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〇10数年前、向日町の某句会の想い出。 梅雨晴間音とどろかしポン菓子機 容子ぽん菓子の爆発音が梅雨を追いやるように響きます。 婉然と浴衣姿の大年増 孝一まるで「甲斐庄楠音」という日本画家の画のような肉感を感じさせます。 宿浴衣女恥らう坐りダコ 豊子先生から此処は滑稽味を出した方が面白そうとの評。中7は”をんな油断の”、或いは”女うつかり”にすると坐り胼胝が鮮明になります。 身に合はぬ丈の長さの宿浴衣 孝一着眼点が素晴らしく、誰もが経験していることですね。 総踊り揃ひの柄や浴衣会 星子京の綺麗どころの浴衣会や、或る一派の浴衣会と名を売った簡易な舞踊発表会。指先や顔の動きが揃う。藍色の浴衣柄も勿論。 この日、恋句が多ござんした。 青しぐれ恋の予感の女坂 容子 ときめきを我にも欲しき蛍の夜 けい子 浴衣着て踊るダンスのサプライズ 孝一
2018.05.31
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〇昭和10年暮れから日記を更新する習慣をつけた父。戦後は小型化し、大学ノートへと変化。大阪市住吉区帝塚山の社宅から長岡京への引っ越しは、36年の8月27日。3軒斜め先に居を構えることになった同僚のMさん宅のトラックの到着は何かの事情で夕暮れまで遅れたようで、我が家は当日10時に就寝した模様。 翌日は大雷雨があって庭には大きな水溜りが出来たとあります。私のおぼろげな記憶では、引越し当初、この地は頻繁な断水騒ぎ。日記にもその旨は記されています。 引越し数日後の9月3日には親友・新関一家の来訪がありました。6日の日記には阪急古本大会の会場にて吉川一郎さんの「大山崎史」(500円)を発見、大喜びで買うとあります。この名著は私達「大山崎ふるさとガイドの会」発足時のガイド・レジメを興す手本となったもので現在古書としての値は5千円以上もします。亡父は私がガイドになるとは予想だにして居ず、何だか運命的な、不思議な糸を感じました。
2018.05.31
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〇若葉の艶めきたるころ、日がな雨の降り来れば、女房どもうち集まりてかしこき人(貴人のうわさ)など話しゐたり。伊周(コレチカ)の娘曰く。(わたし的には)かほるの君はいといみじかれど(超キモイけど)、 *(って言うか)歌の詠みやうは巧みなる(歌を上手に詠むので全然格好いい)。 されどあまたのものに文やりたるはこころやまし(あっちこっちの女に言い寄るのは、むかつくけど)。 * さあらめ、さあらめとなむうちはやしたる(そうよそうよと姦しく盛り上がります)。 源氏の君は品よくふるまひもいとをかし(源氏さんは格好良くって全然いいね)と言いければゐたるもの、おし黙りて部屋に籠りぬ(みんな自分の部屋に籠って、もの想いに耽るのだった。
2018.05.30
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〇言語心理研究家・永石彊男さんの「文字のパズル」から出題します。観察力テストと称して、消えた部分は何かを考え、熟語を完成する遊びです。四文字からできている熟語の最初の一字だけが正しく、残りの三文字は、どこか一部が消えてしまっています。その部分を継ぎ足して、正しい言葉に直しましょう。 * 例題1)戸昔少木 → 戸籍抄本 例題2)学交合良 → 学校給食さぁ では問題です。頑張って下さい。 *1)大子孝受 2)消方寸貝 3)西羊斗里 4)金虫幾門5)名斤日亦 6)実単身車 7)家才首目 8)有交其門 *9)至心雨幸 10)異吊休貝 11)受馬免弓 12)公血更戸 13)秘必敬祭 14)面妾式馬大変難しいですね。答えはご自身で出してね。
2018.05.29
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〇昭和11年の7月末日、京大生だった父すばるは東京に旅行中で、中央公論社創設者・麻田駒之助(叔父)宅に滞在。叔父に随行しホトトギス発行所の高浜虚子らに挨拶。水野白川男爵や椎花、水竹居らと虚子を囲んで昼食もしています。さて同日8月1日の日記の書き出しは、<午前6時半起床。折柄のラヂオは1940年オリムピック開催地として東京が選ばれた旨を報ずる。永い争奪戦の後なので、殊更うれしさが込み上ってくる(日36票対芬{ヘルシンキ}27票)。>と書かれています。上等の日記帳には、それを記念して発行された”東京市電気局”の切符が未使用のまま挟んであります。黄色のポール3本が並列し、風に煽られ日の丸の赤丸が真ん中で上下にずれつつ靡いている様子を描いた図柄。チケットに書いてあるのは、「第十二回国際オリムピック大会開催 東京市決定記念市営自動車乗車券は金拾銭」など。 * 同じように”電車”の往復乗車券は金拾四銭。漢字はいずれも昔の字体。デザインはバスと同じで市庁の建物なども描かれています。明治22年12月の東京市会で市のマークとして決定された現東京都の紋章も図柄として券面に描かれています。第2次世界大戦勃発の為、また日本は世界の敵国だった為、東京でのオリンピック開催はずっと後年の1964年の18回大会まで延期されました。半世紀後の2020年いよいよ2度目の東京大会。結社の100周年と重なります。
2018.05.28
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〇浴衣の歴史は、古くは内衣・湯帷子或いは明衣と書いてゆかたびらとよんでいましたが、後年にこれを略してユカタと言うようになりました。入浴してから身体にまとい、湯気を拭いとるのに用いた湯帷子が起源とされ、その湯帷子はそれ以前の湯巻から変化したようです。伊勢貞丈の説に「天子御湯を召すとき、上臈一人、典侍一人御湯をめさするに、裳の衣の上に白き生絹の衣を着て御湯をあびせ奉る也、その白き生絹の衣を湯巻ともいまきともいふ也、これは湯の滴の飛びて衣を濡らすを防ぐべきための衣なり」とあります。 天明(1781~89)の頃に刊行された浴衣合せには36種もの新型が意匠されるほどの流行の兆し、水野忠邦の天保改革で庶民の絹布着用を禁じたため真岡木綿が用いられるようになったようです。真岡木綿は地がよく染め上がり美しかったので縫模様や友禅以上の精巧な浴衣ができるに至って、婦女も大いばりで単衣ものの代わりに粋な浴衣の仇っぽい姿で外出するようになったとも。また役者は贔屓筋には、浴衣を中元の贈答品として配ったようで、団十郎は三升や海老、菊五郎は三島菊や斧、琴、菊、芝翫は環つなぎというように、各自の定紋に因んだ柄の藍染の粋を用いたようです。 好きな人すきな浴衣で逢ふ夜店 獣庵 振り向いた訳は浴衣が同じ柄 正澄 豊満な肉そのままに見る浴衣 和樽(参考図書;日置昌一著「ものしり事典 芸能娯楽編」)
2018.05.27
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〇『江戸百夢』(田中優子著)は、ワクワクする内容です。初っ端の文節【大根だって死ねばスター】からして面白い。 釈迦涅槃図は周知のことでしょうが、ここに取り上げてあるのは、英一蝶の『見立業平涅槃図』と、伊藤若冲の『野菜涅槃図』。光源氏や在原業平、時代下って西鶴の世之介らはいわゆる”艶気者(ウワキモノ)”。亡くなった業平を囲んでをんな達が百の体(テイ)で泣いている図。方や、図の中心部の笊に横たわっているのが葉付きの二股の大根。それを取り囲むように、蕪や南瓜、椎茸、人参、胡瓜、栗、梨、蜜柑、柿、茄子・・・など。 *大根役者が死んでから、いや結構巧い演技をしていたとか、好い人だったのに・・・と惜しまれる。 *因みに鶏ばかり描いていた伊藤若冲は鳥肉屋の倅に非ず、青物屋の息子だったとか。
2018.05.26
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〇いつぞや観た映画「阪急電車」のキャストは中谷美紀、宮本信子、芦田愛菜、安めぐみ、戸田恵梨香、南果歩さんら。 私は現役で働いていた頃、通勤の往き復りの電車の中で、いろんな人を主人公・モデルにして歌詞を考え、帰宅してからパソコンのMACで曲に仕立てていましたので、この「阪急電車」の人模様はよく理解できました。 * 子供時代は姉に連れられ大阪の住吉・帝塚山から南海上町線にて天王寺へ。当時は浮浪者が寝転ぶ天王寺駅の地下鉄を利用して梅田へ出、阪急京都線の淡路で乗り換え、千里山線の当時「大学前(現関大前)」駅から徒歩数分先にある叔父・従姉妹の家に度々行きました。 * 京都線や神戸線のお古の車両、あの頃から少しも変わらないチョコレート色の電車には昭和の愛着がありました。
2018.05.25
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〇久しぶりに笑っていただきましょうか?第1話 無理するな * 或る貴公子が素晴らしい跳躍力のある名馬を1頭手に入れました。草原の馬場で試乗してみました。 * 3mの高さの柵に近づいたとき、馬は耳をピ~ンと立て、尾を振りながら難なくこれを跳び越えました。 * 少し先に進むと4mの柵が見えます。馬はまた耳をピ~ンとそば立て尾っぽを振りながら、その柵も越えました。 * 馬場を出て更に進むと、鉄道のガードに差し掛かりました。馬は再び耳を立て、尾を振り出します。 * すかさず貴公子が叫びました。「おい、跳び越えなくても良いンだよ お前。下を潜れば良いンだよ!」 *第2話 想い出 * 親が子供に話していました。「昔はこの辺一帯は草原で、ただ1本の小道がついて居たもんだが、今ではこの通り、草1本さえ無い荒地だ」蝿の親子が禿げ頭の上で・・・。
2018.05.24
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〇私が永年勤めた銀行に入った当時は、京都は黄檗山万福寺で座禅の修業を体験させられました。同期53人が早朝からグループに分かれて庭掃除や拭き掃除などをしました。その後直ぐに座禅を組むのです。 *結跏趺座をするのには苦労しました。尻に座布団を敷かないと、ごろんとこけてしまいます。半跏趺座も認められたので何人かは半跏趺座をしていました。 無念無想の境地など浅日で悟れるものはありません。座禅の途中で身体が不安定になった者は容赦無く警策でビシっと叩かれます。お坊さんの数読みに合わせながら、ゆっくり呼吸をします。 *この呼吸法は所謂腹式呼吸で臍下丹田という下腹部を意識しながら3秒で吸い、10数秒で吐き出すのですが、私は若い時、1年を越える病気から復帰した時に自分流の呼吸法を行いました。数を数えて100に到達する時間の延長にチャレンジしたのでした。継続とは恐ろしいもので、100数えるのに当初3分程度だったものが、1ケ月もの間に30分近くまで延びたのでした。吸う時間はそれほど延長できませんんが、吐き出す時間は訓練によってどんどん長くなります。また結跏趺座による痺れ感は、最初は辛かったのですが、慣れるに従い快感に変ったのでした。 * 久しぶりに座禅を復活させようかな?但し、結跏趺座は血行に好しく無いので、座布団を二つ折りにして座り、呼吸だけを重視したいと思っています。 *吐き出す時間が長いと肺にある古い濁った空気を吐き出すことになり、健康的にも良い結果が出るのでは?? *なお、数の数え方 → い~~~(吸う)ち(吐く)~~~~~~い~~~(吐く)ですよ。
2018.05.23
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〇中世ドイツの話に、<騎士ルドルフはドナウ川の岸辺に咲く花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、「Vergiss-mein-nicht!((僕を)忘れないで)」という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉から”勿忘草”と名づけました。> *一方、時期外れに咲く花を”忘れ花”と言いますが、では、”忘れ鼻”はご存知ですか? * 美人という代物は、別れた後にその鼻の形を思い出すことが出来ません。余りにも顔の造作全体のバランスが整っているので、鼻など目立たないからです。鼻の形ばかり後から思い出すのは醜女で、花柳界では売れっ妓になれません。つまり、形を忘れるような鼻のことを”忘れ鼻”と言い、ひいては美女、売れっ妓をさす言葉になったぞなもし。
2018.05.22
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〇12年前の5月場所を再度載せますと以下の通りです。 *<早々に横綱不在となった今場所は、元大関:雅山の踏ん張りと、新大関:白鵬の安定した相撲が優勝決定戦という最高の形になりました。 また、弓取り式を行う力士:皇牙が十両優勝すれば昭和31年の大田山以来、実に半世紀ぶりのことでしたが、決定戦で叶わなかったようです。大田山という力士は、いわゆるあんこ型で博多人形のような相撲取であったことを鮮明に覚えています。今場所は、仕切りという大切なルールはまだ万全ではありませんでしたが、白鵬に負けた時の琴光喜の相撲を除いて、各力士の意欲的な相撲が繰り広げられたことによって、マンネリ化しそうな相撲を救ったこと、新星ともいうべき把瑠都の出現で来場所にも明るい材料が満載になっていて、相撲ファンとしては真に結構なことと思っています。 * 12年前には、白鵬が新大関、優勝決定戦を演じた雅山は現在新しい部屋を興して居、怪力把瑠都が一世を風靡した場所でもあったとは、意外でしたね。
2018.05.21
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〇最近は何かと忙しく、久しぶりに図書館へ。1)『本能寺の変 秀吉の野望』井上慶雪著(祥伝社) 実行犯は光秀に非ず、信長は「是非に及ばず」と言っていない、太田牛一は現場にいなかったなどの見出し。2)『嵯峨の御陵と古墳群』菅井良治著(NPO法人) 嵯峨の御陵27基、5つの古墳つの、神明鳥居8つ、明神鳥居12、三柱鳥居、八角鳥居など解説。3)『細川家の700年、永青文庫の至宝』 細川護煕、竹内順一ほか。(芸術新潮) 「何でも鑑定団」に出したら、驚きの価格の出そうな宝物ばかり。目で愉しむ本。4)『京都市電が走った街 今昔』沖中忠順著 外周線、河原町線、丸太町線、七条線、烏丸線、伏見・稲荷線、千本線、北野線などに分類しながら京の懐かしい映像を掲載。5)『私は名もない毛もないきみまろと申します』 豊かな教養、あふれる美貌に、こぼれる脂肪!!ご存知きみまろ氏の言葉が迸ります。
2018.05.20
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〇みなさんは祇園というところをどないに思てはるんどすやろ。何処ぞの遊郭と同じように思てはるんどすやろな。祇園甲部は藩の取り潰しをはじめ、廃藩置県、四民平等、爵位返上、財閥解体などの憂き目に遭わはった武家や名家の子女の受け皿どしたんどす。 * 祇園甲部で舞妓、芸妓と呼ばれるのんは、祇園甲部の舞の流儀が京舞井上流で、能、人形振り、篠塚流を基礎として、300年もの精進を重ねた近衛家のお抱え流派で、御所にも指南役として上がってました格式の高い技芸集団どすねん。舞と踊りとが根本的には違てるということを覚えておいておくやす。 * 舞妓の店出しの日は朝の6時から起きて、まずお風呂に入り、髪結いさんに行きますねん。朝食はお赤飯と鯛で、できるだけおトイレに行かんで済むように、水やお茶などは殆ど摂らへんのどす。髪を整え、鬢つけ油で下地を作ります。初めに練り白粉の白を首から2、3度引き、次に頬、鼻筋と引き、桃色の生臙脂または砥の粉で鼻筋、眉毛をかたどり、白を重ねていきます。もう一度、生臙脂で眉を描き、その上に黒の眉墨を重ねます。 * さし物は、ちりかんと呼ばれる鼈甲の簪、鹿の子留、よしちょう、橘、前ざし、両ビラ(家紋入り)。衣装は下から順に、木綿のさらしの腰巻(白)、胸当て、もう一枚腰巻の長めのもの、袴、木綿の肌襦袢に襟は赤、長襦袢は綸子地赤、扇面のいろいろな花の縫い取り、襟は別になっていて縮緬の赤地に金、銀の源氏車、本衣装は綸子黒地に御所解、帯は青金、赤金の松、帯揚げは縮緬赤地家紋入り相良繍。本衣装の時は帯留はせえへんのどす。 *持ち物は扇、手拭、紅、櫛、それに鏡台前の鏡掛け、お座布団、籠、櫛入れ、扇袋など、結構多いどっしゃろ。 * うち等、祇園の舞妓は芸事に磨きを掛け教養を身につけることに精進してますよって、水揚げと言うてもお客さんと同衾するんとは違います。 *ステップ・アップのために儀式することどすさかい、髷を割れしのぶから「やっこ」や「おふく」に変えるンどす。 *祇園祭の間だけは「勝山」という髷にします。また赤地の襟から白地に替えるんどす。もう可愛いということだけで許されないことになりますねん。(参考資料:「芸妓峰子の花いくさ」岩崎峰子著)
2018.05.19
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〇10年程前、家内が友人から頂いたJR西日本の株主優待券2枚を活かして、家内が懸賞で得たハウステンポス利用券と、わが幼少の思い出がいっぱい詰った佐賀県がらみの旅とをセットしたことがありました。 *友達から頂いた優待券の期限は5月末。それで取敢えず復路用の博多~三宮間運賃・新幹線特急料金を半額で2人分購入。京都~三宮間は阪急の株主優待券を持っていますので、これで事足ります。次に所用を兼ねて京都市内へ出て、チケット・ショップ2ケ所で、4500円、4800円にてJR西日本の優待券を購入しました。JR株主優待も博多までの長距離になると、優待券を4、5千円で買っても運賃等が半額になりますので、2人だと片道5千円近く得になります。これで現地での昼食代ができたのでした。
2018.05.18
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〇終の棲家になっているこちらには近くに小泉川が流れていて、その上流で養殖しているため、もうすぐ螢を見ることができます。科学の未発達だった平安時代には、せせらぎの水も清く、源氏物語のように蛍が乱舞して居たに違いありません。 *京の桂川や佐賀の川で、幼年期の私は何匹も捕まえては部屋の中で放し飼いにしていました。竹笹を持って川原に行きますと、異性を求める蛍が冷たく妖しい翠りの光を灯して行き交っています。弧を描くように竹笹を振りますと、笹の葉に数匹の蛍が引っ掛ります。飛んで居る時はすばしこい癖に、一旦捉えられてしまうと逃げ足の鈍い昆虫ですね。子孫を残すために、わが身を省みないのであるとすれば、実に一途な生物ですから、恋歌の材料になるのかな。 蛍火の迷ひ恋なる点描画 星 子
2018.05.17
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〇将棋や囲碁の長時間に及ぶ対局では必需品とされる脇息は、今ではちょっと高級な旅館の客室で触れることができます。古くは正倉院の宝物に「紫檀木画挟軾(キョウショク)」として遺されていますが、江戸時代には大名・武士の間で盛んに使われていました。座布団に座る折、脇に置いてもたれかかるための安楽用具。平板に四本脚を付けたものが典型的な形ですが、僅かながら湾曲しています。 * 転勤による佐賀市から大阪の住吉に戻ってくると父は私を盛んに歌舞伎に連れ出してくれました。長ったらしい退屈する歌舞伎芝居の中で、何か楽しいものをと子供の目で興味の対象にしたのが、この脇息。 *おそらく2代目鴈治郎の土屋主税や鳥辺山心中の出し物の舞台設営に中にあった小道具なんでしょうね。 *お殿様の身分に生まれ来て、ぷかぷかの錦糸の座布団に座り、上等の脇息に寄り掛かる姿をこども心に想像していたのでしょう。それが嵩じて小学6年生の夏休みの工作の宿題には、この脇息にチャレンジした記憶があります。その形までは、はっきりと覚えていませんが、腕を乗せる部分にはふとん綿を積め、赤ワイン色のビロード生地を張り、ぐるりを2センチほどの釘を打ち込んで止めた代物でした。 *こんなユニークな工作を宿題に提出した学童はおそらく私一人で、担任の先生も苦笑されたことでしょうね。
2018.05.16
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〇私の幼い頃の記憶に残るのは、父に連れられ家族で出かけた折の写真のポーズ。父は姉や妹にいろんなポーズを取らせてカメラに収めていました。CMで見る、前から順に左右に分かれて顔を出すポーズは父の代から。晩年の父や母の旅行や外出時のスナップ写真を一部残しています。父の代の俳句がらみの写真やこけしにまつわる写真、都をどりや歌舞伎などものを殆ど処分しても、なお残るのは段ボール箱に2個。私の代になって、デジカメとパソコンのお蔭で、軽量なCDやUSBに残せますので大変便利になりました。これなら子供達にも負担にならない”私たち夫婦の遺品”になることでしょう。
2018.05.15
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〇藁谷久三著「教養が試される 知らない漢字 練習帳」は、実に役に立つ参考書です。 *1.筆忠実 2.砌 3.匆匆 4.訃音 5.未通女 6.三下半 7.妻問 *8.後朝 9.媾曳 10.刀自 11.湯女 12.嫂 13.阿婆擦れ14.蒲魚 15.御? *女性の美しさを飾る言葉は、柳眉、秀眉、蛾眉、尤物(ゆうぶつ)、嬌羞(きょうしゅう)、嫋娜(じょうだ)、妍姿(けんし)、雲鬢(うんぴん)、翠黛(すいたい)、艶冶(えんや)、婉然など。 *けなし言葉には、埴猪口(へなちょこ)、盆暗(ぼんくら)、鈍間・頓馬(とんま)、屁放腰(へっぴりごし)、素寒貧(すかんぴん)、惚茄子(ぼけなす)、薄鈍(うすのろ)、素頓狂(すっとんきょう)、安本丹(あんぽんたん)、表六玉(ひょうろくだま)、頓珍漢、破落戸(ごろつき)、吝嗇坊(けちんぼう)、没分暁漢(わからずや)、売僧(まいす)、老耄(おいぼれ)など。 *最初の部分の読みを付録にします。意味はお調べ下さい。1.ふでまめ 2.みぎり 3.そうそう 4.ふいん 5.おぼこ 6.みくだりはん7.つまどい 8.きぬぎぬ 9.あいびき 10.とじ 11.ゆな 12.あによめ13.あばずれ 14.かまとと 15.おきゃん9番の字は清潔感がしません。14、15が面白いですね。
2018.05.13
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〇日本の歴史の中で現代ほど紙を無駄遣いする時代は無かろうかと思わないでもありません。 *新聞の折込み広告や飴ひと粒ごとの包装、饅頭、煎餅の包装など。南米大陸やアフリカの原生林地区での木材伐採には関りのないことなのでしょうか。地球環境を大切にする動き、Co2を排出しない運動に逆行しているように感じます。 * 40年程前の季刊「銀花」第9号には<和紙>の特集が組まれて居て、民芸運動の立役者・柳宗悦が寿岳文章氏に宛てた和紙の手紙(出雲岩坂の安部栄四郎の漉き技で、柳家の家紋まで漉きこまれたもの)の写真と一緒に一文などを載せています。また彼の著「和紙の美」は紙子紙に漆文字の装幀、和紙の実物入り本文用紙は小川産の凝りにこった書物だったようです。寿岳文章家の番傘は「ひきの強い紙に、ぱらぱらと落ちる雨の音、私はあれが好きだ・・・紙の傘はいつまでもあって欲しい」と『紙漉村旅日記』に記した上等のもの。 * 父が野風呂前師から戴いた野風呂直筆の句の数々、宝船の画数枚、京鹿子結社戦前の俳人たちの寄せ書きなどに紛れた和紙。いつか使おうとして父が遺している和紙がまだ沢山あります。それらは私がしかるべきレベルの人物になった時に一部使わせて貰うつもりです。
2018.05.12
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わたし達の多くは十進法による数え方をしていますが、いかつい古いソロバンは五つ玉。それが進化して四つ玉に。 *また二進法からスタートした電算機。それを更に発展させた十六進法がプログラムなどで利用されているようです。 * わたし達は紙などに書くことによって文字や漢字を覚えましたが、いざ社会人となって事務に携わりますと、文明の利器なくしては短時間に膨大な事務量を消化することが出来ないように思います。 * 銀行員だった頃、返済の滞る取引先には、催告状や督促状、そして相殺通知などを書き、公証人の確定日付を取って法的対抗要件を充たしていました。 * その書類は当時カーボン式の三枚複写になっていて、取引先、公証人、銀行側の控えとなっていたように記憶していますが、文章の一番最後の行などで失敗すると、最初からやり直し、書き直しでしたので嫌いな仕事でした。 * 今や複写機がありますので鉛筆書きの原本をコピーすれば済ませますので現在の融資係の職員は心のプレッシャーから開放されていることと思われます。 * インターネットという便利な世界によって、沖縄から北海道まで日本全国の方々と友達になれること、リアルタイムに心のキャッチボールが交せることにもなりました。 * 相手さんが見えないから、より慎重に、より丁寧に伝えることを基本にしていれば、インターネットの負の部分は避けられるものと確信しています。 * 卓上計算機も助かりますね。但し加算作業中の記録の無い加算は正しい答えかどうかの見極めに難点があります。その点エクセル機能を駆使すれば、精度の高いものになりますね。 * 文明の機器はそれを巧みに使いこなすことが肝要で、機械類に人間が使われてしまったり、機械なしでは生きて行けないという症状になったり、至便性による頭脳の劣化を招いては本末転倒(英語では馬の前に荷車)になりかねませんね。
2018.05.11
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〇読者からの投稿による言葉遊び「大語海」は、事典篇、教訓篇、そして回文篇の3部門で構成されています。 * 一次はどうなるかと思いました(受験生)一男去ってまた一男(もてない女)位置を聞いて住を知る * 市から出直します(勝新太郎、これは座頭市)聞くは一時の恥、聞かぬは一生の意地参加するごとにイキが合う(クーベルタン) * 猿も気落ちする死んで鼻毛が伸びるものか市民に口なし * 住めば都も楽じゃない狭いながらも楽しい厠(カワヤ)銭湯を知らない子供たち *回文篇(下から読んでも山本山)より * 五木の歌、歌うのきつい愛(イト)しい娘(コ)、汝(ナ)は清き花、恋い慕(シト)いガーン、生命線が・・・。 * 「この娘と寝てしまいましてね」とあの娘 「この後、寝てしまいましてね」とこの娘 * こたつでほてった娘(コ)まだまだいっぱいありますが、お後が宜しいようで。
2018.05.10
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〇パソコンに「ささやく」を入力し変換キーを押したところ、ささやく、囁く、佐々訳、笹訳、ササヤクの五通りが表わされました。鈴木棠三著「日常語語源辞典」のささやく(囁く)の項をそのまま参考にすれば、 * <ないしょ話・こそこそ話・ひそひそ話・耳うちなどをいう。いずれにしても小さな声で話すこと。 *ササヤク・サザナミのササは小さいの意だが、形容詞の狭saしの語源をかさねた語だというのは、いささか理に落ちている。小さな声で話すのも、小波の音もササと聞えたとする擬音語説の方が自然だ。 *小竹・細竹をササというのも、「ササ(ちいさい)竹」の下部を省略したとするよりは、竹の枝がササで、それが小竹・細竹の名になったのだろう。 * 万葉集巻20に「ササが葉のさやぐ霜夜に」の歌があるが、竹の葉が風に吹かれて立てる音は、ササと聞くのがいちばんぴったりしている。 * なお笹という字は日本製の漢字で、竹の節をヨともいうところから、竹の下に世の字をつけたものと思われる。 *少しばかり・些少を意味するイササカは、イトササヤカだとする説もあるが、さてどんなものだろう。 *イササ(細小)に形状をいう語のカがついた形であるという説もいただけない。イは発語で、語源がササ(細小)、これに形状をいうカが付いた形とする説などが無難といえそう。> *日本語の起源を研究する仕事を選択していたなら、もっと俳句の表現が豊かになっていたのかも知れないなぁと思わないでもありませんが、これら全て人生の縁、運命、道の選択肢の結果の所以でもありますね。
2018.05.09
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〇五日が立夏ですが、先月の末、北海道で三十度を超す気温になったとか、既に夏を実感しています。記録するほどでもないのですが、先月中の駄作をメモ帖として残します。 ふらここや脳裏をよぎるコマの数 ほたる烏賊それは人魚姫の泪 葉桜や老いることなど何のその 海市消ゆモナリザ像の塗り重ね 音のなき糸雨明かり春惜しむ 嵐峡の堰を行き交ふ貸しボート 緑さす亀山陵は西二丁 花水木ドローンと化けて飛翔せり 透き彫りの唐門だうだう花は葉に 苔を這ふ浮き根走り根春逝かす 明暗の丹の三門や薄暑光本来生き生きとした句が生まれる季節なのに・・・。
2018.05.08
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〇昭和27年東京の人口は590万人だったそうで、ラジオの受信契約も鰻のぼり、そうなるとラジオでのCMも大切で、「カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂」が大流行。「最高」「最低」:舟橋聖一氏の「白い魔魚」から使われました。東京の高級なストリップ劇場では変な英語を駆使したトニー谷の人気が上ったそうで、「これも家庭の事情でありつれ、さいざんす、オコンバンワ、お黙り!シャッラップ、お下劣、バッカじゃなかろか、ネチョリンコン」 ここまで来ると、ソロバン片手にリズムを刻み、黒ぶち眼鏡のトニーさんが、如何に達者であったかがわかりますね。「押し屋」は昭和30年新宿駅で採用したアルバイトで、正式名は旅客整理係学生班。また7月には「自衛隊」が少年隊員の採用を始めました。小学校教師の初任給が7800円、中学卒の自衛隊初任給が5400円で希望者が殺到したそうな。「歌ごえ喫茶、歌ごえ運動(共産党)、歌ごえ酒場」が30年代から始まったそうです。私には「田園」や「炎」が懐かしく思い出されます。
2018.05.07
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〇旧約聖書を紐解けば、イエズス様が手を差し延べると病気が治ったとか、極端な例では盲人の視力が一瞬にして回復したとか記述されていますが、反論に糸目をつけない大学の教授陣は別室に待機いただくとして、そう言った超常現象であっても、先入観さえ払拭すれば、有り得そうだなと思えなくもありません。 * 凡そ天才とか麒麟児とか称せられた人々は神々から選ばれた特異な人物で、名曲を作ったり、前例のない建物を拵えたり、千年後にも伝わる物語を創作したり、不朽の絵画を残したり、英雄と崇められる戦さ上手だったり・・・。 一方では、数百年前の故人の魂に乗り移って宣託を伝えたり、数十年前の事故死の霊になって恨みつらみを述べたり、動物霊を駆除するなどと言う霊媒と自称する特殊技能者は信じることはできませんが、特殊なパワーを発することが出来る人々は「有って然るべし」と70%程度の信頼を託すこともケースバイケースでは肯定出来そうに思います。己を神格化しないで、ひたすら日々迷える人々の救済に勤しむ特殊技能を持つ人の存在は肯定できるように思います。
2018.05.06
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〇織田正吉さんの「絢爛たる暗号ーー百人一首の謎を解くーー」の一節に、 * ”定家の言語遊戯趣味”として、彼が30歳の折、藤原良経の求めに応じて「いろは」47字を頭に詠み込んだ文字鎖の一例を挙げられています。それは字数を取るから省かせて貰いますが、素性法師の<今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな>を頭とした例を一部紹介しますと、 *いかならむ外山の原に秋くれて あらしに晴るる峰の月かげまだきより暮れゆく秋のをしければ いづるもつらき長月の月声よわる虫のなくねの友がほに 風もすくなきならの葉がしはむすびける契りもつらし秋の野の すゑ葉の霜の有明のかげ年のうちはよしただ秋のなからなむ こころもたへず人もうらめしこういう具合にあと29首の歌がならべてあります。 *また「なもあみたふつ」(南無阿弥陀仏)として詠み揃えた例として、七十路のむなしき月日かぞふれば 憂きにたへける身のためしかなももしきに匂ひし花の春ごとに そむきし世をなほぞ忘れぬ天つ風をとめの袖にさゆる夜は 思ひ出でても寝られざりけりみをつくしいかに乱れて蘆のねの 難波のこともつらきふしぶしたましひもわが身にそはぬなげきして 涙ひさしき世にぞふりにしふみみむと草の蛍に道とへど 仰げば高きあとをやは知るつかへこし道をばかへている月の 山の端したふるしるべたがふな *このほか、漢詩の韻あわせのように、和歌の末尾の韻をあわせる歌の群れや、一字百首、一句百首など手の込んだものを多く詠んでいます。
2018.05.05
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〇世は歌に連れ、歌は世につれと申しますが、歌ばかりでなく、小説やテレビのCM、そしてポスターも時代を反映しているように思います。 19世紀末のフランスにおけるポスター作品を集めた「ベルエポックの巴里展」は素晴らしい催しだったことでしょう。日本にも竹久夢二を初めポスターなどに秀逸な作品を残した作家が多く居て、某日テレビの「お宝鑑定団」では、大正ロマン漂う麦酒のポスターやその他の作品が一点當り数万円の値がついていました。田圃のど真ん中や村の板づくり壁・電信柱などに張り付けてあった「白元」や「髪の素」など。いろんな金属板が戦前・戦後の風物詩であったことも併せて、懐かしく想い起こされます。
2018.05.04
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〇江戸時代の商家では、主人をはじめ番頭以下、店先での喫煙はご法度でした。客は自由に吸えるのですが、店先ではどんなに親しい客が来られようとも、店の者がタバコをくゆらせながら応対することなど有り得ませんでした。勿論それはタバコ店でも同じこと。 * ところが店先でタバコを吸えることが許される立場の者が居ました。そう、吉原などの花街の女郎たちがそれでした。客に対するサービス行為なればこそ。 * 吸いつけて出せばたばこも恋となり * がん首は格子のうちに置いて吸い * 吉原を詠んだ川柳ですが、歌舞伎十八番”助六”の *「仲ノ町の両側からキセルの雨が降るようだ」の名セリフなど、粋なものではありませんか。
2018.05.03
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昔の祇園近辺の表通りには骨董屋が多く、早目に店じまいするので宵を過ぎると暗かったようです。 *それでも都をどりが近づき、祇園だんごの紅提灯がお茶屋軒にぶら下がると、いかにも春めいた賑わいを見せていたそうな。幕末には、勤皇の志士達は祇園で一献酌みながら日本の将来を語っていたようで、銅像からも解る大男の西郷さんは得意の相撲甚句を唄ったり踊ったり、無邪気に遊んでいたようです。 * 桂小五郎は三木本の幾松を、大久保利通は祇園一力の娘おゆうを、後藤象二郎は先斗町の小仲を贔屓にしていましたが、西郷さんは奈良富の仲居のお末さんにに気があったようです。しょっちゅう口説いては、あっさり諦めていたとのこと。もうひとり、心底好きだった仲居さんにお虎さんが居て、二人に共通する特徴は二十貫以上もある大ぽっちゃり系なのでした。徳川征伐に西郷さんが出発する時は、お虎さんは隊列に連れ添い、大津まで見送るほど切ない別れだったようです。 昔も昔に私にが観た新作歌舞伎の演目に「西郷と豚姫」があって、西郷さんの人柄と豚姫さんであるお虎さんの一途な気持ちは、子供ごころ乍らも、それとなく記憶に残っているのです。
2018.05.02
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〇今から30年前に神戸市立霞ヶ丘小学校の1年生が綴った詩、 「せんせいすきよ」おかあさんがごねんせいのとき せんせいがすきだったんだって でもはつこいのひとではないそうです にばんめにすきになったひとだそうです * ろくねんせいのとき こうどうでうたをうたっているせんせいを こっそりみにいったんだって いまはどうなのときいたら もちろんすきよといいました * ともこもせんせいがだいすきよ 「おやこにだいからすかれて せんせいはしあわせものね」 とおかあさんがいいました * 当の先生は教師になって7つの学校を歴任、5年生だったお母さんの担任は3つ目の学校時代、 * 勉強ができて先生の言うことをよく聞く、印象に残る良い子だったようで、それから20数年後にその娘が1年生として入学した折、母子2代の担任になったという奇縁。 * 30年も同じ市内で教師をしていると、教え子の子供が入学して来るケースはあるものの、揃っての担任は珍しいとか。 * この先生は児童詩の実践教育では著名な方で、北原白秋賞の受賞者でもあります。 *参考資料:上前淳一郎「読むクスリ12巻」
2018.05.01
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