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今日ではや5月も終わり、明日から6月なんですね~。もう半年もバレエを観ていないので7月になるのが待ち遠しいです。バレエ三昧の夏がやって来る!と、意気込みたいところですが、今のところ観に行くことが決まってる公演はオーストラリア・バレエの「白鳥の湖」と、ルグリ・ガラ大阪公演のみ。多分行くであろう公演がボリショイ&マリインスキー合同ガラ。問題はこのガラなんですよね~。なにせ、思っていたよりも遥かにお値段が高かったもので・・演目もオーソドックスなパ・ド・ドゥが殆どだし企画としてはすごい楽しみではあるのだけど、なんかテンション下がり気味。全幕公演並(以上?)のお値段だものな~。それでも東京(及びその周辺)に住んでいたなら絶対何回か観に行くと思うけど、地方在住&お金持ちでもない私のような人間にはちょっと辛い。まぁそれでも結局チケット買っちゃうとは思うけどね。個人的に楽しみなのは、ルンキナの「スパルタクス」、アレクサンドローワの「グラン・パ・クラシック」、オシポワの「パリの炎」ですかね(マリインスキーの方は誰が何を踊るのか発表になってないからわからない)。ルンキナについては、昨年「ファラオの娘」で観て、結構こき下ろしちゃったけど(ごめんなさい~)、その後テレビで見た「パッサカリア」「スペードの女王」はものすご~く綺麗でうっとりしました。彼女は「お姫様」には向いていない、叙情的な役に向いているのでは?と当時こちらにも書きましたが、フリーギアはまさにぴったりじゃないですか!プロポーションは美しいし、お顔も美しい、それに彼女は「アダージオ・ダンサー」なんじゃないか?と思えましたのでフリーギアはまさにハマリ役であるように思えます。薄幸そうにも見えるし。アレクサンドローワの「グラン・パ・クラシック」はもう想像するだけで凄そうですよね~。彼女の素晴らしいテクニックと華が如何なく発揮される素晴らしい演目選択だと思います。彼女につても私、昨年は悪口を言ってしまいました。テクニックは素晴らしいんだけど、ちょっとプロポーションがね~、と。特にあの人間離れしたザハロワと一緒に見たので余計にそんなふうに感じてしまったのだと思います。けど、その後ルンキナのアスピシアを観たことによって、私はアレクサンドローワのよさに気がつくことが出来ました。彼女にはやっぱり「華」がある、ということです。「中心」として「輝く」、「力」を持っている、という彼女の素晴らしさに、です。この2人を実際に観る前は、私はルンキナの方が「お姫様」タイプで、アレクサンドローワはそうではない、のかと思っていたのですが、それってどうやら逆だったみたい、と思いました。クラシック・バレエにおける「お姫様」というものは、一般的に想像される「お姫様」、例えばおとぎ話の中のような、とはちょっとばかし違うんだな~、とも思いました。いや、むしろ全く「真逆」なのかも知れません。クラシック・バレエにおける「お姫様」にはとにかく「力」がないとダメなのだ。「中心」として舞台上の全てのものを自分に引き付けて離さない「磁力」のようなものが絶対に必要なのだな~、と思ったのです。よく言われる「場を支配する力」ですね。古典バレエのお姫様にはこの「支配する力」が絶対に必要なんだ、ということを、私はルンキナのアスピシアを観て痛感した次第です。正直な話、ルンキナにはそれが無かった。いや、あったのかも知れませんが少なくとも私には感じられなかった。今更また話をぶり返すようで申し訳ないのですけど、ルンキナは美しくはあったけれど「姫」ではなかったのですね。古典バレエにおける「姫」とは「支配者」、「王」でなければいけないんだ。その点アレクサンドローワは紛れも無く「姫」であった、と思います。ザハロワと対峙しても決してそれ程ひけをとってはいない。そういう意味では彼女は紛れも無く「ガムザッティ」であったし、私は実際に観ること出来なかったけど「アスピシア」であったろうと思う。ただ、本当に難しいのは、全幕で観るのとガラで抜粋だけ観るのとでは、また違ってくる、ということ。全幕では「アスピシア」であってもガラでは「アスピシア」ではない、そうは見えない、ということも起こりうるということです。その逆もまた真なり、でしょうね。ルンキナも私には「姫」には見えなかったけれど、彼女の手弱女ぶりは叙情的な役を踊るのならぴったりだろうと思えたし、現に「アスピシア」の役においても最後のパ・ド・ドゥだったかな?ロングドレスのようなものを着て踊るシーンは本当に美しかったように記憶しています。なので、彼女のフリーギアは凄く観てみたいですね。ルンキナ@フリーギア、アレクサンドローワ@エギナ、なんて最高の組み合わせかも知れません。いつも言ってるような気がしますが「スパルタクス」全幕で観てみたいです。来年是非もう一度持ってきて欲しいものですが・・
2007年05月31日
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ソロルがガムザッティの美しさに打たれて、それで思わず結婚を承諾したとしても、或いはラジャの婿になることによって得られるであろう栄誉、それに惹かれて「自らの意志で積極的に」ガムザッティとの結婚を承諾したのだとしても、それはそれでそういう解釈もありだし、私は別に構わない、と思います。いえむしろ、そうした解釈の方がより「自然」だし、大いにありうるべきこと、なのかも知れません。でもだからって、そのことをもってソロルを責める気には私は全くならないのですよね。前にも何度か書いてることだと思うのですけど、そもそも「人間とはそうしたもの」だと思うからです。私利私欲、損得計算、欲得づくで動かされるのが、悲しいかな人間の本質だと思うのですよね。ふだんどんなに「いい人」の仮面を被っていたって、人間という生き物の中にはとてつもなく醜く、どす黒く歪んだ正視することを躊躇わせるほどの「汚い」部分がある。その「汚さ」の程度には個人差が大きくて、そうした「汚さ」というものを殆ど持ち合わせていない人だっている。けど程度の差こそあれ、人間とはそうしたものを持って、抱え込んで生きているんですよね。「汚い」自分、自分自身でもほとほと呆れて嫌になってしまうくらい「醜く」「歪んだ」自分がいる。他の誰でもない、この私自身の中にそうした「醜さ」は溢れかえっていて、それを普段理性によって辛うじて押さえ込んではいるけれど、自分の中の「原罪」を見つめれば見つめる程、その途方も無い大きさに、恐れおののく。なんという罪深き自分であることか!私は自分自身がそうした人間だということを嫌という程よ~く知っているから、だから人のことを責める気には全くならない。他の誰でもないこの私自身が、充分過ぎる程の「卑怯者」だということをよく知っているから、人様のことをどうこう言える資格など無いのだ。私は子供の頃から「自分のことは棚に上げて」他人の非難ばかりしている人が大嫌いだった。そういうお前はなんなんだよ!って怒りまくっていた。自分のことを棚にあげて人を非難する人って、大抵「善人」である。自分は心の綺麗な、「純粋まっすぐ」な人間です、という顔をしている。そしてそのことについて一切の疑問を抱かないのだから始末に負えない。自分だって「人間」なんだよ、そして「人間」である以上そうした「醜さ」というものは誰だって持っている。あなたに人を非難する資格はあるのか?そもそも人を「非難」している時点で、あなたもそうした「人間」のひとりであることを、自分自身で自ら「証明」しているじゃないの。自分自身も「原罪」を背負う「人間」である、という冷徹な真実に気がつかない人は、かくして易々と「他人=自分以外の人」を責める。「他罰的」な人間になってしまうのだ。「善い人」なんだろう、とは思う。いや、本当に「善い人」なのだ。けどこの「善い」というのが曲者で、善い人は善い人であるがゆえに却ってものすごく「残酷」になる(ことがある)。他人の心境、他人の立場、を慮るということを忘れがちになってしまう。彼(彼女)はどのような心の過程を経てそのような結論に立ち至ったか、その間どれだけの心の葛藤があったのだろう、あのような振る舞いに及ばざるを得なかった彼(彼女)の心中とはどのようなものであったのか?そうした相手の心を推し量る、慮るということを殆ど忘れてしまうんだよね。そして相手を非難している自分はそうした「醜さ」とは一切無縁の心の清らかな人間です、って信じきっている。人の非難をすること自体、既に人間の持つ「原罪」の一つだと私は思う。ある意味ものすごく「傲慢」な行為だと思うのだけど、「善人」であることを信じて疑わないご当人たちはそんなこと露思ってもみないのだろう。他人のする程度の「卑怯」な事や「醜い」事は、自分だってするんだよ。自分だって知らない間に他人をひどく傷付けてることだってあるんだよ。人間は人を傷つけ、傷つけられて生きていく。誰だって「加害者」にもなり「被害者」にもなる。あなたが「善い人」であること、そのことによって傷つけられている人間だっているんだから。この世界は極めて「複雑」に出来ている。彼(彼女)が悪い、と人を非難することは簡単だ。自分は全くの「安全圏」にいて「他人」のせいにばかりしていられたら、こんな「楽」なことはない。けど人の非難をしているあなた自身の姿が、一番「醜い」ものだってこと、忘れないでよね。「あなた」なんて言ってしまったけど、これは「私自身」に向けられた言葉でもあります。私自身が、そうした「醜い」姿をいつもいつも曝してきたのです。そうして「人間」とは極めて複雑で多面的存在であること、そのことによって人生は面白くもなり、感動も涙も生まれるのです。考えてもみて下さい。人間が醜くもなく、複雑でもなかったら、どんなにか私達の人生はつまらない、味気ないものになってしまうことか!人間が皆「道徳の教科書」どおりの行動ばかり取っていたなら、一体この世界はどんなになってしまうことか。勿論プラス面もあるでしょう。一番の利点としては犯罪がこの世から(じゃなかった、日本から、が正確です。道徳の教科書というのは国、或いは地域によって中身は全く違ってくるからです)無くなることです。こればかりは願わしいことです。けど、それ以外になにか「プラス」になるようなことはあるのでしょうか?「道徳の教科書」どおりの行動を皆が取るような世界なんて、私は御免蒙ります。そんな世界では、きっと涙を流すことも無いでしょう。喜びに震えることも無いでしょう。喜びも悲しみも、つまりは私たちが「人間らしい」人生を送れるのは、皮肉なことですが、人間が「道徳的にばかりは生きられない」存在であるからこそ、なんです。
2007年05月26日
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ソロルはラジャから、ガムザッティとの結婚を命じられ、戸惑いながらも承諾してしまいます。はっきり承諾というよりは、なんだかよくわからないうちに「流れ」に乗せられてしまった・・といった感じですけど。そもそもラジャにとって、ソロルがこの結婚を承諾することは「当たり前」であり、ソロル本人の「意思」など初めから問題にもしていないようです。領主からこのような「出方」をされてしまっては、ソロルとしてもどうしてよいか判らなくなってしまいますよね。はっきり結婚を承諾した訳でもないのに、ラジャはもうこの結婚が決まったことであるかのように振舞いガムザッティとも対面させてしまう。ぼやぼやしているうちに彼の「意思」などそっちのけで事は進み、気がついたらもう後には引き返せない処まで来てしまっていた、というのが本当のところではないでしょうか。ガムザッティと対面してしまった後でこの結婚を断るのはほぼ不可能でしょう。相手の顔を見ていないうちならともかく、彼女の顔を見た後で結婚を断るなんて「無礼」以外の何者でもありませんからね。ラジャにしてもガムザッティにしてもソロル本人の「意志」など初めから問題にもしていないところがあり、そんな状況にソロルはなんだか訳のわからぬまま「乗せられてしまい」気がついたらもう後戻りは出来ない状態だった。現代の人間社会でもよくあることじゃないでしょうか。もちろんこの場合、最も「正しい」と言える振る舞いは彼が最初の段階で毅然と、自分には愛を誓い合った仲がいるということを、ラジャに訴えることだったのでしょう。それが最も「正しい」「取るべき」手段だったのでしょうが、しかし古代の専制社会で一戦士に過ぎぬ身が、領主にそのような振る舞いに及べたものでしょうか。領主の命令に異を唱えることなど、現実問題としてはほぼ不可能だったはず。その領主の命令が、例えば人道に反する?ような非道な類のものだったならともかく、この場合はあくまでソロルへの「好意」、それも並々ならぬ、から来ているものなのですから彼としては最も断りづらい、最も対処に困る命令だった訳です。しかしいくら「好意」に溢れた申し出とは言え、言い出したご当人は専制君主な訳ですから相手がこの命令を受けることは当然だと思っている、むしろご当人はソロルに対し最大限の「好意」を示している、と思っている訳です。一戦士に過ぎぬ身に、自分の娘を娶らせようと言うのですから。しかもガムザッティは一人娘ですから?彼女と結婚するということは、いずれラジャの跡を継いでこの国を治める立場になるのはソロル本人だということ。謂わばラジャは、自分の跡取りとしてソロルを指名したわけで、このような命令にソロルが異を唱えることなどある筈が無い、と最初から決めてかかっています。相手=領主にこのような出方をされて、果たして異を唱えることなど可能なものでしょうか。勿論可能だと思う方もいらっしゃるでしょう。しかし少なくとも、私がソロルだったら、絶対に命令を断ることなんて出来ません。意気地が無いと言われようが何だろうが、現実問題としてはほぼ不可能だと思うのですよね。なので私は、このような状況に陥ってしまったソロルを、非常に気の毒だと感じるし、むしろ同情してしまうのです。断っておきますが、ソロル本人は決して私のような(笑)「意気地なし」人間ではありません。それこそラジャが自分の跡取りに指名するくらいなのですから、むしろとてつもなく「勇敢」な人間であったことは間違いありません。否、単に「勇敢」なだけではない、ラジャに「この人物になら跡を譲っても良い」と思わせるだけの様々な「美質」があった筈なのです。でなければくどいようですが一戦士に過ぎぬ男を(いかに勇名を轟かせているとはいえ)自分の婿とし跡を継がせようなんて、先ず思わないはずですもんね。またガムザッティも、ソロルと結婚することに何の不服も無い、どころか彼と結婚できることをとても喜んでいるように思えます。と言う事は、男性の眼から見ても女性の眼から見ても、ソロルは非の打ち所の無い、素晴らしい人物である、ように見えたということでしょう。だからこそ、ラジャも彼と娘を娶わせ、この国を継いでもらいたいと思うようになったのです。ガムザッティも、彼と結婚できることを素直に喜ばしく思っている訳です(え~、唯ガムザッティ役というのはいかようにも演じられるものだと思いますのでそうじゃないガムザッティもいるかとは思いますが)。また本来人間の男性との「恋」など禁じられている「バヤデルカ」であるニキヤが、彼への「恋」だけは抑えることが出来なかった、という事実も、いやこの事実こそ、忘れてはなりません。「タブー」を犯してまでも、彼に恋してしまった、彼への「恋」の前には「神」さえも無意味となる程、それくらい彼に恋してしまったのです。余程ソロルが魅力的でなければ、そもそもそんなことになるはずないと思います。「バヤデルカ」であることに大変な誇りを抱いているはずのニキヤまでもが、彼への「恋」には夢中になってしまったのです。ソロルが、そんじょそこらの男ではなかった、なによりの証拠ではないでしょうか。
2007年05月15日
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さて、結局ソロルはニキヤへの愛を誓ってしまいます。この行為が致命傷となって後に彼の命まで奪ってしまうことになるわけですけど、もちろんこの時点でのソロルは将来そんなことになろうとは夢にも思わず、唯ニキヤへの愛を「神」(を象徴する聖なる火)に対し誓った。この時まで、いやある意味最後まで、彼のニキヤへの想いは変わらなかったと思うんですよね、私は。でなければ「バヤデルカ」への愛を「神」に対して誓ったりなど出来ない筈ですもん。「成り行き」で愛を誓ってしまう、なんてことが可能な相手ではありません。「バヤデルカ」であるニキヤに対し忠節を誓ったのは、やはり彼は彼なりに真剣に彼女のことを想っていたから。そのように考えるのが一番妥当であるように思えます。「神」に仕えるバヤデルカへの愛=絶対のタブー、という図式が成立するのに、その「バヤデルカ」への愛を「神」に対し誓う、というのは一見矛盾した行為のようにも思えますが、これはこれで別に構わないんではないか?と。むしろそれだけの「タブー」を犯してまでも成就させたい「愛」だった、のではないでしょうか。或いは一生結ばれることが出来なくとも、自分はニキヤへの忠節を守る、という堅い意志表示だったのかも知れません。もちろん、この逢瀬の場面で彼はニキヤのことで頭が一杯になり、彼女がバヤデルカである、という事実さえ見えなくなって、唯心のままに愛を誓った、誓ってしまったという解釈も可能でしょうが、それだって勿論彼の偽らざる真実の気持ちがそうさせたのですから、やっぱり彼のニキヤへの想いは「本物」であったと、そう解釈してよいのではないでしょうか。事実、もしこのまま何事もなく時が流れて行けば、彼はニキヤへの忠節をきっと守ったことであろうと想像出来ますし、そもそも「神」に対する「誓い」というもの、そのことの持つ意味の重大さ、恐ろしさというものを知らないソロルではありません。「神」への誓いは絶対なのです。「誓い」=「神」との「契約」、という恐るべき真実を知っている彼が、嫌というほど知っている彼が、その「誓い」を反古にするなどという「暴挙」に及ぶ筈はないのです。何事もなければ、きっと彼はニキヤへの「愛」に終生忠実であったことでしょう。当然「神」の怒りに触れて命を奪われることもありませんでした。そう考えてくれば、彼もまた「運命」の荒波に逆らうことが出来ずに呑み込まれてしまった、ある意味「犠牲者」である、という言い方も出来るのかも知れません。しかし残念ながら「運命」は彼をそのままにしておいてはくれませんでした。彼はラジャから、彼の娘との結婚を命じられてしまいます。
2007年05月13日
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話が横道に逸れましたけど、とにかく「誓い」というものの持つ意味、それがこの「バヤデルカ」の世界においては大きな意味を持っていると思うんですね。なにしろソロルは、この「誓い」を破ったがゆえに「神」に殺されてしまうのですから。逆に言うと、ソロルは「誓い」さえしていなければ・・聖なる火に対しニキヤへの「愛」を誓いさえしなければ、彼は殺されることはなかったのです。彼がいかに不実で、ひどい男だったとしても、別に構わなかった訳です。「誓い」という行為に及んでしまったがゆえに、彼はとてつもない「重石」を背負うことになってしまったのですね。なんとも気の毒な話です。もちろん、この「お話」の舞台は古代インドということになっていますから、私がこれまで述べてきたような「一神教」世界ではない、ことは事実です。仏教なのかヒンズー教なのかわかりませんが、ヨーロッパ人の眼から見て「異教徒」の世界であることは間違いありません。しかし、この作品を創り上げた人々(=キリスト教徒)の宗教観を持って、この作品が成り立っていることははっきりしていると思います。なので、インドなのにそういうことになるの?という疑問はあまり意味が無いのではないかと。そもそもインドの描写自体怪しいし、この世界の核となっている宗教が何なのかも私にはよくわかりません。しかしこの作品を創り上げた当時の人々の宗教観というものを頭に置いて見ると、この作品を貫いているテーマというものはハッキリしてくると思うんですよね。さて、このような「神」の国においてニキヤは巫女という立場です。彼女が忠節を誓うのは「神」のみであり、世俗の権力とは一線を画した、もう一つの「権力」とも言うべき世界の住人です。この国の住人であることに違いは無いけれど、一般の住人とは明らかに違う、一種の治外法権的な境遇に置かれていたであろうことが想像できます。そんな彼女がソロルという戦士と知り合い、恋に落ちます。このことは別に不思議でも何でもありません。ここは「神」の国ですから、国中の至るところで宗教的行事が執り行われていたでしょうし、特に重要な儀式であればそこには必ずやバヤデルカであるニキヤも参加していた筈。戦士であるソロルもその儀式に参列するかなにかで、お互い顔を会わせる機会は結構たくさんあったはずです。もちろん、バヤデルカ筆頭?の立場のようなニキヤは、宮殿での儀式にも必ず参加していた筈で、そこで知り合った可能性も大いにあります。いずれにせよ2人は出会い、恋仲になるわけですけど、ここから先はちょっと話がややこしくなります。ニキヤは「神」に仕える巫女。その彼女が果たして人間の男と「恋」に落ちたりなどして構わなかったのでしょうか?巫女である彼女にとって多分それは絶対のタブーだったはず。「神」への忠節を誓った彼女が人間の男と恋するなど、絶対に許されないことだったはずです。ニキヤもソロルも、そのことはよ~く知っている。「神」に背く疚しさは、ニキヤの胸を切り刻んだことでしょう。しかしそれでも、一度火の点いた心は燃え上がるばかり。タブーであるということが、却ってお互いの心を燃え立たせたということも言えるかも知れません。2人は唯、燃え上がる心のままに、今は刹那の逢瀬を楽しんでいた、そういう状況だったのでしょう。将来のこととか、そんなことを考えられる余裕などありません。ハッキリしているのは唯一つ、このままでは2人の恋は決して成就しない、そのことだけです。ニキヤがバヤデルカを辞めれば、もしかしたらそういうことも可能だったかも知れません。本人の自由意志で辞めることが出来たのか、それが大いなる疑問ではありますけど、全くの不可能ということではないような気もします。或いは破門?でもよい、そうなっても仕方が無い、とにかくソロルと一緒になりたい、そんな気持ちがニキヤにあったなら、2人の恋は実を結んだかも知れません。しかし正直、ニキヤにそこまでの気持ちがあったかどうか・・かなりの疑問があると思います。ニキヤは自らのバヤデルカという立場に、限りない誇りを抱いていたと思うからです。その地位を手放してまで、ソロルと一緒になることを望んだか?と言われれば私はノーだと思います。勿論今は、彼女はソロルのことで頭が一杯で他のことなど考える余裕もなかったでしょうけど、「将来」を考えるほど、そこまで彼のことを好きだったかといわれれば正直そこまでではない、というのが本当のところだったのでは。或いは「将来」を考える時間を「神」はニキヤに与えては下さらなかった。そういう解釈もありかも知れません。一方のソロルはと言えば、彼も彼でひと時の情熱に今は見を焦がしてはいますけど、そうかといってバヤデルカであるニキヤと将来云々、など正直考えられないことだったに違いありません。それは彼の想いが弱かったからではなく、バヤデルカと結婚などどいう状況が、そもそもあり得ない、考えることも出来ないという状況だったからに他なりません。「神」の国で、その「神」に仕える神聖なるバヤデルカと、どうして結婚など出来ましょうか。そんなことをしたら「神罰」が下る、そんな恐れがあったに違いないからです。このように、2人ともお互い愛し合っていながらも、2人の恋は「出口なし」。そのことを当人たちが一番よく知っていて、でも今は愛する人のことで頭が一杯でどうすることも出来ない、まさに「恋の病」に罹ってしまっていたという状況だったのでしょう。一方でニキヤは大僧正からも愛を告げられます。大僧正ほどの人までもが我を忘れるほどに彼女は魅力的だったと言えるでしょう。戦士ソロルが彼女への恋に夢中になってしまったのも、当然といえば当然だったのかも知れません。しかしニキヤは毅然と!大僧正を拒否します。「私は神に仕えるバヤデルカですのよ。そんなことを神がお許しになるはずありません!」彼女にとって唯一の君主とも言うべき存在は「神」のみであり、他のいかなる権力にも彼女は屈する必要はありません。この国の王であろうと大僧正であろうと、いかなる地位の人物であれ「神」のみに忠節を誓ったバヤデルカには、何の意味も持ってはいないのです。大僧正と言ったって、あくまで便宜的に?その地位を占めているに過ぎません。「神」の前では全ての人は等しく「平等」なのです。逆に言えば「神」のみが「君主」なのであり、他は全て「奴隷」である、とも言えます。こうした考えも、日本人には受け入れ難いものでしょう。しかし「唯一絶対神」とは基本的にそういうことなのです。
2007年05月03日
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ソロルが何故「神」に殺されねばならなかったか、ということについてももしかしたら多くの日本人は誤解しているかも知れない、と思う。ソロルはニキヤを裏切ったから、殺されたのではない。恋人を捨て、その彼女が殺されるのを黙って見ていたから、でもない。彼は唯、「誓い」を破ったがゆえに殺されたのだ。「誓い」というものが持つ意味に対しても、日本人で理解している人は少ないと思う。「誓い」なんていうと何やらロマンティックな、甘美なるものを想像してしまいがちだと思うけど、本来「誓い」とは「神」との「契約」、「神」への「誓約」とも言うべき、本当は大変に「厳しい」ものであるのだ。愛を誓うといってもその「誓い」はニキヤ個人に対するものではなく「神」に対してのものなのだ。だから、「誓い」とはとてつもなく「大変」で「重要」である意味「恐ろしい」ものでもある。「神」に対して「誓う」のだから、生半可な思いで「誓う」ことなど到底出来ない。それゆえに、「神」への「誓い」を破った場合、どうなるのか?それはもう明らかだ。ソロルの例はまさにそれだ。「神」は怒り、「誓い」を破ったものを罰するのである。なぜならその「誓い」は彼(ソロル)と「神」との間で取り交わされた「契約」であり「誓約」であるのだから。この場合、ニキヤは完全に関係ない。「誓い」とは「人間」相手にするものではなく、「神」に対してするものだからだ。このように考えてくると、一神教世界における人々が考える「誓い」というものが持つ意味の重大さというものが、私たちふつうの日本人の考える「誓い」とはおよそ似て非なるものであることに気付かされる。キリスト教徒でもないのに教会で結婚式を挙げ、「永遠の愛」を誓う日本人。その時どれだけの人が「誓い」の持つ本来の意味に気が付いているのだろう。ただロマンティックなものとしてしか考えてはいないと思う。「神」なるものの「絶対さ」、それも殆どの日本人はわからないし、もしわかったとしてもそんな「神」は絶対に拒否するのが日本人だ。日本人は「唯一絶対神」など「絶対に」信仰したりなどしない民族だ。そんな日本人と一神教を信仰する世界の大多数の人々とでは、多分「世界観」そのものが大きく違うはずだ。そもそもこの「世界」全てをお造りあそばしたのが「神」だ、と考えるのが一神教の世界であり、神=万物の創造主、と考えるのが一神教世界の人々だ。そこでは全てのものが(含・人間)神の「支配下」に入ることになる。「神」は疑問を差し挟む余地もない「絶対」の存在だ。まさに文字通り「超・絶対君主」なのである。え~、長々と書いてしまいましたが、上に書きましたようなことはあくまで私個人の推論であり「絶対」ではありません(と、こんな風に書いてしまうところも「絶対神」を拒否する典型的日本人)のでご注意ください。最近つくづく思うのですが、あ~、私ってやっぱ典型的日本人なんだな~、ということです。そして日本人というのは実に「多様性」を重んじる人たちなのだな~、ということです。長い間、私は日本人こそ「偏狭」で「排他的」な民族なのだと思っていました。しかしちょっと勉強してみるとそれがいかに「予断と偏見」に満ちた、まさに「自虐的」としか言いようのない「思い込み」「偏見」であったか、ということに気づかされました。「絶対神」を拒否する日本人はそれを信じる人々からみれば想像を絶するほどに「多様性」に価値を置き、むしろ「でたらめ」ともいえるほど「無節操」な人々です。そして花一輪にさえ「カミ」が宿っていると「感じる」、「感じることの出来る」日本人はなんとまぁ素朴で優しい人々であることか、と感嘆します。私達は日本人です。全てはそこから始まっています。そのことを忘れてはならない、「日本人よ、もっと日本を知ろう」そう思います。
2007年05月01日
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