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ワールドカップ予選対北朝鮮戦がせまってきている。北朝鮮当局は勝利の代償として家や車の提供を約束しているというが、負けた場合はどうなるのだろうか。フセイン統治下のイラクではサッカー試合で負けた選手らが鞭打ちに処されたという話があるが、北朝鮮選手たちにもやはり何らかのペナルティーが課せられるのだろうか。そうだとしたら、北朝鮮惨敗…選手、同行者まとめて第三国への亡命申請なんていう事態もありうると思うのだが、そんな場合の対処などは想定されているのだろうか。北朝鮮の惨状を考えれば、惨敗しなくたって亡命なんていうシナリオは十分ありうる。今度の試合、何が起こるかフィールド上でもフィールド外でも目がはなせない。※こんなホームの試合よりももっと不安なのはアウェイ戦である。2年ほど前に金剛山観光に行った韓国人主婦が案内員に「脱出者は皆幸せに暮らしている」といったとかいわないとかで何日も抑留された事件があった。こんなことはあの国ではいつ起きても不思議ではない。日本人観光客は本当に大丈夫なのか。マスコミもワールドカップにうかれるだけでなく北朝鮮観光に伴う現実の危険についても十分に周知させるべきであろう。日本人船長が7年間抑留されたときも、日経記者が1年以上抑留されたときも、結局日本政府はあの国に身代金を払っている。観光客解放のために身代金を払うよりも、最初から危険を承知の上で自己責任で応援に行っていただく方がずっとよい。※あと、気がかりなのはジーコ監督と選手達。北朝鮮に遠征に行った後、消息を絶ち、何ヵ月後にはそろって「将軍様のおひざもとで幸せに暮らしている」なんて会見をしたりして…こればかりはさすがにありそうもないけれど。
2005年01月31日
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今朝の朝日新聞ではアジア女性基金の解散について「過去の謝罪」を強調する村山元総理のインタビューを大きく掲載している。戦後60年という節目の年である今年は海外ではアウシュビッツ記念式典、日韓国交締結時の文書公開、そして国内でもこのアジア女性基金の解散など様々な動きがあるだろう。そしてそのたびに雲のようにひろがる過去の償い、謝罪という議論…。※ここではっきりさせておかなければならないのは、償い、謝罪とは何かということではないのか。もし、さらに償い、謝罪の必要(必要ないという議論ももちろんある。)があるとしても、それは侵略、戦争の惨禍を直接に受けた民衆にとって益となるものでなければならないはずである。そうだとしたら、国民が飢餓に瀕し、収容所での虐殺や処刑が日常茶飯のように行なわれている独裁政権を支援することは、償いになるのだろうか。いや、むしろその逆ではないのか。そういう意味で、自分の任期中に示した過去の謝罪、償いという趣旨は「日朝平壌宣言」に受け継がれていると自賛した元総理の言葉には大いに異議がある。当時のパラダイムでは仕方のないことかもしれなかったが、戦前の日本社会には今ほど言論の自由がなく、思想弾圧で投獄された人々もいた。当時は日本だった半島でも同様で、独立運動家ももちろんキリスト教会まで弾圧の対象になったという。そんな過去の圧政を深く反省し、また、自由のない体制が戦争に導いたこともふまえれば、圧政に反対することこそ、大きな目でみれば「過去の償い、清算」のかたちではないのだろうか。今、北朝鮮では植民地下の日本とは比べものにならない残酷な政治が行なわれており、韓国のビデオを販売していた青年が公開処刑されたという話すらある。そうした体制を支援し、延命させるのは「過去の償い、清算」どころかむしろその逆のような気がしてならない。※※韓国では最近脱北者という言葉に代えてセト民という言葉を使うように政府はよびかけている。セト民とは新しいところを求めてやってきたひとびとという意味である。脱北がまだ珍しかった頃、彼らは韓国で英雄だった。彼らが命がけの脱出の体験や北の生活の実情を本にして出せばそこそこに売れた。しかし今では年に何千という人々が脱北しており、そうした脱北者の存在は韓国では「お荷物」になりつつある。彼らの多くは劣悪な教育しか受けておらず、特に英語教育を受けたことのない子供達は学校についてゆけずに問題行動を起こすことも多いという。北を脱出すれば逃げる先は南であるが、セト、つまり新しいところであれば韓国以外でもよいことになる。脱北者からセト民への言い換えはこれ以上脱北者を受け入れたくはないという韓国政府の本音があらわれているとみるのは考えすぎなのだろうか。※どうもみるところ、韓国人というかKoreanは血縁意識や排他性が強く、移住志向は強いものの、現地への同化はなかなかしない。ロス暴動で韓国系だけが標的となったのも、それなりの理由があるのであろう。北朝鮮が崩壊すれば、場合によっては数十万、数百万の難民が域外にでる。米国や豪州などの移民国家も相当数受け入れることになろうが、肝心の同民族の国が受け入れないなんてことができるのだろうか。いくらセト、つまり新しいところへいけといっても、彼らが向うのはやはり父祖の地である半島の南しかない。
2005年01月30日
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あの朝日vsNHKのバトルであるが、朝日側は、安倍氏が(1)取材の際の回答(2)安倍氏が正確を期すために同夜寄せたコメント(3)12日付朝刊に記事が掲載された後のコメント――のいずれでも、「呼びつけた」ことについて否定の見解を示していなかったから、「呼びつけた」ことになるとしている。本人が言ったわけではなければ、確認をしたわけでもなく、ただ「否定をしなかった」からといって、そういうことにしてしまうのであれば取材方法としてはめちゃめちゃである。どうでもよいようだが、このバトル、徹底的にやった方がよいのではない。※そもそもこの問題、核心は特定政治家の特定番組への圧力の有無が争点であり、そうだとしたら、1事前に番組担当者を呼びつけて2圧力をかけるようなことをいって3その結果番組の内容が変わった、ということが必要である。ところが報道をみるかぎりでは、どうやらNHK幹部は自発的に政治家のところに行ったようであるし、政治家の発言も「公正中立」という一般論以上のものではなかったこと、番組の内容も上司がチェックして当然のものであったことがうかがえる。朝日は急遽論点をずらし、そもそも政治家とNHK幹部が接触するのが問題だといいはじめているが、それならなぜあの政治家の名前をだし、あの番組への介入をことさらにいいたてたのか。※はっきりいおう。朝日新聞やそれと同調する立場の方々がねらったのは北朝鮮に対して強攻策を主張する安倍、中川両氏のイメージダウンではないのか。クリーン、清新といったイメージはやくざまがいの恫喝をしたということになればたやすく崩れる。そしてまたあの番組をもちだすことによって従軍慰安婦の問題に再び焦点をあてることも彼らの狙いであろう。仮に従軍慰安婦問題については議論があるにしても、植民地支配下の他の問題まで持ち出せば、今の価値観では到底正当化できるものではない。こうした過去の事実と現在進行中の拉致事件や核開発の問題とはあくまでも区別しなければならないのである。そうでないと、日本は過去に侵略行為を行ったから、日本人には何をやっても許されるということになってしまう。来日する○国人犯罪者にはそういう感覚の人が多いのかもしれないが、日本人としてはそんな理屈は到底容認できるものではない。※政府としてはようやく「北朝鮮経済制裁」に重い腰をあげるようだが、「人道」支援の凍結や万景峰号の入港禁止などは経済制裁でもなんでもないのではないか。特に前者などは当然すぎるほど当然で、こんなものを「制裁」のうちに入れると、「制裁」をやめれば支援しなければいけないなどと考える人が出るかもしれない。「制裁」はよいけど、こんな制裁ともいえないようなものを大々的にぶちあげてガス抜きに使われても困る。それに、小泉総理はまだ北朝鮮との「国交正常化」をあきらめていないらしい。あの総理の任期がまだ1年以上もあるということに不安を感じているのは私だけだろうか。総理だけではない。すきあらば「支援したい」とか「国交を結びたい」という政治家は多い。6カ国協議の帰趨やワールドカップでのマスコミの友好ムードの演出、アウェー戦で北朝鮮に抑留された観光客の「解放」のための身代金支払いのおそれなど…まだまだ注視しなければならないことが多い。※余談ではあるが、報道によると「遺骨の捏造」が北朝鮮との関係で問題となっているという。そうではあるまい。被害者が生きて帰ってこないことがそもそも問題なのである。だから「遺骨」が本物だったとすれば、今度は被害者の死の真相が焦点となるだけのはなしである。そうなれば拉致問題の「解決」どころではない。だからこそ犯人の北朝鮮は鑑定不能の遺骨を出す必要があったのである。※※奈良の少女のいたましい事件をきっかけとして性犯罪者の情報公開や幼女暴行の厳罰化がようやく議論の俎上に上りはじめた。さて、この問題に対してあの社民党はなんといっているのだろうか。なにかのたびにジョセイ、ジョセイと甲高い声をあげていた土井たか子おばさんや、職場にヌード写真を貼るのはけしからんとどうでもいいことで騒いでいた福島瑞穂姐さんは、何をいっているのだろうか。あの奈良の事件や神作(小倉)譲らによる女子高生殺人事件など女性や幼女を標的とした異常な事件が起こるたびにさまざまな議論がでるのだが、そうしたときに限って、女性問題やフェミニズムを旗印にしている方々は沈黙しているようである。ああいう人たちにとっては女性云々などはしょせん自分たちのイデオロギーをかざるための道具で、犯罪被害にあった女性や幼女の悲劇になどしょせん関心がないのであろう。
2005年01月29日
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血の涙を流すマリア像の奇跡というニュースがあったので、どうせ○スポだろう…と出所をみたらなんとクオリティーペーパーのM新聞。なんでもイタリアの小さな町の30センチほどのマリア像の目から血の涙が流れ出して評判になっているという。血の分析はもちろん、マリア像についてもX線など様々な調査が行われたが、なんと仕掛けもみあたらず「奇跡」としかいいようがないらしい。※ネットで検索してみるとこのようなマリア像が涙を流す奇跡は世界中で起きている。日本にも秋田県に涙を流すマリア像というのがあって、以前、テレビでとりあげられていたのを見たことがあるが、涙は本物の女性の涙で、日本人には極めてまれな血液型のものであるという。このほかにもマリア像がひとりでに移動したりとか、目が輝いたりとか、そうした不思議は枚挙にいとまがない。(涙を流すマリア像の奇跡については、このサイトにまとめてある。画像あり。http://www.marysource.com/weepingstatuesmary.htm)※件のイタリアのマリア像の目から流れた血は、分析の結果、本物の人間の血であったが、男性のものであったという。このマリア像が下記のサイト(画像あり)に紹介されているマリア像と同じかどうかはわからないが、ここでは男性と女性双方のDNAが検出されたのはマリアが処女にして男児を生むためには男性のDNAも必要であったという説明がなされている。http://www.marysmantle.com/meditations12.htmlこういう説明になるとちょっとついていけない。※世界におきる様々な「奇跡」にはもちろんトリックや思い違いの類もあるだろう。しかしその中には本物もあるのではないのか、もちろん真相はそれこそ神のみぞ知る。ただ、仮にこうした人知の及ばぬ不可思議なことがあっても、それだけにひっぱられるのは、人間としても、そしておそらく信仰の形としてもよいことではないだろう。不思議なことは不思議として…あくまでも距離をおいてそっとしておくのがよいよいように思う。
2005年01月28日
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もともとは特定の政治家が特定の番組に圧力をかけたという問題だったはずなのに、関係者が否定しはじめると、そもそも政治家と会ったことが問題なのよとか、政治家が公正中立にといえばそれが圧力になるのよとか…論点はずしにもう必至。あげくのはては、政治家じゃああるまいし訴訟の場で答えますなんて、朝日新聞は本当に言論機間なのだろうか。それかあらぬか涙の記者会見のプロデューサー氏も一躍「ときの人」となったのもつかのま、早くも「あの人は今」状態になりかけている。NHKも朝日も急速にこの件から手を引き始めているが、このバトルは決してうやむやにしてはいけない問題のように思う。なぜに件の番組放映から4年もたった今の時点で、特定の政治家を批判する報道がなされたのか、その背景をぜひ知りたいものである。※※昨日、外国人が公務員管理職に就任することを制限した東京都の措置について最高裁の合憲判決がでた。私にいわせると、そもそもなぜこういうことが問題になるのかよくわからない。これだけ人の移動が全地球的に活発化してくると、居住の対象として選択する国と「祖国」として忠誠の対象として選択する国が異なってくることもよくある。その国を「祖国」として選択する手段…それが帰化ではないか。諸外国の法制に比べて、日本国の帰化についての法制は決して排他的ではない。そしてまた、日本は帰化した人に対して日本文化を押し付けたりもしないし、日本風の氏名を強制しているわけでもない。米国人に様々な出自の人がいてそれぞれの民族に誇りを持っているように、日本国も、もともとの民族のアイデンティティーを持ちながら日本人となる途を認めているのである。それなのに、あえて帰化という途を選ばずに、選挙権や公務員管理職の地位を要求する感覚がわからない。※ちなみに、外国の法制などをみても外国人に無制限に公務員就任資格を認める国は皆無である。ヨーロッパとしての統合をすすめつつあるEU内で他のEU国民の公務員就任が認められていたとしても、これは参考にはならないだろう。また、外国人任用に寛容な例としてよく引き合いにだされる米国やオーストラリアであるが、これについても、これらの国はもともとが移民国家であり、日本とは事情は違うのではないのだろうか。
2005年01月27日
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世の中の論調でよくわからないものに「少子化問題」というものがある。国会でも論壇でも、これを問題だとアプリオリに前提にしているが、そもそもなぜ子供が減り、人口が減っていくといけないのだろうか。「少子化」によって様々な問題点が招来されるというが、よく考えてみるとどうもおかしい。※よく言われる問題点のその一。少子化で労働力が不足するとか、何人で一人の老人を養わなければならなくなるとかいったおなじみの議論がある。本当にそうなのだろうか。若年労働力は減っているはずなのに若者の就職難は相変わらずである。なぜか本人の無気力のせいにされているニートやフリーターだって、その背景には企業が若者に門を閉ざしていることがあるに違いない。どうもこれは、企業が悪いというよりも、求められる労働力の質や量が違ってきているのではないか。そしてまたこんな状況が今後改善するとも思えない。少子化が労働力の不足を招来するという議論も社会状況を見る限りあまり説得力があるとも思えない。よく言われる問題点のその二。人口が減ると優秀な人の絶対数が減るとか、警察官や消防官など社会の維持に必要な職業につく人が不足するという議論がある。たしかに人口が減れば優秀な人も減るだろうが、反面、どうしようもない人も減る。警察官も減るだろうが犯罪者も減る。問題はむしろ人口数よりも、その質の問題である。少子化を嘆くよりも、少年犯罪の件数が減っていないこと、子供の学力が低下していることこそを問題視すべきではないか。よく言われる問題点のその三。少子化により人口規模が縮小すると経済が衰退するという議論がある。確かにGNPや経済成長率でみるかぎり「衰退」することとなる。しかしこれは全体のパイだけをみて、一人一人の取り分を忘れた議論であろう。人口が減り、たとえ全体の経済規模は縮小しても、一人当たりの数値はおそらく低下しない。また、土地等の資産についてみると、一人当たりの持分は確実に増える。※以上のように少子化で問題点とされているものは、いずれも決定的なものとも思えない。もちろんこの他に年金制度とのからみで少子化を問題視する議論もあるが、これこそ愚論の極みというものである。よく考えてみればよい。高齢化のピークは今から20年後とも30年後ともいわれるが、今後、少子化対策が効を奏したとしても、生まれてくる子供達が1人前になるのはそれよりも後である。今から出産数が増えれば、高齢化のピーク時の従属人口比率は大変なものになって、社会の負担は一層重くなる。※少子化論議をみていて思うのは、これを問題視する人って、日本国内の日本人だけをみていて、そもそもどういう社会を目指していくべきなのかという視点がまるでないことである。通勤ラッシュや住宅難、どこへ行っても人ごみばかりという社会がお好みなら何もいわないが、世界にはいろいろな国がある。例えばオーストラリアはアラスカを除く米国本土とほぼ同じ面積だが人口は2000万人弱。名目所得は日本よりも低いがプール付きの家も珍しくなく、人々はゆとりを楽しんで生活している。そして隣りのニュージーランドは北海道を除いた日本とほぼ同じ面積であるが人口は400万人。国内には美しい自然が残り、映画のロケなどにもよく使われている。このほかにも、デンマークやスイスなど、人口大国ではないが、幸福そうに暮らしている先進国はいくらでもある。※※最近、未婚で子供のいない女は「負け組」なんてことをいう人がいるが、こんなのは未婚女性に対する偏見が残っていた時代の古い価値観の焼きなおしではないか。仕事に恵まれ趣味を楽しんでいる独身女性もいれば、問題児と暴力亭主でへとへとになっている「勝ち組み」女性もいる。実は、この「未婚で子供のいないのは負け組」という言葉は男性にこそ該当するのではないか。男性の未婚率は見事に所得と相関し、恐ろしいほどであるし、また、子供の数も母親が専業主婦の家庭、世帯主の所得の高い家庭で多くなっている。つまり男性に焦点をあてると、高所得の男性ほど結婚し子供も沢山いるという構図になる。現在少子化対策として考えられている施策のいくつか、児童手当の拡充や減税などは、こうしてみると「勝ち組男性」への優遇策ともいえる。少子化問題も実は騒いでいるのはマスコミ、大学、官庁などの「勝ち組男性」達ばかりとみるのは、うがちすぎだろうか。
2005年01月26日
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最近、昔の懐かしい漫画が次々と復刻されているが、なかなか復刻版のでないものもある。まず「ガクエン退屈男」。知っている人は知っていると思うが、学園紛争時代に少年ジャンプに掲載されていた漫画である。映画バトルロワイヤルをみたとき、この「ガクエン退屈男」を思い出した。何か似ているって…ばかばかしいまでに奇想天外な設定と学園を舞台にした暴力というところである。バトルロワイヤルでは法律によって中学生同士に殺し合いが強制されたが、ガクエン退屈男では学園紛争がエスカレートして生徒と先生が西部劇もどきの殺し合いを繰り広げる。内容もエログロなんでもありで、全裸美女のSMリンチシーンなど、よくこんなのを子供向けの漫画で書いたのかとおもうほどである。ただ、物語ではクローン人間なんてのもテーマの一つとなっており、今読んでもあまり古さを感じさせないかもしれない。この漫画、連載当時もデタラメとかやりすぎとか、その方面からかなり批判があったようである。復刻版がでるとなつかしさで買う人はいると思うが、自分の子どもに読ませたいと思う人は、連載当時と同様にたぶんあまりいないだろう。※ついでにいうと、同じ作者によるギャグ漫画で「アラーくん」というのもあって、題名から想像されるとおり、いろいろと問題があるのかこちらの復刻版もなかなかでない。やはり○○教過激派が怖いのだろうか。地上に降りてきた神の子を主人公とするナンセンスギャグ漫画であったが、連載していた時分には問題視するような声はおきなかった(と思う)。あのころに比べると世界は狭くなったものである。※奇想天外という意味ではジョージ秋山の「ザ・ムーン」という漫画も面白かった。破滅に向う世界とそれを救おうとする少年達を描いたSF漫画なのであるが、とにかく暗い話である。それに、コクゴとかサンスウとか奇妙な名(ホーリーネーム?)のついた主人公達といい、終末感ただよう背景といい、後年起きたオウム事件といやに雰囲気が似ている。これも変わった漫画だし復刻版なんてとてもないだろうと思っていたが、文庫版ででていたのを、たまたま古書店で見つけた。あらためて読んでみると、なんとラストシーンでは本当に世界が終っていた。※そういえば、あの頃って核の均衡で世界が二分された冷戦の真っ最中だったせいか、児童向けの漫画でも地球の終末を描いたものがやたら多かったように思う。核戦争で文明が破壊された後に中世的な世界が出現するというのは漫画でもSFでも定番となっていたし、核戦争後の廃墟を舞台にしたり、ラストシーンが核戦争による地球破壊で終るというものもけっこう多かった。※あまりはっきり覚えていないのだが「三太郎一姫」という漫画では主人公達が核戦争の勃発した地球の光景を宇宙船から眺め「花火みたいできれい」と叫ぶラストシーンがあったと思うし、また別の何とかいう漫画では核戦争で廃墟となった少年と少女が互いを探して旅をするなんていう話もあったかと思う。
2005年01月25日
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紀伊山地の霊場や参詣道が世界遺産に登録されたことを記念し「吉野・熊野・高野の名宝」展が世田谷美術館で開催されている。午前中の外勤ついでに午後年休をとって行ってきたのだが、平日にもかかわらず大変なにぎわいで特に高齢者の姿がめだつ。そんなわけで期待したような静謐な雰囲気というのではなかったが、照明をおとした中で見る数々の仏像や仏画はなかなか見ごたえのあるものであった。※特に印象に残ったのは如意輪観音坐像。人間を超越し悟り済ましたような仏像とは明らかに異なる肉感的な女性の雰囲気をただよわせているのが特徴的であろう。よく恋しい女性の面影を描きながら仏師が仏像を彫るような話があるが、この観音坐像にもそんな背景があるのかもしれないなどと、つい想像してしまう。これに対し、典型的な仏像の表情をしているのが、阿弥陀如来立像。小ぶりの像であるが、超越者としての気品を漂わせていて、そのまわりの空気までも清浄で張り詰めているような感じがする。こうした仏像の他にいくつかある役行者の木像も目を引く。歴史の裂け目には時々えたいの知れない人物が現れることがあるが、役行者もそんな人物の一人である。伝承によると、行者は修験道を身につけ数々の法力を会得したという。つい最近、修行で超能力が身につくといって信者を集めた新興宗教があったが、こうしたものは鬼子のように突然あらわれたものではなく、古来よりの仏教の中にそうした水脈はあったのかもしれない。仏教史の中における超能力なんてのは、研究をしてみると面白いテーマではないか。※実は、吉野・熊野・高野とよばれる地域にはまだ行ったことがない。なんでも高野山に行った人の話によると、人里離れた山の中に急に町が出現するような不思議な感じのところらしい。住民もほとんどは宗教関係者だという。ただ宗教的雰囲気一色かというと、ちゃんとコンビニもあって、そこにはしっかりポルノ雑誌も置いてあったということである。※※あの朝日VSNHKの論争は双方の報道の中では急速に収束しているようである…と思ったら今度は毎日新聞のwebサイトにこれを「第2次従軍慰安婦論争」だとしている論説があった。これって案外ことの本質をついているのではないか。特定の政治家の影響力をそぐのは副次的ねらいで、本来の目的は慰安婦をはじめ「日本の過去の悪行」に対する議論を活性化させ、贖罪意識や謝罪の雰囲気を醸成することではなかったのだろうか。そうだとしたら、政治的圧力の有無をうやむやにしたまま、慰安婦論争だけが残ってしまうのは、まさに思う壺である。過去は過去として、今問題になっているのは特定政治家が不当な圧力をかけたかどうかということ。これをふみはずして過去史をめぐる論争にふみこむのは危険なような気がしてならない。http://www.mainichi-msn.co.jp/column/hassinbako/news/20050124k0000m070110000c.html
2005年01月24日
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さる病院の女医が患者を誹謗するHPを運営していたといって解雇処分になった。「頭悪い、二度と来るな」とか「あんたが死んだって何とも思わない」とかといった記述はたしかに下劣な品性といやらしいエリート意識をうかがわせるに十分だけれども、これをニュースとして報道するかどうかは、また、別の問題である。※報道によるとこのHPは件の女医が匿名で運営しているサイトであり、内容は趣味の爬虫類飼育の記述が中心であったという。そうだとしたら、HPが消去された今となっては推測するしかないのだが、HPに下品な記述があったとしても、それが直ちに当該病院の信用を低下させるとかいった、そんな性格のものではなかったのではないか。また、このHPの記述は、医者という職業に対する信用を傷つけたという人もいるが、そういう人はそれこそ医者という職業を過大評価しすぎている。今時医者もいろいろで、医者が犯罪をやったって世の中驚く人はあまりいない。逆に匿名の医者のHPで、地域の人々の健康増進に一生をささげますとか、医者として生命を守り社会に尽くしますなんて大真面目で書いてあったら、かえって気持ち悪い。そりゃ医者だって人間なんだから、飲み会や風呂の最中に緊急コールがなったらむかつく人もいるだろうし、医者と患者というかかわりしかない人が死んでも何とも思わないということだってあるだろう。HPの記述は露悪的で不快なものだが、別に外から騒ぐほどのものでもないのではないか。おそらく一番大きな問題はHPの記述から患者が特定されるかであるが、匿名の爬虫類趣味のHPという性格上、そこまで患者についての詳細な記述があるとも思えない。また、患者本人が見れば自分のことだとわかって不快になるということをいう人もいるが、しょせん個人のHPである。マスコミに比べれば訪問者数など知れたもので、たまたま彼女のHPを患者が読むなんていうのは大都会の雑踏で偶然知人にでくわすようなものであろう。そんなことを問題視しはじめたら、この楽天日記にだって身辺雑記で非難めいたことは名前をださなくても書けなくなる。当事者本人が詳細に読めばオレのことじゃないかと思うかもしれないのだから。※女医のHPは誉められたものではないが、犯罪に該当するものではない。それなのに、ニュースとして勤務先の病院名まで報道すれば、病院のHPから彼女の実名もすぐにわかってしまう。マスコミは自分達が行なっている手ひどい報道被害には眼をつぶりながら、行儀の悪い個人のHPの記述については、まるでそれを犯罪ででもあるかのように扱う。なんか変ではないのか。※「事件」の詳細及び問題のHP日記のさわりについては下記のサイトにでている。発端は「患者の指摘」だったというが、この程度の日記の記述で患者が自分のことだと確信したのだとしたら、その方が不思議である。http://www.dryamasaki.com/Article/2005/2005-01.html#050115
2005年01月23日
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今朝の朝日新聞社説には例の問題でことの本質はNHKと政治との距離にあると説いている。そもそも番組放映前にNHK幹部と政治家が会ったこと自体が問題であるとするのである。たしかに番組放映前にあったこと自体は当の政治家も含め、当事者は否定していない。そしてそれがどうかとなると議論もあるだろう。NHKは他の民放とは立場が違うが同じ報道機間でもあるのだから。※しかし、やはり今の時期にでてきたこの社説をみると論点のすりかえのように思う。現在、問題となっているのは特定の政治家が特定の番組の内容について「圧力」をかけたかどうかである。NHKと政治家一般の距離という問題ではない。そうであるならば、やはり重点は政治家の側でよびつけたかどうか、番組について何をいったかではないのか。そして重要なのはあくまでも客観的事実であって、言った言わないの水掛け論となっている「圧力を感じた。」かどうかということではない。※NHK幹部と朝日のやりとりについては実はテープがあるという説もある。しかし、仮にテープがあったとしても、朝日はそんなものを表にだせるだろうか。取材対象に了解なく録音していたとなれば種財源と記者との信頼関係はずたずたになる。政治家や要人は、以後、朝日新聞の取材に対してはオフレコ発言も含め何も語らなくなるだろう。※このNHKvs朝日の問題ではもともとの番組の問題点を指摘する声も高い。現物をみていないので何ともいえないが、昭和天皇を強姦でさばくなど一部の人からみればとんでもない内容だったようである。ただ、やはり現在問題となっていることと番組の中味自体の議論は区別すべきではないのか。ひどい番組だから圧力がなくても幹部が事前チェックするのは当然だったのではないかという傍証にはなりえても、これをもって政治家が圧力をかけてもよいという議論には決してならないのだから。また、これと関連して従軍慰安婦など過去の植民地支配下で起こった問題が現在進行中の北朝鮮をとりまく問題と結びつけられるようになると、それこそ一部勢力の思う壺であろう。強制連行や従軍慰安婦には反論できても、関東大震災時の朝鮮人虐殺はどうなのだろうか。制度の不備につけこんでの土地の収奪、そして宮殿に乱入しての皇后暗殺はどうだったのだろうか。植民地支配下の行為を今の規範で評価すれば100%の正当化などできるわけもない。アジアやアフリカの他の植民地支配だって同様であろう。ただ、それだからといって現代の日本人に何をしてもよいということにならない。昔、強制連行を考えると少数の拉致事件被害で騒ぐのはフェアでないというおそろしく低脳な発言をした某政党議員がいたが、これはいいかえれば「ホロコーストを考えるとイスラエル旅行中のドイツ人が殺されても騒ぐべきではない。」とか「アヘン戦争のことを考えると中国人がイギリスに麻薬を密輸したからといって問題視すべきではない。」といっているようなものである。幸いこの議員はきえたが、今でも北朝鮮は同様の発言をしているし、日本国内でもこれと同趣旨のことをいう人は後をたたない。※さて、北朝鮮といえば近々あのジェンキンス氏が記者会見を行うという。北朝鮮での非人道的な行為など、つつみかくさず語ってくれるものと期待したい。一度は戦場から逃げた彼だが今度の戦いからはきっと逃げないだろう。なにしろ今度の相手は圧制や抑圧という非常に戦いがいのある人類共通の敵である。そして、また、ジェンキンス氏につづいて生還した5人の被害者の方もきっと何かを語ると信じている。もちろん被害者という立場には望んでなったのではないし、語りにくいこともあるかもしれないが、しかし、あの人達も結局は、同情すべき被害者として生きるよりも、勇気ある告発者として戦うことを選択するのではないだろうか。※※世の中は朝日VSNHKで騒がしく、前述のように朝日などは「そもそも事前に政治家と会ったことが問題」なんて露骨なすりかえをやって逃げを図っている。朝日の自爆を眺めるのもも楽しみだが、それよりも気になるのは小泉の施政方針演説。北朝鮮に大して制裁のセの字もないのは予想通りだが、核問題の「包括的解決」って何よ…。次のことはをぜひ知りたいものである。1 総理のいう「包括的解決」には核放棄あるいは凍結に見返りを与えることは含まれるのか。2 その見返りには次のものは想定されているのか。 ・エネルギー支援 ・食糧支援 ・経済支援3 2でyesだとしたら、日本からの支援も想定されているのか。ちなみに韓国ではこの「包括的解決」には経済支援が当然大きな要素として考えられている。
2005年01月22日
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朝日新聞が掲載を拒否した週刊新潮には問題の記事の他に日朝交渉の舞台裏と称する記事が掲載されているが、これをふまえてこんな分析をしている人もいる。元外務官僚の方のHPであるが、総理が朝鮮総連のドンの力を借りて北朝鮮に交渉をもちかけているという記事から、やがて、ブッシュ政権と北朝鮮の取引が始まり、結局は、北朝鮮の核問題での譲歩により、日本は北朝鮮との国交正常化を進めることになるとみるものである。http://amaki.cocolog-nifty.com/※国民の間に制裁論議が高まっているにもかかわらず煮え切らない総理の姿勢や、対北朝鮮強硬派の政治家を狙い撃ちにしたとしか思えない捏造報道騒ぎ、そしてまた不可解なにせ写真騒動(韓国で隠れるように暮らしている脱北者の中から特定人物に似た人を探すなど不可能)など、みな背景には事態を少しでも沈静化させ、ブッシュと北朝鮮との交渉を待とうという勢力の存在があるのではないか。となると窮極の問題はやはりあのテロ国家、もはや日本が金を出すことでしか延命できないテロ国家を延命させるのがよいのかという問題につきる。※「日本を百年の宿敵」といい、まるで日本人だから拉致してもよいというような「論理」をくりひろげるテロ国家の存続が国益のためになるのだろうか。イギリス人だから拉致して奴隷にしてもよいとか、ドイツ人だから監禁して毒ガスをあびせてもよいとか…そんなことには絶対にならないのに。北朝鮮の飢えた子供を心配するのもよいけど、私達はまず自分達のこと、そして自分達の子どものことを心配しなければならない。あの国は既に核兵器を所有している。国交を結び日本から巨額の支援が行なわれれば、それは化学兵器や生物兵器の開発にもつかわれるであろう。もちろん標的は日本であり、我々の子供達である。※国交を正常化したからといって北朝鮮が正常な国になるとは限らないというのはまさに至言であるが、さらにいえば「異常な国」と国交を結ぶことは国交の異常化であり、その国に財政状況を悪化させてまでの支援を行なうことは国家としての自殺行為ではないのだろうか。ましてやそのテロ国家、日本人の大量拉致監禁惨殺(の可能性はやはりありますよ)をやっているとしたら、そうした国に対する巨額経済支援は自殺行為をとおりこして国家の自爆である。※国際関係だけは単純に「仲良きことは美しきかな」ともいえないし、近い国なのに国交がないのはおかしいというものでもない。総理の動向は注視が必要であろう。
2005年01月21日
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あのNHK番組の問題は沈静化どころか朝日新聞vsNHKという様相を呈してきた。報道をみるかぎりNHKにどうやら分がありそうで、それだけに朝日新聞は必死というところなのだろう。朝日の意図がどのあたりにあるのか正確にはわかりようもないのだが、ひとつだけ彼らの意図が的中したのでは…と思うところがある。※それはこのもともとの番組が従軍慰安婦をとりまく市民運動をテーマにしたものであったこと、そして日韓国交樹立をめぐる韓国政府の文書公開や徴用についての賠償責任をみとめる昨日の判決とあいまって、従軍慰安婦や強制連行(徴用)に対する関心が否が応でも高まったということである。戦後60年をむかえた今日、そうしたものについて検証することが意味がないとは思わない。半島をめぐる日本の植民地政策には非人道的なものが数々あっただろう。だが、これだけははっきりさせておく必要がある。過去の植民地支配での「旧悪」と現在進行中の拉致事件とはまったく関係がないし、現在の北朝鮮との関係をこれにリンクさせるようなものでもない。※世界史的な目でみれば第二次大戦を境にしてパラダイムは大きく変わった。戦前には、欧米列強によってアジア、アフリカの国々は分割支配され徹底的に収奪されていたが、それを悪だと思う人はほとんどいなかった。アフリカでは多くの人が拉致され奴隷として酷使された。移送途中にすし詰めの船内で死ぬ人も多く、その死者はホロコーストをも上回るという説もある。インドではイギリスの綿工業を守るために多くの綿職人の右手が切断され、セポイの反乱では処刑されたインド人の死体が並木に一人ずつ吊るされたという。アヘン輸入による中国人の被害も民族の毒殺かと思うほどのものであったし、オランダ支配下のインドネシアでは穀物の代わりにゴム栽培が強制され、多くの農民が餓死したという。そしてまた、日本もそうした列強の末席として朝鮮を植民地支配したわけである。ここで、日本の支配は、他の植民地支配と比べ、はるかにましだったとか人道的だったとかの議論をするつもりはない。ただ、こうした過去の植民地支配の罪悪を持ち出して、今進行中の拉致事件を正当化することはとてもできないということだけは確認しておきたい。それはちょうど過去にアヘン輸入があったからといって中国人がイギリスに麻薬を持ち込んでよいわけがないし、アフリカ人がイギリスの海岸で住民を拉致してよいというわけでないのと同様である。※嘘も百回いったら真実になるという言葉があるが、北朝鮮がくりかえし拉致事件を過去の「強制連行」で相殺するかのような声明を出し、また、様々なところで従軍慰安婦や強制連行をとりあげる催しや運動をやると、自然に拉致事件と強制連行などを結びつける空気ができてしまうのではないかと危惧される。今度のNHK番組の問題でも、朝日の捏造の他に、もともとの番組自体の内容を問う動きがあるが、従軍慰安婦などの件と現在進行中の拉致事件や北朝鮮に対する対応とを結びつけるような印象を与えないように注意する必要がある。※NHK番組の問題を批判的に大見出しにした週刊Sの広告を朝日新聞は掲載していない。この新聞社はやることが本当に姑息である。
2005年01月20日
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例のあのNHKと朝日の騒動は興味があっておっているのだが、ついに疑われること自体がけしからんなんていう論法まででてきた。李下に冠をたださずということらしいが、冠もなにも「男涙の記者会見」が勝手に行なわれて、そこの推測や伝聞を基に大騒ぎされて、あげくのはてには「疑われるのがけしからん」なんていうのでは支離滅裂である。言うに事欠いてとうとう…というのが正直な感想で実に面白い。※この騒ぎ、最後に朝日がどう自爆するか楽しみなんだが、ここぞとばかり政争に利用する思惑みえみえの民主党もみっともない。政権を離れ、冷や飯をくいつづけてあせっているのだろうけど、節操のない政権亡者のような動きは結局のところ支持者をなくすだけではないのだろうか。それでなくても、民主党には首をかしげている人は多い。外国人に参政権をあたえようとか、北朝鮮の核問題のさなかに核兵器の不保持を宣言しようという能天気さとか…民主党には国家意識が徹底的に欠如しているのではないか。※神作譲に懲役7年が求刑された。彼は、かって女子高校生を惨殺した少年のうちの一人であるが犯罪者、特に性犯罪者は往々にして犯罪をくりかえすということが実証されたわけである。日本でもおそまきながらミーガン法や加害者の住所把握などがようやく議論の俎上にのぼってきているが、こうした加害者に対する対策とともに被害者を守る対策もぜひ議論してほしい。いくら厳罰をかしたり法定刑を引き上げたりしたところで、被害者が告訴をためらうようではなんにもならない。ああ、それにしてもミーガン法や性犯罪者に対する厳罰化の議論はどういう論客によって主張されているのだろうか。かのNHK番組の元となった「アジア女性平和会議」(だったっけ?)もそうだが、女性なんて名を冠した団体にかぎって、こうした問題で発言しているのを聞いたことがない。これもまた、「人権」とさわぐ団体ほど被害者などの人権には冷淡だし、「女性」を看板にする団体ほど普通の女性の感覚から遠いということのまさに一例なのかもしれない。※北朝鮮から脱出した人の持っていた写真の中に特定失踪者2名の新たな写真があるという。そういえば何ヶ月か前にも、そうした特定失踪者の写真が確認されたことがあった。政府はなぜ彼らを拉致被害者と認定しないのだろうか。官邸で現像液の鑑定をやるといっていたが、そんな鑑定をまだやっているというのだろうか。
2005年01月19日
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あの日、なにげなくテレビをみていたら、関西で地震発生というテロップがながれた。へえ、関西で地震、珍しいなあ…そう思ってみていると、やがて、淡路島で死者1名というテロップが。あ、けっこう大きい地震なんだ…。そのうち、次々と「電柱が倒れている」とか「あちこちで火事が起きている」とかのニュースが入り、死者の数もぐんぐん増えていった。あの震災から10年。私達は何を感じ何を学んだのだろうか。※一つ。「人にやさしい」という気持ち悪い言葉をキャッチコピーにしていたおじいさんが総理に就いていたけど、こういうことをいう人ほど「全然やさしくないこと」ということがわかったこと。有事に際し無能ぶりをさらけだしていたことは救いがたいほどで、あの時にあの政権であったということが間違いなく被害を拡大させていた。万年野党で、官僚機構にもうとく、「何をすべきか」の判断もできなかったのかもしれないし、そういう意味では役人の総理秘書官にも責任があるのだろうけど、とにかくあれほどの災害の時期に、最低の総理、最悪の政権だったことは不幸というほかはない。そしてその総理、その後も政権にいつづけ、サリンテロのときも「今まで破防法に反対していたことが無駄になる」と大型公共事業続行の言い訳のようなことをいいながら破防法適用請求を遅らせたし、8月になると震災復興やサリンテロの対策もろくにしないまま、戦後50年の謝罪だの不戦決議だのと騒いでいた。※二つ。ボランティアがごく普通の行動として認識されるようになったこと。それまでは一部の奇特な人の行動と思われていたボランティアが普通の人が普通にやることと思われるようになったのもあの震災からではないか。そういえば、当時、忘れられかけていた元作家もボランティアに参加しその体験を本にしていた。今では彼は某県の知事になっている。※三つ。すごくいいにくいことであるが、皇室関連では、くやんでもくやみきれないことがあった。震災二日目に皇太子御夫妻が中東を訪問されたことである。予定を早めて帰国した際の皇太子御夫妻の会見の様子は本当に辛そうであったが、やはり多くの国民にとって、瓦礫の下で焼かれていた被災者をよそに、中東でラクダレースをみていたという記憶は消えるものではない。皇室を扱った出版物などでは、震災二日後に中東に行ったということは省かれ、予定を早めて帰国されたということだけが記載されているようである。微妙な問題であり、人によって様々な考えがあろうが、もし今の日本で皇室の存在意味があるのだとしたら、国民と苦楽をともにし、国民国家の統合のその支柱となることではないのか。やはりああいうときに皇室の方に一番やってほしかったことは被災者を慰め激励することで、震災被害をよそに外遊し笑顔をふりまくことではない。あの中東御訪問時の皇太子御夫妻の映像には多くの人が失望したのではないのだろうか。
2005年01月18日
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なんか今度のNHKの「問題」って、マスコミへの政治介入というより、マスコミによる政治への介入なのではないか。早い話がマスコミによる政治家つぶし。で、そのマスコミの背後には別の政治勢力がいたりして…。※とてもじゃないけど、今回の「問題」(あえてカッコつきで書くが)、純情で正義感あふれるジャーナリストが涙の記者会見で報道の自由を脅かす政治家に鉄槌をくだしたなんていう構図にはとてもみえない。あのもともとの番組についてはとやかくいうつもりはないが、会見の内容が事実であってもさして問題とも思えないうえ、その根拠が伝聞と推測だけじゃどうしようもない。それにいうのもなんだけれども、私にはどうもあのプロデューサー氏、あのイラクの三バ…じゃなかった人質になった御三方とだぶってみえて仕方がない。彼らについても、当初マスコミは英雄のように持ち上げようとしたが、WEBなどで次々と彼らの行動に対し疑問が提示されるにつれ、風向きも変わっていった。※まあ、ここから先は推測だけれども、おそらく今回のターゲットは安倍副幹事長。そしてなぜ今の時期かという点については、安倍氏の北朝鮮に対する強硬姿勢や彼のすすめようとしている日本版「北朝鮮人権法案」と関連があるのではないのか。yahooサイトでは冒頭のプリチャード氏の発言しか報道されていないが、つい最近、韓国与党傘下の研究院でシンポジウムが開かれ、最後に北朝鮮核問題の包括的解決を目指す参加者の宣言が出された。この「包括的解決」とは核放棄の見かえりに安全保障や経済支援を行なうことをいい、はやい話が援助による体制延命である。注目すべきはこのシンポジウムに日本からも大新聞の関係者や外務省の職員が出席していることである。吸収統一や(親中国政権の樹立等による)分断の固定を恐れる韓国が自国の拉致被害者を見捨ててでも、北朝鮮支援に邁進するのはわからないでもない。しかし、日本国内にも、その動機は様々であれ、同様に北朝鮮を支援したい人は沢山いる。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050117-00000009-san-int※経済制裁論議が高揚していたり、北朝鮮を反人権的と位置づける法案が議論されていたりすれば、とうてい援助どころではないだろう。そうした人々にとっては、おそらく安倍氏は邪魔な存在であろうし、なんとしてでも彼の影響力はそがなければならないのである。※今朝の朝日新聞をみると、この件についての報道は急速に沈静化しているようだ。伝聞推測の会見を涙で演出したのまではよかったが、思うように世論は踊らない。こりゃやばいというところだろうか。こうなるとはしごをはずされてしまったような、あのプロデューサー氏が気の毒でならない。
2005年01月17日
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「人は自分の信じたいものを信ずる」という言葉(artaxerxesさんの日記にもあったが)はなかなか含蓄がある。そういえば世の中で起こる様々な犯罪、そうしたものに騙される被害者の心理もかなりの部分、この言葉で説明できるのではないか。「芸能プロの者だけど貴方をスカウトしたい」とか「ポスターのモデルを頼みたい」といって若い女性を車に乗せる狼達。「おばあちゃん、オレだけど」といってお金を要求する詐欺師。こんな手口は、自分は芸能人にも遜色ないほど美しいと思いたい女性心理、疎遠な孫や息子も本心では私を思い頼っているはずと信じたい老人心理につけこむきわめて効率的なやり方である。だから騙す側の風采がテレビ局関係者にみえなくたって、電話の声がちょっと本人と違っていたって、やはり信じたい人は騙される。もちろんあくまでも悪いのは騙す側であって、こういったからって被害者を非難する意図はもうとうないのだが。※もっと大きな犯罪についてもこれはいえる。10年ほど前にサリンテロで世を騒がせたカルト宗教について多くの人はなぜあんないかがわしい男に知性や才能のある若い人が騙されたのかと不思議に思ったものだ。しかしこれも、教祖が彼らに信じたいものを提供したと考えれば納得がいくのではないか。エリート達に教祖はこう囁いた。「あなたの魂のステージは凡夫外道とは各段に異なる。」とか「あなたの霊的ステージは極めて高い。」とか。要するに教祖は彼らに、お前達は他の人間とはくらべものにならないくらい優れた人間であると囁いたのである。これを信者の側からみたらどうであろうか。どんなに優秀で学業成績に優れた人間でも、ずっと天まで持ち上げられていられるわけではない。同世代の最高の知性の集まる一流大学の大学院でさえ、給料が支給されるわけでもなければ、先の完全な見とおしがあるわけでもない。また、高い知性があっても、世知に欠け挫折にぶつかる人も多い。そうした知性や能力に自負を持ちながらも、どこかで不満をかかえた若者達に、教祖の「お前達は他の人間とはくらべものにならないくらい優れた人間なのだ」という囁きはとてつもなく甘くひびいたに違いない。教祖が信者にしたことは決してマインドコントロールなどではない。信じたいものを教義として提供したのである。そしてまたあの教祖自身も自分の教義を信じたのではないか。不条理な運命から逃れるために、彼自身、自分をとてつもない超能力者であると信じたかった。※多分人を騙すということはそれほど難しくない。その人の信じたいものを提供すればよいのだから。逆にいうと騙されないためには、信じたいことをいってくる相手には、そうでない相手以上に用心してかかることである。例えば「貴方の日記はとても素晴らしい。うちの社からぜひ出版させてください。つきましては準備金として○○円を…」といってくるような相手である。
2005年01月16日
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NHKプロデューサー涙の会見…といえば文句なしにマスコミはとびつくのかもしれないが、よく見るとこれはうさんくさいことばかり。なんでも泣けばよいというものでもない。※だいいち、もしNHK担当局長が政治家と会ったとしても、そんな話は普通の職員は知るわけもない。件のプロデューサー氏は今42歳というから問題の時期にはまだ30代ではないか。つまり、上層部と政治家とのやりとりなどどうみても知るはずのない人間が、「圧力があったと確信している」と言っているだけのことなのである。それにマスコミが踊っているのは極めて奇妙な構図であるとしかいいようがない。もちろん会見した御本人は、「確信」だけじゃまずいと思っているのか「信頼する上司から聞いた」ともいっている。ならばなぜマスコミはその上司について問いただしたり、上司本人に対する取材をしないのだろうか。それこそ肝心なところではないか。※そしてまた、昨日の日記にも書いたが、もし事実だとしてもいったいこれの何が問題なのだろうか。説明に来たNHKの者に公正な報道をお願いするなんてのは、登山計画を提出した登山者に警察が「気をつけて」というのと大差ないように思う。かんぐってみるとこの「公正中立な報道をしろ」という言葉をあれほど問題視するのは、逆にいえば、自分達の報道が公正でも中立でもないことを自覚しているせいなのかもしれない。※私にはどうも今回の件は報道の問題というよりも特定の政治家をターゲットにした政治家つぶしの策謀のように思えてならない。特定の政治家の影響力を低下させるとともに、半島に対する日本人の「罪悪」を思い起こさせる…これが真のねらいなのではないか。そうして考えると、なぜ番組放映から4年もたった今の時期にこんな問題がでてきたのか、なぜあの政治家が標的になったのか、自ずと想像がつく。政治家の圧力なるものの真相よりも、あの涙の記者会見、そしてそれにあわせて行なわれた朝日などの新聞社の大々的な報道、この背景に何があるかの方がよほど興味深い。
2005年01月15日
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政治家が説明にやってきた放送局の人間に「公正で中立な報道を求める。」って言ったことがなぜ「政治的圧力」になるのか、さっぱりわからない。俺の意見にあわない報道はするなとでも言ったのならともかく、公正、中立を要求したのなら、あたりまえのことを言っただけではないのか。※それにまた、あのNHK会長も変だけれども、被害者づらして記者会見をやっている人もかなり変。だってあの番組の原案はある集会についての主催者の主張をそのままたれながし、天皇の戦争責任(まあ、いろいろな考えがあるけど)にまで言及するもので、とてもじゃないけど公共放送として許されるものではない。それが上層部によって変えられたとしても、それは彼らが監督者として当然のことをしたまでで、それを「政治家の圧力」なんてとるのなら、ちょっと被害妄想入っているとしか思えない。※この件で朝日新聞や社民党なんかはそれこそ水を得た魚のように騒いでいるけど、普通の人の普通の感覚では、こんなことをニュースにする方がよほどおかしい。朝日など社説まで動員してなんとか「ニュース」らしくしたいようだけれども、なんでこんなのが問題なの?というのが、普通の人の普通の感覚であろう。今朝の朝日記事にも「今度の国会の火種となりそうだ。」なんて書いてあったけど、そんな願望表現をしても、踊るのは社民党だけじゃないの。※また、この社説では、事後ならともかく事前というのが検閲に通じ問題だ…なんてあるけど、マスコミ人士をみると、どうも「報道の自由」を「報道の特権」と勘違いしているのではないかと思うことがある。民主社会の中でマスコミのはたす役割はやはり大きいと思うが、特定の政治団体のプロパガンダとしか思えない報道は公共の電波の私物化であるし、平凡に暮らしている一女性の離婚について報道するのは人権侵害であり悪趣味である。えらそうに報道の自由だの検閲の禁止だのをふりかざすのであれば、ぜひそれにふさわしい内容の報道を行なってほしいものである。
2005年01月14日
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我が職場でもときどき聞くスローガンだが「女性の登用促進」という言葉がある。でもよくよく考えるとこの言葉って少し変。※まずひとつは、これって女性だから登用せよと聞こえるがこんなばかな話はない。職場の基本は適材適所でいやな上司や部下がきたら困るのは職場全体である。影響力の高い地位には男女を問わずよい人を登用すればよいのであって、女性だから登用するなんていう必要はない。※つぎにこの言葉はどうも管理職を無条件によいものとし、すべての人が、女性も含めて管理職になりたがっていることを前提にしているようだが本当にそうだろうか。部下を持ち、多くの人を統率する立場にたつことを、わずらわしいと感じている人もまた多い。そしてそんなふうに感じる人は、どうも男性よりも女性に多いように思われる。※今の時代、たいていの職場では男女を問わず管理職に向いている人はしっかりと登用されているように思う。そういう人ではなく、今の時代問題なのは、むしろ男女を問わず管理職に向いていない人だったりして…。※この「女性の登用促進」というのもそうだが、男女がどこまで同じになるのかとなるとけっこう難しい。基本的には男女にこだわらずに個人差に応じて処遇される社会になっていくのであろうが、それでも男女の立場が同じ一点に収斂していくかとなると、それはどうだろうか。※実は私は「男女同権論」とか「フェミニズム」とかいうものにかなりの不信を感じている。というのは、どんない勇ましいことをいっている女性でも、たいてい恋人や配偶者には必ず自分以上の相手を望むからである。そしてそれは恋人にかわいらしさを望む(人が多い)男性とは明らかに異なる。第一、あのボーボワールでさえパートナーにはソルボンヌの席次が一つ上、つまり首席のサルトルを選んだではないか。一般的に男女は平等と叫びながら、自分の恋人や配偶者には自分以上のものを望むのは、なんかすごく矛盾しているのではないのだろうか。※※ニュースでないものをニュースにしてしまうものとしては矢鴨が古典的例だが、政治家の放送内容への介入騒動もどうもその類のような気がする。なんで4年も前に政治家が番組制作者に言ったとかいうことがいまさらニュースになるのだろうか。ネットも発達し、マスコミの言葉を金科玉条とする人も少なくなった今日、そんなニュースでないものをニュースにする「マスコミ錬金術」がどこまで通じるのだろうか。こんなのによろこんで踊るのは朝日、毎日そして社民当ぐらいじゃないのかなあ。それにしてもこの動き、背後に特定の政治家を狙い撃ちにするような思惑がありそうで実にいやな感じである。
2005年01月13日
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北朝鮮に対し経済制裁をすると6カ国協議に悪影響を与えるという人がいる。ではそういう人に聞きたい。6ヶ国協議の目的は何で、なぜそれを維持しなければならないのかと…。※6ヶ国協議は北朝鮮の核問題を平和裏に解決する枠組みではあるが、どうもその中味をみていると同床異夢というところがあるように思う。テロ国家には見かえりを与えないという立場と、何らかの見かえりによって核を放棄させようという立場である。後者については日本の金があてにされていることはいうまでもない。「核放棄によって得るものは莫大である。」などと呼びかけていた総理の頭にももしかしたら見かえり支援というものがあるのだろうか。もちろん当の北朝鮮にとっても6ヶ国協議の場は核放棄の見かえりに体制立て直しのための支援を得ることが目的であるから、「テロ国家には見かえりは与えない」という参加国がある以上、進展するはずのない性格のものである。いいようによっては、日朝国交締結交渉が頓挫した後、別ルートで日本から金をとろうという仕組みがあの核危機とそれにつづく6ヶ国協議ではなかったのだろうか。要するに6ヶ国協議などというものは、維持しなければならないものでもなければ、それ自体が目的であるわけでもない。核の脅威を取り除くためなら安保理付託、国連による経済制裁という選択肢も十分にあるわけである。※経済制裁の反対する議論には上記のように6カ国協議を自己目的化した議論のほかに「効果のない」という議論もある。この効果がないという議論をする人にはどうも共通点があるようだ。ひとつは6カ国協議を絶対し、安保理付託、国連による経済制裁には全く言及しないことである。そしてもうひとつは、そういう人は効果がないというばかりで、効果を持つためにはどうしたらいいかという議論は全くというほどしない。いうまでもなく効果は1か100かではなく、その間にさまざまなバリエーションがあるのだが、効果がないと主張する人が、テロ国家からの製品不買を呼びかけたなんていう話は全く聞かない。要するにああいう人たちにとって困るのは経済制裁が効果がないことではなくて、北朝鮮という国が崩壊することなのであろう。※昨日の産経新聞では一面トップで北朝鮮からの海産物不買運動を紹介している。北朝鮮からの製品を買うことは結局は北朝鮮の子供たちを飢えさせることにもなるという。でも、北朝鮮の子供を心配するよりも前に、私たちはまず自分の子供達を心配すべきではないのか。核兵器を作り、化学兵器、生物兵器を開発しているテロ国家がすぐそこにある。そんな国が存続しつづけることが、大事な私達の子供にとってよいことなのだろうか。※※人は誰でも生まれ、成長し、年老いてやがて死んでいく。壮年にはほとんど害にならなくても老人には致命的となるものは、なにも正月の餅だけではない。老人が亡くなるたびに施設の責任を追及し、医者を責めるのではやってられないんではないか。最近話題のノロウィルスがどれほどのものか知らないが、医療ミスで80代の老母が死んだとか、検診の見落としで70代の父が亡くなったとかいって提訴したなんていう新聞記事をみると、ついついそんな疑問もわく。
2005年01月12日
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公開のときから気になっていた映画だけれども、レンタルでようやく見ることができた。なぜこの映画が気になっていたか・・・それは街で見かけるガイジンさん達、ああいう人から見て日本がどうみえるのかって、すごく興味があったから。見慣れたものでも、別の視点でみるとすごく違って見えるのではないのだろうか。ちょうど子供の頃、体を曲げて足の間から見た景色がまるで違って見えたように。※そういう意味では、この映画はそんな期待を裏切らない。漢字や仮名ばかりの看板。修学旅行の子供達。東京タワーの見える町並み。何か違って何かおかしい。そして出てくる日本人はほとんど英語をしゃべらない。通訳の英語でさえ心もとない。題名が示すとおり、この映画のテーマは言葉の通じない不思議ワールド日本である。言葉が通じないと、たいてい心も通じない。映画の日本人は良い人々なのだが、主人公から見ると皆異族の群れのようだ。だから主人公とよきにつけ、あしきにつけ、感情の交流をもつのは同国人に限られる。なんかこの映画をみると外国人と英語で話す自信をなくす。自分の英語もあんなにこっけいにみえるのかしらと。※見て損をしたとは思わないが、それでも映画らしい面白さを期待するとがっかりするかもしれない。はなびらさんも以前書いていたが、まるでドキュメンタリー映画のようなのである。コミカルだが爆笑するほどのシーンはないし、恋愛にしてもストーリーらしいストーリーがあるわけではない。そしてまた、余計なことだが、女性の方は小柄ではかなげですごく日本人好みだと思うが、男性の方がどうみてもありがたがってCMに使うほどのスターにみえないところがなんともおかしい。※※青色ダイオードの発明対価についての和解が成立したという。イルミネーションでみた青い光はどこまでも純粋で透明なのだが、人間界の方は金銭をめぐる紛争でかまびすしい。和解が成立した8億という金額が適当かどうかはさっぱりわからないが、かってのような英雄的天才が次々と発見発明する時代は終わり、今日の発見発明は豊富な資金の下で組織内で行われるのが普通であることにかんがみれば一審の額はあまりにも大きい。これに限らず、今日の科学技術については、成果を特定の個人だけに帰したり、特定の人だけを褒章したり…というのはどうも無理があるような気がする。もちろん開発に携わった技術者に対する報酬はかっては少なすぎ、多くの人、特に若い世代に夢を与える為にも、そうした方には十分なものを与えるべきであると思うが。※それにしてもこの素晴らしい開発をした中村氏という方、大学卒業後、会社によって留学研鑽の機会を与えられ、会社の業務の中で実績をあげた。もし、別の会社に入っていれば、今日の自分もなかったであろう。自分の才能、僥倖、そして機会をつくってくれた大勢の周囲の人に感謝することもなしに、ひたすら怒りや不満ばかりをぶちまけている様子はみていて少し寂しくなる。
2005年01月11日
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「小泉の次は安倍総理」なんて見出しにつられて週間Gの記事を立読みしたが中味をみておどろいた。強硬派の安倍が総理になれば北朝鮮に対して経済制裁が行われ、その報復としてテポドンがとんできて内閣がつぶれるだろう…というのである。早い話、経済制裁を行えばミサイルが飛んでくるよという不安感をあおり、最近高まっている経済制裁論議に冷水をあびせるものとしか思えない。※世論というものは理屈で動くときもあれば「空気」で動くときもある。経済制裁イコールミサイルによる報復をよぶという雰囲気が広まれば、経済制裁論議も急速に沈静化していくであろう。そして現在の経済制裁論議ではなぜか食料支援の凍結が経済制裁の第一段階とされている。本来は全く別のものである支援凍結と経済制裁とが一緒にされていることで、「経済制裁を行わない」という流れに万一なってしまったときに、当然のように支援をしましょうという雰囲気になることを危惧する。※報復など怖れない、ミサイルなど恐くない、などと勇ましいことをいうつもりはない。ただ今はテロが世界的に問題となっている時代で、○○しなければテロ攻撃をしかけるという脅しはいつあっても不思議ではないし、そうしたテロは100%防げるものではない。ミサイルが飛んでくるから経済制裁しないというのは、まさにそんなテロ集団に屈するのと同じ理屈ではないか。※もちろんそうはいっても安全のための方策はできるだけとらなければならない。そういう意味では国家レベルの経済制裁よりもまず国民の草の根レベルで北朝鮮への金の流れを阻止する方策をとることが有効なのではないか。海産物は生産地を確認して買うとか、あの国に縫製を請け負わせている企業の洋服は買わないとか、大口送金先となっているあっち系の食品企業の製品は買わない・・・とかできることはいくらでもある。「危険な相手だから仲良くしましょう」といった戦後民主主義特有のお花畑思考では何の解決にもならない。反日を教義とする異様なテロ国家に対しては、その暴発を抑えつつ枯死させることこそめざすべき方向ではないのか。※※ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで今年はラディツキー行進曲をやらなかったという。なんでも津波の被災者に哀悼の意を表してとのことらしい。でも、別にあのスマトラやスリランカの被災者達がウィーンでラディツキー行進曲を演奏したからって気を悪くするとは思えない。未曾有の天災被害を前に、何かやったというカッコをつけたかっただけじゃないのか。理屈だけだったら、逆に明るい行進曲で被災者を元気づけたいとか、どうにでもつくのだから。(たぶんこの場合は「被災者」といっても15万人全員を指しているのではなく、主として先進国からの観光客を指しているのだろう。そう考えると観光地のタイなどについての被害報道は沢山あるのに、アフリカの被害についてはほとんど報道されないのも納得がいく。)
2005年01月10日
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性犯罪者の前歴情報公開について、法務省はさっそく加害者のプライバシーや社会復帰を盾に反対の立場を打ち出しているようである。法務省という役所はどういうわけか被害者の人権には冷淡なくせに加害者には異様にやさしい。マスコミによる被害者の人権蹂躙には目をつぶるくせに、ネット上の少年犯罪者の実名記載などには過敏に反応するのもそのあらわれだろう。いっそ法務省人権擁護局なんて名称を変えて法務省犯罪者人権擁護局とでもしたらどうなのだろうか。※なぜこんなことになるのか・・・おそらく役所としてはマスコミに叩かれるのはこわいし、また、弁護士などの人権団体だって敵にはしたくない。どうもそのあたりに原因があるのではないか。そうだとしたら、法務省の姿勢そのものが問題というよりも、マスコミや弁護士団体などが、被害者よりも加害者の人権ばかりを騒ぎ立てるところに真の原因があるのかもしれない。※マスコミ報道をみていると、なにか、被害者側にたって犯罪行為や犯罪者を糾弾する議論は「素朴な大衆的感情論」で、加害者にやさしい議論が「知的で人道的な議論」であるかのような論調が蔓延している。奈良の殺人事件をきっかけにわきおこっている性犯罪者の個人情報公開の議論もこうしたマスコミにいわせると「一時的な感情論」ということになるのだろうか。しかしながら、治安悪化の中で幼女に対する性犯罪が社会的脅威になっていることに鑑みると、米国における法適用の実態や日本の社会風土の分析なども含めた、制度導入も視野に入れた「冷静で知的な議論」が今こそ必要なように思われる。※善人なおもて往生す、いわんや悪人をや・・・こんな親鸞の言葉の影響かどうかわからないが、弁護士、マスコミに限らず日本社会は悪人、犯罪者にやさしい。nak1さんの日記をきっかけに連合赤軍事件に参加した少年のその後を調べてみたら、(同姓同名かもしれないが)、ある県で審議会委員のような仕事をしていると知って驚いた。少年事件とはいえ、殺人事件や人質監禁に関与した人間である。そういう人を一切社会から締め出せとはいわないが、審議会委員というのは想像を絶している(元非行少女が某政令市助役というのもあるが)。※こんな公職は除外しても、犯罪を犯した人が、それをもとに本などを出し、糾弾されるどころか社会からそれなりの待遇をうけている例はいくらでもある。同じ連合赤軍事件で幾多の殺人に関与した植垣何とかという人も、現在、朝生の論客として活躍中であるし、オウム元信者の中にも、いまだに社会復帰できない人も多いサリン事件被害者達を尻目に、本を出している人が何人もいる。※一度犯罪を犯した人間は徹底して糾弾し、社会から締め出せなんていうつもりはさらさらない。しかし、犯罪を犯したことが逆に何か人生のプラスになっているようなのも、どこかおかしいのではないか。この辺は人によっていろいろな考えがあるのだろうが、「人権」というものはあくまでも重大な人権侵害を行なわずに普通に暮らしている人にとって認められるものであって、殺害、傷害、レイプなどを行なった者には「人権」が制限されるのは当然ではないか。あの奈良の殺人犯小林某にしても、ああいうものに「人権」があるとはとても思えない。
2005年01月09日
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スマトラ沖地震では国だけではなく様々な著名人も義捐金を出している。シューマッハが10億とかシャラポワが100万とか。こうなるとついつい金額を比べてしまうがどこかのサイトに一覧とか出ていないのかしら。ベッカムは出したのかなあとかウッズはどうなんだろうかとか、そんな余計なことも気になる。国家レベルの拠出もそうだけれども、こうしたものも早めに出した方がよい。なんてったって印象も話題性も違うし、いまさら少額というわけにもいかない人もきっといるに違いない。※で、日本政府の5億ドルや松井選手の寄付も含めてだけれども、そうした金が、悲嘆の底にあるであろう沿岸住民のところに行くかというと、その可能性は薄いのではないのだろうか。今回の津波被害をうけたところは、どういうわけか、あの「不安定の弧」とよばれる政情不安定の地域が多い。そうしたところでは、多くの支援金はまず内戦のための軍事費につかわれ、そして一部役人の私腹を肥やし、実際に困っている人のところにいくのはほんのわずか・・・と考えるのが順当であろう。支援が必要なところにいっているかを監視しなければならないのは、なにも北朝鮮へのコメ支援だけではない。今回の津波被害の救援でも、そうしたチェックは必要なのではないか。※※性犯罪者の前歴公開で法務省はどうも及び腰のようである。その理由が、「加害者のプライバシーや社会復帰への配慮」であるときいて、思わずむせそうになった。なるほど加害者のプライバシーや社会復帰ねえ。それでは被害者のプライバシーや社会復帰については、法務省はどう考えているのだろうか。最近でも週刊Sが長期監禁事件の被害者の女性の近況について記事にしていたが、どこで何をしているかという情報が加害者にはだめなのに、なぜ被害者には許されるのか。あの記事について法務省が動いたという話は寡聞にして聞かない。※犯罪、特に性犯罪については、防止策として加害者情報の公開も有効かもしれないが、被害者を守ることこそが実は大きな柱ではないかと思っている。二次被害を怖れるあまり被害者が「泣き寝入り」を強いられるとしたら、犯罪者の跳梁を許すだけであろう。警察も被害を把握しようがなく、検挙もできず、犯罪者情報の公開もできない。犯罪防止という見地からも、法相の言った「プライバシーと社会復帰」、こうした配慮は、加害者にではなく、まず被害者の方に向けてほしい。
2005年01月08日
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あの拉致被害者の偽遺骨の問題で、北朝鮮は日本に「我々は潔白だ」とか「謝罪せよ」とか言って迫っているそうだ。この一事だけでも、北朝鮮がまともに相手をするような国でないことはよくわかるのではないか。それにしても、被害国に謝罪せよ・・・なんて迫る北朝鮮もイカれているけど、被害国日本の方も、この拉致事件ではっきりと怒りをみせたことってあったのかしら。総理自ら「金正日は頭の良い人だ」とほめてみたり、サミットでは米国大統領に金正日の伝言を伝えたり。日本もけっこう外からみると変な国じゃないのかなあ。※こんな噴飯ものの謝罪要求とともに、ひときわトーンが高くなっているのが植民地支配の補償要求。金が入用なのはわかるけど、あの9.17以降、大きく変わったものは日本人の植民地支配に対する贖罪意識だろう。強制連行が非人道的といったって、殴って袋詰めにして連れてきた朝鮮人は一人もいない。それもそのはず。「強制連行」とは、よく考えたら内地の国民の徴用と同じものだったのだから。そしてその頃、日本人の多くの男子は明日をも知れぬ戦場に「強制連行」されていた。※植民地支配下の朝鮮では数々の差別があったとはいえ、公開処刑や餓死などは、ほとんどなかったのではないか。現に半島の人口は植民地時代に倍増している。今の北朝鮮で行なわれているような過酷な圧政があったのなら、まずそうしたものは人口に現れる。結論からいえば日本は朝鮮に補償すべき理由などないし、ましてや異様なテロ国家である現政権に対する支援など論外であろう。※ところで、今度のワールドカップでは、北朝鮮に対する応援ツアーをくむ旅行者もあるという。でも、過去に普通の韓国人主婦におきたこんな事件についてはどの程度知られているのだろうか。数年前であるが、金剛山観光に行った韓国の主婦が案内員に脱北者は幸せに暮らしていると言ったとか言わないとかで何日も抑留された事件である。帰国時の担架にのった姿がなんとも痛々しかったが、北朝鮮旅行はそんな危険と背中合わせである。それでも行きたい方は自己責任でどうぞというしかないが、サッカーの記事ばかりでなく、こんな事件があったことも報道するのがマスコミの役目ではないのだろうか。
2005年01月07日
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インド洋の津波被害に日本は5億ドル拠出するという。未曾有の天災であり、アジアの一員として日本がこのくらいの支援を行なうのは当然という声ももちろんあるだろう。しかし、国家間の関係はヒューマニズムで動いているわけではない。米国をも上回る金額を厳しい財政の中から出す以上、それがどのように使われるのか、また、日本にとってどんな利益があるのかをきちんと検証すべきであろう。政治家の一時的パフォーマンス、つまりいいかっこをするだけのために税金が使われるのではたまらない。※今回の日本の拠出は500ドルであるが、北朝鮮との国交締結の次には何兆もの「経済支援」が控えている。今回の津波被害に対する支援の何十倍である。そんな金額を天災の被害国ではなく、悪名高いテロ国家に提供する…この一事だけでも、「北朝鮮との国交回復」なんてものが、いかにとんでもない愚行であるかがわかるのではないか。国交回復の結果、得るものは、平和と安定などではない。テロ支援国の汚名と、底なしの財政悪化、そしてボディーブローのように利いてくる国家そのものの溶解現象であろう。テロ国家、それも同胞を拉致監禁、そして言いにくいことだが惨殺したかもしれない国家に天文学的な金額の血税を注ぎ込むことは、国家の尊厳を失い、国民の求心力を低下させる行為だからである。※新聞等の論調をみると、いまだに日朝国交締結が国民の願い(誰が願うか!)と書いたり、6カ国協議そのものを自己目的化したようなものが目立つ。このあたりはよく眉につばをつけて読む必要がある。国交締結後になぜか約束している巨額経済支援にしても、6カ国協議の枠組みにしても、それはいうなれば北朝鮮というテロ国家を存続させるための延命装置である。しかし、日本、いや日本国民にとって、ああいうテロ国家の存続自体が安全を脅かす、利益に反する存在なのではないのだろうか。何を考えているかわからないが、国交を締結したいらしい政治家や官僚の利害と国民の利害とはこの点では一致しない。※日朝国交締結の問題から連想して、ふと昔の日中国交締結を考えてみる。あの当時(まあ、今でもだが)、中国は民主国家とはいえず、反日感情も強い国だった。そのうえ、国交締結後、巨額のODAを支出しつづけることになったわけだが、それでも日本には熱烈な中国ブームが起き、友好ムードであふれかえった。あの頃の中国と今の北朝鮮、何が違うのだろうか。まず、中国の国際社会復帰は世界的な流れであり、その人口規模の大きさからいっても、中国が国際社会の重要プレイヤーであることは否定できなかったこと。これに対して、北朝鮮は破綻に瀕した異様なテロ国家で、その国と国交締結が世界的な流れになっているわけでもない。二つは、日本には伝統的に片思いといってもよい中国文化に対する憧憬があったことに加え、戦時中の贖罪意識を持つ人も多かったこと。北朝鮮については、朝鮮文化に対する憧れというものは伝統的にも日本にはないし、植民地支配の贖罪意識も収容所や恐怖政治の惨状をみるにつけ急速に薄れてきている。なにしろ植民地支配の方が今の恐怖政治に比べると、はるかに人道的なのだから。三つは、国交回復後、クローズアップされた残留孤児たちの存在である。あのソ連侵攻の混乱の中で赤ん坊を中国人に預けた人は多かった。そんな本来なら生きていることもできなかった子供達を中国の人達は育ててくれた。中国ブームの背景にはそんな思いもあったに違いない。これは北朝鮮に対する恐怖感、反感の底に生死もしれない拉致被害者や失踪者の存在があるのとまさに好対照である。※日中国交回復を例に、北朝鮮との国交回復の必要を説く人もいるが、比べれば比べるほど両者の間には違いばかりが際立つ。やはり、日朝間の国交締結などというものは、やるべきことではない。
2005年01月06日
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お正月に読んだ本・・・といっても大した本を読んだわけでもなければその本をオススメというわけでもない。年末の書棚整理ででてきた未読の本を隙間時間で読んだというだけの話である。※まず江戸川乱歩の「白髪鬼」。物語としては面白いのだけれども、これって「モンテクリスト伯」の焼き直しであろう。一般の人が欧米の小説など読む機会のなかった時代には、よくこういう形で海外小説の影響を受けた作品がみられる。これ以外にも、同じ作者の傑作「心理試験」の主人公はそのまま「罪と罰」からもってきているし、そしてその「罪と罰」といえば「破壊」が筋書きをほぼ借りているという指摘もある。あの童話「蜘蛛の糸」もそっくりな話が「カラマーゾフの兄弟」の中で挿話として語られており、自分の作品中の話が仏教説話風に変形されたとあればドストエフスキーも泉下で驚いているに違いない。最近では「金色夜叉」について、その種本となった小説がみつかって話題となっている。いいようによってはまねともパクリともいえるのだが、欧米の文化などに触れる機会の乏しい時代に、様々な海外小説の知識を背景にして読者が楽しむ小説を書いたのだから、こうしたものが一概に悪いとか価値がないとかいうことはできないであろう。※次に「指輪物語第1巻」。これも1巻だけ買って積んでおいたのだが、改めて読んでみた。ちょっと物語としては翻訳がいまいちである。こういうものの場合、どこまで原語をいかすかは頭を悩ますところであろうが、主役の一人の名のアラゴルンをわざわざ馳夫と訳しているのは趣旨不明である。ハリポタに比べてこちらがベストセラーにならないのは、この翻訳のまずさも一因なのではないのだろうか。「指輪物語」は今世紀最大のファンタジーの傑作といわれているが、ファンタジー小説は作品世界に入り込むまでが大変である。そういえば映画ロードオブリングも映像は美しく俳優もよかったが、やはり他人のやるゲームを傍らでみているような感があって、あの長時間作品を映画館で見るのはちょっと苦痛のような気がする。※そのほかやはり書棚に埋まっていた「新耳袋」も読んでみたが、やはりこういう恐怖体験実話ってにがてである。読んでいるときはよくても、夜中にふと思い出して怖くなったりする。ましてや2日の夜は大事な初夢である。夢にでたらいやではないか…というわけで、こればかりは、早々と頁を閉じた。※せっかくのお正月、年の初めなのだから、もっとこれぞと思う本を読んだ方がよかったのだが、年末これでもけっこう忙しく、ゆっくり本屋に行く暇もなかったのである。
2005年01月05日
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あのオウム改めアレフ教団で温熱修行中の信者の死亡が確認されたという。死亡したのは富樫若清夫氏(45歳)。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050103-00000012-san-sociこの富樫氏、「オウム真理教辞典」(東京キララ社)によれば、1987年に勤務先を退社、出家した信者で、サリン噴霧装置製造にかかわり、地裁で懲役8年を求刑されたという。その後の量刑は不明であるが、服役後、やはり教団に戻ったのであろう。ちなみにホーリーネームはマハーナーマとのことである。※いよいよ今年はあのサリン事件から10年。その後も教団は存続し、命をかけるほどの修行を行なう人がいるのは驚くばかりであるが、そろそろ皆気づいたのではないのだろうか。オウム真理教事件は決して麻原という異様なカリスマがマインドコントロールという術を使い善良な信者を操っておこした事件などではない。彼がいなくても、ちゃんと教団は存続しつづけるし、殺人に関与した信者も「マインドコントロールが解けて」悔悟の日々をおくるわけでもない。※そしてその麻原であるが公判では何年も異様な言動をくりかえし、弁護団はおろか家族とも意思疎通ができないという。裁判所はかたくなに精神鑑定を拒否しているが、彼よりももっとまともにみえる刑事被告人達に鑑定がなされているのと、あまりにも均衡を失するのではないのだろうか。はじめから詐病ときめつける姿勢はいかにも変である。本当の意味での事件の真相を究明するためにも彼の精神鑑定はぜひ行なうべきであろう。※サリンテロこそその後起きていないが、テロは今日では世界的な大問題となっている。そんなテロ被害国の中で実行犯に極刑が回避され、テロを起こした当の団体が合法的に存続しつづけた国がどこにあろうか。あの頃、テレビなどにでずっぱりのオウム評論家は事件の全貌を「麻原という怪物がマインドコントロールによって信者の心を操作して起こした事件」として描いた。あのオカルトじみたマインドコントロールなるものに首をかしげていた人は多かっただろうが、ネットなどといった便利な意見発信手段もなく、マスコミ評論家発の「マインドコントロール論」がいかにも有力な世論のように席捲してしまった。信者達に寛大な量刑が下され、破防法の適用が見送られたのにはこんな背景もあったのだろう。※マインドコントロール論を唱え、「反オウム」といいながら麻原以外の信者を擁護したオウム評論家達は今の事態、つまり教団が存続し、社会に危険を与えている状態をどう解釈しているのか、ぜひきいてみたいところである。
2005年01月04日
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紅白歌合戦の視聴率が40%をわったという。核家族化だけでなく、単身世帯も激増している今日、家族そろってこたつで紅白というのは過去の情景になりつつある。視聴率低下は必ずしも内容のせいばかりではないだろう。※それにしても、紅白のあの紅勝て白勝てという応援合戦はあまりにも子供向けで見ていて恥ずかしい。番組名は変えなくても良いけど、そろそろ紅白の勝敗というのはやめたらどうなのだろうか。誰かもいったようにそんなのには視聴者はほとんど関心ない。また、今回の紅白では日本であまり知られていない韓国の歌手を出場させ、日本で騒がれてもいない韓国人俳優の出番をつくるなどしていたが、ちょっと韓国に気を遣いすぎではないのだろうか。いくら日韓友情年をもりあげたいとはいえ、あからさまにやると見ているほうはしらけるばかりである。※そして、紅白の次の「行く年、来る年」・・・これって東大寺や永平寺の除夜の鐘などを中継するのだが、あまりにもマンネリで、10年前のものを間違って放映しても誰も気がつかないに違いない。去年も同じようなことを書いていたように思うけど、なんかもっと工夫があってもいいように思う。※年始の番組も「おせち料理」を思わせる似たような番組ばかりであるが、こんなときこそとっておきの映画などを放映してはどうだろうか。時代劇もあるけど、そういうのってあんまり好きじゃないし、ビデオレンタルに行くのも寒いしね。新春箱根駅伝の人気はあいかわらずであるが、これも、駅伝そのものの人気というよりも、他によい番組がないというのが大きな要因ではないのだろうか。※私としては今朝のNHK衛星でやっていたフィギュアスケートがなんかお正月のテレビの中では一番よかったように思う。なんてったって麗しのプルシェンコ選手がでていたしね。
2005年01月03日
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お正月も2日になると、けっこう開いている店も多く、街の様子も普段に近づいている。それにしてもさっき店頭でみかけたあのセールは一体なんだったのだろう。銀座の何とかという店の装飾品なのだが、1万数千円の値札の上に半額と赤字で書いてあり、それをさらに10分間に限って1000円で売るという。1万数千円が1000円だなんてことがあるのだろうか。※年々正月気分が薄れていくとはよくいわれることである。晴れ着の女性も町でみかけることはほとんどないし、ましてや日本髪となると、いまどき○ン○ン屋くらいのものだろう。羽根つき遊びもすたれたようだし、凧揚げをする子供も少子化を反映してめっきり減っている。生活習慣も何もかも昔と変わってきており、これも仕方のないことなのだろう。親戚の数も少ないし、そんな親戚一同が集まる広い家も都会では稀だ。東京育ちで帰省する故郷がないせいなのかもしれないが、年末年始の休みも、私の感覚では年に何度かある連休と大差ないような気がする。※※せっかくのお正月でもあるし、無責任に今年の予測をしてみる。電通や旅行業界、そしてNHKがしかけた韓流ブームはいいかげん終りだろう。日韓友情年もワールドカップの「友好ムード」同様、マスコミだけの空騒ぎに終わる可能性が大である。ただ、韓国に限らず、台湾や中国のドラマも含めて、よいものがあれば日本に紹介されるという流れは定着していくだろうし、案外、第二のヨン様は台湾あたりから現れるかもしれない。※ベビーブーム世代が本格的に定年を迎えるのはもっと先であるが、そのさきがけ世代は今年定年を迎える。元気で知識経験のある高齢者(というのも失礼だが)が街にでてくるわけで彼らを中心にしたコミュニティービジネス(地域の需要に根ざした小規模な起業)がブームになるかもしれない。そうなると起業のためのスクールや本などの需要も高くなるだろう。※元気なベビーブーム世代に比べて若者の状況は厳しさをましそうである。ニートやフリーターを若者の勤労意欲だけの問題にしたがる人が多いが、産業構造の変化により終身雇用の正社員はそれほど必要がなくなったのだからしょうがない。安定した人生設計を描ける若者が減れば、未婚化、少子化がすすむのも、また、自然の理である。若者が希望をもてる就業の場を創造することが、今後最も大きな課題である。※国際化、情報化といった流れはますます進み、その流れで中高年からの海外移住や若者の国外脱出もますます多くなるであろう。また、海外に目を向ける人がいる一方で、日本の原風景も見直され、定年後就農や農村移住も増えていくのかもしれない。「勝ち組」「負け組」という言葉はいやだが、これからは、競争の中で挑戦や刺激に生きがいを見出していく人と、それとは逆にスローな生活を求める人とで、二分されていく時代がくるのかもしれない。・・・さて、どこまで当たることやら。
2005年01月02日
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謹賀新年。今年もよい年でありますように。web日記をはじめてlycos時代を含めると3年になる。日記をはじめてよいところ・・・それはいろいろとものを考えるようになったことではないのだろうか。何となく思っていたり感じていたことでも、それだけでは「考える」ということにはならない。きちんと文章化、論理化してはじめて「考える」といえる。※そうした意味で多くの人に「考える」機会を与えるようになったwebの功績というのは極めて大きい。米国大統領選の結果を評してある評論家が「ブログなどで皆がものを考えるようになったということでしょう。」と言ってたが至言である。○○新聞はこう言っているとか△△の論調がこうだから・・・で世論が動く時代ではない。※もちろんマスコミの論調、ブログの議論、それぞれ一長一短がある。専門性や情報量ならマスコミがはるかに上であるが、ブログにもマスコミの論調にはないよさがある。それは特に匿名のブログについていえることであるが、ことさら人道主義的にみせたり知的に見せたりする必要がないということである。※「知的」とか「人道的」とか、そんな価値観にひっぱられると往々にして論を間違えることが多い。「裸の王様」は単に子供の絵本にだけしておくのは惜しい寓意物語の傑作と思うのだが、詐欺師の言い草が「利口者にしか見えない」というのがなんとも含蓄がある。というのは似たような手はけっこう新聞社、特にA新聞などが今も使っているのではないか。例えば世間の注目をひく少年犯罪事件などが起きたときの新聞の社説を思い浮かべてみればよい。こんな残虐な事件が起きたのには驚いた、遺族や世間の怒りももっともだ、しかしここは冷静に考える必要がある、云々という例のあれである。ここでは少年犯罪についての厳罰化を主張するのは「感情的な議論」でそれに反対するのが「冷静で知的な議論」という印象づけがいつのまにか行なわれている。バカで感情的な大衆には少年法の理念の素晴らしさはわからない…そうあの王様の衣装がみえないように。同じような印象付けは他の問題についても行われる。北朝鮮への経済制裁を主張するのは「感情論」で人道支援を主張するのが冷静で人道主義的議論であるといったような。※私がめざす日記、それはあの「王様は裸だ」と叫んだ子供のように、固定観念や体裁にとらわれず、それでいて多くの人が共感をもつようなことを書くことである。利口ぶったマスコミや評論家がいわないようなことであれば、なおよい。
2005年01月01日
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