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どこかの市で学歴詐称がばれて諭旨免職になった職員がいたという。学歴詐称といっても高卒を大卒といつわっているわけではない。その逆である。いまどき大卒がすべてエリートだなんていう人がいたらそれこそものを知らない人間で、今の時代兄弟が少なく家にちょっと金があれば誰でも大学にはいける。へたな大学生よりも高卒で働いている人のほうがよほど優秀なんてことがあっても誰もおどろかない。そんな大卒の中には安定した職業につきたいから高卒レベルの職員に応募するという人だっているだろう。せっかく試験を受けて採用され、10年も勤めたのに大卒だから免職だなんて…これこそ差別、そしてまた再チャレンジの理念にも反するのではないのだろうか。マスコミも本当に社会の木鐸を自認するならば「不二家バッシング」や「産む機械発言バッシング」などに血道をあげるよりも、こうしたことこそ問題視してとりあげてほしいものである。
2007年01月31日
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格差をめぐる論議の中で総理は「記者の方もそれぞれ給料がちがうがそれが格差なのか」とか「能力や努力の差に目をつぶって結果平等をめざす社会を考えていない」と言って反論をしたという。もしそうであれば総理の格差に対する感覚は「格差があって何が悪い」といった前総理と大して違わないのではないか。今問題になっている格差は記者同士の給与の差などとは全然別次元の問題であるし、能力や運のない人間はどうなってもよいという感覚ならそれはそれで大問題である。もちろん人間をひとしなみに扱うという結果の平等を主張するつもりはないが、ワーキングプアやネットカフェ難民などの新しいタイプの貧困層が激増し、しかもセーフティネットもほころびかけているのは大変なことではないか。※なんか数日前から大臣の「産む機械」発言で騒がしいが、こういう発言で大騒ぎするのもいいかげんにしろといいたくなる。特に何人かの女性議員はここぞ出番とばかりにはりきっているが、ああした方々が具体的に「女性」のために何をしてきたのだろうか。たとえば性犯罪被害者の報道被害などについて女性議員が何かマスコミにもの申したなどという話は寡聞にしてしらない。※まあ、あの大臣発言に問題があるとしたら、子供のいない女性に対する偏見の匂いがあるということもその一つだろう。人に迷惑をかけない限り個人のライフスタイルの選択は自由であり、どっちがどっちよりもよいとか立派などということはいえない。専業主婦バッシングもその意味でおかしいし、そのほかにも独身で親と同居している人へのパラサイトよばわりや、養子をとらずに実子にこだわるのは身勝手だという不妊治療夫婦への批判発言にも似たような疑問を感じる。
2007年01月31日
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格差是正と憲法改正は二者択一ではないという。それはそうだろう。でも、自ずと優先順位というものはある。憲法改正はたしかに大きなテーマであるが、この問題は急にとりくまなければならない問題だとはどうも思えない。それどころか、国民の関心はさしてないのに、総理をはじめとする一握りの政治家が国の根幹や理念を変えようとしているところに危うさすら感じる。それにひきかえ格差というのは大問題だ。増え続ける貧困層や不安定就業者は今適切な手をうたないと大変なことになっていく。「格差があって何が悪い」と公言し、セーフティネットの整備どころか生活保護水準の見直しや削減など瀕死の鳥の羽をむしるような政策ばかりを行う現政権については退場してほしい気持ちでいっぱいである。※ゆとり教育見直しはよいけど、じゃあ、ゆとりを見直した分、どんな教科を増やすのかがみえてこない。結局は庶民向けの公教育では歴史とか道徳教育ばかりが増えるのではないのかしら。再チャレンジで公務員採用の年齢制限撤廃はよいけど、それって元自衛官の指定席になるのではないかしら。日本は少数の富裕層と大多数の貧困層からなる国になって、貧困層の若者は安定した職につきたければ自衛隊に入って「国際貢献」するしかない…そんな時代になったらいやだなあ。※憲法改正なんて大口たたく前に格差是正、というか貧困層の増大に歯止めをかけてほしい。今度ばかりは民主党を応援といきたいけど、どうもあの代表をみていると、あれほど「弱者の味方」が似合わない顔もないんだなあ。し、これを本当にやろうとするのであれば選挙の争点として民意を問うのは当然であろう。が、はたしてこれが今すぐにやらなければならない
2007年01月30日
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そのまんま東が知事に当選したことは他のタレントにもショックをひきおこしているのではないか。いみじくもビートたけしの記事の見出しに「そのまんま東ショック」とあったように、彼が知事ならおれだってと思うタレントはけっこういるはずだ。ビートたけしをはじめ爆笑問題の大田とか、小林よしりんとか、時事問題も語れるタレントやタレント型文化人は多い。じゃあ、だからといってこうしたタレントが選挙にでれば当選するかといえば、そうでもないところが選挙の不思議な点だ。よく「風」という言葉がつかわれるが、その風向きによるところが非常に大きいからである。なぜ元投手の江本やタレント文化人の磯村が過去の知事選で惨敗だったかといえば、それも「風」のせいとしかいいようがない。少なくとも彼らとそのまんま東との資質の差でないことだけは明らかである。今回そんまんま東氏に吹いた「風」の正体はなんだったのだろうか。ぞれは絵に描いたようなエリート官僚候補にひとあわふかせてやりたいという感情だったのではないか。エリート官僚対庶民の英雄…こんな構図になるためには、そのまんま東あたりがぴったりだったのであろう。
2007年01月30日
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冤罪被害の男性に対して警察では謝罪とともに、この男性に対して職場の提供を考慮中であるという。警察はハローワークではないので、職場もおのずと警察関連のところとなり、そうなれば男性は未来永劫警察批判などはしなく(できなく)なる。冤罪というのは市民生活の中でかなり大きな脅威のはずだし、終戦直後の混乱期ならいざ知らず、社会が安定して科学捜査技術もすすんだ現在においても、冤罪で服役した人がいるなど大問題である。しかも、男性は「犯行時刻」に自宅から電話をかけており、通話記録まであるというのだからずさんな捜査というしかない。マスコミがさわげば大ニュースというが、この冤罪事件に対するマスコミの冷淡さがどうにも理解できない。賞味期限切れの牛乳よりも、ダイエット効果のない納豆よりも冤罪の方がはるかに重要な問題だと思うのに。
2007年01月29日
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格差批判の論説の中で気になることがある。それは親の経済的格差が子供の教育の機会にまで反映され、そのため豊かな家庭の子供しか、よい教育をうけられないから問題であるという論法である。つまり格差イコール機会の不平等とする見方である。これはこれでたしかに大問題である。しかし、じゃあ、機会の平等が保障されればそれでよいのだろうか。きめこまかな公教育や奨学金の充実などで、貧しい家庭の子供でも能力さえあればそれを発揮できるチャンスがあればよいのだろうか。どうも疑問を感じてならない。それはこうした考えの背景には、血統や親の資産による格差は不条理であるが、個人の能力や運による格差は合理的とする考えが、みえかくれするからである。※前の日記にも書いたが、「格差社会」の格差の根源というのは血統でも親の資産でもなく、まさにその本人の能力と運にあるのである。人間が人為的に定めた尊貴な血筋や本人以外の親や先祖の能力と運による資産の蓄積ではなく、神の定めた身分ともいうべき能力の多寡によって巨大な格差が生じているのが現在の格差社会である。人間の歴史が、社会が複雑化し、技術の発達した段階に達すれば、どうしてもその中での位置が能力や運によって定まってくるようになる。仕方がないといえば仕方がないのであるが、今はそうした時代である。個人の自覚や努力を否定するものではないが、機会の平等といったって、じゃあ、赤ん坊の誰にもスポーツ選手や科学者になれる機会が「平等に」あるのだろうか。そんなことはあるまい。つまり機会の平等といっても、要するにそれは「能力と運による差」をいいかえただけなのである。運の方はさておき、能力なんてものは、どうみても平等ではない。※格差の問題を機会の不平等の問題としてだけみていると、ともすれば「能力や運」に基づく格差は合理的なものとしてすべて容認されてしまうのではないか。こんな危惧を感じてしまう。もちろん能力のある人で、その能力を社会のために活かした人には相応の見返りがあってしかるべきだし、先端的研究を行う者や企業の技術者などはもっと優遇されてもよいとつねづね思っている。ただ問題は、そうした者の対極にいる人々である。残酷なようだが、100メートル競走の敗者は何度競争しても負け続ける可能性が高いだろう。同じように再チャレンジ施策もある人々には救いにはなっても、それで救われない人は大勢いる。格差社会の中で激増していく貧困層の問題こそが、今後何年かの社会を考えていく上での最大の問題であると思っている。能力に基づく格差だから合理的だとか、再チャレンジの機会を与えたからよい…というわけにはどうしてもいかない。
2007年01月28日
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あのいんちきサリン教祖の言葉でただ一つだけ真実を語っているところがあった。それは「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。」というところ。昨今の医療過誤や医療ミスをあげつらった訴訟の中には、どうもこの真理をわすれているのではないかと思うものがある。85歳の女性が検査で大腸を損傷して死んだとか、76歳の男性が腫瘍の見落としがあって死んだとかいった類である。中にはとんでもないミスもあるかもしれないし、どこで線をひくべきかもわからないのだが、普通に考えれば高齢の人が病院で亡くなったとなれば、そりゃ寿命というもんではないのだろうか。同じように、なんとかウィルスで老人ホームで死者が出たといって、老人ホーム側の責任をあげつらうのにも疑問を感じる。死すべき存在であるモータル、人間が死ぬたびに責任を問われるのでは、医療や福祉に従事するなんて怖くてできないではないか。※そしてまた死は老人だけのものではない。古来、生命の誕生である出産と死は合わせ鏡のようにつながっていた。出産が安全なのはあたりまえなんて思うようになったのは、ごく最近、それも豊かな先進国だけのことだろう。そんな先進国でも出産による死亡はおきる。その中には運命としかいいようのないものもあるのだろう。最近、胎盤癒着で妊婦を死なせたという罪で医師が逮捕されたというが、これなどは疑問を感じてならない。きくところによれば胎盤癒着というのは非常にまれな症例で大量出血が起きた場合には相当の設備や血液の備蓄を必要とするのだという。そんな例で、妊婦が死亡したからといって医師が責任、それも民事責任ではなく刑事責任を問われるとなれば、ただでさえ減ってきている産科医はますます減っていくだろう。そういえば近所の病院でも何ヶ月か前に産科は閉鎖され、婦人科だけとなっている。今後もこうした病院はどんどんと増えていく。※医療関係者がミスを問われないように自衛するとしたら方法は一つしかない。何もしないことである。そしてインフォームドコンセントも患者のためというよりも、むしろ病院側がミスをとわれないために使われる。「あなたの病気は○○で、手の施しようもありません。栄養剤や鎮痛剤はやりいますが、その他の治療はしないけどよいですね」といって患者に同意書をかかせる。こんなことがけっこう横行しているのではないのだろうか。
2007年01月27日
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教育再生会議の報告をうけて現実に教育関係の法律が改正されるという。う~ん、国の施策の中で、こと教育分野に限っては改正すれば改正するほど悪くなるなんて思うのは私だけだろうか。そもそもあの再生会議なんてのからしてうさんくさい。ヤンキー先生は論外にしても、ノーベル賞学者が凡人が主対象の教育政策にどんな提言ができるのか疑問だし、他のメンバーをみたってそんなによい提言をしそうな人がいるようにはみえない。なんで教育制度改革というと、昔々の臨教審もそうだったけど、評論家や著名人を集めたがるのだろうか。もっともっと世論調査や公聴会(もちろんヤラセなしの)を行って実際の親の意向や要望をきくことをなぜしないのだろうか。※一連の「改革」の中で特に問題だと思うのが免許更新制だ。任期が更新される職種としては裁判官などがあるが、裁判官は辞めたところで法曹資格があるから職に困ることはない。でも、任期が更新されなかった元教員はいったいどこへいけばよいのだろうか。辞めさせられた元教員というだけで、再就職はかなり厳しいだろう。30歳代、40歳代でくびになるかもしれない職場には人は集まらない。教育を志す優秀な若者はたぶん私学に行くだろう。かくして格差はますます拡大していく。今だって分限免職や懲戒免職で問題教員は淘汰できる。問題のない教員まで萎縮させ、無気力にしてしまう制度が免許更新制ではないのだろうか。※また、「ゆとり教育」に決別といっても、それにかえて何をめざすのかもよくわからない。小学校からの英語教育は世界の潮流だし、高度な数学教育を行っているというインドの例もある。それなのに、「ゆとり教育」の後に、英語の学習時間を増やすとか、数学の時間を充実させるという議論はあまり聞こえてこない。増えたのは日本史や道徳の時間だけということにもなりかねない。あえて名はあげないけど、こうした審議会に名を連ねていた評論家の中には教育行政の目標として「非才、無才は誠実さだけを身に付ければよい」といった人がいたという。今の教育再生会議は教育行政の目標としていったいどんなことを考えているのだろうか。
2007年01月26日
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ボクはナナシくん。20××年、美しい国に生まれた。小学校のときから世界で日本ほどすばらしい国はない、天皇の下に国民が家族のように暮らすこの国に生まれて本当に幸せだと教わってきた。たぶんそうなんだろう。だって学校では日本史や愛国心の授業はたっぷりあったけど英語はあまり教えなかったから、英語は読めないし、外国のことってよくわかんなんし…。両親はいわゆるできちゃった婚で小学校のときに別れたから、ボクも高校をでるとすぐに働いた。パート、アルバイト、またパートで、今ではネットカフェを定宿にしている。そういえば公務員の中でボクでも受けられそうなのがあったんで、調べてみたら驚いた。昔昔、再チャレンジとかで鳴り物入りで始まった枠らしいのだけど、自衛隊経験者優先ということらしい。そういえばときどき国際貢献活動で死んだ自衛隊員の話を聞くけど、あいつらも自衛隊から公務員ということを考えて入隊していたのかもしれないなあ。※あ、携帯がなった。仕事のよびだしかなあ。いや違った。この前あったあのおっちゃんだ。妙に気があってアパートに呼んで飯をおごったりしてくれる。このまま働いて、石ころや雑草みたいに踏みつけられて、年取ればホームレスになるっきゃないと思っていたけど、おっちゃんにあってちょっと見方が変わった。なんでも日本では何天皇の時代かわすれちゃったけど、人間の平等と連帯を唱えた思想があったらしい。それは20世紀には間違った思想とされ、忘れさられていたけど、今の時代にこそ必要なのではないかというんだ。「君こそはまさに鉄鎖以外に失うもののないプロレタリアだよ」おっちゃんはいつもボクをそうやって誉める。本当はこれって誉めているのかどうかわかんないけど。今日もおっちゃんのところに行こう。そういえばこのごろ仲間もずいぶん増えた。ぐちいって「妖怪がはいまわっている」とかいう本(ボクは最初ホラーだと思ったがどうも違うようだ)をおっちゃんの解説で読んで、その後、公園で歌をうたう。あれを歌うとボクも人間なんだなあ、誇りも希望ももてる人間なんだなあとしみじみした気分になれる。こんな歌だ。「立て、飢えたるものよ、今ぞ日は近し~」で始まるんだ。
2007年01月25日
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内閣支持率が続落しているという。当然である。どこかのコラムにあったが、政策には理念先行型のものと問題対処型のものとがある。今の内閣を見ていると、どうもすぐやらなくてもよい理念先行型の施策ばかりに偏っているように思えてならない。※総理に就任するとすぐ安倍氏は教育改革に手をつけた。でも、国民の声としては教育がそれほど焦眉の急と思っていた人がどれほどいたのだろうか。たしかにいじめの問題は深刻であるが、あれはそもそもクソガキの犯罪を「いじめ」などとあたかも犯罪とは別物であるかのように呼んで「教育問題」として微温的に対処しているあたりに問題の根源があるのではないか。有象無象を集めて「教育再生会議」とやらを立ち上げ、教員の任期制導入(教員希望者の質低下は必至)やバウチャー制(義務教育での格差拡大)や塾の禁止(現行法では不可能)などという雲の上の空理空論を行うなど税金と労力の無駄である。そしてあげくのはてが国民が望んだわけでもない教育基本法の改正…こんなの今すぐ急いでやらなければならないことなのだろうか。共謀罪にしても同様である。※防衛省の昇格や憲法改正のための国民投票法案。これだってやはり理念先行型の施策で別に今の時期に急いでやる必要などはない。焦眉の急となっているのは北朝鮮の核問題と急速に増えている国内貧困層や若年層の不安定雇用や無業の問題である。こうした具体の問題についての総理の顔がみえないのである。6カ国協議で米朝間の合意がなされ、北朝鮮に大規模経済支援を行うとなった場合、日本はどういう立場をとるのか。そして再チャレンジのための方策として具体的にどういう目玉を考えているのか。総理を今の地位におしあげたのは、「国民の命をおろそかにしない」という拉致事件での対応を多くの国民が支持したからである。総理にはぜひその頃の初心に戻ってもらいたいものである。
2007年01月23日
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どうもニュースの重要度というのは世の中全体にとってというよりも、マスコミ業界にとっての重要度ということで決まっているようである。納豆ダイエットがうそだったというのが大騒ぎになっているが、それってそんなに大問題なのだろうか。どうも同業他社の「不祥事」をマスコミあげて嬉々として報道しているとしか思えない。テレビではないのだが、よく新聞に広告がのっている雑誌には、大根おろしで○○が直ったとか、指のマッサージが△△に効くといった記事が満載だが、あれってどこまで本当なのだろうか。納豆ダイエットだって、納豆自体は健康によいものだし、ダイエットに気をつけること自体がダイエットにもなるわけだから、そんなにけしからん番組だったという気もしない。だいたいダイエット効果についてのテレビ番組など聴いている方も話半分できいているのではないのだろうか。そしてまたテレビで嘘を放映するのがけしからんというのならもう一つ気になるものがある。このごろ、霊がみえるだの、スピリチュアルだのという番組が目につくが、ああいう番組を制作している人は自分でそれを信じているのだろうか。信じているというのだったら何もいわないけど…。
2007年01月22日
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電車のオーバーランの次はエレベーターの閉じ込め、そして次はシュレッダーの事故とマスコミのネタはつきないものだが、現在ぼろくそにたたかれているのはさる老舗の菓子メーカーである。どうも賞味期限切れの牛乳を使用していたというのがその発端らしいのだが、その後の展開をみるとちょっとたたきすぎではないか。お菓子は必需品ではないし、気分で食べるものなので、他の製品以上にイメージ低下や風評被害は致命的であろう。「ねずみが何十匹も工場にいるのを見た」という類の真偽もわからぬコメントを流すような報道ぶりをみると、まるで会社をつぶそうとしているとしかおもえない。いっとくけどこの賞味期限切れの牛乳で実際に健康被害を受けた人はいない。※ただ料理などをやっていればわかるのだが、賞味期限切れの材料を使うとどんな料理でも味は落ちる。賞味期限切れの牛乳を使えば、短期的には得したような気がしても、長期的には顧客を失う結果となるので損になる。いったん買ったケーキがおいしくなければ二度とそのメーカーのものは買わなくなるからである。こんなことが明るみに出る前から、件の菓子メーカーは顧客を失いつつあったのではないのだろうか。
2007年01月20日
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山崎議員の訪朝については風穴をあけたと評価する向きもあるらしいが、どうもよくわからない。今の時期に「対話で解決」というのは、早い話、核放棄の見返りに巨額の経済支援を行うという話で、それはまさに破綻に瀕したあの体制を延命させるということに他ならない。延命させているうちに、東京まで届く核兵器だって完成させるだろう。化学兵器や生物兵器だって完成させるかもしれない。そんなことをいったい日本人の誰が望むのだろうか。もし、望んでいる人がいるのだとしたら、それはいまだに国交締結時の利権や功名心にこだわっている人々か、北朝鮮の体制が崩壊したことによって様々のまずい話が露見することを恐れる人々くらいではないか。週刊誌情報によると北朝鮮は日本の政治家やマスコミ人士にもさかんに運動をしていたというから中には弱みを握られている人がいたとしても不思議ではない。※この山崎訪朝には総理はじめ不快感をあらわしているむきも多いらしいが、もとよりこんな訪朝が山崎氏一人の力だけでできるとは思えない。こんな二重外交が行われるのをみるにつけても総理の指導力を疑ってしまう。憲法改正や防衛省昇格、教育基本法の改正などに総理は熱心だが、これがそんなに急にやらなければならないこととは思えない。北朝鮮の問題や格差是正など貧困層急増に対する対策こそ政治が早急に行わなければならないことではないのだろうか。
2007年01月18日
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昔好きだったテレビ番組で「歌のメリーゴーランド」というのがあった。今もやっている「みんなの歌」の総集編的な番組であったが、外国、特にヨーロッパの民謡などがより多く紹介されていたように思う。かなりの人が知っているポーランド民謡「娘さん」や「楽しいポーレチケ」なども「歌のメリーゴーランド」から普及したのではないか。あの頃聞いていた曲を思い出すとちょっと不思議に思うことがある。※ロシア民謡といえば実際にロシアの合唱団がよく歌っているし、ハワイアンやヨーデルなどもその地域の歌手のCDなどがある。でもあの当時、番組で紹介されていたヨーロッパの小国、ポーランドやスウェーデンやボヘミヤの民謡って本当にあの地域で歌われていたのだろうか。それにボヘミヤ民謡については、なぜチェコ民謡としないでボヘミヤと表記してあったのだろうか。ボヘミヤ民謡「おお牧場は緑」とか「あひるの歌」といっても、ロシア民謡やハワイアン、ヨーデルほどには地域の匂いがしないし、現地でそんな歌を歌う歌手や合唱団があるという話もきかない。「あひるの歌」の歌詞「昔あひるは体が大きくて川もわたれば魚もたべたよ」にいたっては意味不明でナンセンスであるが、これが原詞なのだろうか。ポーランド民謡の「娘さん」や「ポーレチケ」なら、まだこんな歌もあるかなと思うが、スウェーデン民謡「楽しいショティッシュ」のショティッシュとは何かとなるとさっぱりわからない。※あの当時、日本はまだまだ貧しく、ヨーロッパははるかに遠かった。外国の民謡を聞くことでそんな遠くの国々の雰囲気にふれるという気分を味わっていたのかもしれない。
2007年01月16日
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人類というのは太古の昔から平等ではなかった。それはそうだろう。同じ人間といったって体力も知力も様々だし、そういう人間が生きていくために集団生活をしなければならないとなれば地位の差がでるのは当然である。ちょっと大風呂敷をやらせてもらうが…不平等の歴史という視点で人類史をみると、大きく三つの段階にわけられるように思う。すなわち第一の段階は身分社会、第二の段階は(資本主義的意味での)階級社会、そして第三の段階は格差社会である。※まだ文明が黎明期にあった頃、集団にとって最も重要なのは霊的な権威をもち集団の結束のシンボルとなる存在であった。そうした権威は往々にして血統に対する信仰や神聖視と結びつき、そこからたぶん世襲の王や貴族といった階級が生まれたのではないか。王というのも人類最古の職業の一つである。低い身分とされている者も含め、人々がこうした血統に対する信仰を共有している限り身分社会は安定しているが、「王侯諸将いずくんぞ種あらん」というような考えが広まると、いっきに社会の安定は崩れる。※次にでてくるのは生産手段の私有による階級社会である。近代以前から土地所有による特権階級(しばしば身分制とも結びついていた)はいたが、近代になると工場設備を私有し、それを子々孫々に相続させていく資本家階級がでてきた。この社会でも圧倒的多数の人は「持たざる者」ではあったが、マルクスの言説のようにこの圧倒的多数の持たざる者が蜂起して資本主義を覆すようなことはなかった。社会全体の生産性向上や人権思想の普及、そしてまた社会主義の脅威もあって福祉政策や労働政策が行なわれるようになったからである。実際に資本主義が転覆したのは地球上の一部にとどまった。※やがて農業主体の社会から工業やサービス業主体の社会に移り、また企業も大規模になって大衆株主や法人株主が普通になるにつれ、地主や工場主という特権階級に変わって企業エリートや知的プロフェッショナルなどの競争社会の勝組が社会の前面にでてくる。格差社会である。日本の場合には長いこと会社が擬似ムラ社会のような役割を果たしていてこうした格差がでてこなかったのだが、国際化にともなって日本の経営者達の考え方もかわった。誰でもできるような仕事しかできない社員なら企業の一員としてかかえておく必要なんかなく、そんな仕事はアルバイトにでもさせればよい。一方で、優秀な社員や技術者は外国に引きぬかれないためにも厚遇する必要があるというわけである。これが、昨今の格差急増の背景ではないだろうか。※能力のある人間を優遇するのはけだし当然だし「格差があって何が悪い」というのはその意味では至言である。ただその格差がゆきすぎて社会の安定や統合を損なうようになったとしたら、やはり問題ではないか。特に冷戦崩壊後は社会主義の奉じた平等や連帯という理想すらも否定する動きがあり、手放しで強者を称賛し、敗者を嘲笑する風潮が蔓延しているように思う。努力した者が優遇されるのは当然だとか、機会の平等は重要だが結果の平等は保証しないとかいう言説もこれに拍車をかける。たしかに非科学的な血統信仰や生まれた家の資産によるものではなく、本人自身の能力や努力による格差は一見合理的である。しかしよく考えてみると、機会の平等といっても、能力が生まれつきである以上、機会の平等というのは実はレトリックにすぎないのではないか。もちろん研鑚や怠惰によって能力が上下することは否定しないが、能力、才能のかなりの部分は生まれたときに決まっている。また、格差是正のキーワードとして再チャレンジということもいわれる。再チャレンジの重要性自体は否定しないが、同じタイプの競争なら何度やっても勝つ人は勝つし、負ける人は負けるというのも現実であろう。再チャレンジの機会さえあればどんな格差でも是とする考えには疑問を感じる。※能力といえば人類史には途方もない天才があらわれることがある。しかし社会や歴史はそうした天才や英才だけがつくっていくのではない。天才がりんごの落ちるのをみて重要な物理学的法則を思いついたとしても、それは、りんごの木を世話したり、天才の衣服を工場でつくったり、天才が泥棒に脅かされずに想念にふけるくらいの社会の秩序を維持したりしていた大勢の人々の力があればこそである。社会が様々な能力や資質をもった人々のかなでるハーモニーである以上、格差社会を超え、いわゆる負け組とされる人々をも建設的な形で社会に包含していくシステムや理念が望まれるのではないか。年間自殺者3万人、就職も結婚もできない若者が何百万人もいるという社会はどうみてもまともではない。
2007年01月14日
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格差社会をめぐる議論の中には格差社会と階級社会を混同したようなものがみられる。しかし格差と階級は似て非なるものではないか。人の価値が生産手段の所有とか血統に対する信仰によっていたような時代には階級社会というのもあったのだろう。領主や地主の家とか尊い家系などがそれである。しかし昨今の格差というのは何を所有しているかではなく、ずばり能力と運によるものである。途方もない資産を築くのならともかく、なみの「勝組」では、子孫は安泰とはかぎらない。財産は子供に相続させることができるが、能力や、ましてや運となると、子供に譲りたくても譲れるものではないからである。※昨今の少子化の原因としては若年層の二極化によって結婚もままならない層が増えたことがあげられる。もしかしたらそれだけではなく比較的裕福な層にも子供を持つことを躊躇する動きがあるのではないか。自分はよくても生まれてくる子供は自分よりもよいとは限らない。親に金があれば恵まれた教育を授けることはできるが、いくら教育に金をかけても、能力が金で買えるわけではない。子供がニートや引きこもりになる可能性はどんな家庭にだってある。いわゆる勝組みカップルの中には最後まで勝ちつづけるためにも子供を持たないなんていう生き方をする人もいるのかもしれない。いくら人もうらやむ職業についたとしても、兄弟が殺しあったり、引きこもりの子供が家に火をつけたりなんてことになったら、なんにもならない。新聞の三面記事をみれば貧しい親の幼児虐待などにまじってエリート家庭での惨劇も目にする昨今である。子供を持つという意欲が薄れれば、その先には結婚だってしなくてもよい、気に入った人とその都度一緒にいればよい…ということになりかねないのだが。※階級社会では上位の階級の者はなにがなんでも特権を継がせるための子供を得ようとする。でも格差社会では、上下を問わず子供を持とうとする意欲は低下する。下の者にはとてもそんな余裕はないし、上の者も生まれた子供が下のクラスに転落するかもしれない可能性をつい考えてしまうからである。
2007年01月12日
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ときどき思うのだがこうした日記をつけている人って日記のことをどのくらい人に知らせているのだろうか。リンクしている方々についてみても、・実名?写真をだしている方、・実名は出していないがかなり具体的な身辺の情報を出している方、・どちらも出していない方…と様々だ。私の場合は、別に嘘は書いているわけではないが、極力、細かな個人情報は書かないようにしているし、実は日記をつけていることは知人、友人はもちろん家族にもいっていない。思いきった意見や感想など、全くの匿名だからこそ書ける部分も多いし、逆に周囲に知られれば誰かを傷つけてしまう内容もある。自由に書きながら誰かに読んでもらえる。この二つの欲求を充たしてくれるという意味でネットの日記というのはすばらしい媒体だと思う。※日記のことは周囲の人には言わないという同じ文脈で日記を通じて知合った?方ともリアルの世界で会いたいとは思わない。リンクしている方の中には、たぶんリアルでも魅力的な方、知的な方が沢山いると思うのだが、でも、お互いに顔も名前も知らないからこそできるコミュニケーションもある。いろいろな方の日記にコメントするとき、漠然としたイメージを思い浮べることはあるけど、現実世界の方として知っていたら、やはりそんなに自由な書きこみはできなくなるような気もするのだ。
2007年01月11日
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山崎の訪朝は現政権とは関係ないという。奇怪な二重外交としかいいようがない。かの金丸氏が戦後の補償?なんてものを約束したように、かってな約束をしたときにはどう後始末をするのだろうか。そんなものは政府とは関係ないといえるのであればさっさといっておいた方がよい。※北朝鮮の核問題というのはつきつめれば北朝鮮の体制崩壊を容認するのかしないのかということにつきる。つまり核放棄のみかえりに体制を維持するだけの経済支援をするのか、暴発をふせぎつつ体制崩壊を容認するのかということである。崩壊の形としては金正日の突然の死による後継者争い、クーデター、大量脱北、民衆蜂起などがありうるが、最後の民衆蜂起というのは可能性が薄いのかもしれない。朝鮮半島の歴史をみると圧政や強権政治というのは今にはじまったことではないし、その中で民衆の反乱で政権が変わったという例は皆無にひとしい。大量脱北についてはすでにはじまっているのだが、それも体制崩壊に結びついているとも思えない。たぶん内紛やクーデターで中央政府が機能しなくなるという形が一番ありそうであるが、問題はそこから先だ。中国がいちはやく介入して親中国の傀儡政権ができるか、国連管理下に置かれるが、ドイツのような吸収統一になるかだが、最後のケースはまずないだろう。いったん豊かさを知った韓国人が北の同胞のためとはいえ、貧しい生活にもどろうとするとは思えない。韓国としては香港のような一国ニ制度で北の住民の移動を制限しつつ長期的に経済を再建しようというのが理想なのだろうけどそううまくゆくのか。香港とはことなり、親族関係の濃密な朝鮮半島で豊かな南半分の情報をもちながら北の住民にくるなというのは無理であろう。※たとえ国連管理下という状況になったとしても、過去の歴史的経緯からたぶん日本は関与することはないだろう。そうなると金だけだして口はだすな…ということになりかねない。今の時期に政治家がうろちょろして勝手な支払いの約束をするなどまさに売国的行為以外のなにものでもない。まあ、喜び組にとられた写真を買い取りにいくとかなら話はべつだけど。
2007年01月10日
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各地で成人式が行われたというがいまどき20才という年齢を区切って「成人」のお祝いをする理由って何なのだろうか。自分をふりかえってみて「成人」という実感を一番強くもったのは初めて選挙に行ったときでもなければ酒を飲んだときでもない。それは就職して初めて給料をもらったときだった。庶務で給料袋をもらって自分の席につくまで笑みをこらえるのに苦労をした。その日はケーキを家族のために買って帰ったのだが、給料袋をみたときの母の第一声が「あ~ら、たったこれだけ。お父さんの4分の1じゃない」というのにはまいった(笑)。私だったらもっといいようがあると思うのだが、我が家の子供達にもぜひ一日も早く給料袋をみせてもらいたいものである。※20代の頃は30代の自分というのは想像もできなかったし、30代の頃は40代の自分なんて想像もできなかった。上昇志向があったわけでもないし、モーレツ社員でもなかった私がなんとか仕事をつづけてこられたのは奇跡というしかない。今だってリストラ要員のようなものだし、組織の中枢にいるわけでもなんでもないのだが、それでも今の職場には感謝している。それは職場というのは給料だけではなく、人間的成長も含めて様々な面での成長の機会を与えてくれるからである。まあ、すべてがというわけでもないし、人の悪口をいうわけでもないのだが、専業主婦など就業経験の乏しい人にはどうしてもある種の身勝手さというか幼児性を感じてしまうことがある。人皆わが師という言葉があるが、いやなやつも含めていろいろな人とつきあうことによって得るものも多い。※今正規就業につけない若者が多いというが、これは人材の劣化という意味でも大問題なのではないのだろうか。正規就業につけないということは人生の見通しをもてないばかりでなく、職場を通じての成長の機会を得られないという意味でも大問題である。2007年問題をひかえて高齢者の定年延長とか外国人労働力の導入という議論がさかんにおきているが、若者に対する正規雇用の拡大ということにも十分に留意してほしいものである。企業の社会的役割にはいろいろあるだろうが、若い世代を鍛え一人前の職業人にするというのも、また大きな役割なのではないのだろうか。若者が正規就業につけず、就いてもリストラなどで企業への忠誠心をもてないような社会では、人間のレベルは確実に低下してしまう。※※教育再生会議で野依氏が塾禁止の主張をしているという。そもそも塾の禁止など現行憲法下の法制度の中でできるわけないのだが、こんな主張がどうどうと行われる再生会議って本当に必要なのだろうか。塾を禁止すればますます野依氏のお孫さんのように親族に勉強を教えてもらえる子とそうでない子の差がひらいてしまうんじゃない。それとも塾禁止の主張の趣旨って庶民は愚民のままでいい、批判力など持つなということなのかしら。まあ、一種のひがみかもしれないけど、野依氏にかぎらず中村修一氏とか秋山仁氏とかああいう人の教育論ってマスコミはとりあげない方がよいのではないのだろうか。中村修一氏曰く、大学受験は無駄、自分は好きなことだけやっていた。そりゃあ、あんたはそれでよかったのだろうけど。秋山仁氏曰く。小学校の頃は野山をかけまわってばかりいた。ふうん、野山をかけまわっていればあんたみたいになれるの?教育論とか教育政策というのはいろいろ議論はあるけれども、主な対象はごくごく普通の能力の人々で、そういう人の能力をいかに底上げしていくかが教育の第一の役割ではないのだろうか。その教育政策を議論する場に野依氏のような方を入れておくこと自体に深い疑問を感じてならない。
2007年01月08日
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総理はホワイトカラーエグゼンプションについて「少子化対策」にも役立つということをいっているそうである。残業代がなくなれば残業をしなくなる、そうなれば家族との時間がもてるという理屈であるが、上司からの残業指示を断れる社員がどのくらいいると思うのだろうか。総理のいっていることはまるで、医療費の負担を増やせば健康に気をつける人がふえて病気が減るとか、母子家庭への保護を減らせば離婚が減って家庭崩壊が防げるというのと同じような理屈で一種の詭弁である。ホワイトカラーエグゼンプションの後に来るものは、「ホワイトカラー」とよばれる一般の事務職労働者の労働条件悪化とフリーターやアルバイトなどの非正規社員のますますの増加である。会社はやめさせたい社員に無理な残業をおしつけてくるであろうし、社会一般にも、残業におわれる正社員よりもフリーターの方がまだましといった雰囲気が蔓延するであろうからである。※総理は「美しい国」を語り、経済団体は「希望の国」ということをいっている。いったい誰にとっての「美しい国」、「希望の国」なのであろうか。年間自殺者は高どまりし、先のみえない生活をしている若者も多い。再チャレンジは結果の平等までは保障しないというが、やはり社会という共同体を維持するにたるだけのセーフティネットは必要なのではないのだろうか。老人介護や福祉など、需要は多いが人の集まらない分野に外国人を導入するというが、こういう分野こそ公的な介入を行っても、若者が人生を托せる安定した職場として整備していく必要があるのではいか。どんなにささやかでも声をあげていかないと、どんどんと経済の論理、勝ち組の論理でことがすすんでいってしまいそうで恐ろしい感じがしてならない。
2007年01月07日
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すべてを読んだわけではないが新春から掲載されている毎日新聞の「ネット君臨」という記事には首をかしげることばかりだ。掲示板での誹謗中傷や発言への攻撃をさもネットそのものが原因であるかのように書いているが、これはまるで自動車を使った犯罪の例をあげて自動車はけしからんといっているようなものである。もちろんネット上の誹謗中傷はよくない。しかしネット上の発言にだってもちろん法の網はかかる。みるところネットにはこの網がとても厳しくかぶせられているのではないか。他のニュース記事の写真をブログにはって著作権法違反で逮捕されたり、東京タワーを爆破すると書いて逮捕されたり…。毎日新聞をはじめとするマスコミのネットイコール諸悪の根源といわんばかりの記事の背景には、素人が情報発信することに対する既存マスコミの嫌悪感があるように思えてならない。※さらにこの連載何回目かの児童に対する性犯罪とネットとを結びつけた記事にはさらに首をひねってしまう。児童に性犯罪をくりかえした男が写真をネットに公開していたことについて、ネットが犯罪を誘発したという書きぶりなのだが本当にそうなのだろうか。ネットは小道具にしかすぎず、まるでネットそのものが加害者であるかのような書きぶりはあまりにも公平を失する。それにさらにいわせてもらえば小児性愛のみならず性犯罪一般について、犯罪者を増長させてきた責任の一端は既存のマスコミにこそあるのではないか。このことは何度でも書くが、沖縄で起きた性暴行事件で現地の写真週刊誌の女性記者が被害者の職場にまでおしかけて取材をせまり退勤時の写真までとろうとしたことは特筆すべき人権侵害事件であるが、これは決して例外ではない。世の中には犯罪被害の事実がしられることで学校や職場を去らなければならないような事例はあまたある。マスコミ報道や取材による二次被害を恐れて被害者が口をとざし、それが新たな犯罪を誘発する…こうしたことについてなんの反省もなく、ネットだけを悪者視する論調はどうみてもおかしいではないか。※もちろんネットの言論も玉石混交である。しかし同時にマスコミにはのらないサイレントマジョリティーの言論もネットにある。この毎日新聞のへんてこりんな連載記事がネット規制の嚆矢にならなければよいがと切にねがうものである。私も含めた多くの普通の人の「言論の自由」を守るためにも。
2007年01月06日
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兄が妹を殺害しバラバラにするというのは前代未聞の事件ではあるが兄弟間の殺人というのはそう珍しい事件ではない。古くはエリート検事夫妻の長男次男間に起きた殺人があるし、それ以降にも何件が似たような事件があったかと思う。そしてそのいずれもが優秀だったり恵まれたりしている兄弟への嫉妬が背景にあるらしいことも共通している。※そういえば聖書にでてくる人類最古の殺人も兄弟殺しであった。カインとアベルの兄弟のうち、神は弟のアベルを愛し、嫉妬のあまりカインはアベルを殺害した。思うに神の愛したのが他家の人間だったらカインは何も感じなかったかもしれない。ただ、それがよりによって弟だったから同じ兄弟なのになぜという心境にもなる。※ここでの神の愛を能力とか天与の才とみれば、この兄弟間の嫉妬は今日でもよくある話となる。実は私には二人の兄がいる。そして二人にとって神は実に不公平な扱いをした。いくらやっても成績があがらず結局大学進学はあきらめた長兄と子供のことから抜群の学才をみせていた次兄。神に愛された者と愛されなかった者・・・そしてさらに不公平なことには親の好みも神と同じであった。問題ができずによく殴られていた長兄と「こんな解き方もあったのか」と和気藹々の数学談義をしていた次兄。今にして思えば長兄には相当なストレスがかかっていたに違いない。「父からも母からも差別されるのが一番辛かった」大人になってから長兄はこう述懐したものである。※あの事件のあった兄妹の関係が実際どういうものだったかはわからない。ただ三浪の兄の眼には自由にやりたいことをやり、夢をかなえつつある(ようにみえた)妹がうらやましくてならなかったのかもしれない。兄は能力や運に恵まれた(神に愛された)ようにみえる妹を嫉妬のあまり殺害した。人類最古の殺人者のタイプにまた一人加わったわけである。
2007年01月06日
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現政権は憲法改正を目標としているらしい。教育基本法の改正、防衛省の設置、そして憲法改正となればその先には何があるのだろうか。米国のような格差社会では軍隊に志願するのは貧しい青年がほとんどであることはよく知られている。今日の格差拡大をふまえると、日本もやがて貧困層の青年が軍隊に入るという社会になるのだろうか。※皮肉な味方をすれば徴兵制ならぬ志願制をとる軍隊というものは格差がなければなりたたない組織なのかもしれない。平時であっても世界各地で平和維持活動を展開しているような軍隊であれば、通常の青年はなかなか志願しないであろう。結局は他に行きどころのない青年が志願するということになる。※そういえば今の政権がめざしている教育改革も格差を拡大する方向に向かっているとしか思えない。学校選択性やバウチャー制といったって、貧困家庭では子供の通学の交通費だっていたい出費である。結局は余裕の有る家庭の子弟だけが人気の有る学校に通うということになる。そして教員任期制度は公立学校の教師の質を決定的に低下させる。身分保障のない職種に人材が集まらないことは理の当然だからである。かくて優秀な教師をめざす若者は私立学校の教師となり、公立には学力の低い教師しかこなくなる。そしてレベルの低下した公立学校では「愛国心教育」が行なわれる。行き着く先は…どうなるのだろうか。※愛国心や国防が不要だとはいわない。特に国防などは国家の重要な機能だろう。ただそれが貧困層の若者だけにおしつけられる状況というのは健全ではない。
2007年01月05日
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紅白の視聴率がまたまた下がったという。だからどうだというのだろうか。※年末にほとんどの世帯が一斉に同じものをみるなんて方がよほど異常なんじゃない?思えば子供の頃って毎年大晦日には必ず紅白をみていた。一家で田舎に帰省し、祖父母や伯父夫婦やいとこ達と一緒にこたつを囲みながら、一曲一曲わいわい批評をしながら見たものだった。紅白の歌手の中にはなぜか紅白になるとでてくるヒット曲のない歌手もいたのだが、その年大いにはやった歌手もかならずでてきた。流行歌で今年の世相をふりかえる・・・というのが紅白の大きなコンセプトだったように思う。※でも今は時代が変わった。高度成長期に都市に流入した世代自体が高齢化し、帰省というのも随分と少なくなっているように思う。そして年末年始に都会に出た兄弟一家を歓待する大家族なんてのも今では珍しい。全世帯のうちでいまや単身世帯は2割。親と子供の世帯だって、成人した子供と老親という組合せがずっと増えている。ちょっと寂しい話だがテレビを囲んでの家族の団欒というもの自体が過去のものとなっているように思う。さらにいえば音楽の好みも多様化している時代に、今年を代表する流行歌というのも生まれにくい。※紅白の視聴率が低下したって、それはNHKの怠慢でも、担当者の企画がまずいためでもない。テレビの役割が変わったのである。※※昨日の日記に格差の問題こそが2007年の日本の大問題であると書いた。本当に日本はこのままアメリカ型の格差社会を目指すのか、それとも別の道にすすむのかの岐路にたっている。私個人の考えとしては移民社会でもない日本であからさまな優勝劣敗思想は似合わないと思うが、格差社会を肯定する論客をみていると、もしかしてアメリカよりもさらに始末が悪いのではと思うことがある。それはアメリカに限らず、欧米の場合、強者にはおのずとノブレスオブリッジというものが期待されるのだが、日本の場合には格差の肯定がそのまま弱者の蔑視や敗者への嘲笑と結びついたような議論が往々にしてみられることである。本当にこのまま格差社会にすすんでよいのだろうか・・・。ひとつこれこそ全国民をあげて考えてみなければならない問題ではないか。
2007年01月03日
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最近年賀状の平均枚数が少なくなっているという。メールの普及や個人情報保護のためやたらに名簿をつくらなくなったことなど、いろいろと理由はいわれているらしいが、やはり会社という共同体に所属する人が減ってきたというのも理由ではないのか。会社が定年までの人生を預ける共同体であれば職場の知り合いや取引先など義理でも賀状を出さなければならない人は膨らんでいく。でも、その会社に明日の席があるかどうかもわからないという状況なら賀状の範囲も自ずと少なくなってくる。ましてや派遣やアルバイトだったら賀状を出すという必要すら感じないかもしれない。※でも年賀状が減っていくというのは環境とか資源保護とかいう視点からみればよいことなのかもしれない。印刷だけの義理賀状などどうみても資源の無駄だし、いままでなぜそれを誰もいわないのかよくわからない。やはり年賀状もどうせ出すのなら一言二言何か手書きで書いてあれば嬉しい。ただここだけの話、栄転や子供の学校名などを書いてある賀状にはちょっと複雑な気持ちのすることもある。ああ、この人、かっては自分と同じような立場だったのにとか、うちにも同じくらいの子供がいるのにとかつい比較してしまうのだ。そしてその後、人の幸せを素直に喜べない自分にもいやけがさす。もちろん古い知り合いや学生時代の友人からの年賀状は嬉しいものには違いないのだが。
2007年01月02日
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本当の意味での歴史的出来事というのは決して大事件や大事故ではない。じわじわとひろがり、しばらく前までには考えられなかったような現象がいつのまにか普通になっていくような…そんなことこそが本当の意味での歴史的事件なのだろう。そうした意味で、ワーキングプア、格差社会、そうしたものの普遍化や出現が、もしかして将来の日本の歴史をふりかえった場合の大事件だったということになっているのかもしれない。2007年、日本は今岐路にたっている。このまま格差があたりまえという優勝劣敗の社会を目指すのか、より均質的な共同体的な社会をめざすのか。※格差やワーキングプアについては、今でもさかんに論争が行なわれている。ただ惜しむらくは論争を行なっている人達がたいてい学者とか役人とかといった真の意味での格差の問題に無縁の人達ばかりで、ワーキングプアなどの当事者の声がなかなか論争にでてこないことである。かってももちろん貧困や貧しさはあった。第三世界まで含めれば飢え死にのない日本の貧困層はそれだけで恵まれているという議論もできるかもしれない。ただやっぱり少し違うのだ。村や親族という共同体があって家族など守るべきもの、失うもののあった、かっての貧困層と今の貧困層とは。※ネットカフェを常宿にする若者達や仕方なく親と同居し親の年金に扶養されている若者もいずれは中年になる。唯一の頼みの綱の親だって老齢となっていくだろう。そうしたときにどんなことが起きてくるのか、これって少子化問題などよりもずっと深刻な問題のような気がする。
2007年01月02日
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謹賀新年。今年もよろしく…。元気で1年日記が書けますように。そして今年がここに来てくださる皆様にとっても私にとっても飛躍の年でありますように。※ここでテレビの話題を一つ。年末にNHKチャングム総集編をみた。最初の2回ほどをみてなんとなく大奥の韓国編のような内容を想像していたのだが、あれほどの波乱万丈のストーリーだったとはびっくり。アクションがあるわけではないのだが、ピンチにつぐピンチで、息をつかせない展開にまったくあきさせない。ちょっと非現実的という感もあるのだが、こうした荒唐無稽といってもよいくらい作りこそが韓流の醍醐味なのかもしれない。※ただ総集編で全体のストーリーをとおしてみた印象としては、これは時代劇を隠れ蓑にした女性の職業進出のドラマではないか、という印象をうけた。いじめや差別などの障壁をのりこえて成功していくチャングムに多くの人が共感し、夢を託したというのが、このドラマのヒットした要因ではないのだろうか。特に恋人(男性)がチャングムを愛するがゆえに、信じる道をすすんでほしい、才能を存分に活かしてほしいと語るくだりは非常に今日的である。単にオレについてこいではなく、自分を認め、自分を成長させることを、女性達は相手に願っているのではないか。なんか最近よく目につく夫婦共に職場で活躍する均等法カップルの女性達をみているとそんな気がする。チャングムについては、今後、衛星放送で字幕つきで完全放映するということで楽しみである。※このチャングムは実在の人物であるが、歴史書には女性で王の侍医となったことと養生食を作るのに巧みであったという記述があるのみで詳細はほとんどわからないという。ただ、その実態がどうであれ、ドラマ同様に聡明で素敵な女性であったことはきっと間違いないであろう。
2007年01月01日
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