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日本文化の海外発信について提言する首相直轄の有識者会議「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」(津川雅彦座長)で座長で俳優の津川氏が「日本映画の世界市場開拓の一作目」として提案した「天孫降臨」の映画化を提案したという。こうした映画ができるかどうかはともかくとして、今のような政権が続くと、東京オリンピックの開会式のイベントでも、この天孫降臨や神武東征をイメージした踊りや歌がでてくるのかもしれない。 http://open.mixi.jp/user/4819461/diary/1949753580先祖が天からやってきたという天孫降臨の神話は外国にもあり、蒼き狼が空から降ってきたというモンゴルの神話が世界規模では一番有名だろう。また、韓国にもこうした神話はあり、天から六つの卵が降ってきたうちの一つから生まれた首露王が金海金氏の祖であるとか、天下ってきた壇君が熊と結婚して韓民族の祖となったという話がある。こうした神話がなにを象徴しているかはいろいろな解釈ができるのだろうけど、日本神話の天孫降臨や神武東征で連想するのは、稲作技術をもつ集団がどこかからやってきて、東に勢力を伸ばしていったのではないかということである。事実、日本の稲作技術は最初から完成された形であらわれているので、考古学的成果とも一致する。古事記は好きで何度かよんでいるが、天孫降臨や神武東征の神話が、ことさら天皇家や日本を美化したものとは思えない。国家主義に結び付けられたのは戦前の国家神道によるもので、普通に読めばもっと違う印象がある。日本神話には人間創造の話がない。神代から人の世に自然に移り変わっていく。天皇だけをことさら神の子孫と美化しているのではなく、人間と神が非常に近いのである。なにかそのあたり、日本の文化の基層には人間尊重のようなものがあるのではないか。そういえば日本の歴史には際立った残虐な話が少ない。制度としての奴隷もなく、韓流歴史ドラマにでてくる官奴というものはどうもわかりにくい。整形手術のように人間に手を加え改造をほどこすような技術には本能的な嫌悪感がある。かつて外地として台湾や南洋を統治したときでも、まあ、時代も違うのかもしれないけど、オーストラリアで英国人がやったようなことはしなかった。日本神話といえば、戦前回帰とか右翼とかに結びつける場合もあるのだが、そうした先入観なしに、読んでみることをおすすめしたい。日本とは何か…を考えてみる上でも、古代の日本人の世界観を知ることは興味深い。そう思っているので、日本神話のモチーフがオリンピックの開会式で国家主義的に使われるとしたら、たぶんみていて恥ずかしくなるような気がする。
2016年01月31日
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著作権法では引用について以下のように規定している。引用であることを明確にする。出典を明確にする。引用が主であってはならない。ネットといえども著作権法の範囲内のものであるので、こうしたルールはぜひ守るようにしてほしいものであるし、ただ、引用だけをもってきても、レスのしようもない。小生も引用の場合には趣旨を書いた後に、リンク先の紹介は必ずするようにしている。気軽に議論できるのは、この媒体の得がたいよさであるが、かといって、ルール違反で波風をたててよいわけでもない。それに、知っているだろうか。著作権法というのは、懲役刑まであるコワイ法律である。私人の情報発信には警察も特に厳しくしているのではないか…と被害妄想もちょっとしているので、なおのこと気をつけなければならないように思う。もうかなり前であるがこんな話があった。さる若い女性がコミケでアニメの動物キャラを題材にしたポルノ漫画を書いた。ポルノ…といっても、主人公が動物キャラであるので、ポルノというよりも、ポルノのパロディで笑いを狙ったものなのであろう。素人の自由な発信の場であるコミケにはポルノやそれに近いものも相当ある。コミケを知っていれば、特に創作物として極端なものでもないのだが、それが著作権法にひっかかった。アパート周辺にパトカーが止まり警官がうろうろしていても、彼女は何か事件でも起きたのかと気楽にかまえていたようである。まさか逮捕されて、実名が全国紙に掲載されるなどとか思わなかっただろう。その後の裁判の記事等はないので、起訴はさすがにされなかったのかもしれないけど、日本社会では逮捕され、実名が掲載されることでもダメージは大きい。コミケでの情報発信を趣味にし、誰もが知っている動物キャラでポルノをおちょくった彼女には心から同情するが、悪法も法であり、徒手空拳で「権力と戦う」のも市井の一市民には荷が重い。小生の日記のレスでも「引用だけのレス」はやめてほしい。http://www.cric.or.jp/qa/hajime/hajime7.html
2016年01月30日
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太陽系第9惑星の存在が議論になっているという。我々世代だと、えっ今でも太陽系は9つの惑星があるのではと思うのだが、冥王星は惑星から降格されたので、今では太陽系の確認された惑星は8つである。もっとも、第三惑星の「万物の霊長」を自称する生物が惑星に分類しようとしまいと冥王星とよばれる天体は変わらず太陽の周りを回り続けている。http://saigaijyouhou.com/blog-entry-9699.htmlこの第9惑星の話も興味深いのだが、我々世代(また言ってしまったがw)だと太陽系の中に地球とちょうど反対側を回る未知の惑星があるという話を思い出す。そうした惑星があって、そこには、人類そっくりの生物がいるのだが、若干進んだ科学力を利用して地球を侵略してくるという漫画(遊星仮面)をけっこう夢中でみていた。独裁者があらわれ、次第に軍国主義化していくという設定が、いかにも戦後まもない時代を反映しているようで面白い。戦後生まれの人間にとっては戦争は大昔のように感じられたが、あの当時の大人にとっては戦争は生々しい記憶だったはずだ。今の科学なら、地球と同じような軌道を、たとえ正反対の位置で回っている惑星があったとしたら、わかるだろう。地球よりもはるか遠くを回る太陽系第9惑星…想像力をかきたてるのだが、生物はいそうもない。
2016年01月28日
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今日のニュースでは号泣議員の裁判の話題をえんえんと報じていた。傍聴券も大変な倍率だったというが、期待しているのはただ一つ、被告人が「わ~ん」と泣きだす場面だけだろう。そんな視聴者の要望に応えるかのように、番組内でもあの「わ~ん」と号泣する録画映像をやっていた。たしかに出張費詐取は犯罪には違いないが、あの号泣場面がなければそんなに関心をひくニュースなのだろうか。関心をひくニュースや面白いニュース、そういうものと重大ニュースは違う。かつては前者はワイドショー、後者は一般ニュースとすみ分けが決まっていたのだが、最近ではニュースがワイドショー化している。号泣県議はまだよいのだが、SMAP解散騒ぎや女性タレントの不倫騒ぎ、半素人の子供タレント集団の人気投票などをニュース枠で報道するのは見識を疑う。号泣県議よりも現職大臣の収賄疑惑などの方がよほどニュースとして大きいように思うのだが。
2016年01月26日
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いままであたりまえだと思っていたことでも、よく考えてみるとどうかな…というものがある。ある人からこんな話をきいた。第二次世界大戦は枢軸国対連合国の戦いという図式で語られるのだが、本当にそうだったのだろうか。連合国と言うのはわかる。中国には米国から援助があったようだし、米英の間には共同作戦も行なわれている。これに対して枢軸国というのは、実際の連携があったのかどうかあやしい。具体的に、ドイツやイタリアの高官が来日したり、日本の高官と協議したという実態はあったのだろうか。あまり思い浮かばない。ヒットラーユーゲントが来たという話は有名だが、これって別の言い方をすればヒットラーユーゲントの子供達くらいしか来なかったということだろう。そういえば、連合国の方はヤルタ会談とかそういった首脳同士の会議があったが、枢軸国ではそうしたものもない。もちろん日本は大東亜共栄圏といって、アジアの指導者との会議を行なっていたが、これはどうみても、ドイツともイタリアとも関係ない話である。軍事行動でも映画「ひまわり」にあるように、イタリアはドイツとともに対ソ戦争に参加していたようだが、日本はそれとは無関係である。終戦直前のソ連の参戦はあったが、別にこれは日本がしかけたわけではない。ドイツの戦線と日本の戦線は最初から最後まで無関係のようである。そういえば今でも米国が悪の枢軸と名ざししている国がある。イラク、イラン、北朝鮮であるが、この三国の間に連携があるわけではない。ドイツとイタリアとの間はどうなのかは知らないが、日本とドイツ、イタリアとの間にはそれほどの連携はなかったのではないか。三国が世界を相手に戦った…というのは表現としては面白いが実態とは違うように思う。
2016年01月25日
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尾崎士郎「人生劇場」を残侠編まで読んだ。この「人生劇場」はまだまだ続編があるようだが、主人公の運命が一段落した残侠編までがひとくぎりのようにみえる。図書館で借りた「尾崎士郎全集」でも収録されているのはここまでである。それにしても不思議な小説である。小説家を目指す瓢吉の物語と、瓢吉の友人たちを主人公としたどたばた部分と、瓢吉を若旦那とよぶ侠客を中心とした部分とが融合して一つの小説になっている。そして瓢吉を主人公とした部分は私小説、友人たちの部分は風刺小説、侠客の部分は任侠小説になっていて、たぶん一番面白いのは任侠小説の部分である。映画「人性劇場」も、そこから派生した歌謡曲「人生劇場」も、任侠映画であり、任侠映画歌謡であるのも当然だろう。もちろんそれ以外でも、私小説部分は女流作家との恋の顛末がモデル小説的な関心を引くし、どたばた部分も三流新聞社のインチキ記事でっちあげ騒動や選挙運動のお涙ちょうだい芸など、相当に笑わせ、面白い。*それにしても、この小説は今日ではかつてほどには読まれないのではないか。なんといっても時代が変わった。主人公のような「小説家を目指す青年」というのが、どうもぴんとこない。定職につかずに小説家をめざす生き方というのが、ニートにしかみえないし、女給や女流作家との関係も今の道徳では受入れがたい。それでいて主人公は「立派な人間になる」ことを人生目標としているのだから…。当時は青成瓢吉がその名のとおり青臭く真摯な青年にみえたのだろうけど、現代の読者にはどうもそうはみえず、かえって任侠達の方が、いわば「キャラがたっている」のもやむをえないことなのか。今でさえ本が売れずに出版業者は青息吐息なのに、本の出版点数などはるかに少なかった戦前に文士をめざす若者がいたなんてのが不思議である。戦前は今よりも階層差の激しい時代で、高等遊民の生活ができる人々と言うのも一定層いたのかもしれない。今の時代なら遊民は遊民で、高等遊民なんていう言葉はほとんど死語なのだろうけど。そしてまた、この小説の中だけなのかもしれないけど、旦那の世界と任侠の世界が繋がっているのも興味深い。
2016年01月24日
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中年男性アイドルグループの解散騒動を大報道しているのだが、これってそんなに大ニュースなのだろうか。そのちょっと前にはベッキ―というタレントがどうしたこうしたとやっていたが、これも、名前を聞いたことがあるくらいでまったく関心がない。本当はもっと報道しなければならないことがあるはずなのに、一般ニュース枠でこんなことを報道するのは本当におかしい。しかもどうも芸能界をやめるとかではなく、事務所から独立するとかしないといった話らしいので、さらにさらにどうでもよい。それに解散といったって、今はほとんどはドラマでも司会でも一人一人で活動しているので、変化がないようにもみえる。解散したって集まりたければ自由に集まればいいんじゃない。ただ、目にはいる報道をざっとみていると、どうも芸能人のタレント生命というのは視聴者、つまり消費者ではなく、事務所とテレビ局との関係などで決まっていくようで、そのあたりは不思議といえば不思議である。たしかにあのアイドルもそうだけれども、芸能人の多くは際立って歌がうまいとか、演技がうまいとかそういうわけでもない。本当の抜きんでた芸であれば、事務所の所属などとは関係なく、大衆がそれを求めていくものなのだろうが、そうでもなく、替えはいくらでもいるような世界で、いかに露出を多くし、宣伝に力を入れるかで人気も左右されるので、事務所との関係が重要と言うような状況もうまれてくるのだろう。
2016年01月22日
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かつて秋葉原通り魔事件というのがあった。犯人は20代の派遣社員で、将来に絶望したはての自暴自棄型の犯罪であった。このまま生きていても安アパートでコンビニ弁当を食うような生活しかできそうもない…報道によるとこんな言葉があったというが、これでは世間は同情しない。安アパートでコンビニ弁当を食べていてもささやかな幸福をみつけている人はいくらでもいる。まだ十分に若いし、今後にそんな人生しか思い描けなかったとしても、あれほどの大犯罪を引き起こす理由にはならないだろう。ただ、もしこれが「安アパートのコンビニ弁当」ではなく、「餓死や凍死と隣り合わせのホームレス生活」で、しかも、秋葉原の犯人のように若くもない…という状況だったらどうだろう。実際に世の中には、高齢で十分な年金もなく、辛い労働をしてようやく暮らしているという人も多い。もし失職するような事態になれば、たちまちアパートも追い立てをくうようになるだろう。そういう場合に生活保護というセーフティネットがあるのとないのとではずいぶん違う。以下そういう人になりかわって想像してみる。アパートでときどき不安で寝つけない夜がある。今の仕事はきつく、体力の限界でもあるのでやめたい。でも、貯金はほとんどないし、国民年金の数万円では生活はできない。家賃も払えないので、ここもでていかなければならないだろう。役所に相談にいったらどうだろうか。生活保護の際には親族に扶養照会がいくという。不仲で音信不通の兄弟や叔父叔母にも窮状が知られるのはいやだが、それは仕方ない。ただ、まだ体だけは動くので生活保護は断られるのではないか。そうなったら、路上生活に落ちるのはあっという間だ。ホームレスがあれだけいるということは、ホームレスになっても生活保護は無理ということだろう。寒風の中、空腹で座り込みながら、ゴミをあさって暮らしていかなければいけないなら…そんなにまでして生きる理由があるのだろうか。いっそ死にたい。ただ、不運続きの人生で一人で死ぬのはいやだ。幸福なやつらをできるだけ多くまきぞえにして死んでやりたい。それは社会に対する最初で最後の反抗であり、抗議だ。…とまあ、そんなふうに思う人がいたって不思議でもなんでもない。公平な社会、格差の少ない社会をめざすのは人道主義でもなければ慈悲や博愛でもない。大多数の人が安心して暮らしていくために必要なことだからなのではないか。
2016年01月20日
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新聞の中にはちょっと変な記事もある。産経新聞に掲載された「永田町の非常識」と題するものもその一つではないか。http://www.sankei.com/politics/news/160116/plt1601160002-n1.html共産党が国会の開会式に出席したことについての記事であるが、志位氏の「衆院議長にしろ、天皇にしろ、礼をしたときに私たちも礼をした。人間として当たり前だ」という発言をとらえ、天皇を「呼び捨て」にした非常識な発言であり、日本国民の総意に基く天皇陛下を尊重しない姿勢は国民をないがしろにすることにつながると難じている。嗚呼…非常識なのはこのコラム子ではないか。まるで戦前の不敬罪の亡霊がでてきたとしか思えない。HIROHITOというように呼ぶのならともかく、天皇を天皇とよぶことがなぜ「呼び捨て」なのだろうか。「総理」と言う言葉が普通にあるように「天皇」と言ったからといって別に呼び捨てとか非常識という方がおかしいではないか。志位氏の天皇についての発言は、完璧に憲法をふまえたものでなんの違和感もない。それに国民をないがしろにする云々とコラム子はいうが、この新聞が支持してやまない政権政党の憲法改正草案なるものは、現憲法に比べ、国民の権利を制限する条項が多いし、現憲法以上に国民一人一人を尊重する発想に立っているとはどうも思えない。なにがなんでも共産党を批判したいという観念にこりかたまった中味のない記事…と思うのは小生だけなのだろうか。
2016年01月18日
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群馬方面に車で向かうと大入道が肩をいからせたような形の山がみえてくる。いったい何という山なのか気になっていたのだが、「水沢山」という名であることを知った。また、あの国道から見た場合の印象的な山容はで、角度によってずいぶんみえ方の違う山であることも知った。こんなことでも知るとうれしい。日曜日は群馬…ではなく、茨城、栃木方面に向かった。水街道では珍しいブラジル人向けのスーパーがあり、そこのフードコートで朝食をすませる。そういえばこのあたりは去年激しい水害のあった地域だ。被災の痕跡はあまり目につかなかったが、しばらく行くと、大きくかたむいた家が放置されてあったりする。そのまま車を走らせ真岡に向かう。真岡は知る人ぞ知るSLの町で、鉄道ファンにはみごたえのあるものも多い。街中心部には観光エリアもあり、なんでも著名な画家が自ら作品を解説するイベントがあるとかで、ずいぶん美術愛好家の方が来ていた。そういえばこの街は昔から美術の好きな人が多かったのだろうか。近くには久保記念館というものもあり、その久保という方は著名な美術評論家だったという。作者の記念館ならわかるけど、評論家の記念館というのはあまりないのではないか…という気もする。真岡には井頭公園があり、これは東京の公園と文字は同じなのだがこちらは「いがしら」と読む。ここで今年最初の梅をみる。もちろん満開ではないが、気の早い樹はけっこう花をつけている。 真岡を後に今度は小江戸栃木市に向かう。そういえば、小学校の頃、社会科で県庁都市を問う問題があり、当時だったら栃木市ときけば栃木県の県庁所在地だと思っただろう。かつては栃木県と宇都宮県があり、統合したときに県名は栃木、県庁は宇都宮になったのだという。街の中心に川が流れ、古い街並みが保存されていて風情のあるところで小江戸とよばれているらしい。こうした江戸情緒あふれる町は他に佐原、川越などがあり、小江戸サミットをやったという話もきいたことがあるが、今でもやっているのだろうか。さてこの栃木市には「ショウガミュージアム」という施設がある。新生姜を主力製品とする地元企業の広報施設なのだが、豪華なたてものに、ピンクの生姜一色の展示が面白い。肩のこるものはほとんどなく、ショウガの部屋〈ピンク一色)とかジンジャ―(生姜)神社とか、遊び心満載で一見の価値があると思う。http://portal.nifty.com/kiji/150729194185_1.htm最後は太平山で薄暮の関東平野を一望し、本日の小旅行のしめくくりとした。空気が澄んでいたら、この太平山からは丹沢の山々や東京の高層ビル群までも望むことができるのだが、残念ながら天気は下り坂…そして本日は予報どおりの雪になっている。
2016年01月17日
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読売新聞のサイトに「生活保護申請は支援者と一緒に行こう」と題する記事があった。http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=129109おそらく紙面にも掲載されたのだろうが、こうした情報は必要な人のところにどのくらい届いているのだろうか。困窮して保護申請をするという人は心身ともに弱い状況にある場合が多い。それに加えて「生活保護≒恥」という刷りこみもある。そうした場合、意を決して窓口にいったとしても、「まだ若いから」とか、「まずは親族に援助を頼んでから」とか言われれば、ひきさがるという人も多いだろう。また、住所不定とか、持ち家とか、借金を理由に生活保護が難しいようなことをいわれる場合もある。実際、世の中には、年齢が若かったり、生活に困っていない親族がいたり、住所不定だったりすれば、生活保護が受けられないと思っている人もいる。この記事にあるように担当者の氏名をきちんとメモする、申請そのものは権利であり誰でもできるものであることを認識するというだけでも、ずいぶんと違うのに…とも思う。しかしその一方、生活保護について申請すらさせないという水際作戦が横行する背景というものもあるのではないか。窓口職員に対して「安易な申請をさせないように」という指導がなされているという可能性である。板ばさみになった行政職員がポケットマネーで困窮者に金を渡していたなんていう「事件」も読んだ記憶がある。困窮者の餓死や自殺で水際作戦を行なった職員が処分されたという話はついぞきかないが、職員もまた組織の一員であり、憐憫の情だけではどうにもならないのだろう。生活保護費は市町村単位であり、それゆえ、市町村で困窮者のおしつけあいがあるとともに、小規模な市町村だと保護者の増加はけっこう負担になる。少年がイスラム国をまねた方法でリンチ殺人されるという衝撃的な事件があったが、この少年はちょっと前まで小さな島で大家族で生活していた。母子家庭で生活保護を受けていたというのだが、島の財政にとっては子だくさんの生活保護家庭は負担になっていたことだろう。引越しの背景はよくわからないが、もしかしたら島の行政当局、具体的にはケースワーカーのような人の勧めもあったのかもしれない。もちろん保護費削減というだけが勧める理由ではなかったのだろうけど。
2016年01月16日
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地方創生のために省庁を移転するという話があるという。どうもよくわからない。首都移転ならともかくとして、一部の省庁が移転したところで、そこで新しい産業が生まれるとかそういうことではない。せいぜい公務員がその場所に居住して、その場所で様々なものを消費することによる経済効果くらいだろう。そして普通に考えれば、東京の中央官庁にいた人間が地方に勤務したとしても、せいぜい赴任期間中だけのことであり、地元に根を下ろすつもりがあるとも思えない。考えれば考えるほどに、これで地方が活性化するなんてことはありそうもない。これならば、過疎自治体が推進しているという刑務所の誘致などの方がまだましではないか。刑務所であれば、出向者ばかりの中央官庁よりも、地元の雇用にも貢献する。そして職員の多くは、共同体の一員として、地元にずっと勤務し続ける。そういえば、その昔、日本は国連機関を熱心に誘致していた時期があり、その結果、やってきたのが国連大学である。これの是非はともかくとして、当時の日本人の中には国連機関が日本にやってくることを誇らしいことのように考えていた人も多かった。まさか地方の住民もこれと同じノリで、おらが県に中央官庁がやってくる、こりゃけっこうなことだわな…くらいに思っているのかしら。怒ったらごめんなさい…なのだが。
2016年01月14日
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いつからだろうか。成人の日と言えば「荒れる成人式」が風物詩のようになったのは…。ああいうニュースを見るたびに思う。そもそも成人式なんていらないのではないか。行政が成人式の行事を行なうようになったのは戦後であるという。別に伝統というほど長い歴史があるわけではない。それに、20歳といったって、仕事についている人もいれば、そうでない人もいる。「大人になる」時期というものは極端な話、人それぞれではないか。自分を省みても、20歳にはなんの実感も感興もなく、「大人」を実感したのは、初めて給料をもらったときであった。成人式は、自治体によっては立食パーティーやテーマパークへの招待を行なうことろもあるという。紅白まんじゅう程度ならまだしも、これもまた、税金の無駄としか思えない。行政主導の成人式は、新成人のためというよりも、挨拶をする政治家のためにあるような気がする。*アベ氏の「奥さんがパートにでて月給25万円」という答弁には笑ってしまった。その昔、「パンがなければお菓子を食べればよい」とおっしゃった高貴な方がいたそうだが、彼もまた民衆の生活の実態などには関心も知識もないのだろう。
2016年01月11日
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西伊豆に黄金崎という岬がある。おそらく同名の岬は日本にいくつもあるのだろうけど、夕日が波を金色に染める様子はまさにその名にふさわしいと思う。夕日の名所で、日の入りの早い今の時期であれば、東京在住であっても、夕日をみて十分に日帰りできる。この黄金崎の展望台からは馬ロックという大岩がみえる。名称が示唆するように、そんなに歴史や伝統のある見立てではないのだが、自然の造形で馬が首をのばして海水に口をひたしている姿にそっくりにみえる。そしてその向こうには富士山。夕日と奇岩と富士山とを同時にみることができるので、お勧めのスポットである。もう一つ、西伊豆には大多子海岸も夕日の名所であり、奇岩と夕日のコラボは有名なのだが、今の季節は大きい岩のかげに夕日がかかるので残念な気がする。沖合の奇岩の間に沈む夕日だったらよいのに…。
2016年01月11日
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国会中継をみていたが、ワタミの過労自殺事件をうけたやりとりが印象的であった。この事件についての和解はかなり大きく報じられたが、この会社の代表取締役だった人が自民党公認で議員になっていることや、この国会でのやりとりについての報道は少ない。そしてまたあの残業代タダ法案についても法制化への動きが着々とすすんでいるのに、それも報道されない。まあ、最近は新聞の御用報道ぶりが鼻について新聞もそんなに読まないし、テレビもきらいなので、どっかでは紹介しているのかもしれないけど…。選挙の争点云々というけど、争点を決めるのはマスコミでも政党でもない。何をみて投票するかを判断するのは一人ひとりの有権者ではないか。ただ、政党の側にも、どんな問題に重点をおいて提示するかで、有権者の判断に影響を与えることはできる。「戦争法案」とか「護憲」の問題よりも、こうしたブラック企業の問題、そして非正規雇用の問題を前面に出した方が有権者にアピールするのではないか。そんな気がしてならない。あの若い女性議員も「ブラック企業問題」を前面に出して選挙戦を戦ったから当選したのであって、もし、護憲や平和や9条だけをいっていたら当選できただろうか。
2016年01月10日
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去年の紅白はトリが「赤いスイートピー」と「ぎんぎらぎんにさりげなく」だった。両方とも流行ったのは何十年も昔…いわば懐メロではないか。それに詳細にみたわけではないけれども、出場歌手も非常に高齢化していたように思う。40代以上、50代以上で半数くらいになるのではないのだろうか。これって紅白がかぎりなく懐メロに近づいたということなのかもしれない。かつては紅白のような現役の歌手や現在流行っている歌と懐メロ歌手や懐メロとの間には厳然とした境があった。直立不動の高齢者歌手はやはり大昔の流行歌手という感じだったし、「リンゴの唄」、「異国の丘」、「岸壁の母」、「上海帰りのリル」などは一時代前の戦後混乱期の匂いがあった。それに比べると、今は何十年の前の歌でもそんなに時代が違うという感じはしないし、歌手もお年をめしても十分に若々しく元気いっぱいだ。かつてのように紅白の裏番組に懐メロなど、今では考えにくいように思う。余談だが、子供の頃はいろいろと歌詞を勘違いしていた。うさぎおいしかの山~というのは「かの山」という山でとれたウサギが美味しいということだと思っていたし、「おそらにゆうべの星がでる~」は昨晩の星がでて家に帰れなくなってしまうような、いわば時空のゆがんだ異次元空間にでも行ってしまうような不気味さがあった。こんな勘違いはけっこうあるようで、ネットでみると、こんなのがでてくる。浦島太郎がもどってくると「怖い蟹」がいた。品川を汽車がすぎると臼の化け物が住んでいるカズサ山やボウシュウ山がみえる。「おいら岬」という岬がどっかにある。
2016年01月08日
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ある討論番組で一般人として紹介されていた人物が実は自民党の区議であることがわかって問題になっている。http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-12114122253.htmlもっとも「問題にしている」のはネットだけで、例によってマスコミはとりあげない。同じ意見でも肩書によって印象が異なるものなので、表示すべき肩書を表示しないのは世論誘導だと思うのだが、マスコミにとってはこんなのはお手のものなのだろう。そういえば大手人材派遣会社会長をしきりに有名私大教授の肩書で報じているのもマスコミだ。人材派遣会社の意見として聞くのと有識者の意見として聞くのとでは、もちろん印象は随分違う。*対立軸といえば、護憲か改憲か、9条護持か戦争のできる国づくりかと思っている人が多いがそうではないと思う。いやそれどころか、「戦争法」というのは真の対立軸から目をそらさせるためのダミーではないかとさえ思う。「多様な働き方」をどんどん広げ、「若者には貧しくなる自由がある。成功した人の足をひっぱらないでほしい」と公言するような人のめざす方向。「非正規雇用の人は結婚もできないのでそのうち淘汰される」とおっしゃる方のめざす方向。ブラック大王を公認し、議員として国会に送り込んでいるような政党のめざす方向。金持ちのおこぼれをトリクルダウンと称して富裕層優遇の政策をおしすすめている政党のめざす方向。つまり日本の多くの人をより貧しくし、希望を奪い、米国などが実際そうなっているような格差の激しい国をめざすのか、その逆をめざすのか…真の対立軸はそこなのではないか。*新聞がこう書いてあるから、とかテレビのコメンテーターがこう言っているからという思考経路で考えるのは、そろそろやめた方がよい。新聞の軽減税率の反論が新聞に載らないように、マスコミの批判はマスコミには載らない。まさか会食の効果だけではないと思うが、政権批判もめっきりと影をひそめており、兆単位の海外バラマキを「地球儀を俯瞰した外交で存在感を発揮した」と報じる始末。一つの見解としてマスコミに接するのはよいが、考えるのはあくまでも自分で考えたいものである。
2016年01月06日
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サメ…というのは魚の鮫である。浮袋を持たず生きている限り休むことができず、そして誰も好きにならないというサメ。そのサメのイメージと復讐につきすすむ孤独な主人公を重ねたインパクトの強いタイトルである。登場人物のほとんどは影や秘密をかかえ、恋愛の要素もあるが、ヒロインは最初から他の人と結婚しているので、ハッピーエンドにはなりようがない。話のテンポも思わせぶりで緩慢なのだが、結局は最後までみてしまう。ストーリーそのものよりもドラマの雰囲気が好きな作品である。まず主人公のイス。同じ脚本家のドラマ「魔王」のスンハと似たような役どころで、初めはスンハの神々しいほどのイケメンぶりに比べるとややおちるように思ったが、これはこれでちょいワルの影のある雰囲気がよい。韓ドラのイケメンファンの方には一押しである。これに対してヒロインは文句なしの美人だが、検事という設定が無理があるように思う。全然それらしくみえないし、ふわふわしたミニスカートはありえないだろう。暗く重いドラマの中で、天使のように純真で明るいイスの妹と単純だが気のいい友人(運転手)はよい緩衝材になっている。ヒロインの父は全くのダメ男だが、この俳優は、「復活」では下品で凶暴な悪役、「魔王」では滋味豊かな元刑事と、全く違った役を怪演している。以下ネタばれなのだが…物語りの核は主人公の父とヒロインの祖父の過去の所業である。光州事件と朝鮮戦争。二つの時代に拷問や良民虐殺に関与した人間が過去を封じようとしたことで事件が起きる。韓国の苦難の歴史は植民地支配だけではない。独立後も、朝鮮戦争で国土が廃墟となり、軍事独裁政権の下で弾圧や虐殺が行なわれた。ちょっと素朴な見方なのだが、反日や親日派糾弾をいうのであれば、なぜ朝鮮戦争で北朝鮮の背後にいた中国やソ連には謝罪要求をしないのだろうか。日本の植民地支配は残酷だったというのだが、少なくとも朝鮮戦争のように国土を廃墟にしたりはしなかった。さらにこれはもっと素朴なのかもしれないのだが、歴史の中では様々な出来事があり、親や祖父が拷問や虐殺に関与していたところで、それってそんなに重要なことなのだろうか。ドラマの最後に、「売国奴の子孫は富み栄え、愛国者の子孫は困窮する」という言葉があったが、先祖がなんだろうが、しょせんは本人とは別人格である。売国奴の子孫だって才覚と努力で富みさかえることもあるだろうし、愛国者の子孫だって本人がダメならそれまでである。先祖がどうのこうのといつまでもこだわる方がよほど異様なように思うのだが、しかしながらそういうものにこだわるのが、また、韓国の精神風土なのかもしれない。…というわけで、イケメン観賞に終わらず、韓国の近代史や精神風土にも思いをはせることのできるドラマであった。
2016年01月05日
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かつては新春の定番番組で「スター隠し芸大会」というのがあった。芸能人が東軍、西軍にわかれて隠し芸を競うというものだったが、だいたい英語劇、中国語劇、南京玉すだれ、ダンスなどが定番だっただろうか。紅白と並んで年末年始の定番だった時期もあったようだが、いったいいつ頃、消えたのか、どう考えても思いだせない。まあ、今は便利な時代でさっそく調べてみると、番組が始まったのは1964年、視聴率ピークは1980年、最後の放送は2010年ということである。小学校の頃、祖父母の家でこたつを囲みながら見た記憶が一番強いがその後もずいぶん続いていたようである。今では新春番組で一番人気は箱根駅伝なのだが、これもいつ頃からこうした国民的行事(関東だけかもしれないけど)になったのかよくわからない。駅伝自体は歴史が長いのだが、子供の頃は箱根駅伝の放送はなかったように思う。光陰矢のごとし。スター隠し芸大会から箱根駅伝。この間の時代の変化をつらつら考えてみると、テレビはすっかり大衆化し、「スター」を特別な人種とみる人は少なくなったし、「スター」という言葉自体なんか死語になっているように思う。雲の上のスターではなく、身近なアイドルがもてはやされ、スターのゴシップをあつかった雑誌も廃刊されてすでに久しい。あの芸能人には実はこんな隠し芸がある…といったって、それがなんなのという人も多い。CDのメガヒットというのも近年ないし、国民的スターというのも絶滅危惧種ではないか。その一方で大学進学率は上昇し、箱根駅伝なら、出場大学の卒業生やその家族は膨大な数に上る。職場や学校で話題になれば、関心はいやがおうでももりあがる。それにしても、箱根駅伝で留学生選手を起用するとなぜ「ずるい」という人がいるのだろうか。この国際化時代、留学生だから選手になれないというと、間違いなく非難する人がいる。また、箱根駅伝が日本マラソン界をだめにしているということをいう人もいるが、国内競技よりも国際競技が上ということは必ずしもいえない。日本将棋界があるから日本人のチェスチャンピオンがいないなんてことは誰も言わない…。
2016年01月03日
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昨年中に読み終わるつもりであったが、結局年をはさんで読んでいる本がある。尾崎士郎の「人生劇場」の青春編と愛欲編。三河の吉良に生まれ、作家をめざす青成瓢吉に、侠気あふれる男たちがからむ話だが、後者に焦点をあてた映画作品があるせいか「人生劇場」といえば任侠小説という印象をもっている人もいるかもしれない。小生も実はそうだった。青春編を読み、愛欲編もまもなく読み終わるのだが、なんかこの小説には二つの面があるように思う。青成瓢吉という主人公の名前は青成瓢箪からとったもので、写実を追求した小説のようにはみえないし、登場する侠客も、物語的人物で、躍動感に富む。だから、そういう人々が活躍する場面は非常にくだけていて、読みやすい。ところが瓢吉の身辺を描いた場面になると、とたんに私小説のようになり、読む速度も遅くなる。要は任侠ものの大衆小説と私小説という二つの話が一つの小説になっているという感じなのだ。だから当然、娯楽映画にするときには、瓢吉よりも、周辺の侠客が主役になる。一方、瓢吉と新進の閨秀作家との恋愛の経緯についても詳細に描かれており、こちらはこちらでモデル小説としての興味もひくのかもしれないけど。瓢吉は青雲の志を抱いて上京したということになっており、吉良にはその瓢吉の銅像まであるのだという。ただ、その先が作家をめざしての耐乏生活というのは、今ではわかりにくい。作家になると言って定職にもつかないのなら、それは今だったらニートではないか…と思う。これにかぎらずかつてはよくこういう「作家志望の青年」というのがいたようで、文学青年という言葉も単なる文学好きというのではなく、実際に小説などを書いている人に対して使われていた。今よりもずっと出版市場が少なかった時代に、こういう作家志望という人々がいたというのも不思議だが、考えてみれば戦前は格差の大きい時代で、地主の息子などで、高等遊民生活のできる層も一定数いた。そうでなくとも、高等教育の機会が限られていたので、外国語翻訳などのバイトは今よりはみつけやすかったのかもしれない。とはいえ、読んでみてそこそこ面白い文章というものはあっても、人にお金と時間をださせてまで読みたくなる文章、ましては小説などというものを書くのは、今も昔も本当に難しいのは変わりない。*本だけではなく、韓国ドラマも結局年をまたいで試聴している。「サメ」という復讐をテーマにしたミステリードラマである。「復活」、「魔王」に続く三部作ということであるが、ネットでみるかぎり先の二作に比べて評判がよくないので後まわしにしていたが、けっこう面白い。冗長ではあるのだが、主演のキムナムギルがよいのだ。「魔王」のチュジフンと似たようなやくどころで、ジブンのような神々しいまでのイケメンではないのだが、ちょい悪でせつない雰囲気がドラマによく合っている。独立運動の闘士だったという曾祖父の経歴の真偽が話の核になっているのだが、よい悪いは別にして血縁とか過去に歴史にこだわる精神風土がかいまみられる。これについては試聴を完了したところで、あらためて感想を書いてみたい。
2016年01月02日
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新年おめでとうございます。訪問して下さる方、コメントを下さる方、今年もどうかよろしくお願いいたします。というわけで…*2015年最後の日、若洲海浜公園から東京湾ゲートブリッジを歩き、年最後の日の入りを見た。橋の遊歩道ではレインボーブリッジが有名なのだが、車道の下の金網越しにしか景色の見えないレインボーブリッジとは違い、こちらは橋の上を歩くことができるので気持ちがよい。夕焼け、残照、そして夜景を背景にゲートブリッジがライトアップするまでの時間は、どれをとっても絵葉書の一枚になりそうで、身近なところにもまだまだ見どころは沢山ある。今年もできるだけよいものにふれ、よい本を読み、人とのつながりを大切にして、後悔のないように生きていきたい。日は沈み、日は昇る。一年の初めなどは人間の決めたもので、公転を続ける地球にとってはあまり意味はないのだけれども、それでも年始というとやはり特別な感慨があるのはなぜなのだろう。本年がよい年でありますように
2016年01月01日
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