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今回は、或る詩の自由訳から入ります。 淋しい、孤独だ、詰まらなーい 誰かが今日もぼやいている、淋しい、孤独だ、詰まらなーい おいらは、奴は本当に そう思っているのかと、思ってしまう あいつらは、実際、孤独だなんて感じているのだろうか… だってね、一人で、たった一人でいるのって、べらぼうに素敵なことじゃないか 実際、嫌な、ムカムカする人間どもの会話から逃げ出して 腐りきったアイツ等の臭いを避けて ひとりっきりになれる事ほど、素晴らしい事はないじゃないか 一人でいる そして木々が静かに成長している様を 感じる たった一人 夜空の月の光が 外の空気の中で 白く 心を込めて 静まっている ひとりぼっちでいて 感じるんだ 鼓動している宇宙が 静かに 静かに 揺れる 心を落ち着かせる 元気を回復させる 癒してくれる…… 心を静め 元気づけ 癒す それは おいらが一人 静かで偉大なコスモスと向かい あの神経を苛立たせるキーキー声の奴らから離れ 外気の静寂をガリガリとやるのを逃れて 奉 仕 ああ そうだよ 人間は奉仕することを学ぶべきなんだ お金になんかじゃないよ そうだ 命にさ ああ そうともさ 人間は服従することを学ぶべきなんだ 上司になんかじゃないよ 命の輝きにさ こういう人間の顔に浮かんだ それにだ つまり 諸々の神々の眼の中を ずっと覗き込んで来た 人のさ 人は こう言う場合にだけ 完全に人間なのだ つまり 人間性を 越えて 遥かを見ている時にさ これはイギリスの作家 D H ローレンスの詩です。興味のある方は、原詩をご覧下さい。これが彼の最高の詩作品だから訳したのではありませんで、この様な詩は D H ローレンスには沢山あります。偶々これらの詩は私の心に響くものがあったからであります。 彼・ロレンスは二十世紀イギリスが生んだ、徹底した個人主義者であった。彼には甘美でセンチメンタルな恋の歌など一つも見られない。個人と個人との間に友好の架け橋を誰よりも望んだ彼は、遂に絶望へと行き着くしかなかった。彼の名著「チャタレイ婦人の恋人」には彼の思想と切ない祈りとの全てが表現されている。自分の同胞たちに余りに多くを望んだ彼は、その返礼として絶望と強烈な嫌悪の感情を味わう事となる。 私は、二十一世紀に生きるオプチミストの代表のようなこの私には、正直、理解が及ばない所がある。しかし、類似した体験は閲してきている。腐れ切った俗人ども、見栄坊で、自己顕示欲が強くて、女好きで、或いは男好きで、ただただ物欲の権化の様な輩たち。人を、他人を愛してもいないくせに、やたらと好人物めいた顔をして、一円でも多くを相手からふんだくってやろうと、常に手ぐすねひいて待ち構えている狡猾至極なエゴイストの群れ。考えただけでムカムカする、思っただけで虫唾が走る。上に示した詩の心理は殆ど私のものであるとも言える。人間好きで、お人好しで、それ故に裏切られ、臍を咬んで来た若き日の私の、心に秘めた感情の数々に酷似している。 個人主義を克服する手段として人類が考え出したものに、共産主義と社会主義とがある。 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで、平等な社会を目指すもの。また、社会主義は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公平な社会をを目指すもの。 思想は一種の理想を模索する手段ではあるが、理想通りにはいかないのが現実であったことは、歴史が教えてくれている。現在までのところ、大勢は資本主義、民主主義に落ち着いているが、これとて人々が夢想した如くには機能してないのが、実情である。 より現実的で、より欠陥の少ない方へと、水が低きへと流れるように流れた結果が、今日の現実となったので、人類の飽くなき理想追求の夢は、画餅のままで終わる運命にあるのか。 私は、太っ腹な神のようには人類の未来を楽観視できないが、さりとて絶望もしていないわけで、より明るい未来図を予想している。 人々が理想を口にし、未来に良き事を夢見る際に、一様に「公平」と「平等」とを唱える。そんなにも公平と平等とが欲しいのだろうか。これは、奴隷の思想ではなかろうか。いや、ずばり、悪党に支配され、散々嫌な目に遇って来た賤民根性が抜けない輩の、羹に懲りて膾を吹く式の、トラウマ現象ではなかろうか。いや、この際、そうだと断定しておこう。 私見によると、歴史的には sacred king 神聖な神の威光を背景にした王者が支配し、次に war kinng 実力で王者の地位にのし上がった下克上の王、続いて pop king 人気があるので王位に君臨する者、更には、これは全くの私の予測であるが、art king 一芸に秀でたので支配者の立場に立つ者、という順に民衆の上に居て統治する人達の出現である。war kinng と pop kinng との間に商人が実質的に地上を支配していたのだが、残念ながら徳が不足していたので、king とは呼べない不幸な「準王」達が何人もいる。 この私的な王者の順番の中で、最後に位置づけられる art king に私は僅かな、ほんの僅かな希望を託しているのです。 ほかの人の事は分かりませんが、私個人の見解では、支配する側に立つより、支配される側に立ちたい。それも、より良い、少なくとも私よりは数等有能で、賢く、勝れた徳を持ち、神の如き優しさ寛大さとを兼ね備えている 聖人 に、それも名前だけではなく、実質上の掛け値なしの聖人に、人々のトップに立って支配して戴きたいと、心底熱望しているのであります。 但し、人間が人間を支配したいなどという野望を持つのは、大体において、けしからぬ輩にしか生じない実に卑しい、下賎な事でありまして、心正しい、聖人の如き人には、その心の中には、自然発生的に生じる性質のものではないのであります。三拝、九拝して下々の代表がその下賤なる立場に就いていただく。これが本来の筋と言うものなのです。 私如きが偉そうに言うのはなんなのですが、支配欲などという途轍もない欲望は、欲望の中でも最も下位にランクづけされて然るべきもので、まともな人間が正面から望むものなどでは、本来、ないのであります。それを引き受けるからには、それなりの犠牲的な覚悟が必要でありましょう。つまり、神と同等の人類愛に満ち満ちた、真に愛情に相応しい、麗しい心根がいの一番に要求されて然るべきだからですね。 現実に地上の国々や地域社会、或いは企業という同一目標を掲げる大小の集団を率いて統率する大小の支配者達は、生まれついての支配者の様な顔をして居りますが、成り上がり者の下衆根性丸出しと言った卑しい顔付きをしてはいないでしょうか。そうでなければ幸いなのですが、私の見たところ、内面の下劣で賎しい根性が丸見えの面々が、次から次へと目の前に浮かんで参ります。 譬えば、イエスキリスト、もしくは、ソクラテス、釈迦、道元、その他の掛け値なしの聖人達に、この世を実効支配して戴けるのなら、誰も彼もが等しく幸福に、安楽に暮らすことが可能なのでしょうがね。現実にはそのような夢のごとき統治は有り得ないわけで、魑魅魍魎の跋扈する現実社会では、蛇蝎や虎狼に類する恐ろしい欲望をむき出しにのし歩く輩ばかりが、虚名を売り物にしようと、目を皿のごとくにしているのですから、夢忘れたりしてはなりませんよ。 人間の悪い面ばかり嫌というほど見せつけられて来た私ですが、悦子のお蔭で心の健康を取り戻し、人間万歳と心の底から叫ぶことの出来る、まっとうな人間になる事の出来た私ですが、大勢を支配したい、己が権力下に国民全体を置きたいなどと、野心満々の輩を目の前にしますと、善良で無邪気な庶民の為に、少なくとも現在よりは少しでも増しな政治支配の為に、人間では無い、例えば人造人間やロボットの様なもので、善政だけをプログラミンがされた機械が登場したなら、どんなにか社会のため、人々のために役立つだろうなどと、機械大嫌い人間の私でさえ、それならば妥協は出来ると考えたりするのであります。 幸い、歴史的に悪政や過酷な圧政に長年の間苦しまなければならなかった、人々は少しくらいの悪党支配にはめげずに、自分たちの生活をより良くする手法を、営々と構築して来ています。不幸中の幸いとはこのことでして、政治がどんなに悪かろうと、自分たちの事は自分で始末をつける知恵と実行力とを、人々は人体に於ける免疫力のように、自然と身に付ける事が出来ています。 それも、これも、人智などは遥かに超えた神の行き届いた差配の御蔭様であります。 神が支配し、人間が素直に、それに従う。この単純な、当たり前な事が出来さえすれば、この世のことは何事も上手くいくのであります。出来損ないの罰当たりが、たわけた事柄をしでかしたから、それが廻りに廻って、今日の惨状を将来した。明々白々な事実であります。 私たちは、他人の事をあれこれと論うのでは無く、自分の為すべき事をきちんと自分で処理する。この一事を正しく行いさえすれば、何もかもが上手く廻って行くのでありますから、もうしばらくの辛抱を続ければよいのでしょう、きっと。前途に明るい希望の灯を掲げて、今の難局を共に乗り越えようではありませんか!
2020年11月25日
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心貧しい者は幸いである、そうイエスは言った。天の国はその人達のものである。へブル語では貧しい人とは柔和な人と同義であると言う。「圧迫を受けて、背を曲げた者の姿」が語源であるから。 ですから、心、霊が貧しくなっているので、ただ神に頼る以外に仕方のない状態にあることだと、キリスト教関係者は説明します。 さて、それを踏まえた上で、私の新解釈を此処で披露するのではありませんで、キリスト教信者でない私が思い浮かべる「心貧しい人」のイメージを検討しようと思うのです。 貧しいの反対は富んでいる、豊かである、つまり豊富な状態を言うのであるから、心が豊富であるとは一体どういうことを意味するのか。それから考えてみたいと思う。 私は自分の心が富んでいて豊かである。また、霊力がみなぎり溢れているなどとは、これまでにただの一度も感じたことはない。貧しいことに関しては、心のみならず、物質的にも、従って金銭的に poor であるとはこれまでに常に感じて生きて来ている。 つまり、貧しい者の飢餓感や欠乏感から来る強い空腹の感じは、馴れすぎる程に馴れて、自家薬籠中の物としている。これは、何も自慢にも何にもならないけれども、取り分け「心貧しい、故に背中が丸まり縮こまっている」者の心理は、ある程度は理解できる気がしている。 天の国とは、普通に天国、神なる父親が支配する精神世界、を意味するのだが、天国に入る資格を有しているのは、心が満たされず、神しか頼る相手がいない者だという。 私に言わせれば、頼る相手が神であれば、十分過ぎる程に十分だと思うのだが。如何だろうか…。 カエサルの物はカエサルに与えよ、と言い放ったイエスである。カエサルの物とはこの世での権力やそれに付随する諸々の富や利権など、人間が通常目の色を変えて欲している欲望の対象の全てを言うだろう。 すると、この世の全ての人間的な欲望の対象たる物質から、ことごとく阻害され、排斥されている貧者こそ、キリスト教の言う、「心貧しい者」と言う事になろうか。ひと握りの優越者とその権力構造に連なり、ヒエラルキーのピラミッドを構成する、心富める者以外、地上では救いが全て絶たれ、絶望している者、即ち心の貧者を、キリスト教の神は全部救済しようと意図している。まあ、大体において、大体の解釈では、大まかに言えばこんな所で間違いはないであろう。 しかし、私は聖書からそんな風には、神の意図を受け取らなかった。 私の信ずる神の概念からすれば、人間はすべからく「心が貧しい者」と言う範疇に属し、自分の心が富んでいる、豊かである、霊力にみなぎり溢れていると誤って認識している者達は、親鸞聖人の悪人正機説での所謂「悪人」であり、その正体は、真実の姿は、その誤って奢り昂ぶっている者こそは、神の救済の中心に居るターゲットであって、自分を「心貧しい」と既に正しく認識している善人は、遥かに以前の時点で慈愛溢れる神の愛の網の中にあり、救い取られている。 私は、人間が他の動物と違って神により近い存在である所以を、苦しみに耐える能力の多寡に見る者であります。真の悪人は、諸々の煩悩に支配されて、あの悪魔の声の命ずるままに、縦(ほしいまま)に欲望を追求して止まない一群の人々を指すのです。彼等は既に悪魔に魂を奪い取られ、それゆえに、自分こそは人間の中の勝れた者の中でも、最も優れていると心底信じさせられている。 これら悪魔の支配を受けて苦しまず、却って喜び勇んでいる哀れなる者達、通称はキング・王者などとおだてられ、彼に扈従する小集団によって俗権を恣(ほしいまま)にした悪魔の傀儡・木偶の坊達が、人類の歴史をあらぬ方向に歪め、人類の品位を尊厳を何れ程下落させたことか。いまさらに、私が此処で喋々するまでもないであろう。歴史は必然であったから、正しいなどと聞いたふうな事を言う輩を、私は断固として無視する。人類の歴史は必然であったが、大きな誤謬であったと、私は普通に判定する。 イエスキリストは様々な難病や不治の病に苦しむ人々を、その心根の善良なのを吉としてたちどころに癒すと言う奇跡を何度も示している。また、地上権力の象徴たるカエサルには一指をも触れず、圧政や貧しさに苦しむ無辜の民に向かっている。事実、この神イエスの偏ったと見える、事実偏っている、姿勢を鋭く批判する向きもあるが、私にはそれに加担する蛮勇はない。神の、人間には伺い知ることが出来ない深い愛情と、叡智とを知る故に。私には、今の私には説明できない、また、解釈が難しい行為にも、深い、深い意図が隠されていることを直感するのだ。 神は、人類全体を救済する目的でおられる。それには謂わゆる人類の中の悪だけを剔抉して、滅亡させればよいと普通には考えるかも知れないが、それは誤りである。善と悪とは混在してある。また時系列によっても善悪に変化があり、同じ人間が時には善であり、また時には悪でも有り得る。その様に神は人間を創造された。 それなら、神は人間の創造に際して、善しか行えないようにしたら、事は簡単であったろう。神にはその能力が十二分にあったのだから。 恐らく神は、人間を創造するに当たって余りにも親バカだった。つまり、誕生以前から可愛さが募って、遂には御自分にそっくりに似せてしまおうとなさったのだ。御自分は、完全無欠なる神は、完全なるが故に身内に在る悪的な要素を善の支配下に置き、コントロールされておられたから。 人間にも、生まれる前から溺愛を以て遇する余りに、過大なる期待を人類に寄せてしまったのだ。それを神の唯一の過失と責めるのは酷と言うもの。神の美点の最大なるものと、私は、被創造者の一人として賛美したいと思う。 父であり、母でもある神を、正当に御立派であると、客観的に評価出来る為にも、我々人類は、なお一層の努力を重ねなくてはならないだろう。立派過ぎ、愛情溢れる存在者の神に少しでも近づく為に。 少し結論を急ぎ過ぎたようであります。人間が心貧しいとは、一体どういうことなのかを、もう少し探求してみよう。 貧しいとは poor である状態とは、虚しい、空虚である事とは違っている。貧しさには期待がある、希望が残されてある。虚しさ、空虚の果てには絶望しか残されていないのだから。 貧しいとは謂わばスタート地点の様なものなのだ。そこから全てが始まる。生まれたての赤子を思い浮かべて見よう。植物の種の事を思っても良い。貧しい状態ゆえに、大きな希望が芽生えるではないか。明るい明日への期待と、望みとが自然に湧き出て来るではありませんか、最低限、取り敢えず必要な物以外は所有していないが故に。 貧しいから、素直になれるし、謙虚でも居られ、自ずから感謝の気持ちも生まれる。貧しさは、健康、健全、清潔、潔さ、明るさ、光、温かさ、希望、若さ、美しさ、微笑み、祈り、などの諸々の善が芽生え、成長へと移行する全ての要素が含まれている。貧しいからこそそれが可能なのだ。そこでは、悪でさえもが浄化され、美化されて、再生への準備がなされる。そうなった悪はそれこそ灰汁が抜けて、もう悪とは呼ばない、何物かに変化している。 だから、貧しい状態とは、あらゆる善が芽生えの状態で伏在していることを意味し、それ故に善き事の全てが可能性として存在させられている。そんな善いことずくめの缶詰なのだ。 これが心ではなく、肉体や物質の方で貧しいということになれば、良いことだけではすまされませんよね、当然のことながら。第一、あまり貧しさが募ったりすれば、人間としての生存が危うくなってしまう。清貧に甘んずという表現がありますが、これは貧乏が程よい程度であって、ひいては生活も快適に過ごせる、ある意味では肉体的、物質的に恵まれた状態を言うわけです。 清貧とは、無理をして富を求めず、行いも清らかで、貧しい生活に安んじている状態ですから、ある意味での人間の理想的な生活を意味していますね。清貧ですから、安んじる事が可能なので、富豪の生活に安穏さはないわけで、欲望にはきりがなく、己の所有する富はいつ災害や盗難などで失われてしまうか分からないので、不安が寝ている間も彼の胸中を去ることはありません。 つまり、神は無言のうちにも貧しさを推奨して止まず、反対の富栄は人間の安住する場所ではないことを暗に戒めている。 朱に交われば赤くなるの言葉の通り、朱という欲望・渇望は節度や節制ということを弁えず、どこまでも赤さの濃度を強めようと欲して止まない。また、悪性の伝染病の如くに、身近に接した者を己と同じ色に染めて、次々と伝播させる。清貧が選ばれた少数者だけに限られるのとは、好対照をなしている。 善は常に少数者の嘆きをかこち、悪は世に蔓延るのが通例となっている。 ここで、私の場合の貧しさ、貧乏との関係について、書いてみようと思う。本当の幼少期は、ちょっとした御大尽の坊ちゃんと言った生活を送っていましたが、以後は食うや食わずやと言った程のではないにしても貧乏人の仲間入りは間違いなく出来る生活状態を、今日に到るまで続けております。途中の四十年程は仕事柄で、一見お金持ち風の生活を送ったし、貧乏人の名には相応しくないお金の使い方もしておりますが、実態は、個人の家計としては決して裕福などとは言えない、生活でありました。 それが証拠と言っては何なのですが、家の子供達は家内から「家は貧乏なのですから、贅沢はできません」と口癖の如く言われて育っています。これは以前にも書いたことですから、これだけに止めます。が、私にとって貧しい、貧乏であることが私の人生を歪めたり、誤った道に足を踏み込ませた、と言った事は全くありませんでした。それどころか、私の場合には、心と、物質面での貧困さが、有り難い事に私をまっとうに成長させてくれた、原動力になっている。貧乏さまさまでありますね。 神の過大な愛情に値する対象であるか否かは、これからの我々の生き方次第で決まる。などと、評論家の如き論評はすまい。我々は、私は、神の有難い愛情に応えるべく、奮励努力を重ねなければならない。私は私の人生から受けた恩恵に報いる意味でも、寿命が尽きる瞬間まで努力を続ける所存で居ります。
2020年11月21日
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自然への畏怖と、自ずから然りという言葉を廻って思いつくことなどを書くつもりです。 昨夜、以前のカウンセラーの仲間から飲み会に誘われて、行ってきました。家族以外とお酒を飲むのは久し振りの事でした。幹事役の海老原さんが非常に気遣いの行き届いたお方で、最近は頓に出不精になっている私も、気軽に参加出来ました。 以前、支部会の支部長を長年務められていらっしゃった上条さん、近年益々元気溌剌たる二宮さん、オートバイで颯爽とツーリングなさっている市川さん、など総勢五名の宴会でしたが、終始会話が弾み、楽しい一夕でありました。 ある程度気心の知れた仲間との屈託のない団欒は、人生のオアシスとして、又心の糧としても大切な物であります。自由参加で、義務や強制でないのがとてもよいのです。 私はサラリーマン現役の頃は「宴会屋」と呼ばれた程に仕事のスタッフとの飲み会を主催したものですが、それはそれで楽しく、有意義な場ではありましたが、仕事の一環である事実は明瞭でありましたから、私もそのつもりで、心してその場に臨んだし、常に宴会費用の捻出に腐心していました。 さて、自然への畏敬という事ですが、この場合の自然は英語の nature の訳で、明治期以後は専ら翻訳語として日本語として定着して、今日に及んでいます。しかし、古代から日本人は自然環境としての山河海、草木に至る迄の諸々に神・god を感じて恐れと畏怖、敬いの精神を抱いて来て居りましたから、信心深いことでは、世界中のどの民族にも劣らない精神性を発揮しております。 台風や河川の氾濫、火山の噴火、大地震、津波など、人の力ではどうしようもない絶大な力が、常に私達の生存を脅かし、人々の尊い営みに対して、決定的な支配力を及ぼしている事実を、夢寐にも忘れることは出来なかった。その様な自然の驚異には人間の微弱な力では対抗しようにも、その手立てを見つけることは出来ない以上は、ひたすら畏敬の念を捧げて、その怒りの鎮まるのを待つしかなかった。 この基本的な関係に、今も、今後も変化が無い事は自明であります。が、現代人は、神々に対する畏怖心をいつの間にかどこかに置き忘れて、当たり前なような顔をしている。それで良いわけがないのに。 所で、二つ目の自ずから然る、の方ですが、「じねん」と読んで、取り分け仏教の方の心の悟りと深い関係を、伝統的に保持しております。 この大宇宙での生成と滅亡とは、誰の仕業とも知れず、おのずとその様に展開し、収束している。その様に達観する。我々人間の喜び・悲しみ・嘆きなどの諸感情は、大自然の営みという偉大な働きの、小さな反映として、各人がそれぞれの置かれた立場で受け止める、その仕方であり、従って、人智を遥かに超えた作用である。 人間だけではなく、生きとし生けるもの全て、更には山川草木の全てがそれぞれの仕方で、大自然の圧倒的な力に抗すべくもなく、ただひたすらに受身で、大きな流れの中を漂い、流れ、流されている。 この自ずから然る本質に留意すれば、人間は今日の如き 傲岸不遜 には生きられない筈のもの。蟷螂の斧という言葉があるが、到底敵わない強大な相手に対してさえ、思わず知らず身構えてしまう微弱な力に対する自嘲の表現である。又、井戸の蛙、大海を知らずも同様の趣旨である。 我々人間は、時間的にも、空間的にも小さな点に過ぎず、無限に伸びている直線を俯瞰して見ることは出来ない。何故かは知らないけれども、自ずから然る成り行きの結果として、前後左右空漠たる闇の中の矮小極まりない小点として存在させられて在る。かくの如き存在を果たして、存在していると言って良いものか、甚だ心もとないのではあるが、仮に真実存在するものとして、自己とその中に置かれている nature との関係、並びに、意味合いについて意味付けをするのであれば、自分に有意義な仕方で解釈するのがベストであると、私などは思うのですよ。 つまりは、自分の命を輝かすのに有利な線で考える。その自由は少なくとも 与えられて いるのだから、その自由を 勝手に 行使して悪かろうはずがないのだ。私は随分と自虐的な精神構造を持って、私の前半生を渡って来ているが、今は超がつく程に楽天的、積極的な気持ちに切り替わって、天寿が尽きるまでの後半生を生き切ろうと考えております。 私の人生は神から多大な祝福を、過分な果報を頂戴している。ならば、その御恩報じにこれからの日々を鋭意使って行きたい。親切の押し売りはいけない。愛されたくない女性から口説かれても、少しも嬉しさを感じなかったから。同様に、有難さを感じない相手に、自分が親切と思う「勝手な親切」を押し売りしては先方に迷惑を及ぼすのが、関の山である。相手との間合いをタイミングよく捉えて、自他共にウインウインの関係で、人生を輝かす仕事に邁進する。これが私の今後の目標であります。 今日、このようにして在るのは、自然の営為の結果であります。ビッグバンによって引き起こされた宇宙の膨張は今尚続いているそうですが、永久に膨張を続けるのか、それともどこかの時点で収縮に転じるのか、今のところ予測がつかないそうですが、どちらにしても、今を生きている私どもには全く無関係な途轍もない現象であり、この様な宇宙の一隅であるからして、地球でも大陸が大きく移動し、生命の限りない変転が、発生と消滅とが絶え間なく繰り返されている。 私達人類もその一環として、激動する諸環境と共に変化してやまないのは、当然の帰結であろう。我々は一体どこから来て、何処へ行くのか、の疑問には、取り敢えずビックバンに始まり、その終局に到ると答えるのが合理的な思考と言えるが、ビックバンを起こした宇宙の種はどこから来たのかを問われれば、真空の中に何処からともなく姿を現した、そう現代科学の最先端を行く学者が説明する以上は、取り敢えずそれを信ずるより仕方がないわけである。 全く、雲を掴むような話で、この伝で行くと、われわれが大宇宙などと形容するこの宇宙など、真空さえあれば無数の宇宙種が見えない壁をすり抜けて出現することになろうか。 合理的な演繹、推論の結果は不合理で、理屈に合わないヘンテコな結論に行き着いてしまう。ならばいっそのこと、我々の想像も及ばない絶対者を想定し、それを神と名づけて、神が全てを「存在あれ」と唱えたので、この世に存在が芽生えた。そう考えるのは、科学的な思考よりは、少なくともより合理的な思考と言える。そもそも、合理的ばかりではない対象を、合理一本槍で押し通すのには無理があり、それをがむしゃらに押していけば、後には不合理要素だけが残ることになる。子供にでも分かる、道理なのだが、自分だけが正しく、偉いと頑なに信じている者には、真理がどこかへ姿をくらましてしまっても、その理由が理解できないわけだ。 英語で intuition 、直感こそが、ある部分では合理思考に数段勝る事を、先ず認めなければならないだろう。合理的な思考・推論が先か、直感力によるブレイクスルーが先かの議論はともかくとして、その両者の巧みな使い分けを駆使することによってしか、我々の前に立ち塞がっている難局には、立ち向かえないことだけは確かであろう。 だから、真空と、宇宙種の件にしても、真空の定義の吟味や、宇宙の種と命名した対象の再吟味が必然的に要請されていることは、俊敏なる宇宙科学者が一番に承知している所であろう。始原に関する前提条件は終末の検証以上に困難が付き纏う。やわな合理の刃などで、方がつく代物ではあるまい。 私の直感であるが、ニーチェの永劫回帰は本当で、一度起こったことは何度でも繰り返し起こる。私を例に取れば、私は永劫の時の経過の後に、悦子と巡り合い、再び結婚する。それは間違いのない事実であって、勝手な妄想などではないのだ。ビックバンを裏付けたス-パーコンピューターのシュミレーションを盲信するよりも、遥かに信憑性に勝る考えなのである。笑う人がいれば勝手に笑うが良い。笑う者は救われるのであろうが、私は既に救われて満足している。誰が何と言おうとも、私のこの直感は正しく、正当なものであり、既にして私を夢見心地にしてくれている。 それだけではないのだ。私はそうした自己の内的な体験から、人生を肯定し、積極的に生きる事を知った。どの様な宗教よりも絶対者・神の存在を感じ、有難いと心底思う感謝の念も自然に学ぶことになった。悦子とのホスピスの部屋での所謂「永別」を悲しみだけでなく、ある種平穏な心のままで迎えた体験を思えば、人間としての感情を超えた何か別の情感に支配されていた。 死は死であって、死ではなかった。譬えば昆虫などの脱皮を想像すればよいのではなかろうか。普通の人間としてのステージから、別の何かへの飛躍的な移行であった。そのメカニズムについては全く理解が及ばないのではあるが、地球を離れて別種の星にでも旅立つごとくに、悦子という存在、地上では肉体と清らかな魂とで成長を遂げた一個の霊的な生命体が厳かに飛翔を果たした。そう、私には認識出来る。 全大宇宙の神秘に包まれた在り方よ、有難う! そして、永劫回帰のあり方に感謝。私は、気の遠くなるような永い、永い眠りの後に、白紙状態でまた元の魂的な存在者として復活を遂げる。 すると、復活を遂げるのはイエスキリストだけでは無かったことになる。人間として現世に存在し得る者は皆、再び三度、地上に、地球に生還する。少なくとも、その資格を有している。 それと知って、どれだけの人が喜び、どれだけの人が嘆き悲しむのか。所謂最後の審判とは既に判決が下されていた。悪人は悪人のままで永劫回帰し、善人もまた同様である。言うまでもないが、悪人も善人も本来はいないのだ、神の目から見た場合には。それを、肝に銘じよう。 人間とは結局、素晴らしい存在なのだ、間違いなく。これが私の、善人であり、同時に悪人でもある私の結論である。人間万歳、そして、生きとし、生きる物に幸いあれと、私としては可能な限りの祝福を送りたい。共に、この現実という大きな舞台で名演技を披露して呉れた人々に、拍手を送りたい。
2020年11月18日
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今回は生きることの意義について、少しばかり考えてみたい。 お前は今、何のために生きているのか? そう聞かれたら、私はこう答える。生きているのが楽しいからだと。 ( そんな訳があるわけないだろうが。生きていて楽しいだって! 寝ぼけた事をほざくのも、ほどほどにしろよ。昔はよく八苦の娑婆って言ってたものだが、今じゃあその二倍や三倍じゃ足りないほどに、苦しみや悲しみ、ため息の出るような事ばかりが次から次へと出現しては、我々を悩ませていると言うのに、何を後生楽な御託を並べようというのだ… ) ですから、ですから、臍曲がりを自慢にこの世を渡っている私としては、是が非でも「生きるは、楽しい。八楽の人生」と法螺まがいのモットーを世間様に吹聴しないではいられないのですよ。 このブログも義理や義務などで書いているのではない。書くのが楽しいからだ。これが何か、商売だったり、誰かに頼まれたりしてのことだったりしたら、直ぐに嫌気がさしたり、苦痛を感じたりして、多分私のことだから長続きはしない筈である。 この世で長続きするのは、お金を稼ぐために仕方なくする事ぐらいではなかろうか。つまりは、商売とか人に雇われてサラリーマンとして拘束を受けているから、と言うのが大部分ではなかろうか。 私も、サラリーマン生活を四十年近く送ってきた。身分と立場は確かに現代の「奴隷」的な地位・サラリーという軛に繋がれての身売り奉公であった。 しかし、幸運な事に、私の精神と実質的なあり方は、見かけとはまるで違っていた。私は 奇跡的 に現代の自由人という極めて恵まれた立場を貫きと通すことが許された。これは私の性格と、少しばかりの才覚とによるものだが、大半はラッキーという偶然の成せる業である。 具体的に言えば、私はテレビドラマの制作会社のプロデューサーとして、謂わば英才教育を受けています。先輩のプロデューサーには新東宝という映画会社から生き残っていた優秀な方も何人かいらっしゃった。私はそうした方々にマンツーマンで付き、プロデューサー補という資格で、見習い二ヶ月という驚異的な短期間で、入社して直ぐに実質の現役プロデューサーと同等の役割を果たしたのでありました。 映画で言えば、四十代のプロデューサーは駆け出しと言われ、五十歳、六十歳で一本立ちしたと言われたものです、初期には電気紙芝居などと揶揄されたテレビでしたが、ご存知の如くに斜陽の最晩期にあった映画に替わって、娯楽の花形の地位に一気にのし上がったテレビでありました。 中でも制作予算の嵩むテレビ映画(当時はフィルム制作でしたので、そう呼ばれました)の制作を取り仕切るプロデューサーの地位は高く、社の内外での尊敬を集めていたものです。 その地位に、大学出たての青二才がいきなり就いたのですから、周囲からはある種畏怖に近い目で見られていた。因みに、タイトルの付記されない時代は数年で過ぎ、若干二十七歳の若さでタイトルが入る一本立ちのプロデューサーに昇格した私ですが、その時には、私は実質的には何百時間ものドラマを手がけた大ベテランの域に達していた。 こうして今、必要上ある程度の説明が必要なので書いておりますが、改めて「凄いことだった」と感じるのですが、当時はそれで「当たり前」と自信満々でいましたね、実際の話が。これ自慢の為に書いたわけではなく、私のサラリーマン生活がスタート時点から非常に特異だった事を、偉いとか、偉くないとか、優秀だったとか、の評価を抜きにして、説明したまでの話であります。 因みに、私はこの業界に何らの伝手もコネも無く入っています。入社した後で知ったのですが、映画の時代からドラマの制作に携わる者は、業界内に知人とか、親戚とか、兎に角何らかの縁故関係がない限り、入ることは不可能だった。全盛期の日本映画は当時のエリート集団だった伝統があり、その流れでの現象でありましょう。 世間知らずの私は、怖いもの知らずで、極めて特殊な集団社会に、闖入者の様に飛び込んでしまったわけでありますね。ずっと後になってから、どうしてテレビドラマのプロデューサーになったのかと、人から度々質問を受けましたが、私は「自分でもよく分かりません」と答えるより、仕方がありませんでした。運命の悪戯とでも、言うのでしょうか。 とにもかくにも、私は水を得た魚の如くに、実に馬の眼を抜くと形容する以上に苛烈な生存競争を、矢玉と言う流れ玉にも当たらずに、易々と生き抜いたことになるのです。それはそれとして、楽しいだけの稼業では決してありませんでしたよ。ちょっとした不運があれば、莫大な赤字を負ってしまう。扱っている金額が並ではありませんので、私は運があくまでも強いので、大作、特別作品を担当する機会が多く、それだけ肩に背負っていた責任が普通ではなかった。「西海道談奇」と言うフジテレビの特番で、テレビでは異例の大ロケーションを大分県内で展開した際には、作品的には成功しても、所属している会社に大損を蒙らせる事になるのではと危惧して、夜も眠れない日が続きました。作品と言うものは、大きな歯車と同じで、一旦動き出してしまうと、人力では制止が利かない。運を天に任せるより仕方がないのだ。当時は今のように安心して天に任せきることなど不可能でした。俺が、俺が、で何事もやっておりましたから、肩が凝って、肩が凝って、それこそ死ぬほどに辛い目をみました。 おっと、ついつい、愚痴話になってしまいましたが、こうした文字通りに血の滲むような苦労をしても、その事自体が、同時にワクワクするような楽しい事でもあった。この感覚は、体験した者でないと分からないでしょう、恐らくは。尊敬する畏兄・能村庸一氏だけでしょうか、頤使し得る立場の私に可能な限り寄り添い、苦労を共にして下さったので、我が事として苦しみを分担して下さった。 こうした私の仕事の在り方を、何に例えたらよいのか。野武士の集団とでも、極小中小企業とでも形容したら当たらずと言えども遠からずで、謂わば命懸けで戦場を駆け巡る集団のボスが私で、スタッフは可愛い部下と言ったところ。しかし、上下の支配と被支配の関係ではなく、同好会のような仲間意識で、強い信頼という紐帯で結ばれていましたね。楽しかったです。仕事が、きつい仕事が、ちっとも辛くなどなく、血沸き肉躍るワクワク感なのです。 サラリーマンであってサラリーマンでない、奴隷であって身動き自由な自由人とは、こういう仕事ぶりが可能だった私の仕事の実態であった。 局プロと制作プロの立場の違いこそあれ、物を造る情熱においてはどちらも謂わば命懸けであった。プロとアマの違いは技量の巧拙以上に、銭を稼ぐか否かによるだろう。私達、能村氏と私とは確かにプロとして仕事をしていたから、プロフェッショナル精神を発揮していたに相違ない。しかし、実態はアマチュア精神横溢する、良きディレッタントと言うべきであった。プロフェショナル以上にプロ精神を発揮する職人でありながら、同時に誰よりも仕事を楽しんでしまっていたから。道楽や趣味で出来る生易しい仕事ではないのに、いとも易々と困難さやしんどさそのものを心底エンジョイしてしまったのだ。 能村氏などは常々「私の玩具」と、仕事を、時代劇制作に携わる事を、公言して憚からなかった。聞き様によっては不謹慎な言葉と聞こえようが、誰よりも仕事に打ち込み、寝食を忘れて仕事に打ち込んでいた氏の熱中ぶりを知る人は、襟を正さざるを得ないであろう。好きこそ物の上手というが、それを地で行ったのがフジテレビの大プロデューサーの能村氏であったから。 能村氏ほど公平に、また平等に各制作会社とお付き合いした局プロも珍しいだろう。楽をするのであれば老舗とは言え、最弱小プロダクションに落ちぶれ果てた私の所属する会社などと、長く付き合う必然性などは全く無かったのだ。しかし、どこかで馬が合ったのであろうか、結局、私が定年で業界を去るまでの間長いお付き合いが続くこととなった。それもこれも、二人に共通した人生を大いに楽しみ、この世の苦労を忘れてしまう。もしくは、現代の錬金術師よろしく、苦しみを転じて楽となしてしまう、天性の性格と性分、人生観など多分に天与の幸運に幸いされて、水中の魚、天を飛ぶ小鳥の如く、自他ともに人生を謳歌する術を自然に身につけていた事に由来するでしょう。 この人生を骨の髄まで楽しむ生き方は、私の定年以後の後半生でも少しも変わらずに、続いていること。ハローワークに通ううちに、人生の先輩からキャリアカウンセラーへの道を教えられて、通信教育で猛勉強して資格を取り、仲間と共に勉強会などへも参加したが、プロのキャリアカウンセラーとして働く事はなく、教師と学習塾の講師として収入を得る様になってからも、同じ様に、ただお金を得る為だけではなく、人生をエンジョイする精神は忘れずにいましたし、今日只今も、それは変わっておりません。 私のように貧乏に生まれ、貧乏裡に生きてきた者にとって、何らかのプロとして働くことは生活上で必要な事でありますが、それだけでは単なる奴隷的な存在であって、人生を謳歌することなど、及びも付かない。仕事を通じて人と接し、その事を通じて某かの社会貢献をする。生きる上で、逃れられない必須の条件を独鈷に取って、自らの人生謳歌の道具としてしまう。 学生時代に教員の免許を取ったのは、卒業後に直ぐ、教職の道に進む考えがあったからですが、若気の至り、教師も人間の一種であると言う極めて当たり前な現実を知って、遠回りをしただけで、教師とは私にとっては遂に進まざるを得なかった場所だったのです。 高校でも、学習塾でも、他の人が不可能としたことを易々と成し遂げたのは、私に特別な才能があったと言うよりは、生徒の側、教えを受ける側の立場に立って、その人の気持ちに添った指導をする。そういう、言ってみれば極めて当たり前な事を行った結果なのでありました。生徒も私も、共にウインウインで過ごせたのは誠に幸運な事でありましたね。
2020年11月12日
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人間らしさ とは何かを少し考えてみようと思う。英語では humanity 人間的属性とか人間性とかになるだろうか。 国により、又、民族によっても色々な違いがあるだろうし、同じ国、同じ民族であっても異なる特色を示した場合もあるだろうが、人類の歴史全体を見渡して普遍的に見られる諸特徴をここでは考察することにする。 一時は極端な人間嫌いに陥っていた私だが、極めて健全な精神状態に戻った今現在では、人間大好きに変身している。その私が第一番に上げたい人間らしさは、優しいと言う事です。最も、シェークスピア流に表現すれば、優しいとは ( 時には、残酷とか薄情、冷淡に豹変することが多々あるのだが )人間属性の基本であろうと思う。日本で言えば、慈母とか慈父とかの言葉に表れている属性である。尤も現代ではこの形容詞の「慈」が化けてしまって、鬼とか畜生の如き、とかに変化してしまったかの如き、異様な風景があちこちで見られているのではあるが。 しかし、嬉しいことには慈母・慈父の伝統は根強く残っていて、嘗てささくれだってチクチクと傷んでいた私の心の傷を癒してくれる。母性愛よ、父性愛よ、永遠に輝いてくれ! そう願わずにはいられない。 でも考えてみれば仏教の教えから見れば、末法・末世もいいところで、正法が完全に消滅しないで曲がりなりにも残存してくれている奇跡の方を、むしろ喜ぶべき事なのであろう。 私の人間に対する表現はともすれば、否定的な嫌悪に走りがちであるが、その根底には「人間が、この奇妙な生命体が愛おしく、大好きで堪らない」との切ない程の溺愛があるからなのであります。自分を含めて人間存在の全てを全肯定したい強烈な衝動が、ついつい私に過激過ぎる悪口へと走らせている。そう御承知おきください。 第二の特徴は、素直だということ。素直は、捻じ曲がった根性とか、邪推ばかりする臍曲がりも、残念ながら蔓延しているので、その反対要素を多分に含みつつ、人間らしさを構成している。 よく引用するのだが、愛の反対は憎悪ではなく、無関心だと喝破したマザーテレサは限りなく神に近く優しく、素直な御方だったと思う。キリストの犠牲的精神を全面的に受け継いで、神々しいまでの献身愛を路上に放置された捨て子に注いで止まなかった。神性に包まれたマリア像の極致ではありませんか、人類にマザーテレサが出現した事実だけで、人類はこの美しい惑星・地球に生存した価値が認められるであろう。 第三には、公正な判断力を上げたい。独断と偏見の乱用、邪悪な不公平も、人間社会には腐った林檎の如くに散乱猖獗して、目を覆わしむる所が大いにあるのだけれど、それにはこの際、目を瞑ることにする。プラトンや本居宣長などの偉人のそれは勿論の事として、一先ず横に置いておくことにする。ここで私が特筆したいのは、一般庶民の中にしっかりと根付いている極めて公正な判断の力である。どの様な強権にも屈せずに、己の信ずる所を迷いなく貫き通す、正しく揺るぎのない判断力。これは名もない庶民が自らに誇って良い一大美点であろう。 次には、チャーミングだと言う事を言おう。見た目の素敵さは言うもでもないが、心根の麗しさでも生物の中でも、群を抜いているだろう。ここでまた、反対の悪口を言わなければならないのは、残念で仕方ないのだけれども、思わず眼を背けたくなる醜怪な怪物と評さざるを得ない種族も、他の特徴に劣らず数多く地上に蔓延っている。元々、人間は無条件に美しく、見た目の外見だけではなく、その心や魂の輝きは殊のほかに勝れているもの。生まれたばかりの赤子を一目見れば、それが嘘でないことは証明される。 人間に限らずに、創造主の神が創られた生き物は、自然状態では眼を見張るほどに美しく、魅力ある存在であった。イエスキリストの言葉ではないが、咲いたと思ったら直ぐに枯れてしまう定めの、例えば野の百合であるが、人間の最高の王者がその栄華の時代に身に纏った衣装や装飾物など足元にも及ばない豪奢な衣装を纏わされているのだ。人智、人為などと自己を誇ってみても、所詮は、神の御業には及びも付かない。己の限界と分とを、よくよくわきまえる必要があるだろう。限りなく謙虚にへりくだった極限において、尚且つ自己を誇るならば、それはそれで良いのだが。 次の特徴を上げよう。賢明であること。歴史上の名だたる賢人、偉人は言うまでもなく、名もない無名の賢人・聖人が数限りもなく出現して、人間の名を生物界に高く轟かせて、創造主をも驚嘆させている。これは他の被造物には見られない、特異な現象であろう。もう、書くのが嫌になるほどに、この長所に関しても悪口と言うか、正反対の欠点を容易く列挙出来てしまうのが、無念でありますよ。 愚鈍、鈍感、暗愚、大馬鹿野郎、根っからの阿呆、などなど、呆れるほどにこの種の輩が娑婆世界に蔓延って、我が物顔に振舞っている。悪貨は良貨を駆逐するとはよくぞ言ったものであります。そういう他の者が辟易する者に限って、自慢顔に娑婆塞ぎに余念がないのが、実に困りものでありますね。 さて、話の途中ですが、今朝の夢について書かせて下さい。人間らしさに関する事で、非常に重要な示唆が示されていた様に思うのです。夢の中で或る現役からは引退した老学者が出て来ました。何やら御自分の学者としての業績やら、名声について大変な不満がお有りのようでした。その老学者がさる大成して立派な記念館まで公共団体か国によって設立された大家の揮毫した記念碑の上に、見事な筆致で御自分の御名前を、その辺に落ちていた石でもって突然殴り書きの如くに彫りつけたのでした。そして、一旦はその場を離れたのですが、しばらくすると慌ただしく元の場所に戻って来た。そして、さっき御自分の彫り付けた文字をしげしげと眺めている。やがて、老学者の顔に満足げな安堵の表情が浮かんだのです。この一部始終を傍らで見るともなく見守る形になった私がその記念碑に近づいてよく見てみると、それは実に見事な筆致で署名された老学者の名前だったのです。 夢については、これだけの事です。ブログの事が夢の中でも無意識に気に懸かっていたので、こんな奇妙な夢を見たものと想像されます。 そこで、五番目の人間らしさの特徴として、名声への飽くなき執着を挙げておきましょう。こんな私でも名声への憧れはありました。二十代にして、テレビ全盛時に、全国放送の八時台の所謂ゴールデンタイムに番組プロデューサーとしてタイトルされたドラマが放送される。虚名ではありましたが、一時は足が大地から離れて宙に浮いた様な強い陶酔感に幻惑された体験があります。私の場合には、実体のない虚名の中の虚名でしたので、直ぐにその陶酔からは覚めてしまいましたが、何ともこそばゆい様な晴れ晴れしさは少し後まで残りました、恥ずかしい話ではありますが。 美酒に酔うという表現がありますが、本当に美酒に酔ったのなら、どんなにか酔い心地も素晴らしかったのか知れませんが、私の場合は何度も言うようですが虚名中の虚名でしたから、その酔い心地といったところで、あっという間に醒めてしまう実に儚いそれでありました。 しかし、翻って考えてみると、謂わゆる赫赫たる名声等と言ったところで、所詮は虚名と変わるところはなく、直ぐに実態のない蜃気楼の如きものと、悟らされる体のものではないだろうか。そんな風に、何か悟っと様な事を口にするのも、年のせいなのでありましょうか。 名声欲に負けず劣らずに熾烈な要求が権力追求の志向でありましょう。かのナポレオンもアレキサンダー大王も、さては織田信長や徳川家康など英雄豪傑と呼ばれるほどの人なら、みなこの権力の化物に取り憑かれた被害者のような存在ではないでしょうか。 ともあれ、人を支配し、又、人・英雄豪傑から支配されたいと希求する事程に人間である鮮やかな証拠は無いのかも知れない。この一事だけ取っても、イエスキリストは人の子ではあっても断じて 人間 ではなかった。カエサルの物はカエサルにと、いとも容易く言ってのけているのですからね。思うに、人間とはこれ程までに我欲、小我の妄執に苛まれ続ける哀れな代物なのでありますから、呉呉も英雄崇拝などというまやかしの宗教には踊らされない様に、ご同輩、ご注意致そうではありませんか。 さてそこで、支配し支配される権力の仕組みである政治についての話に移りたい。現代の政治機構では民主主義が全体主義を凌駕して、地上では優勢を示している。で、デモクラシーの悪口を言って、人間の特性の一つである政治に関心を寄せる材料としてみたいと、思います。 どんな事柄にもプラスとマイナスがある。といういつもの私の口癖の延長上での民主主義・デモクラシーへの八つ当たりと、受け取って下さい。 一般大衆が支配者であるとする前提の上で、代議員が全体を代表して議会を構成している。その議会の支配者が政府であり、内閣であります。現在の日本では総理大臣が支配者の頂点に立っているのだが、実情は支配者と呼ぶよりは、統治機構の調整者としての役割が顕著である。統治者は偉いのではなく、本当に偉いのは一般大衆たる国民の側であるとする、建前からすれば、当然そうならざるを得ないのだ。 そんな馬鹿な話が、一体あるだろうか。例えば、このボンクラの私が支配者より優れていたり、賢かったりする道理がないではないか。どうせなら賢く、立派なお人に統治してもらいたい。そう願うのが人情の自然と言うものではないか? 違いますか。中国の大昔に神のような聖人が統治する、理想の国が存在したと言う。孔子様という大賢人が仰るのだから、真実であると信じる。しかし、孔子の時代にしてそれは遥かな伝説の時代として消滅していた。現実は、麻のごとくに乱れに乱れた乱世が続き、それが今日にまで及んでいる。 理想の王、聖人による統治が無理であるからには、万民が平等だとする仮定、前提の上にしかみんなが納得する政治体制は成立し得ない。そう思う、識者たちの考えは理解できる。しかし、現実を見る限りは、少なくとも私などは、到底納得など出来はしない。 みんなが互を監視し合う。油断すと、いつの間にか誰かに出し抜かれて、とんでもないことになってしまうかも、しれない。そうした猜疑心と下衆根性が生んだ政治機構が民主主義の正体だとする考えに、私は頷かざるを得ないわけだ。然らば、どうしたらよいのか? 神の位置まで祭り上げられた「愚民」たる私達一般民衆が、真剣に、時間をかけて、根本から考え直す潮時だと愚考する者でありますが、あなた様のお考えやいかに、如何に!?
2020年11月07日
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前回との関連で、内面・心を磨く事について書き加えてみようと思う。 私は前回、周りの人を見れば良い。反面教師が大勢いるからと書いた。私自身がそうして来たから、そのまま書いてしまったのでが、現代は人が大勢いるだけで、親しく、心を接する様な人間関係は希薄になってしまった。孤立し、家族関係さえ満足に持てていない人々に対して、少しばかり不親切な言葉であったかも知れない。そう反省しております。 然らば、どうしたら良いか。それを一緒に考えたいと思う。私も、世間に出るまでは、狭く、限られた人間関係の中だけで育っている。娯楽といえば紙芝居とか、ラジオ、映画くらいしかなかった。毎日顔を合わすのは家族と、隣近所の人々、学校の先生や級友ぐらいだった。後は自然環境としての虫とか小鳥と言ったものぐらいしか、私にはこの世に友と呼べる相手はなかった。 次第に活字を通して本という社会との通路が開けた。私の頭の中で社会というおぼろげな全体像は、こうした非常に限られた、謂わば極限的な狭隘な情報源を経て来る物だけに絞られていた。 そして私は、謂わば都会の自然児として成長した。だから、私は現代という社会に生を受けながら、実質は孤独な原始人と同様な在り方をしていた事になる。事実、私は「一人称の世界で呼吸して」いたのだ、ある日、ある時に、はっと「我に還った」瞬間を迎えるまでは。 この、私が実際に経験した 奇妙な覚醒 をどう説明したらよいのか、正直、私は途方に暮れるよりほかに、仕方を知らない。私は限られた人々とは言え、確かに社会的な存在だった筈なのに、実質は一人だけの世界に生きていたのだから。一人称の世界だとか、原始人だとか表現したのは、苦し紛れではあっても、誇張や、誤魔化しではない。 こうした大人への実質的な脱皮の第一歩は、誰にでもあるプロセスなのであろうが、私の場合には徐々にではなく、あたかも雷に打たれでもしたかのごとくに、余りにも急激にやって来た訳である。 活字の次に、社会との接触という点で、テレビの持っていた意味合いは非常に強かった。しかし、たかだかこれくらいのチャンネルしか私には実社会との生きた交流は持てなかった。そして、私の持っていたこの世のイメージは暗く、忌まわしいそれであった。それ程の潔癖症とも思えないが、こんなの嫌だ、死んだ方が増しなくらいだ。死への刹那的な衝動を覚えた事は一再ならずあった。しかし、強烈な恐怖感の為に実行は出来なかった。 十代終わりのこうした暗く、絶望的な心理状態の息苦しさは今でも鮮明に覚えているのだが、何故そんなにも自分が心理的に追い込まれてしまったのか、については定かではない。自分の事であるのに。余りにも苦しく、切ない気持と言うものは、いつまでも記憶して置くと有害なので、忘却装置が巧みに作動して生命を健全に保つメカニズムが、我々の身体には生まれながらに備わっているのだろうか。 さて、本題に戻ろう。自分の心を磨くには、一生涯自分とだけ付き合っているやり方では、上手くいかないであろう。第一、そんな風に生きるのは、凡人には無理な相談だろう。 自分以外、他者との交流がどうしても必要である。他者という鏡に映った自分を知り、自己矯正を図る必要がある。当たり前の事だが、人間は社会的な存在であるのだから。他者と、社会との平衡、バランスを取りながら、自己の生き方を上手にコントロールしなければいけないだろう。そのコントロールの仕方に巧拙はあるにしてもだ。 だから、何かしら、自分に適した社会、乃至は、他者との接点を探し、出来ればそれを量的、質的に高めていく努力が求められる。最低限の努力、最低限の忍耐、は生きるに必要不可欠と腹を括って、精一杯の頑張りを発揮しよう。少しずつ、余り無理をしないで、一歩が無理なら半歩でも、四半歩でも、兎に角目的に向かって前進しよう。 私の知っている人達の中で、一番ハンディキャップを背負っていると思われる、「引きこもり」状態の人を想定して、考えてみようと思う。 彼らは、テレビやインターネットを活用することは、無理なく出来ているようでありますから、最初は一方通行で構いませんので、それをツールとして使い、実社会との接触、交流を始めてみよう。そして、とにもかくにも自分を豊かに、人間味ある魅力に溢れた個人として作り上げる工夫を、様々に試みて下さい。自分が今現在でも社会にとって意味のある、それゆえに重要な一人の社会人なのだという自信をしっかりと確立して下さい。これが、非常に重要であります。自己肯定感を強く持つこと。誰がなんと言おうとも揺るがない、地球に匹敵する自信を持って下さい。( 神を信じられればよいのですが、取り敢えずは自分自身をしっかりと信じて下さい。誰にも迷惑を及ぼす事のない、人間としてこれ以上はない、立派な行為なのですからね ) この世で今現在、最も困難で苦しい状況の中に立たされている私や貴女は、もしかしたら、いやいや、きっとそうに違いないのですが、正真正銘の神仏から一番多くの慈愛を受けているのです。今、受けている艱難辛苦という闇は、光を探すのには最高の条件なのですから。今、最も必要としている光は、真の闇の中でこそ輝きと光度を発揮する事は、謂わば自明ではありませんか。 それから、念の為に付け加えるのですが、私が比喩として使っている光とは、肉体の眼が捉えるそれではなく心が、魂が求めている糧であり、水であり、温かさなのであります。その光は、今現在、どの様な経由地をも経由しないで、ダイレクトにあなた目掛けて直進している。後はあなたの方で、心の目で、魂の眼力でしっかりと受け止めれば良いだけなのです。 いや、実を言いますと、今だけではなく、ずっと以前から最良の条件は整えられ、準備されていた。ただそのピークが来ているだけと、正しく認識して下さい。 ( えっ、何でそんなことが、お前に分かるのかですって。経験者だからなのですよ。私も嘗て心の地獄、魂の煉獄に居て、様々な辛酸を舐めていた者だからなのです、実は。経験者は語るのであります ) エリートと言う言葉がありますが、神によって選ばれた選良という意味に解釈してよいのですが、苦しみを他人よりもより多く受けている事が、その大きな目印となります。キリストイエスを思い浮かべてください。罪なくして人類の罪科を一身に背負って磔の刑に処せられ御方ですね。その心と魂の貴族の列に連なる資格のあるエリートの名に最も相応しい有資格者として、貴女は、貴方は今在るのですよ、間違いなく。あなたが悩んでいる苦しみには大いなる意味が有る。あなたは謂わば人類の代表者として、悩むに値する有意義な悩みの渦中にあり、あなたの懸命な努力によって全人類が救われる。キリスト教のバイブルはそうしたメッセージを担って神から与えられた宝物の一つと御承知おき下さい。 イスラム教にはアッラーの啓示が、仏教には釈迦牟尼の悟りが全人類の宝物として与えられているのと同様であります。 正真正銘の絶対者は、様々な民族と時代とに応じて、様々な呼びかけ、色々な教えをなさって下っておられる。それは人類が人類である限り永遠に続けれれる絶対者からの有難い恩寵の一端であります。 よく、自力かそれとも他力か、と言った議論がなされることがありますが、どちらも正しいという方が現状に即している。自力と他力とが両々相俟ってこそ物事は上手く成り立っている。啐啄同時、つまり卵の中の雛鳥と外側に居る親鳥とが心を一つにして殻を同時に嘴でつつく行為があってこそ、無事に雛鳥がこの世に誕生できる現実と、非常にうまく合致する。大事な事の基本は皆同じなのであります。 この世で自分はたった一人切りだ。そう孤独を噛み締める個人の主観的な真実と、いやいや、君はひとりきりでなんかじゃないぞ、断じて、と彼に呼びかける絶対者の無償の慈愛。客観的に俯瞰してみれば、広大無辺な慈愛に包まれた果報者としての、客観的な真実と、両者は共に並び立つ真実でありましょう。 人間が客観の真実に目覚めているかいないかに関わらず、絶対者の不断の働きかけは止む刻がないのですが、これは考えてみると大変有難い、涙が出るほどに有難い事ではありませんか。 自分の心を自分の力で磨く。これは紛れもない事実でありますが、俯瞰して大局的に見れば、大きな他力の愛情に助けられ、後押しされて自分を磨かせて頂く。これがありのままの在り方です。孤独だ、一人ぽっちだ、も本当なら、そのままで、孤独なんかじゃない、暖かい親の恩愛に包まれているから寂しくなんかないのだ。これも本当の本当のことでありますね。 もっともっと身近に、心を磨く手助けをしてくれる教科書の様な書籍は無数と言って良いほどに、数多くあります。図書館に足を運べないならば、パソコンや携帯を使って検索すれば、丁寧な解説や、現代語訳も手軽に見ることが出来ます。 出来ないのではなく、しないのだ。生きるとは苦だとは、仏教の教えのいろはであります。苦を逃れていては生きている意味がありません。苦からは逃れられないと観念して、今できる最小限の努力で、前進しよう。前も後ろも、わけが解らなくなっているですって。今のあなたがよいと感じる方向が前と理解して、体をともかくも動かしてみよう。じっとしていては埓が空きませんので。後は、自然に任せていればよい。見えない手があなたの手を取って善導して下さる筈ですから。何度も言うようですが、及ばずながらこの私・古屋も、声さえ掛けて下されば幾らでもサポート致します。嘗ての私の教え子の諸君、御元気でお暮らしですか。君も、君もみんな皆素敵な人たちでしたよ。自信を持って世の中に出て行こう。そして、遠慮などせずに私に声を掛けて下さいな。私はまだまだ元気で頑張っておりますよ。一緒に、世の中を少しでもよくする為に、一隅を照らす努力を続けようではありませんか。 世直しする人、この指止まれ!
2020年11月04日
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