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韓国ドラマ「ピノキオ」をみている。最初は嘘のつけない「ピノキオ症候群」という架空の病気をモチーフにしているので、どうかとも思ったが、これが面白い。嘘のつけない病気のヒロインが選んだ職業は放送記者。テーマは報道被害なので、こうしたものをよくテレビドラマで扱ったものだと驚く。ドラマの感想は別に書くとして印象的なのは、「何かを隠すために視聴者が関心をもつ悪者を作り出す」という手法である。ドラマの主人公もそうした報道被害で一家が破滅した過去をもっている。主人公の父は消防士であり、爆発事故後、部下を殉職させて自分だけ逃げだしたという報道が大々的になされたのだった。このドラマがあのセウォル号の遭難の後につくられたかどうかはわからない。けれどもあの事故のときも非難は「逃げだした船長」に集中した。しかし、船長に避難されるべき点があったとしても、事故の原因と船長は無関係だ。船長に対する大々的な非難の報道の陰で、追及を免れたものがあったのかもしれない。日本でも似たようなことはないのだろうか。古い話だがオウムによる弁護士一家殺害事件で某放送局が袋叩きにあったことがあった。当時のオウムには弁護士もいて、そうした人からの抗議があれば、「やっかいをさけるため」報道を控えても不思議ではないし、あの頃はまさかそれほど凶悪な団体であったなど誰も想像できなかっただろう。殺害された弁護士は当時県警と対立していたという。これもやはりどっかに非難の矛先が向かうのをさけるために某放送局が悪者にされたということはないのだろうか。今ではネットがあるので、マスコミもかつてほど好き勝手な世論操作はできなくなっているのかもしれない。しかし、その一方で、真偽不明で個人的には信じられないと思うのだが、ネット上の議論も雇われたネットサポーターという人々がいるという話もある。たしかにヤフコメなど、もっといろいろな考えがあってよいと思うものでも、一定方向の書き込みであふれていることもある。ネットは煽情的な報道にブレーキをかけるという正の側面もあるが、煽情的な報道に乗りやすいという負の側面もある。とにかく韓国ドラマ「ピノキオ」は恋愛としては韓国ドラマの王道(男2人、女2人の四角関係にラブコメ要素)をふまえているが、マスコミのニュース報道を考えるという意味でも見る価値がある。
2018年01月31日
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海外に巨額のばらまきを行う一方で生活保護の削減。それも「低所得世帯」との均衡を得るために削減するのだという。ネットの論調を見ると「生活保護」バッシングもずいぶんみられるが、ここでも江戸時代以来の「上見て暮らすな下見て暮らせ」の庶民洗脳が健在のようだ。こういう問題って生命にも直結するし、もっと報道などでも取り上げてよいように思う。そしてその一方で、さほど必要とも思えない「高等教育の無償化」は大問題になっており、これを改正憲法にまで書き込もうという議論がある。700も増やした大学は生き残りに必死だし、無償化の議論と言うのは、実はこうした生き残れない大学の救済措置でしかないように思う。今だって家貧しく優秀な子は、授業料免除などの制度を活用して地元国立大学にいっているし、防衛大学など授業料どころか給料をくれる学校もある。こうした制度を拡充していけばよいだけのことで、ばらまき給付は税金の無駄遣いである。生命に直結すると言えば森友学園の元校長夫妻の長期勾留…。厳寒の中での60歳過ぎの人間の勾留は生命にもかかわる。容疑をみても、これほどの長期勾留が必要だとも思えないし、単なる口封じとしか見えないのだが。こんなことだって「人権問題」としてもっと関心をもつべきなのではないか。この森友学園元校長夫妻に比べ、マスコミにまったくでないのは加計の方だ。これほど問題になっているのに、社会的発言が一切でてこないのは異様だ。教育事業をやるような人間であれば、開学の理念等について世に訴えかけるのが普通なのにそれができないのだろうか。
2018年01月30日
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その昔、横浜ドリームランドという遊園地があったという。アクセスの悪さとディズニーランドなどの競合施設の盛況に押され、かなり前につぶれたらしい。三浦半島にドライブに行ったが、思い立って、この横浜ドリームランド跡地に行ってきた。遠目にも目につく五重塔のような高層ビルは遊園地に併設されていた豪華ホテルの名残で、今ではその跡地にできた大学の図書館棟になっているという。大学はちょうど入試期間ということで、驚くほど静かだ。大学の前にはマンション群が立ち並んでおり、また、広大な公園もある。こうしてかつての遊園地の敷地は、遊園地だったという名残もとどめないほどに変わっている。その後、三浦半島の西海岸を南下し、湘南のおしゃれな店が並ぶ葉山を過ぎ、黒崎の鼻の岬に行った。ここは観光化しておらず、自然が手つかずに残っているため、時代劇のロケなどにも使われているという(真偽不明)。たしかに東京からそんなに離れていない場所とは思えないほど、静かな岬である。草の中の道をしばらく歩くので、完全なやぶ漕ぎになる季節よりも冬枯れの今の時期が一番良い。ただ手つかずの自然であるだけに、草があり、まだまだ歩けそうなところがいきなり崖になっていたりして、ちょこちょこ走り回る子供などには危険だろう。城ヶ島で夕日を見た後、ソレイユの丘の温泉施設に行き、帰りがけには横浜のクインズスクエアのイルミを見た。イルミも最初はネオンのような色とりどりのものが多かったが、年々趣味もよく洗練されたものが多くなっているように思う。
2018年01月29日
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「大地」の第二部「息子たち」を読んでいる。第一部が中国の農民の一代記であるのに対し、第二部は大衆小説的で、とくに軍閥の三男を中心にしたところは冒険小説の趣がある。作者は水滸伝などの中国伝記小説の翻訳もしているのであるが、そうした小説の影響もあるのかもしれない。ところで、ノーベル文学賞が純文学に限られ、大衆文学を排除しているかといえばそうではない。受賞作の「クオヴァディス」はどうみても大衆小説だろう。だから第二部が大衆小説的だとしても、それはノーベル文学賞にふさわしくないというつもりもないし、作品としての価値が落ちるというつもりもない。読み返して改めて思うのは、この小説には登場人物の名前がでてこない。第一部にも叔父とか娘といった表記があるが、第二部は特に顕著だ。虎将軍に豹将軍、狐女に鷹、豚殺し…動物園か。その一方で。せむし、白痴、あばた、兎唇という表記される人物もいる。物語としての流れを重視し、近代小説的な心理描写から距離を置いているのが第二部の特徴だろう。それではこの第二部が面白いかと言えば、そうではなく十分に面白い。ただ源氏物語と宇治十帖が色合いが違うように、「大地」の第一部と第二部は全く違う。第三部もずいぶん違ったように思う。ただ共通するのは、西洋人女性の手になる小説らしく、東洋人女性に対する憧憬のようなものが感じられる。一つはしなやかで慎み深い忍従の女性像、そしてもう一つは水滸伝や木蘭詩にみられるような凛とした女武者のイメージ。前者は阿蘭や梨花に、後者は狐女に投影されているような気がする。
2018年01月28日
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北朝鮮のミサイルに備えた訓練が東京でも行われたという。サイレンがなると、頭を押さえて丸くなる「ダンゴムシポーズ」をとるという内容なのだが、実際にミサイルが飛んできたときにそうしたものが役立つのだろうか。国際ニュースの映像でみると、ミサイルがあたった建物が破壊され、とてもじゃないけど「ダンゴムシポーズ」が役に立つとも思えない。それに、日本以外の他の国でこんな訓練をやっているのだろうか。例えば中東のいくつかの国など、日本よりもずっとこうした危険にさらされている国も多い。もし効果があるとしたら、すでに外国のどっかでこうした訓練はおこなわれているはずだ。こうしたミサイル着弾訓練には税金が使われており、住民の動員も行われているという。こうしたものが本当に効果があるのか、素人目には疑問を感じざるを得ないのだが、こうしたことを検証するのこそ報道の役割なのではないか。しょもない相撲界の内紛や政治家や芸能人の不倫ばっかり追いかけているのは報道の役割の放棄としか思えない。
2018年01月26日
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憲法は国の理想の形をしめしたものだという人がいる。そうなのだろうか。少しでも法律を勉強した人、いや、真面目に社会科の授業を中学や高校で聞いていた人は決してそうは思わないのでないか。憲法は法体系の頂点にあるものであり、基本的人権や統治機構の根本を定めたもので、その憲法に違背する法律は制定できず、法律の解釈も憲法の原理原則を踏まえて行う。憲法はそれ以上でも以下でもない。もちろん、世界の国の中には、特定の主義思想による理想国家の建設をうたったものもあるのかもしれない。ただそうした国では、その特定の主義思想以外の思想は弾圧されたり、差別されたりしているのが普通である。なぜ憲法に理想を書かないのか…といえば、理想は人によって違うものであり、思想信条の自由をみとめる民主主義国家では、特定の理想像を憲法に規定して国民に押し付けるような愚行はしないからである。一例であるが、ある国家で、「我が国は独自の穏やかな文明を持ち、古来から君主を中心にまとまってきた国である」と憲法に書いたとする。文明が独自かどうか、ましてやその文明が穏やかかどうかなんてどうやって判断するのだろう。社会科学や人文科学でも、共通認識になっていて争いのないものはあるのかもしれないが、そういうものなら書くまでもないし、そうでないのなら、全国民の戴く憲法に書くのはおかしい。なぜなら、そう考えない国民もいるのだから。
2018年01月25日
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昨日は高層階のレストランで会食の機会があった。その店は以前も行ったことがあるのだが、角のテーブルからみる地上200メートルの眺望に感動した。一日早く、あの雪の日だったら、何も見えず、会合そのものも延期されたことだろう。ついたときにはまだ残照が残っており、シルエットだけなのだが、富士山も見えた。そしてその富士山も闇にとけ、地上に目をやると一面の光の海である。都心とは方向が違うので彩華やかではなく、オフィスビルの向こうには住居の灯が多いのだが、あの灯の一つ一つに家族があり人生があると思うと不思議な感じがする。会食後、どんな店があるかもみたりしたのだが、この高層ビルにも展望ロビーがあった。これほど多くの高層ビルがあっても、展望ロビーのあるところはそんなに多くない。知っている範囲では他に新宿住友ビルとか、ガーデンプレイスとか…。あと、非常に高いわけではないのだが、周囲にそれほど高い建物がなく、スペースも広くおすすめなのは三軒茶屋のキャロットタワー。どっかにそうしたものをまとめたサイトとかないのかな。(探したらこんなところがあった。)http://communitycycle.blog.jp/category/028.html
2018年01月24日
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外れてほしい…という期待も空しく雪となった。幻想的な雪景色はよいのだが、凍った道での転倒が怖い。降り始めの今日ですら転倒事故相次ぐなんてニュースであったが、明日はどれほどになるのやら…。転倒だけでも痛いのに、その後、「高齢者の転倒相次ぐ」なんて報道の見出しにあったら、きっと二重のショックだ。う~ん、私も高齢者か、いやいやまだまださすがにそれはないだろう、と思う。とにかく歩き方よりも安全な道を選ぶ…難しいけど、転倒しそうな道は極力さけるしかないだろう。明日の出勤を考えるとちょっと鬱である。閑話休題。昨日の日記でオウム事件の死刑執行について書いたが、麻原の処刑はあるのだろうか。執行も大変…と書いたが、この間の市川一家殺しの関光彦のような並の悪人と違い、麻原のような、いわばわけのわからない怪人?の処刑というのは気味が悪いのではないか。結局誰も判を押さない可能性が高いように思う。オウム事件のようなものは歴史上も稀なのだが、例がないわけではない。古今著聞集には天竺冠者という人物が超能力を披露して信者を集めたという記事がある。麻原のようなテロは行わなかったが、結局は捕縛され、その時には超能力も失せていたという。この天竺冠者も処刑はされなかった。やはり気味悪かったのだろう。
2018年01月22日
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オウム裁判の最後の一人である元信者の判決が確定した。これでいよいよ刑の執行が焦点となってくる。思えばオウム事件が起きた1995年の頃は今のようなネットはそれほど普及していなかった。だからいくらマスコミを席巻している意見がおかしい…と思っていても、一般人にはそれを発信するすべもなかった。あの事件が起きてしばらくした頃、どの局をみても、そしてどの新聞雑誌をみても、同じ弁護士やジャーナリストの方が出ていたように思う。彼らはこの事件が起きる前からオウム真理教を問題視しており、様々に活動してきた方で、その発言が尊重されるのは当然である。けれどもそうした発言を聞きながらものすごく違和感をもった。言っていることは、あの犯罪は「教祖一人の欲望を満たすためのもの」で、実行犯の信者たちは「マインドコントロールされた純粋な良い子達」であり「被害者」であると言っているのだ。そしてさらに言っていることや書いていることをみてみると、そうした「マインドコントロール」された「被害者」は高偏差値の者にかぎられているようだった。ありていに言ってしまえば、オウム幹部の中には綺羅星のように高偏差値の秀才達がいるのだが、それにあてはまらい実行犯には冷たい。ある人は、貧しさゆえに養子に出され、世間の荒波の中で辛酸をなめた実行犯について「麻原に次いで憎い男」と言い、また、ある人は高偏差値ともいえない(失礼)実行犯について「マッドな人物」と言っていた。そして盛んに言い立てた「マインドコントロール」についても、称賛の手法とか報償の手法など、それはセールスや恋愛の駆け引きでも使われるようなもので、意思に反して犯罪を行わせるようなものとは思えない。なんのことはない。弁護士やジャーナリストもしょせんは受験競争の勝者らしく「高偏差値=よい子」という固定観念に縛られているのだ。甲子園に進学校が出場すると思い入れたっぷりに肩入れする感覚と大差ない。もし、教祖に従った実行犯達がヤンキーだったら、おそらく「マインドコントロール」なんて言葉はでなかったであろう。オウム事件の後、いろいろな本を読み、また、実際にサリン事件の実行犯になった医師の手記も読んだが、結局、なぜ事件を起こしたかはわからなかった。今後も、おそらくわからないであろう。教祖についても本当のところはわからない。だから思う。刑の執行に教祖と信者に差別があってはならないし、信者の間にも差別があってはならない。それにしても…刑の執行は、それを命ずる法務大臣にとっても、実際にそれを行う刑務官にとっても、とてつもなく嫌な仕事だろう。それはこの事件だけに限られないのだろうけど。
2018年01月21日
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社会が進歩すれば権力者は好き放題なことはできなくなる。民主主義国家であれば国民の監視があり、マスコミの監視があり、三権分立による権力の相互チェックもあるからだ。ところがそれがどうも怪しく思えることもある。白昼公然と人権侵害が行われているのに皆が無視し、問題にしない。そうなれば、今は他人事だと思っていても、明日は我が身となるかもしれない。例の校長夫妻の長期勾留の件である。どうみても逃亡のおそれも証拠隠滅のおそれもない人間をかくも長期間勾留する理由があるのだろうか。現政権、もっとありていにいえば現総理にとって都合の悪いことを言わせないための身柄拘束だとしか思えない。いくら最近の人は昔に比べ元気だといっても、それは普通の生活をしているという前提においてであろう。「補助金詐欺」という罪状で、60歳を超えた人間を、しかも夫婦で何か月も勾留しているのは立派な人権侵害で、人権団体やマスコミが黙っているのが不思議でならない。いっそ海外の人権保護機関に訴えた方がよいのかもしれない。あの校長の考え方には全く共感できないが、それとこれとは別。ときの政権にとって都合の悪い人物はいくらでも勾留できてしまう社会なんかはごめんこうむりたい。そうでなくとも、新政権か反政権が知らないが、それなりに影響をもっている論客が窃盗とか盗〇とかいった容疑で逮捕されたことがある。そうした人の中には、すっかり政権べったりになって、ブラック企業の問題も景気がよくなって職場を選べるようになったから問題になったといった珍説を吐いているのもいる。闇は深い…のかな?
2018年01月19日
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人手不足で飲食業の倒産が起きているという。普通に考えれば人手不足は好況の指標で、総理もこのあるごとに「有効求人倍率の上昇」に言及している。人手不足は賃金の上昇を招き、そして賃金が上昇すれば、それは需要の増加を招く。かつての好況と言われた時代はそうだった。それなのに今は人手不足で倒産だなんて…。世の中をみわたせば飲食業に限らず、どこにも景気のよい話などない。旅行業界も出版業界も不況だし、マスコミも斜陽産業だなんていう話もある。どうも今起きている人手不足というのは、過去の人手不足とは内容が違う。安価で提供しないと物が売れない。そのためには人件費を削らざるを得ない。低賃金や低待遇では人が集まらない。かといって賃金をよくするわけにはいかないので倒産する。生活の苦しい人が増えれば、安価でないと物が売れなくなる。今起こっているのはそうした負のスパイラルなのかもしれない。総理のよくいう「有効求人倍率の上昇」も、どんな求人が増えているのかを検証しないと、本当に経済政策が成功しているのかどうか怪しくなる。
2018年01月17日
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本を読み返したとき、昔と今とで印象が違うというものがある。「大地」もその一つだ。高校生の時は、この小説を「文学」として読んだ。貧しい中国の農民の話はストーリーとしてさして興味深くもなく、読むのにひどく時間がかかったものだった。そしてまた、当時はまだ中国と言えば漢籍の国というイメージがあり、そうした教養教育を受けた世代も健在だったので、中国が奇異な風習をもつ途上国として描かれているところに違和感があった。ところが今読むとずいぶん印象が違う。これは意外に大衆的な小説なのではないか。ストーリーの面白さもさることながら、主人公たちの人生観や価値観についての描写には、東洋文明に対する作者のリスペクトのようなものさえ感じる。昔読んだときには主人公の妻阿蘭は不幸な女、そしてやってきた妾やそのおつきの女奴隷は悪女という印象だったのだが、読み返してみるとさほどではない。阿蘭は妻として男の子を産み、その男子が結婚したことで、自分が立派に血脈を守る役割をは果たしたことに満足して死んでいく。そして妾達も、男子の縁談や結婚には、きちんと役割を果たしていく。夫婦との関係よりも血脈の維持を重視するという東洋的価値観を描いたのかもしれないけど、はたしてこれは東洋独自なのだろうか。まだ、第一部を読み終えただけなのだが、物語は最初の主人公の子供の世代、そして孫の世代と続いていく。時代も清朝末から軍閥の時代、内戦の時代と、中国が近代化の波の中で苦闘していった時代である。物語の第二部や第三部は昔読んだ時とどのくらい違う印象を与えるのだろうか。第二部や第三部についても感想をかいてみたい。
2018年01月15日
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現政権では機会の平等や貧困の連鎖をたちきるための教育の無償化の議論がさかんに行われている。けれどもその一方で国立大学の文科系学部の削減や国立大学そのものの再編の動きもあるのだという。よく考えると、これはおかしな話だ。かなり昔の話だが従兄が地元国立大と東京の私立大とに合格して、かなり壮絶な親の反対をおしきって東京の私大に進学したことがあった。その頃は東京のキャンパスライフに憧れる従兄の気持ちが分かる気がしたが、今では伯父の気持ちの方がよくわかる。当時は国立と私立とでは学費が全く違っており、その上、下宿か自宅かでもかかる費用が違う。従兄は幸か不幸か東京の私大に進学できたが、家庭の事情で地元の国立大学しか選択肢がないという人もいるだろうし、その中には相当の俊英もいるかもしれない。昔も、そして今も、経済的事情には恵まれないが優れた能力を持つ者に機会を与えることは地方国立大学の大きな存在意義なのではないのだろうか。そうだとしたら、どうみても序列化としか思えない三分類やそれによる補助金の差異などは、こうした存在意義に逆行しているとしか思えない。まあ、三分類というのは世界最高水準の研究を行う大学、特定の分野で世界的な教育水準を有する大学、地域貢献型の大学というのだが、学生の質にこの三分類があてはまるわけではない。徳島大学は地域貢献型に分類されているが、この大学からノーベル賞学者がでている。地域に誇る頭脳が育ち世界に羽ばたいていけば、それこそ最高の地域貢献であろう。三分類にどんな意味があるのだろう。また、文系学部の縮減も、地元国立大学を選ばざるをえない学生にとっては痛手だ。法律や経済の科目は公務員試験や国家試験にむずびつく場合が多い。貧しくとも志を立ててそうした途を目指す若者にとっては地元国立大学にそうした学部があることが必須ではないか。機会の平等、もっとはっきりいえば貧家の秀才に機会を与えるというのなら、ばらまき奨学金よりも、国立大学の充実と授業料免除や学生寮の提供で十分なのではないか。もしかしたらそうしたものは今でも提供されているのかもしれないが…。子供の数が減っているというが大学は700もあり、大学進学率はさらに増えるという人もいる。信じられない話だ。米国で大学進学率が高いのは、かつての旧制高校のような教養教育を大学が担っており、しかも州立大学は入学が簡単で学費も安いという。韓国で大学進学率が高いのは日本の専門学校のような実利的な職業教育を担っているからだという。それを考えると日本の大学に進学することにどんな意味があるのだろうか。言いにくいことだが、日本の大学は偏差値によって序列づけられている。わざわざ高い授業料を払い、吸収力に富んだ時期を捧げ、自分はさほど勉強ができないという証明にしかならない卒業証書を貰うのは奇特というか物好きというか…。
2018年01月12日
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観光庁では若者の海外旅行離れを食い止めるために有識者検討会を設置したという。海外旅行離れにはいろいろな要因があるが、最も大きな要因はやはり金の時間がないことではないのだろうか。そうだとしたら、それは厚労省の問題であって、観光庁でうわっつらの議論をしても税金の無駄としか思えない。それに、外貨獲得のための外国人観光客呼び込みのためならともなく、日本人の観光振興なるものが行政の目的になるのだろうか。観光をしたい、趣味をやりたい、外食もいい…こういうことは、お金とヒマがあれば自然とさかんになるもので、行政の目的は多くの人がそうした余裕をもてるようにすることだと思う。ブラック企業を野放しにしたり、多くの労働者を低賃金のままに放置すれば、観光などやりたくてもできない人が増えるだけである。観光庁は、外国人観光客の日本呼び込みに特化した方がよい。
2018年01月11日
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子供の頃の年末年始を思いだしてみると、紅白歌合戦、行く年くる年、そして新年のスターかくし芸大会が定番だったように思う。その頃はたいてい母方の祖父母の家にいっており、こたつでみかんを食べながらテレビ三昧をやっていたわけである。あの頃は流行った歌というのは皆しっていた。紅白を見ながら、そういえば春にはあれが流行っていた、夏にはこれが流行っていたというように流行歌を聞きながら今年一年を回顧したわけである。そういう「流行歌」というのは、いつ消えたのだろうか。今年はやった歌、去年流行った歌といっても、さっぱり思い浮かばない。CDがそもそも売れないので、最近では歌手もコンサートでの収益が重要になっているのだという話をきいた。そういうことも、誰でも知っている流行歌がなくなったことと関係あるのだろうか。次が行く年来る年…これは偉大なるマンネリという言葉がぴったりくる番組で、「ご~ンご~ん東大寺の鐘の音です」なんてのは10年前の再放送をやっても誰も気づかないのではないか。このころになると、テレビを切り上げて初詣にでかけることもある。そして新年は、人気女子タレントが晴れ着で出演する「お節番組」が延々と続く。こうしたお節番組の定番が新春スターかくし芸大会だったが、これはいつ始まっていつ終わったのか、どうもよくわからない。女性タレントがラインダンスをやったり、外国語劇をやったり、そしてまた南京玉すだれなんてのも定番だったように思う。今では、親戚一同集まって大勢で同じテレビを見て年末年始をすごすなんていう光景も少なくなったことだろう。箱根駅伝のように集中してみなくてもよいような番組が人気なのも、こうした視聴者の変化と関係あるのかもしれない。競技そのものもさることながら、沿道にでている人に中には「俺が映っていること」を確認するためにテレビを見ている人もいるのではないか。
2018年01月09日
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韓国ドラマ「ヒーラー」を視聴した。主役俳優はイケメンだしアクションもでき、演技も上手い。だから、彼のファンには絶対にお勧めである。他の登場人物もなかなか個性的で、結局リタイヤもせずに最後までみた。ただし、よかったかとなると疑問符がつく。韓国ドラマではときどきあるのだが、人気のでたキャラは登場頻度がたかまり、そうでない場合は話の途中で消えていく。最初からストーリーが決まっているというよりも、評価によってストーリーが変わることもあるという。「ヒーラー」も、最初にでていた枕営業を告発する被害者女性がいつの間にか消えて行ったり、主人公の記者たちが追求する不正も枕営業から橋工事受注、細菌兵器を使った災害と転々とする。視聴中は次はどうなる、この真相はどうなんだ…という興味と魅力的な登場人物でひっぱっていくのだが、視聴後は、なんかよくわからないままに終わったという感じもある。
2018年01月08日
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「八月の光」を読み終えた。なぜこれを読み始めたかと言えば、「ノルウェイの森」で主人公が読んでいたからである。主人公が読んでいるのは「魔の山」と「八月の光」。食べたものはだし巻き卵に青豆ごはん…これはどうでもよいとして、「魔の山」を読むのは恋人のいる療養施設を訪問する場面で、「魔の山」のサナトリウム訪問と逗留の物語が小説と二重写しになり、効果的だった。となると「八月の光」もどんな小説か気になるというわけである。読んでみたら、アメリカ南部の架空の町を舞台にいくつものの人生が交差する不思議な雰囲気の小説であった。何人かの登場人物は全く交渉をもたずにおわるし、殺人、放火、そして犯人のリンチ殺人というドラマチックな事件も起きるのだが、そんなものにはほとんど関知しない登場人物もいる。八月の光…それは7月ほど激しくはないけど、温かく芳醇なイメージである。そんな八月の光のような女性が町にやってくるところから物語は始まる。身重の身で生まれてくる子供の父親を捜しているのである。客観的に見れば悲劇的状況なのだが、女性にはまったくそんな影もない。「わたしとうとうこんな遠くまできちゃったのね」とつぶやいて、男の真実を疑うこともしない。そしてなぜか彼女には手をかす人が次々にあらわれる。殺人、放火、リンチと様々なことが起きるのだが、彼女のような女性がいるかぎり、世界はおだやかに回り続けるのかもしれない。八月の光の中で…。
2018年01月05日
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どこに行っても混んでいるので、こういうときでないとなかなか行けない近場の見どころに行くことにした。まず越谷の大型商業施設のレイクタウンに行ってみる。こういう施設では、よくイベントをやっていて、特段の買い物の予定がなくとも楽しい。ちょうど半崎美子のステージが始まるところで、この歌手の名は知らなかったが、桜の歌はきいたことがある。30歳代後半で全国に知られるようになった遅咲きの歌手だということで、特に、お弁当を作る母の気持ちを歌にした「お弁当ばこのうた~あなたへの手紙」がみんなのうたで放映され、話題になったそうだ。この歌は、失礼だが、歌手本人がお弁当を卒業する子供の母親くらいの年齢になって初めて歌える歌のように思う。聴衆は中年以上の人も多く、イベント終了後のCD販売には長蛇の列ができていた。このレイクタウンそばには、スカイダイビング体験施設という建物があった。そしてその施設には「ロシア料理」という大きな看板もある。スカイダイビングとロシア…関係あるようなないような不思議な取り合わせだ。見学自由とあるので話のタネに入ってみる。密封空間で下から強風を吹き付け、空中に遊泳するというもので、たしかに、スカイダイビングはこんな感じなのかもしれない。インストラクターに体を支えてもらい、空中遊泳するのだが、体重の軽い人や子供などは本当に軽々と浮いている。快適な観覧席から見るだけだったが、もう少し体力とお金があればぜひやってみたいものある。さて、気になるロシア料理であるが、本格的なレストランのようなものはみあたらない。ただ、コーヒーなどをだすスナックコーナーにロシア風のなんとかというのがあるので、ロシア料理というのはこれのことなのだろう。…なんでロシアなんだと思うが、もしかしたらここの施設の関係者の中にロシア出身の方がいてとか、そういう縁なのかもしれない。越谷の後は流山に行く。ここも江戸情緒の残る町並みや新撰組の史跡があることで知られている。一次は流行りのアニメ聖地観光にのろうとして、それらしい作品もあった(流「川」市のローカルアイドルが主人公)が、残念ながらそれほど流行らなかったようだ。ただ町の良さを見直し、発信しようという試みはよい。ここの町の浅間神社には本物の富士山の溶岩岩を使った6メートルの富士塚があり、パワースポットにもなっている。浅間神社に詣でた後、浅間神社があるということはここからも富士山が見えるに違いないと思い立ち、江戸川土手に行ってみる。たしかに富士山がよく見え、ちょうど中腹に夕日が沈んでいく。もうすこし時期をずらせばダイヤモンド富士も見えることだろう。ただ、こんなに天気が良いのに、富士山のところにだけ雲がかかり、上3分の1くらいはすっぽりと雲に覆われている。土手を降りる途中で、立派なカメラを持った男性が子供を連れて。あわてて階段を上ってきたが、もしかして夕焼けと富士を撮ろうとしているのかもしれない。残念ながら富士山頂は雲の中ですよ…。
2018年01月03日
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今年は有名な場所で初日の出を迎えようと思い立ち、レインボーブリッジに行った。高層ビルや展望塔で開放しているところも考えたのだが、ああいった場所は入場に限りがある。橋なら大勢の人が入ることができそうだ。レインボーブリッジといっても、上の方には歩道はないので、歩行者は「貧乏ブリッジ」(有料ではない)とよばれる下の車道脇の金網のついたところを歩く。それでも、晴天の元日、徐々に明るくなっていく空の下、海と高層ビル群の光景はよいものである。橋の中ほどの展望デッキのようなところには、すでに多くの人がいたのだが、それでも、頭越しに昇ってくる初日を拝むことができた。太陽が昇ると、オレンジ色の光が周囲の建物を染めていく。今日一日が始まる。今日が、いや今年一年がどうか幸多いものでありますよう…。ここには、初日を迎えるため、大勢の若者が集まってきていた。映画館やレストラン、それに観光地など、どこに行っても若者の姿よりも中高年以上の姿をみることの方が多いのだが、こんなに多くの若者がいるなんて。
2018年01月02日
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