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西行法師の歌集山家集には桜の歌が多く収録されている。それも、桜を待つ歌から散った桜を惜しむ歌までを順に並べているので、よほど桜が好きだったのだろう。56番の「待つにより 散らぬこころを 山桜 咲きなば花の 思い知らなん」から158番の「青葉さえ 見れば心の とまるかな 散りにし花の 名残り思えば」まで100首以上も桜の歌が続き、そのうえ他の箇所にも、例えば夏の部で山の中で遅い桜をみた歌などもあるのでさらに多くなる。あの有名な「ねがわくは 花の下にて 春しなん そのきさらぎの 望月の頃」も桜の連作の中にあるので、やはりこの花も桜なのだろう。2月のきさらぎには、いくら旧暦だとしても、桜の花は咲かないし、仏陀の入滅を念頭に置いた歌ならば、これは沙羅双樹で、日本で言えば夏椿ではないかと思っていたのだが、やはり桜の方があっている。煌煌とした満月の中に満開の桜の樹がある光景はどこか静寂な死のイメージがあり、満開の桜がほどなく散ってゆく光景は無常を体現しているともいえる。そういえば紅白に「仏陀のように私は死んだ」というタイトルも歌詞も強烈な曲があったが、この名歌も意味をみると「仏陀のように私は死にたい」のだから相当に強烈だ。2月15日の花の下というとどうみても涅槃なのだが、桜と満月も同じくらい印象的なので宗教的な歌というよりも桜を賛美する歌として今もなお愛されている。現在、桜というと真っ先に連想するソメイヨシノは西行法師の時代にはまだ存在しなかった。けれども、短い期間に華やかに咲き誇って、あっという間に散っていく花の姿には変わりはなかっただろう。毎年思うことだし、以前にもきっと書いていると思うのだが、花にはそれぞれの美しさがあっても、花吹雪、花筏と散る姿、散った後のすがたも美しいのは桜だけのように思う。薔薇などは花の女王ともいわれるが、枯れた後も茶色くしぼんだままで枝にしがみついているのは見苦しい。
2022年03月29日
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東京のソメイヨシノは今日満開となったようだが、満開の時期は桜の品種によって違う。この間、ちょっと郊外の、ちょっと有名な桜をみるために出かけて行った。まず桶川市の普門寺。解説によれば、慈覚大師が当地巡錫の際に飢餓に苦しむ人々を助けたことを後世に残すため、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したというのが普門寺の由来であるという。ただし、現在では、堂宇はなく、墓地と小さな建物があるだけであった。堂宇はなくなったが、そのかわり、今ではここのしだれ桜が有名になっている。かなり咲きすすんでいたようにみえたが、満開はまだのようで、そのせいで人出はほとんどなく、竹林を背景にした姿には風情があった。慈覚大師は9世紀初めに活躍した高僧であるが、東北まで布教の旅を続けたとあるので、このあたりに来たこともあったのかもしれない。しだれ桜は樹齢180年とあるので、慈覚大師よりはずっと後であるが大師の徳を偲ぶために誰かが植えたのかもしれない。その後、さらに北に行き、鉢形城址のエドヒガン桜を見に行った。鉢形城は後北条氏の城で戦国の山城であり、寄居の街を一望できる。戦国のドラマや小説では脇役のように描かれることの多い後北条氏であるが、関東平野のこれだけの部分を勢力下においていたのであれば、十分に天下を狙えた立場であったのかもしれない。栃木県の大平山には謙信平という場所があり、ここは北条氏康が上杉謙信と和議を結んだ際、ここから一望できる関東平野は自分の勢力範囲であることを述べると上杉謙信はその広さに驚嘆したという話が残っている。鉢形城址も残っているのは石垣と井戸や建物跡だけなのであるが、あちこちにエドヒガン桜の名木があり、中でも城主の名にちなんだ氏邦桜というのが有名なのだという。城跡の中に姿の良い桜の大木があり、写生をしている人もいたので、これが氏邦桜だと思ったのだが、後で確認するとどうも違うようでもある。東京のソメイヨシノが終わったら、再び関東平野を北上して名残りの桜を探してみたい。
2022年03月27日
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この小説はジョージ・エリオットの作だが、このジョージは筆名で実際は女性作家である。作品よりも前に彼女の人生の方が気になるのだが、もともと学問的素養のある彼女は妻ある哲学者と知り合い彼の離婚後に結婚したという。筆名ジョージはその哲学者ジョージ・ルーイスの名である。下種な言い方かもしれないが、こうした略奪婚は才能ある女性にはけっこう多いのではないか。才能や能力ある女性はなかなか自分が尊敬できる、あるいは自分に見合う男性を探すのが難しく、そしてやっとであったそうした男性は既に妻がいるという場合が多い。有名なのはフランケンシュタインの作者シェリー夫人だが、日本にも高名な女性作家や画家でそうした例がある。エリオットに話を戻すと、彼女は先妻を離婚に追いやったことに罪悪感をもっており、それが執筆活動の動機になったという説もあるという。そんな予備知識(余計な先入観?)を持ってこの小説を読んだせいか、題名にもなっているサイラスよりも、底抜けに人が良くおせっかいなドリーおばさんの方が作者の分身(作者が自己投影している人物)ではないかという気がする。サイラスは無学で単純な織工で、おまけに強度の近眼で癲癇持ちというハンディがある。そんな彼が友人の裏切りと盗みの冤罪という不幸な事件で故郷を追われ、たどりついた小さな村で仕事以外では誰とも親しい関係をもたず、ひたすら金をためるのだけを生きがいにして暮らすのだが、ある時、その金を盗まれてしまう。そしてその事件と入れ違いのようにやってきた養女を自分の娘として養育していくという物語だ。孤独で人間嫌いな老人の心を無垢な幼児が変えていくという話はアルプスの少女や小公子にもあるのだが、これも大人向けのそうしたメルヘンなのかもしれない。だから人間性の深淵を描くとかと言った深みのある小説とは少し違うが大人向けの後味の良い小説として、こうしたものがあってもよい)
2022年03月25日
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何年か前に非常に寒い冬の年があり、そういう年には梅前線が去らないうちに桜前線がやってくるので梅と桜が同時に咲くという。ちょうど梅の名所である偕楽園に行ったのだが、満開の梅の前を人々は通り過ぎていき、何だろうと思ったらその先の桜もちょうど満開を迎えていたのだった。やはり花の人気は圧倒的に桜ということなのだろう。梅や桃もそれぞれに美しいし、特に最近では一つの木に異なった色の花の咲く観賞用の桃もでてきているようで、華やかさでは桜を圧倒するようにも見える。それでもやはり桜が咲けばやはり桜となるのはなぜだろうか。梅や桃、それに最近増えてきている河津桜などはいずれも見上げるほどの大樹にはならない。それに比べると桜は大樹となり、満開の桜となると、その下が、大げさに言えば一種の異界となるような趣がある。上を見上げても一面の桜であり、地面には花びらが散り敷き、目の前にはゆっくりと落ちていく花びらが見える。その中で花見の宴会となるのだが、たぶんコロナ禍なので今年もそれはないだろう。それでも、東京の開花宣言もでたことであるし、満開の時期が気になる。そして今年はどこで見ようかと思うのだが、ぜひ行ってみたいのは隅田川の桜橋である。散策用の歩行者専用の橋で文字通り隅田川の桜を見るために造った橋のようだ。そしてまた、毎年たいていは行く千鳥ヶ淵の桜も良い。立ち止まって見るのは禁止のようなのだが、あの桜のトンネルは見事である。人ごみをさけるのであれば、自動車で少し郊外にでて、桜の木を探してみるのもお薦めである。東京の桜が終わった後、桜はしだいに関東平野を北上していくので、なにげないところに満開の桜が花見客もないまま咲いていることもある。
2022年03月24日
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ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ていて思う。世界注視の中で行われる市民虐殺など成功した例はない。一日も早く、一時間も早く撤退すべきだろう。学校が壊れ、病院が壊れ、道路が壊れ…というように人が人のために役立つように築いたものが、人の手で壊されていく。復興にいったいどれだけの費用がかかるかも想像がつかないが、撤退して平和が戻れば難民は故郷に帰り、世界からも多くの支援が集まるだろう。その逆に力で抑えようとすれば、弾圧を逃れてさらに多くの難民が出てくる。それに悲劇は映像に出てくるものだけではない。リンクをさせていただいているモンゴル事情に詳しいモンゴル2008さんの3月10日、3月13日のブログによると、東洋系のブリヤート人が徴兵されて前線にいっており、何人も戦死しているという。侵攻されるのも悲劇なのだが支配される(他民族による支配だけでなく自国の独裁政権による支配も含めてなのだが)のもまた悲劇だ。そして連想はどうしても別の方に向かう。今度のことで国際連合は全く無力を露呈しているだけでなく、国際社会なるものも圧倒的な暴力の前にはただ遠巻きに眺めているしかできないということも明らかになった。日本のすぐ近くには日本を公然と敵視し、火の海だの無慈悲な攻撃だのといっている独裁国家がある。そしてロシアのウクライナ侵攻の後も日本海や太平洋に向けて「飛翔体」を飛ばし続けているのである。
2022年03月23日
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この間の日記で、算数の学習には考える訓練という効果があり、その意味で中学受験で学校のレベルを超えた難問を解くのも無駄ではないのではないかということを書いた。同じようなことは国語にも言えるが、ただ国語の場合には学校の勉強以外に本を読んだり文章を書いたりするということは普通にあるので、お受験という場を設けなくても自分なりの勉強をする機会は算数よりは多いだろう。学校の教科学習には、優秀な才能を見つけ、それを伸ばすことによって国家社会に貢献するという目的もたしかにあるのだが、個人レベルでは言語的思考、数理的思考を身に着け、考える楽しさを知り、考える力を伸ばすという目的もある。同じようなことは体育にもいえるだろう。おそらく体育の場合には主要教科以上に個人レベルでの健康スポーツ、生涯スポーツという視点が重要なはずだ。そうだとしたら、体育には成績による序列付けはあまりなじまないのではないか。ましてや運動部となると、大会に向けての勝利至上主義、根性主義が幅をきかせ、気分転換に運動をやりたい、そこそこに運動を楽しみたいという子の受け皿がない。ずっと昔中学に入学した頃、運動部に入るのが普通という雰囲気があったので、よく知らないまま「テニス部」に入部した。安価な軟式ボールが普及した時代で、テニスはもはや金のかかるものではなかったが、高級なイメージだけはあって、人気クラブでわれもわれもと押しかけていたのだった。ただ練習時間が長いのに、いつまでたってもラケットにボールがあたらず、全く面白くもないので、次第に足が遠のき、二年生になってからは結局帰宅部同然の読書部で過ごした。ただ困ったのは高校入試の面接である。中学校の時に頑張ったことは…と聞かれた場合、なんでそれが部活じゃないとだめなのだろうか。もちろんボランティアとかもあるのだろうけど、中学生ではあまりボランティアというのはいないだろう。読書部…では迫力不足かなあというのが、高校受験を控えた頃のちょっとした悩みであった。どこかの地域では全中学生に運動部を強制していることが議論になっているという。部活のために、勉強や読書など他のことに時間がとれないくらいの過剰な練習をするのが教育的とは思えないし、過剰なエネルギーを部活で吸収して非行対策に資するなんていうのも本末転倒である。もちろん人によっては、部活に打ち込むことがプラスに働くという面もたしかにあるが、それにしても、そもそもそうしたものの嫌いな子にまで強制するものではないだろう。
2022年03月21日
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一頃、執事やメイドを主人公にしたラノベが流行っていたようだが、私の知り合いにも大変な名家で財産家の家で執事をやっている人がいる。たま~に会うと。主人や令嬢の世間知らずを嘆いたりする。お金も力もあってどんな情報でも手に入る立場だと思うが、耳に心地よい情報しか入らない、小さい頃からなんでも周りが思い通りにしてくれていたので苦労というものを知らない…まあ、そんなものなのかもしれない。その彼からこんな話をきいた。数年前のことだが、令嬢が「気に入った、結婚したい、そして彼も私を愛している」という青年を家に連れてきたことがあった。たしかに見目好い青年だし、話し方もはきはきとしていて好感が持てる。今はアルバイトをしているけど弁護士を目指していて学校にさえいければ十分に合格する自信はあります…彼はそう言っていたという。令嬢は、もう恋に夢中で、きりっとしたスーツを着こなし法廷でドラマのように熱弁をふるう彼の姿が目の前に見えるようにうっとりとしている。父親の方も娘かわいさで彼の学費から生活費からなんとかしてやろうという。そんなわけでその青年は恋人の父親の援助と威光で学校に入り、無事に卒業のはこびとなった。大変なのはそこからなんですよ…知人の執事の話は続く。合格は間違いないのだから彼の卒業と同時に結婚したいと娘は言いだした。なんでも年がいってからの結婚は彼女の美意識では「カッコ悪い」ということらしい。父親も娘がそういうのならと式場の物色を始めた。以下は知人の言葉をそのまま書いてみる。世間を知らなすぎると思いましたねえ。いくら弁護士試験が易しくなったと言ったって誰でもというわけないじゃないですか。この間だって20年も滑り続けた挙句富士山から滑って死んだ人だっていた。みんな猛勉強して、それでもそんな夢がかなわない人がごまんといるといいます。私はご存じのように秀才でもないし、友人にもそんな人はいやしない。それでもつてをたどって何人か猛勉強して弁護士試験に合格したという秀才を紹介してもらいましてね、うち一人など直接主人やお嬢様に合わせて話をさせましたよ。とにかく現実を知ってほしい一念でね。失礼ながらお嬢様の恋人はさほど勉強をしてこられた方には見えませんし、本気で弁護士になれると思っているのならうぬぼれか妄想、そうでなければ詐欺のようなものでしょう。最初は主人は怒るしお嬢様は泣くし、そりゃあ大変でした。けれども、ようやく正式な婚約は試験に合格した後でということで納得されたのですよ。私も自分が不忠者ではないかと悩みました。お嬢様の御心を傷つけたのですから。でも…え、その後どうなったって。今では感謝されています。予想どおり恋人は試験に不合格。その後も遊び歩いていて今では消息不明ですよ。お嬢様もすっかり幻滅していて、あの時、はやまって結婚なんてしていたら大変なことになっていたわなんていうのです。この頃では、地道で真面目な方と付き合いをされているようですけどね。時には世間というものの現実を教えて差し上げる、たとえ怒鳴られても叱られてもね。それが執事の忠義というもんじゃあありませんか。注 今日の日記は全くの嘘である。もちろん名家に仕える執事の知り合いなどはいないし、まあ、夢の中の話としてとってください。
2022年03月18日
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最近、youtubeの図形問題をやっている。こういうのっていわゆる脳トレには向いているように思う。将棋のように先の手を読むことに頭を使うのではなく、いくつも解答を解き、そして新しい問題を見た時には知っている解法を総動員して応用できるものを探す。まさに思いて学ばざればすなわち危うし、学びて思わざればすなわち暗し…で記憶と応用とのかげんがちょうどよい。もっとも世の中には一瞥即解というようにちらりとみてすぐに解くという人もいるのかもしれないが、そういうのは凡人には無理だろう。しかしそれにしても、小学校の図形問題ってこんなに難しかったっけ。三角形の面積や台形の面積の公式を習ったのはたしかに小学生のときだが、三角形の内角の和は中学校で初めてでてきたように思う。それにあくまでもこれは「算数」なので三平方の定理は使ってはダメとなるとひらめきだけで解答を探さないといけない。思い出してみると小学校の頃って勉強をルーティンでやっていた感じで、こうした面白さはわからなかったように思う。算数は計算が面倒だと思うことはあっても文章題は決して嫌いではなかったのだが、問題が解けたときの爽快感のような記憶はない。クラスにも中学受験をやっていた子も何人かいたのだが、わざわざ難しい勉強をする人の気が知れないとも思っていた。しかし、ちょうど子供から大人になる時期に難問をこなしていくのもよい経験なのかもしれない。最初は解けそうもない問題を試行錯誤して解いていく経験というのは、いろいろな意味で思考力の基礎になるし、ひいては人生の難問にも役立つときもあるかもしれない。今のように年齢がいってからの脳トレでもよいのだが、ずっとずっと昔にこんな問題をやっておけばよかったのかもしれない。
2022年03月17日
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中学生の頃、学校の図書室には一棚を占拠して「原爆の子」という本が並んでいた。原爆を体験した子供の手記あるいは聞き取りをまとめたもので、図書室に置いてあっただけではなく、教師が授業中にもなんどか読み聞かせを行っていた。いくつかの話はいまだに記憶している。被爆直後、ふらふらと歩いていたら割れたガラス窓に「お化け」がいるので驚いたら、それは被爆した自分の姿だったという少女の話。原爆被害の中には皮膚が焼けただれてケロイドになることがあり、それは時が経ても治らなかったという。また、生きた体に蛆がわき、苦しんで死んでいった人々の話もあった。原爆被害は単なる数字ではなく、その数と同じだけの無念の人生があり、また、傷や病を抱えて生きてきた人々の苦しみがある。核廃絶は人類の願いというのはそのとおりだろう。あれほどの被害の出る兵器などなければよいにきまっている。ただその一方で人類が核を手ばさないのも事実だろう。人間は理念よりも実利で動き、その実利の中には支配欲や闘争本能もある。それに地球上にこれほど多くの国家がある以上、わけのわからない独裁者に率いられたチンピラ国家もあり、そんな国家が核をもつよりは、「まともな国」だけが核を持っている方がましだということもある。核廃絶ではなく核不拡散というわけだ。だからこそ核保有の認められている国際政治大国の責任は重い。日本には二度あることは三度あるという諺が古くからある。しかし三度目は絶対にあってはならないのが核被害だろう。憲法9条、非核三原則、折り鶴、平和への祈り、核の悲惨さを全世界に訴えること…そうしたもので「三度目」が防げれば本当によいのだが。
2022年03月16日
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河津桜を見に行った。本場の伊豆の河津や神奈川の松田山は大変な人出のようなので、行ったのは三浦半島と引地川の桜だ。そこもまた大変な賑わいで、コロナも三年目に入ると「自粛などやってられるかよ」という雰囲気になっているように思う。人生は有限だし、花が咲くのは一年に一度きり。コロナ一年目のときは、どこかのチューリップの名所では花を刈り取ったりしたし、羊山公園の芝桜やひたちなかのネモフィラは封鎖というようなことをやっていたが、今年はそうしたことはもうやらないだろう。コロナを克服したとして花火まで打ち上げて祝っていた中国でも散発的に感染が起きているようで、目指すのがゼロコロナにしろウィズコロナにしろ、まだ先はありそうだ。短距離とマラソンでは走り方が違う。なんでもかんでも自粛しろだの家にいろだのではやってられない。ただ、人出が多くなっていると言っても、それでも大型観光バスはみかけないし、公共交通機関は敬遠する人が多いせいか、道路の渋滞が酷い。そしてまた、コロナ前にはあまり見かけなかったテントもあちこちで目に付く。密をさけるレジャーとしてアウトドアの人気はたかまっているようだ。マスクや消毒液と同様、アウトドア用品もコロナ禍で売れた数少ない業種なのかもしれない。今年のように冬が厳しく、一気に暖かくなるような年は桜の開花も早いという。もうすこしすれば、花見の賑わいで全国あちこちで大変なことになるだろう。そうなると感染者数の増加が心配だが、今までほど人々は気にしないかもしれない。感染者数が増えても、死亡者がそれに比例して増えなければ死亡率は減る。恐ろしい病気はコロナだけではない、いやコロナよりも怖ろしい病気はいくらでもある。人が生きていく上に不安は常につきまとうものなのだが、不安にふりまわされるために人は生きているわけではない。用心はしなければならないにしても、そのために花を見過ごすのはごめんだ。そんな雰囲気がしだいに世の中を覆っているように見える。
2022年03月14日
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子供の頃、おそらくは児童向きに書き直したもので読んだことがあるのだが、はるか時を隔てて読んでみるとずいぶんと印象が違う。もしかしたら、子供の頃に読んだときは「早すぎ」、そして今読むには遅すぎたのかもしれない。本にはそれぞれに読むのに最も適した時期というものがある。「若草物語」は小学校の高学年から中学生くらいで読むのがもっともよいように思う。舞台は南北戦争の頃のアメリカ、父親は従軍して家をあけており、留守を守る母親とそれぞれ性格の違う四人姉妹の日常を隣家の少年との交流も交えながら描いている。物語の中で起きることもクラスメイトとのいさかいから、生死にかかわるような病気まで様々である。母親と四人姉妹、そしてお手伝いのハンナやちょっと気難しい大伯母まで女性たちはいきいきと描かれているのに、父親も含めて男性の登場人物の影は薄い。隣家の少年のローリーは最初に読んだときも、女の子のような男の子という印象だったのだが、再読してみても金持ちの息子だが、ちょっと頼りない青年という印象だ。作者はこれを自伝的小説としているので、文才に恵まれ、好奇心旺盛で闊達な性格の次女が作者の分身であるということはすぐにわかる。彼女は、女性にとっての制約の多い時代に、女性に生まれたことをどこかで残念に思っており、もっと自由に行動し、才能を伸ばしていく生活に憧れている。最初に読んだときには大きなお姉さま達よりも末の妹の視点で物語を読んでいたが、もう少し後に読んでいたら、たぶん次女の視点で物語を追っていたかもしれない。そして子供向けリライト版では省略されていたのかもしれないが、物語は長女が婚約をする場面で終わっている。仲の良い四姉妹の紡ぐ家庭という小宇宙も永遠のものではない。姉妹もそれぞれ巣立っていくし、親も年老いていけば、子供との関係も変わっていく。そうしたものに対する愛惜の思いもラストシーンには感じられる。
2022年03月13日
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東日本大震災から11年になる。あの頃はその前にも小さい地震が続いていて、あれがきたときも最初はまたかと思った。しかし今までと違いすぐには終わらない。周りの人々は次々と中庭に出ていく。万一の場合でも築何年の老朽化した建物にいるよりは庭の方がましだろう。「こんなんはじめてだねえ」なんて言いあいながら、目の前の建物が崩れてきたらどうなるんだろうと想像する。ちょうどその一月ほど前、ニュージーランドの地震があり、教会の崩れる映像が何度も放映されていて、地震と言えばついそんな映像が目に浮かぶのだった。船に揺られているような長い時間が過ぎ、しばらく様子を見た後、電車も止まっている中で各自帰宅することになった。なかには十時間以上も歩き通して帰宅したという人もいたが、職場で世を明かした人も結構いた。幸い歩いて帰れないほど遠くはなかったので、歩いて帰ったのだが、コンビニの棚は空っぽの一方で、居酒屋はどこも満員で、後で聞けば徒歩で帰宅した人々が立ち寄ったため「特需」になったそうだ。これも電気や水道が無事なればこそで、被災地とは比べようもない。ようやく家に帰ると、ピーピーという電子音が聞こえる。冷蔵庫の蓋が開き、それがずっと音を出していたのだった。揺れの向きによって違うのか、棚も落ちたものもあれば、そうでないものもあった。本棚は人間が意図的にやってもこうはできないだろうと思うほど、本が部屋中に散乱していたのだが、食器棚は奇跡のように無事だった。その後は、半年以上も毎日のように続く余震が怖ろしかった。職場でもそんな余震がくるたびに大騒ぎする若い男性社員もいて、最近の子は男だから怖がらないふりをしなければいけないとかそんな意識はあまりないのかもしれない。男女平等とはそういうものなのだろう。人間は絶妙な自然のバランスの上に生かされている。震災が頻発すれば人間の文明なんてなりたたないだろう。太陽と地球の距離だって、ほんのわずか違えば人間は生きていけないし、月ももしなければ地球の自転は早くなり、これも人間の生きていける環境ではなくなるという。自然に感謝し、生きていることに感謝し…youtubeで見つけた歌「月明かりの夜」https://www.youtube.com/watch?v=aaOChwNPg5
2022年03月11日
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第6波が来てから控えていたものがある。理美容である。あんな凄まじい感染者数ではいつ感染するかもしれず狭いところに客が並び至近距離で話すことも多いところなど、できるだけ避けたかった。しかし、さすがにこれ以上あけるわけにもゆかず、コロナ禍が始まったばかりの頃買った髪切り用ハサミでやるにしてもなかなかうまくゆかない。そんなわけで、いきつけの1000円カットの店に行ったのだが、やはりおそれていたことが…。幸い客は少なく、待ち時間は短くてすみそうだったのだが、髪を切ってもらっている白髪の女性がのべつまくなしに話している。断片的に聞こえてくる話は、コロナ禍で人と会う機会が減り、友人の顔も孫の顔も忘れてしまいそうだということ、あとはどこそこで道に迷ったとかいうまったくどうでもよいことを次から次へと話している。あまりにも一方的な会話なので、携帯電話かとも思ったが、彼女の方が一方的に話しかけているようだ。おいおい、このあたりはヒマツが飛びまくっているのではないか。こんなどうでもいいことを一方的に話まくるのはボケが始まっているのではないか。ただこうも考えた。コロナ禍で人と対面して話をする機会は激減した。特に一人暮らしの人などはそうだろう。そんな人が数少ない人に向かって何か雑談をする機会があれば、どうでもよいことをのべつまくなしに話したくなるのではないか。電車など公共の場では会話や雑談がずいぶんと少なくなっている。レストランや日帰り温泉施設でも黙食や黙浴(変換ででてこないが)を呼びかけるポスターがあったり、わざわざおしゃべりはお控えくださいと放送しているところもある。しかし人間には用もないことをくっちゃべりたいという欲求もある。コロナ禍は目に見える光景だけではなく、耳に聞こえる風景も変えている。
2022年03月09日
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元外務官僚による明治から太平洋戦争に至る日本外交の失敗の検証である。外務省を離れたとはいえ、やはり発言には制約があると思うし、おそらく外務省の一般的な外交史に対する見方もこうしたものなのかもしれない。日本外交の失敗はもともと統帥権が独立していて軍の暴走を抑えきれなかったという憲法上の欠陥にある。こうした指摘は目新しいものではないのだが、そこにいたるまでの歴史は整理されていて読みやすい。それにしてもなぜ、軍の暴走が昭和期に入って起きたのだろうか。そしてまた日米開戦が勝てない戦争であることは軍も含めて多くの人が知っていたはずなのだが、なぜ誰も戦争を止めることができなかったのか。ドイツがヨーロッパで勝利するはずだ、米国は奇襲攻撃による被害で戦意を失うはずだ…そんな楽観的予測にしがみついたのかもしれないにしても、今からふりかえると不思議である。後半の日本の外交戦略を考えるの部分は全般の近代史の中の日本外交を俯瞰した第一部に比べると退屈だ。建前論に終始する役人的な筆致もあるのだが、人類が共通の普遍的価値観に向かって進歩しつづけているという見方は、楽観的にすぎるように思う。そしてまた、日本や欧米の自由と民主主義を無条件でよいものとみているのだが、多くの先進国で深刻な問題となっている格差の問題に触れないのは残念だ。いくつかの先進国では人種暴動やジレジョーヌのような貧困を背景とするようなデモや暴動が起きている。少なからぬ人々にとって自由は「橋の下に寝る自由」でしかないし、民主主義といっても米国の二大政党制のように有権者の選択肢は極めて少ないという例もある。「自由と民主主義」だって現実には完璧なものではない。
2022年03月08日
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リアルタイムでこの歌が流行っていた時には、正直あまり知らなかったが、あらためて聴くといい歌である。昭和に流行ったグループサウンズをイメージさせる曲調で歌いやすく印象に残る。もう少しうまく売ればメガヒットにもなったかもしれない。https://www.dailymotion.com/video/xph6kwそしてそんな歌の雰囲気からくるそこはかとない郷愁が夕陽の海のイメージにぴったりである。しかしなんで九十九里浜なのだろうか。湘南の海ではなく九十九里浜。湘南がハイソなイメージなら九十九里浜は庶民的で手が届きそう。だからあの「万引き家族」も海水浴は九十九里浜?それはともかくとして、なんとなく今リメイクしても流行りそうなパワーをもった歌のように思う。ただし歌には夕陽がでてくるが、九十九里浜では刑部岬以外では夕陽はみえない…あたりまえだが。
2022年03月07日
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コロナはピークアウトしたようにも見えるが減少のスピードは鈍くまだまだ不安である。韓国の例では大きな波がピークアウトしたように見えたのち、さらに巨大な波がやってきている。昨年の12月下旬に5000人台の過去最大の波があり、それが今年1月に3000人ほどに終息したと思ったら急上昇して3月4日には24万人の感染者数となっている。コロナでは誰も先の予測などできず、マスクをして手洗いにつとめると言うしかないのではないか。大人世代はともかくとして、窮屈でうっとうしいマスクをし、友達との会話も控えるような生活が続く子供たちが気の毒である。2年経っても収束のめどはたたず、誰も「コロナ後」を語らなくなってきた。ついでがあったので、東京マラソンを見た。たまたま見たのは、市民ランナーでも最後の方で、4分の1くらいはほとんど歩くような速さであった。以前みたときよりも、コスプレや仮装は激減しており、ほとんどいないといってもいいくらいだ。アマビエの仮装なんかいるのかと思ったのだが、沿道での観戦も自粛を呼び掛けているような状況で、仮装は疫病退散の趣旨に反するのだろう。参加者にも仮装やコスプレの自粛をよびかけたのかもしれない。コロナは消えなくても季節は巡る。昨日は春一番が吹き、寒いと言っても真冬の寒さとはやはり違う。あちこちではいつの間にか早咲きの河津桜が咲き、春を告げている。
2022年03月06日
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この前見た「怪物」が本格的な犯罪ドラマだとしたら、今回見終わった「黄金の庭」は韓国ドラマのイメージどおりの韓国ドラマだろう。出生の秘密、交通事故、難病、記憶喪失という要素がだいたい入っているし、美人すぎず性格のよい主人公対美人の悪役という構図も、またかという感じだ。けれども、このドラマで面白いのは悪役が主人公のライバルとなる美人だけではなく、むしろラスボスはその母親だという点だ。この女、体が大きくめちゃくちゃ迫力があるのだが、特に図抜けた能力があるというわけではない。極貧で悲惨な境遇に生まれながら、ただひたすら強烈な上昇志向と欲望とで、娘の美貌を道具にして財閥家庭に入り込んでいく。人を騙すこと、人を踏みつけることをへとも思わないということが、こんなに強烈な武器(凶器)になるのかと思うほどの女悪役ぶりで、こういうのって犯罪実録ドラマであの尼崎連続変死事件の角田美代子の役をやったらぴったりだろう。そういえば復讐とならぶ韓国ドラマの定番に財閥家庭崩壊というのがある。ちょっぴり気の弱い御曹司をたらしこんで悪役母子が財閥家庭を崩壊させていく…というのは実際にもありそうな話で、リアリティがあるし、視聴者はこんな話も好きなのだろう。ネタバレになるので、詳細は書かないし、書くと長くなるのだが、可愛らしい子役やお笑い担当のキャラも出るので、最後まで面白く視聴できた。そしてまた、財閥の奥さまやその秘書が知的で美しく、ラスボス悪役も含めて、女優陣の好演が光るドラマである。
2022年03月04日
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コロナ感染者はピークを越えたようにみえたが、ここ数日は、高止まりか、増加の傾向をみせている。先週が祝日明けだったということを考えても、同曜日に比べ9千人以上増加というのは多い。韓国では昨年12月末に過去最大の7千人台の感染者が出た後、やや減少したと思ったら下がりきらないうちに次の大波が来て3月2日の感染者は20万人近くに達している。韓国の人口を考えると、とんでもない数字だ。同じようなことが日本で起きないとも限らない。コロナもこれだけ続くと、新しい日常が本当に日常になってしまった。職場での雑談は少なくなり、ランチの誘い合わせもなくなった。会社周辺の食堂も閉めたところがあるようだ。リモート授業の多い大学周辺の街となるともっと酷いだろう。電車も座りやすくなっただけではなく、車内の会話も減った。全体にコロナ前よりも静かになっている。家にばかりいると気分がめいるし、人生の時間は有限である。旅行で行きたいところは多々あるが、あの感染状況の数字をみると、長時間バスや公共交通機関を使うのはどうしても抵抗がある。そんなわけでできるだけ密を避けて、外にだけは出るようにしているのだが、ご近所散策もさすがにあきる。そこで最近では短時間、電車やバスに乗り、有名な寺社や公園を散策するようにしている。そんなわけでこの間は有栖川宮記念公園に行ってきた。都心のオアシスのようなところで傾斜もあるので、坂や階段も多く、歩きがいがある。寒冬のせいか、花は少なかったが、梅がちょうど見ごろで見事であった。ちなみに有栖川というのは有栖川熾仁親王のことで、公園には親王の大きな騎馬像がある。宮さん宮さんの歌の宮さんは熾仁親王のことだ。それにしても、あの「宮さん宮さん」の旋律は脱力系で、戊辰戦争といういわば内乱の際の歌とはとても思えない。庶民にとっては上に来るのは徳川でも薩長でも朝廷でも、どうでもよかったのだろう。
2022年03月03日
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大正時代の文章をよんでいると、ときどき「一等国」という言葉が出てくる。今や日本は世界の一等国…という具合だ。背景には日本が第一次世界大戦の戦勝国の側に立ち、国際連盟の常任理事国になったことがあるのかもしれない。国際連盟はアメリカは当初から加入していなかったものの、第一次世界大戦の勝ち組のイギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国となり、後にソ連とドイツが加入と同時に常任理事国となっている。その一方で、南米からの常任理事国入りを求めていたブラジルとアルゼンチンは、それがかなわず脱退している。こうした推移を今の国連改革の動きと重ねると興味深い。現在、国連改革を唱え、常任理事国入りを目指しているのはG4といわれるドイツ、日本、インド、ブラジルなのだが、日本とドイツは国際連盟の常任理事国であり、ブラジルはそれを望んでいたという経緯がある。その一方で、G4に対して、反対するグループもあり、それがコーヒークラブともコンセンサス連合ともいわれる。コーヒークラブというのは、これがもともと1990年代にイタリアがよびかけておこった動きでイタリア人がコーヒーが好きなことに由来するというが、よくわからない。イタリアで特にコーヒーが人気というのもここでしか聞かないし…。で、このコンセンサス連合には出入りがあるようだが、主な国としては、韓国、カナダ、スペイン、メキシコ、トルコ、アルゼンチン、パキスタン等がある。かつての国際連盟の常任理事国であったイタリアが、今ではその常任理事国の拡大に反対し、同じ立場で南米の常任理事国入りを求めていたブラジルとアルゼンチンが、今では立場を変えているのも面白い。国際紛争の際での国連の無力が露呈されてくると、その次には国連の在り方の見直しという議論も、でてくるのかもしれない。大正時代の日本人のように常任理事国が一等国だとも思わないし、そんな一等国の国民が幸福だとも思わない。とにかく、平和に暮らすのが一番いい。震災も 津波もなき地で 人の手で 学校崩れ 道路壊れる
2022年03月02日
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