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「辛い!」そう口の中で独り言のように呟くのが、最近の私の無意識な習慣、癖のようになっている。別にいつも辛いと感じながら生きているわけではない。単なる口癖にしか過ぎない。確かに、そうなのであるが、無意識にもせよ実際に「辛い」と感じていない者が、思わず知らず口走ってしまうにもせよ、辛いなどとは言わないであろう。 であるからには、私の無意識の識閾下では、少なくとも某かの、辛さを感じつつ生きていることになる。 辛いと感じながら生きる事は、そんなに恥ずかしい事ではないから、その事実をむきになって否定する必要もあるまいとも思うのだが、それでも何だか辛いの表現にある、人生否定の響きが私を何故か怯えさせる。けれども出来れば「嬉しい」とか、「楽しい」とかの肯定的で、前向きな言葉を発するような、発言を自分の口からは、期待(?)してしまうのだ。 これまでの人生を振り返って見るときに、自分の中に「第三者的な他人の眼」が入り込んだ、十歳か十一歳くらいの思春期の始まりに、「辛い」は言葉にならなくとも、私の生きる際の 基調低音部 を構成し始めていた。その最たる時期、無意識に自殺を願望する非常に暗く、暗鬱な高校時代なのである。 何故、あの時期にそんなにも自分の死を望んだのかは、今では全く分からなくなってしまっているが、恐らく生きる衝動の中には、半分以上は死への衝動が、隠れるように潜んでいるような気がする。 それはそれとして、最高に楽しい時期は、勿論、運命の女性・悦子との出会いから宿命の永別までの四十年間であった。無我夢中に楽しかった。 その反動として「辛い」のかもしれないが、むしろ悦子によって長い間、遮断されていた暗い情念が、またぞろ顔を出して来たと考える方が、自然であろう。つまり、振り出しに戻っただけなのだ。 それにしても、人生で四十年以上も「楽しく、嬉しい時間を経験できた」なんて、なんて幸せな人間なんだろうか。物語のヒロインが「千年も、万年も生きたいわ」と呟く場面があったけれど、願望としてはわかるのだが、少々欲張り過ぎるように思うのは、私の持って生まれた貧乏人根性の現れなのだろうか。 私も人並みに欲張りだけれども、千年の幸福、万年の有頂天は夢にも期待しない。と言うよりは、その能力が最初から欠乏しているのだろう、きっと。 幸せの余韻、幸福の思い出と充実感の手触り。お陰で今も、十分過すぎる程に満ち足りていられる。感謝、感謝、またまた感謝。 足るを知った者として、人生ってなんて素晴らしいのだ。生きるって苦しさを伴っていてさえ、これほどに素晴らしかったなんて、人間冥利に尽きるではないか。誰に感謝すれば良いのか。勿論、直接的には私の両親に始まり、無慮無数の人々の御蔭様なのだが、究極は絶対者たる神様、仏様の慈愛に行き着く。 そして、私の場合の幸福への開眼者は愛妻の悦子であるわけで、どうした風の吹き回しでこうなったのか、未だに私には真相が理解できないでいるけれども、兎に角、有難さに涙が溢れるばかりなのだ。 こうして、私にとっての自己理解とは、永遠の未解決に終わるしかないのだけれど、結果よければ全てが善い道理で、少なくとも私にとっては全てが最善に仕組まれていたわけである。 と言うことは、これからも、結論めいた事を言えば、万事が目出度し、目出度しで終わる定めであることは自明なのだ。 こう書いてくると、私にはある決まった不安が頭を擡げる。つまり、誰か具体的には分からないが、自分はこの世で一番の不幸者だと考えている人がいて、その自称最悪最低の幸福弱者が、私に向かって例えば、こんな風に難癖をつけるのですね。 「いい気なもんだよ、全く、実際。世の中には生まれながらに不幸にまとわりつかれて、どう転んでも一生涯 幸福 などというお目出度い物を自分の物にすることが叶わない輩が、五万といて、ひいひいと生まれてから死ぬ瞬間まで、血の涙を流し続けて、神や仏をむしろ恨み続けて地獄に落ちるのだ。それを何だ、貴様は、ちょっとばかりいい目を見たからといって、舞い上がりやがって、自分勝手な詰まらない御託ばかりを並べやがって、一人でやに下がっていやがる」 ―― まあざっと、こんなような啖呵を切って私に言いがかりをつけてくる御仁が、きっと大勢いるに相違ないのですからね。 待ってください、話は最後まで聞いていただきたい。私の申し上げたい事は、私如き者ですら、こんなに幸福感の安売りめいた恩恵に浴することが出来ているのですから、世の中の九十九%のお人は、御自分が認定、或いは判定なさっている事柄に、著しい誤認があることを申し上げたいだけなのですよ。 つまりは、この世に生を享けたもの全てが、現に例外なく幸福を享受出来ている、という事実を指摘したいだけなのであります。 自分を不幸だと感じている人の全部が全部、例外なく何か勘違いをしているか、もしくは勘違いをさせられているに相違ないのですね。これ、私の独断でも何でもない。禅の達人は言っていますよ、「足るを知れ」と。 そもそも人間の欲望にはきりと言うものがなくなってしまった。それは人間の文化が持つ、反面のマイナス要素となっている。ご存知のように、野生のママの動物には本能しか生きる指針は与えられていない。だから動物は本来的に、「足る事を知っている」。獲物を貪り喰らうが、それ以上を決して求めない。自分の生命を繋ぎ止めるだけで十分だと、本能が教えているから。 従って、本能のみで生きる野生動物の生き方は、すこぶる清潔なのだ。 それに比べて、「余計な文化という夾雑物」をしこたま溜め込んだ人間は、野生を逸脱した分、それだけ謂わば野生動物より 不潔 な生き方を余儀なくされている。 人間の誇る人工物・文化そのものが、私たちの生き方にある種の歪みや過誤を齎している。自然な生き方を遠の昔に忘れ去った人類は、その代償として高額な代価を支払わなければならないのだ。 ずばり言ってのければ、我々の生き方はいびつであり、歪んでおり、不潔極まりないわけだ。誰を恨むわけにもいかない。我々が望んで手に入れた「大切」なものなのだから。 文化による恩恵も勿論あるが、幸福をそのまま素直に受け止める能力を、急激に失わざるを得ない事態が到来して久しい。何事も、良いことの裏側には、不都合や悪がついてまわる。この単純な事実をよくよく噛み締めようではありませんか。 そして、生まれた侭の幼子に立ち返り、素直な心を取り戻す努力を、今日からでも始めようではありませんか。そういう気持ちになっただけで、世の中が何かバラ色に見えることを、実地に体験するべきなのです。そうです、貴方は世界で一番のとんでもない幸福長者なのですからね、ホントの話がです。
2020年03月30日
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今回は何を書こうか、実のところテーマはまだ決めてはいない。とにかく、書く事にしようと思う。 時間の経つのは早いもので、来月にある亡妻の命日まであと一ヶ月を切ってしまっている。 昨年までは、長男の家族と、次男夫婦の総計七名が一堂に会しての偲ぶ会を、縁の深かった浅草今半で行っていたが、今年からは別の場所を選んで、長男達とは大船近辺で、次男とは浅草か草加の近辺で実施しようと考えている。 岡田という素敵なお店が浅草にある。悦子が開拓して私たちに紹介してくれた、悦子縁のお店でもある。次男夫婦も賛成してくれているから、第一次の偲ぶ会はこの岡田で行うことになるはずである。 ただここに、問題と言えば問題がひとつある。それは私がこの店で、ハメを外しすぎて酩酊する習慣のようなものができてしまっている事だ。どこかの店で下地が出来ていて、ママの勧めてくれる日本酒がべら棒に美味しく飲めるもので、大体途中から記憶を失くす体たらくを演じてしまい、昨年などは孫から失笑を買うような醜態を演じてしまっている。 悦子は何が嫌いと言って、この私の酒の上での酔漢丸出しのみっともない振る舞いくらい嫌っていた事はないのだ。彼女の理想の夫たる者は、適度にお酒を嗜み、どのような場合でも品行方正な振る舞いを心がけなくてはいけないのだ。そう、百も承知の私が、彼女を偲ぶ会の席上で、醜態を演じるのは、何とも故人に相済まぬ所業である。 だから、怖いような、楽しみでもあるような、妙な期待感のような物を胸に秘めながら、何処かで「なに、大丈夫さ。悦子がしっかりガードしていてくれるから」などと、76歳を過ぎてなお幼さを棄てきれないでいる愚かな老人は、極めてオプティミスティックな心境でいる。 沈香も焚かず、屁もひらず、という表現がある。どんな貴人でも人のいないところでは、屁のひとつ位は漏らすであろう。そんな、いいわけにもならない、バカを心中に唱えながら、馬鹿は死んでも治らないの言葉通り、人様の顰蹙を買うような所業を、死の瞬間まで続けるのが、私の生き様というものなのであろう。 こんな与太をはきながらも、出来る限りは、人目に醜く映る行動は、極力避けたいものと、真剣に念じていることも、事実なのであります。私だって、惚れた女房から嫌われるような振る舞いを好んでしようなどとは、当然なが望んでいない。 しからば、どうする。どうも出来はしない。出来ないと諦めて、腹をくくるだけである。 腹をくくった上で、自己を少しずつ見つめる。これなら、努力次第では可能であるから。 もしかしたら、私は悪運がつよいから、何処かでセイフティネットに掛かって、最悪の事態からは救われるのでないかとの、安易極まりない甘い観測が、心のどこかに潜んでいるやもしれない。仏の顔も三度と言う。最後よければ全てよい、とか。出来るだけ、老人に相応しい行動をして、何とかこの世を無事にフェイドアウトしたいものと、切に望んでいる今日このごろであるが、人生にはいたるところに落とし穴が潜んでいて、油断していなくとも、何事が起こるかは、予測がつかない。 神のご加護と、悦子の深い、豊かな愛情に守られ続けながら、とにかく大過なく今日を過ごしたいと、誠に、頼りない私の現状を、誰から言われたわけでもないのに、自ら進んで吐露してしまっている、これが私の掛け値なしの、正体なのであります。 お前には完成を目指す向上心というものがないのか? そう問われれば、私にも向上心はあるし、人一倍の見栄も、気取りもある。しかし、どちらかと言えば、他人の目を気にするよりは、自分の心が満足したり、満ち足りたりする事のほうをより重んじていることも、事実だ。 誰のでもない、私自身の人生ではないか。自分の望みが叶えられないような生き様が、良いなどとはどうしても思えない。自分本位や勝手気まま、とも少し違う。そう考えている。 人様や公共の福祉に反しない限り、人は自由や気まま、気随が許されて然るべきだろう。 さて、旧約聖書の件だが、エズラ記を終えて、エステル記にかかろうとしている所だ。正確に解釈することは出来ない相談だが、神と人間との葛藤は同じような事柄の繰り返しで、一向に新しい展開が見られないようである。まだまだ早計ではあるが、イエスキリストの出現による、新約の時代の到来がどうしても必要であった。そんな気もして来ている。人間も変わらないけれど、神様の方も旧態依然、従って両者の関係性も当然に変化が見られない。キリストの革新性はこの基本的な構造を破るべく、実行されたが、結果から見れば、失敗に終わったかの観がある、愚見によれば。 未熟なる者、不完全な存在と、完熟した者、完全な存在との間に折り合いはつかないだろう。両者は完全に平行線状態を続けるであろうから。だから、キリスト教的な世界観からだけでは、埓が開かないのだ。従って、異質な宗教の、例えば仏教の教えが要請されることが分かる。少なくとも、異教徒であり、神国の大和の国の血を受け継ぐ私などには、ぴったりとくる。 世の中の事は思うに任せないと言うが、愚かで教養の足りない私などは、自分自身のことすら、自分の思うに任せない事柄ばかりだ。つくずく情けなく思うことがしばしばである。 しかし、例えば仏教の尊い教えでは、思うに任せないことを思うに任せようとすることから、苦しみが始まるのだから、そのような小我を放擲せよ、と教える。小我を捨て、宇宙の大我と同化し、安心立命を得よと説く。成程、そのようなことが可能ならば、苦しみも軽減されるかも知れない。しかし、その道の専門家でない限り、簡単に小我を捨てるなどという芸当は、おいそれとは出来はしない。 ジタバタしたり、悪あがきをしたり、他人から軽蔑されたり、要するに人から見て立派だと、感心されるような生き方が出来ないからと言って、無闇に悲観するには及ばない。どんなケチな人間にも、ひとつくらいは美点や長所が与えられている。 だから、無闇と他人と自分とを比較するのを止めて、自信を持って暮らせば良いのだ。何しろ、創作者の大基は神という名の絶対者なのだから。無条件に己の生存を、この世に生きてある事実を肯定すればよい。夜明けの来ない夜はないのだから。あすの日に東から昇る太陽の光を夢見て、その暖かな光、そのぬくもりを全身に浴びる準備をして、安らかな夢路を辿るに如くはない。 それが人生さ。我々が生かされてあるという、真の意味なのだ。ただ日輪と共に歩もう。星辰とともに安らかな眠りに安住しよう。全ての禍や、不幸は一場の夢、幻と化する時が巡ってくるに相違ない。 証拠、確信、エビデンス。そんな戯言を言っているから、不幸を、被らなくとよい災厄を呼び込む事になるのだから。神の大きな掌の上で遊ばせてもらっている事実に、気づきを持とう。 さすれば、安心立命は間違いのないこと。全ての暗い予測は杞憂にしか過ぎないことを、肝に銘じよう、貴方も、私も。
2020年03月25日
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地上には花々が、天上には星々が、そして人の心には悪魔も住むが、美しい愛情というかけ替えのない宝物が有る。 昔は、これだけの文言で済ますことが出来た。しかし現在では、地上ではコロナウイルスが人類に圧倒的な勢いで戦争を仕掛けてきているし、人の心の中にも、悪魔だけではなく、理由の分からないややこしい小悪魔の一族が理由のわからない蛮行を各所で揮っては、善意の人々を絶望の底なし沼に蹴落すという、地獄さながらの阿鼻叫喚の図を展開して、飽きない様子である。 旧約聖書の記述によれば、人間のくり返し行う涜神行為を懲らすべく、ヤウェーの神もまた、繰り返し懲らしめの鉄槌を地上に振り下ろしている。天罰覿面なのでありますが、素直に人間が自分の非を認めて改悛の情を示す際には、神もまた、素直にそれを受け入れて、人間の罪を許す。 古代では少なくとも、人も神も、一筋縄でいける素直さを弁えていた。が、しかし、である。 現代は、神を素直に信じられなくなった以上に、人間は自分自身に対して絶望的な不信感を抱いてしまった。もう、後戻りが出来ないのである。神を非情にも抹殺し、己自身にも信を置けない。 実に、手に負えない、始末の悪い怪物の集団に変じた人間一族に、明るい未来はあるのか。 このブログを熱心に目を通して下さっている貴方さまは、どのようにお考えでしょうか? ご安心下さい。神や御仏の愛情は誠に広大無辺であります。御心配ご無用。 芥川竜之介の短編小説「蜘蛛の糸」を思い出してください。悪党のカンダタは私達自身であり、蜘蛛の糸は絶対者の絶対的な愛情を象徴しているのです。ですから、細く頼りなく見える糸も、他者への愛情や思い遣りという優しさを失わない限り、絶対に切れる事はないのですから。 生きとし生ける者にとって唯一と言って良い程に大切な物が、他者への純粋無垢な愛情の発露なのですが、その「蜘蛛の糸」で互が結ばれている限り、人々は希望という名の明日を手にすることが可能なのですね、実際の話が。 えっ、貴方は「現状には救いなど、ひとかけらも見られないではないか!」と吐き捨てるように仰る。 自業自得的な暗黒地獄に自らを追い込んでしまった我々です。しかし、個人としては様々な言い分がある。自分には責任の取りようもないではないか。第一、自分が直接かかわり合いを持っていない、遠い昔の事柄や、同じ時代、同じ国での出来事であったとしても、見もしない赤の他人が、全く理解不能な動機や風の吹き回し具合によって、とんでもない不埒千万な行為を、臆面もなく展開して止まない。 個人に、責任があると言ったところで、手の届かない、個人の埒外で起こっている事を、知りようもない自分にまで、同じ人間、同胞だというだけの理由で、突然に難癖のような責任と言う重い軛を、掛けられてしまうとしたら、一体どうしたら良いと言うのか? 勿論、どうしようもありはしない。この世にあることは然るべき正当な理由があってのこと。個人どころか、神でさえ為す術がないこと。個人に責任など、端から取りようもない。しかし、責任は、重い責任は必然的に掛かっている、逃れようもなく、である。 多くを言わなくとも、食物連鎖という現象一つを取れあげても、地上の生命体全体が一つに固く結ばれている存在だと知れる。A は B なくして生存を続けることは出来ない。誰にでも容易に分かる。 生物の一品種であるホモサピエンスが、紛れもなく一心同体であり、運命共同体であることは、実に見やすい道理であろう。責任とか権利を言う前に、同等の生命を共有する者としての、応分の資格を自らに自問自答してみるがよい。万物の霊長と鼻を高くするのも自由だし、猿より毛が三本足りないと、情けなく感じるのも勝手だ。人間は人間の範疇から永遠に脱することなど出来はしないのだ。 このニュートラルで客観的な自己認識には、感情や知性の介入する余地は、全く残されていない。悲しくとも、嬉しくとも、である。 この宇宙という世界に存在する物の一切は、何者かは知れないけれども、創造されてあるもの。誰かの被造物なのだ。被造物に責任やら権利やらが発生する道理もないこと。 ならば、我々には何があるか…。そう、思考を進めるべき筋合のもの。答えは簡明至極。輝かしい命の灯火が託されてある。何故かは、不明と言うべきなかもしれないが、それも単純にして明確。 生命はそれ自体が美しく、素晴らしいものだから、だ。理屈ではない。美しく、素晴らしいから、美しく素晴らしいのだ。 この無条件に貴重な生命の価値を、素直に感受出来ない者が居たとすれば、何と言う不幸であろうか。 人は、生まれながらにして、等しく祝福されてある。ねじ曲がった根性を何処かで身に付けていなければの話である。 なになにでなければ人間ではない。従って生きる価値はないのだ云々、といった実に論外な屁理屈にもならない御託を並べる輩がいて、開いた口がふさがらない。 命として唯一正しい在り方は、享受した大切な生命を如何に輝かすかにある。元々、物質に支えれれた命の火は、短時日のうちに消え去る定めにある。灯火は輝きの如何によってこそ判定されるべき性質のものであって、その他の何物にも左右されることはない。 輝きに強弱はあっても、その美しさに何の変わりもない。我々命の中に生かされてあるものは、そのことだけを念頭においておけばよいのだ。つまり、唯一絶対として、無限の価値を有している。誰が何を言おうともなのだ。 絶対的価値を無条件に付与された有難くも勿体無い存在者、それが我々なのだから、それを有難く受け止め感謝すると共に、自分のつかの間の灯火を精一杯輝かすべく、渾身の努力を傾注しようではないか。どうでしょうか? 迷いの闇はいくらか薄明の度を増したでありましょうか。私の命であり、あなたの命なのです。どうぞ、悔いの残らないように存分に生きてみてくださいませ。 生きることに目的などいりません。必要なお方は満足するまであなたの目的を探し求めたらよいのです。闇の中で、一瞬だけ命の火を輝かせて、次の瞬間に闇の中に姿を消していく。そう、丁度、夜空に打ち上げられた花火のように。どう輝くかが、個人の特色であり、生きがいなのですから、精々、美しく輝き、潔く消えたいものですね。 念の為に再度申し添えますが、一瞬は永遠の同義でしたね。あなたの生きた証は、永遠に闇の中に輝くのだと、御承知おきくださいな、どうぞ。
2020年03月19日
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源氏物語の現代語訳を十年以上に亘って続けている。我々庶民とは遠く隔たった、最上級貴族の生活描写が中心であるが、人間が文化的に贅沢の限りを尽くしたならば、どのような事になるのか、その見本のような様相を呈している。 とりわけ、歌ものがたりという性質上、様々な和歌が生まれ出てくる現場の描写が中心に構成されているので、主人公光源氏をめぐる様々な女性たちとの交際と、その女性に関係する諸人物たちの行動を追って、物語の筋が紡ぎ出される仕組みになっている。 和歌が生まれ出てくる現場、と言ったが、その前提条件として先進大国としての中国文学の深く、そして豊かな教養が必須のものとなっている。それは文字通り、世界最高峰の文化的な教養と言ってよく、最近の日本が経済大国と称される以上に、素晴らしい文化的な達成と言い得る輝かしいそれであった。 極東の一小島国は、そのままで当時の最上等国と称して間違いでない、高度な文明を自分のものにしていた。自家薬籠中のものとして自由に享受されていた。少なくとも、京都を中心にした上流貴族の間では当時の最先端の洗練の度を極めた文化が花開いていた。 その贅沢と、豪奢の高みは、殆ど今日から見て、想像を絶していた。 例えば、薫りの文化である。日常茶飯の嗜みととしての薫香の使用は、恐らく世界史的に見ても、最も高度なものであったと言って、間違いではない。 それは何も香りに関するそれだけに限られてはいない。舞踊、音楽、着物、建築、彩色、等など、殆ど生活の全般に亘っている。その洗練された高度さは、今日との比較を遥かに凌駕している。そう言って間違いないだろう。 勿論、人間の文化を支える背景には、豊かで、多様な自然環境があった。その豊饒極まりない自然と高度な貴族文化を仲介するものとして、無名の庶民達の、これまたエネルギッシュな、そして創造的な生活が潜在していた。片田舎の豪族が、中央の貴族の頂点に立つ天皇を遥かに凌ぐ豪奢を僭称して憚らない。そのような驚くべき事実が、さりげなく一エピソードの一コマに描写されている。 物語に描かれているのは、氷山の一角の中でも、ごくごく限定された、最小単位の世界の、余りにも浮世離れした世界。分けても、その中心に位する人物が、これまた稀有と言うにも表現が足りない、人にして人にあらず、といった理想的な人物なのだ。 女性は愚か、男性であってもその魅力の前には、たちまちにメロメロになってしまう。そして、語り手の作者が一番の主人公贔屓と来ているから、手がつけられない。 しかしこの作者、只者ではない。それどころか、冷徹そのものと言った、鋭い人間観察眼を備えていて、人間の愚かさや、醜さ、浅ましさを容赦会釈もなく抉り取る体の、賢明さを秘め備えているのだ。その作者をして、無条件に脱帽させて止まない魅力あふれる人物こそ、光源氏という空前絶後の男性なのだ。 作者は主人公の第一番のファンであるだけでなく、或いはそれ故に、ヒーローに対しても冷徹な辛辣さを一瞬たりとも忘れる事はない。しかし、その作者の老辣な人間観察眼を以てしても、完全には否定し切れない人間的な魅力が、ヒーローの行動や思考内容にはおのずからに滲み出ている。だから辛辣この上ない作者が、ついつい人間として、或いはまた、一個の男性として「許し、見逃し」てしまう。それがまた、ヒーローの単なる作者の傀儡でない、血肉を備えた人物としてのリアリティーを保証してもいる。そういう次第なのであります。 このように書いて来て気づくのは、私もまた作者の類まれな大手腕に魅了されて、虜となり、メロメロになってしまっている。だから、十年以上もの長きに亘って、決して楽なだけではない作業を、今日まで継続出来ている第一の理由なのであります。 近代のヨーロッパから急速に発達して、全世界に広まったロマン、小説と訳されるノヴェルの世界では日本は所謂世界的な大小説を生み出すことなく、終わってしまっているが、翻ってロマン、ノヴェル的な文芸ジャンルを見渡した場合に、出自はまったく異なっているが、世界的な見地に立った場合に、「源氏物語」はまさに奇跡の傑作と言ってよく、空前絶後の珠玉の名品と呼ぶほかはなく、人類が成し遂げた一大偉業とも称すべき、驚異の所産なのであります。 我々日本人は、非常に謙遜の美徳に富んだ民族性を有しているのですが、自慢するに値する傑作は素直に吹聴すればよく、余計な遠慮など百害あって一利なしなのであります。 他人の物はとてもよく見える。人間心理の特徴でありましょう。また、遠くにある物ほど、価値があり、無闇と美しく輝いて感じられる。 源氏は日本人が素直に自己を正当に評価するスタート地点であると、その正しい鑑賞者ならば、一様に認めざるを得ない。自分が日本という類まれな素晴らしい場所に生まれ、日本人として誇りある人生を送り得る事に、感謝しよう。その為に、古典をよく勉強しようではないか。 今日の日本で、こんな理由のわからない世迷い言を、臆面もなく主張するのは、真の勇気を必要とする、遺憾ながら。 でも、敢えてこの時期に、私は時代錯誤も甚だしい主張を繰り返し、特に今の若者に向けて、叫びたいと思う。私とて、神の御加護と深甚なる御支援とがなかったならば、このような暴挙を、しかもこの老齢に及んで、冒そうなどとは思わなかったであろう。偉大なる先人、本居宣長に改めて深甚なる感謝の念を捧げるとともに、未来に細いながらも正当な日本文化の精髄を伝える、本当に価値ある使命に目覚める若者が出現する事を、確信して、幽かながらもその一助の役割として、私の行動、言挙げが役立つならば、これに過ぎる幸せはないのであります。
2020年03月06日
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