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「伊豆の旅」準備、西伊豆の戸田港で 磯料理を堪能しました10月30-31日、中伊豆から西伊豆の戸田を回ってきました。戸田港は、岬がぐるっと囲んでいる自然の良港です。これは、朝の戸田港で、開かれた間から外海に出ていきます。これなら台風が来ても、湾内に避難していれば大丈夫です。残念なことに、正面に富士山が見えるはずなんですが、雲がその姿を隠してしまっています。今回の伊豆の旅ですが、目的の一つは、西伊豆の戸田港で、地元の磯料理を味わうことにありました。これが、今回宿で出していただいた磯料理です。どうです、この豪華さは。これで二人前なんですよ。大きなカニは、この地特産のタカアシガ二です。海洋博物館でしたか、どこかでか読みましたが、中には大きさが3メートルにもなる、と説明されていました。そして、刺身の盛り合わせです。魚種を聞いたのですが、全部をメモすることが出来ませんでした。1.ハシキンメ、2.クロムツ、3.ヤリイカ、4.アカザエビ、5.マグロ、6.ホンエビ、7.サザエ、8.アワビ、9.ユメカサゴ・・・、ここまではメモに出来たのですが。あとは、メモがこんがらかりました。とにかく地元産の海の幸がふんだんです、西伊豆は、あまり紹介ポイントが立てれなかったのですが。この磯料理でのもてなしに関しては、他では見ることが出来ない豪華さでした。これが最大の見どころでした。
2012年10月31日
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10月27日に初収穫したみかんです今年のみかんの初収穫は、10月27日(土)でした。最初のみかんですが、まだ少し酸味があります。したがって、まだ他人には出せないのですが。やはり小木の方が、みかんの色づきが早く進んでいます。この木は、前にも紹介しましたが。しかし、成木の早生みかんでも、色づきだした枝が出だしています。全部で5キロの収穫でしたが、まだ、酸味もあるので、他人に出すことはしていません。もちろん太鼓判のものも出だしていますが、このくらいまで成熟すれば、味の方も、まず申し分ないのですが。糖度計で測ってみました。やはり、糖度12.9度。これならまったく申し分なしです。しかし、まだ、よかれと思って収穫した中に、糖度が11度台のものも混じってますから、安心して他人に出せないわけです。ここが我慢のしどころです。心おきなく、美味しいみかんを提供するためには、酸味がもう少し弱くなるのを待つこと。ここが肝心ですが、あとチョットの我慢です。やはり、当園の早生みかんは、11月の上旬あたりから、収穫が始まりだします。
2012年10月29日
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ニンニクの2個目の芽が出てきましたみかん畑のすき間の菜園でのこと。9月16日にニンニクの種球根を2個植えておいたのですが。ここは、そもそもはラッキョウの種球根を植えておいた所。小さなラッキョウの芽が出てきていた、そのすき間に、ニンニクの球根を、2個植えたものでした。すでに10月17日に、最初の一つの発芽は、気がついていたのですが。その時は、「同時に植えたのに、もう一つはダメだったか」と、あきらめていたのですが。10月27日に、ニンニクの2個目が発芽しているのをみつけました。これはまだ、発芽しはじめたばかりで、烏帽子のようにしっかりしています。まわりの細ネギの様なラッキョウの茎と比べると、明らかに形が違います。ニラの様な形をした葉で、しっかりした葉なので、引き立っています。ラッキョウも発芽力は大したもので、100%の発芽率でしたが、ニンニクの方も、たった2個ではありますが、やはり大したもので、100パーセントの発芽です。9月の植えた時は、土がカラカラに乾燥していました。溜めてあった雨水で、散水しておいたのですが。見ての通り、今は土がしっとりとして潤っています。人為的にこれだけの水撒きするのは、たいへんな作業となります。自然とは、ありがたいものです。秋から冬へ、四季の変化は移ってゆきます。今日も、秋雨前線が通過していますが、人は、やはりさわやかな秋晴れを期待しますが、作物にとっては、時々の秋雨は歓迎で、恵みの雨です。それぞれにとって、絶妙な移り行きです。
2012年10月28日
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早生みかんを初めて収穫しました本日、10月27日(土)、早生みかんを今年初めての収穫をしました。神奈川県西部・真鶴のみかん園でのこと。やはり、同じ早生みかんの木でも、成木よりも小木の方が成熟するのが早い。全体の中で、2本の小木が一番早く色づいています。めざとくも、ヒヨドリが成熟した数個をついばんだ跡があり、すぐ近くの木の上で、「キーッ、キーッ」と鳴いています。みかん園は、普段は鳥たちの楽園なんですね。こちらの木も、よく成熟が進みつつあります。収穫は、果皮全体の8割以上が色づいたものを、選択的にとるようにして、極力、早やもぎしないように気をつけるようにしています。そこが、美味しいみかんを提供するうえで、最後の肝心なところです。二本の木から、あわせて5キロを収穫しました。良い色をしているでしょう。美味しいみかんを、提供できるかどうかは、ここが肝心です。太陽の光の下で見ると、より輝いて綺麗に見えますから、通常の光線の下よりも、成熟しているように見えますから、ついつい、成熟度を錯覚してしまいます。ここが画竜点睛を欠くかどうか、一番肝心なところです。今回のみかんを糖度計で測ってみたのですが、12度以上に成熟したものを収穫したいのですが。なかには、11度台のものもありましたが、12.7、これなら「よし!」です。実際に試食しても美味しいし、合格です。最初のうちは、成熟しているみかんは、わずかな数量ですが、これから、徐々に広がって、ペースが上がっていきます。みかんの成熟には、秋晴れの暖かい日差しが重要になります。それと、夜昼の寒暖の差が大きくなること。この二つの条件が、成熟を促進してくれる要因となります。やはり天候が大事なんですね。さぁ! 11月の、早生みかんの収穫の時は、もうすぐです。
2012年10月27日
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「伊豆の旅」の下見をまとめてみました今年の夏、「越後路の旅」をしてきたのですが、そこで、来年の9月へ宿題が出されました。当方が「熱海を基点に伊豆の旅」を案内することになりました。全国各地から、遠路出かけてきてくれる人たちですから、それなりに見どころを用意しなければなりません。同時に、伊豆はみかん園の近くではありますが、私自身が、まったくの不案内でしたから、この機会に、あらためて見聞を広げなければならないものでした。それはそれで、楽しくもあり、大事なことでもありました。この間に、現地の知人の力をかりて下見をしてきました。とりあえず、回った箇所についての中間的なまとめです。ブログで紹介した日と場所です。1、9月17日、伊豆山温泉の「走り湯」2、9月22日、二所詣の「伊豆山神社」3、9月23日、熱海・芸妓見番「華の舞」4、9月26日、熱海・「大湯間歇泉」とオールコックの愛犬の墓5、10月2日、熱海・「丹那トンネルの記念碑」6、10月3日、「豆相人車鉄道」のモニュメント7、10月9日、尾崎紅葉『金色夜叉』について8、10月5日、1930年北伊豆地震の「丹那断層」9、10月10日、「江川太郎左衛門邸」の代官役所資料館10、10月4日、源頼朝の配流地・「蛭が小島」11、10月20日、北条時政の「願成就院」で、運慶像を見る12、10月13日、「修禅寺」とその周辺13、10月14日、修禅寺・北条政子の「指月殿」14、10月6日・12日、「戸田造船郷土資料博物館」、安政大地震とプチャーリン15、10月15日、伊豆の各所からみた富士山以上が回った先です。さらにいくつか見ておきたい所もありますが、とりあえず、目下のところを紹介させていただきます。
2012年10月26日
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みかんの収穫まで、あと少しです10月20日、神奈川県西部のみかん園です。いち早く、小木の早生みかんは、すでに味見の段階に来ていますが、主要な位置にある成木については、現状はどうか。早生みかんの成木です。進んだ枝では、かなり色づき始めています。11月3日あたりから収穫をはじめるつもりでいるのですが。いずれにしても、もうあと少しです。早生みかんの収穫期は、11月いっぱいです。もう一つのフツウウンシュウミカンの方はどうか。こちらの方は、まだ濃緑色です。収穫は、12月にはいってからで、まだかなり先です。一般的には、神奈川県西部の当みかん園としては、11月が早生みかんの収穫で、12月がフツウウンシュウミカンの収獲です。今年は、秋晴れの時間が短くて、夏から、急に冬に移行し出したように感じているのですが。それが、みかんにどのような影響をきたすかは、よくわかりません。今年が、裏年であり、みかんの収穫量が去年よりも減ることは確かなのですが、そのみかんの出来がどうかは、まだよくわかりません。ただ、早やもぎせずに、成熟したものを収穫するように注意していきます。あと少しです。
2012年10月25日
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三たび『大地動乱の時代-地震学者は警告する-』 (石橋克彦著 岩波新書)を読んでこの本は、来年の「伊豆の旅」の下調査のために、安政大地震でのディアナ号沈没について、読み返してみるつもりだったのですが...。問題は、過去の歴史をなるべく紹介しようと意図したんですが、読み返すほどに、たんに博学的に歴史材料を集めるのが問題ではなく、やはり、今の東日本大震災の援護と、今後の震災への備えること、それが大事だ感じてきました。この本は、1994年に刊行されたもので、18年も前に書かれた著作ですが。著者は、1.相模湾西部の地震と、2.駿河湾からの東南海地震、それに3.首都直下地震が連動した過去の歴史事例を検討しています。第一章、1854年安政大地震もそうした内容だったし、そのエピソードとしてプチャーリンのディアナ号があったということでした。そして、第三章、四章では、そもそもの地震発生のメカニズム、フィリピン海プレートの沈み込みから説明しています。それぞれの地震には周期性がみられ、関連性があることも指摘しています。その上で、第五章、六章では、3つの巨大地震への備えを指摘しています。今日の社会状況は、過去の歴史にはない危険物の集中があるため、もしそうした地震が起きると、過去の被害とは比べものにならない、大きな災害になる。そうした事態にどう備えるか、今後に予想される大震災に警告をしていたんですね。2011年3月11日の東日本大震災の後に、この本を読み返していたのですが。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201104010000/それは、東日本大震災での被災の多岐な報道が日々ありました。また、その印象は、みかん園のある神奈川県西部ですが、ここも関東大震災では津波よる大きな被害があったこと、岩村でも船が海岸から村の集落の奥まった所まで流されたとの話を聞いたことを思い返していたんですね。この本では、この神奈川県西部での地震が、連動する地震のきっかけにもなりうる、との指摘されてました。こんな身近な体験に引き寄せて、その関心で読み返していたのですが。今回の震災に関連して、第6章「大地動乱の時代をどう迎えるか」では、そこでは原子力発電所や石油コンビナート、交通網の寸断、液状化などの問題。通勤・通学の帰宅困難者、ライフライン災害、などなど震災の発生。つまり、今回の東日本大震災で体験した多くは、専門家の想定としては、17年も前に予測されていた問題だったんですね。現実はすさまじいものでしたが。しかし、やはりこの著書が警告しているのは、その最大の問題は、首都直下型地震と東南海地震が連動して発生した場合の想定で、その被害はこれまで経験したこともない事態をきたす、それに対する備えが問題だ、とその時点で警告している本です。この間の体験は、一層その重要性を感じさせてくれてます。そして、今回読み返していたときに、10月14-15日でしたが、職場の旅行で福島を回る機会がありました。ごく限られた見聞でしたが、それでも、とにかく福島を見て回ってきました。県庁近くの渡利、漁港の小名浜。そこには、地震と津波による災害が、さらに今も深刻に続いている原発災害が。人の当たり前な暮らしが直面している困難、そのごく一端でしたが見聞きしてきました。本来、大きな災害にあった時に、国家の責任とは、国の持てるあらゆる力を尽くして、被災者の救援、復旧にあたること、ここにあると認識していますが。それが一体どこまで持続し、徹底できていのるか。今現在、現地では、普通のくらしにとって、いとなみにとって何が問題か。見聞きできたのは、現実のごくごく断片的でしかないのですが。小さな子どもたちの健康は、本当に大丈夫か、とお母さんたちは心配していました。農家の人たちは、作物への不安により、せっかく作っても売れない、意欲がなくなる、と。地震・津波だけなら片付けも出来るはずだが、放射能で立ち入り自体が規制されている。住まいを離れて、避難してきている人たちは、生業を奪われている、などなど。現地では問題がなかなか解決していない。ようやくはじまった除染も、対象範囲が狭いし、遅い。東電は、賠償責任を果たしていない。私などの復興への総評は、現状は、自らへの腹立たしさも含めて、20点です。今の事態は、被災者を手当てする力も、今後の震災への備えも、しっかりつくることです。両方とも、抜本的に見識を集めて、しかも急いでいるということです。その現状と実行がきびしく点検されることです。あらためて、今の東日本大震災で経験しつつある事態というのは、それがどんなにたいへんなことであっても、まだ序の口です。『大地動乱の時代』が警告している課題は、依然として存在しています。それだけに、現在、被災者支援と復興へ、どのように係れるかの問題は、それにどけだけ知恵と力の結集できるかは、ほどなく、直面している自らの問題だということです。
2012年10月24日
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ラッキョウの花と、ニンニクの発芽みかん園のすき間の1平米位のミニ菜園です。10月20日、ラッキョウが、順調に生育しています。前回は、畑はカラカラ状態でしたが、この間に、台風の影響もあり、前線の通過で、めぐみの雨がありました。人為的にあたり一帯にこれだけまくには、何度もバケツで往復しなければなりません。自然の力は、たいしたものです。こともなげに、しかも、やさしく水撒きしてくれています、大助かりです。このラッキョウは、8月25日に植えたものです。ラッキョウは大したもので、15個の球根を植え付けしたのですが、パーフェクトで、そのすべてが発芽してくれています。なかには、花のつぼみをつけたラッキョウもあります。すべての株に花がつくわけではないのですが。今年の6月に収穫したラッキョウをつけておいたのですが、それは、すでに、全部食べちゃいました。八百屋さんで入手した泥ラッキョウです。これは、それだけでは足りないようだったので、今は、これを時々賞味しています。美味しいですよ、味がしっかりしています。ところで、ニンニクも発芽していました。 ラッキョウの間に、確かに発芽していました。後から9月16日に、球根を2片植えたのですが、二つのうち、一つが発芽していました。ラッキョウもニンニクも栽培期間が長くて、9月初めに植えつけして、収穫は、年を越して翌年の6月頃です。なかには、翌年まで収穫せず、2年ものをつくっている人もいるようです。ラッキョウは、鳥取や高知の砂地でも育つくらいですから、大概のところで育ってくれて、まず失敗することはありません。当方の、放ったらかしの栽培でも、ちゃんと育ち、収穫の恵みをあたえてくれます。これを栽培すると、なにか一人前の農夫になったかのような気分にさせてくれます。
2012年10月23日
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キンモクセイの香りがしてきます東京でも、あちこちでキンモクセイの香りがしてきます。どこにその木があるのか、香りのもとを、おもわずキョロキョロと周りを捜すことがあります。昔、小学校の玄関先に、大きな木がありました。いったいこの木は何という木か・・・?その時も、関心の初めは、このよい香りでした。今、当方のみかん園の片隅でも、キンモクセイが咲いています。普段は、片隅で木々に交じって、目立つことはないのですが。この時期ばかりは違います。俄然、引き立っています。ヤブカラシに覆われていたとしても、片隅で、他の木々の蔭になっていたとしても、その香りを広く漂わせてくれていますから。さらに、オレンジ色の花も、木々の中でも目立つようになってますから。今、キンモクセイの香りがただよう、秋の最中です。そろそろ朝晩の冷え込みを感ずる時期でもあります。
2012年10月22日
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早生みかんを味見しましたが、これなら太鼓判です10月20日(土)、神奈川県西部の真鶴にあるみかん園でのこと。早生みかんですが、小木の2本が濃い黄色に色づきだしました。前回、同じ木を10月17日に調べた時は、糖度が9.8,10.7,12.5でした。「食べれないことはないけれど、これから」ということで、そのままにしておいたのですが。それから、ほんの数日しかたっていないのですが。黄色が濃くなっています。ときどきヒヨドリがやってきて、「キーッ、キーッ」と近くで鳴いています。そして、みかんには、新たな味見をしていた跡を残しています。この木は、宮川早生の小木で、色づきが一番早く進んでいる木です。カミキリムシの為に枯らされた木の後に植えました。2006年に苗木を植えてますから、今年で6年目の木です。今年から、いよいよデビューしだした木です。同じ早生みかんでも、成木の方は、まだここまで色づきはしていません。木につけているみかんの数が大違いですが、こっちは、まだゆったりとして、これから成熟に向かい出すところです。ようやく部分的に黄色に変わりはじめたみかんが見えだしたところです。やはり成木の収穫は、10月下旬から11月上旬が始まりです。なにごとも、はじめはチョロチョロ、中パッパです。今回の収穫は15個くらいでしょうか。最初ですから、数は少ないのですが。初ものは、他人に出す前に、近しいひとに試食してもらってます。まぁ「利き酒」をするのと同じでしょうが。自分だけでは、どうしても評価が甘くなりますから。このところ、審査は客観的です。新たに審査のための機器を入手していますから。糖度計です。舌の感じだけでなく、数値で見るようにしています。上部の目玉の所に果汁をたらせば、糖度を計測してくれます。今回のみかんは、糖度が13.5でした。「よし!これなら大丈夫のはず」です。合格の基準は12としてますから、前回はまだまだでした。それからたかだか数日しかたったいません。しかし、この数日をおくことが肝心です。美味しいみかんを提供するには、なによりも収穫のタイミングが大事です。秋晴れの太陽の恵みと、朝晩と日中の寒暖のさが、成熟を促進させてくれます。はやもぎをすると、色は良かったとしても、肝心の甘さや味の濃さが出てきません。やはり、「熟したものを採るようにして、それを早く消費者に届ける」、これが秘訣です。さぁ、みかんの収穫が、まだゆっくりとではありますが、いよいよ動き出しました。これから11月と12月は、忙しくも楽しいみかんの収穫の季節です。そうした季節の始まりです。
2012年10月21日
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「伊豆の旅」準備17、北条時政の願成就院で、運慶作の仏像を見ました10月6日の下見の時ですが、中伊豆にある願成就院を見てきました。静岡県伊豆の国市寺家83-1 電話055-949-7676にあります。小さなお寺です。「願成就院」の名は、今回、はじめて知りました。北条時政のお墓と、運慶作の仏像があると聞いたことによります。門をくぐって、本道へ通じる参道のわきに、願成就院のいわれを刻んだ石碑がありました。あらためて、鎌倉幕府について、調べてみました。幕府は、源頼朝によってつくられましたが、源頼朝、二代将軍頼家、三代将軍実朝、この三代で源氏は途絶えています。その後の鎌倉幕府は、有力御家人の13人による合議制だったようですが。実際には、「執権」がトップに立つようになります。その初代の執権が北条時政、この寺をつくった人でした。その時政の後も、引き続き北条氏が執権を世襲していきます。二代の北条義時から、泰時、時氏、経時、時頼と続き、元寇の時の北条時宗は七代です。さらに貞時がつづき、鎌倉幕府の最後が九代執権の北条高時となります。この時政に始まる9代にわたった北条氏の執権、それが鎌倉幕府だったんですね。その北条氏の氏寺とされた願成就院ですが、もともとは729年、聖武天皇の天平元年に創立と伝えられてるそうですが、「吾妻鏡」によると、1189年に北条時政(1138-1215・78歳)によって、源頼朝の奥州藤原氏討伐にあたって、必勝を祈願して建てたと書かれているそうです。この願成就院の名前の由来は、ここにあったんですね。その当時は、北条時政が、大御堂、南塔を建立したそうです。その後も、二代執権・北条義時が、亡父時政の供養として南新御堂を建て、三代執権・北条泰時が、北条御堂と北塔を建立したそうです。この当時は、今の小さなお寺とは違って、本格的な寺院建築であり、本堂も、塔も、池も、伽藍もあったそうとう立派な寺院だったんですね。北条時政という人は、源頼朝の正室・北条政子の父です。なかなかに、策略家であり、波乱な生涯だったようです。頼朝を支えた有力御家人の一人でしたが。1199年に鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝が死去します。源氏は頼朝、頼家、実朝と三代にわたり征夷大将軍を引き継ぎますが、その後の将軍は名目上の存在にされていったようです。1200年には有力御家人13人の合議制で幕府を運営するようになり、1203年には、北条時政が初代執権になります。ところが、執権・北条時政は、1205年7月20日に三代将軍実朝を将軍職からはずそうとして画策します。それが、身内の中からも反発をかって、逆に執権を外されます。そして、伊豆へ強制的に出家させられました。時政の最高実力者・執権の立場は、2年程度しか持たなかったわけです。その後、時政は、政治の表に出ることはなかったといいます。伊豆に蟄居した時政の所在は、この願成就院だったのでしょうか。北条時政は、1215年に78歳で亡くなります。現在、そのお墓は、願成就院の山門をくぐった左側にあります。その後の歴史の流れを見ると、願成就院は二度の大きな戦果で焼けている。最初は、1491年に北条早雲の急襲で焼けた。二度目は、1590年に太閤秀吉が小田原攻めの時に、韮山城を攻撃し、その時に焼けてしまったそうです。現在のお寺は、江戸時代、1779年(寛政元年)に建てられたものだそうです。この願成就院には、注目されることがあります。運慶作の5体の仏像があります。30代半ば作だそうです。(この寺の宝物殿にあり、拝観は出来ますが、カメラ撮影は禁止なので、写真紹介は出来ません)1.本尊阿弥陀如来像、2.毘沙門天像、3.不動明王、4.矜羯羅(こんがら)童子、5.制叱迦(せいたか)童子の5体です。仏像の体内から、これは運慶が時政の依頼により造った、とのことわり書の板が出てきたのでわかりました。当地の度重なる戦火にも、地震にも耐えて、それらは奇跡的に現代に伝えられたわけです。あの東大寺の南大門の運慶が、若いころに伊豆や鎌倉まで出てきて、仏像を彫っているんですね。北条時政にこわれて、仏像をつくったんですね。この宝物殿には、その他にも、北条時政や北条政子の像があります。今は、たいへん小さなお寺の願成就院ですが、「つわものどもの夢の跡」で、鎌倉の歴史にとっては、たいへん重要な意味を持つお寺でもありました。
2012年10月20日
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再び活気を取り戻しつつある福島の小名浜市場10月14日-15日の「福島の旅行」、その第4信です。福島といえば漁業、その沖合は黒潮と親潮が合流する日本の代表的な漁場です。農業とともに、この漁業を見ずして、福島に来たとは言えません。10月15日、二日目の昼食は、小名浜市場の二階にある食堂でした。これが、名にしおう小名浜市場です。震災と津波の甚大な被害のため、港の周りのあちこちでは、今、重機で整備がすすめられつつありました。お店の人によると、この小名浜魚市場も、津波で1階がやられたそうです。しかし今、魚市場は再びお店の人たちの活気ある声が始まりだしています。このお店は、ウニやタラコ、塩辛などを売っていました。お兄さんたちの「美味しいよ」「安いよ」と、威勢のよい声がとびかってました。次は、浜焼きのお店です。イカの串焼き、ズワイガニの甲羅焼き、貝の串焼き、・・・・みるからに、どれも美味しそうです。残念ながら、昼食の後だったので、食べ損ねてしまったのですが。しかしこんな新鮮なものは、他では食べれないのですが、もったいないことをしました。どれもこれも、よだれがでそうな、美味しいことは請け合いなんですが。せめて、市場の魚を目に焼き付けようと、それぞれのお店を見て回りました。1、三陸産のカキが有名ですが、そのカキもありました。大きいでしょう。残念ながら、食べ損ねました。「ここで食べれます」って書いてあったのを、後から写真を見て知りました。2、三陸といえば、サンマです。さらにカニや、戻りガツオもありました。9月から11月にかけては、サンマの最盛期だそうです。なんとも今が、まさに旬じゃないですか。カニもみごとなのが並んでいました。3、キンメもたくさん並んでいました。なかでもノドグロというのは貴重ですが、それも並んでいました。タラやハマグリも並んでいます。4、もちろん、マグロの切り実も並んでいました。それは写真にとりそこねました。5、ハマグリなども並んでいました。これらは、市場の中の、わずかな部分です。全体は、はるかに多彩な海産物がならんでいました。こうしてみると、小名浜市場が、いかに三陸の豊かな海産物が集まってくる市場かがわかります。まだ、再開し出したばかりですが、活気がよみがえりつつあります。それにしても、地元の近海の漁師さんたちは、大事なこの水揚げの時期に、じれったい思いで日々を過ごしているものと思います。今回の原発事故で、福島の沿岸120キロの漁師が足止めされちゃってるんですから。まったく、とんでもないことです。東京電力は、それに対する賠償を、ただちに、しっかりと果たすべきです。日本の第一の漁場への海洋汚染に対して、もっともっと責任を感じるべきです。その対応には、ほとんどその自覚が感じられません。最後に、「アクアマリンふくしま」という水族館にもよってきました。小名浜市場のすぐ隣にあります。ここには、震災当日に百数十人のお客さんがいたそうですが、ここから高台までは相当の距離があるのですが、職員の人たちの誘導で、その全員無事だったということです。この水族館は、この三陸沖の豊かな漁場の成り立ちを解き明かしてくれます。水槽を泳ぐ、生きた多彩な海洋生物を、そのものを見れますし、黒潮と親潮とが、魚たちの成育にとって果たしている役割や、それがぶつかりあう三陸沖が、どうして豊かな漁場になっているのか。わかりやすく解説の映像や展示もされていました。水産漁業の全体像を知るうえで、大変に有益な海洋博物館でした。
2012年10月19日
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福島県白河の南湖神社は、正面の鳥居が今は絵です 10月14日(日)-15日(月)、社員旅行で福島を旅してきました。震災支援の旅ですが、14日に東北自動車道の白河インターを下りて。白河にある南湖という、江戸時代からの庭園によりました。私にとっては、「南湖」なる池は、はじめて聞き、見るものでした。ここが、昼食の場所だったんですが。食後に散歩していたら、湖畔に松平定信の銅像がありました。松平定信・・・?名前は聞きおぼえがありますが、誰だったか。銅像の横にある案内プレートで分かりました。江戸時代の三大改革の一つ、「寛政の改革」を主席老中として実施したのが松平定信でした。この庭園の池は、松平定信が老中を解任されてから、陸奥白河藩(11万石)の藩主に専念した時に、農業の水不足対策もあってため池も兼ねてつくった庭園だそうです。歴史教科書で、寛政の改革を老中として主宰したのが松平定信だということは、どうにかこうにか知っていましたが。松平定信(1758年-1827年・72歳)の出身が、福島県の白河藩主(1783年)だったこと。当時の天明の飢饉のなかで、1783年に岩木山と浅間山が噴火して、東北では沢山の餓死者がでた。その当時、白河藩では餓死者を一人も出さなかった。その施策が評価されて、江戸幕府の主席老中に選ばれたことなどは、今回この地に来るまでまったく知りませんでした。「寛政の改革」は、定信が老中在任中の1787年(彼30歳)から1793年のことです。定信は老中を解任させられますが、その後の白河藩の藩政に専念し、1801年(享和元年)には、こんなため池を兼ねた庭園をつくっていたんですね。南湖は最古の公園だそうです。この庭園には、囲いというものが無く、江戸時代の身分制度がきびしかった社会にあって、ここは誰でも身分にかかわりなく、利用できたというんですね。大体、そんなことが書かれているようで、松平定信という人について、ちょっと興味を刺戟されました。ところでその南湖の湖畔には、「南湖神社」という神社がありました。どんな神社か見てみようと、本殿に向かって参道を歩いていたら、道の両側に燈篭があるのですが、それが、あっちに傾き、こっちに傾いていて、ゆらゆらと、どうにもアンバランスな、不思議な景観になっていました。また、神社のシンボルといえば、入口の大きな鳥居のはずですが、その正面の鳥居が、なんと板に書かれた絵としてありました。それで、不思議な感じが、ここにきてピンとひらめいたのですが。もしかして、地震の影響か?本殿を見ても、とりたてて問題はなく、簡素だけれど、別によくある程度のつくりだ、程度の感じだったんですが。しかし、本殿の脇には、何やら石の構造物が並べられていました。太い丸い主柱のような石が、ゴロゴロと横に並べられ、集められていました。この不思議な光景に、「まさか」「やっぱり」と感じて、帰り道の参道でお茶会の世話をしている人に、また神社の門前の茶店の人に聞いてみました。案の定でした。3月11日の地震で、燈篭は傾き、鳥居は崩れてしまったということです。今、南湖神社の全体を、順次補修工事をしているところだそうで、絵の鳥居も、こういう鳥居があったんだ、ということを示すモニュメントだということでした。あくまで、暫定的な措置でそうしている、ということでした。こんなところにも震災の被害が出ていたんですね。これが今回の旅で、最初に震災の具体的な被害としてつきつけられたものでした。
2012年10月18日
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10月17日、久しぶりに、みかん園へ遠出してきました朝は何やかや手間取って、8時25分の出発で、真鶴のみかん園に出かけました。みかんの収穫の11月が、近づいて来ています。そろそろ、みかんの休日農夫の生活へ、もどるべき時が近づいてきています。今朝、10月17日の朝の富士山です。午前10時くらい、小田原SAから写したものです。平塚からは富士山は見えませんでした。小田原に近づくと、その姿を雲が下と上から隠していますが、何とか見えました。雲が富士山のすそ野を隠すときは要注意です。しばらくは大丈夫にしても、雨が接近している可能性が大です。午前10時35分、真鶴のみかん園に到着しました。まずは全体を見回ったのですが、地面がカラカラでした。このところ雨が降らなかったようです。シソの花が満開状態でした。そろそろ今年の生育を終わろうとしています。シソの葉の採取の時は、とっくに終わっています。ここまで残したのは、来年のために、花を摘んで、その種を残そうと思っているからです。よく種がついています。これ自体、そばやうどんの薬味として、香りもあり上等なんですが。この花先を摘み取りました。さて、肝心のみかんの様子ですが。小木が色づきだしています。この小木が、全体の中で一番色づいていました。収穫したみかんを持ち帰って、糖度を測ってみたら、それぞれ9.8、10.7、12.5と出ました。まぁ、食べれないことはないのですが、これからです。あくまで、まだ試しの段階です。まだ走りのうちで、収穫の数のうちには入らないのですが。味試ししたのは、当方だけではありません。この食べ方は、ヒヨドリの仕業でしょうか。鳥もみかんの成熟を待ちかねているようです。あまたあるこの地のみかん園の中から、当方の走りみかんを食べるとは、鳥も、よほどお腹がすいていたものと思います。また、周辺のあまたあるみかんの中で、これが成熟度としては、先端の部類であることをおしえてくれています。いよいよ、みかんの収穫の時が近づいています。(午後1時10分に作業を終了して、帰途に就いたのですが、雨が、案の定、午後3時過ぎにはパラつきだしました。これは、草木にとっては、恵みの雨です。)
2012年10月17日
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被災地支援で、福島県の小名浜と塩屋崎をまわる10月14日(日)-10月15日(月)と、福島県を回ってきました。初日は、東北自動車道をつかって福島に入り、県庁のある福島市の渡利生協病院に。二日目の15日は、福島県の浜通りに位置するいわき市小名浜、そこにある小名浜生協病院を訪ねました。ともに医療生協の役員の方たちから、現在おかれている状況について、お話をお聞きしました。今回は、小名浜の状況からです。医療生協の理事長さんからお話を聞かせていただきました。去年の3月11日すらの地震・津波に直面してからの問題と、くわえて、その直後に、「原発震災」によって、たいへんな事態に直面したこと。当地の北に位置する樽葉町では、原発事故によりすべてをそのままに緊急避難してから、20キロ内という「警戒区域」とされ、立ち入りがいっさい禁止されたこと。ようやくこの8月10日に「避難指示解除準備区域」となって、出入りは出来るようになったが(宿泊は出来ない)、町は時計の針が止まったままだったけど、水田は背丈もある草に覆われて、その様子は一変していた。立ち入りが禁止されていたので、そりまでは行方不明者の捜索もできなかったこと。今現在も、見えない放射能のために、深刻な生活被害が広がりつつあることを、最近になって入れるようになったものの、日常生活していた場所は、全体が無残な状況に変わり果てていて、使えるものを持ち出すくらいが、目下のところとのことでした。最近撮った写真を使って、混乱のままになっていた住居や施設の状態、草の生い茂った水田やお寺の状況、常磐線の鉄道も広野駅以北は草に覆われ開通のめどはなしなど。その被害の実際を紹介していただきました。福島県いわき市は、福島第一原発から約30キロから60キロ距離の範囲にあります。福島県の調査によっても、2012年3月現在で、避難指示による避難者が100,000人、自主避難が50,000人の、計160,000に及んでいること。160,000人の人たちが、それまでの生活手段を奪われた状態に置かれていること。今現在、23,000人の周辺の人たちが、いわき市に避難してきているそうです。これは、移動の途中で見かけた仮設住宅の一部です。直面している問題ですが、避難者はじめ福島の人たちの生活、健康、人権をまもるためには、除染、廃棄物処理、健康管理、知識情報、子育て支援、被災者支援、賠償・・・。立ち入りの禁止が開示をされて、片づけがあるにしても、生活を再建していくには、問題が山積していることが伝わってきました。いわき市は、水素爆発のあった当日は、たまたま雨や雪が降らなかったので、他の地域と比べて、その分はまだ幸いだったようです。たまたまとのことですが。同じ距離でも、放射能の被害が比較的に少なくて済んだのだそうです。山積する問題の前に、貴重な時間を割いての説明でした。現在、福島の人たちが直面している問題の一端を感じることが出来ました。小名浜生協病院で説明を受けた後で、小名浜市場で昼食をとり、港の水族館や周辺を見てから、薄磯にあるいわき市立豊間中学校へ向かいました。小名浜港から浜通りに沿って北に進むと、様子は一変します。津波の大きな被害がそこかしこに残されたままです。豊間中学校を目指しました。海岸に沿って曲がりくねった道をすすむと灯台が見えてきました。それが、塩屋崎の灯台でした。ここに来るまで、私は知らなかったのですが、美空ひばりの「みだれ髪」に歌われた塩屋の岬というのは、この塩屋崎灯台だそうです。また、木下啓介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)、これも、ここが舞台だったそうです。そうした昔から名は耳にしていた灯台は、この塩屋崎の灯台だったんですね。本来なら、この灯台や海岸は、風光明美なところですから、観光客でにぎわっているはずですが、今は、まったくひっそりしたまま、人影はなくなっていました。この見ている場所は、豊間中学校のすぐ前です。岸壁沿いに道路があり、その道をはさんで右側に学校はありました。ブルーの枠は、学校の校庭の隅にあったプールです。建屋は土台を残しているだけです。今、その校庭の大方は、見ての通り、ガレキが高々と積み上げられていました。そのガレキの山の右側に校舎がありましたが。中学校の校舎は、津波にやられたままで、まったく使用できる状態ではありません。敷地にはロープが張られていて、「立ち入り禁止」の表示がされていました。近づいて校舎の様子を写真に撮ろうとしたのですが、なるべく近くでしっかり見ておこうとしたんですが、柵には入っていなかったんですが、警備員の人に「立ち入りは禁止だ」と、きつく叱られました。豊間中学校の撮影はやめました。代わりに海岸通りの道に沿った家々の跡を撮りました。学校の並びは、ほとんど家らしきものがなく、ただの平地になっていました。ここに家々が立ち並んでいたことは、残された家の土台によってうかがえるだけです。津波が、土台の上にあったすべてを押し流して、ガレキにしてしまいました。「この集落で125人の人が亡くなっている」、警備の人は言っていました。この道の先に福島原発があります。当地は、福島第一原発から約35キロの所です。第二原発からなら25キロくらいの距離です。ここから北に向かって、放射能の影響がどうなっているか気になります。ぽつりと、家の片づけをしている人も、ごく少ないですが、見かけましたから。その影響は、必ずしも距離の問題だけではないのですが。今福島は、二重の問題に直面しています。地震と津波の被害の深刻な結果と、そこからの再建していく問題があります。同時に、目に見えない放射能の影響の問題です。当地に来てみると、今でも低線被害は続いていますし、除染はごく部分的に始まったばかりです。子どもたちへの影響を不安を感じながら、当地での生活再建を努力すね人たち。すすみの遅い除染、進まない賠償。食べ物の安全性も問題です。そうした現地が切迫して抱えている問題、その一端を肌で感じることができました。現地に行ってみないと、聞かないと分からないことが、たくさんあるんですね。報道や、想像だけでは、つかみにくい状況があります。これは説明してくれた理事長さんの言葉ですが、震災と原発災害は、日本のどこで起こっても不思議ではありません。今、現実に深刻に問題に直面している福島の人たちに身を寄せて、なるべく早く打開していく力を、政治や科学の良識を、しっかり結集しなければならないと思います。以上、福島を2日の行程でしたが、まわってみての感想です。
2012年10月16日
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福島県支援の職員旅行に行ってきました10月14日(日)-15日(月)、福島県に行ってきました。向かった先の一つは、農民運動全国連合会(略・農民連)の福島農民連が主催する「産地直売センター」でした。「産直カフェ」という名前のお店で、福島県庁の近く、川を渡ったところにありました。(福島県福島市大森字日の下4-1 電話024-546-8655)東京を朝8時に出て、東北自動車道を福島に向かいましたが、走っていると、今この地域一帯は、お米の収穫期であることが見てとれます。収穫作業でコンバインが動いているのも見かけました。すでに7割がたのお米の収穫は終えているようにみえましたが、まだ黄色の稲穂が垂れていて、これからの所もありました。やはりこの地域は、日本の穀倉地帯だと実感しました。「産直センター」について、お店の方から、営業の様子を説明していただきました。昨年の地震から、さまざまな苦労してお店を開いてきたこと。地震直後の苦労から、現在時点での放射能での苦労の状況をお聞きしました。お客さんたちにある不安をどの様に解くのかが、やはり大きな問題だと。風評被害もあって、従来のようには販売できていない事態があるようです。この「産直カフェ」では、放射能の検査機を置いているそうです。店舗で売っている農産物は、「すべて検査しており、安全です」と。今農家は、安全な農作物を提供するようにしているので、こうした農産物を安心して買って、食べていたい、と。当方も支援になればと、ささやかな協力です。福島県といえば、やはりお米です。見てきたとおり、日本のお米の主要産地の一つですから。それから果物です。今回はリンゴです。山側の畑には、赤くリンゴがたわわになっていました。帰ってから、さっそく試食したのですが、さすがですね、丹精してつくったものも、美味しかったですね。大事なことは、生産者にはしっかりと安全な食材を提供してもらい、それを消費者が信頼して、安心して購買され、美味しく食べてもらえること。産物を供給する農家が、自信をもって生産し、販売されるようになること。農家と消費者とが、この当たり前なふつうの循環が活発になるように、今、そのために国や自治体が親身な知恵と力を発揮すべき時です。
2012年10月15日
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「伊豆の旅」準備16、北条政子の修禅寺・指月殿への祈り今回は、修禅寺の向かいにある指月殿についてです。北条政子は、なぜ指月殿を建てたのか。やはり、鎌倉幕府のお家の事情、長男を死なせた政権への鎮魂が示されています。修禅寺の前には名前は知りませんが、小さな川が流れています。その川の向かい側に指月殿があります。細い道を歩いて5分くらいのところですが。指月殿の案内板は撮ったのですが、肝心の本殿の建屋そのものを撮り損ねました。これは北条政子が、長男の二代目将軍・頼家の冥福を祈って建てたものだそうです。この建物が、現在伊豆に残る建造物の最古のものだそうです。色もあせて、古いお堂といった感じなんですが。1199年に源頼朝が53歳で急死した後、その子・頼家が18歳で家督を継ぎ、第二代将軍になった。頼家は頼朝にならおうとしたのか、政権運営が独断的だったそうで、その独断に反発した御家人たちは、北条氏を中心に13人の合議制に変えさせた。ようするに、幕府の実権を移させ、将軍を形だけにしたということです。年若い頼家にとっては、頼朝のたてた政権をめざそうとしたとおもいますが。家臣団のそれぞれは、父の世代に当たる人たちで、みなつわものぞろいです。頼朝により強力に抑えられてきたことへの反発も出てきていたでしょう。23歳の、急きょな政権の継承はたいへんだったと想像します。結局、頼家は家臣の多数に従わざるを得なくなる。面白くなくストレス多かった。この頼家の側には、後ろ盾として比企氏がついていた。対するは、弟の実朝をかつぐ北条氏を中心とする御家人の実力者たち。両者の間での様々な問題の根底は、誰を政権につけるかです。闘争は激化して、ついに比企氏は敗れて、滅亡する。自らの後ろ盾をなくした頼家は、将軍職を剥奪され、修禅寺に幽閉される。やがて1204年7月17日に入浴中に襲われて殺されたということです。これが、その結果です。大きな墓石のように見えるのは、記念碑だそうで、本当の墓はその裏にある小さな2つの五輪の塔だそうです。北条政子は47歳。母でもあり、尼将軍でもありました。勢力間の争いで、北条氏側にあって、長男の頼家を死に追いやってしまった。どっちにころんでも、いやそうするしかなかったとしても、悲しい結末です。政子は、頼家の死を悼んで、供養のための経堂として指月殿を建てたとのことです。政子は数千巻のもの経典を、このお堂に治めたそうですが、現在、修禅寺の宝物館には、そのうちの「放光般若波羅密経」の第23巻が一つ残されて展示されています。その巻末に「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」と書き添えられてますが、これは、北条政子の直筆だそうです。今では色も落ちて簡素なお堂ですが、残っています。その中には、立派な釈迦如来座像が置かれています。その脇には、藤原時代の作とされる金剛力士像2体が置かれています。こうしてみると、伊豆は、確かに源頼朝の流刑の地、旗揚げの地という面もありますが、それだけではありませんでした。修禅寺は、源範頼にしても、頼家にしても、その後の鎌倉幕府で展開された権力闘争のなかで、死に追いやられた人たち、その犠牲となった人たちへの鎮魂の場になっているということです。これまで、鎌倉幕府を表舞台の面から見てきたきらいがありますが、その楽屋裏の内部の闘争がここには残されています。前に紹介しましたが、みかん園に通う道の途中、早川には頼朝の最初の決起・石橋山の古戦場があります。また、みかん園のある真鶴町岩は、その戦に負けた頼朝が追討をのがれて、房総に落ちのびた時に船出した場所でもあります。土肥実平が追討の危機からの脱出の目処がたったとき、祝いに舞を謡い踊ったとされる「謡い坂」もあります。それらは、歴史の大きな流れからすると、新たな時代を開く大事なひとコマではありますが、しかし瞬間的なエピソードくらいのものでしかありません。今回、この下調査で伊豆を回ってみると、あらためて鎌倉幕府の御家人たちの間で、勢力と勢力のぶつかり合いがあったこと。鎌倉の幕府が表舞台にあたるのに対して、伊豆はその裏舞台のようにあったこと。鎌倉のお寺と比べると伊豆のお寺は小さなものですが、それでもその一つ一つには、政権の犠牲者たち、お家の事情による鎮魂がしっかりと込められていたんですね。あらためて学ばされる機会となりました。
2012年10月14日
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「伊豆の旅」の準備、修禅寺とその周辺を歩く「伊豆の旅」の下見紹介も15回目、そろそろ一区切りとすべき時です。10月も半ばを過ぎると、そろそろみかんの収穫も始まりだします。そうなると、行動範囲も、時間も、動けるのは限られてきます。それで、この10月初めまで、「伊豆の旅」準備に集中したわけです。ひと休みして、これからの収穫にそなえなければなりません。さて、今回は、中伊豆の中心にある修禅寺です。10月6日の西伊豆行きは、まず修善寺を見てからの移動でした。その修禅寺ですが、駅や街の名は修善寺ですが、お寺は修禅寺でした。これまではすべて耳でのことでしたから、この区別をまったく知らなかったのですが。修禅寺の正面、山門の前です。古くから修善寺の街は、温泉町であり、門前町だったのでしょう。この街の道はどこもたいへん狭くて、車社会がはじまる以前のつくりです。修善寺の小さな街は、徒歩での散策がもっぱらで、車は邪魔になります。修禅寺の正殿です。歴史と風格が伝わってきます。この右側に宝物館がありました。この修禅寺から、左の方向に細い路地を500メートルくらい歩いたところに、源範頼(のりより)のお墓があります。源範頼は、頼朝の弟で、平家追討軍の総大将でした。源頼朝は、平家を壇ノ浦で滅ぼしたあと、まず弟の義経を、命に従わなかったとして会うことを拒み、やがて追討します。その後で、弟の範頼を反逆の疑いありとして修禅寺に蟄居させ、自害させます。さらに梶原景時ら武士団を派遣して、その家臣13士を殺害しました。この範頼の墓は、兄弟げんかの結果だったんですね。権力の集中がからんで、近親者とも相いれなくなり、なにかの口実をみつけては自害や殺害へと追いやっているんですね。もし、頼朝がこれを建てたとしたら、またはそれを認めていたとしたら、殺害を命じた頼朝自身について、自らの罪滅ぼしの意味でもあったのでしょうか。なかなか和を生かせず、御家人の間での権力闘争の厳しい鎌倉幕府のようです。いずれにしても鎌倉幕府にとっては、ここは鎮魂の地だったんですね。ところで、その墓への細い道を歩いていたら、ネコが道の脇で毛づくろいをしていました。近づいても、まったく人を気にしません。ガラパゴス状態です。ここだけでなく修善寺の街を歩いていると、あっちにもネコ、こっちにもネコと、ネコがたくさんいました。(ゴチャゴチャたぐろしているではなく、チラホラくらいですが)修善寺の辻辻に、どうしてネコがこんなに目に着くのか・・・修禅寺の前に川が流れてますが、その反対側を歩いていてわかりました。この小さな路地は案内プレートがあって、それが「漱石の道」と名付けられていました。そういえば、夏目漱石はこの修善寺の地を、療養の場所にしていた。これだったんですね。ネコが多いのは、漱石の『吾輩は猫である』の猫をもじっていたんですね。ただ、これだけのガラパゴス状態というのは、一朝一夕にはできません。住んでいる人はもちろん、観光客の人たちも、ずーっと、それぞれがみな、ネコを大事にしてきていたんですね。こうなると、わたしなども、長年積ん読してあった『吾輩は猫である』について、この地を案内するためには、やはり、ほこりを払って読んでおく必要を感じてきました。この修禅寺の川の対岸には、指月殿がありました。それについては、また次の機会とします。
2012年10月13日
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戸田には、プチャーリンの日用品も展示されていました10月6日の西伊豆調査で、「戸田造船郷土資料博物館」でのこと。プチャーリンのディアナ号は、1854年の安政大地震の津波で大破してしまいます。船を戸田で修理しようとして、下田から戸田に小舟でえい航しようとしましたが、嵐のため駿河湾の北側に流され、沈んでしまいます。そのディアナ号の模型です。2000トン級で、乗員は586人いたそうです。彼らは陸路、戸田にやってきます。プチャーリンの宿舎となった宝泉寺です。580人余の乗員は、戸田に分宿して、代わりの船をつくることになります。船大工の協力により、100日かかってヘダ号をつくるわけです。プチャーリンの人物画も展示されていました。浮世絵のようでもあります。彼がディアナ号で使っていた日用品も、いろいろ展示されていました。この他にも、様々な日用品が残されていました。これらも安政大地震による津波の被害の一つの記録です。プチャーリンは、戸田の人たちの支援に感謝していました。彼はフランスで亡くなりましたが、その遺志によって娘さんが戸田までやってきて、その感謝の気持ちを伝えた、とのことです。
2012年10月12日
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「伊豆の旅」の準備13、地震と津波のすごさと怖さを見聞できます来年に予定している「伊豆の旅」、その準備の13回目です。今回のテーマは、「地震と津波」です。観光地の伊豆ではありますが、そこには、その地震と津波の跡が、具体的な形で残されています。伊豆は、温泉や地魚、歴史も魅力ですが、この防災の問題も大事なテーマのです。旅の準備の第9回で、戸田造船郷土資料博物館を見てきましたが。下田港に停泊していたロシアのディアナ号が津波で大破しましたが。これが1854年の安政大地震であり、その地震の後に来た津波の被害です。11月4日(陽暦12月23日)午前10時近く、M8.4。しかもその後に、東南海地震や、江戸直下の地震が立て続けに起きました。絵の右側の方で、津波の渦の中央で揉まれているのがディアナ号だそうです。津波は渦ををつくり、岩に乗り上げたかのように、船体が横に傾いています。船体は損傷し、舵はこわれたそうです。ついには沈んでしまいます。586人の乗員がいたそうです。この絵は、その乗組員の人が描いた絵だそうです。 プチャーリンとの交渉で、幕府側の責任者は川路でした。おそらく、これは川路の残した記録などからまとめたものと思われますが、「食事中だったが、生まれて初めての激しい揺れに箸をおいた。壁に亀裂が走るのを見てはうように外へ出ると、寺の石塔などがみな倒れている。間もなく、津波が来たと町中が大騒ぎになり、川路も家来たちと近くの山に向かって逃げた。振り返ると、浪に崩れる人家の土煙がもうもうと立つ中を、大船が飛ぶように迫ってくる。全員、道のない絶壁を夢中でよじ登った。「下田への津波は、昼過ぎまでに7,8度押し寄せた。そのうち第二波が最大で、波高は7メートル近くに達し、山際までの全町を浸した。それが引くと、湾内は家屋の残骸、家財道具、船、流木、人間などで充満した。「下田の町は完全に消え失せ、家や船の残骸が散乱する浜辺と化した。当時の記録によると、841軒が流失全潰、30軒が半潰入水、無事なのは4軒だけ。122人が死亡したという。」(石橋克彦著『大地動乱の時代』岩波新書より)地震の激しい揺れの後、津波が襲ってきた様子が紹介されています。津波の怖さとしうのは、「経験しないとわからない」では、すまなくなりました。これを具体的に感じとって、今後の災害に備えることが大事になっています。もう一つは、丹那断層の跡から学ぶということ。1930年11月26日、M7.3とのことですが。直下型で震度は6とのこと。2.7メートルも断層がずれた、その跡です。震度の区分では、こうした断層のずれが生ずるのは、最大級の「激震」です。その凄さを、後に生まれた私などが、その痕跡から実感するのは難しいのですが、先人が記録として残したのは、後の世への警告です。それから、どのような防災への備えをつくるかは、今の、われわれ自身の問題です。伊豆の旅は、こうした地震と津波についても、私たちに語りかけてくれているものがあると思います。
2012年10月11日
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「伊豆の旅」準備12、江川邸・韮山郡役所跡をたずねました10月3日、中伊豆の下調査で、江川邸・韮山郡役所跡をたずねました。はじめて中伊豆の歴史に足を踏み入れたんですが、源氏や北条氏の史跡とともに、江戸時代の幕末の歴史がありました。江川邸も、その大きなポイントの一つでした。江戸時代の代官所の仕事内容や、幕末の始まりだした諸外国への対応の問題、などが展示されていました。江戸時代を通して、明治まで役所としての役割を果たしていたそうです。それらを知る上で、建屋や多くの貴重な資料が保存されていることがわかりました。これが、江川邸への入口です。NHKの大河ドラマの撮影にも使われたそうです。左の建物が、入場券売り場で、一般は400円です。静岡県伊豆の国市韮山 韮山1番地055-940-2200正面の門の表札には、おおきく「江川」との表札がありました。伊豆は徳川幕府によって、幕府の直轄地とされたんですね。一方で江戸と、他方で駿府、その間に位置しています。また伊豆7島などの外国船がまずやってくる所、そうした重要地だったんでしょう。江川太郎左衛門は、世襲の代官として、この地を治めてきたとのこと。同名の歴代の太郎左衛門がいますが、江川坦庵(太郎左衛門英龍 1801-1855)が中心のようです。その代官所となったのが韮山役所で、それが史跡として残されているんですね。江戸時代の社会というものが、かなり身近に伝わってくるような感じがしました。江川邸の中には、郡役所として、いろいろな資料が展示されています。砲術の製造や、使い方を指南した塾として使われた部屋も残されています。近くには、韮山反射炉も残されていますから、現実感あるところです。これがその反射炉です。ここの反射炉で、大砲をつくっていたとのこと。これが、反射炉でつくられた大砲です。この大砲がお台場に設置されたわけです。 郡役所の説明書によると、江川氏の管轄地は10万石だったとあります。それがどのくらいの大きさか、実感的にはよくわからないのですが、小田原城の大久保加賀守が11万3000石ですから、ほぼそれに匹敵しているということです。その説明書にありますが、「業務内容」としては、1.年貢の徴収があります。2.廻船の吟味や遭難船への対応があります。3.街道や関所、宿場の維持があります。4.伊豆7島の管理もここであたっていたとのこと。5.河川の普請や、勘定奉行への具申も仕事とのこと。6.天城山、富士山、箱根山の御用林の管理もしていたそうです。7.事件の犯人捜査、裁判、牢屋の管理もしていたそうです。ですから、ここが海上防衛の第一線の位置にもあったと思います。ペリーやオールコック、プチャーリンなどと、下田で交渉したわけですが、彼らの記録にも、江川太郎左衛門の名が出てきます。今回の下見の中でも、江川太郎左衛門は、伊豆の石をもって、江戸湾のお台場の建設に当たったこと。韮山に反射炉(溶鉱炉)をつくって、お台場に設置した大砲を製造したこと。プチャーリンの船が安政地震で沈んだ時、一行500人の滞在場所の手配や、代わりの船ヘダ号の建造にも当たった人として名前が出てきました。そうした資料は、かなり多岐多彩なものがあります。それらについては、江川邸のホームページがありますから、ご利用ください。http://www.egawatei.com/大まかな紹介を見ただけでも、史跡・江川邸はなかなか面白く、歴史の勉強になりそうに、少し感じていただけるかと思います。
2012年10月10日
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『伊豆の旅』準備、熱海といえば『金色夜叉』です来年ですが、『熱海と伊豆の旅』を案内することになっているんですが、その準備として、現地を下見したり、関連する資料をあたっている所ですが。「熱海」といえば、やはり尾崎紅葉の『金色夜叉』は避けて通れません。この機会に、なにしおう『金色夜叉』に挑戦してみました。「熱海の海岸散歩する、貫一・お宮の二人ずれ・・・♪」そのくらいは、耳に聞きおぼえがあるのですが。また、現地の海岸通りには、三代目のお宮の松と、二人の像をみかけます。昔も今も、やはり「貫一と宮」は熱海のシンボル、大看板になってます。通りがかりに、深くは知らず、見かけることはあったのですが。これまで、その尾崎紅葉の著作を読んだことはなかったのですが、今回の案内をする以上、『金色夜叉』を避けて通れない、読ざるを得ない羽目になりました。ところで、熱海は、いつころから温泉の代名詞になったんでしょう。今日、大きな宿泊施設が立ち並んでいますが、いつころからそうなったんでしょう。熱海温泉は、どのように歴史的に発展してきたのでしょう。抜群の社会資本が、ホテルやその他の施設に投じられています。それは、いつから、どうしてか、これは一つの問題です。万葉の歌にも、昔から隣りの湯河原温泉は歌われています。また、隣りの伊豆山の走り湯は、鎌倉幕府の源頼朝が「二所詣で」に来ています。熱海温泉は、江戸幕府の徳川家康なども足を運んでいるし、お湯を江戸まで運ばせています。そのころから天下の名湯として、たしかに世に聞こえてはいたんですね。しかし、江戸後期の「諸国温泉功能鑑」(1817年)には出てきません。その番付には、湯河原、箱根、伊豆長岡、修善寺、伊豆山などは出ていても、熱海は出ておらず、一般的ではなかったんですね。オールコックによれば、幕末の1860年9月の当時は、熱海は人口約1400人くらいの小さな町で、農漁民が住んでいたとのこと。(『大君の都』第21章)現在の熱海市の人口は、39,463人(平成24年4月)です。熱海市の人口推移を確かめてみる必要がありますが、そうなると、いつころから大きな温泉街として発展するようになったのか、が問題です。私の推測ですが、一つは明治30年ころ書かれた尾崎紅葉の『金色夜叉』が、一つのきっかけと思います。二つ目は、1934年(昭和9年)の丹那トンネルの開通による東西交通の利便化がすすんだためと思います。三つ目は、戦後高度成長からのバブル期まで、東京の大都市化とうらはらに、都会人の、それにより全国からも、近場の行楽先としてブームをよんだものかと思われます。「伊豆の旅」準備、第6回目でも紹介しましたが、昭和9年の丹那トンネル開通までは、東海道本線は今の御殿場線です。それまでは国府津から熱海までは、たいへん交通不便にところだった。「豆相人車鉄道」といった、3人の人が押す8人乗りの客車1つがレールの上を走る、引っ込み線です。貫一とお宮の時代は、まだそうしたころです。だから、一般の人が行楽として簡単には行けない、辺ぴな熱海温泉でした。実際としては、かなり限られた人たちのリゾートだったはずです。いつのころかわかりませんが、今日のハワイやグアムにあたる、新婚旅行さきとして熱海温泉がブームになった、大規模施設が乱立したのはそのころかと思います。自然も場所もよい所です。東京から鉄道で2時間くらいの近さですし、伊豆への玄関口でもありますから、いつのころからか、熱海へ伊豆へと車の渋滞が始まり、今日にも続く都会人の人の流れが出来ています。しかし、そこには、やはり『金色夜叉』の影響は大きいと思います。尾崎紅葉の『金色夜叉』は、1897年(明治30年)1月1日から1902年(明治35年)5月11日まで、「読売新聞」に連載された連載小説だったんですね。尾崎紅葉は、1868年(慶応3年)1月10日生まれで1903年(明治36年)10月30日に亡くなっていますから、晩年の作品だったんですね。遠い昔の作品ですが、やはり確かめてみる必要を感じたわけです。それで、今回挑戦してみました。『金色夜叉』は、上、中、下、続、続々と、5つの編からなっていて、かなり大部の作品です。有名になった熱海の海岸でですが、貫一がお宮を蹴飛ばすのは、上編の終りのところにでてきます。全体からすると、はじめの方です。それから本題の展開が始まるわけですが。この場面が、貫一が、お宮とダイヤモンドに象徴される成金の力に対する反抗の決断、高利貸というなりふりかまわぬ金儲けに走りだす、出発点になっているわけです。当時の熱海は、高級な階層が利用する保養地・リゾートだったんですね。中編 貫一は高利貸しになる。高利貸しになって宮と金権に仕返しをしようとする。下編 高利貸しとしての貫一は暴漢に襲われたりする。続編 お宮が苦しんでいて、旧友に出会い、貫一との仲立ちを頼んだりする。その旧友は、貫一の生き方を友として批判する。宮は、気持ちを伝えきれずに、とうとう気がおかしくなり、亡くなってしまう。しかし「亡くなった」というのは、貫一の夢だった。続続編 貫一は、高利貸しとしてのあり方を自らのあり方に迷いつつ、栃木県の塩原温泉に行く。そこで心中をしようとしている二人と出会う。貫一は、わけを聞いて、それを止めようとする、そこでこの作品は終わっている。(一つ補足がありました。写真の通り、近代文学館の「名著復刻全集」で『金色夜叉』を読んだんですが。それは第5編で終っていたのですが。筑摩書房の『現代日本文学全集4』によると、第6編「新続金色夜叉」がありました。もう一つの編は、一.宮の手紙、二.貫一とお静との会話、三.宮の手紙。この第6篇三があり、そこで終わっています。この終り方は中途半端です。著者は、まだこの先を書く予定だったようですが。)この『金色夜叉』は、第一印象は、明治の文語調のような堅苦しい印象がありますが、実際は、いろいろな人たちが、いろいろな場で会話が交わされていますが、その会話は、日常につかわれている生の言葉で、口語で書かれていますから、読んでもわかりやすい。雰囲気も意味も、言葉の表現も分かりやすいんですね。おそらく、新聞で多くの人に読まれたのは、この分かりやすさがあったからと思います。もちろん、失恋により悪徳なサラ金で恨みを晴らそうとする貫一、宮の悲哀、貫一を立ち直らせようとする旧友の働きかけ、はらはらドキドキと・・・。ドラマチックな展開もあります。当初、印象として感じた「なかなか堅苦しくて、疎遠な感じ」といった印象とは、実際に読んでみると、かなり違った姿の『金色夜叉』がみえてきます。それが、小説から、さらに歌に、演劇に、映画に、・・・・と、波紋を大きく広げたんですね。そのいずれもが、熱海の海岸での場面を、大きなインパクトを持って、それぞれの聴衆を湧かせたんですね。熱海の海岸シーンは、この作品では、上編での話の出発点でしかないんですが、強いインパクトがあったということです。ドラマはさらに次々に展開していくんですが、問題の原点というか、のどに刺さったとげというか、繰り返し熱海のシーンが、様々な想いをもって、思い返されてくるんですね。それだけ、熱海が印象に残ったというんですね。この『金色夜叉』という作品を、いったいどの様に評価すべきか、その評価は問題なところですが。私などは、なかなか整理がつけれないのですが。少なくとも、いち読すると、明治の時代に、こうした新聞に掲載された小説が多くの人の関心をあつめただろうし、熱海への関心も高めただろうと思います。時を隔てても、今だもって三代目のお宮の松が、観光の宝として大事にされているのも、やはりそれが熱海の歴史的な宝であることが、少しだけ分かるような気がしてきます。
2012年10月09日
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「伊豆の旅」の準備10、富士山、各所から見えた姿来年の「伊豆の旅」の準備で、日帰りで2回、下見で出かけました。「伊豆の旅」のポイントの一つは、やはり富士山です。最初は、10月3日午前、丹那盆地から見えた富士山です。火雷神社から函南駅に下る途中で見た富士山です。曇りでしたが、時々晴れ間もみえる、忙しい天候でしたが。いつもは、富士山の姿は、関東平野の側から見ていますが、そうなると、どうしても箱根山や丹沢山系がすそ野を隠してしまいます。すそ野を切られて、上部の姿しか見ることが出来ません。伊豆半島から富士山をみると、すそ野の広がりも見ることができます。富士山は、やはりすそ野の広がりの中で見るのが、一番です。次は、中伊豆の韮山あたりからの姿です。伊豆半島の中央を狩野川が流れていますが、その両側には、水田が広がっています。黄色く稲穂が垂れだしていて、もうすぐ稲刈りです。伊豆半島も、広くはありませんが、やはり米どころなんですね。次も、中伊豆の「蛭が小島」からです。源頼朝の流された「蛭が小島」と、徳川幕府の代官・江川太郎左衛門の館も、お互いにすぐ近く、目と鼻の先です。それぞれ、こうした景色を見ていたのでしよう。次は、夕方、帰り道に丹那盆地から見た富士山です太陽が西に傾きだしていますから、逆光になってます。手前は暗くなっても、高い富士山はコントラストで、よく映えてます。次は、10月6日、2回目に回った時のもの。戸田岬の突端あたりから見た富士山です。お昼くらいに、戸田造船郷土資料博物館から出たあたりです。手前は駿河湾で、対岸は静岡・日本平とのこと。残念ながら、雲がせっかくの富士山の上部を隠してしまっていますが。ほんとうは戸田の峠から見える富士山が絶景とのことですが。この日は、あいにく雲がかかっていて、富士山はごく下部のすそ野だけでした。それでも、想像力をかきたててくれるのですが。秋の空は気まぐれですから、どの様に見えるかは、その時の運です。しかし、確かなのは、どの様なところから、いつ見たとしても、絵になるのが富士山です。やはり、普段の行いが、左右しているかもしれません。
2012年10月08日
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みかんの収穫まで、あとすこしです10月6日(土)は、来年の「伊豆の旅」の準備でした。300キロを車で走って、修禅寺から西伊豆の方面を下調べしました。その伊豆から真鶴のみかん園にもどったのは、午後4時半になっていました。「秋の日は、つるべ落とし」といわれますが、午後も4時を過ぎると、すでに陽は西に沈みかけていました。しかし、せっかく遠出してきたのですから、みかん作業の方も、出来ることは、なるべく片付けておかなければなりません。今回は、途中のJA湯河原営農センターによって、みかん箱を入手しました。150箱を購入して、車に積みこんだのですが。車に積んだまま置いておくわけにはいきませんから、最後のひと踏ん張りです。夕方になり、足元はすでにうす暗くなりつつありましたが、みかん小屋への搬入作業をしました。やれやれ、8分通りは荷下ろししたのですが。全体の様子を見回りました。先般の台風17号の嵐が吹き荒れた後ですから。伐採しておいた木の切り枝は、吹き飛ばされていないか。今回は確認するだけですが。フラッシュが作動するほどの薄暗がりになっていました。切った枝については、風に飛ばされることは無かったようです。植え替えた苗木も、この新たな主人公も、順調のようでした。ところが、その苗木の葉の先を見たら、アリがいました。その葉先が丸まって、ユキヤナギアブラムシが繁殖しだしていました。最近は、朝晩は涼しくなったのですが、それでも日中の日差しは暑い。そのため、まだユキヤナギアブラムシが活動を続けていました。アリとアブラムシは共生してますから、葉にアリを見つけた時は、その近くは要注意です。見過ごすわけにはいきません。急きょ、薄暗くなりつつある中で、小木の秋枝への薬剤散布を行いました。ふってわいた作業ですが、苗木を育てるには、先送りできない仕事でした。みかんの木ですが、小木のみかんが、黄色く目立つようになってきました。成木の方は、色づいてなく、まだ緑色です。小木の成熟が、先行してすすみだしています。この木は、入手したときに「ウンシュウミカン」と表示されただけでした。早生なのか、普通温州なのか、区別が分からないのですが。ホームセンターの係りの人に聞いても、「みかんの木」しか分からなかったんですね。生育の様子からすると、早生みかんのように見えますが、確かなことはわかりません。次回には、試食してみようと思っています。午後5時半に作業終了。あたりはすでに暗くなってました。すべての予定をおえて、帰途についた次第です。
2012年10月07日
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戸田造船郷土資料博物館に行ってきました「伊豆の旅」の下調査も3回目、10月6日、今回は西伊豆の戸田港まで遠出してきました。目的は、戸田造船郷土資料博物館と、宿さがしです。当地についての予備知識、案内書からひろったものですが、「1854年3月に日米和親条約が結ばれましたが、同様の条約を結ぼうとしてロシアのプチャーリンがやってきた。1854年11月3日から下田で、幕府と交渉に入ったが、その翌日の、11月4日に安政の東南海地震に遭遇して、旗艦のディアナ号が大破して、ついには沈没してしまった。幕府は要請を受けて、それに代わる船を、この戸田港で日露が協力して建造した。日露条約も12月には結ばれ、建造された船(ヘダ号)でプチャーリンは帰国した。」人によっても、その関心によって様々ですが、こうした歴史の場所に立った時、何を、どの様に感じるか、そこが楽しみなところです。戸田は、修善寺から山越えして、車で40分かかります。峠を越えたところで、眼下に戸田港が見えました。向かい側には天気に恵まれれば、富士山が見えるはずなんですが。細長く伸びた岬の地形によって、戸田港は自然の良港です。この岬の先端に「戸田造船郷土資料博物館」はありました。道が出来ていて、車ですぐ前まで行けました。やはり想像していた通り、いたって小さな博物館です。もしかして、だいぶ以前に来たことがあるのかも・・・、分かりません。正面玄関の階段の右側に、大きな錨があるのが分かるでしょうか。ディアナ号のもので、海の底から引き揚げられたものです。長さ4.8メートル、重さは4トンあるそうです。プチャーリンは、1854年11月3日から下田で条約交渉にはいったそうですが、その翌日、11月4日に、安政の東南海地震と津波に襲われます。旗艦のディアナ号は船底と舵が大きく壊れてしまったそうです。それもそのはず、その様子を描いた絵がありました。人も船も津波にほんろうされている様子が描かれています。ディアナ号の船体が津波により、横波を受けたり、海底に打ちつけられている様子が描かれています。ロシア人の人が描いたものですが、当時の体験によるものであることが、伝わってきます。結局、ディアナ号は、この破損と嵐により、漂流し沈没してしまった。この残された資料を通して、安政の大地震と津波の被害が残されました。東海沖地震の年表が掲げられていました。 1604年(慶長9年) |(103年) 1707年(宝永4年) |(147年) 1854年(嘉永7年) |(約150年) 現在 周期的に繰り返されたきた東海沖地震、次の東南海地震にそなえるためのきっかけとなれば、よいのですが。プチャーリンと乗員500名は、自然の力に翻弄されました。地震で船が壊れた後は、嵐で漂流させられ、ついには静岡よりの海で沈没してしまった。無事に海岸に救助されて、そこから陸路で戸田にやってきたのだそうです。幕府が手立てをとり、ここで代わりの船をつくる、それまでの避難場所だったそうです。そして、日露が協力して、ここで船をでつくったということです。そのおかげで幕府側も、新たな造船の技術を学んだのだそうです。そうしてつくられた船が「ヘダ号」です。10分の一の模型ですが、ヘダ号の模型が展示されていました。「ヘダ号」という名前は、プチャーリンが名づけたのだそうです。そこには、戸田の人たちに対する感謝の意味が込められていたのだそうです。それは、プチャーリンの娘さんによっても、また、この博物館づくりへにあたっても、引き継がれているものです。日本側としても、和船とは違った西洋式の造船技術を学ぶ機会となった。当時の船大工にとっては、はじめててがけた西洋式の帆船だったそうです。これを機会に、同じ形のものが7隻つくられたそうです。それにより、石川島造船所(水戸藩)だとか、各地に新しい造船技術がひろめられたそうです。それから、その年、1854年12月12日には日露和親条約が結ばれました。その条約文も、展示されていました。この条文についても注目すべきものがありました。ここで日露の国境問題が、明確にされています。「エトロフ島以南が日本、樺太は両国の権利を認めて境界を定めず」の趣旨でした。(ここは、大事な点ですから、正確に確認しておく必要があります。)「第二条 今より後、日本国とロシア国との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、それより北の方、クリル諸島はロシアに属す。カラフト島に至りては、日本国とロシア国の間においては界をわかたず、是まで仕来の通りたるべし。」(展示されていた条約文では、このようになっています。)面白いですね。ここには、日露が幕末に出会ったことで、和親条約を結んだこと、そして、それは両国で批准して成立しているはずです。率直で冷静、平和裏にフェアーな認識が交わされことが、確認できます。この線上に、1875年(明治8年)5月7日の「樺太・千島交換条約」があり、これで国境が確定したというのが、平和裏の協議の到達点です。戸田造船郷土資料博物館は、たいへんにちっちゃな博物館ですが、いわゆる、国立博物館や県立博物館の大規模で総合的な展示館ではないのですが、それを想像していると、期待外れとなりますが、それでも、歴史の遺産をとどめていて、安政東南海地震の被害を知る上でも、日露両国の国境画定の経過を見る上でも、なかなか貴重で、おもしろく、学ぶところのある博物館だと思いました。
2012年10月06日
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「伊豆の旅」の下見8、1930年の北伊豆地震と丹那断層10月3日の「伊豆の旅」の下見で、北伊豆地震のもとになった丹那断層を見てきました。これまで、1930年の北伊豆地震については、まったく知らなかったのですが。丹那トンネルの掘削作業をテーマとした『闇を裂く道』(吉村昭著 文春文庫)を読むなかで、はじめてこの北伊豆地震というものがあったことを知りました。そして、その跡が今でも所々に残されていることを知りました。今回は、それも下見のテーマの一つでした。この日は、まずはじめに熱海峠を越えて、「火雷神社」をたずねました。丹那盆地の北側にありる小さな神社です。(静岡県田方郡函南町田代57)。ここが、北伊豆地震の跡を、今に残す場所になっています。山間に水田や畑が広がる小さな盆地ですが、火雷神社は、そのはずれにありました。火雷神社を正面から写してみました。石段が二つありますが、左の階段は現在使っているもの。右の階段は地震当時のものです。鳥居が、左側の片方の柱だけを残して、右側は完全に折れて崩れ落ちています。しかも、その位置ですが、階段に対して鳥居の位置が、右側にかなりずれています。見る位置を変えて、旧階段の上の方から鳥居を見降ろしてみました。左側片方の鳥居の柱が、途中から折れたままで残っているのがわかるでしょうか。鳥居の上の頭となる横石は、地面に転がったまま残されています。階段のすぐ下にある木の柵は、ズレた断層の位置を示しています。火雷神社は、北伊豆地震の跡を、今に伝えてくれています。もう一つ、丹那断層の様子が残されていました。公園として、丹那断層をみれるように保存されていました。そのばしょは、熱函道路(11号)の途中にあります。案内標識がでていて、本道から少し北側に下ったところにあります。案内プレートは、陽に焼けてしまって、文字が薄れているのですが。その内容は、1930年(昭和5年)11月26日午前4時2分、当丹那盆地を震源とする地震があった。マグネチュードは7.3、震源は盆地の下0~5キロ、震度は6。その丹那断層は、箱根芦ノ湖から修善寺まで長さ30キロつづいている。横ずれの最大は、丹那盆地で、2.7メートルずれた。地震は、伊豆半島の北部一帯に多大な被害を残した。公園内には、当時の写真が展示されていました。さらに説明書きの続きです。その後、1982年に調査が行われたこと、そこで分かったことは、1、過去7000年のうちに、小さなものも含めて9回の断層活動があったこと。2、その中には「続日本後記」に出てくる承和8年(841年)の「伊豆国地震」も、震源は丹那断層にあったこと。3、約50万年前から現在まで、横ずれが1キロ、西側が100メートル以上隆起している。4、700年から1000年の周期で活動が繰り返されてきたこと。5、1000年に2メートルの割合で、左横ずれをつづけていること。こうしたことが、プレートには紹介されていました。現地には、石の円形サークルが残されています。これは、塵捨場の周りの石だそうです。もとはまったくの円形の縁取りだったそうですが、半分ずつズレているのが分かるでしょうか。円形の石の縁取りが、その中央にあった断層のために、半分ずつ、相互にずれてしまったものです。その隣には、断層そのものが、現地保存されています。風雨に耐えるように、室内に保存展示されています。外側に覆いがつくられて守られていました。これが、その丹那断層そのものなんですね。どうやら、「伊豆の旅」のテーマの一つは、安政地震、関東大震災、北伊豆地震など、伊豆の地震、現地にその跡を学ぶ、ということのようです。
2012年10月05日
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「伊豆の旅」の準備7、「蛭が小島」で撮影隊と出会う10月3日は、ついに中伊豆まで、下調べで踏み込みました。中伊豆といえば、源頼朝の流刑地、「蛭が小島」は見ておく必要がある、と。NHKの大河ドラマ『平清盛』が、いよいよ佳境に入ってきていますから。いつもであれば、平日でもあり静かなはずなのに、訪ね当てた午前11時半くらいの「蛭が小島」でしたが、頼朝と政子像のある小さな丘は、何やら人盛りがありました。この時期の平日は、いたって静かなはずなんですが。近づいてみたら、何やらテレビで見慣れた人が人がいました。そうです、NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」の収録をしているのと、ぶつかったわけです。私もその番組はよく見ているし、数日前に前川清さんとの旅を見たばかりだったのですが。彼は、いつも自然体で、どこでもその土地柄と人の魅力を引き出してくれる、見ていて楽しい番組です。近づいてみて、すぐに分かりました。『「家族に乾杯」ですか?』、とりまく人に聞きいたところ、『そうです』とのこと。カメラを向けていると、直ぐにスタッフの人が近づいて来て、『写真は、撮らないようにしてください』、と断られたのですが。もう、その時は何枚か撮っちゃってたんです。お相手のスラっとした若い女性は誰なのか?当方は、すぐに邪魔しないようにはなれたのですが、駐車場でスタッフのドライバーの人に聞いてみました。すると、『杏さんです、北条政子役の』とのこと。杏さんは知らないんですが、北条政子役の人なら見ています。へぇー、杏さんって言う人か、当地での収録は納得です。しまった、もっと早く正面から撮っておくべきでしたが、後の祭りです。しっかり釘を刺されてしまったのでは、仕方ありません。それにもう移動しかけていたので、引き返すわけにはいきません。日曜ドラマの『平清盛』、北条政子といえば源頼朝。伊豆の頼朝といえば、「蛭が小島」。当方「伊豆の旅」を企画するとすれば、中伊豆では「蛭が小島」。まぁ、考えることは大体似てくるんですね。次に当方が向かったのは「反射炉」でしたが、ここでも、またまた、後を追いかけてくるように、この撮影隊がやってきました。こっちは幕末の事ですから、頼朝とどうつなぐか、地縁以外は分かりませんが。当方の中伊豆のコースの設計は、もう一つは江川太郎左衛門だったんですが。まぁ、やはり大体、似てくるんですね。そうしたハプニングは、ともかくとして。本来の静かな、本題の「蛭が小島」です。頼朝と政子の像が、富士山の方を向いて立っています。はっきりした確証はないと思うのですが、「蛭が小島」というのが、大体このへんだっただろう、ということでしょうが。富士山を遠望する二人の像、それ以外には何もないのですが、小さな公園として、ここが「蛭が小島」だとして整備されてました。ここに来る前までの印象としては、頼朝の流刑地ですから、辺ぴな伊豆の山の中、とのイメージがあったのですが。実際は違っていました。富士山が綺麗に良く見えるところです。昔はどうだったか分かりませんが、水田が広がるかなり開けた土地柄です。おそらくこの一帯は、北条時政などが、水田を開拓していたものと感じました。その時政の力が、頼朝のバックについたということです。中伊豆の旅は、私は今回、初めて中伊豆に踏み込んだのですが、当方の眼目は、頼朝の「蛭か小島」と、幕末の「江川太郎左衛門」でしたが、この二人は、この地では、欠かせない歴史的な遺産だと感じて、帰ってきました。たまたまですが、「家族に乾杯」がどんな編集になるかわかりませんが、完成した番組の中身を見ないと、確かなことは分からないのですが。清盛と頼朝、そしてこの伊豆の土地柄と歴史の魅力を考えるときに、大事にしたいことが、共通の、接近するものがあるのかな・・・、と感じるところでした。いつ放映されるのか聞きそこねましたが、放映されるのが楽しみなところです。
2012年10月04日
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「伊豆の旅」準備6、丹那トンネルと豆相人車鉄道について10月3日は、「伊豆の旅」の下見の続きをしました。熱海から、ついに車で中伊豆まで足を延ばしてみました。電車でなら、熱海から丹那トンネルをくぐるとたった9分間で、函南駅に到着することが出来るのですが。そして、もうそこから中伊豆までは、ほんのすぐのことなんですが。当方の旅は、車です。熱海峠を越えていくわけです。前回、丹那トンネルの熱海口を紹介しましたが、今回は、そこから下見の続きが始まりました。再び丹那トンネルの熱海口です。前回紹介したレリーフと殉職者の追悼碑は、トンネル入り口の真上にあります。そのわきには、工事の安全を祈念してつくられた、小さな丹那神社があります。そして、その丹那神社の右側には、「救命石」がまつられています。「救命石」とは何か、その由来の説明書きです。この石がトロッコにひっ掛ったおかげで、これを取り除こうとしたことで、坑道の奥にいた人たちは落盤事故に巻きこまれずにすんだんですね。それで、この石を事故後にまつるようにしたということです。さて今回、7キロの丹那トンネルの上を、車で熱海峠の山越えして函南駅にでました。電車だと9分くらいだそうですが、険しい山道を車で山越えするのはたいへんでした。車を使ってもたいへんでした。そして丹那トンネルを出てすぐの所にあるのが函南駅です。小さな函南駅の駅舎です。前の記憶に比べて、かなり駅舎はきれいになり、駅前のロータリーが整備されていました。前は、線路に沿って、けもの道みたいな下り坂をおりた記憶があるんですが。すっかり変わってました。浦島太郎です。ちょうど東海道本線の熱海行きの3両電車が、函南駅を出発していきました。向かっていく先が、これが丹那トンネルの西側の入り口です。まえは、東海道本線は10数両の列車や電車だったと思うのですが。今はたった3両編成の電車です。丹那トンネルが開通したのは、1934年(昭和9年)3月10日です。これれが開通するまでは、東海道本線は、国府津から御殿場まわりで沼津へでるコースでした。今の御殿場線が東海道本線だったわけです。小田原とか、熱海というのは、国府津駅からの単線の脇道線だったんですね。その当時の様子がわかるレリーフが熱海市内にありました。これが、小田原-熱海間の「豆相人車鉄道」です。なんとなんと、小さな客車を人が手で押して動かしていたんですね。定員6名ないし8名ののった客車を、3人の人が押して動かしたというんですね。トロッコのような、ほんとうに「原始的」ですね。小田原-熱海間の道は、海岸線に沿って上り坂も下り坂もある、カーブも多々ある路です。そこを、人の力で押し上げたり、制御したというのですから。前回紹介した『闇を裂く道』(吉村昭著)にも、その人車鉄道の様子が紹介されてます。ところで、「熱海の海岸を散歩する間貫一とお宮の二人づれ・・・」。尾崎紅葉の『金色夜叉』は、1897年(明治30年)1月1日から1902年(明治35年)5月11日まで新聞に連載されたものだそうですが。そうだとすると、丹那トンネルの前の話です。貫一と宮が熱海に来た頃というのは、そのころの熱海線の交通事情というのは、東京方面から国府津駅まで蒸気機関できて、そこで乗り換えて、そこから熱海までは、この人車鉄道を使って行ったということになります。熱海は、今のように気軽に行き来できるようになったのは、丹那トンネルが開通してからのことです。東西交通のどちらからでも行くことが出来る中間駅となったのは。それ以前というのは、熱海温泉は、小田原方面からのみ行くことが出来たのであり、奥まったどん詰まりの、終点の駅だったんですね。『金色夜叉』には、そうした交通事情がふれられていたか、わかりません。その一点で、この小説を確かめてみたいと思っているのですが。熱海が全国的に一躍脚光を浴びたのには、尾崎紅葉の『金色夜叉』の役割も大きかったと聞きます。したがって、これも目を通しておく必要があるということです。
2012年10月03日
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「伊豆の旅」の準備5、丹那トンネルの社会的な意義について来年の「熱海・伊豆の旅」を企画するために、目下下調べをしています。熱海については、いろいろな発見がありましたが、その最大の発見は丹那トンネルでした。いくつか観光案内書を見たのですが、そのどれにも丹那トンネルについては出てきません。これが、その丹那トンネルの熱海側の入り口です。今回、熱海在住の知人に、熱海の見どころを問い合わせてあったのですが。今回の実地の見聞の第一に丹那トンネルが出てきました。伊豆半島の首根っこを貫通して、熱海と函南を結ぶ全長7,804メートルのトンネルです。1918年(大正7年)に着工して、1934年(昭和9年)に開通しました。その旧友が一冊の本を紹介してくれました。吉村昭(1927(昭和2)年-2006(平成18年)著『闇を裂く道』(文春文庫 1990年7月刊 629円))。これは、静岡新聞に昭和61年4月から12月31日に連載されたものを文庫にまとめたものです。これが丹那トンネルのもつ社会的な意味と、16年の工事の経過を明らかにしています。それまでは、東海道線は、国府津から御殿場経由で沼津を通っていたんですね。熱海と函南間の丹那トンネルを開通させることで、今日の東海道本線が出来たわけです。それが出来るまでは、かなりの高低差をもつ迂回的な路線を余議なくされていたということです。9月22日に熱海の市街地を下見したのですが。その時、熱海梅園に向かう途中にある丹那トンネルの熱海口に行ったんですね。そのトンネル入り口のすぐ脇にある慰霊碑を訪ねたんですね。そこには、掘削のレリーフとともに、工事で亡くなられた67名の名が刻まれていました。夏草や、つわものどもが夢の跡。その現代版です。ただ名前だけのプレートですが、それは犠牲者の人たちへの追悼です。是非、この本-『闇を裂く道』を、お読みいただきたいのですが。その事情がわかります。それは、丹那トンネルの工事の開通するまでの16年間の、その工事の曲折、苦難の記録を丹念にあつめて、再現してくれています。名もなき作業者、のべ250万人を要した大事業です。これは、いち読するに値するものと思います。ここからは、私の個人的なことなんですが。私にとって、この本は、消えてしまった自分自身のルーツを、遅すぎた今ですが、少し甦らせてくれる刺激的なものでもありました。一、当方のおばあちゃんは、函南の舟山の出身でした。50年以上前になりますが、おばあちゃんについて2回、その実家に行ったことがあります。函南駅を降りて北へのびたまだ舗装されてない道を、遠く歩いた記憶があります。今探しても、その「舟山」との地名は地図には出てきません。今回の機会に調べたところ、「高源寺」(函南町桑原1265)というお寺があります。その辺りが舟山のようで、どうやらその辺が子どものころ訪ねた場所のようです。おばあちゃんが、真鶴に嫁いできたときは、関東大震災以前ですから、もちろん丹那トンネルなどは出来ていなかったんですが。だとすると、何であの山の中から、山梨県出身のおじいちゃんと結婚することになったのか、そして山を越えて真鶴に住むようになったのか。それは、まったくの謎です。もはやそれを聞ける人はこの世にはいません。しかし、1950年代に、私がおばあちゃんにくっついて、その山深い郷里を訪ねた時は、すでにその当時は、当然ながら丹那トンネルを通って、函南駅で降りていたんですね。そこからテクテクと歩いて行ったんですね。確かに実家の農家の庭には川の水を引いた池があって、フナがいっぱいいました。まさに「舟山」だったんですね。二、私は、1950年代の後半に、今は合併されて真鶴町岩になっていますが、当時は岩村の岩小学校で学びました。その時の小学校の恩師の一人は、静岡県の函南町(村)の大場の出身の方でした。静岡県函南町大場の方が、どうして横浜の大学に教育学を学びに通えたのか、そしてさらに真鶴町岩の小学校教師として赴任しえたのか。そこには、丹那トンネルによる交通圏が出来ていたからこそです。そのことが、今にして見えてきました。静岡県の三島・函南の人が、関東・横浜方面との行き来が出来るようになったということです。そうした社会条件が丹那トンネルの開通していたことによっていたということです。三、そして私の父は、静岡県函南町の原木新田の出身です。大正5年生まれでした。父が、そもそも戦後ですが、真鶴に住んでいた母(大正12年生まれ)と結婚することが出来たのは、これもまた丹那トンネルのもたらした交通圏の広がりによるものだということが見えてきます。人々の往き来が、丹那トンネルが出来たことによって、静岡と神奈川の人たちの行き来ができたからこそ、それによって成り立ちうる出会だったということです。私は小さい頃、父について、三島駅で修善寺線に乗り変えて、原木駅の新田にある父の実家に行ったことがありました。特に正月などに、何度かありました。稲作農家で、田植えをしたり、ウシか馬も飼われていました。隣りにはお寺があり、庭には柿の木があった。そうした時、必ず丹那トンネルを使っていたことを覚えています。それがやけに長くて、長くて、「何んて長いトンネルだろう」と感じたのを記憶しています。四、父は戦後、国鉄マンだったんです。来宮駅を起点にした伊東線の保線区に働いていた。その事務所が丹那トンネルの熱海口の入り口にあったようです。そこへ行ったことはなかったのですが。静岡県の原木出身の父が、国鉄の来の宮で仕事をしていた。このことも丹那トンネルが通じていたからこそのこと。伊東線の保線区で働けたのも、その条件があったからこそだということです。こうしてみると、私はどうもこれまでの自分の印象を変える必要があるようです。これまで、神奈川県西部の真鶴からしたら、その生活圏は横浜や東京の東側の方面を向いていますから、それは確かなのですが。そのことにより、すべては東京・横浜などの東を向いていて、西の熱海や函南・三島などの静岡県は背中の方に位置していたので、縁が薄いように感じていたこと。そのことをこれまで折節に紹介してきましたが、それは間違ってました。今回の下調べから分かったことは、実際には丹那トンネルが出来る以前は、三島などの静岡県は、真鶴・小田原からは遠かったのですが。しかし、かなり生活的に静岡県と神奈川県は行き来が出来ていたということなんですね。ましてや、丹那トンネルが出来てからは、生活者はかなりの往き来をしていたということです。私などが今生きていること自体、その成り立ちに、丹那トンネルは、大きな大きな位置をもっていたということです。それによって出来ている生活圏の相互交流というのは、知らなかったのは、私の狭い視野によるものであって、実際にはかなり往き来が行われていたし、今もあるということです。この一点の発見だけでも、今回の「伊豆の旅」の下調査は、意義があったということです。
2012年10月02日
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みかん栽培、9月のまとめ今年の夏は暑かった、9月までも真夏日がつづきました。南関東のみかん園も、雨のない日々が続いたのですが。それでも、やはり季節は回ります。9月12日には、富士山の初冠雪がありました。平年よりも18日、去年よりも12日早い初冠雪とのこと。暑さの中にも、秋の気配が少しずつ近づいてきたということです。今年のみかんは全体としては裏年です。多くの木が、果実のつき具合が少ないきらいが見られます。9月に入って、みかんの果実の摘果をするようにしました。摘果したみかんは、ほとんどの農家は捨てていると思いますが、当方は違います。レモンの季節は終わっていますが、その代わりになります。みかんサワーとして、摘果みかんが重宝しています。それと、9月はいよいよみかんシーズンの始まりです。その先頭をきるのは、スダチの収穫の始まりです。今年のスダチは、夏に雨の少なかった分、すこし小ぶりですが。一本しか木はないのですが、十二分に自家需要を賄ってくれます。そればかりか、隣接する人たちへも、おすそわけができます。今年の9月が暑かった分、ハダニの発生がありました。9月8日にみかんの葉に赤い小さな虫がついていました。これがハダニです。真夏日には要注意でした。そして、いよいよ収穫前のひと仕事、秋草の草刈りです。暑さのため先送りしてきたのですが、ようやく草刈りを始めました。本来なら、8月下旬の秋風が吹きだすころに、草刈りをしだしていたのですが。ことしは、9月下旬になりました。みかんの果実の方はというと、少しずつ黄色に色づき始め出しています。早生みかんの木から、しかも、小木から色づきが始まりだしました。いよいよ、早生みかんの収穫が10月末から始まります。色づきだしたみかんの味試しの時期を迎えました。
2012年10月01日
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