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フェリの引退記念公演のチケットも一般発売が始まりましたけど、どうしようか本当に困ってます。観に行きたい!のは勿論なんだけど、チケット代が~・・でも「マノン」や「椿姫」も観られるそうだから?やっぱり観たい!私にとってフェリはやっぱり「永遠のマノン」なんだもの(2回しか観たことないけど)。「椿姫」ももちろん観たいし、本当は「マノン」と「椿姫」、全幕でやって欲しいんだけどね。それだったらチケット代(+交通費&宿泊費)も全然惜しいとは思わないんだけど。しかしほぼ一ヵ月後のボリショイ&マリインスキー合同ガラのお値段が、これまた予想してた以上にお高かったので(泣)、本当に困っちゃうよ。最初に日程だけ見た時には、一泊するだけで3回観られるかと喜んだのに(笑)、このお値段じゃあ無理かな~・・いずれにせよ、早く演目等を発表して欲しいですね。演目次第でどうするか決められると思うから。まぁ、多分オーソドックスなパ・ド・ドゥ集なんだろうな~、って気がしますけどね。ルグリ・ガラ大阪公演のチケットも漸く購入しました。良席とはいえないけど、まぁ買ってもいいかな、と思える席が表示されたので。東京へ観に行くことは諦めたので、1回だけしか観られないのが残念だけど、その分しっかと眼に焼き付けてくるつもり。「白鳥」は観に行きたいけど、多分チケット取れないだろうな~。う~ん、それにしても今年の夏は本当にすごい公演ラッシュだわ。忘れてたけどオーストラリア・バレエの「白鳥」もあるしね。この「白鳥」は面白そうなので今になって物凄く楽しみ度がアップしている(笑)。チケット買い足そうかと思ってるくらい。この「白鳥」が観られるんだからルグリ・ガラの「白鳥」はまぁ見送ってもいいかなぁ、なんて気にさえなってるの。暫く公演の存在自体忘れてたくせに(笑)。
2007年04月29日
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要するに、ザハロワのニキヤを観たことによって私の中でのニキヤという存在は、「身分の低い」「ただの」舞姫から、「神」に仕える聖なる存在=ある種の「権力」の持ち主、という「変化」を遂げたのです。「神」に仕えるものが「権力」とは違うのではないか、とお考えになる方もいらっしゃるかと思いますが、私は「神」=「権力」であると思っています。ただしここで言う「神」とはあくまで西洋や中東、或いは中国等でいう「神」であって日本での「神」では全くありません。日本人とその他外国の人々との間で最も違っているもの、それは「神」なるものに対する概念である、そう言っていいらしいのです。私も最近漸く知ったのですが、一神教の世界における「神」というもの、「唯一絶対神」というもの、それは日本人の常識を遥かに超えて人々の頭上に君臨する、「超・絶対君主」とでも呼ぶべき存在であり、人間は神には絶対服従あるのみ。日本人の感覚からすれば「恐ろしい」とすら感じられるほど「絶対」の存在、それが「神」なのです。私も宗教にとことん疎い日本人の典型ですのでいまだによくわからない部分ばかりなのですが、大枠で言えばそういうことが言えるのではないかと。「神」とは途方も無く「厳しい」存在なのですね。日本人は殆ど誤解していると思います。或いは「神」なるものの一側面しか見てはいない、知らない、ということではないかと。「神様は慈愛に溢れ、人間に祝福をもたらしてくださる存在」、日本人の「神」なるものへの思いは大体がこのような感じではないでしょうか。「神」とは人間に厳しい「罰」を与える存在ではなく、あくまで暖かい「お恵み」を与えてくださる存在、に他ならないと感じる。先ほど書きました「一側面」とはまさにそういうことを指しています。しかし、一神教世界における「神」とはそんな「甘い」ものではないようなのです。あまりに難しい問題なのと、こちらの知識不足でこれ以上詳しく書くだけの力量がないのですが、とにかく「神」とは日本人の感覚からすれば「恐ろしい」とさえ言えるほどの存在であること、日本人のように「カミサマ、ホトケサマ」などと「他」の神と列挙することさえ許されない、極めて非妥協的な存在であるということは確かなようです。「絶対神」とは極めて「排他的」存在でありその為に過去「神」の名においてどれだけの流血がなされたか、そしてそれは今日でも「現在進行形」の事態であることはご承知のとおりです。日本人の宗教観とは根本的に相容れないものがある。「カミサマ、ホトケサマ、テンジンサマ」などと言うことが出来る日本人に一神教の厳しさ、恐さというものは多分絶対に理解することは出来ないのだろうなぁ、と思います。「バヤデルカ」の世界をこのような「宗教的」な眼でみてみると、しかし理解しやすいことに気が付きます。そもそも何故ソロルは神の怒りに触れて死んでしまうのか?いや、これは「死んでしまう」のではなく「殺された」のです。ソロルは神によって「殺された」のです。「カミサマ」が人殺しなんてするはずがない、と思うのは日本人的な感覚に他なりません。「神」は「神約」を違えた人物を容赦なく「殺す」こともあるのです。つまりそれほどまでに「神」は「絶対」なのであり、日本人に最も理解し難いところはそういうところでしょう。ソロルひとりが殺されるのではなく「世界」そのものが崩壊してしまう版もありますが、これだって同じことです。「崩壊してしまった」のはもちろん「自然に」崩壊したのではありません。これもまた「神」がそうさせたのであり、「神」の「御意志」によるものなのです。
2007年04月23日
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昨年のマリインスキー来日以来、全くバレエを観てない日々が続いてる・・次回のバレエ鑑賞予定は6月、新国の「ドン・キ」までないし・・あ~、バレエ観たいよ~!しかもその「ドン・キ」もチケット取れるかどうか不安だし。今回は30日しか観には行けないんだよね。一番競争率高そうな日しか・・と思ってプレリザーブとプレオーダーに申し込んでみたんだけど、どちらも見事に×だった。22日、頑張るしかない。しかし今回久々にプレオーダーなんかに申し込んでみたけど、プレオーダーで当選(という言い方でいいのか?)した場合、キャンセルすることが出来なくなっていてビックリ。以前は席番号を見て、気に入らなかったらキャンセル出来たんだよね。だから比較的気楽に申し込むことも出来たんだけど、キャンセル不可になっちゃったのか・・多分私みたいにキャンセルする人が大勢いたんだろうな~(笑)。会社?としてはやっぱ迷惑だよね。考えてみたら当たり前か。けど、プレオーダーとかってびみょ~なんだよね。一般販売で購入した席の方が却って良かったりするんだもの。手数料とかもけっこう掛かるし。
2007年04月19日
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ザハロワのニキヤがとにかく「宗教的雰囲気」に満ちていたものだから、あれ以来私の中ではニキヤ=聖なる巫女、という定義が出来てしまったのね。それまでの私は殊更にニキヤの身分・地位というものについて考えてみたことは無かったし、もちろんバヤデルカである、ということは分かっていたけれど、その「バヤデルカ」という地位に対しては、どちらかと言うと「身分の低い」「社会的立場の弱い」存在なのかと思ってた。そんなバヤデルカに対し「身分の高い」お姫様=ガムザッティ、という構図が描けるのが、対照的で面白いんじゃないか、と漠然と思っていたんですね。だけど昨年のザハロワのニキヤを観て、うわ~、これはちょっと考え直さなきゃならないんじゃないか?ニキヤは決して「身分の低い」「可哀相な」存在ではない、むしろ逆だ。そう思えてきて。そして私はザハロワの演じたような「高貴」で「神々しい」光を放つ、「宗教的な」ニキヤがほんと~に好きなんだ、ということもよ~くわかった。なら、少なくとも私の、私にとって理想的なニキヤというのは、ザハロワのような「宗教的」雰囲気があること、それに尽きる、そう思ったのです。ニキヤ=巫女、というのを「設定」としてだけではなく、「本物」の巫女として解釈してくれる人でなければ嫌、という思いが今は物凄く「強烈に」存在します。ザハロワのニキヤは、ニキヤに感情移入したいと思う人や、「バヤデルカ」という作品に「ドラマ」を求めてる観客には、正直あまり面白いことはないんだろうと思う。ザハロワのニキヤに感情移入するなんて、多分絶対無理(笑)。あの人間臭さ、女臭さの一切しない、世俗の匂いの一切しない「宗教的」ニキヤに、自分の感情を託すなんてこと、先ず無理でしょう。また、彼女は演技力に秀でているわけではなく、ニキヤという役においてもその「演技力」で観客を魅了してくれる訳では全く無いので、「ドラマ」を期待しても応えては貰えない。ソロルへの愛とか、それこそただの「設定」に思えてくるし(笑)。「設定」としてそうなっているのでそのように振舞ってみせる、程度にしか見えない。なので、ニキヤとソロルとの「愛」を見たい、感じたい、と思う観客には多分全然受けないんだろうな~、と思います。私自身は、そういったことにそれほど関心があるわけではないし、とにかくザハロワの「特権的」美しさを観られただけで幸せ、と感じてしまう一ファンの身ですので、崇高な「巫女」としての彼女を観られたらそれだけでもう幸せ過ぎるほど幸せなのです。なので、ザハロワの演技力とかソロルとの「愛」だのは、正直どうだって構いません。とにもかくにも「先ず」あの気高い巫女・ニキヤを観られたなら、それだけでもう他のことはどうだってよくなるのです。延々とザハロワのニキヤについて語ってしまいましたが、とにかく彼女のニキヤが私の中のニキヤへの探究心?を呼び覚ましてくれたことは確かなのです。そしてその彼女のニキヤはとにかく「宗教的」でした。聖なる存在、「神」の守護を受けているであろうことが確かに信じられるような、そんなニキヤでした。私の中にそれまであった「ニキヤ観」というものは大きく変わらざるを得なくなったのです。
2007年04月17日
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そもそも私がニキヤというキャラクターに興味を抱くようになったのは、昨年5月のボリショイ来日で、ザハロワのニキヤを観たことがきっかけになったように思われます。ザハロワのニキヤは、以前マールイにゲスト出演した時に初めて観て、その余りの素晴らしさに魂を吸い取られていたのですが、昨年続けて彼女のニキヤを観ることが出来、あ~、やっぱり私にとってのニキヤはこの人なんだな~、この人以上に私好みのニキヤは多分存在しないだろうな、ということを改めて思い知らされた。そして何故自分はこんなにもザハロワのニキヤが好きなんだろう?と考えてみたのです。もちろん私はザハロワその人のファンではありますけど、オーロラよりもキトリよりもジゼルよりもライモンダよりも、そして多分オデットよりも、私は彼女のニキヤが好きなんですね。もう「心酔」している、と言っていいかもしれません。それくらい、彼女のニキヤは私にとっては「特別」で「別格」なんです。このことは、当時の日記にも書いていますけど、確かに彼女の「世界一」美しい肢体、それが大きな要因となって彼女のニキヤを好きだということもありますけど、それだけの理由でしたら、他の役も同じように好きになってよいはずですよね。しかし同じザハロワが踊っても、ニキヤ以外の役には、私はここまで心を動かされはしないのです。勿論、大好きですよ。大好きですけど、ニキヤには到底及ばない、というのが本当のところです。何故こんなにも彼女のニキヤが好きなんだろう?そう考えたとき、私には先ず「神々しい」というキーワードが浮かんできたのです。ザハロワのニキヤを思い浮かべるとき、先ず思い出されるのがこの言葉。とにかく神々しいまでのオーラを放って「君臨」する、人間臭さの一切しない、俗世間から超越したところに行ってしまったかのようなあの「高貴さ」、「神々しさ」。私は「バヤデルカ」という作品自体が大好きで、生の舞台では何度も(と言っても鑑賞歴が短いのでそう回数観ているわけではありませんが)、映像でもマカロワ版とヌレエフ版、グリゴローヴィチ版と見ていますが、ザハロワほど「高貴」で「神々しい」印象を与えるニキヤにはお目にかかったことはありません。以前にも書いたことですが、アスィルムラートワやヴィシニョーワのニキヤは「女」でした。匂い立つように艶やかで「恋は盲目」街道を一直線、といった感じのニキヤでした。情熱的で恋の炎に身を焦がす「女」ニキヤ。そういうニキヤもありだなぁ、とは思いますが、こういうニキヤは私好みではないことがはっきり分かりました。この2人はちょっと極端な例かも知れませんが、とにかく私は「人間臭い」ニキヤを好きではないのです。ニキヤはあくまで「神」に仕える身として、「神」の側の人間であって欲しい、それが、私がニキヤに求める一番の条件。先ず大前提として「巫女」であって欲しい、その立場を基本的に崩さないで欲しい、ということなんですね。その立場さえ崩さないでくれるなら、後はもうダンサーそれぞれの解釈のもと、自由に演じて頂いていいんです。でもあくまでニキヤは「巫女」であってね、そんな思いが私にはどうやら「強烈に」存在するようです。で、そんな私の「強烈な」思いに完全な、完璧なかたちで応えてくれるバレリーナというのが、ザハロワなのですね。『彼女は「人間」ではない、ましてや「女」では全くない』、昨年彼女のニキヤを観て私はこう書きましたが、彼女にしか描くことの出来ないニキヤというのがあって、なんというかそれは演技力だとか表現力だとかそんなものを超越してしまってるんですね。まさに「世界が跪く」そんなニキヤだと、私は勝手に解釈しています。で、何故そんなニキヤが好きなのか、言葉を換えて言えばザハロワのようなニキヤは、もの凄く「傲慢」で「偉そ~」、そんな風にも受け取られかねないし、事実そんな風な評価も多かったように思います。でも私にとってニキヤはそれでも良いのですね。彼女は「神」の舞姫であり、その「守護」を受けているのですから。ザハロワのニキヤには、そういう設定が実に相応しい。というかこんな「設定」がこれほどまでに嵌ってる、ピッタリくるニキヤというのは他にいないんじゃないか?と思います。唯、ロパートキナのニキヤというのは、もしかしたらザハロワと同じくらいこういう「設定」にピッタシくるのかも知れないなぁ、なんて思いますけど、観たことないので何とも言えません。とにかくザハロワのニキヤだけが持つ「神々しさ」「高貴さ」。気安く手折ることを躊躇わせるような「何か」を持っている一輪の花のような彼女のニキヤが、私の中では確固たる地位を占めていて、彼女のニキヤというのが基本形、になってしまった。今はそういう状況なんです。
2007年04月11日
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去年の三月から五月頃にかけて、私「バヤデルカ」の登場人物たちについていろいろ思ったことを書いてたんですね。先日ザッと読み直してみたんですけど、へ~、私ってこんなこと思ってたんだ~、なるほど、そういう解釈もありかも~、なんて思っちゃいました(笑)。そうですね~、今現在とはちょっとばかし違うな~、と思うところもあるんですけど、まぁこの当時はこのように思ってたということで、それはそれで良いかな、と。ニキヤとガムザッティ、この2人はそれにしても本当に面白いキャラクターですよね。こちらの想像力(妄想力?)をいくらでも刺激してくれる、私にとっては数少ないバレエの登場人物の1人(正確には2人、ですけど)です。この2人に勝るキャラクターといえば私にとってはマノンくらいしか思い浮かばないですもん(笑)。ニキヤVSガムザッティ、という観点から言えば、私は去年どちらかというとガムザッティの側から書いてることが多かったような気がしますが、それは私にとってはニキヤよりも、ガムザッティの方がより「面白い」キャラであるように思われたからです。お姫様でありながら、自分の婚約式で恋敵を殺してしまうという、とんでもないことをやってのけたガムザッティの方が私はより好きだし、考察し甲斐もある、なんて思ってたんですよね。その思いは、もちろん基本的に今でも変わってはいません。けど、今現在はニキヤの方にもかなり興味をそそられてるんです。そもそも、ニキヤって、バヤデルカって何?そんなことを考え出したらちょっとどうにも収拾がつかないし、一体どこまで考えたらよいのやら、限が無いように思われて頭が痛くなってきちゃうんですけど、それでもやっぱり考えずにはおれない。去年はどちらかというとガムザッティの視点に立ってガムザッティのことを考えていたけど、今回はニキヤの側からニキヤを、そして彼女を取り巻く世界を、見てみたいな~、と思ってるんです。それは、一言で言うならば、「聖と俗」です。「聖VS俗」とした方が正確なのかもしれません。ここで言う「聖」にはもちろんニキヤが、「俗」にはガムザッティが当て嵌まります。「聖なる」存在、「神」の側の存在であるニキヤと、世俗の世界の頂点に存在するガムザッティ。ここでもいわゆる「ニ項対立」の構図を描くことが出来るんですね。そして、最終的にこの「世界」はどうなったか?と考えてみると、いろいろなことを想像(妄想)出来るんですよね。次回から、ニキヤについて、ガムザッティについて、「バヤデルカ」の世界について、いろいろ思いついたことを書いていきたいと思います。問題は、「どこまで」書けるか?ということですが・・まぁ、気楽に、気負わずに、思いついたままを「てきと~」に書いてみようと思いますので、よろしければお付き合いくださいませ~。とは言え、いつもながら更新は不定期で、かなり「間」があいてしまうこともある(と言うか、絶対そうなる)と思いますので、気長にお付き合い頂ければ、と思います(←勝手だ~)。
2007年04月10日
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昨年初めて観た都をどり。味を占めて、今年も観に行って来ました。少しは馴れたせいか?去年初めて観た時ほどの感激というのはありませんでしたが、それでもやっぱり良いですね~。美しい芸舞妓さんたちによって描かれる世界にひと時遊ぶことが出来ました。今年もいろいろと趣向の凝らされた、楽しい舞台でした。写真はお茶席でのものです。昨年も書きましたが(ご興味おありの方は昨年4月11日の日記をご覧くださいませ)、舞台鑑賞前に、芸妓さんのお点前を楽しむことが出来るんです。眼の前で芸妓さんがお茶を点てて下さり、控えの舞妓さんがお客さんに運んで下さいます。お客さんは沢山いるので、舞妓さんが実際に持ってきて下さるのは正客?の方のみですけど。残りのお客さんには係りの方が持ってきて下さいます。お茶菓子の載っていたお皿はなんとそのままお持ち帰り出来るという、嬉しいサービス付きです。都をどりに限らず、京都の各花街の「をどり」のお点前は、立礼式という、椅子に腰掛けた方式で行なわれます。「をどり」以外の場所でもこの方式で舞妓さんがお点前をされているのを拝見したこともありますが、本当に絵のように美しくてうっとりしてしまいます。姿形が美しいのはもちろんですが、何気ない一つ一つの所作までが、絵に描いた様に美しくて。眼福の一言です。写真が不鮮明で申し訳ないのですが、お点前の芸妓さんは君佳さん、控えの舞妓さんは紗矢佳さんです。紗矢佳さんはまだお店だしされて殆ど間が無いようですが、立派に務めを果たされてました。君佳さんははんなりした感じの、とても可愛らしい芸妓さんでした。後もう1回くらい、観に行きたいと思ってます。
2007年04月05日
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