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ノラ猫物語り 2さて、どうしたか。人づてでノラ猫防止協会というのがあるよ、と聞いたので早速神奈川支部というのに電話したら、親切に対応してくれた。というより猫博士と尊称したいほどのおばさまからノラ猫の心理まで深く洞察した種々のアドバイスを頂いた。まず、近くの動物病院から猫捕り用の檻を借りなさい。それに餌をしかけて捕りなさいと教えられた。早速数か所の動物病院に電話したが、どこも満足できるものはもっていなかった。困ってまた、防止協会にかけたら、今三鷹の人に猫捕り器を貸しているから、その方に電話して用済みなら回してもらいなさいとの返事。三鷹の方と京王線の駅で待ち合わせた。すごく猫好きの人で仔猫3匹を含め、7匹も飼っているという。仔猫の親がどうしても捕まらない。親子一緒にしたいからぜひ捕りたいのだという。しかし、なかなか成功しないから、とりあえず先に貸します、というので、ちょっと大型のネズミ捕り器のようなものを借り受けた。くだんの防止協会のおばさまに報告すると、「餌は気張って鳥の空揚げにしなさい」と綿密詳細なアドバイス。それで早速、から揚げをセットし、いつもやってくる外猫に仕掛けたらものの1分で捕まった。奥の餌をとろうとして奥まで来る間に仕掛けを踏んでしまうから、自動的に入口がバチンとしまってしまう構造である。予行演習は終わったのでいよいよ本番である。鳥の空揚げの大部分は人間が食べ、残りを新兵器に仕掛けて現場に行った。ものものしい外観は警戒されるので周りを新聞紙で囲んでおいた。イケメンが出てきた。なんとなく不審そうににおいをかいでいる。なかなか入らない。じっと待つ。イケメンが首を突っ込む。手に汗をにぎる。首を引っ込める。それから檻の周りを回る。クンクンとにおいをかいでいる。ものすごく周到なやつだ。やはり不審をいだいたのか、悠々と去っていった。こういうことを3回ほどくりかえした。防止協会のおばさまは「あきらめないでやりなさい」。でも、もう駄目だ、世の中には賢い猫がいるものだ、これでやめよう、と観念した。すると、家内が、うんとおなかがすいているときを狙ったら、ユウチャンは入るかもしれないわよ、という。家内は遊歩道にいるからユウチャンという簡単にしていいかげんな命名までしていた。とうとう最後のかけでもう一度やった。鳥の空揚げも特別大きいものを付けた。とうとう11月の中旬、檻の中に入ったユウチャンを我が家に連れてくることに成功した。
2008/04/30
連休に入ったのですこし楽しくノラ猫物語りを一席。一昨年暮れ、7年も飼っていた雄猫がとうとう帰ってこなくなったので、我が家はしばらく猫なしだった。我が家はもう35、6年も連続、猫ありだった。やはりいなくなると、淋しい。また飼いたくなった。なぜ猫が好きかというと、理由は簡単。犬だと散歩に連れていかねばならないから。それがプレッシャーになるから。いつも近くの健康センターに行く時、遊歩道を通るが、そこの定位置の植え込みの中にすごくイケメンのふじ猫が陣取っていた。グレイのとら縞に腹が白いやつ。一度餌をやったら、かならず期待して待っている。大きなオスの成猫である。ノラ猫にしてはもったいないほどの気品と器量がある。こちらも情が移ってしまった。よし、あいつを我が家に連れてこようと決めたのである。何度か餌をやって馴らしたところで、捕まえたところ、猛烈に暴れて爪をむき出し、手をかきむしられた。あっという間に逃げられてしまった。さあ、それからいかにして連れ帰るかの作戦だった。まず考えたことは、ダンボールにすばやく入れて強力粘着力のガムテープでふたを閉じる作戦。しかし、いざダンボールを持っていくと、敵は完全に警戒した。わが身の運命にかかわる異常事態と思ったのであろう。近寄ってこない。遠くから見ているだけである。それでそれはあきらめて、しばらく馴らすことにした。ダンボールなしだと、やっこさんはやってくる。食べることに夢中になっているときは、体を触っても逃げない。そこで、考えた。ダンボールはあまりにも幼稚な作戦だと。馬鹿でなければ、一目見ればわかるじゃないかと。そこで次の作戦は、ひそかに麻袋を胸に隠し持って食べているときに、捕まえて袋に放り込む。すぐ袋の口を閉じる。その早技は約5秒でやる。こう考えて早速実践した。やはりだめだった。オーバーの胸から袋を取り出す瞬間に、さっと逃げられた。動物の早技には人間はやはりかなわないのである。これならいけるだろうと考えたことがあっさり失敗したのである。
2008/04/29
もどってきた知的生産の技術ブーム昨日4月24日、赤坂見附の永楽倶楽部で松竹のプロジューサーである小山龍介氏の「スタディ・ハック」のセミナーを開いた。あつまった人は35人。小山氏のセミナーは教室式講演の枠をとりはらって、いきなり知的情報ゲームを展開、まず自分のタイプを脳のどの分野の使用を重視する4つのタイプの中から選択する。Aは理論を重視するタイプ、Bは組織などのマネジメントをキチッとやる実務はタイプ、Cは人情家というか、人間的な側面が豊かなタイプ・Dはリスクをとってでもつっぱしる冒険家タイプ。最初のゲームはA-C、B-Dというように自分の反対のタイプの人と向き合って話し合い、それだけコミュニケーションは効率的、効果的に行われたか、をたしかめる実験だった。それから自分がもっているもの、自分がもっていないものをどれだけたくさんあげられるか、脳の回転度の実験、最後はアイデアをどれだけ出せるかのゲームだった。全体の研修の目的はいかに効率よく、また効果的に上げられるかということに意識を傾ける、脳をつかいなさい、というものと受け取った。その後、パーティになり、二十数人が参加。若い人たちとの話し合いは実に楽しく、こんな嬉しい夜はなかった。私は今は後期高齢者だが、知研を始めたのが38歳、その夜発見したのは37年前の私や当時の知的生産の技術ブームにのめりこんだ同じ考え方の仲間たちと寸分変わらぬ若い人たちの姿だった。この人たちが手にしている本は、小山氏の本や勝間氏の本。あのころは梅棹忠夫の「知的生産の技術」や川喜田二郎の「発想法」、加藤秀俊の「整理学」だった。もっている本がちがうだけで、考えていることは同じだ。昔、私たちがのめっていたことを話したら、みなとても好奇心にあふれて聞いてくれた。40年ちかい歳月をへだてて、いま“知的生産の技術”がもどってきたのだ!お帰りなさい!知的生産の技術!
2008/04/25
チベットがきなくさくなってきた。相当に大きな騒乱であったようだが、これほどの争乱はオリンピックにタイミングをあわせて相当に準備しないとできないであろう。チベット人の漢族支配に対する暴動なのか、独立を求めた組織的な争乱なのか、暴力を先に使っている方がどちらか、映像をよく分析しないとわからない。国境なき記者団というのは、この争乱に最初から関与したのか、後からのったのか、それもよくわからない。この団体はパリに本拠を置き、事務局長はロベール・メナールという元ラジオ局記者である。不当に拘禁されたジャーナリストの解放救援活動を目的としている団体であるという。また世界各国の報道の自由度をランク付けして毎年発表している。何が基準かよくわからないが、ちなみに日本は37位、イギリス24位、フランス31位、アメリカ48位で、どん尻の方は、保守的な王制の国、軍事政権の国、共産圏系の国で、ロシア144、中国163、北朝鮮168である。この団体は、北アメリカ、ヨーロッパの政府から援助を受けている。フランス政府からは5%、民間団体からも広くもらっている。全米民主主義基金、ソロス財団などの名もあがっている。はたして純粋に言論の自由を求めて活動している団体なのかどうか。本人は純粋に正義感でやっているのかもしれないが、おおきな政略の手のひらにのせられているかもしれないではないか。私は眉に唾をつけてみることにしている。というのは、冷戦はまだ継続しており、ロシア圏からウクライナ、グルジア、キルギス、ウスベキスタン、ベラルーシなどを引きはなす謀略戦が3勝2敗くらいでおこされてきたのが、今度はいよいよ中国のチベットで始まったのかともとれるからである。ダライ・ラマ亡命政権は60年もインドにあり、このような状態は外部勢力の後押しをうけて争乱の発火点になりやすい。中国は彼をチベットに帰したほうが国家の安全になるのではないか。国境なき記者団はこれ以上騒ぎを拡大するのはやめてもらいたい。一定の効果をあげたのなら撃ち方をやめよ。中国人13億の民族主義に火をつけたら、地球規模の動乱になり収集困難になるからだ。中東の争乱どころではない。世界の人が楽しみにしているオリンピックを早く平静に返してほしい!
2008/04/22
今、後期高齢者の医療費負担が問題になっている。調べてみると、国全体の年間医療費は約31兆円、このうちの3割が政府支出で約10.3兆円、この内の約半分が65歳以上の高齢者向け支出で、そのうち75歳以上は約3兆円かかっている。これを減らすために75歳以上の高齢者に1割の1.1兆円払ってもらうということになったのだ。この政策を立案した人は、お金のない時代になったのだから、後期高齢者にも1割くらい払ってもらってもいいじゃないか、と考えたのであろう。だが、世論は、後期高齢者からまで取らなくても、しかも年金から天引きしなくてもいいじゃあないか、というふうに反発している。年金が月に6万とか8万しか入らない人にとっては、また病気が多い人にとっては、大変これは打撃だろう。しかも年金から天引きされることになったので、命綱が突然細くなった思いであろう。じわりと孤独感が深まり、肌えに粟がたつ恐怖感を味わうというのはこのことである。1.1兆円というお金は、考えようでは大した金額ではない。国民は、かつては得ていた預金利子を一方的に取り上げられてしまったのである。それはこの何倍かに当たるであろう。もし厚労省の予算がなくなれば、どこかよその省庁で余り気味の予算をかき集めてくればよいだけである。かならずあるだろうと思う。しかし、それができない。どこの省庁も自分のところはぎりぎりだと言って拒否する。つまり省庁のタテ割り制が阻んでいる。各省庁の予算が明細項目にわたってほんとうにそれでいいのかということがオープンに査定されたことは一度もない。官僚同士がやっているだけだから、国民は知るすべがない。こういう縦割り制度を御破算にして、オープンな査定制度をデザインし直して無駄をはぶき、きれいごとの言葉で国民の目を騙しているようなことをやめさせて、国民が誰でもこれはいいな、仕方がないな、と思うような予算配分にすることが、今後の内閣の仕事である。
2008/04/20
多摩大学リレー講座に参加する昨日は多摩大学リレー講座第1回の寺島実郎氏講演を聞く。何度も同じ内容の講演を聞いたが、世界の定点観測にもとづいて自分で実地に見聞したり、豊富な人脈からの一次情報に基づくものだけに、実に説得力がある。この内容は4月末に発行する知研フォーラム301号にも2月の当会講演記録で発表する。この講座に社会人の参加が多かったことに驚いた。280名の応募を断りきれず150名に絞ったそうだが、大講堂の前半分は社会人で埋まり、後ろ半分が多摩大新入生であった。次回は当会の理事長久恒啓一氏の講演であるが、寺島氏の業績を図解題材に用いて行うという。多摩市の丘陵部にある陸の孤島のような多摩大が寺島氏を学長に迎えることによって、東京の西の知の拠点になるであろう。 寺島氏が最後に多摩大新入生に言った言葉が印象に残った。「平成生まれの人たちは、やがて人生の活動舞台がユーラシア大陸になると思いなさい」。国全体が島である国は世界でもそれほど多くない。日本、インドネシア、フィリピン、イギリス、オーストラリア、アイスランドなどである。このような国は閉鎖的になるか、外に向って広がるかであるが、外に向って広がった国はイギリスだけである。相変わらず、日本の雑誌には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの話が繰り返される。何百年も前の内乱の話しかないのかと思う。去年、私はイスラム研究をいささかやったおかげで、今まで自分にとってブラックボックスだった中東のことがわかるようになった。同時に垣間見たのは、世界のすさまじい外交のかけひきであった。北朝鮮のアメリカを手玉にとるようなすさまじい外交はイランでもイラクでもイスラエルでも、サウジアラビアでさえも常にやっているのにくらべ、わが日本はなんと大人しい優等生かと思う。つまり、動かないのである。日本人がこのごろ二言目には言う「日本には希望がない」「閉塞感で満たされている」「日本はアメリカの51番目の州か」「このままでは日本はダメになる」などの日本ダメ症候群のオンパレードであるが、日本人がこう思うようになったのは、一種の陰謀のしわざではないか、と思う。一言でいえば、今の自民党、官僚支配の長く続いた枠組みがもたらしたもので、大新聞の論説マンや評論家たちもこの閉塞の枠組みにとらわれて、道路特定財源がどうの、民主党が話し合いにのらないから悪いだの、などの応酬、政争が行われているが、こういうことはすべて予算のとりあい、権力争いの一過性の話であって、大新聞の社説などがその日暮らしのことをいちいち取り合う必要はない。「ただいま、政争中ですから、いちいち論評しません、国民がよく考えて選挙で決めましょう」で、国民によくわかるような正しい解説につとめればいいわけである。現在の枠組みから離れれば、日本ダメ症候群は霧がはれるようになるはずである。
2008/04/18
さて、これまでるるイランのことを書いてきたのは、この国の存在が中東の未来を大きく変えるだろうと思うからである。イランはロシアの相似形のような国で、国民の自尊の強さ、欧米に対する疑い深さ、執念深さは北朝鮮と瓜二つである。一度犯された者の怨念は簡単には消え去らず、国民がこれほど反米主義に凝り固まった国は珍しい。国民の85%シーア派である。レバノンのシーア派ヒズボラ、シリアのシーア派を援助して、イスラエルに対抗している。イラクや湾岸諸国にいるシーア派は固まったところに居住しており、貧苦層が多いから、イランからの軍事援助でいつ火種になるかわからない。イラクの新政府は選挙の結果、シーア派が主導するようになったから、スンニ派の武装組織と内戦状態の泥沼になっている。アラブはイランが出てくることをおそれ、警戒している。一方、サウジアラビア政府から締め出されているワーッハーブ派のイスラム原理主義者が今後、同じイスラム原理主義のイランとどう対決するか、あるいは折り合いをつけるか、予測できない。はっきり言えることは戦後60年のアメリカの中東政策は完全に失敗したということだ。冷戦という構図に振り回され、中東の軍事政権と組みながら、一方で人権とか民主主義を売り物にし、CIAという不透明な組織を使う謀略とマキアベリズムは長い目でみれば、信用されなくなる。中東全体でこれほど反米感情が強まったことで、その主な原因となってきたイスラエルへの過剰な思い入れと軍事援助はできなくなるであろう。イランはイスラエルを標的とした原爆搭載ミサイルの配備をイスラエルの核装備に対抗することを理由にあげている。2015年ころまでにまでにアメリカの一極支配が終わって、あたらしい国際構図ができることが、中東からみえてきたように思える。
2008/04/13
アメリカの強硬派ブレジンスキーはイランでクーデターを起こして、シャーの王制を打倒し、軍事政権の設立も辞さないかまえでいたときに、イラン全土で革命運動が高潮し、900万人がデモに参加、王政打倒を叫んだ。軍隊も分裂し、地方都市で反乱が起こり、行政機関が占領された。ブレジンスキーら強硬派はシャーに断固弾圧を命じたが、シャーは1979年1月16日、アメリカに脱出する。イランの革命は左翼と連携した形で、イラクに亡命して、そこからイスラムネットワークを通じて聖職者組織を動かしていたホメイニが指導し、やがて左翼を排除して革命の主導権を得る。1979年11月4日、300人を超えるイスラム主義者の学生がアメリカ大使館に押し入り、66人の外交官と海兵隊員を人質にとって籠城する。彼らは53年のモサデグを追い出したアメリカの陰謀を憎んでおり、今回もアメリカがシャーと組んで革命を弾圧するにちがいないと信じてとった行動であった。彼らは大使館内でシュレッダーにかけられた秘密連絡文書を根気よくつなぎ合わせて、アメリカのイラン介入の実態を完全に証明したと宣言した。この人質籠城はなんと440日におよぶ。アメリカはイランと国交を断絶し、アメリカにおけるイラン資産を凍結し、イラン石油の輸出を封鎖する対抗措置をとった。さらに陸軍のデルタ部隊を8機の海軍のヘリに乗せてイラン国内に潜入させ、一気に大使館を急襲して人質を救出する作戦を立てた。しかし、3機のヘリが故障で動かず、ついにこの作戦を断念した。この年はソ連がアフガニスタンに侵攻し、情勢が複雑化する。そ後どうなったかであるが、実にタイミングよく翌年の80年9月にイラン・イラク戦争が勃発する。これにアメリカの工作があったかどうかは不明である。イラクのサダム・フセインは従来からイランとの間でシャト・アル・アラブ川のどこに国境線をひくかの国境紛争があり、(両国の間を流れる川の中心部を国境とすると、最深部がイラン側に寄っているので、タンカーがイラン側に接岸しやすくなる)この問題を解決し、同時にイランの石油産地フーゼスタン州を奪取したいと思っていたので、イラン内部が革命でごちゃごちゃになって軍隊自体が分裂しているこの好機をとらえたとされている。ホメイニはついにイラクとアメリカの二正面戦争を避けるために、人質を解放する。アメリカはイランが中国から大型の対艦ミサイルを購入して配備すると、キッシンジャーは足しげくシャトル外交を展開してイラくに軍事援助をつぎ込む。とどのつまり、この戦争は八年もつづき、両国は疲れ果てて、イランの負けの形で収束する。イラクのフセインはアメリカから得た膨大な軍需品ジャブジャブになり、軍事強国化し、やがて中東における脅威となってくる。(つづく)
2008/04/11
アメリカの虎の尾を踏んだシャー 反米大国イランケネディ時代、イラン政府はアミニが首班となって近代化政策を行う。これが中東でアスラエルとならんでイランが最も近代化を行った国と言われる所以である。ジョンソン、ニクソンの時代はアメリカはベトナム戦争を抱えていてイランの内政にまで強く介入せず、シャーの軍事国家化にほっするままに任せていた。シャーは政治基盤を強化するために、農地改革をすすめて、地主階級および土地所有者の多い聖職者階級と対立する。しかし、地主が農業プランテーション化した場合は農地改革の対象外にしたため、地主勢力は温存する。シャーは世界第3の軍事大国化を夢見て、アメリカから続々新兵器を購入するが、アメリカが最新兵器の輸出を制限し、軍事援助を大幅に削減すると、シャーは怒って石油収入でアメリカ以外の各国、イスラエル、ソ連からさえも兵器を購入する。1963年のイランの石油収入は3億7千2百万ドルだったのが、60年代末には8億ドルに激増し、経済も年率10%で好調であった。1968年、イギリスが中東からすべて撤退すると、その穴埋めをシャーが湾岸の憲兵としてふるまう。1973年、第4次中東戦争でアラブ側は大敗するが、サウジアラビアがリードしてオペック諸国がイスラエル側に立つ先進諸国に石油の禁輸、減産を実施して石油価格をバレルあたり3.10ドルから5.12ドルに値上げを行った。この結果、世界中でオイルショックが起きた。これは後進国が先進国を経済封鎖して困らせた歴史上はじめてのできごとであった。当前、アメリカ軍はサウジアラビアの石油施設を爆撃して報復する案が浮上したが、サウジ側はその前に自ら石油施設を爆破すると脅かしたので、沙汰やみになった。イランのシャーはアメリカ企業を含む石油コンソーシアムを接収するとぶち上げた。1973年のオペック会議でシャーはさらに石油価格を11.65ドルに値上げする動議を出し、成立した。1975年にはイランの石油収入は178億ドルに上昇し、4年前の20倍になった。この結果、アメリカのドルの流出が激しくなり、これを取り戻すためにアメリカは兵器をシャーの欲するままに売却して還流させた。1972年から75年にかけ、アメリカのイランに対する兵器売却は160億ドル以上になり、アメリカの総兵器売却額の半分以上を占めるに至った。このようにして、シャーのアメリカに対する立場は逆転して強くなり、これが遂に分水嶺を超え、カーター政権になると、ブレジンスキー国家安全保障委員会はシャーの打倒を画策し始める。シャーがアメリカの虎の尾を踏んだのである。(つづく)
2008/04/08
ケネディとかみ合わなかったイラン同じイスラム教でもイランとサウジアラビアは両極端というか、まったく異質な存在であることがわかってきた。シーア派とスンニ派のいがみ合いということの背後にはイラン(すなわちペルシア)とアラブのぶつかりあいというものがあるから複雑である。同じ中東でもイランは議会制度、法による支配、経済の近代化、女性の解放度などはアラブ諸国より進んでいると多くの人が言っている。さて、1960年にアメリカでケネディ政権ができると、対イラン政策が変わってきた。ケネディの特色は軍事援助を減らして、それよりも相当な金をつぎ込んでインフラを整備させ、経済発展、社会開発、政治改革をおしすすめ、アメリカの十八番である民主化をさせようとした。しかも上から強圧的に。ケネディが引っ張り上げて、これをやったのがモサデグ政権の財務相をつとめた改革派のアミニであった。アメリカが日本でやった改革でいちばん成功したのが、農地改革であった。これで日本の農民はいっぺんに豊かになった。これは戦勝国の強権だからできたと思う。ところが、アメリカが50年も支配したフィリピンでは、アメリカは地主制度には手をつけなかった。だからいまでもフィリピン人は貧乏である。ケネディはイランで農地改革を徹底的にやろうとしたらしい。ところが、地主のかなりの多くが聖職者をかねており、この1点で反発に火をつけ、ケネディのやることはアメリカの陰謀、なにもかも悪いということになってしまった。軍事援助を減らされたシャーはアミニと対立し、内乱状態がおこり、ついにアミニは失脚、ケネディはアメリカで暗殺されてジョンソン政権に移行する。ケネディ=アミニ時代が終わり、またシャーの専制的時代にもどったが、シャーは白色革命といわれる上からの改革を進める。シャーは農地改革が農民の支持を受けていたので、彼らを支持基盤にして農地改革をさらに進めて地主階級と対立する。シャーの改革は項目から見る限り、女性に参政権を与えたりして、決して悪いものに思われないが、権力闘争というものは外からうかがいしれないものである。ジョンソン政権はベトナム戦争のため、イランまで手が回らず、次のニクソン政権でやっとベトナムから解放される。この頃になるとイランの石油収入は膨大になり、ニクソン政権はシャーとサウジの政府を2本の柱として、冷戦に備えさせ、ジャブジャブ自分の金を使わせて兵器を買わせ、シャーは湾岸の憲兵とおだてられ、世界で三番目の軍事大国化を夢見る。石油収入で国家予算がものすごい黒字になったときの混乱というものは日本では想像できないが、管理能力がないとものすごいインフレになるらしい。こうしてシャーの政権基盤であった農民や労働者、中産階級も離れ、反シャー革命がおこり、ホメイニが出てくる。(つづく)
2008/04/06
一度凌辱された国民の怨念は変わらず―イランイギリスの横暴に困りぬいたイランのモサデグがイラン石油国有化を図り、最初はアメリカを信頼して調停をたのんでいたが、その公正な顔をしていた調停人がCIAを使って謀略に乗り出し、イギリスとつるんで国民的な英雄モサデグ失脚のクーデターを起こしたのはイラン国民に抜けがたい不信感を与えた。ソ連との冷戦という枠組みにとらわれたアメリカは、自らの描いた観念に一図にふりまわされる。アイゼンハウアー政権とソ連に対する恐怖に凝り固まったシャー(王様)はこの点で一致する。それでアイゼンハウアー政権はイランのシャーに全面肩入れする。シャー政府の要求する石油50:50利益配分を認め、イギリスの石油会社に賠償まで払うかわりにアメリカの石油会社にイラン石油の開発に参入させる。この鉱区の開発権利の売却と増え始めた石油生産で64年には最初の9千万ドルから4億8千2百ドルまで急増した。こういう金は主に何に使ったかというと、開発計画と武器の購入である。シャーは強敵ソ連にそなえるためにアメリカの最新鋭の武器をつぎつぎに買い、核兵器まで欲しがった。アメリカの方針は中東の反共2カ国であるイランとサウジアラビアを2本の柱として、アラブナショナリズムを燃え立たせてソ連と結ぼうとするエジプト、イラク、シリアを抑えるため、50年代の終わりまで総額6億1千万ドルの援助をイランに与えるが、このうち5億ドルは軍事援助である。シャーが買う武器とアメリカの軍事援助はすべてアメリカの軍産企業から買うから、サウジの買う武器を含めて軍産企業は莫大な収入になった。シャーはアメリカの勧告を受けて近代化を進め、女性の頭からスカーフを取り除かせるが、農業革命は不完全に終わる。大土地所有者の土地には手をつけられず、小農に分配された土地も小さすぎるために農民の生活を改善するまでにいたらない。やがて過剰支出のために国庫は赤字に転落し、紙幣を増発してインフレになり、IMFが3千5百万ドルを出して救済する代わりに厳重な緊縮財政を求めた。この結果、暴動が起きて政府は窮地に陥る。イラン国民はこうなったのもシャーを後押ししたアメリカのせいだと反米主義が高まる。(つづく)
2008/04/01
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