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すいどうかんび~が~すみこみ♪こんな歌を子供の頃によくきいた記憶がある。当時やはり記憶にのこっている「輪が三つ」のミツワ石鹸やおじいさんのアニメで有名な「長生きチョンパ」同様のCMソングかと長いこと思っていたのだが、どうやら昼帯ドラマの主題歌だったようだ。ドラマの内容は全く記憶にないのに主題歌だけは耳についてのこっている。ちょうど住んでいる町もこの歌とよく似ていた。歌のように、水道はあったけど都市ガスはなかなか来なかった。ただちょっと違うのは、歌では「どろんこ道もアスファルト」ではなく、いつまでもどろんこ道で雨の日には長靴が必須であった。戦後の復興期は高度成長時代へと続き、東京のあちこちで、雑木林や松の根っこが掘りかえされていった時代だ。毎夜、ふくろうがどっかの森で鳴いていたのを聞いた記憶はあるが、それも聞こえなくなり、家の前に広がっていた田んぼは一面の住宅地になった。歌では、「父さん見送るポストの影で可愛い坊やがグッドバイ」というのがあるが、サラリーマンなる職業が急拡大したのも高度成長期だろう。「グッドバイ」という会社に出勤する父親を見送る童謡があったが、これも、こんな時代らしい歌である。「グッドバイ」は実は訣別の意味なのだが、この頃は、毎日出かける父さんに挨拶するという軽い意味で使われていた。今では実感がわかないが、戦前は「月給取り」といえば大変なエリートだった。会社では、月給取りの社員と職工との間には厳然とした差異があり、普通の庶民にとって息子が月給取りになるなんてのは夢のような話だった。高度成長時代というのは、多くの人がその月給取りであるサラリーマンやその妻になれるようになった時代だった。そしてその数年後に東京オリンピックが開かれた。来年には再び東京でオリンピックをやるというが、時代背景があまりにも違う。
2019年01月30日
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今度、映画「飛んで埼玉」が公開されるという。映画は見に行くかどうかわからないが、原作の漫画はすごく面白い。面白すぎる。埼玉県人はそこらの草でも食わせておけ…という地域ディスリギャグという新機軸なのだが、なんで埼玉なんだろうか。それは埼玉県人は三代続いて住んでいる者の比率は低い。埼玉県人は東京など他府県に通勤通学している者の比率が高い。ということがいえるのではないか。日本で一番郷土意識の低い県というのもそのあたりに起因する。だからこういうディスリは埼玉だからギャグになるのであって、これが〇〇県ディスリだったらシャレにならない。たしかに埼玉県には秩父などを除けば名所もない。世界遺産登録を狙っているらしい吉見百穴もなんとなく不気味であまり好きじゃない。ぱっと思い浮かぶオシャレな街や高級住宅地もない。このあたり、同じ東京の近県でも箱根、湘南、鎌倉、横浜、三浦半島などいくつもの観光資源を持つ神奈川と対照的だ。けれども待てよ…と思う。ディスリがシャレになるということは本当はすごいことではないか。たしかに郷土意識はない。けれども、それでも嫌なところだと住民が思っているのならディスリでよい気分はしないだろう。結論から言えば埼玉はディスリを笑えるほどよいところといえるのではないか。実際に持ち家率は東京や神奈川よりも高い。高齢化率も低いことを考えれば、クレヨンしんちゃんのパパのように結婚して小さな子供もいて持ち家もあるという人の比率が高いのではないか。映画の「翔んで埼玉」…見に行こうかな。
2019年01月29日
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視聴中の韓国ドラマ「未生」であるが、実はあんまり韓国ドラマらしくない。交通事故、難病、記憶喪失、出生の秘密、財閥の御曹司、孤児院育ち…というのはなく、いかにもありそうな職場人生の哀歓がやや誇張気味に描かれているだけだ。したがって、このドラマ、先の展開がきになるというよりも、少なくとも二度くらいは見返しながら楽しむのがよいように思う。そしてどこにでもいそうなキャラによるコントのような展開など日本にもこんなドラマはあるのではないか。そんな「未生」ワールドだが、ついに悪役登場である。それは、職場生活を暗くするセクハラ、パワハラ上司。セクハラはともかくとして、パワハラは本人のいちばん嫌がることを言う。あるなあ、こういうのって。そういう奴は言われて嫌だと思うことは感知して、何度も何度も言う。まあ、言っている本人は嫌がっているのが面白いのだから気にしないしかないのだが…けれども多くの人にとって言われること自体が嫌なことはある。「未生」では、主人公が言われて嫌なのは、高卒でコネ入社であるということ。そしてパワハラ上司はそこをねちねちとせめる。学歴をバカにして業界の専門用語を聞くが、人知れず勉強をしてきた主人公はひるまず応える。すると今度は英語で質問をするという嫌味ぶり。まあ、パワハラへの対処は「その人の評価する自分」が実際の自分であるわけでもないので、気にしないことにつきるだろう。へこめばへこむほど面白がってかさにかかるのだから。そしてできれば味方をみつけることだ。主人公の同期もそれぞれに苦労している。英語ロシア語を自在に話す才媛は上司に妬まれ、これもパワハラを受けている。プライドの高いエリート君は、早くも転職を考慮中だ。学生の時とは違い、会社人生は山あり谷ありの道だ。それこそが人生修行でもあるのだが、谷の中ではついつい逃げ出したくなるときもあるだろう。
2019年01月28日
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小学校の遠足で真鶴岬に行ったことがある。たしか4年生だったか…バスに乗って西に向かったのだが、その途中で某家電メーカーの展示館によった。遠足の目的地は真鶴岬もそうなのだが、大山や観音崎など神奈川方面が多く、そうなるとこの展示施設は経路上にあり、おそらくは無料で教育目的と言う名目もつきやすいのだからだろうか、この展示館は小学校の遠足で複数回訪れている。だから記憶がごっちゃになっているのだが、お皿が冷たいままで食べ物だけをあたためる電子レンジの試作品?などを興味深く見せていただいたのを覚えている。そしてこの展示館の圧巻は山の一日を描いた光と音の映像で、ボール紙に描かれた山の背景として夜明けから夕暮れに至る空の映像が音楽に合わせて繰り広げられる。とくに雨が降った後、虹がかかる映像は何度でもみてみたいと思った。今見るとなんてこともないのかもしれないが、当時はこれこそ「科学技術の粋」だと思っていた。そして再びバスに乗り、一路真鶴岬へ…。サボテン園をみたあと、砂利の海岸に降りてお弁当を食べたのを覚えている。そして4年生ということで小遣いを持ってくるのも許可されていたので、白いタカラガイで作った鶴の置物を買った。先生は有名な三ツ石は映画のオープニングにでてくる石だと教え、長らくそれを信じていたのだが、実際には映画のオープニングの石は銚子市で撮影されたものらしい。たしかによくみるとしめ縄もないし、真鶴岬の三ツ石ではない。こうした想い出のある真鶴岬をこの数年毎年のように訪れているが、小学校の遠足の記憶とはどうしても結びつかない。サボテン園のあったところは展望公園になっており、ソテツの木が熱帯の雰囲気をかもしだしているのがなごりといえばなごりなのだろうか。真鶴の名物は貝細工と言うのはそのままだが、子供が買うようなちゃちな置物の土産はなく、高価な装身具が主になっている。すたれていく観光地も多い中で、真鶴岬は去年あたりから賑わいを増してきており、レストセンターは回収され、足湯まで設置されている。そして、目の前には伊豆半島と三浦半島に囲まれた相模湾は静かにきらめいており、近くの初島、そして遠くには伊豆大島はじめ伊豆七島が見える。
2019年01月27日
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強盗殺人を行った男が16年後に自首したという。ニュースを聞いて最初に思ったのは、この人は時効がなくなったのを知らなかったのではないかと言うことである。殺人罪の時効は15年というのは世に広く流布していた知識だし、当然当事者は知っている。これに対して時効の撤廃はニュースにはなったが、時効撤廃前の犯罪はどうなるのかというあたりの知識はあやふやではないか。オレがやったのは時効の撤廃前なので15年のはずだ…と思っていた可能性はある。ただ、被害者がしょっちゅう夢に現れたのも自首の原因だという報道もあった。こういうことって本当にあるのかもしれない。犯人は被害者を縛ったうえで刃物で切り付けている。実際に被害者と目を合わせ、最後の声をきき、最後の表情をみているはずだ。同じような話で静岡県で起きた強盗殺人事件の例がある。やはり犯人は被害者の幻覚に悩まされ名乗り出ている。ただそれは時効完成後のことであったので、刑事処分にはならなかったのだが…。殺人犯が被害者の夢や幻覚に悩むのは自業自得だし、反省というのとも違うと思うのだが、戦争でも似たような話がある。日露戦争中白兵戦で相手を殺したことがある帰還兵が生涯夢に悩まされたということを何かの本で読んだことがある。戦争による死亡や傷病も戦争被害なのだが、人を殺したことに苦しむのも戦争の被害なのではないか。
2019年01月25日
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言葉は時代と共に変わっていくものだが、子供の頃にきいた言葉でいつのまにか消えていった言葉もある。一つは「差別語」として駆除されていった言葉で、こうしたものはパソコン変換でもでてこない。そしてもう一つは言葉の背景となる社会状況の変化にいつのまに消えていった言葉だ。例えば、客間、応接間とか茶の間といった言葉は最近きかないように思う。他人の家を訪問するという習慣が薄れたことによりあえて家に来客をもてなす部屋を作る必要はないし、一人暮らしや二人暮らしが珍しくなくなれば茶の間という呼び方もなくなる。未婚が普通になり、独りでも自分なりの生活を楽しむ女性が増えれば「オールドミス」「売れ残り」も死語になる。そして男女問わず知的専門職につく人が増えれば「女史」という言葉も消えるし、似て非なる言葉の「キャリアウーマン」も最近は聞かない。一方で職場の花的なイメージのOLという語も消えつつあるように思う。そしてこのOL…さらに昔はBGと言っていたのだが、そのBGによからぬ意味があるということで、それに代わる言葉として女性週刊誌が普及させたものだそうである。男性にまつわる言葉よりも女性にまつわる言葉の方がより変化しているようにみえるのは気のせいだろうか。名詞以外では、楽しく騒ぐという意味での「はじける」という言葉は最近知った。自分がこの言葉を使いたかった頃には、まだこういう意味はなかったように思う。そういえばその頃には、形容詞で今風のという意味の「いまい」という言葉もあったは寿命は短かった。もともとは同じような意味だった「モダン」という語が昭和モダンのように逆の意味で残っているのとは対照的だ。形容詞の語幹だけで感嘆の意味を表す用法「ふる!」「はや!」なども子供の間で使われていたと思ったら最近では大人も使っている。「さよなら」は昔は普通の挨拶につかわれ「先生さよなら皆さんさよなら」なんていう歌もあったのだが、最近では訣別の場合にしか使われないという。そういえばたしかに普通の場合には「さよなら」はいわなくなっている。
2019年01月24日
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今朝のニュースはいっせいに小室さん報道だった。母親の借金問題で小室氏が意見を表明したというのだが、内容はすでに解決済とするもので特に新しい内容はない。すかさず母の元婚約者の反論もあり、しばらくはニュース種には困らないだろう。けれどもここで疑問がわく。小室さんは内親王との婚約が延期されているその相手なのだが、いまだ婚約していないとすれば一般人ではないか。世間一般では、普通、娘の交際相手は秘匿し、正式に婚約したところではじめて公にする。これが息子ならどこぞの令嬢とつきあってるのなんのと自慢する親もいるかもしれないが、娘だと状況が違う。ある意味で日本の「良家の令嬢」の頂点である内親王の「交際相手」がこんなに公になってニュース種になっている状況はすごく変である。それもこれも宮内庁が発表を行ったからで、そんな発表がなければ単なるうわさの交際相手ということですんだのだろう。次にその借金問題の内容である。女性と交際して男性がなにくれと面倒をみる。普通に考えればそれは贈与であって借金ではない。借金問題と普通名詞のように語られるが、法律的にはどうなのかというコメントがあまりない。それだけではない。プライバシーの問題もあるのだが、母親の元婚約者なる方の正体がマスコミに全くでてこないのも変だ。大きな息子のいる中年女性と婚約し、多額の金を渡し、自分から婚約を解消して、今は困っているから金を返せという男性ってどういう人なのか…けっこう気になる。さらに問題となっている金額は400万円ほどのようなのだが、この金額を27歳の社会人が工面できないというのもどうなのだろう。このくらいの貯金のあるのは珍しくないし、手持ちがなくとも、友人知人にかけあってかきあつめるのは不可能ではないだろう。それもできない男性が良家の子女に結婚を申し込むというのがよくわからない。市井でこういうことがあれば、男性が良家の財産をあてにしているということになるのだが。最後に、最近のマスコミは忖度が酷いのではないかと推測しているのだが、こんな報道があふれていることはどう考えるべきなのだろうか。
2019年01月23日
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韓国ドラマ「未生」を見ていると、これが日本のドラマだとしても全く違和感を感じない。あえて違うと思う点を探せば、以下のようなものくらいか。のっけから流ちょうな英語とロシア語をあやつる女性新入社員がでてきて、「こんなのいくらなんでもいないよね」と思う。韓国には普通にいるのだろうか、それともドラマだからなのだろうか?気が弱く常々会社の業務に向いていないと思っている社員が辞職して大学院進学を考える。大学院は就職のさらなるステップアップになるのだろうか。米国では大学卒業後、就職し、その後、再度進学する場合もまれではないと聞いたが韓国も似た社会なのだろうか。主人公をはじめとする新入社員は最初はインターンという形で短期間の業務を行い、その後、選抜されて2年間の契約社員になる。正式の社員になるのは契約社員からさらに選抜された後ということならば、社員に採用されるハードルはかなり高い。そして契約社員の間も業務は多忙で深夜勤務の場面もけっこうある。映画と現実は違うのだろうが、「未生」で描かれる企業社会は過酷なサバイバルレースという印象だ。よい悪いは別にして。いつのまにか主人公は職場の戦力になっている。その一方で、秀才タイプの同期は上司に無視され、定時になると「きみ、帰っていいよ」という状態。さてどうなるのだろうか。
2019年01月22日
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その昔、若い女性の間に結婚相手の条件として「家つきカーつきババア抜き」という言葉がはやった。女性週刊誌あたりが紹介して拡散したようなのだが、三高なんて言葉がでてくるずっと前のことである。当時は人生相談の定番といったら「嫁と姑の対立」問題で、若い女性にとって結婚して姑と同居することはそれだけで嫁姑対立に巻き込まれる不幸なことと考えられたのかもしれない。そしてその一方で、老夫婦世代にとっては幸福は「子や孫に囲まれて暮らすこと」であり、親に一人暮らしをさせることや、ましてや施設に入れることはそれだけで「親不孝」なことと考えられていた。その後の世相の変化を思うと、変われば変わるものである。姑との同居は、都会では住宅事情もあってそもそも不可能だし、一人暮らしや施設で暮らすのも普通になっている。昔の基準でいえば。今の人はほとんど不孝者と不幸者ばかりとなってしまうのだが、そんなことはない。世の中の基準、あるいは自分で基準と思っているもので、自分を「不幸」だと定義づけることくらいばからしいことはない。しばらく前まで「結婚をしないこと」は不幸だと思われていた。結婚をしない男性は「どこか変」だという偏見も職場によってはあったかもしれない。けれども、こんな社会通念も急速に変わってきている。結婚しない生き方もあってもよい。そして同様に、「となりの車が小さくみえま~す」といった人と競争する価値観、他人に序列をつける価値観からも自由になってよいのではないか。映画「間宮兄弟」の余韻にいまだにひたっているが、なぜ間宮兄弟には父がいなかったのだろうか。父がいたらどうなっていたのだろうかと考える。もし父がいたら、あののんびりと生きている兄弟を叱責したかもしれない。もっと上をめざせ、がんばれ、そして結婚をして家族を作れと…。父、ここではある種の社会通念を代表する存在とするが、そうした父がいなかったから間宮兄弟はあんなに幸福そうで、身の丈にあった人生を十分に謳歌しているのかもしれない。
2019年01月21日
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毎日のように事件や事故が起こり、そしてそうした事件や事故の多くはあっという間に忘れられていく。ただそうしたものの中には「ちょっとひっかかる」というのもある。続報もおそらくなく、「ひっかかる」と感じたことも忘れてしまうかもしれないので、備忘録までに…。仙台市で起きた「児童虐待事件」であるが、生後1カ月の乳児に十分な水分などを与えず死亡させたとして、保護責任者遺棄致死の疑いで、28歳の母親が逮捕されたという。母親は、「お金がなく、ミルクを買えなかった」などと容疑を認めているというが、お金がなくミルクを買えなかったのが犯罪になるのだろうか。古今東西、貧困ゆえに子供を餓死させた母親は無数におり、特に乳児の餓死など珍しくもなかった。そうした母親に手をさしのべ餓死させなくともよいようにするのが「人類の進歩」というものだと思っていたのだが、現在の日本では、こうした乳児を餓死させた母親を逮捕するという。江戸時代でもこうしたことはなかったと思うが。本当にこの母親にはお金がなかったのだろうか。同居家族や乳児の父親はどうしていたのだろうか。背景事情が気になるとともに、28歳の母親の実名を報じた報道も適切だったかどうか疑問が残る。相撲や昭和歌謡グループの男女間問題を扱うのもよいが、こうしたことこそ、マスコミは警察発表をそのまま報じるのではなく、背景を掘り下げて、問題があれば問題提起すべきではないか。
2019年01月20日
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韓国ドラマ「未生」を第10話まで視聴した。韓国ドラマと言えばありえない設定と展開のものが多いのだが、これはちょっと違う。交通事故も記憶喪失も出生の秘密も難病もなく、奇跡のようなありえない結末もない。エリート意識だけが強い新人がなかなか仕事をまかされず、というかほっておかれて不満をつのらせるとか、優秀な女子社員がはりきって配属先にきたもののやる仕事は会議のお弁当の手配のような雑用ばかりとか…まあ、こんなのばかりではないのだろうけど、いかにも会社「あるある」のようなエピソードがあって、日本でもなじみやすいのではないか。実際にこのドラマも日本でリメイクされていた。「HOPE 期待度ゼロの侵入社員」である。日本版のドラマ紹介の頁をみたが、えっと思うほどオリジナルそっくりのメイクで笑える。そのまま日本に置き換えただけというのではつまらないし、なにか新味を出しているはずで、これはリメイク版も視聴したくなった。さて、「未生」にこんな話がある。課長が米国の取引先を調査すると、責任者になんと高校時代の級友がいる。電話で連絡すると先方も大喜びの様子。これで取引成立と欣喜雀躍した課長だが、級友は課長が予約した店を拒否し、高級クラブでの接待を強要する。実は、級友だと思って懐かしく思っていたのは課長の方だけで、相手は初めから取引するつもりはなかった。では、なぜ接待をさせたのか。成績優秀だった課長に比べ、相手方は3浪した後、米国の大学に留学した。そんな彼にとって、接待は高校時代から引け目を感じていた課長に対して優位を確認できる機会だったのだ。「知らない相手を接待するよりも友人の接待は辛い。辞めたくなるよ。」とそんな述懐もでてくる。取引が断られた後の一発逆転があるわけではないが、最後は屋上で一人で笑いながら書類を破る課長の場面で終わる。人情の機微として面白い話だと思う。優越感というものはあまり記憶に残らないが、劣等感は嫉妬の炎を糧に強く残っていくものなのかもしれない。
2019年01月19日
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ネットとのつきあいも長くなるとネットについても想い出ができる。はじめてこの媒体をみたとき、だれでも意見を発信できるというのがとてつもなく凄いことのように思えた。著名な方が主宰していたり出入りしたりしている掲示板に書き込めば、レスが返ってくる。そしてその掲示板では著名な方の意見も名無しの自分の意見も同じ掲示板で同じように発信されていく。つまり多くの人にとって世の中に意見を発信しようとすれば新聞や雑誌の投書欄(それすら篩にかけられる)か個人周辺の飲み屋仲間・井戸端会議しかなかったのが、いきなりネットという媒体が現れたのである。おもえばそれまでだって、マスコミが一斉に言っていることには「異議あり」と思うことが多かった。マスコミが一斉にほめそやしている人も、それは違うんじゃないと思ったり、逆に一斉にバッシングしている人も、なんでそんなに叩かれなきゃいけないのと思ったりしていたわけである。ネットという媒体があればそんな「異議あり」と思うことをいつでも書くことができる。それでもしばらくは自分のHPをもつことは面倒なことだと思っていた。自分のパソコンをかっても難しそうだし、HPを持つのにもお金がかかるのではないか…と。ただそのうち、誰でも無料で手軽に自分のHPを作るサイトが現れた。ライコスである。なんかこれこそ自分が長い間待っていたものだと思った。もとより文章を書くのは好きである。子供の頃から日記をよく書いた。ただ日記は人に見られるし、人に見られるのはすごく嫌だ。その一方で誰にも読まれないのははりあいがない。匿名で文章を書くことができ、しかもその文章を誰かに読んでもらえる。顔も名前も知らない誰かがきっと読んでくれる。ライコスで日記を書くようになってからはほぼ毎日のように書いた。身近な疑問や思っていること、思うこと、書きたいことはいくらでもあった。そしてまたうれしいことに「読者」からの手紙を来るし、こちらからも様々な日記に感想や意見を書いた。考えてみれば不思議だ。いつも顔を見ているはずの職場の人とは誰もが知っているべすちせらーの話はできてもドストエフスキーやトルストイの話はできない。売れっ子の評論家の意見については何か言っても、宗教や哲学の話がまずできない。変な奴と思われるのがおちだろう。ところがネットではそうしたテーマについても語れるし、返事も返ってくる。ライコス時代から交友?がつづいているのは「はるな」さんだけなのだが、気風のよさそうなおフジ姐さんや「かしこ」(花びらさんとも)さんは今どうしているのかなあ。「さくらじんた」さんなんていう人もいたし…。せっかくこの媒体で何か書くのなら、自分の庭の柿の木に実がなったとか、子供が運動会で何等だったとか他人にとってはどうでもよいことを書いてもつまらない。ライコス時代からちょっと暗めの話題とか犯罪事件をとりあげることが多かったが、それでも、雰囲気はほんわかしていた。楽天に来てからもずいぶんになる。最初は若い子ばかりで雰囲気がずいぶん違うと思ったのだが、楽天なりに書きやすさもあり、楽しい。ここ何年か、政治ネタをとりあげることが多くなってきたが、ただ、こうしたネタについては反論もまた多く、それが反発とか反感をよぶようなら少し考えてしまう。今年はライコスで日記を始めた頃の初心にもどり、またあの頃のほんわかした雰囲気をとりもどしたいと思う。
2019年01月18日
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最近「しゅっとした」という言葉を聞く。一説によれば関西弁ともいわれるが、関西でも昔は使われなかったともいう。あそこは一流企業なので「しゅっとした人が多い」とか、知り合いの子供の身なりをみて「おや、すいぶんしゅっとしたじゃん」とかそういうふうに使われるようだ。「しゃんとした」という意味に近いが、「しゃんとした」がきちんとしたという意味に近いのに比べると、「しゅっとした」という方が、より知的なイメージがあるような気がする(違うかもしれないが)。そういえば英語のsmartとかsharpとかshrewdとかと子音を共有しているので、同じような語感なのかもしれない。昔きいた話では言葉は単なる符丁ではないという。硬いと柔らかい、重いと軽い、明るいと暗いといった反対の意味を持つ形容詞について、ある言語でどういうかを示したうえで、その言語について全く予備知識のない被験者に回答させると、どの言語について、どこで実験をしてみても、たいてい5割を超える正当率を得るという。ということは、言葉には、その意味の背景となる語感があり、その語感は万国共通ということなのかもしれない。外国語ですら共有する語感があるのだから、ましてや日本語の中の方言についてはなおさらである。どこから始まったかわからない「しゅっとした」という言葉も、現在拡散中のようにみえる。
2019年01月17日
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成人の日を前にして、全国津々浦々の市町村で成人式が行われる。これって国民の祝日でいかにも伝統行事のように見えるが、実は成人式が始まったのは戦後で埼玉県の蕨市が最初であるらしい。きっとこれが始まった時代にはそれなりの意味があったのだろうけど、今に至るまで税金を使ってやる意味がよくわからない。最初の成人式が行われた昭和21年だったら、いろいろ新しい時代が始まり、新生日本を担う青年を勇気づけるとかなんとかそんな意味があったのだろうけど…。同窓会の機会にもなり、記念品がもらえるのはうれしいかもしれないが、後はどっちかというと挨拶をしたい人のための行事と言う印象もある。それに着物レンタル業者や美容院業界とか。また、最近では小中学校時代の友人がいないからといって式を欠席する人もいるらしい。それこそ、どうぞご勝手に…なのだが、つまらない来賓の挨拶をきくのも含め、式に出るのも一種の経験だし、記念品も貰えるのだから、まあ、行った方がよいと思う。そしてまた、友人がいないから行かないなんてのはコドモの感覚で、大人と言うものは、友人がいようがいまいが、職場でも学校でも行くべきところにはいかなければならない。本音を言えば、こうした式典は、税金の無駄とも思うが、成人式の記念品や会食は、敬老の日の記念品同様、市町村が住民に直に恩恵を及ぼす数少ない機会だし、その費用も市町村の歳出全体に比べれば微々たるものだろう。まあ、よいのではないかという気もしないでもない。
2019年01月16日
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我が家のテレビでとりだめていたDVDのうちから「間宮兄弟」を見た。どんな映画だったかと記憶も定かでなく、間宮兄弟…玉川兄弟なら有名だけど、もしかして間宮林蔵?とかってに想像したがさにあらず。今日の日本を生きる兄弟の日常を淡々と描いた映画であった。なぜ間宮…なのだが、これもどうやら「マニア」にかけているようだ。観た後、ふと「万引き家族」を連想した。家族の日常を淡々とえがいているということだけではない。背景の空気感が何か似ている。それは一言でいえばダウンサイジングである。間宮兄弟は万引き家族のように犯罪を生計のたしにしているわけではない。兄はビール工場に勤務し、弟は小学校の用務員をやり、なぜか書棚には本がぎっしりある高級そうなマンションに二人で仲良くテレビをみたり、ゲームをやったりして楽しそうに暮らしている。次第に二人の背景も明らかになっていくが、祖父母は裕福なお茶農家、兄弟が中学生の頃に早世した父は弁護士、母は祖父母と共に暮らしているので、兄弟のマンションは父が残したものなのであろう。農家として裕福な生活を築いた祖父母、その農家に生まれ刻苦勉励してきた父、そしてその子供である兄弟。気ままに生きているような二人もまた今日の世相を象徴しているのかもしれない。若者の車離れ、海外旅行離れ、結婚離れ、パソコン離れが言われる。間宮兄弟も車も持たず、結婚もしそうになく、将来に向けての夢とか野心とかもあるわけではないのだが、これはこれで充足した生き方なのではないか。
2019年01月15日
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梅原猛氏が亡くなった。年齢には不足はないし、地道な研究者と言うよりは、派手な活動が目立つ人だったという印象なのだが、それでも、いくつかの著作は面白く読んだ。ただこうした著作は学会からは全く相手にされていないという。柿本人麻呂の刑死説など言われてみればもっともらしく思うし、「学問的な反論」も知りたいような気もする。梅原の「水底の歌」だと「今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝(かひ)に交( まじ)りてありといはずやも」の歌が素直に読めるし、謎の歌人猿丸太夫も人麻呂と同一人物かと言われればそうかもしれないと思う。ただ、その一方で水死というのは古代の処刑方法としてあまりきかないし、梅原説のように「傲慢不遜な反体制詩人」だったなどということが処刑の理由になったというのも考えにくい。古代の人々は怨霊をことのほか怖れ、柿本人麻呂のような異能の歌人については特にそうだったのではないか。学問的な評価はともかくとして、梅原本あたりから古代史に興味関心をもったという人は多い。そういう意味で梅原氏の著作は、「宗像教授異考録」などの古代史空想ものの系譜につながるのかもしれない。怒るかもしれないけど…。
2019年01月14日
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韓国ドラマの「シグナル」を視終わった。哀愁をおびたテーマソングも印象的だが、過去の未解決事件を過去の刑事と現在の刑事が協力して解決していくという発想が斬新である。過去の刑事は足でかせぐ熱血刑事であり、現在の刑事はプロファイリングを専門とする刑事で、二人をつなぐのはなぜか壊れたはずの無線機。物語にでてくる未解決事件にはおそらくモデルがあり、最初の連続女性殺人は映画「殺人の追憶」で扱われたものと同じなのかもしれない。時空を超えた交信によって過去が変わってゆくという設定が鮮明になってくる物語後半ではドラマは荒唐無稽になるとともに目が離せなくなり一気に数話を視聴した。過去に戻ることによって過去が変わり、それによって主人公の生きる現在も変わるという設定は韓国ドラマ「ナイン」でも見られるが、その結末も「ナイン」と似ている。まあ、それは好き好きあるのだろうけど、ドラマでは主人公の刑事のプロファイリングも見どころになっている。プロファイリングは、犯行の態様から犯人の性向を推測する技術で、主人公の刑事の推測は説得力がある。ドラマ中の犯人には自己愛型、サイコパス型などいろいろ出てくるが、それでも最後の巨悪に比べるとまだましにみえる。犯罪も怖ろしいが警察や検察の腐敗や堕落はそれにもまして怖い。
2019年01月13日
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東京オリンピックの誘致に関連した収賄容疑でJOCの会長が訴追されるかもしれないという。この誘致に関する疑惑はかつて日本でも報じられており、なぜこの報道が消えたのか疑問に思っていたので、フランスでの動きも、それほど唐突という感じでもない。水面下で調査を進め、今回の動きになったのであろう。競技場、エンブレムとけちばかりついている東京五輪だが、今度はテニス会場の建設も危ぶまれているというところにこのニュースである。本当にオリンピックなんてやるのだろうか。そしてまたJOC会長は旧宮家の方だという。こういうこともあって日本国内では批判の枠外にあった人物であるが、もちろんフランス当局はそんなのは関係ない。世界は広いとはこういうことであり、国外には忖度はない。さてさて…このニュース、テレビはどれだけ報道するのだろうか。もしこれがパンダの赤ちゃんだの中学生将棋棋士だのに比べて報道は少なかったら、どっかから圧力があったと思わざるを得ない。そうでなくとも、最近のニュースは各局ともワイドショー化して、ここ何日かは女子レスリング選手の引退を大報道しているのだから。
2019年01月12日
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最近の世論調査によると、無理に結婚しなくてもよいと考える人が7割にもなるという。その昔、結婚しない男は変人扱いされ、女にとって「お嫁に行けない」のは大悲劇とされていたことを考えると変われば変わったものである。少し前に、未婚で子供のいない女は「負け組」とする評論家がうけたことがあったが、これも、本当に負け組とは思われていたわけでもないので、うけたのかもしれない。そして結婚の先には子供がある。というよりも、そもそも結婚と言う制度自体が「出産を公認する」ためのものだといえなくもない。子供を持つことを考えずに、単に愛する者同士が一緒にいるというだけなら結婚という形式にこだわる必要はないようにも思う。だからこの無理に結婚しなくてもよいと考える人が増えている背景には、無理に子供を持たなくてもよいと考える人が増えているのではないかという気がする。だいたい今の世の中子供を持つことのリスクが大きすぎる。五体満足に生まれてよかったね…で終わるわけではなく、かわいく手のかかる時期もあっという間にすぎていく。そしてその先にあるのが受験競争、就職という壁であるが、昨今では相当の高偏差値の大学を出た人でも低所得で自分の生活がなりたたない人も珍しくない。成人した子供が親を扶養するなんてことはほぼ皆無といっていいくらいなのに、成人した子供に生活能力がなければ親の扶養義務が協調され、成人した子供の犯罪で親が職を辞するなんていうことも当然のように行われる。つい数日前も30代の女が扶養してくれないといって親を殺害した事件があったが、こんなのは氷山の一角のように思う。子供にしてみればこんな生きにくい世の中に頼んで生まれてきたわけではないし、親に責任をとれともいいたくなるだろう。それとても「育て方が悪い」とか「親の自業自得」だというのだろうか。そしてその一方では「婚活」なんていう昔なかった言葉も生まれ、熱心に結婚相手を探している男女もいる。全部が全部というわけではないが、中には自分の生活能力がないために、経済力ある相手を求めるという婚活もあるだろう。それも女だけでなく、ネタかもしれないが男で「経済力ある女性」を求める人もいるようだ。まあ、結婚は相手のいることだし、こういう人の婚活はかなり苦戦するだろうと推測する。思えば国民皆婚社会というのは独身者が不当に差別され、一人だと生きにくい時代でもあった。そういう時代に比べると、国民の多くが「無理に結婚しなくてもよい」と考える時代はそんなに悪くないのかもしれない。
2019年01月09日
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韓国軍のレーダー照射で思いだすのは、2006年日本の蟹漁船員がロシア警備艇に頭を銃撃され死亡した事件。あの時は日本人が一人死んでいるのだが、政府の対応はずいぶん違っていたように思う。なぜだろう…。韓国ドラマ「シグナル」は謎が謎を呼び、一話終わるたびに次がみたくなる。橋崩落事件など実際の事件も想起させるつくりになっているが、日本ではこうしたつくりは難しいかもしれない。すぐに「被害者の気持ちを考えろ」という議論がでてくるから。けれどもその「被害者の気持ちを考えろ」というのもずいぶん恣意的便宜的に使われているような気もする。「絶歌」の出版は賛否両論の議論を呼び、作者が多額の印税を得たことが批判がましくかたられるが、松本サリン事件の犯人の一人が本を出したことはほとんど議論になっていない。なぜ「絶歌」が問題で、こっちは問題ないのか。前者はサイコパス、後者は「マインドコントロールの被害者」だから?それも変な話だ。「マインドコントロール」は正直意味不明だし、責任を減少させるようなものではないので、サリン散布の実行犯も極刑を免れなかったのではないか。まあ、騒がれなければ売れないので、結果的に問題にならないという見方もできるのだが。https://www.asahi.com/and_M/information/pressrelease/CPRT2018111934.html人数だけの比較は無意味だが、酒鬼薔薇事件の被害者は2人、松本サリン事件では8人が死亡し、600人以上が重軽傷を負い、今でも後遺症に苦しむ人がいる。
2019年01月08日
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この間、「心洗われる話」について書いたが、今回はその中に収録されている「たけくらべ」と「瞼の母」について書いてみる。「たけくらべ」はなぜたけくらべかというと伊勢物語の「筒井筒」の和歌に由来するという。筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざる間に井戸の筒に背を比べる頃からあったような幼馴染の恋というくらいの意味である。ただ、「たけくらべ」の主人公は井筒に背を比べるような子供よりはもう少し大きく思春期の少年少女であり、内容も淡く美しい青春と恋というのとは違う。作者の樋口一葉には遊郭にすむ女の悲哀を描いた小説が多いが、「たけくらべ」もその系譜につらなるもので、やはり中学生が読む小説とは違う。実は中学生の頃に読んだのだが、文語体の部分がよくわからず、あまり印象に残らなかったのだが、文語体が分かったとしても、小説の世界はわからなかったかもしれない。明治期の遊郭を中心とした庶民の住む界隈が舞台なのだが、その時代の子供はどんな家に生まれるかで、ほぼ将来の生業が決まっていた。金貸しの子は金貸しに、棒ふりとよばれた人力車夫の子は車夫に、お寺の子は僧侶に、そして遊郭の子は芸妓にと。主人公美登利は、初恋を契機に、本当の恋のできない芸妓の哀しさを実感するのだが、それを思うと物語前半の気前よく小遣いをばらまき、子供らしい遊びに熱中する姿も、そうした運命から目をそらしたかったのかもしれないようであわれである。一方「瞼の母」は典型的な剣劇ものの脚本で、いまどき、こんな芝居はやらなそうなのだが、実際の舞台でもみてみたい。登場人物の一人に素盲の金五郎というのが出てきて、物語や台詞では盲人とはとても思えず、ネットで見てみると、素盲とは丁半ばくちのいかさまの一種とあるが、そんなところで、いかさまばくちの常連くらいの意味だろう。こうしたものには注が必要である。
2019年01月07日
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最近、やたらに「平成最後の…」という言葉を聞く。昭和から平成に変わる時には、「昭和最後の…」なんて言葉は少なくともテレビではいえなかったのと対照的だ。昭和時代の激動に比べると、平成時代は二度の震災とオウムのような大事件があったものの、ずっと平穏に過ぎた印象がある。そしてなによりも、平成時代には一人の「戦死者」もでなかった。新元号の予測なんてのもネット上には散見されるが、比較的画数の少ないよい意味の字であること、イニシャルがMTSHのように明治大正昭和平成とかぶることのないものであること、二文字であるがすでに熟語として使用されているものでないこと…という条件を付すると、それにあう候補はそれほど多くない。それに、よい意味とされている字であっても、安は女が家にいる形であるので、今日の時代にはふさわしくないとか、道は路上に首をたてて目印にしたことに由来するのでふさわしくないという意見もあるようだ。また、文永の役、天明の飢饉、安政の大獄のように、戦乱や不吉な事象について語られる元号と似たものも外されそうである。もうすでに検討され案はしぼられているのだろうけど、さて、どうなるやら。それにまた、かつての改元と今度の改元で異なる点が一つある。それはネットの普及である。平成改元のときでさえ、ネットはほとんど普及していなかった。ネットの普及により、誰でも意見を言えるようになり、そしてそれは瞬時に拡散していく。マスコミが口をそろえて言っていることと、ネット民の多くが発信していることとはイコールではない。国民生活の便宜を考え、元号使用の継続を考えれば、新元号の発表など早いほどよいにきまっている。それをやらないのはなぜなのだろうか。おそらく発表をすると、マスコミはともかくネット上では議論がわきおこり、この元号のこの文字を使っていた年にはこんなことがあった、あんなことがあったというような議論がやまないと思う。そうしたネット民の反応を極力抑えたいのかもしれない。本日の部分日食…かつてのような黒下敷きはなかったので、マスクの包装袋を重ねて観ることができた。そのあとは急に雲が広がって来たので…間に合ってよかった。新年だの元号だのに関係なく、地球も月も太陽もめぐっている。
2019年01月06日
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「失われた時を求めて」第8巻を図書館に予約しておいたのに、年末年始で借りることができず、お正月は家にあった「心洗われる話」(ちくま文学の森)を読んだ。「最後の一葉」や「二十六夜」など再読のものも多かったのだが、一番「心洗われ」て印象的だったのは古典落語の「芝浜」。財布を拾った男に女房がそれを夢と思わせ言いくるめ、性根を据えて働男がくようになった男がようやく自分の店がもてたとき、これで好きな酒を飲むようにと女房が財布を差し出す話である。主人公はもちろん男と女房なのだが、女房は財布の措置について大家さんに相談する。そして大家の言うままに奉行所に届けるが。落とし主不明として財布は女房に返される。芝浜の話はいつできたのだろうか。おそらく明治かそこらだろう。大金の入った財布の措置をめぐる物語だが、女房も、大家も、そして奉行所も金をくすねるようなことはいっさいしない。そんなことはあるわけないということを前提に、女房は大家に相談し、奉行所に財布を渡す。これがあるから酒好きだが腕の良い魚屋とそのしっかり者の女房の話がなりたつ。ネトウヨ?がよく言う「日本すごい」には同調するものではないが、明治期の近代化がスムースに進んだ背景には、権力の清廉があるのではないか。警察に拾った金を届けたら警官が着服するようなことはありえない、大家と店子との間にも強固な信頼がある。そういえば何年か前に大阪かどっかの警官が届けた金をネコババして、届けた主婦を犯人扱いしたというふざけた事件があったがあれは、まあ例外だろう。このほか、「島守」に描かれる自然を友とする充足した生活、「洟をたらした神」の貧乏を跳ね返して生きる子供達も印象に残る。
2019年01月05日
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箱根駅伝の視聴率が好調のようだ。これはコンテンツそのものがよいというよりも、他に観るものがない…というのが大きな理由ではないのだろうか。昔は「新春スターかくし芸大会」というのがあって、紅白の延長で炬燵を囲んで視聴というのがけっこうあったようだ。あれはいったいいつなくなったのだろう。女性タレントのラインダンスとか男性タレントの南京玉すだれ、それに中国語劇とか…けっこうマンネリだったようにも思う。それにまた、「スター」というのも言葉自体が消えてきているのではないか。「いつでも会いにいけるアイドル」はスターとはいわないし、バラエティ番組でコメントをする正体不明の人々もスターには程遠い。駅伝ならテレビをつけっぱなしでも邪魔にはならないし、あれだけ大学が出場していれば、本人、あるいは親族の誰かが通っている大学というのも普通にある。走るコースも東京に住んでいればなじみのある場所だし、沿道に応援に出れば、自分が写っているかどうかを確認するという人もいる。個人的には、ああいうのは単なる交通妨害にしか見えないし、放映している側もなんか「タスキがつながらなくなる」というドラマをどっかで期待しているみたいな気がする。それにしても、いつも不思議に思うのだが、駅伝の大学のカラーというのがすこぶる意味不明である。プルシアンブルーというのはどんな青でプルシアンとは何の意味なのだろうか。プラウドブルーも同様。なんでプラウドなんだ?フレッシュグリーンはなんとなく若葉の色というのは分かるが、英語にこうした表現はあるのだろうか。なす紺というのは非常にわかりやすいのだが、分かりやすすぎないか?ダサいという声はないのだろうか。これが鉄紺となると分かったような分からないような…。あとよく駅伝で「一般入試で入りました」と選手を紹介しているが、一般でない入試とはスポーツ推薦であると思われる。一点二点で合否が分かれる入試で、大学の宣伝になるスポーツ選手を優遇して入学させるのは当然のように行われているのに、大学にとって経済的利益になる多額の補助金を出して入学すると「裏口」として指弾される。なんかおかしくない?
2019年01月04日
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謹賀新年明けましておめでとうございます日本の伝統とか習慣といわれるものも案外と新しいものが多い。それはそうだろう。人の記憶は限度がある。小さい頃から慣れ親しんできたものを古くからある伝統と思っている場合も少なくない。年賀状も、これが風習として普及したのは戦後になってからだだと思う。だってそうだろう。オール印刷の年賀状は資源の無駄ではないか。年賀状の枚数が減少傾向だというのだが、それも時の流れで仕方ないことのように思う。そういえば子供の頃には新年の挨拶まわりという風習があった。お正月に上司の家に挨拶に行くのだが、今では、よほど親しい間柄か親戚でもない限り、他人の家に行くなんてことは考えられない。そういえば、最近の家には「客間」とか「応接間」というものもないようである。晴れ着、羽根つき、福笑い、双六…こうしたお正月行事も実際にはあまり見なくなっている。結婚しない人が増え、子供の数が減っているのでこれも当然だろう。不思議なのは、こうした正月行事が地味になっていくのに、おせち商戦だけは盛況なことだ。伝統的なものだけではなく、西洋風のおせちとか中華風のおせちとかいうのもでている。いずれも一人では食べきれないような量なので、単独世帯や二人世帯が増えている世相の中で、何故とも思う。売る方にしてみれば儲けが大きいのは分かるのだが、それも需要あってのことなのに。
2019年01月03日
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