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旧約の読みは、雅歌、ソロモンの歌を終えた所である。コヘレトの言葉には「空の空、すべて空である」などと表現される箇所があるらしい。そうした如何にも宗教書に相応しいと感じられる言葉には、今のところ遭遇していないけれども、私の今の感受性にダイレクトに触れては来ないけれども、古来から現在に至るまで無数の人々によって読み継がれてきたバイブル・聖なる書物なのだから、これからも心して味読を続けなければいけないと考えている。 私には今、或る漠然とした予感のようなものがある。例えば、長年使い慣れてきた自分の肉体や、精神構造に対する、感謝と畏怖の念とでも言ったら、アバウトではあっても、実感に近い或る「感覚」のクローズアップ化とでも呼ぶのが、今思いつく限りではベストな表現になるのだが、何かもう一つぴったりと来ないものがある。 具体的に言えば、自分の現在ただいま行っている行動や、意識の動きを「客観的」に観察し、分析し、これは何故その様な動きなり、行動なり、生理現象なりが始まったり、始まらなかったり、意識と肉体の反応がどこかちぐはぐであったりするのか。などと、自分が意識しないうちに、意識が勝手に動き出して自分のあらゆる反応や行動に、ある種の違和感、と言うか、驚きの如き感覚を抱いたり。 と、まあ、言葉にすると複雑な印象を与えるかも知れないが、ともかく、一種の意識の「遊離現象」が自然に動き出して、それに畏怖感を感じたり、感謝の念を覚えたり、と様々な自己分裂状態を経験して、不思議の感に打たれている。 自己分裂状態と書いたが、言葉の生理としてそう表現するしか私には、仕方が分からないだけで、実は自己分裂など少しも起こっていないことを、強く意識している。 自己を知らぬ間に眺め、分析している、もう一人分の意識が派生した、と言ってもいい。これは、退歩であって、老化の一種なのかも知れないと、思ったりもしているが、進歩である可能性は、余り感じられないでいる。 つまり、この現象にはある種の「苦しさ」が随伴しているから、そう思うのであって…。この分裂した意識はない方が楽だったので、そう言うのだが、まさしく起こるべくして発生してきた、自然な成り行きであって、病的なそれでは全くないと、感じてもいる。 つまり、幼少期の自他の共存を自覚した境目が、ここでまたもう一つ増えたわけで、第三の自己の誕生とでも呼ぶべきものであって、他の人の事は分からないが、極めて自然そのものの成行きと言えるのだ。 三年程前から麹水を飲み始めて、腸の状態が良くなった為か、長年苦しめられて来た花粉症が劇的に改善した。神のお告げがあった如くに、良いと聞いて即刻実行し、快調、快腸なので毎日欠かさずに継続している。実に有難いと感謝をしつつである。 神とか、仏とか、殆ど抵抗らしい抵抗を感じないで、言葉に出して言えるようになったのも、「老化現象」の一環なのであろうか。 そう言えば、謙虚とか、感謝とか、他者の為とか言う表現も、六十歳を過ぎてから気軽に、ごく普通に口に出せる様になった。こうして考えてくると、あながち老いる事は退歩ばかりを齎すものとも限らないことが分かる。 ごくごくの幼少期に、母方の祖母が毎朝、仏壇に向かって「南無、妙法蓮華経」と繰り返し唱えていたが、あれは宗教心もあるが、声に出して言葉を唱える事で、無意識に自分の健康増進を図っていたに相違なく、そういう実用的な効用がなかったなら、毎日、欠かさずに長時間の勤行は励行出来なかった筈と、大人になってから往時を振り返って、そんな風に思ったりしている。 意識と無意識と、この両者が絶妙のバランスをとって、私たちの行動や意識を操縦してくれている。これもまた、神仏に感謝しなければならないことの一つである。 考えてみれば、自分の物などというものは、何一つ持ち合わせないでこの世に生まれて来て、また何一つ持たずにあの世に旅立っていく我々であるから、この世での事柄は全てこの世で精算してしまわなければならない。 今の私には、自分の命を運んで、行くところまで行く役割しか、残されていない。その他は何をしても、或いは何をしなくとも、誰からも何も言われる気遣いはない。但し、人様の生活や行動に妨害となる迷惑行為をしなければ、という条件が付いている。 これに関しては、私に限らず、誰の場合でも同様であるから、殊更に附言する要もない。 私がただ一つ、これだけは死ぬまで続けようと熱中している行為がある。それは源氏物語の現代語訳であるが、何故にこの不要不急の「仕事」にこれ程、こだわりを持つのか。自問自答してみる。 それは、個人的な行動ではなく、やはり社会的な、他者に向けての行動であるからです。そして、これが一番の動機になっていることですが、それが人々が生きる活力を生み出すエネルギーとなると、確信しているから。 ですから、私の主観的な動機からすれば、大事な、意義あることであっても、人によっては「大きなお世話」ということになりかねない事柄です。ある意味で、確かに「大きなお世話」なのであります。 しかし、この世でとても、とても大切な体験に偶々遭遇した私にとっては、大きなお世話どころか、大きな手助けと考えてのこと。 万人に向かって自由に開かれた素晴らしいフィクションの世界がある。それは人の世のどの様な宝物や宝玉にも勝る、夢の如き、魅惑に満ち満ちたファンタジー空間なのだ。とりわけ、日本人と生まれたからには体験しなくては損、と言うか、勿体無い、生まれて来て本当に良かったと、実感させる、ミラクルワールドなのだから、例え大きなお世話と排除されようとも、多少は強引な宣伝を敢えてするに値する、大きな値打ちのある、本物の中の本物であるからこそ、強く、激しく、アピールし続けなければならないと、人から頼まれたわけでもないのに、浅学非才を顧みず、ドンキホーテよろしく、ある意味自分の恥を世間に晒す嵌めに陥っている。 でも、無駄に終わろうと、黙殺の憂き目に遭おうとも、私としては一度思い立った目標に向けて、果敢に突撃しないではいられない。まさに、運命の出会いが、愛妻との出会いと同等に、絶対者によって仕組まれていた、そう思わずにはいられない、闇雲な衝動に駆られている。 源氏の偉大なる作者は言う。人に語ったからと言って、それがどうなるものでもない。ただ、世の中に生きて来て、見聞きした事柄で、見るにも飽かず、聞くにも飽かず、自分一人の心の内に籠めておくことが出来ないで、自然に語りだしたところ、何だか興が乗って、気がついたら、こんな五十四帖にも及ぶ長大な作品になってしまった。これは、無名の作者の見果てぬ夢の集大成である。お気に召していただけたら、これに勝る幸せなことはありません。と、日本人の最大の美徳で、作者は世界に比類ない珠玉を懐に秘めて、尚且つ、非常に謙虚なのであります。 私の如き、おせっかい焼きの野人が是非とも、頼まれもしない提灯持ちをしなくては、どうにもならない瀬戸際に、もうすでに久しい以前から追い詰められているのであります。 この世での全てに絶望した、お気の毒なお方が、居られましたら、是非とも、自暴自棄の最中にでもこの物語に注目して、騙されたと思って、ひと時でも結構ですから、時間を割いてみてください。 世界観が一変することは、請合いです。嘘でも、一回、騙されて見てくださいませ、どうぞ!
2020年04月27日
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今日は朝から天気がよく、気分も爽快である。蔓延しつつあるコロナはなかなか執拗であって、簡単には終熄に向かいそうにない。 人生には山有り、谷有りというが、一国にも浮沈の目まぐるしい変化が見られる。特にこの十数年は自然災害と言うか、自然の齎す脅威が顕著であるようだ。 世界的には温暖化による地球規模の大変動が、我々人類に脅威を与えつつある。空気の汚染や海洋や河川の汚染など、手の付けられない大災害にも見舞われている。 人間たちが勝手気ままな振る舞いを続けた結果であって、誰を恨むわけにもいかない。天につばした結果であり、天罰覿面なのだから。 人間に自然という大巨人を組み伏せる力量や、才覚がある訳もなく、冷静に物事を考えさえすれば、幼児にでもわかる明瞭な道理を、傲慢な人間どもは考えようとすらせず、素晴らしい玩具を与えられた子供の如くに滅茶苦茶をやらかしながら、目先の面白さに気を取られたまま、今日に及んでいる。 神はとっくの昔に愛想づかしをしてそっぽの方を向いてしまって久しい。今更、神や仏の御機嫌を取り結んだところで、良い結果が得られるわけも無く、自分が蒔いた種は、自分で刈り取るより手はないのだ。人間どもよ、どうだ、思い知ったか! 悪魔たちが様を見ろといった表情で、私達を嘲り、笑っている。終末の時の裁判を待つまでもなく、既に断罪は下されてしまった。泣きべそをかいて、謝罪したところで取り返しのつくような事態ではない。 一体、どうしたらよいのか? どうしようもないのである。 こんな絶望だけの時代でも、日毎に太陽は地球を照らして、万物の生成に寄与してくれている。この事実を知るならば、祈りを捧げるが良い。祈りを、敬虔な感謝の祈りを、繰り返し、繰り返し捧げるしか当面、これと言った救済へ道は見いだせない。 しかし、これしかないと、誰もが謙虚な気持ちを取り戻し、日輪という大神聖に帰依する、つまり心をすっかり任せきって、信頼を寄せるならば、太陽光という無限の慈愛が人体を介して、人々の霊魂にまで霊妙な作用を及ぼして、一筋の光明が、かすかながらも確かな救いへの道が、自ずから開けるやも知れない。これしか、私たちには明日へ繋ぐ希望は残されていない。この事実を、しっかりと肝に銘じなければならない。 コロナという恐ろしい病気も、天災も、その他の諸々の災いという災いに関して、人間が、我々が関係してない不幸は皆無なのだ。 一つの幸いは、反面の不幸を必ずや、呼び込むのだ。この単純にして明快な真理を、忘れてしまったような顔を、決してしないことだ。自分にとって、又、自分にとって大切な人々にとって、何が一番大切なのかを、常に自他に問いかけ、真剣に答えを模索し続けること。 ここからしか、救いの道は開けたりしない。幸福への道は、常にたった一つなのだ。だが、その一つの道の豊かで、広々としている事に気づいたなら、誰が他の道など好き好んで辿ったりするであろうか。 もう一つ、我々にとって頼り甲斐のある相手がある。母なる大地をまるごと支えている大巨人・地球である。太陽と地球、この無限の慈愛を具体的に表象している大切な天体が、私たちの守護者である。 この有難い存在に対して、感謝の誠を捧げる。そうした生き方こそ、人間の生活の根本にあるべきなので、これを蔑ろにした生活は我々の幸福とは、無縁な、従って不幸を呼び込む元凶なのだ。 大宇宙から生まれた二つの天体に、基本的に支えられている幸運。それは奇跡そのものであり、その奇跡を支えているのが、神仏の愛情であり、慈悲心なのである。 所で、私はこの世に生まれでて、物心が付き始めた頃、自分がどうして此処に居るのか、又、それは何故なのかと、人知れず密かに悩んでいた。他者という人間を目の前にしていながら、その自他の明瞭な区別さえ知らないでいた。こんな表現しか思いつかないほど、漠然とした疑問とも思考ともつかない、極めて漠然とした感情であった。ところが、ある日ある時に突然に眼から鱗が落ちたように、自他の相違が決定的であることを、それこそ翻然と悟った。と言うより、悟らされたのだ。 自分が此処にいるのは、何か分からないけれども、何か或る特定の意味があるに相違ないと、知らされた。それ以来は、その特定の意味を模索する日々がはじまった。と言って、私の内部の問題であって、外部に現れた言動には、特別な変化は見られなかったに違いなかった。ただ、自分と他人とは世界を見る目が著しく異なっていると気づいた。 自分以外との違いだけが、大きくクローズアップして、感じられた。世間を見る目、人々の価値観との差異など、何故なのか理由は分からないながら、違和感だけが、居心地の悪さとして意識に上る。自分は人と同じでありながら、決定的に違った何かを持っている。常に、そう感じる。感じさせられる。 小説などを読んで、何か自分の手助けになるヒントなどが書かれていはしないか? そんな明確な目的はなかったが、自分の理解の及ぶ範囲で、模索する日々もあった。 が、結局は自力で解決の道を探し出さなければ、仕方がないのだと観念する。自分は自分で、他人とは違うのだ。そもそも、そう感じたから始まった行動だった。 森 鴎外を知り、ゲーテに惹かれて、高校から独学でドイツ語を学習し始めた。同時に哲学書などもあれこれつまみ食いするように、読書した。そしてニーチェに行き着く。しかし、もとより自分の漠然と探し求めている何物かを探す参考には、全くならなかった。大学生の時に源氏物語と遭遇した。「凄い!」と唸った。求めているものとは異なっても、人生の奥深さを垣間見る思いがした。 そして、ソクラテスに押しかけ弟子入りした。汝自身を知れ、とは私の求めている問だったから。 そして、とうとうゲーテも忘れ、ドストエフスキーや D. H. ローレンスも上の空になった精神状態の時に、柴田悦子という流れ星に知らずして遭遇。以来、銘酒に酩酊した状態で今日に及んでいる。 お前は亡妻悦子の愛の教えだけをこの世での思い出にして、次の世に旅立てばよいと、神仏からの御覚しを頂戴した。何物にも代え難い尊い「愛」の教えである。 悦子の中に全てが秘められていた。キリストの教えも、大日如来の慈悲心も。これが今日に到るまでの私の足跡のあらましである。
2020年04月23日
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人生を長い間生きていると、色々な事を経験し、様々な事件や出来事などに遭遇する。私にとっての大事件の筆頭に挙げなければならないのは、勿論、柴田悦子との出会いであったが、それはその後の展開がそのようになったから、そう言えるのであって、当時は、最初の出会いの瞬間には、少なくとも私の方には、それ程の「大事件が勃発する」とは夢想だに出来ない、そもそも事件らしい物に繋がる気配すら感じない、日常茶飯的な平々凡々たる些々たる出来事の一つにしかすぎなかった。 だから、後から振り返ってみると、彼女の方で心の中に強烈な印象を残した度合いに比べると、何という隔たり、差異があったのかと、奇異と言うか、ある種の驚きの感情を禁じる事が出来ないわけだ。 一つの出来事にに関して、それに係わりあった二人の当事者にとって、出来事の受け止め方が相違していた事に、不思議な感動すら覚えてしまう。 しかしながら、一般論として考えてみると、一つの出来事と簡単に言い切ってしまったが、一つの出来事、事件はその事に関係した様々な人々にとって、様々色々に受け止められ、感じ取られていると考える方が、当たり前の解釈なので、そう考えて来てみると、私が後々に大きな感動と不思議さを以て振り返った「この事件」は、一般にはごくごくありふれていて、出来事とか事件とすら呼ぶに値しない事柄であったわけで、それが一大重大事件に発展したのは、ひとえに悦子が心にうけていた衝撃の異様な大きさと、それに見合った猛烈な、そして人間離れしたエネルギーを伴った、驚異的な行動力にかかっていたのだ。 だから、私の心の動きとは全く無関係に行われた、悦子の側の一方的な行動が、結果として私に甚大な影響を及ぼし、私が夢想だにしなかった運命の大きな舵取りに決定的な作用を、するに至った。 何と幸運で、恵まれた境遇にあったのかと、改めて神仏に感謝しなければならない。 翻って考慮してみるに、人の幸不幸とは誠に不可思議な廻り合せであり、人の意識的、意図的な行為・営為と全く関係ない所で、絶妙にして微妙な影響力を発揮しているものなのでありました。 そもそもが、人の運命などというものは、九十九パーセント以上が眼には見えない不可思議な力によって営まれているもので、従って人力を遥かに超越した、それこそ神様や御仏の尊い計らいによっている。だからと言って、人の営みや行為が全く無意味だとは思わない。たとえ、一パーセントに満たない範囲であったとしても、人の思考や行動は神仏の絶大な影響力に対して、決してバカにできない力を持っている事を、私は心の底から信じてもいる。 いや、人として無力とも一見思える、そのささやかな部分に力を発揮することこそ、人として生まれた者が大切にしなければならない、肝心な勘所なのだろうと、信じる者なのだ。 つまりは、非常に雑駁な比喩にもならない比較を、私と悦子との関係に持ち込んでみると、九十九パーセント以上の悦子の比率に較べて、一パーセントにも満たない私の割合であっても、あの時点までの私の生きて来た全存在が、無意識の裡に瞬間的に稲妻の如き煌きをはっして、暗暗裏に画龍点睛の作用を果たしたのだ。だからこそ、神仏は二人の結びつきをよしと嘉して下さったのであろう。いや、そうに間違いない事だ。 つまり、決定的な瞬間の、爆発力を齎すバネとして働く瞬発力は、実は常日頃の営々として継続されて来た、持続力に掛かっていたことを、正しく意味しているだろう。従って、瞬間と永続との間には相互に非常に密接不可分な関係があるわけで、要するにそれは一生涯に渡って続く日常のどの瞬間も、同等に大切な要素を構成していることを意味しているだろう。 何か特別な瞬間だけが、取り分けて他より大切なのではなく、継続される日々の一挙手一投足こそが、大切で、決定的瞬間での爆発的な力やエネルギーを呼び込む、根本的な原動力を生むのだ。 考えてみるまでもなく、これは極めて当たり前な事で、改めて事新しく論うべき事柄でもないわけである。が、しかし、である。 こうした素朴で、初歩的な所に人生の大事があるとは、普通には特別意識されないで、有耶無耶にされ、そのまま見過ごされてしまうのが、私たちの生活の実態なのではあるまいか。 そして、こういう具合に理詰めで考えを進めてくると、それは何も個人の場合だけに限らないことは直ぐにわかる。大袈裟に言うば、ホモサピエンスという種を形成した原動力も、こうした各個体の日々の行動なり、思考力の指向性の集積された結果が、積り積もって明確な形を取ったものと、考えられる。 つまりは、ほんの僅かな量の集積が、神仏という偉大な力の御加護をうけながら、仕舞には大きな結果を将来した。そう言えるわけで、すると普通に生物進化などと表現されている現象も、進化であるか、それとも退歩であるかはわからないけれども、とにかく或る一定の方向を目指した変化であって、その変化の善し悪しは、それを有効に活かし得る個体の能力如何に懸かっている。そう言わなければならないだろう。 してみると、日本人の付和雷同性などと、一括りに批判される性向に関しても、全く違った見方が可能だと、直ぐに気づくであろう。 周囲をよく見回した上で、大勢と歩調を合わせて、過誤のない生き方を選択する事は、人が言う程悪い程度の低い生き方とは、あながち言えないのではないか。いや、むしろ我々日本人の先祖達は、賢明であったからこそ子孫達に多くの恩恵を齎したのだと、言明した方が、より健全な発言であると今の私は強く思うのだ。 否、更に進んで積極的になれば、我々日本人は自信を持って、将来の難局に対処すべきであって、その場合に自分たちよりもより賢明に生きている他者がいたならば、謙虚に見習う柔軟性を失わなければ、それで十分なのではなかろうか。 人類が結局は破滅する運命にあるならば、私たちは潔く運命を共にする覚悟を固めよう。その上で、自他の為により良い選択が何処かに見いだせるのであれば、そのように振る舞えば良いだけのはなしであって、これまで通りに、人間というものを根本から信頼し、より積極的で、肯定的な生き方を堅持するように努めようではないか。 自分独りだけ良い目を見たり、甘い汁を吸おうなどといった、下衆根性だけは持ちたくないもだと、私などは密かに思っている。 これは公開はしているものの、自分自身との対話なので、人様がこれを読んで、どのような感想を抱こうが勝手なのであり、であれば、私の方も勝手に好き放題を書くことは、もとより勝手なのだ。 と、一応は瞬時のためらいを見せつつも、書きたいと思ったことは書くのが、私の私らしさなのだ。つまり、私の実感の本質を披瀝しよう。 日本人の中から悦子という素晴らしい女性が生まれたのだから、その一事を以て、日本という国は比類なく素晴らしい国だと、強く主張したい。これ以上の名言を、何処の誰が口に出来ると言うのか。どうです、この夫馬鹿ぶりは! 今回は、このくらいにしておきましょうかね、はっ、はっ、は。
2020年04月19日
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今日は亡妻・悦子の命日である。世の中はコロナの猖獗に大混乱の体である。我が家もその影響を蒙って、自粛する流れの中にある。 私自身は相変わらずの生活が続いており、「平穏無事」の状態が継続している。何時なん時コロナウイルスに罹患して、あの世に旅立つ事態に相成るやも知れず、この際悪あがきはしないでおこう。そう密かに心を決めて、聖書・バイブルの読書と、このブログの書き込みと、源氏物語の味読とに没頭して過ごしている。 それもこれも、みな神仏の御慈悲に囲まれての、極めて有難い時間の経過なので、これ以上に恵まれた生活はちょっと望めないのではないかと、非常に感謝の気持ちを新たにしている次第でありまする。 私は生来、借金が大の嫌いであります。だから、生涯で借金らしい借金をしたことがない。従って、ローンで物を買った事がこれまでに、一度もない。 借金やローンで物を買うくらいなら、お金が貯まるまで我慢をする方が、どれだけ気楽か知れないと思ってしまうのだ。 これは、こうした私の性癖は、私の行動の全体に渡って見られる特徴であるようだ。つまり、自分の力に見合った対象だけを目標にして、その範囲内で終始するように考慮する習性が、この大根の所にあるようである。 考えてみると、これは私にとって大切な行動パターンであるようで、予め何事かを予想してそうするわけでもないのであるが、少なくとも結果としては、私の生活の基本である幸福の防御ラインとしての役割を、果たしている事が後に振り返ってみると、分かるのである。 もう一つ、私は賭け事に関することを意識して、一切しないように心掛けている。これも、私のささやかな幸せを保持する、基本的な行動様式をなすことになっている。 私は元来賭け事やギャンブルに熱中する性格を持っている。下手の横好きと言うやつで、最初はどうしたわけか、少しばかり勝ちが続く。だから直ぐに熱くなって目の前の勝負に熱中する。気がついた時には後戻り出来ない程の、ひどい負け状態に陥っている。 どのような勝負事をしても、必ずそうなる。二十代に入ってから直ぐに、その事に気づき、以来自戒してギャンブルに類する事からは、手を引いているのだ。そうすることで、危うい、本当に脆弱な私の「幸福」を保持する事が、かろうじて可能に出来ている。 君子は危うきに近寄らず。賢人は意味深長な言葉を、私のような愚者に残してくれているのだが、愚者は得てして危険や危険を伴う誘惑に、誘われやすく、尚且つ身の破滅に、自ら好んで陥り易い。その典型例のようなのが、私であろうか。 十九世紀のロシアの作家、ドストエフスキーは自らをモデルとした「賭博者」という作品を残しているが、蟻地獄に落ちていく虫さながらの、ギャンブル依存者の生態を描いて鬼気迫るものを感じさせる。 私などには一際身に迫るものを感じさせる怖い小説なのだが、大多数の正常な感覚の持ち主には、どのように受け止められているのだろうか。 ドストエフスキーと言えば、死刑寸前でこの世に生還するという、嘘のような恐ろしい体験を実地に舐めていたせいか、嘘のようでこれ以上は有り得ない、人間のリアルな有様を、これまた凄まじい筆致で描写した傑作を数多く私達読者に残してくれているが、虫けらにも劣る存在が人間の実存であると、それこそ鬼気迫る迫力で、エネルギッシュに読者に肉薄する描写力は、まさに天才の名にふさわしく、読む者を怪しく魅了しないではおかない。それはまるで、身を滅ぼす炎であると知りつつ、その炎の魅力に手もなく屈してしまう、人間の本質的な愚かさや、醜さの不思議な魅力を骨の髄まで知悉した、大作家にして始めて描写できる異常な世界なのであるが、私の如き平凡な人間の中にも、紛れもなく眠っている不可解な要素を、見事に剔抉して見せて、お見事と言うしか言葉を知らない。 所で、ドストエフスキー程の天才でなくともこの世の異常な実相を、如実に我々に示す事が容易に出来る方法がある。少しだけ視点を変えてみればようのだ。 例えば、生物のあり方だ。中でも人間はどのような物でも食べて生きる 獰猛 な生物なので、他の生き物の命を何でも喰らって生きている。と、まあ、こういう言い方、表現の仕方である。 つまり、生きているものは他の命を奪って、自分の体内に取り込む作業を続けなければ、自分の命を繋ぐことは出来ない仕組みになっている。そのこと自体をあれこれ論ってみたところで、意味のないことである。ただ事の善し悪しではなく、そういう仕組みに出来上がっている厳然たる事実に、しっかりと目を据えてみることは、どうしても必要なことであろう。 食うか、食われるか、の熾烈な生存競争こそが、生物界に共通する大原則なのである。 つまりは、生きとし生けるものすべてが本質的には「吸血鬼」の変種に属するのだ。その事実から目を背けての綺麗事の人間論、生物観は、あまり注目に値しない、机上の空論に終わるしかない。 どうしても、そうならざるを得ないわけで、そう一旦は地獄の底を覗いてみると、美しい自然やら、醜い人間世界の景色が、何かしら違った色彩を帯びて、私たちの眼前に立ち現れては来ないだろうか。 感傷、センチメンタリズムのその向こう側にある、悲しくも厳しい生命体の現実が、見える人の眼にはより悲しく、より切なく迫って来はしないだろうか。 生命への限りない執着。我執と呼ぶものの正体が、もう一つクリアーに、それゆえに透明で、実態のない単なる物理的に近似した、無機質とでも呼ぶにふさわしい或るものに変質して、見えはしないだろうか。そのある物が、神仏の無限の慈愛という光に照らされて、美しく輝いている様を想像するのも、無駄とは言えない。そう知ることが、私の救いの本体なのである。 思い出してください。美しいは醜いと同義でしたね。従って、最悪に醜悪なものは、最高に美しいのでありました。どうです、この世の中は、なかなかに奥がふかく、尚且つ味わい深い世界だったのです。 一見するだけではダメなのでして、二見、三見、いやいや何遍でも見るに飽きることのない、素晴らしい、実に手の込んだ絶妙世界なのでありました。 コロナ地獄の果てに、果たしてどのような世界が待っているのか? 怖いようでもあり、そして、何か新しい展望が見えてくるやも知れず、不謹慎かも知れませんが、私などは、神仏のご加護を全幅の信頼を以て信じておりますので、絶望などは致しておりません。断じて、希望を捨てたりはしないのであります。
2020年04月14日
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コロナとの人類の戦争状態が熾烈を極めつつある。戦争であるから、犠牲者は日々に増えているし、日本でも非常事態宣言が何時出てもおかしくない。私の周りでは幸いというか、まだ感染者を出していないし、私は常日頃から自宅に閉じこもる蟄居生活を送っているので、比較的安全度は高い方の部類に属する。 そうは言うものの、完全に安全であるわけはないので、何か自分に相応しい防御策はないものかなどと、一応は思案を廻らしてはみるのであるが、もとよりそんな手立ては見つからない。 では、どうするのか? どうする事も出来ないまま、テレビのコメンテイターや医療専門家の繰り返し発している警告に耳を傾けるだけなのだ。 我々現代人が好きな言葉に「権利」というのがある。二言目には権利、権利とうるさいくらいに自分の権利を主張して止まない。権利、結構でしょう。しかし、権利の裏側と言うか、反面には「義務」という厄介なものがつきものだとは、余り人は積極的には認めたがらないようだ。 所で、人間の義務とは一体何なのであろうか? 普通には権利と同様に無数に考えられるであろうが、義務などという厄介な代物は、出来るだけ少ない方がよい。そう考えるのが人情というものだろうが、御心配御無用。 私に言わせれば、ただ一つに集約できる。簡単に言ってしまえば、与えられた人生をより良く生きる義務だけと。そして、権利の方も、義務同様にたった一つに集約すべきでしょうが、それは一体何だとお考えでしょうか? 私の答えを聞く前に、どうかちょっとだけ、御自分で考えて見てくださいませ。 お分かりでしょうか、そうです、幸せになる権利でした。 幸せになる権利を精一杯主張するには、隣人を幸せにする義務はより良く果たさなければなりませんね。ですから、要するに、一度人間と生まれたからには、徹頭徹尾幸せを目指さなければならない。 つまり、幸せこそは私たちが目標として生きなければならないものでありますが、誰もがその資質と能力とを神からあらかじめ与えられている。 逆に言えば、その資質と能力とを持っているからこそ、目出度くも、この世に生を受けることが出来たのですね、つまり。 こうして考えてみると、何の事はないのだ。権利の、義務のと、何か大変な事柄を口にしているように思えるが、要は、自分は正真正銘の人間なのだ、と力んで叫んでいるようなもの。そう、単純に喝破して、その為の工夫なり、他者への手助けの方法なりを、鋭意勤めれば、人間の役割は能事終われり、と、まあ、そういう次第に相成っている。 しかし、である。世の中には、不幸な人が五万といて、悩んだり、苦しんだり、涙を流したりしている。それは今に始まった事ではなく、大昔からそうだった。 ゴータマ・シッダルータ、仏陀が世に出て人々の苦しみを救済しようと出家したのも、誰もが知悉する事実である。しかし、偉人の偉大な教えにも拘らず、この世での苦しみは一向に減る兆しを見せない。それどころか、逆に苦しみや不幸は数を益々増して行っている。 これは、どうしたことだろうか? 私はこんな風に考える。不幸や苦しみや、悩ましさが無数にある中でも、人は無限の幸福感を味わえる、ものなのだと。 どうしてそうなのかは、私如きに分かる筈もないが、そうした事実だけは疑問を差し挟む余地のないほどに確かな事だ。私の体験上からもそうだったし、周囲の人々の生き方を見ていても、そうだと知れる。 ただ、私たちに欠けているのは、その認識する努力なり、それを見極めようと冷静になること。 一言で言えば、欲が深すぎる事だけが原因だと知れる。 私が何度もくどいくらいに強調しているように、足ることを忘れているから。 欲があるから生きられる。しかし、欲望というものは元来が欲の深いもので、ある一定の欲望が満たされた時点で、更なる強い欲望が、どこからともなく姿を現し、私達を急き立ててそのゴールに突進させる。すると、今度はそのプロセスで更なる強烈な欲望に捉えられる。こうして加速度の加わった欲望というエネルギーは飽くことを知らずに、まっしぐらに勢力を増し、とどまるところを知らない。 こうして、足ることを知るの簡単な一事が、永久に果たされずに、私達を悩まし、苦しめ続ける。 だから、私たちは欲望のゆえに遂に救われる時を持たない。死の瞬間まで…。 では、絶望があるだけなのでしょうか。いいえ、そうした強烈な欲望の飢え、渇きの最中でさえ私たちは幸福感を持つことが出来る。いや、欲望という渇きがあるからこそ、幸福は保証されると言ったら、レトリックに走り過ぎとの、非難を浴びるであろうか。 私たちはどのような状況、環境の中に置かれても、幸福を、換言すれば、生の充実感を享受出来るように仕組まれている。 楽あれば苦あり、苦は楽の種、と言うではありませんか。つまりは乱暴に要約すれば、苦 イコール 楽なので、つまりはこの世には楽しかないのでありますね。この単純極まりない真理さえ認めてしまえば、私達には生きる上で、幸福しか存在しないのだという、嘘のようなパラドックス的真実がはっきりと見えて来る。如何です? ペテンだ、詐欺だ、インチキだ、などと叫ばないでいただきたい。 人類史上の偉人たちが本当に人々に訴えたかった事柄は、生きる は幸福 の同義であるという単純な事実だった。 こういう人もいるかも知れない。つまり、私・草加の爺はどういうわけか分からないが、何だか無理やり人生は幸福だとか、生きるとは楽しいの意味だとか、滅多矢鱈と幸福や、楽しさを前面に押し出した人生論を構築することに、腐心しているらしい。 しかし、それは少なからず無理というものだろう。何故なら、周囲の何処を見回してもそんなバラ色風景など、視界に入ってこないから。それどころか、真逆のエビデンス、論より証拠の暗い現実が目に飛び込んで来るばかりではないか、と。 仰せご尤も。貴方の仰る通りです。でも、やはりそうではありませんと、首を横に振るより仕方ありませんよ。 つまり、真相はこうです。現象には常に両面があるということなのですが、分かろうとしない方には見えて来ない現実が存在する。様々な要因の為に、或る偏った見方に捻じ曲がってしまった目には、見えていても見えないという、不思議が現れてしまう。そういう事です、要するに。 眼から鱗が取れる、という表現の意味することが、この場合にもぴったりと当て嵌りますよ。ですから海上に浮かぶ氷山の姿だけから、それを全体だと捉えるのが、大きな間違いであるように、私たちは目にしている物だけから、全体像を推測する癖のようなものが、抜き難くついてしまっていることに、思い至るのが至難の技になってしまっている。 真実、実想、有りの侭の実態、それを知ることは想像以上に難しく、熟練の目の使い方が要求される。だから、普通に目を使ったり、想像力を発揮するだけでは、真理には到達出来ない。他者の手助けを得て、最後にはいとも容易く、自力を殆ど使うこともなく、成し遂げたのでありますから、このブレイクスルーただ素直な心を保持してさえいれば、誰にでも起こりうること請け合いなのです。 くどくどと説明に時間を要していますが、これは便利な言葉が不可避的にもっている、非常に不便な性質のなせる業なのでありまして、分かるときは理屈など吹っ飛ばして、翻然として自覚するものなのですね。お分かりいただけたでしょうか、不器用な私の、荒っぽい説明で。 今回は、このくらいにしておきましょうか。
2020年04月05日
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