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昨日綴った、結束力について・・・早速、裏切られてしまいました。レギュラーのひとりが、学校の階段で自爆。足首を怪我をしてしまった様です。全治2週間。大事に至らず良かったと思いました。しかし、安堵の後に、怒りが込み上げて来ました。先日、団体戦の責任の重さを話して聞かせたばかりなのに・・・もし、試合は間近だったら、どの様なことになっていたのか怪我をしたことで、休むことなく稽古に来るようにお父さんへ依頼しました。しかし、来たのは稽古の途中で、私服のままでした。私は、このお父さんは、話せば判る方と信じていますので敢えて厳しく綴ります。まず、怪我をしたことの責任を重さを充分に息子さんへ理解させ反省させて下さい責任の重さを理解出来たなら、決して稽古を休まさせないで下さい見学ではありません。柔道衣に着替えさせて、仲間と同じ畳に立たせて下さい足が痛いメニューをする必要はありません。しかし、一緒に稽古したと言う実感を息子さん本人と仲間で共有させて下さいこれにより、仲間との結束力は、最低限、保てると思います。5人のレギュラーに補欠2人を加えた7人で、結束力を高めれば、絶対にクラブ全体に良い波及効果が現れると信じています。クラブを更に躍進するための大切な取り組みだと思っています。私は、真剣です。それでも、大怪我じゃなくて良かったな
2007.05.31

今年は、8月に日本武道館で開催される全日本少年武道錬成大会に初出場します。私も低学年(4年生以下)チームの監督として初出場です。レギュラーを決める上で二転三転しました。しかし、最後は監督決済で普段から一生懸命に取り組んでいる子達で固めました。団体戦です。選手達の結束力は、絶対に欠かせません。結果、先鋒3年生。次鋒から副将4年生。そして、大将が3年生となりました。正直、大将の子は、厳しいと思います。しかし、あくまでも、5分の1です。みんなで助け合って、1つでも多く勝ち進んで欲しいと思います。それが、団体戦です。さて、レギュラーの内、二人が体調不良でしたが、復帰したことで強化をスタートさせたました。昨日は、来月の全小県大会(体重別個人)に出場する5年生3人に本立してもらって、1対5の変則マッチ(5人掛)を行ないました。3試合を行いましたが、団体戦の流れを体感するには最高だったと思います。相手をした3人も含め、課題が見えました。その課題も含めて、稽古後は、抑込の返し方の確認と、投げ込みを行いました。5人のキャプテンもみんなで決めましたので、キャプテンを中心に結束力を高め本番に挑ませてあげたいと思います。
2007.05.30

私は、社宅扱いのマンションに住んでいます。その隣の部屋に住んでいるのは、フィリピン人か、マレーシア人か、タイ人か。小柄な青年(旦那)とその奥さん、お子さん達です。私の仕事が休みで、柔道の試合などがない日の朝は、子供達とランニング中心のトレーニングをするのですが、よく、その青年と一緒になります。どうやら、その青年は、プロボクサーらしいのです。子供達とは、「プロボクサーなんだって!」「ふ~ん、、、」程度の会話でした。勝手なお世話ですが、プロボクサーと言えども、チャンピオンにでもならないと、生活が厳しいと聞いています。「あの人、マンションのお金、払えるのかな?」な~んて、話してました。ある日、カミさんが「テレビ東京が隣を取材に来てたよ」と言います。「何取材を受けるくらいの強い相手に挑戦すんのか」インターネットで“ ボクシング > テレビ東京 ”で検索して見ました。隣の青年、出てましたイーグル京和…写真の右側の青年です。何か肩に掛けてます。・・・チャンピオンベルトです。何と!!!!チャンピオンでした。会社の連中に聞いてみると、結構、みんな知ってます。知らないのは、うちの家族だけ私から長男への一言「お前も、隣の人の様にチャンピオンになれ」恐れ入りましたイーグル京和 ファンの皆さん、失礼をお許し下さい
2007.05.29

「強くなりたい」と考えた時、何をすべきかは、悩むところだと思います。大ざっぱに言うと、『質』を高めるのか『量』を高めるのかです。しかし、ご注意『量』を増やしたことで自己満足症候群に陥らないようにして下さい。以前、サッカーのセルジオ越後さんが、ブラジルサッカーと日本サッカーの根本的な違いを練習内容で例えてました。「日本の練習は、100本シュートを打って終わるのに対して、ブラジルは、3本ゴールしないと終わらない。」何を意味するのかです。メンタル面の『質』の違いです。ひたすら回数を重ねることで根性は養われるかもしれません。しかし、ゴールに対する集中力は、散漫になるはずです。逆に成果を意識した場合は、1回のチャンスに対する集中が高まります。明らかに『質』が違うものになってしまいます。私は、プライオリティー(優先順位)が大切だと思います。『量』は、多い方が良いでしょう。しかし、『質』を落とさないことを優先させるべきだと思います。稽古を休みがちな子がいる反面、所属道場の他、複数の道場や教室へ積極的に出稽古している子がいます。ちなみに、私は、出稽古賛成派です。技術的な混乱を招かないことを条件に積極的に参加すべきだと思います。(出稽古については、別途、綴ります。)しかし、警鐘も鳴らしておきます。土曜日などになると複数の出稽古に参加する子がいます。例えば、午前中は、A教室1時間、午後は、B教室、1時間30分、C教室1時間30分、強化稽古1時間合計5時間の練習時間です。私が指導に関わるのは、C教室と強化稽古になりますが、最後の強化稽古は勿論のこと、C教室の時でも疲れてしまいアクビをして集中力が高まらない子もいます。「厳しい練習じゃないから大丈夫」「子供が参加したいと言うもので・・・」本当にそうでしょうか厳しくない練習だから疲れないと言うものではありません。むしろ、質の低い練習の方が精神的に疲れる場合もあります。親の役割として、質の高い稽古環境を与えてあげるためのマネジメントは大切です。先の例であれば、その日のメイン(最優先)の稽古はどれかです。最後の強化稽古をメインにするならば、午後のB教室かC教室のいずれかを休ませて昼寝をさせるなどして、メインの稽古に集中できるコンディションにしてあげるべきです。積極的に稽古を促すのも親の役目。しかし、時には、無理をさせずに休ませるのも親の役目だと思います。練習疲れで、アクビをする子を見ると、心配でなりません。※一生懸命なご父兄を責めている訳ではありません。とにかく、プラス思考で、捉えて考えて見て欲しいのです。決して、マイナス思考で捉えないで下さい。もちろん、私の考えが正しいとも限りません。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい→
2007.05.28

先生は、地元高校の先生で、年は私と同じ。同級生で飲み仲間(笑)です。高校3年生の時にインターハイに出場し、名門の国士舘大学を卒業した強者です。現在でも教員大会などで活躍してます。なのに温厚な方で、私の様に直ぐに熱くなるタイプとは全然違う器の大きさを感じます。毎週金曜日は、高校の柔道場を子供達に解放して、各道場の垣根を超えて普段の稽古だけでは、足りない部分を補習的に指導してくれてます。また、4月からは、少年クラブの指導にも携わってくれており、欠かせない先生の一人となってます。今日は、長男が試験一週間前で部活が休みだったので、HORY先生の高校へ出稽古に行きました。私も見学。息子の稽古と言うよりは、指導者として学べるところはないか探りました。いくつか、質問してアドバイスをいただいたりして、これからの指導に活かせそうです。子供達だけじゃない。私も日々、精進です。
2007.05.27

今日は、研修がなかったので、少年クラブの練習から参加しました。少年クラブでは、オヤビン先生が寝技の基本を復習してくれました。四つんばいの相手の返し方、うつぶせの相手の返し方、袈裟固めの返し方、上四方固めの返し方、横四方固めの返し方・・・立ち技は、大内刈の復習でした。ん~、基本中の基本なんだけど・・・何度も、先生方(私も含む)が教えていたはずなんだけど・・・技の指導をする際には、先生の周りを子供達が囲んで指導を受けます。しかし、3分の1の子は上の空かな~3分の1は、意味が判ってないな~残り3分の1の子達が、どこまで身に付けてくれるか・・・。教室スタイルの少年クラブでは仕方ないのかな、、、成年クラブの時間に行なっている強化稽古は、HORY先生の発案で、投込みを行ないました。確かにトレーニングも大切です。しかし、1時間しかない強化稽古を考えると、柔道そのものに直結する行為で体を鍛える方が時間の有効活用になるし、最も的確に柔道に欠かせない体力づくりが出来ると思います。その答えが、今回の投込みでもあります。投込むこと、そのもので、それに必要な体力を養おうと言う考えです。一人、5本×3人の15本くらい投込んだかな問題もあります。指導も含めて時間にして40分。どうしても集中力が途切れてしまいます。まぁ、今後は、アイデアを出しながら、飽きさせない投込みメニューを取り入れて行きたいと思います。ネタは、たくさんあるからね
2007.05.26

志 錬誰もが賞賛する華麗なプレー。イチロー選手の巧みなバットコントロール。中村選手の芸術的なフリーキックなどは、その競技の専門的能力に裏付けられている。各競技においては、その専門的な技術を習得しなければ、成り立たない。そして極めねば一流にはなれない。ある資料によると、11歳の子供達のソフトボール投げ記録が、平成4年頃から低下し始め、平成10年以降は下げ止りで推移していると言う。平成4年にJリーグが設立して少年野球に陰りが見え始めた時期と因果関係があると推測しても不思議ではない。このことからも、専門能力とは、取り組まねば開発されない能力であることが判る。また、どんなに専門能力を磨いたところで、それを支える基礎能力も不可欠となる。一般的に基礎能力とは、筋力、スピード、持久力、俊敏性などと言われている。家で例えると、専門能力が屋根であり、基礎能力が、屋根を支える躯体。どんなに素晴らしい屋根でも、躯体がしっかりしていなければ、家は倒壊してしまう。そして、あまり意識されていないのかもしれないが、さらに重要な能力がある。家で例えると地盤にあたる、この能力は、コーディネーション能力と呼ばれる。専門能力や基礎能力を如何なるタイミングで如何にチョイスして発動させるかをコーディネートする、調整する能力。この能力が低いと言うことは、宝とも言える「専門能力」や「基礎能力」を活かし切れない「宝の持ち腐れ」状態になりかねない。努力で培ったを「宝=専門能力+基礎能力」を最大限に活かすこと(コーティネーション能力)で、初めて一流選手に近づけるのだと認識する。
2007.05.25

柔道ならではのトレーニングに“えび”“逆えび”があります。確かに少年クラブの練習メニューにもあるのですが、目的意識を全く持たないまま行なっている子がほとんどです。相手をイメージして動くことで、如何なる動きをする必要があるか意識できます。相手と自分の間にスペース(隙間)を作るには、どっちの足で蹴るか意識する。(上側の足だぞ)手で押し出したり、跳ね除けたりを意識する。これ等を意識していない“えび”は、体操くらいの意味でしかないと思います。私は、寝技を語る上で、“えび”は、絶対に欠かせない技術だと思っています。あの身のこなしが出来ないで、寝技で勝つことは出来ないし、簡単に抑えられて負けてしまうはずです。事実、22日に練習試合をした時にも、完全に抑えさせてから、意味のない動作で暴れている子が何人かいました。完全に抑えられる前に行なうべきなのが、“えび”なのに・・・。今日の成年クラブの強化稽古では、“えび”を意識しての袈裟固(けさ-かため)と横四方固(よこ-しほう-かため)の逃げ方、返し方を練習しました。また、日頃から相手をイメージして“えび”“逆えび”のトレーニングに取り組むように話しました。子供達に伝わったかな~、、、“えび”の大切さよろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい→
2007.05.24

志 錬あたり前の行為であるはずの挨拶。その、あたり前の大切さを唱え、子供達へ徹底させている。多くの子供達が挨拶を行なうようになってきた。次なる課題は、形だけではない、心のこもった挨拶である。強制させられているから挨拶をしている子供も少なくない。挨拶には、感謝をする心がこもっていなければならない。感謝・・・。昨日、子供の一人から手紙をもらった。「・・・いつも柔道を教えてくださってありがとうございます。毎週、火、木、土曜日とお世話になっています。いつも、きびしい練習でいろいろと教えてくださって、とても自分のためになりますので、これからもいろいろと教えてもらいたいので、よろしくお願いします。・・・」(原文、一部抜粋)授業の一環で書いた手紙とのことではあったが、私に宛ててくれたことに歓喜溢れた。 感謝できる人になりたい。 感謝していただける人になりたい。みんな、私の様な者に感謝してくれてありがとう。
2007.05.23

自らも全日本選手権(1974年)を制し、井上康生選手をはじめとした多くの世界チャンピオンを育てあげた名指導者である東海大学 佐藤宣践(のぶゆき)師範。佐藤師範は、柔道を人の体になぞらえ、基本であり最も重要な技として、内股(跳技)、大外刈(刈・払技)、背負投・体落(担技)の三つを“柔道の背骨の技”と表現されています。これを実証する上で、日本も世界もトップレベルの試合における決まり技の上位は、これらの三つの技が必ず入っていますし、有名選手の得意技は、必ず三つのうちどれかであると言っても過言ではありません。さらに、私は、これに払腰と体落を加えます。私は大外刈を後に投げる払腰と表現しています。払腰と大外刈は、技の原理的に関連性の高い技だと考えています。また、払腰で基礎を作ってから内股に移行することも視野に入れます。練習の度に、打ち込みしている技が違う子がいます。私 『せっかく、払腰が上手になって来たのに、どうした?』A君『背負投の方がカッコイイから、今日は、背負投をやる!』私 『・・・。』背負投を覚えることが悪いのではないのです。カッコイイからと言う動機も決して悪くはありません。しかし、どの技でも良いので、まずは、キッチリと自分の柔道の背骨となる技(軸の技)を覚えて欲しいのです!特に低学年や初心者なら、最低でも1年間は、一つの技を、あきらめずに続けることが大切です。中途半端に、いくつもの技を覚えようとすると、動きがバラバラになってしまいます・・・。せっかく、上手になって来た技も、中途半端に違う技を取り組んだばかりに、結局、全部おかしくなってしまった子もいます。もちろん、ある程度、背骨の技が出来上がったら新しい技を覚えることも大切です。また、“背骨の技”以外では、足技が非常に大切です。単独でも武器になるし、“背骨の技”につなぐ上で相手を崩すためにも重要です。柔道を始めて1年以上になった子で、『得意技は、なにかな?』と尋ねられて、『???』では、いつまでたっても強くはなれませんよ!ハッキリと自分の得意技、あるいは得意技にしたい技を言えるように!さぁ!自分の“柔道の背骨の技”と得意な“足技”を身に付けよう!!よろしかったら、投票(クリック)して下さい。→
2007.05.22

志 錬 《其のニ岡野功先生の八つの必勝法の二つ目である。ニ、胸の高鳴りを気にするないざ試合となれば、興奮もするし、ある種の恐怖感も加わるから心臓がドキドキする。それでいいのだ。自分は気が小さすぎるなどと考えなくていい。だれでもそうなのだ。ドキドキしないほうがかえっておかしい。ドキドキするのは、それだけ勝負に真剣になっている証拠である。 普段の稽古通りに戦えば良いものを、必要以上に考え過ぎる。慎重になり過ぎるあまりに、動きが固くなってしまう。焦れば焦る程に、稽古と異なった動きをする自分。我に返る時には、時は終えている。ここで勝利すれば、次の勢いに乗れる。しかし、勝てる相手に負けることも少なくない。 初戦が鬼門である者がいる。 経験が解決してくれることなのか・・・。 何らかの転機が解決してくれることなのか・・・。 見守るのも良し。 話し合うも良し。つづく其の四》よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい→
2007.05.21

次男のゼッケンは、全周と対角に丁寧に私が縫い付けています。以前は、長男のも縫い付けていましたが、流石に、中学生になると道衣も分厚くなるので、手縫いはキツイです。元々、縫い物が好きなんです。(男のくせに・・・)なんか、針を持って、1回、1回縫い付けることで集中力が増して、落ち着きます。ゼッケンを初めて縫ったときは、やむを得ずでした。しかし、縫ってみて思いました。一針、一針、戦う息子達が最善を尽くすことが出来ることを祈っているんです。私の想いが、ゼッケンに乗り移ってくれれば、仮に息子達が、迷ったり戸惑った時は、ゼッケンが後押ししてくれるんじゃないかって…。不甲斐ない試合をする長男に、腹が立って殴ったこともありました。何故、教えたことが出来ないのかと、我を忘れて・・・。我に返った時には、その行為が決して良い結果に結び着かないことに気づいて、息子に申し訳なく思い誤ったことも度々・・・。何も憎くて殴るのではない。可愛いからこそ・・・。しかし、選手である息子は、ロボットではない。まして、私は操縦者でもありません。あくまでも選手は、息子達です。決して、私が同じ畳に立つことはできません。出来ることは、声援と信じて祈ることだけ。その思いを背中から覆うゼッケンに託します。だからこそ、一針一針に心を込めて縫い付けます。一針、一針、「頑張れよ」と想いを込めながら…。※次男の新しい柔道衣を購入しようかと思っていますが、今度は、厚地のものを購入する予定です。流石に、手縫いはキツイかな~
2007.05.20

8月5日の日本武道館で開催される全日本練成大会に出場します。私は、低学年チームの監督となりました。低学年チームは、4年生以下で編成されます。最上級生の4年生は、これまでの様に上級生に頼っていてはなりません。ステップアップした意識の切り替えが非常に大切となります。その意識とは、“のぞむ意識”ことと、“かなえようとする意識”です。私達、指導者は、あくまでもサポート役です。子供達の意識と努力を無駄にしないために適正な方向に導くのが役目だと思っています。反面、どんなに一生懸命に指導しても、子供達にこの意識が芽生えなければ、単なる空回りで終わってしまいます。また、子供達には、その指導に素直について来て欲しいと思っています。素直でない子は、強くなれないとも言われています。この辺を意識して、今後は、低学年チームの“意識”を高めるために、私自身も“意識”して厳しく接してみたいと思っています。また、4年生に限らず、特に高学年の子は、指導してもらえるのを待っているだけでは、強くなることはできません。強くなりたいのであれば、積極的に指導者に教えて欲しいと訴えて欲しいと思います。もちろん、指導を受けただけで強くなどなれません。教えてもらったことを、身につけるために、集中して聞いて、集中して取り組んで欲しい。また、上手く行かなくてもあきらめないこと。工夫しながら継続することも大切です。最近の居残りの強化稽古に参加する子が増えています。みんなの強くなりたいと言う意識がステップアップした証なのだと期待します。
2007.05.19

志 錬中学の地区総体の日が一ヶ月後に迫った。長男は、昨秋の新人戦においても敗れ、未だに県大会への出場すら適わない。あらためて、以前に綴った想いを読み返した。《2006年10月13日 日記より》中学、高校柔道において、最上級生が退いた体制で開催される秋季大会は、重要な位置付けとなる。ここでの結果や経験を糧に秋、冬で如何なる稽古をするかで、見違える様な成長をする者も少なくない。10月12日、長男が地区の秋季大会(新人戦・個人戦)に挑んだ。昨日は、団体戦で優勝し県大会の切符を獲得している。団体戦への出場が適わない長男にとっては、その勢いを譲り受けて弾みをつけたいところである。地区の県大会出場枠は、各階級決勝に進出した2名。3回戦までは危なげなく勝利。準決勝の相手は、長男の中学校の先輩を判定の末に敗った、ライバル校の同級生。体重41Kgの長男に対し、上限の55Kgに近いであろう対戦相手。明らかに体格に違いがあった。本人も組み合ってみて、相手の力強い脅威を感じたのであろう。親子である私には長男の焦りにも似た感覚が判った。結局、自分のペースで相手を動かせないまま、強引気味に入った体落を二度返されて技有り二つ奪われ、合技一本で敗れた。長男にとっては、小学3年生から一途に取り組んだ技である。絶対に返されない自信があったはずである。・・・完全なる敗北。決勝は、優勝候補で長男の中学校の先輩と長男を破った相手。長男の先輩の勝利を疑わなかったが、蓋を開けてみれば、ライバル校の同級生が有効二つを獲り優勝してしまった。完全に準々決勝、準決勝で勢いを付けさせてしまった。優勝した同級生は、おそらく、この地区大会の経験と県大会を経験することで、さらに皮が剥けると思われる。経験とは、人を見違える程に成長させる。対して、敗れた長男。これもまた、成長できる良い経験をしたと言える。敗れた準決勝の直後に行なわれた3位決定戦で、背負投一本勝ちによる勝利したことは、今後につながる良いものであった。後は、本人が今大会の全てを良い経験であったと自覚して、春までに何をすべきか考え、取り組むことが出来るかにかかっている。一皮剥ける長男に期待したい。ここを綴りながら、幼い頃から必死で体落に取り組む長男の姿を想い出し、不覚にも涙してしまった・・・。
2007.05.18

志 錬現在のトップに-73Kg級の高松選手がいる。彼は少年期から父親と研鑚して、片手で左右の技を繰り出せるスタイルを確立させた。事実、その戦績は素晴らしいもので、1999年11月の講道館杯では大学生、一般選手を相手に桐蔭高校3年生の立場で優勝している。しかし、日本代表として出場したアテネオリンピックやカイロ世界選手権では、実績が残せなかった。その結果、「両手を持たないのが原因」と問題点をクローズアップされている。私自身、攻撃領域を広げ難い片手中心の柔道を良しと思わない。しかし、高松選手として、これまで支えて来たスタイルを完全に否定されてはどうだろうか。恐らく、親御さんと共に悩み、工夫し、血が滲む様な努力をして来たに違いない。この批判は親御さんにとっても辛いものになっているはずである。世論も勝手である。高校生で講道館杯を制した際、当時の近代柔道(2000年1月号)では、高松選手を讃える特集記事はあれど、そのスタイルに苦言するコメントは一切、見当たらない・・・。高松選手には、問題点の改善には取り組むものの、築き上げた現在のスタイルを完全否定するのではなく、スタイル継承した中で成長し、世界の頂点に立って欲しいと切に願う。最近の試合でも、苦戦が続いている。親御さんのためにも是非とも頑張って欲しい。
2007.05.17

志 錬個性には、独自の型を持つ強みがある。人と言う個人である以上、個性は非常に大切な部分であると感じる。しかし、個性と自己中心あるいは、利己主義を混同している向きもある。「守破離」と言う言葉がある。ここでは、離が個性に当たる。離に辿り着くまでには、守と破を体得しなければならない。守とは基本であり、破とは工夫である。そして、離で独自の型を築く。しかし、個性に拘り過ぎる向きには、守も破も見えない。見えるのは、離のみである。強さのみが個性と捉える素質豊かな者。量、質とも厳しい稽古に耐える強い心を持ち合わせている。しかし、その者にとって、仲間も、指導者も、支援者も、自分を高めるための道具でしかない。そこに感謝の意など微塵も感じられない。当然、期待し応援する周囲の気持ちなど理解できる筈もない。結果、成果を上げても、全て自分の実力くらいにしか思わないであろう。自分の強さの結果論だけが、自分の価値を決めるとしか思っていないのであろう。結果、守の助言は、耳に入らない・・・。離のみを貫き通す。この、利己的で周囲に感謝できない者。大成するであろうか・・・。正直言えば、この考えのままで大成して欲しくない。大成させてはならないと強く思う。この者が壁に当たり、悩み苦しんだ挙句に、心の問題に気付き改めることで、初めて大成して欲しい。今後、この者が心を開いてくれるか判らない。しかしながら、投げ掛け続けてみよう。道具と思われながら・・・。元々、2007年1月15日に綴っていたものです。ちょっと、読まれる方にとっては、過激(?)な内容かもしれませんね。何とか、大成させたい会社の部下に宛てて綴りました。
2007.05.16

志 錬講道館柔道試合審判規定には、小学生あるいは、中学生に適用される少年規定がある。基本は同じものではあるが、少年規定にのみ適用される項目がいくつかある。それらの多くは、少年期だからこその安全性や将来性を見越したものと解釈している。例えば、背負投の両膝着きは、その象徴かもしれない。確かに膝の屈伸を使わない膝着の背負投に対応出来ずに、受けが頭を打つ可能性があるし、取りにしても膝に障害を受ける可能性もある。また、巻込技の様なもの故に、取りが失敗した際は、次の技につなぐのが困難。結果、柔道の幅を狭めてしまうことにもなる。しかし、実際の試合では、適用主旨に則らぬままに判定されていないだろうか。何故、背負投で膝を着くことを反則にするのかの主旨を理解していれば、如何なる状況で反則を取るべきであるか見えるはずである。先般の県大会で大きな子と対戦した小さい子。とにかく、攻めまくる。掛け逃げではなく、投げようとする意志が見ているこちらにも伝わってくる。しかし、残り時間僅かのときに、背負投が潰された。潰されたことで確かに、両膝が着いた。審判は、「注意」を取り、攻め続けた小さな子は敗れた。これでは、反則を取られるのが怖くて背負投を掛けることが出来なくなってしまう。また、両膝を着かない対策として、最初から片膝を着く背負投を指導される方もいるが、これもどうかと思う。将来のある子供達に基本の技を学んでもらおうとして規定された反則が、反則を取られないための基本から外れた技を生み出す矛盾。審判の眼の確かさと、指導者の対応能力が求められていると思っている。
2007.05.15
志 錬「水の中で浮かんでいることが心地良かったから」何かを極めるには、それを好きになることが最も大きな要因になると考える。そしてまた、その理由は、単純な方が良いのではないかと感じている。アテネ五輪の金メダリストの北島康介選手が水泳を好きになった一番の理由が先のコメントである。正に単純な理由である。好きになることこそが人に意欲を創造させるのではなかろうか。好きだからこそ、更なる「心地良さ」を求める様になる。北島康介選手にしても、最初は、水の中に居ること、泳ぐことだけで満足していた。それが勝利の喜びを経験し、その心地よさを求め、結果的にオリンピックと言う舞台での勝利の心地よさを求めて行った。 その舞台で勝利した時の言葉こそ有名な、「超、気持ちいい。」である。次の北京オリンピックでも、その心地良さを得るために挑むであろう。そして、自分が体感した心地よさを子供達などへの指導を通して伝えることも視野にあると言う。彼から水の中の心地よさを伝えもらった子供達が、その先の心地よさを求めて高まろうとする姿が想像されて頼もしくも微笑ましくもある。参考資料:JAL SKYWARD アスリートインタビュー北島康介 1982年9月22日生 東京都出身 177cm,74kg B型 日本コカ・コーラ 所属 種目:平泳ぎ 2004年8月15日、アテネ五輪男子平泳ぎ100メートルで金メダル獲得。タイムは1分00秒08。インタビューで「チョー気持ちえぇ(超気持ちいい)、鳥肌ものです。」が 同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。
2007.05.14

今日は、好意にしていただいている道場の先生の計らいで、その地域の柔道連盟が主催する合同練習に参加させていただきました。今回は、特別に参加枠をいただいたと言うこともあり、来月の全小個人戦県大会に出場する予定の子達を中心とした10人のみの参加でした。この地区には、歴史のある道場が多く、今回、ご尽力いただいた先生の道場も30年の歴史があるとのことです。伝統って、凄いですよね。何か、重みを感じます。そして、その伝統に支えられた子供達も、また、魅力ある柔道をしてました。要チェックです。うちの子達ですが、10人の半分は、人数の多さに圧倒されたのか消極的だったと思えます。参加したかったのに、参加できない子達だっていたのに・・・残念です。しかし、積極的に様々な子達へ挑んでいた子もいました。残り1ヶ月だけど、見えている課題を克服して県大会に挑みたいよな今日の経験を与えてくれた、方々に感謝しようありがとうございました
2007.05.13

志 錬志錬であるが、私や息子達への戒めだけではなく、指導する道場の子供達やご父兄に対する想いや他の道場に対する想いも綴っている場合がある。しかし、誤解して欲しくないのは特定の道場や個人批判を綴る場にしている訳ではないと言うことである。 以前、「あなたのサイトは、新橋のガード下で酒飲みながらグチを言ってるだけのサラリーマンといっしょ。」とある方から指摘された。指摘されて気づいた。読み返して見て、実際、愚痴を綴っていた時もあった・・・。そして、恥ずかしいが愚痴る自分の姿も否定してはならないと思った。 合わせて、愚痴るだけで終わっては正しくご指摘の通りになってしまう。愚痴る自分を、改めて戒め、問題を打開する取り組みをしてみようと思う。 新たに立ち上げた意味。自分自身の仕切り直し。私の書き込みにより、気分を害された方々には、深くお詫び申し上げます。
2007.05.12

志 錬私は、その方とお会いしたことはないが、柔道を始める以前の幼少の頃から良く存じあげていた。東京オリンピックは、私の生まれた翌年に開催された。恐らく予想を絶する熱狂ぶりだったのだろう。私の家にですら東京オリンピック総集の分厚い本(百科事典の様な高価そうなもの)があった。その中に、力強い体落で豪快に外国選手を投げ飛ばす日本選手の姿と大きな外国選手に抑え込まれ敗れる別の日本選手の姿の写真が並んで掲載されていた頁があった。その他の競技も含め日本選手の活躍を讃えたページも多くあったはずだが、このページの印象だけが未だに強く残っている。今では、その本もどこに行ったのかも判らないが、この敗れた選手の名前だけは忘れることはない。 神永昭夫先生・・・。 多くの柔道関係者が観たと思うが、二年程前にNHKで特集があったときに感動した。そして、その凄さを、多少は理解できた気がする。日本柔道が敗れた写真だったから印象に残っていたのではない。あの時の使命感と責任を背負って闘う男の姿が印象的だったのだと番組を見て気づいた。同郷の大先輩であり、私が最も尊敬する柔道家である。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい→
2007.05.11

志 錬道場の中に、大きな声が響く・・・。しかし、その声は、子供達の声ではない。私の声出しを促す大きな声である。その直後、子供達の大きな声が道場に響き渡り始める。しかし、それも束の間。また、声が出なくなってしまう。私の叫びで、強制的に声を出させることは出来る。しかし、強要されて声を出すのでは意味がない。子供達、自らが、その大切さを理解し、自らの意思で出さなければ・・・。自分自身を奮い立たせるため。そして、仲間を奮い立たせるための大きな声。集中力と結束力を高めるためには、欠かせない大きな声。心のこもった大きな声。気合であり、言霊である、大きな声。私の大きな声なくして、子供達の大きな声が響き渡る稽古。・・・。未だ、私の目蓋の裏の出来事でしかない。
2007.05.10

志 錬物事を浅はかに捉えず、探求する意識を持つと見えなかったものが見えて来る場合がある。柔道において、最も重要な技術練習は、打ち込みであると考えている。しかし、柔道の技は全て偶然はなく、必然で掛かると言えることからも、技の理を解しないままでの打ち込みは、効果がないか薄いと考えられる。そこには不器用であった自分自身の経験もある。他人が容易に技を会得する中で、とにかく時間が掛かった。勿論、考え過ぎることも良しとは思わないが、何も考えないのでは柔道の楽しさも半減してしまう。理屈通りに技が掛かった時は、理屈なしに嬉しいものである。私の場合は、指導者に恵まれた。中学時代にご指導いただいた先生(現八段)は、ただ、技を教えるのではなかった。人を投げたり、抑えたり、返したりするのは物理的作用。力を如何に効率良く伝えるかで作用効果が異なる。先生は、理科の教諭だったからであろうか、様々な例えや道具などを引用して、何故、その動作が必要なのかを判り易く解説してくれた。残念ながら私の実力不足で先生のご指導に対して戦績でお応えすることは適わなかった。しかし、その教えは、子供達を指導する際、参考にさせていただいている。子供達が自ら思量深く理屈を考える様なら最良と思う。しかし、現実的には、理屈など考えもせずに、力任せの巻き込みばかりに走る子や漠然と打ち込みをする子も少なくない。ならば、私の立場で可能な限り、技の理屈を解説してあげ、考えることでの柔道の面白さを教えて上げたい。私が先生に教えていただいた様に…。そして、先生への恩返しは、子供達に託したい。写真は、先生が、平成17年4月28日全国高段者大会出場時のもの。専門誌「近代柔道2005.6」に掲載。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.09

志 錬価値観の差が結果に表れる場合が多い。十を目指す者と八を目指す者との価値観の違い。挑む指針が異なるだけに対策、準備、心構えに至るまで違いがでる。そして、最も違いが出るのが結果。互いに目標を達成した場合でも、二の差が付く。また、八を目指す者が八で歓喜を上げているのに対して、十を目指す者にとっての八では、屈辱的な結果となる。勿論、六程度の者が十に挑むのは無謀かもしれない。しかし、将来的な目標を明確に十とした上で、段階的な目標の八に挑むのであれば、場当たり的に八に挑む者とでは価値観に差が出てくるはずである。同様に少人数の中で上位を狙う者と大多数の中で上位を狙う者とでも、その価値観は異なる。人間の器とは、志でもある価値観の大きさで決まるのではなかろうか。大志は、一日にして成らず。大志を成し得るための身近な課題を段階的に克服して行くことが大切なのではないだろうか。漠然と目先のことだけに捉われると自分自身の器を小さなものにしかねない。“少年よ、大志をいだけ”正しく大きな器の人間を育成するために最適な訓示である。‘Boys Be Ambitious’(少年よ、大志をいだけ)は、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭 であったウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、クラーク博士、1826年7月31日-1886年3月9日)が1期生との別れの際に、発した言葉とされている。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.08

志 錬柔道衣は、単なるユニフォームではない。共に戦う相棒であり、武器である。私が柔道を始めたのは、小学校5年生。柔道衣に身を包み、黒帯を締めた姿に憧れたのが始めた理由でもあった。綿生地の香りが強い真新しい柔道衣を初めて手にした時の喜びは、今でも忘れられない。家に帰ってからも嬉しくて、着たまま寝たことを思い出す。また、当時の多くの全日本選手が着用していた憧れの岩崎の柔道衣で初めて試合に出場した時の嬉しさも別な意味で忘れられない。試合では、その特徴を活かした組み手や寝技を駆使することが勝利に大きく貢献する。対して、軽視することは痛手を負うことになる。思い知らせられたのが大学時代に経験したレスリング部との合同練習。互いに柔道衣を着用しないレスリングを経験することで、その機能、重要性を再認識した。苦い思い出としては、大学1年生時代に課せられた、先輩の道衣係。私が担当した先輩は、3着しか所有していなかった。合宿の時などは、洗濯して乾くはずもなく、コインランドリーで乾かした。更には、その道衣がよく破れることから、近所のテント工場に持ち込んでは縫製修理をしていただいた。私の僅かな小遣いは、ほとんど、先輩の柔道衣につぎ込まれた。その費用で何着の柔道衣が購入できたことか…。逆に自分の柔道衣の修繕は、経済的な面からも極力、自分の手で行った。今でも、息子達のゼッケンなどは、私が縫い付けている程、裁縫が得意になった。最近、思うのは、柔道衣を粗末に扱う子供が目に着くこと。柔道衣が稽古で汗にまみれることは喜ばしいこと。しかし、乱雑に脱ぎ捨てたり、足で扱われる姿を見ると忍びない。世話になった自分の相棒を親に任せて洗ってもらうのではなく、自分で洗い、乾いたらたたむくらいは自分でして欲しい。共に戦う相棒に愛情を持って接して欲しい。写真は、現役時代に愛用していた岩崎の黒帯。岩崎は、私の柔道ブランクの間に廃業してしまったらしい。また、柔道衣を柔道着と書く方がいるが、柔道衣が正式であると認識している。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.07

志 錬ある地域に存在する二つの強豪道場。長い間、少年柔道の大会では、必ず決勝で顔を合わせ熱戦を繰り広げて来た両雄。しかし、その地域では、ある定評がある。二つの道場の「一方の道場出身者は、中学、高校で大成する子が多いが、もう一方ではなかなか芽が出ないまま消えて行く子が多い。」と言うものである。少年時代には、勝利を分け合う程の拮抗した実力であったはずの両雄であるのに、何故・・・。ある方が、その両雄の戦いについて語っていた。一方の雄。勝ち負け以前に、引手と釣手を取って得意技に拘って、一本に拘った柔道をしてくる。時々、拘り過ぎて大外刈を返されたり、内股を透かされたりもするが、勝っても負けても気持ちが良い。とにかく、大きい子ばかりでなく、小さな子も迫力がある。もう一方の雄。とにかく、負けないために組まない。釣手か引手の一方だけを掴んでの一本背負投。掛からねば、捨身小内刈。釣手だけを持って、小外刈か小内刈からの足取り。組み際に相手懐に飛び込んでの捨身小内か、谷落とし。釣手だけを取って、わざと襟を差し出して誘い、掴もうとする相手の袖を取っての袖釣り込み腰。釣手だけを持って片手を下げて待ち受けて、相手が掛けてきたら掬投(手内股)。一向に組むことなく、無闇に早い動きで2分間が過ぎて行く。どちらの道場が大成し、どちらが大成できないか・・・。後は、結果論であり、個々の価値観である。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.06

志 錬5月5日の「子供の日」に隣県で開催された少年柔道大会に出場した。今回の出場は、希望者を募っての参加となったが、逆に意欲的な子供と親に限定されたとも言え、非常にまとまりのあるチームを組むことが出来た。先鋒2年生、次鉾3年生、中堅4年生、副将5年生、大将6年生の構成での点取戦である。副将、大将に大型選手が多いことから、前3人で取って、後半で逃げ切る作戦である。予選の2試合は、正に作戦通り。各々が自分の役割を理解し、その責任に応え2試合とも4-0で勝利した。決勝トーナメント1回戦は、ベスト4を賭けて、全国大会出場の実績もある千葉県でもトップレベルの強豪道場との対戦である。子供達にとって願ってもない経験を得る機会。先鋒戦、体格で上回る相手に先行された。窮地に立ったが諦め無かった。最近、強化してきた寝技の攻めを手本通りに施しての逆転勝利。次鉾以降は、取って取られての戦い。副将戦を終えて2-2の五分。迎えた大将戦。体重44Kgで90Kgの相手に挑む。勿論、この体格差では、正面から組み合っては勝ち目はない。間合いを維持しての足狙い。これが見事にかみ合って有効を奪い勝利した。その後の全国大会3位の実績もある茨城県の強豪道場との準決勝でも子供達は善戦。2-2まで追い詰めることが出来たが内容負けであった。内容負けを惜しいと言う人もいる。しかし、1点差であろうが、内容差であろうが、負けは負け。負けに惜しいなどない。最後の詰めが出来る気力こそが常勝道場との差なのである。私は、まだまだ、埋めきれない大きな差を感じた。しかしながら、今回の戦いにより、子供達、親達に結束力が芽生え高まりつつあると感じた。団体戦に出たい。団体戦で勝ちたいと言う欲が出てきた。個人戦重視の利己の集まりでは、強くなれない。結束の中で強くなることで個人能力も高まると信じている。まだまだでは、あるが、確実に強くなっている・・・結束力。よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.05

志 錬 《其の一 岡野功先生は、「柔道マンは攻撃的でなくてはならない。いかにすぐれた作戦であっても、果敢な攻撃精神に根ざしたものでなければ無にひとしい。どんな相手に対しても徹頭徹尾攻めまくる。そこに勝利への道は開ける。」とご自身の著書の中でおっしゃっている。そして、八つの必勝法を掲げられていた。一、自分を知り、相手を知れ自分のいいところ、わるいところ、強い面、弱い面を日ごろからよく知っておき、相手のそれも熟知しておくこと。たとえば、自分は寝技が得意で相手は立技が得意だとしたら、寝技で勝つ方法を考えるのだ。がむしゃらが悪い訳ではない。がむしゃらにも良いところがある。しかし、精力善用でも言える様に効率的な作用を促すための工夫、研究は欠かせない。柔道は、自分と相手があって初めて成り立つ競技。自分と相手を知らずして成り立たない。相手を知る以上に自分を知る方が難しい・・・。つづく 其の三》よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい→
2007.05.04

「塵(ちり)も積もれば山となる」極僅かの物でも、数多く積もり重なれば高大なものとなることの例えです。しかし、子供にとって、この大切さと言うか、先を見越した今の考え方は難しいのだと思います。「今、勉強しておかないと、大人になってから苦労するよ。」と言ってもね~。出来る限り、噛み砕いて大切さを説いてあげて下さい。例えをお金ですることは、教育上、良いことではないかもしれませんが、「1円をもらっても、あまり嬉しくないかもしれない。けど、1円が、1000枚貯まると1,000円。10000枚貯まると10,000円となるよ。10,000円もらったら、嬉しいよね!でも、10,000円って、1円を1枚、1枚貯めたから、10,000円になるんだよね。1円だからと、貯めないでいると、いつまで経っても0円のままだよ。」クラブの練習においても、以前に先生方から教えていただいているはずのことを、完全に忘れている子が多いのが現実です。教えていただいた時に先生の話しを聴いていなかったのか、聴いていたけど忘れちゃったのか柔道も最初から上手な人なんていません。練習の時に先生から教えてもらったことを、ひとつひとつ覚えて行きます。確かに最初は、小さなひとつです。でも、いつしか、それが形となり大きな得意技となるのです。柔道も学校の勉強も同じ教わったことは、忘れないように復習をして、確実に積み重ね(ステップアップ)できるようにしましょうよろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.03

皆さんは、自分の名前の由来をご存知ですか例えば、ドラえもんの「のび太」は、確か大きな木の様に「すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしい」との願いからお父さんが付けたんじゃなかったかなどんなに偉大な人でも、両親がいなければ、この世に生を受けることができません。当然と言えば、当然です。そして、両親から、一番最初にみんなへ贈られたメッセージが名前なのだと思います。時には、自分の名前には、どんなメッセージが込められているのか、じっくりと見つめ直し、その願いに、自分は、応えているか自問自答することも大切であると思います私は、子供の頃は、名前の由来を、「近所の頭の良い人の名前を真似た。」と両親から教えられていました。安易な名前の付け方に、ガッカリした覚えがあります。しかし、単に幼かったので本当の意味が判らないと思い、そのように教えていたらしいのです。その名前は、私の生まれ育った仙台の戦国武将である伊達政宗の神号、“武振彦命(たけるひこのみこと)”から取った名前でした。両親の期待の大きさを感じ、身が引き締まったことを思い出します。期待に少しでも応えようと精進の毎日であります。伊達政宗公の騎馬像よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.02

志 錬全国小学生学年別柔道大会の支部予選会が行われた。同時開催された小学1年生から4年生までの学年別個人戦に次男が出場した。4月1日の大会で初優勝しただけに意識にどの様な変化が表れているか私也に興味深かった。体重別(軽量級、重量級)であるだけに体重の軽い次男にとっては強豪選手もいない。しかし、一回戦から雲行きが怪しい。技は出すものの腰が切れていない。寧ろ相手の技の方に威力が感じられる。後半、抑込んだが、15秒で逃げられてしまう。結局、旗判定で勝利したものの抑え込みがなかったら敗れていたであろう、内容の伴わないものだった。二回戦。唯一、注意すべき対戦相手。案の定、予想通りの展開で1-2の旗判定負け。予想通りの展開・・・次男が2、3発技を掛けて、相手が一本背負投で潰れる。その四つんばいの相手を次男が脇を掬おうと攻める。終始、この繰り返しで終わった。敗因は、技の切れのなさ。威力がないことに尽きる。動き自体は然程、悪くはなかった。しかし、上半身を活かした崩しが出来ておらず、足だけで仕掛ける上面だけの技になっていた。結果、技数では次男の方が多かったが、相手の一本背負投の方が威力(効果)ありと、審判が判断したのだと思う。実際、私にもそのように見えた。実際の技の効果は、全く投げられる気配もなかったので、見せる柔道(作戦)に負けたと言える。しかし、結果だけを見れば、不甲斐ないものではあるが、私には、不思議と悔しさはなかった。寧ろ、次の課題が見えた。これまで体の小さかった次男には、威力を求めていなかった。私が勝手に求めなかったとも言える。次男も小学3年生。そろそろ、威力ある技を求めて行こうかと思う。試合とは、宝探しである。 よろしければ、一日一回、クリック(投票)して下さい。→
2007.05.01
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