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帚木蓬生氏は、精神科医になりたての頃、祈祷師、占い師、伝統治療師、いわゆるメディシンマンが嫌いでした。患者をたぶらかして、非科学的な治療をする詐欺師だと思っていました。その後ネガティブ・ケイパビリティの考え方を知るようになってから、その考え方は大きく変わりました。祈祷師たちの技法を見直すと、現代のあらゆる精神療法に共通する、治療者としてのあるべき基本的態度が浮かびあがってきます。病人の肉親や友人に対して、遠い山の薬草を採りに行かせる手法で、重要なのはおそらく薬草そのものの効果ではないでしょう。家族や知人が、病人のために危険をおかして長旅をし、薬草とともに戻ってくるまでには、10日や20日はかかります。いや1ヶ月か2か月かかるかもしれません。その間、病者はずっと希望を持ち、薬草が届くまで待ち続けます。期待が大きければ、たとえその薬草の効力がたいしたことなくても、効いた感じがして、一時的に元気になる可能性もあります。うまくいけば、その間に病が峠を越して、自然治癒力によって快方に向かうかもしれません。そして仮に不幸な結果になったとしても、病人は家族をはじめとする親族、友人に感謝して、死に赴くでしょう。周囲の人たちも、やるべきことはやったという思いで、悲嘆にくれつつも、悔いは少ないはずです。いわば八方よしの結果が生まれます。大病を患った時、自然治癒力に頼らざるをえない場合があります。こういう場合、祈祷師たちのように、将来に希望を持たせる。人間に備わっている自然治癒力を高めていくというやり方は理にかなっています。もう一つ大事な点があります。祈祷師たちが、病人の苦しみから目を離さないで見守っているという点です。人は誰でも、見守る眼や他人の理解のないところでは、苦難に耐えきれません。誰かからの、あなたの苦しみはよく分かっている。あなたの奮闘ぶりもよく知っているというメッセージが伝わると、病人は持ちこたえられ、苦難を乗り越えることができるようになります。祈祷師たちが病人に渡すお守りやお札、家族に家の四隅に置くように命じる砂や絵札なども目薬の代用になります。病人も肉親も、それによって祈祷師たちから見守られているという安堵を覚えるでしょう。(ネガティブ・ケイパビリティ 帚木蓬生 朝日新聞出版 113ページ参照)この話から2つのことがわかります。今すぐに解決策が見つからないことは、希望を持って時間の経過にまかせる。軽率なその場しのぎの行動は、益々問題を大きくしてしまう。今すぐに解決策が見つからない案件を抱えている人がいたら、しばらく寄り添ってあげて様子を見てあげるようにしましょう。性急に思いついたことを口にしたり、あきらめてすぐに相手を見放すようなことをしてはいけないということだと思います。症状の違う人が集談会にやってきたときこそ、このやり方を活用しましょう。
2025.05.31
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ボクシングで世界フライ級とバンタム級の2階級制覇を成し遂げたファィティング原田さんは、美空ひばりさんの「柔」がヒットしたとき、その歌い出しにある「勝つと思うな。思えば負けよ」の歌詞は間違いだと文句を言ったそうです。「勝つと思うなは、ウソですよ。勝つと思え、思わなきゃ負けよが正しい」世界チャンピオンになろうと思っても、チャンピオンになれるとは限りませんが、なろうと思わなかった人で世界チャンピオンになった人は一人もいません。オリンピックでも金メダルを獲りたいと思わない人は金メダルを手にすることはありません。スポーツの世界では、「負けるかも」「勝てないかも」と予感して勝った選手はいません。もしあったとすれハプニングや相手が自滅した結果として勝ったのです。その原因はネガティブな予感が頭をよぎると、脳は努力することを放棄してしまうからです。勝つために貪欲な努力をしなくなります。精神の緊張の糸が切れて、弛緩状態に切り替わってしまうのです。一旦弛緩状態に陥ってしまうと、「これはやばいぞ。立て直そう」と思ってもあとの祭りです。100m走でも、ゴール間際に勝ちを意識した途端に、緊張の糸が切れて負けてしまうことがあります。これは脳の仕組みを検証してみると納得がいきます。「負けるかも」「勝てないかも」と考えると、扁桃核はこれを「不快」と判定して、その情報を防衛系神経回路の司令塔である青斑核に送ります。青斑核はノルアドレナリンという神経伝達物質を脳内に拡散します。これは積極的、挑戦的、創造的な行動をできる限り抑制して、現状維持、エネルギーの保存、専守防衛の態勢を敷くように命令しているのです。興味や関心、好奇心、意欲ややる気をだして挑戦することをリスクと考えるようになるのです。行動は抑制的で内向的になります。消極的、非生産的、投げやり、無責任になります。「やる気をだしてもっと情熱を持て」と言われても、脳内の働きを急に変えることは難しいのです。このとき「もしかしたら勝てるかも」と考えると、扁桃核はこれを「快」と判断して、その情報を腹側被蓋野に送ります。腹側被蓋野はドーパミンという神経伝達物質をA10神経群に送ります。やる気の脳である「側坐核」、意欲を高める「帯状回」、「前頭前野」が一斉に活性化しますので、意欲満々で失敗を恐れずに挑戦的になります。このように考えると扁桃核が「好き・快」と判定してくれることがいかに大切なことであるかがよく分かります。本来は防衛系神経回路と報酬系神経回路はバランスがとれていることが大事ですが、成長の過程でネガティブな潜在意識が数多く蓄積されていますので、実際には防衛系神経回路はそのままにして、報酬系神経回路の活性化を心がけるとバランスがよくなります。(かもの法則 西田文郎 現代書林 参照)
2025.05.30
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西田文郎氏のお話です。部下や子どもたちを叱ったりほめたりする場合、次の4つにパターンに分類されます。①最初から最後まで褒める。②最初に褒めてあとで叱る。③最初に叱り、あとで褒める。④最初から最後まで叱る。みなさんはどの方法がよいと思われますか。西田氏のお勧めは③の方法です。つまり叱った後でほめてあげることです。逆にいちばんよくないのは④のように思いますが、実は②なのです。脳は優秀とはいえ、異なった感情を同時に記憶できないので、後に思ったほうを記憶します。ですから最初はマイナス感情になっても、プラス感情が最後にくればよいのです。人はついつい、伝えにくいことがあると、最初に褒めてしまうことをやりがちです。「この部分は良かったんですが。これはちょっと…やり直してください」というパターンはよくあるのではないでしょうか。「この部分は、しっかり確認しろといっただろう」と叱り、最後に「でも、お前を信じている。がんばれ」と褒めてあげることがモチベーションを保ち、相手を「その気」にさせ続けられるのです。もちろん「褒める」→「叱る」→そして最後に「褒める」といったサンドイッチにしても大丈夫です。(その気の法則 西田文郎 ダイヤモンド社 91ページ)これは部下や子どもだけではなく、自分自身の場合にも応用した方がよいと思います。私たちはネガティブな潜在意識に影響されて、「イヤだ」「ダメだ」「救いようがない」「もう終わりだ」などというネガティブな言葉をつぶやいてしまうことがあります。イヤだ・・・何がイヤなの。不安なの。怖いの。やる気がしないの。パスして逃げてしまいたいの。でも今までイヤイヤ仕方なしに行動して、意外にも面白かったという経験があったじゃないの。そのうちのめり込んでやりがいを感じたこともあったよね。むずかしいと思ってシミ込みしていたけど、やってみたら意外とスムーズにできたこともあったよね。逆に簡単にできるはずだと思っていたのに、意外と手間取ったこともあった。今度はどんな展開になるのかな。行動してみないと分からないよね。近くで見ててあげるから頑張ってみようよ。応援しているよ。ダメだ・・・自分のことが嫌いなの。自分を否定しているの。自分には能力ないと思っているの。最初からできないと決めつけているのね。それは今まで問題や課題から逃げ回ってきたから仕方ないよ。成功体験がないから、今回も失敗をしてみんなの笑いものになってしまうのではないかと心配しているんだよ。ダメでもともと、失敗してももともと。うまくいけば儲けものという気持ちで取り組んでみたらどうかな。どうしても難しかったら、配偶者や友人の助けを借りてみたらどう。最初は批判、否定しても、後から何らかの形でフォローを忘れないようにしたいものです。部下をきびしく叱りつける上司が、NO.2の部下にフォローを頼んでいる例もあります。「さっき課長は君のことをひどく叱責していたけど、本心では君の積極的で前向きな姿勢をいつも高く評価をしているよ。これからも頑張ってね」第三者を通じてこのようにフォローされると、本人は叱られたことを忘れて意欲的になるのは不思議なことです。
2025.05.29
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5月号の生活の発見誌に高良武久先生の「人を不幸にする12箇条」の記事がある。5月号ではそのうち3つだけ紹介されていた。今後が楽しみな記事である。そのなかで真っ先に挙げられていたのは次のことです。一番に人を不幸にする条件として、愛するものを持たないことであります。われわれは人に対して愛情を持っている。あるいは、芸術、文学、音楽、美術、もしくは自然の風景や動植物、自分の仕事、いろんな知識に対する知識欲というようなものがあります。そういう愛するものをたくさん持っている生活が豊かな生活であります。それを持たない人は、精神的に貧困であって、これは幸福とはいえないと思うのであります。このように、自分のまわりに愛するものをたくさん持っているという生活が、われわれの幸福の基礎になるものでありまして、非常に大切な事であります。(生活の発見誌 2025年5月号 4ページ)愛するものを持ってできる限りの愛情を注いでいる人は幸せになれると言われています。幼い子どもや孫を育てている。親の介護をしている。犬や猫や小鳥を飼っている。観賞魚を飼っている。花卉園芸をしている。家庭菜園をしている。田舎の田んぼの畔草を刈っている。集談会の世話活動をしている。町内会活動の世話をしている。マンションの理事や修繕委員をしている。PTAの役員をしている。趣味の会の世話活動をしている。自分の時間、労力、お金をつぎ込んで世話をしているわけです。大変なこともありますが、世話をすることで得ることも多い。私は集談会の世話活動は40年近く続けてきました。そのおかげで一般社会ではお会いできないような貴重な人と知り合いになれました。家庭菜園や庭作りでは手間をかければかけただけの成果があります。畑が60キロ離れた田舎にあるため毎日手入れをすることはできないのですが、いつも成育状況が気になります。気になるものを持っているということが精神的に好影響をもたらします。仕事が休みの日には田舎に帰るのがとても楽しみです。その他、高良先生は芸術、文学、音楽、美術、自分の仕事、いろんな知識に対する知識欲というようなものに関わり合うことも人間を幸せにすると言われています。私は森田に出会い、仲間と共に森田理論の学習を続けてきたのは幸せでした。私の趣味は、読書が好きで2日に1冊くらいのペースで読んでいます。小説でいえば藤沢周平のファンです。好きな理由は問題を抱えた市井の人々を取り上げておられるからです。それと一人一芸が好きで、アルトサックス、オカリナ、腹話術、獅子舞、どじょう掬い、浪曲奇術、しば天踊り、百歳音頭の踊り、手品、カラオケなどの同好会に入って仲間と取り組んでいます。神経質者は好奇心旺盛で、興味や関心の幅が広いと言われています。この特徴を大いに生かして人生を楽しみたいと思っております。
2025.05.28
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昨日の続きです。患者さんにしてみれば、精神科医は、あかの他人でありながら、毎日、あるいは一日2回3回と病室に顔を出してくれるのですから、こんなありがたいことはありません。しかも御用聞きのように、何か必要なこと、医療チームに言いたいことがあれば、伝令のように伝えてくれるし、必要ならば身体の具合も診てくれます。不眠が続くときは、睡眠導入剤の処方してくれます。こんなありがたい存在はありません。そのうえ、死にゆく自分の気持ちを少しでも理解しようという態度が感じられるので、過去の体験や、死後の不安についても話してみようかなと思うようになります。過去の辛かった体験を口にすると、「よく乗り越えられましたね」と感嘆の言葉が返ってきます。嬉しかったこと、誇りに思ったことを話しても、一緒に嬉しがり、賛辞を惜しみません。患者さんは、自分の人生は間違いなかった、やるだけのことはやったのだと、安心するでしょう。悔いが残ることになっても、その時はそれで仕方なく、それ以外にやりようはなかったのだと慰めてくれます。そうだったかもしれないと、患者さんは納得します。死んだあと、配偶者や子供たちがどうなるかの心配についても、立派に育てられているので心配はなさそうです。残された伴侶と力を合わせて、やっていかれますよ、と励まされ、患者さんは心配が目減りするのを感じます。死で人生が途切れるのではなく、子供たちに受け継がれ、あるいは友人たちの胸に、あなたの人生は必ずや遺されます。少なくとも主治医である私の胸には、私が死ぬまでしまっておきますと、主治医が吐露したとき、患者さんは思わず涙を流すかもしれません。主治医も静かにもらい泣きするかもしれません。ここにはもう技法も何も存在しません。主治医という人間と、患者という人間がいるだけです。医師が患者に処方できる最大の薬は、その人の人格であるという考え方は正鵠を得ています。(ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 帚木蓬生 朝日新聞出版 84ページ)こんな主治医であったなら患者さんはどんなに救われることでしょう。まさに医者のなかの医者です。森田先生が言う上医でしょう。私は痛風の傾向があるので病院にかかっています。いろいろと不平不満がありまして今の主治医は3人目です。まさに帚木蓬生氏が指摘されているようなお医者さんです。とにかく話をしていると癒されます。治療を受けているというよりも、あたたかい人間関係の中で会話を楽しんでいるような感じです。看護師さんたちもその好影響を受けておられるように感じました。集談会でも答えが容易に見つからない問題を抱えている人たちがやってきます。心がけることは「私は力になってあげられない」と距離を置くのではなく、できるだけ近くにいてただ話しを聞いてあげることが肝心なのかなと思います。話を聞いてもらえるだけで相手は癒されていくのだと思います。
2025.05.27
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元精神科医の帚木蓬生氏のお話です。長い医学教育の過程で、医師は何が正常で何が異常かを峻別する訓練を受け、頭のなかに叩き込まれます。医師は病気を見つけ、それを治療する責任があるという意識を植え付けられます。異常があれば発見し、大事に至らないうちに正常に近づけるのを天職と心得るのです。できるだけ早く患者さんの問題を見出し、できるだけ早く、その解決を図ることが至上命題となります。あまり迷いがあってはなりません。症状から、いくつもの鑑別診断を思い浮かべ、早急に検討して、快刀乱麻、解決策を見つけるのです。ところが現実の患者さんの状態は、そう簡単に病気の原因を特定できるものではありません。問題が見つからない場合や、複雑すぎる場合、そもそも解決策がない場合だってあります。早い話、末期がんの患者さんを前にしたとき、主治医は適切な治療を施すことができるでしょうか。死にゆく患者さんですから、もはや治療法は限られています。限られているどころか、皆無かもしれません。こうなると医師は病気の鑑別診断をして病因を特定して、治療方針を決定するのが仕事だと思っている人は、もう患者さんの傍にいること自体を苦痛に感じます。表立って何もしてあげられないからです。どうせ何もしてあげられないなら、病室を訪れないほうが楽です。受け持ち看護師に様子を見に行かせ、報告を聞くだけで、事は済みます。帚木蓬生氏はネガティブ・ケイパビリティの立場に立って患者に接しておられました。ネガティブ・ケイパビリティとは、どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力のことです。あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐柔の中にいることができる能力を意味します。死にゆく終末期の患者さんの目の前に立たされた精神科医は、記憶も理解も欲望もない状態にあるのが分かります。目の前の事象に、拙速に理解の帳尻を合わせず、宙ぶらりんの解決できない状況を不思議だと思う気持ちを忘れずに、持ちこたえていく力がここで要請されます。誰でも一人で苦しむのは、耐えられません。誰かその苦しみを分かってくれる。見ていてくれる人がいると、案外耐えられます。家族がいれば、患者さんの苦しみを分かってくれるものと思うかもしれませんが、そううまくいかない場合のほうが多いのです。親しい人が死んでいくという悲しみを背負っている身内は、それ以上の苦しみを回避するために、患者さんに必要以上は近づきません。ましてや、死にゆく患者さんに心境を聞くなどという、さしでがましいことはできません。患者さん自身も、家族を前にして、今の心境を語るのは勇気がいるし、何よりもエネルギーを要します。その結果、家族と死にゆく患者さんで交わされる言葉は少なく、以心伝心になってしまいがちです。その点、主治医としての精神科医は特権的な地位にいます。赤の他人であるという立場が逆に強みを持ってきます。答えの出ない事態に耐える力というのは森田理論で言われていることです。この続きは明日投稿します。(ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 帚木蓬生 朝日新聞出版 78~85ページ参照)
2025.05.26
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有田秀穂先生のお話です。うつ病やパニック障害の人にSSRIが処方されることがあります。一般的には不足したセロトニンを補うかのように思われていますがそうではありません。これはシナプスに放出されたセロトニンで使用されなかったものはセロトニントランスポータに再取り込みされていますが、それを阻止してシナプスにそのままとどまらせようとする薬です。選択的セロトニン再取り込み阻害薬と言われています。セロトニンが不足しているにもかかわらず、窮余の策として重宝されている薬です。比較的副作用はないとされていますが、薬に副作用のないものはほとんどありません。自殺念慮が高まるという報告もあります。セロトニンは覚醒時は活動状態、安静状態に関わらずフルに出続けています。徐波睡眠時はまばらになり、レム睡眠時は完全停止となる。この時はセロトニンからメラトニンが生成されて眠りに入る。脳波は睡眠時でも活動していますので、この点大きく違います。神経伝達物質のドーパミンやノルアドレナリンは状況に応じて適宜放出されています。この点も大きく違います。セロトニンは、ドーパミン主導の報酬系神経回路に対しても、ノルアドレナリン主導の防衛系神経回路に対しても抑制的に働きます。つまり欲望が暴走すること、攻撃力が暴走しないようにを抑制しています。また極度のストレスや不安によって、身体・精神に大きなダメージが及ばないように制御しています。セロトニンが制御してくれないと、思考に混乱を生じ、葛藤や苦悩でのたうち回ることになります。人間関係も悪影響をもたらし、依存症、無責任な生活が待っています。そういう意味ではドーパミンとセロトニン、ノルアドレナリンとセロトニンは程よくバランスがとれているということが大事になります。有田秀穂先生はたいへん重要な指摘をされています。私たちは不安や恐怖があるとそこに注意や意識を向けます。その時、覚醒時常時出続けているセロトニンの放出は一時的に停止されます。神経症に陥ると気になる不安や恐怖に際限なく注意や意識を向け続けます。そして精神交互作用で観念上の悪循環、行動の停滞を招きます。このとき一番の問題は、不安や恐怖を和らげてくれる役割を果すべきセロトニンの放出が滞ってしまうということです。仮に体内にセロトニンが豊富にあっても役に立たないということになります。坂道で車が疾走している状態なのに、ブレーキが壊れて制御できない状態と同じことが起きます。その結果、誰にでもあるような小さな不安が、すぐに自分の一生を左右するかのような大問題に膨れ上がる。有田先生は注意をいつまでも一点に集中させることは避けるべきだと指摘されています。一旦注意や意識を向けても、問題がないことを確認したらそこから離れることが大事になるのです。森田理論では、「無所住心」といって、次々に注意や意識を移動させていくことをお勧めしています。(セロトニン欠乏症 有田秀穂 生活人新書 参照)
2025.05.25
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西田文郎氏のお話です。平家物語に「富士川の戦い」という話があります。駿河の国、富士川を挟んで源平のにらみ合いが続いていたある夜、突然、川辺の水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音を敵の夜襲とカン違いした平家の軍勢は、たちまち大混乱に陥り、戦わずして命からがら逃げだしたというのです。平家は源氏の大軍に負けたのではありません。「源氏の坂東武者は強いかも」「この戦いは負けるかも」という、脳内の「否定的なかも」に負けたのです。(かもの法則 西田文郎 現代書林 39ページ)本田宗一郎氏曰く。私の仕事はすべて失敗の連続である。99%は失敗の連続であった。そして実を結んだ1%の成功が現在の私である。本田宗一郎氏は何度失敗しても、そのたびに「次は成功するかも」「できるかも」「うまくいくかも」という「肯定的なかも」を飛ばせたのです。自分を叱咤激励して、「必ず成功する」「絶対成功するはずだ」とプラス思考する。ポジティブシンキングで考えるようにすることは極めて難しいです。しかし無責任で気まぐれな「成功するかも」「うまくいきかも」「できるかも」「やれるかも」という「肯定的なかも」なら何とか飛ばすことができるのではないでしょうか。「肯定的なかも」が飛び立つと、私たちの脳にその「かも」のイメージが生まれます。「否定的なかも」と違うのは、否定的な想像は人から実行力を奪いますが、「肯定的なかも」は人を行動に駆り立てるということです。「肯定的なかも」さえいればすべて順調にいくわけではありません。積極的な行動が増えれば、失敗の数も当然増えていきます。この失敗を単なる失敗ではなく、成功のための貴重な教訓として積み重ねることが大切です。「肯定的なかも」を飛ばし続ければ、最後には目的が達成できる可能性が格段に増えてきます。つまり好循環が頭の中を駆け巡るのです。この時脳内ではどうなっているのでしょうか。ずばり報酬系神経回路が作動しているのです。扁桃体で「好き」「快」と判定された情報は「腹側被蓋野」に回されます。腹側被蓋野はやる気を高める部位である「側坐核」などにその情報を伝えます。側坐核はドーパミンを大量に出して、報酬系神経回路のA10神経群を一斉に活性化させるのです。意欲的、積極的、建設的、創造的な神経群が動き出してくるのです。「否定的なかも」飛ばしていると防衛系神経回路が作動します。扁桃体で「嫌い」「不快」と判定された情報は「青斑核」に送られます。「青斑核」がノルアドレナリンという神経伝達物資を使って、脳内に積極的、建設的、創造的な行動を抑制するように働いてくるのです。行動にブレーキをかけるのです。つまり脳内を専守防衛システムが支配するようになるのです。これでは笛吹けど踊らずという現象が起きてくるのです。さらに抑うつで苦しむことになります。これを避けるための一つの手段が「肯定的なかも」を飛ばすということなのです。
2025.05.24
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稲垣栄洋氏は「弱者の戦略」という本で、弱者でも強者に引けをとらない生き方ができると説明されています。「弱い者でも、強い者の何倍も努力すれば、勝つことができる」と単純に考えてしまいがちですが、自然界の生き物の世界は「歯を食いしばって頑張れば何とかなる」といった甘い考えは通用しない。弱いように見える生き物たちが厳しい自然界を生き抜いているのには、それなりの理由がある。何気なく生きているように見える彼らだが、弱者には弱者の生存戦略があるのだ。それがなければ、すでに絶滅しているはずだ。さて、生きとし生けるものは、与えられた命をできる限り長く延命させるという明確な目標を持っている。さらにその命を子孫代々に永遠に引き継ぐという役割も持っている。その2つの目的を達成するために日々奮闘しているのである。ただし自然界は弱肉強食の過酷な厳しい世界である。緊張感を持たないでその日その日を安楽に生きていくことはできない。強者に命を奪われないために、弱者は細心の注意を払う必要がある。そして危険を察知したら、次のような対策をたてて即実行しなければならない。①群れる(集団化)・・・個体の脆弱性を集団の数で補い、捕食リスクを分散する。イワシやサル。②逃げる(回避)・・・ただ逃げるだけではなく、予測不能な動きで相手をかく乱する。蝶やシマウマ。③隠れる(擬態・小型化)・・・周囲へ擬態、小型化による隙間への逃避、性別や他種への擬態。昆虫、植物(石に擬態)、メスに化ける生物④ずらす(時間・場所・ニッチの細分化)・・・強者との競争を避けるために、活動時間、生息場所、繁殖時期などを変更する。ニホンタンポポ、雑草。⑤変化を好む(複雑さへの適応)・・・不安定な環境や複雑さを積極的に受け入れ、敵の襲来を逃れて生き延びることを創出する。⑥弱さを利用する(逆境活用)・・・自身の弱点や逆境を、生存や繁殖の機会ととらえて、積極的に活用する。雑草は踏まれることで種子を拡散する。草刈りをされることでさらに繁殖する。これらから分かることは、弱者は生き延びるために、あえて強者と命をかけて戦うことはしない。リスクをうまくかわしているのだ。危険と判断したら絶対に近寄らない。距離を置く。出くわしたらすぐに逃げる。強者に見つからないように偽装工作(擬態・小型化)を図って身を守ってきた。強者に捕食されないように細心の注意を払いつつ、自分が生き延びることができるテリトリー・居場所(ニッチ)を確立してきた。そこには競争相手がいない。つまり自分がNO.1になれる分野を開拓できた場合に限って、弱者であっても生き残ることができたのです。そういう意味では、太古の昔から現在まで生き延びてきた弱者は、全て勝者なのである。私たち人間も、自然界の弱者である動植物の生き残り戦略から、貴重な教訓を学んでいきたいものです。私がこの本を読んで特に参考になったのは次の2点である。「棲み分け」という戦略・・・弱者は強者とは異なる場所や方法、つまり「棲み分け」という方法を採用することによって、強者との戦いに巻き込まれることなく生き延びてきた。例えば自然界には、強者が休んでいる夜中に活動して、昼間は安全なところに隠れて生活している生き物がいる。自分が生きる分野で1番になれないということは、すぐに駆逐されて絶滅してしまう。強者が自分の懐に入り込んでこない安全安心な場所(ニッチ)を見つけることができれば、その種は高い確率で生き残ることができるのである。ニッチの発見と創造・・・競合がひしめく大きな市場(環境)でナンバーワンを目指すのではなく、自分だけがナンバーワンになれるような、小さくても独自の市場(ニッチ)を見つけたり、積極的に作り出していく戦略が極めて重要になる。生物でいえば、困難で過酷な環境に対して、自分の今までのスタイルを破棄して変化させることで生き延びている。断じて過酷な環境を自分の都合のよいように変えようとしているのではない。また他の生物が見向きもしないような食べ物や資源を活用・利用することで生き残りを図っているのである。(弱者の戦略 稲垣栄洋 新潮社参照)この話から神経質性格者が生き残る道が見えてくるように思う。神経質者は心配性で不安にとらわれやすいという特徴がある。裏から見ると、細かいことによく気が付く。感受性が強いということだ。その他、好奇心が強い。興味や関心の幅が広い。探究心、分析力が鋭い、問題解決能力がある。ねばり強い。これらの特徴を磨き上げて、活用・応用できるようになれば、自分の居場所は確保できる。自信や自己肯定感も高まり、自分と家族の命を守り延命することが可能となる。
2025.05.23
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森田先生のお話です。理想主義者または哲学者は、事実を離れて物事を推理でやって行こうとする。「仕事の能率を上げるには熱中しなければならぬ」とかいう風に考える。ちょっと聞くともっともらしいけれども、実は実際を離れた机上論である。いま我々が、ある心の活動状況について考える時に、必ず第一に、その事件、第二、その時の周囲の境遇、第三に自分の心身の状態とを、同時に観察しなければならない。例えば、第一として、自分の前に「すし」が出る。第二に皆さんのところへは、まだ配られない。第三は、腹がへってたまらない。この時には、すなわち食べたくて、しかも遠慮して待つという気の張った状態になるという風に、我々の心は、時と場合に応じて、千変万化定まりのないものである。(森田全集 第5巻 580ページ)この話は行動する時の注意点・ポイントについて説明されています。もう少し深耕してみましょう。森田先生は行動する時に、自分の欲望を押し通すようなやり方は問題だと言われています。たとえば、相手がしゃべっているときに、それを遮って自分の言いたいことをしゃべるようなことです。それを押し通したいと思っても周囲の状況次第では我慢しなければならない場合があります。例えば、急いでいるときに、「開かずの踏切」が閉まってしまうことがあります。5分以上も待たされることが日常茶飯事という場合は当然イライラします。こんな場合無理やりこじ開けて横断しますか。たまにはそんな人もいますが、事故に遭う危険性が高いわけですからそんな無茶なことはしませんね。ではどのように行動していけばよいのか。森田先生は、主観的事実と客観的事実を天秤にかけて、その時その場で適切な行動を決定すればよいと言われています。①自分の心身の状態を冷静に把握する。②周囲の状況を客観的に認識する。自分の都合にしても、周囲の状況にしても、その時その場でいろんなケースがあります。開かずの踏切の場合は、早く渡りたいのは山々ですが、身の安全を考えて我慢する。あるいは少々遠回りになりますが、近くの高架式の横断歩道を利用する手があります。神経質者の場合、欲望のままに軽率な行動を選択してしまうことがあります。この場合は後悔や罪悪感で苦しむことが多くなります。自分の欲望だけではなく、周囲の状況も加味して、その時その場で適切で妥当性のある行動を選択することが大事になります。
2025.05.22
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西田文郎氏のお話です。トップアスリートの特徴は、負けず嫌いであり、同時に素直であることです。負けず嫌いは、スポーツ選手にとって最も大切な素質です。けれど選手が今以上に大きく伸びようとしたら、負けず嫌いだけでは十分ではありません。負けず嫌いの上に、「素直さ」がくっついた、「素直な負けず嫌い」であることが必要です。監督やコーチに反感を持ち、腹を立てたり、また注意されると「チェ」「うるせえなあ」とすぐ反発して、不服そうな顔をする選手がいます。そういう素直さのない選手は、適切なアドバイスにも耳を傾けられなくなります。さらにスポーツ選手にとって最大の敵といえるストレスを四六時中抱えることになり、そのために保有能力も発揮能力もどんどん落ちていきます。西田文郎氏は日本プロボクシング協会の会長を務めている大橋秀行氏に「世界チャンピオンになれる選手は分かりますか」という質問をした。これに答えて大橋氏は、「世界チャンピオンになれる選手はわからないが、なれない選手ならすぐわかる。周囲に不満を持つ選手は、どんな素晴らしい素質があってもチャンピオンには絶対になれない」不平不満の代わりに、「ありがとうございます」「おかげさま」という感謝の心を忘れない人はチャンピオンになれる可能性が残る。(NO.1メンタルトレーニング 西田文郎 現代書林 71ページ要旨引用)成果を出す人と出せない人の違いについて分析してみました。立派な成績を残せたのは、自分一人の力だと信じて疑ない人がいます。そういう人は自分の力を信じてさらに過酷な練習を積み重ねるでしょう。目標としてはボクシングでいえば世界チャンピオンです。オリンピック競技でいえば金メダルを目指します。西田氏や大橋氏の話では、自分の力を過信している人は、目標の達成は難しいだろうと言われています。そういう人は得てして他人のアドバイスや助言や忠告は聞く耳を持っていません。自分一人の力で今の地位にいるのだから、他人のアドバイスなどは必要ないのです。どちらかというと目障りなのです。集中力を高めるための邪魔をしないでくれという気持ちです。多くの人から称賛を浴びるのは、誰のおかげでもない、自分一人の力で成し遂げたものだという気持ちが強いのです。その態度は傲慢に見えます。こういう人は、波に乗っているときは、飛ぶ鳥を落とす勢いがありますが、途中で息切れして成績が伸び悩むことが多いと言われています。世界レベルでの勝ち負けは能力や技術面だけではなく、ちょっとした心の持ち方が大きく絡んでくる。ここ一番で勝てないというのは、メンタル面の問題が影響しているとみたほうがよい。その一方で、自分の今の素晴らしい成績は自分一人で成し遂げたものではない。両親、監督、コーチ、練習仲間、先輩や後輩、支援者、後援会、スポンサー、応援してくれたすべての人たちのおかげによるものだと思っている人もいます。そういう方たちへの気配りを忘れない。あいさつを励行する。「いつもありがとうございます」と感謝の言葉を忘れない。そういう人たちの競技の目的は、自分一人が賞賛を浴びればよいというのではありません。頂点に立って是非ともお世話になった人たちに大いに喜んでもらいたい。感動を与えて恩返しをしたいと思っているのです。こういう目標設定をすると、監督、コーチ、練習仲間、先輩や後輩たちのアドバイスや助言や忠告は宝の山です。役に立つところは素直に受け入れられるでしょう。自分でもまわりの人に喜んでもらうための工夫やアイデアを次々に思いつくようになります。ちょっとした目標の設定の違いによって、その後の展開が雲泥の差となって現れてきます。
2025.05.21
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作家の宇野千代さんは素晴らしい言葉を残されている。あなたの倖せは、ほんのすぐ、あなたの身近にあるのです。あなたは、あなたの思っているよりも、ほんの一桁、ほんのちょっと格下げをしただけで、あなたは倖せになれるのだとは思いませんか。小さな幸運が来ると、人はつつましやかになる。それがどんなに遅まきな、そして哀れな心情であったとしても、私たちはこの不幸な状態を少しずつ乗り切ることができるのではないかと思い始めているのです。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人がある。人間というものは考え方で自分の境地さえ変えられるというのが私の説なのです。他人が聞いたら、吹き出して笑ってしまうようなことでも、その中に、一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行きたい。(宇野千代 幸福の言葉 海竜社 190、191、195ページ)山口県錦帯橋の近くにある香椎公園で次のような碑を見つけた。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人がある。森田の言葉を言い換えるとこういうことになるのだろうと思いました。神経症で苦しんでいるとき、その苦しみを緩和するために、パチンコ、アルコール、グルメ、趣味、観劇、スポーツ観戦、旅行、ゲーム、資格試験への挑戦、釣りやトライアスロンやスキーなどへの挑戦などに取り組んでいた。とにかく楽しい事には目がなかった。それらは一時的にはカンフル剤的な効果はあったのですが、永続性はありませんでした。その後で神経症の苦しみが倍返しで覆いかぶさってくるような感じでした。この方法だけで精神の安定を図ろうとするのは考えものだと思いました。森田学習に取り組んで分かったことは、どんなに小さなことでもよいから生活や仕事の中で小さな工夫や気づき、成功体験を積み重ねていくと生きていくことが楽になるということです。集談会でこんな人がいました。私の話は生活の中での小さな気づきや工夫の話ばかりです。神経症で格闘している人にとっては、面白くない話かもしれません。ビールをおいしく飲む方法、カラオケが上達する方法、タイの粗炊きを上手に作る方法、路傍に咲く花を楽しむ方法、雑草を引き抜く方法、食器の洗い方、相撲を楽しむ方法、水泳の練習方法、早寝早起きの効用などです。確かに神経症とは関係のない話ですが、私はその人の話が面白く高く評価していました。するとその人は「そういってくれるのはあなただけだ」と言われていました。集談会でこういう話が面白いと感じる人は、人生に前向きで覇気を感じます。人間としての魅力にあふれています。会って話をしてみたいと思わせる人です。普段の日常生活の中で、ささやかな小さな楽しみや喜びや感動を感じることは一つの能力だと思います。そういう体験を積みかさねている人は「森田の達人」のレベルにある人だと思います。他人から与えられる楽しみを貪欲に追い求めるのではなく、普段の生活の中で小さな成功体験、工夫や発見を積み重ねることによって得られる幸せこそが人生の醍醐味だと思う。そういう幸福のかけらは、そこら中に転がっていることにやっと気が付いてきた。
2025.05.20
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ブルース・リプトン博士のお話です。医療の現場でも多くの人がプラシーボ(偽の薬)効果に気が付いている。だが、一歩踏み込んで、自然治癒との関係について深く考えてみる人はほとんどいない。プラシーボ効果は、肯定的に思考することで心が健康になるという現象だ。米国保険社会福祉省の報告にも、プラシーボ効果が紹介されている。重度のうつ病患者について、薬を服用した人のうち回復したのは半分だけだったが、プラシーボを服用した人は三分の二が回復するという、目覚ましい結果となった。(Horgan 1999)同じ心が、プラシーボ効果とは逆に、否定的思考によって健康を損なうこともある。これは「ノーシーボ」効果と言われる。たとえばあなたが医師から「あと6ヵ月の命です」と宣告されたとしよう。このセリフが心に与える影響は計り知れない。もし医師の言うことを信じたならば、実際、あなたは遠からずこの世から去ることになるだろう。2003年「プラシーボ 心は薬よりも力がある」という番組があった。1974年、ミーダー医師はサム・ロンド氏を診察した。ロンド氏は食道ガンを患っていて、後は死を待つばかりというのが当時の診断だった。実際診断が下ってから数週間後にロンド氏は亡くなった。ところが、ロンド氏の死後、驚くべき事実が判明した。解剖してみたところ、小さな腫瘍が肝臓に2、3ヶ所と肺に1ヶ所あるだけで、食道にはガンは全く見当たらなかった。誤診だったのだ。ミーダー医師は、「彼の死因はガンではなかった。しかし実際に彼はガンでなかったのに死んでしまった。いったい何が彼を死に追いやったのか」「私はガンだと診断しました。彼は自分はガンだと考えました。周囲の人もみんな彼はガンだと考えました」ガンで余命いくばくもないと本人も私も周囲の人も信じて疑わなかった。それは確信に近かった。その結果悲劇が起きた。悲観的、否定的、ネガティブな思い込み、思考や感情が一旦潜在意識に落とし込まれると始末が悪いということだ。人間は潜在意識に基づいてネガティブに思考し、ネガティブな感情でがんじがらめに支配されるようになるということです。ブルース・リプトン博士は、私たちの思考や行動や感情の95%は潜在意識によってコントロールされている。誰でも自分は自由に思考していると思っているが、顕在意識の95%は潜在意識の管理下にあるということです。その潜在意識は、7歳までの幼少期に作られる。ネガティブな信念や思考パターンが潜在意識に蓄積されると、自己肯定感の低下、人間関係の悪化、健康問題など様々な問題を引き起こす可能性があると指摘されています。リプトン博士は潜在意識の書き換えをする必要がある。また潜在意識の書き換えは可能であると説明されている。我々は潜在意識の呪縛から自由になる方法を考える必要があるのです。(参考文献 思考のすごい力 ブルース・リプトン PHP、ネガティブ・ケイパビリティ 帚木蓬生 朝日新聞出版)
2025.05.19
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為末大氏のお話です。何かをやって成功することも大事だけど、努力して、踏ん張って、結局うまくいかなかったことも、尊い経験だと思う。結果が出ないと、その合間、合間に実は存在していた楽しいことさえも忘れ、全部が暗黒に見えてしまう。やがて時が過ぎ、ある程度距離を置くと、「うまくいかなかったけれど、あれはあれで楽しかったな」と少しずつ思い出されてくる。脳みそはいいように解釈し直すという。「いい思い出」というのは、必ずしも素晴らしい結果ばかりではないはずだ。その瞬間の、「苦しい」とか、「辛い」を振り返ったときに変化する。部活動の厳しい練習、受験勉強、入社したての慣れないハードワーク、恋人との別れ・・・。みなさんも思い返すと、ひとつやふたつはあると思う。結果はともあれ、自分自身で「ちゃんとやれたな」と思う経験を積み重ねていくと、自分自身を信頼できるようになる。尊敬できるようになる。尊敬できる自分でいるために、結果うんぬんではなく、むしろ最善を尽くしたのだという履歴を残していくこと、それによって自尊心や本当のプライド、自分への尊敬というものが生まれるのだと僕は信じている。(走りながら考える 為末大 (株)KADOKAWA 219ページ)為末さんの指摘されていることは、歳を重ねるとよく分かるようになります。しかし若いころは、目の前にイヤなことやおっくうなものが見えてくると、何とか回避して無難に乗り越えることばかり考えて行動していたように思います。神経質者の場合、失敗のリスクを考えて、新しいことへの挑戦を避ける傾向が強いと思います。親や他人に助けてもらって、何とかやり過ごしてきた。その時は何とかやり過ごすことができたと喜んでいました。しかしそのことが大人になって困難な人生を歩む原因になろうとは思いもよりませんでした。面倒なこと、おっくうなこと、困難なことをいつも避けてきた人は、ミスや失敗の経験が圧倒的に少なくなります。当然成功体験も不足します。つまり雑多な社会体験不足の状態で社会に出ていくわけです。もやしのような状態で成長してしまうと、いきなり社会人としてまともに生きていくことはできません。社会に出た途端右往左往することになってしまいますが、その時に地団駄踏んでもどうにもなりません。幼い時から様々なことを経験して大人になった人はたくましい。人生で待ち構えているさまざまな問題に対して、適切な問題対応能力が身についています。人間関係では、傷ついたり、傷つけたりしながら対人関係のコツを身に着けていきます。集談会では3000回のミスや失敗を積み重ねた人が、社会の荒波に立ち向かっていく人間になれるのだと教えてもらいました。ただの1回のミスや失敗も許せない人にとっては、とてつもない大きな目標です。大人になるまでに、ミスや失敗、後悔や挫折の経験をたくさん積み重ねていくことは、一人前の大人になるための登竜門となります。私は30代で生活の発見会に入り、いろんな世話役をさせていただき、遅ればせながら多くのミスや失敗の経験をさせていただきました。発見会でのミスや失敗は比較的鷹揚に受け入れてもらえたので助かりました。これが会社の仕事や人間関係に大いに役立ちました。また困った時は、生活の発見会の仲間たちが親身に相談に乗ってくれました。生活の発見会のような自助組織、趣味の会、OB会、町内会、マンションの理事会などで、世話活動をしていると多くの失敗体験や成功体験ができますのでお勧めです。世話活動に取り組むことは問題解決能力を育ててくれます。
2025.05.18
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ブルース・リプトン博士のお話です。意識的な意思の力と潜在意識のプログラムとの間に緊張状態があると、深刻な精神障害が生じることもある。映画「シャイン」を見て以来、わたしは、潜在意識に立ち向かってはいけないという思いを強くした。この映画は実話に基づいた映画である。オーストラリアのコンサート・ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴッドは、父親に反抗し、ロンドンで音楽を勉強しようとする。ヘルフゴッドは、ホロコーストの生き残りである父親によって、世界は危険な所であり、「人目についた」ら命が危うい、という信念を潜在意識にプログラムされている。父親は、家族のもとにいる限りは安全なのだと主張する。父親は執拗にプログラムしたが、ヘルフゴットは、自分が世界クラスのピアニストであり、夢を実現するためには父親と決別しなければならないと悟る。ヘルフゴッドはロンドンでコンクールに出場し、難度の高いことで有名な、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」を演奏する。この映画は、成功したいと願う彼の顕在意識と、人目について国際的に知られるようになれば命が危ないと恐れる潜在意識との葛藤を描き出している。苦労して協奏曲を弾くヘルフゴッドの額に汗がふき出る。顕在意識は主導権を握ろうとし、優勝するのを恐れる潜在意識は身体をコントロールしようとする。意志の力でなんとか潜在意識を押さえてやり抜き、協奏曲の最後の音符を弾き終えた彼は、意識を失ってしまう。彼は潜在意識との戦いにエネルギーを使い尽くしたのである。潜在意識との戦いに「勝利」はしたが、その代償は大きかった。意識が戻った時、彼は正気を失っていたのだ。(思考のすごい力 ブルース・リプトン PHP 277ページ引用)ブルース・リプトン博士は、私たちの行動や感情の95%は潜在意識によってコントロールされていると説明されています。つまり、意識的な思考よりも潜在意識の方が、私たちの人生に大きな影響を与えているのです。潜在意識は生まれてから7年間のうちに親や養育者、個人の失敗経験などによって形成される。また潜在意識の70%はネガティブなもので占められている。ポジティブな潜在意識はわずか5%しかないと言われている。ネガティブなプログラムが一旦形成されると、自己制限的な信念や行動パターンにつながり、人生の様々な場面で問題を引き起こすことになります。人間関係がうまくいかない、何ごとに対しても消極的である、仕事への意欲がわかないというようなことは決してあなた一人の責任ではない。7歳までに形成されたネガティブな思考や感情のせいなのです。その潜在意識が顕在意識やマイナス感情の形成に大きな影響を与えているのです。このネガティブな潜在意識はどうすることもできないものなのでしょうか。ブルース・リプトン博士は、そうしたネガティブな潜在意識は書き換えることが可能であると説明されています。そのための方法として、意識的なマインドフルネス、再プログラミング、エネルギー心理学などをあげておられます。その他、潜在意識から生まれてくるネガティブな観念や感情を、それらと一定の距離を置いて客観的に観察するという手法があります。不快な感情や不快な気分は、天気と同じ自然現象でありなすすべがありません。森田療法では、不快な感情や不快な気分を無理に排除するのではなく、それらは自然な心の動きとして存在することを認めて受け入れることをお勧めしています。感情に抵抗するのではなく、第三者の立場に立って、客観的にそれを眺めるようにするのです。森田では、そのことを自覚(気づき)を深めるといいます。客観的に眺めるためには、自分の中にもう一人の自分を作っておくことが有効です。考え方を理解して取り組めば誰でもできるようになります。この「客観化」と言う手法は、森田療法の専売特許ではなく、認知療法でいう「脱中心化」、心理学でいう「脱同一化」、マインドフルネスでいう「観察する自己」、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)、メタ認知でも同じような手法を取り入れています。多くの精神療法では、ネガティブな感情を客観化するというのは大きな意味を持っているということになります。
2025.05.17
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森田先生のお話です。僕は喧嘩はしたことがないから、喧嘩の話はよくできない。しかし、喧嘩すなわち自分の思うとおりにならぬじれったさから、相手を一挙にやっつけようとする心、その心の態度は、自分にも、平常しばしばあるのを自覚していることです。僕が昔、柔術やその他の武道をやったのも、みな喧嘩の準備であった。こちらから進んで喧嘩を仕掛けるのは非常に損であるから、それは決してやったことはないが、もし喧嘩を仕掛けられれば、いつでもこれを辞さないという心構えは今でも常に持っている。この態度は、相手にも直ちに感ぜられることであるから、相手も決して手を出さない。その結果、すなわち喧嘩は起こらないで平和である。今日の世界の状態でも、日本の兵力その他の実力が強ければ、他国からの侮りを受けないで平和になる。兵法の極意の「戦わずして勝つ」というのも、そのことではないかと思う。今日世界の武力制限問題も、外向的に表面ではこれを承知しながら、内面には武力の充実と士気の緊張とを、決して揺るがせにしてはならない。この点において、尾崎行雄氏などの兵力制限論や、その他の読んで字の如き平和論者無戦論などは、社会人心の本然性を無視した屁理屈である。実際には、「戦わずして勝つ」の平和でなくてはならない。(森田全集 第5巻 539ページ)森田先生は、人間関係のコツはお互いの力のバランスがとれていることだと言われている。力のバランスが崩れると、支配・被支配の人間関係になる。支配・被支配の縦の人間関係は極力避ける必要がある。これはアドラー心理学と同じことです。アドラーはタテの人間関係をヨコの人間関係に変えていく必要があると言っています。それ為には力の均衡を意識して努力精進していく必要がある。まずは1対1の場合、対等の力関係を作り上げる。人間関係の基本である。相手の考え、欲求、気持ちをよく聞いて、その上で自分の考え、欲求、気持ちを相手に伝える。次に双方の相違点を確認する。相違点は話し合いによって解決する。もし両者の力関係が崩れていたら、弱い人は賛同者を集めて集団で対抗していく必要がある。力の強い人は分断工作をしてくるだろうが、安易に白旗をあげてはまずい。一旦支配・被支配の人間関係に陥ってしまえば、辛い人生が待っている。そういう意味では対等の人間関係を作り上げて維持するためにはお互いに普段の努力が必要になる。人間関係作りは、精神的には絶えず緊張の連続である。但し力の均衡がとれても相手と戦闘状態に入ることは避けなければならない。武力にまかせて戦えば、双方とも大きな損害が出る。戦うことは百害あって一利なしである。力の均衡がとれてきたら、後は話し合いによって問題解決を図るようにする。つまり、兵法でいう「戦わずして勝つ」という戦法以上のものはない。人間関係で躓いている人は、相手の考え、欲求、気持ちを無視してしまう自己中心的な人が多い。人間関係を改善しようと思ったら、相手には相手の考えや意志があるはずだから、自分の思いどおりに行くはずはないという気持ちを持っておく必要がある。絶えず妥協点を求めて話し合うという気持ちを持って相手と付き合えば、雨降って地が固まる。
2025.05.16
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松下幸之助氏のお話です。どんな人でも完全ではない。その人の欠点だけをひろえば誰でも悪人になる。悪人でもその長所だけを見つめたら善人ともいえる。困った石、邪魔な木でも配置をかえたら見事な庭の助けとなる。工夫と寛容が人を活かす。(人生心得帖 藤尾秀昭監修 致知出版社 24ページ)次に李白の言葉です。天、我が材を生ず 必ず用あり(天は自分という人間を生んだ。天が生んだ自分は必ず自分にしか果たせない役割、使命があるはずだ)(同書 36ページ)この2つの言葉は、森田理論でいう「物の性を尽くす」という考え方に近い。その人やその物が持っている存在価値や能力や可能性を見出して、適宜居場所や活躍の場を提供して、命のある限り活かし尽くすということだと思います。自分を活かす道が見つかれば、人間に生まれたことを感謝できるようになります。人間同士いがみ合うことがなくなり、人間関係は良好になります。「物の性を尽くす」は物だけではなく、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「お金の性をつくす」「時間の性を尽くす」に通じます。松下幸之助氏や李白の言葉は、「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」ということだと思います。どんなに欠点が多く、問題点を持っている人でも、裏返してみると、存在価値を持っており、さらに長所や強みを持っています。普通は欠点や弱みを目の敵にして何としても排除しようとします。「谷深ければ山高し」といいます。どうにもならない欠点や弱点を持っている人は、その裏にとてつもない長所や強みを持っていると思っているととても批判する気持ちにはならない。お互いに欠点や弱点は寛容な気持ちで許容しあい、長所や強みを発掘して、とことん活かし尽くすようにしたいものです。
2025.05.15
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精神科医でマインドフルネスに詳しい藤井英雄先生のお話です。本やテレビを観ていて、そろそろ宿題をやろうかなと思っている矢先に、親から「早く宿題をやりなさい」と言われて、「今やろうと思っていたのに」とイヤな気分になったことはありませんでしたか。たとえ自分がやろうと思っていたことでも、人にやるように指示されると、反発してしまいやる気を失います。親が子どもにアドバイスを受け入れてもらえないのは、親が子どものあるべき姿を判断して、それを子どもに押し付けようとするからです。これは先生と生徒、上司と部下、監督と選手、カウンセラーとクライアント、集談会での先輩会員と初心者の関係においても同じことが言えます。相手の話を聞くときや相談にのるときにしてはいけないことが8つほどあります。例えば勉強をする気が起きないという子どもに対して、①指示をする・・・そろそろ本気を出さないと!②脅迫する・・・浪人することになるよ。③提案する・・・家庭教師を頼んでみる。④激励する・・・あんたならきっとできるはずだ。⑤質問する・・・どうしてやる気が出ないの。⑥分析する・・・研究者になりたいという気持ちがあやふやなんじゃないの。⑦叱責する・・・甘えたこと言っていないで勉強しなさい。⑧話をはぐらかす・・・深刻に悩まないほうがいいよ。(マインドフルネス「人間関係」の教科書 藤井英雄 Clover出版 132ページ)こんな対応をされると、相談しないほうがよかったということになります。反発して以後寄り付かなくなることが考えられます。話し手の言葉に耳を傾けて傾聴し、話し手を理解した時、聞き手は話し手を受容し共感できるでしょう。すると、聴き手に受容され共感された話し手は批判、非難、アドバイスなしに話を聞いてもらえるという安心感と、話を聞いてくれる相手への信頼感をもとに話を続けることができます。そしていつしか自分でも気づかなかった心の奥底、潜在意識の中に隠された気持ちに気づき(洞察)、癒しと解放が起こります。これが傾聴の効果です。傾聴で大事なことは、自分がアドバイスや批判をしたくなっているという自分に気づき、のど元まで出かかったその危険なアドバイスや批判を飲み込んで傾聴を続けることができるかどうかです。(同書 151ページ)ロジャーズの来談者中心療法というのがあります。ロジャーズはセラピストとして必要な条件を3つ挙げている。①患者を無条件に受け入れる姿勢で臨むこと(無条件の肯定的配慮)②患者の身になって感じ、それを伝えようとすること(共感的理解)③自分の感じていることを自覚し、言動に矛盾がない事(自己一致)(無意識の正体 山竹伸二 河出書房新社 174ページ)集談会などの学習会でも、森田理論を教えてあげるという気持ちよりも、その前に相手のことをより深く理解したいという気持ちを持っておくことが大事になります。
2025.05.14
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落語家の立川談慶氏は慶応大学を卒業後、3年間ワコールでサラリーマン生活を送り、1991年(平成3年)に立川談志の18番目の弟子になった。前座修業は通常3年で負えますが、談慶氏は9年半かかったそうです。自信を持って臨んだ昇格試験も「まだ二つ目にはできねえ」という一言であっけなく落とされました。その間談志師匠から、「もうお前は来なくてもいい」とさじを投げられたこともありました。その後は通常15年を要する二つ目修行を5年で終え、2005年に真打昇進を果たしました。真打昇進のあいさつで立川談志師匠は次のように述べている。「こいつは俺がこっちに来いと言ってもあっちへ行ってしまう。ただ、回り道しながら私の基準を満たしました。すると、回り道がすべて芸の幅になるのです」「天才」「鬼才」「異端児」という異名を持つ談志師匠ですが、人を育てる名人でもあったようです。立川談慶氏曰く。私は数え切れない失敗を繰り返しましたが、その積み重ねが血肉となって今があります。失敗して怒られようとも、謝罪して次に生かせばいい。挑戦をあきらめてしまうことこそ、一番の失敗だということです。何より、私を見捨てず辛抱強く育ててくれた談志師匠には感謝してもしきれません。若い世代に伝えたいのは、希望をあたえてくれる「人生の師」を見つけること。そして師に出会ったら、とことん信じ抜いてほしい。信じれば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば必ず良い結果に繋がっていくんです。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 2025年1月号より引用)生活の発見会には優れた先輩がたくさんいます。集談会では見つからないと思っている人は、ZOOMの学習会に参加することです。視野を広げて学習会に参加していると必ず見つかるはずです。信頼できる人を見つけて、その人の生活ぶりを自分の生活の中に取り入れていきましょう。理屈はわからなくても素直に真似ている人は、神経症を克服できます。さらに森田的な生き方を見つけて自己肯定感を高めていきたいものです。
2025.05.13
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今日は次の事例から、不快な感情の取り扱いを考えてみました。彼氏と交際している女性が、デパートの前で待ち合わせをしていました。時間は過ぎているのに彼は一向にやってきません。メールをしてみましたが返信はありません。彼女は仕方ない。しばらく待ってみようと考えました。しかしなかなかやってきません。彼は約束を破るような人ではありません。何かトラブルにでも巻き込まれたのかなと心配になりました。待ち時間が30分を越えてきました。イライラし始めました。そのうち別のネガティブな感情が湧き上がってきました。メールの返信くらいはできるはずだ。何かあったのならメールして欲しい。私のメールを無視して返信してこないのは問題だ。ひょっとしたら私のことが嫌いになったのかもしれない。私は大事にされていないのではないか。他に好きな人が現れたのかもしれない。イライラが募って腹が立ってきました。こんな事なら交際を解消してしまおうか。こんなときイライラや怒りをどう鎮めていけばよいのかマインドフルネスの考え方で分析してみました。最初に何かトラブルにも巻き込まれたのではないかと心配されています。森田理論でいえば「純な心」の中で出てくる「初一念」ですね。相手の身の上を心配している感情が立ち上がっているのです。これは素直な感情です。しかし残念なことにその感情はしばらくすれば、初二念、初三念に置き換わってしまいます。そして、その後の彼氏の対応について不平不満が次から次へと湧き上がってきました。自分は愛されていないのではないかと不安になってきました。マインドフルネスではネガティブな感情にラべルを付けましょうと言っています。メールの返信くらいはできるはずだ。→「かくあるべしの押しつけ」私のメールを無視して返信してこないのは問題だ。許せない→怒り、他人否定ひょっとしたら私のことが嫌いになったのかもしれない。→不安、恐れ私は大事にされていないのではないか。→不安、恐れ他に好きな人が現れたのかもしれない。→不安、恐れ、自己否定イライラが募って腹が立ってきました。→怒り、不平不満次このネガティブな気持ちをアナウンサーになったつもりで実況中継してみましようと言われています。注意点としては、それを良いとか悪いとかの価値評価はしないことです。事実のみを実況中継することです。マインドブルネスは立ち上がってきたネガティブな感情に対して、リアルタイムかつ客観的に気付いていくことであると言われています。リアルタイムというのは即座に寄り添うということです。客観的というのは、ネガティブな感情と一体になって感じるというのではなく、距離や間を取って第三者の目で自己観察をするということです。つまりイライラしたら、「自分はイライラしている(していた)」と認め客観化することです。すると、一歩引いた視点から少し冷静になって現実を見ることができるようになります。その結果、「今、ここ」で不要なイライラなどのネガティブ思考を手離すことができるようになるのです。これは森田でいえば自覚(気づく)を深めていくということです。第三者的な立場に移動して、現実の自分、実際の自分、ネガティブな思考や感情に対して、評価などはしないで素直に見つめてその事実に気づいていくということです。私は彼はメールの返信くらいはできるはずだと思っている。私のメールを無視して返信してこないのは問題だ。許せないと思っている。ひょっとしたら私のことが嫌いになったのかもしれないと思っている。私は大事にされていないのではないかと思っている。他に好きな人が現れたのかもしれないと思っている。自分の感情を客観視して気づきを得ると、ネガティブな思考や感情は薄まり、衝動的な破れかぶれの行動に抑制力がかかると言われています。(マインドフルネスの教科書 藤井英雄 clover出版 参照)
2025.05.12
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森田先生のお話です。最近の神経質の患者で、珍しい症状は、自分で音響過敏と称するもので、家内が漬物をかむ音、縫物の針をしごく音などが、頭のなかにガーンと響くというのです。(森田全集 第5巻 547ページ)確かに漬物を口にすると噛む音がします。自分が食べているならともかく、相手が絶えず漬物を食べて音を出しているのはイライラします。その他、カレーを食べるとき金属のスプーンでガチャガチャと音を立てるのも気になります。スープを飲む時にズルズルと音が聞こえてくるのも気になります。社員旅行で大きないびきをかく人がいて眠れなかったという話も聞きます。夜食に豚骨ラーメンを食べた人がいて、その匂いが部屋にこもりたまらなかったという話も聞きました。公衆トイレに入っていてオナラの音が聞こえてくるとたちまち不快な気持ちになります。マンションは居間の近くにトイレがありますので要注意です。電車の中で大声で話をする人や携帯電話をかけている人もいます。電車の中で子どもが迷惑行為をしても、何も注意しない親もいます。コンサート会場でマナーモードにしていない人もいます。幼い子どもをコンサート会場に連れてきて、泣きわめいているのに外に連れ出さない人もいます。これらの不快な気持ち、イライラをどうすればよいのでしょうか。相手に対して・・・これらの不快行動に対して「マナーが悪い」「人への配慮が足りない」「無神経にもほどがある」「親のしつけはどうなっているのだ」と面と向かってあからさまに相手を非難する人はあまりいませんが、イヤな態度をとる人は多いようです。しかし、相手が素直に態度を改めてくれればよいのですがなかなかむずかしい。森田では他人の行動や感情はコントロールできないといいます。できる事は、その時の状況にもよりますが、「私メッセージ」の手法を使って、自分の気持ちや感情を伝えるぐらいです。その後で相手がどういう対応をするかは、相手の自由だという気持ちを持っておくことは必要になります。金属のスプーンですが木製のスプーンに替えることができれば問題は解消します。オナラの問題ですが、最近は水が流れる安価な擬音アイテムがありますのでこれを取り付ければすぐに問題は解決します。公衆トイレでは必須だと思います。感情の法則では、イライラするところにそのまま居ると、刺激を受けてますますイライラしますので一旦席を外すという方法もあります。自分に対して・・・不快な気持ちや感情を、無理やり抑えたり、排除しようとするのではなく、イライラする感情を認めることをお勧めしています。他人が出す不快な音に対して不快に感じることは、人間として自然な感情の動きです。「どうしてこんなことでイライラするのか」と自分の感情を否定したり、責めたりするのは間違いです。「ああ、私は今、この音を不快と感じているのだな」と、その感情を事実として受け取ることが肝心です。その時、自分の感情を客観的に見つめることができるもう一人の自分を作っておくことが大事になります。相棒、相談相手、アドバイザー、専用のアナウンサーのようなものです。私は専属アナウンサーと呼んでいます。すぐに現場に急行させて、今の私のネガティブな思考や感情を実況中継させているのです。自分が不快に感じていることに気づき、「ああ、私はいまこの音に不快を感じているのだな」と認めるのです。このときの注意点としては、不快感を「悪いもの」「取り除くべきもの」と価値判断しないようにすることです。
2025.05.11
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精神科医の野村総一郎氏のお話です。鬱病というのは心の病であるわけですが、罹るのは4つの要因がある。①劣等意識・・・自分は弱い、ダメ人間だなどと自己否定する。②被害者意識・・・自分は損をしている、被害を受けていると思って反抗的態度をとる。③完璧主義・完全主義・理想主義・・・「かくあるべし」が強く現実や事実を否定する。④執着主義・・・どうにもならない不安にいつまでもとらわれる。これらの問題の解決を「老子」の教えから考えてみたい。老子は「上善は水の若し」と言っている。(意訳)最高の存在とは水のようなものである。人が嫌がる「低いところ」へ流れ、そこに留まる性質がある。水というのは、やわらかく、弱い存在であるかのように思えるが、実際には岩をも砕く強さがある。水は、弱く、争わない存在であるが、結局は勝利を収める。中途半端に強くなろうとせず「水の若く」あえて弱さを選択するのも一つの方法である。水は下へ下へと流れる冴えない存在で、蒸気になったり氷になったりと姿かたちを変えて主体性のないようにも思えます。しかし、時には岩をも砕くほど荒々しい滝となる。水の弱さ、すなわち柔軟性があるからこそ、強固なものに打ち勝つことができる。そう捉えると、弱さこそが武器となっているのです。この世で生きている限り、自分の思い通りにいかないことが多い。それを思い通りにしようとしたり、自分のものにしようとすると、目的達成どころか、ほろびの道につながりかねない。(人間学を学ぶ月刊誌 致知 2019年9月号 要旨引用)水は自然に反旗を翻ることはしない。水は周囲の状況に応じて、水、氷、水蒸気といろんな姿に変化します。つまり我を押し通そうとはしていないということです。周囲の変化に自分の方を合わせようとする。相手にしてみれば、暖簾に腕押し状態になるので言い合いや喧嘩にならない。水の動きから学ぶことは多いようです。鬱になる人は、理想とは程遠い自分の存在や湧き上がってきた不快な感情を拒否・否定しています。観念中心の「かくあるべし」を自分にも、他人にも、自然にも押し付けているわけですから気が休まる時がありません。水のようにそれらをあるがままに受け入れて、本来なすべきことや興味や関心のあることなどに取り組むようにすれば葛藤や苦悩は随分少なくなります。水の動きを参考にして、人間関係をよくする方法を考えてみました。人間関係で勝ち負けをかけた争いごとに明け暮れている人はしんどいと思います。対人恐怖の人は、もともと他人が怖いという気持ちを持っています。仲間と集まって楽しく過ごすよりも、比較的単独行動をとっていることが多いと思います。そういう人がプライドをかけて、相手が上か自分が上か、相手に勝つか負けるかという態度を前面に出していると、しだいに孤立してしまいます。あなたがプライドをかけて嫌がらせをしている相手は、仲間たちに悪い噂を吹聴していることを忘れてはなりません。多くの仲間と情報共有をしながら反撃の機会をうかがっているのです。そしていずれ仲間を引き連れて、大挙して反撃をしてくるようになるのです。多勢に無勢、その結果がどうなるか、火を見るよりも明らかです。気に入らないことがあっても、争いごとを避けて、快く相手に勝ちを譲るという気持ちを持っておくと、人間関係が一挙に瓦解することはありません。
2025.05.10
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森田先生のお答えは明確です。熱のある時や疲労した時、仕事を休むべきか、無理をしても仕事に行くべきかと問うてはいけない。強行軍のときには、ヘトヘトになってもついていかねばならぬし、大地震の時には、大熱があっても、飛び出さなくてはならないという風に、周囲の状況によって、決してあらかじめ公式を持って定めておくことはできない。「くたぶれたときどうするか」ではない。その時々の自分の境遇に対するものに対して、目をとめる。私はこれを一般に、「見つめよ」といって教える。そのうちに、自然に自分の身体の状態に適応した精神活動が起こってくるのである。(森田全集 第5巻 575ページ要旨引用)熱が出た時や疲れがたまった時どのように対応すればよいのでしょうか。森田先生のお話をもとにしてさらに考えてみたいと思います。熱があるといっても様々なケースがあると思います。微熱から40度近くまで幅があります。実際には何度あるのか体温計で測らないと分かりません。また風邪でも一般的なものから、インフルエンザやおたふく風邪のように隔離が必要なものもあります。疲れたといっても気分的なものから、過労や寝不足まで幅が広い。栄養補給をして少し休憩をとれば回復できるものなのか。あるいは完全休養や即入院が必要なほどの疲労なのか。つまり熱がある・疲労しているといっても、ピンからキリまであるということです。その程度に応じて対応方法も違ってきます。これを軽い順から重い順に、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10段階あるとしましょう。少し仮眠をとれば回復するような疲労は、1か2です。コロナやインフルエンザで大熱が出て悪寒がするのは9か10です。これとは別に、今現在自分が抱えている仕事等の事情があります。自分が休んだ場合、何とか他の人で代替可能なものもあります。あるいは土曜・日曜日に振り換え出勤すれば済むものもあります。逆に自分が出勤して取り組まないと収拾がつきそうにない仕事もあります。緊急の仕事もあります。チームの誰かが欠けると支障が出る仕事もあります。仕事も軽い順から重い順に、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10段階あるとしましょう。対応方法は、その時その場で様々なケースが出てきます。対応方法を考えるときは、上記2つの面から考える必要があります。今の自分の身体の状況は1から10のどの段階に該当するのか。次に自分のかかえている仕事の状況は1から10のどの段階に該当するのか。例えば、熱や疲労具合が比較的軽微で(1~3くらい)、今日の仕事は少々の無理を押してでもやり通さなければならない(7~10)場合があります。こういう場合は、会社に出勤した方がよいということになります。逆に入院して絶対安静にしないと命にかかわるような大熱がある(7~10)、仕事は自分が休んでも滞るわけではない(1~3)という場合もあります。こういう場合は、病院で診察してもらい、仕事は休んだ方がよいということになります。この例は極端な場合です。自分の心身の状態と、周囲の状況との関係は千差万別です。この2つを踏まえて、その時その場で最も適切と思われる対応を選択して、行動に移していくことが肝心です。森田では主観的事実に対して、客観的事実があるといいます。両方を分析して判断する。折り合いをつけて妥協点を見つける作業が大切になるということだと思われます。いずれかに偏り、他方のことをまったく考慮しないというのは片手落ちになり、後々問題が出てきますので要注意です。
2025.05.09
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「なりきる」というのは2つの意味があります。一つは「ものそのものになりきる」という使われ方をされます。今取り組んでいることに神経を集中して一心不乱に向き合うということです。例えば、玄関の施錠をするとき、鍵がかかったかどうかを音で確認し、さらにドアノブを回して確かに閉まっていることを確認する。不安や雑念などのことを考えなからうわの空で確認してしまうと後からきちんと閉めたかどうか疑心暗鬼になります。自動車を運転しているときに、ETCカードやCDなどを探したり、スマホを操作したりすると危険運転になります。居眠り運転は重大事故につながります。法定速度の維持、一時停止線などの交通標識の確認、交差点での右折や左折、高速道路での追い越しの場合は、細心の注意が求められます。うわの空で自動車を運転することは、飲酒運転と同じようなものです。目の前の不安にいったんは真剣に向き合うという姿勢が欠かせないということだと思います。また不安は次々に湧き上がってくるわけですから、特段問題がなければ、すぐにその場を離れて、次の不安案件に移っていくようにしなければなりません。すぐに解決の見通しが立たない問題に対しては今後の課題として残し、いつまでもその場にとどまってはならないということになります。「来るものは拒まず、去るものは追わず」のような気持を持っておくということになります。さて、森田では「なりきる」という言葉は別の意味でも使われています。不安・恐怖・違和感・不快感をあるがままに受け入れるという意味です。苦痛・恐怖になりきるという事は、その苦痛をそのまま忍受する事であって、例えば今日の外来の一患者は、先日の診察で、いくら不眠でもさしつかえない。薬を飲んだり、眠る工夫をしたりしてはいけないという事を実行したために、不眠そのものになりきって、早速その晩は安眠できたという事であります。(森田全集 第5巻 113ページ)急に心悸亢進発作に襲われ、今にも心臓麻痺を起こしはせぬかという時には、当然いても立ってもいられない状態になり、恐ろしいのが人情の常である。その恐ろしい事を怖れるのが平常心である。もし人が、恐ろしいのを面白がったり、嬉しいのが悲しかったりすれば、それは狂人であり、平常心ではない。すなわち貴方は、その時の恐ろしさそのものになりきり、素直にこれを忍受して、いたずらに恐怖に勝とうとか、心を落着けようとかする事をやめさえすれば、そのまま真の平常心になって、心悸亢進発作もたちまち全治するようになる。(森田全集 第5巻 643ページ)ここで言うところの「なりきる」というのはハードルが高い。森田先生の言うようにできないから、神経症で苦しんでいるのだと反発したくなります。私は「なりきる」ことを身に着けようとするよりも、規則正しい生活習慣、ルーティンワークの確立に注力した方が効果があがると思います。ルーティンワークの中で、問題点や課題の気づきや発見、改善点、改良点などないかと魚の目・鷹の目で探していく。症状で苦しみながらも、これらに取り組んでいると、結果的に不安や恐怖を受け入れることができるようになります。
2025.05.08
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今治、夢スポーツ会長の岡田武史氏のお話です。感謝の心にはとても不思議な力がありますね。以前、人からあまりにも理不尽なことを言われて、今からその相手の所へ怒鳴り込んでいこうとしていた時に、僕のメンターである多摩大学大学院名誉教授の田坂広志先生からたまたま電話がかかってきましてね。事情を話したら、「あなたの気持ちはよく分かります。ただ、その方の部屋に入る前に『ありがとうございました』と頭を下げてから入ってください」っておっしゃったんです。それで、田坂先生のおっしゃる通りに、「ありがとうございました」と頭を下げてからドアを開けたら、あんなに僕をボロカスに言っていたその人が「悪かったな。俺が間違っていた」と言ってくれたんです。びっくりするくらい相手の態度が変わっていたんです。感謝の心さえ失わなければ運をつかみ損ねないと思います。僕は、以前坐禅のご指導をいただいたご住職から勧められて仏壇をつくり、毎朝お線香を立てて手を合わせるようにしています。そして前日のことを思い出して、「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べるんです。これをやるとものすごく運を掴めることを実感して、もう15年くらい続けています。(人間学を学ぶ月刊誌 致知4月号 32ページ)日常生活の中で腹が立つことはよく発生します。その怒りはどうすることもできません。でも、その怒りを抱えながら、必要な行動することは可能です。たとえば意地悪な姑に対して、心のなかではどんな嫌な感情を持っていても、外出した時に姑の好きなお菓子を買ってきて、「お留守番ありがとうございました。行列のできる美味しいおやつを買ってきました。おばあちゃんおひとつどうですか」ということはできます。岡田氏は感情と行動を別物として取り扱っておられます。これは「森田理論学習の要点」の「行動の原則」⑨に出てきます。水と油をいっしょに器に入れても混ざり合いません。「感情や気分」に振り回されて「行動」するとさまざまな問題が出てまいります。森田理論は「感情や気分」と「行動」を別物として取り扱う能力を身につけることを目指しています。感情や気分は主観的なものですが、森田では主観的事実はそのままにして、客観的事実をに基づいて行動していけば問題の発生を抑えることができるといいます。感謝ですが、岡田氏は毎朝仏壇に手を合わせてご先祖様に感謝されています。これは私の場合は夜実行しています。それと毎日日記を書いていますが、今日よかったこと、楽しかったこと、感動したことの他に「感謝したいこと」を一つは書くように心がけています。何も思い浮かばないときは、「当たり前のこと」に対して、「もしこれがなかったとしたら、どんなことになるだろう」と思うようにすると、自然感謝の気持ちが湧いてきます。今では普段の生活の中で感謝の言葉がたくさん出てくるようになりました。感謝するようになるとストレスがなくなり心が穏やかになります。
2025.05.07
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心がうわの空になると次のようなことを考え始めます。・過去の不祥事を思い出しては後悔や罪悪感で苦しみます。・はじめて挑戦する事は不安や恐怖で一杯になります。・他人が自分の考えているようにならない。あるいは他人が自分を攻撃してくると不平や不満で一杯になります。・境遇や運命が他人と比較して劣悪だと感じると悲観し恨みます。・自分の存在、容姿、能力、性格などを嫌ったり否定することがあります。これらについて、マインドフルネスで有名な精神科医の藤井英雄先生は、人間は元々放っておくとネガティブなことを考えるようにできているのだと言われています。ミスや失敗をして今よりもひどい目に遭わないようにリスク管理をしているのが人間の心の役割だと言われています。ポジティブ思考よりも、ネガティブ思考をより気にすることが多くなります。守りを固めないと、思わぬ事故や災害で命を落とす確率が高まるからです。だからネガティブ思考を否定する必要はない。むりやりポジティブ思考をしようと思っても無理がある。藤井先生は、そういうネガティブなことばかりを考えている状態は問題だと言われています。その状態は、心が「今ここ」を離れて「うわの空」になっているといいます。心は観念優先で情報収集に努め、現状を分析し、今までの経験や知識を総動員して検討を積み重ねて、今後の方針や対策を立てているのです。人間は大脳が高度に発達して言葉を使って様々に考えることができます。考えることはよい面も多いのですが、それ一辺倒に偏るとむしろ弊害が多くなる。また考えて実行したことがかならずしもその通りになるとは限りません。むしろ逆になる事が多い。葛藤や苦悩を抱えてのたうち回るようになるのです。この問題に対して、藤井先生はマインドフルネスの考え方を提唱されています。マインドフルネスとは、「今ここ」の現実や心身の状態や周囲の状況、想念(思考や感情)にリアルタイムかつ客観的に気付いていくことです。思考することをやめて「今ここ」をあるがままに感じればよいと言われています。そうすれば、考えることと感じることは同時にできませんので、心の中にネガティブな心配事が入り込む余地がなくなるのです。ブルース・リー主演の「燃えよゴラゴン」の中で「考えるな、感じろ」というセリフがありますが、まさにその事なのです。そしてネガティブな思考や感情を第三者的な立場から眺めることができるようになることがマインドフルネスなのです。
2025.05.06
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障害児が生まれた場合、それを受け入れることは難しくなります。みんなが元気な健常児を生んでいるなかで、どうして自分だけがこんな目に遭わないといけないのか。神さまはどうして私にこんな過酷な仕打ちをするのか。普通でないことは絶対に受け入れられない。世間体が悪い。戸籍が汚れる。うちの血筋にそんな人はいなかった。兄弟姉妹が結婚できなくなる。次第に現実に向き合うことができなくなり、現実否定をするようになる。運命を呪い、育てていく自信がないといって、祖父母に養育してもらう。施設に預けて養育放棄してしまう。面会も間隔があくようになる。介護について森田先生は次のように説明されている。お母さんが、急に病気でも起こった時には、これを捨てておく訳には行かないから、しかたなしに世話をする。例えば母親が腹が痛いときに、初めはうるさいと思いながらも世話をしている間に、ついその気につり込まれて、母が気の毒になり、自分もその痛みに同感して、ハラハラするようになる。(森田全集 第5巻 554ページ)自分も仕事を持っていて手一杯なのに、母親の介護も引き受けることは大変なことです。寝たきりになって下の世話までしなければならないとなると考えただけでもしり込みします。労力的にどうにもならない人は仕方ありませんが、ここで大切なことは、不快な感情を持ったまま母親に寄り添い、必要最低限の介護をしていくことです。母親と触れ合うことが大事になります。すると母親と自分との間に心の交流が生まれます。子供の頃の懐かしい思い出がよみがえり快の感情も湧き上がってくるでしょう。自分が病気になったときや困ったときに誠心誠意支えてくれたことなども思い出すでしょう。最初はイヤイヤしていた介護が当たり前の日常茶飯事となり、感情の交流が始まります。面倒だと思っていた介護がかけがいのない母親との触れ合いに変わってきます。最初から共感、受容の気持ちは湧き上がってはきません。共感や受容の気持ちは、介護の必要な人に寄り添い、世話をしているうちに自然に生まれてくるものです。ロジャーズは「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しくなるのだ」と言いましたが、愛情は実際に介護に取り組むことではぐくまれてきます。犬や猫を飼っている人は、かいがいしく世話をすることによって、家族同様の愛情を育てています。食べ物を与え、下の世話をしてやることで愛情が深まり、自分の癒しに繋がっていることがわかります。私はメダカを飼い、ベランダでアジサイなどの季節の花を育てています。アジサイは大きな葉を広げて6月に大きな花を咲かしてくれると思います。また田舎では自家用野菜の手入れに余念がありません。この連休は田舎に帰り、ミニトマト、ナス、ピーマン、シシトウ、カボチャの植え付けをしました。土つくり、黒マルチ張、風よけネット張り、ミニトマトの雨除けと二日がかりの作業となりました。今はタマネギやジャガイモが大きく成長しています。世話をする対象をいくつも持っていることは、精神の安定に大いに役立っていると思っています。
2025.05.05
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2025年1月号の生活の発見誌に「ヘルパーズ・プリンシプル」(助力者原理)の説明があった。「ヘルパーズ・プリンシプル」(助力者原理)というのは、援助する人が最も援助を受けるということです。神経症が治った先輩は、まだ治っていない後輩を指導・援助することで、深い洞察力が得られて、人間的に大きく成長できると言われています。ただし、ひとつ注意点があります。援助する人が最も援助を受けるのは、あくまで結果であり、それを目的として援助しても効果は出ないということです。(森田理論学習の要点 30ページ)どういう意味でしょうか。世話活動をするというのは尊いことですが、神経症を治すことを目的としている限り効果は上がらないということです。積極的に集談会運営の世話活動に取り組むと神経症は早く治ると言われることがあります。私の経験からすると、世話活動は苦労することも多いですが、それ以上に得られるものが多い。神経症が治るということもその一つです。これは症状ばかりに向いていた注意や意識が、多少なりとも世話活動にも向けらけるようになるということが大きいと思います。症状一辺倒だった状態から、注意や意識が外向きに変わってくるのです。注意や意識が外向きに変わってくると、症状の比率がどんどん下がってきます。100%、90%、80%、70%・・・。その下がった分が症状が治ったことになるのです。比重が下がるにしたがって行動や生活の悪循環が修正されてきます。ただし、いつまでも症状をなくすことを目的として世話活動をしていると、注意や意識が症状に向いたままになってしまうので、いつまでたっても症状から解放されないのです。こういう方は「現在になりきる」ようにすることが有効です。「現在になりきる」ためのとっておきの方法があります。それは人の為に何かをするという目的を、自分自身の目的に置き換えることです。集談会の世話活動をする場合、幹事さんから依頼されたことを仕方なしにイヤイヤこなしていくというのは苦痛です。苦痛なことは長続きしません。仮につづけたとしても雑になることが多くなります。これを、参加者にいかに喜んでもらうか、どの様に工夫すれば感謝してもらえるかという目標に置き換えていくのです。自分自身の目標になると、何とかしてその目標を達成したいと考えるようになります。やりがい生まれて、モチベーションが高まります。これは仕事でも同じことが言えます。仕事は本当はしたくないのだが、生活費を得るためにしなければならないものと考えると苦しいばかりです。お客様にいかに喜びを与えるかという目標に切り替えて仕事に取り組んでいる人は、仕事に取り組むことが楽しくなってきます。生きがいが持てるようになります。
2025.05.04
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森田先生のお話です。私は、以前に常に凡人主義という事を唱えた。その凡人の修養されて偉くなったのが偉人である。どうも目標は平凡がよい。平凡は円満完全であり奇抜欠陥ではない。これが私の精神病学から得た知識であります。芸術家でも森鴎外などは凡人の偉大なものかと思う。医学の研究も・軍医総監の事務も・文学・哲学にも精通した。素直であり・奇抜ではなく、耐えざる努力家であった。これに対して、天才は、ある局限した偏顔の発達であって、たとえば肉体的にいえば、非常に肥満したものが、見かけのように決して健康ではなくて、心臓麻痺にかかりやすいというようものです。ルソーは天才であって半狂人です。大杉栄なども、変人である。変人は物事が一途であり・無鉄砲である。政治家などでも、賄賂を取り、刑務所に行くほどの者は変人・天才の部類である。芸術家には、特に変人・天才が多いようである。恥を知らぬものが多い。東郷青児という天才画家は、某少将の令嬢と心中未遂をやったが、後に自分でそのことを大ぺらに発表している。ちょっと誤ると風俗壊乱になる。島田清次郎・芥川龍之介は、本物の早発性痴呆症であった。人の妻と心中した有島も、その作品を見て単純な思想の人だという事がわかる。(森田全集 第5巻 543から544ページ)森田先生は、神経質者は平凡を軽視しないでコツコツ努力精進していくほうがよいと言われています。平凡を10年、20年と積み重ねていくと、類まれな非凡な人になれると言われている。これに対して天才・奇人・変人と言われる人がいる。天才は一面的には、類まれな才能を発揮して、世間の人をあっと言わせるような芸術作品を作り出す。あるいは人間技とは思えないような身体能力を発揮して人々を驚かす。しかしこういう人を別の面から見ると、欲望の制御が効かなくて、社会的に多大な害を及ぼすような奇人・変人である。天才と言われるような人は秀逸と醜悪の両面を持ち合わせているのかもしれない。天才は本能の赴くまま、感情の赴くままに、自己中心的・反社会的な行動に歯止めをかけることができない場合がある。社会的にも非難中傷の対象となるが、本人も天才ゆえの生きづらさを抱えて苦しいのである。これは程度の差はあるが、神経質性格者にも言えることではないか。神経質性格者は、自己中心的で、感情の暴発を招きやすい。気分本位の行動をとりやすい。他人との付き合い方がよく分かっていない。人間関係のトラブルを招きやすい。その反面、強い好奇心を持っている。興味や関心の幅が広く、なんでも手を出す傾向がある。感受性・感性が豊かである。好きなことには労を惜しまない。分析力、探究心が強い。物事をより深く考えることができる。このような相反する2つの傾向があることを認めて自覚を深めていく。そのうえで奇人・変人と判断されるようなことを制御する方法を考える。不快な気分や感情が暴走しそうなところには近寄らないようにする。自分一人で制御できないのならば、制御力のある人と一緒に行動する。そのうえで神経質性格のプラス面を活かして努力精進を積み重ねていく。こういう方向を目指していけば、問題行動を抑制することができるのではないでしょうか。
2025.05.03
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森田先生が形外会で次のような話をされています。香取さんが、(森田先生が「誰か一緒に自動車に乗らないか」と言われた時)いきなり自動車に飛び乗る気合は、「まかす」という心である。「先生が自分等に対して、言われることに、悪い事のあろうはずはない」というみきりをつける心である。「まかす心」と、「お使い根性」や「盲従」とは、全く似て非なるものである。「まかす」とは、消極的に言えば捨身になる事で、積極的にいえば、頼って恩恵を受け取る事であって、一つ事の両面の見方です。香取さんがいきなり自動車に飛び乗ったのは、捨身と同時に恩を受ける事です。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様にまかせる事である。南無とは、帰命と訳する事で、命のままに、一切をまかせるという事です。(森田全集 第5巻 538ページ)この話から、「盲従」「お使い根性」「まかす」の違いについて考えてみたいと思います。盲従・・・先生や教祖様の教えや指示を何の疑いもなく信じて従うことである。この場合、悪意をもった先生や教祖様であった場合、洗脳されてしまう。服従することを強要されて、財産を没収され心の自由を奪われてします。自分の感情や意志や欲望を抑圧しているうちに、意欲が出なくなり、ただひたすら先生や教祖様に奉仕するようになる。自我の喪失につながるのです。自分が先生や教祖様に心身ともにコントロールされているという事が分からなくなると悲惨である。見た目は人間なのに、犬や猫と何ら変わらないという事になります。お使い根治・・・先生の言いつけや指示を無視したり断ったりすると、あとで小言を言われたり、しかりつけられるかもしれない。自分の方から主体的に行動するのではなく、先生の機嫌を害さないように、最低限の役割を果しておこうという態度である。この場合注意や意識は物事にあるのではなく、先生が自分をどう評価するかにある。「よくやった。ありがとう」といわれれば、先生の信頼感を得ることができたと言って喜ぶ。反対に、「それでは不十分だ」といわれれば、先生の機嫌を損ねてしまった。これから先、先生が自分に目をかけてくれることはないかも知れないなどと考える。肝心の物事の出来栄えは、蚊帳の外になりがちである。先生の反応ばかり考えて、依頼されたことを間に合わせ程度にやっているので、相手が喜ぶようなことにはならない。注意や意識が物事本位になっていないので、先生から小言を言われれば、せっかく指示通り動いたのに、小言を言われるのは不本意だなど憤慨してしまう。まかす・・・これは「素直さ」と親和性がある。疑問や違和感は大いにあるが、とりあえず長い歴史と実績を持っている森田理論のいう通りに実行してみようという事でよいのです。その時に、森田理論の考え方に納得がいかなくても異論があっても構わない。そもそも精神療法に個人の名前を付けていること自体がおかしいと思ってもよい。森田療法はどうも宗教のにおいがする。洗脳されたら大変だでもよい。しかしその一方で、森田は100年以上続いて精神療法としての認知度もある。さらに自助組織もあるから見捨ててしまうには惜しい気がする。森田理論で言われていることがはたして正しいのか、間違っているのか試に実行して真偽のほどを検証してみよう。こういう態度で、森田理論の指導に従うことを「まかす」というのです。森田先生が昆虫が触角をピリピリさせて四方八方に神経を張り巡らせているように、「ハラハラドキドキ」して緊張感を持って生活しなさいと言われています。そういえば、自動車の運転をしている時はまさにハラハラドキドキしている。日常生活もそのような心がけで取り組んでいけばよいのか。早速実行してみよう。こういう人は、森田先生の考え方をとり入れ、症状を克服して、神経質性格を活かしてどんどん成長していく。武芸で、「守・離・破」というのがあるが、「守」は先生の指導は納得できない、ついていけないと思いながら、実績のある先生の指導に素直に寄り添っていくことである。「まかす」ことができる人は、ひとつの優れた能力を身に着けているということになります。
2025.05.02
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3月号の生活の発見誌の巻頭言に「臨機応変」の話がありました。この方は教師で、生徒の様子や反応に合わせて、即興で教え方を変えたり、順番を変えたりして授業を行っている。生徒は一人一人違うし、同じ生徒でも日々変化しています。そんな生徒の様子を観察しながら、やり方を変える余裕と技術が身についてきつつあると言われています。以前は、授業案を作って授業をやり、その通りにできないと落ち込んでいたそうです。頭の中でシミュレーションを行って授業に臨んでいたのですが、予定通りに進行しないのでいつも不満が残りイライラされていたようです。臨機応変というのは、意識して、その時、その場の変化に対応するということだと思います。自分の意志や意向を前面に押し出すのではありません。目の前の変化を読み取り、その変化に合わせて乗っていくということです。その時注意や意識は絶えず外向化しています。内向化は起こりません。森田理論でいう無所住心の状態です。あれも気になる、これも気になるという状態ですので、精神は「ハラハラドキドキ」緊張状態にあります。これはサーフィンに例えると分かりやすい。サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。並はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば、すばらしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。スノーボードやスキーは立ち止まることができますが、サーフィンでは立ち止まろうとすれば、すぐに波に飲み込まれてしまいます。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページ参照)神経症に陥ると、ひとつの不安や症状にとらわれて、ずっとその場に留まってしまいます。すると注意や意識が内向化して、観念上、行動の悪循環が始まります。仕事や日常茶飯事を放りだして、ひたすら不安や症状と格闘するようになります。精神交互作用のことです。最悪の場合は、アリ地獄の底に落ちてしまうのです。自動車を運転しているときは、誰でも周囲の状況を確認して、事故が起きないように細心の注意を払っています。普段の生活も昆虫が触角をピリピリと動かして、四方八方に注意や意識を張り巡らせているように心がければよいという事になります。
2025.05.01
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