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イスラム国の人質事件が連日大報道されているがどうもよくわからない。民間軍事会社というのはいったい何?そしてまた民間軍事会社の実績をつくるために渡航したというのだが渡航していったい何をしようとしたの?いろいろ読むとどうやら海外での警備を業務内容とするようなのだが、それならそれで素人が一人でできるようなこととはとても思えない。ところが民間軍事会社を運営して人質になった方というのは、経歴から見れば全く素人で英語すらできなかったというのだから、さっぱりわからない。唯一経歴でそれらしいのは、サバイバルゲームの用品を販売していたというくらいなのだが、サバイバルゲームの戦争ごっこと現実の戦場とは全く関係ない。なにかしようとしてはいたのだが今は無職だったというのなら、それもあるだろう。ならば生活費だけではなく、海外に渡航するための多額の費用は誰がどうやって払っていたのかしら。生活力のない子供の面倒をみる親はいても、戦場にいくための金をほいほい出す親がいるとは思えない。政治家との接点はどうやって作ったかということも含めて謎ばかりだが、なぜか報道されない。何カ月か前の玄界灘をゴムボートで越えようとした官僚のニュース同様、報道されない裏にとんでもない闇があるような気がするのだが、これ以上は想像力がおいつかない。あの民間軍事会社の人質の方のブログはさがせば読むことができる。男性から女性になったトランスジェンダーの方のようだが、元男性の女性が戦場に行くなど、本当に世の中には様々な人がいるものである。
2015年01月29日
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図書館でたまたま手に取った本なのだが面白く読んだ。SFというよりも上質な寓意小説といった趣のある作品で、もっと読まれてもよい。知性のある山椒魚を労働力として利用することを思いついた人類が、やがて手痛いしっぺ返しをくらうという内容なのだが、随所に当時(第一次大戦と第二次大戦の間)の国際情勢に対する風刺ももりこまれていて興味深い。それにしても、この物語の山椒魚というのはなんなのだろうか。最初は従順な労働力として、人間に多大な利益をもたらすが、やがてはその数の力で大陸を侵食し、人類を破滅の淵においやる山椒魚って…。解説には「ナチスドイツを風刺」といったようなことが書いてあったがそうではないだろう。おそらくこの時期に勃発したロシア革命に対する印象が、物語の背景にあるように思う。いい気になって搾取していた側がいつのまにか被搾取者だった者たちに包囲されて破滅していく。ロシアの貴族や資本家達の悲劇と山椒魚戦争の人間達の運命はどっか重なる。もちろんこれはロシア革命を称賛したり社会主義を推奨するという趣旨の話ではない。ロシア革命に想を得て、搾取する者とされる者、支配する者とされる者の戯画を描いたのであろう。そういう意味でこの山椒魚、今の時代であれば外国人労働者ととることもできるし、不安定雇用者と取ることもできる。さらに、読みようによっては「資本主義の末路」を暗示した小説ともとれる。そんな読み方をしたって間違いではないだろう優れた寓意小説は時代を超えて読み継がれるものなのだから。
2015年01月27日
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最近の若い女性には専業主婦願望が多いという。なんでも格差貧困に結びつけるとお叱りをうけそうだが、やはり背景には労働環境の悪化があるのかもしれない。浜ちゃんやフジ三太郎のようなお気楽なサラリーマンも絶滅種となったが、お気楽「花のOL」もまた絶滅種に近い。そもそもOLなんていう言葉自体、最近あまりきかないような気がするし、そのうち死語になるのではないか。たぶん働く女性の世界も男性同様、不安定雇用者、ブラック雇用者、バリバリキャリアに三分されつつある。妻を専業主婦にして、しかもそこそこ豊かな生活をさせることのできる男性というのは、もちろんバリバリキャリアタイプの男性だろう。ところで女性で専業主婦志向が強いのは「不安定雇用者」型、「ブラック雇用者」型であることは容易に想像できる。でも、残念なことに人間というものは同質の人間ほど引き合う力が強いので、「バリバリキャリア」の男性が「不安定雇用者」型女性、「ブラック雇用者」型女性に惹かれて結婚までする可能性は非常に低い。ただでさえ、専業主婦を養えるほどの経済力のある男性はごくごく少なく、専業主婦になりたい女性がめでたく専業主婦になれる可能性というものは、ラクダが針の穴を通る可能性ほどに少ないものと思われる。おまけに専業主婦にめでたくなったとしても、それでおわりではない。なぜなら未婚者の多い社会というものは結婚そのものが不安定になるからである。既婚者同士の不倫なら、二つの家庭を壊して新しいカップルが誕生するのには相当のエネルギーを要する。ただ一方が未婚ならそのエネルギーは少ない。専業主婦がいるような男性というのは経済力やその裏付けとなる様々な能力もあり、当然女性にもてることだろう。家事におわれ、所帯じみていくうちに、夫は職場の素敵なアラサー、アラフォーの未婚女性に惹かれるということだって十分にある。現代は、男にとっても、女にとっても生きていくのが大変な時代である。
2015年01月25日
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最近読んだ本について書いておく。日本霊異記とパサジェルカ。あいかわらず脈絡は特にない。*まず日本霊異記だが、これは平安前期の仏教説話集だ。平易で読みやすいのだが、なぜか教科書等にはあまりでてこない。なぜなのだろう。酷似した話が別の個所にいくつかでてきており、こうした未整理の状況がかえって当時こうした話が実際に流布していたということを示しているように思う。それにしても、鎌倉初期の発心集と比べると、同じ仏教説話でも背景となる考えが全く違うことに驚く。発心集では、戦乱、災害、疫病などで世の無常を感じた人々が出家するという話がほとんどだったようだが、日本霊異記では、経文を筆写したり念仏を唱えたりすることで、危難を脱したり、病が平癒したりという話が主で、無常感にふれたものはほとんどない。仏教が日本に入ってきたころは、大陸の進んだ医術などの知識とあいまって、病気平癒などの現世利益的な信仰が主だったのではないのだろうか。留学僧達は経典の知識だけではなく、医術などの実生活に役立つ知識も持ちかえっていたはずである。源氏物語でも、病気になれば、まず僧を読んで加持祈祷を行なっており、仏教僧が今でいえば医師のような役割をはたしていたことがうかがえる。仏教が、「悟りの宗教」になっていったのは、平安時代を通じて民衆にも広まっていったその後のことなのかもしれない。*パサジェルカは映画にもなったが、ナチ収容所の女看守だった女性が偶然に客船内でかっての被収容者だった女性とであうという物語である。精神が動揺した女性は夫に過去を打ち明け、それに衝撃を受けた夫は去っていく。あの強制収容所での残虐行為に手をそめたかそめないかは、わずかの偶然による違いでもあるのに、保身のために去る夫はどうにも身勝手のようにみえる。そしてそれはまた少数の戦争犯罪人に罪をかぶせて口をぬぐっている多くの人々の姿でもあるのだけれども。
2015年01月24日
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表現の自由をめぐっての各国首脳の連帯にも蚊帳の外、主要国の首脳には相手にされず、近隣国との関係は最悪という安倍総理。そんな安倍総理が途上国をめぐっては金をばらまく外遊を「地球儀外交」ともちあげるマスコミの神経が本当にわからない。国内では財政難を理由に介護報酬とか生活保護費とか本当に命綱のような費用が削られているのに、外国にまく金はどこからでるのかしら。外国に撒いた金は国内にはまわらず、純然たる国富の流出なのに…。それにしても、イスラムテロをめぐって緊張がつづくこの時期に、中東を歴訪することの意味を安倍総理はわかっていたのだろうか。イスラムテロ対策でバラマキをやったとたんに、日本人人質の殺害予告。今回は、たまたまシリアに行った日本人が人質になったが、もしかしたら第三国を旅行中の日本人が拉致されたかもしれないし、日本国内でのテロが予告されたかもしれない。よいとか悪いとかではなく、安倍総理のいう「積極的平和主義」にはそうした危険もつきまとうということだ。それにしても急速に勢力を拡大しているイスラム国というのはなんなのだろうか。不気味なのは先進国の若者がテロリストとして身を投じているケースがあることだ。一神教というのはよくわからないのだが、イスラムの教義がかっての共産主義思想のように貧困や格差に苦しむ若者の心をとらえるという面があるのではないか。イスラムの教義に暴力性があると言うのではなく、暴力や反抗を正当化するためのものが、たまたまそうした宗教を背景にした過激主義だったということである。イスラムに身を投じた人々が本国に戻ってテロ活動をする、あるいはテロリストとして使い物にならなければ人質として資金源になる。サラセン帝国の急速な版図拡大は世界史の授業を通じて誰もが知っているが、イスラム国も21世紀のサラセン帝国のようになるのかもしれない。
2015年01月21日
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昨年は富士山の世界遺産指定にわいたが、国内にはまだまだ世界遺産になりたいところがあるらしい。ただああいったものは勲章と同じで、自分は貰いたいけど、あまりばらまきすぎると価値が落ちるといったわけで、世界遺産の乱発は世界遺産そのものの価値をなくすだけのことだろう。こうした世界遺産候補の中で、長崎の教会群というのはかなり有力視されているらしい。激しい弾圧の中で信仰を守ってきた教会群を世界遺産に…という趣旨なのだろうけど、「キリスト教を長期間迫害してきた日本」というのを、なんでわざわざ世界的に宣伝しなければいけないのかよくわからない。とにかく世界遺産になれば観光客が増えるのではないかという発想だけなのだろうか。江戸時代のキリスト教弾圧というと遠藤周作の小説などを思い出すが、ああいった過酷な弾圧というのはごく一部分で、実はかなり黙認されていた部分もあったのではないか。江戸時代を通じて信仰を守ってきた人々がいたのは、「過酷な弾圧に耐えて信仰を守ってきた」というよりも、弾圧が実はさほどでもなかったから信仰が残ったという面もあるように思う。九州にはキリシタン神社というのがあって、表面は神社なのだが、隠れキリシタンの人々がそこで祈りをささげたという。また、いくつかの寺にはマリア観音というのもあり、それも隠れキリシタンの人々の崇拝の対象になっていたという。歴史というのは多くの人生、多くの人々の行動の集合体で、どこを強調するかで見方は変わる。踏み絵についても過酷な弾圧という見方もできるし、踏みさえすればそれ以上の処罰はなかったという見方もできる。いずれにしても、江戸時代を通じてキリスト教弾圧で命を落とした人の数は、同時期のヨーロッパの宗教戦争で死んだ人の数に比べれば微々たるものだったのではないか。ただし物語としては黙認よりも過酷な弾圧の方が、がぜん興味をひく。遠藤周作の「沈黙」にも信者を海辺の柱に縛り付けて溺死させるという場面があった。そういう事例があったにせよ、そんな話ばかりが喧伝されても、日本や日本文化に対するいらぬ誤解を招くだけのように思う。
2015年01月21日
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南総里見八犬伝が書かれてから今年は200年目にあたるという。八犬伝といえば、今は亡き坂本九の語りと人形劇を記憶している人も多いと思う。そんな人形劇が流行っていた頃、八犬伝を読んだことがある。舞台は戦国時代の関東。仁義礼智など人間の八つの徳目をあらわす一字の入った玉ゆかりの犬士達の物語はとても面白く、女性の扱いなど現代の価値観では酷いなあと思うような箇所はあったものの、夢中で読みふけった。とにかく非常に長い小説で、江戸時代に読み本で出版されたときも、連載物語のように少しずつ出版されて、人気を博していたようだ。*ただ、こうした人気連載ものは、しだいに話の勢いを失って連載終了の頃にはつまらなくなってしまうことがよくある。残念ながら南総里見八犬伝もそうだったように思う。犬士のほとんどが荒芽山に集うまでが面白く、それ以降は話がどんどん荒唐無稽になっていった。もともとが伝奇小説なので、非現実的なのはよいのだが、その設定の中にもリアリティーがあるから話にひきこまれる。そういう意味で、化け猫の敵役くらいまでは許容できるが、10歳の犬士がやたらに無敵という話になるとちょっとついていけない。文庫で8巻か9巻くらいまであったかと記憶するが、結局最後まで読了はしなかった。物語としては、大傑作なのだが、犬士達が集って以後の部分はエピローグ程度の扱いでもよかったのに。執筆に長い年月をかけたというが、やはり最後は作者の才能が枯渇したとしか思えないというのは言いすぎなのだろうか。*まあ、それでも八犬伝が好きな物語であることには変わりない。そんなわけで歌舞伎の「南総里見八犬伝」をみてきた。今の小説家が映画化やアニメ化を考えるように、馬琴も執筆しながら歌舞伎になることを考えていたのかもしれない…と思うくらい原作の世界と歌舞伎の舞台はぴったりであった。もともとこうした物語はヒーロー達のかっこよさが生命なのだから。ああ、それにしても、やっぱりおしむらくは、原作が竜頭蛇尾になっていることだろう。そういえば、NHK人形劇も前半はわりあい原作に忠実だったが後半はかなり勝手にアレンジしてあった。
2015年01月19日
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この時期のおススメはなんといっても展望である。冬は空気が澄むので寒いのさえ我慢すれば、他の時期にない眺望を楽しむことができる。そんなわけで湘南平にいってきた。神奈川県平塚市の郊外にあるちょっとした高台で、恋人同士の名を書いた南京錠を金網に取り付けるという行為が始まった場所としても有名なところらしい。そこからは海と富士山を同時にみることができ、はるか東には東京の高層ビル群もみえる。無料の望遠鏡も設置されていて、そこには誰かが、望遠鏡部分と台との間に傷をつけてある。傷…といってもけっして迷惑行為なんかではなく、その傷部分を合わせて覗くと、ちょうどその方向に東京タワーとスカイツリーが並んで見えるようになっている。本当に運がよかったおかげで、赤い東京タワーとスカイツリーが並んでいるのが見えた。目の良い人だったら肉眼でも見えたのかもしれない。はるか遠くから見たせいか、実際の高さの比(スカイツリーは東京タワーの二倍弱)の通りに見え、これはこれで新鮮であった。
2015年01月18日
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預言者侮辱の「風刺画」と表現の自由について描いたところ様々な方から意見をいただいた。暴力を用いたテロは容認されないということはきちんと押さえた上で、宗教を揶揄した画が表現の自由の範囲内か、表現の自由の範囲内であるとしてもそうした表現は適切なものかどうか…ということは区別して考えるべきであろう。いくら多くの人を傷つける表現であってもそれを法規制すればその対象は宗教から思想へと広がっていく。そういう意味で宗教に対する揶揄や嘲弄を表現の自由の範囲外として規制するのは危険であると思う。では、そうした表現が適切であるか否かといえば、これは適切ではない。宗教を嘲弄したところで、それは何も生み出さないし、単に多くの人を傷つけ、「そんな宗教を信じていない」人々に根拠のない優越感を与えるだけで、本質は人種差別や民族差別と変わらないからである。宗教というものは、そのほとんどは信じていない人からみてば「なあに、それ」というのがほとんとで、だから逆に揶揄してはいけないように思う。日本人が大きな木や大きな石にしめ縄をはって拝んでいるのだって外国人から見れば奇異にうつるかもしれないのと同じである。(まあ、こういうものを揶揄されても普通の日本人は「そうだよねえ、どうせ、ガイジンにはわからないよね~」と腹もたてないだろうけど。)だから、あのテロ事件で件の雑誌や記者が持ち上げられ、各国の首脳までがテロに抗議するデモに加わっているのを見ると違和感がある。その違和感の正体というのは何か…とつらつら考えてみるに、ああいう不適切な表現が「表現の自由」のシンボルになることで、なにか称揚されているように見えることのように思う。さらにすすんで、けっこうな言論は誰がみてもけっこうなもので、規制されるはずもないのだから、ああいう「不適切な言論」こそ「表現の自由」のシンボルになるというのかもしれないけど、そこまで深読みしなくてはないないものなのだろうか。これについては下記のサイトが小生の思うところと一番に近いように思う。http://www.asyura2.com/14/kokusai9/msg/798.html
2015年01月18日
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同じことでも個人がやるとヘイトスピーチで、マスコミがやると言論の自由というのはなんだかなあ…という感じがする。あんな落書きみたいな下品な風刺画を個人がネットに掲載して、襲われたりしたら「バカな奴だ」でおわっていたように思う。だいたい人種差別の漫画は許されないけど宗教差別なら許されるという理由はどこにあるのだろうか。あのマンガはテロを揶揄したものなんかではなく、宗教をおもいっきり揶揄して信仰をもつものはバカだ…というメッセージしかつたわってこない。
2015年01月16日
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まず下記のサイトをご覧になっていただきたい。シャルリーエブドに掲載された風刺画の画像である。http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=charlie+hebdoこれはしばらく前に問題になったデンマークの風刺画とはちょっと違う。デンマークの風刺画はテロを揶揄していたのだが、シャルリーエブドの風刺画は宗教そのものを揶揄し、信仰を持つ人々を愚か者扱いしているようにみえる。なんだかなあ…小生には、無宗教の立場から、宗教や信仰を持つ人々にむけての一種のヘイトスピーチにしかみえない。*テロは悪だということ、言論の自由は最大限尊重さるべきだということ、そして、言論の中味が適切であるかどうかはそれぞれ区別すべき問題である。ヘイトスピーチ…といったところで、テロを肯定しようとか、こうしたものを法規制すべきであるといっているわけではないので念のため。そうしたうえで、あえていってしまえば、こうした表現というものは不適切ではないか。だから、テロの犠牲者とはいうものの、マンガの著作者や雑誌社が持ち上げられているのをみるのは、すごく違和感がある。「私はシャルリー」というスローガンが世界中にこだましているようだけれども、シャルリーってそんなにいいの?私はシャルリーではないし、シャルリーにはなりたくない。*本当のところ、人種や民族をけなすのと、宗教をけなすのとどっちが人の心を傷つけるのだろうか。間違いなく後者だろう。だいたい東洋人を揶揄したりバカにしたりしたって、自民族が揶揄されたと思う人はいない。日本人もそうだし、他の東洋人も同様だろう。ところが宗教のように人が心の奥底から尊重し、よりどころにしているものを揶揄されけがされるのは辛い。そうしたこともあって、日本では昔から「我が仏尊し」として他人の信心は批判したり揶揄したりしないのを礼儀としている。
2015年01月14日
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フランスで起きた言論弾圧に対するテロに対する抗議行動が広がっている。「私はシャルリー」という意味のフランス語は世界的な流行語になりそうないきおいだ。テロはもちろんいけないし、テロとの戦いは必要だ。ただ天邪鬼な小生はつい思ってしまう。これは大きな部数を持つ雑誌社の表現だから、こんなに多くの人が「保護」を叫ぶのではないか。もし、個人がネット上に同じものを掲載して、過激派に襲われたとしたら、自業自得とか被害者も無知といったような批判がでるのではないかしら。現に個人が行なうヘイトスピーチを法で禁止しろという意見はでている。ためしにネットでシャルリーエブロで検索すると、あの雑誌がどういう風刺を掲載していたかはすぐにでてくる。かつて問題になったデンマークの新聞に掲載されたマンガは宗教というよりもテロ集団を揶揄したものであったが、シャルリーエブロのマンガは違う。イスラムだけを風刺しているのではなく、キリスト教についてもどぎつい風刺を行なっている。そしてすべからく絵柄も非常に下品である。要は無宗教の立場から宗教に対してのヘイトスピーチをやっている…そんな印象である。だから「私はシャルリー」というスローガンがこだましているのをみると、欧米の非宗教化はここまですすんでいるのかと思う。まあ、どうでもよいけどね。日本みたいなぬるい宗教風土にいると、宗教を極端に揶揄するのは、あまりよいこととも思えない。そもそも宗教って、そこまで揶揄したり、批判したりするものではないのではないか。
2015年01月13日
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あのゴーストライター騒動でS氏がバッシングされ、作曲家がマスコミの寵児となったおかしさについてはすでに書いた。世間を騒がせたとか世間を欺いたのが問題だというのであれば、二人とも同罪のはずなのに…。マスコミの扱いなどはかように恣意的なものなのだ。だいたい、麻生総理のときは、ホテルのバーで酒を飲むのが贅沢だの庶民の暮らしがわからないのとさんざん叩いておきながら、自分達が御馳走にあずかっている現総理との会食についてはなんら批判(といっても自分で自分を批判するのだが)がましいことは何もかかない。庶民には手の届かないようなところで飲み食いしているという意味では麻生以上なのに…。まだある。麻生総理については漢字の読み間違いをあげつらい、さんざんバカにした。なのに現総理の誤字が報道されないのはなぜなのだろう。http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-352.html地球の裏側では報道の自由、表現の自由が大問題になっているのに、こちら側のマスコミは権力にとりこまれてしまったと思うのはいいすぎかしら。総理個人に対する批判ばかりでなく、「日本の雇用者を全部非正規にしろ、正社員は異常に保護されている」というT氏の発言もほとんど報道されない。彼は政権に近いところにおり、そういう意味で彼の発言は、現政権の雇用政策をみるうえでも重要だと思うのに。http://www.asyura2.com/14/senkyo177/msg/663.htmlさらにいえばもっとすごい発言もある。S氏の淘汰発言である。http://bintan.ula.cc/test/read.cgi/daily.2ch.net/newsplus/1417435508/199-非正規雇用者は子供も作れないのでいずれ淘汰される…という趣旨の発言なのだが、これも現政権の政策の方向を知るうえでは重要な発言だと思う。S氏もまた現政権に近いところにいるのだから。見ようによっては「問題発言」であるようなものが、ほとんど報道されないことも、やはり現政権に甘い姿勢の故なのだろうか。
2015年01月12日
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フランスのテロが連日報道されているのだが、イスラム国への空爆はテロではないのだろうか。空爆される下には聖戦士だけがいるわけではなく、子供や老人だっているだろうに…。一人を殺せば殺人犯、100人殺せば英雄…という言葉があるが、同様に、銃と自動車で数人の人間がやればテロ、戦闘機と爆弾で国家(先進国にかぎる)ぐるみでやれば空爆ということなのだろう。まだある。民衆が騒いだ場合に途上国なら「自由を求める民衆の叫び」、先進国なら「暴動」。*なんでも格差や貧困に結びつけるのは批判があるのだが、今回のテロでも、やはり背景には貧困があるように思う。文明の対立とか宗教の対立に結びつける見方はそういうあまり当を得ていないようにおもわれる。金持ち喧嘩せずというが、満ち足りた人間は攻撃的にもならないし、現実が満ち足りているので宗教にも傾倒しない。今回のテロにも背景には貧困があるのではないか。
2015年01月11日
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フランスで起きたテロが世界に衝撃を与えている。各国の指導者はいっせいに、こうした言論の自由を脅かすテロを批判している。もちろん安倍首相も「言論機関へのテロは許されぬ」というコメントを出している。けれども、イスラムに対する風刺マンガではなく、天皇制が風刺されたとしても、総理は同じように「言論の自由はなによりも尊い」というのだろうか。そしてもしそうした風刺や批判が日本国内で日本人により行なわれたとしても同じようにいうのだろうか。従軍慰安婦報道をめぐってある新聞社が猛烈にバッシングされ、しかもそのバッシングに総理も加わっているようにみえたのは記憶にあたらしい。だからその総理が言論機関へのテロを批判したとしても、ついついそんな疑問がわいてしまう。*あまり大きな声ではいえないのだが、尊崇されているものを茶化したりするのは「言論の自由」なのだろうか。テロはよくないのだが、だからといって、ことさら「言論の自由」をいいたてて、預言者を風刺するマンガを掲載する行為もよくわからない。宗教心は人によって濃淡があるようだが、中には宗教を人生の支柱にしている人もいる。そういう人にとって、自分の崇拝しているものを茶化されたり揶揄されたりするのって、決して良い気持ちはしないだろう。もしかしたら、「言論の自由」には、そうやって人を傷つける自由もあるいは含まれているのかもしれない。だからといって、そういう「自由」を行使した方がよいかどうかは別問題であろう。人の宗教を茶化すこと、もしかしたらその人間のよりどころとなっているかもしれない大切なものを揶揄すること、それはやってはいけないことなのではないか。*預言者のマンガというのは、ネットを探せばたどり着くことができる。ただイスラムになじみのない人がみても、まったく面白くないし、何がおかしいのかさっぱりわからない。宗教をネタにしたギャグというものは、その宗教文化になじんでいないとわからないもののようである。ああ、こんな不謹慎なこといっちゃっていいのかしら…というのが笑いの正体で、まず「不謹慎」と感じるアンテナがなければ、笑いもついてこない。それから…預言者を扱ったものは最近のマンガばかりではない。ダンテの「地獄篇」にも預言者が登場するし、もちろん挿絵もある。こうしたものも今後は出版が自粛され、挿絵のr展示もできなくなるのだろうか。マンガとは別にこうしたものは、中世ヨーロッパ人の精神世界を知る上でも貴重な資料だと思うのだが。
2015年01月09日
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去年話題となった人物の一人に平成のベートーベンがいる。サングラスに長髪といういかにもといった風貌と、全聾で被爆二世という「肩書き」、そして有名な交響曲が実はゴーストライターの作曲だったという意外性で、大いに話題としてもりあがったものだ。ただ、彼の行なったことは犯罪ではない。一頃、疑惑としてとりあげられた障害年金の詐取も、どうやら問題にするような点はなかったようだ。それにも関らず、世間(マスコミやネットの論調)は彼を非難し、彼も長髪を切って謝罪の言葉を述べたかと記憶する。彼の何がいけなかったのだろうか。いったい世間は何に怒ったのだろうか。それは二つあると思う。一つは「世間を騒がしたこと」、そしてもう一つは「世間を騙したこと」。日本ではとにかく「世間を騒がした」りしたら、「世間を騒がしたこと」を詫びなければならない。そして彼の姿はマスコミから消え、とりあげられるときも、批判や揶揄のトーンがついてまわる。*さてそうなるとわからないことがある。このゴーストライター騒動…世間を騒がせることも、世間を騙すことも一人ではできなかったはずだ。ゴーストの役を引き受けた作曲家だって、世間を騒がし、そしてやはり世間を騙していたのではないか。そうなると偽ベートーベンばかりが批判されて、作曲家の方が批判されないのってやはり変じゃない?才能があるからよいというのかしら。もしかして、偽ベートーベンの方は用済みでも作曲家の方はまだまだマスコミから見て「使える」ので批判をひかえているのかしら。どうにも不思議である。まあ、もっとも不思議なのはなぜ作曲家がゴーストをひきうけたのかってことだけどね。タレント本のゴーストは売るためにやるのだが、偽ベートーベンは、作曲を除けば、別に著名人でもなんでもない。
2015年01月07日
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「怒りの葡萄」を読み終えた。土地を奪われて西部に流浪するアメリカ農民の物語だ。決して読みやすい小説ではないが、自然描写が素晴らしく、荒廃した砂漠や緑の谷、そして豪雨の情景が目に浮かぶように描かれている。社会全体を俯瞰した章と家族の運命を追った章とが交互に綴られ、それが物語に重層的な深さを与える。*土地の荒廃により、農民だった主人公のジョード一家は、故郷を捨て、西部にむかう。そこには果物摘みの仕事があるはずだ。ただし、西に向かうのは主人公一家だけではない。ほかにも、農業にみきりをつけた農民達が次々と移動していく。かくして果物摘みの仕事は奪い合いとなり、賃金はどんどん下がっていく。ストライキを指導する者もいるが、農園主にとってはストライキなど怖くはない。仕事をしたくないのならそうすればよい。果物摘みなど代わりはいくらでもいるのだから。スト破りに新しく人を雇い、ストライキが挫折した後に、新人の賃金を下げればよい。冬になればその仕事もなくなる。おまけに小説の最後には暴風雨による洪水も起きる。救いのない小説といえばそうかもしれない。*けれども、この小説を読んでいて、貧富の格差が極限にまで開いたような現代のアメリカを想像するのは誤りなのだろうか。そんなことはない。最近では資本主義の限界などということをいうが、この小説は戦前期の出版ながら、やはり資本主義の行く末に一つの警鐘を鳴らしたもののようにも見える。技術の発達した社会では、労働の内容は高度な専門知識や組織運営能力を要求されるものと、その反対のものとに二極化する。「果物摘み」のような比較的誰にでもできる仕事しかできない人びとは、とことん買い叩かれる。この小説を今日読んでも古さを感じないのはそのためだろう。
2015年01月05日
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ネットで様々な記事をみていたら小沢新党の新年会に50人集まったというような記事があった。何が50人と思って読んでみると、中味はあまり関係なく(ネット記事ではよくあること)、ただ見出しに「一太郎新党は健在、非正規二千万人とその両親合計6千万人の為の生活の党」という言葉があった。http://www.asyura2.com/14/cult13/msg/810.htmlもし本当にこうした発言があったのだとしたら、選挙屋としての嗅覚に感心する。いや別に選挙屋悪代官でなくても、普通に考えれば、ここに政治の方向を決するような「票の山」があることに気付きそうなものなのだが、思考が硬直していたり、「自分は今までこういう主張をしてきた」という自己規定に縛られていると案外見えなくなっている場合もあるのかもしれない。*自分はひたすら半生を「働く母親の子育て支援」にささげてきたのだから、これからも保育所の充実などのコソダテシエンを訴えていく。いままでずっと平和運動と9条擁護のための活動をやってきたのだから、ひたすら平和、9条、反核を訴えていく。あるいは、日本人の誇りを取り戻すために進駐軍に押しつけられたあやまてる歴史観を是正していくことが最重要であると思うので、こうしたことを今後も訴えていく。こんな人々がいたとしても、それは別に間違っているというわけではない。ただ時代は変わって、特に都市部では子供を育てている人々のほとんどは正社員のカップルなどが主流で、いわば「恵まれた人々」となっている。9条改正は実は大きな問題なのだが、国民投票というハードルがあり、国民目線では国民投票で否決することができるので、さして切実には思っていないし、逆に宗教のような9条賛美にはうさんくさいものを感じている。だって9条がそんなに素晴らしいものならば、とうに他国に伝播しているはずなのだから。また、日本人の誇りと過去の歴史云々についても、一部の論客が必死に訴えるほどには身近な問題としてとらえている国民は多くない。華やかな歴史を持っている国や民族で今はダメダメなんてのは世界史の知識が少しでもあればすぐに思いつくし、そもそも父が偉くても自分が偉いわけでもないように、過去の日本人が偉くても、今の日本人が偉いわけではない。そしてなによりも、日本人の誇り≒自分の誇りではないだろう。少しでも誇りがもてる自分になりたければ日々の精進と向上心を大切にすることだ。要は自己満足的にこんな主張を唱えても振り返る人は少ないだろう…ということだ。*これに比べると非正規雇用の問題、ブラック企業の問題、低賃金などのワーキングプアの問題、就職難や失業の問題は違う。当人にとっての切実な問題というものは、その親世代や祖父母が顕在であれば、そうした層にも切実な問題だということだ。よく投票行動と収入や職業を関連づけて論じる人がいるが、実は、政治的志向というものは、親世代であれば子供の収入や職業との関連も高い。もし子供がブラック企業に勤めていたり、ワーキングプアだったりしたら、十分な収入のある親であっても、子供の状況をなんとかしてくれそうな政党や政策を支持する。2人、3人の子供がいたとしても、一番恵まれない状況にある子供のことを考えるのが親というものである。もし、こうした雇用の問題について、政府がもくろむ残業代タダや解雇自由化に対抗できるだけの対案を出す政党があったら、格差と貧困増大の元凶のような大手派遣会社顧問を重用し、ブラック大王を議員として迎えている現政権を徹底的に批判する政党があったら、そしてその政党が存在感を増したら、支持はさらに広がるだろう。一票では何も変わらない…というのは悪しき洗脳で、よいとか悪いとかは別にして、民主的投票で体制を変えたネパールのような例もある。初夢かもしれないが、2015年は本格的に雇用をとりまく問題にメスが入る年であることを祈る。
2015年01月04日
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お正月にどこに出かけようかと考えた。有名な神社仏閣は初詣客でいやになるほど混んでいるだろう。山間部は寒いし路面凍結がおそろしい。ただこの時期には、この時期ならではの良い点もある。それは空気が澄んでいて晴れてさえいれば眺望が非常によいことである。…というわけで、行き先に選んだのはさきたま古墳公園と世良田東照宮、そして大平山。世良田東照宮は初詣であり、古墳公園と大平山は眺望を楽しむためだ。*古墳公園はあまり知られていないかもしれないが、数基の古墳があり、散策もできるようになっている。古墳時代ばかりではなく、石田光成の忍城攻略の際の展望地としてつかわれた史跡でもあり、歴史好きにおススメである。それほど人出はなく、老夫婦などの姿がめだったようだ。*世良田東照宮は参拝はさすがに長蛇の列であったが、奥にある本殿の方はさほどでもなく、そちらの方にお参りをした。境内では甘酒のふるまいもあり、お正月からなにか得した気分。今年こそよいことがあるかな。さらに、近くにあった三かも(毛を三つ重ねた字でなぜか「かも」と読む)不動尊にも詣でた。*しめくくりは大平山。大平山にも大平山神社があるのだが、こちらはちょっと歩くのでまたの機会として、謙信台から夕陽をみることとした。この謙信台は関東平野を一望に見下ろすところで、上杉謙信が眺望して関東平野のあまりの広さに驚愕したという。謙信台という名称も、もちろんその故事に由来する。日常生活では山などというものを見ないできた東京育ちには関東平野の広さはあたりまえだが、はじめてこんな光景をみたらたしかに驚いたことだろう。右側には丹沢の山々が見え、先に見える三角形の山は大山だろう。そして横浜の高層ビル群。少し離れて新宿副都心の高層ビル群が夕空を背景に櫛の歯のようにみえる。その左にすっと高いのは、いわれてみればスカイツリーかもしれないし、そうでないのかもしれない。こうして2015年正月2日目も静かに暮れていく。
2015年01月03日
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知人で仏像彫刻を趣味でやっている人がいる。ときどき自作の仏像をもってきて見せて下さるのだが、彫刻としてはよくできているのに、どうみても「仏像」にはみえない。菩薩像とか羅漢像とか説明されても、単に器用に彫られた女性や老人の像にしかみえないのである。仏像といったって異形の姿をしたものは少ない。人間の姿をしながらも人間ならざるもの…それをあらわすのは非常に難しい。*仏師といわれる人がある種の技術や精神で作ったものには、そうした人間を超えたものの姿が表現されている。ただそれが巨大仏となるとそうしたものを表現するのは難しいのではないか。きくところによると、淡路島には巨大な観音像があるが、仏像として非常に不出来で顔がロボットのようであるという。おまけに首の下に展望台があって、それがまるでむちうち症のギブスにみえるらしい。検索して写真で確認するとたしかにそのとおりだ。この淡路島の観音像は展望施設としては閉園し、倒壊のおそれなどから取り壊しが議論されているらしい。不評とはいえ、仏像として作られたものを壊すとなると抵抗のある人もいるかもしれない。ダイナマイトで壊すとなると、タリバンみたいだし…。*昨年の年末に牛久大仏に行ってきた。淡路島の観音像に比べるとずっと仏像らしく清々としたお姿は周りの空気を浄化しているようにみえる。それに広い公園の中に立っているので、淡路島の観音像ほどには、倒壊の際の心配をしなくてもよい。大仏という言葉から坐像を想像していたが、これは阿弥陀如来の立像であった。巨大仏が世界にいくつあるのかは知らないが、仏像としては世界最大らしく、ギネスにも認定されているという。その証拠とばかりにギネスの該当箇所の碑までもあったが、こんなのはかえってB級臭がしてよろしくない。大仏の中は展望も兼ねて入場できるようになっており、写経コーナーや法話コーナーもあり、仏教のテーマパークといったような趣もある。展望の窓はせまいのだが、それでも霞ヶ浦などをのぞむことができる。公園の方はすっかり冬枯れであったが、花の季節にもう一度行ってみたいと思う。入園料は公園だけと大仏の中に入れるものとの二種類が定められている。大仏の中には入らなくとも、公園には季節のたびに来たいという人が多いのだろう。
2015年01月02日
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謹賀新年子供の頃は1月1日は特別な日だった。街全体がしんとして空気が違う。ふだんよりもよい着物を着て、家族そろってお正月料理を食べ、お年玉をもらう、この一日を気分よく過ごしたら今年は何かよいことがあるかと思い、逆なら心配する。そんなわけで兄弟げんかなどもなるべくしないようにした。*その頃に比べると、年々正月気分が薄れていくように思うのはどういうわけだろう。晴れ着姿もとんとみかけなくなったし、独身者などの家では門松や正月飾りをつけないところも多い。そしてなによりも、小売や飲食は正月もかきいれどきとばかりに店をあけている。顧客の立場でいえば、たしかに年末にあわてて買い物をする必要もないので便利になった。でもそうした便利さの一方で、正月返上で勤務する人がそれだけ増えている。それも、小売とか外食とかといった従業員の加重勤務が指摘されることも多い職種でだ。江戸時代にだって盆と正月それに節句は使用人を休ませたという。平成日本のブラック企業の労働条件は江戸時代以下ということなのだろうか。*便利だの安いだのということはありがたい。ただその裏では便利さをささえるために正月返上で勤務している人々がいる。正月休みや盆休みは習慣であったが、小売業が遅くまで営業しなかったことや、理髪店は月曜日、百貨店は木曜日というように業種毎に定休日が決まっていたことは行政の指導によるものだという。こうした指導は戦前に始まったが、これにより、従業員は加重勤務や連続勤務を免れるようになった。コンビニが進出し、スーパーなどの大規模店舗が普通になってから、盆も正月もないような長時間勤務が蔓延しはじめたように思う。
2015年01月01日
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