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日曜日は、体調を崩して一日中ベッドに張り付いていた。 ベッドの固さは、かなり気に入っていたのに、一日中寝ていると背中や腰が痛んできて、結局寝返りさえも辛くなるという有様である。 早く抜け出して、家事や様々な用事を片付けたいのに、身体が石のように固まったままで、動かない。仕方がないので、怠惰な日曜日を過ごすことにした。 この際だから、せめて読みたいと思って買っておいた文庫本でも読破しようと本棚をあさるが、結局、通勤電車で読みかけの天童荒太の『家族狩り』シリーズ(新潮文庫)を完読することにした。 ベッドに横たわると、今までの睡眠不足を補え、と言わんばかりに睡魔に襲われる。数頁読んではうとうと、つまるところ、完読はできなかった。それでも少しでの早く読み進みたいので、寸暇を惜しんでは、読み急いでいる。 それにしても、この激痛、どうにかならないものだろうか。かなり、痛い。
2004年05月31日
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昔大好きだった人から電話をもらった。 男女の関係には発展しなかったけれど、とても良い友人関係へと移行し、今では年に数度連絡を取り合うくらいのつかず離れずの間柄である。 時に、どうしてるのかなーと思うあたりに、近況を知らせてくれたり、とどこかで気持ちが通い合っているのだと実感させられる。 独身の彼には恋人もいて、いつかは我が家へ彼女を伴って来てくれることになっている。それを今か今かと楽しみにしているのに、なかなか実現しないのは、彼が極めて多忙な人だからだ。 互いが一瞬、気持ちが通い合ったとき、それでも堕ちなくてよかったと今は思う。その一瞬は、長い人生のほんのわずかな時間に過ぎなかっただろう。そうしなかったからこそ、良い友達になれたのだし、互いが少しでも幸福であって欲しいと願えるゆえんなのである。 本当に辛かったとき、彼は何時間も、時には夜が明けるまで話を聞いてくれた。 笑いを含んだ優しい声に、わたしはどれほどすくわれただろうか。混乱の頭の中を、きちんと整理させてくれ、わたしの歩むべき道を教えてくれた。電話で埒が明かないときは、夜中でも車で駆けつけてくれた。 あ、元気なんだ。 胸の中を、安堵の風がゆっくりとそよいで抜けていった。 後に、ふっくらと懐かしい気持ちを残して……。
2004年05月28日
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以前付き合ったことがある人が教えてくれた。 男女が後腐れなく別れるには、一切のコンタクトを断てば良いのだ、と。 でも、下心ではなく心から親切にしてくれた人に対して義理を欠くことだから嫌だ、とわたしは反論をした。特にわたしには、気さくに付き合えるボーイフレンドが数多くいたからだ。 ところが、男女間には、絶対に下心があるものなのだと彼は譲らない。「現に、僕もあなたと付き合うに当たって、四人の女性と別れたのだから、あなたも一切の男性と仕事以外で付き合って欲しくない。携帯電話もメールも無視して欲しい」と。 そのとき、彼の携帯電話が鳴り一通のメールが入った。それをわたしに提示しながら彼は言った。「ほらね。このメールで彼女とは完全に切れたはずだ」と。『ひどい人ね。こちらの言い分は何一つ聞かないで、一方的に連絡を絶つなんて許せない。分かったわよ。そんなあなたに一時でも夢中になった自分が馬鹿でした。さようなら』 その文字は、今にも液晶画面からこちらに飛び出してきそうな怒りで満ちていた。(あなたと別れるときは、こうすれば良いのね?教えてくれてありがとう) わたしは、彼のやり方に不満を抱きつつ、心の中でつぶやいていた。 その後、生活習慣や考え方の違いから、わたしは彼から離れることに決め、一切のコンタクトを断った。「どういう形でも、それが僕の人生だと受け止めて生きていきます。去年見上げた桜の木の下に、今年は一人です」 枝垂桜の画像が添付してあった。
2004年05月27日
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朝の通勤電車でゲットした席を譲るのは、なかなか手放しがたいものがある。下手をすればこのまま一時間立ちっぱなしなのも、残念だからだ。 でも、車内放送で繰り返されるように、幼い子供や具合の悪い人、妊婦やお年寄り、といった弱者の方を見たら、そ知らぬ顔はできない。そ知らぬ顔をする方が、何倍もエネルギーを使ってしまうから。 今朝は満員電車の中を、父親らしき人(もしかしたらおじいちゃんかも)が、幼い女児を肩車して乗り込んで来た。身動きがとれないラッシュの車内から、きっと女児の身体を守るためなのだろう。 それでも不安定で見ていて危なっかしい。「お座りになりますか?」「いえ、いいです」 女児も肩車の方が良いと言った。 あまりしつこく進めるのも気が引けるので、浮かせた尻を座席に戻したのであるが、電車が揺れるたびに、女児の態勢が崩れて見ていられない。「危ないからどうぞ」 半ば強引に席を譲って、ぎゅうぎゅう詰めの場所と入れ替わった。 その男性は、座った女児の額に手を当てている。「まだ下がらないね」 熱でもある様子であった。 わたしが下車するときに「どうもすみませんでした。ありがとうございました」 と声をかけてくれた。 具合が悪いのなら、なおさら素直に譲られれば良かったのに、と責めたい気持ちになった。 最近、わたしが譲る人はどういうわけか遠慮する人が多い。もしかして、もう譲ってもらう人の輪に突入しているのだろうか? それにはまだ十年は早いとは思うのだけれど。(苦笑)
2004年05月26日
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長女とその彼氏と居酒屋に行った。 近所の、わたし行きつけの店である。 特に美味しいわけでも、安いわけでもないけれど、そこしか知らないから仕方がない。「突き出しが美味しいから、美味しいんじゃないの?」 長女は、焼き鳥ーとか言いながら、頼み始めた。遅い昼食に二人で美味しいうなぎを食べて来たという割には、食欲があるようだ。じゃがバタ、イカさし、サトイモの煮っ転がし、焼き鳥の盛り合わせ、イカの塩辛、エトセトラ。「うん、まぁまぁだわよ」 食べるわ、食べる。 わたしは、うまそうに頬張り飲む二人に、目を細くしている。 こんな時間が、案外早く来てしまった。 じゅわっと幸せが胸に染み込んできた。
2004年05月23日
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家を出るときは、まだ傘が必要だったので、赤の水玉のをさして来たのに、職場に着いたら、ものすごい良い天気になっていた。まさに台風一過である。今日がお休みだったらーなんて、誰もが思っただろう。 昼休みに、近くの展望台へ足を伸ばした。海の向こうはかすんでいたけど、とっても気持ちが良かった。こういう景色に出あうと、何か良いことの予感のような気がするが、実際には少々憂鬱な事態が発生していた。 でも、あまりくよくよと考えないことにしたので、心のうんと外に押し出した。 明日の土曜日は、少し良いことがある。 念願の白の下駄箱を手配したので、それが到着するのだ。一度はすべての財産を失ってしまったのだけれど、こうして本当に必要なものだけを、一から集めるという楽しみができた。安物しか買えないのだけど、無用の長物にならないように、何度も吟味してその下駄箱に決めた。 もう高価なものには興味がないが、それでもただ安いだけでも困る。デザインや設置した時の雰囲気なども考慮し、狭い住宅の空間が少しでも広がるように、ない知恵を振り絞った。 きっと、我が家の玄関をぱーっと明るくしてくれるだろう。今日の、この天気のように。
2004年05月21日
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自分が折れたら、何もかもうまくいく。 折れられなかった頃、あんなにぎくしゃくしていたことが、まるで嘘のようにである。 言葉の端々にのぞいていた棘が、丸くなったのか、なくなってしまったのか、今は鳴りを潜めた。 だから、物腰がやわらかくなった。少しも腹が立たなくなった。相手の立場で、ものが言えるようになった。 その分だけ、身体もまぁるくなった。 しかし、これは問題だ。身体は少し、そぎ落としても良いだろう。まだまだ、死にたくないからね。
2004年05月20日
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今朝起きたら、テーブルの下に大きなゴミ袋が置いてあった。中身はすべて、シュレッダーされた写真だった。 ああ、ようやくすべてが吹っ切れたのか、と思った。 袋の中に手を突っ込んで、細く刻まれて姿の変わった写真を掴んだ。それは、刻み切れずに、長女の笑顔の上に幾筋も白い線が走った破片だった。 わたしは少し悲しかった。これも彼女が過ごした青春の一頁であるのに、と。 傍らには、前の彼が好んで吸ったタバコとジッポーのライターが置いてあった。床に座り込んで、それを吸いながら、深夜一人で訣別のセレモニーでもしたのだろう。ジャックダニエルのボトルも空になって転んでいる。一年前の彼女の笑顔は想像以上にあどけなくて、そこに、本人の悲しみの深さをわたしは感じた。 新しい彼氏ができた時、わたしには複雑な思いが交錯した。彼女が、どれほど前の彼に恋こがれていたのかを、知っていたからだ。遠距離恋愛をもどかしく思い、気儘な彼からの連絡に一喜一憂していた。この恋が、万が一にも破局するとき、彼女はきっと精神を病んでしまうだろう、と思ったくらいだ。 アルバムは、彼女が会いに行ったときのもので、すでに数冊たまっていた。いわば、大事な大事な宝物のような写真だったのだ。 でも、今、こうしてそれらと訣別できたのだ。 新しい恋の方を、長女はちゃんと選んだのだ。 新しい恋は、彼女を本当に明るくチャーミングにしてくれた。 ゴミ袋を捨てようと玄関まで運んだけれど、思い直して元の場所へ戻して置いた。 眠っている長女の顔をみて、わたしは、少しほっとした。 彼女は、今こそ確かな道を歩き始めたのだから。
2004年05月19日
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まだカメラがそれほど普及していない頃、新し物好きの父が買ったオリンパス・ペンを持ち出して、モノクロ写真に興じたことがあった。 焼増代がないので、写真部のツンとした臭いのする暗室に忍びこんでは、いたずらに写真を焼増ししたものである。赤っぽい暗がりの狭い暗室は、時として中学生のわたしには息苦しくてたまらなかった。幼馴染の男子部員に、恋心とは別の気恥ずかしさに、戸惑っていたからだ。それなのに、印画紙に浮かび出てくる写真が面白くて、平生を装っては暗室に通っていた。 彼はカメラを持っていなかったので、わたしが家から持ち出すと、喜んで撮影についてきた。放課後、校舎の片隅で代わる代わる撮りあった。互いが、互いの被写体だったのである。 カメラを持ち出したことが父にばれると、しばしば大目玉を食らったものだけど、もっと高価な一眼レフのカメラを父が手に入れた時(その頃には彼に薦められるまま写真部員になっていたので)、父は小型のそのカメラをわたしにくれた。 というわけで、分不相応にカメラは持っていたけれど、わたしにはそのセンスが全くなかった。いつしか撮る人はやめて、わたしのカメラで彼の撮られる人となっていた。 彼は文化祭で、大きく引き伸ばした写真を発表し、みんなの注目を浴びた。わたし達には、まるで恋心はなかったのに、周囲の軋轢(大袈裟?)からその日を境に疎遠になっていった。 今では、その後が彼とどうなったのか、あまりに遠き思い出となってしまって思い出せないが、カメラに興味が失せたことだけは確かであった。 それにしても、デジカメがこれだけ普及し、誰もが簡単に撮る人、撮れる人になっているのに、美的センスのないわたしは、いまいち熱くなれないでいる。まさか当時のトラウマというわけではあるまいが……。 だから、わたしのHPは、一向に変身しないのだ。 いろんな人のHPを覗いては、その素敵なセンスに溜息ばかりついている。
2004年05月18日
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最近、『ほんのそこまで』、という旅を姉夫婦と頻繁にしている。大げさではなく、お気楽に出かけられるから旅の仕度はいらないし、費用も多くはかからないところがとても気に入っている。小さな旅ではあるけれど、実はこれには又、小さなテーマもあったりするのだ。 花を愛でたり、新鮮な空気を吸ったりと、いうなれば『自然とのふれあい』がそれである。 先週末も伊豆半島の下田まで、ニオイバンマツリという花を見に出かけてきた。当日は天気予報通りの好天で、絶好のドライブ日和であった。行きは下田まで直行し、帰りは西伊豆の海岸沿いをゆっくりと眺めて帰るというコースを取った。 下田は、黒船祭の真っ盛りで、予想以上の人出であった。繁華街から少し離れた駐車場に車を止めて歩き始めると、どこからともなく、良い香りが漂ってきた。あたりを見回すと、植木鉢やプランターに植えられた花からのようだった。「良い匂いがするけど、これ?」 姉に問うと「そう。これこれ」 別名アメリカンジャスミンというくらいだから、ジャスミンの一種なのかと思っていたら、柑橘系の匂いを少しやわらかくしたような爽やかな香りであった。花は、紫や白の直径4~5センチくらいのを木に直接つけていた。 インターネットで覗いた画像を頭に描きながら、了仙寺へと歩を進めた。一番人だかりのする場所は、去年、友達と下田城の紫陽花を見に来た時に訪れたことがあった。そのときは、ニオイバンマツリらしきものはなかった。いえ、今を盛りと咲いている辺りは、短く刈り込んだ花も葉もない潅木だった。 参道から境内へと、さっき駐車場脇で見た花がぎっしりと咲き、あの匂いでむせ返っていた。その様は実に、圧巻であった。 文献によると、最初は紫の花が二日ほどの間に白くなるところから、英名はYesterday-today-and-tomorrowというのだそうである。ちなみに、漢字で書くと『匂い蕃茉莉』。蕃は外国の意で、茉莉はジャスミンのことらしいが、ジャスミンの仲間ではなく、ナス科の植物である。 街は祭りの真っ只中であった。 各種イベントが催され、米海軍のスマートな制服姿があちこちで、黒船来航時を彷彿させていた。 帰路は西伊豆海岸沿いをひたすら走った。 ところどころで、富士山が顔を出し、小さな旅は予想以上の大きな喜びをくれた。 次は、『ほんのどこまで』の旅になるのだろうか。楽しみである。
2004年05月17日
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通勤ラッシュのホームでは、ハンドマイク片手に、先程から駅員が、整列乗車をするように促している。聞こえているのかいないのか、最前列にたむろす若者たちは、嬌声をあげて仲間内のオシャベリに余念がない。 そうこうする内に、気温が上がってきて我慢できなくなった一人の若者が、上着を取り、一枚ずつ脱いでいる。そして最後のシャツを脱いで裸になった。公衆の面前である。 周囲に人がいるという意識がないのだろうか。 年齢はよくわからないが、二十歳前後の学生風といった風情の若者たちである。 こういう光景に、最近よく出くわす。 男性に限らず女性も同じで、電車の中での傍若無人なオシャベリには辟易させられる。会話の内容もお粗末で、周りで聞いていて、思わずこちらが赤面してしまうこともしばしばだ。 我が家の娘たちもこうなのかもしれないから、大きな声では言えないけれど、何かが足りない気がした。 一体、何と引き換えに、こういう光景が目立つようになったのだろうか。
2004年05月14日
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恋と言うものは、時としてやっかいなものである。 長女の恋の形を端で見ていると、つくづくそう思う。 毎日会っているのに、携帯電話の使用料が半端ではなく、深夜、恋しい思いを相手に訴えている。 もう少し毅然としていないと、これでは燃えつきてしまうのでは、と老婆心ながら心配になってくる。 男性にとって、どういう女性が魅力的で飽きないのだろうか。 わたしが男であったなら、もう少ししゃっきとしろ!と思うような気がするが、余計なお世話である。 わたしのDNAをしっかり受け継いでいるのだから、実際は似たようなことだったのだろう。 恋の渦中から外に出てしまうと、好きなことが言える。 今は親として、彼女の思いが成就することを祈るばかりである。
2004年05月13日
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文章を書き始めて、もう八年になる。 いわゆる作文が少しも好きではなかったし、長文など書いたこともなかった。 そのわたしが、こうして書くことを愉しみとしているということは、われながらすごく驚き、かつ不思議な気がしているが、今日までが決して平らかであったわけではない。 わたしの『書く』ということの原点は、やはり恋文であった。思いの丈を相手に伝えようとする最たるものであるから、理屈にかなった手法だろう。とにかく書いて書いて自分の気持ちを表すのだ。そのうちに、相手はわたしにこう言ってきた。「あなたは、書いて書いて書き殴ってみたらどうか。そうすることによって、きっと何かが生まれるはず」と。 その通りであった。 書きたいという衝動が生まれた。 書かずにはいられなくて、一時は本当に書いた。 書いて書いて書き殴った。非難もされたし、手厳しい批判も浴びた。 それでも、わたしは書くことをやめなかった。 ところが、ある日突然、わたしは書けなくなった。 書けないというこの二年間は、苦しかった。書いても書いても愉しくなかった。書くことが、呻きのような日々でもあった。 でも、わたしは無理をしなかった。流れに逆らうよりも、流れに身をまかせた方が自然体でいられたからだ。 長い、長いその休眠を経て、最近また書きたいと思うようになった。 この二年間、わたしの胎内に宿った修羅(わたしの苦しみや悩み)は、きっと書くことの泉となって、これから湧き出すのだろう。 今は、そのことにただわくわくしている。
2004年05月12日
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久しぶりに、うたた寝している次女の寝顔をじっくりと見た。寝顔には、まだあどけなさを残していて、可愛かった幼子を思い出す。あれから確かに時は刻まれ、実際には二十歳を過ぎているのに、思わず抱きしめてやりたいと思った。 赤ちゃんの頃、早く眠って欲しいと添い寝しながら、いざ眠ってしまうとその寝顔の愛らしさに、ついどこかを触っては起こしてしまい、慌てて胸のあたりをトントンしたものである。そんなことを思って、じっと見ていた。 覗きこんだ視線を感じたのか、次女はゆっくりと目を開けた。「なに?」「なんでもないよ。あんまり可愛いから見とれてたのよ」 彼女は照れくさそうに笑って、背を向けた。「きれいになったね」「そう?」「うん。急にきれいになったよ」 わたしは、本当にそう思った。 匂うような若さや内面の優しさを、その顔は湛えていた。 彼女には、将来を約束したボーイオフレンドがいる。互いがまだ学生なので、約束が果たされるかどうか、定かではないけれど、それもまた青春の一こまであろう。 その彼から、携帯電話が入った。「なんだったの?」「今から会いに来るって」「そう。たまには会わない日があってもいいんじゃないの?飽きない?毎日会ってるんでしょ?」「うん。ほとんど毎日。なんでもね、会わずには居られない気持ちになるらしいよ。あたしはどっちでも良いと思うんだけどね。気持ち的には、あたしが勝ってるかな?」 ニッコリと微笑んだ。 かれこれ付き合い始めて、二年が過ぎていた。 マンションの下から、ドッドッドというバイクの排気音が聞こえた。「あ、彼だ。じゃあ行ってくるね」 嬉しそうに彼女は出かけていった。 娘の柔らかな顔を作っているのは、きっと彼なのだろう。 青春の一番素敵な季節である。 わたしは、そんな娘の様子に、なんだかすごく安堵していた。
2004年05月11日
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コピー機がストライキを起こした。 今朝からご機嫌斜めである。 偶然に、定期点検のサービス員がやって来た。 どうやら、湿気が原因らしい。 これから、こういう日が多くなる。 でも、雨に打たれた木々が、嬉々としているのを眺めるのも良いものである。 だから、雨は厭わない。
2004年05月10日
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離れて暮らしていたので、去年の母の日は電話一本で終わった。来年はカサブランカの花束をあげるからね、の約束通り、長女はカサブランカの花束を抱えて外から戻ってきた。「電車の中で一本折れちゃったけど、平気かなぁ?」 心配そうに、わたしに花束を渡してくれた。 次女は、お金がないから料理で我慢してね、と台所に立って、唐辛子を刻み始めた。どうやらスパゲッティ・ペペロンチーノを作るつもりのようである。 カサブランカ三本に、黄色のオンシジュームが三本入った豪華な花束に、「蘭が入ってるし高かったでしょう?カサブランカだけでよかったのにぃ」とわたしが言ったら、「家用ですか?ってラッピングしてくれなかったから、仕方がないから混ぜてもらった」とのこと。 わたしは一本だけで充分なのに、彼女はその上に、クイーンのベストアルバム『ジュエルズ』も添えてくれた。これも日頃から欲しがっていたので、思いついたのだろう。 早速、玄関にカサブランカとオンシジュームをガラスの水差しに投げ入れた。玄関には、花が終わったシンピジュームの鉢植えだけだったのが、ぱっと華やかになった。「嬉しい?約束守ったでしょう?」「うん。嬉しいよ。ありがとう。でもお金をつかわせて悪かったね」「いいの、いいの。毎年の恒例行事だから、やんないとこっちも落ち着かないからね」と少し照れながら言った。「彼はお母さんに花束でも贈ったのかしら?」「うん。贈ったらしいよ。そしたらメールで返事が来たっていうから、聞いてみたのね。メッセージに痺れましたって書いてあったって」「なんて書いたのかしら?」「あたしが母さんに贈ったカードのパクリらしいよ。ほらこの間来たときに、五年くらい前に作ったアルバム見せたじゃない?そこに書いてあった言葉」「何?」「生んでくれてありがとう」「へぇ、それじゃ親孝行したんじゃない」「うん、びっくりしたみたい。あまりにも喜ばれたんで」 程なく出来上がったペペロンチーノとダイコンサラダに冷たく冷やした白ワインで、ささやかな宴は始まった。BGMはもちろんクイーンのアルバム、ボーン・トゥ・ラヴ・ユーである。 こうして三人そろったことが、わたしには本当に嬉しかった。 離れて暮らした一年近い歳月の、なんと味気ない日々であったろうか。 カサブランカの強い芳香が、狭い部屋の中を行き場がなくてむせ返っている。 わたしは、その匂いを思い切り吸い込んだ。 口の中を通り、肺まで届いた。 そして、ゆっくりと吐き出し、鼻腔で匂いを味わった。 これが幸せの匂いなのだ。 わたしは今、じっくり噛み締めている。
2004年05月09日
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先日の旅行の際に、姪が言ったセリフを思い出した。「父さんは幸せな人だよね」「え?なんで?」とわたし。「だって、こんな美人と結婚できたでしょ?」 ママとはわたしの姉で、父さんは義兄のことである。 この時、わたしはとくにコメントはしなかったけれど、心の中でこんな風に思っていた。(確かに姉は美人だけど、娘もそれを認めているんだなぁ。へぇ。そういえば、我が家の娘たちは、果たしてわたしをどう評価しているんだろう?) そこで、今朝のこと。 デートへ出かける前の次女にわたしは意地悪な質問をしてみたのである。「ねぇねぇ。この間の旅行でさ、Kちゃんがね自分の母親を美人だって表現したのよね。それを聞いたとき、あんた達は母さんをどう思っているのかなーって」「へぇ、そうなんだ。確かに伯母さんは美人だものね」「うん。母さんは?」「たまにはきれいだと思うことはあるよ」「お世辞?」「うん。お世辞。っていうのは冗談だけど。彼もそういうよ」「わぁ、本当?でもさ、いつも素顔を見てるんだから、本当はそうは思わないでしょ?」「だって、母さんはあんまり変んないよ。口紅をつけてるか、つけていないかだけだよ」 わたしも単純である。これだけで、ほろほろと喜んでしまった。 これでは、わたしの子供たちも気遣いが大変だ。「じゃあね!」 嬉しそう右手を肩先でひらつかせながら、次女はデートへ出かけていった。 次女の言葉でほんわかとしながら、わたしは亡き母のことを思った。 母は少しも喜ばなかったっけ。 わたしが、若かりし頃の母の写真を見つめながら「母さんってきれいだったんだね」 というと、必ず本気で怒った。「馬鹿をいうのも休み休み言いなさい」 あの時の心境は、何だったのだろう。 子供の頃、母の故郷を訪れたとき、母の知人達は口をそろえてこう教えてくれたのに。「あんたの母さんは、聡明で美人だったのよ。この辺りでは○○小町って有名だったんだから」 だけど母は一度もそれを認めなかった。それより、不愉快そうにその言葉を否定し、知人をたしなめていた。 今のわたしのように、単純に喜んだりはしなかった。 その気持ちを次女は「きっとからかわれていると思ったんじゃないの?」 と、分析した。「母さんだって、からかわれているんだとわかっているけど、真剣に怒る感情は湧かないけどね。だからいまだに、あの時の母の気持ちが良く分からないのよ」 ずっとずっと前に、母より先に亡くなった父が、照れながらわたしに教えてくれた。 「母さんはそれはきれいだったよ。だから父さんは恋文を書いたのだ」と。 それなのにわたしが思い出すのは、本気で怒った時の険しい顔だった。優しい母が唯一怒るときの、その顔は、果たして照れだったのだろうか? でも、今でも思う。 亡き母の若いときは、確かに美人だったと。
2004年05月08日
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肥った。 去年の今ごろより5キロは増えている。 顕著なのは、ウエストだ。同じシーズンの洋服が少々きつい。 不経済である。 だから、我慢して着ているのだけれど、無理があるなぁ。 「元気?」 友人たちの電話の冒頭はいつも同じ。 「うん。でも肥った。5キロくらい」 「へぇ、でも心配はしないよ。あんたは風船だから。年中、膨らんだりしぼんだりしてるじゃないの」 その通りである。簡単に痩せたり、肥ったりする。 少し悩み事が生じると、ぐーんと体重が落ちるし、悩み事が解決すると、また戻るのだ。 でも夏だから、二の腕も出したいし、なんとかしなくては。 久しぶりにデジカメにおさまったわたしを見た。 本当に風船みたい。 まぁるく膨らんでいる。
2004年05月07日
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どんなに辛いことがあっても、それが永遠に続くと言うことはない。いつかは、必ず過去になって葬り去ることができるからである。 この二年間に経験した数々の苦難から、わたしをそれを学んだ。苦境に立てばたつほど、わたしはカッと目を見開いて現実に目をすえた。この辛さ、厳しさは、絶対に過去になるのだという信念を持って、耐え忍んだ。ともすれば、現実からの逃避を考えてしまうのだけれど、いやいや、いつかは過去となって笑い話や酒の肴になる日が来るのだと、敢えて信じた。 友人、知人が、わたしの度重なる苦難を見て、言葉を失った。最初は元気を出して、ほら頑張るのよ、とかけてくれた声が、「えー?また?!嘘ー!なんであなたばかりに災難が降りかかるの?」と声をそろえて絶句した。「あなたには、なんて声をかけて良いかわからない。何か話したかったら言ってね。それくらいしか言えない」に、変わった。 でも実際には、誰かに真実のすべて吐露したというわけではなかったけれど、優しい言葉をかけてもらっただけで、それらは生きる希望へとつながった。本当に持つべきは友達だと実感させてもらった。 嬉しい話や楽しい話は、聞くほうも気持ちが良いものである。ところがその反対の暗い話や辛い話は、やはり誰だって聞きたくはないだろう。だから、なるべく愚痴や不平を言わない人生を送りたいとわたしは日々思っているので、ひたすら自分の内面と闘った。 それが現実となったとき(つい最近なのだけれど)、ほらねって、わたしはもう一人の内なる自分へ微笑みかけたのである。 この二年間というものは、100%の喜びは感じられなかった。どんなに楽しいことがあっても、空虚で憂鬱だった。美味しさも旨さも楽しさも、どこが欠けていた。 でも、それが今では完全に埋められた気がする。苦境を克服できた証であろう。目の前に広がった景色をはじめ、何もかもが喜びへの誘いなのだった。そのご褒美でもあるかのように、姉夫婦は、わたしを外へと連れ出してくれる。「どこどこの花が咲いたよ。見に行かない?」スポンサーと運転手は義兄で、すべてのツアーの代金は、わたしの笑顔で良いのだと、姉はお金を取ってくれない。「あなたの笑顔を見ていると、本当に良かったって思えるのよ。次のツアーが決まったら、また連絡するからね」と、お土産まで持たせてくれるのだ。 わたしの憂鬱に、どんなに多くの人々を巻き込んだのかと思う。 だから、わたしは喜びを正直に声にした。「わぁきれい!」「わぁ嬉しい!」「わぁ美味しい!」「ありがとう、ありがとう」 とうとう、苦難が過去になった。 まだまだ全部が落ち着いたわけでも、解決したわけでもないのだけれど、もう平気だった。 これからは、日々の些細な出来事に、感謝を忘れないで生きていきたいと、切に願っている。
2004年05月06日
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母の日のプレゼントだと娘達が印鑑をくれた。 千代紙模様の入った印鑑は、とても可愛かった。 三人ともわたしの旧姓を名乗ることになったので、今までの印鑑では用を足さない。だから、それはとっても気の利いたプレゼントだった。しかも、三人とも柄違いのおそろいである。再出発の春にふさわしい品だった。 そんな娘達も、デートが忙しくて今日も朝から出かけて行った。少しは部屋の片付けでもしたら良いのに……、とわたしは、出がけの背中に憎まれ口を投げつけてしまった。 でも、ようく考えてみたら、わたしの娘時代だって似たようなものだったのに、母は何も言わなかった。黙って、わたしの好きなようにさせてくれた。母と比べると、今のわたしは随分身勝手な母親である。いけない、いけない。 母の日だの、お誕生日だのって、ちゃんと感謝の気持ちを表現できる娘たちの方が、わたしの娘時代の何倍も人間ができている。反省が必要なのは、わたしの方だった。母のように、もっと寛大な気持ちで、やっと一人前になった娘達を見守ってやりたいものである。母の日は、母にしてくれた娘達に感謝する日にしようと思う。 ちなみに、娘達は自分の誕生日にも、わたしにプレゼントをしてくれる。 わたしが欲しがっていたCDだったり、手作りのアルバムだったりと形は変るけれど、『母さんへ、産んでくれてありがとう』と必ずカードが添えてある。
2004年05月05日
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命の洗濯という言葉があるが、まさに文字通りその洗濯をしてきた。 勝沼のワイナリー、石和温泉、一泊二日のドライブ旅行であった。中央高速勝沼インターを下りて、ワイングラス館、ハーブ園、サッポロワイナリーに行った。ワイナリーで試飲したワインを購入し、ホテルで飲んだ白ワインの美味しかったこと。姉夫婦と姪、わたしの四人で二本のボトルが空いた。深夜までおしゃべりをし、翌朝はチェックアウトギリギリまで眠った。日頃の睡眠不足は、たった一泊のホテルでの睡眠で満たされた。 翌日は、西沢渓谷を目指し、秩父経由で東京まで戻った。途中のむせ返る緑の素晴らしさに、何度も何度も目を見張った。藤と桐の花が満開で、新緑の青さに薄紫の色を添えていた。木々の隙間から垣間見える渓谷は、本当にため息が出てしまうくらい素晴らしい眺めであった。 この旅は別名『道の駅』ツアーでもあった。そのくらい道の駅に立ち寄っては、土地の特産品を物色した。それぞれが興味のあるものを購入し、持ち帰った。 久しぶりに会った姪との会話も、姉夫婦と交わした会話も、わたしには楽しくて、腹の底から笑った。お腹がよじれそうになるほど笑ったし、涙を流してお腹を抱えた。 こんなに笑ったことがあっただろうか。 この旅は、わたしを本当の意味で元のわたしに戻してくれた。 命を丁寧に洗濯したので、寿命がうんとうんと延びた気がした。
2004年05月04日
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一日中片付けに追われた。 片付けても、片付けてもすっきりしないから、一年以上動かなかったものについては、全部捨てることにした。捨てるという行為には、身体に染み着いた垢を落とすのと類似している気がする。おかげで、片付け終わってみると、妙にすっきりと良い気分なのである。やはり、わたしの趣味は片付け&掃除なのかもしれないなぁ。 固く絞った雑巾で、雑巾がけを終えた今、爽やかなことといったらない。冷たく冷えたビールが実に美味しい!! BGMは、モーツァルトの弦楽四重奏。なんかすごく緩やかな時間を満喫している。 開け放した窓から、緑をたくさん含んだ風が入ってきた。 きっときっとこれからは、良い事がてんこ盛だろう。 明日は、ピクニック。 長女が唐揚に春巻き、次女がお稲荷さん。足りないところをわたしが、卵焼きエトセトラで補う予定。 久しぶりに、わくわく。 そういえば、昔付き合っていた年下の彼から電話が来た。用事はないけど、心臓の手術をするかもしれないとのこと。ふと、思い出して電話をくれたみたいだ。わたしは思い切り檄を飛ばしておいた。わたしに元気をくれた一人だから、元気で返したい。
2004年05月01日
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