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この間、所用があって文京区の春日に行ってきた。そこで、もし、春日に行く機会があったら…ということでお薦めの場所を書いてみる。まず、文京区シビックタワー展望台がある。これは文京区役所の上にある展望スペースであり、地下鉄の駅からつながっている。もちろん入場料はいらない。ここからは都心の東部からの眺望を楽しむことができ、天気がよければ筑波山、秩父連山、丹沢、富士山といった山もみえる。筑波山は実際には八溝山地の端であるが、東京からは独立峰のように見え、江戸の人々が筑波と富士を並び称したというのもよくわかる。このシビックタワーであるが、実は名称を忘れたので、最初は少し迷った。表示でみても、〇〇タワーというのが付近にいくつもあり、いずれも高級そうな高層マンションであった。最近、高層マンションがあちこちに建設されている。そのうち、この国の人々は高層マンションに住む住民とそれ以外とに二分されていくのかもしれない。また、駅のちかくにはこんにゃく閻魔ともいう源覚寺がある。むかし、眼病に悩む老婆がこんにゃくを備えたら病が治ったというのがこんにゃく閻魔の由来なのだが、閻魔像は参拝しながら拝むことができる。また、これとは別に毘沙門堂や塩を塗ると利益があるという塩地蔵もあり、昔から人々の信仰をあつめてきたらしい風情あるよい寺である。ここから高台に登ると伝通院があり、そのあたりも屈指の高級住宅地で、この間、火災にあった議員のマンションもそのあたりだったかと思う。高級武士が住んでいた地域が現在も高級住宅地となっているのだが、身分の高い人は高台に住んでいただけにそういう場所は坂道が多い。今回は行かなかったのだが、以前、伝通院に行ったとき、坂道が波のようにうねっていたのが印象にのこっている。
2025年01月31日
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ブーバキキ効果というのがあるという。画像はすぐに検索できるのだが、曲線でできた形と直線でできた形を被験者に示し、どちらがブーバでどちらがキキかと聞く。すると国籍男女年齢にかかわりなく、ほとんどの人が曲線の図形をブーバ、直線の図形をキキだと答えるという。ブーバもキキも図形であって、どっちが正解というのではないのだが、図形の印象と語感は人類共通というのが面白い。同じような実験で、様々な言語での、固い柔らかい、明るい暗い、重い軽いのような反対の意味を表す形容詞を並べ、その言語について全く知識のない被験者にどちらがどちらかを当てさせる実験がある。これも世界中のどこで実験をやっても、正答率は必ず5割を超えるという。言語は単なる記号ではなく、人類に共通する語感というものがあるらしい。また、これは日本人の学者が発見したのだが、世界中のかなりの言語で否定語にはN音が含まれるという。よく小さい子供が首をふりながら、否定の意味で「ない、ない、ない」と叫ぶことがあるが、ああいう仕草も万国共通なのかもしれない。
2025年01月29日
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どういうわけか図書館では数学の本を借りることが多い。もちろん一般向けの啓蒙書である。今回も「数字の国のミステリー」という本を借りたのだが、正直後半部分は単に読み飛ばしただけなので…感想を書くのはパスしようと思う。それにしても、なんでこうした日記を毎日のように書いているのだろう。一説によればこうした日記とかブログとかは下火という説もあるし、アクセス数も減っているようだ。なんで書くのか…をよくよく考えてみると、ただ書きたいから書くというにつきる。もっと言えば「ものを言わぬは腹ふくるるわざなり」というが、「ものを書かぬは腹ふくるるわざなり」というのだろうか。だいたい世の中おかしなこと、むかつくことが数多ある。ただそれをやたらに人にいうわけにもいかないので、ここで書く。書くというのは不思議なもので誰かが読まねばむなしい。webで書けば誰かが読む。共感だけではなく、反論もあるのだが、そういうときにも、ああ、こういう見方も世の中にはあるのだなあ…と感心したりもする。ただ、webにはネット上の誹謗中傷などという言葉もあるようにプラスよりもマイナスの感情をひきだしやすいという特徴があるのかもしれない。ネットでの悪口雑言はけっこうみられる現象だし、一方でネットでの称賛というのは少ない。意見が分かれるような政治的テーマについて書くのはやめているのだが、かといって身辺雑記ばかりを書いてもしかたない。そんなわけで、世に移ろいゆく様々な事象について、心にうつろいゆくよしなしごとをこれからも書いてゆきたい。
2025年01月28日
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この本はずっと積読でおいてあったのだが、ようやく読んだ。高齢社会においてどのような商品がヒットするか、どのような市場が伸びるかを考察したものなのだが、2025年になった現在に読んでも、当たるようにみえるものとそうでもないものとがある。人口予測はあらゆる予測の中で最も正確性が高いと言われ、少子化や高齢化についてはほぼ正確に予測できる。ただこれを市場としてみる場合には人間の心理の変化という別の要因が加わるので、そこで予測が難しくなる。例えば、(別にこの本には書いてないのだが)高齢化とともに、死者数が増加していけば墓地が不足するのではないかということが昔言われたことがある。ただ現実には墓地不足は起こらず、むしろ全国のあちらこちらで墓じまいが行われている。高齢化だけではなく、少子化も併せて考えてみると、墓を子々孫々に受け継いでいくという感覚自体が希薄になっていくので、後講釈としては説明できる。人間の心理や感覚は時代とともに変わる。本書では家のない若者と大きな家に住む一人暮らしの高齢者をマッチングして昔のような下宿がでてくるのではないかと書いているが、これはどうなのだろうか。家事も手間のかかった時代と、手軽な外食やテイクアウトのある今の時代は同一には語れない。そしてまた、孤独は問題であるにしても、現代の人々は濃密な人間関係を嫌うようになっているのではないか。歌の文句にあるように友人と酒飲んで語り明かしていると下宿屋のおばちゃんが酒をもってくるような人間関係は古きよき時代のもので、今ならうっとうしいだろう。このあたり、人間そのものが変わって来たのか、それとも別の要因があるのかよくわからない。ただ今では高齢者は大きな消費集団で、テレビや新聞の広告を見ても、サプリなど高齢者を念頭に置いたものが多いし、雑誌などもあきらかに高齢者雑誌と化しているものもある。
2025年01月27日
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総理の施政方針演説をテレビで見たが、何か異様な感じがした。何が異様なのかと考えてみると、与党議員の拍手が全くないのだ。前途は多難なのではないか。それはさておき、昨今のニュースはあるタレントのトラブルそして引退でもちきりのように思う。そのタレントについては、歌にしても演技にしても仰ぎ見るほどの芸があるとも思えないし、年齢的にみても潮時のように見える。そしてトラブルであるが、第三者委員会を設置するというのだが、それでいったい何が明らかになるというのであろうか。こうしたものは、厳密な意味での第三者というのは、警察とか裁判所しかありえず、当事者から報酬を貰う委員による第三者委員会なるものは、時間をかけて無難な報告書を出すくらいのものだろう。よく「いじめ」(少年犯罪)が起きた場合に教育委員会に設置する第三者委員会同様に単なる世論鎮静のための時間稼ぎの道具にしかすぎない。こうした芸能関係の集中豪雨的な報道については、かえってこれにより報道が少なくなった事件の方が気になる。東京女子医大の背任事件は、私大と言っても税金から多額の補助金を受けている以上、一私企業の事件とは違う。また、銀行の貸金庫の窃盗も、貸金庫という制度全体の信頼にかかわる話である。一タレントの進退よりもこちらの方が重要だと思うのだが。
2025年01月26日
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以前、橘玲氏の「言ってはいけない」という本を読んだが、だいたい同じことを言っている本である。才能や能力は遺伝する。音楽はスポーツの才能については、多くの人がそれを認めているのに、なぜ学業については、やればできるという努力信仰だけではなく、親の収入や家の文化的環境が左右すると言った議論が幅をきかせるのだろうか。子供の学力と親の収入に相関があるということはよくいわれるのだが、相関関係は因果関係とイコールではない。多くの場合は二つの因子の間に共通の要因があるというのがほとんどなのだ。アイスキャンデーが売れる日はビールが売れると言ったって、別にアイスを食べたからビールが飲みたくなるわけではなく、単に暑いから…というのと同じである。子供の学力と親の収入についても、双方の相関はそれほどなく、単に親の学力が高いからということで説明できるだろう。学力が高い親は専門職や管理職などの高収入の職を得る場合が多いし、学業に向いた能力は子供にも遺伝するので子供の学力が高いというだけであろう。ただ、ここで注意することは遺伝は「遺伝」しないということである。能力は他の自然現象と同様にベルカーブという正規分布曲線を描くが、特定の両親から生まれる可能性のある子供の能力もやはりベルカーブを描く。優秀な両親から優秀な子供が生まれやすいのは事実であっても、常に優秀な子供が生まれるわけではない。逆もしかりである。単純に親の能力がうけつがれるというわけではない。この意味で遺伝という言葉ではなく「生まれつき」という言葉の方が正確なのかもしれない。次に、環境の影響は低年齢ほど強く、成長とともに遺伝の影響が強くなる。これは一見すると直感に反しているようにも思えるが、教育熱心で小さい頃から塾だとか家庭教師だとかで進学校に入学しても中学の後半くらいから息切れするような例が世の中にはよくあることを考えると納得できる。スポーツや音楽などの能力に比べ、知能や学業については、こうした「生まれつき」の差異を多くの人が認めたがらないのは、なにかこうした知的能力が人間の価値を左右するもののようにとらえているせいなのかもしれない。いったいそんなことを誰が決めたのだろうか。橘玲の「言ってはいけない」では、こうした事実を指摘しただけで処方箋は言っていないが、この本では教育論としての処方箋を提示している。ただこれもすべての子供が各人の能力と興味に気づき、それを伸ばすという、昔ながらのきれいごとの教育論でおわっているように思う。読み方が不十分なせいなのかもいれないが…。ただ、筆者もそうした議論がきれいごとであることは承知しているようで、社会に認められる能力を持っていないという人も一定数存在することを認めたうえでベイシックインカム論を紹介している。このベイシックインカムという制度を取り入れた国は今のところないのだが、こうした制度は今後もくりかえし議論にのぼることと思う。
2025年01月23日
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米国ではトランプの大統領選挙での勝利を契機として様々な考察が行われているようである。金持ちの党、東部エスタブリッシュメントの党とされていた共和党がいつのまにかラストベルト地帯の労働者を大きな支持基盤とする党になり、労働者の党、マイノリティの党とされていた民主党がいつのまにか高学歴エリート層の党になっていった。有力新聞や著名なセレブたちの多くが応援する候補は選挙民の支持を得られず、大衆にしてみればセレブもしょせん「あっち側」という目でしかみられなくなっている。背景にはいったいなにがあるのだろうか。というわけで、最近言われだしているのが、Woke Capitalismという言葉なのだろう。WOKEという言葉は、訳せば意識高い系とでもいうのかもしれないが、具体的には、気候変動、銃規制、人種平等、LGBTQなど性的平等、性的暴力廃絶などの運動をさす。一般消費者向け企業が、こうした運動に参加することがあり、これがWoke Capitalismと呼ばれている。こうした活動を行うことにより、企業イメージの向上や顧客の開拓などにもつながるわけである。一方でこうした運動の実践が、保守層の反動を煽り、その結果、政治では保守勢力が勝つということになり、企業に優しい政策が行われることになり、この点でも企業に利益があるのだという。これは米国の話だし、米国にしても、この分析がどこまであたっているかはわからない。ただ、これを日本にあてはめれば、経済界が選択的夫婦別姓を唱えれば保守層が反発して、選挙で保守票が伸びると言ったような議論であまりあてはまりそうもない。日本でも、経済的に弱い立場にある者にとっては、気候変動、LGBTQなど性的平等、ジェンダー平等、夫婦別姓、核廃絶などの意識高い系の主張はかなりどうでもよい問題なのではないか。その上、米国では意識高い系の主張する性暴力廃絶の問題も、日本ではなぜかリベラルさんほど、少年法厳罰化には反対している。少年犯罪の多くが少女に対する性犯罪であるのに…。勝手な想像なのだが、米国でも、企業が意識高い系の活動をするしないにかかわらず、リベラルの主張が労働者に響かなくなっているように思う。むしろ不法移民により、住んでいる地域の治安が悪化し、仕事を奪われ、労働条件が低下することの方が切実な問題なので、トランプに支持が集まったのではないか。リベラル政党は自分たちの味方ではないという幻滅感が外国人の流入制限や、国家国民としての誇りを前面にだす政治勢力への支持につながっているのであろう。これをポピュリズムだのといってみてもはじまらない。選挙はしょせん多くの票をとったものが勝つのであるから。
2025年01月22日
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タレントというのはよくわからない言葉だ。英語では才能なのだが、そのから由来して芸能人をさすのだが、歌手とか俳優よりは範囲が広いようにもみえる。この間、「侍タイムスリッパ―」という映画を見に行ったのだが、出演者はほとんど知らない俳優であったにもかかわらず、演技のレベルは有名俳優とまったくそん色ないようにみえた。芸能界というのは、売れる売れないは紙一重で、運不運や人間関係で決する部分がかなりある。映画の中では殺陣を必死に練習して素人目には凄いというレベルに達している役者が何人もでてくる。ただ、それでも、一般人、つまり消費者である我々観客は売れっ子俳優が短期間の修行で立ち回りを身に着けたうえで主役をはる時代劇を好む。クラシック楽曲のように純粋に芸が評価される世界ではなく、エンタメなので仕方ないだろう。歌や演技ならまだわかる。よくわからないのはそれ以外のタレントだ。ワイドショーの不倫騒ぎにしかでてこないタレントもいれば、なぜか映画の試写会にはよくでてくるというタレントもいる。バラエティのひな壇に並んでいるのって、この人ってなんなのだろうと思うことがよくある。最近、そういったあるタレントが問題を起こし、急速に出演が切られた上、騒動の元になったテレビ局までが苦境なのだという。詳細はよくわからないが、そのタレントにしても歌や演技に傑出した才能があるようにはみえなかった。司会にしても、かわりはいくらでもいる。容姿のよさもあってもてはやされてきたのかもしれないが、あの年齢ではそろそろ切り時といえるのかもしれない。
2025年01月21日
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韓国ドラマ「雪の女王」を視聴中だ。ヒロインは金持ちの家のわがままな令嬢。これって従来なら悪役キャラかよくて脇役なのだが、彼女のわがままの裏には母をなくした寂しさや難病を抱える不安がある。人を傷つけているような言動の背景に善良な性格が隠れている…これを表現している脚本や演技はなかなかなものだと思う。セカンドヒロインは主人公が世話になるボクシングジムの娘で本人もボクシングに打ち込み、女性らしいところもないのだが、主人公の登場以来、恋一筋となり、しだいにかわっていく。こちらの方が定番のヒロインだろう。そして主人公であるが、数学の天才にしてボクサー。女性が求めるのは知性と野性なのだが、いくらなんでもこんなのいるかという設定である。まあ、そこは韓国ドラマで、考えてみれば韓国ドラマブームの火付け役になった冬ソナのヨン様演じる主人公も数学とピアノの天才にして国際的な賞をいくつもとった建築家という、そんなのあるかいな的な設定だった。貧しい母子家庭に育った主人公は数学オリンピックで金メダルをとったものの、銀メダルに終わった親友が直後に自殺のようにみえる交通事故で死んだことに自責の念を感じ、高校を中退して、親友のもう一つの夢であったボクシングの道に入る。それに二人のヒロインと令嬢の婚約者がからむ物語で、ジェットコースター型の復讐劇やコミック原作のファンタジー系の多い最近の韓国ドラマを見た後では、ひさびさに冬ソナタタイプのドラマを見た気がする。実際に脚本は同一人である。令嬢ヒロインは大学に在籍しているが学校にはいったりいかなかったりで、特に傑出した能力があるわけでもないし、何かやっているというわけでもない。最近の恋以外でも大活躍するヒロインばかりを見ていると、やはりこのあたりは一時代前のドラマという感がある。
2025年01月20日
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知人の話をする。一戸建てと家と土地を所有しているのだが、その家と土地の権利証を貸金庫に入れている。権利証を奪われたら家も土地も失うことになるので怖いのだという。こういう理由で貸金庫を使っているという人は世の中には案外と多いのかもしれない。権利証を失ったとしても土地や家を失うわけではないのだが。また、中には脱税のために貸金庫を使っている人もいるかもしれない。収入があっても預金にすると把握される可能性があるのだが、現金場合によっては金塊にして貸金庫に入れておけば所得は把握されない。さらに宝石や高価な絵画を置いておくという人もいるのだろう。貸金庫から銀行員が窃盗を行ったということで、貸金庫を利用する人も減るだろうし、銀行も貸金庫業務から撤退していくのかもしれない。家庭用金庫を使う人が増えるのかもしれないが、家に金庫を置いておくと、そこに貴重品があることを知らせているようなもので逆に危険なように思う。金庫ごと窃盗という例もある。金庫はダミーにして、本当の貴重品は別に置いておくという使い方もあるのかもしれないか。まだ詳細はわからないが、貸金庫窃盗の行員は、投資で損した分を埋めるために窃盗を行ったという報道がある。新しい資本主義は国民が投資を行うこと…という言葉も聞いたような気がするが、投資は余裕の金で損してもよい覚悟で行わないと深みにはまることもある。
2025年01月19日
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前々から評判になっていた映画なのだが、奇跡のようにまだやっているところがあり、見に行った。幕末の会津の侍が現代にタイムスリップするのだが、侍の目からみた視点というのが面白い。ケーキを食べて普通の人がこんなにおいしいものを食べられる世になったのかと感激する。たしかに江戸時代と比べなくても、今の時代、今の世の中というのは安価に食べられるおいしいものにあふれている。多少食品が値上がりしているといっても、餓死に脅かされているという時代ではない。次に時代劇に対する愛である。侍はテレビの時代劇を見て大感激し、自分も殺陣の切られ役の職を得る。本物の侍だけあってリアルな時代劇は得意だ。その中で登場人物の口を通じて語られる時代劇衰退への嘆きは関係者の本音だろう。記憶をたどってみても、昔に比べて時代劇は少なくなっている。かつては製作費がかかるということと視聴者が購買力のない高齢者に偏っていることが時代劇衰退の背景と言われたものだが、製作費はともかくとして、高齢者が購買力のない世代というのは今はあたっていないだろう。テレビではサプリとか医療とかはては葬祭とかの高齢者向きの広告がいかに多いことか。結局のところ、もっと深刻な背景は殺陣のような専門職の技術がすたれつつあることではないか。いくら近代以前だって日常的に侍が切りあいをしていたわけはないのだが、時代劇の見せ場はチャンバラシーンであることは疑いない。その迫力を支えるのは殺陣などの技術だが、今は名のある俳優、人気ある俳優が短期間の練習で時代劇の主役になることがよくある。専門集団としての殺陣は消えつつあるのではないか。これも一種の伝統芸能なのかもしれない。映画のストーリーは人情、コメディ、殺陣(アクション)といったいろいろな要素があるのだが、かなりの佳作とみた。映画館の上映は終わりつつあるが、ネット配信などでいずれは提供されるかもしれず、ぜひお薦めである。
2025年01月17日
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映画の入場者特典として配布したグッズについていた「おみくじ」に大凶があったとして配給元が謝罪したという。大凶があったのなら凶もあったはずで、今後は吉ばかりの「おみくじ」になるのかもしれない。ただ吉ばかりだと、そもそも「おみくじ」とはいわないのではないか。映画の入場者特典に限らず、新年のものには「おみくじ」がついているものがある。以前、鏡餅を買ったときに「おみくじ」がついていたことがあったし、お節などにも「おみくじ」をつけるところがあるのかもしれない。神社などで「おみくじ」をひくときにはそのつもりでひくのだが、別の賞品を購入したのに頼みもしない「おみくじ」がついてきて、それが大凶とかだったら気分悪い、余計なお世話だということになるのは当然だろう。それにしても、神社の「おみくじ」では吉や凶の比率はどうなっているのだろうか。検索してみると、神社によって違うのだが、大吉23%、中吉10%、小吉13%、吉24%、末吉19%、凶11%だそうである。大凶は入っていない神社が多いのだが、入っていたとしても1%程度ということらしい。大凶というのは非常に珍しいものなのだが、知り合いに出雲大社の大凶の「おみくじ」を貴重なものとして保存している人がいる。これは人によるのかもしれないけど、吉の「おみくじ」と凶の「おみくじ」とどっちを気にするだろうか。おそらく吉の「おみくじ」がでても、どうせあたらないよねと気にもとめないが、凶の「おみくじ」となるとなんとなく気になるのではないか。だから、「おみくじ」は買わないことにしている。わざわざ金を払っていやな気分を買うこともないのではないか…と思うので。
2025年01月15日
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帝都妖怪新聞…といっても怪奇小説ではない。明治初期の新聞記事のうちから怪奇な記事をとりあげて編集したものだ。瓦版に代わり普及したのが新聞なのだろうが、当時はテレビ、ラジオはなかった。社会の大変動の中で都市に集まって来たそこそこの知識人…というのが当時の新聞の読者層だったのだろう。そのせいか、怪奇な記事を紹介しながら、最後には開化の世にこんな妄説を信じるのは嘆かわしいと結んでいる記事もいくつかある。ただ、こういう記事が信じられたかどうかはともかくとして好んで読まれたのはたしかだろう。収録してあるものは、怪奇な生き物の話がほとんどで、それ以外にも夢のお告げとか狐狸が化けたとかいった話もある。振り返った人力車夫の顔がのっぺらぼうだったというような小泉八雲の「むじな」と同工異曲の話があるのも面白いし、ブームになったアマビエに似た話も収録されている。ただし、名前は天彦だったり、アリエだったりするし、その絵が防ぐ災厄も疫病の他に凶作だったり、他の災害だったりする。厄除けに絵を売りつける商売というのはずっと昔からあったのだろう。新聞、後にはテレビや雑誌などが怪奇な話を広めるというのは最近まであった。口裂け女のような新手の妖怪や、人面犬などは記憶に新しい。この本に収録した中には人面犬はなかったのだが、人面蛸の記事があり、しかもその人面蛸をわざわざ買った人がいるという話になっている。そんなもの、誰が買うかと思うのだが。最近のことに話を戻すと、団地のポルターガイスト現象がテレビで連日取り上げられたこともあったし、前世を言い当てるという番組がゴールデンタイムに放映されたこともあった。また、活字媒体でも、火星の人面岩は知性ある生物が意図的に作ったものだとか、水に美しい音楽や言葉を聞かせると美しい結晶を作るとかいったものもあり、読者の中には信じている人もいたかもしれない。そんなバカなと思いながらも不思議な話…いつの時代も人間はそうしたものが好きなのだろう。
2025年01月14日
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ニュースサイトをみていると、よく業界苦境についての記事が載る。ためしに「倒産と最多」で検索してみると、ゲーセン、焼き肉店、コメ農家、ラーメン店、コンサル業、介護事業、学習塾、スキー場などの倒産廃業件数過去最多という記事にぶつかる。このほかにも、タクシー会社、テレビ番組制作会社、葬儀社、居酒屋、バーキャバレー、エステ、ドラッグストア、美容院の倒産や苦境を伝える記事もある。需要不足、人手不足、生活様式の変化など背景は様々なのだろうけど、いずれも高齢化と人口減で消費市場が縮小する一方で、供給側の高齢化や後継者難、人手不足、それに円安による原材料の高騰などがあるのだろう。社会の変化を展望しながら、今後はこの分野が伸びるとかこの分野は厳しいと予測する人はよくいる。ただそうした予測でも人口構成のような極めて簡単な予測もあれば、人々の意識の変化など予測の難しいものもある。そんなに古い時代のことではない…高齢化と人口減が騒がれだしたころには、将来の墓地不足が深刻な問題として議論されたことがあった。それでは死亡数が出生数をはるかに超えている現在、墓地不足は起きているのだろうか。否である。葬儀とか墓地に対する意識が変わり、墓地の需要はさほど増えなかったのである。それはともかくとして、これだけの業界が苦境だということは、その分野で働いていて失職するという人もいるということだろう。人手不足だとか有効求人倍率だとかいったものは、労働市場を全体の数としてみている数値であるが、実際にある業界で働いていた人が別の業界ですぐ就職できるかは別問題である。仕事は選ばなければある…ということをいう人はたいていは仕事に満足している人だろう。
2025年01月13日
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最近きかなくなった言葉がある。かつては、少年犯罪が起きると「社会が悪い」、「学校が悪い」、はては「ポルノが悪い」といったように悪者を当の少年以外に見出す言葉を非常によく聞いた。少年はあくまでも子供という無垢な存在であり、そんなものが悪に染まるのは何か別の悪者があるに決まっている…そういう思考回路だったのだろう。だから少年の実名報道などはとんでもない所業で、あの女子高生コンクリート殺人事件の4人の実名を野獣として紹介した週刊誌は識者からバッシングされたし、不気味なサカキバラの顔写真と実名を報じた写真週刊誌はお行儀のよい某新聞から「あざとい」と非難された。そんな時代だったのだから、女子高生コンクリート殺人事件では凄腕の弁護団が結成され、主犯格も20年、他の三人はいずれもごく軽い刑ですんだ。もちろん少女の監禁中に暴行を加えた他の少年らはおとがめなしである。そんな時代を考えると今は昔の感がある。同じように最近聞かなくなった言葉を考えてみると「北朝鮮の餓えた子供たち」というのがある。今から考えると信じがたいのだが、拉致事件発覚前は日本はせっせと北朝鮮に支援を行っていた。拉致事件発覚後にそうした支援を行わなくなると、一部の識者から、日本が支援を止めると北朝鮮の餓えた子供たちが可哀そうだという声が起きた。今でも北朝鮮の様子はよくわからないが、大変な飢餓が起きているような情報もあり、映像をみると子供たちなどけっこう痩せている。それでも最近はあの「北朝鮮の餓えた子供たち」云々という声が聞こえないのをみると、やはり社会の意識は変わったのだろう。もちろん飢餓は放置すべき問題ではないのだが、ただ、北朝鮮の飢餓がアフリカなど地球の他の地域の飢餓に比べて特別というわけではないということだろう。
2025年01月11日
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以前歎異抄を読んだことがあった。短いもので読むだけは読んだがよくわからなかった。そもそもであるが、歎異抄について、よく無人島に一冊だけ持っていくのなら歎異抄だという言葉があるが、そもそも誰が言い出したのだろう。ネットで見ると、最初は西田幾太郎、次いで三木清、その後に司馬遼太郎が戦車兵だったときに歎異抄を持っていたという述懐をしたことがあり、このあたりが起源なのだろう。まあ、この三人とは知性のレベルがまるで違うという通常人なら歎異抄よりも火のおこしかたや野草の食べ方のノウハウが詰まった本の方が役に立つ。そういったサバイバル図鑑のようなものもすでにあるだろう。ただ、無人島に持っていくなら歎異抄…というのは、有名な言葉なのでなんとかもう一度よみたいと思っていた。親鸞の伝記もそのために読んだようなものなのだが、さて再読して見てもやはり難しい。ただこれは難しいことを書いているのではなく、あえてもっと簡単なことを書いていると思えば理解できないことはない。学識や修行ではなく、ただ弥陀の本願を唱えることで救われる…ということを言っているのではないか。学識や善行を誇るのではなく、ただ信じるということで、学識とか善行というと自ずと上下がでてくるのだがそういうものではないというのだろう。往生といっても、それは現生利益を約束するものではない。ただ自分を無にして帰依することで、余計な我執がなくなり、結果として利益を得ることはあるかもしれない。そういう話がもともとあったのかどうかは知らないが小説「親鸞」には酒飲みのDV夫が改心して円満な家庭を築く話がある。人の不幸は貧・争・病だという。このうち争は人の心持によってまだなんとかなる。親鸞は仏教の学識は抜きんでていたであろうし、修行も人を驚かすような難行苦行もやってのけだであろう。ただそれでも女性に対する恋情だけは消すことができなかった。煩悩であれば修行によって見えるはずなのに消えない。そこから、妻帯をし、ありのままの姿でも、弥陀の本願を唱えれば往生するという信仰を唱えた。そしてそれにより、貴族や限られた人だけの間で広まっていた仏教は広く民衆のものになっていった。それを仏教の堕落とみるか日本化とみるかは人それぞれである。歎異抄はごくごく短いものなので読むにはいくらもかからない。無人島にこの書物を持っていくと言った識者はきっと何度も何度も読み返していたのだろう。
2025年01月10日
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あの有名な残虐事件である女子高生コンクリート殺人事件の副主犯格の人間が死んだという。トイレの便器と壁と間に挟まって死んでいたというのだが、どうも状況がわかりにくい。この事件の中心人物の4人のうち見張り役の男もすでに死んでいるというネット情報もあるが、それでも天罰というには遅すぎる。さて、この事件の量刑であるが、主犯は20年の満期でとうに出所しているし、この副主犯格にしてもさらに軽い刑で30歳前に出所している。女子高生コンクリート殺人事件は事件そのものの異常さはさておき、社会の反応も今から思うと昔日の感がある。当時はネットなどというものはなく、テレビにでてくる弁護士や評論家の先生の意見がほぼすべてという時代だったのだが、こうした少年事件が起きると、必ず出てきたのが社会が悪い、学校が悪いという大合唱であった。特にこの事件については、街に氾濫するポルノが問題だという意見まであったのを記憶している。それだけではない。この女子高生コンクリート殺人事件では凄腕の弁護団(弁護士ではなく団だったように記憶する)がついていた。そんな時代だったから、少年法改正の議論でもおきようものなら、たちまち厳罰だけでは少年犯罪は解決しないだの、少年犯罪は減少傾向にあるだのという反論があったものだ。厳罰だけでは犯罪がなくならないというのは、医療だけでは病気はなくならないというのと同様に無意味な言説であるし、犯罪はそれ自体が問題なのであるから、十把一絡げに数だけ見て増えているの減っているのと言ってみても始まらない。遅々とはしているが少年法は改正され、少年に対する量刑も厳しくなっている。その背景には、ネットによって普通の人の普通の意見が知られるようになったことがあるように思えてならない。そういえば、北海道にはヒグマよりも恐ろしいものがいるということを証明したような最近の凶悪事件がある。これはもう女子高生コンクリート殺人事件のようなぬるい判決にはならないだろう。特に橋から女子高生を投げ落とした事件では、千葉の生埋め殺人で主犯の19歳女に無期刑がでたこととの均衡を思うと、成人していた主犯女には相応の判決がでるものと思われる。
2025年01月09日
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この本は我々くらいの世代でも中学校の教科書などでは巻末の推薦図書に入っていたように思う。そして学校の図書室にも記憶に間違いなければあった。ただ、中学生の頃、そして高校生になってからも、このタイトルでは絶対に読む気にならなかった。その後もこれは子供向きの本(実際に日本少国民文庫の一つとして書かれた)として読まなかった。ところが最近同じタイトルのアニメ映画が作られヒットしたのかしなかったのかはよくわからないが、この本が再び話題になったことがあったので、読んでみた。物語りは主人公のコペル君が叔父さんと二人で銀座のデパートの屋上から街をみおろす場面で始まる。この本が完結したのが昭和12年なので、その頃を念頭に置いた情景だろう。七階建ての屋上から見る街には自動車が後から後から走ってくる。タクシーや業務用車両などの第一次モータリゼーションは既にこの頃始まっていた。日本にも超高層ビルが出現する以前は七階建ても十分に高く、「車がマッチ箱のように見える」というのが、高い建物から街を見下ろした際の常套的な表現になっていた。コペル君は中学二年生で小柄だが成績優秀な少年。銀行に勤めていた父は二年前に亡くなり、郊外の家でばあやと女中、そして母子の四人で暮らしている。生活に窮している様子がないのは、この時代には地代や家賃などの資産で暮らしている人がかなりいて、母にもそうした資産があったのだろう。法学士の叔父さんがよく家にやってきて、「コペル君を立派な男にする」という父との約束を果たすために、コペル君に自分の考えを書いたノートを渡して考えさせるということで物語がすすむ。それにしても戦前は格差の厳しい社会であった。コペルが見下ろす東京の街でもコペル君と同じ年代の小僧さんが必死で自転車をこいでいた。当時の中学校進学率は20%かそこらであった。中学校の中でも高輪の高台に住む友人の母親は政財界の有力者の子供と友人になるようにすすめ、一方で豆腐屋の家の友人は家業を手伝わなければならない上、貧乏人の子と虐められていた。もちろん現実には中学校にも通えない家の子供も大勢いた時代である。コペル君はものごとを社会全体という大きな視野でみることや自分の過ちへの対処の仕方などを、自分なりに、時には叔父の助言も受けて学んでいく。思春期には誰もがとおる道であり、その意味でこの本は今の時代に読んでも古びていない。
2025年01月09日
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日本に新興宗教が多く生まれた時期が三度あるという。一つは鎌倉初期、二つは幕末、三つは終戦間もない時期だという。いずれも時代の変わり目ということは共通しているし、平安末期から鎌倉初期に生まれた仏教諸派もでてきた時には新宗教であった。本書は浄土真宗の祖の親鸞を主人公にした歴史小説であるが、最後の方はいささか親鸞が神格化されすぎているし、また、親鸞没後の浄土真宗内部の争いも描かれていない。むしろ貴族の子として生まれた親鸞が源氏の武士の血をひくために幼くして仏門に入り、学識ある僧侶として将来を期待されながらも、恋に悩み、比叡山を離れて法然の弟子となるあたりが、最も面白い。親鸞は最初に妻帯した僧侶なのだが、妻を持ちたい…という人間の自然の欲求を認めたうえで、その弱い人間をまるごと救う他力の信仰を確立したというところが宗教家として画期的なところなのだろう。修行によって悟りを開くというおそらく本来の仏教とも異質であるし、貴族がお勤めとして読経をする平安仏教とも違う。ただ、凡夫もたった六文字の南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生できるという教えは非常に簡略であり、こうしたものだからこそ、広く民衆の間にも伝わっていったのだろう。今でも仏教の宗派別にみると浄土真宗系が最も多くなっている。明治の初期には僧侶の肉食妻帯を認める太政官布告が出された。これによりすべての宗派で妻帯が普通になり、子供がお寺を継ぐということも普通になっている。いまでも多くのお寺が存続しているが、僧侶の妻帯がなければ後継者がなく消えたお寺もあったことだろう。ただ信者からみると、お坊さんもお寺に生まれただけの普通の人であり、肉食、妻帯も普通となると、いったい我々とどこが違うのとなる。難しい教義も厳しい修行もいらない、僧侶も肉食妻帯自由…こうした本来の仏教とはあまり関係なさそうなものが日本で普及したのも不思議なのだが、しかし、もし、こうしたものがなかったら日本では仏教はとうにすたれていたのかもしれない。よいとか悪いとかではなく、日本人のぼやっとした宗教観の中に仏教もまた受容されていったということなのだろう。
2025年01月07日
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「君の名は」、「天気の子」そして「すずめの戸締り」と三作はいずれも自然災害が大きなテーマとなっている。しかし、この自然災害の扱いというのは難しい。現実に災害が起きて、現実に被害者がいる以上、現実的な話ならともかく、ファンタジーとして扱うと必ず、被災者の気持ちを前面に出した批判が起きる。だからこそ「君の名は」では隕石落下という現実にはない自然災害、「天気の子」では実際にはない大洪水が題材になっているのだろう。それに比べると、「すずめの戸締り」では東日本大震災という現実の災害を扱っているので余計に難しいし、レビューを見ても、それに対する批判的な意見が多かったようである。この映画の予告編でも震災というテーマがぼかされていたのも、そのあたりに配慮したのかもしれない。しかし、こうした被災者の気持ちを考えろという批判は別にすれば、日本が断続的に震災にみまわれている国であることは間違いないし、震災を防ぐ閉じ師というものがいるという設定はファンタジーとしては面白い。古来、日本の祭祀というものは、かなりの部分、こうした自然災害を鎮めるということに存在意義があったのではないか。震災以外にも、このアニメの設定には今日的な問題が盛り込まれている。それは全国に広がる廃墟という設定で、主人公の女子高生が住む田舎の町にも廃校があり、大都市郊外にも遊園地の廃墟がある。もちろん東日本震災の後に空き地として残されているところもある。また、女子高生は資格職のために勉強をしており、今日では女子といえども、生涯の職業を考えることが普通になっていることの反映だろう。これは素敵な相手と結婚してハッピーエンドという一昔前のストーリーとは相当違う。そのせいだろうか、物語の中の恋も、女子高生が男子のイケメンぶりに感動して始まっている。これも、恋物語の常道は男性が美しい女性に一目惚れすることから始まるのとは、様変わりである。アニメなので荒唐無稽といえば荒唐無稽だし、現実の災害を扱ったという難しさはあるのだが、風景の描写は美しく、主人公の女子高生が自転車で下る坂道など、モデルとなった場所に行ってみたいと思わせる。アマプラで見たのだがお薦めである。
2025年01月06日
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神奈川県は平塚にある妙圓寺というお寺にいってきた。これは最初から予定していたのではなく、道の途中に銭洗い弁天と書いた赤い幟がいくつもあったのが目についたのである。この土屋銭洗い弁天と妙圓寺はほぼ一体となっており、神仏分離以前は一緒だったのかもしれない。今の期間だけなのかもしれないが、この御寺では本堂に上がることができ、本尊の阿弥陀如来の優しいお顔を仰ぐことができ、また、安置されているいくつもの仏像をみてまわることもできる。造立の時代や仏師など不明なものが多いのだというが、本尊を初めとして不動明王像など魂が宿っているような仏像も多くあり、心を込めて参拝すれば、なにかよいことがあるのかも…などと考えたりする。お顔が帳で隠された本尊様を外から拝むだけというお寺も多いのに、こうして間近に仏像のお姿を仰ぐことができるのはうれしい。実際には、この妙圓寺は銭洗い弁天が有名なようだ。ここの銭洗い弁天の特徴は岩屋霊穴があり、これは機械もない時代に掘られた岩屋で50メートルにもなるという。鍾乳洞のような雰囲気なのだが、人の手でこれだけの岩屋を作ったというのも不思議な感じがする。品川神社にもやはり銭洗い弁天があり、岩屋となっているのだが、それとは比較にならないくらいに長くなっている。実は途中に狭い穴になっているところがあり、そこで引き返したのだが、実際にはそこも通路になっているのだという…行っていればよかった。ぜひもう一度訪れたいお寺である。
2025年01月05日
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世代によって運不運というものがあるが、私たちの世代で幸運だったと思うことの一つは手塚治虫の連載をリアルタイムで読むことができたことだと思っている。当時は漫画本といえども高価で友人との回し読みや床屋などで読むのが普通だったのだし、連載といっても、最初から最後まで欠けることもなく読むということはあまりなかった。手塚治虫の漫画で最初に記憶にあるのはゼロマンという漫画でリスの尻尾を持つ少年の活躍と冬に閉ざされた都市の情景が印象的だった。本当にとびとびに読んだので少年になぜ尻尾があるのか、なぜ世界全体が冬になっているのかの理由はよくわからなかったが、ずっと後になって復刻版を読んだときに、ああ、こういう話だったのかと分かった。冒頭の太平洋戦争で日米の兵士が戦い、生き残った日本兵が尻尾のある赤ん坊を育てる場面をみると、やはりこの時代の漫画は戦争の影響が強くでている。そういえば別の漫画家の作品であるが、サイボーグ009の主人公は戦後まもなく生まれた日米混血児、ミュータントさぶの超能力の原因は妊娠している母親の被爆(復刻版では怪光線となっているらしい)となっていた。戦後生まれには戦争ははるか昔のような印象があったのだが、当時の大人たちには戦争はついこないだのことであったのだろう。ゼロマンは、人類とは別の系統で進化した種族で、リスから進化したためにリスのような尻尾をもっているとされていた。人間とは似ているが、人間でないもの…というテーマは手塚治虫の漫画によく出てきて、その後の漫画家にも影響を与え続けているようにみえる。人間と人間ならざる者は反発し排除し戦うのであるが、中には相互理解にいたる者もでてくる。こうしたテーマの背景には、やはり戦争体験があるのではないか。鬼畜米英といってさんざん異民族異人種に対する憎しみを煽って国民を戦争にかりたてていったことの不条理さが、人間ならざる者に対する畏れや反発、そして理解という物語に反映されている。人間と人間が国家とか民族、人種といったものを背負って反発や対立をするのは愚かしいことだ…そんなメッセージが漫画にはこめられていたように思う。
2025年01月04日
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新しき年のはじめの初春のけふ降る雪のいや重け吉事万葉集の最後に収録されている大伴家持の歌である。万葉集といっても、巻によって内容はずいぶんと違い、最後の方の巻はほぼ大伴家持の歌日記のような体裁になっている。大伴氏の氏の長者であるとともに、地方高官でもあった彼は当時としては第一級の知識人であり、人望、そしておそらく容姿も優れた人物だったのだろう。彼の生きた時代は他の時代と同様、上級貴族の政争の激しい時代であり、藤原氏の台頭していった時代でもあった。同族の者に自重を促す歌も残っており、藤原氏に競うというよりも、新しい勢力図の中で、大伴氏がいかに生き残るかの方に腐心していたのかもしれない。越中の国司として赴任し、それについて左遷説もあるようなのだが、歌をみるかぎり、そんなことはないだろう。立山連峰の景観にみとれ、湖に舟を浮かべて遊び、「思うどち」(気の合った友人同士)とのこうした時間がいつまでも続けばよいという歌も遺している。同じ越中に赴任していた同族の大伴池主とは特に気が合ったようで、二人の間のやりとりの歌も、万葉集には収録されている。現代の腐女子が読めばBLかいなと思うほどに情愛こまやかな歌である。越中の赴任が終わり、都に帰ってから橘奈良麻呂の乱が起きる。乱といっても、実態は大きな政変であり、大伴池主も獄中死したという説がある。大伴家持はこの後に因幡の国司に赴任するのだが、越中に比べて稲葉は下国とされ、これは明らかな左遷であろう。雪の歌はこの因幡国司時代に詠んだ唯一の歌であり、そして万葉集に遺った最後の歌である。都と違い因幡は雪が多い。新年を迎える今日もこんなに雪が降り、どんどん積もってゆくことよ…この汚れない純白の雪が積もっていくように、今までの嫌なこと、嫌な事件を上書きするように、よいことがどんどん増えてゆけばよい。きっとこんな気持ちでこの歌を詠んだのであろう。雪のない晴天の東京であるが、今年こそはよい年であってほしい。境遇は様々であっても新年を迎える気持ちは昔も今も変わらない。
2025年01月02日
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開けましておめでとうございます。今年も心にうつろいゆくよしなしごとをいろいろと書いてゆきたいと思いますのでどうかよろしくお願いいたします。※※年賀状が届いたが、やはりというかなんというか、年賀状じまいの挨拶がいくつかあった。郵便料金が高騰すれば儀礼的な賀状をやめようと思う人がいても不思議ではない。それに年賀状が一般的な習慣として普及したのも、多くの人が顔の見える村社会ではなく都市生活をするようになってからなので、そんなに古い時代のことではない。年賀状に限らず、今、我々が伝統だと思っているものも案外と起源はあたらしい。あえてもう年賀状はださないよ…と書くのも冷たい感じがするし、なんとなく繋がっている賀状なら、あえて辞めなくてもよいように思う。一番古い賀状では小学校の時の友人というのがあるが、それも、今まで生きてきた人生の足跡のような気がするものである。年賀状というのも、あと、数十年したら、こんなことやってたね…という話になるのかもしれない。思い返してみると、子供の頃にあったお正月の習慣ですたれたものもある。すごろく、福笑い、こま、はねつき、こういったお正月定番だった遊びというのはどのくらい今行われているのだろうか。そもそもこうした子供の遊びはそもそもやる子供自体がいなくなっているといえばそれまでであるが。もう一つ。お正月の年始回りという習慣も個人間ではすたれた。普通に考えて、お正月だといって自宅に他人がやってきても迷惑なだけだろう。お正月の訪問も、今では離れて暮らす親兄弟など、ごく限られた間だけになっているのではないか。ただし、一人世帯が多くなっているという状況に鑑みると、儀礼的なものではない、友人間の自宅訪問というのはこれから増えていくのかもしれない。人は孤独になればつながりを求めていくものだから。そんなこんなでお正月の習慣で消えゆくものや消えていったものをまとめると以下のようになる年賀状、はねつきなどのお正月定番の遊び、儀礼的な年始訪問、晴れ着、家族そろってみる紅白などなどその一方で根強く残っているものは以下のものなのかもしれない。初詣、お節料理などなど一万円以上もかけてお節料理をたのむのなら、お正月明けにレストランでたまの贅沢をする方がよいように思うのだが、お節料理人気はなかなかすたれない。そういえばこのお節料理もかつては家庭で作るのが普通であった。外注が当たり前になったのはいつ頃からだろうか。
2025年01月01日
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