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映画「モンゴル」がアカデミー賞外国映画部門にノミネートされているという。同じチンギスハンの映画でも反町主演の角川映画がさっぱりだったのとは対照的だ。角川映画の方はモンゴル政府の全面協力となったときから、チンギスハンを英雄視して描くのはわかりきっていたし、それを映画化すれば大河ドラマの総集編的になるのは目に見えていた。これに対して浅野忠信演じるチンギスハンがどうなっているかは興味津々だ。カザフ映画とはいうものの、チンギスハンに対する見方はロシアの影響が強いだろう。ロシアではたぶんチンギスハンは英雄というより侵略者であり暴君だろう。映画「モンゴル」は日本でも公開されるというが、ぜひ見に行きたい映画である。※チンギスハンの映画といえば、モンゴルが社会主義をすてて間もない頃に作った映画をビデオでみたことがある。主演俳優はたしかに歴史教科書でおなじみの肖像画にそっくりであったが、平板でつまらない映画だったように記憶している。モンゴルではチンギスハンは軍事的リーダーというよりも、傑出した政治家というイメージなのだろうか。※※代理出産をはじめとする不妊治療の議論でいつもわからないのは、反対意見の中に「生まれてくる子供が悩む」というのがあることである。たしかに代理出産や対外授精で生まれた子供は「悩む」かもしれないけど、だからといって「生まれてこない方がよい」ということにはならないのではないか。人は生まれを選べない以上、生まれた環境に悩みがないなんていう方が例外であろう。病気や障害を背負ってくるような不運に比べれば、代理出産や体外受精で生まれた「悩み」なんてゴミみたいなものである。
2008年01月31日
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高校生の頃、社会主義についての話をしているとよくこんなことをいう人がいた。「マルクスなんて時代遅れだよ、だってもうそんな労働者はいないのだから」と。当時増えつつあったホワイトカラー層はたしかにサヨク本の描くプロレタリアのイメージとは異なっていた。悲惨な長時間労働は過去の話だし、飲み会やレジャーのような娯楽も一般化して生活水準も向上していた。中には社内持ち株制度などで、労働者どころか資本家の一員になっている気でいるものもいたくらいだ。※奴隷同様の境遇におかれた悲惨なプロレタリア。そして鉄鎖以外は何一つ失うものも無い労働者。そんなのは昔のことと思っていたが、どうやらこの21世紀の日本で増殖しているようだ。名目だけ管理職として長時間労働を強いられていた外食産業の店長のニュースを聞くとそうとしか思えない。非正規雇用者が増えていることはつとに指摘されているが、その非正規雇用の増大が正規雇用にどのような影響を及ぼしているかはあまり議論されていない。業務の多くを非正規にまかせた故に正規雇用者に残業等のしわよせがいっている…ということは件の外食業界だけでなく、様々な場にみられるのではないか。企業の論理からすれば人件費を減らすためには極力非正規でできる部分は非正規にまかせ、正規雇用者については残業も含めてそれを肩代わりする働きをしてもらった方がよいに決まっているのだから。ホワイトカラーエグゼンプションなどというのもまさにそうした資本の論理からでてきたもので、それを残業が少なくなって一家団欒の時間が増えるなどとは詭弁もいいところである。※必要なことは弱いもののみが痛みを感じる「さらなる規制緩和」などではない。「格差といっても日本の貧困はアフリカよりもまし」なんていっている連中が国の舵をとっていけば、そのうち本当に日本の貧困はアフリカなみになるだろう。かっては資本主義の論理に対抗するものとして社会主義の論理や理想があった。その現実の社会主義が崩壊してから、資本主義もまた変質していったのではないか。むきだしの弱肉強食や自由競争では多くの人は幸福になれない。明日の希望のない非正規就業や正規就業といったって残業奴隷のような生活を強いられる社会はもうごめんだ。いまこそ思う。社会主義の理想や理念というものは、もう一度見直されてもよいのではないか。カムバック!レーニン。
2008年01月29日
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昨日、年賀はがきの抽選があった。きくところによると年賀状は大量に売れのこっているそうである。そりゃそうだろう。個人情報保護とかで住所の入った名簿を作ることも少なくなったし、年頭の挨拶をメールですませる人も多い。それに正規雇用の人だって減ってきている。どう考えても年賀状の枚数が増えるような要素はみあたらない。印刷業者などそれが収入になっている人もいるとはいうものの、どさっと印刷しただけの年賀状を配るような虚礼は廃れていってもよいのではないか。資源保護という意味でもおおいにけっこうなはずだ。※ところでこの年賀状については古紙でもないのに古紙といって偽装していたと問題になっている。一般の人にとっては古紙かどうかなんて食品の賞味期限以上にどうでもよい問題で、いささか騒ぎすぎという感がする。耐震偽装にはじまり、一連の食品偽装による食べ物企業バッシングと、偽装騒ぎにあけくれているこの頃だけれども、出版にだって偽装はある。イザヤベンダサン、ポールボネ、ヤンデンマン…いずれも懐かしい名前だが、彼らの共通点はいずれも外国人をよそおった日本人著者のペンネームだということである。いいことを書いていればよい、とか中味がよければよいということをいう人もいるかもしれないが、それは違う。読者は「外国人の視点」からの論評が読みたくてお金と時間を使うわけだから、やはり問題である。また、偽装というのとは違うが、いくつもある肩書きから特定の肩書きのみを強調するのも誤解をまねきやすい。昨今、「女性の品格」というのがベストセラーになっているが、著者は有名女子大の学長となっている。しかし、実際の経歴をみると、その女子大に来たのはほんの最近で、もともとは官僚である。たぶん「女性の品格」を買った人は、良家の女子教育に携わってきた専門家の書いたものとしてこの本を買ったのではないのだろうか。となるとこの本が売れたのは「官僚」の経歴をめだたなくしたせいであるともいえる。役所の元○○局長が品格を語った本だったら誰も買うわけがない。
2008年01月28日
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この間、遠藤周作の「沈黙」について書いたが、こちらもキリスト教弾圧を扱った歴史小説の大作である。とはいっても舞台は古代ローマ。弾圧の内容もはるかに凄まじいし、遠藤周作のものとは違って弱い人間もでてこない。高校時代に読んだ時は残虐な場面の連続に辟易としたのだが、すれた今となっては物語の面白さを十分に堪能できた。ぜひおすすめの一冊である。※世界宗教の伝播というのは、土着の呪術的宗教を超えたより普遍的な価値観の広がりなどを意味しており、考えてみるとすごいことだと思う。古代ローマでは、人々は、闘技場で人が殺される場面を好んでみていた。いうなればキリスト教伝来前の古代世界というのは、生贄のための殺戮がさかんに行われていた南米世界のようなものである。(南米での生贄の話が強調されるのは、その後のキリスト教化と植民地化を正当化するためという感もあるのだが。)そしてそんな彼らの精神世界をキリスト教が一変させた。この本はそうした立場でかかれている。※絵に描いたように美しい一対の恋人。やがて青年は姿だけでなく魂も美しい少女に感化されてキリスト教に改宗するのだが、弾圧の嵐の中、二人の愛の行方やいかに…という物語に、暴君ネロや驕慢で淫蕩なその妃、サテュリコンの作者に擬せられている廷臣ペトロニウスなどの実在の人物も絡む。また、キリスト教史上の二大使徒、ペテロは素朴で慈父のような姿で、パウロは理知的で威厳ある姿で描かれ、二人のでてくる場面はなかなか感動的だ。※作者はキリスト教徒の側にたって描いているとは言うものの、この小説を単なる宣教の小説とみるならばそれは違う。というのは、おそらくこの物語の真の主人公は、ペトロニウスではないかと思うからである。作中では、彼は、昼夜逆転したような贅沢で放恣な生活をつづけながら、知的な会話と趣味をたのしみ、命をかけた宮廷の権力闘争すらもどっかでゲームとしてたのしんでいるような美中年として描かれている。そして彼は、最後まで、キリスト教も含めてあらゆる信仰に懐疑的で、自分なりの美学で人生を全うしていく。※解説によるとこの小説は「ノーベル文学賞」を受賞したというが、これにはちょっと驚きである。傑作小説には違いないけど、それは大衆小説として傑作なのであって、文学上の傑作というのとは違う。波乱万丈なストーリーやお約束的人物像などあくまでも娯楽作品で、ノーベル文学賞となるとB級映画がアカデミーをとるような話ではないか。ちなみに女主人公の美少女やその忠臣の怪力英雄が属するリギ族というのは、古代、ポーランドのあたりにいたスラブ族で、このあたりもポーランド人の作者であるシェンキビッチはサービス精神満点である。
2008年01月27日
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あたりまえのことであるが、人はいつかは死んでいく。だから古来、人間は自らを死すべき者mortalととらえ、死もまた運命として受容してきた。ところが昨今はその運命すら誰かのせいにしたがる人が増えてきたようだ。癌検診の見落としで病院を提訴。大腸癌検査でチューブが腸壁を破り死亡したのは医療ミス。人工呼吸器が外れたのは過失致死。こんな見出しのニュースをみると、患者はいずれも70歳代や80歳代だったりする。よほどのことでもないかぎり、かっては高齢者が亡くなることを「寿命」と読んでいたのだが、昨今ではその寿命という言葉は死語になったのだろうか。診断技術や延命技術が発達すればすれほど、医師の判断の幅は大きくなり、患者が高齢化すればするほど検診や医療行為の身体にかかる負担は大きくなる。もし、医師が訴訟や責任追及をおそれるのであれば、こまめに同意書をとるか、それができないのなら、何も行わない方がよい。※救急医療で搬送先の病院が決まらないということが問題になっているが、これだって医師の立場にたてば当然であろう。同意書も治療方針もゆっくりたてる暇もない状況で、しかも生死にかかわるような救急患者をあつかって後で責任でも追及されたらたまらない。後知恵でああしておけばよかった、こうすれば助かったなんていうことは、なんとでもいえる。和歌山砒素カレー事件ですら、被害者の死亡は医師の責任であるかのような本が書かれており、ああした言論は救急現場の医師を大いに萎縮させたことだろう。「医療ミス」で家族を失った人の涙をマスコミが大報道する。医療関係者が謝罪し、損害賠償が行われる。はては産婦人科医が逮捕され、その映像が放映される。患者としてよりよい医療を求めるのはよいが、それがむやみやたらに医療関係者の責任を追及する方向にばかりいくと、結局は救急医師の不足や医師の質低下につながり、そのつけは社会全体ではらうことになろう。※※さらにいえば同じような問題は看護や介護の現場にもたぶんある。看護婦や介護士は医師ほどの社会的発言力がないから声が大きくならないだけだろう。
2008年01月26日
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大阪の強盗殺人事件で赤ん坊を亡くした母親が自殺したという。出産の後、精神が不安定になる女性は多く、これをマタニティーブルーとよぶらしい。たしかに、普段はなんということないことでも、産後まもなくの女性だったら不安に思ったり傷ついたりすることは多い。ましてや強盗殺人という犯罪である。遺された母親の精神的ショックは尋常ではなかっただろう。そんな母親に対し、マスコミ報道が追い討ちをかけたことは想像にかたくない。ガムテープで冷蔵庫に縛り付けられていただの、乳児の父親とは結婚していないだの…そんなことをこれでもかとばかりに、実名で報道する必要があったのだろうか。マスコミ報道のあり方についてはぜひ検証を行う必要がある。※電車が遅れ、帰宅が遅くなった。人身事故とはいうが、要するに投身自殺であろう。年間自殺者30000人。自殺による電車遅延などは既に日常になっている。自殺だけではない。犯罪だって日常のすぐ隣に来ているのかもしれない。何年か前までは自転車に住所氏名を書くのは普通だった。そしてやはり何年か前までは電話をとると、まず自分の名から名乗った。今ではそういうことをしている人はまれである。自分の名や住所、電話番号が知られることで、どんな犯罪にまきこまれないともかぎらない。そしてまたやはり何年か前、外国では電車や街中で決して宝石は身に着けない…そんな話を初めて聞いたときは、それは外国の話として興味深く聞いたものである。しかし今では、この日本でだって街中で高価な宝石を身に着ける人は少ない。いつの間にか、世界一だったはずの日本の治安も、ずいぶん悪化しているのである。
2008年01月24日
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自宅で最期を迎えたいという高齢者の希望に応えるとか、自宅で暮らしたいという高齢者の願いをふまえてとかいう表現が、よく高齢者問題を扱った本などにみられる。しかし、本当に高齢者は、いつまでも自宅にして、自宅で最期を迎えたいなんて思っているのだろうか。※昔のような3世代同居の高齢者というのは、今では本当に少ない。そしてまたたとえ3世代同居であったとしても、家庭内介護というのは、家族にとっての負担があまりにも大きい。ヘルパーが来ればよいということをいう人もいるが、介護の人手ということを考えても家庭内介護というのは非効率きわまりないものである。排泄の世話にしろ、入浴にしろ、普通の家庭では老人の体を持ち上げたり、狭い階段を運んだりの大作業になってしまう。ましてや24時間介護と称して、真夜中にもヘルパーが自宅にかけつける体制を望むなどはぜいたくというものだろう。※老人は自宅にいるのが一番幸福みたいなことを言っている識者は、御自身には広い自宅といつでも人を雇える資産があるので、そういっているだけではないか。老人は自宅が一番よい…という言葉は、どうも「安上がり福祉」のためにいわれている迷信にすぎないように思う。ついこの間も、介護用ベッドで老人が焼死するという事故があったが、介護用ベッドが必要な状態で、なおかつ一人暮らしとなると、これはもうほとんど棄民である。古来、寿、つまり長命は五福の第一、人生最高の幸福といわれてきたが、これからは長生きも幸福ばかりではない。※老人虐待防止法施行以来、初の逮捕者がでたといってニュースとなっている。父親と同居している無職の中年女性が、「父親の面倒をみていない」という弟の通報で逮捕されたのだという。よくわからないのだが、この弟という人は、なぜ警察に通報する前に自分で父の面倒をみなかったのだろうか。今、子供と同居している高齢者を見ると、既婚の子供と同居している者よりも未婚の子供と同居している者の方が多く、その傾向は特に大都市で著しい。そして老親と同居する未婚の子供は、この事件のように無職であったり、職があっても十分な収入がないケースが多い。つまり生活力のある兄弟は家を出て行き、生活力の無い子供が老親とともに残るわけである。生活不如意の中年と介護が必要な老親とがともに暮らすなんとも寒々とした光景がそこにある。ニュースになる老人虐待などは、おそらく氷山の一角であろう。
2008年01月23日
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最近、葉室頼昭という人の書いた「神道 命を伝える」と「神道 みえないものの力」という本を(図書館で借りて)読んだ。葉室氏という人は変わった経歴の方で病院長として相当の実績をあげてから春日大社の宮司になられた方だそうである。え、定年後神職になる途があるの、と思ったが、どうやら葉室氏は藤原氏直系とのことで、その故もあるらしい。※なかなか読みやすく面白い本である。この間読んだ「新しい神の国」という本はこれに比べると酒の上の与太話みたいで、あらためて自費で購入したことがくやまれるTT。神道というのは、別に教義もないし、厳密にいうと宗教といえるかどうか、どうもよくわからない。敬虔な仏教徒とかキリスト教徒とかいうと、どういう人か想像もつくけど、敬虔な神道信者といったって、じゃあなんなの?という感じだ。いや、そもそも神道については、「神道を信じる」なんて言い方からしてあまり聞かない。なにごとのおわしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる…という気分が本質であって、それは普通の宗教のように信ずるとか帰依するというのとは、また別のものなのだろう。※それでは神道には全く独自の価値観や考え方がないのかというとそうではない。著者は本の中で、それを「共生」、つまりともに生きることだという。なるほど。自然とも神とも、共に生きる。それが古来からの生き方だったのか。そういえばアニメ「もののけ姫」のラストにも、「ともに生きよう」という言葉があったが、あれってけっこう深い意味があったのかもしれない。人と自然も、そして人と人もともに生きて、大きな共同体を作ってきたのが昔からの生き方だったのだろう。なぜ、日本に800万の神々がいるのか。それは氏族抗争の中で勝者は敗者の神々もともにとりこんで祭ってきたからである。やはり、むきだしの競争とか勝敗とかは日本には似合わない。今のように格差とか勝ち組、負け組とかといってどんどん共同体を壊していけば、そのうち日本も消えてなくなるのかもしれない。著者だっていっている。「最近はリストラをやる経営者が有能なようにいわれますが、昔はリストラなどやっていません。リストラをされた人はどうなるのか。そういう人を困らせておいて残った人だけが幸せになる。こんな世の中は存在しません。…リストラをやった企業がどうなるかみんなでみていましょう。」
2008年01月22日
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あのエロなまはげ侵入の際に女湯にいたのは20歳代の女性や子供だったという。いや、別に地元の老婆ならよいというわけではないけど、その複数の女性客がそろいもそろって警察に告訴の意志がないなんてことがあるのだろうか。「警察沙汰にするとあんたのためにもならないよ」みたいな説得があったみたいで、なんともいやな感じだ。旅館で安心して入浴もできないようなら、秋田への冬の観光客は激減するだろう。女客が敬遠すれば男客も足が遠のく。そうなってはじめて事態の深刻さを知るのではないか。「伝統」という名のもとにセクハラ犯罪が大目にみられるのは断じておかしい。というよりか、そんなものは伝統ではなくて、単なる因習というもんだろう。※今の日本で伝統といってありがたがられているものの中で、じゃあ何が本当の伝統かというと案外わからないことが多い。神前結婚は日本の伝統のようだけれども、これが行われるようになったのは明治以降だという。富士山は日本の象徴のように言われるが、平安時代まではローカルな山にすぎなかった。伝統といったって、そんなものは万古不易でもなんでもないのである。というわけで、今回のなまはげ騒動もそうだけれども、毎回、死者や怪我人の出る祭なども伝統だからといってほうっておくのは少し変ではないか。伝統を免罪符にするな…といいたい。
2008年01月21日
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なまはげが侵入した女風呂というのは旅館のそれだったらしい。来年からきっとなまはげ観光で秋田を訪れる人は激減するだろう。そうなってはじめて事態の深刻さに気づく?のだろうか。女性の方は、身の安全のためにも女風呂に侵入してお触りをやっても厳重注意ですんじゃうような田舎には行かないほうがよい。※こんなのはおとがめなしなのに、一方では「何が悪いの?」という行為を処罰しようという動きがある。「代理出産」を法で規制すべきという学術会議の報告書である。様々な事情で子宮のない女性に代わっ姉や娘に代わって、妹や母が出産をする。こんなニュースがマスコミをにぎわしたが、こうした行為が犯罪になるわけである。生殖医療についての考え方は人によって様々だが、それでも基本は「各人の生命観や倫理観にまかせる」べき領域であると思う。自分が林檎を嫌いだからといって、人にも林檎を食べるなという権利は誰にもない。今の刑法でだって自由意志を無視して人に行為を強制することを禁じている。代理出産で最も問題となるのは出産を引き受ける女性の人権の問題であるが、無理に代理出産を強制すれば現行法でも強要罪の対象になる。自由意志によって代理出産を引き受けることまでも禁じるのは、「国家のおせっかい」ではないのだろうか。国家や警察がでてきて逮捕、起訴するような行為は、けしからん行為として社会が共通認識をもっているものに限るべきで、代理出産医療を行ったN医師のような人を逮捕するようでは、逆に法制度というものに対する信頼を失ってしまう。それに少子化論議ではいつも出産して子供を持つことの素晴らしさが喧伝されるのに、代理出産の議論になると、突然に出産が苦痛に満ちて危険きわまりないもののように語られることにも違和感がある。※※最近、悪質な自費出版業者が話題になっている。思うに自費出版というのは広く自分の本を読んでもらうために行うのだろうか。でも広く読まれるようなものなら自費で出版しなくとも、賞に応募したり出版社に原稿をもちこめば出版社の方で出版するのではないか。となると、自費出版というのは売れることを期待するよりはとりあえずは自身の記念碑としての意味にとどめておいた方がよい。かっての上司が自費出版した本を配ってきたことがある。今度会ったときにはやはり話題にして気の利いたとこを一つも言わなくてはならない。そう思って、急いで読んだことがある。自費出版というのは贈られる方もけっこう気を使う。また、親戚の伯父が自費出版の本を配ってきたことがある。戦争の時代をはさんだ自伝で、たぶん縁のない人には関心もないだろうし、間違っても売れたとは思わない。でも、日ごろ考えていることもおりこんだ伯父の一代記は、伯父亡き後も彼を知る人にとってのよい記念になっている。
2008年01月20日
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いささか旧聞に属するが防衛省の守屋夫妻の収賄事件には驚くばかりである。特に印象的なのは守屋夫人が防衛省の幹部夫人で構成される美鳩会なる親睦団体を作り、その飲食代まで業者にはらわせていたことである。まあ、知り合いに自衛隊の方がいて、その人から聞いた噂話であるが、この会合で、件の夫人はおおいばりだったそうだ。そりゃそうだろう。他のメンバーにしてみれば、ここで次官夫人に気に入られるか否かで夫の人事だって左右されると思っていただろうから、ご機嫌をとるのに一生懸命だったのだろう。※こうした夫の職場に夫人がでていくカップル文化というのは、日本よりもむしろ欧米でさかんで、それをもって日本では女性の地位が低いなんて言っている(いた)人もいるようである。しかし、夫の地位が夫人の序列を決めるような場があるのは、女性の地位が高いどころか、まるでその逆ではないかという気がする。防衛省では守屋夫人一人ががんばっていたようであるが、外務省や在外公館では古くからこうした夫人同士の親睦団体があり、そこでは大使夫人が絶大な力をもっているのだという。古くからカップル文化をとりいれてきた外交官の世界らしい話だが、こうしたカップル文化というのは今はどうなのだろうか。外交官の世界だけではなく、様々な分野に進出している女性は多くなってきている。カップル文化それ自体が、女性の仕事がかぎられ、○○の妻という形でしか社会にかかわれなかった時代の名残なのではないか。※カップル文化の話はさておき、どうも女性は男性に比べ、自分の夫だけでなく、自分につながりのある人の地位をはなにかける傾向があるようだ。自分は○○の友人だとか、△△と同席し肩をくんで歌ったとか…。夫であろうが、友人であろうが、知り合いであろうが、通りすがりであろうが、その頭脳とか能力とかはその人のものであって、「ご自分」のものではないのにね。
2008年01月19日
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事故や犯罪の被害者を救済という施策は、その人々に対する世間の同情が強ければ強いほど世論の共感をよびやすい。ということは人気取りにもなりやすいわけである。いうまでもないことだが、国の財布は打出の小槌ではない。だからこんな人気取り施策でも次のことには注意を払う必要がある。その人々だけを救うことに理屈はあるのか他の同種の人々との間に公平を欠くことにならないのかその人々を救うことでどんな影響があるのか※これを考えると昨今話題のオウム被害者救済の動きには大いに疑問がある。オウム事件は「国を狙った無差別テロ」だったというが、それと社会に対する不満を爆発させたような通り魔事件とどう違うのだろうか。被害者の身になれば首謀者が反国家を言っていたかいないかなんてどうでもいいことである。国を狙った無差別テロで国にかわって犠牲になったというのなら、通り魔事件の被害者も他の不特定の誰かに代わって犠牲になったわけで、なんのかわりもない。限られた国庫の中からオウム事件の被害者だけを救済することは他の通り魔的犯罪の犠牲者との間で著しく公平を欠くのではないか。そしてまた影響という面でも問題がある。普通の通り魔事件などとは異なり、オウム教団はいまだに名を変えて存続しており、国が被害者を救済することはとりもなおさずこうした教団の補償義務を肩代わりしてやることになる。そしてそれは結果として被害者救済のはずがオウム教団救済につながっていくわけである。※もちろんサリン事件などで重篤な後遺症をおった方もおり、こうした方については救済するなというつもりはない。ただそれは犯罪被害者全体の中で救済を考えるべきであって、オウム事件という枠で考えるべきではない。現行の犯罪被害者救済を見直して、サリン事件で重い後遺症をおった方も含め、通り魔的犯罪で長期の支援を要する被害者をいき長く救済するしくみを考えるべきである。犯罪者は服役中、社会復帰のための職業教育まで受けることができるのに、被害者への支援がないのは均衡を失する。※それにしてもオウム事件のときにさんざんマスコミにでていた人たち。ああいう方たちが今回もオウム事件の被害者救済を唱えているようなのだが、彼らこそオウムを擁護し、延命させた張本人ではないか。事件直後には「マインドコントロール論」なるものをさかんにとなえて事件の責任を麻原一人にもっていこうとした。他の実行犯の重刑に反対し、彼らは被害者だということをさかんにふきこんだ。そのせいだろうか。オウム実行犯に対する刑罰は非常に甘い。サリンを史上初めて殺人目的で作った看護婦が懲役8ヶ月。いやそれどころか、教団の中枢にいながら(サリン謀議の場にいた麻原の側近など)起訴を免れた幹部までいる。そうそう、サリンをまいて二人の人間を殺害した中年のエリート医師(十分すぎる責任能力)も死刑ではなく無期になっている。そしてまた、教団を解散させるための破防法適用にも反対したのはあの人たちである。信者を「犯罪者」にするな、麻原逮捕後には教団は自然に解散するとか何とかいって。あんな事件をおこした教団が存続し、堂々と布教を行っているなど普通の法治国家では考えられない。オウム教団を存続させたことで、もう日本は「テロとの戦い」なんていう資格はないのではないか。当時のオウムウォッチャーとよばれた評論家達は結果的にオウム擁護論者だったのだと思う。※オウム教団の後身はいまだに多くの不動産を所有している。無資力の者が多い通り魔犯人などとはその点は大いに違う。オウム教団の後身や教団幹部が補償を行うのが筋ではないか。
2008年01月18日
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日本に長期滞在する外国人に日本語能力を滞在条件とする案がでているという。日本語ができないことによる周囲とのトラブルを懸念しているとのことだが、外国人の日本語能力向上を言う前に日本人の英語力向上をなぜ議論しないのか不思議である。※日本の空港や港湾をハブにするとか、東京を国際金融の中心都市とするとかといった議論はよくあるのだが、いずれにしてもそれは外国のビジネスマンが日本に滞在して不自由なく仕事ができるということが条件である。そしてそのためにはビジネスパートナーだけではなく、タクシー、理髪、病院、買い物と日常生活の様々な行為に不自由を感ぜずに暮らせなくてはならない。そんなビジネスマンにも、長期滞在には日本語力が必要で、日本語ができなければ長期滞在するな…というのだろうか。日本人は外国語の習得の難しさはよくわかっているはずなのに、なぜ逆に外国人は簡単に日本語を習得できるかのような認識をするのだろう。外国のビジネスマンが不自由なく暮らせないのなら、アジアのハブ空港やハブ港湾、そして金融の中心は他の国の都市になっていくだろう。看護婦や介護士の人材不足を外国人で補おうとしても、日本語を習得できるくらいの能力ある人々はさっさと他の国に稼ぎにいくのではないか。今の日本の国民所得は世界18位でイタリアやアイルランドにも抜かれているのだから。思うに国民の英語力というのも、その国の資源の一つである。小学校からの英語教育はいうにおよばず、英語力向上を教育改革の第一に位置づけるべきである。外国人に日本語力を要求する前に、日本を外国のビジネスマンが安心して長期滞在して生活できる社会にしていくことの方が重要であろう。フランスではたしかに長期滞在の外国人にフランス語習得を義務付けているというが、おしもおされもせぬ国際語であるフランス語を日本語同様に考えるわけにはいかない。それにフランス語の属するラテン系言語は英語の属するゲルマン系言語とは近縁関係にある。
2008年01月17日
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地球温暖化対策のための途上国援助で1兆円支出するらしい。1兆円といえば、国民一人あたり1万円弱、4人世帯では3~4万円という額だ。どうでもよい役所の弁当代などではすぐに無駄遣いを指摘する人がいるのに、こうした膨大な税金支出となると無駄遣いをいう人がいないのはなぜなのだろうか。そしてそれとは別にまた、アフリカ開発会議なるものも横浜で開かれるという。どうせ会議の結論はアフリカになんぼ援助するということで、日本は会議を開催した手前、またもや膨大な金額をだすことになるのだろう。いつも思うのだが、こうした対外的な援助になると、なぜか税金の無駄遣いという論議や批判はあまりおきない。不思議でしょうのないところだ。参照 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080111-00000086-san-pol http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080114-00000039-mai-pol ※新聞報道をみると、こうした対外援助は日本の悲願である国連安全保障理事会常任理事国入りのためにも必要なのだという。なんで常任理事国入りが「日本の悲願」なんだろうか。これってただ外務官僚の悲願じゃないの。…というよりも常任理事国入りというのを錦の御旗にして対外援助のための予算を得ているだけじゃないのかしら。税金の無駄遣いを削るという名目で福祉なんかも削られてきているのに、一方では外国にバンバン金をばらまいている。途上国に大盤振る舞いをするよりも、国内の困窮者、それもホームレスや年間3万人にものぼる自殺者、生活保護を断られて餓死寸前の人々を救う方がどうみても先である。
2008年01月16日
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一方で行政のスリム化だのなんだのといってめまぐるしく省庁の看板をつけかえながら、一方で新たな省庁を設立するというのだから変な話だ。昨日か一昨日、新聞に出ていた「消費者庁」設立の話である。総理の人気取りなのかもしれないが…「はあ?」と思うのが大多数ではないか。「不二家」にはじまり、「白い恋人」、「赤福」と続いた一連の食品騒動。判でおしたようにマスコミのバッシングがあって、街頭インタビューで「消費者の怒りの声」が報道され、3人並んだ謝罪会見の映像が流されたわけだが、あれって普通の国民にとってそんなに重大事だったのだろうか。「やっぱりそうだったのか、まあ、いいじゃん」くらいに思った人も多かったのではないか。それが証拠に販売を再開した「白い恋人」は大人気で、赤福の販売も心待ちにしている人が多いだろう。「消費者庁」の設立なんて絶対に「民意」じゃない。むしろ偽装建築騒ぎで建設需要が冷え込んでしまったように、食品業界に対する監督を厳しくしすぎて副作用が起きることの方がよほど心配である。かんぐってしまえば、「消費者庁」の設立なんてこと自体、どっかのめはしの利く官僚連中が権限拡大、ポスト拡大を狙って総理にふきこんだものなのかもしれない。こうした一連の食品偽装騒ぎの背景にあるのは、たぶん非正規雇用の拡大や正社員の身分の不安定化などを背景にした会社への忠誠心低下である。それが今まで多くの人が知っていながらなあなあで済ませていた問題を顕在化させていったのだろう。食品偽装では誰も腹を壊していない。これに対して日本企業の中で進行中の社員の帰属意識や忠誠心低下は、やがては日本経済を衰退に導く。日本がアジアの一辺境国家に転落する時期は案外近いのかもしれない。※※「消費者庁」と並んで設立が検討されている庁として「観光庁」がある。京都に行っても有名なお寺に英語の説明がなかったり、見学しているのは日本人ばかりという実態があちこちにみられる。日本は、まだまだ外国人観光客に対するPRや対応が不足している。ただ、それって「観光庁」という官庁を新たに作らなければならないようなことなのだろうか。それよりももっと国をあげて各省庁が連携して対処することがあるような気がする。本当に観光立国を目指すのなら、義務教育での英語教育充実や、エリートではなく、庶民レベルでの英語教育充実がなによりも必要なのだと思うのだが。
2008年01月15日
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最近は大きな事件や犯罪こそ起きていないものの、親が子を殺す、あるいは子が親を殺すような親族間の犯罪は徐々に増えているように思う。高齢化社会を背景とした介護殺人や児童虐待の果ての殺人もいたましいが、中でも気味悪いと思うのは心を病んでいるとしか思えない子供による親族殺人である。青森で起きた親子3人の殺人事件などはそうした事件の典型的なものであろう。※こうした事件が起きると必ずでてくる議論はそんなふうに育てた親にも責任があるというものとゲームやネットの悪影響を指摘する声である。しかし、子供がどんな人間に育つかということについて、親は本当にそこまでの責任があるのだろうか。どんな親だって犯罪者にさせようとして子供を育てるわけがない。もちろん親に問題のある場合もあるのだろうが、犯罪者の中には、もともとそんなmonsterとして生まれてきてしまう者もいるのではないか。そうなると親にとっては何分の1かの確率でそんな貧乏くじにあたるようなものである。ゲームやネットの影響、特に後者についてはどうも背景にマスコミのネット敵視論のようなものがあるようにみえるし、そんな影響論ではゲームやネットをやる多くの人が犯罪にはしらず、なぜその人だけが犯罪を起こしたかの説明にはならない。※青森の事件で一番衝撃的だったのは、殺害された次男がかなり前から兄に刃物をつきつけられるなどの暴行を受けており、いつか殺されるのではないかと怖がっていたという記事である。おそらく似たような恐怖は母や妹も感じていたであろう。こうした場合、家族だけで負担をかかえこむのではなく、精神科医師なり、警察なりが相談に応じる体制をとれなかったのだろうか。老人のケアについては次第に家族から社会へという流れができているが、それとは対照的に子供の問題については親だけに負担が集中されている。そして成人の起こした犯罪や事故などでも、親が非難され、時には損害賠償請求までなされることがある。そろそろこうした「親の負担」も軽くしてはどうなのだろうか。※いささか旧聞に属するが、あの宅間守の事件で多くのマスコミが父親宅におしかけ、父が泥酔している様子などを非難がましく報道した。そして識者の中には父が宅間と同居し、世間に迷惑をかけないよう目配りすべきであったという意見を書いた人もいた。まるで父がかわりに殺されてでもいればよいというように。しかし考えようによっては父もまた宅間守のような人間が生まれてしまったという運命(としかいいようがない)の犠牲者のように思われる。宅間が処刑された後、父は「ようやく重荷がとれた」と言ったらしいが、これもまた実感なのであろう。
2008年01月14日
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なまはげが女湯に乱入して入浴客にさわったというニュースには仰天だが、その後、この男が警察で厳重注意されただけで、マスコミにも氏名がでてこない…というのはなんとも不思議でならない。同じおさわりでも電車内でやれば痴漢として逮捕され、場合によっては職や家庭まで失う悲劇にみまわれる。電車内でさわるのと、入浴場に乱入してさわるのと、どっちがけしからんといえば、もちろん後者の方だろう。刑罰は厳しければよいというものではないが、公平であることは必須要件である。入浴中に乱入して女性にさわるのが厳重注意ですむのなら、電車内の痴漢で逮捕された人はどうなるんだ?
2008年01月13日
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最近はどうもいい歌がない。何年か前なら爆発的に流行る歌というのがあって、その頃にはこんな歌が流行っていたとか、今年はこんな歌の年だったとかいうのがあったものなのだが。音楽も同じような感じでさっぱり耳につかないし、なにより歌詞もよく聞き取れない。※でもそんな流れの中でも、「え、こんな歌手もいたの?」というのに出くわすこともある。綺羅というグループもその一つなのではないか。曲もよいのだけれども、何よりも歌詞がよい。古語や雅語を多用していて、こんな美しい表現もあったのかという言葉がどんどんでてくる。源氏物語の一帖を主題として愛する人に死に別れた寂しさを歌う「幻」やNHKみんなの歌にも紹介された「夏恋花」などもよいのだが、特に気に入ったのは「春の七草秋の七草覚え歌」。春の七草は「めしませ」、秋の七草は「めでませ」という対句も、言葉に対する感覚が相当ないと作れないのではないか。なんてこともない季節の移ろいの中で、なんてことない野の草花を食べたり愛でたりして生きることを楽しんできた先人達はすごい…そんなことまで考えてしまう。この人達っていったいどんな人達なのだろう。参照: http://www.kira-net.com/cd/natsukoi.html※以前、テレビ関係者の人が、CMでも番組でも流行らせようとしたら小学5年生くらいをターゲットにすればよいと言うのをきいたことがある。そのせいか、特に最近のバラエティーと称する番組などは小学校の休み時間の喧騒を思わせるようなものばかりだ。皆がわいわい騒いで、その中でおどけ者の子が面白いことをやって皆がどっと笑う。子供ならよいけど、そういうものって大の大人がお金をとってやるようなものではない。こんなのばかりが氾濫する中で、一見難解な古語(といっても日本語なので子供でも案外感覚的にわかると思うのだが)をちりばめ、おちついた曲調の歌を歌う人達もいると思うとほっとする。
2008年01月12日
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週刊新潮にでていたこの言葉…なんと財界の某偉い人の言葉である。アフリカでは多くの人が生存ぎりぎりの生活をしており、だからこそ万単位の餓死者がでている。それを持ち出して、「格差」といってもアフリカよりはマシなんていわれてもねえ。こういう人にかかれば、生活保護を受けられずに餓死する人がでても、それが万単位でないからアフリカよりはマシだなんていうのだろうか。記事を読むと、この人は「改革のスピードが減速している」と憂え、消費税の値上げなども主張している。豆腐や納豆、ちくわなどの食料品や灯油が値上がりしている中で、消費税も上がったら、生活できない人が続出するだろう。それでも「アフリカよりもマシだから我慢しろ」となるのだろうか。こうした感覚の人が国家の中枢にいてそれなりの発言力をもっているのってなにやら怖い気もする。※この人に限らない。アフリカのような地球上の最貧地域を持ち出してこれと比較し、格差だの貧困だのといっても「日本人は本当の貧困を知らない」みたいな主張は某有名作家も行っている。この田園調布在住の美人作家は世界のあちこちにでかけ、その流麗な筆で描かれる貧しい国々の描写には胸うたれるものが多い。たしかに地球上には水、食料といった生活に必要な最低限のものすら確保できていないところも多いし、それどころか戦火が止まず明日の生命すら保証されないような地域もある。それに比べれば日本のホームレスは安全だし、コンビニから賞味期限切れの弁当をもらうこともできる。ましてやネットカフェなどは快適そのものではないかということだっていえそうだ。じゃあ、だからといって日本の貧困をそのままにしていいかといえばそれはまた別の問題である。先進国の中で比べれば、日本の最低賃金は低い。そしてOECD諸国の中でも、日本は米国と並んで貧困層の比率の高い国に分類されている。最近とみにいわれるようになったアフリカまで持ち出しての「日本の貧困などはたいしたことはない」式の主張。なんかこれって地球規模での「上見て暮らすな下見て暮らせ」に思えてならない。
2008年01月11日
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蘇民祭ポスターのセクハラ騒ぎは、あの男性に対する人権侵害ではないかという気がする。だいたい、もしあれが自分だったらと想像してみたらよい。祭りのポスターの中心に自分の写真がのるなんて、誇りをもって祭りに参加してきた者にとっては、おそらく光栄でうれしいことだったはずだ。きっと知人や親戚にも話をしていたことだろう。ところが、その写真があろうことか「女性に不快感を与える」という理由で撤去されたなんて…。ショックのほどが思いやられる。それなのに、この男性は、さも揶揄し、見下したようなマスコミの取材に対し、「この体をくれた親に感謝している」とコメントしていた。なんて立派な言葉。軽佻浮薄なマスコミ人士に対して本当の意味で日本をささえている良質な日本人を見た思いがした。※テレビではこのセクハラ騒ぎのニュースの後、ジョニーデップ来日のニュースをやっていた。件の男性は上半身の写真だけでセクハラ、それなのにジョニーにはこの大騒ぎ。ふと思う。もしあのポスターのモデルが件の男性ではなくジョニーだったらどうなのだろうか。髭や(あるかどうか知らないけど)胸毛があったとしても、セクハラ騒動は起きただろうか。たぶんセクシーとかなんとかバカ女どもが大騒ぎして撤去どころかポスターが盗まれる事件などが起きるかもしれない。かたやセクハラ、かたやセクシー…同じ哺乳類霊長目ヒト科でもなんたる違い。で、蘇民祭りの関係者に強く提案したい。来年のポスターからはジョニーデップなどの人気大物俳優をポスターに起用してはどうだろうか。来日しての撮影が無理なら、現地撮影の合成写真でもよいではないか。参照 http://www.ntv.co.jp/news/100759.html
2008年01月10日
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蘇民招来という奇祭のポスターがセクハラとして撤去されたという。大勢の裸の男が水をかぶるというような祭なのだが、中心に写っている男の胸毛等が不快感を与えるという理由なのだという。件の男は「胸毛がいやだというが、この体をくれた親には感謝しているよ」とマスコミの取材に答えていた。何年もこの祭に熱心に参加していたというこの男性のことを本当に気の毒だと思う。※この祭りは東北で千年以上も続いていた祭だという。東北は、古代では蝦夷の地とされていたところだ。そしてこの蝦夷には毛人という字もあてられていたから、彼らはきっと都の人間に比べて毛深いという特徴もあったのだろう。胸毛を醜悪だとしてポスターを撤去された東北の祭のニュースを見ながら、現代にももしかしたら都-蝦夷という差別はあるのかもしれないと思ったりもした。
2008年01月09日
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ちょっと古いニュースだが介護用ベッドから出火してお年寄りが焼死したという事故があった。要介護老人が自宅で一人で暮らしているというのも驚きだが、昨今ではこうした独居老人が多いようである。老人は自宅で暮らし、自宅で最期を迎えるのが幸福だ…といわれているが本当にそうなのだろうか。昔のように子や孫と大家族で暮らすお年よりは多くない。一人暮らし、体の不自由な夫婦同士の二人暮らしで、それでも「自宅で暮らし、自宅で最期迎える」のがそんなによいとも思えない。たとえ体が不自由ではなくとも、一人暮らしの老人であれば、孤独死の可能性がつねにある。元気な老人が突然死するというのは、ある意味理想的だが、その後の問題がある。孤独死の社会的コストは決して安くはない。ある自治体では職員やボランティアが毎日、一人暮らし老人に電話をかける事業をおこなっているそうだが、それだって老人の身になってみると変事を待たれているみたいでいやだろう。老後は誰とどう過ごすか…考えてみると大問題である。孤独死を防げ、不測の事態にも対処できる老人向きの集合住宅などがあればよいのだが。
2008年01月08日
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昨日の朝日新聞に対談記事があったが、その中で妙に印象に残った箇所がある。日本では規範の源泉になっているのは共同体なのだがそれが崩れている。その中で規範を維持できたら、それが一つの社会モデルになる…といった趣旨のくだりである。※規範の源泉が共同体意識にあるということは「恥の文化」としてつとに指摘されているところであるが、その共同体の消滅によって大小さまざまの犯罪や逸脱行為がでてきていることは、多くの人が感じているのではないか。農村の衰退によって村という共同体が消滅し、それを基盤とした親族という共同体も消滅した。カイシャという共同体も終身雇用制の崩壊や非正規化の中で崩れてきている。今の時代、最後に残っている共同体といったら夫婦や親子くらいしかないのではないか。かくして親が重荷になれば子に、子が重荷になれば親にもろに負担がかかっていく。2007年は大事件こそなかったが、貧困を背景とした犯罪、特に親族間の犯罪がめだった年だったように思う。経済力のない子供が親と同居し、介護負担がかかってきた結果としての介護殺人。定職がなく暴力をふるう息子や病気の娘を思い余った親が殺した殺人事件。社会の底に澱のように貧困がひろがり、その負担がごく近い親族におおいかぶさっていく。根無し草のような貧困者が増えれば犯罪はいやおうなく増えていくだろう。親族間の惨劇だけではない。刑務所しかセーフティネットがなければ刑罰だって怖くない。自暴自棄で自殺するつもりなら人をまきこむのもなんともない。※恥の文化の国で共同体が崩れていけば規範なんて維持できるわけはない。朝日の討論記事にあったような社会モデルの創設なんてできるわけないのである。そしてそれより、このまま貧困者が増えていったら、もしかしたら犯罪の頻発以上のことが起きるかもしれない。共産主義のような思想が復活して燎原の火のようにひろがっていくか、それともカルト宗教のようなものがはやっていくのか…。いったい社会はどういう方向に向かっていくのか、今年あたりが分水嶺なのかもしれない。
2008年01月07日
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台湾や香港で土産物店に入ると、よく布袋像を売っている。それも像だけではなく、灰皿や楊枝入れにも布袋をデザインしたものもある。日本ならばさしずめ七福神なのだが、中国では布袋様一人に集中しており、その人気の高さに驚く。布袋というのは唐末の時代に実在した人物で、布施でもらったものを入れる袋をかつぎながら放浪を続け、人の吉凶を言い当てるなどの数多くの超能力を示したという。そんな不思議は存命中にとどまらず、死後には埋葬した遺体が消えて復活したという話まであるという。そうした布袋和尚を人々は弥勒菩薩の化身と信じるようになり、中国の寺では布袋を祀ったところも多いらしい。(以上wikipediaによる。)日本の七福神では、恵比寿様や大黒様の人気に比べると布袋和尚というのは地味な気もしていたのだが、あの広い中国で一人の僧が弥勒の化身として信仰されているとなるとすごい話だ。※昨日見たテレビ番組「美の巨人達」では、仙がいという人の書いた布袋像を紹介していた。仙がいというのは江戸後期の禅僧なのだが、その布袋像は無我無心の境地を表したような絵である。上に向けて指を指している姿勢で、「指は経典、月は悟り」という比喩なのだそうだが、その月をあえて描かなかったのは、「悟り」そのものも含めてものにとらわれることを否定したかったのだろうか。仙がい和尚は89才で亡くなったそうだが、臨終の際の言葉は「しにとうない、ほんまにしにとうない。」ということだったという。※※悟りすました表情の仏像や高僧の像を一方の極とすれば、福々しい笑みをたたえた肥満体の布袋像はそのもう一方の極なのかもしれない。財運、健康、安寧などの幸福を象徴すれば、ああいう姿になるのだろうか。今では突き出た腹の肥満体はメタボに象徴されるようなマイナスイメージしかないのだが、かっては肥満というのはそんなに悪いこととは思われていなかったのかもしれない。
2008年01月06日
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この期に及んで未だに規制緩和を礼賛している人がいる。規制緩和、特に労働法制の規制緩和が今日のような格差社会を招来したのであるならば、少なくとも労働法制についてだけは労働者保護のための規制を考えるべきではないか。何度か日記には書いたことだが、派遣業の規制緩和こそ社員の非正規化、そして格差拡大の元凶ではないのか。※多様な働き方を望んでいる人がいる…こうしたことをよく規制緩和推進派の人たちは言う。でも本当にそうだろうか。高齢者や主婦の中にはたしかに長時間勤務の正規雇用を望まないという人達はいるだろう。ただ問題なのは、こうした掛け声の下で正規雇用の椅子自体が少なくなって、本来なら世帯の主たる担い手にならなければならないような人達が非正規雇用に追いやられていることではないか。ちょっと前までは郵便は郵便局職員が配達していたが、今では外で配達をしている人の多くは非常勤の職員だという。かなり前から処遇の向上が叫ばれていた福祉や介護の現場にも非正規化の波がおしよせ、職員のおかれた状況はさらに過酷なものになっていることは周知のとおり。※「規制緩和」の結果、企業は正規雇用をぎりぎりまで抑えて人件費をうかし、儲けをあげている。そしてその儲けのほとんどは配当という形で株主に還元され、給与にはまわらない。景気回復と言ってもその実感がないのは給料が上がらないからではないか。それだけではない。正社員の数が減った分、残業は容赦なく彼らの肩にのしかかる。その上、さらに成果主義とか実績主義とかで尻をたたかれる。成果主義や実績主義を持ち込んだら、職場のチームワークなんてものはなくなる。自分の地位がおびやかされるのなら、誰も情報や仕事のノウハウなんて教える気にはならない。かくして企業一家は職場砂漠となっていく。※規制緩和も成果主義も、ここ何年かの間に呪縛のように善きものとして受け入れられてきた言葉だが本当にそんなによいものだったのだろうか。そろそろ考え直した方がよい。※※2008年の懸案といえば北朝鮮の核問題がある。この問題の本質というのは、核というよりは、おそらく破綻国家北朝鮮の尻拭いをどこが行うかということではないか。ドイツのような吸収統一という形になれば韓国の負担ははんぱではない。そこで北朝鮮への送電を公約した鄭候補は選挙で敗れ、北朝鮮の生活水準の向上を公約に掲げた李候補が勝利した。韓国にしてみれば北朝鮮の国民が息を継ぐことで大量の難民流入という事態を避けるしかないのだ。しかし、ふざけたことに李候補はそのための金を日本が北朝鮮と国交を結んだ際に支払う金をあてるという。このままでは、平壌宣言による「過去の清算」金は何兆単位になるという。たとえ一兆だとしても日本国民一人当たり一万円…冗談じゃない。
2008年01月05日
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世界各地の新年の表情をみるとどうやら花火をあげて市民達がいっせいにカウントダウンの後に歓声をあげるというのが一般的らしい。そしてこの光景はモスクワでもヨーロッパでも北京でもニューヨークでもかわらない。ニューヨークにはこのためのイブボールという名物まであるという…。ここでも日本の「独自性」は際立っている。いったい除夜の鐘に初詣という年末年始の光景はいつからはじまったのだろうか。そしてまた世界各地でみられるような花火、カウントダウン、市民の歓声抱擁という年末年始光景はいつ頃はじまり、どのあたりが魁なのだろうか。全国津々浦々でやる必要はないけれど、日本でも花火と市民の歓声で新年を迎えるところがあったっていい。それともどこかですでにそうしたことはやってるのだろうか。ゴ~ンゴ~ンの厳かな除夜の鐘もいいけれど、花火とともに歌や踊りで新年があけるのだってよい。
2008年01月04日
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人ごみはいやだなんていいながら…深大寺に初詣に行ってきた。東京にもこんなところがあったのかと思うような緑豊かな境内を有する大きなお寺で、それもそのはず、創建は奈良時代にさかのぼるという。入り口には話題の鬼太郎茶屋などもあり、お正月以外の時にも行ってみたい。※それにしても延々と続く善男善女の行列をみていると、日本人というのは意外と宗教心豊かな民族なのではないかと思ったりもする。もちろん宗教心にもいろいろな意味での宗教心があるのだが、ここでいう宗教心とは何かの指針やよりどころを求めるという意味での宗教心である。昨今のスピリチュアルブームも、もしかしたらそんな「宗教心」が下地になっているのかもしれない。エバラさんなどのいっていることも、前世とか霊視などという部分を除けば極めてまっとうな名言ばかりで、ああいうことはちょっと前なら田舎のお寺の集まりなどで住職が説法でいうこととあまり変わらない。既成宗教が勢いがなくなっている分だけ、そうした宗教需要が増え、それにのったのがスピリチュアルヒーローなのかもしれない。※そう考えてみると、さらに広い意味でのスピリチュアルヒーローもどきはもっとたくさんいる。新聞の書籍の広告をみると、人生の指針や生き方について書いた本がたくさん出ているので驚くほどである。「思考は実現する」とか「宇宙に祈る」といったオカルトチック、宗教まがいのものもあれば、「掃除をすると運がつく」とか「挨拶などの簡単な習慣で人生が変わる」といったインスタント御利益もの、「○○の品格」といった類の生き方提言書などである。こういうのをよむくらいなら、本気で哲学や宗教の古典にとりくんだ方がよくはないのだろうか。特に、天下り官僚や受験戦争勝ち組のような人の人生訓をありがたがって拝聴するのってどうもよくわからないのだけど。※※年賀状に添えられている一言がうれしい。なんか急に離れていったと思っていた友人の言葉に喜んだり、何年も年賀状だけで繋がっていた人が業界紙に投稿した文章の感想を書いてきてくれたりとか…。年賀状は面倒だし、幸福な近況を書いてきたりすると人の幸福を素直に喜べない自分が悲しいとか書いたけど、年賀状には効用もある。年賀状には必ず読んで幸せな気分になれる一言を手書きで書くのがよい。
2008年01月03日
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元日の各紙を読み比べてみたが、あの「千と千尋の精神で」のような面白い社説はあまりない。ただ産経新聞の社説でGNH、つまりグロスナショナルハッピネスについて述べているのがやや興味深かった。この記事によると、ヒマラヤの小国ブータンではGNHというものを提唱して国際的に注目をあびているのだという。GNPは生産の総量で国力を測るものだが、GNHというのは幸福の総量に価値を置く概念であり、背景には「足るを知る」仏教経済学があるのだという。たしかに物にばかり価値を置くGNPという概念には疑問を感じることもあるし、ましてやその一人当たりGNP、つまり国民所得の順位が国民の幸福度の順位のように語られると、ちょっと違うのではないかと思う。物より心、物質より精神というGNHの考え方には説得力がある。ただ、こうしたことが国民からではなく、国王から提唱されているとなると、「ちょっとまてよ」といいたい。上からお前達は物はないけど幸福だと言われているのなら、それは「将軍様は百戦百勝の鋼鉄の霊将でここは地上の楽園だ」と宣伝されている東アジアの極貧の収容所国家とどう違うのだろうか。「足るを知る」ということが上から提唱されているのは、江戸時代に「上見て暮らすな、下見て暮らせ」と権力者が農民に呼びかけたのとどう違うのだろうか。物より心ということは否定しない。だけどその心のありようは国民の側が決めるもので、国家や権力が上からどうこういうのはおかしい。悪い冗談かもしれないけど、そのうち「教育再生会議」とかでGNHの考え方を学校教育に取り入れろなんてことをいいだす委員がでるかもしれない。貧しいからといって国や社会に不満をもってはいけない。悠久の歴史と伝統を有する日本に生まれただけでも君たちは幸せなのだから…と。
2008年01月02日
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謹賀新年。先ほど近くの神社に初詣に行ってきたが、晴れ着の女性、国旗を掲げた家、両方とも全く見なかった。はねつきや凧揚げをしている子供達も皆無。お正月の風景は確実に変わってきている。平成19年には二度目の人口の自然減を記録したという。今後も自然減は続き、その幅は次第に大きくなっていく。高度成長期には毎年100万人以上の自然増があったが、それと逆のことが起こっていくわけである。※人口の自然減自体が問題だとは思わない。むしろ本当の問題は格差という名で語られる貧困層の激増だろう。ほんの一握りの高級人力とそれ以外の一般大衆…今日の複雑化した高度技術社会ではどうしてもそういう分化が生じていく。だからといってその間に処遇の差が生じるに任せていくと、少数の富裕層と多数の貧困層という社会になっていってしまう。貧困の問題は、実はマスコミで取り上げる以上に深刻な問題なのではないか。なぜならホームレスやワーキングプアのような現在の貧困層以外にも膨大な数の予備軍がいるのだから。というのは、仕事がなかったり、安定した収入がなく、親と同居している中年層は多い。今後、そうした層が親と死別したり、自身の健康を害したりして貧困層に転落していくことは十分にありうることではないか。2007年は幸いにして大きな事件、事故、災害は少なかったが、貧困層の暴発というような事件、貧困を背景とした家庭内の事件は非常に目立ったように思う。無職者がネットで仲間を募りOLを拉致殺害した事件や、無職の中年男性が親を殺害したり、逆に親に殺されたりといった事件である。社会は優秀な人力ばかりでなりたっているわけではない。貧困層の増加を放置しておくと社会はやがて崩壊するのではないか。おそらく今後は「平等」や「連帯」という理想がもう一度見直されていく。そうした文脈の中での社会主義やマルクスの再評価ということだって今後はありうると思っている。社会主義の挑戦があったからこそ資本主義は変わった。資本主義がむき出しの競争主義に堕さないためにも、平等を理念として掲げる思想は復活する必要がある。※※いつも来て下さる皆様。web上でしかお目にかかれませんが、皆、それぞれに知的に教えられることの多い方ばかりです。今年もどうかよろしくお願いいたします。気が向いたら書き込みもぜひして下さいね。
2008年01月01日
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