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映画「千と千尋の神隠し」に名前を奪うことによって心を支配するという話がある。名前には古来より神秘的な力があり、名前を言い当てられた鬼が消えてしまうなど、名前のもつ不思議な力をモチーフにした物語はけっこう多い。さて、名前を奪って心を支配するというと…何を連想するだろうか。私などはカルト宗教のホーリーネームをすぐに思い浮かべる。何度も書いたようにマインドコントロールというのは納得できないのだが(論理的に了解できない)、それでも、カルト宗教の信者の中には、何か不思議な力に操られていたとしか思えないケースもある。※昨日死刑を求刑されたヴァジラティッサこと中川智正などはその最たる例である。入信前は友人も多く、ボランティア活動を行っていたという。オタクタイプの多いオウム信者の中では、彼はちょっとタイプが違う。道場に行った理由も超能力獲得が目当てではなく、単なるひやかしであった。そんな彼が、あっという間に入信し、誰よりも深く犯罪に関与していった。まるで本来の「中川智正」という名を奪われ,ヴァジラティッサとなったことによって、心を支配され、幾多の殺人に手をそめるようになったとしか思えない変貌ぶりである。※公判中の彼の言葉で犯行の動機にふれた部分も理解を超えている。心臓から声がしたとか、体がひとりでに飛び跳ねとまらなくなったという類の話である。オウム公判ではマインドコントロールばかりが議論にのぼるが、何人かの被告人は、彼も含め、精神を病んでいた可能性があるのではないのだろうか。幻聴とか作為体験というと、マインドコントロール云々よりも、まずそちらが思い浮かぶ。中川被告については、精神鑑定は行われていない。※あのオウム報道はなやかなりし頃、中川被告の母親もよくテレビにでていた。彼女は、早い時期から「オウム真理教被害者の会」で熱心に活動していたという。むろん息子を教団から取り戻したい一心である。そして、彼が逮捕されたとき、母親はようやく息子がもどってきたと喜んだらしい。その後すぐに彼が手をそめた犯罪の凄まじさに圧倒されることになるのだが…。「麻原は一体あの子にどんな恨みがあって、あれほどの犯罪にかかわらせたのでしょう。」母親は怒りを麻原に向けると共に、息子についてはこんなふうに語っていた。「あれだけのことをやれば、もう二度と出てくることはないにしても、心だけはもとどおりにしてあげたい。私の産んだ子なのだから。」親であることはいつだって哀しい。aisya96@lycos.jp
2003年01月31日
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かっては映画もテレビ番組も一期一会、一回しかみないのが普通であった。もちろん「名作」とよばれる映画は昔からこまかな細部にも凝っているのだが、それでもその細部を確かめるため何度も同じ場面を見る観客などは想定する必要がなかった。また、番組や映画の感想や意見も家族や周囲の気の合う人とだけ交わすのが普通であった。そんな時代に比べると、今では気に入ったものなら何度でもビデオで繰り返して見ることができるし、感想や疑問があればネットを使って見ず知らずの人同士でも意見を交換することができる。なぜ、こんな話をするのかというと、こうした変化がヒットする映画や番組のタイプを変えているのではないかと思うからである。例えばかって新世紀エヴァンゲリオンというアニメがあった。世紀末的なトンでも本の知識をちりばめた思わせぶりなプロットと説明されない部分の大きなストーリーはかってのテレビアニメの常識を超えていた。SFであれば、例えパニックを扱うにしても、どうしてそうなったかの背景の説明が不可欠である。ところがエヴァンゲリオンでは、なぜか使徒と称する天使の名前を有する「生物」が襲来し、撃退されるのだが、その襲撃の理由も正体も最後まで不明のままである。このアニメは視聴率的にはぱっとしないままに終了したが、その後、エヴァブームが起こったのは周知のとおりである。ブームを担ったのは子どもというよりも、むしろパソコンに向かう若者達であった。謎のままほうりだされた部分を、番組の中にちりばめられたトンでも本的知識を使って様々に読み解く試みが幾多のHPで行われた。もし、ビデオの普及やネットという双方向の媒体がなければあのエヴァブームも起こらなかったのではないか。そうした意味で、ビデオとパソコンは、映画やテレビ番組の新たな楽しみ方の地平を開発したといえる。そして、あの国民的ヒットとなったアニメ「千と千尋」にも、もしかしたらこんな要素があるのかもしれない。たしかに物語としては、ラピュタなどの方がはるかに完成度が高い。…というよりも「千と千尋」の方は物語としては穴だらけなのである。アリスのような夢オチであれば、すべての不思議が夢ということで説明がつく。ところが「千と千尋」の世界は夢ではないのに、説明不足のところがあまりに大きい。ハクが弟子入りした理由はなんなのか、千と別れた後、彼はどうなるのか、リンの正体や本当の名前は何なのか、坊はユバーバの孫なのか、母親はどうしたのか等々。「千と千尋」ももしかしたら、エヴァのようにビデオで何回も見て、自分なりの解釈をファン同士で交換することを念頭において作られた映画なのかもしれない。「千と千尋」のファンサイトがエヴァのときほど群生していないのは、単にファン層の属性の違いというものであろう。aisya96@lycos.jp
2003年01月30日
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もうすぐ2月。そして2月は我が誕生月。もしかしたら年をとるって悪いことばかりではないのかもしれない。年齢を重ねた良さは若い奴には決してまねできないものだから。ああ、そうはいってもカッコよく年をとるのは本当に難しい…。そんな自信は全然ないからネットの中ではいつも年齢不祥。…と書いたけどこのセリフ実はパクリである。Korean Popsの歌手でチェ・ソンスという人がいる。功なり名とげた歌手でありながら50歳近く(もしかしたら過ぎていたかも)なってアメリカに留学したのも立派だと思うが、帰国した後もいい曲を沢山出している。ワールドカップのときには確か韓国の国歌も歌っていた。そんなチェ・ソンスの最近の曲の一つにwhisky on the rockというのがある。歌詞の大意は大体次のようである。その日は誕生日だったよ。過ぎてみれば年をとるのは悪いことばかりではない。年齢を重ねた良さは若い奴には決してまねできないものだが、カッコよく年をとるのは本当に難しい。雨の降る夕方、カフェにいた。冬の初めのセーター。窓辺には黒い泥棒ネコ。耐えがたいひややかな夜の孤独。そんなふうにして歳月は流れていった。美しいことも楽しいことも単なる移ろいやすい欲望。たった一人で生きて行くのはおそろしいこと。氷につめた夢が徐々にとけていくよ。whisky on the rock誕生日にはこんな曲をきいていたい。是非日本でも紹介してほしい曲である。aisya96@lycos.jp
2003年01月29日
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オウム監察処分が3年延長されたという。考えてみると変な話だ。あの破防法のときは、教団には具体的危険性がないからといって破防法の適用を見送った国家が、今度は危険性があるからという理由で監察処分を続ける。つまり、国家が同じ団体に対して、一方で危険性はないといい、一方で危険だというのである。もちろん破防法と監察処分とでは目的が違うから、その危険の性格及び程度は異なるという議論はあるであろう。それでは一体破防法が適用される「危険」と監察処分が適用される「危険」とはどこがどう違うのだろう。このあたりを整理した議論はあまりない。※そして不思議なことに、あの頃、破防法の適用に反対していた人達は、このオウムに対する監察処分にはどうも賛成しているらしい。オウムは理想的な形態で崩壊しつつあるとか、破防法の適用はかえってオウムの結束を強め教団存続に力をかす…こんなことをいっていた人達にぜひ聞いてみたい。なぜ、破防法なら駄目だが監察処分ならいいのか。※私に言わせるとあの時期に破防法の適用に反対した評論家達が何の指弾も受けていないのが不思議である。オウムが生き残ったのはまさに彼らのせいではないのだろうか。破防法の適用を見送ったということは、国家が任意団体としてのオウム真理教の存続を認めたということである。つまり、国家を転覆させたかもしれない前代未聞のテロ集団の存続を認め、そういう集団と共存する途を国家として選んだわけである。いくら監察処分をしたところでそれは監察処分でしかなく、監察処分では団体を解散させることはできない。※結局このオウムに対する監察処分というのは、破防法適用を見送り教団の存続を認めてしまった国家が、社会不安を静めるために何とも中途半端なやり方でお茶を濁しているとしか思えないのである。また、監察処分継続の理由に「麻原の影響力」をあげているが、これもよく考えると変な話だ。身柄を拘束され、不規則発言を繰り返すだけの今の麻原が一体どんな具体的方法で影響力を行使できるというのだろうか。こんな苦し紛れとしか思えない理屈で観察処分をつづけざるを得ないことも、破防法適用を見送ったがゆえであろう。aisya96@lycos.jp
2003年01月27日
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元日から変なものを読んでいやな気分になったということは1月2日の日記に書いた。変なものとはもちろんこの問題の朝日の社説である。※だいたいこの新聞、女子中学生や女子高校生の名前を使って声欄にいかれた投書を載せることも多いのだが、ときどき堂々とトンチンカンな社説を掲載してびっくりさせることがある。ま、過去の例でいえば、いじめ問題を扱った「いじめられている君たちへ」とか酒鬼薔薇事件を扱った「○○○君(被害児童の名)への祈り」などがなかなかの傑作であった。いずれもコンセプトは加害者擁護あるいは加害者への非難の棚上げである。マインドコントロールとか洗脳とかには正直いって懐疑的なのであるが、この新聞の記者にかぎっては、変なものにマインドコントロールか洗脳されているとしか思えない…。※この元日の社説もその類である。変なところを挙げてみよう。まず、「日朝交渉を進めた外交官を「国賊」と呼んだり…」のところ。彼、すなわち田中審議官が拉致被害者の送還を熱心に主張していたことはつとに有名である。こうした人権感覚皆無としか思えない人物がなお高官としてとどまっていることに多くの人は怪訝な感じを抱いているのではないのだろうか。彼を国賊と呼ぶのがけしからんというのであれば、朝日はこの人物を擁護するということなのかもしれないが、どうでもいいところではやたらと「人権、人権」と叫ぶのに肝心なところで人権無視の人物を擁護するというのもおかしな話である。第二に「日本による植民地時代の蛮行を問う声は「拉致問題と相殺するな」の一言で封じ込めようとする。」というところ。植民地時代の蛮行を問うのはよいが、拉致問題と相殺する議論がおかしいことはあたりまえではないか。阿片戦争が非道な戦争であったというのは歴史的に確定した評価であっても、現代の中国人がイギリスに麻薬をもちこんでいいということにはならない。第三に「「それなら日本だって」と核武装論をぶったりする政治家」を不健康なナショナリズムと結び付けているらしいところ。核武装論の是非は別にして、逆にこの期に及んでも核武装論が真面目な議論のテーマにすらならないことがかえって不健康なのではないのだろうか。公然と日本を敵視し、核を保有している国がすぐそこにある。それでも核武装について議論することそのものをタブー視しつづけるという状況がいつまでつづくのであろうか。※この社説、後半になるとさらにひどくなってハチャメチャになる。映画「千と千尋の神隠し」はいろいろな解釈ができ、多神教的メッセージと読むことも一つの見方であろう。ただ、「厄介者を力や憎悪だけで押さえ込む」のではなく、「…ひとり果敢に、しかし優しく彼らと向き合う。そうすることで、逆に彼らの弱さや寂しさを引き出す。」というのは、具体的にどうやるのだろうか。できれば朝日の記者に実演してみせてほしいくらいである。どうだろうか、朝日の編集部員あたりが一人かの地にのりこんで、優しく彼らと向き合い、そうすることで、逆に彼らの弱さや寂しさを引き出すなんてのは。なかなかの見物だと思うのだが。というわけで、最後の「厳しい国際環境はしっかりと見据える。同時に、複眼的な冷静さと柔軟さを忘れない。」というのも、趣旨不明である。敷衍して読めば落としどころを探れ…というようにも確かに読めるのだが、そうではないというのなら、一体どういう趣旨かぜひ説明してほしいところである。aisya96@lycos.jp
2003年01月26日
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昔、祖母から聞いた鞠つき唱にこんなのがあった。山寺のおしょうさんは鞠はつきたし鞠はなし赤いこんぶくろにネコつめてポンとけりゃニャンニャンとけりゃポン…というのである。祖母は松本市近くの村の出身だったのだが、さて、この唱はどのくらい分布していたのだろうか。今、テレビで放映したり、学校で教えたりしたら、それこそ残酷だなんて非難されかねない内容である。※由来を調べてみると、わらべ唱にはけっこう辛い現実を反映したものがあるらしい。よく知られている「はないちもんめ」は、遊女となる娘を買いにきた人買商人と村人とのやりとりを唱にしたものだという。その説によると、「はな」というのは遊女となる娘で、「かってうれしい」は「買ってうれしい」、そして「まけてくやしい」は「(代金を)まけてくやしい」であるという。そうなると、「あの子がほしい…あの子じゃ分からん…」というあたりも、村人と商人とのやりとりを再現して、子ども達が遊んだものとみることもできる。さて真偽のほどはどうなのであろうか。※また、わらべ唱ではないが、有名な童謡「赤いくつ」も人買いをテーマにした歌だという話もある。開化期には、金や美術品が海外に流出していっただけでなく、貧しい日本の少女達も東洋趣味を売りにする異国の遊女屋に売られて行ったのだろうか。暗い短調の旋律や「いじんさん」という今では聞きなれない言葉とともにこの歌にも、なにか想像力をかきたてるところがある。ただ、この歌については、やはり真相を調べている人がいて、それによると、この歌のモチーフとなったのは作詞者の母親が昔知っていた少女で、その少女は私生児だったので日本にきていた宣教師の養女になったのだという。よかった。誰からも忘れられたまま異国で不遇な生を終えたなんていうのではあまりにも悲しい。(参照)http://www3.ocn.ne.jp/~mahoroba/akaikutu.htm※※カウントが11000を超えた。いつも来てくださる方、本当にありがとう。また、初めて来てくださった方。これからもよろしく。(ゲストブックをようやく開きました。メモともどもこちらの方にもどうぞ…)
2003年01月25日
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小学校の頃、三つならんでいる女子トイレの一番奥には誰も入ろうとしなかった。こんな話があったからである。以前、ある子供がそこに入ったら髪の毛が痛い。おどろいて上をみたら天井から手のようなものが出てきていて髪の毛をひっぱっていたのだという。また、水飲み場には誰もつかわない水道というのもあった。誰かが蛇口の中にミミズをつっこんでそのミミズがまだ入っているのだという。どこの学校にもこんな話は一つや二つはあっただろう。※そんな話を子供達は半信半疑で語り合った。いや、恐がったのは子供だけではない。先生をまきこんだ話もあった。かって先生には宿直という義務があり、これがけっこう恐いものだったらしい。ある先生からきいた話である。初めて宿直することになったとき、さんざん他の先生から脅されたという。曰く。夜になると階段の段が増えている。どこどこではでるらしい…。そんな話を聞いた後、懐中電灯を持って一人で見まわっていると、理科室の前で「先生」って呼ぶ声がしたという。そして懐中電灯で照らすと誰もいない理科室の壁が赤くなっていたという。先生が嘘をいっているのでなければ、空耳、見間違いの類であろう。ただ、この先生は、幽霊など信じてなさそうな人気のある理科の専任教師だったので、余計にもっともらしかった。※中学校では、トイレにまつわる話はなかったが、校門の柱に血が残っているという話があった。以前、モーターバイクに乗っていた生徒が校門の柱に激突して死んだ事故があり、その時の血が未だに残っているのだという。血の色などはすぐに変色してしまうので、赤い色など残っているわけもないのだが、校門を見るたびに赤いしみを目で探してみたりもした。※同じ学校でも、高校、大学になると、こんな話はさっぱりきかなくなった。「学校の怪談」なんてのがブームになったこともあるが、やはり小学校とか中学校とかいうのは、想像力の強い年代の子供が集まっているという意味で、いろいろな物語が作られやすい場なのであろう。※※(閑話休題)スポーツは、自分でやるのはもちろん、見るのも全く興味ないのだが、フィギュアスケートだけは別である。何か人間の美しさとかそういったものに素直に感動してしまう。特に、本日放映されたロシア大会では、プルシェンコ選手の華麗さにすっかり感激して、幸せな気分になった。すらりとしたスタイルと去年の五輪の時と変わらぬ金髪のさらさらヘアは何度みてもいい。嗚呼、美しきかな、人間…それにしても、どうして同じ人間なのに手足の長さってこんなにちがうのかなあ。aisya96@lycos.jp
2003年01月24日
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子供の頃、こんな話を聞いた。夕方にかくれんぼや鬼ごっこをしていると神隠しにあうからやらない方がいい。たしかに空一面が朱にそまるみごとな夕焼けなんかだと、このまま吸い込まれて消えてしまうような気がして、神隠しなんていう話も妙に実感があって恐かった。夕方とか夜にはかくれんぼや鬼ごっこをするのを避けるというのは、他の人からも聞いたことがあり、もしかしたらけっこう一般的なのかもしれない。※かくれんぼが異界に入るきっかけとなる話としては、洋服ダンスに隠れたところ、その奥が冬ばかりの不思議な世界につながっていたという「ナルニア国物語」が有名である。その外にも、題名は忘れたのであるが、田舎の土蔵で長持ちをみつけた子供がその中に隠れたところ次々と消えてしまうという話を読んだことがあり、これも印象に残っている。また、逆に、かくれんぼによって、異界から何かをよびだしてしまうという話もある。外国の話であるが、ある老婦人のところに、親戚の子供達が大勢集まったという。子供達の多くは初対面であったが、たちまちうちとけてかくれんぼ遊びをやろうということになる。老婦人の家は広かったのである。子供達は、ただのかくれんぼではつまらないということで、ちょっと変わったルールのかくれんぼを始める。かくれるのは最初は一人だけで他の子供達がいっせいにその子を探す。見つけた子供は無言でその子と一緒に、あるいはすぐそばに隠れる。次々と隠れる子供が増えていき、最後まで鬼で残った子供が次は最初に隠れる役をやるというルールである。そんな遊びをしていた子供が屋敷の階段下のくらがりで隠れている少女を見つける。その子供はきっと彼女が最初の一人だと思って少女の隣りに隠れ、他の子供が見つけに来るのを待っていた。ところがいつまで待っても誰も来ない。あきらめて出て行くと他の子供達は、とっくにおやつに集まっており、何をしていたのだと聞く。一緒に隠れていたと思っていた少女は、そこにはいないはずの存在だったのである。ショッキングな場面は何もないのだけれども、この話はけっこう恐いと思った。※そういえばかくれんぼをやっていたときって、なかなか見つからない子供がいると○○ちゃんは本当にいなくなったんじゃないかと心配になったり、逆に自分がなかなかみつからないとこのままはぐれたんじゃないかと不安になったりと、そんなことがけっこうあったように思う。aisya96@lycos.jp
2003年01月23日
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テニスルックスタイルで通行人に声をかけ、霊がとりついていると脅したあげくに、除霊と称して巨額の金を脅し取っていたグループが摘発されたという。普通、テニスルックの若者に警戒感を抱く人はあまりいない。声をかけられたら、つい軽い気持ちで応じてしまう人も多いだろう。ましてや、好みのタイプの異性なら悪い気はしない。ところが、あにはからんや、テニスルックの若者の口からでるのは、霊だの祟りだのといったおどろおどろしい話ばかりだったのである。※霊だのなんのっていうと、なぜそんな話にひっかかるのかと怪訝に思う人もいるかもしれない。でも、昨今のテレビのオカルト番組の盛況振りをみると、それも無理もないという気がする。なにしろ霊にとりつかれ、苦しんでいる人を霊能者と称する人が除霊し、それをカメラで写す…といった類の番組がけっこう多いのである。平安時代の霊がなぜか現代語を解したり、一見普通の主婦っぽい除霊者の素性の紹介がされないなど、疑問も多々あるのだが、とにかく昨今の霊は、見ず知らず(平安時代の霊ならそりゃそうだろうが)の全くうらみのない人にも祟るものらしい。あの有名な六条御息所とかお岩や磯良の霊だって恋敵や自分を殺したり捨てたりした男にしか祟らなかったのに、これじゃ通り魔と同じでかえって恐ろしい。※そんなわけだから、見知らぬ若者からいきなり霊がついているなんていわれたら、そりゃ恐い。恐がっているところに、私には霊能力があって除霊してさしあげる…なんていったら、わらをもつかむ心境で信じてしまうかもしれない。なにしろテレビにでてくる普通そうなおばさんだって霊能力者なのだから。私などは、正直いってひっかかった可能性大である。それを考えると…テニスルックの若者に出会わなくて本当によかった。aisya96@lycos.jp
2003年01月22日
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不況といわれて10年以上がたつが、いっこうに景気回復のきざしはみえない。もはや不況ではなく衰退ではないかという声すら聞こえてくる。決して世界全体が悪いわけではない。ここ5年間に韓国はIMF通貨危機を乗り越えて今や経済は絶好調である。また、欧米でも、ここ10年の間に急速に成長をとげた国もある。かっては「ヨーロッパの病人」といわれていたが、今や「ケルトの虎」といわれるほどになったアイルランドなどはその一例であろう。※それなのに日本では明るい材料すらみえず、自殺者3万人、行方不明者9万人という惨状である。新聞には日替わりのように有名企業の経営危機のニュースが載る。全くタレントならずとも「なんでやねん」といいたくなる。本書は、こうした日本の経済危機について作者なりの分析を加えたものである。それによると、情報革命の時代を迎えて、経済競争の中で有利な条件を備えた企業の条件そのものが変わってきたことがその原因ではないかという。つまり、従来は大企業が有利だったものが、現在では、小回りのきき、冒険のできる小企業のよさを生かした企業体が競争に有利になったというのである。それなのに、日本では系列に組み込まれたもの以外の元気な中小企業は育っていない。いや、それどころか大銀行同士の合併など、ますます時代と逆行する方向に向っているのではないか。※急速に成長する中国に対して中国と同じものを作っていては決してものは売れない。公務の無駄を省き、財政支出を削ったところで経済全体に与える影響は微々たるものでしかない。政府が何か施策を行なうのではなく、個々の民間企業が元気がでない限り、経済は回復しない。…とおっしゃることはいちいちもっともである。※そして問題の処方箋であるが、作者は二つのことを提案する。一つは政府は余計なことをしないこと。それはそうだろう。首相もずっと「改革」「改革」と連呼するが、肝心の改革の中味はあまりいわない。中味をいわない「改革」なんて無内容なスローガンにしかすぎない。大した知恵もないのなら、余計なことはしない方がよい。二つめは大学改革である。今後は、大組織を無難に生きぬく人材ではなく、自ら企業を起こしていくような人材を提供していくことが大学の役目であるという。これは難しいかもしれない。大学だけではなく、家庭も含めたそれ以前からの教育や価値観にも関わってくるからである。※ただ、私にいわせると、大学教育以外に大きな問題がもう一つあるように思う。英語の壁である。アイルランドのある企業で、米国の航空会社の予約を仲介することで急成長した会社があるという。米国との時差を強みにして顧客を集めているというが、こんなビジネスも英語力あってのものではないか。世界規模の情報化の潮流といっても、ツールとしての英語力が不足していると、どうしてもそれに乗りきれないところがあるのではないのだろうか。aisya96@lycos.jp
2003年01月21日
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日記をつけて1年以上になる。正直いって、日記を書いて1年以上続いたなんていうのは初めてである。もっとも、このWEB日記、今までの日記とはかなり違う。箪笥のすみに隠しておくような日記は自分以外の人が読むことを前提にしていない。逆にこのWEB日記は多くの人、それも知らない人に読んでほしくて書いているようなところがある。そういう意味で、これって日記というよりも、自費出版に近いのではないか。自費出版と違うのは、金を出して読むほどのことは全く書いていないので(^^;)、気軽に立ち止まっていただければ、それだけで感謝といったところか。※うう…それにしても、人に読んでもらえることを書くのって難しい。著名人や特別な経験をした人なら、それだけで人が読むということもあるが、なんせ七詩だしね。それに、そうそう不特定多数の人に知らせるようなネタなどもあるわけもない。それでも、書くのは好きだし、書くことを通じて考えがまとまっていく感じ、気に入った文章が書けた爽快さはなんともいえない。というわけで、このWEB日記、どうもしばらくはやめられそうにないのである。WEB日記 想い様々 綴りつつ 見知らぬ貴方 思い浮かべむ aisya96@lycos.jp
2003年01月20日
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長いこと日本人を呪縛しつづけた感情に、第二次大戦終了までの歴史をめぐる贖罪意識がある。アジアの近代史をみると、日本がいち早く近代化に成功し、植民地獲得競争では、支配される側ではなく、支配する側にまわった。これは地政学的位置など様々な要因によるもので、別に某都知事がいうように日本人のDNAがどうこうということではない。戦後になっても長い間、アジアで日本だけが「富める孤児」であり、他のアジア諸国は貧しいまま停滞するという状況がつづいた。こうした中で、他のアジア諸国に対する蔑視、そしてもしかしたらそれの変種かもしれない贖罪意識が生れてきたとしても不思議はない。ただ今では時代が変わった。アジアNIESはすでに工業化を達成して豊かな生活を享受しており、特に韓国や香港発の文化は世界を席巻している。中国にしても発展著しく、世界の工場ともいわれるくらいになった。今の時代に感傷的な贖罪感情をベースにアジア諸国の国民をみるのはかえって失礼ではないか。※それに日本と中国や朝鮮半島との歴史はなにもここ百数十年だけがすべてというわけでもない。特に朝鮮半島とのつながりは神話の時代にまでさかのぼり、古事記や風土記には半島渡来の神々が頻繁に登場する。島根の国引き神話や、角のある異様な集団の渡来を語るツヌガアラヒトの神話などがその例である。ちなみに後者の神話は今にいたる地名「敦賀」の語源となったといわれ、現に朝鮮半島南部では角のあるような形の兜が発掘されている。こうした兜を着けた集団が実際に上陸したことがあったのだとしたら、まるで映画「宣戦布告」の古代版である。長い歴史の中では、日本が圧倒的な強者として近隣諸国を抑圧した時期などはごく短期間にすぎないし、歴史を全体としてみれば、日本は相対的な後進地域として大陸から先進技術や人材を吸収していた時期の方がはるかに長いのではないか。そろそろ戦前の一時期だけを捉えて、被害と加害という視点だけで互いをみるのはやめる時期であろう。※また、昨今では、いいとか悪いとか言うことではなく、日本人の朝鮮半島の住民に対する贖罪意識も急速に消滅しているのではないのだろうか。いうまでもなく、昨年9月に明らかになった拉致事件がきっかけである。今後、さらに多くの被害者の存在やその殺害も含めた被害の実態が明らかになっていったり、また、覚せい剤の密輸や日本国内での破壊工作の実態も徐々に表にでてくる可能性がある。そうなったときに、今度は、あの贖罪感情の裏返しのように、日本人の半島住民に対する「被害感情」が急速に膨らんでくることもありうるのではないか。いや、すでにそうした萌芽はあるのかもしれないが。aisya96@lycos.jp
2003年01月19日
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昨今では住民参加という名分で、条例で住民投票の制度を定めるところも増えてきている。こうした住民投票の是非について、最近、産経新聞などで考察を始めたようである。産業経済新聞のHPをみると、まず、最初にアンケートがある。「日米安保や米軍基地のような問題について住民投票を行なうことについてどう思いますか?」。この最初のあたりが、どうも誘導尋問くさい。そのせいか、結果もわずかではあるが住民投票批判派が優勢である。http://www.sankei.co.jp/edit/anke/kekka/20030110juanke.html※本当のところはどうであろうか。どうも、住民参加と代表民主制、そしてこの住民投票との関連が整理されていないところに問題のわかりにくさがあるのではないのだろうか。それに住民投票の是非といったって、全ての問題を住民投票で決めるべきだという人も、どんな問題であっても住民投票にかけることはけしからんという人も、実際にはそれほど多くないだろう。要はどういうテーマが住民投票のテーマとして適切なのかという判断の問題である。また、現行の法制度では、知事の権限も議会の権限も法定されており、住民投票を行なうからといって、住民に権限が委譲されるわけではない。ただ、実際問題として、住民投票が行なわれ、その結果が公表されれば、知事も議会もその結果に反する判断は「政治的に」やりにくくなることは間違いない。※地方分権の進展によって、自治体に大幅に権限が委譲されるとともに、住民参加ということがいわれるようになってきた。やはり自治体の問題については、住民自治の本旨にたちかえって住民の意見を自治体の政策に反映させる必要が有るということと、ボランティアやNPOなど最近では自治体と住民が協同する場面が増えてきていることがその背景にはあるのであろう。もちろん、自治体には代表民主制があり、直接投票で選ばれた首長や議員が政策を決定することが基本である。ただ、直接選挙といっても原則は4年に一度であり、また、すべての争点が選挙で問題となるわけではない。こうした選挙の争点以外のテーマであっても、住民の意見を反映させる必要のあるものは多い。委員公募やワークショップなど、住民参加の形態はいろいろあるが、そうした中で最も多くの人を巻き込む住民参加の形態として住民投票を位置付けることができるのではないのだろうか。※それでは住民投票に相応しいテーマとはどのようなものであろうか。いくら詳細な情報を与えられたとしても、多くの人は本職以外に特定のテーマについて勉強するためにさく時間は限られている。これを考慮すれば、あまり専門的なテーマは住民投票のテーマには相応しくないであろう。また嫌忌施設、英語でいえばNIMBY(Not In My Back Yard)の設置の是非も住民投票にはなじまないであろう。これに対し、住民の生活に密接に関わり、その価値観や意向を無視できないテーマは住民投票に向くテーマといえよう。市町村合併の是非とか、地名、あるいは昨今問題となっている小学校のような公共建築物の保存のような問題がこれに該当すると思われるがどうであろう。aisya96@lycos.jp
2003年01月18日
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1月15日付の朝鮮日報NK(North Korea)レポートにこんな記事があった。「死亡・結婚の外住民移動も禁止」という題目で、核危機の下で北朝鮮が準戦時体制に移行していることを伝える記事である。どうも、記事をみるかぎりでは、中国国境付近の脱北者がニュースソースらしい。※これによると、人民軍などには準戦時状態の指令が下され、一般住民の移動も禁止されたという。そして、住民(といっても余裕のある者だけだろうが)の間には信じられるものはドル紙幣だとばかりに、ドルを必死で集める動きがあるらしい。今や一般住民の考えは「世界は変わってもドルは変わらない」ということにつきるようである。燃料不足や食糧難はどうであろうか。凍死者が続出するという予測もあったが、今のところは凍死者はほとんどでていない。各地の炭坑が、国家の生産目標を無視して、商売のため、石炭を一般家庭に流しているからである。また、凶作と国際社会からの支援が減ったことによる食糧難もあるが、これも今のところは餓死者はほとんどいない。備蓄があるためで、それが尽きた春の方がむしろ問題であるという。※さて、その隣には「朝鮮のない地球は壊してしまわなければならない」という記事がある。なんでもこんな言葉が最近になって党の機関紙である労働新聞にさかんに掲載されているという。これは、かってソ連や東欧の社会主義体制崩壊で危機感を募らせた金日成が会議を召集したとき、その席上であの金正日が言った言葉であるという。「(戦争になっても)我々は勝ちます。朝鮮のない地球は必要ありません。我が共和国が負けるときには、地球が壊れ滅びるときです。」というのがもともとの言葉だという。専門家によると、これは体制維持のための北朝鮮の強い意思を表したものだというが、あの体制の滅亡に地球全体を巻き込むなんて全くとんでもない話である。※こんな記事は日本の新聞にはほとんど載らない。今日の朝日新聞朝刊では、小泉訪朝のとき、北朝鮮はそれなりにまともな国になろうとしていたが、日本がその機会をつぶしたという五百旗頭氏の文章を大きな紙面をさいて掲載していた。あいかわらず狂気の独裁者の言動をいじめっ子が過去を反省して心を入れ替えたといったレベルで解釈しようというもので牧歌的なことこのうえない。あの和田なんとかさんの文章よりも、表現ははるかに洗練されているが、これによると、やはり日本はさっさと北朝鮮に巨額の援助金を渡した方がよかったといわんばかりである。ああ、それにしても、金もコメも地球を壊すために使われるのかもしれないのに…アサヒはやっぱりアサヒである。aisya96@lycos.jp
2003年01月17日
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ときどき日本語にもよくわからない言葉ってある。どうにもわからないのが「平和祈念」っていう言葉だ。そもそも平和ってのは祈っていれば得られるのだろうか。地震や火山噴火のような天災なら人間の力ではいかんともしがたいところがあって、そうした災害がないように祈るというのならまだわかる。しかし、戦争は人災である。そうだとしたら、戦争を起こさない、あるいは起こさせないようにするのなら、祈り以外にいくらでもやることはあるのではないか。※今の子供向け文化にもこうした「平和の尊さ」や「戦争の悲惨さ」を訴えたものがけっこうある。小学校の国語の教科書には学年毎にこうした話が必ず掲載されており、課題図書にもこの手のものが多い。原爆で死んだ父を描いた「すいかの種」や同じく原爆で死んだ子供を描いた「おこり地蔵」。空襲で死んだ少女を描いた「ちいちゃんのかげおくり」や空襲と終戦直後の飢餓を描いた「蛍の墓」等々。戦災は人災である以上、原爆を落とした人間、空襲を行なった人間は必ずいるはずなのに、そうしたものに対する怒りは、注意深くさけられ、いずれの物語でも戦災は天災のように描かれている。そして、なにかこうした悲惨な被害を忘れずに語り継いでいけば戦争は起きないかのような解説がたいていどこかについている。こうした文化はある種の厭戦気分を醸成することはあっても、平和建設という意味ではさして役に立つとは思えない。※さて、戦災とならぶ人災の最たるものとして犯罪がある。昨今の治安状況の悪化を受け、今後は教育の場でも防犯をとりあげる動きがあるという。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030114-00000506-yom-sociこと犯罪となると、安全の尊さを訴え、犯罪被害の悲惨さを訴えれば、犯罪が減るなんて思う人はいないだろう。それなのになぜ、平和に関することになると、「平和の尊さ」を訴え、「戦争の悲惨さ」を叫び、核兵器廃絶の千羽鶴でも折って祈っていれば、平和が守られるなどと真面目に考えるひとがいるのだろうか。それがなんとも不思議である。aisya96@lycos.jp
2003年01月16日
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こんな話がある。子供が友人を自宅に招いて「お誕生会」を行うことはよくあることなのだが、ある小学校ではそうした「お誕生会」を開くことを禁止したという。仲良し同士が誘い合えば、どうしても誘われない子や家で「お誕生会」をひらけない子供がでてくる。そうした子供がかわいそうだからという理由である。○○がある子供と○○がない子供がいる場合、○○がない子供がかわいそうだから一斉に○○がない方向にあわせてしまえという発想である。家族と一緒にお弁当を食べられない子がいるから運動会のお弁当は教室で食べることにするといったことも、「お弁当を持ってこられない子供がいる」から皆給食を食べなければならないということも、「いい服を着てこられない子供がいる」から一律に制服を着せようということも、皆同じような発想であろう。人は生まれてくる境遇も、もって生まれた能力も様々である。一面だけを規制によって平等らしく取り繕ったとしても、そうした違いがなくなるわけではない。お誕生会によばれない子供のお誕生日には先生は忘れずに声をかけてあげればよい。家族と一緒にお弁当が食べられない子供のためには先生がそうした子供と一緒に昼食をとればいい。いい服を着てこられない子供がいれば、服装などよりも中身が大事なことを教えればいい。それを教えることが学校の役目で、ない方にあわせてよしとするのは全くの子供だましとしか思えない。※こんなことは子供の世界だけかと思っていたら、大分県のある島で、高価な着物を買えない女性のために成人式の着物を禁止したところがあるというニュースをみてびっくりした。http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/new_adults/成人式という大人への出発点となる儀式で出席者を「子供扱い」しているとしかおもえない。大人になれば収入も職業も様々であり、高価な服を着て過ごす人もいれば、それもままならない人もいる。かといって高価な服を買えない人のことを考えて、そうした服を着ることを禁止できるわけがない。それが実社会である。※それにしてもあの成人式の着物ってよく買う人がいるなと思う。振り袖は若い独身のときしか着られないので、何十万かで買ったとしても、着る機会は数えるほどであろう。昨今では、仕事始めに女性が晴れ着を着てくる習慣もすたれたので、着る機会はますます少ない。それならば、着物を買うお金で気に入りの洋服を何着か買う方がよほど合理的である。もっとも、一説によると、「成人式廃止論」に一番脅威を感じているのは呉服業者だという話もある。着物を買う人がいなくなれば、一番困るのは彼ら呉服業者なのだから。aisya96@lycos.jp
2003年01月15日
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去年も今ごろ日記に同じようなことを書いたのでは…と思うのだが、荒れる荒れないがニュースになる成人式なんてやめたらどうだろうか。もともとはこの成人式という行事、昭和21年に蕨市で行なったのが最初であるという。戦後まもない農村社会では確かにこんな行事も必要だったのかもしれない。農業など自営業では子供は家業を手伝い、長い時間をかけて親から子へ事業の実権は継承される。そこで、ある時期をとらえて「成人」であると宣言する儀式が確かに必要だったのであろう。ただ、現代の都市型社会ではどうであろうか。大人になるステップは個人差が非常に大きい。同じ20歳でも、親の下で生活し扶養を受けている学生は成人だなんていってもまるで実感がないであろうし、逆に既に独立して生計を営み、子供もいるような人は何をいまさらという感じかもしれない。大人になったお祝いなどは、初めて給料をもらったとき、初めて仕事に一定の成果をあげたときなどの、節目のときに家族や親しい人とともに祝えばよい。20歳になった人間を一同に集めて、お祝いする理由など今日ではあまりないのである。※もし、それでも成人式をやるというのであれば、式に参加する者にもきちんと大人としての責任をもって参加させるようにするべきであろう。式の妨害をするような若者は顔写真、氏名をきっちりとだし、責任をとらせることは当然である。一方で「成人」といいながら、一方で式典妨害を行なったときの匿名報道や顔のボカシは、子供扱いしているようでいかにもおかしい。※さて、新聞各紙ではそろって新成人にささげる社説を掲載していたが、A新聞の「はたちになった、禁煙だ。」って社説…ありゃなんだろう。A新聞の社長、もしかして朝起きて各紙の社説を読み比べておもわず血の気がひいたのではないのだろうか。なにしろ、他紙に比べて際立って格調の低いことこのうえない。それに「自立した個人が支えあう自由で公正なあたたかい社会」っていうのも意味不明だし、それをいうのなら、系列の週刊誌にあまりアンフェアな取材はしないようにさせるのが第一歩ではないのだろうか。aisya96@lycos.jp
2003年01月14日
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民主主義が人類の共通ルールとなりつつあるとはいえ、王室が残っている国はいまなお多い。この王室の残っている国々をみてみると、大きな戦乱や外国による支配などがなく、比較的穏やかな歴史を有するところが多いように思われる。例えば、秘境国家のブータンや植民地獲得競争の時代にあって独立をまっとうしてきたタイなどがその例であろう。※王室の存在については、人間の平等に反するとか民主主義に反するとかいうことをいう人がいる一方で、次のような理由で王室の効用を指摘する声もある。①王様をいただくと政治が安定する。②王様がいないと全体主義的カリスマがあらわれ、人心を混乱させる危険がある。③王様がいることで国家や民族に誇りを感じることができる。ただ、こうした理由は、いずれもさして説得力があるとも思えない。①の政治的安定と王様の存在はいわば卵と鶏の関係のようなところがあり、王様がいるから政治が安定しているともいえるが、逆に政治が安定しているから王様が残っているともいえる。また、②の王様がいないと全体主義的カリスマが現れるというのも、ほとんどの王様のいない国できちんと政治が機能し、むしろそれが普通であることを考えればやはり説得力はない。また、③の王様がいるからその国に誇りをもてるというのも、単に王様の存在を支持する人はそう思うというだけで、それを支持しない人にとっては、王様の存在自体が自国の頑迷さや非民主制の現れとしか思えないであろう。※このように王様を遺す理由というのはいずれも説得力はないのであるが、王様をなくして共和制にするのがよいかといえば必ずしもそうともいえない。思うに王様というのは、歴史の流れの中で残るところは残り、消えるところでは消えていった。現在世界には王様を持つ国が43ヶ国(191ヶ国中)あるが、王様が残っているところはいずれもそれなりの歴史的経緯や理由があり、また、それ相応の国民の支持があるところなのではないか。王様を持つ国が持たない国よりもいいという理由もないが、逆もまた然りである。※ところで、王様といえば、ちょっと印象に残ったニュースがある。オランダのユリアナ女王が来日したときの宮中晩餐会でのことである。女王は、スピーチの中で第二次大戦中に捕虜となったオランダ人の苦難に触れ、日本非難ともとれる内容をそこに盛り込んだ。新聞や雑誌の中には、批判的にこれを報道したものもあり、中には「鉄火場のお姐ちゃんの啖呵」的発言なんて書いたものもあった。確かにインドネシアにオランダ人がいたのは慈善事業などのためではなく、植民地支配のためである。そのオランダの支配は過酷をきわめ、多くの人が餓死したばかりでなく、独立後もその後遺症が近代化の桎梏となった。ただ、当時植民地経営に関与していたオランダ人の立場からみれば、彼らは普通の市民としてそこで仕事をしていたのであり、日本軍の捕虜となり、辛い経験をしたことは理不尽な災厄だったのに違いない。かっての日本軍による暴行の被害者で、信仰に打ちこむことでようやく最近になって精神の平安を得たと語っているオランダの老婦人の記事を読んだことがあるが、今なおそうした傷をかかえて生きている人々がいる。聡明な女王であれば、ああいった内容のスピーチが場を気まずいものとするくらいのことは折込みずみであろう。ただ、国家や国民の女王としてこの場にいる以上、苦難にあった同胞のことを忘れるわけにはいかない…そんな女王の姿勢に凛としたものを感じ、根が単純な七詩さんとしては、その点に少し感動をしたのである。参照http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2000/kikaku/koe/koe2.htmlaisya96@lycos.jp
2003年01月13日
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自動車の普及により、買い物や外食は、駐車の便利な郊外の大型店が中心となってきている。そして、それと平行して、かっては商業の中心であった駅前の繁華街にはさびれたところが目立つようである。確かに、昼日中からかなりの店がシャッターをとざしたままで通称シャッター通りなどと呼ばれるところも多く、華やかなはずの駅前のビルなども、100円ショップ以外は店が入らずがらんとしているところもある。そして、こんなシャッター通りが今では全国あちこちに広がっているという。※駅は町の顔であり、駅前商店街は町の中心だという発想からは、こうした駅前商店街がさびれることはあたかも町の衰退のように思えるらしく、多くのところでこの「中心市街地の活性化」ということが重要課題となっている。※我が家の近くにもいくつか商店街がある。すっかりシャッターが目立つようになってしまったところもあれば、いつも賑わっているところもある。賑わっているところは、・主要駅に向う通路となっており、人通りが多い、・有名なディスカウントショップなど人が集まる店舗を擁しているなどの好条件があるようである。そしてそうした賑わいがさらに人をよぶ。いつも祝祭のような雰囲気があり、自転車をとめて歩くだけでも結構たのしい。そして年に何度かは、阿波踊り、カーニバル、大道芸大会などのイベントも行われる。※商店街の活性化というと、ちょっとしたモニュメントやイベントが人を呼ぶこともあるが、やはり基本は人をよぶだけの店舗があるか否かであろう。後継者難でシャッターを下ろさざるを得ないような店舗にたいしては、住民有志が借り上げた上で、リサイクルショップにしたり、手芸品を売るなどのことを行ってみてはどうだろうか。地域住民のパワーとアイディアを活かすことで、商店街を活気のある場にすることもできるであろう。すべての人が自動車ライフを行なっているわけではなく、また、いつまでも自動車に乗れるとも限らない。自動車で大型店を利用する生活もいいけれども、商店街を歩いて買い物を楽しむのもいいものである。aisya96@lycos.jp
2003年01月12日
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こんな話を聞いた。人はその情報の大半を「第一印象」から得る…という。そういえば、思い当たらないだろうか。結婚式のスピーチや会議での発表のとき、話す内容そのものよりも、「しっかりした感じの立派な人だった」とか「話し方に自信のなさそうなくらい感じの人だった」とかいった印象の方が強く残っていることってわりにあるのではないか。話の内容自体は資料をよく読めばいい。それよりも、話を聞くときは、話し手そのものを見る。そう考えると第一印象というのはバカにできない。※髪型、服装はその人の趣味嗜好や姿勢、それに経済状況等を示すだろう。顔の造作自体はどうにもならないとはいえ、顔からもまた人は多くの情報を得る。顔を縦にみたとき、子供の顔は真中あたりに目がついているが、大人になるほど目の位置は上にいく。だから大人になっても目の位置が比較的顔の真中辺りにある人はけっこう年長者や目上の人間にかわいがられるタイプが多いという。そういえば、可憐さでうるアイドルタレントなどもこの手の顔立ちが多いようである。また、目が離れているのは人を受け入れる印象を与え、逆に目が比較的くっついているのは人を排除する印象を与える。目と眉がはなれていると安心感を与え、あごが豊かだと頼れる印象を与える。…ここまでくると多少本当かいなという感じもするが、髪形、それに女性なら化粧で、生れ持った顔の印象もかなりかわるので、対人関係それも営業等初対面の人と話す機会の多い職業についている場合にはいろいろと試してみた方がいいのかもしれない。※また、顔立ちは生れついたものとはいえ、表情によってもかなり印象がかわる。長い時間のうちには、そうした表情が顔の造作そのものを変えることもある。顔の特定の筋肉をしょっちゅう使うことにより、その表情が次第に地顔に反映されていくのだという。笑顔の多い人であればそれがまた明るい印象を与える顔立ちとなり、内面や対人関係にも影響を与える。となると、笑う角には福きたる…なんていう諺もそれなりに根拠のあることになる。※なんてことを書いてみたが、始まったばかりの2003年。ぜひ笑顔の多い年にしたいものである。aisya96@lycos.jp
2003年01月11日
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怪教団についての日記ならコメントをつけないわけには…というわけでコメントをする。破防法適用を棄却したことにより、伝家の宝刀だったはずのものは単なる竹光と化し、日本という国はどんな犯罪集団でも、内乱状態にでもならない限り、存続を保証する世界にも稀有な国となった。そして、内乱状態では現在の国家権力が正常に機能するわけもないのだから、結局どんな凶悪な犯罪集団でも、この国では強制的に解散させられる事態というのはありえないわけである。※オウムが再び勢力を盛り返していく可能性は、破防法の適用が議論されていた頃から指摘されていたことである。今後、オウムが復活していくにつれ、住民とのあつれきはますます激しくなり、社会に与える不安感も増幅していくであろう。あのとき、深夜テレビにまで出ずっぱりで出演して破防法適用に反対した評論家が何人もいたが、彼らは、何の責任も感じていないのだろうか。そうした評論家の中には、破防法適用はかえってオウムの結束を固め、教団存続に資するといって破防法適用を主張する人をオウムシンパよばわりをした人もいた。また、破防法が適用されれば麻原の名は後世に残りそれこそ彼の望むところだからという珍妙な理由で破防法適用に反対する人もいた。※こうしたオウムに寛容な意見の背景には、どうもあの一世を風靡したマインドコントロール論があったようである。彼らマインドコントロール論者によれば、信者はむしろ被害者であって犯罪者扱いしてはならぬということになる。いや破防法の適用棄却だけでなく、林郁夫被告や井上被告の無期懲役判決にみられるようなオウム実行犯に対する寛大な量刑の背景にもマインドコントロール論があったのではないか。※ところで、最近、オウム美人幹部のその後についての週刊誌の報道があった。美人幹部とは、マハ-ケイマこと石井久子とサクラ-こと飯田エリ子の二人である。週刊誌報道なので信憑性には?マークがつくものの、それによると、刑期を終えた二人の元幹部の更生への途はけわしそうである。思うに、彼女ら二人の量刑も軽いものであった。特に石井久子については岡崎一明被告が坂本弁護士殺害謀議の場にいたことを手記で書いているのに、その件では全く不問にふされた。彼女らもそうした意味で、マインドコントロール論の恩恵を受けたといえる。※私個人としては、マインドコントロール論には大いに疑問を感じているし、それは再三この日記にも書いたところである。そして、なによりも、この「理論」に嫌悪感を覚えるのは、人は一定の条件下で精神作用を操作されることがあると考えること自体が、なにか人間の尊厳に著しく反しているとしか思われてならないからである。重刑を免れたからといって、彼女らは本当に救われたのだろうか。マインドコントロールなんてのを額面どおり信じてしまえば、教団にいた人生は単に人形かロボットとして、我にも有らぬ状態ですごしたということになって、かえってやりきれないのではないか。かの元美人幹部も精神の均衡を崩しているようであるが、それも無理もないのかもしれない。※彼女らには、教団にいたときに行なった行為の責任をきちんととらせ、重刑を課した方が、真の意味での更生につながったのではないのだろうか。aisya96@lycos.jp
2003年01月09日
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人口に膾炙している漢文表現の中にはいかにも日本産ということがすぐわかるものがある。「人間至るところ青山あり」なんてのはその典型だろう。たしか江戸時代の漢詩「男子、志を立てて郷関を出ず」の結びの句だったか…この言葉が中国産だなんて思う人はまずいまい。山の多い日本ではどんな町や村にいっても必ず山が見える。それも近くに見えるのはたいてい豊かな緑に覆われた里山である。ふるさとの山なんて表現がうまれる所以である。※そんなふうに日本のたいていのところでは山が見えるのだが、私の育った東京都某市からは山は見えない。空気も澄んで高い建物などもなかった江戸時代には見えたのだろうが、今では、天気のいい日にごくたまに富士山がみえることはあっても、普段の生活には山はない。だから、旅行などで汽車の窓から山が見えると本当にわくわくしたし、山に囲まれた町に住んでいる従兄弟達がそれだけでうらやましかった。いつかは山のみえるところに住みたい。それが私の夢であった。結局、東京に住みつづけ、そんな夢はかなわなかったのだが、山の見える生活ということ自体は、数年前から実現している。今の住居は9階にあるので、晴れた日には丹沢の山が望めるのである。特に、年末年始のように、空気が澄んでいるときには、稜線や雪までもよくみえる。 昔からの憧れだった山の見える生活…これも、高い階に住むことによって、ようやく手に入れたといえる。aisya96@lycos.jp
2003年01月08日
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昨日の日記にも書いたように、もしブルーリボン君が箱根駅伝を走っていたらスポーツに興味関心のない七詩さんも箱根駅伝を見ていたに違いない。それにしても、あの箱根駅伝が歴代最高視聴率を記録したというのは、国民的行事として定着したとみるよりも、お正月に見るべき番組がないというのが主な理由ではないのだろうか。大学も関東に限られているし、選手の中に、特にスターがいるというわけでもない。裏番組に猪木祭りほど気迫のあるものをぶつければそこそこ勝負できると思うのだが…。あれなら、川でアザラシの競争でもさせて放送した方が、まだ、大学生の競争に対抗できるのではないか。なんというかお正月の番組って、芸能人やスポーツ選手、場合によっては女子アナウンサーを集めてゲームとかクイズをやらせるだけといった安易なものが多いように思う。結局お正月番組で通しでみたのって深夜にやったボキャブラ天国だけだった。実は、七詩さんは、あの番組を以前放送していたとき毎週楽しみに見ており、中には「雪が降る。荒川区内。(雪が降る。あなたは来ない。)」というように日記のタイトルに借用したものもある。新作はあまり笑えなかったが、「じじいが死。遺産はぼく。(22が4。23が6。)」とか「ううん。千葉~。(ムーンリバー)」などは今みても面白い。そのほかにも、かってのボキャ天には「酔いつぶれてシマウマで。」とか「その話、鹿ときいたぞ。」とか、「証人さがしの末逮捕(5人ばやしの笛太鼓)」とかなかなか面白いものが多かったように思う。ところでそんなのを一緒にみていた家族の方は反応がいまいちで、笑っている私を見て何がおかしいのという感じだった。ま、確かにくだらんといえばくだらんのだが。aisya96@lycos.jp
2003年01月07日
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RE:売国奴河野洋平のお仕事は相変わらず金豚のお手伝い箱根駅伝で出場選手がブルーリボンをつけて走ろうとしたら政治家が反対したという話…ネット上の単なる噂だと思っていたがどうやら本当のようである。この問題の解決のためには、国際世論の盛り上がり、そしてその前提となる国内世論が大きな力となっていくことくらい政治家ならわからないはずがないのに。なにか、拉致事件に関しては、日本の政治家や官僚の中にさえ、単にミクロの問題、大衆感情の問題としたうえで「終結」(解決ではなく)させようという動きがあるようで、正直理解に苦しむ。そういえば、5人を北に戻せといった官僚が出世していったのも、有力政治家が選手のブルーリボンに待ったをかけたのと同じくらい不可解なはなしである。拉致事件被害者の中には地方紙に「小泉総理の英断のおかげで生命を助けていただきました」というメッセージをよせた方がいるという。生命を助けていただいた…こんな言葉の重みを政治家や官僚はどう考えているのだろうか。帰国できた被害者は、長い年月、不断に生命の危険を感じていたわけだし、かの地には生命を奪われたり、今なお脅かされている被害者がいる。そうしたことを単にミクロの問題、大衆感情の問題としてしかみない政治家や官僚って一体なんのためにいるのだろうか?aisya96@lycos.jp2003/01/06 10:08:41一年のうち今ごろの時期の楽しみは…1年のこの時期の楽しみは年末年始で空気が非常に澄んでいるということである。星空の美しさもさることながら、高層ビルからの展望がよい。日曜日は、オペラシティービルに行き、退席をうながされるまでねばって高層階からの眺めを楽しんだ。空と陸とが接する辺りには遠く幕張の副都心や袖ヶ浦のコンビナートの煙突が望め、また、方向を転ずると横浜のランドマークタワーもみることができた。そうしているうちにも、冬の陽は傾くのも早く、ビルの影は刻々と向きを変え、くすんだ灰色にしか見えなかった東京湾は夕日をあびてくっきりとしたコバルトブルーに変わる。正月気分が抜ければ、個々のビルや道路から、もっと多くの排気ガスや煙が吐き出され、こうした眺望はなかなか見られないだろう。それにしても東京には高層ビルが多い。新しいところでは、汐留再開発でできたビル群や六本木の極太高層ビル(と呼ばれているらしい)があり、あの高層ビルの草分けの霞ヶ関ビルもすっかり他のビル群に囲まれて探すのに苦労するほどである。こうしたビル群の中で、高層からの展望を一般に開放しているところはどのくらいあるのだろうか。高価なレストランなどではなく、多少の入場料をとってもよいから、そうしたところが増えればよいのだが…。aisya96@lycos.jp2003/01/06 9:22:16
2003年01月06日
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昨日に引き続き、1月1日付けの朝鮮日報の記事であるが、次のようなフランスのルモンド紙の記事の引用があったので、概略を紹介しておく。※フランスのルモンド紙は、年末にかなりのスペースをさいて、「北朝鮮は過大妄想的邪教集団」という見出しの下に、北朝鮮の現在の政治体制を辛らつに批判したという。それによると、北朝鮮を「スターリン主義、民族主義、東洋的全体君主制が混合して生れた過大妄想的独裁権力」と規定し、「全体主義的統制に関する限り、ジョージ・オーウェルの想像力に挑戦し、ルーマニアとアルバニアの共産政権が受けた歴史的断罪にも挑戦するこの異常な政権の存続をどのように説明するのか」と問うている。さらに、アメリカの対北封鎖政策についても、成功の鍵は韓国など東アジアの周辺国家の支持であるとしながらも、半世紀にわたる頑強な民族主義で高揚した「邪教集団Etat-secte」国家である北朝鮮の抵抗力のために成功の可否は未知数であると指摘している。※どうも北朝鮮というのは、外務省の役人が一生懸命にお勉強したはずの国際法上の権利義務の主体である国家というよりも、オウム真理教のような単なる反日を教義とする「カルト犯罪集団」とみた方がより本質に近いのでは、と思っていたので、欧米の有力メディアの中からかの国を「過大妄想的邪教集団」と指摘する声があがったのもむべなるかなという感がする。そもそもグロティウスに発する国際法学はまともな国家を主体に理論が構築されており、そんな国際法しか勉強していないような外務省の役人だけでは北朝鮮との交渉など無理なのではないのだろうか。相手が米国とかフランスとかいったまともな国なら、その国と個人的なパイプを持つということは外交官にとって確かに大きな財産である。しかしながら、相手が北朝鮮となると話は少し違う。外務省の田中審議官は北朝鮮と個人的に極秘のパイプを有するという理由で栄転をはたしたが、はたしてこれでいいのであろうか。オウム幹部の友人が警察上層部にいるようなあやうさをつい感じてしまうのだが…。※オウムと北朝鮮との類似性については、前々からあちこちで指摘されいる。小集団でありながらも、麻原を絶対的権力とし信者を正大師、正悟師、師長…という階級に分けたオウムと、金一族を絶対的権力とし国民を核心階層、動揺階層、敵対階層…という階層(成分)に分けた北朝鮮とは確かに似ている。また、前者は修行のため、後者は食糧危機あるいは健康(?)のため一日ニ食を推進しているところも共通である。その他に類似するものとして、金日成バッジ…プルシャ主体思想…ヴァジラヤーナの教え喜び組…ダーキニーの美女集団拉致監禁、化学兵器、核兵器、生物兵器開発…同左などなどといったところであろうか。※ところで昨日の読売新聞の1面に大きく北朝鮮難民対策の記事が掲載されていたが、あれは一体なんだったのだろう。94年ならいざ知らず、今の北朝鮮のエネルギー状況で大勢の難民が日本海を自前の船でわたってくる余力があるとも思えない。また、ベトナム難民のときとは違い、北朝鮮難民には韓国という同胞国家の受け皿がある。まるで、北朝鮮の崩壊による大量の難民によって日本社会も崩壊するかのような記事がこの時期に掲載されること自体、何か非常に作為的なものを感じてしまう。aisya96@lycos.jp
2003年01月05日
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12月の大統領選でも、イ・フェチャンとノ・ムヒョンの得票を比べると、高年齢層ではイ・フェチャン、若年齢層ではノ・ムヒョンという傾向が顕著にみられたように韓国では地域(西半分ではノ・ムヒョン、東半分ではイ・フェチャン)と並んで世代でも政治に対する意見が大きく異なっている。そこで、朝鮮日報に、年頭の特集として、世代別の政治意識を調べた世論調査が掲載されていたので紹介したい。※「外国に滞在中、韓国で戦争が起こったら帰国しない」とするものが、20代では43.4%、40代では21・3%なんていう結果も面白いが、さらに興味深いのは北朝鮮に対する意識である。まず、調査対象者(全世代)の半分以上が、「北朝鮮が核兵器を開発したとしても、韓国ではなく他の国(タルンナラ)をねらっている」と考えている。したがって、北朝鮮が核兵器を開発した場合、軍事力を動員して核施設を破壊することにも反対が大多数である。この傾向は若年層ほど顕著で20代、30代では北朝鮮の核兵器は韓国ではなく他の国をねらっていると考えるものは64.3%にも上る。いったいタルンナラって具体的にどこの国なのだろうか。気になるところではあるが、残念ながらそこまでは調査されていない。そんな北朝鮮に対する好意的(?)認識を反映してか、朝鮮戦争に対しても、米ソの代理戦争とするものが44.5%、北朝鮮の不法侵略とするものが31.2%となっている。これも世代別にみると、20代、30代では、代理戦争という見解が58・7%とさらに多くなっている。このように、韓国人の北朝鮮に対する見方は概して融和的で、それも若い世代ほどそうした傾向が顕著である。ただし、統一に対する認識については、世代差はあまりなく、いずれの世代でも「統一は10年後くらいに斬新的に行なうべきである」とするものが65%前後と多数を占めている。※韓国の北朝鮮に対する「太陽政策」の継続や、米国の強行措置に対する反発の背景にはこうした意識があるようである。今や韓国は国際社会の重要プレイヤーであり、経済力も中堅のヨーロッパの国を凌ぐほどである。十分に国力をつけ豊かな生活を享受するようになった韓国人の「民族的自尊心(この言葉がどうも好きなようであるが)」が大いに高まり、これが北に対しても同胞としての親近感を感じさせているのだとしても不思議はない。そしてこの傾向は豊かな社会に生まれ育った20代、30代ではさらに顕著なのかもしれない。※いずれにしても、ことによったら今年激動の年になるかもしれない朝鮮半島情勢を考える上では、韓国の対北朝鮮認識は日本とはかなり差異があるということを前提としておく必要があるであろう。aisya96@lycos.jp
2003年01月04日
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年頭になると経済予測や政界予測、国際情勢の予測など様々な予測が新聞や雑誌をにぎわす。 こうした予測も、思いもよらないことが起こるのが世の常であることを考えれば、当たるも八卦当たらぬも八卦なのだろうが、一つだけ確実に当たる予測がある。それは、人口予測である。 確実にいえること…それは、近い将来、わが国の人口は減少に転じ、そしてそれは未曾有の高齢社会という形であらわれるということである。 高齢社会というと、どうもマイナスのイメージでばかりとらえる人が多いのだが、必ずしもそうとばかりもいえない。高齢社会は皆が長生きできるようになった結果であり、いわば乳幼児死亡、疫病、飢餓、戦乱という様々な課題を乗り越えた豊かな文明社会の証左ともいえる。そうした認識のもと、高齢社会に替えて、長寿社会という言葉を使う人もいる。 ※ そして、豊かな長寿社会では元気な高齢者が多いことも特徴である。かっての童謡に「村の渡しの船頭さんは、今年60のおじいさん。」なんていう歌詞があったが、今時60歳で「おじいさん」だなんて自他共に思う人はおそらくいまい。職業生活の第一線からは退いたけれども、こうした元気な高齢者の活力をいかに引き出していくかが長寿社会の活性化のポイントであろう。 ※ そうした目でみると、このところ、とみに広がり始めた、職業(公)でもなければ、純然たる私的生活(私)でもない、「共」とでもよぶべき分野の拡大は、こうした元気な高齢者層の出現と無関係ではないのかもしれない。最近、地域のすべての仕事を役所が行うのではなく、住民参加ということで住民ができる部分は住民が行うという動きが急である。公園の設計等をワークショップ方式で住民の意見を取り入れて決定したり、そうしてできた公園の管理を住民主導で行っているところも多い。また、ボランティア活動も奇特な一部の人が行うのではなく、市民の生活の一部としてかなり広がってきている。さらには環境や福祉の分野では組織化された住民グループ(NPO)が一定の役割を果たしているところもある。 それにとどまらず、市役所や町村役場の企画業務まで、役所(役場)だけで行うのではなく、住民から審議会委員を公募したり、公募した住民で委員会を作ったりして、その意見を求めているところも見受けられる。背景にはもちろん地方分権の流れの中で住民自治の本旨にかえって、住民の意見を極力政策に反映させようという動きがあるのだが。 いずれの場合でも、こうした住民の核には、経験豊富な高齢者がいる場合が多いようである。 ※ 高齢者の就労促進ということは、それはそれで重要であるし、また、老人クラブや高齢者大学などで、高齢者に趣味等を持つ機会を提供することも意義があるであろう。ただ、仕事でもなく、趣味でもない、いわば「共」といった分野で高齢者の能力を十分に生かしていくことも、高齢社会、いや長寿社会を幸せなものとしていくためには、ぜひ必要なことではないのだろうか。 aisya96@lycos.jp
2003年01月03日
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2003年元日は当初予想されていた雪が降らなかったのはちょっと残念だったが、さして大事故や大事件もなく、まあまあの平穏な幕開けといえるだろう。それにしてもお正月のテレビってどうしてこうも見るものがないのだろう。芸能人やスポーツ選手をそろえれば視聴率をとれると思っているのではないのかしら。皆が一番テレビをみる今のような時期にこそ気合をいれた番組をつくればいいのに。※ニュースもどこそこで正月恒例の○○が行なわれたといったものがほとんどで、のどかな正月気分十分である。しかしいくらニュースがないっていっても、あの拉致事件被害者の一挙一動を追いかける報道って何とかならないのかなあ。お正月まで追いかけて、どこそこに初詣に行ったとか、御節は何だったかとか、そんなどうでもいいことNHKでまでやるなよといいたい。せっかく二十何年ぶりかの日本のお正月なのだからもっと自由にゆっくりと過ごすようにしてはと思うのは私だけだろうか。※年賀状の仕分けの後、新聞を読む。A新聞(個人的には好きじゃないのだが我が家ではなぜか購読している)の社説ってくだらないのが多いのだけれども、元日のこれは特にひどい。前半は戦前の日本の蛮行云々とかいった類のA新聞的思考停止論調だし、後半の「千と千尋の神隠し」をもちだした多神教礼賛は全く意味不明である。どうやら多神教論理だと世界が平和になるということらしいが、だいたい、イスラム過激派の指導者の面々にアラー以外の神も信じろなんてどうやって説得しろというのだろう。変なものを読んで気分が悪くなったので、さっそく別の新聞をいくつか買いに行く。元日の新聞は付録が多い。ごみ収集が休みなのであまりごみが増えても困るのだけれども。※夕方近くなってようやく近所の神社に初詣に行く。晴れ着の人もほとんど目に付かず、曇り空のせいかお正月の華やかさといった感じはあまりない。それでも、二礼ニ拍手一拝の後、家内安全を祈願し、2003年最初の日は平穏に暮れていくのであった。(参考)話題のA新聞社説http://www.asahi.com/paper/editorial1.html蛇足…初笑いにどうぞ。http://homepage.broba.ws/asapy/aisya96@lycos.jp
2003年01月02日
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この曲は、もともとは賛美歌だが、今では一般にも広く知られている。 また、タイトルは知らなくても、映画などのBGMに頻繁に使われるので曲を聞けば知っているという人はもっと多いであろう。 この歌は19世紀の元奴隷商人でその後改心して英国国教会の司祭となった通称「改心司祭」によって作詞作曲されたものである。よく人類の行った残虐行為の代表としてホロコーストをあげる人が多いが、実はこの奴隷貿易こそ最大の残虐行為ではないかという人もいる。そんな奴隷貿易を行なっていた男が嵐に遭い、その中で神に祈り、心の平安を得たことが人生の転機となったという。 ※ この曲がBGMにつかわれるとき、どうも大災害の後とか廃墟とかそんな場面が多いようである。廃墟の跡に雲間から一筋の光が指している…曲から感じられる情景はそんなところかもしれない。そして、それはそのまま深い罪を犯し、悔悟しながらも救いと平安を求める人間の心象風景でもある。 どんなに絶望の底にあっても必ず救いと平安への途はある。そんな希望を感じさせる曲である。 ※ 私は個人的には特定の信仰はもっていない。 ただ、宇宙の広さやそこに流れる悠久の時間を考えたとき、今、この地球でここに人として生を受けているということが、限りない奇跡に思えるときがある。 そんな奇跡としての生をせっかく受けたからには、やはりそれを大切にしたい。 もちろん生きていれば思い通りにならないこともあるし、様々な壁もある。ただそこで無気力になったり、自棄的になったりするのでは、「自分が人間として今現在ここに生きている」という奇跡の大きさに比べるとあまりにももったいない感がする。宇宙や地球の歴史に比べると人間の生は一瞬の閃光にも等しい。1日という時間だってすごく大切ではないか。 2003年は、私にとっても転機となるかもしれない年である。 就職が決まったときには、まさかこんな厳しい時期は予想すらしなかったのだが…。 人間の能力、才能それに運にも限りがあるのだが、希望を失わずに努力だけは積み重ねていこう。いつかきっと、Amaging Grace 奇しき神の恵みが自分にふさわしい形で訪れることを願いながら。 ※※※ここを訪れて下さって本当にありがとうございます。 2003年がよい年であることを心より願っております。 21世紀も3年目ですが、それにしても、なんか昔思っていた21世紀というイメージと現実の世界とではだいぶ違うような気がするのは私だけでしょうか。 (Amazing Grace 歌詞)Amazing Grace how sweet the soundThat saved a wretch like meI once was lost but now I’m foundWas blind but now I seeTwas grace that taught my heart to fearAnd grace my tear relievedHow precious did that grace appearThe hour I first believedThrough many ages toils and sinsWe hove always been blindTwas faith and blood Godsees us allAnd grace will lead us onAmazing Grace how sweet the soundThat saved a wretch like meI once was lost but now I’m foundWas blind but now I seeaisya96@lycos.jp
2003年01月01日
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