し暑さ。泥棒が多いため網戸にも出来ない物騒な街。長女の大学進学に伴って妻、次男は2年で本土に戻り、高3の長男のため、私は毎日食事を作り洗濯をした。苦しみの中で2冊の詩集を発行し、島中を走友たちと走り回ったあの当時。 伊江家の陵墓(上)は健在だった。格式高い亀甲墓。王家の親族だけに立派なお墓。周囲は塀で囲まれ、少ししか中が見えなかった。木々が鬱蒼とし、草深い墓地はハブが好む場所。読谷山(ゆんたんざ)王子の陵墓は工事中。当時は楽なコースだったが、今は歩くだけでも息が弾む。石嶺本通りが拡張されてモノレールの軌道に変化。小さな食堂で遅い昼食。ど素人味。これなら私の手料理の方が断然美味い。 王朝時代の首里崎山付近図 「首里りうぼう」でトイレを借り、首里城に向かう。だが「首里駅」の位置が変わって、方角を間違えた。裏口から首里城内へ。だが気が変わり、金城町の石畳道を観に行った。その途中にある中国からサトウキビの苗を持ち帰った儀間真常の墓は不明。30年前も偶然発見した場所。降り続く雨で視界が悪く、金城町の石畳道を通り過ぎ、地元の方に道を尋ねた。 <金城町石畳道> <真玉道の石畳> 「金城町石畳道」は日本の道100選にも選ばれた観光地。赤瓦屋根の家も多くて確かに「絵」になる場所。見どころも多いが今回はパス。教えてもらった「真玉道」を少し下った。最近整備したようだが風情があるこの道は、首里城から那覇の真玉橋までの抜け道と聞いた。初めてだが来られて良かった。 首里城南の崖下に「寒川」(さんがー)と言う名の泉発見。首里森(すいむい)に降った雨が地下水になって湧き、昔は貴重な飲み水だったはず。「寒川」は水の冷たさからの命名だろう。沖縄では川も泉も「かー」と言う。因みに樋のある泉は「ふぃーじゃー」。内地では失われたF音やP音が沖縄にはまだ残っている。寒川はかつての日本軍の塹壕にも使ったようだ。 <首里城守礼の門> 10以上もある首里城の城門の一つから城内に入る。「京の内」に向かう森の中に、御嶽らしい石組を発見。だがそれらは新しく作られたもので、風情も神威も感じられないただの「工作物」だった。世界遺産の園比屋武(そのびやん)御嶽もパス。本来は江戸への旅の安全を祈る場所。城内で一番神聖な首里森(すいむい)御嶽も新しかった。信仰の対象になってないため全く威厳を感じない。 首里城の城門の一つ 入場券を購入する際は「モノレールの2日通用券」を見せれば2割ほど安くなるみたいだが、大雨で注意力が飛んでいた。それよりずぶ濡れになった財布の、飛行機の搭乗用紙が心配。グシャグシャで破れてないかと気がかり。休憩所でこの日2度目の着替え。受付嬢が「授乳室」で着替えてと案内してくれた。ありがとうね、親切に。 首里城城壁 彼女は中城村(なかぐすくそん)出身の由。私が中城村の集落名を幾つか上げると驚いた。中城城主の護佐丸や彼が眠る亀甲墓のこと、中城城の裏道のカニマン(鍛冶屋)の墓のことなど話すとさらに驚く。私は中城城の雰囲気が好きで、4度以上は訪ねた。お礼を言い、焼失した正殿跡へ向かう。<続く> <参考:中城城> 翌日の第3日目に訪ねたが、大雨で全然見えず予定変更した。当時の遺構が良く残っていて姿の美しい城。世界文化遺産の一つ。城内には3つの廓や犬走、降り井戸(うりがー)、首里方面を臨む「除き窓」などがある静謐な城。付近に重要文化財の「中村家住宅」があるが、コロナ騒動で残念ながら閉まっていた。
2020.12.19
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~大雨の中、浦添城を訪ねる~ ゆいレール浦添前田駅 旅の2日目は朝から土砂降り。朝食後朝ドラを観終えると私はリュックを背負ってモノレールに乗った。浦添前田駅で下車。路線がくねくねして、さっぱり方角が分からない。それで駅員に浦添城への道を聞いた。写真は借り物なので晴天だが、実際は風もあって、横殴りの雨。2度目はパトカーのお巡りさんに尋ねた。だが、道が悪そうなので直進。3度目は地元の女子中生。実に丁寧に教えてくれた。 浦添城城壁 初めてここへ来た30年前とはすっかり様子が違っている。迷いながら城への入口を探す。駐車場のとなりに「ようどれ館」が出来ている。きっと資料室だろうが後回しに。浦添とはどんな意味かと、初めて名前を聞いて考えた。かつては「浦襲い」と言った由。浦は港。では「襲い」は。ソウルは韓国語で都の意味らしい。首里(しゅり)も音が近い。奈良には「添上郡」がある。ソウル、シュリ、ソエ、オソイ。やはり「都」だろうと類推。結局「港のある王都」と私は解釈したのだが。 浦添(伊祖)城城域図 かつて沖縄本島の各地に按司(あじ=領主)がいた。12世紀頃の話だ。恩納村以北を統一したのが北山王で居城は今帰仁城(なきじんぐすく)。豊見城以南の南部を統一したのが南山王で居城は南山城。中部は佐敷(さしき)を領地とした尚巴志(しょうはっし)が束ね、1429年に三山を統一して首里に第一尚氏王朝を樹立し、父を初代の王とした。浦添は首里移転前の古都で、良港牧港(まちなと)が、中国や東南アジア諸国を相手の貿易による富をもたらした。 <琉球王朝時代の古瓦> これらの古瓦は浦添城、首里城、那覇市内の古寺跡から出土したもの。1273年英祖王(古図の伊祖城もその音を採った)の統治時代。高麗の瓦工が来島し、浦添城の瓦を焼成。その技術を学んだ島民がそれ以降、浦添城や首里城の瓦を焼いた由。14世紀半ばには日本から製瓦技法が伝わり、勝連城と首里崎山御嶽の屋根を葺いた。16世紀半ばには中国製陶工人が来島して国場村真玉橋に窯を築造、帰化後は製陶、製瓦に励んだ由。やはり朝鮮との関係を感じた私の勘は間違ってなかったようだ。 今帰仁(なきじん)城下郎門 沖縄の城(ぐすく)は日本の城とは本質的に異なる。ぐすくは本来墓や聖地であり、やがて砦(とりで)や城としての機能を持つ。その際も、城内に拝所(うがんじゅ)や御嶽(うたき)などの聖地を持つのが普通。祈りと共にあるのが沖縄の城の特徴。民俗学者で琉球大学教授だった仲松弥秋(なかまつやしゅう氏=故人)の説だ。氏は奄美から先島に到る広範な地域の城とその類型を精査し、学l説を得ている。 さて吉凶や勝敗を占い、敵を呪うのが祝女(のろ)で、その頂点が王の血族の聞得大君(きこえおおぎみ)。古代の「祭政一致」が沖縄ではかなり後世まで残った。 <浦添城の崩れた城壁> <春分の日の朝日が入る位置と角度> 第一琉球王朝の都である浦添と移転先の首里城から春分の日に太陽が見える位置関係が右上の図。琉球神話の始祖神「アマミキヨ」「シネリキヨ」が最初に上陸した久高島は沖縄最大の聖地で、1609年の島津藩侵攻までは王自ら島での神事に参加した。だが征服後は島への上陸が禁止され、対岸の斎場御嶽(せいふぁうたき)から聞得大君が王の代理として遥拝することだけが許されたのだ。神聖な久高島から上る太陽がギリギリ見えるラインが上の図。太陽は沖縄では「てだこ」と呼ばれ、信仰上重要な存在だった。 だから神の島である久高島から上る太陽が城から見えるかどうかはとても重要。沖縄本島の中央部に連なる「脊梁山脈」、運玉森、崎山御殿、知念半島の自衛隊が駐留する山などが邪魔になり、春分の日に見えるかどうか微妙な位置。浦添城、首里城の立地はギリギリの線だったことを初めて知った。本当に見えたことを確認出来、まさに「奇跡」と思えた。その事実は両城内における神事にも影響したはずだ。 <発掘調査後に整備された「浦添ようどれ」の復元図> 浦添城北側(沖縄では北を「西」と呼ぶ。因みに東は「あがり」=朝日があがるため。南ははえ=南風。西は「いり」夕日が海に入るため。)の崖面に建造された第一琉球王朝の陵墓が「浦添ようどれ」。「ようどれ」は夕暮れの意味。日本語の「黄泉」(よみ)に雰囲気が似ている。沖縄の本来の葬制である風葬募(ふうそうぼ)を王の陵墓として整備したもので、戦災で崩壊した遺跡を発掘調査後に再整備した。城下にはや武士(さむれー)の屋敷跡や金属加工の作業場(鍛冶屋)跡があった由。 <ようどれの3つの墓室(左)とその入口(右)> <ようどれの入口(左)と二番庭(にばんなー=右)> 私が初めて訪れた30年前はとても寂しく、白装束の老婆が海に向かって手を合わせていたのが印象的。きっと「ニライカナイ」(海の彼方の極楽=内地の西方浄土に相当)に向かって祈っていたのだろう。聖地には「拝所」や御嶽があり、香炉が置かれて今も参詣が絶えない。嶺々の御嶽(うたき)は、神は高い山上に降臨すると言う、北方民族共通の神話と一致する。浦添城内でも巨大な窪地内に拝所(うがんじゅ)があるのを確認したが、残念ながらネットに写真が無かった。 <ようどれ館(資料室=左)と展示してあった石棺の模型(右)> 最後に寄った「ようどれ館」のボランティアの小母さんがとても親切だった。法政大学が関係資料を寄贈したと話されたので、それは同大に「沖縄学研究所」があり、沖縄出身の外間守善教授(1924-2012=伊波普猷の後継者)がおられたからだろうと教えた。ここで濡れた衣服を着替え、貴重な画像をたくさん観た。最終日に訪れた沖縄県立博物館常設展の臨時職員の対応とは真逆だった。 <伊波普猷夫妻> <伊波普猷の墓所と顕彰碑> 城内の一角に伊波普猷(いはふゆう1876-1947)の墓所がある。彼は那覇市出身の民俗学者で言語学者。「沖縄学の父」と呼ばれる泰斗。キリスト教徒の彼は人妻と不倫して上京。号の普猷(ふゆう)はそのことを恥じ、自分は沖縄では不要(発音は「ふゆう」)な人間とし、号とした。30年前は墓前にあった「ニービ石」が見当たらない。あれはとても沖縄らしくて良かったのだが。 <参考>とても不思議な形をしたニービ石。これは何年か前に私が那覇の奥武山の沖社付近で撮ってブログに載せたもので、ネット内にあった。「にーび」は鈍色(にびいろ=鉛色)の変化であることを今回初めて知った。砂岩の一種で高温、高圧で圧縮され、切断面は見事な鈍色だ。 ようどれ(岩窟内の陵墓)内の3墓室の配置図。西室は図の一番右手。石棺(沖縄では特別な呼び方がある)は中国産の石で、精巧な彫刻が施されている。この聖地も大戦時米軍の攻撃を受け、レリーフが破損している。また盗掘された痕跡のある石棺を3日後に沖縄県立博物館で観た。歴史研究は本や資料だけでなく、現場に臨むことが重要。なぜなら何らかの示唆と発見が必ずあるからだ。<続く>
2020.12.18
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~居酒屋「赤とんぼ」の話~ ホテルを出てからかなり経った。5km程度の裏町探訪。今度は真逆の方向へ向かった。広い通りに店が幾つか。地元の方に「居酒屋赤とんぼ」の場所を聞くと、国道58号線から直ぐの場所だった。外観も素敵だが、中へ入ると凝ったインテリア。「うちなー」の雰囲気がそこかしこに漂っている。これは良い店と直感。店員がカウンター席へ案内してくれた。 ここも、でーじ(大変)良い感じ。早速メニューを確かめ、数種類の料理を注文。大根の煮物がお勧めだそうだが、そんなのは家でも食える。沖縄へ来たらやっぱり沖縄料理を戴くのが「筋」だろう。沖縄らしさを求めてこの店に来たのだから。なお大根は現地の言葉で「でーくに」だったかな。 「お通し」も美味しかったが、先ずはゴーヤチャンプルー(左)。沖縄料理の定番だ。写真は全部ネットからの「借り物」だが、実際はもっとゴーヤが多く、食感がシャキシャキだった。右はてびち。つまり豚足だ。それを5時間茹でて脂分を落とし、薄く塩で味付けしたもの。コラーゲンたっぷりで、とても美味しかった。多分肌はツルツルになったはず。なお、沖縄では「ブタは鳴き声以外は食べられる」と言われている。ブヒーン。 もずくは沖縄が国内最大の生産地。本島北部の古宇利(こうり)島で栽培してるのを、ランニングしながら見たことがある、対岸の今帰仁村ではモズク用のネットが干されていた。右は超レアの「豆腐よう」。豆腐を発酵させたもので。恐らく製法は中国から伝わったと思う。味はチーズ臭が濃く、お酒のつまみにはピッタリだ。箸ではなく「爪楊枝」で少しずつ食べるのが作法。 飲み物は「島酒」。つまり30度の泡盛をオンザロックで。強いが泡盛本来の味が楽しめる。右側の「久米仙」は久米島産で味は淡白。水は堂井(どーがー)の湧水(わちみず)を使用。左の「菊の露」は宮古島産。独特の味わいで、最初は戸惑うはず。5年以上寝かせた泡盛は古酒(くーすー)と呼ばれ、度数以上に豊潤さが増す。毎年若い泡盛を少し継ぎ足して、古酒の全体量と豊潤さを維持する。 店長のSさんは宮古島出身で、宮古島のことをかなりゆんたく(おしゃべり)した。宮古島へは2度行った。最初は仕事で、翌日は早朝に狩俣方面向かって走った。2度目は「宮古島ワイドーマラソン」100kmに参加。1月の4時スタートで、2時間半は真っ暗状態。橋を渡った栗間島も入江湾も見えず不気味だった。右は池間大橋。橋の上は西風が強くて寒かったが、東北人の私はランニングシャツでもOK。13時間の走り旅を楽しんだ。 左上は宮古島特産の「宮古上布」(みやこじょうふ)。超高級品で、琉球王朝時代はこの宮古上布が税金代わりに納められた。布の素材はカラムシ(右上)。シソ科の植物で、丈夫な繊維が採れる。カラムシは縄文時代から内地でも栽培され、布として織られた歴史がある。古代名は「苧麻」(ちょま)。私は100kmレースの途中で、カラムシを専門に栽培している植物園も見学した。 <上空から見た多良間島> <多良間のサトウキビ刈> Sさんの母上は多良間島出身なので、多良間島を少しだけ紹介したい。多良間は宮古島と石垣島の中間に位置する離島。主な産業はサトウキビとのこと。キビ刈りは結構重労働だ。1600年代初頭、琉球は薩摩藩に侵略されその支配下に置かれた。サトウキビは薩摩藩にとって一番の換金作物。そのため出来る限りの農地にサトウキビを栽培させた。そのため飢饉の際、ソテツの実を毒抜せずに食べて死んだ農民が多かったと聞く。 沖縄の島民が餓死せずに済むようになったのは、儀間真常(ぎま・しんじょう)が中国から「からいも」(サツマイモ)の苗を持ち帰って以降。それが薩摩を経て青木昆陽が全国に広めたため、「サツマイモ」と呼ばれるようになった。 Sさんがスマフォで国重要無形文化財の「八月踊り」の画像を見せてくれた。ウィキペディアによれば、組踊などの踊りを3つの集落で踊る由。組踊(くみおどり)は琉球王朝時代、「踊り奉行」の玉城朝薫が、江戸の歌舞伎と琉球舞踊を組み合わせて創作した芸術。浦添市に「国立組踊劇場」が建設されている。また那覇市の沖縄県立芸術大学には、沖縄の伝統芸術、伝統芸能を学ぶコースがある。 ソーメンチャンプルー 話は尽きないが、「締め」のソーメンチャンプルーを食べて私は「赤とんぼ」を出た。全くの偶然から入ったお店。まさかここに3晩連続で通うことになるとは。それだけ不思議な縁だった。あまり興奮し過ぎたせいか、夕食後の薬の服用を忘れた。地域クーポンがここでも使えて良かった。さて、明日はどこへ行こうか。天気予報は雨だが、どうしたものか。 <続く>
2020.12.17
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~那覇の裏道を歩く(2)~ 波之上宮 次に向かったのが「波之上宮」。扁額には「沖縄総鎮守」とあった。へえ、ここが沖縄総鎮守ねえ。どうして沖縄全体を守れるほどの霊力(地元の言葉でセジ)を持ってると言うのだろう。ちょっと頑張り過ぎじゃないの。元々沖縄の神社はこんな日本式の姿じゃなかったんだよ。それが「琉球処分」後は近代日本に組み入れられ、すっかり「垢」が抜けてしまったんだよなあ。 ネットで画像を探すと、こんなのが見つかった。これだと本来の沖縄の神社の様子が少しは感じられる。ここは海岸で小さな岬の突端部。こういうのを「端」(はな)と呼んだ。そこに小さな社を建てたのが「はなぐすく」の始まり。今では「花城」なんて美しい字を当ててるけど、本当はごく自然な信仰の地で、もっと言えば島の「根っこ」には洞穴がたくさん見える。多分昔はそこが風葬地だったはず。 御嶽(うたき=聖なる場所) 気温が高く、かつ湿度が高い沖縄では、洞窟に人を葬ると、あっという間に腐敗が進んで人骨が残る。これがもっとも効率的な遺体の処理方法だったはず。そして死者を葬った洞(現地の言葉ではガマ)が聖地になった。なぜならそこは祖先たちが眠る場所。そこに拝所(うがんじゅ)を設け、ノロ(祝女)が祈った。この「のろ」も古代日本との接点だ。 今でも沖縄の各地にいるノロ (祝女) 「のろ」は「祝う、のる=話すの意」、そして祝詞(のりと)、呪う(のろう)とも共通する古語。人名の野呂(東北の「のろ」さんは神職が多い)と言う系譜もあるんだよね。昔の女性は誰も熱心に神に祈ったが、霊力(せじ)が強く専門の祝女になった方もいる。久米島の(君南風=きみはえ=現地語で「ちんべー」)や久高島の、外間祝女や西銘祝女などはその代表格。 聞得大君(きこえおおぎみ) その祝女の頂点に立つのが「聞得大君」(きこえおおぎみ)で、王の親族で未婚の女性がこの職に就いた。王は政治の頂点だが、聞得大君は神行事の頂点。琉球王朝時代は神事で国の政(まつりごと)を占った。古代の卑弥呼や、天皇家と斎宮の関係と酷似している。「琉球八社」は波之上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、安里八幡宮、天久宮、金武宮、末吉宮。私はこのうちの5社を知っている。 夫婦瀬公園 さらに幾つかの公園を見ながら歩いた。奥の岩山は琉球王朝時代の小島だ。当時の那覇には平地が少なく、海中の小島へは長矼(ちょうこう矼=橋)と呼ぶ人がすれ違える程度の橋を架けてつないだが、土砂で海水面が上がって不便になり、新しい石橋に架け替えた。それが今も名前が残る「美栄橋」(みえいばし)で、モノレールの駅名にもなっている。 夫婦瀬公園で初老の男と話す。私が宮城県から来たと言うと、東日本大震災当時仙台で解体工事をしたと男。27階建ての倒れかけた建物だそうだが、そんな話は聞かない。妻と別れ孫とも会えないと私が話すと、彼も同じく孫と会いたいとこぼす。子と会う権利はあるが、孫と会う法的な権利はないと教えるとガッカリした表情。二人ともマスクなしでしゃべった。もしコロナ感染なら原因は彼。夕暮れが迫る。さあそろそろ居酒屋「赤とんぼ」へ急ごう。<続く>
2020.12.16
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~プロローグ 那覇の裏町で(1)~ 仙台空港11時発のピーチ機は定時に、那覇空港に着陸した。懐かしい瀬長島を眼下に見たのは久しぶり、空港は西側へ大きく拡張されていた。空港ビルで迎えてくれたたくさんのランの花たち。荷物を受け取り、そのままモノレールの駅へ。少し迷ったものの、「2日通用チケット」を1400円で購入。実はこれが大当たりで、3日目(まる24時間有効)に物凄く役立つことを、この時はまだ知らない。 旭橋駅でモノレールを降り、3連泊するリゾートホテルへ。チェックインしてキーを受け取り、部屋に荷物を置くと、私は裏町を西へ向かった。ホテルの葉さんから晩飯に適した居酒屋の名を聞き、そこを探そうと思ったのだ。ところが居酒屋「赤とんぼ」がなかなか見つからない。でも私はすたすた北へと歩き続けた。すると左前方の空き地に「松ノ下」と書かれた木札を発見。 これにはビックリ。住所は辻(ちーじ)。「松の下」は那覇でも有数の料亭。名前を観た瞬間、私は一冊の本を思い出した。著者は上原栄子。中部の貧しい農村に生まれ、縁あって那覇の料亭に勤めた。彼女の仕事は女郎(じゅり)で、酒の相手をする仲居だ。だが琉球王朝時代から続く辻の料亭は格式が高い。女郎は教養を積み、芸事はおろか客の仕事の話から家庭の困りごとまで相談に乗る、重要な任務を担っていた。だから当時の料亭はとても大切な接待の場だった。 特に乞われた女郎は、旦那を持つことがあった。それは旦那の奥様も公認の間柄で、新年の挨拶など旦那の自宅訪問すら許される存在で、むしろ奥様は夫の仕事の成功につながる女郎に感謝の念すら抱いていたと聞く。著者の上原栄子は辻でも飛び切りの容貌と頭脳と気立ての良さを持つ女郎として有名。太平洋戦争後に進駐して来た米軍将校たちとは、自ら学んだ英語で応対出来た才女だった。 故国に妻がいる一人の将校が、人柄に惹かれて栄子と深い仲になる。他人には仲睦まじい夫婦のように見えたそうだ。だが歳月が流れ、任務を終えた彼が帰国する日が来る。それが女郎の厳しい定め。寂しさを堪え栄子はその後も辻で働いた。だが旦那を持つことは二度となかった由。彼女の実話が「辻の華」。 それを原作として1956年に米国で映画化されたのが「八月十五日の茶屋」。確かアカデミー賞を受賞し日本でも大評判になったはず。主演は京マチ子。私は当時まだ12歳。映画を観た訳でもないのに、記憶が鮮明なのが不思議。その33年後に沖縄に転勤して原作を読み、64年後に料亭の跡地に立つのだから、不思議な縁以外の何物でもない。 「じゅり馬」と言う言葉を思い出し、画像を探した。「辻じゅり馬祭り」は旧暦1月20日(二十日正月(現地語でハチカーソーガツ)に商売繁盛と五穀豊穣を祈願する祭り。各料亭から選ばれた女郎(じゅり)たちが華やかに着飾り、馬の頭を付けた飾り物をつけ(左)、「ユイユイ」(よいよい)と威勢よく声を上げながら道を練り歩いたのが「じゅり馬行列」(右)で、早春の那覇の風物詩。日記公開後に思い出し、急遽書き足したが、良い勉強になった。これもきっと何かの縁。 至聖廟正面入口 次に向かったのが「久米至聖廟」。通称孔子廟。久米(現地語では「くみ」)は琉球王朝時代に中国人が住んだ地区。彼らは達者な語学力を武器に、琉球と諸外国との通詞(つうじ=通訳)として中国から派遣された。そのまま帰化し琉球に残った子孫がいわゆる「久米二十六姓」。彼らが故国を偲んで建てたのが孔子廟だ。 至聖廟堂遠望 この日も地元の方が「久米二十六姓」の末裔と言う台湾人を案内しておられた。かつてこの土地を那覇市が無料で貸したことが裁判沙汰になった。特定の宗教を優遇するのは憲法違反との原告の訴えを那覇地裁が認め、それ以降は関係団体から幾ばくかの借地料を徴収することになった。なお「久米二十六姓」は今も残り、例えば「馬姓」、「蔡姓」など一族を束ねる門中(むんちゅう)の象徴として存続する。 <関羽候> <媽祖像> ここに祀られているのは孔子や孟子などの儒者。関羽(かんう)、劉備(りゅうび)など歴史上の英雄。そして媽祖(まそ)などの民間信仰。これは中国も台湾も同様で「何でもあり」状態の多神教。媽祖は福建省や広東省など中国沿岸部で信仰される海の女神で、航海の守り神。琉球の進貢船は福建省の福州市に入港するのが当時の約束事で、沖縄独特の亀甲墓(かめこうばか)は、福建省の墓制が伝わったもの。 <至聖堂内部> さて日清戦争の背景には、難破漂着した宮古島民の台湾の蛮族パイワン族による殺害事件がある。明治政府は清朝に厳重に抗議するが、清朝は「台湾は化外の民」(けがいのたみ=清国とは無関係の蛮族)と強弁。日清戦争で勝利した日本は、下関条約により台湾と南満州の割譲を受けた。実は琉球を3等分し、奄美以北を日本領、沖縄本島周辺を琉球領、宮古島以西を清国領とする案がそれ以前に存在したが、日本の勝利により雲散霧消。かように歴史は、その後の国や民族の運命を大きく左右する。<続く>
2020.12.15
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<エピローグその2> 皇帝ダリア 翌朝目覚めたのは6時半。5時間ちょっとは眠れたようだ。布団を上げ、前夜の食器を洗い、洗顔。天気は良くないが、洗濯物を干そう。上手にスペースを使い、大量の衣類を全部干した。朝食は昨夜の残り物をお粥に。野菜と果物をたっぷり。たんぱく質が少し足らないかも。オシッコは透明だし、ウ〇チも上等。沖縄でも連日野菜をたくさん食べたせいか、体重は1.5kg減っていた。良く歩いたもんね。 葉ボタン 朝食後、4日分の新聞を読了。畑の白菜を紐で縛り、大根、植木鉢に水やり。午前中にHCへ行き、電気ポットを買った。実は前夜ヤカンで沸かしたお湯が茶色になっていた。水が少ないままで沸騰させ、焼け焦げていたのだ。認知症になった前妻が最初に焦がし、今回私が焦がした。これでヤカンの用を足すのは無理。昼食後バスに乗って街へ出かけた。用件は時計を買うこととバス乗り場の確認。 腕時計が沖縄旅行中に壊れた。時間は確認出来ても、腕に嵌められない。これでは不便。旅行の残金で間に合った。腕時計は必需品なので嬉しい。次に長距離バスの「40番乗り場」を確認。昨夜I君が盛岡に行くための場所。仙台駅東口ではなく、少し離れた広瀬通りの方だった。果たして彼は発車時間に間に合っただろうか。スマフォを使いこなす工学部の彼なら大丈夫。たとえ失敗しても良い経験になるさ。 山茶花 地下鉄の終点から家まで歩いた。ともかく出来るだけ長く使える足を残す必要がある。そのためには歩くに限る。それにタダ。夕方前に洗濯物を取り込み、味噌汁を作り、魚を焼き、沖縄の旅の話を2回分予約し、これから夕食の準備。次回は当然旅のスタートから書くが、さてネットからどんな「絵」が借りられるか。実はCPに写真が取り込めないで困っている。来週は俳句教室があったりで忙しくなるし。 沖縄の紅型(びんがた) そして少しずつ大掃除をし、年末と新年を迎えたい。お土産をご近所に配った。私の分はない。沖縄で美味しい物をいただいたし、大切な思い出も出来た。それで十分。いや、それこそが一番大事かも。人に出会い、歴史や文化と出会い、不思議で聖なるものと遭遇した。全ては「縁」の為せる業。お金を出して得られるものではない。今回もありがとうね、沖縄。元気なうちにまた行けたら嬉しいけどね。<続く>
2020.12.14
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<エピローグその1> I君とは仙台空港で別れた。彼は一足早くアクセス鉄道に乗り、仙台へ向かった。私は預けていたバッグを受け取り、次の鉄道で自宅へ向かった。もうすっかり夜だ。その日の那覇は好天で24度まで上がった。だが夕方の仙台は10度。私は慣れているが沖縄の気候に慣れたI君は、寒くはなかったろうか。それよりも仙台から無事盛岡行きのバスに乗れただろうか。 N駅で降りると、偶然にもわが家方面に向かうバスが待っていた。これは超ラッキー。ところがどっこい。バスを降りる時にバランスを崩した。右手に持ったキャリーバッグが重い上、バスのステップと歩道に段差があった。つかまる物がなく、私は「たたら」を踏んだ。だが転ぶこともなく何とか踏ん張った。次の鬼門はわが家の外階段。ここでもよろけたが、咄嗟に垣根を掴めた。危ない危ない。ほんの一瞬の間だった。 玄関に入って先ずやったのが、キャリーバッグの車輪を拭くこと。これで室内に運べる。次に4日間ですっかり萎れた、植木鉢への水やり。それからようやくカーテンを閉め、全ての洗濯物を洗濯機へ。水量は50リットルで良いだろう。それからカバンの中身を区分。洗面具、各種資料、お土産などなど・それらを所定の場所に仕舞い、4日ぶりにパソコンを開けた。 メールはざっとタイトルを見て全部消した。ブログは留守中に結構なアクセス数があった。そして思いがけないものを発見。なんと那覇で夕食を摂るために3日連続で通った居酒屋の店長、Sさんがコメントしてくれていた。これには正直驚いた。本当に不思議な縁。わずか2回カウンター越しに会話しただけだったのに、今ではでーじ(沖縄方言で大変)懐かしい人になっていた。 沖縄のお守りサングァー(1) 彼の書き込みによれば、私が転倒もせずに2回とも無事だったのは、きっとサングァーのお陰だと。写真がないため、ネットから借りた。彼が最後に別れる時にくれたものに、雰囲気が似ていた。本気で彼が私のことを心配して、新しい物を渡してくれた。それを小銭入れのファスナーに付けた。その小銭入れにも実は今度の旅で大変な出来事があったのだ。それはまさに奇跡。不思議なことの連続だった。 本来のサングァー 本来のサングァーはこんな風にススキの葉を結んだもの。それを母が子の安全を守るためとか、家に魔物が入るのを防ぐためとか、お弁当が腐らないようにとか、そんなことを願って作る物のようだ。何と素朴で、しかも愛情深い文化なのだろう。それを本土からやって来た旅の男にわざわざ渡してくれたのだ。それが沖縄本来の優しさだと思う。確かにこれは効いた。島ラッキョウの辛さも効いたのだが。 遅い夕食を摂り、ようやくいつもの薬を飲み。戴いたコメントへ返事を書き、無事帰宅した挨拶を翌日分のブログとして書き、風呂に入って横になった時は翌日の1時くらいになっていた。実に長い一日だった。唇にピリピリ感が出たのが心配。疲労が重なると現れる「口唇ヘルペス」の前兆。島ラッキョウの影響なら良いのだが、翌日これが果たしてどんな風になるか。<続く>
2020.12.13
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<ごあいさつ> 首里城から見た那覇市内 今回の沖縄への旅は、たまたまツーリストから届いた案内を観たのがきっかけで、それを選んだ最大の理由は、「goto」でとても安い料金だったため。読谷のリゾートホテル3泊もあったのですが、私は那覇3泊を選びました。私の目的は観光じゃないからです。 沖縄の染色。紅型(びんがた) この機会を利用して懐かしい場所を訪ねて見ようとしただけで、詳しいスケジュールは決めてなかったのです。何せ私は車の運転が出来ない上、普通の沖縄観光をする気は全くなかったから。それにお天気が悪いことは天気予報で知っていたので、現地に行ってから決めようと私にしてはトンデモナク良い加減な旅でした。それに写真がPCに取り込めない状態で、現地で撮っても果たして載せられるかどうか。 シーサーとハイビスカス 写真がないのも淋しいため、予めネットから借りたのを張り付けることにします。これもなかなか楽しいものです。私の下手な写真よりよっぽどリラックスできるかもね。しかしこんな良い加減な旅でも、思いがけない出会いの連続でした。それはまさに「縁」という言葉がぴったりの不思議さでした。そしてモノレールが何と延長されているのを知って、2日間通用する切符を買いました。それが大当たり。 モノレールと久茂地川 どこへ行ったかはまだ内緒にしておきましょう。でも沖縄の歴史と宗教に関わる場所であることだけを伝えておきましょうね。1日目は曇り。2日間は大雨と強風。皮肉なことに何と最終日は朝から晴れ。そんな中で、思がいけないたくさんの出会いがあり、やはり沖縄へ旅して良かったとしみじみ思ったものでした。 伝統の赤瓦の家 実は私は平成元年から3年間沖縄で勤務した経験があります。それに沖縄から転勤した後も、24回くらい沖縄を訪れています。その大半は趣味のランニングのためで、純粋な観光は1回か2回くらい。後は仕事を兼ねての旅もありました。離島へもかなり行きました。数えたら16くらいの島へ行っています。だから沖縄のことはかなり詳しいです。地図もたくさん持ってますし。 ツバキ科のイジュの花 それに仕事柄沖縄関係の本はたくさん読みました。歴史、風俗、文化、文学、美術、生態系などあらゆる分野を200冊以上。今でも自宅に沖縄関係の本が20冊は残っているでしょう。偶然沖縄に勤務することになり、とても大変な経験をしました。それを救ってくれたのが職場の走友たちでした。あの厳しいい自然環境の中で、良くあれだけ走れたものです。 崇元寺石門(那覇市安里) 沖縄には古い時代の日本が残っていると直感しました。表面だけ見たら内地と沖縄は全然違います。でも言語、宗教、文化の基層に共通する部分があるのです。恐らく沖縄の人も、内地から沖縄へ転勤した人もなかなかそれに気づかないでしょう。でも色んな分野の本を読み、文化を丁寧に観察すると親しみを感じます。東北と共通する部分があるとのは、共に疎外された歴史のせいかも知れません。次回から旅の話を書く予定です。退屈でしょうが、どうぞお楽しみに。ではまた。
2020.12.12
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~映画「ちむぐりさ 菜の花の沖縄」を観て~ 目が覚めた時は朝の7時28分。猛スピードで着替え、鎌と軍手を持って家を飛び出す。月の第1日曜日は7時半から町内会の草刈の日。その準備として、前日玄関に鎌と軍手を置いていた。だが夜中に目覚めて睡眠剤を飲んだのが悪かった。前日走った疲れもあったのかも知れない。何とか3分遅れで作業中の仲間に挨拶し、さり気なく草刈をした。側溝に下りてドブさらいする人たち。 そんな力仕事は無理。土手の雑草を刈り取り、Kさんの指示で花壇の金網にへばりついたアサガオとフウセンカズラを刈り取った。この夏、バス停で待つ人の目を楽しませてくれた花々も、今は少しみっともない姿に。ゴミを集積所に運んで今年最後の草刈を終了。帰宅後ドライカレーを作る。朝食を済ませて出かける前に、バスの発車時刻を確認。今日は映画を観に街に出るのだ。 デイゴの花 観たのは「ちむぐりさ 菜の花の沖縄」。沖縄テレビ開局60周年を記念したドラマで同社の女性キャスターが監督したとのこと。石川県から来た少女が沖縄の人や様々な出来事と出会う中で社会性に目覚めて行くと言うストーリー。だがあまりにも内容が白々しくて、観るのが嫌になった。「ちむ」は「肝」の変化で「心」のこと、「ぐりさ」は苦しさ。つまり内地人の沖縄に対する心苦しさがテーマ。 黄色のハイビスカス ところが映画に出て来る沖縄の人が全てで善人で少女に優しい。それは良いとして辺野古集落の住民に「沖縄は日本の植民地」と語らせる。おいおい、ちょっと待てよ。辺野古に基地を招いたのは地元辺野古の人たちなんだよ。それで莫大な予算が降り、住民は競ってバーやナイトクラブを建てた。「ベトナム戦争」の頃、若い米兵は猛り狂ったように酒を飲み、大金を使った。 ユウナの花 だがベトナム戦争が終わると、集落は閑古鳥。バーやナイトクラブは荒れ果てた。そこへ今度は老朽化した普天間飛行場の移転先として辺野古の拡張話が出た。お金が欲しい辺野古の漁師たちは今度は漁業権を放棄した。もう20年以上も前に決まった話。だがいざ埋め立てが現実になると、「新基地反対」のグループがやって来た。県内だけじゃないよ。県外の労働運動のプロ。中国や韓国系の運動家。彼らには日当も支払われているとか。それに「新基地」ではなく、海上への拡張で県知事も認めたものだった。 政府は北部振興のため、名護市に国立高専を新設し、隣の恩納村に大学院大学を造った。名護市の私立大学には助成金が、そして離島には橋が架かり、道路は見違えるように整備された。県の要望を汲んだものだが、県知事の交代で県は方針を変えた。県は沖縄振興を訴えるが、国への協力はしない。辺野古移転は、老朽化して危険な普天間基地を返還するためだよ。それなのに「新基地建設反対」と呼ぶ欺瞞性。 重文中村家住宅 第一、沖縄の米軍基地は日本を守るため。中国大陸に一番近い沖縄県は、最も危険な最前線。現に尖閣には中国の公船が140日も連続でい続け、時には石垣島の漁船を追い回している。それなのに知事や県職員が中国に招かれ共同研究するなんて非常識。左傾化した地元紙が親中に熱心で、「琉球独立論」を擁護するなんて論外。中国の防衛費はここ20年で40倍に増えているのに。 焼失した首里城正殿 だから映画は沖縄の真実の姿を映してないと強く感じたのだ。首里城が管理上の不手際で炎上した際、沖縄県知事は上京して総理に訴えた。一日も早く沖縄の魂を復元してくださいと。馬鹿野郎。寝惚けるんじゃない。都合の良い時だけ総理に訴え、都合が悪いとそっぽを向く沖縄県。まるで韓国みたい。反日一本鎗の癖に金だけは一人前に要求する腐った隣人。 わが家のハイビスカス そんな訳で、今回観た映画は何のインパクトも私に与えなかった。私は沖縄本島を隈なく観、数多くの離島も訪ねている。辺野古基地の前も、ヤンバルのヘリパット基地工事の現場も、自分の足で走って通った。沖縄の米軍基地のほとんどを観、2つの基地へはマラソンレースで入った。沖縄マラソン(フル)では嘉手納基地へ、キャンプキンザ―マラソン(ハーフ)では同基地へ。基地内がコースなのだ。 <狭くて古くて超危険な普天間基地の飛行場> 3年間勤務した今でも大好きな沖縄。転勤後も20回以上訪れた沖縄。愛すればこそ真実の沖縄を伝えて欲しいと願う。南シナ海の軍事要塞化したサンゴ礁を見ろ。香港のあの惨状を見ろ。危険が迫る台湾を見ろ。そしてやがて沖縄へも中国の魔の手が伸びると知れ。中国の真の怖さを知れ。映画を観て帰宅すると、居間のハイビスカスが咲いていた。今年5回目の開花。このまま沖縄が平和であることを強く願う。<続く>
2020.11.02
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~秋の実によせて語る南の島の話~ 昨夜旅から戻った。いや、戻ったはずと書いておこう。だってこれは予約で書いたブログ。今日ので9回分を予め書いている。それだけ暇なのだが、全体の構成にも心躍るものがあるためだ。 先日ある動画を観ていた驚いた。なぜかと言えば私の主張と寸分違わないことをYoutubeで言っていた人がいたからだ。何と言う奇遇。世の中には同じようなことを考える人がいるもんだと、改めて知った次第。 話と言うのは他でもない。首里城の焼失とその再建に関することだ。それも純粋な沖縄の人が、真剣に語る言葉に胸を打たれた。対談していたのは我那覇真子さんとその師匠。師匠は大和名だったが、語り口からウチナンチュだと確信した。沖縄のことをたくさん知っていたからねえ。 感心したのは他でもない。なぜ再建を急ぐのか。その前に火事の原因を確かめ、責任の所在を明らかにするのが本筋じゃないかと。ほほう、沖縄にも筋の通った人がいるもんだ。これにはビックリ。そしてそれは私がこのブログに書いたことと寸分も違わないことだった。 彼らは言う。玉城デニー知事は、ある不祥事の追求から逃れるため、あの火災の時に韓国へ行っていたのだと。そして首里城炎上のニュースを聞いて韓国から帰国し、その足で首相官邸へ行き首里城再建を訴えたのだと。そんなのは美談でも何でもなく、単なる責任転嫁だとも。 いやはや驚いた。私の意見とまったく一緒。そしてあの火事は人災だとも。それも一緒。その後焼け跡から、焼け焦げた配電盤と、つなぎっ放しになっていた延長コードが発見された。今年の2月には首里城の管理権を国から沖縄県に譲ってもらっている。観光の財源になるためだが、果たして管理が十分だったのか。 そのことも全く同意見。私は管理の実態は知らなかったのだが、直感でそう感じていた。なぜなら本質的にルーズな沖縄人の姿を知っていたからだ。不都合が生じたら責任転嫁し、しかもお金だけは強く要求する。そんな姿を何度も見て来た。まるでどこかの国とそっくりではないか。 「師匠」は言う。焼けた首里城は沖縄の魂なんかではない。戦後あそこにあった神社こそが真の魂だと。その神社は弁御嶽(べんのうたき)に移された由。その神社なら私も観たことがあった。何と言う偶然。不思議なものを観るのが好きな私は、原付に乗って良く沖縄本島内を巡っていたのだ。 沖縄の真の心とは何だろう。本当に大事なものとは何だろう。それは沖縄人自身で考えないと答えは出い。だから城の復元なんかはずっと後で良いんだ。それが師匠の結論。首里城炎上は天罰とも言っていた。私は心の中で叫んだ。沖縄にも真実を愛し、追及する人がいるんだと。ああ嬉しい。 実は我那覇真子さんらはラジオ放送で沖縄県政批判をし、ラジオ局から追放された人たちなのだ。沖縄には「琉球新報」と「沖縄タイムス」の2大紙があり、テレビ(ラジオ)局も持っている。これらのマスコミが沖縄世論を操作し、自分たちに不都合なことは一切報道しないのが実態だ。 それに加え、中国や半島国家の工作員、内地の職業的な運動員が米軍基地反対や沖縄独立をけしかけているのが実態で、多くの県民はその事実を知らない。何と言う不幸。何と言う「井の中の蛙」。我那覇さんたちの運動が実を結ぶことを強く願うゆえんだ。さて、明日からは山陰の旅の続きに戻ろう。
2019.11.28
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~苦しみのゴール~ 今帰仁村 ワルミ大橋を渡った先で、「電照菊」をハウス栽培していた。電灯で夜も明るく照らし、早めに花を咲かせて出荷する方法だ。県道72号線から71号線へ出ると、道端で網の修繕。モズク用らしい。高校駅伝県予選大会役員の動きが、急に慌ただしくなった。どうやらそこがゴール地点みたい。間もなく前方から選手たちが走って来る姿が見えた。 <世界文化遺産 今帰仁城平朗門 > 北山高校を過ぎ、今帰仁城へ寄った。ここへ来たのは3回目。入り口に立派な資料館が見えた。世界遺産になって以降、入場料を取るようになったようだ。懐かしい城門を潜り、二の廓、一の廓と順次登って行く。伝説の鍋切り岩も、小川へと降りる裏門も久しぶり。二の廓から東シナ海を見下ろす。この雄大な景色を今でも思い出す。その後豪雨で石垣が崩れたとのニュースを聞いたのは、昨年のことだ。 <今帰仁村立歴史文化センター> 歴史文化センターへ入った。村立にしてはなかなか立派な内容。古代から琉球王朝時代の歴史資料などが展示され、「百按司墓」の写真など興味を引くものがあった。ここは元北山王の根拠地で、中山王に攻め滅ぼされてからは琉球王朝の北の守りとなった城。沖縄の城の中でも好きな方で、平朗門の石組は他の城にはない青みがかった石質だ。疲労が出て、私はここで1時間ほど休憩していた。 フクギ並木 山を下って西へ向かうと本部(もとぶ)町へ入る。県道から本部半島最西端の備瀬崎へ行ってみた。遠回りだが、これが最後のチャンス。この集落のフクギ並木を見たかったのだ。なるほど立派な並木が集落を守るように植えられていた。強い西風を防ぐ防風林なのだろう。浜辺では内地の人が休憩していた。沖縄に魅せられて、ここに長期滞在してる由。海岸に沿って海洋博公園へ抜ける。伊江島タッチュウが遠望出来た。 海洋博公園 海洋博公園(通称)は海洋博覧会会場跡地に出来た国立の公園。最初にAさんに案内してもらったほか、「海洋博トリムマラソン」で2回来たことがあった。公園内がスタート、ゴール地点なのだ。無料地区の浜辺から美しい景色を眺めた。今は「美ら海水族館」が特に有名で、県外からの観光客も多いようだ。沖の小島が伊江島で、尖がった山が伊江島タッチュー。日本語の塔頭(たっちゅう)が語源だろう。 瀬底大橋 公園から一路南へ。海をまたぐ渡久地橋は初めて走って渡った。マラソンコースはここを迂回して渡久港経由だからだ。瀬底大橋の袂まで来たが、島へ渡る元気はなかった。それに夕闇が迫っていた。残された体力で果たして名護市東江(あがりえ)のホテルまで帰ることが出来るのだろうか。本部港を通過した頃には真っ暗に。そのまま古い国道沿いに行くか。それとも海辺のバイパスを行くか。 <国道449号線バイパス> 結局新しく出来たバイパスを選んだ。歩道があって安全と判断したのだ。それはそれで良かった。だが行けども行けども自販機がない。つまりここは通過するだけの道で、人家がないのだ。後は残った飲み物がどこまで持つか。真っ暗ではないものの淋しい道。名護市宇茂佐(うもさ)付近で力尽き、とうとう歩き出した。不整脈も起きている感じ。焦るな自分。ここはまあ、ゆっくり行くしかない。 <名護市21世紀の森公園> 海沿いの細い道を通って国道58号との合流地点へ出た。この先は地理が分かっている。右手に名護市21世紀の森公園の緑地がずっと続く。ゴールはまだ3km先。結局ホテルへ着いたのは夜の8時20分ごろ。第4回63kmの激闘はようやく終わりを告げた。4年かかった沖縄本島一周単独ラン、合計428kmの旅の完成。長く辛い道のりだった。でもそれ以上に楽しい一人旅だった。 やんばるの家族 さて、やんばる関係のTV番組を観て書き出したこのシリーズだが、自分でも驚くほど昔のことを覚えていた。特に30年近く前に読んだ沖縄関係資料や人名、地名などが案外速やかに脳裏に浮かんだ。逆に最近の記憶が定かでないのだ。書きたいことはまだあるが、一旦ここらで筆を置きたい。なおこの翌年、私は不整脈手術を2度受けることになるのだが、この時はまだ知らない。<未完の完> 最後まで付き合って下さった読者の皆様に、この場を借りて心から御礼申し上げます。
2019.02.08
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~古宇利島と本部半島を走る~ 平成23年11月の某日、私は再び沖縄へやって来た。67歳の老ランナーは、既にボロボロ状態になっていた。数年前から不整脈の兆候が現れ、この年も夏の猛暑の中で激烈な肉体労働を送ったのだ。そんな体で沖縄へ行く。私は「忘れものは何か」に気づいた。過去の3年間で沖縄本島を一周した気でいたが、本部半島を走ってないのが心のどこかに引っかかっていたのだ。 沖縄そば 後年知ったのだが、前妻は当時沖縄に私の恋人がいると信じ、娘にも話していたようだ。確かに私には恋人がいた。だがそれは人ではなく、沖縄そのもの。ここで学び、ここで走り、ここで一時は死ぬことを覚悟しながら、この明るい風土に命を救われた1人のランナー。体に衰えが迫っていることも分かっていた。だから何とか最後の思いを叶えたい。たったそれだけのことだったのだが。 本部半島 これが今回の舞台の本部半島だが、コース(地図の薄茶色)には新しく出来た古宇利大橋と古宇利島も入れた。スタート地点は名護市真喜屋(まきや)。右上のそこまではタクシーに乗り、屋我地島、古宇利大橋を渡り、古宇利島を一周して戻り、今帰仁(なきじん)村へ出、今帰仁城を見学後、半島最北端の備瀬集落~海洋博公園~本部町~名護市内へと反時計回りで帰る遠大なコース。距離は63kmだが、不整脈の発症が心配だった。 羽地内海 真喜屋から小島へ渡る。道端に数基のお墓があった。民俗学者仲松弥秋によれば沖縄の各地にある奥武(おお)島は昔から風葬の地で、「おお」は死者を弔う鳴き声だった由。私も4つほど風葬の島を訪ねた。直ぐ左に羽地内海を見ながら屋我地島へ渡った途端、道端にハブの死骸発見。これで2度目だ。青白く長い蛇の姿を打ち消しながら走っていると、途中で道に迷った。 ライオン岩 私が間違って行った先は療養所みたい。恐らくライ病患者専用の病院だったのだろう。何とか道を聞いて、古宇利島方面に向かう。突然道が開け、下り坂の坂の先に「古宇利大橋」が見えて来た。何という長さ。これも沖縄振興の一つ。かつての孤島は、ほとんどが橋でつながっている。橋の左手に岩が見えた。私はその形から「ライオン岩」と名付けたのだが。 橋と島 本当の絶景だった。海の色、空の色、前方の古宇利島の丸い形。橋の上からは沖縄本島北部の青い山々が遥かに望めた。対岸は大宜味村の塩屋湾辺りだろうか。島に渡って、ゆっくりと一周した。坂がきつい。橋の竣工でにわか商売の店が多い。琉球王朝時代の「のろし台」があることも分かった。この島の特産はモズク。その養殖場も見えた。意外に時間がかかったのは、体が動かなかったせいだろう。 うらんだ墓 再び屋我地島へ戻り、今度は逆方向の今帰仁村方向へと向かう。新たな橋の手前で急に走れなくなった。どうやら不整脈が起きたようだ。道端で休憩していると「うらんだー墓」の標識があった。これは是非ともみたい。海沿いの小径を行くと墓。「うらんだー」は「オランダ」だが、外国人のこと。幕末期、沖縄へはたくさんの外国船が水と燃料補給のために寄った。たまたま出た死者をこの地に葬ったのだ。 被葬者はイギリスの船員だった。対岸をみると運天港が見えた。源為朝が昔上陸したと伝わる古来の港。私もかつてその港から伊是名島へフェリーで渡ったことがあった。 これが「ワルミ大橋」。ワルミとは割れ目が訛ったもので、海峡の意味。右上に見えるのが古宇利大橋と古宇利島。ワルミ大橋の上(北)に突き出た小さな半島の先端に、先ほどの「うらんだー墓」があり、その対岸の港が運天港。向かって左側は今帰仁(なきじん)村。そこから本部半島周回コースに入る。私の体と足が、果たしてどこまで持ってくれるのか。<続く>
2019.02.07
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~沖縄本島単独1周ラン第3回~ 沖縄本島南部 平成22年12月初旬の土曜日。私は具志頭(ぐしちゃん)三差路でバスを降り、そこから南部の道を東に向かって走り出した。地図で言うと一番下の国道331号線の印がある付近。そこから知念半島を一周して与那原町へ出る33kmのコース。前年は最北端の辺戸岬から与那原町まで走ったので、その残りと言うわけだ。具志頭三差路から摩文仁公園までの空白区間は、翌日の「NAHAマラソン」(フル)で補おうと言う計画だ。 玉城城 この近辺は別名「グスクロード」と言うくらい、古い城(ぐすく)がある地域。沖縄勤務当時、私は原付に乗ってこの島中の聖地を訪ね回っていた。そこには既に「日本」が失った原始的な匂いがする何者かが潜んでいた。大里城、糸数城、玉城城、知念城、斎場御嶽、沖縄の最初の田んぼと伝わる「受水走水」(うきんじゅはいんじゅ)、板良敷グスク、ミントングスクなどが連なる南岸の道。 シークワーサー 知念村(現南城市)に入って直ぐ、ふと庭を見るとシークワーサーを収穫しているオジーがいた。思わず「ください」と声をかけると、4つほどの果実を渡してくれた。お礼を言って走り出す。これは別名「平身レモン」と呼ばれるミカンの原種。沖縄では一般的な果物で酸味が強く、強い芳香を放つ。私はジュースも果物の香りも大好きだった。ハイビスカスやブーゲンビレアを観ながら走る海べりの道。 知念城 知念城の前を通りかかったが、行くのは止めた。ここの城壁もなかなかの雰囲気がある。その代わりにでもないが、斎場御嶽(せいふぁうたき)に寄った。世界遺産になってからは初めての探訪。チケット売り場や柵まで設けられ、大勢の観光客が来ていた。私が勤務していた当時(平成元年~3年)は人っ子一人おらず、静謐で神秘的な空気が漂っていたのだが。アカハラが棲む水たまりは、今でも健在だろうか。 知念崎 コマカ島も久しぶりに見た。「神の島」久高島もいつも通り扁平な形を東シナ海に浮かべて静まっていた。頂上が切られた台地は知念崎だろうか。私が訪れた20年前は、何もない突先だったのだが。そこから国道は大きくカーブを描き、道は与那原へと続く。 佐敷風景 佐敷のヤシ並木が見えて来た。何と言うことのない沖縄の風景が無性に懐かしい。厳しい暑さも眩めくような光線も、勤務当時を思い出させてくれた。この道を走るのは初めてだが、ヤンバルと異なり全く危険性は感じない。与那原三差路から路線バスに乗って、那覇へ帰った。もちろんランシャツ、ランパンのまま。それでも違和感は全くない。翌日はNAHAマラソンなので練習中の人も多いのだ。 NAHAマラソン 翌日は早めに奥武山公園のグラウンドへ行った。そこがスタート地点で、昔の仲間が集まっている。懐かしい顔ぶれに挨拶。そして沖縄の走友Hさんとスタート地点へ向かう。前と少しコースが変わり、新しい把竜橋を渡った。前日33kmを走った疲れはなく、見事10回目の完走を果たせた。これは沖縄本島単独一周ランの「おまけ」。かつての走友と缶ビールで乾杯し、ホテルへ帰った。 泡盛の古酒(くーすー) 風呂に入って着替えしてると電話。古川グループつまり宮城のウルトラ仲間から「飲みに来い」とのお誘い。早速出向くと、かなり出来上がっていたT田さんほか数名。皆顔なじみばかり。私の「沖縄本島単独一周ラン」の快挙も喜んでくれたのだが、私はそれで終わったような気がしなかったのだ。なぜだろう。まだ何か「忘れもの」があっただろうか。<続く>
2019.02.06
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~一路与那原へ~ <カヌチャベイから辺野古崎(左前方)を望む> 翌朝、早めに朝食を摂った。遥か彼方に辺野古崎が見え、その手前にクジラの姿をした2つの小島が見えた。あそこに普天間から移転すれば、沖縄資本で建てられたというこのリゾートホテルは、離着陸の際はルートの真下になるのではないか。私にはそんな風に思えた。カヌチャには「神着」の漢字を充てていた。沖縄の先祖神が辺戸岬から島の南部へ移動した際も、ここへ寄ったと思わせる地名だ。 汀間の浜 困ったことが起きた。宅急便を頼んだら、今日中に那覇へは着かない由。私は翌日の飛行機で帰る予定で、荷物が送れないとどうしようもない。それで割高の方法を取った。その業者が名護にある他業者の出張所まで届け、そこから那覇へ転送すると言う方法。前夜の宿泊費と言い、今日の運送料と言い、残金はとても厳しくなるが、選択の余地はなさそうだ。高級リゾートホテルに別れ、第2日目のスタートだ。 大浦湾 汀間(てぃーま)を通過する時に、とても清らかな小川が見えた。何という風景だろう。車だと一瞬で通り過ぎるが、走っているからこそ見える風景だ。瀬嵩では月桃で包んだむーちー(餅)を売っていた。何かのお祭りみたい。大浦湾に沿って行くと、やがて湾の最奥部。11月末と言うのに蝉の鳴き声が煩い。小川の中に石で囲んだ「エリ」があった。小魚を誘い込む原始的な装置を初めて見た。 二見集落 湾の向こう側が二見(ふたみ)集落。新民謡「二見情話」。道端にその石碑が建っていた。歌詞にもあるように、とても厳しい坂道だった。途中から抜けられるトンネルの工事中だったが、そこを通ることはもう二度とないはず。坂を登り切ると、国道329号線と合流。右へ行けば名護市内。左折するとあの有名な辺野古崎へ出る。だが、基地の中はほとんど見えない。広大な上、岬の突端にあるためだ。 ゲート前 辺野古の米軍基地、キャンプシュワブのゲート前はとても静かだった。通過したのは午前10時過ぎか。反対派は誰もいない。第1ゲート前、第2ゲート前のそれぞれにバス停があった。前日覗いた東村高江のペリパッドもここ辺野古も、現在ほど騒然としておらず、静寂そのもの。さらに行くと辺野古の集落や国立沖縄高専の新しい建物が見えた。それも北部振興策の一端だ。キャバレー跡 ベトナム戦争当時、辺野古集落のキャバレーは米兵で賑わった。終戦後米兵の足はピタリと止まり、飲み屋街はほぼ廃墟に。そのせいか移転歓迎派の住民が多い由。先日TV番組で、彼らが戸別ごとの補償を要求していることを知った。与那国島への自衛隊基地建設時も、島民は同じ要求をした。それが不可能なことを知らないのだ。ただそれに代わる振興策で、国は莫大な予算を沖縄に注ぎ込んでいるのだが。 後はこの東海岸を国道に沿って南下し、与那原にゴールするだけ。宜野座村惣慶を通過。ここは鳴門勤務当時の上司の故郷で、タイガースのキャンプ地(当時)の球場があった。金武(きん)町の米軍基地キャンプハンセン周辺では、軍人さんが手を振って応援してくれた。前日のような厳しい坂道や、曲がりくねった道はなくなり、ほぼ平坦で見通しの良い国道が続く。 石川市(現うるま市)に入ると、金武町では霞んで見えた「海中道路」がかなりはっきりと見えだした。逆方向から見るのは滅多にない。沖縄市へ入ると沖縄本島の「背骨」に当たる部分を走ることになる。やがて「おきなわマラソン」のコースに出、キャンプ瑞慶覧(ずけらん)の横を走った。そこからは夕暮れとの競争。北中城村の渡口の手前で夜はになった。ただし照明があり、道も知っていた。 与那原の大綱引き ゴールの与那原町に着いたのは午後10時20分ごろ。ようやく2日間で150kmの一人旅が終わった。タクシーを拾って那覇へ。懐かしい風景。かつて住んでいた首里付近も通った。チェックインは11時。辺戸岬から与那原まで走ったと言うと、ホテルマンが驚いていた。さて、その夜は残り物を食べ、風呂に入って眠った。本島一周単独ランの2回目はこうして終わった。実に長い旅だった。<続く>
2019.02.05
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~沖縄本島東海岸一人旅~ 東村 これは東村(ひがしそん)の地図。沖縄本島最北端の国頭村(くにがみそん)の辺戸岬からスタートして、右上の「高江」まで来た。時間は午後の3時20分頃だったか。お握りを食べて走り始める。道端の小父さんと話をすると、イノシシを飼ってる由。コンクリートの地下檻に、まだ大人になってない獣が1匹。この辺には内地からの移住者も多い由。鷹の一種サシバはここでは捕らえて食べたりはしなかった由。 福地ダム ここは沖縄最大の福地ダム。この巨大な「水がめ」に蓄えられた水が、島の中南部まで送られて貴重な飲み水になる。道路から近かったのでちょっとだけダムを覗き、再び県道へ。やんばるの森は豊かで、戦争中は中南部からここまで逃げ、山の中で暮らした人がいたそうだ。その話をつい先日TVで聞いた。「豚便所」もあった由。古来から沖縄に根付いた「フール」。石灰岩で囲いを作ったのだろう。 平良のエイサー 東村平良(たいら)で大宜味村から始まる国道と交わる。東村の役場があり、プロゴルファーだった宮里藍さんの実家がある。手前の給油所に灯りがついていたので、地図を確認しようとして近づくと「近づかないでください」の大音響。どうやら防犯対策用の警戒音のよう。慌てて暗がりのチェーンに足を取られ、転倒した。怪我は擦り傷程度だったのが幸い。ベンチで休憩。既に夜の8時20分ごろで、ホテルまでは18kmほどありそう。 慶佐次通信基地 真っ暗な道をひたすら走る。国道でも歩道などない。所々にある照明だけが頼り。時々道路に黒いものが横たわっている。「すわ、ハブか」。ビクビクしながら近づくと、道路のひびを覆ったコールタールの修理跡。怖がっていると何でもが恐怖の対象。慶佐次(けさじ)の通信所前を通過。以前は米軍の通信基地だったと思うが、現在は自衛隊の管轄になっていた。残りは9kmほどか。 ホテルの夜景 この日の宿泊先であるカヌチャベイホテルに着いたのは夜の10時20分。スタート後14時間が経過していた。急いでチェックインし、代金を支払う。ここはリゾートホテルで4人部屋しかなかった。それで4人分7万2千円を支払う。遅い夕食と入浴。そして翌日の準備。大冒険に興奮しながらも、5時間ほどは眠れただろうか。<続く>
2019.02.04
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~沖縄本島東海岸を走る その1~ <安須森御嶽から辺戸岬を見下ろす> 平成21年11月某日。私は辺戸岬に立っていた。ここへ来たのは5回目。そしてこれが最後になるはずだ。「沖縄本島単独1周ラン」の2回目。今回はここをスタートして本島東海岸を走り抜け、2日間で南部の与那原町までの150kmを走る予定。1回目は7月の猛暑に苦しめられたが、今回はアップダウンと集落の少なさに苦しむはず。この日のゴールは75km先のカヌチャベイホテルと決めていた。 奥小学校 8時25分。ここまで送ってくれたMさんに手を振ってスタート。だが5分ほどで立ち止まった。ランニングシャツでは寒過ぎた。岬の強風で体が冷えるのだ。急いで半袖シャツに着替えてリスタート。坂を下って奥集落へと向かう。国道でハブが車に轢かれて死んでいた。11月でもまだハブは冬眠してないようだ。これは注意せねば。気を引き締めて奥集落を通過。ここから先は県道70号線だ。 <ルート 奥集落から東村までは県道70号線を南下> やんばるの東海岸は傾斜がきつい上に集落がほとんどない。このためよほど足に自信がないと走るのは無理。今回リュックには、名前、住所、電話、連絡先、血液型を書いた札を付けていた。もしもの場合に備えてのもの。だがハブに噛まれたら一巻の終わり。そのための連絡先でもあった。名護の辺野古を過ぎたら後はほぼ平坦だが、1日目の坂道が厳しいはず。 やんばるの森 7kmほどでランナーが前から走って来た。これは珍しい。話を聞くと沖縄のランナーで、奥さんに車で送ってもらい、1回あたり5kmから10kmを走って本島一周を目指している由。回数は50回目近いとのこと。私が辺戸から与那原まで150km走ると言うと、ビックリした顔。ウルトラマラソンの経験がないと驚くのが普通だが、こちらは冒険の積りなのだ。 県道70号線 あれはどの辺りだったか、何やら忙しそうに働いている人がいた。何せここでは人に会うのが珍しいほど集落が離れている。話を聞くと「マングース捕獲用の檻」を設置している由。飛べない鳥、天然記念物のヤンバルクイナを食い殺す犯人だ。本来はハブ退治のため導入されたのだが、目論見が外れたのだ。それに今は野良猫や野良犬もヤンバルクイナの敵。都会の人が犬や猫を捨てに来るとも聞く。身勝手なものだ。 道端に何かの実。傍にフクギの樹があった。沖縄ではどこでも見かける樹。ミカンのようなきれいな実なのだが、枯れて茶色だった。沖縄の染色紅型(びんがた)の鮮やかな黄色い色を出すのに用いられる。楚洲(そす)で休憩し、飲み物を買う。ここは5戸ほどしかない最小の集落。走り出してから「しまった」と思った。那覇の平和通りのオバーが楚洲出身だと思い出したのだが後の祭り。う~む残念。 安波(あは)集落は国頭村の東海岸では割と大きな集落で、500戸ほど家があると言う。小さくてきれいな小川が流れていた。ピンク色のきれいな花が、そちこちで咲いている。どうやら酔芙蓉(スイフヨウ」のようだが、本土の種類とは少し違うみたい。そこからは長い上り坂になった。今日のコース中最も厳しい坂道。それが曲がりくねりながらどこまでも続く。 山道を登り切ったところが東村との境界。そこから下りが始まる。しばらく行くと「ヘリポート建設反対」の立て看板。「ははあ、ここがあの現場か」。そう思って山の中へ入って行った。するとテントが2張り。1つは無人だがもう1つには人がいて、私をジロっと睨んだ。これはナイチャー(内地人)だと分かったのだろう。それにしてもなぜナイチャーがここへ?その目はそう疑っていた。 高江共同店 さらに下ると売店が見えた。写真の一番右が休憩所だが、私はそこで遅い昼食を取った。お握りは早朝名護市で買っていた。自販機が少ないことも考え、飲み物も何本かはリュックに入れてある。他の荷物は既に今夜泊る予定のホテルに送付済み。後は自分の足が最後まで持つことを信じよう。昼食で休んでいる間に寒くなった。走っている間は暖かいが、止まれば汗が冷えて寒くなるのがランニングだ。<続く>
2019.02.03
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~辺戸岬から名護市へ~ 辺戸の御嶽 第3日目。当時の部下Mさんが名護のホテルへ迎えに来てくれた。沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬まで送ってもらうのだ。既に食料と飲み物はリュックに入れてある。名護市内を通り58号線とぶつかる伊差川交差点の様子を、頭に叩き込んだ。帰りはここから名護市内へ入る。もし間違えば大変な遠回りになってしまう。国道へ出たら後は楽。真っ直ぐ北上するだけの話。それに道は海岸沿いで平坦なのだ。 辺戸岬 辺戸岬に着いたのは8時半ごろだったはず。Mさんに別れを告げ、岬の売店前から南へ向かって走り出す。ここへ来たのはこの時で4度目。何にもない岬なのだが。私にとっては懐かしくて涙が出るほど思い出深い場所。国道を下らず「茅打ちバンダ」を通ろうと思い直す。そこはAさんが私たち家族を最初に案内してくれた場所。その彼も7年ほど前に心臓病で亡くなった。実に性格の良い人だった。 国頭村謝敷 国道へ出たらもう走れない。日差しを遮るものがないのだ。覚悟を決めて歩き出す。謝敷(じゃしき)は走友Tさんの故郷。民謡「謝敷節」の石碑があった。思い切り手を振って歩く。 クンジャンサバクイの碑 国頭(くんじゃん)さばくいの石碑を見つけたのは、果たしてどこの集落だったのか。何しろ国頭村は沖縄本島で一番広い村。辺野喜(べのき)だったか、与那だったか、はたまた辺士名(へんとな)周辺だったか。ともあれヤンバルは琉球王朝時代から木材の伐り出しで有名な地。首里城もここの木を船で那覇へ曳航して築城したと聞く。だが私の意識は朦朧とし始めた。間違いなく熱中症だ。 <大宜味村喜如嘉集落> 休憩所でアイスを食べた。ともかく水分と塩分の補給が大事。そこからさらに歩いて、隣の大宜味村(おおぎみそん)に入る。喜如嘉(きじょか)集落は長寿と芭蕉布で有名な村。その最初の売店で2度目の休憩。塩分補給のため「沖縄そば」を食べようとしたが、既に売り切れ。仕方なく再びアイスを注文。もちろん塩は持ち歩いている。それもミネラル分が豊富な「アスリートソルト」。宮古島の特産品だ。 糸芭蕉作り 国道を離れて喜如嘉集落へ入った。清潔な佇まい。それに日陰が涼しかった。ここには「芭蕉布」の復元で人間国宝になったオバーがいる。芭蕉布は夏涼しい布なのだが、糸が細くてかつ弱い。それを加工して束ね、糸を作り出すのだ。それで織ったのが「芭蕉布」。あの南国らしい優しい歌が私は大好きだ。塩屋湾に浮かぶ宮城島を通過。小さな風葬の島。橋を渡って犬がやって来た。放し飼いのようだ。 平南橋 平南橋を渡っていた時のこと、突風に帽子を飛ばされた。橋から見下ろすとかなり高い。それに河原に降りるのに時間を食いそう。もう諦めようと思ったが、「いやいや」と思い直した。帽子がなければさらに熱中症になる危険性が高まる。苦労して帽子を拾った。若者たちが河原でバーベキューをしていた。この川の最上流がオオシッタイ。20kmレースを2度走ったジャングルだ。 地図 ようやく名護市へ入った。稲嶺辺りではまだ明るかったのに、親川では完全な日没。気温が少し下がりようやく走り出し、伊差川交差点から名護中心街へと向かう。ところが道端のススキが嫌。真っ暗な上、ハブが出そうで怖いのだ。夢中で駆け抜け、灯りのある場所へ出た。この日の距離は50km程度か。第1回目は合計で140kmほど走り、歩いた。翌年はいよいよ難関の東海岸を走る。 <名護市の名物ヒンプンガジュマル> 今回は平坦な西海岸で、しかも整備された国道58号線だったから安全に歩けたが、東海岸はアップダウンの連続でしかも集落がほとんどない。泊る場所も限定されるだろう。さてどうするか。そこで対策を考え出した。まず夏の暑い時期はダメ、今回は大変な目に遭った。ではどんな時期が良いのか。<続く>
2019.02.02
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~灼熱の道 1回目その2~ 崇元寺山門 2日目。ホテルで朝食を摂った後、ランシャツ、ランパンに着替えて走り出す。荷物は宅急便で名護市のホテルに送るよう依頼していた。32度以上の猛暑の中、リュックを背負って走ったらエネルギーのロスにつながる。少しでも体の負担を軽くしようと思ったのだ。国際通りを北へ直進し、安里三差路で左折。国道58号へと向かう。崇元寺の山門が懐かしい。中は戦火で焼かれ、石門だけが残されている。 今回の計画はこうだ。初日は本島最南端の摩文仁から那覇まで走った。この日はその続きで那覇から名護市までを走る。コースは西海岸沿いに伸びる国道58号線。左上に「こぶ」のように見える半島が本部半島。2日目の今日はその付け根の名護に1泊。第3日目はかつての部下に最北端の辺戸岬まで送ってもらい、そこから名護市まで逆走して繋ぐ。名護から辺戸へ走っても、その後の交通手段がないためだ。 これが国道58号線。那覇市内だと片側5車線ほどもある。8時半ぐらいまでは何とか走れていたがそれでも暑い。道の東側に寄って極力日陰を走ろうとするのだが、太陽が真上に上がるとそれも無理になった。浦添市を抜けるとビルはない。特に米軍のキャンプ地前などは見通しが良いため、直射日光が容赦なく照り付ける。やはり判断が甘かったか。こうなったら猛暑の中を40km以上歩くしかない。 「嘉手納ロータリー」は無くなり、直線になっていた。米軍が統治していた時代の名残で、右側通行の米軍のジープや軍用トラックには好都合だったのだろう。読谷村の楚辺まで来ると「ゾウの檻」が見えない。対中国用のレーダーだったのだが、今はもっと高性能の装置が出来たのだろう。間もなく喜名。そこから左折すると座喜味譲がある。世界文化遺産の美しい城跡。懐かしい思い出だ。 坂を下ると恩納(おんな)村。この村は細長い上に海岸線が曲がりくねっているため、想像以上に距離がある。ある集落で休憩して靴下を脱いだら汗でビショビショ。それを道路に干したら、5分でカラカラに。路上は50度ほどあるはず。歩くのすら殺人的行為。沖縄の人は決してしない。恩納の中心部に来て笑う。「おんな売店」の看板あり。別に女性を売ってる訳じゃなく村の名。昔は恩納ナベと言う歌人がいた。 <名護市許田(きょだ)海岸> 恩納村の大学院前を通過。次第に濃くなる闇。街灯はなく、歩道に飛び出している叢が不気味。ハブは夜行性なので、いつ這い出るかも知れない。ゾッとしながらのラン。気温は28度程まで下がり風も感じる。何とか暗がりを脱出して許田の海岸に。ここは名護市の入り口。堤防のため雑草がない。チヌ(黒鯛)狙いの釣り人が何人か。あの岬を回ればゴールのはず。残りは6km程度か。<続く>
2019.02.01
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