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戦争の悲劇はいろいろあるが引揚げにともなう哀話はどこまで知られているのだろうか。こんな話がある。暴行略奪とは別に現地の男性に拉致された日本人女性がいたそうである。中国農村社会では家族は貴重な労働力であった。そのため、農作業を手伝わせるために、病気や疲労で動けなくなった若い女性を現地の男性が連れていったのだという。終戦時13歳以上で中国に残った女性は、残留婦人とよばれて長いこと帰国に対する支援措置も講じられてこなかった。こうした女性達は、残留孤児と違って、自分の意思で中国に残ったとされたからである。しかし13歳やそこらの少女が中国人と結婚して中国に残ったからといって、本当に自分でそれを希望した人がどれだけいたのだろうか。彼女らの望郷の念を考えると、こういう人こそ帰国のてだてをまっさきに講じなければならなかったのではないか。※残留婦人にかぎらず残留孤児についても同じようなことが言える。残留孤児の報道については、中国人がかわいそうな日本人の子を育ててくれたといった美談調の報道が多かったのだが、実態は必ずしもそうでないことを、はなびらさんを初め何人かの方のHPで知った。子供といえども農村では貴重な労働力であり、孤児達の多くは労働力として売買されたのである。残留孤児達の問題がでてきた頃、彼らが何が何でも日本に永住しようとしていること、生まれ育った地や養父母への愛着の念があまりみられないことに奇異な感じがしたものである。しかしこうした背景があるとわかればそれも納得がいく。※もちろん中には自ら望んで中国人と結婚した残留婦人や養父母に愛されて育った残留孤児もいたかもしれない。ただ、一方では奴隷といっては悪いが労働力としてしか見られなかった婦人や孤児がいたのも事実である。あの日中友好ブームのときは残留孤児の報道も美談一辺倒だった。もしあのとき実態がきちんと報道されていたら、日本人の中国に対する見方もあるいは別のものになっていたかもしれない。
2006年01月31日
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今年はモーツァルト生誕250年とかで世界中で行事があるらしい。モーツァルトというと映画「アマデウス」をすぐに思い出す。あの中でサリエリとモーツァルトの葛藤がえがかえているが、どうもサリエリとモーツァルトとどこがどう違うのかわからない。特にサリエリの楽譜をモーツァルトが直すところ…あれってよくなったのか悪くなったのか。解説では見違えるようによくなったらしいが、なんか同じようなもんじゃないのかなあ。他の人には違いがわかるのだろうか。
2006年01月30日
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A子はこのごろ面白くない。容姿年齢すべての面で自分と同レベルかそれ以下と思っていたB子があろうことか、ピカピカのエリート男性と婚約したのだ。そこでA子は酒が入ると決まってこういうのだった。「あれってきっとマインドコントロールよ。」「催眠術だわ。」…たぶんそのうちマインドコントロールなんて言葉は、こんな用法で使われるようになるだろう。いわば負け惜しみである。※11人妻同居男の続報はその後あまりないので、一番知りたい「もてる呪文」なるものも結局謎のままでおわりそうである。ただひとついえることは、あの男がもっと金持ちだったり、もっとカッコよかったら、誰もマインドコントロールだなんていわなかったし、事件にもならなかっただろう。日頃、「男は顔じゃない」とか「金で女の心を買えるなんていうのはけしからん」なんて言っていた人々が、実際にニートの不細工男が多くの若い女性と同居していると、いっせいにバッシングを始める。まったく勝手なものである。※このマインドコントロールという言葉。どうも心のケアという言葉と表裏一体のように思う。ある技法を使えば人の心は操作できる。それを自分の利益になるように操作するのがマインドコントロールで、相手のために行うのが心のケア。どちらにしても、そんな技法で人の心を操作すると考えるのってすごい倣岸な考えではないのだろうか。マインドコントロールという言葉を多用する人は決して自分がマインドコントロールされるなんて思ってはいないし、心のケアという言葉もケアされる立場の人は決して使わないだろう。事故や災害の被災者が「心のケアをしてほしい。」といったり、カルトの元信者が「カウンセリングのおかげでマインドコントロールがとけて立派に社会復帰してます。」なんていうのは、寡聞にして聞いたことがない。
2006年01月29日
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マインドコントロールというものにうさんくささを感じてならないのは、世間一般に普通に行われていることに仰々しい名前をつけ、それをさも重大な奥義であるように喧伝しているところにある。たとえばカルト宗教に例をとれば、教祖がダライラマやローマ法王といった既存の権威をもちだし、そうしたものが自分を認めているかのように喧伝するのは「権威の法則」というらしい。でもこんなのは日常のCMで医学博士を出して健康食品の宣伝をしたり、美人女優を出して化粧品の広告をやるのとどこが違うのだろうか。最初から入信を薦めるのではなく、まず娯楽色の強い集会に勧誘し、徐々に入信にまで至らせるのを「段階の法則」というらしい。これって高額商品のお験し期間とどうちがうのだろうか。入信させようという人を賞賛してその気にさせるのは「賞賛の法則」。洋服売り場のねえちゃんも、「まあ似合いますねえ、素敵ですねえ」くらいのことはいう。ただでの旅行やパーティーの機会を与えて心理的負い目をつくり、入信させるのは「褒賞の法則」。試食販売で売りつける中にはきっとただで食べちゃって申し訳ないと思って買う人もいるだろう。かって嫁の来てのない農村でやっていたお見合い旅行パーティーも、この手口だったのか。こんなのを「マインドコントロール」とよんで、人格の解凍、変容、最凍結を起こさせて「カルトの人格」を作るなんていったってわけがわかんない。※商品の例をだしたけど、窮極の売りこみともいえる恋愛でだって、こういうカルトの手口はしっかりと使われている。まあ、あるHPに書いてあったことの受け売りだが、マインドコントロール評論家と同じように考えれば、男はみんなカルト教祖ということになってしまう。「オレは〇〇(著名人)の知合いなんだよね。」(権威の法則)とか、「君はとてもきれいだよ。」(賞賛の法則)とか言うのはもちろん、最初のデートのときにすべておごって次へつづくようにする(褒賞の法則)とか、いきなりホテルというのはなんだから喫茶店からはじめる(段階の法則)なんてのも、マインドコントロールの手法ではないか。※もちろん消費者保護や未成年者保護は必要であるが、粗悪商品を高額で買わされるのも、悪い男(女)にひっかかるのも、しょせんは自己責任である。同じように、カルトにはまるのも本質的には自己責任の範疇であろう。これは別にカルトの元信者を批判しているのではなく、そういう人にとっても「マインドコントロールされた」と考えるよりも、カルト入信体験も自分にとってはプラス面もあったはずだと肯定的にとらえた方がずっとよいと思うからである。恋愛だって同じこと。「悪い男(女)に騙され棄てられた」と考えるよりも、この恋愛経験も自分の人生にとってはプラス面もあるはずだと考えた方がよい。カルト入信も恋愛も、その体験をプラスとするかマイナスとするかは今後の生き方次第なのだから。いずれにしても被害者意識まるだしの受動思考からは何も生まれない。※それにしても世の中にはどうみても不釣合いのカップルがいくつもある。あれって皆上記のような「マインドコントロール」によるものなのだろうか。必ずしもそうとばかりも言いきれまい。なんというのかその…豪華なフランス料理をいつでも食べられるような人はかえってゲテモノ料理にひかれるのかもしれないし、従順な血統馬ばかりを押し付けられる種馬はときには自己主張の強いじゃじゃ馬を選びたくなるのかもしれない。まあ、これはあくまでも想像するしかないことではあるが。それにしてももてる呪文っていったい何だ?ドラクエにもそんなのはなかったぞ。
2006年01月28日
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京大生木戸晶裕、白井淳平、池口亮の集団強姦事件が大きく報道されている。この手の事件ではスーフリ事件が記憶に新しいが、実はそれ以前にも帝京大生や慶応医学部の学生などが似たような事件を起こしている。しかし彼らは別に刑事処罰を受けてはいない。なぜだろうか。それは事件が明るみにでると被害者の女性にマスコミが凄まじい取材攻勢をかけ怖れを感じた被害者が示談とともに告訴を取り下げたからである。警察がマスコミに犯罪被害者の実名を知らせることには、こんな弊害があったわけである。春秋の筆法でゆくと、警察からマスコミへの被害者の実名発表→告訴取下げ→この種の犯罪は処罰されないという思いこみ→スーフリ事件となったといえるのではないのだろうか。※今度の京大生の事件ではおそらく被害者の実名はマスコミに発表されていない。そのせいだろうか。記事の内容も被害者に対する中傷的なものや興味本位のものはみあたらないようである。警察が被害者の実名をマスコミに秘匿する…よく考えるとあたりまえのことであるが、それが今度の事件捜査ではちゃんと実を結んでいる。
2006年01月28日
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ホリエモンの逮捕劇に日本列島は津々浦々大喜び…じゃなかった大騒ぎだ。そりゃそうだろう。つい最近まで勝組みだセレブだともてはやされていた小生意気な若造が一転あわれ塀の中の身となれば、これくらい庶民からみて面白いものはない。そのうち「やはり金がすべてじゃないのよ。」とか「額に汗して働く尊さを再認識しよう。」なんてことをしたり顔に語る人もどんどんでてくるのだろう。ホリエモンの具体的容疑はなんで、その法定刑がどのくらいかなんてことは知らなくても、こんなことなら誰でも言える。※七詩さんももちろん庶民だからホリエモンの逮捕の報に快哉を叫ばないわけでもないけど、これってちょっと怪しすぎないかな。なんでわざわざ逮捕の日が耐震偽装建築がらみの代表質問の日だったのだろうか。それにホリエモンの容疑だって、こんなので叩けばかなりの経営者をひっぱることができるようなものなのではないか。国策捜査という言葉があるらしいが、これももう一つの政界に大激震を起こすかもしれない一大事件をかくすための国策捜査なのではないか。※今の総理は、自身の頭の程度が一般人並であるせいなのかもしれないが、世論操作には天才的なカンを持っている。マドンナ刺客候補総出演の小泉劇場にしても、女性候補をああいうふうに使うなんてなかなか考えつけるものでもない。そんな彼が耐震偽装がらみの疑惑をかすませるためにうったのがホリエモン逮捕なのではないか。もちろん数ヶ月前には選挙で持ち上げた人間を塀の中に落すくらいのことは、非情な彼にはなんでもない。愚かで嫉妬深い大衆は栄華を極めた人の逮捕劇をなによりも喜ぶ。それを知り尽くしているからこそ、あの民主党結党大会のセレモニーの日に要人逮捕のニュースをぶつけ、新党効果をかき消した。今度のホリエモンだって小泉政治のそんなあらたな生贄なのかもしれない。
2006年01月27日
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一夫多妻の男とかボビーの暴行事件とか、このごろワイドショーのよろこぶニュースがてんこもりである。それにしても世の中いろんな人がいる。素人同然の宴会芸のお笑いタレントなどよりもよほど面白い。※特にあの一夫多妻の件では、またもやマインドコントロールだとか洗脳だとかの議論がでてきている。本当にマインドコントロールなんていう技術があるのなら、あんなうらやましいこととっくに皆がやっている。オウムのときもそうだったが、マインドコントロールといくらいいたてても、じゃあ具体的にどんなことをやったのという説明は全く曖昧である。それにいいにくいことだがある国際級の俳優の元妻があれとそっくりの怪僧と結婚したことがあったが、あれもマインドコントロールなんだろうか。もっといいにくいことだが、超大物ミュージシャンがどうみても美人にはみえない日本女性と結婚したのはなんだったのだろうか。こんなことをいいだしたら意外性のあるカップルは皆マインドコントロールということになってしまう。※いや、意外な取り合わせが問題なのではなく、一夫多妻が問題なんだという人もいるかもしれない。でも、もしあの男があんなさえないハゲデブニート親父ではなく、超美形のIT長者なんかだったら世間はどう反応するのだろうか。光源氏みたいに邸宅を4区分して春の御方、夏の御方とそれぞれに女人を住まわせた上、その付近には「その他大勢」の女性用の集合住宅も造るのである。成人女性との合意の上で、重婚でもなければ別に法にはふれない。そのうち現実にそんなのがでてくるのではないのだろうか。脅迫だとかマインドコントロールだとかと世間は騒がしいが、それは、主人公が美形の金持ち青年などではなく、あんな親父だからであろう。※そういえばこれと似たような事件で「千石イエス事件」というのがあった。千石イエスと名のル初老の男性が大勢の若い女性と同居しながら放浪をつづけた事件である。あのときもさんざんにバッシングされたが結局は事件性なしということで決着がついたと思う。あのときの女性たちもいい年になっていると思うが今はどうしているのだろうか。世間的にどうみえようが、それが彼女達にとって最も居心地のよい生き方だったのだとしたら、それもまた人生というものではないのだろうか。ただ「千石イエス」と違い、今度の「事件」では男はもてる呪文を知っていると嘯いているそうである。金以外にそんな便利な呪文があるのだろうか。まさか「オレと一緒に暮さないとミンチだぞ。」なんてのが呪文であるわけもないし。
2006年01月26日
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我が家の近くに半兵衛坂という坂がある。なんの変哲もないバス通りの坂道なのだがわざわざ由来が書いてある。「このあたりに半兵衛という人がいたから半兵衛坂とよぶ」らしい。半兵衛さんといったって、いったいいつの時代のどんな人やら、それを書かないことには説明としては不十分きわまりない。でもたぶん時代は江戸時代、坂の名に残ったくらいなのだから大きな邸を構え人望も篤い豪農だったのかもしれない。とまあこんな想像を働かせることができるのが地名の効用である。同じように、汐見坂なんてのがあれば、昔はここから東京湾がみえたのだなと思うし、富士見坂とあれば富士山が望めたのだと思う。地名にはそれぞれ歴史があり、由来があり、だからこそ人々の想像をかきたてる。昔そこに住んでいた人々と今の人とをむすびつけるよすが。それが地名というものなのかもしれない。※だから、鈴が森とかいったイメージの悪い地名を変えるのは仕方ないかもしれないが、浅薄な考えで歴史ある地名が変えられていくのはやはり残念である。別荘地としての地価が上がるからとばかりに沓掛とか信濃追分とかいう地名が消えて中軽井沢、北軽井沢といった軽井沢のつく地名がやたら増殖したり、都会風とばかりに全国に大手町や本町ができたりするのはつまらない。希望が丘とか青葉台とかといった不動産業者が作ったような地名は安手のちらしのようだが、昔からよびならわされてきた地名にはなんともいえない趣がある。※こうしてみると最近の市町村合併の結果でてきた新地名は、不動産業者の浅知恵のようなものばかりがめだつ。幸い実現はしなかったけど南セントレアなんてアフリカかどっかの新興国みたいだし、四国中央なんていうのは辺境コンプレックスまるだしである。湯梨市なんてのも観光と物産をともに売り込もうという下心があるみたいだし、アップルとかアルプスといった横文字をカタカナにした地名も違和感がある。今度の合併ブームは明治初期、昭和20年代につぐ三度目のものだそうである。過去の合併で新市名を決めたときにはどうやったのであろうか。安曇野市というのは最近の新市名の中では非常にまともなのだが、これは新しい地名ではなく、逆に古くからある安曇(神話にもでてくる)という地名を活かしたからであろう。その安曇野市の中核となった豊科町は明治の大合併のとき、四つの村が統合してできたのだが、それぞれの最初の一字をとって「とよしな」とし、それに豊かな信濃にも通じる豊科という字をあてたそうである。
2006年01月25日
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韓国の人権大使とかいう肩書きの方が、国連などで高まっている北朝鮮非難の動きに対し、人権問題を政治的に利用していると批判したという。彼によると、人権問題よりも平和権の方が優先さるべきであって、「食料もなく飢えている人達に政治的市民的権利を一方的に主張することはバランスを欠く」そうである。※韓半島の平和権ということは、つきつめれば北朝鮮の崩壊のような政治的激動が起きては困るということにつきるだろう。もし、北朝鮮の崩壊という事態になれば、東西ドイツ統一のときのように韓国が北朝鮮を吸収するか、あるいは半島の北半分が中国など他国の勢力圏にのみこまれることになる。吸収統一ということになれば、その負担はドイツ統一の比ではないだろうし、韓国民はせっかく手にした先進国としての豊かな生活を手放さなければならなくなる。また、北半分が中国にのみこまれるとなれば、それも有史以来の事態で、韓民族の心情としては避けたいところだろう。人権問題よりも韓半島の平和権というのは、そうとらえるとおおいに分かりやすい議論である。しかしそうした、北朝鮮住民の人権なんかしったこっちゃない、あの政権のやっている数々の不法行為もほおっておけ、とにかく今の豊かな生活を維持したいという理屈が世界水準からみてどううけとられるかは、また別の問題である。例えばもし東ドイツに対して西ドイツが同じ態度をとっていたらどうだろうか。密告監視体制の横行する東ドイツの体制は問題だが、ドイツ民族の平和権が優先するといって、もしあの時、統一を拒否していたら、ドイツに対するイメージはおおいに変わったのではないか。北朝鮮の人権状況は東ドイツとは比較にならないくらい悲惨である。※また、「食料もなく飢えている人達に政治的市民的権利を一方的に主張することはバランスを欠く」という言い方もおおいに疑問である。あの国で脅かされているのは言論の自由や集会の自由などの政治的権利だけではない。圧政によって身体の自由や生命そのものが脅かされていることが大問題なのである。こういうことをいうのならぜひ聞いてみたい。1週間でも1日でも、あの国の強制収容所に入ってみる気はありますか。自分や自分の家族が公開処刑されるとしたらどうですか。北朝鮮での人権状況に目をつぶって食料さえ支援すればよいという考えは、あまりにも人権というものがわかっていないのではないのだろうか。※それにしても今の北朝鮮の状況と過去の日本支配下の朝鮮半島の状況とを比べていったいどちらの方が住みやすかったのだろうか。もちろん時代も違うし一概の比較はできないのだが、日本支配下の朝鮮半島で大量の餓死があったとか公開処刑が行われていたという話は寡聞にして聞かない。韓国も、そして北朝鮮も、いまだに過去の日帝支配の罪悪をいいたてるが、今の北朝鮮の現状こそが、それに倍する罪悪ではないか。※北朝鮮では、今年は正月に配給される灯油や食糧も出せなかったという。通貨偽造が明るみになったことによる米国の金融制裁の効果がじわじわと利いてきているのだろう。そんな中で藁をもつかむつもりですがりつきたいのは、日本との国交締結とその後の巨額経済支援であるが、そのためには拉致問題の終結が不可欠である。北朝鮮と日本政府(外務省)の考える拉致問題の終結は、必ずしも被害者の全員帰国ということではない。特定の一部分子の妄動のせいにして、今の政府は無関係ということにして、それを世論が受け入れさえすれば拉致問題は終結するのである。そうしてみると、北朝鮮が窮状にある中で2月上旬に日朝協議が予定され、それにあわせるようにシンガンス報道があふれ、警察庁がばたばたと動きはじめているのなど、非常に怪しい感じがしてならない。
2006年01月24日
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事件にはどうも世相というものが反映されるようだ。終戦直後には「体の大きな男」が民家に押し入る事件が頻発したし、高度成長期になると東北弁を苦に新入社員が自殺するといった事件がよくおきた。※こういう目でみると最近の世相をあらわしている事件として「介護疲れによる殺人」というものがあるのではないか。かっては尊属殺人は一般の殺人に比べて重罰が課されていたものであるが、介護に疲れて殺人まで追い詰められた人を特に重く処罰しようと考える人はほとんどいないだろう。尊属殺人の重罰規定が見なおされたのは、実の娘を虐待しつづけた父親がその娘に殺害されるという事件があったことがきっかけであったが、あの頃には親殺しの類型の中で介護疲れによる殺人というのは、ほとんど意識されていなかった。もし当時尊属殺人の重罰規定が削除されていなくても、今日のように介護疲れによる殺人が頻発すれば、かならずやあの規定は見直されたであろう。※在宅介護、在宅医療重視のかけごえの中で、老親と同居している子どもの苦労に社会全体が鈍感であってはならない。それにまた、いいにくいことであるが、複数いる兄弟の中で誰かが親と同居するとなると、困難な立場の子どもが同居することになる例が多い。一人だけ独身で残った子どもとか、自力では住居の手当てができない子どもなどである。だから介護疲れによる殺人の記事などをみると、介護者の側にも将来の不安があって、それと介護の疲れが増幅して悲劇を生んでいるものもめだつ。犯罪を安易に社会のせいにしてしまうような議論には抵抗があるのだが、この介護疲れによる殺人という類型に限っては、犯人が悪いというよりも、社会の側にもかなりの責任があるように思う。※人はいつか年老い、やがて死を迎える。在宅在宅というが死ぬまで一人で自分の家にいることがそんなによいのだろうか。雪降ろしもできないような老人が雪国で独居し、その老人の家の雪降ろしのために税金が使われるのはやはりおかしい。なんらかの援助が必要になれば集団で住むような場が必要なのではないのだろうか。もちろんそれは施設に収容されるということではなくて、そこを生活の場とするということでなければならないのだが。これからも高齢化はますます進む。高齢化の最大課題である介護の問題が、同居している子どもだけにしわよせされるのだとしたら、それこそ問題である。
2006年01月23日
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裁判員制度導入の準備が着々と進んでいる。いつも思うのだが、この制度って一体誰のためにあるのだろうか。任意に選ばれた少数の人を裁判に関与させたら裁判が民主化とか国民の意見が反映されるなんて、いまどき小学生にも通らないような理屈である。もしかしたらこの制度、死刑判決を下す裁判官の精神的負担を回避するための制度なのかしら。※法律家の方がこぞってこの制度をおしすすめようとしているところに、素人がいうのもなんなのだが、この裁判員制度について、なぜ憲法の「苦役からの自由」に関連づけた議論が出ないのだろうか。日本憲法には苦役からの自由の規定があり、徴兵制などはこれに抵触するために導入できないと解されている。しかし「苦役」というのは、なにも戦争に行ったり、強制的に肉体労働をさせられたりすることばかりをいうのではない。私だったら、見たくもない死体写真を見るくらいなら、一日石を運んでいた方がまだいい。※そしてまたこの制度は事件関係者にも余計な苦痛を与える。例えば宮崎勤事件に裁判員制度が導入されていたらどうなったであろうか。彼が行ったことは4人の幼女の殺害だけではない。他にも多くの被害者がおり、逮捕のきっかけもある幼女の全裸写真をとっているところをその父親にとりおさえられたことであった。死刑か無期かを判断するなら、裁判員は、殺人事件以外のこうした被害者についての情報も知らなければならない。全裸写真をとられた幼女はどこの誰で今どうしているのだろうか。写真をとられた以外の被害はないのだろうか。もちろん裁判員には守秘義務が課される。しかし、テレビや雑誌でしゃべるのならともかく、井戸端会議の話題にまで規制や罰則をかけることなど事実上不可能である。また、そうでなくても、今やネットを通じて誰でも情報を発信できる時代であり、不心得な裁判員によって被害者のプライバシーがばらまかれないともかぎらない。プロの裁判官と違って素人の裁判員に生涯にわたる守秘義務を期待するなんていうこと自体がそもそも無理なのである。今からだって遅くはない。この裁判員という制度は考えなおした方がよいのではないか。
2006年01月21日
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予想どおりというか、やはりというか、宮崎勤の死刑判決が確定した。報道で見る限り、幻聴、幻覚、妄想など精神病の典型例のような人物だし、あの独特の無表情はどうみても正常にはみえない。年齢的にみて事件当時だって既に発病していた可能性が高いのだから、個人的には死刑判決にはちょっと疑問をもっている。あの覚めない夢に入る前、もっと早期に精神科の治療をうけることはできなかったのだろうか。それによって事件だって防げたかもしれないのに。※そのうえであえていう。幼女に対する性犯罪者といっても事件によってその性格は様々であるが、宮崎勤の場合は、どうも性欲というよりも、ある種の現実逃避のような色彩が強いのではないかと思う。映像でみるかぎり宮崎勤自身もあまり男性性を感じさせるタイプではないし、友人も少なく、ビデオやアニメの世界に没頭していたといわれれば、いかにもそんな感じである。なにかとざされた自分の殻の中で成熟を拒否して、ひたすら幼児に回帰することを願っているような、そんな印象なのである。幼女を誘ったのも、本当に幼女と対等の友達になるつもりだったのかもしれないし、幼女を殺害したのも完全に幼女を自分のものにしたかったからなのかもしれない。夢の中で自分が殺した4人の幼女がでてきて自分と遊んでいるといったようなことを彼が言っていたらしいが、幼女と一緒に自分も幼児にかえるというのが、彼のかなわぬ願望だったのではないのだろうか。資産家の家に生まれ何不自由ない幼児期を過ごしたが、思春期以降は孤独や受験の失敗などの挫折続きで、次第に社会からも落ちこぼれていく。そんな中で希望のみえない未来よりも、ひたすらすがりついたのが幸福だった幼児期であり、そんな幼児期に連れていってくれるはずのものが幼女達だったのかもしれない。※宮崎勤事件の頃、アニメに夢中の成人男性というのはまだまだ珍しく、「オタク」という言葉が流行語のように使われ始めたが、今では深夜アニメなどはほとんど成人男性向きである。そして、そんなアニメの中には子供のヒロインも珍しくないし、そうでなくても異様に目の大きいスタイルやキンキン声の声優など幼女を思わせるものが多い。大人の男性が小学生アイドルに萌え~なんていうのも、今や異常でもなんでもない時代である。また、あの当時は定職にもつかず家の仕事を時々手伝うだけのライフスタイルが奇異に見えたが、それもフリーターやニートという形で一般化している。犯罪や犯罪者は時代の鏡というが、宮崎勤もオタク、ニート、フリーター、引きこもり、そして幼女趣味といった、次の時代に大増殖するタイプを先取りしていたように思う。※宮崎勤のHP?http://www.tctv.ne.jp/members/nisijima/keimusyo/miyazaki.html※※昨今世をにぎわしているライブドア騒動。マスコミは今まで持ち上げていたのも忘れたかのようにホリエモンを批判するが、この程度の容疑でならたいていの経済人はたたこうとすればたたける。なぜ今なのだろうか。どうも私にはこの騒動は耐震偽装に端を発した別の騒動のめくらましのように思えてならない。新しい話題にとびつくマスコミは庶民の嫉妬心をくすぐってやまない絶妙の悪役の出現に小躍りしているのだろうが、どっかでこの騒動、ほくそえんでみている人たちがいるに違いないように思う。
2006年01月20日
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この小説は長いこと反革命的ということで本家のソ連では発禁処分となっていたらしいが、読んでみるとうなずける。人間の平等、連帯という世にも美しい理想を掲げたはずの社会主義がなぜ幸福をもたらさなかったのか。これこそ、ある意味、人類史の謎ではないかとさえ思うのだが、その大きな理由の一つは、特定の理念を掲げる故に、精神の自由を圧殺していったことにあるのではないか。主人公のジバゴは類まれな独創的知性の持ち主であるが、そうした人ほど革命に適応できずに悲劇的運命にみまわれてゆく。社会主義革命下での知識人の悲劇を描いた小説といわれるゆえんである。※そんな精神的自由の圧殺のゆえだろうか。19世紀から20世紀にかけて、あれほど多くの傑作を生んだロシア文学も、革命後には、この「ドクトルジバゴ」を除いては、みるべきものがないようだ。しいてあげれば、「ドクトルジバゴ」にかわってソ連最初のノーベル文学賞の栄誉に浴した(「ドクトルジバゴ」の作者パステルナークはノーベル賞を辞退させられたという。)「静かなるドン」があるが、どうも粗野で陰惨な場面ばかりが印象に残って小説としてはあまり好きになれない。時代の激動の中で妻を愛しながらも人妻との不倫に溺れていく主人公という設定はよく似ているのだが、「ドクトルジバゴ」の方が、はるかに詩的で洗練されている。また、「静かなるドン」では、物語りの5分の2ほどを全体のストーリーとは無縁な革命戦士の英雄談が占めているのだが、この部分だけがいやに人物描写が類型的かつ平板である。作者ショーロホフは「静かなるドン」以外は、退屈な社会主義レアリズム小説しか書いておらず、「静かなるドン」もこの革命戦士が主人公になっている部分を除いては盗作なのではないかという話もあるそうだが、あるいはそれも本当かもしれない。もっともこの部分があったからこそ、「ドクトルジバゴ」と異なり、ノーベル賞受賞が邪魔されなかったのかもしれないけど。※その他のソ連文学でも、ソルジェニーツィンとなるとどこがよいのかどうもよくわからないし、作者は忘れてしまったが「虹」というドイツ軍侵攻を背景にした小説にしても愛国英雄賞揚といった域をでていない。きわめつけは「アンドロメダ星雲」という長編SF小説。ついに共産主義社会を実現した人類が他の知的生命との出会いを求めて宇宙に旅立つというユートピア小説なのだが、そこに描かれている世界は退屈極まる。でも、よく考えてみると、共産主義社会では、財産とか宗教とか差別とか偏見とか、そういった人間の葛藤の原因がすべてなくなっているというのだから、これを舞台にしても面白い小説になどなるわけがない。
2006年01月19日
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よく教育論議などをみていると「日本人であることに誇りをもてる教育」という言葉が出てくる。日本人であることに誇りねえ…これって隣の半島の人達がよく言う「わが民族の優秀性」とか「民族の自尊心」とかというのとどう違うのだろう。※たしかに総体としては民族、人種によって能力の差というものはあるだろう。しかしそうした集団としての資質と個人としての資質はあくまでも別物である。たまたまある民族に生まれてきたからといって、自分を優れたもののように考えるのだとしたら、それこそばかげている。悠久の歴史を有する民族といったって、あんたが悠久の時間を生きていたわけではない。幾多の科学者を生んだ民族といったって、あんたが科学者かどうかは別問題だろう。※〇〇家に生まれたところで優れた能力は必ずしも先祖から子孫へ、親から子へと受け継がれるわけでもない。同様にある民族に大科学者や大芸術家がいたところで、そのDNAがその民族に属する一個人に受け継がれているか否かはまた別問題である。〇〇家に生まれたからどうのこうのというくらい、△△民族に生まれたから誇りに思えとか恥に思えというのはばかげている。※私にしても、別に日本人に生まれたからといって誇りに思うなんていう気持ちはさらさらない。もちろん豊かで平和な国に生まれたのはラッキーだけど、それは誇りというのとは違う。だから子供にだってそんな教育をしたいとも思わないし、してほしいとも思わない。教育基本法の前文がどうのとか、愛国心や歴史の教育がどうのとかいうけど、そんな議論をするヒマがあったら、英語教育や数学教育の議論の方をやってほしいのだが。※※さまよえる金正日はどうやら本気で経済改革を考えているらしい。経済改革には莫大な元手が要る。これだけ本腰をいれた視察を行うというのは、その元手についてのあてができたということなのだろうか。まもなく開かれる日朝協議。まさか老工作員の引渡しと引き換えに経済支援なんていうシナリオは…ないよね。
2006年01月17日
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明日、宮崎勤事件の最高裁判決があるという。無表情、妄想、孤独癖などをみると、たぶん精神の病気なのだろうが、いまさら責任能力なしという判決はださないだろう。ああいう人間を死刑にしてもしょうがないとも思うが、おそらくは原審の判決が維持される。※思えばあの事件の頃からオタクという言葉が使われ始めた。宮崎勤がオタクかどうかはともかくとしてオタクは今やすっかり市民権を得た感がある。宮崎勤の頃は成人男性のアニメ趣味というと奇異な感があったが、今の深夜アニメの視聴者はほとんどが成人男性なのではないか。目の異様に大きい童女のようなアニメ美少女と現実逃避や幼女趣味はどこかでかさなっているように思う。※※ライブドア家宅捜索…らしい。でもこんな罪状っていつでもだれでも引っ掛けようと思えば引っ掛けられそう。いいのかなあ、こんなに出る杭をたたいて。
2006年01月17日
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かねてから思っていたことであるが、世上唱えられている教育論議というものは大きく二種類に分けられるのではないか。一つは、他でもない自分自身や自分の子どもについて、こうやったからよかったとか、こうすればよかったとかというように、あくまでも自分の体験をふまえたもの。そしてもう一つは、最近の日本人はこうだから、こういう教育が必要だとかといったように、自分の体験をはなれて、国家全体あるいは社会全体といった視点から教育を論じたもの。前者の代表としては、受験勉強の効用を説く和田●樹などがいるし、後者の代表としては歴史教育の重要性を説く藤岡信勝や早期英語教育不要論を説く藤原●彦などがいる。※評論を読むときには、常に作者はどうなのかということを念頭においてみた方がよい。古来ものを書く人間は信用できない。徒然草の中で夭折を薦める文章を書いた兼好法師は長生きをしているし、若きウェルテルに触発されて何人もの青年が自殺したらしいがゲーテは決して自殺などしなかった。教育論も同様である。早期の英語教育は不要だといっている論者も自分の小学生の子供には英語を教えているし、日本の近代史を美化した教科書を広めようとする論者も自分の子供は別の教科書を使っているのではないか。教育というものは、身近で重要な問題であるだけに、自分や自分の子供は別だが、一般大衆にはこういう教育が必要だみたいな議論は警戒が必要である。※それでは自分の体験をふまえた議論ならよいのだろうか。これも必ずしもそうともいいきれない。マスメディアで声高に体験を語っている人々が必ずしも標準的な資質や性格を有しているわけではなく、むしろそうでない場合の方が多いからだ。受験勉強が人間的成長に有益であったとしても、それは和田●樹氏についてであって、他の人についてはわからない。数学者の秋●仁がいくら野山をかけまわって独創性を培ったとしても他の人間も同様とはかぎらない。※教育に関する評論は多いのだが、自分の体験をふまえたものにしろ、そうでないにしろ、そのまま万人に納得できるようなものは案外と少ないように思う。
2006年01月16日
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中国訪問中の金正日。最高指導者の訪問にしては期間が少し長すぎないのだろうか。大学や経済特区を視察しているというが、ドル紙幣偽造で米国を完全に敵にした彼の国の立場は、いまさら「経済改革」でどうにかなるほどのものでもないだろう。本当に帰国するのだろうか。もしかしたらこのまま「亡命」なんてことにならないのだろうか。なんかあのさまよえる最高指導者をみていると、旧韓末にロシア大使館にかけこんだ韓国皇帝のことをふと思い出す。※そういえば今月中に行われる日朝協議はどうなるのだろうか。突如でてきたシンガンス報道も一段落したが、もし協議がひらかれれば、日本側がシンガンスの引渡しを要求することは間違いない。おそらく水面下では、この「身柄引渡し」には合意はできているのかもしれない。日本警察のぬるい取調べで筋金入りの工作員が祖国に都合の悪いことをいうわけもないし、70代の老工作員にとって余生を食料、医療付きの日本の拘置所で過ごすのは悪い話ではない。問題は身柄引渡しの見返りとして日本が何を与えるか…ということである。この方面での小泉サプライズがとても気にかかる。
2006年01月15日
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今話題の本「国家の品格」を読んだ。予想通り読みやすい本である。書評などをみると、日本人の情緒とか、武士道とか、そんなところばかりクローズアップされているが、この本がベストセラーになっている理由はもっと別のところにあるのではないか。改革とか競争、そして小さな政府などという言葉ばかりが連呼され、世の中が急速に変わってきているが本当にこれでよいのだろうか。機会均等とか能力主義といった掛け声の下で、競争が激化し、急速に格差が拡大してきているが、こういう社会は本当はよくないのではないか。おそらく多くの人が感じているであろうこんな疑問を、この本がうまくすくいとっているところにあるように思えてならない。だから正直いって、この「武士道」とか「情緒」を、「日本的ムラ社会」とか「横並び意識」とかにおきかえても、この著者の言っていることはなりたつように思う。※景気が回復しているといっても多くの人にはそんな実感はない。経済的困窮や失業を背景とする自殺者は相変わらず多いし、平日の図書館に行くと、背広を着た中年男性が所在なげにスポーツ紙を読んでいる姿が目につく。その一方ではIT長者が時代の寵児のようにもてはやされ、「勝組み、負組み」や「富裕層」といった言葉もすっかり浸透した。戦前ももちろん格差の激しい社会ではあったが、大多数の人には親族とかムラとかのよってたつ基盤があった。だからこそ失業したら実家の畑を手伝えばよかったし、老人介護や身障者の問題などもたいていはこの親族やムラの中で対処できた。今が違う。いったん「負組み」になったら、その背後には荒涼とした絶壁があるばかりだ。先進国中随一の自殺者数や急速に悪化する治安の背景にはこうしたことがあるように思えてならない。それなのに小泉総理は、さらに格差を拡大し、失業者を増やす政策をおしすすめようとしている。この著者ならずとも、本当にそれでよいのといいたくもなる。※そんなわけでむきだしの競争社会を批判し、「武士道」や「情緒」(これはムラ社会でも横並びでもよいと思うのだが)を再評価したあたりは、おおいに共感して読んだのだが、英語教育に疑問を呈したあたりは、やはり首をかしげてしまう。英語早期教育反対論者として急先鋒にたっている著者の子息は英語圏で幼少期を過ごし、帰国後も英国人の家庭教師をつけていたという。これにかぎらず、英語教育不用論を唱える著者のほとんどは、自分の子息には十分な英語教育を施しながら、公教育には英語は要らないと主張している。英語は要らないというのは、ある種の人々にとっては素朴なナショナリズムをくすぐられて心地よいのかもしれないが、実際の教育政策の場で英語が軽視されていけば、多くの子供達は確実に不幸になるのではないか。同じ授業時間なら、英語教育と日本の伝統・歴史についての教育とのどちらを自分の子どもに行ってほしいかと問われれば、そりゃ間違いなく前者である。※この他、この本には、美しい風景からは天才が生まれるとか、虫の音を音楽として聞くのは日本人だけだとかいった記述もあるが、これはほとんど眉唾ものの話として読んだ。著者はしきりに日本の田園や農村風景の美しさを賛美するが、じゃあ、御自分の子息に農村に住み農業をやらせる気があるかといえば、そんなつもりはさらさらないであろう。自分や自分の子どもには何を望むのかといった当事者意識をすっとばして、英語教育不用論や祖国愛教育をとき、農村や田園を賛美する。読みやすく面白い本ではあるが、しょせんは空理空論の域をでていないようにも思う。
2006年01月14日
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ES細胞捏造報道をみていて思ったこと。共同研究をもちかけられた日本人研究者もいたらしいけど、この件に日本あるいは日本人がからんでいなくて本当によかった。英雄的研究者の失墜のもたらす衝撃が、反日感情に転嫁してはたまらない。※韓国の新聞はすぐに「わが民族の優秀性」とか「民族の自尊心」とかいう言葉を使う。ノーベル賞の一番手候補とみられていたファン教授の事件は、韓国国民にはさぞショックだったろう。しかし、よくよく考えて見れば、「民族が優秀」ということと、その民族が属する個人がどうかということは全く別の話のはずだ。世の中には、運動神経の鈍い黒人もいれば、知的能力の低いユダヤ人もいる。韓国人の誰かがノーベル賞をとろうが、彼の地位が失墜しようがそれは個々の韓国人には、基本的に関係ないことではないか。※また、このES細胞研究の捏造は韓国人のみならず、多くの難病患者にもショックを与えたことは想像に難くない。これによってこの分野の研究が停滞しないことを切に願うし、ファン教授にもできれば再起の機会を与えるべきではないか。ファン教授の捏造の背景には過大な韓国社会の期待と重圧があったとみるのは早計だろうか。
2006年01月13日
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もう日記に書くのもバカらしくなった成人式の話題である。かっては晴れ着の女性の写真を風物詩として載せるだけのヒマネタだったのに、いつからだろうか。この時期になると「荒れる成人式」というのがニュースの定番になったのは…。そろそろ成人式の廃止ということも考えてよいのではないのだろうか。若者皆が同じような暮らしをしていた農村社会なら、一定年齢に達した青年をあつめて「今日からお前等は大人なんだよ。」と宣言することはそれなりの意味がある。たしか成人式発祥の地も、当時は農村であった蕨市であったと思う。※今では、同じ年の若者といっても境遇もライフスタイルも様々である。働いている者や結婚している者もいれば、親がかりの者もいる。成人の祝いなど、初給料の日、初出勤の日、初〇〇の日にそれぞれ祝えばよい。大人になったことを感じる瞬間だって人によって様々であろう。ちなみに私の場合は、初給料の日。必死にかくしてはいたが、半日顔がゆるみっぱなしだった。町の成人式の時は、まだ学生で記念品ほしさに一応出席したが、何の感激もなかった。※どうみても税金の無駄遣いとしか思えない成人式だが、廃止という話がでないのは、それによって困る人がいるからだろう。まず呉服業や貸衣装レンタル業などは、まっさきに困りそうだ。そしてまた、成人式を舞台に挨拶などの出番をつくりたい政治家なども。もしかしたら成人式というのは、こういう人達のためにあるのかもしれない。
2006年01月11日
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遠くに見える風景をみるとなぜかそこへ行きたくなる。それは遠くにかすむ峰であることもあるし、はるか沖に浮かぶ島であることもある。海ほたるは長いことそんな場所の一つであった。高層ビルなどから東京湾を望むと海ほたるは非常によく目につく。海の真中に蛍というだけあってちょうど昆虫がとまったような姿で浮かび、一方にだけ橋がのび、片側は海中トンネルとなっている。そんな海ほたるにこの連休中ようやく行く機会があった。※川崎から長い海中トンネルを抜けると突然未来都市のような島があらわれる。あるのはレストランとゲームセンター、それと土産物店などであるが、360度の海の展望はやはりよい。着いたのがちょうど日暮れ時だったので、遥か遠くの三浦半島に沈んでいく夕日を眺めることができた。黄金のオレンジから深紅へとめまぐるしく色を変えながら夕日が沈んでしまうと、海ほたるにはイルミネーションがともり光の饗宴になる。有名なデートスポットらしいが、寒いせいかカップルの姿はまばらだ。たぶん気候のよいときにはずっと混むのだろう。※東京湾に浮かぶ海ほたるであるが、所属は千葉県である。そのせいだろうか。土産の大漁揚げというのは、せっかくの未来都市の雰囲気をそこなっているように思えてならない。海ほたるのイメージは絶対に千葉より神奈川である。千葉より神奈川といえば、東京湾横断道路ができてから千葉から神奈川という流れがその逆よりも多くなっているという。打撃をうけたのは木更津市でそごうがつぶれたのも横断道路が原因であるという。
2006年01月10日
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今年は厳冬で雪害も問題になっているという。日本海側は世界でも有数の豪雪地帯で大雪などは昔からあり、人々は雪と共存してきた。それなのになぜその地域で雪害が問題となるのだろうか。それは家族のあり方が変わってきたからだ。かっての三世代同居から老人だけの世帯に変わるにつれ、雪降ろしも高齢者がやらなければならなくなり、それを怠れば家が雪の重みでつぶれたりする。そこで地域によっては自衛隊に雪降ろしを要請したところもあるという。※雪もさることながら、どうも背景には高齢化の問題があるのではないか。かっては高齢者と同居していた家族が担ってきた役割をだれがどう負担していくのか。雪降ろしに限らず、これがこれからの大問題であろう。それを考えずに、やたらと小さな政府を主張するのは無責任である。高齢者が一人あるいは夫婦だけで暮らすのなら、自衛隊員の雪降ろしではないが、どうしても公的な負担というものがでてくる。高齢者は自宅で最期を迎えるのが良いとか、在宅で過ごすのが一番幸福だとかいう人も多いが、こういった雪降ろしが必要になるような地域では、高齢者が集団で生活する施設のようなものももっと必要なのではないのだろうか。※※病院での赤ちゃん誘拐事件では、赤ちゃんが無事戻り、最悪の結果は回避された。病院というと一見セキュリティー管理がしっかりなされているように思われるが、意外と外部との出入りは自由である。お見舞いや急変の際の家族のかけつけなどもあるので、ある程度はやむをえないが、受付で入院患者の名前だけを言えばすぐに通してもらえるというのも無用心な気もする。犯罪は別にしても、入院中さして親しくもない人にはお見舞いに来てほしくないという人は多いのではないか。患者ごとに暗証番号を決めて、その番号を知らなければ受付を通さないといったやり方も考えられるのではないか。そうすればあらかじめ家族から暗証番号を聞いた人しか病院に入れないわけである。
2006年01月09日
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最近あふれはじめたシンガンスとかいう工作員の情報…これってはたしてニュースといえるのだろうか。5人の被害者が帰国して3年以上にもなるのに、なぜいまさらのシンガンス。あの拉致の状況でシンガンスの顔を認識していたというのも変なら、当時だって50歳を超えていたシンガンスが拉致の実行をしていたというのも変。はっきりいってこれは一種の世論操作ではないのだろうか。※特定の工作員を前面にだすことで、拉致事件は北朝鮮ではなく一部分子の妄動にすぎなかったという印象が濃厚になる。そして、日本政府は今月の日朝協議でシンガンスとかいう工作員の身柄引き渡しを要求する。もし北朝鮮がこれに応じれば、日本政府は必ずその見返りを行なうこととなる。その見返りは何だろうか。国交締結(プラス巨額経済支援)だろうか、それとも当座の食糧援助だろうか。シンガンスが日本に来るとする。そこで拉致事件は進展するだろうか。答は否である。シンガンスが素直に被害者の所在や状況をいうとはとても思えない。仮に言ったとしても、それが北朝鮮のことである限り、ウラをとるのは不可能である。拉致被害者達は優遇され幸せに暮らしていた。その後こうこうこういう状況で事故や病気で亡くなった。墓も流失して今はない。こんな供述を得るのがせいぜいである。結局後に残るのは「見返り」だけ。こうなることを北朝鮮は望んでいる。日本の中にもこれを望んでいる人もいる。※ふと昨年からの状況を思い出してみる。北朝鮮は、日本を罵倒しながらも、米朝直接協議には強いこだわりをみせていた。どうも日中国交締結のときと同様、米国と国交を結べば、日本はバスに遅れるなとばかりくいついてくると思っていたのだろう。ところがドル紙幣偽造が問題にされるに至り、米国の態度は硬化した。日朝国交締結、巨額経済支援という目標を達成するために米朝国交締結という迂回路は使えなくなってしまったのである。そしてまた対北朝鮮強硬派の西村議員の逮捕。弁護士法違反という形式犯での逮捕には、やはり政治的背景を感じてしまう。日朝国交締結交渉を進展させたり、北朝鮮に見返りを与えるために、あらかじめ反対しそうな強硬派をみせしめとして逮捕し、口をふさいだとみるのは考えすぎなのだろうか。※北朝鮮から帰国した5人のことを考えてみる。彼らはもちろん被害者であり平穏な生活が保障されるべきだ。ただ、そうしたことと被害者としての証言は別問題である。いったい北朝鮮でどういう生活をしていたのか、何をしていたのか、他の被害者について何を知っていたのか。こうしたことについての、彼らの肉声は実はほとんど聞こえてきていない。マスコミもマスコミである。5人の帰国直後に、さかんに北朝鮮で優遇され幸せに暮らしていたかのような大報道をしていたが、なぜそうした報道についての検証をしないのだろうか。北朝鮮の生活がよかったのなら、被害者の一人が中国での家族再会を拒んだ理由は何だったのだろうか。本当に被害者の何人かは実行犯がシンガンスだと証言しているのだろうか。他のことはしゃべっていないのか。そのあたりも気になるところである。
2006年01月08日
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「国家の品格」という本が売れているらしい。書店で立ち読みした限りでは、あたりまえのことをあたりまえにいっているというだけで、特段買いたいという気も起こらない。人を殺してはならないということは理屈ではない。そりゃそうだろう。卑怯を憎む心を教えるべきだ。異議なし。まあ、こういう本は2~3日でさっと読んで後はBOOKオフに直行だろう。※それにまた、この著者があちこちで書いていることだが、どうしても賛成しかねる部分もある。例の国語は重要であるから国語教育に力をそそぐべきで、初等教育からの英語は必要ないというくだりである。国語が重要だから英語は必要ないという議論は、水が重要だからコーヒーはいらないというのと同じで、とんでもない愚論だと思う。同じ言葉といっても、母国語の国語と外国語の英語とでは、学校で教える意味も方法もまるで違う。母国語は日常生活の中で五感を使って習得するもので、学校の授業はその補助的な意味しかない。古典は別として、現代国語の授業など大幅に削ってもよいとさえ思っている。無毒化された文学作品の抜き出しや感想文の強制などは、読書嫌いの子供を量産しているとしか思えないし、多くの時間を使って教える現代語文法などは、なぜ教えるのか全く趣旨不明である。国語力向上のためには、現代国語の授業時間を増やすよりも、図書室を充実させ、作文指導を行なって、読む楽しさ、書く楽しさを存分に教えてゆけばよいのではないか。※これにたいして英語は違う。基本的に学校でしか教えることができないし、数学などと違って先天的な能力による要因もそれほど大きくない。理解の遅い子供にも、それなりに楽しく勉強させることのできるありがたい教科が英語である。初等教育での英語が効果がないからやるなというのならわかる。しかし、国語が重要だからやるなという議論はどうにも理解に苦しむ。英語に関しては、初等教育のみならず、中等教育でも、もっともっと時間をかけて教えるべきではないかと思っている。※そしてまたこの著者も含めてであるが、英語教育不要論を唱える論者には、どこかで選民思想、愚民思想をもっている人が多いのではないか。日本人すべてに英語が不要だなどという人はまずいない。結論が分かれるのは、一定以下の層にも英語が必要かどうかということである。フィリピンで家政婦が出稼ぎに行くように、英語ができれば海外で働くという道がひらける。人生選択が大きく広がるわけである。それだけではない。今後の国際競争を考えた場合、普通に英語が通じるということがその国の大きな強みになる。外国のビジネスマンが安心して床屋にも行けない、食堂にも入れないという国の空港や港がどうしてハブになれるのだろうか。そういう国の都市がどうして国際ビジネスの中心になれるのだろうか。これからは普通の人にこそ一定レベル以上の英語力が必要なのではないか。※初等教育における英語の導入だけではない。中等教育以上でも英語の時間数はもっと増やす必要もあるし、教師にも研鑽のための留学の機会がもっとあってもよい。公費で行くだけでなく、休職して私費で行く道も開かれれば、教師自身の英語力も大いに向上するのではないか。あのたいくつな現代国語の授業を増やしたり、愛国心教育を行なうことよりも、多くの子供や父母が望んでいるのは、豊かな情報に接し、広い視野と人生の可能性をきりひらくことを可能にする充実した英語教育である。
2006年01月07日
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毎日新聞の報道によると、政府で検討されている「公務員リストラ指針」の中に、「上司への暴言」が免職事由としてかかげられているという。こうなれば、気に入らない職員をくびにするなどいとも簡単になる。部下をよびつけ、それこそ暴言をはいて挑発し、言い返した言葉を「暴言」として免職の理由にすればよいのだから。光景としては、吉良が浅野を挑発するあの忠臣蔵の場面を想像すればよい。刃物をだせばさすがに今だって即免職だろうが、一言いいかえすだけでも、これを立派な免職事由としてお墨付きを与えるのがこの指針である。公務員でこれがはじまったら、民間にもこの手法はひろまっていく。※公務員が簡単に免職されるようになったからといって、税金が安くなるわけも、民間の被用者の待遇がよくなるわけではない。より一層簡単に解雇できる社会、一握りの「勝ち組」以外にとっては明日の生活すら予測できない社会がくるだけである。「暴言」が解雇事由になるようになったら、それこそ上司との酒の席など恐ろしくてでれたものではないし、会社に気にいられない社員(私のような?)にとっては、それこそ忍の一字の生活になる。※あの高度成長期にあれほど華々しかった組合はいま何をしているのだろうか。戦前には、貧しい家の秀才には大学進学は難しく、教育を受けたければ師範学校や国鉄の学校に行くしか途はなかった。かってはそんな中から組合活動の指導者もでてきていたようだが、そんな時代が過ぎ、組合もすっかり沈静化してしまった。本当は、リストラや失業が社会問題となるようなときこそ、労働者の権利を守る団体の活動が必要なのだが。
2006年01月07日
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最近の小学校では「学級崩壊」が問題になっているらしい。子供が教師のいうことを聞かず授業がなりたたないらしい。なぜこんなことになってのか。理由はいろいろあろうが、中学受験の存在というものが大きいのではないか。かってはクラスをリードしていたような層が、中学受験の準備に没頭し、小学校の授業を相手にしなくなる。親子ともども教師をバカにして、そうした雰囲気は他の子供にも伝染していく。その意味で小学校の学級崩壊と公立中学の地位低下は同じ事象の裏表という感がする。※いったいなぜ公立中学がこんなに魅力のないものになってしまったのだろうか。非行や少年犯罪ももちろん脅威である。特に女児を持つ親にとっては地元の公立中学の荒廃は深刻であろう。ただ問題はこれだけではない。クラブ活動の強制と内申書の存在も、公立中学が敬遠される大きな理由になっているのではないか。非行防止という理由で平日遅くまでの部活動を行なっている中学が多いが、非行防止と部活は本来別のものである。また、集団活動やスポーツの苦手な子供もいるが、こうした子供達は往々にして、どの部活にも定着できない部活難民になりがちである。そしてまた内申書…これは万能型の優等生には非常に有利な制度だが、勉強ができてもスポーツや音楽が苦手といった子供には決定的に不利になる。さらに教師との相性が悪いと試験の成績よりもワンランク低い評価がつくこともめずらしくない。そうした子供にとって、進学とか学力の向上を考えると公立中学にいくことは躊躇せざるをえない。※一部の公立高校では内申書にかかわらず試験の成績だけで合否を決める方向にむかっているところもあるというが、今頃ようやくという思いである。こうした試みがひろがり、小学校は学校中心に生活を楽しみ、公立中学で本腰をいれた勉強をしても十分にまにあうようになれば、学級崩壊なんていうことも自ずとなくなっていくのではないのだろうか。
2006年01月06日
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このところたて続けに拉致事件実行犯が特定されたというニュースがでてきている。なぜ今頃、こんな話がでてくるのだろうか。うさんくさいとは思わないのだろうか。どうもこのニュース、シンガンスとかいう特定の工作員に責任を押し付けることによって拉致事件を終息させようとする動きの一環のように思えてならない。想像をたくましくすれば、彼あるいは彼の替え玉の引渡しによって、拉致事件を「解決」しようとするのではないか。シンガンスとされる男が日本に引き渡され、連日彼の供述が大報道される事態を考えてみればよい。被害者達は北朝鮮で優遇されていたといった類の報道が再びなされ、これとあわせて行方不明の被害者はたしかに事故死だったとか病死だったとかといった「供述」もでてくる。嘘も百回言えば本当になるというが、こんな形での拉致事件終息をもくろんでいるなんて思うのは考えすぎなのだろうか。
2006年01月05日
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社会の劣化は確実にすすんでいる。かっての貧しさとは異質の何か荒涼とした貧困がひろがっており、子供のための就学援助金をくすねる親なんてのもその一例なのだろうか。政治や行政に目を転じれば、年金を払わない人を医療保険から排除する政策や、解雇をより自由にできるようにする法案も準備されている。弱者にやさしいどころか徹底的に弱者を排除する方向に動いているとしか思えない。年金保険料を払わないのは本人の怠慢なのだろうか。若者の就職難をみれば、保険料を払いたくても払えない者が大勢いることくらい想像がつくではないか。年金財政のために少子化を嘆くのなら、現に今いる若者が保険料を払えるようにする、つまり彼らが正業について将来の展望を開けるようにする方がよほど重要ではないか。保険料の問題ばかりではない。ニートやフリーターは本人の就労意識や親の過保護の問題なのだろうか。年間3万をこえる自殺者はメンタルヘルスの問題なのだろうか。そしてまた独身30代男性の激増はオタクの増加や人生観だけの問題なのだろうか。いずれも背景には就職難や失業、そしてそれによる経済格差の広がりがあるのは明らかである。あの人間の平等や連帯をかかげる社会主義が敗北してから、悪平等とか競争とかいう掛け声のもとに、この社会がどんどん住み難くなってきているように思えてならない。
2006年01月05日
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今朝の朝日新聞朝刊によると就学援助を受ける子供の数が過去最高になり、その比率は特に東京都のA区で高いという。全国数ある自治体の中でことさら一つの自治体だけをとりあげて記事にするのもどうかと思うが、この記事にはいろいろと考えさせられることが多い。、※特に、就学援助のお金を親が「別の目的」に使ってしまうのを防ぐために直接学校宛に振り込むようにするというくだりには、貧しい家の子供といっても、その貧しさの質がかなり変わって来ているのではないかという気もする。もしかしたらこの親達はけっしてお金がないわけではないのかもしれない。ただ子供のために使うつもりがないのだ。かっての感動物語にあるような貧しくても暖かい家庭ではなく、貧しく冷たい、ある意味では救いようもない状況というのが多くなっているのだろうか。※勝ち組、負け組という格差社会の中で、人の心は荒廃し、機会どころか、希望を持つこともできない大量の若者が生まれているのかもしれない。ニートとかフリーターとかいわれる若者の中には、豊かで過保護な家庭の中で甘えている若者もいるのかもしれないが、その逆に貧しい家庭で放置されてきた将来に何の展望ももてない若者もいるのではないか。子供や若者にとって不幸なのは、お金のないことではなく、希望のないことであろう。※※各新聞の多くは年頭の論説で少子化問題を扱っている。そうしたものの中には3500年には日本人はいなくなるといったヨタ話をとばしているのもあるが、ある時代の人口の増減傾向が1000年以上も続くという前提自体ナンセンスというものであろう。それをいうなら高度成長期などは何百年後には地球は太平洋の真ん中まで日本人で埋ってしまうという予測がでてきていなければおかしいのだが、誰もそんなことは言わなかった。たしかに人口減は相対的な国力減に結びつくが、人口大国イコール幸せ大国というわけではない。そんなことは中国やインドを見ればわかるではないか。少子化をやたらに問題視して出生率の上昇をはかるよりも、少子化を所与の条件ととらえたうえで、国民一人一人が幸せに暮らせる社会を目指した方がはるかによい。
2006年01月04日
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昭和30年代を舞台にしたドラマや映画にはたいていこんなシーンがでてくる。近所の人々がテレビのある家に集まり皆でテレビを観賞する。そして見ている番組といえばたいていはプロレス中継。濃密な近所付き合いも隔日の感があるが、なぜプロレスに老若男女が熱狂していたのかも今から考えると実に不思議だ。だいたい今のK1をおばあさんが好き好んでみるなんてちょっと考えられない。たしかに、あの頃のプロレスには日本人レスラーが悪役外人レスラーをやっつける場面を見せることで、敗戦による劣等感をはらす代償効果もあっただろう。ただ、それにしても、別にそれは格闘でなくてもよかったはずだ。30年代の人間は今と違って老いも若きも格闘好きだったのだろうか。いや、人間そのものが短期間のうちに変わるとは思えない。どうもかぎは世帯規模とテレビの数にあるのではないか。あの当時、老人は子や孫と同居するのが普通であったし、独身の若者もまた親と同居し、家事や家業を手伝っていた。そしてそんな世帯にテレビはあっても一台きりで、日常生活の娯楽の中で大きな位置を占めていた。結局、あの時代は老人も子供も夫婦も共通の番組を見ざるを得なかったのだ。※プロレスの時代が終わると、たぶんプロ野球がこうした「国民娯楽」の地位を継承した。紅白歌合戦の驚異的な視聴率だってこうした時代ゆえのものだったのだろう。ところが現在では、世帯規模が縮小し、テレビも一人一台となっている。皆が同じものを見るのではなく、個人個人が好きなものを選んで見る時代の到来である。プロ野球人気のかげりも紅白歌合戦の視聴率の低下も、ともに起こるべくして起こっているような気がしてならない。
2006年01月04日
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1月2日の夜にみる夢を初夢というらしい。なぜ初なのに1日ではなく2日なのかという疑問はあるが、昔からそうなっているのだから仕方ない。人に言うと笑われるかもしれないが…この初夢というのはけっこう気になる。いやな夢をみたらどうしようなんてね。もっとも高校生だった頃、重病になるなんていう超のつく不吉な初夢を見たことがあるし、初詣の神社で凶のおみくじをひいたこともある。どちらの場合も、その年、特に悪いこともなかった。※それにしても、初夢にかぎらず印象に残る夢をみることは年齢とともに少なくなってくるような気がする。夢そのものは毎日見るのだが、たいていは日常生活の延長のような夢で、起きてしばらくするとすぐに忘れてしまう。今朝もたぶん夢を見ていたはずなのだが、もう忘れてしまった。※※年末年始といえば、紅白歌合戦の視聴率が少し持ち直したそうだ。裏番組があんな格闘ばかりでは、そりゃあそうだろう。それにしても全国民が同じものを見るなんていう時代はとうに過ぎているのに、紅白の視聴率が何パーセントを超えなければならないなんていう発想自体ちょっと変ではないのだろうか。私も後半は紅白を見ていたが、新しい曲で知っているものはほとんどなかった。かってはその年や時代を反映する流行歌というものがあって、紅白というのは、そういえばこの1年こんな曲がはやったというように1年の世相を回顧する場だったのだが、どうもそのあたりが変わってきているようだ。
2006年01月03日
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拉致事件の実行犯が特定されたらしい…こんな記事が昨年末の読売、産経新聞の一面をかざっていた。拉致被害者の帰国から3年余。なぜこんな話が今頃でてくるのだろうか。つい想像してしまう。特定された拉致事件の実行犯は二人とも現在北朝鮮にいる。そしてまた今月末には日朝協議が行なわれる。いまさらながらのこんな発表は拉致事件幕引きへの布石なのではないのだろうか。つまり、日朝協議での実行犯引渡しについての合意をもって拉致事件は「解決した」ということにするわけである。もちろん指導層以外の自国民の生命などへとも思わない北朝鮮当局にとっては実行犯を日本に引き渡すなどなんでもないだろう。実行犯は日本に引き渡されても口を割らないような教育を施されているだろうし、場合によっては自決するかもしれない。もし、実行犯を日本に引き渡すことによって、都合の悪い情報が漏れそうなら、替え玉を引き渡してもよい。日本に引き渡された実行犯は、行方不明の被害者の行く末についても頑強に北朝鮮当局の発表のとおりの事実を主張する。そうした供述がくりかえし報道されるうちに、完全に拉致事件終息という雰囲気が醸成される。やがて、総理のもくろみどおりに在任中の日朝国交締結が行なわれ、日本からの巨額の経済支援が始まる。こんなことは杞憂であればよいのだが。血税でテロ国家の延命を支援するなど悪い冗談としか思えない。※また、元日早々にでた読売の一面トップ記事幼稚園の義務教育化も疑問一杯のニュースだ。幼稚園については、保育所とのすみわけが定着している上、昨今ではあえて幼稚園教育を避けて母親同士で自主保育を行なう動きもある。高校ならともかく幼稚園については、財政厳しいおり、巨額の税金を投入して義務教育化する必要などどうみてもあるとは思えない。
2006年01月02日
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あけましておめでとうございます。WEB日記もこの1月で4年になる。その間、ほぼ毎日書いていたわけだが、我ながらよく続いたなあと思う反面、日記なしの生活はもはや考えられないというのも実感である。何故か・・・それは読んでくださる人がいるから。別にアクセスが増えたから何か貰えるというわけではないのだが、もしあのアクセスがなかったら、きっととうにWEB日記をやめてしまっていただろう。何かを書いてそれを人に読んでいただける。ネット出現前には、ごく一部のマスコミにのっている人にしかできなかったことが、今では誰にでも可能になった。それまでは、あくまでも抽象的な概念でしかなかった「言論の自由」が、ネット媒体出現によって、はじめて実体化したわけである。※それだけにマスコミがやたらにネットを敵視するのもよくわかる。かっては「不特定多数への情報発信」という機能を自分達だけで独占し、マスコミが声をそろえていっていることはおかしいとたとえ思っても、そうした声が表面化することはなかった。だからこそマスコミが「○○がはやっている」といえば、うだと思うし、「△△は◎◎だ」と書けばそんなものだと思ってきた。もし、ネットがなければ「日韓ワールドカップ共催で韓国に親しみを持つ人が急増した」ということだって、世の常識になっていただろう。※これからもあの人権擁護法案のようなネット規制の動きはでてくるかもしれないが、一度手にした自分の意見を書いて発信していく楽しさは決して手放したくはない。とはいえ、私にとっては皆様からのアクセス、反響が書いていく上での元気の素。今年もどうかよろしくお願いいたします。
2006年01月01日
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