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〇最近は雪が降ったり強風に煽られたりで、家内の庭仕事は若干減っています。私たちの代がこの家を継いだ時には、家が老朽化していたので、先ずリフォームから始めました。 * 一方庭には幾種類もの椿を中心にいろんな樹木が既に揃っていて、変革する余地がありませんでした。 *本当は大きな樹木は伐り払い、家庭菜園を大々的に家内にさせてあげたいのですが、今の所、洋間のテラスに並べたプランターや、庭の数ケ所に置いた鉢などで小野菜や小花を楽しんで貰っているに過ぎません。夫婦共に、メタボに近い体型からすっきり型になるには、散歩プラス食べ物にも気を配る必要性があります。 *テラスのプランターや鉢植えの小野菜は野鳥に狙われて、収穫前に食べられることも屡々。しかし乍ら、野鳥との共存こそ里暮しの魅力なのです。
2018.02.28
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〇谷崎潤一郎の『朱雀日記』の原稿は彼が京都に下宿し、生活する資金源となる新聞社との約束事で、律儀に書き送ったようです。 * 或る時の文中に「磯田と呼ぶ40近い老妓が居て、(小説家などが)訪問すれば、・・・素晴らしい気焔を吐くさうである」 * と書いてあったのを、祇園新橋の「大友」を訪ねるや、開口一番に「谷崎さん、老妓はひどいじゃありませんか」 * と磯田多佳が文句を言ったそうな。時に多佳33歳、花街の女性らしからぬ魅力を持った女性だったようです。 * 谷崎潤一郎が2度目宇治に訪れた時には、旅館「万屋」の岡本橘仙、金子竹次郎、そして磯田多佳も同伴していました。 * 磯田多佳は昭和20年5月15日、養子又一郎の家(南禅寺北坊町)で67歳の生涯を閉じました。 * 祇園新橋の茶屋「大友」が強制疎開で立ち退きを命じられ、そのショックが糸を引き、虚脱状態になったものと思われます。翌年、谷崎にとって思い出深い上田敏も住んでいた知恩院内の源光院で、多佳の追善演芸会が催され、夫人松子や妹の重子らと一緒に観ています。その日から1カ月ほど経った6月、 * 「大友」の跡地を訪れたら、白川の流れに沿って茶屋が並んでいた路地は「ぽかっと穴があいたやうに明るくなってゐて」その跡は掘り返えされて野菜畑になっていた。 * しら河の流れのうへに枕せし 人もすみかもあとなかりけり * あぢさゐの花に心を残しけん 人のゆくへもしら川の水 * これらの一文「磯田多佳女のこと」(全国書房)は、谷崎潤一郎が戦後、1番目に書いたもののようです。 * 「大友」の跡地は現在、”かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる”吉井勇の歌碑が建っています。
2018.02.27
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〇向日市に住んでいた頃の春、夕食を摂りに階下に降りると和室の床の間に、雛が飾ってありました。5段は仰々しいので内裏様とお雛様、そして右近の橘、左近の桜。その左には家内が染めて作った桃と菜の花の造花も飾ってありました。 ところで家内も間違っていたのですが、右と左とではどちらが上位かと言えば左です。この左をお人形様中心に見るか、向かって左と見るかで飾り付けが真逆になります。 現在飾ってあるお雛様の飾り付けは向かって左という観点に立っていますから、実際の並び方とは異なっています。流石に京の人形屋さんは正規の飾りつけ。 今更、飾り付けがどうのこうのとは言いませんが、世の中、ちょっとした誤りが多数を占めると、それが正統派になってしまいます。
2018.02.26
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〇亡父すばると無二の親友だった新関淑郎(号:一杜)著『芭蕉の笑い』(栄光社)によせて。 *「芭蕉の笑い」の章 幾つか残されている肖像画から推し量れるように暗い、無表情な、気難しい人間像としか写らない芭蕉が *”笑われた”という事実を弟子たちの文献から発掘して居られ、芭蕉の教えを理解する一助にもなる話題です。 * 「芭蕉の死をめぐる謎」の章 終焉の頃は門弟2000名とも言われる俳句の巨匠が、10月12日夕方4時に息を引き取った亡骸をその夜分、長櫃に押し込んで船便で密かに運び伏見着が夜明け、 * 14日の昼に義仲寺に到着、その夜墓に埋めたという不自然さをまるで探偵小説に接するようなタッチで記述して居られます。 * 「”一つ家に遊女も寝たり萩と月”は虚構か」の章 芭蕉の代表作でもあるこの句は果たして事実だったのか、それとも紀行文に変化を添える為の隠れた手法だったのかという疑問。 * 「誰も知らない”奥の細道”」の章 ”奥の細道”に関して意外に知られていないことを北千住、歌枕、中尊寺光堂、立石寺、即身仏などの副題に分けて記述されています。有名な句の逸話、背景もあって興味深い講です。 * 「芭蕉、園女の出会いと別れ」の章 芭蕉と園女の絆を連句などを通して解明して居られます。 * 「芭蕉忍者説が事実とすれば」の章 忍者というよりも幕府の隠密として一部の俳句作家が肯定して居られることについて、著者も同行者の曽良にその疑念を断ち切れないとされています。 * 「もう一つの”奥の細道”」の章 これには「興味ある実際の旅姿」という副題が附してあり、堅物に見える芭蕉翁は恋句の名人でもあって、旅先の土地で芭蕉が詠んだ艶句について述べて居られます。 * 一杜氏=芭蕉研究者という構図が規定概念としてわが脳に埋められているのですが、俳句の生き字引的存在、結社の語り部的存在であった著者のこの名著をこの場を借りて是非にとお薦めする次第です。
2018.02.25
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〇牧村史陽さんが書き残した「大坂史蹟地図 No48」には、生玉寺町の8つめの記事として、”女たらしの菊五郎”、”お芝居になった二代目”という見出しがついています。その内容をまとめれば、 * 生玉寺町の浄運寺に二代目尾上菊五郎の墓があって、 梅幸院夏月涼風信士 解脱院染誉梅幸無心信士 寿山了徹居士 * と3人の法名が並んでいて、中央が初代菊五郎、上のが二代目。 尾上菊五郎と言えばチャキチャキの江戸っ子のように思われ勝ちですが、初代は京都宮川町の人で、元はと言えば尾上多賀之丞の弟子・右近、その又弟子に女形・左門が居て、その弟子と言うのが二代目菊五郎だった由。初代は若衆役から女方に変り、二代目団十郎の鳴神、その相手役の雲の絶間姫で大当り。江戸に下り、しばし京阪と江戸とを往来。66才の12月晦日に没。二度目の妻との間に丑之助誕生、16で二代目を継ぐも2年後に船中にて死去。 * 黙阿弥が書き下ろした「日月星享和政談」の破戒僧・日当こそ宮川丑之助・つまり二代目菊五郎と噂されていました。丑之助という名はその後も菊五郎代々の幼名として使われており、宮川という姓も初代が宮川町の出に因むものと思われます。 * 初代の墓は京都・延寿寺、二代目が大阪・生玉の浄運寺、 三代目は東海道掛川の広楽寺、四代目は東京浅草今戸の広楽寺、そして五代目は本所押上の大雲寺という具合に分散しています。
2018.02.24
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〇某日刊新聞に掲載されたバーナード・リーチに関する特集(1980年4月5日、池田弘編集委員)を参考に一部書いてみます。 自らを”東洋と西洋の間の使者”と称して十三回も来日し、東洋と西洋文化の相互作用の中に人間の在り方を模索、機械文明の果てしなき発展の落胤として枯渇してゆく人間の精神の潤いへの果敢な闘いを陶芸から伝えた人でした。 * 香港で生まれ京都や彦根で幼年期を過した彼は、小泉八雲の著作に感化され再び来日し、英国で学んだエッチング(銅版画)の技術を教えている時、志賀直哉・武者小路実篤・柳宗悦・岸田劉生などの白樺派とねんごろになりました。そんな或る日、招かれた茶会で楽焼の絵付けを経験したことからやきものへの興味が湧き、日本人に溶け込んで日本人が本来欲している素朴な民芸の良さを彼の作品を通して伝えました。 * 11年間日本に在住したリーチは大正9年、浜田庄司を伴って英国へ帰り、漁村セント・アイブスにヨーロッパ初めての”登り窯”を築きました。 *「人間の魂の宿るやきもの」を鼓舞した彼の著書は世界中で愛読され、欧米随一の陶芸作家として敬愛されるに至りました。英国王室はサーの称号に類するC・Hを彼に贈り、またエリザベス女王は訪日に際して彼のエッチング「手賀沼」を皇后への土産ものに携えられたようです。92歳の生涯を民芸的立場で東西文化の融合に寄与した彼の功績を称え、死後の翌年に日本で大々的な展示会が催されました。 このように往時の日刊紙の特集は精度の高い記事が満載されていて、このHPやガイドに役立つことが多いので有難いなと亡父に感謝しています。
2018.02.23
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〇グリー同期の某君の第60回グループ空の絵画展に大阪は難波・道頓堀界隈へ。 それに先駆け、昼食は梅田阪急の上階のレストランにて。見た目は良くってもケチ臭く感じました。 *大阪の帝塚山に住んでいた頃は、天王寺や難波は再々父に連れて来て貰っていたので懐かしさがこみあげてきます。ナルミヤ戎橋画廊はとつくに(外国)の人で溢れ返る引っ掛け橋の手前にあり、友人の作品、仲間のお作品を鑑賞しました。創造こそ生きている証。 * アメリカ村に行きたくて御堂筋を西へ渡り、さてさて、どこにあるのか判らず、大阪人でもない人から親切に教えていただきました。京都で言えば、新京極・寺町界隈なんでしょうが、スケールは断然大阪に軍配が上がります。 *もう一つ行きたかった黒門市場。これも数人に教えて貰いつつ辿り着きました。観光客狙いの商法でした。
2018.02.22
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〇テレビ画面で決まったように見る光景、「巨人の星」のちゃぶ台返し。はてさて私の家に、昭和の象徴であるあの卓袱台はいつまで有ったのか振り返ってみることに。 * 物心ついた幼年期から小学2年生の桂に居た時分は、間違いなく茶の間にありました。 * それから九州は佐賀市に引越した折も、茶の間にありました。2年後大阪に戻ってきた住吉・帝塚山の社宅でも、6畳の茶の間にあったような・・・。 * 父が持家としたこの長岡に越した時には、母方の祖父から立派な6人掛けの食卓をプレゼントして頂いたので、引越しの前後に、あの丸い卓袱台は処分されたのでしょう。 * 何はともあれ、家族が等しく顔を見合って食事した、あの丸い食卓は家族の絆を深める大切な調度品だったと言えましょう。
2018.02.21
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〇例年よりも今年は寒く感じますね。厳寒の苦手な私に妻から毛糸編みの靴下カバー。 * 夜分はなるべく水分を摂らないようにしていますが、それでも夜中に一度はトイレへ。 * その折、ベッドからトイレのカーペットに辿り着くまでに何度となく冷たい床に足裏が触れます。 * 家内が編んでくれた靴下カバーをじかに履けば、あの不快感がなくなります。 *長めのカーディガン(オレンジ色)、頭を包む帽子は茶色ものと深緑、そして同色の首巻き。 *現在、衣装箱から一部のグッズが見つけ出せていませんがいずれも機械編みに無いふんわり感、温か味の嬉しくなるグッズです。画像の首巻は出来立てのほやほや、私への誕生日プレゼントだって。
2018.02.20
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〇サントリーの小冊子「洋酒天国」49号のジョークから幾つか拾ってみましょう。☆酒と女 * 「酒と女とどちらが毒でしょう?」A君がたずねると、医学博士は明解に答えた。 * 「もちろん女です。酒は向うから飲んでくれとは言いませんが、女は言いますからね。つい度を過すわけです。」 *★言葉は省略せよ * 専務が急に出張することになり、秘書課のA君、寝台券を二枚買って来て専務に報告した。 * 「東京駅へ行って、博多までの1等寝台券の上段を1枚、2等寝台券を1枚、都合2枚買って参りました。」 * 「君イ、もっと簡潔に言えんものかね。忙しいんだから、言葉はできるだけ省略したまえ。」 * 専務に叱られたA君、その夜、専務夫人からの電話に勢いこんで答えた。 * 「ハイ、土曜までお帰りになりません。只今は多分ベッドの中でございます。専務が上で女秘書のB子が下の筈でございます。」 * 「洋酒天国」は当時、頒価30円(〒共)そして特集で出された「三行案内」欄には「洋酒天国1~19号一冊百円か各種航空機写真と交換」という依頼やドイツ製ライターと交換したとか、 *映画ポスター洋画美麗なるを求むや、ポリネシアの写真風俗酒気象芸術等資料又は知人紹介乞う、国内外戦前後タバコ珍空箱求むなどいろんな書き込みが掲載されています。
2018.02.19
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〇小学館の「西洋絵画の巨匠」シリーズの第2巻「モネ」には大山崎ふるさとガイドのメンバーとしては当然知っておかなければならないモネの情報が満載されています。 * 大山崎町には選挙の都度持ち出される天下分け目の天王山を初め、千利久に因む国宝の待庵、重要文化財の多い宝積寺、秘仏の山崎聖天。このほか、風光明媚で人気のあるアサヒビール大山崎山荘美術館は加賀正太郎の手に成る瀟洒な英国調の建物と河井寛次郎を筆頭に民芸作家たちの陶器、 * そして安藤忠男が建てた「地中の宝石箱」と言う名の美術館には、このモネを中心に印象派作家の作品が展示されています。僅か580円の本ながら印象派というネーミングになったモネの作品「印象 日の出」を初め、愛妻カミーユをモデルにした作品や一連の睡蓮の画も。 *陽だまりの中、裏地が緑の洋傘を持ったロングドレスのカミーユ像、あまり見たことのない少年時代の鉛筆戯画や浮世絵に心酔した彼の作品などが挙げられています。
2018.02.18
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〇吉田神社近くの鈴鹿野風呂記念館での句会の折は、百万遍(201系)行に乗りますが、201系が来ない時は、銀閣寺(203系)行にて熊野神社前にて下車。丸太町通を東に歩くと武道専門学校の向い側に朱色鮮やな”御辰稲荷神社”小さく鎮座まします。 * 結社の催し事の成功祈願や皆さんの健勝を祈りますが、必ずと言って良いほど叶えて下さいます。そのお礼もあって、もう再々御参りしていて、わたしの守り神社に近い存在になって下さっています。 *琴の名手という評判話や福の子を授かる貧農夫婦の話やこのお社の建立者である新祟賢門院(東山天皇の典侍:女官)の夢枕に立った逸話など話題にこと欠きません。辰は達に繋がり、芸事成就への祈願者が多く、能・狂言の家元の奉納額や芸大の生徒のコンクール入賞祈願なども頷けます。京の風流キツネは、琴の上手な御辰キツネと碁の好きな相国寺の宗旦キツネと称されています。
2018.02.17
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〇去る14日は天候が良かったので、家内と市バス一日乗車券を利用して、全国女子駅伝のコースの一部を散策しようということに。 *阪急は西院駅にて下車。北大路行のバスに乗れば、外国観光者でそこそこ混雑。彼らは金閣寺前のバス停で下車。以前から気になっていた建勲神社前にて我らは下車。 *吉田山と同じ位置にあるとされる船岡山の爪先上がりの道を上り、三角地点に到達。大文字が見えます。 *信長・信忠公に参拝後、今宮神社へ足を延ばし大徳寺は大慈院の泉仙の鉄鉢料理を頂きました。 *朱塗りの椀は九つに重なりました。いろんなものを数えると11品でした。 *河原町通へ出て、梨木神社、紫式部邸あとの蘆山寺などにも寄って帰宅しました。
2018.02.16
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〇昨今、「ヤバイ」という言葉が「危険」という意味から転じて「凄い」という誉め言葉に変わっています。 *古語でも「なかなか」という語は、中途半端、なまはんか、かえって、とうてい、かなり、その通りという具合に時代によって意味が変化しています。 * 全然という単語もつい最近までは否定的な意味を持つ言葉を誘引する使い方が主流であったものが、程度を表わす用法となって肯定の言葉を伴うようになりつつあります。 * 平成10年3月第3版発行の鈴木棠三著「日常語語源辞典」(東京堂出版)は父が亡くなる1、2年前に購入したと思われますが、俳句を嗜む者として言葉の語源を知っておくべきと父も考えていたのでしょうか。 *この本は五十音順にならべてあり、愛敬、相槌、敢えて、青、あかぎれ・・・と続き、田舎、稲妻など、どれ一つをとっても面白そうな内容です。 * 俳句という十七文字の芸術・文学に身を置く者として、日本古来の言葉を知ることは、いわゆる温故知新を地で行くものと思われます。時折、目を通しています。
2018.02.15
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〇「お半長右衛門」という演目。浄瑠璃では<柳の馬場を押小路・・・虎石町の西側に」という場所の設定で、この芝居が大流行(ハヤリ)したので、 *「柳の馬場を押小路」は、誰しも口を聞けばすらすらと出てしまうほど有名になってしまったようです。 *京の商家の妻子ある四十男と隣家の十四歳の不倫無理心中。現在は老舗のかまぼこ店があって、これが當のお半長の舞台だとは思いも由りませんね。 * 一方、「胴乱の幸助」では、僅かな銭を元手に割り箸屋の主となった幸助の唯一の道楽が喧嘩の両成敗で、 *落語は無一文の遊び人の二人が偽の喧嘩を始め、彼の仲裁で酒にありつける処から始まり、 * 病的なまでに幡随院長兵衛に憧れる幸助が、町の浄瑠璃稽古場で小耳に挟んだ姑と嫁の諍う部分の台詞から早とちりして三十石船に乗り、大阪から京都まで来て、物語ではない実際の「帯屋」と言う店に談判するに至って、初めて架空の噺だと気付くのですが、この落語の「落ち」は心中に間に合わなかったのは、幸助が鉄道を選ばず、のんびりした船旅を選らんだからということになっています。 *やはり、古典落語のレベルの高さには、近年の創作落語は追いつけまへんなぁ~。
2018.02.14
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○父は本当に良い書物を遺してくれています。物置を物色していると、昭和22年10月20日発行の「京舞名匠 佐多女芸談」(河原書店刊)が見つかりました。装幀は堂本印象、著者は長兄の堂本寒星。 * 醸酒家に生まれた堂本4兄弟は妹たちの婿を含め美術一家を成していますが、上方の歌舞伎や舞踊の研究家であった寒星氏が3世井上八千代となった松本愛子に語らせた井上流京舞集成の芸談が京ことばで綴られています。 * 昭和22年と言えばまだ物資の乏しい時代ですが、良質の和紙を使っていることや、凡そ40枚に及ぶ写真を載せていることからみても意欲的著作であり、祇園を学ぶ恰好の教材であるとも言えましょう。 * 現5世八千代さんは亡父の教え子の一人であり、4世八千代さんとも面識があったと聞いています。 *花街とは言うものの、色めいたことより大人の上品なサロンという位置づけの祇園は、芸道の厳しさがそれを物語っています。 * <わたしが、井上流の舞を舞ひはじめましてから、さうどすなあ、もう、かれこれ、60年あまりにもなりますやらう。 *新門前(モンセン)の片山の春子(オシショウ)さんに、初めてお弟子入りして、手ほどきして貰ふたのが、丁度、わたしの6才(ムッツ)の時でした。> * こういうやわらかい書き出しでこの芸談がはじまります。和紙のところどころにシミがでていますが、こういう良書そのものを、古書店が売れないからと古紙同然に見積もったり、図書 館でも引き取らないことを悲しむく思う次第です。
2018.02.13
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〇先日漸く図書館に行く時間がとれました。1)『名碗を観る』林屋晴三ほか(世界文化社) 5,700円もする立派な書物で、小堀宗実、千宗屋氏共著。 茶室や重厚な碗を観ているだけでも楽しい。2)『はじめての骨董鑑定入門』黒田草臣監修(世界文化社) 焼き物は土の違いを覚えることから始まる。いろんな名品 のカラー写真が実に美しい。3)『旧かなを楽しむ』萩野貞樹著(リヨン社) 旧かなで楽しむ和歌・俳句、旧かなはわかりやすい、和歌・俳句で新かなは無理、正確な文語に慣れるなど、校正作業にも役立ちそう。4)『夢の中に君がいる』岩谷時子著(講談社) 宝塚歌劇団出版部を経て作詞家となった岩谷さんの越路吹雪論。また華やかさとパリムード漂う越路さんの日記も。5)『英語なんてこれだけ聴けて、これだけ言えれば、世界はどこでも旅できる』ロバート・ハリス著(東京書籍) ボランティア・ガイドも国際化に備えなくてはならない。いろんな慣用表現を惜しみなく挙げている。
2018.02.12
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〇テレビや雑誌上で主役を演じ、売れっ子になっている俳優、すべてが本当に名優なのでしょうか? *否、必ずしもそうではないと思われる俳優・女優が多々おられます。 *舞台の上の演技なら、少しオーバーに演じる必要が無いでもありませんが、 *テレビや映画は大写しになる場面が多いことが予想されるのに、その場限りの演技に終始する人が多いのです。 * 役者冥利に尽きるのは、おそらく、対象の人物に心身ともに見事に乗り移れたときの演技を遣りきれたときではないでしょうか。 *笑う、涙する、驚くなどいろんな心模様を演じなければなりませんが、深~~い精神・心境が無ければ、 *「それは原色のおもちゃ」に過ぎません。 *掲題の森繁久彌氏や大物俳優と称された俳優は、深い人生観を通じて役柄の人物と一体化したのです。
2018.02.11
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〇画像は今朝の厨。家庭内の簡易温室再生野菜です。〇角川文庫の”手のひらの中の宇宙”と称するmini文庫本。 * その中の「まちがい言葉」(現代言語セミナー編)から面白いものを拾ってみましょう。 * ほうようりょく A包容力 B抱擁力 * かくう A架空 B仮空 * どろじあい A泥仕合 B泥試合 * せんべつ A餞別 B銭別 * けぎらい A毛嫌い B気嫌い * 最初の例題はユーモラスな解釈も出来そう、若い内はB、結婚後はAかな? * どろじあいも間違えそう。けぎらいに至っては毛深い人が好きな人、逆に大嫌いな人も。 * けぎらいは動物の習性から生まれた言葉、これがヒントでして、全問Aが正解です。 *この小冊子は127頁 縦11センチ 横8.5センチ。掌に入りそうな大きさで、値も200円ですが、 * 時々こういう簡便なもので知識の修正をしておく必要性もありそうです。
2018.02.10
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〇京都御所近くの冷泉家には阿仏尼宛の譲状が保存されていて、阿仏尼の財産に関わることが明白に記されているのです。 *阿仏尼は歌壇の名門藤原定家の子・為家の側室となり、為相、為守、一女を産みました。 *為家から阿仏尼宛の譲状には「細川荘その他を為相に譲るから、そなたがよく管理して為相に譲るように」と記されていました。一旦正妻の子・為氏に譲られた播磨国(兵庫)の荘園を、取り返すに役立ったのが上記の譲状で、 *鎌倉幕府に訴訟に出かけた旅の紀行文と、鎌倉滞在記を兼ねて綴ったものが、『十六夜日記』で、 *為相への歌枕と詠み方の教科書に相当しました。裁判は長引き、阿仏尼の死後にやっと為相に安堵されました。 *(参考:後藤みち子「女性の財産と後家の役割・・・十六夜日記」)
2018.02.09
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〇和田誠編の「芸談」から一つ二つ拾ってみます。文章は原型を留めないほど変えています。 * 若山富三郎・・・長谷川一夫先生が侍姿の折、正座の右手がやや前に置かれている。いざと言う時に刀の柄に早く手が届くからと教わった。 * 江利チエミ・・・乙女時代に進駐軍で歌い終わると7、8時だから、11時過ぎに終わるバンドの人に送って貰う都合で傍で聞いていたの。それがテネシーワルツ。哀れな時に憶えたのよ。 * 勝新太郎・・・台本を貰ってから役づくりしていては遅い。日頃から自分の幅を広げておく、幾つかの抽斗から繋ぎあわせるようにする。 小沢昭一・・・一人芝居の或る日、舞台の真ん前に盲導犬が居て、驚かしていけないなどと考えながら芝居していると妙に上って、失敗をしたけれど、 * その動転をよそに、大声を出す最後のシーンでは開き直って絶叫したところ、舞台監督から一番良い出来だったと褒められた。犬の御蔭で芸が進化した。
2018.02.08
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○私は子供の時から歌舞伎や宝塚歌劇に連れて行って貰った父の御蔭で、舞踊やダンスの上手下手は瞬時に解るような気がしています。それは何度も繰り返し観ている内に頭脳の中に尺度が生成されて来たからなのでしょうか。 * では壺や茶碗、掛け軸や絵画の目は肥えているかと言えば自信が有りません。 *上前淳一郎著「節約が明るい時代<読むクスリ第37巻>」(文芸春秋)には、 *村田純一社長さんの逸話を挙げ、鮮やかな色使い、個性、飽きの来ない絵が値打ちのある絵であるという三原則を書いて居られます。 *私は加えるに、筆(線)の勢いを見ることがポイントかなと思っています。良い美術品は昔からの知己のような親しさで見る人の心の窓から浸透して来るのではないでしょうか? *儲けようという邪念は一切捨てて、作者の琴線に触れることが肝要なのでしょうね。
2018.02.07
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〇新潮社発刊、赤坂治績著「知らざあ言って聞かせやしょう」という手ごろサイズの台詞集には、近松門左衛門以降の劇作者の工夫などの解説がついています。解説は別の機会に譲るとして、まだ諳んじていない、好きなセリフをいくつか紹介しましょう。 *「助六由縁江戸桜」いわゆる助六の恋人・揚巻の台詞<今からこの揚巻が悪態の初音。意休さんと助六さんを並べてみたところが、こちらは立派な立派な男振り、又こちらは意地の悪そうな男つき、たとえて言おうなら雪と墨、硯の海も鳴門の海も、海という字は二つはなけれど、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は闇、 *暗がりで見ても、助六さんとお前と取り違えてよいものかいなぁ。(ここで、おほほほと笑う)> *或いは、「金門五三桐」での石川五右衛門の *<絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金とは、小せえ小せえ、この五右衛門の目から見れば、価萬々両。もはや日も西に傾き、夕暮れの花も一入、雲とたなびく桜花、あかね輝くこの風情、はて麗らかな眺めじゃなあ。> *暫く長い台詞が続いたあと、巡礼姿の真柴久吉(羽柴秀吉)の<石川や、浜の真砂は尽きるとも> * 五右衛門<何が何と?> * 久吉<世に盗人の種は尽きまじ>と本来五右衛門の辞世の歌を言ったところ、秀吉に気づいた五右衛門が、<何と>言い返し<エイ>とばかりに手裏剣を投げます。 *それを柄杓で受け止めた秀吉の、 <巡礼にご報謝~>で拍子木が入り幕が降ります。
2018.02.06
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○亡父の詠んだ句を少々紹介しましょう。「猫の恋アルト可愛やバス憎や」・・・正月も遠ざかって、厳寒の2月、またぞろ猫の恋が始まる。毎年毎年この時節になると、雨戸のすぐ側で、延々と猫の鳴き声が続く。我々はどうしても、可愛げな高い声の猫を贔屓にし、太く低くドスの利いた猫を疎ましく思ってしまう。所謂、判官びいきになってしまう。 * 高い声音をアルトと称し、低い方をバスと端的に表現し、可愛いと憎いに対比させて、猫の恋をユーモラスに詠んだ。この句に接してみると、あの冬の厳しい寒さの部分が消えて、熱く燃える猫の戦いにのみ、神経が行ってしまう。声一点に集約させた句の妙味。 *「仔猫はや野良の性根のまなざしを」・・・テレビの動物番組で、犬と猫の祖先は昔同種であったが、平原を選択したものと、山や森の奥を選択したものとに分かれ、その結果、猜疑心豊かな神経質な猫の性格が形造られたと説明していた。 * 犬はすぐ飼い主に馴れるが、猫は疑り深い。人のこぶしぐらいの大きさから、次第に形が整って来て、猫と認知される頃には、既に野性の本性が垣間見られると詠んでいる。仔猫ながら一応疑り深い、警戒の目つきを備えていると詠んでいる。
2018.02.05
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〇どこへ仕舞込んだものやら、今は見当たりませんが、「京都市郷土地理歴史」という名の明治34年発行の教科書がありました。 *おそらく祖母が高等小学校で学んだ教科書に相違ありません。 付録にはいかにも古地図といった色合い、つまり深緑色を淡く塗った山麓図のようなもので、 *滋賀・京都・大坂を示したものと山城の国に絞ったものと二つありました。 *その付録には皇紀を中心に天皇家に縁のある、勤皇派に近い歴史上の人物が挙げてあり、 *素盞鳴尊、神武天皇、道鏡、和気清麿、坂上田村麿、空海、菅原道真、藤原時平、牛若丸、清盛、一休、 *細川勝元、山名宗全、信長、秀吉、伊藤仁斎、新島襄、レオンジュリー、北垣国道知事などの名前が時系列に並べてありました。確かぁ、地図に巨椋池が大きく記してあったのが印象的でした。 説明文は御所から始まり蛤門の変にも触れていて、護王神社の清麿が道鏡という悪僧を追い出したことや、 *同志社を始めた新島襄が苦学から立ち上がったことを手本にしなさいとか、 山名宗全が陣を置いたことから西陣の名がついたことや北野神社では藤原時平によって左遷された忠君の道真公にも言及していました。 * 船岡山の建勲神社に祀られている信長が荒れ放題の御所を再興させた徳を褒めています。 *また大徳寺の一休さんの歌「胸の火のもえたつ時のあるならばこころの水をせきとめて消せ」を紹介していました。 * 賀茂茄子や酸茎などの名産、若狭街道、大津街道や粟田焼、七宝焼など。 *興味深いのは当時、省線・国鉄という表現が無く、東海道鉄道或いは奈良鉄道、京都鉄道と称してあって鉄道歴史の一端を覗いたような気がしました。(注)画像は借り物です。
2018.02.04
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○今年最初に借り入れた図書は以下の通り。1)矢野誠一著『昭和の藝人 千夜一夜』(文芸 春秋) 古今亭志ん生を初め、総勢88人の芸人等の秘話、人間性を記述してあって、今の朝ドラへの理解を深めます。2)高田文夫著『誰も書けなかった「笑芸論」』 (講談社) 第一章 体験的「笑芸」60年史 森繁、のり平、青島、渥美、三平、六輔、談志など 第二章はビートたけし誕生、その他3)西村汎子ら共著『日本女性の歴史』(吉川弘文館) 現代の日本は女性中心に回っていると言っても過言でないほど、女性の能力が評価され、実績も。永い歴史の帯を感じさせる書。4)川名紀美著『井村雅代 不屈の魂』(河出書房書房) 彼女無しでは日本のシンクロは世界に羽ばたけません。5)鈴木健二著『夫婦平凡読本』(扶桑社) 温厚な性格ながら、実行力抜群の鈴木氏のエッセイ。
2018.02.03
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○数年前、大山崎宝積寺での節分会。昨年度に作成された新作の出前ガイドの中にも、この模様はあります。 鉦の鳴るのを合図に山門をお坊様、山伏、鬼たちが揃って登って来ました。読経などに続いて”散華”がありました。お坊様たちは彩り美しいラグ日ーボール形の散華を撒いたり、近くの人々には手渡しで下さいます。 * 散華は尖った円形つまり目の形をした金地或いは銀地に、飛翔する天女の絵やこの宝寺のシンボルである三重塔や蓮の花、尾の長い鳳凰、雅楽に使用する太鼓などの絵がカラフルに描かれた7cmほどの紙切れです。 * 観音経、般若心経などの読経の中、鬼加祈(鬼役の人にもお祓い)があり、やがて鬼たちに豆を撒く追儺もありました。 *そして袴姿の年男・年女や公募した七福神たちが参詣者に豆を撒きました。 *間もなく1300回となる伝統的な行事を目の前で見ることができましたので満足感でいっぱいです。 *千年を悠に越える歴史は、その鬼の面を見ても納得が行きました。能登の御陣乗太鼓の鬼面にも似た古い年代を感じました。福豆の30粒前後の袋入りは沢山手にすることができるのでした。ぜひお越しください。
2018.02.02
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○第二の職場で働いていた頃、京の実家の書架で頃合の書物を探していたら、「京の四季」(洛中洛外図屏風の人びと)林屋辰三郎著<岩波文庫>が目に止まりました。 * 亡父の遺物にしては比較的新しく、1985年初版のカラーブックNo32でした。左隻6面、右隻6面から成り、対面式に屏風を立てると、京都の八方を描いていることになります。 *信貴山縁起という巻物や扇は鑑賞したことがありますが、べらぼうに大きな屏風を分解して眺めるのは初めてのことで、平安、室町時代の貴族や武士や庶民の生活、行事が活き活きと描かれていました。 * 右隻6扇から順に春夏秋冬の季節を配置してあって、正月の行事や祇園祭り、稲の刈り入れなども描いてあります。それに貴族の家の直ぐそばに、田畑が拓けていて現実味があって実に楽しい書物でした。
2018.02.01
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